軽薄な理想主義

以下の文章は、当ブログを愛読していただいている洋子山根コリンズさんが主催する「短歌通信」に掲載していただいたものです。洋子さんのご許可をいただいて掲載いたします。

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かつての私はどちらかというと左翼的な思想の持ち主でした。高校生のときは「天皇は国民の人気投票で決めたらいい」と友人にうそぶいていましたし、日本の伝統や文化はおろか、日本の歴史にすら関心がありませんでした。むしろ、戦前・戦中の日本を、先の大戦で植民地の拡大をもくろみ、アジア諸国を侵略した恥ずべき戦犯国家だと思い込んでいたといっても過言ではありません。

若いときはテレビばかり観ていました。とくに、ドラマやドキュメンタリー、報道番組などが好きでした。「マスコミからの情報は正しい」と信じて疑っていなかったのもこの頃です。フィクションのドラマの中での出来事を実際にあった事件と錯覚するときすらありました。それほどまでに当時の私の価値観に影響を及ぼしていたのがマスコミから流れてくる情報だったのです。

戦時中の日本を批判的に描くドラマを昭和ひとけた生まれの母と観ていたときのことです。そのドラマにいたたまれなくなったのか、母は「昔の日本はこんなにひどい国じゃなかった」とポツリと言いました。私は「戦前の教育に洗脳されている連中ときたらまるで反省がない」と思ったものです。リアルタイムの戦前・戦中を知る両親よりもテレビの世界を私は妄信していたのです。

三島由紀夫の有名な一節があります。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。(果たし得ていない約束ー私の中の二十五年:1971年より)

三島が自決したのは私がまだ小学生のころ。盾の会を率いて「来たるべきとき」に備えて軍事訓練をする三島が、幼い私の目には「兵隊ごっこをする大人」としか映っていませんでした。しかし、その数年後、三島はまるで戦国時代の武士が現代によみがえったかのように切腹して自らの命を絶ちました。そのギャップに子どもながらに強い衝撃を受けたことを今でも覚えています。

三島の足跡をたどってみると、幼いときから病弱で、徴兵検査にも合格できなかったことが彼の負い目となり、そのことが戦後の彼を変えていったことがわかります。青年期という多感な時期に戦前と戦中を過ごした三島が、敗戦を契機に変わっていく日本をどう見ていたのか。「究極のリアリスト」でもある三島由紀夫が書き残した憂国の短い文章は多くのことを語っています。

三島が「究極のリアリスト」だとすれば、先日亡くなった大江健三郎は「軽薄な理想主義者」に見えます。彼は天皇制に批判的な立場をとり、平和と反戦を叫びながらも中国の核実験を擁護しました。三島とは対局にいるかのような大江健三郎という知識人は、リアリストたろうとしながらも結局は理想主義、個人主義の枠を超えることができなかった人物だったようです。

ロシアとウクライナの戦争が続いています。しかし、その戦争にいたるまでの経緯を知らない人が少なくありません。ウクライナは、ロシアから欧州に向かうパイプラインの中継基地として重要な位置にあります。そして、その石油や天然ガスの利権にアメリカ企業が関与し、ウクライナをこれまで翻弄してきたのです。今の戦争にはアメリカの国際戦略が少なからず影を落としています。

とはいえ、ウクライナがロシアに負ければどうなるかがまるでわかっていない人が多すぎます。その歴史的背景がどうであれ、武力による侵略を受け、国境が力ずくで変更された国家は必然的に崩壊します。いつしか世界史から消えていくのです。これまでの世界史が繰り返してきたその恐ろしさをリアルに感じとることができない日本人が少なくないのはなぜでしょうか。

知識人と呼ばれる人たちは、安全な場所に身を置きながら「命は地球より重い」と叫びます。しかし、「人間の尊厳はときに命よりも重い」という側面にも目を向けるべきです。ウクライナを守るために戦っている人々ははたしてなんのために命をかけているのでしょうか。国際法を破って隣国を侵略した国家を暗に容認してしまうような平和主義は真の平和主義とはいえません。

脱原発というムーブメントもそうです。安全保障を無視したエネルギー政策はありえないはずです。また、放射能への恐怖心に翻弄されるあまりに、原子力に代わるはずの化石燃料が多くの人の命を奪い、地球の温暖化に拍車をかけている事実に目をつぶってはいけません。現時点で、太陽光発電であれ、水素燃料であれ、総じて原発を完全に代替するものにはなりえないのです。

福島原発事故の際、原発の再稼働問題について坂本龍一は「たかが電気のこと(で放射能の危険性を無視することはできない)」と発言しました。その彼はヘビースモーカーとして知られています。しかし、タバコの煙にはポロニウムという毒性の強い放射性物質が含まれており、一日三十本の喫煙をする人は年間で八十ミリシーベルトの被爆をしているともいわれています。

彼の音楽活動において大量の電気は欠かすことはできません。つまり、あの坂本龍一にとっても電気は「たかが」と呼べるほど些細なものではないのです。また、タバコが原因とも思える中咽頭癌に苦しんだ彼は、皮肉にもその治療に放射線療法を選びました。私は彼に電気を使うな、放射線治療をするなと言っているのではありません。現実を無視した彼の理想論を批判的に見ているだけです。

社会のリアルはもっと厳しいものです。そのような現実に目をつぶって理想論を叫ぶのは簡単です。私が大江健三郎や坂本龍一たちを「軽薄な理想主義者」と呼ぶのはそのためです。日本のアニメを牽引する宮崎駿もまた同じ。あれだけたくさんのタバコを吸い、周囲に副流煙の健康被害をおよぼしているかもしれないのに、「原発に反対」とはあまりにもご都合主義すぎます。

ながながと書いてしまいましたが、アメリカのBLM運動に端を発し、ウクライナ戦争にいたる世界規模の社会の分断と不安定化は、台湾をめぐる中国の覇権主義によってさらに深刻な対立と混沌に突き進んでいく様相を呈しています。今こそ「軽薄な理想主義」を克服し、厳しいリアルと対峙しながら行動する勇気が必要なのではないか。多くの人にそれに気づいてほしいと願ってやみません。