ネボケルワタシ

札幌での学生時代の多くを過ごしたのは「岩樹荘(いわきそう)」というアパートでした。北大に合格してまずやらなければならなかったのは自分の住処をさがすことでした。それまでずっと両親の住む自宅から学校に通っていましたからはじての一人暮らしです。うれしいような不安なような複雑な気持ちだったのを覚えています。入学試験のころはまだ一面に雪が積もっていたのに、アパート探しに札幌を再訪したときにはもうだいぶ雪解けが進んでいました。日中はもはや氷点下になることはないため、道路や歩道の雪は融雪水となってどんどん側溝に流れていきます。そんな市内を札幌在住の知り合いの車に乗せてもらって探し回ったのでした。

除雪が進んでいる大通りは車のながれが多いせいかすっかり雪も姿を消していましたが、ちょっと辻通りに入ると結構な雪がまだ残っていました。私がアパートを探していた地域は学生用のアパートが多く、卒業式を終えて引っ越しをする学生が荷物を運び出している光景も見られました。こんな通りを知り合いの車に乗せられて走っていると、窓ガラスに「空き室あり」の張り紙をした一軒のアパートが目に入りました。それが「岩樹荘」でした。「ここ、どう?」。そう言う知り合いのおばさんの後ろをついていき、玄関の呼び鈴を押すと管理人室から厳格そうな初老の男性が出てきました。それがこのアパートの管理人でもある「岩樹荘のおじさん(「謹賀新年(平成29年)」もご覧ください)」でした。

管理人室でその「岩樹荘のおじさんやおばさん」と話しをして、すぐにこのアパートが気に入ってしまいました。薄暗い廊下はひんやりとしてまだ寒かったのですが、管理人室はストーブがたかれていてポカポカしていました。ごくごく普通の家庭の居間という雰囲気でしたから、なにかとてもアットホームな感じがして他人の部屋と言う感じがしませんでした。このアパートで医学部に進学する前の教養学部医学進学課程の2年間と医学部の2年間の合計4年を過ごしましたが、いろいろな思い出とともに「岩樹荘のおじさんとおばさん」によくしてもらった記憶が今も自分の心の中に生きています。

学生のころは決してまじめな学生ではありませんでした。つまらない授業はさぼっていましたし、代返(本人に代わって出席をとってもらうこと)が効く授業は代返を頼んだりしてアパートでダラダラ。あるとき、私はいつものようにつまらない授業をさぼって自室にこもっていたのですが、多少の後ろめたさを感じながらもいつの間にか寝てしまったのでした。そんなとき突然自室の電話が鳴りました。このアパートに入居してしばらくは電話がなく、管理人さんのところにある公衆電話を使ったり、呼び出しをしてもらったりしていたのですが、しばらくするとそれも不便になって固定電話を自室に引いたのです。

突然鳴り出した電話。私はちょうどそのとき夢のなかで留学生となにか会話をしているところでした。あまりにも急に夢から覚めた私は、受話器をとってもしばらくは夢と現実の間にいるようでした。受話器の向こうからは友人の声。授業に出てこなかった私を心配してくれての電話だったようです。「今日、講義に来ないみたいだけどどうかした?」。そう聞かれてもなんだかうまく言葉がでてきません。友人は「今、何をやってるの?」と。私はそんな受話器の向こうの彼を夢の中で会話をしていた留学生と混同したのか、「Oh、I’m スイミン(睡眠) now.」と答えてしまいました。電話の彼は驚いて、「えっ?なにっ?swimmingだって?」とびっくり。

ねぼけ話しは他にもあります。それは、まだ自室に固定電話をひいていなかったころのこと。外部から私のところに電話がかかってくると、管理人室から私の部屋に設置してあるベルが鳴ります。そのベルが鳴ったら管理人室に「了解しました」のベルで返事をし、電話のところにいって話しをするという仕組みになっていたのです。部屋でコンビニ弁当を食べ、満腹になって横になって寝ていたときのことでした。突然部屋のベルが鳴りました。びっくりした私は熟睡していたときに眠りを妨げられたせいか、「部屋のベル=管理人室に返事のベル」という反応をしなければいけないのに、そのふたつの事柄を結びつけることができず、なにをどう反応すればいいのかわからなくなってしまいました。

動揺した私は、なにを血迷ったのか、テレビのリモコンのボタンをいろいろ押してみたり、ガスコンロをガチャガチャとつけたり消したり、部屋の中をなにをしたらいいのかわからないままウロウロするだけでした。しばらくしてすっかり目が覚めて、ことの顛末を自ら振り返ることができるようになりました。そのとき私は思いました。「痴ほう症の患者ってこんな感覚を経験しているのではないか」と。人間って無意識にやっていることが結構多いということも、無意識のうちにいくつかの事柄を結びつけて行動しているということを実体験したのです。痴ほう症とは、そうした「いくつかの事柄を結びつけることができなくなる状態」ってことだとこのとき知りました。

岩樹荘では嫌な思い出ってまったくありませんでした。静かでしたし、管理人さんがいろいろと配慮してくれたせいか生活する場としては結構快適でした。他の入居者との交流こそありませんでしたが、周囲に迷惑をかける入居者もなく、生活音が気になるということも皆無でした。ただ、いちどだけびっくりしたことがあります。私の部屋のふたつ隣があるときから急ににぎやかになり、夜中までガヤガヤとたくさんの人の声が廊下まで聞こえてくるようになりました。しかも、夕食時になると部屋からはもうもうと煙までがもれてくるのです。しばらくは「友人を呼んで食事会でもしているんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたが、あまりにもそうしたことが続くのでなんだろうと。

ある晩のこと、いつものように夕食後にウトウトしていると、突然、ふたりの男性がたくさんのコンビニ袋をもって私の部屋に入ってきました。あまりにも突然のことだったので、お互いに顔を見つめ合うだけで言葉がでませんでした。これまでなんどか寝ぼけたことがある私はとっさに「この事態を冷静に判断しよう」とあせっていました。「まずはここは自分の部屋だろうか」「さっきまで自分はなにをしていただろうか」「このふたりに悪意や敵意はあるだろうか」、いろいろなことがあたまをよぎりました。結局、彼らは頭を下げるでもなく、バツが悪そうな表情をしながら部屋を出ていきました。

実は、あの騒がしい部屋にはとある外国人が入居したのですが、その後、次々と友人が寝泊まりするようになり、多い時は六畳に5人の人間が住み着くようになったのでした。しかし、そんなことが一か月も続くようになったこと、その部屋の住民はいつのまにかいなくなってしまいました。管理人のおじさんに聞くと、どうやらあまりにも度が過ぎるので退室してもらったとのこと。大陸的といえば大陸的な大胆さ、おおざっぱさですが、日本人の節度とはあまりにも相いれない振る舞いに、おじさんは「もうこりごり」と顔を曇らせていました。

「岩樹荘」での思い出(「X’マスは雪がいい」もご覧ください)は、私の北大時代の思い出でもあります。4年間の医学部の前半の2年までを過ごしましたが、親元を離れ、講義に出席することもふくめて、食事をとるのも、風呂にはいるのも、あるいは寝ることも誰にも束縛されない自由な時間であふれていました。医学部に入学するまではいろいろなことに悩み、不安を感じながら時間を過ごすことが多かったので、この岩樹荘での時間はなによりもゆったりとした幸福なものでした。その分だけ、部屋でゴロゴロと怠惰な時間を過ごしましたし、その思い出が強く私の記憶に残っていますが、そのときのゆったりとした記憶が今の安らかな気持ちにつながっているような気もします。ちなみに、医学部後半の2年間はちゃんと勉強して医者になりましたから誤解ないよう。

謹賀新年(平成29年)

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

時の経つスピードは年々早くなり、子どものころにはあれほど長かった一年が今ではあっという間です。私自身も知らない間に半世紀を生きてきて、いったいこの間にどれだけのことをなしてきたのだろうかと振り返れば、これといったこともしないまま無駄に歳をとってしまったような気がします。

子どもの頃に憧れていたものがだんだん輝きを失っていき、大人になって現実を突きつけられると空しさを感じるものになってしまうものだって決して少なくありません。思い出だけが自分の心のなかでキラキラと輝いていて、心ときめいていた昔のことを懐かしむようなことも最近とても多くなってきました。

これまでなんどかお話ししてきたように、私の心のなかで今でもキラキラと輝いている思い出はなんといっても札幌時代から研修医のときでしょうか。長年住んだ我孫子を後にして、札幌に引っ越した時の事をときどき思い出します。不安と期待が入り混じった胸のときめきは今でもあざやかに覚えています。

元旦に一枚のある年賀状が今年も届きました。それは札幌時代にお世話になったアパートの管理人さんの息子さんからのものです。今年で97歳となったおじさんと95歳になったおばさんの近況を伝えてくれるその年賀状は私にとっては札幌時代を思い出す大切な便りです。

私が学生のときに住んでいたアパートは大学から歩いて10分ほどのところにありました。管理人のおじさんは札幌にやってくる前まではひまわりで有名な雨竜というところで農業をやっていました。戦争で南方に送られ、大変な目にあいながらも父親から譲り受けた土地を少しづつ広げていった働き者のおじさんです。

おばさんも寡黙でとても働き者でした。広いアパートをいつもきれいにお掃除しているおばさんの後ろ姿が目に浮かびます。長年やってきた農業をやめ、札幌でアパート業をやろうと決心したおじさんについてきたおばさんがどのよう気持ちで雨竜を離れたのだろうかと考えたくなるほどにいつも働いていました。

おじさんとおばさんははたから見ていても「夫唱婦随」という言葉がぴったりのご夫婦でした。「昭和の理想的な夫婦」ってところでしょうか。おばさんはおじさんを立て、おじさんは何気におばさんをいたわっている。ふたりが仲たがいをしているところを見たことがありませんでした。

そうそう、今思ったのですが、おじさんの風貌ってTVドラマ「北の国から」の黒板五郎が歳をとったような感じ。短く刈った髪は真っ白でしたが、開拓と農業で鍛え上げた体は当時七十歳近くでしたが筋肉質でがっちり。背丈も私よりもあって、どことなく私が憧れる高倉健(「高倉健、永遠なれ」もご覧ください)を彷彿とさせる風貌でもありました。

長年やってきた農業を、しかもはたから見れば順風満帆に見える生業を捨て、これまでの仕事内容とはまったく異なるアパート業にかわろうと決断した意志の強さをあらわすように、おじさんはときにとても鋭い眼光をもっていました。しかし、アパートに住む人たちにはいつも親切で優しかったのです。

アパートに引っ越してきたとき、おじさんに「いっしょに飲まんか?」と誘われました。私はお酒がまったく飲めなかったのですが、せっかくだからと管理人室にうかがうことにしました。管理人室でのおじさんのまなざしにはいつもの鋭さはなく、にこやかでとてもうれしそうでした。

食卓にはおばさんが作ってくれたお料理が並び、さながら私の歓迎会をやってくれているんだと思いました。「冷がいいかな?」。春とはいえまだ寒かった札幌ですが、管理人室は暖房がたかれていてポカポカ。私はおじさんがいつもそうしているように冷で日本酒を飲むことにしました。

コップ一杯ぐらいなら大丈夫だろうと無理してお酒を交わしていた私は、しばらくすると地面がぐるぐる回ってきました。おばさんが心配そうに、「だいじょうぶかい?」と私の顔をのぞきこみました。そこまでは覚えているのですが、あとはどうなったかわからないまま、いつの間にか自室で寝ていました。

翌日、管理人室のおじさん達にお礼に伺うと、おじさんは「酒、飲めんかったかね?」と申し訳けなさそうに尋ねました。微笑みながらうなづく私におじさんは「そうかね、そりゃ悪いことをした」と。あのあと、私は真っ赤な顔をして意味不明なことをつぶやきつつ、ヘラヘラ笑いながら自室に戻っていったそうです。

以来、このアパートは文字通り私の自宅になりました。おじさんとおばさんからいろいろな心遣いを受けながら4年間をここで過ごしました。風呂がなく、トイレも共同のアパートでしたが居心地は決して悪くありませんでした。管理人さんの息子さんご夫婦も入っていてなんだかとてもアットホームだったのです。

ただ、一度だけこういうことがありました。管理人さんの息子さんご夫婦にはひとりの可愛い女の子がいました。当時はまだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの年齢でした。私の自室からはその子が元気に廊下を走り回る音が聞こえました。でも、決して不快な騒音としてではありませんでした。

あるとき、私は部屋で簡単な自炊をしていました。大した料理ができるわけではありませんでしたが、ときどき気が向くと料理をしていたのです。久しぶりに作った料理がたまたまうまくでき、いい匂いが部屋に満ちていました。盛り付けをしながら私は早く食べたい気持ちを抑えていました。

そのとき、廊下からいつものように女の子がお母さんと一緒に歩いていく音が聴こえます。共同のトイレにでも行くのでしょうか。走ろうとするその子に「走っちゃダメよ」とたしなめるお母さんの声も聴こえました。扉の外の愛らしい光景が目に浮かぶようでした。

いちどは聞こえなくなった二人の話し声がふたたび徐々に大きくなってきました。ちょうど私の部屋の前に二人が差し掛かった時、女の子の足がふと止まりお母さんにこう言ったのです。「ママ、変なにおいがするよ」と。変なにおい・・・。そうです。それは私の部屋から漏れた匂いのことでした。

すかさずお母さんが声を潜めるように「そんなことを大きな声で言っちゃだめ」とたしなめました。私はそのとき隠れてしまいたいような恥ずかしい気持ちになりました。その「変なにおい」をおいしそうに感じていた自分が恥ずかしかったのです。以来、料理をする機会はすっかり減り、それは今でも続いています。

このアパートには風呂がなかったため、医学部も高学年になって気軽に風呂にはいれるワンルームマンションに引っ越しました。しかし、それ以降もこのアパートの管理人さんとのつながりは続きました。時間があればおじさんとおばさんに会いに行きましたし、家内と結婚して札幌に戻っては挨拶に行き、子どもが生まれれば見せに行きました。

あんな管理人さん達のようなご夫婦にはお目にかかれないでしょう。二人は私が憧れていたTVドラマ「大草原の小さな家」に出てくるインガルス夫妻のようでもあり、「北の国から」の黒板五郎のようでもあり、また、高倉健のような風貌のおじさんはひょっとして私の理想の男性像だったかもしれません。

人との出会いってとても大切だと思います。私の人生を振り返っても、いろいろな人との出会いによって今の自分があるといっても過言ではありません。こうした大切な人たちとどのくらい出会えるのかが人生を左右するのでしょうね。年賀状はそれを確認する便りでもあると思いました。