教育に関する妄想(1)

8月が終わろうとしています。暦の上ではすでに夏は終わっています。子どものころの私は夏休みに複雑な思いをいだいていました。もともと学校が嫌いで、勉強もまともにやらない私にとって、夏休みはようやくやってきた楽しい長いお休みのはず。しかし、学校で終業式を迎えるころになると、それまでとは違ったプレッシャーが私を襲ってきました。それは「夏休みの宿題」と「自由研究」という課題が与えられるからです。私は子どもながらに、「せっかくの休みだというのに、なんでこんなことをしなければならないのだろう」と思ったものです。そして、大人になった今もそう思います。

友達の中には「嫌なことは早く片付けてしまおう」とばかりに、宿題と自由研究をさっさと仕上げてしまう子もいました。あるいは「日課を決めて計画的に進める」という几帳面な子もいました。しかし、私は違いました。夏休みが終わりに近づくまで、宿題にも、自由研究にも手をつけずにいたのです。手をつけずにいた、というよりも、手をつける気にならなかったのだと思います。そして、あと数日で始業式という頃になって、あわてて、しかも適当にやって済ませてしまう。そんないい加減な宿題・自由研究を提出しても、罪悪感もなければ、後ろめたさも感じませんでした。

今から思うと、子どものころの私は発達障害だったような気がします。親はもちろん、学校の先生の指示通りに動けない子だったのです。当時の私は「指示されるのが嫌」と感じていたように思います。でも、大人になって振りかえってみると、「指示されるのが嫌」なのではなく、「指示通りにできなかった」のではないかと。子どもの中には、反抗的だったり、自分勝手に行動したり、あるいは他の人との協調性がないような子がたくさんいます。でも、それは単に性格が変わっているのではなく、発達障害のように、社会性の発達が一般的な子どもたちよりも遅れているからなのかもしれません。

ところで、私のような「昭和どまんなか世代」は、「夏を制する者は、受験を制する」という言葉をよく耳にしたものです。厳しい受験戦争を勝ち抜くためには、夏休みをいかに充実したものにするかが大切だという意味です。はたして受験生の皆さんにとって、この夏休みはどのようなものだったでしょうか。「計画通りで充実した夏休みだった」という人たちは、他の受験生をリードしていることは間違いありません。この調子で頑張りましょう。「思ったように勉強ができなかった」と肩を落としている受験生もがっかりする必要はありません。この遅れを挽回するために、これからいかに頑張るかが重要なのです。

大学をいったん卒業したものの、就職をしないで医学部の再受験を決意した私。大学卒業後、地元の小さな塾の講師をしながら受験勉強をしていました。医学部に合格するのは無理だと断念した経緯があるだけに、再び受験勉強をはじめたからといって再受験に成功する保障などありません。その一方で、大学の同級生達が社会人としてのあらたな生活を送っています。就職をしなかったのは私だけでしたから、それなりの孤独感を感じながらの再出発でした。当初は予備校へは行かず、受験雑誌の合格体験記で紹介されている参考書や問題集をそろえ、毎日の日課を決めて勉強をしていました。

親とは金銭面では頼らない約束をしていました。ですから、お金のかかる私立大学の医学部という選択肢はありません。国立大学のみに目標をしぼっていました。とはいえ、失意の三年間を送っていた高校生のときはまともに授業を受けていません。しかも、不得手な国語や社会などは勉強する気になりませんし、肝心の英語は高校三年生のときから勉強をはじめたので最後まで足をひっぱる科目でした。そのうえ、夕方には塾で小学生を教え、夜は中学生を教えるという毎日です。当時は塾のテキストの他に、生徒達に配るプリントも作っていて、塾での仕事にもそれなりの労力をさかなければなりませんでした。

でも、私と同じ受験生だった中学生を見ていると、生徒達のために頑張らねばと思う気持ちと、私自身の心の中に勇気と活力が湧いてくるのを感じていました。当時は校内暴力が社会問題になっていました。私が働いていた塾でも学級崩壊のようになるクラスもあったのです。そのクラスでは次々と先生が代わっていました。生徒達の私語がやまず、先生が授業を放棄してしまうのです。そして、ついに私がそのクラスを教えることになりました。私のような講師で対処できるだろうかと不安でした。でも、塾長先生の困惑した表情に、「自分がなんとかしなきゃ」と思ったものです。

通常の授業も生徒は多かったのですが、夏休みの講習会ともなると普段は通っていない生徒達もやってきます。満杯の教室はクーラーの効きが悪くて蒸し暑い。自然と生徒達の私語が増えます。そのような中で私の授業が始まりました。小さなプレハブの狭い教室のなかには30名ほどの生徒がいました。最前列には女子生徒が陣取っています。いずれも友達同士らしく、休憩時間からずっとピーチクパーチクおしゃべりをしています。一番後ろの列には体が大きく、ガラの悪そうな男の子とその友達数名が並んで座っていました。私は数学を教えていましたが、当初は思ったよりも静かな教室の空気に拍子抜けしてしまいました。

しかし、それは、生徒達が私の様子を観察しているのにすぎないことがわかりました。どのくらい騒げば怒られるのか。そのときこの講師はどんな反応をするのか。それをじっと見ていることを背中に感じながら私は黒板に向かっていました。「先生、消しゴムとって」。突然、体格の大きな男子生徒が私に言いました。床に落ちていた消しゴムを彼に渡して授業を進めようとすると、また「消しゴムとって」と。私は試されていることを感じました。「落とさないように気をつけてね」と消しゴムを渡してもまた同じ事が。何度もそれは繰り返されましたが、私はその都度、あえて無言のまま消しゴムを拾っては渡していました。

「消しゴムとって」と声がかかるたびに教室には笑い声がおこります。とくにこの大柄の生徒とその友達たちの騒ぎっぷりは、教室の雰囲気をあおるかのように大げさです。それにつられて、最前列の女の子たちの会話はそれまで以上に声が大きくなります。しかも、休憩時間のように体をお互いの方に向け合って話しをしているのです。なんど注意しても、静かになるのは一瞬。何日かが経っても、いつものような騒がしい教室。「おまえたちは何をしにここに来ているんだっ」。私の堪忍袋の緒はついに切れてしまいました。私はそのとき思いました。「こうやって先生達は授業を放棄していたんだ」と。

教室を騒がしい雰囲気にしている中心は、あの大柄の生徒のように見えました。その子は教室内の雰囲気を支配し、まるで自分の力を誇示するように大胆でした。彼の両脇に座っている仲のいい友達は、彼に媚びるようにそれを騒ぎ立てます。そして、混沌とした雰囲気が教室に充満してくると、今度は最前列の女の子達のおしゃべりは堰(せき)を切ったように大きな声になるのです。そんな教室の力関係のようなものが見えてきた私は、その大柄の子を教室から追い出すことにしました。「勉強する気がないなら塾に来るな」。一瞬戸惑ったような表情をした彼でしたが、退出を命じる私の指示に従って出て行きました。

彼の仲間たちは、顔を引きつらせておとなしくなりました。しかし、最前列の女の子たちはおしゃべりを続けています。それはまるで、教室の雰囲気をかき乱していた主犯を追い出した私をわざと怒らせるかのようでもありました。何度注意しても直りません。このグループにもやはり中心となる子がいました。この子もあの大柄の生徒と同じように教室から追い出そうか、とも思いましたが、親がお金を払ってきている生徒を何人も追い出すわけにはいきません。私は塾長に相談することにしました。塾長先生も手を焼いているようです。ふたりであれこれ話しましたが、結局、いい解決策は得られませんでした。

教室を追い出した男の子は二度と塾に戻ってきませんでした。塾長先生のところには、その親から抗議がきたようです。私は塾長にお詫びをしましたが、「気にしなくていいから」と言ってくれました。「ああいう子は、親も持て余していて、【家に居てもらうより、塾に行かせてしまおう】と煙たがられているんだよ」と塾長は言います。自分の居場所もなく、その存在も認めてもらえない子どもはああやって自己主張しているんだ、というのです。勉強の邪魔をするだけのように見えたあの子も、実は気の毒な子どもだったのです。私がもう少し冷静であったら、他のやり方があったかもしれないと反省しました。

相変わらず最前列の女子生徒たちには手を焼いていました。そんなある日、塾から自宅に帰った私は何気なく妹にそのことを愚痴っていました。「いくら注意してもおしゃべりをやめない女の子達に困っているんだよ」と。すると妹は言いました。「その子たち、兄貴に注目してもらいたいんじゃないの?きっと注意してもらいたいんだよ」と。私はそのとき、目からウロコが落ちる思いでした。「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」などという気持ちがあるとは思っていなかったのです。私の目には、そんな彼女たちは「なんど注意してもおしゃべりをやめずに困らせる子たち」としか映っていませんでした。

私はさっそく、おしゃべり三人組の中心と思われる子に、質問を当ててみることにしました。ごくごく簡単な、誰もが正解になるような質問です。おしゃべりをしているその子に「そんなにおしゃべりしたいなら、この質問に答えてみてよ」と言ってみました。彼女は驚いたような表情をしましたが、黒板をゆっくり見上げます。彼女が遠慮がちに正解を答えました。「君はできるんだねえ」。誰もが答えられる質問ではありましたが、そう褒めることも私は忘れませんでした。三人がおしゃべりをはじめるたびに彼女に質問を当て、そして、褒めました。そんなことを繰り返すうちに、彼女たちのおしゃべりはやがて止まりました。

それは面白いほどの変化でした。最前列の彼女たちはお互いに向き合うように話しをしていましたが、なんどか質問を当てているうちに、話しをする頻度が減り、三人とも黒板の方を向くようになりました。そして、ついに板書をノートにとるようにまでなったのです。彼女たちには、私の妹が言っていたように、「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」という気持ちがあったのでしょうか。もしかすると、褒められたことすらなかったのかもしれません。私はこのとき、教えることの面白さをしみじみと感じました。「教育の醍醐味」とはこういうところにあるのではないか、と思いました。

私が教室から追い出してしまった男の子といい、おしゃべりをやめなかった女の子たちといい、それぞれにはそうしてしまう(そうせざるを得ない)理由があったのだと思います。私が宿題をやらなかった(できなかった)のと同じように。家庭環境のせいもあるでしょう。友達との関係が影響している場合だって。もしかすると子ども時代の私のように発達障害なのかもしれません。そうした個々の事情を深く考えると、ひとりひとりの子どもがかかえる問題点の解決方法が見つかるかもしれない。塾の講師をしながら私はそう思いました。そして、このときの経験はのちに発達心理学に関心をもつことにもつながりました。

でも、子ども達の深い部分に目を向ける余裕が、忙しさに追われる今の先生達にあるでしょうか。教育そのものが荒廃しています。それは誤った教育改革の結果だと思います。あるいは、社会そのものがゆがんでしまったからかもしれません。私たちの頃にはまだ戦前の教育を知っている先生がいました。そうした先生達の方が生徒と教師との距離が近かったような気がします。「体罰」もありました。生徒は「呼び捨て」になっていましたし、さまざまな校則でがんじがらめだったかも知れません。しかし、学校には秩序がありました。そして、卒業式に「仰げば尊し」を涙ながらに歌って先生達との別れを惜しむ「絆」もありました。

教育が変質してしまった原因は、社会のありかた、親の意識そのものが変わってきたことも影響しています。おぞましい自由が幅を効かせ、教育の現場にすらLGBTが登場するようになりました。倒錯した平等主義によって、公立の男子校や女子校が共学化され消えていく県があるほどです。それは世界のながれに連動した変化ともいえます。まるで歴史と文化を嘲笑するかのようなあのパリオリンピックの開会式は、そうした現代社会の異常さを象徴しています。また他方では、親たちの権利意識の高まりが子どもにも影響し、学校という集団生活において、先生が強制力を使って統制をとることが難しい時代にもなっています。

教育というものを、子ども達の大切な未来を育てるのにふさわしいものに変革しなければなりません。小さいときから受験戦争に勝ち抜くことが求められ、受験からの脱落が人生の「敗北」とされることすらあります。しかし、それは間違いです。勉強が好きな子どももいれば、苦手な子もいます。勉強が苦手だということは恥ずかしいことではありません。運動が苦手だったり、音楽が苦手なのとかわりはないのです。「受験戦争の勝者」は「人生の勝者」なのでしょうか。人間の幸福とはそういうものなのでしょうか。そもそも「人生」という個人の問題に、他者との「勝ち」や「負け」などがあるはずがありません。

大人の価値観を押しつけられた子ども達には、自分の個性や適性とは一致しない将来を強いられることがあります。医者になったのに自ら命を絶ってしまう研修医がいます。長時間労働に心身ともに疲れ果てての結果だといいます。実に痛ましいことです。でも、私の研修医時代はもっと厳しいものでした。仕事が終わって病棟を離れるのはいつも深夜0時過ぎ。そして、朝の7時には病棟に行って患者の採血をしなければなりません。土・日だって重症患者がいれば病院に行くのです。でも、私はそうしたことをツラいと思ったことは一度もありません。それは「医師として働く」という自分の夢を体現していたからです。

人生の価値、生きることの意味は、学歴にあるわけでも、職歴にあるのでもありません。ましてやどれだけ裕福な生活をしているかでもない。どんなに学歴が高くても、有名な企業に勤めて、役職が高くなったとしても、ひとりの老人になればただの人。自分の履歴など、他人にはなんの関係もないのです。それに気が付かず、一介の老人になってもなお「偉かった自分」のままだと勘違いしている人は少なくありません。他人との比較の中で自分の人生を生きなくてもすむ社会が必要なのです。自分自身のなかで「生き切った感」を実感できる人生。そんな人生を送れるように子ども達の背中を押す教育であってほしいと思います。

次の記事は、私が日頃、夢想している「理想とする教育システム」について書いてみたいと思います。