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院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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がんばれ、新人君(2)

地元の桜並木に薄桃色の花がまだ咲いていなかったころ、地球の反対側のヨーロッパで戦争がはじまりました。戦争なんてものは発展途上国の内戦だったり、名前も知らないような小国同士の小競り合いだったりするだけで、それなりの経済規模を有するまっとうな国が戦争など始めるはずがないと思っていました。しかし、そんな「常識」はあっさり裏切られ、「先進国」のひとつにも数えられるようになった国が、武力による国境線の書き換えをおこなおうとしている現実を世界中の人は目の当たりにしています。

戦後80年を経て、日本人はすっかり平和ボケしていました。敗戦後、「平和憲法」という新たな錦の御旗をあたえられた日本は、「戦争・戦力を放棄し、交戦権を否認すれば戦争に巻き込まれない」という夢を見続けていました。それが理想論にすぎず、絵空事であろうことはうすうす感じていながら、厳しい国際社会の現実にはずっと目をつぶってきたのです。しかし、今、自国の安全と生存は「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼する」だけでは保持できないという現実を突きつけられたといっても過言ではありません。

もちろんロシアが武力をもちいてウクライナとの国境を変更しようとするのにはそれ相応の理由があるのでしょう。そこにはウクライナとロシア両国の長くて悲しい歴史が影響しているのかもしれません。あるいは、オリガルヒやアメリカのエスタブリッシュメントと呼ばれる人たちの思惑や、あるいはNATOによる安全保障上の戦略に両国がまんまと利用されているのかもしれません。とはいえ、いかなる理由があろうとも、人権を一顧だにせず、国際法に明らかに違反するロシアの暴挙を正当化することは到底できません。

たくさんの命が失われているウクライナでの絶望的にも見える惨状は日本人に多くのことを教えています。人類はなんどもこうした過ちを繰り返してきました。そのたびにあらたな平和を誓ったはずなのに、です。日本や日本人は、ウクライナのために、また日本自身のためになにをすればいいのでしょう。遠い東欧で起こっていることだと他人事にしてはいけません。戦争がもたらすものは恐怖と絶望、悲しみと憎しみです。この愚かな戦争を一日も早く終わらせ、二度と繰り返さないためにも今の現実に顔をそむけてはいけません。

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気分を取り直して、今日の話題をあらためて書きます。

春、進学したり、就職したりと、あらたな第一歩を踏み出す人も多いことでしょう。期待と不安の入り交じったスタートになっているに違いありません。先日、私のクリニックに、高校の後輩で、今春、北海道大学医学部を卒業したばかりの新人君が遊びに来てくれました。もはや後輩というよりも自分の息子のような彼も、この春から研修医としての厳しい修練がはじまります。その彼には研修医のころの思い出をいろいろ話しました。失敗も、ツラいことも、悲しかったことでさえも今の自分に活きていることを伝えたかったからです。

研修医だった私の一日は、朝早く病院に来て患者の採血をすることから始まりました。前日にオーダーしていた検査のための採血をするのです。そして、それが終わると、つい数時間前までカルテ記載していた担当患者の情報をまとめます。やがて病棟にあがって来る指導医に患者情報を報告し、その日にやっておくべきこと(検査あるいは処方)の指示をもらうためです。その後は、指導医と一緒に患者の回診にまわり、検査・処方のオーダーをしたり、注射箋で点滴を指示したりとあわただしく午前中が過ぎていきます。

昼食を済ませると、午後は検査に入ったり、カンファレンスと呼ばれる症例検討会があったりと忙しさは続きます。興味深い疾患をもっている患者やなかなか診断のつかない患者を検討会に提示するときはその準備もあるのでとくに忙しくなります。東京逓信病院では院内での勉強会が多いため、研修医は学会発表の練習も兼ねて頻繁に発表させられます。発表のためには他の診療科のカルテを取り寄せるために病歴室に通ったり、文献を調べるために病院の図書館に行ったりしなければならないので大変です。

夕方になると日中にオーダーしておいた検査の結果があがってきます。その結果を見ながら、治療薬の効果を判定したり、病気の原因を絞り込むのですが、研修医にはそれらの結果に一喜一憂するのが精一杯。自信満々で指導医に結果を報告したのに、検査や治療内容の不備などを指摘されてヘコムなんてことも少なくありません。そんなときは、カルテを記載する医師記録室で他の研修医と愚痴をこぼしあったり、指導医への不満を聞いてもらったりしたものです。このときの研修医同士の連帯感はなにより心強いものでした。

私が研修医の頃はまだ紙カルテで、検査結果も紙に印刷されてあがってきます。検査結果をカルテに貼りながらその日一日の患者の変化や今後の方針を記入するのですが、そうこうしているとあっという間に夜もふけ、いつの間にか深夜遅くになっています。しかし、当時の逓信病院には夜になると我々研修医に陣中見舞いを持ってきてくれる先輩医師がいました。深夜にもかかわらず記録室にケーキなどの差し入れを買ってきてくれるのです。「お疲れ~っ!」と入ってくるその先輩医師にどれだけ励まされたことでしょう。

夜遅く(朝?)までカルテ記載をしていると、記録室のラジオからはよく「Jwave」の「singing clock」という時報がながれてきました。夜勤の看護婦さん達も仮眠に入ったのか、静まりかえっている病棟。ときどき鳴るナースコールと看護婦さんの足音だけが聞こえる夜の「singing clock」は、疲れ果てていた私を生き返らせる呪文のようなものでした。ちょうど私が研修医だった頃に開局したFMラジオ局のJwaveからはいつも洗練された音楽がながれてきて、札幌から上京したばかりの私にとっては心の清涼剤だったのでしょう。

研修を終えて勤務した大学病院では、今度は新人看護婦さんたちの奮闘ぶりを見ていました。今でも思い出すのはGさんのことです。彼女は地方の看護学校を卒業して就職してきた人でした。人懐っこい笑顔と元気さが取り柄とでもいうような明るい新人さんでした。やる気満々、物怖じせず、なんでも頑張るぞという本人の意気込みとは裏腹に、ミスをすることも少なくなく、上司である主任さんはもちろん、他の先輩看護婦さん達からも注意を受けていました。そんな彼女を私はなにかとても懐かしく感じました。

注意された彼女はちょっとだけ落ち込んだように表情を曇らせますが、すぐに舌をペロっとだしてはいつもの元気なGさんに戻ります。ところが、彼女がめげなければめげないほどまわりの先輩看護婦さんからは集中砲火のように怒られ、ついに主任さんから厳重注意を受けることになりました。私は少し離れた場所でカルテ記載をしながら、二人のやりとりに聞き耳を立てていました。「もっと考えて行動しなさいっ!」と主任さんは強い口調でいいました。それは少し感情的になっているようにも思える言い方でした。

Gさんは主任さんの話しにうなづきながら聴いていました。「お説教タイム」が終わって仕事に戻った彼女は、少し打ちのめされているように見えました。いつものはつらつさがすっかりなくなってしまったGさん。翌日になっても、また、その翌日になっても彼女らしい元気さを取り戻すことはありませんでした。しかも、それでも彼女はミスをしてしまいます。そのたびに先輩方から怒られるGさんに、今までのような笑顔はみられませんでした。私は彼女がいたたまれなくなり、周りに誰もいないときを見計らって声をかけました。

「ゴンちゃん(私はいつもそう呼んでいました)、元気ないね。主任さんは『もっと考えて行動しろっ』って言ってたけど、知識も経験もない新人に『考えて行動する』なんてことができるはずがないんだからね。ミスをしないに超したことはないけど、注意していてもミスってしまったことは仕方ないんだよ。それが新人なんだから。ただ、そのミスを絶対に繰り返さないぞ、って気持ちだけは忘れないでね」と。それ以上言うのはやめました。彼女が今度は主任さんや先輩達に悪い感情を持ち始めてはいけないからです。

ときどき「ゴンちゃん、がんばれ」と励ましているうちに、徐々に彼女にはいつもの明るさが戻ってきました。「めでたし、めでたし」と思っていたのもつかの間、今度は私が主任さんに叱られることになりました。「職場でGさんを『ゴンちゃん』と呼ぶのはやめてください」とのことでした。学校でさえ先生が生徒を呼び捨てにしたり、愛称で呼ぶことは禁止されているんだとか。「~君」ですらダメで、「~さん」なんだそうです。せちがらい時代になったものです。でも、その後、Gさんはすっかり立ち直ったように見えました。

私自身、たくさんの間違いをしてきました。後悔することもいっぱいあります。しかし、前回のブログでも書いたように、それらすべてを含めての「今」なのです。新人だからこそできる失敗があります。新人だからこそ挑戦できることもあります。頑張って、頑張って、それでもダメならやり直すことでさえも新人には可能なのだということを忘れないでください。振り返ればあっという間の人生です。マイナス思考で無為な時間を過ごすより、プラス思考をしながらとにかく前に進むことの方が建設的な時間の使い方です。

人生の価値はひとつではありません。その一方で、ひとつの目標に向かって頑張り続けることにも意味があります。どちらにせよ、頑張れるかぎりはその歩みをとめてはいけないということです。人生の歩みは振り返ることしかできません。結果として自分の望む方角には進めないことだってあります。しかし、人生の岐路に立たされたとき、その都度、自分が後悔しない選択を繰り返していけば、必ずや満足のいく人生を送れるのだと私は信じています。また、それは私の半生が証明しています。

新人の皆さん、がんばりましょう。

※「がんばれ、新人君」も読んでみてください

万事塞翁が馬

新型コロナウィルスに感染した人の数は、その後、前回のブログで私がいった通りの推移を示しているように見えます。東京都のみならず、多くの都道府県で減少の一途をたどり、最近では死亡者の数もそのピークが過ぎたかのような状況にあります。あれだけ感染力が強いと吹聴されてきたオミクロン株による第六波も、三回目のワクチンのブースト接種がはじまってついにこのまま収束していくでしょうか。

そもそもオミクロン株に感染しても、ワクチンさえ接種してればほとんどがただの風邪のような症状です。そのせいか、喉の痛みや熱があっても自分が新型コロナウィルスだと思わず、風邪薬を飲みながら仕事をしたり、学校にいっている人(これは絶対にやらないでほしいと繰り返してきました)があまりにも多かったのではないかと想像します。感染拡大の大きさにはこうしたことも影響していたはずです。

BA.2株」と呼ばれる新たな変異株の出現で、検査が陽性となった感染患者の減少が鈍化しているように見えます。しかし、何度もいっているように、これからの推移は重症患者と亡くなった人の数で評価すべきです。私は予想屋でも予言者でもありません。客観的事実を冷静な判断(と自分では思っているのですが)で導いた結論を言っているに過ぎません。極端な意見にはひきづられないようにしましょう。

インフルエンザのこともそうです。「来年は流行しそうだ」などとTVでいわれていました。しかし、実際はどうだったでしょうか。「なんの根拠もありませんが、インフルエンザは流行しないと思います」と以前のブログに書きましたが、これとて一昨年の状況を見ればあたりまえと思える結論でした。インフルエンザワクチンを多くの人が受けてくれたこともこのインフルエンザの少なさに影響しているかもしれません。

「客観的な事実と冷静な判断」などと偉そうなことを言っていますが、私自身はなにごとも理性的に考える人間ではありません。どちらかというと理性よりも情緒に流されやすい人間かもしれません。「文系人間」という人がいるとすれば、むしろ私はそちら側の人間だと思います。だからといってそれが欠点だとは思っていません。私にとって大切なのは理性と情緒のバランスなのだと考えています。

医学は理系の学問とされていますがもっとも文系にちかい領域だと思います。そんなことをいうと不思議に思う人もいるかもしれません。しかし、医学には数値だけでは解決できない部分が少なからず存在するのです。血圧や脈拍数、検査値などのような数字もよりどころにしますが、患者さんとの問診の内容、あるいはそのときの表情や仕草といった非数値的な情報も病気を診断する際に重要となります。

以前にも言ったように、医者になるのに数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルをとる必要はありません。メダルをとるほどの秀でた能力はあって悪いわけではありませんが、有能な医者になるのにそれらの能力が直接必要なものかといわれれば必ずしもそうではありません。医者になるためにはせいぜい中ぐらいの学習能力があれば十分なのです。ただ競争率が高くて合格するのが大変だというだけの話しです。

医学は日進月歩です。20年前の常識が今は否定されているなんてことも結構あります。ですから、医者にとって日々変化する医学についていけるだけの学習意欲は必要です。入学したときはものすごく勉強ができたのに、その後、医学を学ぶモチベーションがあがらず、医師国家試験に合格したときの「知識の断片」だけでずっと診療をしている医者は決して少なくありません。そういう医者ほど自分の学歴だけが自慢です。

「医学部に入学する生徒にはことさらに人間性が必要」などというステレオタイプな主張も間違いです。極端なことをいえば、患者の病気を治せる医者なら人間性なんて十分条件にすぎません。病気を見つけることも、治すこともできないのに人間性だけは非の打ちどころのない医者にどれだけの価値があるのでしょう。入試での短時間の面接で数人の面接官が受験生の人間性を評価しようなんてことがそもそも不遜なのです。

世の中の「常識」とはちょっとずれたことをいう私なので、診察をしながら「医者らしからぬこと」を言うときがあります。診療中の私は「この人は誰かに守られている」と感じる場面にでくわすことがあるのです。普通であればこんな症状でそんな検査はしないのに、なぜかその検査をしたことによって重大な病気を見つけられたという経験をします。あとで「よく考えたらなぜこの検査をしたんだろう」って具合に。

なんとなく胸騒ぎがして患者を病院に紹介することもあります。そんなときは「無駄足になるかもしれませんが」といいわけをして病院に行かせます。でも、案の定大きな病気が見つかって患者が命拾いしたというケースが何度もあります。そのような経験をしたときはいつも「この患者さんには誰か守っている人がいる」と感じます。もちろんすべての患者さんに感じるわけではありませんから誤解なきようにお願いします。

「(普段であれば見つからなかっただろう病気が見つかるなんて)きっと誰か守ってくれている人がいたのですよ」と患者に告げると、「ああ、それは母かもしれません」とおっしゃる人もいます。また、別の方はうれしそうに天井を見上げたりします。しかし、中には「医者なのにそんなことをいうなんてヤバイんじゃないの」といぶかしげな人もいます。医者なのにそんな非合理的なことを、という意味なのでしょう。

私は医学部に入学する前後ぐらいから何度も不思議な体験をしてきました。大学病院で夜間救急をしていたある夜、休憩室で北大の先輩だった先生に「おまえ、幽霊をみたことあるだろ?」と言われたことがあります。何度かそれらしき体験をしていたので、「なぜわかるんですか?」とたずねました。すると、先輩はまじめな表情でいいました。「おまえみたいな霊的エネルギーの強い人間には霊が近づいてくるんだよ」と。

解剖実習から帰宅して寝ていた私の枕元に白い着物を着た老人が座ったのは私の「霊的エネルギー」が呼び寄せたのでしょうか。アルバイト先の当直病院での勤務初日、必ずといっていいほど急変する患者や亡くなる患者が多かったのは私の「霊的エネルギー」が影響しているのでしょうか。そこにいるはずもない人を病院で見かけたことも何度もあります。それも先輩が言うように私の霊的エネルギーが強いせいなのでしょうか。

こんなこともありました。子どもができないまま結婚4年目を迎えたある日の夜。当直病院で仮眠をとっていると突然「赤ちゃんができましたよ」という女性の声が聞こえてハッと目を覚ましました。そのときは夢でも見ていたのだろうと気にもとめませんでしたが、自宅に戻ってみると家内から妊娠したことを知らされました(ちなみにこの息子の誕生日は私と同じ)。これも私の「霊的エネルギー」のなせる業だったのでしょうか。

職業柄、人の生き死にを見てくると、自分なりの死生観というか、人生観といったものを持つようになります。希望する学校に合格しながら、制服に一度も袖を通すことなく亡くなった高校生がいました。銀行で働くことを夢見ながら就職活動の直前に入院。そして、失意のまま亡くなった大学生がいます。そうした人々の悲しさや悔しさ、むなしさは私にいろいろなことを教えてくれましたし、今の診療に役立ってもいます。

私の半生は他の人とは大きく異なります。小学校の入学祝いにもらった「野口英世」の伝記本をきっかけに「自分は医者になるんだ」と思うようになりました。でも、だからといって小学校のころの私は医者になるために努力する子どもではありませんでした。勉強をしなくても成績のいい子どもですらありませんでした。学校に行ってはいてもただ通学しているだけ。ボーッと窓の外を見ているような小学生だったのです。

それでも不思議と「医学」にはなんとなく興味を持っていました。おもちゃ屋で見かけた「人体模型」のプラモデルをねだって買ってもらったりしました。中学生のときは日曜日の朝になると東京12チャンネルの「話題の医学」という医学番組を欠かさず観ているという変わった子どもでした。とはいえ、肝心の勉強にはまるで関心がなく、医学部に入らなければ医者になれないことに気がついたのは高校生のときでした。

一度は医者になることをあきらめましたが、ひょんなことで医学部を再受験して医者になりました。いろいろな人との出会いがあり、さまざまな偶然がまさに糸をつむぐようにして再び医学部に挑戦することになったのです。こうしたことも私の「霊的エネルギー」のおかげなのでしょうか。科学や理性では説明できない非合理性の中で生きてきたことが、私を「怪しいことをいうヤバい医者」にしているのかもしれません。

子ども達には日頃、「神様はいつも見ているんだよ」と諭しています。「人の見ていないところで努力することは大切」ということをわかってほしいからです。悩みや苦しみを訴える高齢者には「長生きは修行です」とお話ししています。これは「長生きするということは、長生きできなかった人たちの思いを背負いながら生きることだ」ということを心にとどめてほしいからです。これは私が常に実感していることです。

幸せの基準は異なります。人のいう「よい、悪い」の多くは、実は「好き、きらい」だったりします。ものの見方を少しだけ変えてみるだけで、違った見え方をしますし、心のあり方もずいぶんと変わってきます。「人間万事塞翁が馬」という言葉は私が一番好きな故事ことわざです。吉事も戒めにしなければならない場合もあるし、凶事もよいことにつながるきっかけになる。いっときの吉凶ですべてを語るな、ということです

そろそろ卒業シーズンです。新型コロナのせいで楽しい学校生活が十分に送れなかった生徒・学生のみなさんにとって、なにか不完全燃焼のような中途半端さのまま卒業するのは淋しいことかもしれません。しかし、あなた達の人生はこれからです。むしろ、これからの未来にこそ、本当の山あり、谷あり、なのです。山があっても、谷があっても、常に視線は未来に向けて下さい。それがみなさんの特権でもあります。

いっときの良し悪しがすべてではない、ということは意外と気がつかないものです。うまくいくこともあるでしょう。失敗することもあるかもしれません。病気になったり、なにかをあきらめなければならないときだってある。でも、それが人生です。ひとつひとつの山や谷に一喜一憂せず、それらをひとつひとつ誠実に乗り越えていく、その総体が「幸福」につながっていくのだということをどうか忘れないでください。

私のお気に入りの歌(小田和正「東京の空」)に次のような歌詞があります。最後にそれを紹介します。

「がんばっても がんばっても うまくいかない

でも、気づかないところで 誰かがきっと見てる」

神様はいつもあなたを見ています。頑張りましょう。

 

バカなんですか?

今ほど「理性」が必要なのに、どうしてこうも理性的になれないのでしょうか。

一か月前のブログにも書いたように、新年早々新型コロナウィルスの感染が拡大し、第六波となって全国を席巻しています。今日の東京都の陽性患者は一日で1万4千人を超え、これまでで最多の感染者だと大々的に報じられています。全国を見渡してみても、どの都道府県も軒並み感染患者数が急増していてこれからどうなってしまうのだろうと不安に思う人も少なくないはずです。

しかし、オミクロン株のウィルスとしての毒性はデルタ株よりも明らかに軽く、入院を要する患者の割合や、重症化する割合、そして死亡する割合のいずれもが限定的です。これはすでにワクチン接種を済ませた人の割合が8割近くになっていることも影響しているでしょうが、前回のブログに書いた「変異を繰り返すにつれて毒性は低下する」ということを証明しているのだと思います。

感染拡大が急なのは、もちろんオミクロン株の感染力が強いからですが、それ以上にオミクロン株に感染しても軽症にとどまるため、風邪薬を飲みながら仕事や学校に行っている人が少ないことがあげられるでしょう。しかも、新型ウィルスの検査を「誰もが、いつでも、無料で受けられる」ようになって検査の数がこれまで以上に増えていることも無視できません。

検査はPCR検査といった精度の比較的高いものから、精度的にはPCR検査より劣っている市販の抗原検査などがあります。検査は本来、「一番怪しいとき」におこなうものです(これも今までなんども強調してきましたから耳にタコですね)。しかし、安易ともいえる今の検査のやりすぎは、偽陰性をたくさん生むことになり、偽陰性に安心した人はあらたな感染源となるのです。

オミクロン株に感染した人たちがこうも軽症ならば、今もなお2類相当のままの感染症から、季節性インフルエンザのように通常診療が可能な5類に一刻も早く変更すべきです。2類相当の感染症はその診断が確定した段階で入院することが原則となっています。その入院もふくめてすべての局面で保健所が関与するわけで、最近の陽性者の急増により保健所のマンパワーは限界になっています。

もちろん、2年前のように、ワクチンもなく、治療方法もないまま多くの人が入院し、亡くなる人も少なくなかったときであれば2類相当に指定し、保健所が管理するのは当然でしょう。しかし、感染者が多くても、軽症となって自宅療養が可能なオミクロン株感染においては、できるだけ早く5類に変更して、通常の季節性インフルエンザのときのように対応・対処できるようにすべきです。

私のクリニックにも風邪症状の方から問い合わせがあります。そして、新型コロナ感染を強く疑わせる人は発熱外来への受診を勧め、その可能性を否定できない人は来院させずに薬のみを処方します(可能性が低いケースは受診させて診察します)。そうするのは、診察をした患者が新型コロナに感染していると、私や職員が濃厚接触者となってクリニックを長期間閉めなければならないからです。

施設の広さという面でも、マンパワーという点でも、病院に発熱外来を設置した場合と、当院のような小さなクリニックが熱発患者を診療するリスクは大きく異なります。「職員や他の診察待ち患者を感染させてしまったら」という懸念を払拭する工夫ができればいいのですが、限られた室内で熱発患者と通常の患者を空間的にも時間的にも隔てることはできないのです。

もしオミクロン株が5類となれば「濃厚接触者」がなくなり、通常の医療機関での診療がより容易になります。そうすれば大きな病院の発熱外来の負担を軽くすることができます。また、保健所が対応しなければならないケースも大幅に減り、保健所が本当に対応しなければならない患者の入院先の調整に専念できます。今の状況は病院と保健所に不必要で大きな負担を強いています。

にもかかわらず、政府・厚労省は、オミクロン株を2類相当にしたまま、検査なしで医師の判断で「新型コロナ感染」と診断することを認めるのだそうです。そんなことをすれば、むやみに濃厚接触者を増やすだけです。そして、多くの人たちの行動を制限し、職場や学校、社会に混乱をもたらすだけです。そんなこと誰が考えてもわかるでしょうに。あまりにも「理性」がなさすぎです。

新型コロナウィルスワクチンのブースター接種がはじまりました。しかし、このワクチンも不足気味なのは否めず、じきに接種できる人の数も制限されてくるでしょう。感染症対策として打ち出されてくる方策はどれもが場当たり的で、計画性が感じられません。しかも、これだけ軽症の感染者が増えてもなお「自粛」と「水際対策」で切り抜けようとするとは。「バカ」なんでしょうか。

ひとりの感染者が何人の人に感染を広げるかをあらわす数を「実効再生産数」といいます。この数の推移を見ればわかるように、どの都道府県もとっくの昔に減少に転じています。あれほど感染者の急増に大騒ぎしていた沖縄ですら陽性者数が減少しているのです。南アフリカでの感染者が急増したのち速やかに減少したのと同じ。全国の感染者がピークを越えるのも時間の問題です。

現時点の重症者数や死亡者の数を観ても、感染者数が急増している割には大した数字ではありません(重症者の方や亡くなられた方には失礼な言い方ですが)。そうした事実ひとつとっても、今すべきことはあきらかです。「必要以上に自粛や制限を求めるのはやめろ」。「オミクロン株感染症は5類にさげろ」。理性的であるべき日本医師会は少なくともそう主張しなければならないはず。

私自身、地元の医師会から「検査の数を増やすこと」を要請されています。しかし、当院では検査はしていません。検査は「一番怪しいときにおこなうべき」だからです。しかも、大切なのは「肺炎などの重症化をした(しそうな)ケース」を見つけること。しかし、その場合はCT検査を受けなければなりません。したがって現在2類相当のままの新型コロナの検査は病院でおこなうべきなのです。

5歳以上へのワクチン接種を政府は急いでいるといいます。健康な小児は重症化するリスクも低くいのに、心筋炎などの重い副反応が懸念されている小児へのワクチン接種をそれほどまでに急ぐのはなぜでしょう。しかも厚労省の中では保護者に対して「努力義務」を課すことも検討されているとか。やることなすこと首をかしげるようなことばかり。もしかしてホントに「バカ」なんですか?

新型コロナがもたらすもの

これまでの私のブログを読んでいただいた方にはおわかりでしょうが私は暑いのが苦手です。むせ返るような熱気の中でじっとりと汗ばむあの感覚が嫌なのです。エアコンがあるのが当たり前になり、どこへ行っても快適な生活が送れるようになりました。しかし、からだにまとわりつくようなあの夏の空気感が苦手なのです。好きな夏の風景もあります。じりじりと照り付ける強い日差しをあびて向日葵(ひまわり)が揺れる風景なんて夏らしくていいですよね。真夏のうるさいくらいのアブラゼミの大合唱も、少し秋めいてきた夕暮れ時のヒグラシの「カナカナカナ」という鳴き声も、風情があっていいものです。

寒い環境での生活が性に合っている私もそうですが、北海道の人はさぞかし寒さに強いだろうと誤解されています。しかし、北海道の人にはむしろ寒さに弱い人が多いのです。北海道を知らない人たちにとって、北海道は「冷凍庫のように寒いところ」であり、寒さが苦手という人たちにとっては「行きたくない場所」かもしれません。でも、冬の北海道に実際に来てみれば、厳冬の北海道がいかに「暖かい」かがわかると思います。外気気温がどんなに低くかろうと、建物の中の暖かさは北海道の右に出る地方はありません。なにせ氷点下の真冬の室内でTシャツになる暖かさなのですから。

先週から降り続く雪で、それまで雪が少なかった札幌もついに根雪になったようです。例年であれば12月になんどか降る「ドカ雪」に、クリスマスのころにはすっかり雪景色になっていた札幌。ところが最近の暖かさは私の学生時代とはあきらかに異なります。(以前のブログにも書きましたが)学生のころキュッキュッと新雪を踏みしめながら夜の静かな家路を急いでいるときのことです。ふと夜空を見上げると満天の星。そのとき私はなぜか幸せな気持ちになりました。冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら「札幌に来てよかったなぁ」って。札幌の暖かい冬の風景はあのときと違ってしまったのでしょうか。

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早いもので、新型コロナウィルスに世界中が翻弄されてもう二年になります。その間、生活スタイルはもちろん、いろいろな価値観をも変えてしまったように感じます。一番端的な例はマスクです。それまでの日本はインフルエンザが流行しているときですらマスクをしている人は決して多数派ではありませんでした。外国人たちの目にはマスクをしている日本人たちは異様に映ったほどでした。それなのに今はその欧米の人たちですら多くがマスクをしている今の光景は二年前にはまったく考えられなかったこと。マスクをしている人としていない人との間でトラブルが起こるくらいになりました。

もともと日本人は外国の人たちにくらべて手洗いやうがいをすると言われてきました。潔癖症とも思えるようなきれい好きな日本人の特性が活かされたのもこの二年間だったかもしれません。当院では15年前に開院したときから手指をアルコール消毒する噴霧器を置き、インフルエンザのシーズンになれば待合室に空気清浄機を設置していました。第二診察室を作って感染症の患者はこちらで診察するようにもしています。建物内の空気のながれはこの部屋から外にながれるように設計してあるのです。そんな工夫が実際に役に立つときがやってくるは思ってもみませんでしたが備えあれば憂いなしを実感します。

また、以前から私は「かぜ薬は風邪を治す薬ではない。風邪をひいても早めに飲んではいけない。風邪症状を隠してしまうことでかえって感染を広げてしまう」と患者さんに説明してきました。また、「風邪症状のあるとき、とくに熱っぽい時やあきらかな熱があるときは仕事や学校に行かずに自宅で安静にしているべき」、「検査は安易におこなうべきじゃない。検査は一番疑わしい時にするもの」とも言ってきました。しかし、これまでの日本社会では「熱ぐらいで休むな、休めない」という雰囲気がありました。「検査してもらってこい(陰性だったら出勤しろ)」がなかばあたりまえだったのかもしれません。

今回の新型コロナの流行でそれが間違いだとわかってもらえたかというとそうでもなさそうです。いまだに「早く治そうと思ってかぜ薬を飲みました」といって来院する患者はあとを絶たないのです。「風邪を早く治すなんてことはできないんだよ。そもそも薬で治せる感染症じゃないんだから」と思いながら診察をすることもしばしばあります。風邪症状があるときは自宅で安静にし、症状がつらいときのみ症状を緩和するお薬を使い、肺炎などの合併症で重症化したことを見逃さないことこそが大切なのです。解熱剤の入ったかぜ薬は重症化を発見することを困難にしてしまうこともあるのです。

ワクチンも然りです。これまでインフルエンザのシーズンになってもワクチン接種をしない人は結構いました。医療・福祉施設や学校など、本来であればワクチン接種をすべき人たちの中にはワクチン未接種でも平気な人が少なくありませんでした。新型コロナウィルスだからワクチン接種が必要なのではありません。毎年3000人もの人が亡くなっていた従来のインフルエンザでもワクチンを接種することによって感染の拡大を阻止することは重要だったのです。ワクチンの接種はあくまでも任意であり強制されるものではありません。しかし、周囲に感染を広げないために不可欠だということを是非知ってもらいたいです。

来年の2月から当院でも三回目の新型コロナワクチンの接種(ブースター接種といいます)がはじまります。ふたたび通常の診療を制限して実施するため、多くの患者さんにはご不便をおかけすることになると思います。これまでも新型コロナワクチンを接種しているときに受診された患者さんからお叱りの言葉を頂戴することがあります。しかし、ワクチン接種後15分ほど経過観察をしなければならず、通常診療をすればワクチン接種のための方と通常診療のために来院した人とで「三密」を作ってしまいます。当院にはそれなりに広いスペースがあるとはいえとてもワクチン接種と通常診療を同時にはできません。

ワクチンを接種して急にからだの具合が悪くなった方がいれば迅速に対応しなければなりません。院内での対応マニュアルを作り、事前に職員と打ち合わせをしてそうした事態に備えてはいます。しかし、通常診療と並行してワクチン接種をおこなえば、職員の動きと意識は散漫になって混乱することは必至です。実際に今回のワクチン接種でも緊張するようなケースが2件ほどありました。幸い、なにごともなく終わったのですが、通常の診療と分離して接種をおこない、事前のマニュアルと打ち合わせをしていたお陰で対応できたと思います。従来のインフルエンザワクチンの接種と同じとはいかないのです。

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新型コロナウィルスはこの三年間になんども遺伝子を変異させました。そして、今は「オミクロン株」となって従来の株とは少し異なる性格をもっていることが徐々に明らかになっています。正式な発表にはなっていませんが、これまで私が集めた情報を少しまとめてみたいと思います。まず、このオミクロン株はそれほど恐ろしいものではないらしいということを強調しておきます。以前のブログにも書きましたが、「ウィルスは何度か変異を繰り返しながらその毒性は徐々に弱くなっていく」といわれています。新型コロナウィルスもどうやらその定説にそって変異しているらしいのです。

思えば「デルタ株」という変異株のときも、「感染力が従来のウィルス株にくらべて強い」としてマスコミはこぞって報道しました。今、そのデルタ株はどうなりましたか。「デルタ株」などという言葉すら登場しません。国民の8割が接種を終えるまでになった今、あのときマスコミが騒ぎ立てたような状況にはなっていません。オミクロン株も感染力の強さは従来の株を上回っているようですが、感染した患者の多くが軽症でとどまっています。実際、南アフリカでは患者は急増しましたが、重症者はそれまでの流行時よりも少なかったといいます。そして、最近ではすでに患者数が急激に減ってピークアウトしているそうです。

つまり、ワクチンをきちんと二回接種していれば、たとえオミクロン株にさらされたとしても必要以上に不安になる必要はないということです。感染しても大丈夫だといっているのではありません。ワクチンをスケジュール通りに接種し(韓国のように無計画に接種するのは効果を弱めます)、マスク・手洗い、人ごみを避ける、風邪症状があったら自宅内隔離で経過を見る、などの対応をしていれば、万が一感染してもなにも心配ないということです。高齢者や重篤な基礎疾患があったり、コントロール不良な糖尿病や呼吸器疾患などがある人はより注意が必要ですが、神経をすり減らすほどの心配は不要なのです。

今、東京での感染者はかなり少なくなっています。しかし、これはあくまでも「検査をして見つかった人」の数です。新型コロナに感染してもワクチンを接種している人にとっては「ただの風邪症状」に過ぎない場合が多く、自分が新型コロナウィルスに感染したとは思っていない人がほとんどだろうと思います。そうした人たちの中にはかぜ薬を飲みながら職場や学校に行ったりしいて周囲の人にうつしてまわっている人もいます。ですから、実際の感染者数は発表されている数字の何倍にもなっているのではないかと言っている人もいます。感染拡大を心配しなければならないのはまだワクチンを打っていない人たちです。

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これまでなんども「感染者の数」ではなく「重症者の数」に注目すべきだといってきました。感染しているかどうかを調べる目的はなんでしょうか。それは一刻も早く治療を開始することではありません。なぜなら、新型コロナウィルスに感染しても確たる治療方法が今のところないからです。検査をする一番重要な目的は重症化の危険性が高い感染者を見つけ、濃厚な治療を施す対象として見分けることなのです。決して無症状な感染者、軽症の感染者に「新型コロナに感染しているかどうか」という「結論」を示すことではありません。そうした軽い人たちは自宅隔離をして経過観察をしていればいいだけです。

東京でも「希望すれば無症状でも無料で検査ができる」ようになったようです。でも、そんなことをしていったいなんの役にたつのでしょうか。新型コロナウィルスの感染がはじまったころからずっと言われているように、無駄にお金をかけるだけでメリットはほとんどない(むしろ、偽陰性の感染者に「新型コロナ感染症ではない」という間違った墨付きをあたえるだけ)です。そうしたことは、広く検査を実施しても感染拡大を阻止することができなかった世田谷区や韓国の例を見てもわかりそうなものです。ものを考えられない、そして、経験を活かすことすらできない愚策だと思います。

先日、知り合いから「最近、ブログの更新がありませんね」と言われました。毎日があわただしく、ブログを書く時間がなかったこともありますが、なにより新たに書きたい、書かなくてはいけないと思うことがなかったのです。新型コロナへの対応については、この二年間、同じことをなんども指摘しなければなりませんでした。それほどまでに政府・厚労省の対応はお粗末で後手後手だったのです。ピント外れな批判や、国民を不安にする報道ばかりのマスコミ。医師会ですらずっとあの調子。いつも同じような失態、失策を繰り返すのですから書く気にもなりません。

6歳以上の小児にも新型コロナウィルスワクチンの接種がはじまります。根拠の希薄な何回かの議論であわてて決められたようで少々不安です。重症化する小児患者がほとんどいない新型コロナウィルス感染症。小児への感染力は強いかもしれないとされているオミクロン株ではありますが、風邪程度の症状で終わるかもしれないともいわれているのになぜ心筋炎の副反応が心配されるワクチン接種を急ぐのでしょうか。オミクロン株に感染した患者の濃厚接触者は国立大学の入試を受験できないというルールも拙速に決まりました。どうしてこうもバタバタとよく考えもせずに拙速な対策が発表されるのか。腹立たしいかぎりです。

もっと現場の人たちの声に耳を傾けるべきです。新型コロナ対策についてはずっと頑張ってきた医療従事者あるいは病院関係者が納得できる結論を出してほしいものです。肩書ばかりがご立派で現場の苦労や問題点を知らない専門家ばかりを集めた専門家会議など不要です。また、世間のいらだちや不安をあおって商売に熱心な医者や医療機関もいい加減にしてほしい。科学的には正しいことであっても、世の中のながれにさからうような情報を説明したり、行動することは難しく、その意味で、「検査をさせろ」「入院させろ」とつめよってきた人たちと関わってきた病院や保健所の人たちのこれまでの苦労は計り知れません。

なんの根拠もありませんが、おそらく来年の早い段階で新型コロナウィルスの第六波が発生するでしょう。しかし、すでに八割ほどの国民がワクチン接種を終え、来年1月からはブースター接種も本格的にはじまります。現在、日本で接種されているワクチンを3回接種すれば、これから流行が拡大するであろうオミクロン株への予防効果あるいは重症化阻止効果がかなり期待できるとされています。問題はワクチンを接種していない人たちへの感染だけです。日本では全国的なアウトブレイクにはまずならないでしょう。そして、新型コロナウィルス感染症に対する経口治療薬が出てくればもはやインフルエンザと同じ。もうひと息です。

今年も残すところあと数日。今年もいろいろなことがありました。良いことも悪いことも来年への糧にしたいですね。みなさんにとって、全世界の人々にとって、来年がさらに佳い年になりますようお祈り申し上げます。頑張りましょう。

 

コロナは終わり、ではない

一か月ほど前に「この峠は越えたか?」と題してブログを書きました。そこで私は、ワクチン接種が広がっていることを根拠に「感染拡大はやがて収束してくだろう。それは死者数の減少でより確かなものになる」と述べました。そうした私の予想は今現実のものになり、全国に広まった緊急事態宣言も次々と解除になっています。
感染者(検査陽性者)の数は激減し、重症者の数も日に日に減っています。昨年、新型コロナが感染を広げているとき、私は繰り返し「感染拡大の状況は陽性者数ではわからない。重症者の推移をもっと報道すべきだ」と主張していました。そして今、マスコミはようやく陽性者数ではなく重症者数の推移を伝えています。

世の中が明るさと活気を取り戻しつつある中、水を差すように「第六波の流行がおこるのだろうか」と新たな不安を呼び起こそうとするかのような報道があります。また、昨年はほとんど流行しなかったインフルエンザが今年は流行するだろうという一部の研究者の予測を伝えるものもあります。人々に不安を与えないではいられないのでしょうか。
新型コロナウィルスのあらたな流行も、インフルエンザの今シーズンでの流行も、さまざまな意見が飛び交っています。そのどれもがそれなりの根拠をもっていながら、いずれも確実なものではありません。いわば個人の憶測といってもいいものです。でも、これまでを思い起こして気づくべきです。「オオカミ少年がいる」ということに。

巷(ちまた)ではよく「なぜこれほどまでに流行が収束したのか」という疑問を耳にします。その理由は簡単です。「国民の多くが一斉にワクチンを接種したから」です。それまでの感染症対策を維持しながら、あれほどたくさんの人がワクチンを打てば感染者が減るのは当然です。そもそもワクチンの主な目的はそこにあります。
「ワクチンの接種者が多い欧米で再び感染者が増えているのはなぜ」という声も聴こえてきます。しかし、この質問は正確ではありません。なぜなら、「増えている」ではなくて「増えた時期もあった」だからです。たしかにイギリスやロシア、韓国などでの感染状況は小康状態にとどまっていますが、世界的には感染拡大は収束に向かっています。

国によって感染の収束に違いがあるのにはいろいろな要因があります。しかし、一番の違いはワクチンの種類でしょう。イギリスもロシアも韓国でおもに使用されているのはウィルスベクターワクチンです。日本での接種に使用されているmRNAワクチンとは作用機序が多少異なるワクチン。これらの効果の違いはこれまでも報告があがっていました。
3月からはじまったワクチン接種は、その優先順位に多少の問題はあったもののおおむね順調に進みました。そして今や、少なくとも1回の接種を済ませた人は全国民の74%を超え、アメリカの65%やイギリスの72%を追い抜いて接種率は世界の第六位です。1億人以上の人口を有する大きな国に限れば、中国の80%に次ぐ世界第二位の水準です。

アメリカやイギリスなど早期にワクチン接種を開始した国も、ある程度の接種率にいたってその数は頭打ちになっています。それは少なからず「反ワクチン」の考えを持つ人たちがいるからです。こうした人たちの存在が、新型コロナウィルスの封じ込めの障害になっていることはあきらかです。今や封じ込めが必要かどうかはまた別問題ですが。
とはいいながら、ワクチンを未接種な人の感染リスクはむしろ上昇していると個人的には思っています。それはワクチンをすでに接種した人たちが、「自分たちは感染しても重症化しない」と慢心して感染を防止するこれまでの取り組みを緩めてしまう恐れがあるからです。そうした既接種者が感染しても、それに気がつかないケースが増えてくるのです。

ワクチンを打った人が新型コロナウィルスに感染しても「通常の風邪程度」の症状しかでないことが多いようです。「新型コロナウィルス感染症=重症感染症」というこれまでの図式で考えている人にとって、通常の風邪症状ではあえて新型コロナに感染したとは思わないかもしれません。人によっては風邪薬を飲んで会社(学校)へという人も。
以前から私が繰り返してきたように、風邪薬は「風邪を治す薬」ではありません。「風邪症状を抑えてしまう薬」なのです。風邪症状を抑えれば確かにからだは楽になります。だからといって、そのまま仕事や学校に行ってしまったら、周囲の人に移してしまうリスクを高めるだけです。そうしたことに今も気が付いていない人が少なくありません。

なんの根拠もありませんが、今年もインフルエンザは流行しないと個人的には思っています。いちぶの新聞では「昨年は流行しなかった分、今年はかなり流行する」と報じられていますが、それほど心配する必要はないと思います。この二年間の新型コロナウィルスの流行を通じて、日本人が獲得した生活スタイルはそう簡単にかわらないからです。
ただ、熱発がでたとき、それが風邪にともなうものなのか、それともインフルエンザなのか。あるいは新型コロナなのかを判別するのはかなりむずかしい。検査をしたからといってその結果が正しいとはいえません。であるなら「まずは感染予防」「風邪症状が少しでもあれば休養と家庭内隔離で経過観察」という大原則を徹底させるしかありません。

新型コロナウィルス感染患者が激減し、重症者も死亡者もその数を減らしているとはいえ「新型コロナは終わり」ではありません。普段の生活は少しづつ以前のような平穏なものに戻すとして、感染対策と風邪症状のあるときの対応は引き続き慎重なものであるべきです。ワクチンを打ったとはいっても感染はします。
重症化しにくいとはいっても、ワクチンを打っていない人たちに感染させます。そうした被接種者の間での小流行は今後「第六波」として出現する可能性は十分にあります。三回目のワクチン接種の話しが聞かれるようになりました。繰り返しますが「ワクチン接種は自分のためだけではなく、周囲の人たちを守るためのもの」です。冷静かつ理性的にワクチンを考えていきましょう。