運命について(4)

1850年8月、万次郎の乗ったアメリカの捕鯨船イライザ号はハワイ・オアフ島に到着しました。イライザ号は蒸気船で、それまでの捕鯨船の2倍はあるかという大きさです。カリフォルニアを出発してから二週間あまり。あっという間にハワイに着いてしまいました。万次郎は早速、島に住んでいた寅右衛門の家をたずねていきました。そして、伝蔵と五右衛門も呼び寄せて、帰国するという自分の強い意志を三人に告げました。伝蔵と五右衛門は万次郎の決意に共鳴し、自分たちも一緒に帰国したいと言います。しかし、寅次郎だけが表情を曇らせたのを万次郎は見逃しませんでした。しばらく黙っていた寅右衛門は重い口を開きました。

「伝蔵も五右衛門も、以前、日本に帰ろうとしたがうまくいかなかった。また命がけで帰国を試みてもうまくいくとは限らない。俺はここでの生活に慣れ、仕事もでき、嫁ももらった。だから、この土地で一生を終えてもいいと思っている」。淡々とそう語る寅右衛門に、万次郎ら三人は「一緒に日本に帰ろう」と繰り返し説得します。しかし、彼の気持ちが変わることはありませんでした。万次郎たちは寅右衛門を翻意させることが難しいとわかりました。そして、三人で帰国の準備を進めることにしました。万次郎は採掘した金と交換できた銀貨600枚あまりで、上陸用の小型の船などの必要なものを購入していきました。

万次郎らと小舟一式を乗せてくれ、琉球付近で降ろしてくれる船を探しました。三人には希望があふれ、そのまなざしには「必ず帰国を果たしてみせる」という決意が感じられます。そんなとき、一隻のアメリカ船がオアフ島に入港してきました。その船には五人の日本人が乗っていました。万次郎は彼らに会いに行きましたが、五人は紀州の荷を乗せて江戸まで運び、その帰りに嵐に会って遭難したとのこと。運良くアメリカの船に助けてもらい、中国に向かう船に乗り換えてハワイまで乗せてきてもらったところだといいます。「彼らと一緒に帰れるかもしれない」。万次郎は希望が現実のものになってきたように感じました。

紀州船の船員たちには、彼らが乗ってきた中国行きの船の船長を紹介してもらいました。ところが、その船長と万次郎がささいなことでトラブルとなってしまったのです。船長は万次郎だけは乗船させたくないと言います。紀州船の人達が取りなそうとしましたが、船長は「どうしてもダメだ」と頑なです。万次郎は伝蔵と五右衛門に「自分のことは気にしないで行ってくれ」と言います。しかし、「それはできない」と、ふたりと万次郎の押し問答は続きました。結局、「万次郎ひとりを残して行くわけにはいかない」ということに。紀州船の船員たちは三人に同情してくれましたが、万次郎たちは船を涙で見送ることにしました。

万次郎には複雑な思いがありました。それは「カリフォルニアで大金を稼いでくる」と告げて別れてきたウィンフィールド船長のことです。今回の帰国のことを船長にはまったく相談せずにハワイに来てしまいました。船長は自分がフェアヘブンの自宅に帰ってくると思っているに違いない。そう考えただけで、自分に教育をあたえ、ここまで育ててくれた船長にはとても大きな不義理をしているように思えてならなかったのです。今回の帰国がもし失敗すれば、自分は命を失うかもしれません。そうなれば船長との再会は二度とかなうことはないのです。万次郎は船長に手紙を書きました。

 

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「あなたには幼い頃から大切に育てていただきました。このように成長することのできた恩義を、私は決して忘れません。なにひとつ恩返しができないまま、私は日本に帰国しようとしています。恩知らずのこの行動をどうかお許しください。もし生きて帰国をはたすことができ、世の中が変わって事情が許せば、ふたたびお目にかかれる日がやってくるでしょう。どうか寛大なご慈悲をもって私をお許しいただければ幸いです。」

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ハワイ・マウイ島に中国・上海行きのアメリカ船が入ってきました。しかも、その船では乗組員を募集しているといううわさです。日本に帰国するチャンスがいよいよ訪れたのだ、と万次郎は思いました。用意した小舟とともに三人をその船に乗せてもらい、琉球が近くなったら降ろしてもらえばいいのです。その船の船長の名前に万次郎は聞き覚えがありました。そのことを頼りに船長に直談判してみることにしました。「私たち三人は日本に帰国する決心です。なんとか日本近海まで船員として雇ってもらえないだろうか」。しかし、船長はあまりいい顔をしませんでした。「途中で船員がいなくなるのは困る」というのです。

万次郎は船長に言いました。「他の二人は大型船の仕事には慣れていない。仕事という仕事はほとんどできないだろう。しかし、二人の分まで私が必死に働くので彼等もこの船に乗せてもらいたい。私たちには給与はいらない。もし、日本の沖で二人を降ろしてもらえれば、私だけは中国まで働き続けるのでどうかそれでお願いしたい」。万次郎の言葉を聞いて、船長は渋々三人の乗船を認めることにしました。万次郎たちは、あらかじめ用意していた小舟や帆、櫓などを船に積み込むと、三人をふくむ18人の乗員を乗せた船はハワイを出港しました。遭難してから10年という歳月が過ぎていました。

日本までの長い航海を三人はどのような思いで過ごしたことでしょう。その間、万次郎は船長が目を見張るような働きぶりだったに違いありません。伝蔵と五右衛門も、慣れないながらも誠意をもって働いたのでしょう。航海中の三人の様子に、当初は渋々受け入れた船長も、彼等がいかに祖国に、故郷に戻りたかったかが伝わってきたようです。いよいよ琉球が近づいてきたとき、船長は万次郎を呼び寄せて尋ねました。「君はこのまま中国に行くということでよいか」。そう確認する船長に万次郎はきっぱりと答えました。「伝蔵と五右衛門は琉球に到着したら下船させてください。私はこのまま中国まで働きます」。

そう言い切った万次郎のまなざしを見つめながら船長はしばらく黙っていました。そして、万次郎の覚悟を確かめたかのように船長は静かな口調で言いました。「この先の航海で船員が足らなくなるのは困る。しかし、私はそれを我慢することにしよう。君も彼らといっしょに下船しなさい」。その船長の言葉を聞いた万次郎の目からはとめどもなく涙がこぼれおちました。琉球まであと少しとなったころ、船長は船をできるだけ陸地に近づけるよう船員に指示しました。いよいよ三人が日本にもどる時がやってきたのです。「琉球はもう目の前だ。心配することはない。きっと上陸できる」と船長の目にも涙がにじみました。

船長は下船の準備に忙しい万次郎を呼び止めました。そして、一枚の航海図を広げると「ここは上陸には向いていないからここから試みたまえ」と助言してくれました。「もし万が一、上陸が難しいとなったら戻ってきなさい。我々は君らの上陸を確認するまでここにとどまっているから」と食料を渡しながら言いました。上陸用に購入した小舟に、万次郎たちは「アドベンチャー号」と名前をつけました。そのアドベンチャー号は、万次郎、伝蔵、五右衛門を乗せ、日本の海岸を目指して冒険(アドベンチャー)をはじめるのです。三人は船長や乗組員たちに謝意と別れを告げ、小舟に乗り込みました。

沖の波は思いのほか高く、小舟を木の葉のように大きく揺らしました。万次郎は小舟の帆を張り、船長が示していた海岸に向けて舵をとります。しかし、ときに押し寄せる大波に、舟は遭難したときのように押し流されていきます。なんども転覆しそうになりながら、必死に舟を立て直そうとする三人。恐ろしさのあまり、顔をひきつらせた五右衛門が「もうだめだ。どうしたらいいんだ」と泣き叫びます。そんな彼を叱りつけながら櫓をこぐ万次郎。それはものすごく長い時間が経ったように感じました。ついに、三人はなんとか入り江までたどり着くことができました。沖合に停泊していた船は、それを確認して中国に出発していったのでした。

 

*********************** 「運命について(5)」につづく

 

運命について(3)

「万次郎にアメリカで教育を受けさせたい」。ウィットフィールド船長の教育を重視するこうした姿勢は会衆派教会の教えでもありました。アメリカにやってきたピューリタン(清教徒)の信仰を色濃く残していた会衆派は、同志社を創設した新島襄がアメリカで洗礼を受けた宗派としても有名です。新島襄は若いころ、日本に帰国した万次郎が教授をしていた幕府の軍艦操練所に入学していましたが、やがてアメリカの政治制度やキリスト教精神に強い関心を持つようになりました。そして、1864年、アメリカに渡ってキリスト教を学ぶことを決意した新島は、商船に乗って新大陸への密航を果たしたのです。

アメリカでの新島襄には、身寄りも、頼る人もいません。しかし、会衆派のある篤志家が、「聖書を学び、帰国して学校を作りたい」という彼の志に感銘を受け、「ジョウには教育を与えるべきであり、私が彼の生活の一切を援助する」と申し出ました。新島襄や万次郎が暮らしたアメリカ北東部には、こうした敬虔なプロテスタントが当時数多くいました。新島襄はその後、会衆派教会で洗礼を受け、同派が設立した名門アーマスト大学に進学して日本人初の学士号をとります。そこで彼は、後に札幌農学校に赴任するクラーク博士に化学を教わりました。そして、さらに神学校に進んだ新島は、帰国後、志どおりに同志社大学を作ります。

ウィットフィールド船長にとって、万次郎は自分の息子のような存在でした。それには理由がありました。航海の直前に船長は再婚したばかり。その2年前に前妻が亡くなっていたのです。その後、男の子が産まれますが、その子も二歳になってすぐに亡くなってしまいました。悲嘆にくれる船長夫妻を町中の人が気の毒に思うほどでした。そんな夫妻のもとにやってきた万次郎は、まさに自分たちの子どものように感じたに違いありません。だからこそ、その万次郎が教会で「黒人の席に座れ」と言われたとき、いつもは温厚で人格者だった船長が「万次郎に対する扱いは人種差別だ」と憤慨して教会をあとにしたのでしょう。

成長した万次郎は、アメリカの船員学校で優秀な成績をおさめていました。そして、今度は正式な船員として捕鯨船で航海に出ることになりました。万次郎が乗船するフランクリン号の船長はかつてジョン・ハウランド号の乗組員。ニューベットフォードの港から、補給基地だったマニラに向けて出発することになっていました。船が出航してしばらく進むと、大砲を積んだ大きな軍艦が何隻も停泊するボストン港に入りました。当時、アメリカとメキシコは戦争のまっただ中。両国ともに戦力を増強して戦争が終る気配はありません。海岸には砲台が何基も並び、まるで城塞のような様相にただならぬ雰囲気を漂わせていました。

その後、フランクリン号は大西洋を南下します。航海の途中、いくつかの島に寄港しながら燃料と食料を補給しました。遠く小笠原の近くまで来ると、二十隻ほどの漁船が鰹漁をしていました。どうやら日本の漁船のようでした。万次郎は船の舳先に立って声をかけます。「ここはなんという国ですか?」。すると、真っ黒に日焼けしたひとりの漁師が「陸奥の国、仙台だ」と答えました。久しぶりに耳にする日本語でした。万次郎は故郷である土佐の方角を聞いたものの、漁師は土佐のことを知らないようすです。万次郎は少し落胆しましたが、漁師に謝意を述べ、船はハワイを目指して出発しました。

ハワイは一緒に救出された4人と別れた場所。ハワイに到着した万次郎は街の人に「どこかに日本人はいないか」と聞いてまわります。そして、ひとりの日本人が住んでいるという家を教えてもらい、たずねてみることにしました。その日本人は寅右衛門でした。容姿が変わっていたせいか、彼ははじめ万次郎だとは気づきません。しかし、その訪問者が成長した万次郎だとわかると、二人は抱き合って五年ぶりの再会を喜びました。ところが、他の三人の姿はそこにはありません。寅右衛門が言うには、重助は怪我がもとで死んでしまい、伝蔵と五右衛門は日本に帰るために船に乗って行ってしまった、とのことでした。

寅右衛門との再会をはたし、フランクリン号に戻った万次郎は、ふと沖の方に目をやりました。港に入ってくる捕鯨船に、二人の日本人が乗船しているという噂を聞いたからです。万次郎はさっそくその船の日本人に会ってみることにしました。船の近くまで行ってみると、その二人は伝蔵と五右衛門だということがわかりました。肩をたたき合って久しぶりの再会を喜ぶ三人。「ふたりは日本に帰ったと寅右衛門から聞いたけど・・・」。そうたずねると二人は「八丈島と蝦夷まで行ったが帰国がかなわなかった」と涙ながらに語りました。二人の話しを聞きながら、「日本に帰りたい」という思いが万次郎にはこみ上げてくるのでした。

伝蔵と五右衛門との話しはつきませんでしたが、フランクリン号は万次郎を乗せてハワイを出発しました。そして、1848年2月、船はマニラに向かう直前、グアムに到着しました。しかし、このころから船長が精神に異常をきたします。わけのわからぬことを言ったり、暴れるようになってきたのです。マニラに到着すると、彼をアメリカ領事館に預けることにしました。そして、それ以後は万次郎が船長代行として船を進めることになったのです。マニラの新聞では、アメリカの商船が日本に帰港し、領事館を作らせてほしいと求めたものの、幕府は拒否したと報じていました。「帰国はそう簡単ではないようだ」と万次郎は思いました。

40ヶ月におよぶ長い航海を終え、フランクリン号はニューベットフォード港に戻りました。万次郎はウィットフィールド船長の自宅を訪れ、無事帰港したことを報告しました。船長は万次郎の成長ぶりに感心し、無事帰還したことを喜んでくれました。しかし、万次郎の表情はさえません。ハワイで伝蔵・五右衛門、寅右衛門と再会して以来、日本に帰りたい、土佐に戻りたいという思いが高まっていたからです。なにより土佐に残してきた母のことが頭を離れません。アメリカに来てからの八年間というもの、万次郎は、言葉を覚え、新しい知識を吸収するのに必死でした。母や故郷のことを考えている暇などなかったのです。

ハワイで生活している三人もまた家族や故郷のことを忘れていませんでした。伝蔵や五右衛門は何度か日本への帰国を試みたものの失敗を繰り返していました。重助に至っては傷がもとで亡くなり、帰国することはかないませんでした。「重助もどんなに悔しかっただろう」と思うと、万次郎には「日本に帰ってもう一度母に会いたい」という感情があふれてくるのです。そんな中、アメリカがメキシコとの戦争で割譲させたカリフォルニアが、今、空前のゴールドラッシュに沸いていることを万次郎は知ります。その金山で働いて、日本に帰る資金を作れないものだろうか。いつしか彼はそんなことを考えるようになっていました。

迷ったすえ、万次郎はウィットフィールド船長に相談してみることにしました。でも、これまで育ててくれた船長夫妻に、「日本に帰りたい」などと言い出せません。そこで万次郎は「カリフォルニアに行って金を掘って来たい。ひと財産を築くことができれば、一生楽な生活ができるかもしれない」と船長に切り出します。しかし、万次郎の性格を理解していた船長は、それが彼の本心ではないことを知っていました。「マンジロウはきっと日本に帰りたいに違いない」。伏し目がちな万次郎を見ながら、船長はそう思いました。「そうか。頑張ってきなさい」と万次郎と握手する船長。でも、その目には涙がにじんでいました。

はるばる船でやってきたカリフォルニア。そのサンフランシスコには近代的な港があって、街はとても栄えていました。そこからさらに蒸気船で川をさかのぼるとサクラメントに。万次郎は街の郊外にある金鉱で働くことにしました。雇われ鉱夫としての不慣れな仕事でしたが、見よう見まねでコツをつかんでいきます。多少のお金が入ると採掘道具を購入して、今度は自分で金を採りはじめました。金の採掘量は日増しに多くなっていきます。掘り出した金を横取りする’ならず者’に襲われぬように気をつけながら、万次郎は黙々と金を採り続けました。すると、70日ほどで日本に帰るためには充分なお金が貯まったのでした。

万次郎はハワイまで乗せてくれる船を探しました。彼は、そこで伝蔵と五右衛門、寅右衛門をひろって一緒に帰ろうと思っていたのです。万次郎は念入りに計画を練りました。四人が乗れる小舟や櫓、帆、食料などをハワイで用意し、日本の近海に来たらその舟を下ろしてもらうのです。より安全に岸に近づくためには琉球付近から入国するのがよさそうです。ハワイのオアフ島に向かう船を見つけ、さっそくその船長と乗船する交渉をしました。すると、すぐに交渉はまとまり、船に乗れることになりました。万次郎は不安と興奮の入り交じった気持ちを抑えながら船に乗り込みます。いよいよ帰国への第一歩がはじまりました。

 

************************ 「運命について(4)」につづく

運命について(2)

万次郎がアメリカで航海術や造船技術を学んでいたとき、世界のいたるところで「歴史の転換点」ともいうべき変化がおきていました。産業革命後のイギリスは、すでに植民地にしていたインドを足がかりに、中国(清)に進出しようと考えていました。中国からのお茶の輸入が急増し、イギリスが大量の銀を支払っていました。そこで、イギリスーインドー中国という三角貿易を利用し、インド産のアヘンを中国に持ち込んで貿易赤字を解消しようとしたのです。その結果、多くの中国人がアヘン中毒となり、中国国内からは銀が流出していきました。アヘンの蔓延は中国にとって見過ごすことのできない問題でした。

清政府はアヘンの中国への持ち込みを阻止しようとしました。しかし、イギリスの船に積載されたアヘンが没収されたのをきっかけに、イギリスは戦争をしかけて中国に開国と自由貿易を認めさせようとしたのです。これが1840年のアヘン戦争です。軍の近代化が遅れていた清は、強大な軍事力を持つイギリスに敗北しました。そして、不平等な南京条約を結ばされ、香港をイギリスに割譲。いくつかの港湾もイギリスに解放することになりました。フランスやアメリカも同様の条約を締結するよう清に迫り、中国は欧米の半植民地のようになってしまったのです。その結果、中国国内では外国勢力に対する反発が高まっていきました。

条約が締結したにもかかわらず、清政府は条約違反を繰り返していました。そして、フランス人宣教師が殺害されたのをきっかけにアロー戦争が起こりました。戦争を仕掛けたのはフランスとイギリスです。のちにアメリカとロシアも終戦交渉に加わりました。当時の江戸幕府は鎖国をしていましたが、その戦争のことを知っていました。それは長崎・出島のオランダ商館の館長が、幕府に逐次報告していたからです。長く鎖国を続けていた幕府ですが、長崎の出島を指定して、オランダや清、朝鮮とのみ交易を続けていました。外国人は出島から出ることが制限されていましたが、オランダには出島に商館を作ることが許されていました。

オランダが優遇されていたのは、オランダがキリスト教の布教を望まず、交易のみを目的としていたからです。そして、幕府は交易を許すかわりに、そのときどきの国際情勢を「オランダ風説書」として報告させていたのです。この風説書によって幕府は、世界でどんな変化が起きているのかを知ることができました。ヨーロッパでキリスト教の宗教改革が起こったこと、小国同士の内戦が繰り返され、今の国際法の原型となるウェストファリア条約ができたこと。ナポレオン戦争があり、アメリカという新国家ができたこと。さらにはイギリスで起こった産業革命のことや、欧米列強による植民地政策のこともオランダは報告していました。

そんなこともあり、江戸幕府はやがて欧米列強がやってくることを知っていました。産業革命が起こったヨーロッパの強国が、資源を求めてアジアの小国家を次々と武力で奪い取ってきたからです。当時の日本は世界でも有数の金・銀の産出国でもあったため、なおさら標的になっていたに違いありません。そこで1825年に異国船打払令を出し、日本の港に入港しようとするすべての外国船を拒絶することになりました。薩摩藩や長州藩などでは、1830年ごろから藩を近代化する改革をはじめました。そんな中での1837年、救助した日本人を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号を幕府が砲撃するという事件が起こりました。

幕府は、その翌年のオランダ風説書によって「モリソン号は人道的な目的で入港しようとした商船であり、武器もあえてはずして港に近づこうとしていた」ということを知ります。高野長英や渡辺崋山といった国内の蘭学者たちが、その国際法にもとる幕府の対応を厳しく批判しました。幕府は、そうした批判を許せば、国民が外国船への警戒心を緩め、鎖国政策に反対する世論が高まるのではないかと警戒しました。そして、幕府を批判した蘭学者を一斉に逮捕し、投獄・処罰しました(蛮社の獄)。その一方で、1842年、異国船打払令を緩和する「薪水給与令」を出し、漂着した船だけには燃料と水を補給することにしました。

1843年、太平洋で漂流した万次郎ら5人は、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。万次郎だけはウィットフィールド船長と一緒にアメリカ本土に渡りますが、伝蔵・重助・五右衛門の三兄弟と寅右衛門の4人はハワイであらたな生活をはじめます。彼等は地元の有力者の援助でなに不自由のない暮らしをしていました。しかし、「いつまでも頼ってばかりいてはいられない」と、有力者に仕事を世話してもらえないかと頼みます。彼は「国王に面倒を見るようにいわれているから心配するな」と言ってくれました。でも、怪我をおった重助を除く三人は、知り合いのつてで仕事を見つけ、働くことになりました。

重助は鳥島に船で流されたとき、足に大きな傷を負っていました。しかもその傷が治らず、どんどんと衰弱していきます。そして、島の名医といわれる医者に診てもらおうとした矢先に亡くなってしまいます。でも、残りの三人にはあらたな仕事もでき、島での穏やかな生活がはじまりました。たまに自分たちと同じように遭難し、外国船に救助された日本人が来てくれました。お互い、遭難したときの恐ろしかった話しをしますが、日本に帰国するみんなの意志は強いことがわかります。そして、「我々が日本に帰るときは一緒に帰ろう」と語り合うのです。そんなとき、三人は心の中に希望の光が差してくるように感じたはずです。

ある人が「船の船長に君たちも一緒に乗れるよう頼んでみよう」と言ってくれました。三人は大いに喜び、いよいよ帰国が実現するかもしれないと期待がふくらみます。ところが、その船長はにべもなく断ったといいます。これ以上厄介者を抱えたくなかったのかもしれません。また、別の日本人が、船に三人を一緒に乗せてほしいと頼んだところ、船長は乗船料として多額の金額を要求してきました。なんどか交渉しましたが、伝蔵らは「君たちに迷惑がかかるから」と断ることにしました。その後も帰国するチャンスがありましたがうまくいきません。そのうち寅右衛門だけは、まるで帰国をあきらめたかのように断るようになりました。

ある日、ウィットフィールド船長が訪ねて来てくれました。「今度、日本の近海に行く船がある。帰国の意志があるなら頼んでみるがどうするか」と言うのです。三人はその言葉に喜びました。そして、相談の結果、「お願いしよう」ということに。伝蔵・五右衛門兄弟が船長にお願いをしに行きました。しかし、船長は「二人分しか頼むことができなかったので君たちだけで行きなさい」と言います。伝蔵は「寅右衛門は私のせいでこの遭難にあってしまった。一緒に帰国させてやりたいのでなんとか彼の分もお願いできないだろうか」と船長に土下座をします。そんな伝蔵の姿にウィットフィールド船長は胸を打たれます。

船長は結局、寅右衛門のために船を探してくれました。しかし、出港の当日になって、寅右衛門は「やっぱり俺は今度もやめる。君らだけで行ってくれ」と言い出しました。いくら説得しても彼はききません。しかたなく、伝蔵と五右衛門の二人だけの出港になりました。伝蔵と五右衛門は、アメリカ船のフロリダ号に乗船して出発しました。そして、しばらく航海して八丈島付近にさしかかったとき、船長は小舟を出してくれるといいます。ふたりは島に上陸できるものと喜びました。しかし、風雨がにわかに強くなり、いつまでたっても海のしけはおさまりません。結局、八丈島への上陸はあきらめるしかありませんでした。

船はあらためて蝦夷(北海道)を目指すことになりました。蝦夷の海岸が遠くに現れたとき、海岸にはいくつものかがり火が見えました。二人は船長とともに小舟で上陸を試みることにしました。ところが、上陸したもののどこにも人影は見当たりません。建物の中にも誰もいないのです。「私たちは日本人です」と叫んでみましたが反応がありません。伝蔵は船長に言いました。「ここは日本の領内であるはず。このまま私たちを置いていってもらえないだろうか。大きな船が去れば誰かがでてくるだろうから」。しかし、船長は言いました。「それはできない。君たちを無事送り届けた証明書をもらわねばならないのだ」と。

仕方なく伝蔵と五右衛門は船長とともに船に戻りました。そして、再びハワイをめざして帆を張ったのです。北の海では霧が立ちこめ、太陽も姿を現さない日が続きました。そうした毎日は、祖国で待つ家族のもとに帰れなかった伝蔵たちの心をさらに重くしました。帰国するチャンスを何度も逃し、そしてまた今回もダメだったのです。二人の全身から力が抜けていくようでした。しかし、航海の途中から強い西風になり、船は後ろから押されるようにスピードをあげて行きました。船はハワイ・ホノルルへ戻ります。運命のながれに逆らわず、なんどもチャンスをつかもうとするこの二人に神は手を差しのべてくれるでしょうか。

 

********************* 「運命について(3)」につづく

運命について(1)

運命について ― ジョン・万次郎の生涯 ー

【はじめに】

世の中のすべてのことには理由(意味)があります。理由なく起こることはなにひとつありません。今、世界を揺るがしている戦争もそうです。それまでの歴史的な経緯を背景に生じた必然だからです。一方で、その戦禍に巻き込まれた人たちにとって今回の戦争には意味があります。それほどにその後の人生に影響をあたえる大きな出来事だったのです。また、先日、成功裏に終ったアルテミス2計画も、用意周到に準備された計画と確実な実行があったからこそ成功しました。月周回軌道をまわった初の女性宇宙飛行士となったクリスティーナ・コック氏にとっても、このミッションはその後の人生に大きく影響するほどの意味がありました。

同じ出来事であっても、その意味するところは個人によってさまざまです。意味を受け取るアンテナをもっていない人すらいます。時間を巻き戻すことはできません。起こってしまったことが自分にとってどのような意味をもっているのかを考え、それからをどう行動するべきかを見極めることが大切です。受験に失敗したからといっていつまでも途方に暮れていてはいけません。志望校に合格できたからといって浮かれてばかりいてもいけないのです。「受験」という出来事を自分の中でどう昇華させていくか。その受験の結果をふまえ、「であるなら、これからの自分はどうしなければならないのか」を考え、次の一歩を踏み出すのです。

世の中には「いくら努力をしてもかなわないこと」と「努力すれば実現するかもしれないこと」、そして、「努力をすれば必ずそれなりの成果が得られること」があります。生物学的に男性である人が「女性になりたい」と思っても、生物学的な女性には絶対になれません。起業をして、身を粉にして働いても、成功するかどうかは社会状況と運次第。やってみなければわからないことです。しかし、勉強だけは自分を裏切ることはありません。目的意識をもって努力さえ惜しまなければ、東大にも、ハーバード大学にも行けます。このように、人間には限界がある一方で、可能性だっていくつもあることに気が付かなければなりません。

来年のNHK大河ドラマの主人公は「ジョン・万次郎」であることが発表されました。なぜ、今、ジョン・万次郎なのでしょうか。それは、運命と努力の中で築かれた彼の人生が、不確かな現代社会に生きる若い人たちにも参考になるからです。万次郎は貧しい漁民の子として生まれました。しかし、その後、幕臣となって日米交渉を陰で支え、最終的には開成学校(今の東京大学)の教授になって教育にも関わりました。でも、彼はそれを目指していたわけではありません。万次郎自身が図らずもその運命のままに努力を重ねた結果だったのです。そんな波瀾万丈な生涯はとてもドラマチックです。今回はその一端をご紹介します。

 

********************* 以下、本文

 

万次郎、当時の漁民に苗字はありません、は1827年(文政10年)1月27日、土佐の中浜村という漁村に生まれました。貧しい漁民の次男として健康に育っていきますが、9歳のときに父親を亡くしてしまいました。母も兄も病弱だったことから、彼は稼ぎ手として働こうとします。しかし、当時の彼は読み書きすら出来ませんでした。藩の役人の家に奉公に出されたものの、毎日の単純労働の繰り返しに、好奇心旺盛な万次郎が耐えられるはずもありません。結局、自分の父親と同じ漁師の道を選びました。網元の家に預けられ、漁師として成長していきます。知的好奇心に富んでいて活発。万次郎はすぐに漁に出られるほどになりました。

14歳となった1841年の1月、万次郎は四人の仲間とともに沖合の漁に出ました。五人にはそれぞれ役割がありました。一番若い万次郎は飯炊き・雑用係です。万次郎にとってははじめての遠洋での漁でした。しかし、1月の太平洋は思いのほか大荒れに。波しぶきをかぶりながら操船しますが、船は思ったように動いてくれません。ついに突風によって操舵不能になってしまいます。船は冬の黒潮に流され、どことも知れぬ漂流をはじめました。そして、五日間、まさに生死の境をさまよいながら、祈るような思いで船にしがみつく五人。その祈りが通じたのか、荒波に翻弄されながら運良く伊豆諸島はずれの無人島にたどり着くのです。

その島はアホウドリの繁殖地でもありました。しかし、季節は冬です。東京から600kmも離れた南の島とはいえ、起こすべき火もなければ、湧き水すらない絶海の孤島。さぞかし厳しい生活だったに違いありません。食べものはアホウドリを捕まえ、草を集めて食べるしかないのです。喉が渇いても真水も満足に飲めない無人島でこの五人はどのような思いだったでしょう。でも、いつ命が絶えるかもしれないという過酷な生活を強いられた143日目のこと。まさに奇蹟ともいうべき偶然が起こりました。鳥とウミガメの卵を調達するため、たまたま島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に彼等は救助されたのです。

当時のアメリカは産業革命のまっただ中でした。宗教弾圧を逃れた清教徒たちが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカにやってきたのが1680年。その100年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法ができ、北東部では自由主義にもとづく工業化が急速に進み、一方、南部では黒人奴隷を使った綿花栽培が盛んとなるなどして南北格差の問題が生じ始めていました。それは南北戦争にもつながる対立でもありました。そんなアメリカにおいて捕鯨は重要な産業でした。食用のためというよりも、機械を動かすときの潤滑油として、ランプやろうそくなどの照明用の油として、鯨油は貴重な産業資源であり生活資源でもありました。

その鯨油を求めてアメリカの捕鯨船は世界中を航海していました。当時のアメリカ合衆国の国土は現在よりも狭く、カリフォルニアやネバダ、アリゾナ、ユタはまだメキシコの領土です。テキサスさえもメキシコから独立をはたした「テキサス共和国」になったばかり。その後、アメリカがテキサス共和国を併合し、米墨戦争で広大な領土の割譲を勝ち取って今の国土になりました。東部13州からはじまったアメリカ合衆国は、「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」を主張しながら西に領土を広げていったのです。そして、ついに太平洋にまで進出したアメリカ。太平洋に捕鯨船の寄港地としてふさわしい場所を求めていました。

救助された万次郎たちが乗船していたジョン・ハウランド号の船長はウィリアム・ウィットフィールドといいます。彼はまだ厳しい鎖国状態にあった日本に五人を送り返すことができないことを知っていました。異国船が近づけば日本から攻撃をうけ、異国船で帰国した者が全員死罪になることは広く知られていることでした。そもそも船長にとって、捕鯨目的の航海を変更し、日本に立ち寄るのはリスクの大きいことでした。それは水や食料、石炭などを補給できる場所が限られていたからです。そこで船長は五人をハワイで下船させることにしました。当時のハワイはアメリカ捕鯨船の重要な補給基地でもあったのです。

ハワイにつくと、万次郎を除いた四人が下船を希望しました。しかし、万次郎だけはアメリカに行くことを希望します。万次郎は、航海中、船内のさまざまなことに関心をもち、船員達に片言の英語でいろいろと質問をしていました。あっという間に会話もできるようになり、乗組員たちからも「ジョン・マン」と呼ばれてかわいがられていたのです。そんな知識欲にあふれた万次郎を見ながら、ウィットフィールド船長は「彼はアメリカで教育を受けるべきだ」と思っていました。いつしか「アメリカという国を見てみたい」と思っていた万次郎に、船長は「アメリカに行ってみないか」と尋ねました。彼にとってうれしい申し出でした。

マサチューセッツ州フェアへブンの自宅に戻った船長は万次郎を小学校に通わせました。万次郎もずっと歳下の子ども達と学ぶことを厭いませんでした。読み書きもできなかった万次郎ではありましたが、言葉に慣れるにしたがって徐々に頭角をあらわします。そして、航海術や造船学を学ぶ頃には常に首席となっていたのです。そんな万次郎が船長はよほど可愛かったのでしょう。自分たちが通う教会にも万次郎を連れて行きました。厳格なプロテスタント精神が残る当時のアメリカで、ウィットフィールド船長は万次郎にも洗礼を受けさせ、「正統なアメリカ市民」になることを希望していたのかも知れません。

しかし、時代は黒人奴隷をめぐって南北戦争が起こる直前のこと。教会といえども人種差別はまだ色濃く残っていました。白人でもない万次郎が船長に連れられて教会に行くと、牧師は万次郎にバルコニーにある黒人の席に座るように言います。「信仰に人種が関係あるのか」。ウィットフィールド船長は牧師に抗議しました。でも、その抗議が通用する時代ではありません。憤慨した船長は万次郎を連れてその教会を出て行きます。そして、万次郎も一緒に通える教会を探して町中を歩きまわったといいます。三人はついにユニタリアン教会という場所に巡り会うことができました。ユニタリアン教会は人種については極めて寛容な教会だったのです。

「ユニタリアン」とは「唯一の神を信じる者」という意味があります。教義(聖書)を妄信せず、個人の良心と理性を重んじた信仰を勧める、当時のアメリカでは珍しいリベラルな教会でした。万次郎にとってこの教会は、ウィットフィールド船長に対して感じたのと同じように、アメリカの懐の深さ、「自由と平等」、「民主的な寛容さ」を感じるのに充分な存在となりました。人格形成においてもっとも重要なこの時期に、そうしたリベラリズムを実体験できたことは、後に、万次郎がアメリカから日本に帰国し、望むと望まざるとに関わらず日本とアメリカの架け橋になったときに大きな意味をもつことになります。

 

****************** 「運命について(2)」につづく

 

 

やる気スイッチ

母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。

母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。

なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。

都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。

同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。

意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。

また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。

我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。

長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?

母:都立高校であればどこでもいいと思っています。

長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。

母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。

帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。

勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。

**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)

「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。

私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。

医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。

***************** 以上

この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。

その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。

先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。

私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。

その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。

いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。

このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。

自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。

私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。

とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。

※ 未来のある子ども達に贈る歌  「壊れかけのRadio」

※ 中学生のころの自分に贈る歌  「帰れない二人」

 

教育に関する妄想(2)

前稿「教育に関する妄想(1)」にも書きましたが、一度大学を卒業して再び医学部に合格するまで、地元の学習塾で数学や理科を教えていました。小さな塾でしたが、塾長先生は人間的に魅力のある人でしたし、生徒達も熱心な子が多かったので、受験勉強の負担にはなりませんでした。親戚には「就職もせずに医学部の再受験などわがままだ」と陰口をたたく人もいたことを知っていました。そんな中でも、両親はなにも言わずに私の好きなようにやらせてくれました。今思うと、それが私には一番ありがたいことでした。親の愚痴を聞かされるのも嫌でしたが、当時の私にとって親からエールを送られるのも荷が重かったのです。

塾の講師をしながら受験勉強をしていた私には、楽しいことや「やりがい」を感じることはあっても、先の見えない不安を感じることは不思議とありませんでした。でも、翌年の医学部受験に失敗してしまったときはさすがにヘコみました。働きながら受験勉強するのは無謀なのだろうかと迷ったりもしました。でも、今度は自己流の勉強をするのではなく、ちゃんと予備校に通い、そのテキストを信じてやっていけば、次はなんとかなるのではないか。そのように気持ちを切り替えることができたのです。以後、午前中は予備校、午後にその予習と復習、夕方から夜までは塾の講師として働くという毎日を送っていました。

塾で教えていた生徒さんの何人かが、今、船戸内科医院に通院してくれています。当時はまだ中学生だった彼等も、今ではりっぱな「おじさん」「おばさん」です(こっちは「じいさん」ですが)。四十年近くの年月が過ぎても、かつての生徒さん達には当時の雰囲気が残っています。ときどき当時の思い出に話しが盛り上がりますが、そんなときは、つくづく塾の講師をやってよかったと思います。そう感じるのも、他人にはあまり経験できない紆余曲折の人生を歩んできたからかも知れません。風変わりに見えるその生き方が、今の医師としての仕事に大きく役立っています。

私はよく患者さんに「過去と他人は変えられない。変えられるのは自分自身と自分の未来」とお話しします。これは私が医学部の学生時代に、一時傾倒していたカール・ロジャースという臨床心理学者の本に出てくる言葉です。この言葉が私の心に刺さったのは、自分自身の半生を通じて、まさしくこの言葉を象徴するような経験をしていたからかもしれません。たった一度の失敗や後悔、いや、一度や二度の成功ですら人生は決まらないのだ、ということ。成功や失敗、挫折や再起を繰り返しながら、人は人生を作っていくのです。ひとりの人間の長い履歴の価値はそう簡単に決められるはずがありません。

中学生に私の半生を通じて「医師という職業」について講演するのはそのためです。私が経験してきたことを多くの子ども達に知ってほしいのです。単なる成功体験としてではなく、おもしろい失敗談でもなく、「人生は経験ひとつひとつの積み重ね」だということを感じてもらいたい。そんなことを考えながらお話ししています。教育にはそうした側面もあるのではないでしょうか。学力を上げるのも教育です。その一方で、子ども達には「人生はなんどでもやり直しがきく」ことを伝えるのも教育の役割だと思います。これからの人生を切り開いていく子ども達の背中を押してあげることがなにより大切です。

今の社会や教育に押しつぶされる子どもは少なくありません。「多様性」や「異文化共生」が叫ばれる中、社会ではその本質的な重要性が理解されないまま、軽々しくて、うわべだけの理想論が叫ばれているように見えます。やれ「暗記させる教育より考えさせる教育」だの、「学力よりも人間性重視」だの、「ナンバーワンよりオンリーワン」だの、あるいは「競争から共存へ」だの、大人達の価値観の変遷に振り回される子ども達が気の毒です。簡単に「世の中の変化」といいますが、そうした変化が本当に必要なものなのか、どのような変化であればいいのか、いちど立ち止まって考えるべきです。

日頃、そんなことを考えていると、「こんな社会だったらいいのに」「教育はこうあればいいのに」と妄想することがあります。今の日本には閉塞感が漂っているように感じます。私が子どものころに夢見ていたのは「医者になること」でした。でも、勉強が嫌いで、成績もパッとしませんでした。それを改めようとも、努力をしようとも思わなかった私。しかし、精神的に成長して、勉強する意義に気づき、夢に向かって努力しさえすれば、その夢を実現できることを実体験しました。私が考える「理想の社会や教育」は、まさしく「自分の夢を育て、切り開いていける場所」にほかなりません。

 

**************************  以下、私が妄想する「理想の教育」をだらだらと書いてみます。

1.義務教育を充実させる

社会人として知っておくべき知識、あるいは学力は義務教育程度だと思います。世の中のシステムを知り、社会のできごとに関心をもつには、最低でも義務教育レベルの知識や学力が必要です。みなさんは「国民の三大義務と三大権利」をご存じでしょうか。国民の三大義務とは「教育を受ける義務」「勤労する義務」「納税する義務」であり、三大権利とは「教育を受ける権利」「政治に関与する権利」「最低限の生活をする権利」です。そうした国民の義務と権利もふくめて、社会がどうなっているのか、どう機能しているのかを理解し、社会の一員として働き、生活をするための基礎的な知識は義務教育にあります。

「義務教育レベル」というとなにか軽い響きを感じるかもしれません。しかし、多くの国民はこの「義務教育レベル」ですら未消化のまま高等学校に進学します。高等学校でならう三角関数や微分・積分は日常生活では使いません。高校ではじめて学ぶ「世界史」も必ずしも必要ではありません。複雑で難しい英作文ができなくても、簡単な単語やフレーズさえ知っていれば英語でのコミュニケーションは可能です。中学校までの義務教育で学ぶ内容は、実社会では必須の知識・学力です。実社会に出て、社会の一員として働き、生活するためにも、義務教育レベルの知識と学力を確実なものにすることは大切なのです。

そこで私は提案したいと思います。
(1)中学校を卒業したら、社会人として必要な知識と学力を確実に身につけられる義務教育にする
(2)高校以上の学校には、特定な知識を必要とする場合にのみ進学すればいい社会にする
(3)就職での「学歴制限」を禁止し、その業種に必要な知識や学力を有しているかどうかで選考する
つまり、中学校を卒業すれば、専門的な知識を必要とする職業以外の一般的な仕事に就ける世の中にし、高等学校以上の教育は「勉強したい人」「専門職に就きたい人」が受ければいい社会にするのです。

「勉強をしたくない人が、就職するためにいやいや高校に行かなければならない」という世の中は間違っています。重要なのは学歴ではなく、その仕事に必要な知識と学力であるはずです。勉強が好きでもないのに高校に行くから、おちこぼれる生徒が生まれるのです。そして、その結果、学校の風紀が乱れ、教室は「悪貨が良貨を駆逐する」ような状態になる。義務教育で社会人としての基礎的な知識や学力を習得したら、子ども達は社会人として社会に出ればいいのです。社会人の一人として働く中で、自分の将来に高校以上の教育が必要だと思えば、いくつからでも高校や専門学校・大学に行けばいい。そんな社会が私の理想です。

中学校を卒業すればそれなりの社会人になれる。そのためには、義務教育の質を今以上に高めなければなりません。それには義務教育に携わる教員を増やす必要があります。10人学級どころか、子ども達の学力によっては、5人学級や2人学級にしなければならないからです。義務教育が「ひとりの子どもも取り残さない仕組み」を作るのです。一方で、勉強が好きな子、出来る子は自分たちだけでも勉強します。そんな子どもは、家庭や塾でどんどん勉強させ、学校の定期試験で成績がよければ飛び級もさせる。そういう制度にすれば、勉強のできる子たちのモチベーションを高めることにもなります。

「勉強したい子だけが高校に行く世の中」にすれば高校の数が余ります。そのとき余剰となる高校教員の一部は義務教育の質向上のために貢献してもらうのです。また、別の教員には、優秀な子ども達の勉強を見るための進学塾の講師になってもらうのもいいでしょう。教育の問題点のひとつは「悪しき平等主義」にあります。「勉強の出来る子も、勉強が苦手な子も皆一緒」という状態を「平等」とはいいません。むしろ、両者にとっては不幸です。出来る子は出来る子なりに学力を伸ばすことができ、苦手な子は苦手な子なりに学力を支えてあげられる教育こそが本当の「平等主義」であるはずです。

2.受験戦争を大学院入試へ

その一方で、大学教育も改革すべきです。現在の教育における一番の問題点は、受験戦争の終着点が大学受験にあるところだと思います。よく「大学生は入学するまでは勉強するが、入学したとたんに勉強しなくなる」といいます。この言葉が今の教育の問題点を象徴しています。こうしたことを解決するために、私は「有力国立大学の大学院大学化」を提案したいと思います。これは、旧帝大と11の旧制官立大学といった有力国立大学では学部教育を廃止し、大学院教育のみを行なう大学院大学にするというものです。そして、こうした大学院大学に学生を入学させるため、学部教育をおこなう他大学を競わせるのです。

こうすれば、大学に入学した学生が有力大学院に進むためには、学部教育をまじめに受けなければならなくなります。しかも、高校生は大学選びをする際、有力大学院への進学実績を見て判断するようになります。受験戦争のゴールを大学受験にするのではなく、大学院入試に引き上げるのです。そうすれば「大学に入ったら勉強しなくなる」こともなくなり、大学の学部教育の質も上がってくるでしょう。そうしたことが影響して、高校生や大学生の学力向上にもつながります。と同時に、小学校から熾烈な受験戦争に巻き込まれるといった、子ども達への無意味なプレッシャーもなくなるかもしれません。

もしそうなれば、大学も淘汰され、その数も減ることでしょう。でも、それでいいのです。学部教育に力を入れ、高校生や受験生達から支持される大学だけが残っていくからです。今、国から全国の大学に支給されている多額の補助金の多くが、その大学が生き残るために使われています。しかし、高等教育機関として本当に必要な大学だけが残れば、補助金を集約的かつ有効に分配することになるのです。大学院大学に進学した学生の授業料は無償にします。優秀な博士課程の院生には給与もあたえて研究に専念できる環境を整えます。主たる資源のない日本にとって、研究者はまさに国家の「宝」ですから。

今、「高校の無償化、大学の無償化」ということがしばしば話題になります。しかし、誰もが高校に行くこと、大学への進学率を上げることが大切なのではありません。高校や大学で学びたいと思いながらも、経済的な理由で進学できない子ども達をなくすことが重要なのであり、そのための無償化でなければなりません。勉強が苦手な子ども達が教育に取り残されてはいけません。また、勉強が嫌いな子がなかば強制的に高校に行かされる社会も間違っています。教育という場が、秀才や勉強に意欲的な子ども達の才能を延ばす環境であるとともに、勉強が苦手な子ども達にとっても自分らしく生きるための環境であるべきです。

いろいろな価値観をもつ各個人が、それぞれの生き方にふさわしい人生を送ることが可能な社会であってほしいと思います。そのために何が大切なのかを考えなければなりません。現代社会はとても薄っぺらなものになってしまいました。はき違えた平等主義によって、子ども達が夢や希望をもてなくなった時代かもしれません。世の中には「今だけ、金だけ、自分だけ」の人間が増え、狡猾で、要領が良く、うわっつらだけの人間が偉くなることもあります。その一方で、たやすく世間の風潮にながされ、自分のあたまで考えたり、判断したりできない大人が増えているのも事実です。

これからの日本を背負って立つ子ども達のために、どのような教育が必要なのかを真剣に考えなければならないと思います。そんな時代を我々は生きているのです。

教育に関する妄想(1)

8月が終わろうとしています。暦の上ではすでに夏は終わっています。子どものころの私は夏休みに複雑な思いをいだいていました。もともと学校が嫌いで、勉強もまともにやらない私にとって、夏休みはようやくやってきた楽しい長いお休みのはず。しかし、学校で終業式を迎えるころになると、それまでとは違ったプレッシャーが私を襲ってきました。それは「夏休みの宿題」と「自由研究」という課題が与えられるからです。私は子どもながらに、「せっかくの休みだというのに、なんでこんなことをしなければならないのだろう」と思ったものです。そして、大人になった今もそう思います。

友達の中には「嫌なことは早く片付けてしまおう」とばかりに、宿題と自由研究をさっさと仕上げてしまう子もいました。あるいは「日課を決めて計画的に進める」という几帳面な子もいました。しかし、私は違いました。夏休みが終わりに近づくまで、宿題にも、自由研究にも手をつけずにいたのです。手をつけずにいた、というよりも、手をつける気にならなかったのだと思います。そして、あと数日で始業式という頃になって、あわてて、しかも適当にやって済ませてしまう。そんないい加減な宿題・自由研究を提出しても、罪悪感もなければ、後ろめたさも感じませんでした。

今から思うと、子どものころの私は発達障害だったような気がします。親はもちろん、学校の先生の指示通りに動けない子だったのです。当時の私は「指示されるのが嫌」と感じていたように思います。でも、大人になって振りかえってみると、「指示されるのが嫌」なのではなく、「指示通りにできなかった」のではないかと。子どもの中には、反抗的だったり、自分勝手に行動したり、あるいは他の人との協調性がないような子がたくさんいます。でも、それは単に性格が変わっているのではなく、発達障害のように、社会性の発達が一般的な子どもたちよりも遅れているからなのかもしれません。

ところで、私のような「昭和どまんなか世代」は、「夏を制する者は、受験を制する」という言葉をよく耳にしたものです。厳しい受験戦争を勝ち抜くためには、夏休みをいかに充実したものにするかが大切だという意味です。はたして受験生の皆さんにとって、この夏休みはどのようなものだったでしょうか。「計画通りで充実した夏休みだった」という人たちは、他の受験生をリードしていることは間違いありません。この調子で頑張りましょう。「思ったように勉強ができなかった」と肩を落としている受験生もがっかりする必要はありません。この遅れを挽回するために、これからいかに頑張るかが重要なのです。

大学をいったん卒業したものの、就職をしないで医学部の再受験を決意した私。大学卒業後、地元の小さな塾の講師をしながら受験勉強をしていました。医学部に合格するのは無理だと断念した経緯があるだけに、再び受験勉強をはじめたからといって再受験に成功する保障などありません。その一方で、大学の同級生達が社会人としてのあらたな生活を送っています。就職をしなかったのは私だけでしたから、それなりの孤独感を感じながらの再出発でした。当初は予備校へは行かず、受験雑誌の合格体験記で紹介されている参考書や問題集をそろえ、毎日の日課を決めて勉強をしていました。

親とは金銭面では頼らない約束をしていました。ですから、お金のかかる私立大学の医学部という選択肢はありません。国立大学のみに目標をしぼっていました。とはいえ、失意の三年間を送っていた高校生のときはまともに授業を受けていません。しかも、不得手な国語や社会などは勉強する気になりませんし、肝心の英語は高校三年生のときから勉強をはじめたので最後まで足をひっぱる科目でした。そのうえ、夕方には塾で小学生を教え、夜は中学生を教えるという毎日です。当時は塾のテキストの他に、生徒達に配るプリントも作っていて、塾での仕事にもそれなりの労力をさかなければなりませんでした。

でも、私と同じ受験生だった中学生を見ていると、生徒達のために頑張らねばと思う気持ちと、私自身の心の中に勇気と活力が湧いてくるのを感じていました。当時は校内暴力が社会問題になっていました。私が働いていた塾でも学級崩壊のようになるクラスもあったのです。そのクラスでは次々と先生が代わっていました。生徒達の私語がやまず、先生が授業を放棄してしまうのです。そして、ついに私がそのクラスを教えることになりました。私のような講師で対処できるだろうかと不安でした。でも、塾長先生の困惑した表情に、「自分がなんとかしなきゃ」と思ったものです。

通常の授業も生徒は多かったのですが、夏休みの講習会ともなると普段は通っていない生徒達もやってきます。満杯の教室はクーラーの効きが悪くて蒸し暑い。自然と生徒達の私語が増えます。そのような中で私の授業が始まりました。小さなプレハブの狭い教室のなかには30名ほどの生徒がいました。最前列には女子生徒が陣取っています。いずれも友達同士らしく、休憩時間からずっとピーチクパーチクおしゃべりをしています。一番後ろの列には体が大きく、ガラの悪そうな男の子とその友達数名が並んで座っていました。私は数学を教えていましたが、当初は思ったよりも静かな教室の空気に拍子抜けしてしまいました。

しかし、それは、生徒達が私の様子を観察しているのにすぎないことがわかりました。どのくらい騒げば怒られるのか。そのときこの講師はどんな反応をするのか。それをじっと見ていることを背中に感じながら私は黒板に向かっていました。「先生、消しゴムとって」。突然、体格の大きな男子生徒が私に言いました。床に落ちていた消しゴムを彼に渡して授業を進めようとすると、また「消しゴムとって」と。私は試されていることを感じました。「落とさないように気をつけてね」と消しゴムを渡してもまた同じ事が。何度もそれは繰り返されましたが、私はその都度、あえて無言のまま消しゴムを拾っては渡していました。

「消しゴムとって」と声がかかるたびに教室には笑い声がおこります。とくにこの大柄の生徒とその友達たちの騒ぎっぷりは、教室の雰囲気をあおるかのように大げさです。それにつられて、最前列の女の子たちの会話はそれまで以上に声が大きくなります。しかも、休憩時間のように体をお互いの方に向け合って話しをしているのです。なんど注意しても、静かになるのは一瞬。何日かが経っても、いつものような騒がしい教室。「おまえたちは何をしにここに来ているんだっ」。私の堪忍袋の緒はついに切れてしまいました。私はそのとき思いました。「こうやって先生達は授業を放棄していたんだ」と。

教室を騒がしい雰囲気にしている中心は、あの大柄の生徒のように見えました。その子は教室内の雰囲気を支配し、まるで自分の力を誇示するように大胆でした。彼の両脇に座っている仲のいい友達は、彼に媚びるようにそれを騒ぎ立てます。そして、混沌とした雰囲気が教室に充満してくると、今度は最前列の女の子達のおしゃべりは堰(せき)を切ったように大きな声になるのです。そんな教室の力関係のようなものが見えてきた私は、その大柄の子を教室から追い出すことにしました。「勉強する気がないなら塾に来るな」。一瞬戸惑ったような表情をした彼でしたが、退出を命じる私の指示に従って出て行きました。

彼の仲間たちは、顔を引きつらせておとなしくなりました。しかし、最前列の女の子たちはおしゃべりを続けています。それはまるで、教室の雰囲気をかき乱していた主犯を追い出した私をわざと怒らせるかのようでもありました。何度注意しても直りません。このグループにもやはり中心となる子がいました。この子もあの大柄の生徒と同じように教室から追い出そうか、とも思いましたが、親がお金を払ってきている生徒を何人も追い出すわけにはいきません。私は塾長に相談することにしました。塾長先生も手を焼いているようです。ふたりであれこれ話しましたが、結局、いい解決策は得られませんでした。

教室を追い出した男の子は二度と塾に戻ってきませんでした。塾長先生のところには、その親から抗議がきたようです。私は塾長にお詫びをしましたが、「気にしなくていいから」と言ってくれました。「ああいう子は、親も持て余していて、【家に居てもらうより、塾に行かせてしまおう】と煙たがられているんだよ」と塾長は言います。自分の居場所もなく、その存在も認めてもらえない子どもはああやって自己主張しているんだ、というのです。勉強の邪魔をするだけのように見えたあの子も、実は気の毒な子どもだったのです。私がもう少し冷静であったら、他のやり方があったかもしれないと反省しました。

相変わらず最前列の女子生徒たちには手を焼いていました。そんなある日、塾から自宅に帰った私は何気なく妹にそのことを愚痴っていました。「いくら注意してもおしゃべりをやめない女の子達に困っているんだよ」と。すると妹は言いました。「その子たち、兄貴に注目してもらいたいんじゃないの?きっと注意してもらいたいんだよ」と。私はそのとき、目からウロコが落ちる思いでした。「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」などという気持ちがあるとは思っていなかったのです。私の目には、そんな彼女たちは「なんど注意してもおしゃべりをやめずに困らせる子たち」としか映っていませんでした。

私はさっそく、おしゃべり三人組の中心と思われる子に、質問を当ててみることにしました。ごくごく簡単な、誰もが正解になるような質問です。おしゃべりをしているその子に「そんなにおしゃべりしたいなら、この質問に答えてみてよ」と言ってみました。彼女は驚いたような表情をしましたが、黒板をゆっくり見上げます。彼女が遠慮がちに正解を答えました。「君はできるんだねえ」。誰もが答えられる質問ではありましたが、そう褒めることも私は忘れませんでした。三人がおしゃべりをはじめるたびに彼女に質問を当て、そして、褒めました。そんなことを繰り返すうちに、彼女たちのおしゃべりはやがて止まりました。

それは面白いほどの変化でした。最前列の彼女たちはお互いに向き合うように話しをしていましたが、なんどか質問を当てているうちに、話しをする頻度が減り、三人とも黒板の方を向くようになりました。そして、ついに板書をノートにとるようにまでなったのです。彼女たちには、私の妹が言っていたように、「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」という気持ちがあったのでしょうか。もしかすると、褒められたことすらなかったのかもしれません。私はこのとき、教えることの面白さをしみじみと感じました。「教育の醍醐味」とはこういうところにあるのではないか、と思いました。

私が教室から追い出してしまった男の子といい、おしゃべりをやめなかった女の子たちといい、それぞれにはそうしてしまう(そうせざるを得ない)理由があったのだと思います。私が宿題をやらなかった(できなかった)のと同じように。家庭環境のせいもあるでしょう。友達との関係が影響している場合だって。もしかすると子ども時代の私のように発達障害なのかもしれません。そうした個々の事情を深く考えると、ひとりひとりの子どもがかかえる問題点の解決方法が見つかるかもしれない。塾の講師をしながら私はそう思いました。そして、このときの経験はのちに発達心理学に関心をもつことにもつながりました。

でも、子ども達の深い部分に目を向ける余裕が、忙しさに追われる今の先生達にあるでしょうか。教育そのものが荒廃しています。それは誤った教育改革の結果だと思います。あるいは、社会そのものがゆがんでしまったからかもしれません。私たちの頃にはまだ戦前の教育を知っている先生がいました。そうした先生達の方が生徒と教師との距離が近かったような気がします。「体罰」もありました。生徒は「呼び捨て」になっていましたし、さまざまな校則でがんじがらめだったかも知れません。しかし、学校には秩序がありました。そして、卒業式に「仰げば尊し」を涙ながらに歌って先生達との別れを惜しむ「絆」もありました。

教育が変質してしまった原因は、社会のありかた、親の意識そのものが変わってきたことも影響しています。おぞましい自由が幅を効かせ、教育の現場にすらLGBTが登場するようになりました。倒錯した平等主義によって、公立の男子校や女子校が共学化され消えていく県があるほどです。それは世界のながれに連動した変化ともいえます。まるで歴史と文化を嘲笑するかのようなあのパリオリンピックの開会式は、そうした現代社会の異常さを象徴しています。また他方では、親たちの権利意識の高まりが子どもにも影響し、学校という集団生活において、先生が強制力を使って統制をとることが難しい時代にもなっています。

教育というものを、子ども達の大切な未来を育てるのにふさわしいものに変革しなければなりません。小さいときから受験戦争に勝ち抜くことが求められ、受験からの脱落が人生の「敗北」とされることすらあります。しかし、それは間違いです。勉強が好きな子どももいれば、苦手な子もいます。勉強が苦手だということは恥ずかしいことではありません。運動が苦手だったり、音楽が苦手なのとかわりはないのです。「受験戦争の勝者」は「人生の勝者」なのでしょうか。人間の幸福とはそういうものなのでしょうか。そもそも「人生」という個人の問題に、他者との「勝ち」や「負け」などがあるはずがありません。

大人の価値観を押しつけられた子ども達には、自分の個性や適性とは一致しない将来を強いられることがあります。医者になったのに自ら命を絶ってしまう研修医がいます。長時間労働に心身ともに疲れ果てての結果だといいます。実に痛ましいことです。でも、私の研修医時代はもっと厳しいものでした。仕事が終わって病棟を離れるのはいつも深夜0時過ぎ。そして、朝の7時には病棟に行って患者の採血をしなければなりません。土・日だって重症患者がいれば病院に行くのです。でも、私はそうしたことをツラいと思ったことは一度もありません。それは「医師として働く」という自分の夢を体現していたからです。

人生の価値、生きることの意味は、学歴にあるわけでも、職歴にあるのでもありません。ましてやどれだけ裕福な生活をしているかでもない。どんなに学歴が高くても、有名な企業に勤めて、役職が高くなったとしても、ひとりの老人になればただの人。自分の履歴など、他人にはなんの関係もないのです。それに気が付かず、一介の老人になってもなお「偉かった自分」のままだと勘違いしている人は少なくありません。他人との比較の中で自分の人生を生きなくてもすむ社会が必要なのです。自分自身のなかで「生き切った感」を実感できる人生。そんな人生を送れるように子ども達の背中を押す教育であってほしいと思います。

次の記事は、私が日頃、夢想している「理想とする教育システム」について書いてみたいと思います。

子ども達に伝えたいこと

10月25日(水)に柏市の私立麗澤中学校でおこなわれた「職業別講演会」でお話しをしました。最近の小中学校では、子ども達が「将来、どのような職業に就くのか」を意識するきっかけになるよう、さまざまな催しが企画されるようになりました。麗澤中学校での講演会にはいろいろな職種の方達がいらっしゃり、働くことの楽しさ、大切さ、やりがいなどを、その職業に興味や関心をもっている生徒さん達にお話ししました。私は「医師」という仕事について40分ほどお話しをさせていただきました。

以前のブログでも書いたように、私が医師になりたいと思ったのは、小学校の入学祝いに野口英世の絵本をもらったのがきっかけです。そのときのことは今でも鮮明に思い出すことができます。当時の私は、小学校にあがるというのにまだ文字をまともに読めない子どもでした。しかし、その絵本のページをめくりながら、幼い英世が囲炉裏におちて大やけどをし、左手が不自由になりながらも世界的な医学者になっていく挿絵がなぜか子ども心に残ったのです。以来、私の将来の夢は「お医者さんになること」になりました。

しかし、親から「勉強しろ」と言われたことがなかったので、勉強とはまるで無縁の毎日を過ごしていました。しかも、宿題すら満足にしていかないのですから、学校のテストや通信簿の成績がいいはずもありません。だからといって運動が得意な子どもでもなく、どちらかというと苦手でさえありました。学校の長距離走大会ではいつもビリを争うようなありさま。息苦しさに歯を食いしばり、脇腹を押さえながら「なんのためにこんなことをやらなきゃならないんだ」などと考えて走っていたほどです。

勉強も嫌いで、運動も苦手な子でしたから、学校のいじめっ子のいい標的になっていました。いじめられても親には言えません。なんとなく親に心配をかけたくなかったからです。悩みを相談したり、愚痴をこぼせるような、親友といえる友達はほとんどいませんでした。でも、よく同級生に泣かされていた近所の友人とだけは妙に馬が合い、休日になると必ず一緒に遊んでいました。道ばたでキャッチボールをしたり、部屋にこもって何時間も話しをしたり。そんな小学生時代を過ごしていました。

中学生になっても「医者になりたい」という気持ちはありましたが、具体的にどうしたらいいのか、どうしなければならないのかを考えたことはありませんでした。でも、そんな私にも、中学三年生のときに大きな転機が訪れました。「ダメダメ小学生」だった私が少しだけ「勉強」に面白さを感じるようになったのです。楽しい思い出、懐かしい記憶がほとんどない小学校時代ではありました。しかし、なんとなく漠然と過ごしてしまった小学生の頃を挽回するような中学校時代だったと思います。

私が今こうして医師になれたのも、あの中学校時代があったからです。学校生活になじめず、友達もおらず、勉強も運動もぱっとしなかった私が大きな変化をとげたのがまさに中学生のときなのです。おそらく精神的にも成長し、高校受験という大きなイベントを前にして、将来のことをほんのちょっぴり考えるようになったからかもしれません。行きたい高校に合格するため、なにをすべきなのかを主体的に考えることができるようになったからだともいえます。医師になるための「本当の第一歩」がこのとき始まったのです。

その意味でも、中学三年生に対して「職業別講演会」を麗澤中学校がおこなったことには意義があります。なぜ自分は勉強しなければならないのか、自分はどのような人生を歩みたいのかを考えるいいきっかけになるからです。多くの子ども達はそんなことを考えずに高校に進学します。そして、なんとなく大学に、あるいはその他の学校へと進んでいくのです。私のような半生はきわめて例外的です。ある意味で失敗例でもあります。その経験を生徒さん達に知ってほしかったのです。

講演をするにあたって、麗澤中学校の生徒さん達に伝えたいことを次の四点にまとめました。

(1)医師は決して「楽しい仕事」ではないが、とても「やりがいのある仕事」

(2)「人の支えになる」ということは「人に支えられる」ということ

(3)どんな仕事をするのか、したいのかを具体的に考えてほしい

(4)目標に向かって「なにをしなければならないのか」を考えてほしい

子どもと大人の端境期にある中学三年生の生徒さん達に、これらのことをどのようにすればわかりやすく伝えられるだろうか。試行錯誤しながらスライド原稿を作っていました。ともすると「医者になったという自慢話」になってしまいます。あるいは子ども達が「医師という仕事はツラいだけで、気持ちが滅入るようなもの」ととらえてしまうかもしれない。だからといって、憧れだけで医学部に入って後悔させるようなものになってもいけない。そのバランスをどう図るかが難しかったです。

講演会の当日、教室の生徒さん達の前に立つと、北大時代に代々木ゼミナール札幌校で中学生を教えていたときのことがよみがえってきました。医学部の再受験に反対していた親には仕送りはいらないと啖呵を切って札幌に来ました。幸い、一度は大学を卒業していたので、大学生のアルバイトを採用していなかった代ゼミで働くことができました。そのおかげで学費や生活費をまかなうことができたのです。私の話しを聞いてくれる麗澤中学校の皆さんの真剣なまなざしは、当時の代ゼミの生徒さん達と重なって見えました。

講演の前半は、医学部に合格するためにどれほど勉強しなければならないのか(3000時間の法則)。そして、その勉強は医学部に入学しても続くのだ、ということ。それは決して楽なプロセスではなく、いくつもの関門が待ち構えていて、それらをひとつひとつ乗り越えてはじめて医師になれるのだということをお話ししました。後半は私の経験をふまえ、医師という仕事がいかに厳しく、責任をともなうものか。しかし、その仕事にはそうした困難を超える大きなやりがいがあるのだ、ということを強調しました。

本当は医師になってからの経験をもっとお話ししたかったのですが、中学生の皆さんにはむしろ医学部に合格するまでの私の紆余曲折をお話しした方がいいと考えました。私が医師として成長する中で、「人を支えることで逆に人に支えられている」ことに気づく体験談は、中学生の彼等にとって少し「重い話し」だと思ったからです。なので、生徒さん達には「そうした体験談は船戸内科医院のホームページに掲載した【院長ブログ】で読んでください」と伝えて講演を終えたのでした。

先日、学校から生徒さん達が書いた感想文が届きました。さっそく封筒を開け、一枚一枚を丁寧に読んでみました。すると、それぞれの生徒さんが私の伝えたかったことをしっかり受け取ってくれていたことがわかりました。医師という仕事のやりがいについてばかりでなく、私が実体験した「3000時間の法則(勉強の量は質に転化する)」のことや、それまで習っていたドイツ語を捨て、英語で大学を受験する決意をした高三からの体験などが生徒さん達には印象的だったようです。

「船戸内科医院の【院長ブログ】を読みました」と書いてくれる生徒さんもいました。このブログでは医師としての私がむしろ知ってほしいことを書きました。その記事をわざわざ読んでくれたことがとてもうれしかったのです。医師という仕事の醍醐味は、この【院長ブログ】に書いた「心に残る患者」にあると思っています。「悲しく、つらいこと」を乗り越えて「医者らしく」なっていくことの尊さを伝えたかったからです。そのことを感じ取ってくれた生徒さんがいて、講演をして本当によかったと思いました。

たくさんの感想文の中で、とくに私の心に残った生徒さんの感想を紹介します。素晴らしい文章なので、みなさんにも是非読んでいただきたいと思います。なお、掲載にあたっては、ご本人とそのご両親の了解、そして、学校の許諾を得たことを申し添えます。

 

****************** 以下、原文のママ

2023年10月25日 麗澤中学校3年生 職業別講演会 お礼状

3年A組 小村柚芽

この度は、とても貴重なお時間をいただきありがとうございます。

実は私も瀬畠さんと同じで、小さいときから医師になるのが夢でした。もちろん、今も医師になりたいと思っています。ですが成績もそれほど良くないですし、集中力も日によって変わってしまうので医学部は難しいのではないかと心のどこかで思っていました。しかし、瀬畠さんの講演を聞き、今からでも遅くないと気づかされました。医師になりたいという強い気持ちさえあれば勉強も辛いと思わなくなるだろうと思いました。

何度か「船戸内科医院のホームページを見て下さい。」とおっしゃっていたのでホームページの〝心に残る患者” を拝見させていただきました。自分が経験したわけでもないのに自然と涙がでてきました。ドラマや映画ではたいてい患者さんは完治し、笑顔で家に帰っていきます。ですがやはり亡くなってしまう方もいます。瀬畠さんのブログをみて、特に自分が主治医をした患者さんが亡くなってしまった事は特に心に残るものなのだなと感じました。

正直、今、怖いです。自分が担当した患者さんが自分の診断ミスで亡くなったら精神的に結構キツくなりそうだからです。でも、失敗を乗り越えてこそ1人前の医師になれるのかなと思いました。残念ながら1人前になるには失敗は必要だと思います。そこからどう変えていくかが大事なところなのかなと感じました。私の父も医師をしています。瀬畠さんと同じような経験をしたと考えると、とても心が痛いです。今、私にできることは勉強ももちろんそうなのですが、周りに居る人の支えになることもできると思います。今からでもできることはやっていきたいです。

私は改めて医師になりたいと思いました。そして、医師になれたら「この仕事をしていて良かった。」と思えるようになりたいと思いました。この度は本当にありがとうございました。

****************** 以上

 

小村さんの感想文を読んで、私は胸を打たれました。講演を通して伝えたかったことすべてをきちんと受け取ってくれたからです。とくに私が一番伝えたかったことを、小村さんは「そこ(失敗)からどう変えていくかが大事なところなのかなと感じました」と書いてくれました。大事なのはまさにそこなのです。人生にはゴールがありません。目標をめざして努力をする。そして、ひとつの結果がでてもまた新たな目標をめざさなければならない。その繰り返しの集大成が人生なのだということを小村さんはくみ取ってくれました。

感想文の中には「北海道に行ってみたい」と書いてくれた生徒さんもいました。このブログでも繰り返してきましたが、私は北海道(そして北海道大学)が大好きです。北海道の魅力は春夏秋冬それぞれに感じることができます。それをほんの少しだけ紹介したのですが、そのことを心にとどめてくれた生徒さんがいたのもうれしかったです。私の講演をきっかけに、北海道に旅行をして、あるいは北海道大学に入学して、北海道の良さを実感する人が増えてくれればお話しさせていただいた甲斐があります。

また、講演の終わりでお話しした私の「不思議な体験」に驚いた、と感想を書いてくれた生徒さんもいました。「生・老・病・死」に向き合う仕事をしているとときどき不思議な体験をします。医療従事者だからといってすべての人に同じような体験があるわけではないようです。これほど何度も「不思議な体験」をしているのはもしかすると私だけかもしれません。この「不思議な体験」は過去のブログに「あなたの知らない世界」として掲載してあります。興味のある方はそちらもお読み下さい。

「学校選びは職業選び」です。「どこの大学に行くか」ということよりも「将来、どのような仕事につくか」を考えることが重要なのです。大学以外の選択肢だってあります。しかし、中学生にはまだそうしたことの大切さは理解できないかも知れません。もしかすると親でさえもそれに気が付いていない場合があります。「偏差値の高い大学に行く」ことはあくまでも十分条件(※)であり、人生の目的を達成するための手段にすぎないのだ、ということがわかっていない人が少なくありません。

「SEEK WHAT YOU WANT, DO WHAT YOU MUST(なにがしたいのか、なにをすべきなのか)」

これは米国ミシガン大学の恩師に教えてもらった言葉。とある著名な研究者の言葉だそうです。「なにをしたいのかを探しなさい。そのためになにをしなければならないのかを考え、そして、実行しなさい」。この言葉は人生にとって大切な姿勢・態度を指摘しています。人生の目標が有名大学への合格で終わっている人がいます。一流企業への就職で終わっている人もいます。でも人生の醍醐味はそれだけではないはず。人生の目標は人それぞれであり、いろいろな形があるのだということを子ども達には知ってほしいと思います。

(※)十分条件とは「これがあればなお良い条件」のこと。それに対して「欠かすことのできない条件」を必要条件といいます。いずれも数学でよく使われる言葉です。

検査の真実(2)

3月に入ってほぼすべての学校が休校となり、国内のさまざまなイベントが自粛されるなど、新型コロナウィルス(COVID-19)の影響はじわじわと日本の社会に影響をあたえています。これまで私が言い続けてきたように、COVID-19の感染はまだ流行の域に達してはいませんが、日本でもこのまま感染者の数が増え続ければ「流行宣言」がなされる事態になるかもしれません。その意味でも、今のこの時期こそ、感染拡大をおさえるための重要な局面に入ってきたといえるでしょう。

 

「希望するすべての人に検査」?

TVでは何の医学的知識もないコメンテータが、あいもかわらず「希望するすべての人に検査を」などとしたり顔です。それでも素人のコメンテータならまだご愛敬と笑っていられますが、医師という肩書をもったコメンテータ(医学系芸人)ですら同じようなことを言っているのは困ったものです。困る以上に迷惑です。彼らが感染症の専門家ではないにせよ、多少なりとのも医学統計学を勉強した人ならそんなことは言わないだろうと思うことを真顔で言っているのですからあきれます(不勉強にもほどがある)。

私自身、診療していると、患者さんの中には「先生も大変ですね」と心配してくれる人がいます。心配してくれるのはありがたいのですが、そうした患者さんには「心配はしていますが、まだ大変ではないですよ」とお話ししています。「だってまだ流行してませんから。これからどうなるかわかりませんけど。アウトブレイクさせないためにも今の状況を正しく理解する必要があります」と説明して、現在の日本におけるCOVID-19の感染状況および今なすべきことをお話しするようにしています。

前回のブログにも書いたように、今、検査のあり方について誤った情報が広まっています。そのひとつが国会議員の先生の発言です。よりによって国会のお偉い方が「検査を希望する人全員に実施しろ」と絶叫していますが、そんなことをすればどうなるかわかって言っているのだろうかと心配になります(どうせわかってない)。今回はそれらのことをわかりやすくお話しします。私見もふくまれていますが、なんの根拠もない憶測ではありません。多少難しいかもしれませんが、最後まできちんと読んでください。

ここ数日、COVID-19に感染した患者の数がにわかに増えたような気がしませんか。確かに「感染が確認された人」の数は以前よりも増えています。だからといって「ほら、やっぱり増えている。これからどんどん増えて中国のようになるんだ」なんて不安にならないでください。実は、3月4日から検査の件数がこれまでの2倍以上に増えているのです。検査の数が増えれば「感染が確認された数」が増えるのはあたりまえ。でも、検査件数の数が2倍以上になったから「感染者」の数も2倍以上になったでしょうか。答えは否です。

東洋経済のホームページを見てください。ここを見ればわかるように、検査数が2倍以上になったわりには新たに見つかった感染者の数がそれほど増えていないのです。それはなにを意味しているのでしょうか。実は感染者がそれほど多くはないということを示しています。しかも、検査件数が増える直前の感染者数を見るとだんだん頭打ちになっているようにも見えます。そうです。日本におけるCOVID-19の感染者数はそろそろピークアウト(峠を越す)を迎えようとしているのです。

 

「検査をもっと増やせばもっと感染者が見つかる」?

そんな楽観的なことを言うと標題のような反論が聞こえてきそうです。なぜそんなに感染者数が多くあってほしいのかわかりませんが、検査をもっと増やして「希望する人すべてに検査」をしたらどうなるでしょう。前回のブログにも書いたように、偽陽性(感染していないのに陽性となること)がめちゃくちゃ増えて、偽陽性の人と本当の感染患者が病院で錯綜して感染を拡大させてしまう危険性があるのです。そして、治療を要しない患者にも医療資源が使われ、治療が必要な重症患者の診療に支障がでてしまうのです。

しかも、検査をむやみに行えば、COVID-19に実際には感染しているのに陰性と判定してしまう偽陰性も増えます。つい最近も、陽性と判定された患者がスポーツクラブや保養所、あるいは飲食店などに立ち寄って問題になりました。陽性と判定されてもこんなことをする不届き者がいるのですから、偽陰性と判定された患者が「陰性というお墨付きをもらった」といろいろな場所に行き来して感染を広めることは想像にかたくありません。検査のやりすぎはメリットよりもデメリットの方が大きいのです。

それは今の韓国やイタリアが証明しています。韓国の感染拡大の原因のひとつに検査のしすぎがあるといわれています。COVID-19のPCR検査は痰や鼻水を検体として採取する際に医療従事者あるいはその周囲に感染を広げてしまう危険性があります。したがって、検査の際は完全防護のうえで、適切な場所で実施しなければなりません。その辺のクリニックで安易に実施できる検査ではないのです。しかも、検査センターに輸送する際には講習を受けた人がしっかり三重に梱包しなければならないと規定されています。

そんな検査をドライブスルーなどで安易に実施していいはずがありません。誰が考えてもわかることを韓国はやってしまったというわけです。単純に「検査件数が多いから感染者数が多くなった」のではなく、安易な検査のために感染を広げてしまったという側面も無視できないのです。韓国は今、患者あるいは感染を心配した人たちが医療機関に押し掛けて「医療崩壊」の危機にあるといいます。この韓国の例を見ただけでも「希望する人すべてに検査」をすればいいというものではないことがわかります。

一方のイタリアでも医療崩壊が懸念されています。感染者数とともに死亡者の数も増加の一途です。この原因のひとつに「検査陽性患者全員を病院に収容したこと」が指摘されています。つまり、重症でもない患者を病院に収容することによって医療機関の機能を低下させてしまったというわけです。イタリアでも日本と同様にクルーズ船の扱いに困りました。しかし、イタリアでは日本とは違って早期に乗客を下船させてしまい、これが感染を広げる端緒になったともいわれています。

 

「検査しても正しく感染者を選別できないならどうしたらいい」?

標題のように言う人もいるかもしれません。しかし、現在のCOVID-19の検査の目的は、一義的には「重症患者の肺炎の原因がCOVID-19なのかを鑑別するため」というところにあり、もうひとつには「感染状況を概観するため」というところに目的があります。COVID-19に感染した患者の80%は軽症で治ります。つまり、ほとんどの患者は風邪症状で治ってしまうのです。重症になるのは5%にも満たない人達です。「軽い風邪症状の人は自宅で安静にしていましょう」と推奨されているのはそのためです。

つまり、検査の目的は単に「感染しているかどうか」を調べることにあるのではなく、重症肺炎の患者におけるCOVID-19の感染の有無の確認なのです。ですから、症状が軽微であればあえて検査を受ける必要はなく、感染者との接触があった場合に限って念のために検査、というものなのです。「PCR検査に健康保険がきくようになったが、まだ検査できる医療機関が限られている」なんてピント外れな新聞の記事がありました。しかし、検査の目的を理解せずに記事を書くとこうなるといういい例です。

「たくさん検査をしなければ感染の実態がわからないじゃないか」と思う人がいるかもしれません。しかし、感染の実態は統計学的な理論にもとづいておこなわれた検査であれば推測することは可能です。つまり、検査対象者を適切に選択して検査をおこなえば感染の実態を把握することはできるのです。でも、その統計では軽症が多いのか重症が多いのかまではわかりません。ここで重要なのが重症者、とくに死亡者数の推移です。感染症対策の要諦は感染拡大の防止と重症者への対応です。

そういう観点から眺めてみると、3月7日現在の日本でのCOVID-19による死者数は6名(クルーズ船の乗客分は除く)。しかも3月1日に6名になってから死亡者数は増えていません。日本は世界でも比較的早期から感染患者を出しています。にもかかわらず、他の国々とくらべて見ても重症患者の発生数は少ないのです(資料1)。それは日本の医療レベルの高さによるものかもしれません。あるいは清潔な日本の環境の良さからかもしれません。いずれにせよ日本の死亡者数が少ないことは特筆に値します。

資料1)COVID-19による死亡者数(対人口10万人あたり:3月5日現在)

日本:0.005人    韓国:0.068人   イラン:0.11人

イタリア:0.17人   中国:0.22人    米国:0.003人

                         (池田正行先生まとめ

私が今回の記事で言いたかったのは、日本での感染もいよいよピークアウトか?というときに、検査の対象をむやみに拡大し、検査を増やすことによって逆に感染拡大を招く危険性があるということです。繰り返しますが、COVID-19に感染しても軽症であれば風邪症状だけで治ります。高熱と咳が続く肺炎合併例にこそ感染の有無を確認し、真に入院加療を必要とする感染患者に医療資源を集中することがもっとも重要なのです。そのためにも不要不急な検査による医療崩壊は絶対におこしてはいけません。

今日の外来にも「コロナに感染していないでしょうか」と心配して来られた患者さんがいました。その人は熱もなく、咳もしていませんでした。インフルエンザのワクチンを接種していないその患者さんに私は笑いながら言いました。「新型コロナの感染を心配する前にインフルエンザに感染することを心配した方がいいんじゃないですか」と。でも、それは決して嫌みではなく、資料2にあるように本当にそうなのです。日本におけるインフルエンザによる死亡者数はCOVID-19での死亡者数の20倍から500倍も多いのです。

資料2)日本における主要感染症の死亡者数(対人口10万人あたり:3月5日現在)

2009年に流行した新型インフルエンザ   0.16人 

2009年~2018年の季節性インフルエンザ   0.12~2.63人

※ちなみに、前出のようにCOVID-19  0.005人

池田正行先生まとめ

あおられてはいけません。こういう非常事態にこそその人の本性が見えてきます。普段は紳士でも、実は人を押しのけてまで商品を奪い取る人かも知れません。普段は冷静でも、実はパニックになってデマを言ってまわる人かも知れません。普段は優しそうに見えても、実は傲慢な差別主義者かも知れません。TVをはじめとするマスコミの本性もそこにあります。本来であればこのブログで取り上げたようなことを報道しなければいけないのに、国民の不安や不満をあおることばかりを垂れ流すのはなぜでしょうか。

与野党を問わず国会で新型コロナの感染拡大阻止に向けて協力すべきときに、ついこの間まで「桜を観る会」のことばかりでした。そして、ようやく新型コロナのことがとりあげられたかと思ったら今度は「政府の責任の追及」なんだそうです。一方で超党派の議員の間では、1000人の患者を収容できる病院船の建造を検討しているといいます。250億円の建造費もさることながら、係留費、維持費、人件費、使用頻度のことも考えないこんな愚策が飛び出してくるなんて。もっとやることがあるでしょうに。

こうした国会議員の先生方の脳天気にもあきれますが、いまだに買い占めなんてやってる国民にもあきれます。TVのワイドショーばかりを見ていると、ものごとの本質を見失い、理性的でいられなくなるのかもしれません。しかし、震災・放射能騒動のときもああだったのに、あのときの教訓はどこにいったのでしょう。せめてこのブログを読んでくださった皆さんだけは理性を働かせて行動してください。そして、まわりの理性を失った人たちに呼びかけてください。「もう少し冷静になりましょう」と。

検査の真実

明日から春休みまで全国の小中高校が休校します。新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大を防ぐための措置だそうです。でも、おかしくないですか?学校の休校って構内での感染拡大を防ぐものなのに。なんで感染が拡大していない学校もふくめてすべてが休校しなければならないのでしょう。いろいろな社会的損失があってもやることなのでしょうか。感染症の専門家が進言したことには到底思えません。一般国民と同様に政権の内部さえもCOVID-19の感染者の増加に浮足立っているようにも見えます。

しかし、2月27日現在、クルーズ船での感染者を除くと日本の感染者数は186名(チャーター便での帰国感染者15名を含む)。このうち無症状者は19名、死亡者3名です。これって「流行」なんでしょうか。浮足立つほどの「急速な感染拡大」なんでしょうか。世の中には「感染者の少なく見えるのはCOVID-19の検査を大々的にやってないからだよ。検査をすればもっと感染者数がふえるはず」と叫びまわっている人がいます。こうした理性的になれない人がTVのワイドショーにたくさんいるからこれまたやっかいです。

「検査をもっと大々的にやればいい」と考える人は多いかもしれません。人によっては「無症状の人もふくめて希望すればすぐに検査ができる体制を」なんてしたり顔でコメントするもんですから、TVばかり見ている国民はどうしても「そうだ、そうだ。政府はなにをやっている」となるのですが事実は少し違います。検査についてはその利点と欠点をわかっていなければなりません。なのに医者ですらそんな基本を知らない人が少なくなく、ワイドショーにでてる医者(医学系芸人?)もめちゃくちゃを言っています。

今日は少しわかりにくいかも知れませんが、この検査のことについて書きますので一緒に勉強してみましょう。まずは基本的な用語についての説明です。検査はある病気を見つけるために行うのですが、すべての検査が百発百中ではなく、病気であることを見逃してしまったり、病気ではないのに病気だと誤診してしまうことがおこりえます。そのため、検査においては「病気の人を病気だと診断できる的確性」を感度、また、「病気でない人を病気なしと正しく診断できる確実性」を特異度と定義してその正しさを評価します。

次に本当の患者を陽性と判断した場合を「真の陽性」といい、患者ではないのに陽性としてしまった場合を「偽陽性」といいます。一方で、患者ではない人を陰性と判断した場合を「真の陰性」、患者なのに見落としてしまった場合を「偽陰性」といいます。ですから、「いい検査」とは偽陽性や偽陰性が極力低いものと定義できます。つまり、感度と特異度が高い検査ほど「いい検査」となり、現在の診療で広くおこなわれているインフルエンザの検査の感度や特異度はともに97%か98%とかなり高くなっています。

そんな検査だからさぞかし「正確」だろうと思いきや、必ずしもそうではありません。検査で見つけようとしている病気の頻度(有病率)がどの程度のものか。あるいは検査をしようとする集団にどの程度の患者がいるのか(事前確率)によっても検査の「精度」がかわってきます。これらはベイズ統計学という統計学的な理論にもとづいているのですが、私たちが医学生のころに「EBM(Evidence Based Medicine:根拠にもとづいた医療)」として広く知られるようになった学問です。

少し難しいので、まずこの感度、特異度について一般的にいわれている特徴を列挙します。

●めずらしい病気を見つけるためにたくさんの検査をすると偽陽性が増える
●患者がたくさんいる集団に検査をすると偽陰性が増える

これらの例を実際の数字をあてはめて考えてみましょう。ここでは感度99%、特異度99%という「精度の高い検査」を仮定します。感度99%とは本当の患者の99%を陽性とする確率であり、特異度99%とは患者ではない人の99%を陰性にできる確率を意味します。

例1)1000人の中に100人の患者がいる場合(患者ではない人は900人)

陽性適中 99人・・・偽陽性(過剰診断)9人

陰性適中 891人・・・偽陰性(見落とし)1人

 

例2)1000人の中に10人の患者がいる場合(患者ではない人は990人)

陽性適中 9.9人・・・偽陽性(過剰診断)9.9人

陰性適中 980.1人・・・偽陰性(見落とし)0.1人

病気があることを的中させる確率(陽性適中率)を計算すると、例1)では91.7%であるのに対して例2)では50.0%と大幅に低下してしまいます。その一方で、病気ではないことを的中させる確率(陰性適中率)は例1)で99.9%、例2)では100%となります。つまり、感度99%・特異度99%という「精度の高い検査」をしても、患者の少ない集団を調べれば病気を正しく見つけ出すことができないのです。そして、その検査をたくさんの人に実施すればたとえ陰性適中率が99.9%だとしても偽陽性を増やすだけです。

具体的に今のCOVID-19にあてはめて考えてみましょう。COVID-19という新興感染症はまだ流行という状況にはなく、有病率もおそらくかなり低い状況にあると考えていいと思います(対人口比:0.0002%)。そんなときに「検査をしたいという人が全員検査できること」って重要なのでしょうか。「検査をして陰性だった人に感染確認」などというニュースを聴いて、「なにをやっているんだ」と検査の実施方法を批判する人もいます。しかし、検査には偽陽性とともに偽陰性もあることを知った上で議論しなければいけません。

現在のCOVID-19感染の拾い上げはPCRという方法でおこなわれています。これはウィルスの遺伝子を大量に増幅して検出しようというものです。遺伝子を使うのだからさぞかし正確だろうと思われるかもしれませんが、COVID-19はRNAウィルスであり、通常のDNAを使うPCRよりもあつかいが難しいようです。したがって、感度は40%、特異度は90%といわれており、精度的にも決して正確な検査とはいえないのが実情です。そんな検査を対象もしぼらずにおこなえば防疫という観点から大きな問題が生じてしまいます。

例3)1000人の中に10人の患者がいる集団に感度40%・特異度90%の検査をする場合

陽性適中 4人・・・偽陽性(過剰診断)99人

陰性適中 891人・・・偽陰性(見落とし)6人

陽性適中率:3.9%

陰性適中率:99.3%

  例4)人口1億人の国に1000人の患者がいて、感度40%・特異度90%の検査を国民全員におこなう場合

     陽性適中率:0.004%

     陰性適中率:99.9%

現在おこなわれているPCR検査の信頼性が本当に例3)だと仮定すると、検査を希望する国民に幅広くおこなえば、むやみに偽陰性の患者を増やしてしまいます。そして、その患者は「検査に異常がなかった」と判断して、行動制限をやめてしまうかもしれません。また、検査数そのものが増えていけば、偽陽性の患者も増えていき、無駄な診療がおこなわれ、患者を収容できる病院の数と機能を低下させて、重症患者の治療に差し障りがでるかもしれません。例4)からもわかるように、PCR検査は病気を否定する検査ではないのです。

クルーズ船の乗客に対する検査はいろいろな制約の中でよくやったと思います。下船時の検査で陰性だった人が、その後、感染していたことがわかったケースもあります。しかし、これはある意味で仕方のないことなのです。乗客を早期に下船させなかったことも適切です。むしろ、1月下旬の段階で中国からの入国制限をしなかったことがおかしいと思います。すくなくともこの時期に封じ込めをすれば、今の感染者数を抑制し、拡大のスピードをもっと遅くできたかもしれないからです。

私はよく日常の診療において、まだ軽症であるにもかかわらずインフルエンザの検査を希望する人に、「一番怪しいと思うときに検査をするべき」だと説明します。それは以上のような理由があるからです。検査はすればいいというものではありません。「意味のある検査」をしなければならないのです。あれもこれもと一時の不安にかられて検査を求めることは診断を誤り、混乱と不安を拡大させるだけです。繰り返しますが、COVID-19はまだ流行していません。もちろんこれからどうなるかは別問題ですが。

今年の季節性インフルエンザの流行は収束したようだ、と報じられました。これまでに今年度も累計3万7198人の感染者がいました。インフルエンザに関連した死者も2018年度に3325人、2017年度で2569人と決して少ない数ではありませんでした。インフルエンザはまだまだ「死ぬ感染症」なのです。にもかかわらずワクチンの接種をしないでも平気な人がいます。しかも、そうした人の多くもまた「流行もしていない新型コロナウィルスの感染を恐れている」という事実をどう考えたらいいのでしょうか。

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