運命について(4)

1850年8月、万次郎の乗ったアメリカの捕鯨船イライザ号はハワイ・オアフ島に到着しました。イライザ号は蒸気船で、それまでの捕鯨船の2倍はあるかという大きさです。カリフォルニアを出発してから二週間あまり。あっという間にハワイに着いてしまいました。万次郎は早速、島に住んでいた寅右衛門の家をたずねていきました。そして、伝蔵と五右衛門も呼び寄せて、帰国するという自分の強い意志を三人に告げました。伝蔵と五右衛門は万次郎の決意に共鳴し、自分たちも一緒に帰国したいと言います。しかし、寅次郎だけが表情を曇らせたのを万次郎は見逃しませんでした。しばらく黙っていた寅右衛門は重い口を開きました。

「伝蔵も五右衛門も、以前、日本に帰ろうとしたがうまくいかなかった。また命がけで帰国を試みてもうまくいくとは限らない。俺はここでの生活に慣れ、仕事もでき、嫁ももらった。だから、この土地で一生を終えてもいいと思っている」。淡々とそう語る寅右衛門に、万次郎ら三人は「一緒に日本に帰ろう」と繰り返し説得します。しかし、彼の気持ちが変わることはありませんでした。万次郎たちは寅右衛門を翻意させることが難しいとわかりました。そして、三人で帰国の準備を進めることにしました。万次郎は採掘した金と交換できた銀貨600枚あまりで、上陸用の小型の船などの必要なものを購入していきました。

万次郎らと小舟一式を乗せてくれ、琉球付近で降ろしてくれる船を探しました。三人には希望があふれ、そのまなざしには「必ず帰国を果たしてみせる」という決意が感じられます。そんなとき、一隻のアメリカ船がオアフ島に入港してきました。その船には五人の日本人が乗っていました。万次郎は彼らに会いに行きましたが、五人は紀州の荷を乗せて江戸まで運び、その帰りに嵐に会って遭難したとのこと。運良くアメリカの船に助けてもらい、中国に向かう船に乗り換えてハワイまで乗せてきてもらったところだといいます。「彼らと一緒に帰れるかもしれない」。万次郎は希望が現実のものになってきたように感じました。

紀州船の船員たちには、彼らが乗ってきた中国行きの船の船長を紹介してもらいました。ところが、その船長と万次郎がささいなことでトラブルとなってしまったのです。船長は万次郎だけは乗船させたくないと言います。紀州船の人達が取りなそうとしましたが、船長は「どうしてもダメだ」と頑なです。万次郎は伝蔵と五右衛門に「自分のことは気にしないで行ってくれ」と言います。しかし、「それはできない」と、ふたりと万次郎の押し問答は続きました。結局、「万次郎ひとりを残して行くわけにはいかない」ということに。紀州船の船員たちは三人に同情してくれましたが、万次郎たちは船を涙で見送ることにしました。

万次郎には複雑な思いがありました。それは「カリフォルニアで大金を稼いでくる」と告げて別れてきたウィンフィールド船長のことです。今回の帰国のことを船長にはまったく相談せずにハワイに来てしまいました。船長は自分がフェアヘブンの自宅に帰ってくると思っているに違いない。そう考えただけで、自分に教育をあたえ、ここまで育ててくれた船長にはとても大きな不義理をしているように思えてならなかったのです。今回の帰国がもし失敗すれば、自分は命を失うかもしれません。そうなれば船長との再会は二度とかなうことはないのです。万次郎は船長に手紙を書きました。

 

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「あなたには幼い頃から大切に育てていただきました。このように成長することのできた恩義を、私は決して忘れません。なにひとつ恩返しができないまま、私は日本に帰国しようとしています。恩知らずのこの行動をどうかお許しください。もし生きて帰国をはたすことができ、世の中が変わって事情が許せば、ふたたびお目にかかれる日がやってくるでしょう。どうか寛大なご慈悲をもって私をお許しいただければ幸いです。」

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ハワイ・マウイ島に中国・上海行きのアメリカ船が入ってきました。しかも、その船では乗組員を募集しているといううわさです。日本に帰国するチャンスがいよいよ訪れたのだ、と万次郎は思いました。用意した小舟とともに三人をその船に乗せてもらい、琉球が近くなったら降ろしてもらえばいいのです。その船の船長の名前に万次郎は聞き覚えがありました。そのことを頼りに船長に直談判してみることにしました。「私たち三人は日本に帰国する決心です。なんとか日本近海まで船員として雇ってもらえないだろうか」。しかし、船長はあまりいい顔をしませんでした。「途中で船員がいなくなるのは困る」というのです。

万次郎は船長に言いました。「他の二人は大型船の仕事には慣れていない。仕事という仕事はほとんどできないだろう。しかし、二人の分まで私が必死に働くので彼等もこの船に乗せてもらいたい。私たちには給与はいらない。もし、日本の沖で二人を降ろしてもらえれば、私だけは中国まで働き続けるのでどうかそれでお願いしたい」。万次郎の言葉を聞いて、船長は渋々三人の乗船を認めることにしました。万次郎たちは、あらかじめ用意していた小舟や帆、櫓などを船に積み込むと、三人をふくむ18人の乗員を乗せた船はハワイを出港しました。遭難してから10年という歳月が過ぎていました。

日本までの長い航海を三人はどのような思いで過ごしたことでしょう。その間、万次郎は船長が目を見張るような働きぶりだったに違いありません。伝蔵と五右衛門も、慣れないながらも誠意をもって働いたのでしょう。航海中の三人の様子に、当初は渋々受け入れた船長も、彼等がいかに祖国に、故郷に戻りたかったかが伝わってきたようです。いよいよ琉球が近づいてきたとき、船長は万次郎を呼び寄せて尋ねました。「君はこのまま中国に行くということでよいか」。そう確認する船長に万次郎はきっぱりと答えました。「伝蔵と五右衛門は琉球に到着したら下船させてください。私はこのまま中国まで働きます」。

そう言い切った万次郎のまなざしを見つめながら船長はしばらく黙っていました。そして、万次郎の覚悟を確かめたかのように船長は静かな口調で言いました。「この先の航海で船員が足らなくなるのは困る。しかし、私はそれを我慢することにしよう。君も彼らといっしょに下船しなさい」。その船長の言葉を聞いた万次郎の目からはとめどもなく涙がこぼれおちました。琉球まであと少しとなったころ、船長は船をできるだけ陸地に近づけるよう船員に指示しました。いよいよ三人が日本にもどる時がやってきたのです。「琉球はもう目の前だ。心配することはない。きっと上陸できる」と船長の目にも涙がにじみました。

船長は下船の準備に忙しい万次郎を呼び止めました。そして、一枚の航海図を広げると「ここは上陸には向いていないからここから試みたまえ」と助言してくれました。「もし万が一、上陸が難しいとなったら戻ってきなさい。我々は君らの上陸を確認するまでここにとどまっているから」と食料を渡しながら言いました。上陸用に購入した小舟に、万次郎たちは「アドベンチャー号」と名前をつけました。そのアドベンチャー号は、万次郎、伝蔵、五右衛門を乗せ、日本の海岸を目指して冒険(アドベンチャー)をはじめるのです。三人は船長や乗組員たちに謝意と別れを告げ、小舟に乗り込みました。

沖の波は思いのほか高く、小舟を木の葉のように大きく揺らしました。万次郎は小舟の帆を張り、船長が示していた海岸に向けて舵をとります。しかし、ときに押し寄せる大波に、舟は遭難したときのように押し流されていきます。なんども転覆しそうになりながら、必死に舟を立て直そうとする三人。恐ろしさのあまり、顔をひきつらせた五右衛門が「もうだめだ。どうしたらいいんだ」と泣き叫びます。そんな彼を叱りつけながら櫓をこぐ万次郎。それはものすごく長い時間が経ったように感じました。ついに、三人はなんとか入り江までたどり着くことができました。沖合に停泊していた船は、それを確認して中国に出発していったのでした。

 

*********************** 「運命について(5)」につづく

 

運命について(3)

「万次郎にアメリカで教育を受けさせたい」。ウィットフィールド船長の教育を重視するこうした姿勢は会衆派教会の教えでもありました。アメリカにやってきたピューリタン(清教徒)の信仰を色濃く残していた会衆派は、同志社を創設した新島襄がアメリカで洗礼を受けた宗派としても有名です。新島襄は若いころ、日本に帰国した万次郎が教授をしていた幕府の軍艦操練所に入学していましたが、やがてアメリカの政治制度やキリスト教精神に強い関心を持つようになりました。そして、1864年、アメリカに渡ってキリスト教を学ぶことを決意した新島は、商船に乗って新大陸への密航を果たしたのです。

アメリカでの新島襄には、身寄りも、頼る人もいません。しかし、会衆派のある篤志家が、「聖書を学び、帰国して学校を作りたい」という彼の志に感銘を受け、「ジョウには教育を与えるべきであり、私が彼の生活の一切を援助する」と申し出ました。新島襄や万次郎が暮らしたアメリカ北東部には、こうした敬虔なプロテスタントが当時数多くいました。新島襄はその後、会衆派教会で洗礼を受け、同派が設立した名門アーマスト大学に進学して日本人初の学士号をとります。そこで彼は、後に札幌農学校に赴任するクラーク博士に化学を教わりました。そして、さらに神学校に進んだ新島は、帰国後、志どおりに同志社大学を作ります。

ウィットフィールド船長にとって、万次郎は自分の息子のような存在でした。それには理由がありました。航海の直前に船長は再婚したばかり。その2年前に前妻が亡くなっていたのです。その後、男の子が産まれますが、その子も二歳になってすぐに亡くなってしまいました。悲嘆にくれる船長夫妻を町中の人が気の毒に思うほどでした。そんな夫妻のもとにやってきた万次郎は、まさに自分たちの子どものように感じたに違いありません。だからこそ、その万次郎が教会で「黒人の席に座れ」と言われたとき、いつもは温厚で人格者だった船長が「万次郎に対する扱いは人種差別だ」と憤慨して教会をあとにしたのでしょう。

成長した万次郎は、アメリカの船員学校で優秀な成績をおさめていました。そして、今度は正式な船員として捕鯨船で航海に出ることになりました。万次郎が乗船するフランクリン号の船長はかつてジョン・ハウランド号の乗組員。ニューベットフォードの港から、補給基地だったマニラに向けて出発することになっていました。船が出航してしばらく進むと、大砲を積んだ大きな軍艦が何隻も停泊するボストン港に入りました。当時、アメリカとメキシコは戦争のまっただ中。両国ともに戦力を増強して戦争が終る気配はありません。海岸には砲台が何基も並び、まるで城塞のような様相にただならぬ雰囲気を漂わせていました。

その後、フランクリン号は大西洋を南下します。航海の途中、いくつかの島に寄港しながら燃料と食料を補給しました。遠く小笠原の近くまで来ると、二十隻ほどの漁船が鰹漁をしていました。どうやら日本の漁船のようでした。万次郎は船の舳先に立って声をかけます。「ここはなんという国ですか?」。すると、真っ黒に日焼けしたひとりの漁師が「陸奥の国、仙台だ」と答えました。久しぶりに耳にする日本語でした。万次郎は故郷である土佐の方角を聞いたものの、漁師は土佐のことを知らないようすです。万次郎は少し落胆しましたが、漁師に謝意を述べ、船はハワイを目指して出発しました。

ハワイは一緒に救出された4人と別れた場所。ハワイに到着した万次郎は街の人に「どこかに日本人はいないか」と聞いてまわります。そして、ひとりの日本人が住んでいるという家を教えてもらい、たずねてみることにしました。その日本人は寅右衛門でした。容姿が変わっていたせいか、彼ははじめ万次郎だとは気づきません。しかし、その訪問者が成長した万次郎だとわかると、二人は抱き合って五年ぶりの再会を喜びました。ところが、他の三人の姿はそこにはありません。寅右衛門が言うには、重助は怪我がもとで死んでしまい、伝蔵と五右衛門は日本に帰るために船に乗って行ってしまった、とのことでした。

寅右衛門との再会をはたし、フランクリン号に戻った万次郎は、ふと沖の方に目をやりました。港に入ってくる捕鯨船に、二人の日本人が乗船しているという噂を聞いたからです。万次郎はさっそくその船の日本人に会ってみることにしました。船の近くまで行ってみると、その二人は伝蔵と五右衛門だということがわかりました。肩をたたき合って久しぶりの再会を喜ぶ三人。「ふたりは日本に帰ったと寅右衛門から聞いたけど・・・」。そうたずねると二人は「八丈島と蝦夷まで行ったが帰国がかなわなかった」と涙ながらに語りました。二人の話しを聞きながら、「日本に帰りたい」という思いが万次郎にはこみ上げてくるのでした。

伝蔵と五右衛門との話しはつきませんでしたが、フランクリン号は万次郎を乗せてハワイを出発しました。そして、1848年2月、船はマニラに向かう直前、グアムに到着しました。しかし、このころから船長が精神に異常をきたします。わけのわからぬことを言ったり、暴れるようになってきたのです。マニラに到着すると、彼をアメリカ領事館に預けることにしました。そして、それ以後は万次郎が船長代行として船を進めることになったのです。マニラの新聞では、アメリカの商船が日本に帰港し、領事館を作らせてほしいと求めたものの、幕府は拒否したと報じていました。「帰国はそう簡単ではないようだ」と万次郎は思いました。

40ヶ月におよぶ長い航海を終え、フランクリン号はニューベットフォード港に戻りました。万次郎はウィットフィールド船長の自宅を訪れ、無事帰港したことを報告しました。船長は万次郎の成長ぶりに感心し、無事帰還したことを喜んでくれました。しかし、万次郎の表情はさえません。ハワイで伝蔵・五右衛門、寅右衛門と再会して以来、日本に帰りたい、土佐に戻りたいという思いが高まっていたからです。なにより土佐に残してきた母のことが頭を離れません。アメリカに来てからの八年間というもの、万次郎は、言葉を覚え、新しい知識を吸収するのに必死でした。母や故郷のことを考えている暇などなかったのです。

ハワイで生活している三人もまた家族や故郷のことを忘れていませんでした。伝蔵や五右衛門は何度か日本への帰国を試みたものの失敗を繰り返していました。重助に至っては傷がもとで亡くなり、帰国することはかないませんでした。「重助もどんなに悔しかっただろう」と思うと、万次郎には「日本に帰ってもう一度母に会いたい」という感情があふれてくるのです。そんな中、アメリカがメキシコとの戦争で割譲させたカリフォルニアが、今、空前のゴールドラッシュに沸いていることを万次郎は知ります。その金山で働いて、日本に帰る資金を作れないものだろうか。いつしか彼はそんなことを考えるようになっていました。

迷ったすえ、万次郎はウィットフィールド船長に相談してみることにしました。でも、これまで育ててくれた船長夫妻に、「日本に帰りたい」などと言い出せません。そこで万次郎は「カリフォルニアに行って金を掘って来たい。ひと財産を築くことができれば、一生楽な生活ができるかもしれない」と船長に切り出します。しかし、万次郎の性格を理解していた船長は、それが彼の本心ではないことを知っていました。「マンジロウはきっと日本に帰りたいに違いない」。伏し目がちな万次郎を見ながら、船長はそう思いました。「そうか。頑張ってきなさい」と万次郎と握手する船長。でも、その目には涙がにじんでいました。

はるばる船でやってきたカリフォルニア。そのサンフランシスコには近代的な港があって、街はとても栄えていました。そこからさらに蒸気船で川をさかのぼるとサクラメントに。万次郎は街の郊外にある金鉱で働くことにしました。雇われ鉱夫としての不慣れな仕事でしたが、見よう見まねでコツをつかんでいきます。多少のお金が入ると採掘道具を購入して、今度は自分で金を採りはじめました。金の採掘量は日増しに多くなっていきます。掘り出した金を横取りする’ならず者’に襲われぬように気をつけながら、万次郎は黙々と金を採り続けました。すると、70日ほどで日本に帰るためには充分なお金が貯まったのでした。

万次郎はハワイまで乗せてくれる船を探しました。彼は、そこで伝蔵と五右衛門、寅右衛門をひろって一緒に帰ろうと思っていたのです。万次郎は念入りに計画を練りました。四人が乗れる小舟や櫓、帆、食料などをハワイで用意し、日本の近海に来たらその舟を下ろしてもらうのです。より安全に岸に近づくためには琉球付近から入国するのがよさそうです。ハワイのオアフ島に向かう船を見つけ、さっそくその船長と乗船する交渉をしました。すると、すぐに交渉はまとまり、船に乗れることになりました。万次郎は不安と興奮の入り交じった気持ちを抑えながら船に乗り込みます。いよいよ帰国への第一歩がはじまりました。

 

************************ 「運命について(4)」につづく

運命について(2)

万次郎がアメリカで航海術や造船技術を学んでいたとき、世界のいたるところで「歴史の転換点」ともいうべき変化がおきていました。産業革命後のイギリスは、すでに植民地にしていたインドを足がかりに、中国(清)に進出しようと考えていました。中国からのお茶の輸入が急増し、イギリスが大量の銀を支払っていました。そこで、イギリスーインドー中国という三角貿易を利用し、インド産のアヘンを中国に持ち込んで貿易赤字を解消しようとしたのです。その結果、多くの中国人がアヘン中毒となり、中国国内からは銀が流出していきました。アヘンの蔓延は中国にとって見過ごすことのできない問題でした。

清政府はアヘンの中国への持ち込みを阻止しようとしました。しかし、イギリスの船に積載されたアヘンが没収されたのをきっかけに、イギリスは戦争をしかけて中国に開国と自由貿易を認めさせようとしたのです。これが1840年のアヘン戦争です。軍の近代化が遅れていた清は、強大な軍事力を持つイギリスに敗北しました。そして、不平等な南京条約を結ばされ、香港をイギリスに割譲。いくつかの港湾もイギリスに解放することになりました。フランスやアメリカも同様の条約を締結するよう清に迫り、中国は欧米の半植民地のようになってしまったのです。その結果、中国国内では外国勢力に対する反発が高まっていきました。

条約が締結したにもかかわらず、清政府は条約違反を繰り返していました。そして、フランス人宣教師が殺害されたのをきっかけにアロー戦争が起こりました。戦争を仕掛けたのはフランスとイギリスです。のちにアメリカとロシアも終戦交渉に加わりました。当時の江戸幕府は鎖国をしていましたが、その戦争のことを知っていました。それは長崎・出島のオランダ商館の館長が、幕府に逐次報告していたからです。長く鎖国を続けていた幕府ですが、長崎の出島を指定して、オランダや清、朝鮮とのみ交易を続けていました。外国人は出島から出ることが制限されていましたが、オランダには出島に商館を作ることが許されていました。

オランダが優遇されていたのは、オランダがキリスト教の布教を望まず、交易のみを目的としていたからです。そして、幕府は交易を許すかわりに、そのときどきの国際情勢を「オランダ風説書」として報告させていたのです。この風説書によって幕府は、世界でどんな変化が起きているのかを知ることができました。ヨーロッパでキリスト教の宗教改革が起こったこと、小国同士の内戦が繰り返され、今の国際法の原型となるウェストファリア条約ができたこと。ナポレオン戦争があり、アメリカという新国家ができたこと。さらにはイギリスで起こった産業革命のことや、欧米列強による植民地政策のこともオランダは報告していました。

そんなこともあり、江戸幕府はやがて欧米列強がやってくることを知っていました。産業革命が起こったヨーロッパの強国が、資源を求めてアジアの小国家を次々と武力で奪い取ってきたからです。当時の日本は世界でも有数の金・銀の産出国でもあったため、なおさら標的になっていたに違いありません。そこで1825年に異国船打払令を出し、日本の港に入港しようとするすべての外国船を拒絶することになりました。薩摩藩や長州藩などでは、1830年ごろから藩を近代化する改革をはじめました。そんな中での1837年、救助した日本人を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号を幕府が砲撃するという事件が起こりました。

幕府は、その翌年のオランダ風説書によって「モリソン号は人道的な目的で入港しようとした商船であり、武器もあえてはずして港に近づこうとしていた」ということを知ります。高野長英や渡辺崋山といった国内の蘭学者たちが、その国際法にもとる幕府の対応を厳しく批判しました。幕府は、そうした批判を許せば、国民が外国船への警戒心を緩め、鎖国政策に反対する世論が高まるのではないかと警戒しました。そして、幕府を批判した蘭学者を一斉に逮捕し、投獄・処罰しました(蛮社の獄)。その一方で、1842年、異国船打払令を緩和する「薪水給与令」を出し、漂着した船だけには燃料と水を補給することにしました。

1843年、太平洋で漂流した万次郎ら5人は、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。万次郎だけはウィットフィールド船長と一緒にアメリカ本土に渡りますが、伝蔵・重助・五右衛門の三兄弟と寅右衛門の4人はハワイであらたな生活をはじめます。彼等は地元の有力者の援助でなに不自由のない暮らしをしていました。しかし、「いつまでも頼ってばかりいてはいられない」と、有力者に仕事を世話してもらえないかと頼みます。彼は「国王に面倒を見るようにいわれているから心配するな」と言ってくれました。でも、怪我をおった重助を除く三人は、知り合いのつてで仕事を見つけ、働くことになりました。

重助は鳥島に船で流されたとき、足に大きな傷を負っていました。しかもその傷が治らず、どんどんと衰弱していきます。そして、島の名医といわれる医者に診てもらおうとした矢先に亡くなってしまいます。でも、残りの三人にはあらたな仕事もでき、島での穏やかな生活がはじまりました。たまに自分たちと同じように遭難し、外国船に救助された日本人が来てくれました。お互い、遭難したときの恐ろしかった話しをしますが、日本に帰国するみんなの意志は強いことがわかります。そして、「我々が日本に帰るときは一緒に帰ろう」と語り合うのです。そんなとき、三人は心の中に希望の光が差してくるように感じたはずです。

ある人が「船の船長に君たちも一緒に乗れるよう頼んでみよう」と言ってくれました。三人は大いに喜び、いよいよ帰国が実現するかもしれないと期待がふくらみます。ところが、その船長はにべもなく断ったといいます。これ以上厄介者を抱えたくなかったのかもしれません。また、別の日本人が、船に三人を一緒に乗せてほしいと頼んだところ、船長は乗船料として多額の金額を要求してきました。なんどか交渉しましたが、伝蔵らは「君たちに迷惑がかかるから」と断ることにしました。その後も帰国するチャンスがありましたがうまくいきません。そのうち寅右衛門だけは、まるで帰国をあきらめたかのように断るようになりました。

ある日、ウィットフィールド船長が訪ねて来てくれました。「今度、日本の近海に行く船がある。帰国の意志があるなら頼んでみるがどうするか」と言うのです。三人はその言葉に喜びました。そして、相談の結果、「お願いしよう」ということに。伝蔵・五右衛門兄弟が船長にお願いをしに行きました。しかし、船長は「二人分しか頼むことができなかったので君たちだけで行きなさい」と言います。伝蔵は「寅右衛門は私のせいでこの遭難にあってしまった。一緒に帰国させてやりたいのでなんとか彼の分もお願いできないだろうか」と船長に土下座をします。そんな伝蔵の姿にウィットフィールド船長は胸を打たれます。

船長は結局、寅右衛門のために船を探してくれました。しかし、出港の当日になって、寅右衛門は「やっぱり俺は今度もやめる。君らだけで行ってくれ」と言い出しました。いくら説得しても彼はききません。しかたなく、伝蔵と五右衛門の二人だけの出港になりました。伝蔵と五右衛門は、アメリカ船のフロリダ号に乗船して出発しました。そして、しばらく航海して八丈島付近にさしかかったとき、船長は小舟を出してくれるといいます。ふたりは島に上陸できるものと喜びました。しかし、風雨がにわかに強くなり、いつまでたっても海のしけはおさまりません。結局、八丈島への上陸はあきらめるしかありませんでした。

船はあらためて蝦夷(北海道)を目指すことになりました。蝦夷の海岸が遠くに現れたとき、海岸にはいくつものかがり火が見えました。二人は船長とともに小舟で上陸を試みることにしました。ところが、上陸したもののどこにも人影は見当たりません。建物の中にも誰もいないのです。「私たちは日本人です」と叫んでみましたが反応がありません。伝蔵は船長に言いました。「ここは日本の領内であるはず。このまま私たちを置いていってもらえないだろうか。大きな船が去れば誰かがでてくるだろうから」。しかし、船長は言いました。「それはできない。君たちを無事送り届けた証明書をもらわねばならないのだ」と。

仕方なく伝蔵と五右衛門は船長とともに船に戻りました。そして、再びハワイをめざして帆を張ったのです。北の海では霧が立ちこめ、太陽も姿を現さない日が続きました。そうした毎日は、祖国で待つ家族のもとに帰れなかった伝蔵たちの心をさらに重くしました。帰国するチャンスを何度も逃し、そしてまた今回もダメだったのです。二人の全身から力が抜けていくようでした。しかし、航海の途中から強い西風になり、船は後ろから押されるようにスピードをあげて行きました。船はハワイ・ホノルルへ戻ります。運命のながれに逆らわず、なんどもチャンスをつかもうとするこの二人に神は手を差しのべてくれるでしょうか。

 

********************* 「運命について(3)」につづく

運命について(1)

運命について ― ジョン・万次郎の生涯 ー

【はじめに】

世の中のすべてのことには理由(意味)があります。理由なく起こることはなにひとつありません。今、世界を揺るがしている戦争もそうです。それまでの歴史的な経緯を背景に生じた必然だからです。一方で、その戦禍に巻き込まれた人たちにとって今回の戦争には意味があります。それほどにその後の人生に影響をあたえる大きな出来事だったのです。また、先日、成功裏に終ったアルテミス2計画も、用意周到に準備された計画と確実な実行があったからこそ成功しました。月周回軌道をまわった初の女性宇宙飛行士となったクリスティーナ・コック氏にとっても、このミッションはその後の人生に大きく影響するほどの意味がありました。

同じ出来事であっても、その意味するところは個人によってさまざまです。意味を受け取るアンテナをもっていない人すらいます。時間を巻き戻すことはできません。起こってしまったことが自分にとってどのような意味をもっているのかを考え、それからをどう行動するべきかを見極めることが大切です。受験に失敗したからといっていつまでも途方に暮れていてはいけません。志望校に合格できたからといって浮かれてばかりいてもいけないのです。「受験」という出来事を自分の中でどう昇華させていくか。その受験の結果をふまえ、「であるなら、これからの自分はどうしなければならないのか」を考え、次の一歩を踏み出すのです。

世の中には「いくら努力をしてもかなわないこと」と「努力すれば実現するかもしれないこと」、そして、「努力をすれば必ずそれなりの成果が得られること」があります。生物学的に男性である人が「女性になりたい」と思っても、生物学的な女性には絶対になれません。起業をして、身を粉にして働いても、成功するかどうかは社会状況と運次第。やってみなければわからないことです。しかし、勉強だけは自分を裏切ることはありません。目的意識をもって努力さえ惜しまなければ、東大にも、ハーバード大学にも行けます。このように、人間には限界がある一方で、可能性だっていくつもあることに気が付かなければなりません。

来年のNHK大河ドラマの主人公は「ジョン・万次郎」であることが発表されました。なぜ、今、ジョン・万次郎なのでしょうか。それは、運命と努力の中で築かれた彼の人生が、不確かな現代社会に生きる若い人たちにも参考になるからです。万次郎は貧しい漁民の子として生まれました。しかし、その後、幕臣となって日米交渉を陰で支え、最終的には開成学校(今の東京大学)の教授になって教育にも関わりました。でも、彼はそれを目指していたわけではありません。万次郎自身が図らずもその運命のままに努力を重ねた結果だったのです。そんな波瀾万丈な生涯はとてもドラマチックです。今回はその一端をご紹介します。

 

********************* 以下、本文

 

万次郎、当時の漁民に苗字はありません、は1827年(文政10年)1月27日、土佐の中浜村という漁村に生まれました。貧しい漁民の次男として健康に育っていきますが、9歳のときに父親を亡くしてしまいました。母も兄も病弱だったことから、彼は稼ぎ手として働こうとします。しかし、当時の彼は読み書きすら出来ませんでした。藩の役人の家に奉公に出されたものの、毎日の単純労働の繰り返しに、好奇心旺盛な万次郎が耐えられるはずもありません。結局、自分の父親と同じ漁師の道を選びました。網元の家に預けられ、漁師として成長していきます。知的好奇心に富んでいて活発。万次郎はすぐに漁に出られるほどになりました。

14歳となった1841年の1月、万次郎は四人の仲間とともに沖合の漁に出ました。五人にはそれぞれ役割がありました。一番若い万次郎は飯炊き・雑用係です。万次郎にとってははじめての遠洋での漁でした。しかし、1月の太平洋は思いのほか大荒れに。波しぶきをかぶりながら操船しますが、船は思ったように動いてくれません。ついに突風によって操舵不能になってしまいます。船は冬の黒潮に流され、どことも知れぬ漂流をはじめました。そして、五日間、まさに生死の境をさまよいながら、祈るような思いで船にしがみつく五人。その祈りが通じたのか、荒波に翻弄されながら運良く伊豆諸島はずれの無人島にたどり着くのです。

その島はアホウドリの繁殖地でもありました。しかし、季節は冬です。東京から600kmも離れた南の島とはいえ、起こすべき火もなければ、湧き水すらない絶海の孤島。さぞかし厳しい生活だったに違いありません。食べものはアホウドリを捕まえ、草を集めて食べるしかないのです。喉が渇いても真水も満足に飲めない無人島でこの五人はどのような思いだったでしょう。でも、いつ命が絶えるかもしれないという過酷な生活を強いられた143日目のこと。まさに奇蹟ともいうべき偶然が起こりました。鳥とウミガメの卵を調達するため、たまたま島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に彼等は救助されたのです。

当時のアメリカは産業革命のまっただ中でした。宗教弾圧を逃れた清教徒たちが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカにやってきたのが1680年。その100年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法ができ、北東部では自由主義にもとづく工業化が急速に進み、一方、南部では黒人奴隷を使った綿花栽培が盛んとなるなどして南北格差の問題が生じ始めていました。それは南北戦争にもつながる対立でもありました。そんなアメリカにおいて捕鯨は重要な産業でした。食用のためというよりも、機械を動かすときの潤滑油として、ランプやろうそくなどの照明用の油として、鯨油は貴重な産業資源であり生活資源でもありました。

その鯨油を求めてアメリカの捕鯨船は世界中を航海していました。当時のアメリカ合衆国の国土は現在よりも狭く、カリフォルニアやネバダ、アリゾナ、ユタはまだメキシコの領土です。テキサスさえもメキシコから独立をはたした「テキサス共和国」になったばかり。その後、アメリカがテキサス共和国を併合し、米墨戦争で広大な領土の割譲を勝ち取って今の国土になりました。東部13州からはじまったアメリカ合衆国は、「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」を主張しながら西に領土を広げていったのです。そして、ついに太平洋にまで進出したアメリカ。太平洋に捕鯨船の寄港地としてふさわしい場所を求めていました。

救助された万次郎たちが乗船していたジョン・ハウランド号の船長はウィリアム・ウィットフィールドといいます。彼はまだ厳しい鎖国状態にあった日本に五人を送り返すことができないことを知っていました。異国船が近づけば日本から攻撃をうけ、異国船で帰国した者が全員死罪になることは広く知られていることでした。そもそも船長にとって、捕鯨目的の航海を変更し、日本に立ち寄るのはリスクの大きいことでした。それは水や食料、石炭などを補給できる場所が限られていたからです。そこで船長は五人をハワイで下船させることにしました。当時のハワイはアメリカ捕鯨船の重要な補給基地でもあったのです。

ハワイにつくと、万次郎を除いた四人が下船を希望しました。しかし、万次郎だけはアメリカに行くことを希望します。万次郎は、航海中、船内のさまざまなことに関心をもち、船員達に片言の英語でいろいろと質問をしていました。あっという間に会話もできるようになり、乗組員たちからも「ジョン・マン」と呼ばれてかわいがられていたのです。そんな知識欲にあふれた万次郎を見ながら、ウィットフィールド船長は「彼はアメリカで教育を受けるべきだ」と思っていました。いつしか「アメリカという国を見てみたい」と思っていた万次郎に、船長は「アメリカに行ってみないか」と尋ねました。彼にとってうれしい申し出でした。

マサチューセッツ州フェアへブンの自宅に戻った船長は万次郎を小学校に通わせました。万次郎もずっと歳下の子ども達と学ぶことを厭いませんでした。読み書きもできなかった万次郎ではありましたが、言葉に慣れるにしたがって徐々に頭角をあらわします。そして、航海術や造船学を学ぶ頃には常に首席となっていたのです。そんな万次郎が船長はよほど可愛かったのでしょう。自分たちが通う教会にも万次郎を連れて行きました。厳格なプロテスタント精神が残る当時のアメリカで、ウィットフィールド船長は万次郎にも洗礼を受けさせ、「正統なアメリカ市民」になることを希望していたのかも知れません。

しかし、時代は黒人奴隷をめぐって南北戦争が起こる直前のこと。教会といえども人種差別はまだ色濃く残っていました。白人でもない万次郎が船長に連れられて教会に行くと、牧師は万次郎にバルコニーにある黒人の席に座るように言います。「信仰に人種が関係あるのか」。ウィットフィールド船長は牧師に抗議しました。でも、その抗議が通用する時代ではありません。憤慨した船長は万次郎を連れてその教会を出て行きます。そして、万次郎も一緒に通える教会を探して町中を歩きまわったといいます。三人はついにユニタリアン教会という場所に巡り会うことができました。ユニタリアン教会は人種については極めて寛容な教会だったのです。

「ユニタリアン」とは「唯一の神を信じる者」という意味があります。教義(聖書)を妄信せず、個人の良心と理性を重んじた信仰を勧める、当時のアメリカでは珍しいリベラルな教会でした。万次郎にとってこの教会は、ウィットフィールド船長に対して感じたのと同じように、アメリカの懐の深さ、「自由と平等」、「民主的な寛容さ」を感じるのに充分な存在となりました。人格形成においてもっとも重要なこの時期に、そうしたリベラリズムを実体験できたことは、後に、万次郎がアメリカから日本に帰国し、望むと望まざるとに関わらず日本とアメリカの架け橋になったときに大きな意味をもつことになります。

 

****************** 「運命について(2)」につづく

 

 

歴史の転換点(6)

まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかいなかった。

明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら、「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。その痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

社会の、どういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。ともかくも近代国家を作り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の少年のような希望であった。

この小さな日本は、明治という時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。のぼっていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。

************** 以上、NHKドラマ「坂の上の雲」より(一部改変)

1859年(安政6年)10月27日は吉田松陰先生が江戸伝馬町の牢屋敷で斬首の刑に処された日です。この日を境に日本というアジアの小国の歴史は大きく動いていきました。吉田松陰は長州藩の萩にあった松下村に石高26石(今の通貨価値にして年収300万円)の下級武士の次男として生を受けました。松陰の父は、武士とはいえ、ふだんは農業をしながら生活をしなければ大家族を食べさせていくことはできませんでした。しかし、松陰は幼い頃から勉学にはげみ、9歳の時に長州藩の藩校である明倫館の師範になります。

松陰の勉学に対する貪欲さは余人をもって代えがたく、幼いときから続けてきた山鹿流兵学(軍事学)の座学にとどまらず、13歳のときには長州藩の軍を率いて軍事演習を指揮しました。そして、20歳のときは長崎の平戸藩に遊学して海防学を学ぶかたわら、当時は大国と考えられていた中国(ときの清)がイギリスによって蹂躙され、その原因が西欧の軍事力が強大であったこと、事前にイギリスが持ち込んだアヘンによって清の社会・内政が混乱していたことにあると松陰は知ります。

アジアに次々と進出してくる欧米列強。その熾烈な植民地政策の実情を知ったとき、日本がこのまま鎖国という眠りについたままでいれば、やがて清やアジア諸国のように欧米列強に飲み込まれてしまうことに気が付いていました。そこで諸藩が一致して外国からの脅威にそなえ、欧米に肩をならべるほどの国力を高めなければならないと松蔭は考えました。そのためには欧米を直接その眼で見ておきたい。書物の中の欧米ではない、実物大の欧米を知ってこそ日本を守ることができると信じていたのです。

1853年、23歳になった松陰は、浦賀にアメリカの4隻の軍艦がやってきたことを知ります。そして、浦賀で実際に見た軍艦の大きさ、積載していた大砲の多さ、なにより船の動力が蒸気機関であることを見て愕然とします。「こんな国と戦争となれば日本はたちどころに負けてしまう」。そんな思いに全身が震えたことでしょう。しかし、一途な松陰は、日米和親条約の締結のために係留しているポーハタン号に乗船しようと企てます。アメリカへの密航を考えたのです。鎖国をしていた当時、こうした行為は死罪にあたる重罪でした。

ちなみに、ポーハタン号は、安政の大獄のあった1860年に、日米修好通商条約の批准のため、アメリカに向かう小栗忠順ら幕府の使節団をサンフランシスコまで乗せています。その4日前に横浜を出港したのは有名な「咸臨丸」。こちらはオランダで造船された幕府海軍の練習艦で、幕府の海軍奉行の他、勝海舟や福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船していました。これが日本の国際舞台へのデビュー。不思議の国・日本の使節団に対するアメリカ政府および国民の歓迎ぶりは異例ともいえるものでした。

さて、ポーハタン号へ乗船してアメリカへの密航を企てた松陰ですが、条約調印の障害となることを恐れたアメリカ側はそれを認めませんでした。その結果、松陰は下田奉行に密航を企てたと自首し、牢に投獄されます。幕府内では彼の扱いにはさまざまな意見があったようです。とくに、当時、アメリカとの条約を締結すべきか決めかねていた筆頭老中の阿部正弘。しかし、彼は「松陰を死罪にすべき」との声を抑えて助命することを決めます。そして、長州に戻して蟄居させるという形で解決しました。

長州にもどった松陰は藩によって野山獄に幽閉されます。そして、そこで囚人達に中国の古典を教え、これからの日本が目指すべき道を説きました。牢獄はさながら藩校のようでした。一年を経て獄から解放された松陰は松下村塾を開きます。そこには松陰の教えを請いに長州中から、のちに激動の時代を駆け抜け、近代国家日本の礎を作るたくさんの若者(伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎など)が集まりました。この松下村塾は、同時代に大阪にあった適塾とともにまさに人材の宝庫となったのです。

松陰を助命した老中の阿部正弘は福山藩藩主で、25歳のときに老中になった秀才でもありました。条約に調印するようになかば恫喝するアメリカと、調印はまかりならぬと勅許を出そうとしない朝廷の板挟みになって体を壊します。そして、当初は勅許なしでの条約調印に反対していた大老の井伊直弼が翻意してしまいます。1858年、幕府は勅許を得ぬまま、アメリカと日米修好通商条約を締結してしまうのです。強引とも思えるこの幕府の決定は、阿部に代わって筆頭老中となった真鍋詮勝らが主導していました。

それまでの日本は、権威は朝廷の天皇に、そして、天皇から「征夷大将軍」を宣下された権力者が幕府の将軍として全国を統治する、という国家体制をとっていました。にもかかわらず、外国からの圧力に屈し、勅許も得ぬまま条約を締結した幕府。当時の吉田松陰は、徳川慶喜を将軍に担ぎ上げようとしていた一橋派の思想背景となった水戸学(水戸藩の「尊皇攘夷・天皇を中心とする国体」という思想)に影響を受けていました。そうした背景から、松蔭は幕府の決定に激怒し、老中真鍋詮勝の暗殺を企てるのです。

しかし、あまりにも過激で早急すぎる松陰の計画に賛同するものは多くありませんでした。そして、なかなか計画通りにことが進まぬうちに、幕府からの報復を恐れた長州藩によって松陰はとらえられ、真鍋暗殺の計画は頓挫します。そのころの日本は、開国を迫る欧米に門戸を開こうとする開国派と幕藩体制を維持して外国勢力を打ち払おうとする攘夷派によって社会が二分されていました。その対立は、日米通商修好条約の締結時にピークを迎えます。攘夷派を中心とする勢力が全国で武力闘争を繰り返したのです。

条約締結の数ヶ月前に大老となった井伊直弼は、開国を批判してきた一橋派の武家はいうに及ばず、攘夷派を支持する公家や尊皇攘夷の思想をもつ人々を次々と逮捕していきました。そして、死刑をふくむ処分によって、革新思想をもつ人々を徹底的に弾圧したのです。変革期を迎えようとしていたこのとき、獄中にあった松陰は、その取り調べで老中真鍋の暗殺計画を自供します。当初は死罪まで考えていなかった井伊直弼でしたが、老中真鍋暗殺の企てを見逃すことはできず、安政6年10月27日に松蔭は打ち首になるのです。

処刑される前日、松陰は江戸の小伝馬町の牢屋敷で「留魂録」という本を一気に書き上げます。そして、そこで松下村塾や獄中の弟子達に向かって死生観を述べました。この留魂録は、牢中の一人の弟子に託されます。その後20年を経た明治9年(1878年)、刑を終えて獄を出た弟子が、県令(県知事)となった松下村塾の門弟に届け、世に出るのです。それまで伊藤博文をはじめとするたくさんの門人達が明治政府の要人となっていました。ちなみに伊藤博文は1885年に初代内閣総理大臣になっています。

令和4年7月12日、ひとりの愚か者の凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の葬儀がおこなわれました。そこで昭恵夫人が次のような挨拶をしました。

********************** 以下、挨拶内容要旨

父・晋太郎が亡くなったあとに主人は追悼文の中で、吉田松陰先生の留魂録を引用しました。

「10歳には10歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。20歳には20歳の、50歳には50歳の、そして100歳には100歳の人生にそれぞれの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前に亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれない。しかし、父の人生は父なりの春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」と書いていました。

主人の67年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけ、そして冬になったのだろうと、思いたいと思います。そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみにしているのではないかと思っています。

********************** 以上

私がこのブログで、繰り返し若い人たちにエールを送り、彼等に期待することは、松陰先生が留魂録で弟子達に呼びかけたことと同じです。つまり、「死にゆく人は残された人に語りかけている」「残された人たちはその語りかけに耳を傾けるべき」ということです。人はいつか死にます。死ぬことは淋しいことではありますが、絶望ではありません。ましてや忌み嫌うものでもありません。死は、私たちが生きることと無関係ではないからです。留魂録には次のような文があります。

「稲は四季を通じて毎年実りをもたらすもの。しかし、人の命はそれとはことなり、それぞれの長さ、それぞれの寿命にふさわしい春夏秋冬がある。(これから死罪となる)自分はまだ三十歳ではあるが、稲にたとえれば稲穂も出て、実をむすんでいるころであろう。もし、私の誠を『引き継ごう』と思う人がいてくれるなら私の種は次の春の種籾かもしれない。私の人生は中身の詰まった種籾だったということになるのだ」

松陰先生は「七生説」という文章にも次のような文を残しました。

「公のために私を捧げる人もいる。その一方で、私のために公を利用してはばからない人もいる。前者は『大人』というべき立派な人間だが、後者は『小人』という下劣な人間である。下劣な人物は、体がほろびれば腐りはて、崩れはててなにも残さない。しかし、立派な人間というものは、たとえ体が朽ちても、その人物の心は時空を越えて残り、消えることはない。私のあとに続く人たちが、私の生き方を通じて奮い立つような生き方をする」

安倍晋三元総理は、同郷でもある吉田松陰を尊敬していたといいます。これまで日本には104代65人の総理大臣がいましたが、歴史に名を残し、後世の人に名が知られている総理大臣は決して多くはありません。私利私欲のために総理になった人もいるでしょう。なるつもりのなかった人が総理になってしまったこともあります。また、総理大臣になることだけが目的だった人も少なくありません。それは世界においても同じ。アメリカの歴代大統領をふりかえっても日本のようなことが繰り返されてきました。

今、世界は、そして、日本は大きな変革期を迎えています。とくに日本にとっては明治維新や大東亜戦争(第二次世界大戦)にも匹敵する転換点だともいえるでしょう。その変化を感じ取って、社会の動きを自分のこととして考え、行動する人が増えてほしいと思います。吉田松陰先生の遺志は、初代内閣総理大臣である伊藤博文に引き継がれ、その後の政治家達にも受け継がれてきました。近年においては安倍晋三元総理、そして、はじめての女性宰相である高市早苗氏にもその系譜があるのです。

有名なことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という言葉があります。ほとんどの国民はそんな大業を残すことはなく、名もなく生まれ、名もなく消えていきます。ごく限られた人だけが、社会に、そして、歴史に名を残す「大人」となるのです。抱いた志を貫徹できる人もいれば、志半ばに倒れる人もいる。「大人」かどうかは、あくまでも個人の人生の結果でしかありません。「大人」であれ、「小人」であれ、それぞれの生き方があるのみです。松陰先生は「諸友に語る書」にこうも書き残しています。

我を哀しむは、我を知るにしかず。
(私の死を哀れむのではなく、私のことをよく理解してほしい)
我を知るは、我が志を張りてこれを大にするにしかざるなり。
(私のことを理解するということは、私の志を受け継ぎ、さらに大きなものにすることにほかならない)

ここ最近の変化は、これからの世界を大きく変えるものになるでしょう。その世界の変化の触媒ともいえる存在がアメリカのトランプ大統領だと思います。そして、日本での触媒となっているのが安倍晋三元総理かも知れません。安倍総理は、国際政治の経験がまったくなかったトランプ大統領に会いに行き、世界情勢について詳細に説明したといわれています。アメリカ大統領として世界の表舞台に立ったとき、トランプ大統領は安倍氏の助言が正しかったことを確信。安倍氏との友情は信頼に変わったといいます。

このように吉田松陰の思想は、150年という時空を超え、日本を、そして世界を変えようとしています。とくに安倍元総理の薫陶を受け、安倍氏の遺志を継ぐことを表明して高市早苗氏が第104代内閣総理大臣になりました。高市総理が彼女の「志」を成就できるかどうかは不透明です。政権内部や党内から不協和音が生じて、あるいは、国民の支持を失って高市内閣は短命に終わるかもしれません。しかし、これまでの「大人」のように、高市総理自身が次の世代への種籾になるべく、初志貫徹していただきたいと思っています。

※ 今日(28日)、安倍元総理暗殺事件の裁判が開廷されました。また、アメリカのトランプ
大統領が来日し、高市総理大臣とのはじめての日米首脳会談が開かれたのも今日です。
昨日(27日)が安倍元総理が尊敬する吉田松陰先生の命日だと考えると、
なにか因縁めいた
ものを感じます。

ウクライナの希望

はたしてロシアとウクライナは停戦に合意できるでしょうか。2022年2月24日、ロシア軍が国境を越えてウクライナ領に侵攻し、これまでウクライナ側の発表で4万5千人あまりの兵士が戦死。ロシア側にも10万人を超える戦死者が出たとされています(事実はこれ以上でしょう)。負傷した兵士は露・宇ともに戦死者の10倍にもおよびます。ウクライナの一般市民にも1万2千人以上の犠牲者が出ているといわれています。当初はロシアによる一方的なウクライナ侵略という形で報道されていた今回の戦争も、ドナルド・トランプという人物が出現してからはこれまでとは違った様相を呈してきました。今回はその辺のことを少し書きます。

ロシアがウクライナとの国境付近に軍を集結させ、両国の緊張が高まっていたとき、アメリカの当時の大統領であるジョー・バイデンは「アメリカはウクライナに軍を派遣しない」と声明を発表しました。それはロシア軍を挑発して緊張を高めないようにするための配慮だとする識者が多かったようです。中には「軍をこのままウクライナ領内に侵攻させるほどロシアは愚かではない」と楽観的な人もいたほどです。私自身もロシアが本当に戦争をするとは思っていませんでした。ですから、アメリカからの警告がありながら、ロシア軍がウクライナに攻め込んでいったとき、「なぜそんな愚かなことをするのか」と不思議でした。

19世紀のような、領土的野望から列強が周辺国を侵略するのが当たり前の時代ならともかく、東西の冷戦構造が崩壊し、世界中の国から独裁国家が一掃されたかのような現代にあって、どうしてロシアが武力まで使ってウクライナとの国境の変更を強行しなければならなかったのか。そのような疑問に答えてくれる報道は皆無でした。そこで私はインターネットを利用して調べてみました。すると、それまで知らなかった事実が次々と明らかになってきました。そして、それまで「陰謀論」だと一蹴されてきたことまでもが、実は今回の戦争の原因につながっていると思える情報が次々と明らかになったのです。

戦争がはじまった時、世の中は「ロシアの蛮行」として一方的に批判しました。「大国ロシアに侵略を受ける可哀想な小国ウクライナ」「ロシアがウクライナの次に狙うのはポーランドとバルト三国」と人々の危機感と恐怖心を煽る報道一辺倒でした。なるほどウクライナは「大国アメリカに立ち向かう小国日本」のようにも見えました。しかし、いろいろ調べていくうちに、ロシアがウクライナへの侵攻を余儀なくされた「ある事情」があったことがわかりました。それが「アメリカの世界戦略」でした。そんなロシアはまるで、アメリカの世界戦略によって戦争をするしかなかったかつての日本と重なります。

それらのことをまとめて次のような記事をブログに掲載しました。

************ 以下、2023年5月14日「軽薄な理想主義

前略

ロシアとウクライナの戦争が続いています。しかし、その戦争にいたるまでの経緯を知らない人が少なくありません。ウクライナは、ロシアから欧州に向かうパイプラインの中継基地として重要な位置にあります。そして、その石油や天然ガスの利権にアメリカ企業が関与し、ウクライナをこれまで翻弄してきたのです。今の戦争にはアメリカの国際戦略が少なからず影を落としています。

とはいえ、ウクライナがロシアに負ければどうなるかがまるでわかっていない人が多すぎます。その歴史的背景がどうであれ、武力による侵略を受け、国境が力ずくで変更された国家は必然的に崩壊します。いつしか世界史から消えていくのです。これまでの世界史が繰り返してきたその恐ろしさをリアルに感じとることができない日本人が少なくないのはなぜでしょうか。

後略

************ 以上

************ 以下、2023年10月28日「歴史の転換点

前略

今、ウクライナでは大規模な戦争が続いています。ウクライナにはチェルノーゼムと呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「東ヨーロッパの穀倉地帯」ともいわれる世界有数の小麦の大産地になっています。南部のクリミア半島は温暖な保養地であると同時に軍事的な要衝でもあり、東西ヨーロッパの緩衝地帯として政治的に常に不安定な場所となっていました。ウクライナはかつてはキエフ公国という大国として栄えましたが、異民族の侵入をたびたび受け、モンゴル来襲をきっかけにその中心はモスクワに移ったのでした。

ロシアの大統領プーチンがウクライナを「特別な場所」というのはこのような背景があるからです。しかも、歴史的にソ連の一部だったころの影響で、ウクライナの東部にはロシア系の住民が多く住んでいます。東ウクライナに住む住民の30%あまりがロシア人なのです。ウクライナはロシアからヨーロッパに送られる原油や天然ガスのパイプラインの中継基地であり、ソ連時代から天然資源にまつわる利権が存在しています。そして、今般の戦争にその利権が暗い影を落としています。

後略

************ 以上

これまでこのブログで何度かアメリカ・カリフォルニア州にお住まいのYokoさんのお名前を紹介したことがあります。Yokoさんにはご自身のブログで私の記事をたびたび掲載していただいています。そうした縁もあって、日米の社会・政治状況についてときどき意見交換することがあります。生活する場所も異なれば、政治的な信条にも多少の違いがあります。しかし、自分とは視点のことなる意見を知ることは己の意見を客観的に見るために参考になります。先日も気になった動画をYokoさんに紹介しました。その動画は、2月21日にEU議会でおこなわれた米コロンビア大学教授ジェフリー・サックスの講演の様子です。

サックス教授は29歳でハーバード大学の教授となった秀才であり、自分の学問領域にとどまらぬ幅広い知識をもった経済学者です。ソ連が崩壊し、混乱を極める東欧国家の経済を立て直すために尽力した国際派の知識人でもあります。ヨーロッパとアメリカを往来し、ときに東欧諸国に長期滞在しながら、さまざまな要人との交流を通じて国際情勢を直に感じ取ってきた教授。私はこの動画を観たとき、「これがアメリカの良心だ」と思いました。1994年以降(実はそれ以前からですが)のアメリカの国際戦略の狡猾さ、傲慢さ、そして、強欲さに辟易していた私にとって彼はアメリカに残された「最後の正義」にすら見えました。

私がYokoさんにこの動画(「‘Europe needs an independent foreign policy’: Professor Jeffrey Sachs」)を紹介したのは、その内容がこれまでインターネットで調べて私が得ていた結論とほぼ一致していたからです。ウクライナとの国境を武力で変更しようとするロシア・プーチンに今回の戦争の法的な責任があることに異論はありません。しかし、なぜプーチンがそうせざるを得なかったのでしょうか。このウクライナ戦争を解決する糸口はまさにそこにあります。ウクライナ戦争がはじまってまもなく、ロシア・ウクライナ双方にはなんどか停戦するチャンスがありました。ミンスク合意がそのひとつです。

ところが、その合意が容易に破棄され、戦争は今や1000日を超えてしまいました。ミンスク合意が破棄されたのはなぜでしょうか。2014年9月にドイツとフランスが仲介して結ばれたその第一次合意はとても脆弱なものでした。そのせいか、翌年の2月には第二次合意がなされました。つまり、ウクライナ国内におけるウクライナ軍と親ロシア勢力との戦闘の停止を定めた第一次合意が守られなかったため、第二次合意ではさらに具体的な和平プロセスが決められたのです。しかし、それでもウクライナ軍と親ロシア勢力との戦闘は止まりませんでした。そして、ウクライナ国内ではその後もいろいろな衝突が繰り返されました。

今、頑なに戦闘を継続し、停戦にも懐疑的なプーチン大統領がこのミンスク合意を一方的に破棄したと報じられています。しかし、ミンスク合意が締結されたとき、私にはそのプーチンがたやすく合意したことに違和感を感じていました。現在、激しい戦争を継続しているプーチンを見れば見るほど、ミンスク合意のときのプーチンはまるで別人のようです。その理由はミンスク合意の欺瞞にあります。合意を仲介したドイツのメルケル首相はのちに「ミンスク合意はウクライナの軍隊を訓練するための時間稼ぎだった」と認めています。そのことがプーチンにアメリカやNATOに対する決定的な不信感とトラウマを植え付けたのです。

そもそもウクライナは、NATOのバックアップを受けてロシアと戦うことを決意し、停戦するつもりはありませんでした。その背後にはアメリカの意志があったのです。そうした経緯を、サックス教授は実体験を交えて淡々と訴えました。「ロシアにも戦争をせざるを得なかった理由がある。戦争を終わらせるためにはその部分を理解しなければいけない」とEU議会の人たちに語りかけたのです。私はそれをアメリカ在住のYokoさんに伝えたいと思いました。停戦という平和への第一歩は、ウクライナ戦争に至るアメリカの世界戦略にたいすて批判的な立場をとるトランプ大統領だから実現できる。私たちはそれを認めなければなりません。

サックス教授の動画を紹介した私のメイルにYokoさんから返事がありました。

 

************ Yokoさんからの返事(ご本人の許可を得て掲載します)

瀬畠先生

アメリカ人の、このような教授がいることを知って、米国に住んでいることに「誇り」を失わずに、希望を持つことができます。
本当に素晴らしい動画をお送り下さいまして、ありがとうございました。

ジェフリー・サックス教授の分かりやすい英語で、感激して、講演動画を見ることができました。

先生の「多くの人(特にアメリカ人に)に見てもらいたいです。」のお言葉に、クリント氏にまずは初めに、見てもらいました。
意に反して、大変勉強になったと開口一番、の言葉です。それで、彼のアメリカ人の友達に、転送してみてもらうよう頼みました。中には、ヨーロッパのスエーデンで生まれ育った人もいます。そしてユダヤ系アメリカ人で、現在イスラエルに住んでいる友人もいます。カリフォルニア州のリベラルの友人達や、若い甥たちにも送ってみます。

先生が同じミシガン大学に研究生として派遣され勉強なさったことを話しました。

それから、日本語訳のサイトを見つけたので、大変よく理解できました。日本人の友人にも読んでもらいます。「ヨーロッパはNATOではない:独自の外交政策が必要」ジェフリー・サックス、欧州議会で熱弁 (Jeffery Sachs: Europe is Not NATO and Needs its Own Foreign Policy)
3月の短歌通信では、先生のブログ「トランプ登場の影響」と一緒に紹介させていただきたいと、思います。
 

山根洋子コリンズ

 

************ 以上

 

先のサックス教授の動画の英語がわからない方、動画が長すぎると感じる方には次の動画が参考になるでしょう。EU議会でおこなった講演の内容を要約したものです。日本人にはありがたい字幕がついています。

「ウクライナ戦争のスタート。米ジェフリー・サックス教授インタビュー動画」

 

トランプ大統領は、次のような停戦を求めるメッセージをプーチン大統領に送ったといいます。「たくさんの若い兵士の命が失われてきた。人の命を救うためにお互いに努力しよう」と。プーチン大統領はそのメッセージに「私はその言葉を真剣に受け止めている」と答えたといいます。2014年におこなわれた「ノルマンディ上陸作戦70周年記念式典」でプーチン大統領は、広島に落とされた原爆のキノコ雲が巨大スクリーンに映ったとき、出席者の中から拍手が沸き起こる中、ただひとり胸で十字を切りました。ウラジミール・プーチンという人物がそれほどまでに敬虔な正教徒なのだということは、彼を理解する上で重要です。

ウクライナ戦争は停戦に向かって動き出しています。しかも、国家のメンツや威信のためではなく、人の命を救うために停戦交渉がなされているのです。私はそこに崇高な光が差し始めているように感じます。トランプ大統領はプロテスタント長老派。長老派はとくに社会正義と倫理観を重視する宗派だといわれています。そんなクリスチャン・トランプと正教徒・プーチンだからこそこの戦争を解決することが可能だといえるかもしれません。Yokoさんからのお返事に、私は次のようなメッセージを送りました。そのメッセージが今回のブログの結論です。一刻も早く停戦が合意され、ヨーロッパに真の平和がやってくることを祈ってやみません。

 

************ 以下、Yokoさんへの返事

Yokoさん

私がブログでなんども主張しているように、「私たちはイデオロギーや宗教観で世界・社会を決めつけてはいけない」ということが重要です。「事実を見よう、真実はなにかを考える理性を持とう」ということが大切です。その意味で、ジェフリー・サックスやミヤ・シャイマー、ロバート・ケネディJrのような人こそが「アメリカの正義」だと思います。弱者の味方だからではなく、「正義を語る」からでもない。ましてやリベラルだからでは決してない。真実がなにかを考えているからです。

かつて、日本とアメリカは戦争をしました。その原因について多くの人は、日本の帝国主義・侵略主義が原因だと考えています。しかし、実際は少し様相が異なります。日本が、国益追求という名のアメリカの植民地戦略の邪魔になったからです。

そのことはこれまでの私のブログでも少し触れていますが、元アメリカ大統領でもあるハーバート・フーバーやコロンビア大学(ジェフリー・サックスと同じ職場であるとともにビクトリア・ヌーランドの現在の職場でもあります)の教授チャールズ・ビアードが「日米が開戦をした原因はアメリカにある」と本に書いています。彼等もまた「アメリカの正義」です。

それは日本の味方をしてくれているからではありません。アメリカを自虐的に評価しているからでもありません。「真実はなにか」という視点で世界情勢を見、語っているからです。そして、その彼等の主張は「アメリカに正義を取り戻せ」とも語っているのです。

アメリカは大国であり、望むと望まざるとに関わらず世界の警察官・裁判官にならざるを得ません。かつて、セオドア・ルーズベルト大統領が日露戦争を終わらすため(それは貧しい日本のためでもあり、また、革命前夜だったロシアのためでもありました)、日露両国の仲介に入ったのと同じです。だからこそアメリカには正義が不可欠なのです。アメリカが「尊敬される大国」となる前提です。

その意味で、トランプを色眼鏡で見ている人たちのメガネは曇っています。洗脳されていると言っても過言ではない。トランプがなにをしようとしているのか。そして、なぜそのようなことをするのか。それを正確に知り、評価することが大切です。冒頭に書いたように、「イデオロギーや宗教観で決めつけてはいけない」という態度が重要です。トランプのなすことすべてが正しいわけではない。しかし、彼を彼の言葉だけではなく、行動によって本当の姿を知ろうとすべきです。もしかすると彼は世界史に名を残す偉大なアメリカ大統領になるかも知れない。あるいは単なる道化師にすぎないかも知れない。それを観察しつつ、我々は真実を求めていくべきだと思っています。

 

************ 以上

 

メイルに登場したミヤシャイマー教授の講演の動画も参考になります。是非、ご覧になってください。

「【ウクライナの紛争の真実】ジョン・ミアシャイマー」

 

トランプ登場の影響

1985年、まだ東西に分かれていたドイツ(西ドイツ)のワイツゼッカー大統領が、第2次世界大戦後40周年にあたって「荒れはてた40年」と題する演説をしました。「過去に目を背ける者は、現在にも目をつぶるであろう」というフレーズを耳にしたことのある人は少なくないと思います。北大生になった私がふたたび第二外国語に選んだのはドイツ語。その授業でこの演説の原文が教材として使用されました。なかなか難しい文章でしたが、当時の私にとって、その演説の内容はあまり心に響くものではありませんでした。「自分のあたまで考える若者」ではなかったからです。ワイツゼッカー大統領の演説は次のようなものです。

*********** 以下、演説の要旨

先の戦争と暴力支配で斃(たお)れたすべての人に、今、あらためて哀悼の意を表します。ことに収容所で命を落とした600万人のユダヤ人。ならびにこの戦禍に苦しみ、殺されたソ連とポーランドの無数の人々。ジプシーや同性愛者、精神障害者、また、宗教上・政治上の立場ゆえに殺されなければならなかった人たちのことを追悼します。また、ドイツ兵として斃れた同胞、空襲で、あるいは避難の途中で命を失った同胞の哀しみも同時に思い浮かべたいと思います。

戦時中の犯罪に手をくだしたのはごく少数の者です。しかし、ユダヤ人たちに非寛容な態度、あからさまな憎悪が向けられていたことはどのドイツ人も実際に目にし、耳にしていました。人間の尊厳に対するとどまることを知らぬ冒涜があったことに目をつぶろうとしていたのです。人々にとって、ユダヤ人の絶滅をはかるということは想像を超えていたかもしれません。とはいえ、そうした犯罪が起こっていたであろうことや、実際に起こっていたこと自体に多くの人が気づかぬふりをしていました。良心を麻痺させ、自分の関知することではないと沈黙していた事例がたくさんあるのです。

戦いが終わり、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全容があきらかになったとき、一切なにも知らなかった、気配すら感じなかったと言った人が多くいました。人間の罪には、露見したものもあれば、隠し通せたものもあります。大切なのは、十分自覚しながらあの当時を生きていた人ひとりひとりが今日、どう関わっていたかを静かに自問することです。罪の有無、また、年齢を問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。当時を知る人であれば全員が、過去からの帰結に関わっており、その過去に対する責任をおわされているのです。

問題は過去を克服することではありません。そんなことなどできるはずもないのですから。過去を変えたり、なかったことにすることはできないのです。大切なのは、過去に目をつぶる人間は、結局、現在のことにも目を覆っているのだということです。非人間的な行為を心に刻むことのできない人は、またそうした危険を犯すもの。ユダヤ民族は今も、そして、これからも起こってしまったことを心に刻みつけることでしょう。私たちドイツ人は、ユダヤ民族との心からの和解を求めています。私たちがユダヤ民族と和解するためには、事実を心に刻むことなしにはありえません。

ポーランドのゲットーやチェコで虐殺された人々がいます。ロンドンやロッテルダムでは空から無数の爆弾が落とされました。敗戦によってそれまでの故郷を追われ、悲嘆と甚だしい不正にさらされたドイツ人もいます。何百万人ものドイツ人が西に追いやられ、たくさんのポーランド人やロシア人が戻ってきました。そうした人たちも、かつては不正に耐えかね、自らの意志に反して故郷を離れざるを得なかった人たちでした。ヨーロッパの諸国民は故郷を愛しています。平和はそのためにあるのであって、決して復讐主義におちいることではありません。

われわれのもとで、新しい世代が成長し、政治的な責任をとれるようになりました。若い人たちに過去に起こったことの責任はありません。歴史の結果から生じた出来事に責任があるのみです。われわれ年長者は、若者がユートピアの救済論に逃避したり、道徳的に傲慢・不遜になることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう手助けしようではありませんか。人間がなすことは歴史から学ばねばなりません。人間は必ずしもより良くなっていくわけではないのです。道徳は完成することがありません。道徳的危機を乗り越えていくだけです。しかし、私たちにはそれが可能です。

若い人たちにお願いしたい。敵意や憎悪に駆り立てられないでください。民主的に選ばれた政治家たちにもそうしたことをさせない諸君であってほしい。そして、その範をひとりひとりが示してほしい。自由を尊重してください。平和のために力をあわせてください。公正をよりどころに、心のなかの規範にしたがって正義を貫こう。そのためにも、できるだけ真実に目を向けることです。

*************** 以上

今、改めて読むと素晴らしい演説です。ユダヤ人に対する民族浄化という戦争犯罪を背負うことになったドイツ国民として、自虐史観に陥らず、だからといって言い訳に逃げず、未来への展望をもってほしいと若者に語りかける内容に感動します。当時の私がこの演説に共感することはおろか、理解もできなかったのは、ひとえに社会的に未熟で、世界の歴史に対しても、また、地球上で起きているさまざまな変化にも関心がなかったからです。しかし、それなりの知識と教養を身につけた今であればこの演説の価値がわかります。と同時に、今の若い人たちには是非とも読んでほしい内容です。

これまで何度も繰り返してきたように、世界は大きな「歴史の転換点」にあります。その世界の様相(とくにアメリカの変貌)については、これまでの記事を読み返していただくとして、地殻変動のような世界的な変化のうねりが顕著になったのは、ドナルド・トランプというひとりの不動産王がアメリカの大統領になってからのことです。それはまるで、トランプ大統領という存在が、世界を密かに動かしている人たちをあぶりだしているかのようです。その人たちをディープ・ステート(闇の国家)と呼ぶかどうかはともかく、エスタブリッシュメントと化した大きな力が世界に影響を及ぼしていることが明らかになりつつあります。

40年前の若き日のトランプ大統領のインタビューを動画でみることができます。世界的な好景気にアメリカ経済が支えられているときのものです。不動産業によって莫大な資産を築き、成功した若き経営者としてインタビューを受けるドナルド・トランプ。当時のアメリカ社会を次のように表現します。「アメリカはずる賢い連中に盗まれている。アメリカ国内にいる連中にばかり盗まれているわけではない。日本やドイツ・ヨーロッパなどの賢い国家によってもアメリカは盗まれているのだ。しかし、彼等は悪くはない。アメリカを動かしている指導者、官僚たちのあたまが悪いからこうなるのだ」と。

今の主張と寸分もかわらないトランプ節です。「それではあなたが大統領になってはどうですか?」と問われたトランプは言います。「なるかもしれない。しかし、今はそのときではない。私が大統領になることよりも、アメリカをよい方向に導こうとする大統領に協力したいと思う」。トランプ氏はかつて民主党員でした。民主党に多額の献金をする大口のスポンサーだったのです。ところが、ソビエトにゴルバチョフという新たな指導者があらわれ、東西の冷戦構造が崩壊して世界は「素晴らしい状況」になるとトランプは思ったかも知れません(当時の私と同じように)。でも、その頃からアメリカが暴走をはじめました。

1993年に民主党のビル・クリントンがアメリカ大統領になりました。軍事バランスで平和がなりたっていた東西冷戦時代が終わって、東側諸国が次々と西側陣営に加わっていきます。しかし、ビル・クリントンは外交には無関心で、自他ともに認める外交能力に劣る大統領でした。在任中、中国に近づきすぎて「チャイナ ゲート」と呼ばれる不正資金供与疑惑も追及されました。その疑惑はビルの妻でもあるヒラリー・クリントンが原因だといわれています。クリントン氏は、その他にも、金にまつわるさまざまな疑惑を招きながら、大きく報道されることのなかった大統領だったのです。

クリントン大統領がもっとも批判されたのはさまざまな女性関係に関するものでした(そして、それは今も「エプスタイン・スキャンダル」として尾をひいています)。大統領就任前から多数の不倫関係を持ち、モニカ・ルインスキーという東欧系ユダヤ人との「不適切な関係」が大きく報道されました(東欧系ユダヤ人という存在は、今のウクライナ戦争でも影を落としています)。モニカ・ルインスキーとのスキャンダルはクリントン大統領の政治力を急速に低下させるものでしたが、それ以外にも女性問題によっていくつかの裁判で訴えられ、合衆国の国際的な地位と名誉そのものが地に落ちていきました。

その一方で、クリントン大統領はパレスチナにおけるアラファトPLO議長とイスラエルのラビン首相との和平合意をまとめることに失敗しました。ヨーロッパにおいては東欧のコソボでの民族紛争に介入し、アメリカ軍が一般市民を狙ったユーゴ空爆(国際法違反)を承認したのもクリントンです。イラクのバクダッドへの大規模なミサイル攻撃「砂漠の狐作戦」や、スーダンの医薬品を生産する工場にミサイル攻撃することをも承認しました。あるいは、ソマリアの内戦にアメリカ軍を投入し、部隊の撤退に失敗してウガンダでの虐殺を黙認するなど、クリントンは世界各地の紛争にアメリカを介入させた大統領なのです。

リベラルで穏健であると思われていた民主党が、実はさまざまな疑惑にまみれ、世界各地で戦争を繰り返していました。それに嫌気がさしたのかどうかはわかりませんが、トランプ氏は合衆国大統領が民主党のクリントンから共和党のジョージ・ブッシュに替わった2001年に民主党を離れました。無所属になったトランプ氏は、その後もさまざまな政治の腐敗、アメリカという国家の闇を見てきたに違いありません。民主党のバラク・オバマが2008年にアメリカの大統領になって、ノーベル平和賞を受賞してもそれはかわらなかったのです。むしろ、オバマ大統領のときの方が実はさらに深刻な事態になっていました。

オバマが大統領に再選された2012年、よほど民主党に失望したのでしょう。トランプは共和党に入党します。それはオバマ政権のときの国務長官(日本での外務大臣)だったヒラリー・クリントンが密かにしていたことを振り返るだけでもわかります。そのことは、2016年におこなわれたニューヨーク司教主催の慈善イベント「アル・スミス・ディナー」でトランプ氏が辛辣な言葉で語っています。しかし、会場にいた聴衆たちは当時、トランプ氏のぶしつけな放言ととらえ、苦々しい表情で聞き流していました。しかし、今、改めて聞くと、トランプ氏の指摘がいかに正しかったかがわかります。

大金持ちのドナルド・トランプ氏がアメリカ大統領になぜなったのか。第一次トランプ政権時の4年間、合衆国大統領として受け取るはずの40万ドル(約6000万円)の年俸全額を、トランプ氏は退役軍人の支援のために、国立公園の自然保護のために、麻薬や薬害の被害者のために寄付しています。トランプ氏に対して「大統領になった理由は、金の次は名誉、にすぎない」と酷評する人がいます。しかし、名誉を得るためだけに大統領になる人がいるでしょうか。しかも、自分の資産を大きく減らしてまで。いや、いたとして、そんな人が暗殺されるのも覚悟の上で、アメリカがかかえるさまざまな問題の矢面に立つでしょうか。

トランプ氏がやってきたこと、そして、これからやろうとしていることを見誤ってはいけません。その隠れたメッセージを正しく読み取るべきです。もし、彼がやろうとしていることが、アメリカ合衆国という場所で成就したとしたら世界も大きくかわります。日本の「あたまの悪い政治家」や「天下・国家のことよりも選挙のことしかあたまにない政治家」であれ、その大きな世界的変化についていかなければなりません。そのときこそ若者の出番です。日本の将来は「今だけ、金だけ、自分だけ」のジジィとババァのためにあるわけではありません。これからの日本を担う若い人たちのためにあるのです。

冒頭のワイツゼッカーの言葉を繰り返します。

若い人たちにお願いしたい。敵意や憎悪に駆り立てられないでください。民主的に選ばれた政治家たちにもそうしたことをさせない諸君であってほしい。そして、その範をひとりひとりが示してほしい。自由を尊重してください。平和のために力をあわせてください。公正をよりどころに、心のなかの規範にしたがって正義を貫こう。そのためにも、できるだけ真実に目を向けることです。

私がとくに伝えたいことは「できるだけ真実に目を向けること」という部分です。前回の投稿「価値観の違い(2)」にも書いたように、真実かどうかは自分の理性を働かせて判断するしかありません。その情報が正しいかどうかは国家が示すことでもなければ、誰かに指示されることでもないのです。その意味で、今、新聞やTVといった、いわゆるオールド・メディアがさかんにキャンペーンを張っている「SNSの誤情報」という言葉に騙されてはいけない。オールド・メディア自身がこれまで誤情報や世論を誘導するための偏った情報を流してきたという事実を忘れてはいけません。

東日本大震災にともなう原発事故の時、放射能に対する過剰な報道に疑問を感じた私はなにが真実かを自分の手で探し、自分のあたまで判断することの重要性を学びました。そして、放射能の危険性に冷静になるべきだというレジュメを作って来院患者に配っていました。しかし、そうした私の行動に批判的な人もいました。「患者の命を守るべき医者として放射能の危険性を軽視しすぎだ」というのです。でも、さまざまな情報が飛び交うことは決して悪いことではありません。情報の正しさが後になってわかることがあるからです。原発事故の際に私が書いたレジュメの正しさはそのことを物語っています。

第二次トランプ政権の副大統領であるJ・D・バンスがミュンヘン安全保障会議で演説しました。そこで彼は「いろいろな意見が表明され、議論が交わされることが真の民主主義である」と語っています。また、価値観のなにが正しく、なにが間違っているかはもとより、人の心のありようを法律で断罪することの恐ろしさを指摘しています。その動画の中で、聴衆が「???」としているのは興味深い光景です。バンス副大統領は、私がこのブログで繰り返してきたことを、わかりやすく、簡潔に述べています。是非、最後まで見て下さい。そして、今の社会の動きを振り返って下さい。あとは皆さんがどう行動するかにかかっています。

 

 

価値観の違い(2)

以前の投稿「価値観の違い」にも書いたように、人の価値観は国柄や民族によって異なります。個人のレベルにおいてもさまざまです。それぞれの価値観の溝を埋めようにも難しいことがあります。それは、価値観の多くが必ずしも「良し、悪し」の問題ではなく、「好き、嫌い」の問題だからです。かつて、旧ツイッター(現在、X)で、音を立てながらそばを食べる日本人の姿に、外国人観光客が「あの下品な音はどうにかならないか」とつぶやいたことが話題になりました。生活の中でのなにげない音ですら、その印象は生まれ育った環境によってずいぶん違うものだということを実感させられます。

「音を立ててそばを食べること」が下品かどうか、が問題なのではありません。音を立てて食べるのが当たりまえの国にやって来て、「その下品な音をなんとかしてくれ」と言われても、ということ。それはまるで、寺の周辺に住む住民が「除夜の鐘がうるさい」と苦情をいうのと似ています。以前からそこに寺があって、年末の行事として除夜の鐘を鳴らしてきただけなのに、あとから寺の周辺に住むようになった人間に「うるさい」と言われても困るのです。嫌ならそこに住まなければよい。それだけのことです。しかし、最近は、なかなか「嫌なら住むな」とはっきり言い切れない時代になりました。

「価値観の多様性」という言葉の主旨は、いろいろな人が住む現代社会において、個人のもつ価値観を認め合おうというものです。価値観の多様性を認め合うことそのものはすばらしいのですが、言うほど簡単なことではありません。その理由が二つあります。ひとつは「価値観は好き嫌い」であり、理屈ではないがゆえに、対立する価値観を共存させることが困難だからです。もうひとつの理由は、「多様性を認め合う」ことがともすると強制になって、「多様性は認めない」という考えそのものを拒絶することになるからです。価値観の多様性を認めることにはそんな禅問答のような難しさがあります。

こうした現実的な難しさを抱える社会を維持するためには価値観を調整しなければなりません。「調整する」という意味にもふたつの解釈があります。ひとつは「対立する個々の価値観を調整する」という狭義の意味です。その一方で、「【すべての多様性を認める】とする考えと【一切の多様性は認めない】という考えを調整する」という広義の意味もあるのです。その狭義・広義の意味の間において、どの程度の振れ幅で価値観の違いを調整していくかが重要です。どちらが正しく、どちらが間違っているかの問題ではありません。しかし、最近の価値観の調整が、私には少し性急すぎて、なにか意図的であるようにも見えます。

 

価値観の調整が乱暴になったのは、ソ連をはじめとする東側諸国が崩壊し、アメリカ一極主義の時代となったころからのように感じます。それまでの世界は、アメリカを中心とする自由主義陣営とソビエトなどの全体主義(共産主義)陣営とが、バランス・オブ・パワーを維持しつつ安定が保たれてきました。若いころの私はそうした世界情勢を日々感じていたものです。しかし、東西の国家を隔てる壁が崩れると、世界中の全体主義国家が次々と「民主化」されていきました。当時の私は「これで世界は平和になる」と思ったもの。しかし、世界は安定するどころか、むしろ混乱から混沌へと変化していきました。

2012年にアメリカのバージニア州で黒人青年が白人の自警団員によって射殺される事件が起きました。この事件をきっかけにBLM(Black Lives Matter)運動がはじまりまったのです。BLM運動とは、アメリカ社会に根深く存在している黒人差別を批難する社会運動で、三人の黒人女性がソーシャルメディアを通じて全米に拡散したとされています(この運動には中国から多額の資金が投入されていたことが後でわかりました)。しかし、この事件の犯人だった自警団員がヒスパニック系で、黒人の大統領であるオバマ氏が国民に冷静になるよう呼びかけたこともあってやがて収束しました。

しかし、2020年、ミネソタ州で黒人被疑者を白人警官があやまって死亡させたのをきっかけに、再びBLM運動に火がつくこととなり、全米で大きな抗議運動がおこる事態にまで発展しました。当時のマスメディアが、トランプ大統領を差別主義者だと扇動的に報道していたこともあって、アメリカ社会の秩序を大きく混乱させる暴動事件に拡大したのです。そして、この社会運動は、いつしかアメリカ建国の歴史をも否定する運動に変わり、建国の父とされる多くの偉人たちの銅像を撤去させることにもなりました。この騒乱は、結果として警察活動を萎縮させ、犯罪を助長して、アメリカ社会を今も混乱させています。

こうした混乱の背景に、2016年の大統領選挙でトランプ氏が当選したことが無関係ではありません。トランプ氏は「今のアメリカがいちぶのエスタブリッシュメント(既得権益者)に牛耳られ、ごく一部の富裕層の金儲けに利用されている。世界から尊敬されていた、かつてのアメリカの栄光を取り戻そう」と主張して大統領選挙に立候補しました。当初、ほとんどのマスコミは彼を泡沫候補として注目していませんでした。民主党の大統領候補者からはもちろん、共和党の候補者たちからも批判されていたトランプ氏を多くのメディアが「きわもの」として報道していたのです。

メディアはトランプ氏の女性問題を繰り返し報道し、彼に差別主義者としての印象を植え付けようとしました。政治家としては州知事の経験すらなく、タレントであり、不動産で築いた大金持ちにすぎない。しかも、下品で無教養、常識も通用しないトランプがアメリカの大統領になったら大変なことになる、と騒ぎ立てたのです。そうしたトランプ氏に対する逆風は、アメリカ国内外を問わず吹き荒れていました。そんな四面楚歌の中、選挙直前の予想では、ヒラリー・クリントン氏が当選する確率は71.4%、トランプ氏は28.6%と報じられました。圧倒的にヒラリー優勢と報道される中で投票がはじまったのです。

開票作業がはじまると、いくつかのメディアがすぐにヒラリーに当確を打ちました。ところが、開票が進むにつれ、トランプ氏が得票を増やしていったのです。終わってみればトランプ氏が選挙人の55%を獲得して当選。世論を読み間違えたマスメディアは意気消沈しました。それでは、トランプ氏が第45代大統領になった2016年からのアメリカの4年間はどうだったでしょう。はじめこそ重要閣僚が次々と交代し、政治的経験がほとんどないトランプ氏に対する懸念が現実のものとなったかのようでした。しかし、その後、政権は安定し、アメリカの秩序と経済は回復しました。アメリカが関与した戦争すら起きませんでした。

トランプ氏が大統領になってからの変化はそれだけではありません。彼がこれまで、そして、今もなお繰り返し批判している、マスメディアの偏向があぶり出される結果になりました。メディアは必ずしも「真実」を伝えているわけではありません。詳しくは「歴史の転換点(4)」に書きましたが、トランプのスキャンダルとして報じられたロシア疑惑が、むしろ民主党オバマ政権のバイデン副大統領によるウクライナ汚職とつながっていることが明らかになりました。ヒラリー・クリントンのメール問題も単なるミスではなく、クリントン財団が世界中から不当な資金を集める団体だったことをも明らかにしたのです。

メディアによるトランプ氏に対する印象操作、恣意的な報道内容が深刻な問題だと私が思うのは、彼を政治的におとしめ、大統領の座から葬り去ろうとする策略に、個人レベルではなく、FBIやCIA、あるいは国務省や司法省などの政府機関が組織的に関与していたからです。これまで我々が映画の中での出来事だと思ってきたことが現実に存在していたのです。アメリカという国家のゆくえが、一般国民の選挙の結果ではなく(その選挙結果さえもが「盗まれたもの」といわれています)、エスタブリッシュメントたちの意志が影響していた。トランプ大統領の登場は、そうした現実に国民が気づき始めるきっかけになりました。

昨年の大統領選挙戦の過程で、ロバート・ケネディ・ジュニアやタルシー・ギャバードといった民主党の大物政治家がトランプ陣営に加わりました。その一方で、共和党の大統領候補だったトランプ氏自身が、共和党内部の抵抗勢力と戦いながら勝ち上がってきたという事実にも目を向けなければなりません。このような異例の出来事が、今のアメリカをとりまく政治問題の深刻さ、あるいは、アメリカ社会の異常さを表しているからです。それはまるで、自由と民主主義の国・アメリカが、社会的に真の自由を失い、いまや民主主義すらなくしかけたぎりぎりのところで踏みとどまっているかのようです。

 

アメリカのみならず、日本をふくむ世界が今大きな変革期を迎えています。これまでの社会のあり方を見直すと同時に、今のこの変革が社会をどのようなものに変えていくのかを冷静に見つめなければなりません。世界は東西冷戦の時代からアメリカ一極主義にながれがかわりました。そして、アメリカが牽引するグローバリズムの波が世界中をかけめぐるようになってからというもの、国境という壁すら必要がないかのような「国際化」があらゆる分野に求められました。しかし、それは一方において弱肉強食の社会を受け入れることを意味していました。強いものが弱いものから奪いとっていく世界観でもあったのです。

世界の1%の超富裕層が全資産の37%を独占しているといわれています。そうした超富裕層の三分の一がアメリカ人です。アメリカでの1%の富裕層が全米資産の30%を所有しています。中国のような共産国ですら、100万米ドル以上の資産をもつ富裕層は人口の0.3%ですが(共産国にこんな富豪が存在していることが異常)、富裕層の平均年収は約3000万円である一方で、年収20万円以下で生活している人民は全人口の40%だと推定されています。自由主義のアメリカであれ、全体主義(共産主義)の中国であれ、真の民主主義のない国家では富の独占が合法的におこなわれるのです。そして、これがグローバリズムの正体です。

日本にも押し寄せてきたグローバリズムの結果がどうだったのか。いわゆる「世界標準」は日本国民のために、ひいていえば日本のためになったのでしょうか。大規模なスーパーによって商店街は次々と姿を消し、もの作りの伝統が先細りとなり、日本の土地が外国資本に買い取られ、不良外国人による犯罪によって治安が悪化しています。もちろん日本の国際化によって、世界中で日本の強みを生かしているという側面もあります。しかし、日本でも「強いものが、弱いものから奪う」ことが合法的におこなわれ、最近では「社会的な弱者を装って公金(補助金)を盗み取る」ということすら横行するようになりました。

「持続可能な社会(SDGs)」というキャッチフレーズで進められている環境問題がいい例です。環境保護の名のもとに、環境の保護にはつながらない価値観を喧伝し、社会のあり方を誘導して公金を盗み取るのです。「脱炭素による地球の温暖化防止」のための再生可能エネルギーの推進もそのひとつ。太陽光発電パネルや電気自動車などは、その生産過程において二酸化炭素を大量に放出します。太陽光発電や風力発電のために、二酸化炭素を大量に吸収する広大な森林が伐採されています。レジ袋だって有料化が脱炭素につながらず、マイクロチップによる海洋汚染すら阻止しないことも今ではあきらかです。

脱炭素の問題に関しては客観的で科学的なデータで検証することができるはずです。それでも現在のSDGsという社会運動は、科学的な検討結果ではなく「環境保護」といういささか情緒的なムーブメント(しかも誰かの思惑によるもの?)に偏りすぎています。「本当にその対策が目的達成のために有効なのか」を考えて脱炭素を主張している人は多くはありません。「なんとなくそう言われているから」「それが企業イメージをあげるから」というあいまいな気持ちでながされている場合が少なくない。それが間違っているということがわかっても、なかなか以前の社会行動に戻せないことがほとんどです。

LGBTやフリージェンダーの人たち、または少数民族に対する差別の問題も同じです。現在の日本に本当の差別が存在するのか。あるとすればどんな差別が存在しているのか。そうした検証なくして具体的な対策は取れないはずです。そもそも日本における差別の問題は、文化的にも、宗教や信仰という観点からも大きくことなる欧米や他のアジア諸国のそれと単純に比較できません。ましてや、日本における差別の問題を、諸外国からとやかくいわれる筋合いはないのです。突っ込んだ国民的議論が国内にないまま、アメリカの政権から指示されたかのように拙速に「解決」しようとするのは間違いです。

差別の問題は、なにをもって差別とするかが情緒的・主観的なものであり、複雑模糊として単純ではありません。いろいろな考え方があるだけに、解決が難しいことなのです。昨日までなんの問題もなかった人間関係が、あらためて差別の問題を提起されてぎくしゃくすることもあります。あえて隠しておきたい人にとって、「カミングアウトして胸を張って生きろ」と強制するのも筋違いです。ひとの心の奥にある問題を単純に善悪という観点であつかえないのです。ましてや精神的にも、社会的にも未発達である子ども達の世界にもちこむべきテーマではありません。その意味で、今の教育は間違っています。

 

人の価値観の問題は拙速に結論を出してはいけません。社会の安定を維持するためには、人々の価値観を調整しなければなりませんが、価値観の問題は単純に「多様性の問題」として解決できないものでもあります。「多様性を認めることのどこがいけないのか」と思う方もいるでしょう。しかし、前述したように、「多様性を認めるべき」という考え方は、ともすると「認めなければならない」ととらえられがちです。そうではなく、「多様性をどう認めていくべきなのか」についての社会的な合意を築くプロセスそのものが重要。必ずしも「認めること」が絶対的な善ではなく、「認めないこと」が絶対的悪ではないからです。

ところが、今の日本において、価値観の問題が拙速に決めつけられているように思います。「基本法」という法律によって、簡単に「いい、悪い」が判断され、学校においても基本法にそった「洗脳」が子ども達におこなわれているのです。これまでの日本人の価値観を修正するような問題は、日本の伝統や歴史、文化や価値観に基づく広汎な議論が必要です。ましてや、特定の人たちの思惑による作為があってはなりません。社会の価値観の変更は、ひとりひとりの生活や人生に関わること。社会は「最大多数の最大幸福」のためにあるべきで、そうした理想を実現するためにも、さまざまな人たちによる深い議論が不可欠です。

アメリカや日本では、自由主義・民主主義を国是として掲げています。国家の役割のひとつは、すべての国民の自由と権利を調整すること。そして、その国家の方向性は国民の総意を反映したものでなければなりません。その国民の意思がいかなるものであれ、尊重されなければならない。それが自由主義の基本です。一方、国民の意思を国政に反映させる手段は選挙結果です。それが民主主義の基本なのです。ところが、最近のアメリカ、あるいは日本においては、そうした自由主義、民主主義を揺るがす構造的な問題が浮き彫りになっています。エスタブリッシュメント(既得権益者)という存在がそれです。

もっと具体的にいうと、国民の意思よりも、エスタブリッシュメントの思惑が政治に反映され、国のゆくすえに影響を与えている点を私は懸念しています。このことが深刻なのは、本来、権力を監視すべきマスメディア自体が権力と化し、エスタブリッシュメントそのものになっていることです。そうした社会の構造的な問題が放置されると、人々の知る権利が制限され、特定の人たちにとって都合のいい情報だけが社会にながされます。そして、国民の意思が操作され、それがまた世論調査の結果となって上書きされていく。そうなればもはや自由主義は全体主義に、民主主義は独裁主義へと変質しかねないのです。

古くは「大本営発表」といわれた情報統制がおこなわれ、国民の戦意高揚に都合のよいことだけが報道されました。また、つい最近まで、TVや新聞などのオールドメディアから発信された情報が世論を支配していました。メディアから伝えられたことを額面通りに受け取った国民だけではなく、他国の国民感情をも動かしてしまう力をメディアはもっているのです。「従軍慰安婦」や「福島原発事故調査報告書」に関する報道がそれでした。間違った記事が書かれたのではなく、世論の誘導を目的としたねつ造記事がよりによって「クオリティ・ペーパー(有力紙)」に掲載され、日本の国際関係にまで悪影響をおよぼしたのです。

メディアからの情報が必ずしも真実ではなく、民意を誘導する手段となっていたことが明らかになったのはソーシャルメディアが発達したからです。確かに、ソーシャルメディアに飛び交う情報は玉石混淆です。受け手による情報の選び方によっては間違った世論を形成する危険性があります。しかし、その一方で、情報が受け手に向けての単方向となれば、その情報は民意を容易に操作できてしまいます。自由な情報が交叉するからこそ、その情報の真実性が見えてくる。社会にあふれる情報を選別するためにも、ソーシャルメディアなどを通じて情報を自由に発信・受信できることは大切です。

ところが、そのソーシャルメディアの利用を制限するべきだという意見が、おもにメディアや政治家という権力者の間から出始めています。そうした動きに我々国民は警戒しなければなりません。国民の知る権利は「正しい情報」を知る権利。どの情報が正しく、どの情報が間違っているのかについては、個々人がリテラシーを総動員し、理性を働かせ、自分自身で判断するしかありません。人々の「価値判断」という「好き、嫌いの問題」を、いかにして「いい、悪い」に近づけるか。そのための指標は個人の理性と良識でなければならない。価値観の違いを超えた「真理」は、多くの人たちによる終わりのない対話によってでしか得られないのです。

※ 下記の動画は、今回の原稿をアップした後に配信されました。私の主張ととても重なるので、是非みなさんにもご覧になっていただきたいと思います。

 【そうきチャンネル】ザッカーバーグ・言論の自由陣営への参加表明

アメリカ帝国のゆくえ

自由と平等は本来、あいいれないものです。自由が過ぎればさまざまな格差が生じ、平等に反する状況になるからです。かつてアメリカは「自由と平等、民主主義の国」でした(子どものころの私はそう思っていました)。でも、今の惨憺たる現状をみれば、自由と平等を両立することがいかに難しいかが容易に理解できると思います。アメリカ合衆国は、1620年に自由を求めて北アメリカ東部の海岸に上陸した100名余りのピルグリムファーザーズと呼ばれた清教徒たちからはじまりました(実際には清教徒は40名あまり)。

プロテスタントである清教徒はそれまで、プロテスタントでありながら実質的にはカトリックである英国国教会から迫害を受けていました。ピルグリムファーザーズたちは、アメリカに向かう船の中で、移住者たちの相互協力とともに、秩序維持のための契約を結びました。「メイフラワー号の誓い」と呼ばれるその契約は、その後、アメリカ合衆国建国の理念となりました。清教徒は厳格なクリスチャンであり、退廃した教義を純化した信仰をアメリカという新天地で実現しようとしたのです。

メイフラワー号の誓いには宗教的な厳格さがあり、入植当初の生活を支えてくれたインディアンが自分たちの「自由」をさまたげる存在になると、異端であることを理由に無慈悲に排除していきました。自分たちの自由を追求するあまりに信仰は寛容さを失っていったのです。アメリカ入植者達は狂信的に西進していき、数百万人から一千万人はいたとされるインディアンを駆逐していきました。また、同じ時期に奴隷商人から安価な労働の担い手として黒人を買い入れ、奴隷労働者として働かせるようになりました。

自由というものは、他の自由を阻害することを前提に成り立つといってもいいかもしれません。そして、結果として、自由なる者と自由ならざる者を生み出します。すべての自由が無条件でいいものではないのです。無条件の自由が認められれば、その社会はやがて無秩序におちいり、混沌と混乱をもたらします。まさに今のアメリカ、これからのヨーロッパがそれなのかもしれません。社会においてはどの程度の自由が許容され、どのような社会のあり方が平等なのかについて合意が必要なのです。

そうした合意を形成するためのシステムが民主主義です。あい対立する自由と平等をどう実現していくかについて民意を反映しようとする仕組みです。しかし、その民意が社会的に成熟していなければ、民主主義はいとも簡単にポピュリズムに陥り、衆愚政治を招くことになります。そして、人々の利害の調整が難しく、社会に不満と不信感が鬱積すると、人々は社会秩序を専制政治に求めるのです。これまでの世界史には、専制から自由、自由から専制へと政治的に大きく振れる実例がいくつもあります。

そう考えてみると、世界広しといえども、日本ほど自由と平等との間で絶妙なバランスがとられてきた国家はなかったように思います。中世のころ、どの国においても女性は劣った存在として見られていました。しかし、日本では古くから女流文学が発達し、平仮名というしなやかな女性らしさを表現する文字までもが生み出されています。そして、平仮名とともに、漢字や男性的ともいわれる万葉仮名、あるいは漢字を簡略化した片仮名などを使って、人々の思いを後世に伝える男も女もない日本独自の文化を築いていきました。

身分社会といわれる江戸時代(実際にはそうでもないのですが、ここでは話しがそれるので詳しく述べません)になっても、街のいたる所で「寺子屋」という教育が子ども達にはほどこされていました。江戸中期、日本の識字率は80%ほどだったといわれています。当時のイギリスの識字率は20%、フランスに至っては10%だともいわれており、当時の日本では学びたいと思えば身分や性別に関係なく学ぶチャンスがあったのです。日本がいかに平等だったかが理解できると思います。

私が「日本を誇りに思えること」のひとつに廃藩置県があります。これはそれまでの250年以上も統治していた江戸幕府が無血開城をし、その権力を天皇に奏上した大政奉還によってなされた武装解除のことです。全国には250とも300ともいわれた藩が一斉に統治権を天皇と明治政府に引き渡したのです。当時は100万石の加賀藩や80万石の薩摩藩はもとより、数万石ほどの小藩までさまざまな藩がありました。しかし、いくつかの藩で散発的に反乱が起こりましたが、おおむね粛々と廃藩置県に従いました。

各藩の藩主には明治政府から年金が与えられました。その一方で、臣下たちはそれぞれの俸禄に応じたわずかな一時金はもらえたものの、おおかたの人は武士という身分から一般庶民へと放り出されました。ある武士は農民となり、また別の武士は商人となるなどして人生が大きく変化したのです。身分社会の頂点にあった武士から一転して平民として生きていくことの困難さはいかばかりだったでしょうか。しかし、弱肉強食の国際社会に飲み込まれないためには、新国家に生まれ変わらねばならないことを彼等は知っていました。

仕えるべき藩主を失った武士達は、明治という近代国家建設のために獅子奮迅の働きをしました。日本の若き秀才達は、欧米に直接おもむき、有力者の助言を受け、近代国家はどうあるべきかを徹底的に研究しました。そして、自由、平等、民主主義という近代国家の諸要素を明治政府は身につけようとしたのです。と同時に、次々と欧米列強の植民地となっていくアジア諸国の非情な現実から、国際社会において独立国家として生き抜き、維持するためには国家としての強さが必要だということにも気が付いていました。

そこで明治政府は富国強兵を推進しました。と同時に、幕末に次々と締結された欧米各国との不平等条約の改定を急ぎました。すでに産業革命によって大国になっていた欧米列強。そんな彼等の植民地として隷属しないためにやむなく締結された不平等条約。しかし、日本の国富を次々と持ち出される現状を変えるためには、欧米とは法的に平等な立場になる必要があったのです。その結果、日本はアジアの雄として急速に台頭していきました。そして、それを象徴することが明治維新の25年後に起こりました。

明治維新後、日本からハワイに移民が渡っていきました。勤勉で正直、親切で宥和的な日本人移民はハワイの国王らに歓迎されていました。当時の日本はハワイを対等国家として認めた通商条約を結んでいました。一方、アメリカも捕鯨活動の重要な補給基地としてハワイに目をつけていました。イギリスやフランス、スペインもやってきました。しかし、それらの国々は、対等な条約を結んでいた日本とは異なり、武力をちらつかせて国王をおどし、ともすればハワイを植民地にしようと狙っていたのです。

すでに北アメリカ大陸の多くを国土にしていたアメリカのやり方は狡猾でした。ハワイへのアメリカ人移民を徐々に増やすと、ハワイの各地で騒乱を起こしました。そして、「アメリカ人保護」を口実に海兵隊を投入して占領しようとしたのです。そこでハワイの国王は日本に援軍を求めました。実はその5年前、日本からのさらなる移民を求めてハワイの国王は東京を訪問しました。でも、真の目的は、ハワイの王女を皇室に嫁がせたいという希望を明治天皇に伝えるためでした。それほどまでにアメリカの脅威は深刻だったのです。

結局、前例がないことから女王を皇室に嫁がせるという国王の望みは叶いませんでした。しかし、日本はハワイの求めに応じて東郷平八郎が率いる軍艦2隻を派遣します。日本の軍艦がハワイ沖に出現したとき、現地の人たちは涙を流して喜んだといいます。その結果、アメリカが企んでいた騒乱は一時的に影を潜めました。日本は約半年にわたってハワイに軍艦を駐留させます。ところが、翌年に日清戦争をひかえていた日本は2隻の軍艦を撤収させます。するとまもなくハワイ国王は追放され、アメリカに併合されました。

ハワイを併合する50年前、アメリカはメキシコから今のテキサスやカリフォルニアの土地もハワイと同じような方法で奪い取りました。当時のメキシコの領土は北アメリカ大陸の半分を占めていました。しかし、アメリカはたくさんの不法移民を国境付近に移住させ、テキサス地方を共和国として独立させるとそれを承認・併合して自国としたのです。カリフォルニア地方は戦争をして奪いとりました。今、アメリカに国境を超えて流入してくる不法移民には「ここはかつてメキシコ」という意識があるのかもしれません。

アメリカがメキシコにしたことは、今、ロシアがウクライナにしていることと同じ。メキシコ国境からアメリカに難民が流入している現在の状況も、かつてアメリカがメキシコにおこなったことと同じです。反米の立場をとる国家に対しては、今でもその国内を混乱させ、国民を扇動して政権の転覆をはかっています。あるいは日本軍が真珠湾を攻撃したときと同じように、相手国に戦争をしかけてくるよう仕向けて反撃するという方法も繰り返しています。アメリカはまさに歴史を繰り返しているのです。

世界史を俯瞰すると、これまでのアメリカの覇権主義の歴史は、共和制から帝国となったローマの歴史に酷似しています。イタリア半島の都市国家だったローマは、もともとギリシャの政治制度をもとにした共和制をとっていました。周辺諸国からの移民を積極的に受け入れ、多様な人種、宗教、文化を受け入れる鷹揚さによって発展しました。そして、ローマはゲルマン民族を傭兵として雇いいれ、重装歩兵として強力な軍隊を持つにいたると周辺諸国を屈服させて、懐柔しながら勢力を拡大していきました。

しかし、戦争を繰り返し、国家が大きくなればなるほど、豊かになればなるほど社会の格差は拡大しました。そして、ローマ民主主義の根幹をなしていた元老院や民会は腐敗し、社会には汚職や暴力が横行するようになります。その結果、人々の不満や不安は高まり、政治の機能が行きづまりはじめ、ついにオクタウィアヌスが実権を掌握して皇帝に就任。共和制ローマはローマ帝国となりました。ローマ帝国はその後、農耕を奴隷農民に、守りを異民族の傭兵に頼ります。その一方でローマの人たちの市民意識は低下するのです。

ふたたび社会に安定を取り戻して繁栄したローマ帝国でしたが、為政者の慢心と対立によって社会はふたたび混乱します。富める者はさらに富み、没落する者はさらに没落していくと、社会を支えるべき中産階級が減少していったのです。そして、国内は不安と不満に支配され、異民族の侵入をきっかけにローマ帝国は東西に分かれます。東ローマはビザンツ帝国となり、西ローマ帝国は異民族の侵入によって滅亡してしまいます。そうした様子は、エスタブリッシュメントに支配される今のアメリカの未来を暗示しているようです。

市民、国民の帰属意識は国家が存続するために重要です。強大で強力なアメリカ合衆国が維持されてきたのは、まさに合衆国に対する忠誠があればこそです。アメリカの学生は授業が始まる前に次のような宣誓をします。「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備え、分割すべからざるひとつの国家としての共和国に忠誠を誓う」と。最近は形式的に宣誓する子ども達が増えているようですが、多くは移民の子孫からなるアメリカ合衆国では帰属意識を醸成するために役立っているはずです。

アメリカ合衆国は州という共和国の集合体。だからこそ各州には州憲法があり、州最高裁判所があり、州軍や州警察があるのです。ネイティブ・アメリカンを放逐する一方で、世界中からやってきた移民とその子孫で繁栄したアメリカ。そのモザイクのような「アメリカという国家」を維持していくには帰属意識が必須です。しかし、情報網が発達し、いろいろな情報を手にすることができるようになった今、自国の「自由と正義」、「平等と民主主義」に疑問を持つアメリカ国民が増えているといいます。

アメリカの侵略と繁栄の歴史には、合衆国憲法が宣誓する「自由と正義」、「平等と民主主義」とは相容れない側面があります。第二次世界大戦後、とくに近年においてそれが顕著になっているようにも見えます。現在のアメリカは、その「自由と平等」や「正義」がBMLやLGBT運動に代表されるポリティカル・コレクトネス(政治的に偏った「正当性」)によって変質しています。それはまるで「おぞましい自由」と「倒錯した平等」によって「正義」が乗っ取られてしまったかのようです。

最近の我が国もそうした傾向が顕著です。それは政治家がバカだからなのですが、日本人の多くが戦後教育を受けてきた人たちで占められるようになったこととも無縁ではありません。戦前の教育にも誤りはあったにせよ、戦後の教育にはそれよりも遙かに深刻な問題があると思います。それを論じることは今回の主題ではないので控えますが、戦後教育によって日本人はものを考えなくなったように思います。たやすく周囲にながされる鈍感な国民を量産したのです。まさに53年前の三島由紀夫の予言どおりの日本があります。

歴史の転換点ともいえる今、アメリカの行く末は日本の行く末でもあることを再認識すべきです。日本で起きていることはもちろん、世界で起きていることに刮目し、自分のあたまで考え、判断できる日本人が増えなければ、混沌とする世界に日本は飲み込まれて消滅してしまいます。無関心に逃げ込まず、かといって教条主義に陥らず、何人にも利用されず、誰からも強制されない思考力をもちたいと思います。それが本当の意味での「自由であること」であり、「真の平等をもたらすこと」だからです。

 

歴史の転換点(5)

2004年の「オレンジ革命」後、ウクライナとロシアとの関係が急速に悪化したことはすでに述べました。思えば、1998年にロシアも西側のG7に加わるようになり、ロシアとヨーロッパとのエネルギー供給をめぐる結びつきもより強固になっていきました。にもかかわらず、ソ連が崩壊すると、ポーランドやルーマニア、バルト三国やジョージアまでもが次々とNATOに加盟し、まるでNATOがロシアを包囲していくかのようでした。警戒したプーチン大統領はそのNATOの東進をやめるよう西側に繰り返し伝えました。

2010年以降のウクライナ国内、とくにクリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立は激化し、ロシア政府にとって看過することの出来ない「ロシア系住民に対するネオナチ活動」となりました。ロシア系住民たちがロシアに保護を求めるほど激しいものであったといわれています。2014年、ついにロシアはその求めに応じて軍をクリミアに侵攻させました。そして、クリミア半島では住民投票がおこなわれ、「ウクライナからの独立」を宣言したのです。それを受けてロシアはクリミアの独立を承認して併合しました。

ウクライナ東部のドンバス地方を中心とした戦闘も激化しました。そして、ドイツやフランスが仲介して戦闘を停止させる議定書が、ウクライナとロシアの間で「ミンスク合意」として締結されたのです。戦闘を停止させ、武装集団および軍備を撤収させた上でドンバス地方の自治を保証すること。さらに人道的な問題点を解決し、経済の回復と復興を進めることなどが合意されました。しかし、ミンスク合意はまったく守られず、ウクライナとロシアの双方が「責任は相手にある」と批難し合う状態が続いたのです。

当初はロシアが一方的に合意を無視したと報道されましたが、後になって仲介したドイツのメルケル首相が、「ミンスク合意は、ウクライナに時間を与え、同国が軍事的により強くなるために利用した」と目的を明らかにしています。つまり、ミンスク合意は、ウクライナがアメリカや西側諸国からの軍事的支援を受け、ウクライナ軍を訓練するための時間稼ぎに過ぎなかったのです。かくしてロシアのプーチン大統領は2022年にミンスク合意を破棄し、ドンバス地方の独立を承認しました。

その後、ロシア系住民を保護するための「特別軍事作戦」として、ロシア軍がウクライナとの国境付近に集結させました。しかし、アメリカと西側諸国はなぜか静観する姿勢を続けました。ロシアがさらに侵攻の準備を進めても、アメリカ軍やNATO軍はウクライナに軍隊を派遣するつもりはないと発表。ついにロシア軍がウクライナに侵攻すると、西側諸国は一斉にロシアに強く抗議しました。それに対してロシアは、撤退の条件としてNATOのウクライナへの拡大をやめ、ロシア国境付近へのミサイル基地を建設しないことを求めます。

しかし、そうしたロシアの主張は無視され、ウクライナ戦争は拡大していきました。そして、今や、ウクライナとロシア双方に多数の死傷者を出し、ウクライナのインフラは甚大な被害を被っています。欧米各国はウクライナ軍に武器と兵器を提供し、さらなる軍備を整えるための多額な資金を投じています。でも、ウクライナがロシアとの戦争に要したお金の多くは、アメリカの軍産複合体に戻り、それがエスタブリッシュメントを潤しているのです。ここにアメリカが戦争を継続する理由が透けて見えてきます。

当初、戦争を仕掛けてきたロシアに対する厳しい経済制裁は、速やかに効果をもたらして、ロシア経済を揺さぶり、武器生産能力に打撃をあたえると多くの識者が考えていました。しかし、実際にはそうはなりませんでした。むしろ、現在のウクライナとロシアの兵力の差は10倍にもなっているとされます。優勢だと伝えられてきたウクライナ軍でしたが、現在は圧倒的な劣勢に陥っているとの情報もあります。ウクライナ軍の兵力も枯渇しつつあるとの報道すらあります。もはやウクライナは疲弊しているのです。

 

最近、ロシアの「反体制派」とされるナワリヌイ氏が刑務所で死亡したと報道されました。ロシアが刑務所で病死を装って殺害したのではないかと疑う報道があります。しかし、ナワリヌイ氏はプーチンの政敵ではありません。彼はスラブ民族主義の活動家として、反アジアの思想をもち、ロシア人だけの国家の樹立をめざしていました。アメリカはロシアをいくつかの国家に分割して弱体化させる戦略をもっているといいます。ナワリヌイ氏はそうしたアメリカの戦略に利用されただけなのではないかともいわれているのです。

事実、ナワリヌイ氏側がイギリスの諜報組織(MI-6)と接触し、ロシア国内に「革命」という名の反政府運動を起こすため年間1000万~3000万ドルを用意するように交渉する様子が報道されています。しかもナワリヌイ氏が死亡したのがタッカー・カールソンとプーチン氏とのインタビューの直後。ナワリヌイ氏をうとましいと思っているプーチン大統領が処刑したのか、それともプーチンのインタビューによって分の悪くなった西側によって暗殺されたのか。あるいは単なる病死なのか。今のところ真相は不明です。

プーチン大統領はインタビューで、「欧米が軍事援助を停止すれば戦争はいつでも終わる」といいました。「われわれは和平交渉を拒否していない」ともいっています。ウクライナ戦争がはじまってまもなく、ウクライナとロシアの間で和平交渉が検討されました。しかし、当時のイギリスのボリス・ジョンソン首相がウクライナを訪れ、ゼレンスキー大統領に和平交渉を断念させたともいわれています。ジョンソン氏はそれを否定していますが、彼はウクライナ戦争に関するインタビューには今も応じていません。

 

ロシアのウクライナ侵攻をやむを得ないことだとは思いません。いかなる理由、どのような歴史的背景があろうと、武力で現行の国境を変更することは認めてはいけないのです。今回の戦争に対する直接的な責任はロシアにあります。その一方で、すべての責任がロシアにあるわけではありません。善・ウクライナ、悪・ロシアとは言い切れないのが今回のウクライナ戦争。NATOを強引に東進させた欧米にも責任があり、世界の覇権を目指すアメリカの戦略が今回の戦争の引き金になっていることも否定できないのです。

ウクライナ戦争がはじまったとき、私は「まるで真珠湾攻撃のときのようだ」と思いました。ロシアの人口の半分にも満たないウクライナが、軍事的にも優位な大国ロシアを相手に国家・国民を守ろうと戦っている。それが圧倒的に巨大な国・アメリカに挑む日本に重なったのです。また、アメリカの世界戦略に翻弄され、戦争をするところにまで追い詰められたロシアが、東アジアでの覇権をめぐってアメリカと戦争をするしか選択肢がない状態にまで追い込まれた日本のように見えたのです。

一方、ロシア系住民を保護するために侵攻したロシア軍は、第二次世界大戦時にポーランドに侵攻したドイツ軍のようにも見えます。大戦前、ポーランドがドイツに分割されたとき、多数のドイツ人がポーランドに移り住みました。そのドイツ系住民が迫害されているというのが侵攻の理由でした。しかし、後年、ドイツ人の迫害は実際にはなかったことが明らかになっています。同じように、今回のロシア軍がウクライナを侵攻のした目的が本当に「ロシア系住民の保護」だったのか。不信感は拭い切れません。

そんな複雑でナイーブなウクライナ戦争は早くも3年目を迎えました。この間、たくさんのウクライナ人が亡くなりました。とくに兵士として戦場に送られた青壮年の男性人口が激減しているのです。社会インフラも寸断され、戦場となった地域の復興にも莫大な費用が必要とされています。戦争が今終わったとしても、ウクライナの復興に必要な費用は70兆円を超えるだろうと試算されています。ウクライナの国民はもちろん、国家としての基盤もゆらぎはじめ、そろそろ限界だという噂もながれています。

ウクライナへの軍事援助・資金援助もアメリカの議会を通らなくなってきました。ヨーロッパ各国の支援も滞っています。そんな閉塞感の中で、日本からの資金援助に対する期待感が高まっています。日本は憲法の制限によって軍事的貢献ができないからです。期待されている額は数兆円にも上るとされています。台湾への中国の侵攻も現実味をおび、日本がそれに巻き込まれて有事となれば、西側諸国からの援助を得なければなりません。その保険という意味でもなんらかの貢献をすることが必要なのです。

しかし、日本が貢献すべきことは資金援助だけなのでしょうか。1991年に勃発した湾岸戦争のとき、日本が味わった屈辱を思い出してください。日本はアメリカ・ブッシュ父大統領の要請を受け、戦費を一部負担するため90億ドル(約1兆2千億円)を支出しました。また、湾岸戦争が終結したあと、国内での猛烈な反対運動の中(なぜ反対するのか理解できませんが)、日本は機雷を除去する掃海艇を派遣しました。にもかかわらず、「金は出したが、汗も血も流さなかったから」との理由で評価されることはありませんでした。

今回のウクライナ戦争への支援として、アメリカ・バイデン大統領から岸田首相に総額で約6兆円を超える額が密かに提示されているともいわれています。そして、岸田首相はそれを内諾しているとの報道もありますが、これらがウクライナ国民にとってどのくらい意味のあるものかよく検討する必要があります。アメリカの武器や兵器を購入する費用に消えてしまうだけでは意味がないのです。ウクライナのためになるのはもちろん、ロシアにとっても役立つような支援でなければなりません。我々の大切な税金が原資なのですから。

日本は今こそ「まともな国」に立ち戻らなければなりません。自分の国は自分で守れる国。安っぽい理想を掲げるだけではなく、現実的な役割をはたすことのできる、成熟した国家になるべきです。そして、他国の不幸に手を差しのべ、国際社会の一員としての義務をはたす国になるのです。衝突する国々があれば日本が調停し、西側でもなく、東側でもない、アジアの雄だからこそ可能な国際貢献をすることが重要なのです。真の「平和国家」とはそういう国家だと思います。

そのためには日本が、軍事的にも、外交的にも、また、国力という点からも、経済大国としてふさわしい自立した国家に生まれ変わることが必要です。日本にとっての「歴史の転換点」にはそんな意義があるのではないでしょうか。210年にもおよぶ鎖国状態から、国際社会の一員として再出発することを日本が決意したのが明治維新です。このとき明治天皇と明治政府が、国民に、そして、世界に向けて宣言した「五箇条のご誓文」をあらためて読み返してみてください。日本がいかに志の高い国だったかがわかると思います。

「五箇条のご誓文」

一、広く会議を興し、万機公論(ばんきこうろん:民主的な議論)に決すべし。

一、上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん:国家の政)を行なうべし。

一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志をとげ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

一、旧来の陋習(ろうしゅう:悪い習慣)を破り、天地の公道にもとずくべし。

一、智識を世界に求め、おおいに皇基(こうき:国家の礎)を振起すべし。