院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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前稿「教育に関する妄想(1)」にも書きましたが、一度大学を卒業して再び医学部に合格するまで、地元の学習塾で数学や理科を教えていました。小さな塾でしたが、塾長先生は人間的に魅力のある人でしたし、生徒達も熱心な子が多かったので、受験勉強の負担にはなりませんでした。親戚には「就職もせずに医学部の再受験などわがままだ」と陰口をたたく人もいたことを知っていました。そんな中でも、両親はなにも言わずに私の好きなようにやらせてくれました。今思うと、それが私には一番ありがたいことでした。親の愚痴を聞かされるのも嫌でしたが、当時の私にとって親からエールを送られるのも荷が重いことだったのです。
塾の講師をしながら受験勉強をしていた私には、楽しいことや「やりがい」を感じることはあっても、先の見えない不安を感じることは不思議とありませんでした。でも、翌年の医学部受験に失敗してしまったときはさすがにヘコみました。働きながら受験勉強するのは無謀なのだろうかと迷ったりもしました。でも、今度は自己流の勉強をするのではなく、ちゃんと予備校に通い、そのテキストを信じてやっていけば、次はなんとかなるのではないか。そのように気持ちを切り替えることができたのです。以後、午前中は予備校、午後にその予習と復習、夕方から夜までは塾の講師として働くという毎日を送っていました。
塾で教えていた生徒さんの何人かが、今、船戸内科医院に通院してくれています。当時はまだ中学生だった彼等も、今ではりっぱな「おじさん」「おばさん」です(こっちは「じいさん」ですが)。四十年近くの年月が過ぎても、かつての生徒さん達には当時の雰囲気が残っています。ときどき当時の思い出に話しが盛り上がりますが、そんなときは、つくづく塾の講師をやってよかったと思います。そう感じるのも、他人にはあまり経験できない紆余曲折の人生を歩んできたからかも知れません。風変わりに見えるその生き方が、今の医師としての仕事に大きく役立っています。
私はよく患者さんに「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分自身と自分の未来」とお話しします。これは私が医学部の学生時代に、一時傾倒していたカール・ロジャースという臨床心理学者の本に出てくる言葉です。この言葉が私の心に刺さったのは、自分自身の半生を通じて、まさしくこの言葉を象徴するような経験をしていたからかもしれません。たった一度の失敗や後悔、いや、一度や二度の成功ですら人生は決まらないのだ、ということ。成功や失敗、挫折や再起を繰り返しながら、人は人生を作っていくのです。ひとりの人間の長い履歴の価値はそう簡単に決められるはずがありません。
中学生に私の半生を通じて「医師という職業」について講演するのはそのためです。私が経験してきたことを多くの子ども達に知ってほしいのです。単なる成功体験としてではなく、おもしろい失敗談でもなく、「人生は経験ひとつひとつの積み重ね」だということを感じてもらいたい。そんなことを考えながらお話ししています。教育にはそうした側面もあると思います。学力を上げるのも教育です。その一方で、子ども達には「人生はなんどでもやり直しがきく」ということを伝えるのも教育の役割。これからの人生を切り開いていく子ども達を守ると同時に、背中を押してあげることがなにより大切です。
今の社会や教育に押しつぶされる子どもは少なくありません。「多様性」や「異文化共生」が叫ばれる中、社会ではその本質的な重要性が理解されないまま、軽々しくて、うわべだけの理想論が叫ばれているように見えます。やれ「暗記させる教育より考えさせる教育」だの、「学力よりも人間性重視」だの、「ナンバーワンよりオンリーワン」だの、あるいは「競争から共存へ」だの、大人達の価値観の変遷に振り回される子ども達が気の毒です。簡単に「世の中の変化」といいますが、そうした変化が本当に必要なものなのか、どのような変化であればいいのか、いちど立ち止まって考えるべきです。
日頃、そんなことを考えていると、「こんな社会だったらいいのに」「教育はこうあればいいのに」と妄想することがあります。今の日本には閉塞感が漂っているように感じます。私が子どものころに夢見ていたのは「医者になること」でした。でも、勉強が嫌いで、運動も苦手で、なんの努力もしなかった私。しかし、精神的に成長し、勉強することの意義に気が付き、夢に向かって努力さえすれば、小さいころから塾に行かされ、毎日のように勉強に明け暮れなくても夢を実現できることを私は実体験したのです。私が考える「理想の社会や教育」は、まさしく「自分の人生を自分で決められる場所」にほかなりません。
************************** 以下、私が妄想する「理想の教育」をだらだらと書いてみます。
1.義務教育を充実させる
社会人として知っておくべき知識、あるいは学力は義務教育程度だと思います。世の中のシステムを知り、社会のできごとに関心をもつには、最低でも義務教育レベルの知識や学力が必要です。みなさんは「国民の三大義務と三大権利」をご存じでしょうか。国民の三大義務とは「教育を受ける義務」「勤労する義務」「納税する義務」であり、三大権利とは「教育を受ける権利」「政治に関与する権利」「最低限の生活をする権利」です。そうした国民の義務と権利もふくめて、社会がどうなっているのか、どう機能しているのかを理解し、社会の一員として働き、生活をするための基礎的な知識は義務教育にあります。
「義務教育レベル」というとなにか軽い響きを感じるかもしれません。しかし、多くの国民はこの「義務教育レベル」ですら未消化のまま高等学校に進学します。高等学校でならう三角関数や微分・積分は日常生活では使いません。高校ではじめて学ぶ「世界史」も必ずしも必要ではありません。複雑で難しい英作文ができなくても、簡単な単語やフレーズさえ知っていれば英語でのコミュニケーションは可能です。中学校までの義務教育で学ぶ内容は、実社会では必須の知識・学力です。実社会に出て、社会の一員として働き、生活するためにも、義務教育レベルの知識と学力を確実なものにすることは大切なのです。
そこで私は提案したいと思います。
(1)中学校を卒業したら、それなりの社会人として働ける必要な知識と学力を身につける
(2)高等学校以上の学校には、特定な知識を必要とする場合にのみ進学する社会にする
(3)就職での「学歴制限」を禁止し、その業種に必要な知識や学力を有しているかどうかで選考する
つまり、中学校を卒業したら、ごく一般的な職業、言い換えれば、専門的な知識や学力を必要としない仕事に就職できる世の中にし、「勉強したい人」が高等学校以上の教育を受ければいい社会にするのです。
「勉強をしたくないのに、就職するためには高卒の学歴がなければならない」という世の中は間違っています。重要なのは学歴ではなく、その仕事に必要な知識と学力であるはずです。勉強が好きでもないのに高校に行くから、おちこぼれる生徒が生まれるのです。そして、その結果、学校の風紀が乱れ、教室は「悪貨が良貨を駆逐する」ような状態になる。義務教育で社会人としての基礎的な知識や学力を習得したら、子ども達は社会人として社会に出ればいいのです。社会人の一人として働く中で、自分の将来に高校以上の教育が必要だと思えば、いくつからでも高校や専門学校・大学に行けばいい。そんな社会が私の理想です。
中学校を卒業すればそれなりの社会人になれる。そのためには、義務教育の質を今以上に高めなければなりません。それには義務教育に携わる教員を増員する必要があります。10人学級どころか、子ども達の学力によっては、5人学級や2人学級にしなければならないからです。義務教育が「ひとりの子どもも取り残さない仕組み」を作るのです。一方で、勉強が好きな子、すでに出来る子は自分たちで勉強できます。そんな子ども達は、家庭や塾でどんどん勉強させ、学校の定期試験で成績がよければ飛び級もさせる。そういう制度にすれば、勉強のできる子たちのモチベーションを高めることにもなります。
「勉強したい子だけが高校に行く世の中」にすれば高校の数が余ります。そのとき余剰となる高校教員の一部は義務教育の質向上のために貢献してもらうのです。また、別の教員には、優秀な子ども達の勉強を見るための進学塾の講師になってもらうのもいいでしょう。教育の問題点のひとつは「悪しき平等主義」にあります。「勉強の出来る子も、勉強が苦手な子も皆一緒」という状態を「平等」とはいいません。むしろ、両者にとっては不幸です。出来る子は出来る子なりに学力を伸ばすことができ、苦手な子は苦手な子なりに学力を支えてあげられる教育こそが本当の「平等主義」であるはずです。
2.受験戦争を大学院入試へ
その一方で、大学教育も改革すべきです。現在の教育における一番の問題点は、受験戦争の終着点が大学受験にあるところだと思います。よく「大学に入学するまでは勉強するが、入学したとたんに勉強しなくなる」といいます。この言葉が今の教育の問題点を象徴しています。こうした問題点を解決するために、私は「有力国立大学の大学院大学化」を提案したいと思います。これは、旧帝大と11の旧制官立大学といった有力国立大学では学部教育を廃止し、大学院教育のみを行なう大学院大学にするというものです。そして、こうした大学院大学に学生を入学させるため、学部教育をおこなう他大学を競わせるのです。
こうすれば、大学に入学した学生が有力大学院に進むためには、学部教育をまじめに受けなければならなくなります。しかも、高校生は大学選びをする際、有力大学院への進学実績を見て判断するようになります。受験戦争のゴールを大学受験にするのではなく、大学院入試に引き上げるのです。そうすれば「大学に入ったら勉強しなくなる」こともなくなり、大学の学部教育の質も上がってくるでしょう。そうしたことが影響して、高校生や大学生の学力向上にもつながります。と同時に、小学校から熾烈な受験戦争に巻き込まれるといった、子ども達への無意味なプレッシャーもなくなるかもしれません。
もしそうなれば、大学も淘汰され、その数も減ることでしょう。でも、それでいいのです。学部教育に力を入れ、高校生や受験生達から支持される大学だけが残っていくからです。今、国から全国の大学に支給されている多額の補助金の多くが、その大学が生き残るために使われています。しかし、高等教育機関として本当に必要な大学だけが残れば、補助金を集約的かつ有効に分配することになるのです。大学院に進学した学生の授業料は無償にする。優秀な博士課程の院生には給与もあたえて研究に専念できる環境を整えることも重要です。主たる資源のない日本にとって、研究者はまさに国家の「宝」なのですから。
今、「高校の無償化、大学の無償化」ということがしばしば話題になります。しかし、誰もが高校に行くこと、大学への進学率を上げることが大切なのではありません。高校や大学で学びたいと思いながらも、経済的な理由で進学できない子ども達をなくすことが重要なのです。そのための無償化でなければなりません。勉強が苦手な子ども達が教育に取り残されてはいけません。また、勉強が嫌いな子がなかば強制的に高校に行かされる社会は間違っています。教育という場が、秀才や勉強に意欲的な子ども達の才能を延ばす環境であるとともに、勉強が苦手な子ども達にとって自分らしく生きるための環境でもあるべきです。
いろいろな価値観をもつ各個人が、それぞれの生き方にふさわしい人生を送ることが可能な社会であってほしいと思います。そのために何が大切なのかを考えなければなりません。現代社会はとても薄っぺらなものになってしまいました。はき違えた平等主義によって、子ども達が夢や希望をもてなくなった時代かもしれません。世の中には「今だけ、金だけ、自分だけ」の人間が増え、狡猾で、要領が良く、うわっつらだけの人間が偉くなることもあります。その一方で、たやすく世間の風潮にながされ、自分のあたまで考えたり、判断したりできない大人が増えているのも事実です。
これからの日本を背負って立つ子ども達のために、どのような教育が必要なのかを真剣に考えなければならないと思います。そんな時代を我々は生きているのです。
8月が終わろうとしています。暦の上ではすでに夏は終わっています。子どものころの私は夏休みに複雑な思いをいだいていました。もともと学校が嫌いで、勉強もまともにやらない私にとって、夏休みはようやくやってきた楽しい長いお休みのはず。しかし、学校で終業式を迎えるころになると、それまでとは違ったプレッシャーが私を襲ってきました。それは「夏休みの宿題」と「自由研究」という課題が与えられるからです。私は子どもながらに、「せっかくの休みだというのに、なんでこんなことをしなければならないのだろう」と思ったものです。そして、大人になった今もそう思います。
友達の中には「嫌なことは早く片付けてしまおう」とばかりに、宿題と自由研究をさっさと仕上げてしまう子もいました。あるいは「日課を決めて計画的に進める」という几帳面な子もいました。しかし、私は違いました。夏休みが終わりに近づくまで、宿題にも、自由研究にも手をつけずにいたのです。手をつけずにいた、というよりも、手をつける気にならなかったのだと思います。そして、あと数日で始業式という頃になって、あわてて、しかも適当にやって済ませてしまう。そんないい加減な宿題・自由研究を提出しても、罪悪感もなければ、後ろめたさも感じませんでした。
今から思うと、子どものころの私は発達障害だったような気がします。親はもちろん、学校の先生の指示通りに動けない子だったのです。当時の私は「指示されるのが嫌」と感じていたように思います。でも、大人になって振りかえってみると、「指示されるのが嫌」なのではなく、「指示通りにできなかった」のではないかと。子どもの中には、反抗的だったり、自分勝手に行動したり、あるいは他の人との協調性がないような子がたくさんいます。でも、それは単に性格が変わっているのではなく、発達障害のように、社会性の発達が一般的な子どもたちよりも遅れているからなのかもしれません。
ところで、私のような「昭和どまんなか世代」は、「夏を制する者は、受験を制する」という言葉をよく耳にしたものです。厳しい受験戦争を勝ち抜くためには、夏休みをいかに充実したものにするかが大切だという意味です。はたして受験生の皆さんにとって、この夏休みはどのようなものだったでしょうか。「計画通りで充実した夏休みだった」という人たちは、他の受験生をリードしていることは間違いありません。この調子で頑張りましょう。「思ったように勉強ができなかった」と肩を落としている受験生もがっかりする必要はありません。この遅れを挽回するために、これからいかに頑張るかが重要なのです。
大学をいったん卒業したものの、就職をしないで医学部の再受験を決意した私。大学卒業後、地元の小さな塾の講師をしながら受験勉強をしていました。医学部に合格するのは無理だと断念した経緯があるだけに、再び受験勉強をはじめたからといって再受験に成功する保障などありません。その一方で、大学の同級生達が社会人としてのあらたな生活を送っています。就職をしなかったのは私だけでしたから、それなりの孤独感を感じながらの再出発でした。当初は予備校へは行かず、受験雑誌の合格体験記で紹介されている参考書や問題集をそろえ、毎日の日課を決めて勉強をしていました。
親とは金銭面では頼らない約束をしていました。ですから、お金のかかる私立大学の医学部という選択肢はありません。国立大学のみに目標をしぼっていました。とはいえ、失意の三年間を送っていた高校生のときはまともに授業を受けていません。しかも、不得手な国語や社会などは勉強する気になりませんし、肝心の英語は高校三年生のときから勉強をはじめたので最後まで足をひっぱる科目でした。そのうえ、夕方には塾で小学生を教え、夜は中学生を教えるという毎日です。当時は塾のテキストの他に、生徒達に配るプリントも作っていて、塾での仕事にもそれなりの労力をさかなければなりませんでした。
でも、私と同じ受験生だった中学生を見ていると、生徒達のために頑張らねばと思う気持ちと、私自身の心の中に勇気と活力が湧いてくるのを感じていました。当時は校内暴力が社会問題になっていました。私が働いていた塾でも学級崩壊のようになるクラスもあったのです。そのクラスでは次々と先生が代わっていました。生徒達の私語がやまず、先生が授業を放棄してしまうのです。そして、ついに私がそのクラスを教えることになりました。私のような講師で対処できるだろうかと不安でした。でも、塾長先生の困惑した表情に、「自分がなんとかしなきゃ」と思ったものです。
通常の授業も生徒は多かったのですが、夏休みの講習会ともなると普段は通っていない生徒達もやってきます。満杯の教室はクーラーの効きが悪くて蒸し暑い。自然と生徒達の私語が増えます。そのような中で私の授業が始まりました。小さなプレハブの狭い教室のなかには30名ほどの生徒がいました。最前列には女子生徒が陣取っています。いずれも友達同士らしく、休憩時間からずっとピーチクパーチクおしゃべりをしています。一番後ろの列には体が大きく、ガラの悪そうな男の子とその友達数名が並んで座っていました。私は数学を教えていましたが、当初は思ったよりも静かな教室の空気に拍子抜けしてしまいました。
しかし、それは、生徒達が私の様子を観察しているのにすぎないことがわかりました。どのくらい騒げば怒られるのか。そのときこの講師はどんな反応をするのか。それをじっと見ていることを背中に感じながら私は黒板に向かっていました。「先生、消しゴムとって」。突然、体格の大きな男子生徒が私に言いました。床に落ちていた消しゴムを彼に渡して授業を進めようとすると、また「消しゴムとって」と。私は試されていることを感じました。「落とさないように気をつけてね」と消しゴムを渡してもまた同じ事が。何度もそれは繰り返されましたが、私はその都度、あえて無言のまま消しゴムを拾っては渡していました。
「消しゴムとって」と声がかかるたびに教室には笑い声がおこります。とくにこの大柄の生徒とその友達たちの騒ぎっぷりは、教室の雰囲気をあおるかのように大げさです。それにつられて、最前列の女の子たちの会話はそれまで以上に声が大きくなります。しかも、休憩時間のように体をお互いの方に向け合って話しをしているのです。なんど注意しても、静かになるのは一瞬。何日かが経っても、いつものような騒がしい教室。「おまえたちは何をしにここに来ているんだっ」。私の堪忍袋の緒はついに切れてしまいました。私はそのとき思いました。「こうやって先生達は授業を放棄していたんだ」と。
教室を騒がしい雰囲気にしている中心は、あの大柄の生徒のように見えました。その子は教室内の雰囲気を支配し、まるで自分の力を誇示するように大胆でした。彼の両脇に座っている仲のいい友達は、彼に媚びるようにそれを騒ぎ立てます。そして、混沌とした雰囲気が教室に充満してくると、今度は最前列の女の子達のおしゃべりは堰(せき)を切ったように大きな声になるのです。そんな教室の力関係のようなものが見えてきた私は、その大柄の子を教室から追い出すことにしました。「勉強する気がないなら塾に来るな」。一瞬戸惑ったような表情をした彼でしたが、退出を命じる私の指示に従って出て行きました。
彼の仲間たちは、顔を引きつらせておとなしくなりました。しかし、最前列の女の子たちはおしゃべりを続けています。それはまるで、教室の雰囲気をかき乱していた主犯を追い出した私をわざと怒らせるかのようでもありました。何度注意しても直りません。このグループにもやはり中心となる子がいました。この子もあの大柄の生徒と同じように教室から追い出そうか、とも思いましたが、親がお金を払ってきている生徒を何人も追い出すわけにはいきません。私は塾長に相談することにしました。塾長先生も手を焼いているようです。ふたりであれこれ話しましたが、結局、いい解決策は得られませんでした。
教室を追い出した男の子は二度と塾に戻ってきませんでした。塾長先生のところには、その親から抗議がきたようです。私は塾長にお詫びをしましたが、「気にしなくていいから」と言ってくれました。「ああいう子は、親も持て余していて、【家に居てもらうより、塾に行かせてしまおう】と煙たがられているんだよ」と塾長は言います。自分の居場所もなく、その存在も認めてもらえない子どもはああやって自己主張しているんだ、というのです。勉強の邪魔をするだけのように見えたあの子も、実は気の毒な子どもだったのです。私がもう少し冷静であったら、他のやり方があったかもしれないと反省しました。
相変わらず最前列の女子生徒たちには手を焼いていました。そんなある日、塾から自宅に帰った私は何気なく妹にそのことを愚痴っていました。「いくら注意してもおしゃべりをやめない女の子達に困っているんだよ」と。すると妹は言いました。「その子たち、兄貴に注目してもらいたいんじゃないの?きっと注意してもらいたいんだよ」と。私はそのとき、目からウロコが落ちる思いでした。「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」などという気持ちがあるとは思っていなかったのです。私の目には、そんな彼女たちは「なんど注意してもおしゃべりをやめずに困らせる子たち」としか映っていませんでした。
私はさっそく、おしゃべり三人組の中心と思われる子に、質問を当ててみることにしました。ごくごく簡単な、誰もが正解になるような質問です。おしゃべりをしているその子に「そんなにおしゃべりしたいなら、この質問に答えてみてよ」と言ってみました。彼女は驚いたような表情をしましたが、黒板をゆっくり見上げます。彼女が遠慮がちに正解を答えました。「君はできるんだねえ」。誰もが答えられる質問ではありましたが、そう褒めることも私は忘れませんでした。三人がおしゃべりをはじめるたびに彼女に質問を当て、そして、褒めました。そんなことを繰り返すうちに、彼女たちのおしゃべりはやがて止まりました。
それは面白いほどの変化でした。最前列の彼女たちはお互いに向き合うように話しをしていましたが、なんどか質問を当てているうちに、話しをする頻度が減り、三人とも黒板の方を向くようになりました。そして、ついに板書をノートにとるようにまでなったのです。彼女たちには、私の妹が言っていたように、「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」という気持ちがあったのでしょうか。もしかすると、褒められたことすらなかったのかもしれません。私はこのとき、教えることの面白さをしみじみと感じました。「教育の醍醐味」とはこういうところにあるのではないか、と思いました。
私が教室から追い出してしまった男の子といい、おしゃべりをやめなかった女の子たちといい、それぞれにはそうしてしまう(そうせざるを得ない)理由があったのだと思います。私が宿題をやらなかった(できなかった)のと同じように。家庭環境のせいもあるでしょう。友達との関係が影響している場合だって。もしかすると子ども時代の私のように発達障害なのかもしれません。そうした個々の事情を深く考えると、ひとりひとりの子どもがかかえる問題点の解決方法が見つかるかもしれない。塾の講師をしながら私はそう思いました。そして、このときの経験はのちに発達心理学に関心をもつことにもつながりました。
でも、子ども達の深い部分に目を向ける余裕が、忙しさに追われる今の先生達にあるでしょうか。教育そのものが荒廃しています。それは誤った教育改革の結果だと思います。あるいは、社会そのものがゆがんでしまったからかもしれません。私たちの頃にはまだ戦前の教育を知っている先生がいました。そうした先生達の方が生徒と教師との距離が近かったような気がします。「体罰」もありました。生徒は「呼び捨て」になっていましたし、さまざまな校則でがんじがらめだったかも知れません。しかし、学校には秩序がありました。そして、卒業式に「仰げば尊し」を涙ながらに歌って先生達との別れを惜しむ「絆」もありました。
教育が変質してしまった原因は、社会のありかた、親の意識そのものが変わってきたことも影響しています。おぞましい自由が幅を効かせ、教育の現場にすらLGBTが登場するようになりました。倒錯した平等主義によって、公立の男子校や女子校が共学化され消えていく県があるほどです。それは世界のながれに連動した変化ともいえます。まるで歴史と文化を嘲笑するかのようなあのパリオリンピックの開会式は、そうした現代社会の異常さを象徴しています。また他方では、親たちの権利意識の高まりが子どもにも影響し、学校という集団生活において、先生が強制力を使って統制をとることが難しい時代にもなっています。
教育というものを、子ども達の大切な未来を育てるのにふさわしいものに変革しなければなりません。小さいときから受験戦争に勝ち抜くことが求められ、受験からの脱落が人生の「敗北」とされることすらあります。しかし、それは間違いです。勉強が好きな子どももいれば、苦手な子もいます。勉強が苦手だということは恥ずかしいことではありません。運動が苦手だったり、音楽が苦手なのとかわりはないのです。「受験戦争の勝者」は「人生の勝者」なのでしょうか。人間の幸福とはそういうものなのでしょうか。そもそも「人生」という個人の問題に、他者との「勝ち」や「負け」などがあるはずがありません。
大人の価値観を押しつけられた子ども達には、自分の個性や適性とは一致しない将来を強いられることがあります。医者になったのに自ら命を絶ってしまう研修医がいます。長時間労働に心身ともに疲れ果てての結果だといいます。実に痛ましいことです。でも、私の研修医時代はもっと厳しいものでした。仕事が終わって病棟を離れるのはいつも深夜0時過ぎ。そして、朝の7時には病棟に行って患者の採血をしなければなりません。土・日だって重症患者がいれば病院に行くのです。でも、私はそうしたことをツラいと思ったことは一度もありません。それは「医師として働く」という自分の夢を体現していたからです。
人生の価値、生きることの意味は、学歴にあるわけでも、職歴にあるのでもありません。ましてやどれだけ裕福な生活をしているかでもない。どんなに学歴が高くても、有名な企業に勤めて、役職が高くなったとしても、ひとりの老人になればただの人。自分の履歴など、他人にはなんの関係もないのです。それに気が付かず、一介の老人になってもなお「偉かった自分」のままだと勘違いしている人は少なくありません。他人との比較の中で自分の人生を生きなくてもすむ社会が必要なのです。自分自身のなかで「生き切った感」を実感できる人生。そんな人生を送れるように子ども達の背中を押す教育であってほしいと思います。
次の記事は、私が日頃、夢想している「理想とする教育システム」について書いてみたいと思います。
アメリカのトランプ前大統領に暗殺未遂事件が起こってしまいました。3年前、安倍元総理も、身勝手で幼稚な犯人に命を奪われました。欧州の先進国各国ではたくさんの不法移民が流入して治安は悪化。世界各地で戦争や紛争が勃発しています。地球全体を飲み込むほどの大きなうねりが生じているかのようです。
ウクライナやパレスチナでは今も戦争が続いています。台湾や朝鮮半島でもなにか「愚かなこと」が起こりそうな気配。にもかかわらず日本、日本人は実に脳天気です。それはまるで童話「蟻とキリギリス」に登場するキリギリスのよう。世界のうねりに日本も飲み込まれてしまうかもしれないというのに。
私には、日本は今、密かに内部崩壊しつつあるように見えます。それはこの崩壊を身を挺して食い止めようとする政治家が皆無だからです。また、戦後、GHQによって再構築された日本の教育が国民を物質主義に向かわせ、「今だけ、金だけ、自分だけ」といった利己的な社会ができつつあることが影響しています。
今のアメリカを見るまでもなく、日本も「自由、平等、差別」が金儲けの手段になり、社会の分断と憎悪を煽る情報が飛び交う時代となりました。そうした日本の現状を憂慮する私見をこれから書きます。いつものように、読んだ方の思想や信条に反する内容によって不愉快な気持ちになったらご容赦ください。
******************** 以下、本文
最近の「平等」って怪しくないですか。「平等」が強調されればされるほど、その本質とは異なった解釈がなされているように思います。そして、その平等に疑問を呈したり、否定する意見を述べると、安っぽい社会正義を振り回されて批難されます。ポリコレによる言論封殺が横行する世の中になったかのようです。
そのひとつの例が「男女平等参画社会」です。我が国では平成13年に男女平等参画社会基本法が施行され、いわゆる「男女平等」が強いられるようになりました。毎年30億円以上の予算が計上されていますが、その内容を見ると驚きます。「こんなことに予算をつける必要があるのだろうか?」と思うほどです。
内閣府男女共同参画局のホームページには次のような記述があります。「男女共同参画社会とは、男女が社会の対等な構成員として、自らの意思によりあらゆる社会活動に参画する機会が確保され、男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会である」と。
以前、「医学部で女子受験生に不利な入試がおこなわれていること」が問題になりました。そして、「医学部入試における女子受験生への不当なあつかいは許されない」との論調に対する私の意見をこのブログの記事に書きました。この問題には考慮すべきやむを得ない理由があるからです。
大学の医学部は関連病院に医師を派遣して地域医療を支えています。したがって、外科や産科といった激務を担う診療科の医師が減ったり、出産や子育てのために診療の現場から離れる医師がでてくるのを大学は嫌います。女子学生が増えて医局の運営にそうした支障がでることを懸念するのです。
「だからといって女子受験生に不利になる入試はけしからん」という人がいるのもわかります。「医局の、あるいは大学の都合で人の一生が左右されていいのか」ということなのでしょう。あるいは「不公平な入試をなくすことと、地域医療の崩壊を食い止めることは別だ」という人もいるかもしれません。
ならば、東京女子医科大学のように男子学生に門戸を閉ざしている医学部の存在は問題にしなくていいのでしょうか。女子医大病院での診療は他大学出身の男性研修医や男性医師によって支えられています。女子医大が男子学生を拒絶しなければならない明確な理由はないはずです。
理工系大学で実施される「女子学生特別合格枠」も同じような事例です。「リケジョ(理系女子学生)」を増やすための方策なんだそうです。でも、なぜリケジョを増やさなければならないのか、その合理的な理由は見当たりません。女子受験生を優遇することの幅広い議論がないまま拙速に決められたことです。
おそらくこの愚策が考えられた一番の理由は、文科省が、理工系大学に女子学生が少ないことを「男女共同参画」に反すると判断したからだと思います。しかし、女子受験生を優遇すること自体が「男女共同参画」の趣旨に矛盾する、とは誰もいいません。この愚策を検討する大学もどうかしています。
ものごとには目的があります。そして、その目的を達成するために方法があるのです。理系職業への女性進出を促すのはあくまでも手段。どうしてそうしなければならないのか、という根本的な目的があっての手段であるはずです。「女子学生特別合格枠」は「手段の目的化」そのものです。
医学部の入試において女子学生を一定数だけ排除するのにはそれなりの理由があります。しかし、それは批判される一方で、東京女子医大のような存在が看過されている。合理的な理由を飛び越えて理工系大学の入試において女子受験生の優先合格枠が増やされようとしている。これは社会理念の矛盾です。
議員や会社役員においても女性の数を増やさなければならないのだそうです。でも、女性議員が増えないのは、立候補する女性が少ないからです。女性役員が少ないことだって、そもそも社員の男女比が違うのだから当然といえば当然。多い少ないは、その出口ではなく、入り口での数で平等を考えるべきです。
出口での数だけで解決しようとするのはあまりにも拙速すぎます。まずやるべきなのは、議員になりたいと思う女性をもっと増やすこと。また、実力と実績があるにも関わらず、女性というだけで昇進できない実体があるかどうかであり、結果としての数の問題ではないはずです。
事例は少し変わりますが、公立学校の中には「ジェンダーレス教育」をおこなっているところがあります。男子生徒はズボン、女子学生はスカートといった制服選びにおいて、男子でもなく、女子でもないジェンダーレスなデザインを採用する学校もあるとのこと。これも実にくだらない発想です。
そもそもそうする目的ってなんなのでしょう。スカートを履きたい男子生徒がいるなら履けばいいし、女子生徒でもズボンにしたければすればいい。「私服で学校に行きたい」というならそれでもいいという話しにすぎません。男女の区別をなくそうとするジェンダーレス教育の目的がさっぱりわかりません。
もしかすると、こうした教育の目的は、LGBTへの子ども達の理解を深めるため、なのかもしれません。しかし、LGBTという存在が長い間、宗教的に激しく迫害されてきた歴史のある諸外国と異なり、日本は古くから現代に至るまでLGBTには比較的寛容だった社会です。古代から男色は公然の存在でもあったほど。
そんな日本において、なぜあえて今、よりによって教育現場にジェンダーの問題を持ち込むのか私には理解できません。男女相互の理解を深め、男女のあり方についての議論を飛び越え、「男女の区別をなくす教育」がなし崩し的に子ども達に施されることを私は強く危惧しています。
先日、最高裁判所が「からだは男でも、心が女であれば女性であること」を認めてしまいました。身体的な特徴から性別を決めることは出来ないという判決です。こうした判決は、必ずや社会に混乱をもたらします。価値観を安直に変更し、それを強制するこの判決はLGBT理解促進法にもとづくものです。
この法律の趣旨は「自分のからだと性との違和感に悩んできた人たち」への配慮。しかし、自分の性に違和感を感じる「男性」は「からだは女だが男性として扱え」とは主張しません。なのになぜ性に違和感を感じる「女性」は「からだは男だが女性として扱え」と言うのか。それこそが「性差」なのです。
軽薄な理想主義に立つ大人達は「平等」を「違いをなくすこと」「均質なものにすること」だと思っているようです。そして、それを子ども達に教育としてすり込もうとしています。しかし、本来、世の中には「平等」にならないことがたくさんあります。いろいろな人が共生する社会とはそういうものなのです。
子ども達には、それぞれの個性を尊重し、少数に配慮しながら最大多数の幸福を追求するのが健全な社会であると教育すべきなのです。背の低い人は高いところに手がとどかない。力のない人は重いものをもちあげられない。男性は子どもを生むことができない。望んでもかなわないことが社会にはあるのです。
だからこそ、届かないところのものは背の高い人にとってもらい、重いものは力のある人にもちあげてもらう。役割を分担し、足る者と足らざる者が互いに支え合うのが社会。人間は長い歴史を通じてそうやってバランスを保って生きてきたのです。子ども達にはそうした人類の営みを教育しなければなりません。
最近、これまでの社会的価値観を変更する法律が次々とできています。それはまるで個人の思想や信条の自由が国家によって侵害されているのではないか、と思うほどです。でも、そうしたことの問題点を指摘したり、「個人の価値観、社会のあり方に国家が口を出すな」と批判する人がいないのはなぜでしょうか。
外国人旅行者が増え、今では月に数百万人の観光客が日本を訪れています。訪日する観光客は皆、日本の文化、日本の景観、日本人の国民性の素晴らしさを口にします。混乱が続く混沌とした現在の世界情勢と比べれば、外国人観光客たちの評価は決して大げさではないと思います。
しかし、日本や日本人の良さが、最近、変質してきているように感じます。にもかかわらず、その変化を「グローバルスタンダード」だとして気にとめない人が少なくありません。日本は日本の良さを守り、次の世代に引き継いでいくことがいかに重要であるかを、今、あらためて認識すべきです。
国家によって価値観の変更を強いられるかのような昨今のながれは、次々と作られる促進法や増進法といった法律によってあらたなビジネスを生み出しています。いわゆる「平等ビジネス」「貧困ビジネス」あるいは「差別ビジネス」がそれです。まるで促進法や増進法がそのビジネスのためにあるかのようです。
これらは法律にもとづいて公金を吸い取っていくビジネスモデル。政治家や官僚がそのグルになっているのかどうかはわかりません。しかし、本当に社会に必要な法律なのかについての議論もなく、悪意ある人たちによってまんまと利用されているのではないか、と疑いたくなるほど拙速です。
これまでの記事でも繰り返してきたように、世界は歴史の大きな転換点にあります。地球上の至るところで大きなうねりが起ころうとしています。その世界の荒波の中で日本が生き残るためにどうすればいいのかを真剣に考えなければなりません。しかし、多くの日本人はそうした世界の現状にはほとんど無関心です。
それはまるで童話「蟻とキリギリス」のキリギリスのように見えます。国民は脳天気でもいいでしょう。でも、深刻なのは、日本が世界の大きなうねりに飲み込まれようとしているのに、日本の舵取りをするお馬鹿さん達はそれに気付いていないこと。「聴く力」はもう結構。知性と理性でしっかり舵取りしてくれ。
過日、6月1日(土)に札幌に行ってきました。北大医学部の同窓会があったからです。ほとんどの同級生とは卒業してから一度も会っていません。本当に久しぶりで、懐かしい再会でした。
到着した千歳空港は曇り。今にも雨が降り出すのではないかと思われるほど雲は厚く、せっかくの北海道なのにと心もちょっと曇ります。
実は、今回の札幌訪問には長男も同行しました。北広島市にできた新しい球場「エスコン・フィールド」での「北海道・日本ハムファイターズ」のデイゲームを観戦するためです。
長男は札幌で生まれ、幼稚園に入園する直前まで札幌に住んでいました。息子にはその当時の記憶はほとんどありません。しかし、彼にとって札幌生まれは自慢です。
千歳空港に到着し、息子はエスコン・フィールドに電車で直行。私はバスにのってのんびり札幌へ。あれだけ曇っていた天候は急速に回復し、札幌に着く頃にはすっかり青空になっていました。
10年ぶりの札幌駅周辺は綺麗に整備され、北大のある北口はおしゃれな街並みになっていました。私が北大に入学したころ、札幌駅は古びた田舎の駅舎で北口あたりはいくつかの旅館があるぐらいでした。
同窓会は夕方からだったので、荷物をコインロッカーに預けて散策することに。北大の正門から入って中央ローンを歩くと、無数のポプラの綿毛があたりを漂っていました。これもまた懐かしい景色です。
北大の構内はとても広く、南北の距離を測れば2.5kmにも及びます。そのメインストリートを歩くと、構内にコンビニなどの新しい建物が出来ているのに驚きました。でも、雰囲気は学生のときのまま。
土曜日だったこともあり観光客もちらほら見かけましたが、嬉しそうにスマホで写真を撮りまくっている私自身がいかにも観光客のようだったかもしれません。
北大病院のだだっ広い駐車場にはさすがに一台の車もなく閑散としていました。私が卒業したときにはすでにこの病院は完成していましたから、その建物もできてすでに40年がたちました。
同窓会には四十数名が参加しました。同期は全部で120人いましたから、出席者は決して多いわけではありません。それでも、2時間ほどの短い時間に声をかけてまわるのにはちょうどいい数でした。
遠くは京都や神戸、和歌山など地元に帰った同級生も出席。容姿は多少変われど、雰囲気は学生の時のまま。私もすっかり学生のときに戻ったような気持ちになりました。
同窓会を終えて、息子と夕食を共にしました。当初は蟹料理を食べに行こうと話していたのですが、土曜日なのでどこも予約が一杯。しかたなく牛タン料理を食べてきました。
翌日はレンタカーを借りて富良野に行きました。この日も雲ひとつない快晴。富良野は、学生時代はもちろん、新婚当初もたびたび行っていたお気に入りの場所です。
朝早く札幌を出て、富良野周辺をまわって昼食をとり、3時頃には札幌に戻るとちょうどいい日帰り旅行。この日も早朝に札幌を出発。懐かしい高速道路を北上すると、北海道らしい景色に心は躍ります。
富良野は昔のまま。遠くに大雪山系を望む眺望に、思わず何度も車をとめて写真をとっていました。そして、「くまげら」という食堂でローストビーフ丼を食べて千歳空港に戻ってきたのでした。
夕方の便で帰るはずだったのですが、当日の羽田はどしゃぶりの雨。搭乗する便は出発がどんどん遅れ、羽田についたのが夜の10時近く。かろうじて開いていたお店に入って遅い夕食をとって帰宅しました。
翌日からは通常診療でした。でも、北海道での二日間の興奮はさめやらず、疲れを感じることもなく、リフレッシュした気持ちで仕事をしていました。しかし、問題はそこからでした。
その二日後、私はコロナウィルスに感染していることがわかりました。結果として一週間ほどクリニックをお休みせざるを得なくなりました。こんなこと初めてです。
水曜日、当院は休診です。休診といっても、家でゴロゴロしているわけではなく、調べものをしたり、書き漏らしたカルテ記載を済ませたり、紹介状を書いたり、往診や学校検診に充てています。
具合が悪くなったあの日、午前中は小学校の健康診断に行きました。健診が終わって、クリニックにもどってくるまではいつもと変わらぬ水曜日。その午後あたりから体調に変化がありました。
北海道にいった疲れと健診の疲れとでだるくなってきたのだろうとたかをくくっていたのですが、徐々にのどの痛みと節々の軽い痛みが・・・。とっさに「これは発熱か?」と思いました。
夕方までクリニックで様子を見ていましたが、体調はどんどん悪くなるばかり。クリニックの非接触型体温計を首に当てて体温を計ると37℃を超えています。「この症状はコロナ」と直感しました。
熱がではじめて間もないので、夜までクリニックで待機して抗原検査をすることにしました。すると予想は的中。コロナの抗原検査は陽性。明日からの診療は無理だと判断しました。
しかし、薬の処方ができないとなれば、定期薬のなくなった患者さんに迷惑をかけます。私がいなくても最低限の処方ができるように手はずを整えて私は帰宅しました。
自宅ではすでに隔離される場所が確保されていました。二階のトイレの前の納戸です。布団一枚がかろうじて敷けるスペースに準備が整えられていました。
私は帰宅するとその納戸に直行。以来、コロナの抗原検査が二回連続で陰性になるまでの7日間をここで過ごすことになりました。家族とはLINEでやりとりするのみです。
納戸に頼んだものを持ってくる家内はマスクをかけ、廊下ですれ違う息子達は顔を背けて足早に立ち去っていきます。なにか自分が汚いものになったかのよう。
でも、狭くて、薄暗い納戸での療養は決して苦痛ではありませんでした。そもそも学生時代は狭くて古い木造アパートに住んでいました。手を伸ばせばなんでも届く生活がむしろ懐かしいくらい。
体温は38℃台が続き、全身の関節痛とともに倦怠感があり、寝返りを打っても身の置きどころのないような不快感にさいなまれていました(インフルエンザの症状と変わりません)。
食欲はほとんどありません。無理に食べようとせず、そのかわりに水分だけは積極的にとろうと考えていました。今思うとそれは正しい対処法だったように思います。
実は初日、食事もしないでいたのに、水分もあまり摂ろうとしませんでした。その深夜、トイレに起きたとき、軽いめまいと嘔気が私を襲ってきました。「この感覚、以前にもあった」と私は思いました。
そうです。それは私が熱中症になったときと同じ症状でした。私は「おそらく脱水状態になっている。だから熱中症と同じ症状がでているのだ」と確信しました。
私は「排尿中に血圧はさらに下がるはず。意識を失わないようにしなければ」と自分に言い聞かせました。案の定、強い脱力感とともに意識が遠のいてきたので、急いで納戸の布団に戻って横になりました。
納戸がトイレの前でよかったです。一歩、二歩、足を踏み出すのもキツいほどフラフラでしたから。熱中症のときとまるで同じ。私は水筒に入った冷たいスポーツドリンクをがぶ飲みしました。
普段、患者さんに「発熱後24時間はできるだけ解熱しないで下さい」と説明しています。私もしばらく体温を下げず、次第にひどくなってきた咳と鼻水の薬だけを服用することにしました。
でも、一向に体温は下がりません。関節痛や倦怠感も続きました。体力が落ちてきたことを感じはじめたことから、一日に一回だけ解熱剤を使うことにしました。
いい機会なので、熱発のときに処方するアセトアミノフェン(カロナール)と、主に痛み止めとして処方するロキソニンで効果がどのくらい違うのかを比較してみようと私は考えました。
そして、わかりました。アセトアミノフェンの方が解熱作用に即効性はあるが、関節痛や倦怠感をともなう熱発の時はロキソニンの方が楽になる、ということを。
アセトアミノフェンは体温中枢に働きます。一方、ロキソニンは肝臓で代謝を受けてから各組織で抗炎症作用をもたらします。そうした薬の効き方の違いからくるものなのでしょう。
これまで当たり前のように、熱発患者にはアセトアミノフェンを処方していました。小児のインフルエンザ患者には、脳症を発症する引き金になるロキソニンは処方しないからです。
そうした安全性の問題から、多くの熱発の場合、アセトアミノフェンの処方が推奨されています。しかし、今回の経験から、大人であればロキソニンの方がいい場合があることがわかりました。
また、解熱するといったんは楽になるが、やはり治り自体は悪くなるようです。「むやみに熱は下げない方がいい」というこれまでの指導は間違っていなかったように感じました。
結局、最高38.4℃まであがった体温でしたが、熱発して4日目の土曜日の朝には解熱傾向となり、翌日の日曜日には関節痛や倦怠感といった随伴症状もおおむねなくなりました。
普段、患者には「5日間が過ぎて平熱になれば、マスクをしてなら通常の生活に戻っても良い」と指導しているので、私も月曜日からは通常の診療を再開できると簡単に考えていました。
しかし、コロナの抗原検査はなかなか陰性になりませんでした。私たちがコロナウィルスに感染した場合、二回連続して陰性にならないと仕事を再開できないのです。
抗原検査は月曜日も二回とも陽性、火曜日も二回とも陽性でした。いったいいつまで陽性が続くのだろうと、文献を調べてみてびっくり。抗原が陽性になる平均日数はおおむね7日間だったのです。
発熱して8日目の水曜日になってようやく午前に陰性、そして午後にも陰性と出ました。感染力がどれだけ残っているかは別として、抗原検査が陰性になるにはそれなりに日数がかかるようです。
この間、来院した患者さんには迷惑をかけてしまいましたが、定期薬が処方できないといった最悪の状況にはならずに済みました。私のいない間、当院の職員が頑張ってくれたおかげです。
振り返ってみると、熱が出る2日前の月曜日に「熱はさがったが、咽頭痛が残っている」という患者さんを診察しました。このとき、のどを見るためにマスクをはずさせて聴診をしました。
ところがそのとき、患者さんは突発的に咳をし、その咳が直接私の顔にかかったのです。私はマスクをしていましたが、直接咳が向けられると感染はまぬがれないのかもしれません。
ただ、このときの患者さんのためにも申し添えますが、こうしたことはいた仕方ないことです。私たちはそういう仕事をしているのですから気にしないでください。
なお、診療を再開してから、熱発する直前に健診をした小学校に電話してみました。養護教諭に「健診のあと、コロナに感染した児童はいなかったか」と確認しましたが大丈夫とのこと。
健診をしているとき、私の体調に異常はありませんでした。私も子ども達もマスクをし、子ども達に触れる私の手には手袋。よもや子ども達にうつすことはないだろうとは思いましたがホットしました。
今回のコロナ感染の経験からいろいろな教訓を得ました。実体験として今後の診療に役立ちそうです。開業して18年、初めての病気での臨時休診です。みなさんには本当にご心配をおかけしました。
自由と平等は本来、あいいれないものです。自由が過ぎればさまざまな格差が生じ、平等に反する状況になるからです。かつてアメリカは「自由と平等、民主主義の国」でした(子どものころの私はそう思っていました)。でも、今の惨憺たる現状をみれば、自由と平等を両立することがいかに難しいかが容易に理解できると思います。アメリカ合衆国は、1620年に自由を求めて北アメリカ東部の海岸に上陸した100名余りのピルグリムファーザーズと呼ばれた清教徒たちからはじまりました(実際には清教徒は40名あまり)。
プロテスタントである清教徒はそれまで、プロテスタントでありながら実質的にはカトリックである英国国教会から迫害を受けていました。ピルグリムファーザーズたちは、アメリカに向かう船の中で、移住者たちの相互協力とともに、秩序維持のための契約を結びました。「メイフラワー号の誓い」と呼ばれるその契約は、その後、アメリカ合衆国建国の理念となりました。清教徒は厳格なクリスチャンであり、退廃した教義を純化した信仰をアメリカという新天地で実現しようとしたのです。
メイフラワー号の誓いには宗教的な厳格さがあり、入植当初の生活を支えてくれたインディアンが自分たちの「自由」をさまたげる存在になると、異端であることを理由に無慈悲に排除していきました。自分たちの自由を追求するあまりに信仰は寛容さを失っていったのです。アメリカ入植者達は狂信的に西進していき、数百万人から一千万人はいたとされるインディアンを駆逐していきました。また、同じ時期に奴隷商人から安価な労働の担い手として黒人を買い入れ、奴隷労働者として働かせるようになりました。
自由というものは、他の自由を阻害することを前提に成り立つといってもいいかもしれません。そして、結果として、自由なる者と自由ならざる者を生み出します。すべての自由が無条件でいいものではないのです。無条件の自由が認められれば、その社会はやがて無秩序におちいり、混沌と混乱をもたらします。まさに今のアメリカ、これからのヨーロッパがそれなのかもしれません。社会においてはどの程度の自由が許容され、どのような社会のあり方が平等なのかについて合意が必要なのです。
そうした合意を形成するためのシステムが民主主義です。あい対立する自由と平等をどう実現していくかについて民意を反映しようとする仕組みです。しかし、その民意が社会的に成熟していなければ、民主主義はいとも簡単にポピュリズムに陥り、衆愚政治を招くことになります。そして、人々の利害の調整が難しく、社会に不満と不信感が鬱積すると、人々は社会秩序を専制政治に求めるのです。これまでの世界史には、専制から自由、自由から専制へと政治的に大きく振れる実例がいくつもあります。
そう考えてみると、世界広しといえども、日本ほど自由と平等との間で絶妙なバランスがとられてきた国家はなかったように思います。中世のころ、どの国においても女性は劣った存在として見られていました。しかし、日本では古くから女流文学が発達し、平仮名というしなやかな女性らしさを表現する文字までもが生み出されています。そして、平仮名とともに、漢字や男性的ともいわれる万葉仮名、あるいは漢字を簡略化した片仮名などを使って、人々の思いを後世に伝える男も女もない日本独自の文化を築いていきました。
身分社会といわれる江戸時代(実際にはそうでもないのですが、ここでは話しがそれるので詳しく述べません)になっても、街のいたる所で「寺子屋」という教育が子ども達にはほどこされていました。江戸中期、日本の識字率は80%ほどだったといわれています。当時のイギリスの識字率は20%、フランスに至っては10%だともいわれており、当時の日本では学びたいと思えば身分や性別に関係なく学ぶチャンスがあったのです。日本がいかに平等だったかが理解できると思います。
私が「日本を誇りに思えること」のひとつに廃藩置県があります。これはそれまでの250年以上も統治していた江戸幕府が無血開城をし、その権力を天皇に奏上した大政奉還によってなされた武装解除のことです。全国には250とも300ともいわれた藩が一斉に統治権を天皇と明治政府に引き渡したのです。当時は100万石の加賀藩や80万石の薩摩藩はもとより、数万石ほどの小藩までさまざまな藩がありました。しかし、いくつかの藩で散発的に反乱が起こりましたが、おおむね粛々と廃藩置県に従いました。
各藩の藩主には明治政府から年金が与えられました。その一方で、臣下たちはそれぞれの俸禄に応じたわずかな一時金はもらえたものの、おおかたの人は武士という身分から一般庶民へと放り出されました。ある武士は農民となり、また別の武士は商人となるなどして人生が大きく変化したのです。身分社会の頂点にあった武士から一転して平民として生きていくことの困難さはいかばかりだったでしょうか。しかし、弱肉強食の国際社会に飲み込まれないためには、新国家に生まれ変わらねばならないことを彼等は知っていました。
仕えるべき藩主を失った武士達は、明治という近代国家建設のために獅子奮迅の働きをしました。日本の若き秀才達は、欧米に直接おもむき、有力者の助言を受け、近代国家はどうあるべきかを徹底的に研究しました。そして、自由、平等、民主主義という近代国家の諸要素を明治政府は身につけようとしたのです。と同時に、次々と欧米列強の植民地となっていくアジア諸国の非情な現実から、国際社会において独立国家として生き抜き、維持するためには国家としての強さが必要だということにも気が付いていました。
そこで明治政府は富国強兵を推進しました。と同時に、幕末に次々と締結された欧米各国との不平等条約の改定を急ぎました。すでに産業革命によって大国になっていた欧米列強。そんな彼等の植民地として隷属しないためにやむなく締結された不平等条約。しかし、日本の国富を次々と持ち出される現状を変えるためには、欧米とは法的に平等な立場になる必要があったのです。その結果、日本はアジアの雄として急速に台頭していきました。そして、それを象徴することが明治維新の25年後に起こりました。
明治維新後、日本からハワイに移民が渡っていきました。勤勉で正直、親切で宥和的な日本人移民はハワイの国王らに歓迎されていました。当時の日本はハワイを対等国家として認めた通商条約を結んでいました。一方、アメリカも捕鯨活動の重要な補給基地としてハワイに目をつけていました。イギリスやフランス、スペインもやってきました。しかし、それらの国々は、対等な条約を結んでいた日本とは異なり、武力をちらつかせて国王をおどし、ともすればハワイを植民地にしようと狙っていたのです。
すでに北アメリカ大陸の多くを国土にしていたアメリカのやり方は狡猾でした。ハワイへのアメリカ人移民を徐々に増やすと、ハワイの各地で騒乱を起こしました。そして、「アメリカ人保護」を口実に海兵隊を投入して占領しようとしたのです。そこでハワイの国王は日本に援軍を求めました。実はその5年前、日本からのさらなる移民を求めてハワイの国王は東京を訪問しました。でも、真の目的は、ハワイの王女を皇室に嫁がせたいという希望を明治天皇に伝えるためでした。それほどまでにアメリカの脅威は深刻だったのです。
結局、前例がないことから女王を皇室に嫁がせるという国王の望みは叶いませんでした。しかし、日本はハワイの求めに応じて東郷平八郎が率いる軍艦2隻を派遣します。日本の軍艦がハワイ沖に出現したとき、現地の人たちは涙を流して喜んだといいます。その結果、アメリカが企んでいた騒乱は一時的に影を潜めました。日本は約半年にわたってハワイに軍艦を駐留させます。ところが、翌年に日清戦争をひかえていた日本は2隻の軍艦を撤収させます。するとまもなくハワイ国王は追放され、アメリカに併合されました。
ハワイを併合する50年前、アメリカはメキシコから今のテキサスやカリフォルニアの土地もハワイと同じような方法で奪い取りました。当時のメキシコの領土は北アメリカ大陸の半分を占めていました。しかし、アメリカはたくさんの不法移民を国境付近に移住させ、テキサス地方を共和国として独立させるとそれを承認・併合して自国としたのです。カリフォルニア地方は戦争をして奪いとりました。今、アメリカに国境を超えて流入してくる不法移民には「ここはかつてメキシコ」という意識があるのかもしれません。
アメリカがメキシコにしたことは、今、ロシアがウクライナにしていることと同じ。メキシコ国境からアメリカに難民が流入している現在の状況も、かつてアメリカがメキシコにおこなったことと同じです。反米の立場をとる国家に対しては、今でもその国内を混乱させ、国民を扇動して政権の転覆をはかっています。あるいは日本軍が真珠湾を攻撃したときと同じように、相手国に戦争をしかけてくるよう仕向けて反撃するという方法も繰り返しています。アメリカはまさに歴史を繰り返しているのです。
世界史を俯瞰すると、これまでのアメリカの覇権主義の歴史は、共和制から帝国となったローマの歴史に酷似しています。イタリア半島の都市国家だったローマは、もともとギリシャの政治制度をもとにした共和制をとっていました。周辺諸国からの移民を積極的に受け入れ、多様な人種、宗教、文化を受け入れる鷹揚さによって発展しました。そして、ローマはゲルマン民族を傭兵として雇いいれ、重装歩兵として強力な軍隊を持つにいたると周辺諸国を屈服させて、懐柔しながら勢力を拡大していきました。
しかし、戦争を繰り返し、国家が大きくなればなるほど、豊かになればなるほど社会の格差は拡大しました。そして、ローマ民主主義の根幹をなしていた元老院や民会は腐敗し、社会には汚職や暴力が横行するようになります。その結果、人々の不満や不安は高まり、政治の機能が行きづまりはじめ、ついにオクタウィアヌスが実権を掌握して皇帝に就任。共和制ローマはローマ帝国となりました。ローマ帝国はその後、農耕を奴隷農民に、守りを異民族の傭兵に頼ります。その一方でローマの人たちの市民意識は低下するのです。
ふたたび社会に安定を取り戻して繁栄したローマ帝国でしたが、為政者の慢心と対立によって社会はふたたび混乱します。富める者はさらに富み、没落する者はさらに没落していくと、社会を支えるべき中産階級が減少していったのです。そして、国内は不安と不満に支配され、異民族の侵入をきっかけにローマ帝国は東西に分かれます。東ローマはビザンツ帝国となり、西ローマ帝国は異民族の侵入によって滅亡してしまいます。そうした様子は、エスタブリッシュメントに支配される今のアメリカの未来を暗示しているようです。
市民、国民の帰属意識は国家が存続するために重要です。強大で強力なアメリカ合衆国が維持されてきたのは、まさに合衆国に対する忠誠があればこそです。アメリカの学生は授業が始まる前に次のような宣誓をします。「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備え、分割すべからざるひとつの国家としての共和国に忠誠を誓う」と。最近は形式的に宣誓する子ども達が増えているようですが、多くは移民の子孫からなるアメリカ合衆国では帰属意識を醸成するために役立っているはずです。
アメリカ合衆国は州という共和国の集合体。だからこそ各州には州憲法があり、州最高裁判所があり、州軍や州警察があるのです。ネイティブ・アメリカンを放逐する一方で、世界中からやってきた移民とその子孫で繁栄したアメリカ。そのモザイクのような「アメリカという国家」を維持していくには帰属意識が必須です。しかし、情報網が発達し、いろいろな情報を手にすることができるようになった今、自国の「自由と正義」、「平等と民主主義」に疑問を持つアメリカ国民が増えているといいます。
アメリカの侵略と繁栄の歴史には、合衆国憲法が宣誓する「自由と正義」、「平等と民主主義」とは相容れない側面があります。第二次世界大戦後、とくに近年においてそれが顕著になっているようにも見えます。現在のアメリカは、その「自由と平等」や「正義」がBMLやLGBT運動に代表されるポリティカル・コレクトネス(政治的に偏った「正当性」)によって変質しています。それはまるで「おぞましい自由」と「倒錯した平等」によって「正義」が乗っ取られてしまったかのようです。
最近の我が国もそうした傾向が顕著です。それは政治家がバカだからなのですが、日本人の多くが戦後教育を受けてきた人たちで占められるようになったこととも無縁ではありません。戦前の教育にも誤りはあったにせよ、戦後の教育にはそれよりも遙かに深刻な問題があると思います。それを論じることは今回の主題ではないので控えますが、戦後教育によって日本人はものを考えなくなったように思います。たやすく周囲にながされる鈍感な国民を量産したのです。まさに53年前の三島由紀夫の予言どおりの日本があります。
歴史の転換点ともいえる今、アメリカの行く末は日本の行く末でもあることを再認識すべきです。日本で起きていることはもちろん、世界で起きていることに刮目し、自分のあたまで考え、判断できる日本人が増えなければ、混沌とする世界に日本は飲み込まれて消滅してしまいます。無関心に逃げ込まず、かといって教条主義に陥らず、何人にも利用されず、誰からも強制されない思考力をもちたいと思います。それが本当の意味での「自由であること」であり、「真の平等をもたらすこと」だからです。