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アメリカ帝国のゆくえ

自由と平等は本来、あいいれないものです。自由が過ぎればさまざまな格差が生じ、平等に反する状況になるからです。かつてアメリカは「自由と平等、民主主義の国」でした(子どものころの私はそう思っていました)。でも、今の惨憺たる現状をみれば、自由と平等を両立することがいかに難しいかが容易に理解できると思います。アメリカ合衆国は、1620年に自由を求めて北アメリカ東部の海岸に上陸した100名余りのピルグリムファーザーズと呼ばれた清教徒たちからはじまりました(実際には清教徒は40名あまり)。

プロテスタントである清教徒はそれまで、プロテスタントでありながら実質的にはカトリックである英国国教会から迫害を受けていました。ピルグリムファーザーズたちは、アメリカに向かう船の中で、移住者たちの相互協力とともに、秩序維持のための契約を結びました。「メイフラワー号の誓い」と呼ばれるその契約は、その後、アメリカ合衆国建国の理念となりました。清教徒は厳格なクリスチャンであり、退廃した教義を純化した信仰をアメリカという新天地で実現しようとしたのです。

メイフラワー号の誓いには宗教的な厳格さがあり、入植当初の生活を支えてくれたインディアンが自分たちの「自由」をさまたげる存在になると、異端であることを理由に無慈悲に排除していきました。自分たちの自由を追求するあまりに信仰は寛容さを失っていったのです。アメリカ入植者達は狂信的に西進していき、数百万人から一千万人はいたとされるインディアンを駆逐していきました。また、同じ時期に奴隷商人から安価な労働の担い手として黒人を買い入れ、奴隷労働者として働かせるようになりました。

自由というものは、他の自由を阻害することを前提に成り立つといってもいいかもしれません。そして、結果として、自由なる者と自由ならざる者を生み出します。すべての自由が無条件でいいものではないのです。無条件の自由が認められれば、その社会はやがて無秩序におちいり、混沌と混乱をもたらします。まさに今のアメリカ、これからのヨーロッパがそれなのかもしれません。社会においてはどの程度の自由が許容され、どのような社会のあり方が平等なのかについて合意が必要なのです。

そうした合意を形成するためのシステムが民主主義です。あい対立する自由と平等をどう実現していくかについて民意を反映しようとする仕組みです。しかし、その民意が社会的に成熟していなければ、民主主義はいとも簡単にポピュリズムに陥り、衆愚政治を招くことになります。そして、人々の利害の調整が難しく、社会に不満と不信感が鬱積すると、人々は社会秩序を専制政治に求めるのです。これまでの世界史には、専制から自由、自由から専制へと政治的に大きく振れる実例がいくつもあります。

そう考えてみると、世界広しといえども、日本ほど自由と平等との間で絶妙なバランスがとられてきた国家はなかったように思います。中世のころ、どの国においても女性は劣った存在として見られていました。しかし、日本では古くから女流文学が発達し、平仮名というしなやかな女性らしさを表現する文字までもが生み出されています。そして、平仮名とともに、漢字や男性的ともいわれる万葉仮名、あるいは漢字を簡略化した片仮名などを使って、人々の思いを後世に伝える男も女もない日本独自の文化を築いていきました。

身分社会といわれる江戸時代(実際にはそうでもないのですが、ここでは話しがそれるので詳しく述べません)になっても、街のいたる所で「寺子屋」という教育が子ども達にはほどこされていました。江戸中期、日本の識字率は80%ほどだったといわれています。当時のイギリスの識字率は20%、フランスに至っては10%だともいわれており、当時の日本では学びたいと思えば身分や性別に関係なく学ぶことのできるチャンスがあったのです。日本がいかに平等だったかが理解できると思います。

私が「日本を誇りに思えること」のひとつに廃藩置県があります。これはそれまでの250年以上も統治していた江戸幕府が無血開城をし、その権力を天皇に奏上した大政奉還によってなされた武装解除のことです。全国には250とも300ともいわれた藩が一斉に統治権を天皇と明治政府に引き渡したのです。当時は100万石の加賀藩や80万石の薩摩藩はもとより、数万石ほどの小藩までさまざまな藩がありました。しかし、いくつかの藩で散発的に反乱が起こりましたが、おおむね粛々と廃藩置県に従いました。

各藩の藩主には明治政府から年金が与えられました。その一方で、臣下たちはそれぞれの俸禄に応じたわずかな一時金はもらえたものの、おおかたの人は武士という身分から一般庶民へと放り出されました。ある武士は農民となり、また別の武士は商人となるなどして人生が大きく変化したのです。身分社会の頂点にあった武士から一転して平民として生きていくことの困難さはいかばかりだったでしょうか。しかし、弱肉強食の国際社会に飲み込まれないためには、新国家に生まれ変わらねばならないことを彼等は知っていました。

仕えるべき藩主を失った武士達は、明治という近代国家建設のために獅子奮迅の働きをしました。日本の若き秀才達は、欧米に直接おもむき、有力者の助言を受け、近代国家はどうあるべきかを徹底的に研究しました。そして、自由、平等、民主主義という近代国家の諸要素を明治政府は身につけようとしたのです。と同時に、次々と欧米列強の植民地となっていくアジア諸国の非情な現実から、国際社会において独立国家として生き抜き、維持するためには国家としての強さが必要だということにも気が付いていました。

そこで明治政府は富国強兵を推進しました。と同時に、幕末に次々と締結された欧米各国との不平等条約の改定を急ぎました。すでに産業革命によって大国になっていた欧米列強。そんな彼等の植民地として隷属しないためにやむなく締結された不平等条約。しかし、日本の国富を次々と持ち出される現状を変えるためには、欧米とは法的に平等な立場になる必要があったのです。その結果、日本はアジアの雄として急速に台頭していきました。そして、それを象徴することが明治維新の25年後に起こりました。

明治維新後、日本からハワイに移民が渡っていきました。勤勉で正直、親切で宥和的な日本人移民はハワイの国王らに歓迎されていました。当時の日本はハワイを対等国家として認めた通商条約を結んでいました。一方、アメリカも捕鯨活動の重要な補給基地としてハワイに目をつけていました。イギリスやフランス、スペインもやってきました。しかし、それらの国々は、対等な条約を結んでいた日本とは異なり、武力をちらつかせて国王をおどし、ともすればハワイを植民地にしようと狙っていたのです。

すでに北アメリカ大陸の多くを国土にしていたアメリカのやり方は狡猾でした。ハワイへのアメリカ人移民を徐々に増やすと、ハワイの各地で騒乱を起こしました。そして、「アメリカ人保護」を口実に海兵隊を投入して占領しようとしたのです。そこでハワイの国王は日本に援軍を求めました。実はその5年前、日本からのさらなる移民を求めてハワイの国王は東京を訪問しました。でも、真の目的は、ハワイの王女を皇室に嫁がせたいという希望を明治天皇に伝えるためでした。それほどまでにアメリカの脅威は深刻だったのです。

結局、前例がないことを理由に、ハワイ国王の望みは叶いませんでした。しかし、日本は国王の求めに応じて東郷平八郎が率いる軍艦2隻をハワイに派遣します。日本の軍艦がハワイ沖に出現したとき、現地の人たちは涙を流して喜んだといいます。その結果、アメリカが企んでいた騒乱は一時的に影を潜めました。日本は約半年にわたってハワイに軍艦を駐留させます。ところが、翌年に日清戦争をひかえていたこともあって2隻の軍艦は撤収することになり、するとまもなくハワイ国王は追放され、とうとうアメリカに併合されました。

ハワイを併合する50年前、アメリカはメキシコから今のテキサスやカリフォルニアの土地もハワイと同じような方法で奪い取りました。当時のメキシコの領土は北アメリカ大陸の半分を占めていました。しかし、アメリカはたくさんの不法移民を国境付近に移住させ、テキサス地方を共和国として独立させるとそれを承認・併合して自国としたのです。カリフォルニア地方は戦争をして奪いとりました。今、アメリカに国境を超えて流入してくる不法移民には「ここはかつてメキシコ」という意識があるのかもしれません。

アメリカがメキシコにしたことは、今、ロシアがウクライナにしていることと同じ。メキシコ国境からアメリカに難民が流入している現在の状況も、かつてアメリカがメキシコにおこなったことと同じです。反米の立場をとる国家に対しては、今でもその国内を混乱させ、国民を扇動して政権の転覆をはかっています。あるいは日本軍が真珠湾を攻撃したときと同じように、相手国に戦争をしかけてくるよう仕向けて反撃するという方法も繰り返しています。アメリカはまさに歴史を繰り返しているのです。

世界史を俯瞰すると、これまでのアメリカの覇権主義の歴史は、共和制から帝国となったローマの歴史に酷似しています。イタリア半島の都市国家だったローマは、もともとギリシャの政治制度をもとにした共和制をとっていました。周辺諸国からの移民を積極的に受け入れ、多様な人種、宗教、文化を受け入れる鷹揚さによって発展しました。そして、ローマはゲルマン民族を傭兵として雇いいれ、重装歩兵として強力な軍隊を持つにいたると周辺諸国を屈服させて、懐柔しながら勢力を拡大していきました。

しかし、戦争を繰り返し、国家が大きくなればなるほど、豊かになればなるほど社会の格差は拡大しました。そして、ローマ民主主義の根幹をなしていた元老院や民会は腐敗し、社会には汚職や暴力が横行するようになります。その結果、人々の不満や不安は高まり、政治の機能が行きづまりはじめ、ついにオクタウィアヌスが実権を掌握して皇帝に就任。共和制ローマはローマ帝国となりました。ローマ帝国はその後、農耕を奴隷農民に、守りを異民族の傭兵に頼ります。その一方でローマの人たちの市民意識は低下するのです。

ふたたび社会に安定を取り戻して繁栄したローマ帝国でしたが、為政者の慢心と対立によって社会はふたたび混乱します。富める者はさらに富み、没落する者はさらに没落していくと、社会を支えるべき中産階級が減少していったのです。そして、国内は不安と不満に支配され、異民族の侵入をきっかけにローマ帝国は東西に分かれていきます。東ローマはビザンツ帝国となりますが、西ローマ帝国は異民族の侵入によって滅亡してしまいます。そうした様子は、エスタブリッシュメントに支配される今のアメリカの未来を暗示しているようです。

市民、国民の帰属意識は国家が存続するために重要です。強大で強力なアメリカ合衆国が維持されてきたのは、まさに合衆国に対する忠誠があればこそです。アメリカの学生は授業が始まる前に次のような宣誓をします。「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備え、分割すべからざるひとつの国家としての共和国に忠誠を誓う」と。最近は形式的に宣誓する子ども達が増えていると聞きますが、多くは移民の子孫からなるアメリカ合衆国においては帰属意識を醸成ために役立っているはずです。

アメリカ合衆国は州という共和国の集合体。だからこそ各州には州憲法があり、州最高裁判所があり、州軍や州警察があるのです。ネイティブ・アメリカンを放逐する一方で、世界中からやってきた移民とその子孫で繁栄したアメリカ。そのモザイクのような「アメリカという国家」を維持していくには帰属意識が必須です。しかし、情報網が発達し、いろいろな情報を手にすることができるようになった今、自国の「自由と正義」、「平等と民主主義」に疑問を持つアメリカ国民が増えているといいます。

アメリカの侵略と繁栄の歴史には、合衆国憲法が宣誓する「自由と正義」、「平等と民主主義」とは相容れない側面があります。第二次世界大戦後、とくに近年においてはとくに顕著になっているようにも見えます。現在のアメリカは、その「自由と平等」や「正義」がBMLやLGBT運動に代表されるポリティカル・コレクトネス(政治的に偏った「正当性」)によって変質しています。それはまるで「おぞましい自由」と「倒錯した平等」によって「正義」が乗っ取られてしまったかのようです。

我が国我が国もそうした傾向が顕著です。それは日本の政治家がバカだからなのですが、日本人の多くが戦後教育を受けてきた人たちで占められるようになったこととも無縁ではありません。戦前の教育にも誤りはあったにせよ、戦後の教育にはそれよりも遙かに深刻な問題があると思います。それを論じることは今回の主題ではないので控えますが、戦後教育によって日本人はものを考えなくなったように思います。たやすく周囲にながされる鈍感な国民を量産したのです。まさに53年前の三島由紀夫の予言どおりの日本があるのです。

歴史の転換点ともいえる今、アメリカの行く末は日本の行く末でもあることを再認識すべきです。日本で起きていることはもちろん、世界で起きていることに刮目し、自分のあたまで考え、判断できる日本人が増えなければ、混沌とする世界に日本は飲み込まれて消滅してしまいます。無関心に逃げ込まず、かといって教条主義に陥らず、何人にも利用されず、誰からも強制されない思考力をもちたいと思います。それが本当の意味での自由であることであり、真の平等をもたらすことだからです。

 

風邪は治るが、治せない

新型コロナはもちろんインフルエンザの患者もだいぶ減り、一日に一人いるか、二人いるかという程度になりました。「風邪の症状があるのですが、どうしたらいいでしょうか」という問い合わせの電話の数も少なくなってきました。松戸保健所から定期的に届く感染情報では、いったん減少したインフルエンザ患者がふたたび増加に転じたりとその傾向は一定していないようです。しかし、ここ最近の当院の流行状況を見ても、インフルエンザも新型コロナもやがて減少に転じることでしょう。

当院では、風邪症状の患者さんが来院した際に、空間的な、あるいは時間的な隔離をおこなっています。つまり、待機する場所や診察・検査をする場所、あるいは来院してもらう時間などを調整しているのです。それは一般の来院患者さんに感染を広げないための工夫です。人によってはこうした工夫を不愉快に感じるかもしれません。しかし、感染症は流行を拡大させないことが重要です。感染症の患者さんの診療をするからには、そうした対策を講じなければならないことをご理解いただければ幸いです。

風邪やインフルエンザ、あるいは新型コロナウィルスについては繰り返し記事にしてきました(右上の検索エンジンで過去の記事を検索して下さい)。皆さんに知っていてほしいことがらは、以前も今もほとんどかわりません。この間、なんども同じ説明をしているにもかかわらず、なかなかわかっていただけないこともありました。しかし、世界的なパンデミックがようやく落ち着きはじめた今、あらためてかつてのブログを読んでもらえれば、冷静になって理解してもらえるのではないかと思います。

今回、これまで書いてきたことを少しまとめてみます。そして、医学知識のない一般の人が未だに勘違いしていること、あるいは、思い込んでいるにすぎないことを再認識するきっかけになれば、と思います。なお、必ずしも「絶対的に正しいこと」として書いていません。ですから、これから説明することを皆さんに押しつけるつもりはありません。また、私の主張が、これを読んで下さる方々のかかりつけ医の方針と異なっていたとしても、その医師の診療を批判するものでは決してありませんので悪しからず。

 

すでにご存知の方が多いと思いますが、いわゆる「風邪症状」とは、鼻水や咽頭痛、咳や熱といった症状の組み合わせをいいます。症状はおおむね軽い場合が多いかもしれません。原因はライノウィルスやコロナウィルスといったウィルスが感染しておこります。ウィルスは細菌と異なり自己複製ができず、感染した人の鼻やのど、気管の粘膜から侵入し、寄生した細胞にウィルスを複製させて増殖します。一般的に風邪の原因となるウィルスには、細菌に対する抗生物質のような特効薬はありません。

治療薬がない以上、風邪はからだに備わっている免疫力で治すしかありません。その免疫の中心的な役割をはたしているのが白血球(とくにリンパ球)です。からだがウィルスに感染すると炎症物質が作られ、その炎症物質が白血球を活性化し、体内に侵入してきたウィルスを排除しようとするのです。そして、ウィルスが排除されたのちも、しばらくは同じウィルスの感染に迅速に対応できるような状態が残ります。これが「免疫」と呼ばれるものです。ワクチンはこの免疫反応をおこさせるための物質です。

繰り返しますが、風邪(やインフルエンザ、新型コロナといったウィルス感染症)には特効薬というものがありません。つまり、風邪薬という名前の薬は「風邪を治す薬」ではないのです。風邪薬とは「風邪症状をごまかす薬」であるといってもいいほどです。ましてや「早めに飲めばひどくならない」というものでもありません。むしろ「風邪薬は早めに飲むと風邪が長引いたり、飲み続けると重症化を見逃すかもしれない薬」だとも言えます。風邪症状がつらくなければ飲まなくてもいい薬なのです。

その理由をもう少し詳しく説明してみましょう。感染症のときに熱がでるのは、からだの中に炎症物質が産生されるからです。この炎症物質が白血球を元気にしてくれます。その元気になった白血球がウィルスと戦ってくれるわけです。頭痛も炎症物質による症状です。熱がでたとき、あるいは頭痛のときに解熱・鎮痛剤を処方するのは、それらの薬が炎症物質の産生を抑制するからです。したがって、早めに、あるいは安易に解熱剤や頭痛薬などを服用すれば、白血球が十分な働きをしてくれないことがあるので注意が必要です。

つまり、「風邪かな?」と思ったからといって早めに風邪薬を服用すると、かえって風邪を治りにくくすることにもなるのです。それは風邪薬の中に解熱・鎮痛剤の成分が入っているからです。「熱がでたらすぐに解熱剤」という、多くの人にとって「当たり前のこと」は実は当たり前ではないのです。要するに、症状が軽いときの風邪に薬は不要なのです。他の人に感染を広めぬよう、安静にして体力の回復につとめ、寝ていればいいだけ。「風邪薬を飲みながら仕事(学校)に行く」なんてことはすべきではありません。

 

ただし勘違いしないでください。「薬を飲んではいけない」と言っているのではありません。症状が辛いのであれば服用して結構です。咳がつらいのであれば鎮咳薬を服用して下さい。発熱や頭痛だってつらければ解熱・鎮痛剤を服用してもいいのです。安易に、そして、定期的に一日三回服用してはいけないというだけです。「薬を毎日、しかも一日三回服用しなければ症状がよくならないときはどうするのか」とお思いの方もいるかもしれません。そのときは医療機関に電話をして相談すればいいと思います。

もちろん解熱・鎮痛剤を飲んではいけないケースもあります。まず、インフルエンザのときにロキソニンやボルタレンという商品名で呼ばれる解熱鎮痛剤を小児に服用させてはいけません。インフルエンザ脳症になりやすいことが知られているからです。インフルエンザ検査が陰性であっても、安全のためにこれらの解熱・鎮痛剤は使用しない方がいいでしょう。そのようなときはアセトアミノフェン(カロナール)という薬を使います。でも、痛み止めとしては弱い薬なので頭痛にはあまり効かないかもしれません。

では、アセトアミノフェンなら安心かといえば、必ずしもそうではありません。とくに妊娠後期の人にはアセトアミノフェンはできれば避けたい解熱・鎮痛剤です。お腹の中の胎児にとって重要な「動脈管」という血管にトラブルを生じる可能性が指摘されているためです。しかし、アセトアミノフェンを服用しても、必ずそのトラブルが起こるわけではありません。大切なことは、アセトアミノフェンだからといってむやみに服用して解熱しようとしたり、症状が軽いのに安易に使ったりしないことが重要だということです。

風邪になるとすぐに医療機関を受診する人がいます。「早期発見、早期治療」だからでしょうか。しかし、薬は症状に応じて処方内容が異なるため、症状がある程度そろってから受診した方がいいと思います。風邪症状があまりにもつらいとき、あるいは発症4日目に入っても改善傾向が見られない場合に受診すればいいのです。発症早期、あるいは軽症の方からの問い合わせに、「明日まで経過観察を」と指示することがあります。「なぜすぐに診てもらえないのか」と不機嫌になる人もいますが、意地悪をしているわけではありません。

インフルエンザや新型コロナの検査も同じです。しかし、これらの検査は「からだからあふれ出てきたウィルスの痕跡(抗原)」を検出するものです。症状がでてきてすぐに検査をしても、まだウィルスがからだからあふれ出てきていなければ検出できないのです。当院では「熱発(高熱)が出現しておおむね24時間が経過してから」と指導しています。どうしても早く知りたいときは従来のPCR検査が適していますが、重症でない限り早めに診断しなければならないようなケースは今はほとんどありません。

現在おこなわれているPCR検査の感度はかなり向上しています。新型コロナウィルスの検査がはじまったころは感度も特異度もそれほど高くはありませんでした。しかし、PCR検査の精度はどんどんと向上し、今はウィルスの断片があっただけで検出してしまうほどになりました。擬陽性の問題も決して無視できないほどになっているのです。新型コロナウィルスが流行し始めた頃、「できるだけ早く検査、なんどでも検査」といっている医師がいましたが、それがいかにいい加減なことだったかが今はおわかりいただけると思います。

 

今、サプリメントの健康被害のことが話題になっています。その健康被害が本当にあったことなのか、それとも過剰反応だったのか、結論がでるのにはもうしばらく時間がかかるでしょう。しかし、サプリメントが安易に使用されている現代社会のあり方に警鐘を鳴らす一例にはなったと思います。それは不要な薬をたくさん服用している患者さんにも、あるいは「薬はからだに悪い」という週刊誌レベルの言説に振り回され、必要な医薬品を服用せずにサプリメントに頼っている人にも警鐘になったかもしれません。

結論。風邪は自然に治ります。からだの中の白血球が戦ってくれるからです。風邪薬で治すことはできないのです。よもや「風邪を一発で治す薬」などありません。風邪にかぎらず感染症は本来ツラいものです。薬は症状を軽減するためのもの。点滴などは単なる水分補給の意味しかありません。水分補給のためだけなら経口からの方がよほど安全かつ確実です。抗生物質は細菌性の肺炎(あるいは扁桃炎など)を疑うときに処方することがあります。ウィルスが原因である風邪に対して処方しているのではありません。

なにが正解なのかは私たち医師にもわからないことがあります。そもそもケースによって対処法が異なる場合であればなおさらです。絶対的な正解はなくとも、「こうすべき」という標準的な指針はあります。我々はその標準的な指針にしたがって診療をしなくてはなりません。世の中にはいろいろな情報が飛び交っています。その情報はまさに玉石混淆。だからこそ、「世の中に流布されている情報は常に批判的に見るようにする」ことが大切。私が書いているこれらの記事の内容もまたしかり、です。

歴史の転換点(5)

2004年の「オレンジ革命」後、ウクライナとロシアとの関係が急速に悪化したことはすでに述べました。思えば、1998年にロシアも西側のG7に加わるようになり、ロシアとヨーロッパとのエネルギー供給をめぐる結びつきもより強固になっていきました。にもかかわらず、ソ連が崩壊すると、ポーランドやルーマニア、バルト三国やジョージアまでもが次々とNATOに加盟し、まるでNATOがロシアを包囲していくかのようでした。警戒したプーチン大統領はそのNATOの東進をやめるよう西側に繰り返し伝えました。

2010年以降のウクライナ国内、とくにクリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立は激化し、ロシア政府にとって看過することの出来ない「ロシア系住民に対するネオナチ活動」となりました。ロシア系住民たちがロシアに保護を求めるほど激しいものであったといわれています。2014年、ついにロシアはその求めに応じて軍をクリミアに侵攻させました。そして、クリミア半島では住民投票がおこなわれ、「ウクライナからの独立」を宣言したのです。それを受けてロシアはクリミアの独立を承認して併合しました。

ウクライナ東部のドンバス地方を中心とした戦闘も激化しました。そして、ドイツやフランスが仲介して戦闘を停止させる議定書が、ウクライナとロシアの間で「ミンスク合意」として締結されたのです。戦闘を停止させ、武装集団および軍備を撤収させた上でドンバス地方の自治を保証すること。さらに人道的な問題点を解決し、経済の回復と復興を進めることなどが合意されました。しかし、ミンスク合意はまったく守られず、ウクライナとロシアの双方が「責任は相手にある」と批難し合う状態が続いたのです。

当初はロシアが一方的に合意を無視したと報道されましたが、後になって仲介したドイツのメルケル首相が、「ミンスク合意は、ウクライナに時間を与え、同国が軍事的により強くなるために利用した」と目的を明らかにしています。つまり、ミンスク合意は、ウクライナがアメリカや西側諸国からの軍事的支援を受け、ウクライナ軍を訓練するための時間稼ぎに過ぎなかったのです。かくしてロシアのプーチン大統領は2022年にミンスク合意を破棄し、ドンバス地方の独立を承認しました。

その後、ロシア系住民を保護するための「特別軍事作戦」として、ロシア軍がウクライナとの国境付近に集結させました。しかし、アメリカと西側諸国はなぜか静観する姿勢を続けました。ロシアがさらに侵攻の準備を進めても、アメリカ軍やNATO軍はウクライナに軍隊を派遣するつもりはないと発表。ついにロシア軍がウクライナに侵攻すると、西側諸国は一斉にロシアに強く抗議しました。それに対してロシアは、撤退の条件としてNATOのウクライナへの拡大をやめ、ロシア国境付近へのミサイル基地を建設しないことを求めます。

しかし、そうしたロシアの主張は無視され、ウクライナ戦争は拡大していきました。そして、今や、ウクライナとロシア双方に多数の死傷者を出し、ウクライナのインフラは甚大な被害を被っています。欧米各国はウクライナ軍に武器と兵器を提供し、さらなる軍備を整えるための多額な資金を投じています。でも、ウクライナがロシアとの戦争に要したお金の多くは、アメリカの軍産複合体に戻り、それがエスタブリッシュメントを潤しているのです。ここにアメリカが戦争を継続する理由が透けて見えてきます。

当初、戦争を仕掛けてきたロシアに対する厳しい経済制裁は、速やかに効果をもたらして、ロシア経済を揺さぶり、武器生産能力に打撃をあたえると多くの識者が考えていました。しかし、実際にはそうはなりませんでした。むしろ、現在のウクライナとロシアの兵力の差は10倍にもなっているとされます。優勢だと伝えられてきたウクライナ軍でしたが、現在は圧倒的な劣勢に陥っているとの情報もあります。ウクライナ軍の兵力も枯渇しつつあるとの報道すらあります。もはやウクライナは疲弊しているのです。

 

最近、ロシアの「反体制派」とされるナワリヌイ氏が刑務所で死亡したと報道されました。ロシアが刑務所で病死を装って殺害したのではないかと疑う報道があります。しかし、ナワリヌイ氏はプーチンの政敵ではありません。彼はスラブ民族主義の活動家として、反アジアの思想をもち、ロシア人だけの国家の樹立をめざしていました。アメリカはロシアをいくつかの国家に分割して弱体化させる戦略をもっているといいます。ナワリヌイ氏はそうしたアメリカの戦略に利用されただけなのではないかともいわれているのです。

事実、ナワリヌイ氏側がイギリスの諜報組織(MI-6)と接触し、ロシア国内に「革命」という名の反政府運動を起こすため年間1000万~3000万ドルを用意するように交渉する様子が報道されています。しかもナワリヌイ氏が死亡したのがタッカー・カールソンとプーチン氏とのインタビューの直後。ナワリヌイ氏をうとましいと思っているプーチン大統領が処刑したのか、それともプーチンのインタビューによって分の悪くなった西側によって暗殺されたのか。あるいは単なる病死なのか。今のところ真相は不明です。

プーチン大統領はインタビューで、「欧米が軍事援助を停止すれば戦争はいつでも終わる」といいました。「われわれは和平交渉を拒否していない」ともいっています。ウクライナ戦争がはじまってまもなく、ウクライナとロシアの間で和平交渉が検討されました。しかし、当時のイギリスのボリス・ジョンソン首相がウクライナを訪れ、ゼレンスキー大統領に和平交渉を断念させたともいわれています。ジョンソン氏はそれを否定していますが、彼はウクライナ戦争に関するインタビューには今も応じていません。

 

ロシアのウクライナ侵攻をやむを得ないことだとは思いません。いかなる理由、どのような歴史的背景があろうと、武力で現行の国境を変更することは認めてはいけないのです。今回の戦争に対する直接的な責任はロシアにあります。その一方で、すべての責任がロシアにあるわけではありません。善・ウクライナ、悪・ロシアとは言い切れないのが今回のウクライナ戦争。NATOを強引に東進させた欧米にも責任があり、世界の覇権を目指すアメリカの戦略が今回の戦争の引き金になっていることも否定できないのです。

ウクライナ戦争がはじまったとき、私は「まるで真珠湾攻撃のときのようだ」と思いました。ロシアの人口の半分にも満たないウクライナが、軍事的にも優位な大国ロシアを相手に国家・国民を守ろうと戦っている。それが圧倒的に巨大な国・アメリカに挑む日本に重なったのです。また、アメリカの世界戦略に翻弄され、戦争をするところにまで追い詰められたロシアが、東アジアでの覇権をめぐってアメリカと戦争をするしか選択肢がない状態にまで追い込まれた日本のように見えたのです。

一方、ロシア系住民を保護するために侵攻したロシア軍は、第二次世界大戦時にポーランドに侵攻したドイツ軍のようにも見えます。大戦前、ポーランドがドイツに分割されたとき、多数のドイツ人がポーランドに移り住みました。そのドイツ系住民が迫害されているというのが侵攻の理由でした。しかし、後年、ドイツ人の迫害は実際にはなかったことが明らかになっています。同じように、今回のロシア軍がウクライナを侵攻のした目的が本当に「ロシア系住民の保護」だったのか。不信感は拭い切れません。

そんな複雑でナイーブなウクライナ戦争は早くも3年目を迎えました。この間、たくさんのウクライナ人が亡くなりました。とくに兵士として戦場に送られた青壮年の男性人口が激減しているのです。社会インフラも寸断され、戦場となった地域の復興にも莫大な費用が必要とされています。戦争が今終わったとしても、ウクライナの復興に必要な費用は70兆円を超えるだろうと試算されています。ウクライナの国民はもちろん、国家としての基盤もゆらぎはじめ、そろそろ限界だという噂もながれています。

ウクライナへの軍事援助・資金援助もアメリカの議会を通らなくなってきました。ヨーロッパ各国の支援も滞っています。そんな閉塞感の中で、日本からの資金援助に対する期待感が高まっています。日本は憲法の制限によって軍事的貢献ができないからです。期待されている額は数兆円にも上るとされています。台湾への中国の侵攻も現実味をおび、日本がそれに巻き込まれて有事となれば、西側諸国からの援助を得なければなりません。その保険という意味でもなんらかの貢献をすることが必要なのです。

しかし、日本が貢献すべきことは資金援助だけなのでしょうか。1991年に勃発した湾岸戦争のとき、日本が味わった屈辱を思い出してください。日本はアメリカ・ブッシュ父大統領の要請を受け、戦費を一部負担するため90億ドル(約1兆2千億円)を支出しました。また、湾岸戦争が終結したあと、国内での猛烈な反対運動の中(なぜ反対するのか理解できませんが)、日本は機雷を除去する掃海艇を派遣しました。にもかかわらず、「金は出したが、汗も血も流さなかったから」との理由で評価されることはありませんでした。

今回のウクライナ戦争への支援として、アメリカ・バイデン大統領から岸田首相に総額で約6兆円を超える額が密かに提示されているともいわれています。そして、岸田首相はそれを内諾しているとの報道もありますが、これらがウクライナ国民にとってどのくらい意味のあるものかよく検討する必要があります。アメリカの武器や兵器を購入する費用に消えてしまうだけでは意味がないのです。ウクライナのためになるのはもちろん、ロシアにとっても役立つような支援でなければなりません。我々の大切な税金が原資なのですから。

日本は今こそ「まともな国」に立ち戻らなければなりません。自分の国は自分で守れる国。安っぽい理想を掲げるだけではなく、現実的な役割をはたすことのできる、成熟した国家になるべきです。そして、他国の不幸に手を差しのべ、国際社会の一員としての義務をはたす国になるのです。衝突する国々があれば日本が調停し、西側でもなく、東側でもない、アジアの雄だからこそ可能な国際貢献をすることが重要なのです。真の「平和国家」とはそういう国家だと思います。

そのためには日本が、軍事的にも、外交的にも、また、国力という点からも、経済大国としてふさわしい自立した国家に生まれ変わることが必要です。日本にとっての「歴史の転換点」にはそんな意義があるのではないでしょうか。210年にもおよぶ鎖国状態から、国際社会の一員として再出発することを日本が決意したのが明治維新です。このとき明治天皇と明治政府が、国民に、そして、世界に向けて宣言した「五箇条のご誓文」をあらためて読み返してみてください。日本がいかに志の高い国だったかがわかると思います。

「五箇条のご誓文」

一、広く会議を興し、万機公論(ばんきこうろん:民主的な議論)に決すべし。

一、上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん:国家の政)を行なうべし。

一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志をとげ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

一、旧来の陋習(ろうしゅう:悪い習慣)を破り、天地の公道にもとずくべし。

一、智識を世界に求め、おおいに皇基(こうき:国家の礎)を振起すべし。

 

歴史の転換点(4)

ソ連が崩壊するまでの社会主義諸国は、経済は疲弊し、政権の腐敗も、もはや修正不能な状況にまでなっていました。そのような中でソビエト共産党の改革派ミハイル・ゴルバチョフは、グラスノスチ(政治改革)とペレストロイカ(情報公開)を導入し、経済を自由化して国家を活性化しようとしました。また、彼は共産党を維持しつつ、ソビエト連邦をゆるやかに結びつけ、アメリカ合衆国のような国家の共同体を作ろうとしました。しかし、それは元に戻すことのできないパンドラの箱を開けることでもありました。

1991年、ゴルバチョフの改革は失敗し、ソビエト共産党は消滅し、ソ連自体も崩壊してしまいました。すると、東側諸国は次々と分離独立を宣言。それまでの社会主義を捨て、西側の一員になろうとしたのです。しかし、それまで民主主義を知らず、独裁主義国家で生活してきた人たちにとって、「自由」はまさに「蜜」の味でした。共産国家のとき以上に汚職がはびこり、企業の私物化がはかられ、貧富の差が一気にひろがりました。そのありさまは共産主義の時代を懐かしむ人さえ出てくるほどのものでした。

そんな混乱を若きプーチンはどう見ていたのでしょうか。きっと祖父や父親から聞かされてきたソ連・ロシアの栄光がガラガラと崩れていくように感じたに違いありません。ソ連崩壊後、ロシアの国営企業が次々とアメリカ資本にただ同然の値段で売却されて外国企業になっていきました。民主主義や資本主義の現実を突きつけられ、プーチンは祖国ロシアをどう救えばいいのだろうかと思ったはずです。だからこそ、2000年にプーチン氏が大統領となって断行したのが民営化されたロシア国内企業の再国営化でした。

アメリカ資本といってもその多くがユダヤ系でした。国内の新興財閥もオリガルヒと呼ばれるユダヤ系のものであり、そのオリガルヒが富を独占する一方で国民の暮らしがなかなかよくなりませんでした。そこで、プーチンは財閥の解体にも乗り出します。このままではロシアが外国資本に乗っ取られてしまう。そんな危機感がプーチン大統領にあったのかも知れません。そのような中にあって、プーチン大統領はなんどもEUやNATOへのロシアの加盟を打診しました。しかし、その打診はことごとく拒否されました。

ロシアには世界有数の資源があります。冷戦終結後、その豊富な資源にドイツやイタリア、オランダ、スペインなどが依存するようになりました。石油や天然ガスなどがほとんど出ないウクライナも、ずっと以前からロシアの資源に依存してきた国のひとつでした。ロシアがヨーロッパに向けて敷設したパイプラインの中継基地として、ウクライナは格安の値段で供給を受けていたのです。しかもその一部を盗み取って売るという利権すら存在していました。しかし、ロシアはこれまでそれを黙認していました。

ウクライナは冷戦の終結とともに、ソ連の核兵器を手放し、「平和国家」として独立する道を選びました。そして、EUへの加盟とともにNATOへの加盟を望んだのです。ソ連が崩壊したとき、ブッシュ父はゴルバチョフに「NATOを1ミリたりとも東に進めない」と約束しました。にもかかわらず、アメリカをはじめとする西側諸国は、ロシアの緩衝地帯にあるバルト三国を、そしてポーランドやルーマニアといった国々をEUに加盟させ、NATOの加盟国にしていきます。それはロシアにとって国際信義に反することです。

 

NATOの東進がついにウクライナにも及びます。2004年、ウクライナの大統領選挙において、ロシアとの友好関係を重視するヤヌコビッチが当選しました。すると、投票に不正があったとする大規模な暴動が国内各地でおこりました。混乱ののちに再投票がおこなわれ、EU・NATO加盟を公約したユシチェンコが大統領に選ばれます。これが「オレンジ革命」です。ユシチェンコはEU・NATOへの加盟を加速させるとともに、ロシア語を禁止するなど反ロシア政策ともいえる法律も通そうとしました。

かくしてウクライナでの親欧米派と親ロシア派の対立が深まっていきました。このような対立を煽った背景には、アメリカのユダヤ人投資家であるジョージ・ソロスやウクライナ新興財閥(多くはユダヤ系ウクライナ人が創設)の多額の資金提供があったともいわれています。また、当時のアメリカ政府のヌーランド国務次官補(現在のバイデン政権では国務次官:彼女もウクライナからアメリカに移住してきたユダヤ人)がウクライナの大統領選挙に関与したこともオバマ大統領が後に認めています。

そんな親米派のユシチェンコ政権も内部崩壊していきます。ウクライナの内政に干渉する欧米諸国に嫌気が差す閣僚が続出した結果だともいわれています。政権の混乱によって国民の支持率を大きく落としていきました。そして、2010年の大統領選挙では再び両者が立候補しましたが、ふたたび親ロ派のヤヌコビッチが当選するという皮肉な結果となりました。しかし、今度もまた混乱が生じて収束しませんでした。その結果を不服としたデモ隊の反政府運動は拡大し、ウクライナ全土が騒乱状態となったのです。

国内の混乱はヤヌコビッチ大統領が東ウクライナに退避するところまで拡大しました。そして、ついにヤヌコビッチは政権を放棄する事態になりました。これを西側は「マイダン革命」あるいは「尊厳革命」と好意的に呼びます。しかし、この混乱に乗じて、ロシア系住民の多いウクライナ東部のドンバス地方やクリミア半島では、アゾフ大隊と呼ばれるウクライナ民族派グループがロシア人を襲撃するという事件が頻発しました。少なくない数のロシア人が虐殺されたともいわれていますが、その真偽は定かではありません。

クリミアは歴史的に特殊な地域です。クリミア半島は温暖な保養地としても有名でしたが、かつての帝政ロシアが勢力を南下させる足がかりとして重要な軍港セバストーポリを作りました。そして、早い段階からロシア人が移住し、今でも住民の多くがロシア系の人たちです。しかも、ウクライナ語を話すウクライナ人と共に、かつてクリミア半島周辺を広く統治していたモンゴル・タタール人の少数民族も住むなど、ソビエト連邦の時代から他民族によるクリミア・ソ連自治共和国となっていた地域でした。

ところが、第二次世界大戦中にタタール人が追放されて共和国は廃止されます。そして、ソ連・ロシア社会主義共和国直轄のクリミア州となりました。それはクリミア半島の戦略上の重要性を考慮してのことです。その後、ウクライナ出身のフルシチョフがソ連の最高権力者になると、1954年にクリミアがウクライナ・ソ連社会主義共和国に移管されます。これはフルシチョフ自身の故郷であるウクライナへの配慮だとも、豊かで広大な国土をもつウクライナとソ連との結びつきを強固にする狙いがあったのだともいわれています。

しかし、ソ連が瓦解をはじめると、クリミアの住民はソ連からの独立を求めました。そして、1992年になるとウクライナからも独立することを決議し、再びクリミア自治共和国となることを宣言します。以後、クリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立が激化するようになりました。しかし、1996年にウクライナで独立国家としての憲法が制定されると、ウクライナ国内でのクリミア自治共和国の地位が保証されました。このようにクリミアでは常にウクライナからの独立問題がくすぶる状態が続いていたのです。

ウクライナ国内の親欧米派と親ロシア派の対立は拡大していました。すでに説明したとおり、ポーランドに近いウクライナ北西部の地域はロシアに対する拒否反応が強い地域であり、ウクライナ語を話す人たちが多く住んでいます。一方の南東部はかつて「ノボロシア(新ロシア)」と呼ばれたロシア系住民の多い地域。とくにロシアと国境を接するドンバス地方はロシア語を日常的につかう住民が多く住んでいます。ドンバス地域ではアゾフ大隊によるロシア系住民の襲撃が続いていたともいわれています。

そうしたドンバス地方のロシア系住民を救出する「特別軍事作戦」が今のウクライナ戦争だとプーチン大統領は主張しています。この間、ドンバス地方の独立を承認し、ノボロシア全域をロシアの支配下に置こうとする作戦が進行しています。それに対してウクライナは欧米からの資金と軍事的な援助を得て、ロシア軍を押し返すべく反攻しています。しかし、圧倒的な軍事力をもつロシアに、ウクライナも徐々に劣勢になりつつあるというのが現状です。これまで支援してきた欧米にも次第に「援助疲れ」が見えます。

 

こうしたウクライナ戦争のゆくえに大きく影響しているのが、先に述べた「タッカー・カールソンとプーチン大統領の独占インタビュー」です。これまでマスコミが報じてこなかったことがいくつかここで明らかになったのです。例えば、前述したように「ウクライナはロシアにとって特別な場所」とプーチンが考えていること。あるいは「ロシアはなんどかEU加盟、NATO加盟を打診したがアメリカに拒否された」こと。さらには「プーチンはなんどもNATOの東進をやめてくれと頼んだ」こと、などがそれです。

その会見では、トランプ大統領のスキャンダルとして報道されてきたことのいくつかが、今回のウクライナ戦争とは無関係ではなかったこともわかりました。まさに今回のインタビューによって「これまで点でしかなかったことが線で結びついた」のです。トランプ氏とヒラリ・クリントン氏との選挙戦はまさに「舌戦」でした。公開討論会ではお互いを激しく非難する場面もあり、「史上最低の討論会」と呼ばれるほどでした。でも、このやりとりの裏には大きな真実が隠されていました。

皆さんは「エスタブリッシュメント」と呼ばれている人たちをご存じでしょうか。エスタブリッシュメントとは社会システムを支配し、自分たちに利益誘導をする構造および既得権益者のことを差します。大企業や有名政治家、大資本家や官僚機構、弁護士会や医師会などをふくめた、社会に働きかけることができる人たちがそれです。最近では、そうしたエスタブリッシュメントを監視するはずのメディア、あるいは、肥大化し、権力をもった社会的弱者団体までのさまざまなものがエスタブリッシュメントと化しています。

ヒラリー・クリントンは以前からクリントン財団を作り、アメリカ国内のさまざまなエスタブリッシュメントのみならず、諸外国政府や企業とのコネクションを使って多額の寄付を集めていることが知られています。クリントン財団は非営利財団で、もともと「クリントン記念図書館」を設立するために作られ、表向きは「慈善事業」を支援することを目的にしていました。しかし、実際には当時の民主党ヒラリー・クリントン国務長官(日本の外務大臣)の職権を利用した多額の寄付金の受け入れ先になっているのです。

アメリカが戦争をするときの歴代大統領に民主党出身者が多いのをご存じでしょうか。第一次世界大戦や第二次世界大戦に参戦したのも民主党の大統領のとき。第二次世界大戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争も民主党の大統領のときです。東欧諸国を巻き込んだボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とコソボ紛争もそうでした。「革命」によって政府を転覆させようとアメリカが介入したリビアやシリアでの大規模な内乱も民主党の大統領がサインをしたものです。共和党の大統領が関与したのは湾岸戦争・イラク戦争ぐらいです。

それは民主党が軍産複合体と呼ばれるエスタブリッシュメントと密接な関係にあるからだといわれています。海外で大規模な戦争をし、武器や兵器を消耗すれば軍需産業は潤います。現在のアメリカの軍事費はおよそ8700億ドル(130兆円)、世界の軍事費の約40%を占めます。日本の国家予算にも匹敵する軍事費を背景に、アメリカの軍産複合体とその関連企業は莫大な利益をあげているのです。武器・兵器もやがて老朽化します。戦争には兵器の在庫処分という側面もあるのです。ウクライナへの武器供与もその一例です。

ヒラリーとトランプによる大統領選挙中、「ヒラリー・クリントンのメール問題」というスキャンダルが報じられました。当時、国務長官だったヒラリー・クリントンは、情報の機密性を保持するため政府専用のサーバーを使ってメールのやりとりをしなければなりませんでした。それは在任中のすべてのメールを、後年になって歴史的に検証できるようにするためです。しかし、ヒラリーは個人のサーバーをつかってメールのやりとりをしていました。そのことを暴露したのがウィキリークスでした。

ウィキリークスはジュリアス・アサンジ氏(性的暴行容疑でイギリス政府に逮捕され、拘置所に収監中。現在、アメリカに引き渡しを要求されている)が設立しました。匿名のまま機密情報を公開することができるウェブサイトです。ヒラリーの個人的サーバーを何者か(ロシアの情報機関ともいわれています)がハッキングしてウィキリークスに投稿したのです。その結果、ヒラリーが中国を含むさまざまな国家や企業とやりとりをし、密かに多額の報酬や寄付を得ていることが明らかになりました。

トランプは繰り返しこの問題をとりあげました。しかし、メディアはヒラリーの疑惑を深掘りすることなく、むしろ、トランプ氏とロシアが共謀してヒラリー・クリントンの追い落としを企んでいると報道しました。しかし、実際には、ヒラリーと民主党がイギリスMI-6の元職員に多額の報酬を支払い、「トランプとロシア政府が共謀していた」という偽報告書を創作させ、報道させていたのです。結局、ヒラリーのメール問題は政府内で調査されましたが、「重大な嫌疑は見いだせなかった」という結論で終わりました。

また、アメリカのメディアは2020年の大統領選挙において「トランプ大統領がウクライナに圧力」という報道をしました。そして、トランプ大統領がウクライナ政府にバイデンの情報を調査するよう圧力をかけたとして、アメリカ議会が「アメリカの安全保障を危険にさらす職権乱用」の罪に問うて訴えたのです。しかし、メディアは「トランプ大統領がウクライナに調査を要求した内容」を報道することよりも、「他国に圧力をかけるトランプ大統領」というイメージを作る報道を恣意的に繰り返しました。

それはトランプ大統領がウクライナに要求した調査の内容が、「バイデン父子のウクライナにおける利権」に関わることだったからです。バイデンの息子ハンター氏は、ウクライナのエネルギー会社大手ブリスマの役員となり多額の報酬を受けていました。そのブリスマの不正をウクライナ検察が捜査しようとしていたのです。しかし、当時副大統領だった父ジョー・バイデンは「捜査を中止し、検事総長を辞任させなければアメリカは軍事支援を停止する」と圧力をかけました。トランプはその調査をウクライナに求めていたのです。

タッカー・カールソンとプーチン大統領のインタビューの感想を求められたヒラリーは「(タッカー・カールソンは)子犬のように役に立つバカ」と酷評しました。一方のバイデンは、すでに「歴史の転換点(3)」でもご紹介したようにプーチンを口汚く罵りました。こうしたヒラリーやバイデンのヒステリックな反応は何を意味しているのでしょう。また、ヒラリーやバイデンの疑惑は深掘りしないばかりか、トランプのイメージダウンを狙うかのような報道を繰り返すメディアの意図はどこにあるのでしょうか。

報道されないことがあります。そして、その報道されないことを「フェイクニュース」、あるいは「陰謀論」と一蹴する人も少なくありません。しかし、メディア・報道機関もエスタブリッシュメントのひとつであることを知るべきです。とくにBLM運動以降のアメリカのメディアの偏向ぶりには疑問を持たざるを得ません。それはまるで真実を報道する機関というより、イデオロギーの宣伝機関かのようだからです。ときには特定のポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)に支配されているようでさえあります。

とても長い記述になりましたが、最後に「歴史の転換点(5)」でウクライナ戦争を総括します。

 

歴史の転換点(3)

今、アメリカでは11月の大統領選挙に向け、民主党・共和党両党の候補者を決める選挙がおこなわれています。民主党の候補には現職バイデン大統領が有力とされていますが、アメリカ合衆国大統領として最高齢であり、また、認知症の可能性も指摘されています。そのため、これからさらに4年間、大統領としての職責をバイデンがはたせるか疑問視する意見も少なくありません。「それなのになぜ民主党はそのようなバイデン氏を候補者にするのか?」についてはさまざまな憶測を呼んでいます。

一方の共和党の大統領候補として有力なのがドナルド・トランプ氏です。現状での共和党の候補者はほぼ彼で決まりだと思います。しかし、トランプ氏もすでに77歳であり、決して若い候補者ではありません。2016年の大統領選挙で彼は、事前の予想を覆して第45代合衆国大統領に選ばれました。日本のメディアを通じてアメリカのマスコミ情報を聞かされていた私たちにすれば、当然、民主党のヒラリー・クリントン氏が当選するものと思っていました。それは多くのアメリカ国民も同じだったかも知れません。

トランプ氏には上下院議員の経験はおろか、州知事の経験すらありません。タレントであり、巨額な資産をもつ不動産王にすぎないトランプ氏の政治的手腕を疑問視する意見が大半でした。しかし、そんなトランプ氏への国民の支持は、選挙戦を通じて徐々に拡がっていきました。そうした変化を冷静に見ていた人からすれば、彼が当選したことは決して驚くべき事ではなかったかもしれません。マスコミは予想を大きくはずしましたが、その失態は無視してその後もトランプ氏を否定的に伝えました。

トランプ大統領は、終始、マスコミから批判され続けましたが、彼が在任中の4年間にアメリカは戦争をしませんでした。世界に展開するいくつかのアメリカ軍をも撤収させたほどです。「アメリカ・ファースト」を訴えて臨んだ国内経済も復活しました。国境に高い壁を作って不法移民の流入を防ぎ、BLM運動で悪化した治安も徐々に回復させました。マスコミはトランプ氏をことごとく悪くいいます。しかし、彼のこれまでの実績を冷静に振り返れば、マスコミがかき立てるほど彼の実績は悪くはなかったと思います。

ロシアのプーチン大統領は「次期大統領にはバイデンが望ましい」とコメントしました。反トランプのマスコミはこぞって「トランプはプーチンに酷評された」と大喜び。しかし、プーチンがバイデンを評価したと思ったのもつかの間、タッカー・カールソンにプーチンは、歴代民主党政権が今回のウクライナ戦争にいかに関与してきたかを語りました。会見の感想を聞かれたバイデンは激怒し、「プーチンはクレージーなクソ野郎だ」と口汚く罵ったのです。あの会見はバイデンにとってそれほど衝撃的だったのでしょう。

バイデン氏に激しく批判されたプーチン大統領はいたって冷静でした。バイデンの激しい批判に対する受け止めを尋ねられ、プーチンは「ほら、だから彼は大統領にふさわしいと言ったんだよ」と余裕を見せます。ウクライナ戦争はロシアとアメリカとの戦いでもあります。ブッシュ(共)-クリントン(民)-オバマ(民)-トランプ(共)-バイデン(民)と歴代アメリカ大統領の働きぶりを見てきたプーチン大統領にとって、バイデン氏は取るに足らない大統領だと感じていたのかもしれません。

ウラジーミル・プーチン氏がロシアの大統領になったのは2000年です。ソビエト共産党を崩壊させたエリツィン氏の後継者として彗星のごとく出現した若き大統領プーチンはまだ48歳でした。ソ連が崩壊したとき、プーチン氏はKGB(ソ連のCIA)の職員として東ドイツに駐在していました。彼の父はソ連の海軍の傷痍軍人であり、第二次世界大戦ではドイツ軍と戦いました。また、祖父はプロの料理人としてラスプーチンの給仕をし、レーニンやスターリンにも料理を提供していたといいます。

そうした環境の中で育ったプーチンです。おそらく国際情勢に関する知識は誰よりも深く、ロシアやソ連の歴史にも詳しかったに違いありません。KGBの諜報員としての経験から、アメリカの世界戦略や諜報活動の実態にも精通していたことでしょう。そんなプーチンにとってバイデンがこれから何をしようとしているのかは推して知るべし。むしろ、政治的な経験をもたず、エスタブリッシュメント(既得権益者)とのしがらみのないトランプ氏の方がやりにくい相手だったかも知れません。

 

ウクライナとロシアの関係を考えるとき、とくに近現代の世界史を知ることが大切です。第一次世界大戦の直前、帝政ロシアは、かつてはプロイセンだったドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と国境をめぐって緊張状態にありました。そして、皇太子をセルビア人青年に暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告すると、同じ正教会のロシアがセルビアを支援するために出兵しました。かくして1914年、ロシアと三国協商で同盟を結んでいた英・仏を巻き込んで第一次世界大戦となりました。

しかし、ドイツとの戦費がかさんでロシア国内の経済は悪化。国民の不満はますます高まり、戦場の兵士すら戦意を喪失して逃げ出す事態になりました。混乱の収拾が付かなくなった帝政ロシアでは、1917年についにロマノフ王朝が終わり、レーニンらが指導する共産主義組織ボルシェビキが実権を握ります。これが十月革命です。ドイツはロシアのさらなる混乱を狙ってウクライナの分離独立を承認。ロシア国内の民族主義を力ずくで抑えきれなかったボルシェビキはバルト三国からウクライナにかけての領土を失いました。

1918年に第一次世界大戦は終わりました。でも、ロシアはクリミア半島を確保する戦果しか得られませんでした。そして、ふたたび皇帝一派が勢力を盛り返すのを恐れたボルシェビキは、幽閉していた帝政ロシア時代のニコライ皇帝一家を粛清しました。一方で、パリ講和会議で多額の賠償金が課せられたドイツ帝国が衰退すると、ロシア派ウクライナやコーカサス地方に赤軍を進めて再び領土としました。その後、ポーランドとの戦争でウクライナの半分を失いますが、1922年、ソビエト社会主義共和国連邦を樹立します。

レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが権力の座につきました。落ち込んだソ連国内の産業を振興させるため、スターリンはノルマを定めて資源の採掘、農作物の収穫を強力に推し進めました。集団農場での連体責任を強化し、収穫の取り立てには容赦がありませんでした。ウクライナでの取り立てはとくに厳しく、農民達の食料がなくなるほど過酷でした。数百万人の餓死者を出したと言われるこの人為的な飢饉をホロモドールといい、ウクライナ人に反スターリン・反ソ連(反ロシア)の感情が高まるきっかけとなりました。

ヨーロッパは歴史の転換点でも述べたように、ベルサイユ条約のあとのドイツでは、ナチス党が多くの国民の支持を得るようになります。ナチス党の党首ヒットラーは反共産主義を唱え、ユダヤ人やジプシー、有色人種や障害者の排除を訴えました。ユダヤ人とは本来、ユダヤ教を信仰する人たちのことを指します。ユダヤ人は人種ではないのです。スペインにはスファラディーと呼ばれるユダヤ人がおり、ヨーロッパにいる白人のユダヤ人はアシュケナージと呼ばれます。その他、有色人種のユダヤ人もいるほどです。

しかし、ヒトラーはユダヤ人を人種とみなして迫害します。彼の祖母がユダヤ人富豪の愛人であり、自分にもそのユダヤの血がながれていることを嫌悪したからだともいわれています。そもそもキリスト教徒にとって、イエス・キリストを十字架に送ったのはパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)だという思いがあります。かつてのキリスト教ではお金をあつかう仕事は卑しい職業と考えられていました。ですから、そうした仕事に従事することの多かったユダヤ人にはキリスト教徒たちから迫害をうける素地はもともとあったのです。

第二次世界大戦が勃発しようとしていたとき、ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいました。かつてポーランドの隣国にはハザールという国家があり、その国教がユダヤ教だった影響で多くのユダヤ人が住んでいたのです。しかも、ポーランドは度重なる戦禍によって、労働人口が少なくなっていました。そのため、勤勉なユダヤ人を積極的に受け入れていました。しかし、その後、ナチス・ドイツがポーランドを脅かすようになると、たくさんのユダヤ人が迫害を恐れてポーランドを離れていきました。

しかし、イギリスも、アメリカも、そしてソ連までもがユダヤ人との関わりを拒みました。唯一、日本だけがユダヤ人の欧州脱出を助けたのです。たくさんのビザを発給してユダヤ人を救った杉原千畝は有名です。しかし、杉原千畝がユダヤ人達を救う3年も前に、数千人にもおよぶユダヤ人のポーランド脱出に尽力した日本人がいます。日本帝国陸軍の樋口季一郎中将です。彼は日本陸軍の軍人でありながら、満州鉄道に列車を手配し、ロシアのオトポールから租界地のあった上海までユダヤ人を移送したのです。

当然、三国同盟を結んでいたナチスドイツからは強い抗議が来ました。そして、日本政府内でも査問委員会を開いて樋口中将に懲罰を与えることも検討されました。しかし、当時の東条英機関東軍参謀長の裁可もあったことから、樋口中将の責任は問われませんでした。むしろ、ドイツに対して日本政府は「これはまったくの人道上の問題であり瑕疵はない」と反論したほどです。樋口中将はその後、終戦間際のアッツ島からの無血撤退を指揮し、占守島では中立条約を破棄して侵攻してきたソ連を阻止して北海道を守りました。

多くのユダヤ人がポーランドからの逃げ場を失って隣国のウクライナに逃げてきました。しかし、ユダヤ人はかつてウクライナ人から重税をとりたててきた人たちです。ソ連に向けてポーランドに侵攻してきたドイツ軍は、ウクライナ人にとってはユダヤ人に対する恨みを晴らし、自分たちを奴隷のように扱ってきたソ連共産党を懲らしめてくれる英雄に見えたのかもしれません。「ユダヤ人狩り」というナチスの要請に積極的かつ自発的に協力しました。これがプーチン大統領がいう「ウクライナのナチズム」の背景です。

 

かくして、第二次世界大戦が終ってみると、ウクライナは独ソ戦の戦場となるなどして国土は荒廃していました。そして、第一次大戦と同様にドイツが降伏し、ソ連が戦勝国の一員となると、ウクライナはソ連邦のいちぶに戻りました。その後、ウクライナで収穫される小麦は、ソ連の重要な穀物として欠くことのできない存在となります。しかも、ウクライナをふくむ、北はバルト三国からグルジアなどがあるコーカサス地方にかけての地域は、ソ連をNATOから守る重要な緩衝地帯となり、重視されました。

ロシア、そして、ソ連は戦争を経験するたびに自国の発展の遅れに気がつきました。クリミア戦争では敵対していた英・仏の近代化が敗戦の原因であると気づき、自国の産業革命を進めるべく政策を転換します。また、第一次世界大戦では自国の軍備が量的に劣っており、それは工業化の遅れからだということを知ります。さらに、第二次世界大戦が終わると、コミンテルン(共産主義インターナショナル)がアメリカやイギリス、さらには日本をはじめとする世界を動かすのに重要な役割をはたしたことを実感しました。

とくに第二次世界大戦の前後においては、ソ連のコミンテルンが日米両政府の高官に接触し、両国の政策に関与していました。1933年にアメリカの大統領に当選したルーズベルトが、早々にソビエト社会主義連邦を承認したことは重要な転帰となりました。当時のソ連は満州への南下政策を進めており、日本と対峙していた中国の蒋介石を支援していました。その蒋介石の国民党軍と日本を戦わせ、弱体化した日本をのちに中国での権益を狙っていたアメリカと戦わせることが国益にかなうということをソ連は知っていたのです。

1930年代は米ソの蜜月の時代でした。ソ連の優秀な若手研究者が多数アメリカに留学しました。そのなかにはスパイも含まれていて、アメリカの最新技術を盗んでいったのです。しかし、第二次世界大戦後にそうしたソ連共産党の世界戦略が徐々に明らかになってくると、アメリカとソ連は袂を分かつことになります。そして、両国を中心とした東西の二極化が進み、冷戦という硬直化した世界になっていったのです。米ソ両国は軍事開発を進め、科学技術においても世界をリードする大国となりました。

こうした世界情勢は、最近の米中関係をみるようです。1979年にカーター大統領と鄧小平の間で米中国交正常化が合意されると、中国からたくさんの若手研究者がアメリカに留学しました。そして、中国は経済大国となり、アメリカを脅かすほどの存在になりました。こうした米中関係は第二次世界大戦前の米ソ間のそれに似ています。グローバリズムという美名のもとに、国境が不明瞭になった結果です。それにしても、ルーズベルトにせよ、カーターにせよ、世界の変革期にあるときのアメリカ大統領はいつも民主党です。

冷戦時代、ウクライナは、ソ連にとっては地政学的にも、軍事的にも、食糧安全保障という観点からも重要な地域となりました。ウクライナにはソ連の戦略ロケット基地が設置され、世界最新鋭の核兵器が貯蔵されていました。その代償としてウクライナは、ソ連から安価なエネルギーを供給されていたのです。しかし、ソ連が崩壊し、東西冷戦が完全に終結した1994年、ウクライナはブダペスト覚書きでソ連から独立するとともに、核兵器を放棄して「平和国家」を目指す道を選択しました。これは西側につくことを意味しました。

今も続いているウクライナ戦争は、EUやNATOというアメリカ・西側陣営と、それら西側国家への猜疑心を捨てきれないロシアとの戦いでもあります。ウクライナは歴史的にも、あるいは地政学的にも、東西陣営の間にはさまれた緩衝国家であり続けるという悲劇から逃れることができません。ウクライナに侵攻したロシアには大きな責任があります。それは免れることはできません。しかし、ウクライナ自身やアメリカの戦略にも問題があるのです。その辺のことは次の「歴史の転換点(4)」で詳しく書きます。