今はインターネットを通じていろいろなことを調べることができます。キーワードを入力して検索すればたちどころに自分の疑問に答える情報にたどり着けます。私もそうしたインターネットによる情報検索を繰り返すうちに、自分がいわゆる「自虐史観」にとらわれていたことに気が付きました。また、学校では教わらない「歴史」があることにも気が付きました。しかも、その「教えられていない部分」が歴史の中核だったりする場合もあり、以来、歴史に興味を持つようになりました。
学生の頃、世界史を学ぶ意義をまったく感じませんでした。日本人が外国の歴史を勉強して何になるんだろうと思っていたくらいです。ましてや世界史を日本史の延長線上に考えることの重要性など考えたこともなかったのです。子どもと歴史を勉強しているとき、大東亜戦争(太平洋戦争)前後の疑問をインターネットで調べていました。そして、予備校で世界史講師をしている茂木誠先生の動画(「もぎせかチャンネル」)と出会い、世界史の重要性をあらためて知ることになりました。
茂木先生の臨場感あふれる講義の様子は無料動画としてYouTubeで公開されています(音声のみ)。手元に世界史の教科書をおきながら重要な部分にラインマーカーを引きながら聴いていると、世界史が実は日本の歴史と決して無縁でないことがわかってきました。世界史も日本史も地政学の観点から時系列につながっていること。そして、日本史を世界史のいちぶとしてとらえることが大切だということがわかってきたのです。大切なのは断片的な事実の羅列ではなく、「今につながる歴史」を学ぶことだったのです。
私が「目からウロコ」となったのは、戦国時代の歴史を学びなおしたときのことです。歴史に興味がなかったそれまでの私は「キリシタンを許していた秀吉がなぜバテレン追放令を出すに至ったのか」、あるいは「鎖国をした江戸幕府がなぜオランダにだけ交易を許したのか」ということを深く考えてもみませんでした。学校ではそうした問いかけはなく、自分自身も疑問にすら思わずに大人になってしまったからです。しかし、学びなおしてみると、今までとは違うあらたな戦国時代の姿が見えてきました。
日本が戦国時代だったころ、スペインは国王フェリペ2世のもとで全盛期を迎えていました。スペインは植民地であった南米の銀山から産出される大量の銀を背景にさまざまな国と戦争をしていました。 当時、カトリック教徒の国だったスペインは、プロテスタントの国である隣国オランダを支配下におこうと戦争をしかけていました。 カトリックとプロテスタントでは水と油。そんなことすら知らなかった私は、世界史を学んで「ヨーロッパの歴史はキリスト教の歴史である」ことを知りました。
キリスト教の歴史はおもしろく、今でも欧米の行動の規範にもなっているという点で興味深いものです。ローマ帝国から迫害を受けていたキリスト教が、次第に人々の信仰心を集め、やがてローマ帝国の国教になります。そして、さらには東西のキリスト教に分かれていく。その過程はダイナミックでエキサイティングです。 そのカトリックの盟主でもあるスペインはさらなる植民地を探して、世界でも有数の金銀の産出国だった日本に関心を持ちます。スペインの野望はついに日本に向けられたのです。
スペインの植民地化には共通点があります。住民をキリスト教カトリックに改宗させ、精神的な自由を奪って収奪を始めるというものです。日本にもカトリックのイエズス会(上智大学の宗派)から宣教師フランシスコ・ザビエルが送られてきました。イエズス会はローマ・カトリックの布教のためなら命も惜しまない、武闘派ともいわれる人たちの集まりです。ザビエルは東南アジアでの普及活動で知り合った日本人と共に日本にやってきます。そして、日本の実情をスペインの国王につぶさに報告しました。
日本には常に帯刀した武士がいること。その武士は勇敢であり、いつも武芸を鍛錬し、なによりも名誉を重んじること。また、武士は教養が高く、他の階級の民の手本となる存在だとザビエルは報告しています。そして、日本人のことを「これまで出会ってきたどの民族よりも丁寧で優しさにあふれている」と書き、「礼儀正しく、主君に忠実であるという点でキリスト教徒に一番向いている。好奇心が旺盛で、大半の人々が読み書きできるという点でも布教に有利だ」と国王に報告したのです。
秀吉は当初、そうしたカトリック教徒に好意的でした。しかし、プロテスタントの国オランダの使節から、カトリック・スペインが南米の植民地でどのような蛮行を働き、その蛮行がカトリックの布教を足掛かりにおこなわれてきたことを秀吉は耳にします。そのとき、カトリックに改宗した九州のキリシタン大名たちの領地では、神社仏閣は異端として次々と取り壊され、教会が建てられていました。キリスト教への改宗を拒んだ領民は奴隷としてスペインやポルトガルの商人に売られていたのです。
そうした現状に秀吉は危機感をいだきました。そしてついにバテレン追放令を出します。九州がスペインの植民地になることを恐れてのことです。プロテスタントはその教義から日本に布教を求めませんでした。オランダは交易だけが目的だったのです。そして、交易が許されるかわりに、カトリックの動向、世界の情勢をつぶさに報告しました。江戸時代、その報告は「オランダ風説書」としてまとめられました。交易を許す幕府と世界情勢を報告するオランダは持ちつ持たれつの関係だったのです。
「島原の乱」のことは学校ではあまり詳しく教えられません。島原城に立てこもったカトリックのキリシタンたちが、江戸幕府からの攻撃に耐えながらスペインやポルトガルからの援軍を期待していたことはあまり知られていません。ついにヨーロッパからやってきた最新鋭の軍艦は、実はプロテスタントの国オランダからのものでした。幕府軍がオランダから購入した最新のゴーテリング砲とともに、オランダの軍艦からの艦砲射撃がキリシタンたちがいる城に火を吹いたのはその直後のことです。
そのころ、スペインの無敵艦隊はイギリスのエリザベス1世に敗れ、「陽の沈まぬ国」はすでに衰退の一途をたどっていました。もう一方のカトリックの国のポルトガルも、併合されていたスペインからの独立を果たしたばかりで日本に援軍をおくる余裕はありませんでした。日本には勇猛果敢な武士がおり、倭寇や傭兵として東南アジアで暴れまわる者もいて、多少の援軍を送ったところでそうたやすく勝てるものではありません。当時の世界史における日本の存在感は決して小さくはなかったのです。
幕末の日本にペリーがやってきました。突然やって来た黒船に日本中が騒然となったと学校では教わります。しかし、実はペリーが日本にやってくるずっと以前から、黒船来航の可能性はオランダから幕府に伝えられていました。クリミア戦争でロシアやイギリスといった国々がバルカン半島に釘付けにされているうちにアメリカが日本にやってくるだろう、との情報です。中国にアヘン戦争で勝ったイギリスがインドでどのような植民地政策をとっていたかも幕府はオランダから知らされていました。
幕末の日本が欧米列強の植民地にならなかったのは、井伊直弼をはじめとする幕臣たちのおかげです。折しも日本は政治的な変革期を迎えていました。前近代的な江戸幕府のままでは日本の独立は守れない。そのことは、当時、青雲の志で日本のために奔走した先達たちは熟知していました。また、欧米列強の植民地政策がいかに冷徹で厳しいものだったかをも。だからこそ明治維新後の日本が進むべき道を真剣に考えたのです。彼らのあたまの中は「いかにして日本の独立を守るか」で一杯だったことでしょう。
日本は、朝鮮半島や中国、満州に軍を送り、日本人を入植させました。いわゆる植民地政策です。しかし、日本の植民地政策は欧米のそれとは異なります。欧米のように収奪を目的にせず、むしろ国家予算のかなりの額を投入してインフラの整備を図ったのです。こうした同化政策を進めながら、清やロシアといった大国と戦ったのは、おもに南下するロシアを抑え、米英による植民地化から日本の独立を守るためです。アメリカと戦った理由も昭和天皇の「開戦の詔勅」に詳しく述べられています。
昭和天皇は皇太子時代、復興ままならない第一次世界大戦直後のヨーロッパを訪問しました。これは山形有朋の提案です。戦争がいかに一般国民に犠牲を強いることになるかを皇太子に見聞させるためのものでもありました。こうした歴訪を通じて、昭和天皇はアジアの平和のためには日本とアメリカが友好関係を築き、両者が協力することが重要だという信念をもちました。高松宮のアメリカ公式訪問時に大統領宛の親書を持たせたのはそのためです。日米開戦が不可避となったのを一番憂いたのは昭和天皇です。
学校では、大日本帝国憲法は「天皇主権」を規定し、国民の権利を制限し、覇権主義的な性格をもったものだと教わりました。そして、終戦とともにGHQから与えられた「日本国憲法」は「国民主権」の民主主義を理念とする平和憲法であるとも教わります。その一方で、「教育勅語」や「軍人勅諭」、あるいは「皇室典範」といった戦前・戦中に教えられてきたものは、ただなんとなく「国家主義で危険なもの」「戦争への足掛かりになるもの」というイメージを植え付けられ、その中身すら教えられません。
しかし、それらを改めて読んでみると、私たちが植え付けられてきたイメージとはだいぶ異なるものであることがわかります。大日本帝国憲法と教育勅語だけでも読んでみるといいと思います。昭和天皇の「開戦の詔勅」もふくめて、私たちに教えられていないことに真実が隠れているのかもしれないと感じるはずです。歴史教育は重要です。子どもたちにこれまでの人類が陥ってきた過ちを繰り返させないためにも、勧善懲悪ではなく、「正しい歴史」を教えることが大切です。それがなによりの平和教育だと思います。