院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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2023年のWBC(World Baseball Classic)は日本の優勝で幕を閉じました。私は予選のときからドキドキに耐えることができず、日本の選手達の奮闘ぶりをリアルタイムで見ることができませんでした。翌日、日本が勝ったことを確認してから、YouTubeで試合のダイジェスト版を見るのが精一杯。毎試合、毎試合、そんな具合でしたが、さすがの私もメキシコ戦での奇跡的な逆転劇と、まるで劇画を見ているかのような大谷対トラウトの一騎打ちには興奮しました。今回のWBCはこれまでで一番印象深い大会だったと思います。
プロとアマチュアの差は大きいかも知れませんが、プロ選手間の能力の差はわずかです。とくにWBCに出場するほどの超一流の選手ともなればその能力にはほとんど違いはありません。あとは「運の差」だけだといっても過言ではないでしょう。とはいえ、「運も実力のうち」です。大谷選手といった超一流といわれるプレイヤーのパフォーマンスは、自分の能力を極限にまで高めようとする強い意志と不断の努力があってはじめて「運」さえをも呼び込むことができるんだということを教えています。
初の日系人メジャーリーガーとして選ばれたラーズ・テーラー=タツジ・ヌートバー選手の母親は日本人。彼が9歳のとき、ヌートバー家は日米親善試合のためにアメリカに遠征してきた高校野球の日本人選手をホームステイさせました。それをきっかけに少年ヌートバーは「日本の代表選手として野球で活躍したい」という夢を抱いたといいます。そして、その夢を夢として終わらせることなく、リトルリーグから高校、大学、そして、大リーグへと努力を続けた結果が彼の長年の夢であった日本代表選出につながりました。
それにしても大谷選手は、いち選手としてだけではなく、日本チームのまとめ役として欠くことのできなかった存在でした。日系人のメジャーリーガーであるヌートバー選手を招集することも、当初は賛否両論だったといいます。しかし、大谷選手がヌートバーと他の選手達の間に介在することによってチームの結束を高めることにつながったようです。大谷選手が幼い頃から選手としても、また人間的にも秀でた野球少年だったことは周知の事実ですが、それは彼の努力に裏打ちされたものだということも忘れてはいけません。
野球はチームプレイのスポーツです。しかし、投げるだけ、打つだけの成績を残そうとすれば、個人の能力を高めることでそれなりの数字を残すことができます。チームとして負けようが、投手としての、あるいはバッターとしての成績で満足することは可能なのです。今回のWBCが今までになく面白く、充実した大会だったと感じるのは、いずれの試合でも日本チームが一丸となって戦い、最後の最後まであきらめずにプレイし、すべての選手が自分にあたえられた仕事をしっかりこなす姿が垣間見られたからです。
そうしたことを選手達自身も感じていたようです。岡本選手は記者会見で「野球はこんなに楽しいんだと思った」と感想を述べています。この言葉に会場にいる人たちから笑いが沸き起こりましたが、彼は心底そう思っているんだろうと思います。小さい頃から際立った選手だった彼も、その道のりのかなりの部分が「人から強いられたもの」だったのかもしれません。ときには体罰があったかもしれませんし、「なぜ自分は野球をしているのか」という疑問を感じながらプレイしていたときもあったかもしれません。
岡本選手の「楽しかった」という感想は、チームとしての一体感を感じながら、「優勝」という目標に向かって努力することの楽しさをはじめて知ったという意味なのでしょう。人に指示されてではなく、また、人に強制されてでもなく、自分がなにをしなければいけないのかを主体的に考える野球ができたということを彼の言葉は物語っています。チームプレイのスポーツの醍醐味はそこにあります。近年のアメリカのメジャーリーグが面白くないのは、チーム野球というよりも選手個人の野球が目立ってしまったからでしょうか。
今回のWBCの対メキシコ戦を観終えたとき、私は2015年のラグビーW杯「日本VS南アフリカ戦」を思い出しました。試合終了まであと少しとなったとき、日本はペナルティーゴールで点をとれば強豪南アフリカと引き分けにできるチャンスを得ました。しかし、日本チームはそのままスクラムを組むことを選択します。スクラムから逆転ゴールという可能性に賭けてのことでした。南アフリカに勝つことは容易なことではありません。しかし、引き分けよりも勝利に賭けた日本は、その後奇跡的な逆転劇を演じることになりました。
W杯16連敗であり、ランキング13位の日本がランキング3位の南アフリカを相手にスクラムを選択し、土壇場で逆転できたのは、おそらくチームとしての完成度を選手達自身が感じていたからだと思います。ラグビーではよく「one for all, all for one(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)」という言葉が使われます。まさにこの言葉通りのチームであり試合だったからこそ、あの奇跡的な逆転勝利につながったのでしょう。W杯での勝利のために積み重ねてきた努力が呼び寄せたワンシーンだったのでしょう。
大谷はファイターズに在籍していた時、不甲斐ない選手を前にこう鼓舞したといいます。「遊びたい。飲みたい。いろいろやりたい。そんなので優勝できるわけがない。勝ちたいなら野球をやるしかないんです」と。個人としてあれだけの成績をおさめてもなお、チームとしての勝ちにこだわる大谷翔平選手。彼は今回のWBCでときに感情をあらわにしていました。これまでにはなかったことだといいます。でも、私には、大谷選手が、他の日本選手を鼓舞するためのパフォーマンスを意識的にしていたように見えました。
同じく今回の優勝に貢献した近藤選手はかつて、自分のチームの監督に就任した新庄監督の「優勝なんか目指しません」という言葉に反発しました。「勝った方が楽しい。勝つことによって自分のレベルがあがるんだ」と反論します。その後のファイターズは、新庄監督がいった通りになりました。彼は「(今のチームは)連勝もすれば連敗もするという典型的に弱いチーム。そもそもチームが勝とうとしていないのだから」とコメントしています。そして、彼はその後、ソフトバンクに移籍してしまいました。
私がまだ熱心に野球を観ていた子どもの頃、巨人のような常勝チームがある一方で、大洋やヤクルト、ロッテといった負けてばかりのチームがありました。巨人のように資金力のあるところは、力のある選手を集めることが容易でした。おそらく、チーム内は勝つのがあたりまえの明るい雰囲気に満ちていたことでしょう。しかし、「負け癖」のついていたチームでは、「勝つんだ」「負けないぞ」という執念のようなものが欠けていて、選手自身がモチベーションを高め、それを維持することはさぞ難しかったに違いありません。
モチベーションの低い環境の中で努力することの困難さは想像を超えます。今ではドラフト制度が改革され、お金にものをいわせて有力選手をかき集めることが難しくなっています。そして、それはチームの力を均等化することに貢献し、常に勝ち続け、ダントツの1位で優勝するチームも以前ほどはいなくなってきました。また、かつては負け続けて「弱小」と呼ばれていたチームの選手たちのモチベーションを高めることにもなっているはず。「頑張れば勝てるかもしれない」という思いが原動力になっているからです。
最近は「頑張らなくていい」という耳障りのいい言葉をよく耳にします。「なぜ一番でなければいけないのか」とか、「根性とかいう言葉が嫌い」とか言う人もいます。もちろん、それでもいいのです。事実、頑張らなくてもいいし、一番でなくても、根性をもっていなくてもいいのですから。しかし、「悪しき平等主義」は一番になることや、一流になろうとすることをも否定します。それはまるで頑張っている人さえ否定しているかのようです。平等主義とは平等を強いることではなく、違いをリスペクトすることのはずです。
機会の平等主義というのもあります。チャンスはすべての人に等しく与えられるべきだという考え方です。とはいえ、チャンスは平等でも、結果が同じとはかぎりません。能力のある人は、その能力に応じた結果を得ていいはずです。その一方で、能力の違いを努力でカバーことには限界があります。でも、その格差は決して不平等ではありません。ましてや差別などではありません。今回のWBCの試合を観たり、出場選手たちの思いに耳を傾けてみると、目標に向かって頑張ることの尊さ、あるいはお互いの違いをリスペクトすることのすばらしさを改めて感じます。そして、自分の夢や理想を体現している一流の人たちから、私たちもなにかを学ぶことができるような気がします。
新型コロナウィルス感染症が全世界に広がって、私たちが医学書の中の言葉ででしか知らなかった「パンデミック」を実体験しています。この間、たくさんの人が亡くなり、少なからずの人たちが今も後遺症に悩んでいます。しかも、新型コロナウィルスは、社会の価値観もある意味で一変させてしまいました。と同時に、人々の間に溝を作り出し、社会を分断する状況にもなっています。マスクをするのか、しないのか。ワクチンを打つべきか、打つべきではないのか。確固たる結論がでないまま世の中は混沌としています。
私たち医者は、もちろん経験も重要ですが、できるだけ科学的根拠にもとづいて行動するようにと教育されています。多くの医者はそのように行動しています。しかし、中にはそうした科学的根拠には目もくれず、自分の情緒に振り回されているかのように立ち振る舞う人もいます。新型コロナウィルスの感染拡大を目の当たりにした医師が、どんな立場にあるかによっても考え方は異なりますが、それ以上に新型コロナウィルス感染症の恐ろしいイメージによって右往左往している医者も決して少なくないのです。
ある医者は今もなおワクチンの接種を推奨しています。別の医者はワクチンの危険性を強調して接種をするなと叫んでいます。新型コロナウィルスに感染する人がここまで減ってくると、ワクチンを接種しようと考えていた人でも「もういいか」と思いたくなるはず。現に、当院にワクチン接種の予約をする人の数は激減しています。ドタキャンもめずらしくなくなりました。それは我孫子市全体でも同じで、ワクチン接種をそろそろ終了しようと考えている医院は当院もふくめて増えていくでしょう。
では、今もなお接種が勧められている「オミクロン対応型ワクチン(BA.4とBA.5に対応した2価ワクチン)」の追加接種(これを「ブースター接種」といいます)ははたして有効なのでしょうか。ちまたでは「ワクチンを接種しても感染するんだから意味がない」という声が大きいように思います。しかし、意味がないかどうかはちゃんとした科学的なデータから判断しなければなりません。少なくとも「感染するんだから意味がない」という極論で断罪できるほどワクチンに大きな問題があるとは思えません。
「思えません」と言っただけではなく、いくつかの主だったデータをご紹介します。まずは、アメリカ疾病対策センター(CDC)が発表した研究結果です。その研究では「現在の接種の主流となっている2価ワクチンのブースター接種はオミクロン系統の変異ウィルスの感染リスクを半減させる」と結論づけています。しかも、死亡リスクはワクチン未接種の人とくらべては13分の1に、ワクチンを接種したがブースター接種をしていない人とくらべると死亡率はほぼ半分に減少するというものでした。
同じく、NEJM誌(ニューイングランドジャーナルオブメディシンという権威ある医学雑誌)に掲載されたデータでも、「2価ワクチンによるブースター接種の入院および死亡抑制効果は、従来のワクチンによるブースター効果の2倍以上だった」というものでした。ただし、この2価ワクチンのブースター効果は約4週間でピークに達し、その後は徐々に低下するようです。これらふたつのデータを見ても、現在、流行の中心となっている変異株に2価ワクチンの接種が決して「意味がないもの」ではないということがわかります。
その一方で、これまで従来のワクチンを4回接種していれば、この2価ワクチンによるブースター接種をしなくてもいいのでしょうか。そのことに関する日本のデータがLancet Infectious Diseases誌に掲載されています。それによると、パンデミック初期に作られた従来型のワクチンを接種した人では現在の変異株に対する中和活性(有効性をあらわす数値)は著しく低く、多くは検出限界以下だったようです。つまり、従来型のワクチンを4回接種したとしても変異株にはあまり効果は期待できないという結果でした。
現在の新型コロナウィルスに感染しても多くの場合は比較的軽症で済んでいます。それはウィルスそのものの危険性が低下してきたからですが、その一方で、たくさんの人がワクチンを接種し、少ないながらも中和抗体ができているからだという側面も忘れてはいけません。中国の研究グループの解析によれば、ワクチン未接種の人が新型コロナウィルスに感染すると、感染初期に心血管系の疾患にかかるリスクが2倍に、全死亡リスクに至っては80倍以上にもなるという結果でした。これらのリスクは最長18ヶ月後も同じでした。
もちろん、今の新型コロナウィルスのリスクはインフルエンザのそれよりも低下しているとも報告されています。重症化率は2021年7~10月の時点で80歳以上で10.21%、60歳以下で0.56%でしたが、2022年7~10月の時点ではそれぞれ1.86%と0.01%に低下しています。ちなみに季節性インフルエンザのそれは80歳以上で2.17%、60歳以下で0.03%です。また、致死率は80歳以上で7.92%が1.69%に低下、60歳以下で0.08%が0.00%になっています。インフルエンザでは80歳以上で1.73%と60歳以下で0.01%です。
こうしたデータから見ても、新型コロナウィルス感染症の危険性は確実に低下しています。しかし、だからといって「ワクチンは意味がない」ということにはなりません。それはこれまでワクチンを多くの人が接種してきたおかげであり、今後も2価ワクチンによるブースター接種を受ける人がいるからです。とくに70歳以上の高齢者にとってはワクチンは必須だと個人的には考えています。問題はこれまでワクチンを接種してこなかった人たちです。こうした人たちが万が一重症化した場合を忘れてはいけません。
私は「すべての人がワクチンを接種しなければならない」といっているのではありません。パンデミック当初のように、ウィルスの危険性が高く、また、たくさんの人が感染して医療崩壊がおきない方策が必須だったころであれば「接種すべき」だと主張するでしょう。しかし、現状を見る限り、あのときの危うい状況とはあきらかに違います。ですから私は「ワクチンの未接種はそれなりにリスクがあるが、ブースター接種するかどうかは個人の判断に任せてもいい」という立場をとっています。自己責任が問われているのです。
「ならばワクチンの【危険性】についてはどう考えるのか」と思われるかもしれません。しかし、私はあえて答えたいと思います。「どんなことにもリスクとベネフィットがある」と。リスクがベネフィットを上回るワクチンは接種すべきではありません。しかし、その逆であれば接種すべきです。たくさんのワクチン接種がおこなわれれば重大な副反応も起こります。そのまれに起こるリスクをことさらに強調して人々の不安をかきたてるのは決して正しいことではありません。事実は科学的根拠をもって語るべきです。
マスクやワクチンの価値はそれぞれの立場でさまざまです。どちらの立場であれ、他人に強制するものではないと思います。私自身がマスクをするのは、他人に対するエチケットだと思うからです。人がマスクをしていなくても気になりません。私がワクチンを接種するのは新型コロナに感染するわけにはいかないからです。人にワクチンを接種する側の人間だからでもあります。ですから、ワクチンを接種しない、したくない人がいてもいいと思います。情緒だけで行動すると本質を見誤るということを忘れないでください。
とある家庭での会話です。他意はありません。とにかく聴いて(読んで)ください。
子:「新型コロナのワクチンって結局意味がなかったよね」
父:「なんでそう思うんだい?」
子:「だってあれだけの数の国民がワクチン打っても感染が治まらないじゃない」
父:「感染が治まるなんてのはまだまだ先のことさ」
子:「そろそろ勘弁してほしいよ」
父:「ほんとだな。日本だけじゃなく、世界中の人がそう思ってるだろうね」
子:「ワクチンを打ってもこうなるんだから、ワクチン接種なんてやめちまえばいいんだ」
父:「打ちたくなければ打たなくてもいいんじゃないか」
子:「今さらなんだよ。以前はワクチン接種を勧めていたくせに」
父:「『ワクチンなんて意味がなかった』って本当に思ってるんだね」
子:「逆に聴くけど、意味あった?」
父:「そりゃあったさ。ワクチン接種の効果は科学的にも示されているし」
子:「それじゃ、なぜ、今、こんなにたくさんの人が死んでいるのさ」
父:「怖い?」
子:「怖いに決まってるよ。この間の新聞にだって『過去最多の死者数』って書いてあったし」
父:「現象のほんの一面しか見てないとそう思うだろうな」
子:「どういう意味?」
父:「よく考えてごらん。100人の人が感染して1人の死者が出るのと、10000人の人が感染して
100人の死者がでるのとで違いがあるかい。どちらも致死率1%なんだよ。新聞が書いたように
後者は前者の100倍の死者数と大騒ぎするようなことじゃないでしょ」
子:「でも、感染者数は100倍になっているということは事実だと思うけど」
父:「その通り。それならそう書くべきでしょ。『感染者が100倍になった』とね」
子:「でも・・・」
父:「『感染者が100倍になった』という伝え方ではなく、『100倍の人が死んだ』と伝えるのは
間違っている。『100人の人が死んだ』かもしれないけど、『100倍の人が死んだ』わけじゃない
んだから」
子:「それなら『100倍の人が感染した』ってことは問題じゃないの?」
父:「状況によっては問題だろうね。たとえば新型コロナウィルスの感染がはじまったときのよう
に致死率が比較的高いままの状況が続いているなら感染者数が増えるのはもちろん問題だよ」
子:「今の致死率は低いの?」
父:「そうだよ。今のオミクロン株は従来の季節性インフルエンザよりも致死率は低いとの言われ
ているんだ。そもそも感染当初の新型コロナウィルスと今のウィルスは似て非なるものといえ
るかも。だって遺伝子がかなり変異してきているからね」
子:「遺伝子が変異すると感染力は高まるけど、致死率は低下するってこと?」
父:「一般的にはその傾向があるとされている。でも、今の致死率の低下にはワクチン接種が広く
おこなわれたことも大きく寄与しているだろうね」
子:「『ワクチン接種をしても結局は感染しているじゃないか』って言っている人たちもいるよ」
父:「いるだろうな。でもそれは当たり前なんだよ」
子:「ええっ? 当たり前って・・・」
父:「だって今流行しているのはBA.4、BA.5といわれる遺伝子型をもつウィルス。でも、多くの
人が接種してきたワクチンはそれには対応していないんだからね。効果が限定的になっても
仕方ない側面もある」
子:「ワクチンを打ったのに感染してしまったら・・・」
父:「そもそもワクチンの効果には感染予防という側面と重症化予防という側面がある。新型コロナ
ウィルスのワクチンに限らず、完全に感染は予防できないものなんだ」
子:「感染してしまうワクチンなんて意味が・・・」
父:「感染を完全に予防できればいいけど、重症化を予防することの方が重要じゃないか。実際に
今の感染状況は『感染者は多いが、重症化する人は比較的少なく、亡くなる人はもっと少ない』
っていえる。これはワクチン接種を広くおこなった結果なんじゃないかな」
子:「中国はワクチンを接種してきたのにあれだけの人が死んでるよ」
父:「日本とはワクチンの接種率も違うし、ワクチンの種類も違うからね。中国製の不活化ワクチン
は、日本が使用しているmRNAワクチンよりも効果が低いとされていたからね」
子:「感染者もあれだけ増えて、薬屋さんから解熱剤がなくなったみたいだね」
父:「船戸内科医院の先生から聞いただろ。『むやみに解熱剤使わないように。発熱も大切な生体
反応だよ』って」
子:「TVで言ってることとちょっと違うことをいうから信じていいのかわからない」
父:「まともな医者は船戸内科医院の先生と同じことを言ってるみたいだぞ」
子:「結局、ワクチンは打った方がいいの?」
父:「致死率が低下した今となっては個人の判断だろうな。打たなければ感染確率も、重症化する
危険性も高くなる。接種しない人はそうしたことを受容した上で、さらに他人にうつさない
ようにことさらに配慮しなければいけないよね」
子:「『他人のためにワクチンを接種するのはゴメンだ』といっている人もいるね」
父:「残念だけど、そういう人がいても仕方ない」
子:「今の新型コロナは風邪みたいなものだから、ワクチンを接種しなくてもいいのかな」
父:「ワクチンを接種したおかげで、新型コロナに感染しても風邪程度の症状ですんでいる人が多い
みたいだね。でも、コロナに感染したのに自分は風邪だと思って感冒薬を飲んで会社や学校に
行く人がいて、そういう人たちがまわりに感染を広げているんだよ」
子:「船戸内科医院の先生は『風邪薬は風邪を治す薬じゃないんだから、こちらもむやみに服用
しないように』って言ってるね」
父:「風邪薬で症状が軽くなると『治った』って思っちゃうからね。だから、今は風邪症状があれば
新型コロナに感染したと思うべきで、そのかわり心配せずに自宅内隔離で安静にしていればいい
ようだね」
子:「すぐに検査をすれば安心だしね」
父:「いやいや。船戸内科医院のブログにも書いてあったけど、検査は『一番怪しいときにする
もの』らしいぞ。陽性のときにのみ意味があって、陰性だからと言って『コロナじゃない』
って証明にはならないらしい」
子:「ということは検査も意味がないってこと?」
父:「そうじゃない。重症化しそうなとき、つまり、肺炎になってしまったかもってときにこそ
検査が必要だってことらしい」
子:「でも、熱があると学校からすぐに『検査をしたか?』ってすぐに聞かれる」
父:「学校や会社はアリバイ主義だからな。検査の意味がまるでわかってないんだよ」
子:「検査をしないと学校にもいけないからなぁ」
父:「本来、風邪症状があったら学校や会社を休むべきなんだよ。他人にうつしちゃうからね」
子:「学校より病院にいくべきってことだね」
父:「でも、本来、風邪であるにせよ、新型コロナにせよ、特効薬なんてないからね」
子:「薬がない?」
父:「そう。基本的には家で安静にしていればいい。そうするしかない」
子:「それならなんでみんなは薬をもらいに病院にいくの?」
父:「それは『ツラい症状』を軽減する薬をもらいにいくんだよ」
子:「症状がつらくなければ薬はいらないってこと」
父:「そのとおり。家で安静にしていればいいだけ」
子:「それで具合が悪くなったらどうするのさ」
父:「そのときはかかりつけの医者に電話で相談すればいい」
子:「TVでは『風邪症状がでたら早めに病院へ』っていってるけど」
父:「早めに病院へ行ってなにをするんだい?」
子:「そんなこと素人にはわからないさ」
父:「病院に行くだけで、人からうつされたり、人にうつすリスクがある」
子:「なにがいいことなのかわからなくなりそうだ」
父:「確かに。でも、船戸内科医院のブログをもう一度読み直して整理してみたらどうだい」
子:「うん。そうするよ」
いい会話ですね。では、皆さん、くれぐれもご自愛ください。
新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。
TVでは箱根駅伝の様子が中継されています。毎年、お正月の恒例でもあるこの駅伝大会に、長い間、私はまるで興味がありませんでした。亡くなった父がかつて駅伝の選手だったにもかかわらず、です。しかし、以前のブログでも紹介したように、かつての勤務先の病院に入院中の奥さんを毎日見舞いに来られていた方が「箱根駅伝に出場した選手だった」ということを知ってから箱根駅伝の中継を見るようになりました。
私は小さいときから運動音痴でしたが、スポーツに興味だけはありました。小学生のころはテレビでよく放映されていたキックボクシングにはまっていました。当時、「キックの鬼」として有名だった沢村忠よりも「錦利弘(にしきとしひろ)」という選手が好きでした。なぜそうだったのかはわかりません。へそ曲がりだったのでしょうね(今もそうです)。彼の「電光回し蹴り」に胸をときめかせていたのを思い出します。
小学校の修学旅行はご多分にもれず日光に行ったのですが、私は宿で熱を出してしまい、夜は先生達が泊まっている大部屋に寝かされていました。そして、担任の先生や生徒達が夕食のために大広間に行っている間、私は校長先生とプロレスをテレビで見ていました。それまで近づきにくかった校長先生はプロレスファンだったらしく、高熱に苦しんでいる私にレスラーの説明をずっとしてくれていました。
中学に入る頃になると、いろいろなスポーツに興味を持ちはじめました。自分でやるというよりも、自宅の庭の芝生に穴を掘って、パターを自作してゴルフの練習をしたり、母から洋服生地の切れ端をもらってアメリカン・フットボールのボールを作り、友達とキャッチボールをしたりする程度でした。コツコツ練習をする努力も、長距離走のような「苦しい運動」も好きじゃなかったんでしょうね。
私が小学生から中学生だったころはプロ野球が全盛期でした。ジャイアンツのV9(9連続日本一)もありましたし、長島や王は子ども達のヒーローでした。子どもの頃の私はジャイアンツの大ファンでした。華やかな長島選手よりも淡々とした王選手が好きでした。しかし、あの「江川投手をめぐる空白の一日事件」ですっかり野球への興味をなくし、巨人が負ければどこが勝ってもいい「アンチ巨人」となってしまいました。
最近、部活の問題がしばしばとりあげられるようになりました。子ども達への鉄剤投与の問題もそのひとつです。記録が伸びないことを鉄剤の投与でカバーしようというものです。医学的にも問題が多いことが指摘され、コーチングのあり方として疑問が呈されている問題です。部活とは本来教育の一環として行なわれるべきです。しかし、行きすぎた結果至上主義は選手の健康を蝕むことにつながります。
運動誘発性無月経の問題も同様です。過剰な練習を続ける女子選手に無月経が起こることがあります。以前、スポーツ医学を専門にしている医師と連絡をとったとき、彼が「この問題が広く認識されていない」と嘆いていました。無月経が長期間続くとどんな結果につながるのかを多くのコーチが知りません。結果至上主義を全否定しませんが、「部活は教育だ」という視点を忘れてはいけません。
とはいえ、私はまともにスポーツをやったことのない人間です。その私が「たかが部活」と言ったところで、選手やコーチがどんな思いで練習をし、大会に挑んでいるかなどわかるはずもありません。私をアンチ巨人にしたあの「空白の一日事件」の江川投手にしても同じです。あの一件で彼がどれだけ傷ついたか。あの事件を背負いながら生きてきた45年の重みは誰にも想像できないでしょう。
来年の箱根駅伝は第100回を迎えるそうです。その記念すべき大会のシード権をめぐって選手達は大手町のゴールをめざしています。若い人たちがなにかに向けて頑張ることは素晴らしいことです。その結果がどうであれ、次の目標に向かって走り続けることが大切です。人生に「最終目標」などありません。良い結果も悪い結果も次につながる良い結果にしなければなりません。人生、万事塞翁が馬。今年も一年頑張りましょう。
早いもので今日で2022年が終わってしまいます。ここ数年、日本のみならず世界中が新型コロナウィルスに振り回されてきました。しかし、この2月に始まったウクライナ戦争は、世界の秩序を乱し、世界経済にも暗い影を落としています。ウクライナの悲しい歴史を多くの日本人は知りません。ウクライナ国民の多くはスラブ民族ですが、奴隷を意味する英語の「slave」はこのスラブに由来しているのです。
新型コロナウィルス感染症は中国の武漢に起源するといわれています。新型のウィルス感染症が人から人に感染し、重症率も鳥インフルエンザほどではないにせよそれなりのものであることは当初からわかっていました。このウィルス感染症はまたたく間に武漢から中国全土へと広がり、絶好調だった中国経済の勢いに乗って世界中に拡散していきました。それからの惨状は皆さんもご存知の通りです。
その新型コロナがようやく落ち着いてきたかと思った矢先のウクライナ戦争です。ウクライナは世界有数の穀倉地帯であり、一方のロシアは原油や天然ガスをEU諸国に供給する主要な資源国。その両者の戦争が世界経済に大きな影響を与えないはずはありません。しかも独立国家が公然と独立国家に侵略するという国際法違反は、領土拡大を目指す他の覇権主義の国家を刺激してあらたな危機を作り出そうとしています。
そんな不穏な空気、漠然とした危機感を感じながら迎える年末です。自宅のちょっとした大掃除を終えてホッとしていても、ふと「今ごろ、病院ではたくさんの人たちが不眠不休で仕事をしているのだ」、「暖房もままならないウクライナの人たちはどんな新年を迎えるのだろうか」という思いが心をよぎります。来年こそは日本中の、そして世界中の人たちが新年を祝えるようになりますようにと祈るような気持ちです。
昨日の夕方、NHK総合では年末恒例の「ドキュメント72時間 年末スペシャル2022」が放映されていたので、それをただぼうっと見ていました。最近のテレビ番組にはどれも興味がわかないのですが、年末に放送されるこのスペシャル番組だけは不思議と見入ってしまうのでした。かつてはテレビ局に勤めてこうした番組を作ってみたいと思ったこともあったからでしょうか。
この「ドキュメント72時間」の中で紹介された「看護専門学校 ナイチンゲールに憧れて」はとてもよかったです。関西のとある看護学校での生徒達の姿を追ったドキュメンタリーでした。看護師という仕事に興味があって入学した人もいれば、「漠然とした気持ちで(入学した)」という人もいる。美容師やCA(スチュワーデス)からの転職だったりとさまざまな背景を持つ生徒の72時間を取材したものです。
私も一般大学を卒業してから医学部を再受験したひとりでした。北大の同級生にも、同じような境遇で入学してきた人が10名ほどいました。年齢もバックグラウンドもさまざまでしたが、北大医学部のいいところはそうした学生ひとりひとりの背景に誰も関心を持たないというところ。現役合格したかどうか、多浪生であったかどうか、そんなことにこだわる学生もいません。それが北大を魅力的な場所にしています。
この「看護専門学校 ナイチンゲールに憧れて」はとてもいい番組でした。皆さんは戴帽式というものをご存じでしょうか。昔の看護師はキャップと呼ばれる看護帽をかぶっていました。看護師という職業を象徴するようなもので、病院によっていろいろな大きさや形状をしていました。キャップを見れば病院がわかるほどでした。しかし、病院での業務の支障になるという理由で今ではすっかり見なくなってしまいました。
それまでの看護学校では、看護に関する座学が一段落し、いよいよ病棟での実習が始まるときにこの戴帽式がおこなわれます。看護師としての象徴でもあるキャップを学生に授与するのです。この式を通じて看護学生はいよいよ看護師になるのだという意識を高めます。私の妹も看護師なのですが、妹の戴帽式のとき、私も看護学校に行って式に出席しました。厳かな雰囲気の中でおこなわれた式はとても感動的なものでした。
しかし、看護師のキャップがなくなるにつれ、戴帽式も廃止してしまう看護学校が続出しました。看護師になることを自覚する機会にもなっている戴帽式。この戴帽式の意義が再認識されて復活させる学校も最近増えてきたとも聴きます。取材された学校でも戴帽式が行なわれ、看護学生としての区切りとなる戴帽式に出席するために苦悩・苦闘するさまざまな学生の姿はまさに青春ドラマそのものです。
この番組は看護師でもある家内と見ていました。そして、私は自分の医学生・研修医時代を、家内は看護学校時代と重ね合わせて見ていました。見終わったとき、私たちふたりの口から思わず出た言葉は「初心を呼び覚まされるね」でした。医療系の学校はうれしいことや楽しいことよりも、辛いことや精神的に苦しいことの方が多いのですが、それでも頑張れるのはやはり自分の仕事に対するプライドがあるからだと思います。
今も病院ではたくさんの人が働いています。新型コロナウィルスワクチンは無効だとか、打っても意味がないだとか。その一方で、新型コロナウィルス感染症による死者は最多になっていて感染は広まる一方だとか。雑音は実に勝手なものです。病院で治療に専念する医師や看護師、薬剤師やその他の病院職員はそんな雑音とはまったく関係なく、目の前にいる患者を救うためにこの瞬間も奔走しているのです。
ゼロコロナ政策から大転換した中国では、新型コロナウィルスがまさに感染爆発し、SNSでは病室はもちろん、遺体安置所や火葬場も不足しているという動画が飛び交っています。そして、薬を求めて病院の熱発外来に人々が殺到し、薬局からは解熱剤が姿を消す事態になっているようです。日本もあのような惨状にならないとはかぎりません。日本人ひとりひとりがよく考えて行動しなければいけないのです。
とある芸能人が「ワクチンを打てば新型コロナウィルスに感染しないといったのに、なぜ新型コロナの死者が過去最多になるんだ」とツイートしていました。社会に影響力を持つ有名人がこの程度のツイートをするのにも困ったものですが、それに乗じて騒ぎを煽り、社分を分断するような医者(医師免許をもっている人たち)の存在にも困ったものです。医者にもいろいろいます。まともなことを言うとは限りません。
新型コロナウィルス感染症で亡くなった人の数が過去最多になるのには理由があります。まずはそれだけ感染する人の数が多いからです。これまでも繰り返してきたように、ウィルスは遺伝子の変異のたびに感染力を高め、一方で致死率を低下させていきます。今の新型コロナウィルスは季節性インフルエンザウィルスとくらべても致死率は低いとされています。亡くなった人の数だけで判断するのは間違いです。
また、大手の新聞社が「直近3ヶ月の死者数は前年の16倍」という見出しで記事を書いています。この直近の3ヶ月と比較された昨年の状況はどうだったでしょうか。当時の新型コロナウィルスの感染状況はきわめて落ち着いているときでした。感染者は今とくらべてずっと少なかったのです。そんな昨年と今とを比較して「16倍も増えている」と不安を煽る報道の目的はなんなのでしょうか。推して知るべしですが。
このウクライナ戦争でロシア軍は国際法にもとる非人道的な行為を続けていることが報道されています。しかし、よく考えて見て下さい。ロシアがそのような愚劣な手段をとるのは今回のウクライナ戦争に限ったことでしょうか。第二次世界大戦のとき、不可侵条約を一方的に破棄して北方領土を侵略したとき、あるいは、日本人入植者を蹴散らしながら満蒙国境を越えてきたときに彼等がどんなことをしたのか。
いや、アフガニスタンに侵攻したとき、あるいは、シリア戦争のときのロシアによる軍事作戦だって同じです。今のウクライナでおこなわれていることや、それ以上のことがおこなわれてきたはずです。それを我々は知らされなかっただけ。報道(ジャーナリズム)の使命はそうした世界の「隠された真実」を明らかにすること。国民・市民にそれらをありのままに伝えることです。煽ることでは決してありません。
来年はいったいどんな年になるのでしょうか。少なくとも、世界中の英知を結集して、新型コロナウィルス渦から逃れ、世界に平和と協調をもたらさなければなりません。そのためには「真実」を知らなければいけない。なにが正しく、なにが正義なのか。形而上学的な議論によるものではなく、よもやマスコミの論調にながされるようなものでもない。自分の頭を使って真実かどうかを見極めるのです。私自身はそう努力し続けるいち年にしたいと思っています。
皆さん、佳い大晦日をお過ごし下さい。来年が皆さんにとってより素晴らしい年になりますように。
Prosit Neujahr !