子ども達に伝えたいこと

10月25日(水)に柏市の私立麗澤中学校でおこなわれた「職業別講演会」でお話しをしました。最近の小中学校では、子ども達が「将来、どのような職業に就くのか」を意識するきっかけになるよう、さまざまな催しが企画されるようになりました。麗澤中学校での講演会にはいろいろな職種の方達がいらっしゃり、働くことの楽しさ、大切さ、やりがいなどを、その職業に興味や関心をもっている生徒さん達にお話ししました。私は「医師」という仕事について40分ほどお話しをさせていただきました。

以前のブログでも書いたように、私が医師になりたいと思ったのは、小学校の入学祝いに野口英世の絵本をもらったのがきっかけです。そのときのことは今でも鮮明に思い出すことができます。当時の私は、小学校にあがるというのにまだ文字をまともに読めない子どもでした。しかし、その絵本のページをめくりながら、幼い英世が囲炉裏におちて大やけどをし、左手が不自由になりながらも世界的な医学者になっていく挿絵がなぜか子ども心に残ったのです。以来、私の将来の夢は「お医者さんになること」になりました。

しかし、親から「勉強しろ」と言われたことがなかったので、勉強とはまるで無縁の毎日を過ごしていました。しかも、宿題すら満足にしていかないのですから、学校のテストや通信簿の成績がいいはずもありません。だからといって運動が得意な子どもでもなく、どちらかというと苦手でさえありました。学校の長距離走大会ではいつもビリを争うようなありさま。息苦しさに歯を食いしばり、脇腹を押さえながら「なんのためにこんなことをやらなきゃならないんだ」などと考えて走っていたほどです。

勉強も嫌いで、運動も苦手な子でしたから、学校のいじめっ子のいい標的になっていました。いじめられても親には言えません。なんとなく親に心配をかけたくなかったからです。悩みを相談したり、愚痴をこぼせるような、親友といえる友達はほとんどいませんでした。でも、よく同級生に泣かされていた近所の友人とだけは妙に馬が合い、休日になると必ず一緒に遊んでいました。道ばたでキャッチボールをしたり、部屋にこもって何時間も話しをしたり。そんな小学生時代を過ごしていました。

中学生になっても「医者になりたい」という気持ちはありましたが、具体的にどうしたらいいのか、どうしなければならないのかを考えたことはありませんでした。でも、そんな私にも、中学三年生のときに大きな転機が訪れました。「ダメダメ小学生」だった私が少しだけ「勉強」に面白さを感じるようになったのです。楽しい思い出、懐かしい記憶がほとんどない小学校時代ではありました。しかし、なんとなく漠然と過ごしてしまった小学生の頃を挽回するような中学校時代だったと思います。

私が今こうして医師になれたのも、あの中学校時代があったからです。学校生活になじめず、友達もおらず、勉強も運動もぱっとしなかった私が大きな変化をとげたのがまさに中学生のときなのです。おそらく精神的にも成長し、高校受験という大きなイベントを前にして、将来のことをほんのちょっぴり考えるようになったからかもしれません。行きたい高校に合格するため、なにをすべきなのかを主体的に考えることができるようになったからだともいえます。医師になるための「本当の第一歩」がこのとき始まったのです。

その意味でも、中学三年生に対して「職業別講演会」を麗澤中学校がおこなったことには意義があります。なぜ自分は勉強しなければならないのか、自分はどのような人生を歩みたいのかを考えるいいきっかけになるからです。多くの子ども達はそんなことを考えずに高校に進学します。そして、なんとなく大学に、あるいはその他の学校へと進んでいくのです。私のような半生はきわめて例外的です。ある意味で失敗例でもあります。その経験を生徒さん達に知ってほしかったのです。

講演をするにあたって、麗澤中学校の生徒さん達に伝えたいことを次の四点にまとめました。

(1)医師は決して「楽しい仕事」ではないが、とても「やりがいのある仕事」

(2)「人の支えになる」ということは「人に支えられる」ということ

(3)どんな仕事をするのか、したいのかを具体的に考えてほしい

(4)目標に向かって「なにをしなければならないのか」を考えてほしい

子どもと大人の端境期にある中学三年生の生徒さん達に、これらのことをどのようにすればわかりやすく伝えられるだろうか。試行錯誤しながらスライド原稿を作っていました。ともすると「医者になったという自慢話」になってしまいます。あるいは子ども達が「医師という仕事はツラいだけで、気持ちが滅入るようなもの」ととらえてしまうかもしれない。だからといって、憧れだけで医学部に入って後悔させるようなものになってもいけない。そのバランスをどう図るかが難しかったです。

講演会の当日、教室の生徒さん達の前に立つと、北大時代に代々木ゼミナール札幌校で中学生を教えていたときのことがよみがえってきました。医学部の再受験に反対していた親には仕送りはいらないと啖呵を切って札幌に来ました。幸い、一度は大学を卒業していたので、大学生のアルバイトを採用していなかった代ゼミで働くことができました。そのおかげで学費や生活費をまかなうことができたのです。私の話しを聞いてくれる麗澤中学校の皆さんの真剣なまなざしは、当時の代ゼミの生徒さん達と重なって見えました。

講演の前半は、医学部に合格するためにどれほど勉強しなければならないのか(3000時間の法則)。そして、その勉強は医学部に入学しても続くのだ、ということ。それは決して楽なプロセスではなく、いくつもの関門が待ち構えていて、それらをひとつひとつ乗り越えてはじめて医師になれるのだということをお話ししました。後半は私の経験をふまえ、医師という仕事がいかに厳しく、責任をともなうものか。しかし、その仕事にはそうした困難を超える大きなやりがいがあるのだ、ということを強調しました。

本当は医師になってからの経験をもっとお話ししたかったのですが、中学生の皆さんにはむしろ医学部に合格するまでの私の紆余曲折をお話しした方がいいと考えました。私が医師として成長する中で、「人を支えることで逆に人に支えられている」ことに気づく体験談は、中学生の彼等にとって少し「重い話し」だと思ったからです。なので、生徒さん達には「そうした体験談は船戸内科医院のホームページに掲載した【院長ブログ】で読んでください」と伝えて講演を終えたのでした。

先日、学校から生徒さん達が書いた感想文が届きました。さっそく封筒を開け、一枚一枚を丁寧に読んでみました。すると、それぞれの生徒さんが私の伝えたかったことをしっかり受け取ってくれていたことがわかりました。医師という仕事のやりがいについてばかりでなく、私が実体験した「3000時間の法則(勉強の量は質に転化する)」のことや、それまで習っていたドイツ語を捨て、英語で大学を受験する決意をした高三からの体験などが生徒さん達には印象的だったようです。

「船戸内科医院の【院長ブログ】を読みました」と書いてくれる生徒さんもいました。このブログでは医師としての私がむしろ知ってほしいことを書きました。その記事をわざわざ読んでくれたことがとてもうれしかったのです。医師という仕事の醍醐味は、この【院長ブログ】に書いた「心に残る患者」にあると思っています。「悲しく、つらいこと」を乗り越えて「医者らしく」なっていくことの尊さを伝えたかったからです。そのことを感じ取ってくれた生徒さんがいて、講演をして本当によかったと思いました。

たくさんの感想文の中で、とくに私の心に残った生徒さんの感想を紹介します。素晴らしい文章なので、みなさんにも是非読んでいただきたいと思います。なお、掲載にあたっては、ご本人とそのご両親の了解、そして、学校の許諾を得たことを申し添えます。

 

****************** 以下、原文のママ

2023年10月25日 麗澤中学校3年生 職業別講演会 お礼状

3年A組 小村柚芽

この度は、とても貴重なお時間をいただきありがとうございます。

実は私も瀬畠さんと同じで、小さいときから医師になるのが夢でした。もちろん、今も医師になりたいと思っています。ですが成績もそれほど良くないですし、集中力も日によって変わってしまうので医学部は難しいのではないかと心のどこかで思っていました。しかし、瀬畠さんの講演を聞き、今からでも遅くないと気づかされました。医師になりたいという強い気持ちさえあれば勉強も辛いと思わなくなるだろうと思いました。

何度か「船戸内科医院のホームページを見て下さい。」とおっしゃっていたのでホームページの〝心に残る患者” を拝見させていただきました。自分が経験したわけでもないのに自然と涙がでてきました。ドラマや映画ではたいてい患者さんは完治し、笑顔で家に帰っていきます。ですがやはり亡くなってしまう方もいます。瀬畠さんのブログをみて、特に自分が主治医をした患者さんが亡くなってしまった事は特に心に残るものなのだなと感じました。

正直、今、怖いです。自分が担当した患者さんが自分の診断ミスで亡くなったら精神的に結構キツくなりそうだからです。でも、失敗を乗り越えてこそ1人前の医師になれるのかなと思いました。残念ながら1人前になるには失敗は必要だと思います。そこからどう変えていくかが大事なところなのかなと感じました。私の父も医師をしています。瀬畠さんと同じような経験をしたと考えると、とても心が痛いです。今、私にできることは勉強ももちろんそうなのですが、周りに居る人の支えになることもできると思います。今からでもできることはやっていきたいです。

私は改めて医師になりたいと思いました。そして、医師になれたら「この仕事をしていて良かった。」と思えるようになりたいと思いました。この度は本当にありがとうございました。

****************** 以上

 

小村さんの感想文を読んで、私は胸を打たれました。講演を通して伝えたかったことすべてをきちんと受け取ってくれたからです。とくに私が一番伝えたかったことを、小村さんは「そこ(失敗)からどう変えていくかが大事なところなのかなと感じました」と書いてくれました。大事なのはまさにそこなのです。人生にはゴールがありません。目標をめざして努力をする。そして、ひとつの結果がでてもまた新たな目標をめざさなければならない。その繰り返しの集大成が人生なのだということを小村さんはくみ取ってくれました。

感想文の中には「北海道に行ってみたい」と書いてくれた生徒さんもいました。このブログでも繰り返してきましたが、私は北海道(そして北海道大学)が大好きです。北海道の魅力は春夏秋冬それぞれに感じることができます。それをほんの少しだけ紹介したのですが、そのことを心にとどめてくれた生徒さんがいたのもうれしかったです。私の講演をきっかけに、北海道に旅行をして、あるいは北海道大学に入学して、北海道の良さを実感する人が増えてくれればお話しさせていただいた甲斐があります。

また、講演の終わりでお話しした私の「不思議な体験」に驚いた、と感想を書いてくれた生徒さんもいました。「生・老・病・死」に向き合う仕事をしているとときどき不思議な体験をします。医療従事者だからといってすべての人に同じような体験があるわけではないようです。これほど何度も「不思議な体験」をしているのはもしかすると私だけかもしれません。この「不思議な体験」は過去のブログに「あなたの知らない世界」として掲載してあります。興味のある方はそちらもお読み下さい。

「学校選びは職業選び」です。「どこの大学に行くか」ということよりも「将来、どのような仕事につくか」を考えることが重要なのです。大学以外の選択肢だってあります。しかし、中学生にはまだそうしたことの大切さは理解できないかも知れません。もしかすると親でさえもそれに気が付いていない場合があります。「偏差値の高い大学に行く」ことはあくまでも十分条件(※)であり、人生の目的を達成するための手段にすぎないのだ、ということがわかっていない人が少なくありません。

「SEEK WHAT YOU WANT, DO WHAT YOU MUST(なにがしたいのか、なにをすべきなのか)」

これは米国ミシガン大学の恩師に教えてもらった言葉。とある著名な研究者の言葉だそうです。「なにをしたいのかを探しなさい。そのためになにをしなければならないのかを考え、そして、実行しなさい」。この言葉は人生にとって大切な姿勢・態度を指摘しています。人生の目標が有名大学への合格で終わっている人がいます。一流企業への就職で終わっている人もいます。でも人生の醍醐味はそれだけではないはず。人生の目標は人それぞれであり、いろいろな形があるのだということを子ども達には知ってほしいと思います。

(※)十分条件とは「これがあればなお良い条件」のこと。それに対して「欠かすことのできない条件」を必要条件といいます。いずれも数学でよく使われる言葉です。

検査の真実(2)

3月に入ってほぼすべての学校が休校となり、国内のさまざまなイベントが自粛されるなど、新型コロナウィルス(COVID-19)の影響はじわじわと日本の社会に影響をあたえています。これまで私が言い続けてきたように、COVID-19の感染はまだ流行の域に達してはいませんが、日本でもこのまま感染者の数が増え続ければ「流行宣言」がなされる事態になるかもしれません。その意味でも、今のこの時期こそ、感染拡大をおさえるための重要な局面に入ってきたといえるでしょう。

 

「希望するすべての人に検査」?

TVでは何の医学的知識もないコメンテータが、あいもかわらず「希望するすべての人に検査を」などとしたり顔です。それでも素人のコメンテータならまだご愛敬と笑っていられますが、医師という肩書をもったコメンテータ(医学系芸人)ですら同じようなことを言っているのは困ったものです。困る以上に迷惑です。彼らが感染症の専門家ではないにせよ、多少なりとのも医学統計学を勉強した人ならそんなことは言わないだろうと思うことを真顔で言っているのですからあきれます(不勉強にもほどがある)。

私自身、診療していると、患者さんの中には「先生も大変ですね」と心配してくれる人がいます。心配してくれるのはありがたいのですが、そうした患者さんには「心配はしていますが、まだ大変ではないですよ」とお話ししています。「だってまだ流行してませんから。これからどうなるかわかりませんけど。アウトブレイクさせないためにも今の状況を正しく理解する必要があります」と説明して、現在の日本におけるCOVID-19の感染状況および今なすべきことをお話しするようにしています。

前回のブログにも書いたように、今、検査のあり方について誤った情報が広まっています。そのひとつが国会議員の先生の発言です。よりによって国会のお偉い方が「検査を希望する人全員に実施しろ」と絶叫していますが、そんなことをすればどうなるかわかって言っているのだろうかと心配になります(どうせわかってない)。今回はそれらのことをわかりやすくお話しします。私見もふくまれていますが、なんの根拠もない憶測ではありません。多少難しいかもしれませんが、最後まできちんと読んでください。

ここ数日、COVID-19に感染した患者の数がにわかに増えたような気がしませんか。確かに「感染が確認された人」の数は以前よりも増えています。だからといって「ほら、やっぱり増えている。これからどんどん増えて中国のようになるんだ」なんて不安にならないでください。実は、3月4日から検査の件数がこれまでの2倍以上に増えているのです。検査の数が増えれば「感染が確認された数」が増えるのはあたりまえ。でも、検査件数の数が2倍以上になったから「感染者」の数も2倍以上になったでしょうか。答えは否です。

東洋経済のホームページを見てください。ここを見ればわかるように、検査数が2倍以上になったわりには新たに見つかった感染者の数がそれほど増えていないのです。それはなにを意味しているのでしょうか。実は感染者がそれほど多くはないということを示しています。しかも、検査件数が増える直前の感染者数を見るとだんだん頭打ちになっているようにも見えます。そうです。日本におけるCOVID-19の感染者数はそろそろピークアウト(峠を越す)を迎えようとしているのです。

 

「検査をもっと増やせばもっと感染者が見つかる」?

そんな楽観的なことを言うと標題のような反論が聞こえてきそうです。なぜそんなに感染者数が多くあってほしいのかわかりませんが、検査をもっと増やして「希望する人すべてに検査」をしたらどうなるでしょう。前回のブログにも書いたように、偽陽性(感染していないのに陽性となること)がめちゃくちゃ増えて、偽陽性の人と本当の感染患者が病院で錯綜して感染を拡大させてしまう危険性があるのです。そして、治療を要しない患者にも医療資源が使われ、治療が必要な重症患者の診療に支障がでてしまうのです。

しかも、検査をむやみに行えば、COVID-19に実際には感染しているのに陰性と判定してしまう偽陰性も増えます。つい最近も、陽性と判定された患者がスポーツクラブや保養所、あるいは飲食店などに立ち寄って問題になりました。陽性と判定されてもこんなことをする不届き者がいるのですから、偽陰性と判定された患者が「陰性というお墨付きをもらった」といろいろな場所に行き来して感染を広めることは想像にかたくありません。検査のやりすぎはメリットよりもデメリットの方が大きいのです。

それは今の韓国やイタリアが証明しています。韓国の感染拡大の原因のひとつに検査のしすぎがあるといわれています。COVID-19のPCR検査は痰や鼻水を検体として採取する際に医療従事者あるいはその周囲に感染を広げてしまう危険性があります。したがって、検査の際は完全防護のうえで、適切な場所で実施しなければなりません。その辺のクリニックで安易に実施できる検査ではないのです。しかも、検査センターに輸送する際には講習を受けた人がしっかり三重に梱包しなければならないと規定されています。

そんな検査をドライブスルーなどで安易に実施していいはずがありません。誰が考えてもわかることを韓国はやってしまったというわけです。単純に「検査件数が多いから感染者数が多くなった」のではなく、安易な検査のために感染を広げてしまったという側面も無視できないのです。韓国は今、患者あるいは感染を心配した人たちが医療機関に押し掛けて「医療崩壊」の危機にあるといいます。この韓国の例を見ただけでも「希望する人すべてに検査」をすればいいというものではないことがわかります。

一方のイタリアでも医療崩壊が懸念されています。感染者数とともに死亡者の数も増加の一途です。この原因のひとつに「検査陽性患者全員を病院に収容したこと」が指摘されています。つまり、重症でもない患者を病院に収容することによって医療機関の機能を低下させてしまったというわけです。イタリアでも日本と同様にクルーズ船の扱いに困りました。しかし、イタリアでは日本とは違って早期に乗客を下船させてしまい、これが感染を広げる端緒になったともいわれています。

 

「検査しても正しく感染者を選別できないならどうしたらいい」?

標題のように言う人もいるかもしれません。しかし、現在のCOVID-19の検査の目的は、一義的には「重症患者の肺炎の原因がCOVID-19なのかを鑑別するため」というところにあり、もうひとつには「感染状況を概観するため」というところに目的があります。COVID-19に感染した患者の80%は軽症で治ります。つまり、ほとんどの患者は風邪症状で治ってしまうのです。重症になるのは5%にも満たない人達です。「軽い風邪症状の人は自宅で安静にしていましょう」と推奨されているのはそのためです。

つまり、検査の目的は単に「感染しているかどうか」を調べることにあるのではなく、重症肺炎の患者におけるCOVID-19の感染の有無の確認なのです。ですから、症状が軽微であればあえて検査を受ける必要はなく、感染者との接触があった場合に限って念のために検査、というものなのです。「PCR検査に健康保険がきくようになったが、まだ検査できる医療機関が限られている」なんてピント外れな新聞の記事がありました。しかし、検査の目的を理解せずに記事を書くとこうなるといういい例です。

「たくさん検査をしなければ感染の実態がわからないじゃないか」と思う人がいるかもしれません。しかし、感染の実態は統計学的な理論にもとづいておこなわれた検査であれば推測することは可能です。つまり、検査対象者を適切に選択して検査をおこなえば感染の実態を把握することはできるのです。でも、その統計では軽症が多いのか重症が多いのかまではわかりません。ここで重要なのが重症者、とくに死亡者数の推移です。感染症対策の要諦は感染拡大の防止と重症者への対応です。

そういう観点から眺めてみると、3月7日現在の日本でのCOVID-19による死者数は6名(クルーズ船の乗客分は除く)。しかも3月1日に6名になってから死亡者数は増えていません。日本は世界でも比較的早期から感染患者を出しています。にもかかわらず、他の国々とくらべて見ても重症患者の発生数は少ないのです(資料1)。それは日本の医療レベルの高さによるものかもしれません。あるいは清潔な日本の環境の良さからかもしれません。いずれにせよ日本の死亡者数が少ないことは特筆に値します。

資料1)COVID-19による死亡者数(対人口10万人あたり:3月5日現在)

日本:0.005人    韓国:0.068人   イラン:0.11人

イタリア:0.17人   中国:0.22人    米国:0.003人

                         (池田正行先生まとめ

私が今回の記事で言いたかったのは、日本での感染もいよいよピークアウトか?というときに、検査の対象をむやみに拡大し、検査を増やすことによって逆に感染拡大を招く危険性があるということです。繰り返しますが、COVID-19に感染しても軽症であれば風邪症状だけで治ります。高熱と咳が続く肺炎合併例にこそ感染の有無を確認し、真に入院加療を必要とする感染患者に医療資源を集中することがもっとも重要なのです。そのためにも不要不急な検査による医療崩壊は絶対におこしてはいけません。

今日の外来にも「コロナに感染していないでしょうか」と心配して来られた患者さんがいました。その人は熱もなく、咳もしていませんでした。インフルエンザのワクチンを接種していないその患者さんに私は笑いながら言いました。「新型コロナの感染を心配する前にインフルエンザに感染することを心配した方がいいんじゃないですか」と。でも、それは決して嫌みではなく、資料2にあるように本当にそうなのです。日本におけるインフルエンザによる死亡者数はCOVID-19での死亡者数の20倍から500倍も多いのです。

資料2)日本における主要感染症の死亡者数(対人口10万人あたり:3月5日現在)

2009年に流行した新型インフルエンザ   0.16人 

2009年~2018年の季節性インフルエンザ   0.12~2.63人

※ちなみに、前出のようにCOVID-19  0.005人

池田正行先生まとめ

あおられてはいけません。こういう非常事態にこそその人の本性が見えてきます。普段は紳士でも、実は人を押しのけてまで商品を奪い取る人かも知れません。普段は冷静でも、実はパニックになってデマを言ってまわる人かも知れません。普段は優しそうに見えても、実は傲慢な差別主義者かも知れません。TVをはじめとするマスコミの本性もそこにあります。本来であればこのブログで取り上げたようなことを報道しなければいけないのに、国民の不安や不満をあおることばかりを垂れ流すのはなぜでしょうか。

与野党を問わず国会で新型コロナの感染拡大阻止に向けて協力すべきときに、ついこの間まで「桜を観る会」のことばかりでした。そして、ようやく新型コロナのことがとりあげられたかと思ったら今度は「政府の責任の追及」なんだそうです。一方で超党派の議員の間では、1000人の患者を収容できる病院船の建造を検討しているといいます。250億円の建造費もさることながら、係留費、維持費、人件費、使用頻度のことも考えないこんな愚策が飛び出してくるなんて。もっとやることがあるでしょうに。

こうした国会議員の先生方の脳天気にもあきれますが、いまだに買い占めなんてやってる国民にもあきれます。TVのワイドショーばかりを見ていると、ものごとの本質を見失い、理性的でいられなくなるのかもしれません。しかし、震災・放射能騒動のときもああだったのに、あのときの教訓はどこにいったのでしょう。せめてこのブログを読んでくださった皆さんだけは理性を働かせて行動してください。そして、まわりの理性を失った人たちに呼びかけてください。「もう少し冷静になりましょう」と。

検査の真実

明日から春休みまで全国の小中高校が休校します。新型コロナウィルス(COVID-19)の感染拡大を防ぐための措置だそうです。でも、おかしくないですか?学校の休校って構内での感染拡大を防ぐものなのに。なんで感染が拡大していない学校もふくめてすべてが休校しなければならないのでしょう。いろいろな社会的損失があってもやることなのでしょうか。感染症の専門家が進言したことには到底思えません。一般国民と同様に政権の内部さえもCOVID-19の感染者の増加に浮足立っているようにも見えます。

しかし、2月27日現在、クルーズ船での感染者を除くと日本の感染者数は186名(チャーター便での帰国感染者15名を含む)。このうち無症状者は19名、死亡者3名です。これって「流行」なんでしょうか。浮足立つほどの「急速な感染拡大」なんでしょうか。世の中には「感染者の少なく見えるのはCOVID-19の検査を大々的にやってないからだよ。検査をすればもっと感染者数がふえるはず」と叫びまわっている人がいます。こうした理性的になれない人がTVのワイドショーにたくさんいるからこれまたやっかいです。

「検査をもっと大々的にやればいい」と考える人は多いかもしれません。人によっては「無症状の人もふくめて希望すればすぐに検査ができる体制を」なんてしたり顔でコメントするもんですから、TVばかり見ている国民はどうしても「そうだ、そうだ。政府はなにをやっている」となるのですが事実は少し違います。検査についてはその利点と欠点をわかっていなければなりません。なのに医者ですらそんな基本を知らない人が少なくなく、ワイドショーにでてる医者(医学系芸人?)もめちゃくちゃを言っています。

今日は少しわかりにくいかも知れませんが、この検査のことについて書きますので一緒に勉強してみましょう。まずは基本的な用語についての説明です。検査はある病気を見つけるために行うのですが、すべての検査が百発百中ではなく、病気であることを見逃してしまったり、病気ではないのに病気だと誤診してしまうことがおこりえます。そのため、検査においては「病気の人を病気だと診断できる的確性」を感度、また、「病気でない人を病気なしと正しく診断できる確実性」を特異度と定義してその正しさを評価します。

次に本当の患者を陽性と判断した場合を「真の陽性」といい、患者ではないのに陽性としてしまった場合を「偽陽性」といいます。一方で、患者ではない人を陰性と判断した場合を「真の陰性」、患者なのに見落としてしまった場合を「偽陰性」といいます。ですから、「いい検査」とは偽陽性や偽陰性が極力低いものと定義できます。つまり、感度と特異度が高い検査ほど「いい検査」となり、現在の診療で広くおこなわれているインフルエンザの検査の感度や特異度はともに97%か98%とかなり高くなっています。

そんな検査だからさぞかし「正確」だろうと思いきや、必ずしもそうではありません。検査で見つけようとしている病気の頻度(有病率)がどの程度のものか。あるいは検査をしようとする集団にどの程度の患者がいるのか(事前確率)によっても検査の「精度」がかわってきます。これらはベイズ統計学という統計学的な理論にもとづいているのですが、私たちが医学生のころに「EBM(Evidence Based Medicine:根拠にもとづいた医療)」として広く知られるようになった学問です。

少し難しいので、まずこの感度、特異度について一般的にいわれている特徴を列挙します。

●めずらしい病気を見つけるためにたくさんの検査をすると偽陽性が増える
●患者がたくさんいる集団に検査をすると偽陰性が増える

これらの例を実際の数字をあてはめて考えてみましょう。ここでは感度99%、特異度99%という「精度の高い検査」を仮定します。感度99%とは本当の患者の99%を陽性とする確率であり、特異度99%とは患者ではない人の99%を陰性にできる確率を意味します。

例1)1000人の中に100人の患者がいる場合(患者ではない人は900人)

陽性適中 99人・・・偽陽性(過剰診断)9人

陰性適中 891人・・・偽陰性(見落とし)1人

 

例2)1000人の中に10人の患者がいる場合(患者ではない人は990人)

陽性適中 9.9人・・・偽陽性(過剰診断)9.9人

陰性適中 980.1人・・・偽陰性(見落とし)0.1人

病気があることを的中させる確率(陽性適中率)を計算すると、例1)では91.7%であるのに対して例2)では50.0%と大幅に低下してしまいます。その一方で、病気ではないことを的中させる確率(陰性適中率)は例1)で99.9%、例2)では100%となります。つまり、感度99%・特異度99%という「精度の高い検査」をしても、患者の少ない集団を調べれば病気を正しく見つけ出すことができないのです。そして、その検査をたくさんの人に実施すればたとえ陰性適中率が99.9%だとしても偽陽性を増やすだけです。

具体的に今のCOVID-19にあてはめて考えてみましょう。COVID-19という新興感染症はまだ流行という状況にはなく、有病率もおそらくかなり低い状況にあると考えていいと思います(対人口比:0.0002%)。そんなときに「検査をしたいという人が全員検査できること」って重要なのでしょうか。「検査をして陰性だった人に感染確認」などというニュースを聴いて、「なにをやっているんだ」と検査の実施方法を批判する人もいます。しかし、検査には偽陽性とともに偽陰性もあることを知った上で議論しなければいけません。

現在のCOVID-19感染の拾い上げはPCRという方法でおこなわれています。これはウィルスの遺伝子を大量に増幅して検出しようというものです。遺伝子を使うのだからさぞかし正確だろうと思われるかもしれませんが、COVID-19はRNAウィルスであり、通常のDNAを使うPCRよりもあつかいが難しいようです。したがって、感度は40%、特異度は90%といわれており、精度的にも決して正確な検査とはいえないのが実情です。そんな検査を対象もしぼらずにおこなえば防疫という観点から大きな問題が生じてしまいます。

例3)1000人の中に10人の患者がいる集団に感度40%・特異度90%の検査をする場合

陽性適中 4人・・・偽陽性(過剰診断)99人

陰性適中 891人・・・偽陰性(見落とし)6人

陽性適中率:3.9%

陰性適中率:99.3%

  例4)人口1億人の国に1000人の患者がいて、感度40%・特異度90%の検査を国民全員におこなう場合

     陽性適中率:0.004%

     陰性適中率:99.9%

現在おこなわれているPCR検査の信頼性が本当に例3)だと仮定すると、検査を希望する国民に幅広くおこなえば、むやみに偽陰性の患者を増やしてしまいます。そして、その患者は「検査に異常がなかった」と判断して、行動制限をやめてしまうかもしれません。また、検査数そのものが増えていけば、偽陽性の患者も増えていき、無駄な診療がおこなわれ、患者を収容できる病院の数と機能を低下させて、重症患者の治療に差し障りがでるかもしれません。例4)からもわかるように、PCR検査は病気を否定する検査ではないのです。

クルーズ船の乗客に対する検査はいろいろな制約の中でよくやったと思います。下船時の検査で陰性だった人が、その後、感染していたことがわかったケースもあります。しかし、これはある意味で仕方のないことなのです。乗客を早期に下船させなかったことも適切です。むしろ、1月下旬の段階で中国からの入国制限をしなかったことがおかしいと思います。すくなくともこの時期に封じ込めをすれば、今の感染者数を抑制し、拡大のスピードをもっと遅くできたかもしれないからです。

私はよく日常の診療において、まだ軽症であるにもかかわらずインフルエンザの検査を希望する人に、「一番怪しいと思うときに検査をするべき」だと説明します。それは以上のような理由があるからです。検査はすればいいというものではありません。「意味のある検査」をしなければならないのです。あれもこれもと一時の不安にかられて検査を求めることは診断を誤り、混乱と不安を拡大させるだけです。繰り返しますが、COVID-19はまだ流行していません。もちろんこれからどうなるかは別問題ですが。

今年の季節性インフルエンザの流行は収束したようだ、と報じられました。これまでに今年度も累計3万7198人の感染者がいました。インフルエンザに関連した死者も2018年度に3325人、2017年度で2569人と決して少ない数ではありませんでした。インフルエンザはまだまだ「死ぬ感染症」なのです。にもかかわらずワクチンの接種をしないでも平気な人がいます。しかも、そうした人の多くもまた「流行もしていない新型コロナウィルスの感染を恐れている」という事実をどう考えたらいいのでしょうか。

※今回の統計学の説明に間違いがあったら下記のコメント欄でご指摘ください

 

 

 

がんばれ、新人君

先日、今上天皇陛下の祝賀御列の儀がありました。即位礼正殿の儀のときとはうってかわっての晴天で本当によかったと思います。それにしても即位礼正殿の儀の日は朝から大雨。せっかくのおめでたい日だというのにお気の毒に、と思いましたが、式典が始まるころには厚い雲から薄日が差しはじめ、雨がやむと青空となり、場所によっては虹までが見られるようになったのには驚きました。

それにしても、あの即位礼正殿の儀が行われた日の天候の変化は、以前の記事(「令和に思う」)にも書いたような「草薙剣」のいわれを地で行くようなものだったともいえます。つまり、厚い雨雲から出でる水神でもあるヤマタノオロチ。スサノオノミコトはこのオロチを退治するためにオロチに酒を飲ませて切りつけますが、彼が手にしていた十挙剣はオロチの尾の草薙剣にあたって刃こぼれをおこします。

死闘の末にスサノオはオロチを撃ち取り、その体を切り刻むとオロチの尾からは草薙剣がでてきました。すると、空一面をおおっていた厚い雲は切れ、一条の太陽の光が暗かった大地を照らし、ふたたび静かで平和な世の中が戻って来た、というものです。どうでしょう。あの即位礼正殿の儀の日の天候の劇的な変化に、なにか神がかり的なものを感じませんか。皇室の行事ではこうした奇跡がこれまでなんどもありました。

天皇陛下のお仕事は「日本の五穀豊穣と安寧、および国民の幸福と安全を祈ること」です。即位礼正殿の儀で今上陛下が宣明された「国民の幸せと、世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら国民の象徴としての務めをはたす」という誓いは、古来から営々と天皇が繰り返してこられたものです。それは14日からとりおこなわれる大嘗祭が、天皇の役割を天照大神から今上陛下が引き継ぐ祭祀であることからもわかります。

 

***** 以下、「令和に思う」からの引用

草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをご存知でしょうか。草薙剣はヤマタノオロチを退治したときにその尾から出てきたと伝えられる剣です。この剣を御霊代として祀っているのが熱田神社です。これまでなんどか盗まれそうになりながら、いつも不思議と無事に戻ってきました。しかし、壇ノ浦の戦いのとき、入水された安徳天皇と共に海に落ちて回収できなくなりました。そこでのちになって魂を入れなおして新たな草薙剣としたものが今三種の神器のひとつとして伝えられました。

草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。ヤマタノオロチは雲から出でる怪獣であり、オロチ(大蛇)のいるところに雲がわくといわれています。ですから、今回、式典で草薙剣が供えられたとき、天気が悪い(雲が出現する)のは理にかなっているというわけです。つまりは吉辰良日の兆候ということ。そういえば、昭和天皇から明仁天皇に皇位が継承されたときも雨が降っていました。こうしたことに神話の世界と今をつなぐ不思議な因果を感じ取ることができます。

***** 以上

 

日本は西暦とは異なる元号を用いており、その時代時代を象徴するイメージを容易にもつことができます。元号など無用の長物だという人もいます。しかし、一連の皇室行事を通じて感じるのは、日本古来から伝わる文化を残すことで日本人としての意識をあらためて確認できるということです。そうすることにより、世界にも類を見ない日本の伝統や文化を維持・発展できるのではないかと思います。

史上はじめて日本の古典である万葉集から採用された「令和」という元号。いったいどのような時代になるのでしょうか。日本をとりまく国際情勢、あるいは国内でのさまざまな軋轢や摩擦は、ともすると日本の誇るべき「仁・義・礼・智・信」の精神をそこなうきっかけにもなりそうで心配です。令和という元号の文字の意味にもあるように「清々しく調和のとれた時代」となればいいのですが。

そんな「令和」の時代に社会人となった人たちが、来院する製薬会社のMRさんにも、あるいは患者さんにもたくさんいます。そうした人たちにはいつも「社会人になって半年。そろそろ疲れていないかな?」と声をかけてみます。社会に出て間もないころは、まだ右も左もわからずにただ仕事をこなすのが精いっぱい。戸惑いながらも無我夢中で働いてきたであろう彼らの中にもなにかの変化が起こっています。

がむしゃらの半年がすぎ、ある程度冷静に周囲を見渡せるようになると、心にも余裕がでてくる反面、会社や仕事の嫌なところが見えてきます。必死だった仕事にも、あるいはそりの合わない先輩や上司にも多少疲れてきて、そろそろ「この仕事(会社)を辞めたい」と思い始める人がでて来る頃です。現に私もそうでしたから。「このままでいいのだろうか」というあせりが襲ってくるのです。

社会人となって半年を経た人たちに私は「そろそろ会社をやめたくなったんじゃない?」と尋ねてみます。すると、「そんなことはありません」ときっぱり答える人よりも、肯定したそうな表情で苦笑いする人の方が圧倒的に多いことに気が付きます。しかし、私はそうした人たちにこういいます。「だからといってすぐに会社を辞めちゃだめだよ」と。これは気休めで言っているのではありません。

その会社(仕事)を辞めたって、他の会社に移ったって、別の仕事に就いたって、結局は同じような状況にぶつかるからです。私は彼らにこう付け加えることも忘れません。「ひとつの場所で頑張れない人間は、よそに行っても頑張れないんだからね」と。他の会社に行けば、あるいは別の仕事をすれば、不満や嫌気から解放されて、自分にふさわしい理想的ななにかに巡り会えるなんてことは稀有なのですから。

最近は「頑張らない」ことが当たり前のようになってきました。「頑張らなくていい」という言葉が人の優しさを表現しているかようです。しかし、そうではありません。「頑張らなくていい」のは心の病気の人。頑張れないからこそ病気になった人がそもそも頑張れるはずがないのですから。頑張るべき人にも「頑張らなくてもいい」と声をかける人がいますがそれは違うと思います。

私は会社(仕事)を辞めたいと思っている新人君たちに、「すぐに辞めちゃだめだよ。辞めることはいつでもできる。そのときまで頑張れるだけ頑張るんだ。そうした頑張りが次の仕事にもつながるんだから。頑張って、頑張って、頑張って、ボロボロになったときに躊躇することなく辞めればいい。私の若いころとは違って、今は転職することのハードルは決して高くないんだからね」と言います。

私たちの時代は、同じ会社に退職まで勤めあげることが当たり前で、途中で他の会社や仕事に移る人はまるで負け犬か何かのように思われました。しかし、今は違います。多くの人にとって働くことは「自分のスキルアップのため」であり、自分のスキルにあわせて転職をすることを後ろめたいと思う必要はなくなりました。途中退社、中途採用であること自体が不利な条件ではなくなったのです。

今は食べていくだけならどんな仕事にもありつけます。より好みさえしなければ仕事は必ず見つかるのです。だからでしょうか、すぐに会社(仕事)を辞めてしまう人が少なくありません。しかし、問題は「働くことの意味」なのです。働くことの必要条件を「食べていけること」とすれば、給料が高いこと、楽しかったり、働き甲斐を感じることなどは十分条件。その必要十分条件をそろえるためには努力が必要です。

理想的な仕事などなかなか見つかるものじゃありません。だから私はあえて言いたいのです。「そんなに簡単に仕事を辞めちゃダメだよ」と。若いころの私は「気に入らない仕事を我慢してやることになんの意味があるのか」と考えていました。医学部の再受験をするため、他の友人たちが皆就職する中、ひとりだけ塾の講師をしながら受験勉強をしていた私ならではの強がりだったのかもしれません。

当時の思いがそのままセリフとなったドラマがありました。そのドラマはNHKで放映された「シャツの店」です。家庭や家族を省みず、仕事一筋に生きてきたシャツ職人にその妻と息子が反旗を翻すというもの。そのドラマの中で、家出をした息子と父親とのやり取りがとても印象的でした。大学卒業をまじかにした息子は会社に勤めず世界を放浪するといいます。それを聞いた職人の父が説教をするシーンです。

 

********** 以下、ドラマのワンシーン

(待ち合わせた川べりの喫茶店。父と息子が向き合って座っている)

父親:働かないでどうやって食べていく?

息子:働かないなんていってません。

決まった会社には入らないと言ったんです。

父親:それで?

息子:金をためて、しばらく世界を歩いてみようって。

特別変わったことじゃないです。

いい会社入った先輩で、1,2年で辞めてそういうことする人一杯いるし。

父親:そんなぐうたらな仲間に入ってどうするっ。

息子:勤めてりゃ満足?

ネクタイ締めて、とりあえずひとつんとこ勤めてりゃいいんですか?

父親:まぁ、そうだ。

息子:むちゃくちゃじゃないっ。

父親:若い時はなぁ、ひとつの仕事を我慢しても続けてみるもんだ。

息子:どうして?

父親:自分がどんな人間かわかってくる。

息子:わかってるつもりだけどな・・・。

父親:わかってるもんかっ。

人間ってものはな、嫌でたまらない仕事を我慢して続けたりして、だんだんに自分が

わかってくる。

我慢しているうちに、だんだん自分がしたいことがわかってくる。

だいたい仕事なんてものは、すぐに辞めては本当のところなどわかるものじゃない。

どんな仕事だって奥行きが深いもんだ。

息子:そりゃ父さん、自分の仕事で考えているんだよ。

だいたいの仕事は奥行きなんてないさ。

ひと月も勤めればわかる。

父親:生意気なことを言うなっ!

息子:むしろ褒めてもらいたいけどな。

人の目を気にしていい会社を狙うより、ずっと健康的なんじゃない?

父親:ふわふわ世界を歩いてなにがわかる?

息子:そんなの会社に勤めたって同じじゃない。

せいぜい人当たりがよくなって、処世術を覚えるくらいで。

父親:高をくくるなっ!

息子:だったら俺の計画にも高をくくるなよっ!

*********** 以上

 

この息子を演じたのは私と同じ年齢の佐藤浩市でした。ドラマのなかの彼も大学を卒業後、塾の講師をして資金をため、世界放浪の旅を計画していると言い出します。このドラマを見ていた当時の私は、この息子に自分自身を重ねていたように思います。私の父もまたこの鶴田浩二が演じる父親と似ていて頑固一徹でしたから、なおさらこのシーンに共感できたのではないでしょうか。

そして今、このドラマの父親と同じ世代となった私は、息子の気持ちというよりも父親の気持ちに共感するようになりました。だからこそ若い人たちに「すぐに辞めちゃだめだよ。どこにいっても同じ壁にぶちあたるんだから。別の会社に行っても、結局は『どこの会社も同じだ』って気が付くんだから」と言いたくなるのです。これは私の半生を振り返っての感想でもあります。

要するに私が若い人たちに言いたいことは、「会社(仕事)を辞めることは悪いことじゃない。いつ辞めてもいい。でも、だからこそ、それまでは今の自分がぶち当たっている壁に立ち向かって、その壁を乗り越える努力をしてごらん。そして、どうしても乗り越えられないことがわかったら、そのときにこそすっぱり辞めればいいんだから」ということ。壁を乗り越えようとする努力は必ずあとで役に立つのです。

誰かに相談することもできず、ひとり悶々と悩み、そして試行錯誤しながらもがいていたあの頃に戻ってみたいと思うときがあります。今度はうまく切り抜けられそうに思えるからです。しかし、現実にはあの頃に戻れるはずがありません。であるなら、自分の経験を伝えることで若い人たちが困難を乗り越えるお手伝いができるかもしれない。それが私たちの世代の役割なのではないかと思っています。

最後にこれからの人たちに贈る応援歌を二曲。これは私が北大の医療問題研究会というサークルで活動していたとき、追い出しコンパ(卒業生を送り出す会)で、先輩たちへの応援歌としてよくかけられていた歌です。ひとつは岡村孝子の「夢をあきらめないで」で、もうひとつは松山千春の「大空と大地の中で」。名曲はいつ聞いても勇気を与えてくれます。若い人達にも是非このエネルギーを感じとってほしいものです。

※ UVERworldの「I LOVE THE WORLD」も若い人たちへの応援歌歌詞がすばらしい)

                  がんばれ!

 

ある医学生の日常

この記事は平成29年12月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを投稿し直します。以下、その記事です。

 

早いものであと20日もすると平成29年が終わります。年があければいよいよ受験シーズンも本番です。このシーズンになるといつも思い出すのが医師国家試験の勉強をしていた医学部6年生のときのこと。このころのプレッシャーと言ったらそれまでの高校・大学の入学試験の受験勉強の比ではないくらい。なにせ医学部を卒業しても国家試験に合格しなければその6年間がまったく意味がなくなるのですから。「猿は木から落ちても猿だが、医学生は国試(医師国家試験)に落ちたらただの人以下」といわれるゆえんです。

以前のブログでも書きましたが、私たちが医学生のころは2年間の教養学部での時代を経て医学部での4年間の専門教育を受けていました。そして、一年半の基礎医学の講義と実習を終えて4年生の後半から臨床医学の講義がはじまるとやがて内科や外科、小児科や産婦人科とった臨床医学の実習へと移行していきます。6年生になるとほとんどが実習となって、秋にはすべての講義・実習が終わって卒業試験。その試験が終わればあとは国家試験に向けて各自の自習期間に突入します。

私は他の同級生に比べて国家試験の勉強が遅れていましたから、自室の机の上に山積みになった問題集や医学書、そして、勉強ノートがプレッシャーを否応なしに高めていました。授業で配られたプリントや卒業試験の過去問など、ついこの間までやっていた卒業試験の勉強の痕跡を残したまま、今度はすべての基礎医学・臨床医学の領域を問う膨大な試験範囲の国家試験の勉強です。人によってはグループを作って勉強会形式で勉強する人もいましたが私はすっかりマイペースでした。

そうした受験勉強本番を迎えるまで、私は比較的のんびりした毎日を過ごしていました。それは大学での授業といえば、そのほとんどの時間が実習に充てられていたからです。もちろん実習をまじめに出ていればそれなりに忙しいのですが、「さぼれる」ことをいいことに大学をさぼって銭湯に行ったり、自室でごろごろして本(しかも医学書ではない)を読んで過ごしていた私は実に不真面目な医学生生活を満喫していたのでした。まじめな(?)学生は実習に出なくても少なくとも国試の勉強をしていました、が。

ただし、言いわけを許していただければ、「実習」とはいってもあまり「勉強にならない」ものが多かったのも事実です。科によっては、学生教育担当の先生自身が「みんな来たの?まじめなんだね」などと言うところもあって、そんなところでの実習は当然のことながら勉強にならないことが多く、「自分で勉強した方がいいや」とおのずと足が遠のいてしまっていました。もちろん「自分で勉強した方がいい」と思いながらも実際には「自分で勉強」などしないんですけど(言いわけしてもやっぱり不真面目でした)。

実習は4,5人のグループ単位で各科をまわるのですが、すでに実習にまわったグループからいろいろな情報がまわってきます。「あの科はさぼってもぜんぜん大丈夫」「さぼるとやばい。必ず早めに集合」などと、行きかう情報に下々の学生は左右されていました。もちろん、優秀な学生やまじめな学生はそんな情報とはまったく無縁です。私の学生グループには「6年間の成績で優でなかった科目が数個」という才媛の女学生がいました。もちろん彼女はすべての実習にも全力投球でさぼるなんて発想はありませんでした。

彼女は臨床講義での板書をしっかりノートにとり、自宅で完璧なノートを作ってくるという驚異的かつ模範的な学生でした。そのノートは医学書にも勝るとも劣らない完ぺきなもの。眼科の実習のときなどは、教育担当の先生がそのノートをのぞき込んで「そのコピーくれない?」と頼み込んだほどです。?そのノートをもちこんでの実習はさぞかし勉強になっただろうと思いますが、「さぼれる実習はさぼる」というスタンスの下々の学生にはとって実習はほとんど無味乾燥に思えるのでした。

実習では、その診療科での基本的な診察の手技を学ぶとともに、代表的疾患で入院している患者を担当し、医師として必要な態度と知識を身に付けていくのです。実習の最後にレポートをまとめて提出。講評をもらって次の科にまわるということを繰り返します。あるときその同じグループの才媛女子学生が返却されたレポートを読み返して落ち込んでいました。「どうして私ってこうもだめなんだろ」と愚痴をこぼしているのです。才媛が自分のレポートを見てため息をついているのを私は遠めに見ていました。

てっきり私は「レポートの出来でも悪かったのかな」と思っていたのですが、実は彼女が落胆していたのは「満点じゃなかった」ということに落胆していたのです。私などは合格していればいいやぐらいにしか思っていなかったので、凡人には理解できない秀才の悔しさってものがあるんだとそのとき思いました。当然のことながら私には慰めようもないのですが、彼女のような秀才たちのすごいところは失敗や不出来にくじけず、かえってそれをバネにさらに努力するというところ。さすがです。

そんな私でも実習にインスパイヤされたときもありました。それは消化器外科の実習のとき。私達学生はまだ医師免許をもっていませんから医療行為はできません。でも、外科の実習の時は術衣を着て、手術帽をかぶり、マスクと手袋をつけて手術に立ち会います。手術は高度な清潔を保たなければならないため、手洗いの方法も、また、術衣の着方、手袋の付け方にも手順が決められています。医学生とはいえ、それまで手術室にすら入ったことがないので、すべてが新鮮で刺激的な経験でした。

手術がはじまると先生は腹部を消毒。メスを握った助教授が皮膚や臓器を手際よくさばいて病巣に到達します。術衣は思ったよりも厚く、また重いものです。おまけに帽子をかぶって手袋とマスクをつけての手術は暑くて苦しくて想像以上に重労働でした。手術の操作が一段落すると、助教授が私に「これをもってて」と術創を広げるための拘(こう)というものを渡しました。これなら学生が担当しても患者の不利益にはならなりません。私は緊張しながらその拘持ちの手伝いをしました。

先生は「ちょっと拘を緩めて。はい、ひっぱって」と私に指示を出します。私はその指示の出るタイミングをはかりながら先を読んで拘を操作しました。手術が無事終わると助教授が私にいいました。「君はセンスがいいね。とてもやりやすかったよ」と。私はなんだかとてもうれしくなって、外科系の実習には積極的に出席するようになっていました。今思うと、その先生はとても教育熱心な先生でしたから、学生のモチベーションを高めるのが上手だったんだと思います。ダメ学生にはなによりうれしい言葉でだったのでした。

内科の実習ではこういうこともありました。とある内科疾患の患者を担当して、その患者の病気のことを詳細に調べ、患者に詳細な問診をして身体所見をとらせてもらいました。そして、実際の検査所見をカルテから抜き出して今後の治療方針を考えて、それらをレポートにまとめました。その内容を教授に報告して講評を受けたとき、私が何気なく使った「再燃」という言葉を教授をとてもほめてくれました。「現在の患者の病態を表現するのに『再燃』という言葉はぴったりだね」と。教育はほめること、ですね。

教育担当の講師の先生に「君は問診のとり方が上手」と言われたこともありました。「眼底鏡の使い方がうまい」といわたり、ほめられるたびに眼科に行こうか、内科に進もうか、それとも外科にしようかと迷っていました。実習を通じて自分の適性や興味を確認することもこの時期の重要な要素なのです。もちろん学生のときに描いていたものとのギャップに気が付くときもあります。学生によっては臨床医には自分は向いていないことに気が付く者も、医学部に来てしまったこと自体に後悔する者もいます。

実習でどんなことに気が付くにせよ、目の前に突き付けられた「国家試験」には合格しなければなりません。最近の医学生は医学部を卒業しても医師という職業を選ばない人もいます。少しづつ増えているのは医学部を出てマスコミに就職する学生です。彼らは医学部での専門的知識を素人にもわかりやすく解説する科学専門職の記者として働きます。それでも医師国家試験の合格は必須です。それは医学部を卒業しただけでは医学士として認められないということでもあります。

さぼれる実習はさぼっていた怠惰な医学生だった私も、さすがに「国師浪人」になることはとても恐ろしいことでした。何年も浪人して結局大学に入れなかった受験生とは異質な恐怖心を医学生はもちます。平均合格率が90%前後と言うことも恐怖心をさらに大きくします。合格率90%ということは「合格間違いなし」という安心感ではなく、「みんなが合格する中自分だけ落ちたらどうしよう」という恐怖感があたまの中をいつもよぎるのです。この恐ろしさは当事者でないとわからないかもしれませんけど。

このときの気持ちは今もときどき夢となってよみがえってきます。臨床講堂で授業を聴いている夢の中の私は周囲の同級生が国試の勉強を順調にこなす中なにも準備ができていません。膨大な試験範囲を前に、「どうしよう。もうすぐ国試なのになにもやってない。このままじゃ合格はおぼつかない。来年、下の学年の連中といっしょにまた受験するなんて」と暗澹たる気持ちになるのです。そんな焦る気持ちで目が覚めることがときどきあります。現実世界でなにか心配事があると、いつもそういった夢を見ます。

今考えると、医学生はものすごい量の勉強をしています。私もそれを乗り越えてきたわけですが、もう一度それをやれるかといえばきっとできないと思います。だいいちにもう一度やりたくもありません。日進月歩の現代にあって、今の医学生はそれ以上に大変かもしれません。昔の牧歌的な医学生の生活なんて今はまるで夢みたいでしょうし。そんな牧歌的な生活だからこそ今の私は懐かしく振り返られるのかもしれません。もともと怠惰な私。五十路もなかばとなり、ふたたび牧歌的な生活をおくりたいと思う今日この頃です。

子育てはむずかしい

農林水産事務次官にまで登りつめた人が、自分の子どもを手にかけるという悲しい事件がありました。44歳にもなる子どもが、親のお金で毎日ゲームに明け暮れる姿をエリート官僚だった父親はどんな思いで見ていたのでしょうか。親に命を奪われた息子は「俺の人生は何なんだ」と叫びながらたびたび親に暴力を振るっていたとも報道されています。その真偽はともかく、この事件はひとりの人間を産み、育てていくことの難しさを象徴する出来事であり、子育て中の親の端くれでもある私もいろいろと考えさせられました。

折しも、今、長男といろいろ話しをする機会が増えました。以前にも触れたように、長男は第一志望の高校に落ち、今、第二志望だった高校に通っています。幸い、その高校にも慣れ、それなりにいい成績をおさめて出だしは順調に見えます。しかし、入学した当初のモチベーションが少しづつ下がってきて、最近では彼なりに不本意な毎日に苛立っている様子。抜け出したいけど抜け出せない。いわゆる「スランプ」って奴です。スランプがあるだけ好調な証拠だと思うのですが当の本人はそれが納得できないようです。

私が高校生だったころは、入学した当初から「どスランプ」におちいり、毎日、学校ではもちろん、自宅に帰ってからもなにか抜け殻のようになってすべてのことに関心がなくなっていました。ですから、高校生当時のことはほとんど記憶がないのです。ただ、校舎の三階にある教室の窓から見える桜吹雪をボーっとながめながら、この窓から飛び降りたら親は悲しむだろうか、などと考えていたことぐらいしか覚えていません。でも、頑張っている息子が「スランプ」になって感じている「あせり」ぐらいは理解できます。

「今日、学校休むわ」と眠そうな顔で起きてきたことがあります。自分の経験からいって、どうしても現実から逃避するしかないと感じたときは、エネルギーをチャージするためにも積極的に休むべきだと思っています。私は「ああ、そうした方がいいかもね」と答えましたが、「だからといって寝てばかりじゃだめだよ。現状から脱するためにいろいろともがいてみなきゃいけないよ」と付け加えることも忘れませんでした。「わかってるよ」と返す息子。私の言いたいことが彼に伝わっていることを信じて出勤しました。

同じ兄弟でもなかなか自分の気持ちを表現しない次男と違って、長男は感情がすぐに表情と態度に出ます。イライラするとそれを言葉にしてはきだします。そのイラつきの原因がわかっているだけに親としてどう接すればいいのか迷うことがあります。でも、繰り返し言うのは、「周囲の人を不快にするような言葉を吐くのはよくない。もう少し感情をコントロールする訓練をしなさい」ということ。外でのイライラを家庭によく持ち込んでいた父親を見てきたこともあり、息子にはそんな大人になってほしくないのです。

彼が学校にいくとき、ちょうど私もクリニックに出勤する時間です。私は車に息子を乗せて駅まで送っていきます。駅まではほんの数分間です。あるとき車の中の息子は「俺はなんてダメな奴なんだ」とポツリとこぼしました。この言葉に彼なりにスランプから抜け出そうともがいている様子が手に取るようにわかります。「おまえはそういうけど、俺の高校時代に比べればずいぶんマシだと思うけどなあ」。私が高校生の時と比較しても、息子にはなんの慰めにもならないことはわかっていますがついそんな言葉が出てしまいました。

事実、私のときと比べればはるかにましな高校時代を息子は送っています。当時の私は、勉強をする意欲も、将来の目標も、すっかりしぼんでしまい、何をどうすればいいのかもわからないままただ無駄に時間を過ごしていただけですから。しかし、息子は「父ちゃんは頭がいいからそれでもよかったんだよ」と言いました。そのときの息子の口調は、なにやら本気で言っている様子です。私は「そんなことあるか。頭がよかったんじゃなくて、もがき続けたからなんだぞ」と返すのが精一杯でした。

息子は私を成功者のように見ているようでした。でも、勉強にはおよそ縁遠い小学校時代を過ごし、いろいろな人たちの刺激を受けながらなんとか落ちこぼれずに済んだ中学生の頃。失意のまま二年間を無為に過ごした高校時代をなんとか挽回したものの医者になることを一度はあきらめてしまいました。しかし、運命的な出会いと偶然が重なって医者になるという自分の夢を実現した私の半生を息子はきっと私の自慢話しとしてとらえているのだろうか。私の真意を息子にもう一度伝えなおさなければならないと思いました。

私は彼と話しをすることにしました。私は息子に成功体験を伝えたかったのではなく、失敗続きだった私の半生を踏み台にして息子自身の人生を切り開いていってほしかったのです。今の息子にしてみれば、私がなにをいっても自慢話し、あるいは説教臭い話しにしか聞こえないかもしれません。しかし、スランプの真っただ中にいる息子が、私と話すことによってなんらかの解決の糸口を見つけ、これからの指針を見出すことができればいいと思ったのです。彼にとって余計なお世話かなとも思いましたけど。

風呂に入ろうとする息子に私は声をかけました。「話しがあるから、風呂からでたら声をかけてくれ」。息子は少し驚いたようですが「ああ」と答えました。私はベットに横になりながら、なにをどう話しだそうかと考えていました。しかし、考えれば考えるほど話しがまとまりません。おまけに自分がいいたいことがなかなか伝わらないように思えたのです。こうしたことはいつものことなのですが、それでも彼を前にしてあたまに浮かんだことを、できるだけ彼に伝わる言葉で話してみよう。そう思いました。

 

*********以下、息子に話したこと

俺の親父、つまり、君たちの爺さんは職業人としては素晴らしい人だったと思うけど、家庭人としてはほめられるような父親じゃなかったんだ。いつも不機嫌で、自分勝手な人だったから思い出せば嫌な思い出ばかりが浮かんでくる。だから、俺は父親として君たちには同じような思いをさせたくないとずっと思ってきたんだ。その意味で、俺にとっての親父は「半面教師」だったんだろうな。でもね、あの親父が反面教師でよかったって思うこともあるよ。だからこそ気づけたことがたくさんあったし。

君は俺の悪いところが似てしまって、「0(ゼロ)か100か」で考えるところがある。「すぐに決めつける」ってところも俺に似てしまったのかも。高校生のときの、16歳の俺は、入学したとたんに高校に抱いてしまった失望感や怒りを学校や同級生にぶつけていたと思うんだ。でも、高校や同級生にはなんの関係もないんだよね。自分がうまくいかないことを人のせいにしていただけ。自分ではなにも努力をしないわがままな甘ったれだったんだ。すぐに良し悪しで決めつけて、自分はどうかなんてことまったく考えなかったからね。

まわりを決めつけて、自分でアクションをとらなければなにも変わるはずがない。それにようやく気が付いたのが高校3年のとき。ほら、ドイツ語を捨てて英語で大学を受験しようと決意したときの話しをしたでしょ。あのときようやく自分でアクションをとることの重要性に気が付いたんだと思う。ずいぶんと時間がかかってしまって、無駄な2年間を過ごしてしまったけれど、あのときの気づきがなかったら今の俺はいないからね。その俺の経験を参考にして君にも気が付いてほしい。目覚めてほしいんだよ。

ほら、元農林水産事務次官が44歳の息子を刺し殺してしまった事件があったでしょ。その殺されてしまった息子は「俺の人生は何だったんだ」と喚き散らして親に暴力振るっていたって報道されていたよね。44歳にもなってあんなセリフを吐くのは、まさしく「なにも自分でアクションをとらなかったことを棚にあげて、うまくいかない自分を親のせいだと決めつけて逆恨みしている」ってことでしょ。44歳になるまでに彼はそうしたことに気が付くべきだった。人生は「0か100かじゃない」ってことに。

殺されてしまったあの息子には「一流高校を、そして東京大学を卒業してエリートとして生きる」って価値観しかなかったんだろうな。親もまたそうだったんだろう。だから、自分の父親のような人生を歩めないと知ったときにすべての価値観が崩壊してしまった。あとはその挫折感、屈辱感、くやしさ、あせりを、人のせいにして現実から逃げ回っていたのだろう。その意味で、彼は「0か100かの価値観」あるいは「決めつける価値観」のせいで自滅していった。「理想的」な父親をもつ子どもの悲劇なんだろうな。

「理想」って完全に相対的なものだよ。その形も、大きさも、人によって全然違うんだから。「東大を出て、エリートとして生きること」を理想と感じる人もいるだろう。あるいは、仕事はあくまでもお金を得るためだけのもので、そのお金でゲームに没頭する人生を理想とする人もいる。家族団らんの家庭で生活することが何よりの理想って人もいるし、ひとりでは使い切れないほどの大金を手に入れる人生が理想だと感じる人もいる。理想的な生き方はさまざまで、良し悪しなんてない。人それぞれだからね。

幸せって空から降ってくる雪みたいなものなんだよ。降って来た雪はつかんだ途端に消えていく。幸せって「手に入れられるもの」じゃないんだよ。だからといって幸せは儚く(はかなく)て虚しいものじゃないよ。雪は次々とまた空から降ってくるからね。次から次と降ってくる雪を追いかけ、追いかけてはひとひらの雪をつかもうと手を伸ばす。追いかけていた時のワクワク感や、捕まえたときの充実感がまた次の雪を追う原動力になる。その総体がいわゆる「幸福な人生」ってことじゃないかって思うんだ。

殺されてしまった息子は、父親のような人生を送れないと気が付いたときに別の道を探せばよかったんだよ。別の道を選んでも決して人生の敗者なんかじゃないし。そもそも父親の人生は父親しかたどれないんだもの。父親にとってはいい半生だったかもしれないが、その子供にとってはなんの関係のないもの。もちろん、別の道に進んだからといってうまくいくとは限らないよ。でも、たとえそうだとしても、自ら手を伸ばして自分だけの一片の雪を追っていかなければいけなかったんだよ。

他の人がどんな人生を歩もうが君には関係ないし、君がどんな人生を歩もうと他人には関係ない。もちろんどちらがいい人生かなんて問題じゃないからね。そうではなくて、自分自身がどのくらい充実感が得られるかって問題でしょ。どうやって「自分だけの勲章」をつけて胸を張って生きていけるか、なんだと思う。親は子どもが頑張っている姿をみることがいちばんうれしい。でも、その一方で、「子どものため」といいながら、実は自分の勲章を子どもを使って得ようとやっきな親がいる。とんだ勘違いだよね。

そんなことに気づくのにずいぶん時間が経ってしまったけど、幸いにも気づけたのはいろいろな失敗から逃げずに乗り越えようとしてきたからだと思うんだ。その俺の経験を君に知ってもらいたいんだよ。そして、一刻も早く、「0か100かの価値観」「決めつける価値観」から脱してほしいんだよ。目標を掲げ、その目標に向かって努力を重ねることは尊いこと。でも、その結果がいいものであれ、悪いものであれ、それは受け入れなければならない。大切なのは、次にどこを目指すのか、どう努力を重ねていくかってことだよ。

なんども言うように、ひとつの結果がすべてじゃない。第一志望の学校に入学できたとして、その喜びは手に入れたとたんに消えてしまう。次の目標に向かって手を伸ばさなきゃ。うまくいかなかったときもまた同じ。うまくいかなくても次にどうするかが重要なんだよ。もし俺が高校に失望したままでいたら、医学部にはいけないんだと決めつけていたら今の俺はなかったんだよ。どんな結果であれ、次の目標に向けてもがいているうちに道が見つかってくるものだということを俺の経験から学んでほしいんだよ。

自分の夢を現実のものにできれば素晴らしい。でもそれがすべてじゃない。次の目標に向けて努力を重ねることが大切なんだよ。結果として昔抱いていた夢とは違う現実になっていることだってあるよ。でも、ひとつひとつの成功体験、あるいは失敗を経ていくうちに自分らしい生き方になっていくんだ。後ろめたいことじゃない。俺がいいたいことは、俺の体験は自慢話しとしてではなく、失敗談として聞いてほしいってことなんだよ。つまり、俺は「反面教師」ってこと。身近に反面教師がいるってありがたいことだよ。

************** 以上

 

長々とくどい話しだと思いましたが、意外にも息子はじっと聞いていました。途中、眠そうにしたらやめようと思っていましたが、そうした様子はまったく感じられませんでした。そして、高校3年生から浪人の頃までに、立ち直った自分がどんな勉強をしていたかを息子にアドバイスしました。高校も2年になるとだんだん各教科の内容が複雑・高度になって、高校受験での経験が活かせるようなレベルではなくなってくるのです。とはいえ、勉強をしていなければスランプにはなりません。息子はその壁に直面しているのです。

家内は「学歴や職業なんてどうでもいい。どんな形であれちゃんと生活していける人になってほしい」といいます。でも、私はいいました。「それは一番の理想的な生き方なんだと思う。ほとんどの人はそんな理想的な生活ができない。だからこそ学歴に頼ったり、社会的地位を得ようとしたりするんだよ」と。学歴や社会的地位などは生きる上での道具にしかすぎないのです。もっとも尊い生き方というのは、そうした肩書とは関係のない、与えられた自分のポジションで「やり切った感」をもって生きることなんだと思います。

いろいろと偉そうなことを書き連ねましたが、辛い状況にある今の長男がこれからどのように立ち直っていくのか、これからもしっかり見守っていこうと思います。確かに子育てはむずかしいです。でも、その一方で楽しいものでもあります。思い通りに子どもは育たないものですが、それでも一人前の大人になっていく子どもの変化は見ていて楽しいものです(自分から離れていくようで寂しい気持ちもしますけど)。いつの日か、息子が自分の生き方に誇りをもって生活する大人になる日がくるのを夢見ながら。

常々、子育ては「させてもらっているもの」だと思います。親のために子どもがあるのではなく、子どものために親がいるのです。子どもの虐待をする親は、そうした意識に欠けていて、子どもを自分のおもちゃのように思っているのかもしれません。子ども達を立派な社会人にすることは子育てを「させてもらったお礼」。息子たちには、私たち親には構わず、一番自分にふさわしいと思う生き方をしてほしいです。もし、子どもたちがそうした生き方をするようになったら、私の子育てはうまくいったということなのでしょう。

最後に、自分の将来に不安を感じていた高校生の頃によく口ずさんでいたTVドラマ「水戸黄門」のテーマ曲をご紹介します。息子にもこの歌を教えてやりました。平成生まれの彼の心には響かないかもしれませんが。「なんにもしないで生きるより、なにかを求めて生きようよ」ってところが好きです。

あともうひとつ。山下達郎の「希望という名の光」という歌。山下達郎の歌はやはり歌詞が素晴らしいです。「運命に負けないで。たった一度だけの人生を、何度でも起き上がって、立ち向かえる力を贈ろう」という歌詞がグッときます。子どもたちへの応援歌のようでいつ聴いても感動します。

 

 

 

 

 

 

「裏口」のウラ

東京医科大学でおこなわれた「裏口入学」のことが話題になっています。昭和40年代に医師不足を解消するために医科大学や医学部が次々に新設されたころ、こうした私立医大の「裏口入学」の問題は「入試での総得点が30点でも合格」などという見出しで新聞報道されるほどに社会問題化した出来事でした。そのころをよく知っている私からすれば、この「裏口入学」は昭和という時代の香りがする懐かしい話題です。

私が高校生のころ、何人かの同級生が当時の新設された医学部や医大に入学しました。彼らからは、入試のとき面接官に「君の成績だとこのぐらい(の金額)になる」と指で寄付金の額を提示されたとか、「君のお父さんの収入で六年間学費を払うことができるかな?」と言われたという話しを聞かされましたが、当時は、私立なんてそんなものだろうと思っていましたから特段驚きはしませんでした。

あの頃の受験票には堂々と「本学を卒業した家族や知人の名前と卒業年度」を書く欄があったりしましたし、「どこどこ大学は同窓生の子弟を優先的に合格させる」なんて噂も広まっていました。医学部受験専門の予備校に裏口入学のブローカーがいるなんてこともまことしやかに言われていて、現に開業医の親を持つ同級生がそこに通って私立医大に合格していました。昭和ってそういう時代でした。

でも、なんとなく「まだあんなことがあるんだろうな」とは思っていたことが、平成になった今もなかば公然とおこなわれていると聞きいて「まさか?ほんと?」って感じがします。しかし、よくよく考えてみると、二次試験の面接などというあいまいな制度はこうした合格操作をおこなう温床にもなるわけで、どこの私立大学でも密かにおこなわれていても不思議ではないのかもしれません

最近の「女子受験生の合格調整」の話しだってずいぶん前から噂されていたことです。とある大学では、きっちり成績順に合格者を決めてしまうと女子学生が全体の六割を超えてしまうとのこと。そもそも女子学生は外科系に進む者が少ないので、外科系の診療科によってはこれは死活問題です。入局者が少なければ関連病院にも医者を派遣できませんし、そうなると地域医療を維持することも難しくなるのです。

だからこそ男子学生に加点して合格者の調整をするのです。こうした事情は医者であれば誰でもがうすうす気が付いていたことです。東京医大で「合格調整」がおこなわれていると聞いてもとくに驚きませんでしたし、だからこそ女医もふくめて多くの医者がこうした事情を「やむを得ないもの」として理解を示しているのです。ましてや、女性蔑視とか差別の問題だと考えている医者はおそらく少数派です。

私個人は、私立大学なのだからある程度のこうした合格者の調整がおこなわれてもいいと思っています。あのハーバード大学でさえも有力者や大金持ちの子弟が優先されていることは有名です。アメリカは完全な私立大学であり、日本のように私立大学にも税金が投入されているケースと同列には語れないと思いますが、それでもプライベートスクールにはそれぞれの特別な事情があっても仕方ありません。

今回の東京医科大学の問題は、文科省の補助金との引き換えでおこなわれた「不正」であり、逸脱した不透明な「不正」であったことが問題なのです。むしろ、「この金額の寄付金を支払えば何点加算」だとか、「有力者の子弟を優先させて合格させる枠は何名」だとか、「男子何名、女子何名をそれぞれ募集」いうように、合格の基準を明確に公開すればいいだけの話しだと思います。

ただし、学力以外の要素を重視して入学者を増やせば、求められる学力を満たさない学生も多くなります。そうなれば大学の質を維持することもまた難しくなるという問題も生じます。とくに医学部は入学後の学習意欲がものをいうため、学力の低下は大学の質の低下に直結します。つまり、在学中の試験や実習、あるいは、医師国家試験での落伍者を大学は覚悟しなければならないのです。

その一方で、医学部の学生の質は入学時の学力だけでは決まりません。所詮は数学や物理ができたところで優秀な医者になれるわけではないのです。これまでもブログに書いてきたように、「医者になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということと「医学部に入りたい」ということは必ずしも同列には語れません。医者になるという点においては、入学するときの学生の偏差値などはなんの関係もないのです。

今回の「裏口」に関しては「一生懸命に勉強をして医学部に入って来た学生が可哀想」という意見があります。しかし、極論をいえば、「ろくすぽ勉強もせずに医学部に合格したとしても、入学してからしっかり医学を勉強してくれればいい」のです。むしろ大学は「入試の偏差値が高い学生」よりも「入学後にしっかり学習してくれる学生」がほしいというのが正直なところかもしれません。

「親の経済力の差が不平等を生むのはけしからん」という意見も耳にします。でも、経済的に私大に行けないのであれば国立大学を選択すればいいのです。国立と私立の学費格差がときどき問題視されますが、私立にいく経済的余裕がない人のためにあるのが国立大学。その意味で、国立と私立の学費の格差を解消することはむしろ教育の平等をそこねると思います(国立大学の学費を値上げするための方便なのです)。

ある私立大学の医学部に合格すると、入学時に900万円ほどのお金がかかり、その後も毎年500万円あまりの学費がかかります。しかし、国立であればたとえ医学部であっても入学時に80万円ほどで(私のときは30万円もかかりませんでした)、その後の学費は50万円あまりと私立の十分の一です。お金がないなら国立へ。経済的に余裕があるなら私大へ。平等ってことはそういうことだと思います。

2020年度から大学入試制度が大きくかわります。「学力だけでなく、人間性や適性を考慮した入試」にするのだそうです。しかし、人間性や適性を誰が評価するのでしょう。どのように評価するのでしょう。そう考えると、公平かつ客観的に評価できないもので選別されるなんて私はごめんです。入試は学力試験の点数で選抜すべきです。そうでなければ国立でも今回のような「不正入試」の温床になります。

憧れる大学だからこそ挑戦しようと思うのです。そして、努力に努力を重ねてようやく入学できた学校だからこそ愛校心をもてるのでしょう。たとえその努力が合格という形で実を結ばなくとも、「実力が足らなかった」と納得できることが大切。にも関われず、「人間性や適性」などというあいまいでくだらない評価基準に満たなかったからという理由で合格できなかった場合、受験生は納得できるでしょうか。

文部行政はどうかしています。「ゆとり教育」で日本の教育をめちゃくちゃにして、今度は国語教育をおろそかにしておきながら英語やプログラミング的教育を小学校に導入、だそうです。ガールズバー通いを叱責された事務次官にいたっては「面従腹背」がモットーなんだそうで、天下りあっせんの責任を取らされて辞めさせられたのを逆恨みして倒閣運動、なのですから。子どもたちに道徳を教える以前の問題です。

一方で、マスコミは事実を淡々と報じるべきです。また、事実を深く掘り下げて報道するべきです。なのに、報道ときたら世の中を煽るだけの薄っぺらなものばかり。今回の「裏口入学」や「合格者調整」に関しても、どこが、どう問題なのかさっぱりわかりません。マスコミに煽られ、感情的になって「けしからん」と断罪するのではなく、社会現象の「ウラ」に隠れている本質を見ようとする目を持ちたいものです。

子どもたちへのエール

息子の高校受験が終わりました。第一志望の学校は、一次の学科試験には合格したものの二次の面接で不合格という残念な結果に終わりました。息子の学年から大学入試制度が大幅に変更されるため、考えることは皆同じで、今年は大学附属の高校が軒並み志願者を増やしました。しかも、どの学校も合格者がしぼられていました。息子が行きたかった高校も例外ではなく、志願者が増えたにもかかわらず合格者が大幅に減らされ、ボーダーラインだった(であろう)うちの息子がそのあおりを受けたということかもしれません。

第一志望の学校はダメだったとはいえ、第二志望の学校に合格できたのですから立派なものです。振り返ればいろいろありました。それまで通っていた私立の中学校をやめ、地元の公立中学に転校して本当に行きたい高校を受験するという決断をしたのが中二の夏休み直前。寮生活という慣れない環境になじめなかったのか、帰省して帰って来るたびに元気がなくなる息子のことが少し気になっていました。勉強の方もぱっとしていませんでしたし。ですから、息子の決意を聞かされたときは驚きませんでした。

息子から「学校をやめようと思うんだ」と送られてきたメールに私はなんの躊躇もなく「帰っておいで」と返事を送りました。正直にいって親として不安がなかったといえば嘘になりますが、「よくぞそこまで決心した」という誇らしい気持ちの方が強かったのです。リスクを負いながらも自分の夢を実現するために捲土重来を期す決断をしただけ成長したわけですし。私の目にはそうした息子の成長がまるで若かりしころの自分と重なるようでうれしかった。ですから、彼の決意に水を差す気持ちにはまったくなりませんでした。

そうとはいえ、彼なりに悩んだすえの決断だったのかもしれません。私は彼に「学校をやめると決めた以上は結果を残せるよう頑張りなさい」と釘を刺しました。道のりはそう楽なものではないということはわかっていました。なぜなら彼が目指した学校はそう簡単には合格できないところだったからです。もっと正確にいえば、そのときの成績ではとても合格できそうにない学校を彼は目指していたのです。しかし、当の本人は、そうした自分の現状を知ってか知らずか、重大な決断をしたわりには淡々としていました。

自宅に戻ってきた息子と私は、それ以後、まさに二人三脚ともいえるように勉強しました。それまで、春休みや夏休み、冬休みといった長期休暇を利用して学校の教科書の予習をやっていました。そのせいもあって私立中学校での数学と英語の成績はなんとかなっていました。また、前の学校では先取り授業をしていたので公立中学校の授業はまったく問題ありませんでした。しかし、高校入試のレベルということとなるとまだまだ十分ではありません。私たちは前の学校で使っていたテキストの総復習からはじめました。

心配だったのは息子の集中力でした。彼は集中力が持続しないのです。勉強中、ふと顔をのぞきこむとすぐに「あっちの世界」に行ってしまっていることがわかります。そんなとき、私はあえて強く叱ります。「そんなにやる気がないならもう教えないぞ。俺が教えなくなったらお前はもうお仕舞いだからなっ」。まるで脅し文句のような言葉を息子に吐きつけなければならないこともありました。でも息子にはこの言葉が一番こたえます。不満そうな顔をしながらではありましたが気を取りなおしたように机に向いました。

というのも息子には「前科」があるのです。それは中学受験のときのこと。彼はとある進学塾に通ってはいたものの、一番下のクラスで鳴かず飛ばずの状況が続いていました。そもそも私が息子に中学受験をさせようと思ったのは、もし結果として公立中学校に行くことになっても受験勉強で学んだことはきっと役に立つはずだと考えたからです。「なんとしても私立の中学校に」という気持ちはありませんでした。ですから、たとえ結果がどうであれ、受験勉強をするからにはしっかりやってほしかったのです。

しかし、当の息子にそのモチベーションはありませんでした。当時の彼にも「どうしても私立に」という強い気持ちもなく、「親に言われるから」やっていたのですから無理もありません。勉強には真剣さが感じられず、おまけに家内から10時には就寝するよう命じられていたのでは塾の宿題すらこなせるわけがない。結果として一番下のクラスに漂う潜水艦状態に。ついに私が息子の勉強を見ることになりました。仕事から帰ってきて簡単に夕食を済ませてから息子に勉強を教えるのです(10時就寝厳守)。

私自身、大変は大変でした。仕事で疲れて帰ってきてから家庭教師をするのですから。しかし、苦労の甲斐があって、比較的短い期間で塾でのクラスは上がっていきました。もう少しで一番いいクラスに入れそうになったとき、ついに私の堪忍袋の緒が切れてしまいました。息子が次第に勉強に手を抜くようになったからです。教わっているからこそ成績が上がっているのに、自分の実力と勘違いしたからかもしれません。いくら注意しても一向に息子の態度が変わりません。ついに私は彼の勉強から完全に手を引きました。

息子の成績はどんどん落ちていきました。それでも私は再び息子の勉強に手を貸そうとしませんでした。息子は意地を張ったように「公立中学には絶対に行かない」といいました。ところが、彼の勉強は私の目から見てもあまり実にならない非効率的なもの。ついに息子は塾の成績を上げることができないまま受験に突入しました。私は「公立に行きたくないなら、受かる学校を受験すべきだ」と助言しましたが、彼は私の助言にもいっさい耳を貸しませんでした。その結果、合格したのはたった一校。それが前の私立中学でした。

こうした中学受験のときの体験が息子の中に残っているのでしょう。なにせ中学受験が私が息子に忠告していたとおりに展開していったのですから。私には、自分が、勉強にまったく興味のなかった小学校時代からここまで這い上がってきたという自負があります。また、できない人間なりの勉強のコツも知っています。中学受験での息子の経験をふまえ、高校受験を迎える彼にまず言ったことは、「俺の言うとおりに勉強しろ」ということでした。今回の彼はその忠告にしたがって勉強をしようと努力していました。

私の指示やアドバイスにしたがって勉強を始めると、息子の成績はどんどんあがっていきました。進学塾の模擬試験もそれこそ右肩上がりでした。塾の先生も感心するほどの変化でした。学校の成績もまた同じで、三教科だけでいえば彼はいつも学年の最上位にいるほどになりました(結局は学年一位にはなれませんでしたが)。さすがに私自身が苦手な国語の読解問題を教えることはできませんでしたが、国文法や文学史などは私もいっしょに勉強するなどして、暗記させたり、問題を解かせたりしていました。

入試直前、息子が一番行きたかった高校のプレ模試がありました。彼はそこでもそれなりにいい成績をおさめました。私も息子も「もしかして合格できるかも」という自信のようなものを持ちました。そして期待感一杯で臨んだ入試。しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。一次試験の学力試験に合格して喜んだのもつかの間、二次試験の面接でみごとに振られてしまいました。期待が大きかった分、へこみ方も大きかったのですが、でも、一次合格だけでも立派なもの。ここまで頑張った息子を褒めてやりたいです。

息子は今だにあきらめがつかない様子です。もうひと息というところまでいったのですから当然かもしれません。試験の合否が確定し、塾に電話をかけて報告している息子を見て、この一年でずいぶんと成長したと思いました。希望校の不合格が確定して落胆しているだろうに、電話口で先生に「一年間お世話になりました」とお礼をいっている息子の背中を見ていたら私の目から涙がこぼれてきました。希望校には落ちてしまったけれど、息子はなにものにも代えがたい貴重な経験をしたんだと確信しました。

先日、息子が学校で作った扇子を渡されました。卒業にあたって制作したものなのでしょう。「あの学校以外は受験したくない」と言わしめたほど彼が行きたかった学校のシンボルカラーできれいに色塗りされた扇子でした。その表側を見ると大きな字で「不屈の魂」と書かれていました。その四文字には息子の確かな決意が感じられるようでした。そして、両親になにかひと言添えなさいと先生に指示されたのか、裏側には私たちへのメッセージが次のように書かれていました。

*************** 以下、彼のメッセージ

いろいろあった中学校生活が終わりました。
K学園をやめてJ高を受験するという自分勝手な決断を後押ししてくれたことには感謝しかありません。
結局、約束は果たせなかったけど、今回の高校受験で僕は大いに成長できました。
大学受験でリベンジして次こそ親孝行がしたいです。
これからもよろしくおねがいします。
僕も、日々精進できるように努力します。

*************** 以上、原文のママ

この扇子を「ほら、これもらったよ」と家内から渡された時、私はグっときてしまいました。そして、なぜかあたまの中で Beatlesの歌 「Let it be」 がながれ、映画のエンドロールが回っているときのような気持ちになりました。私と息子の高校受験がこれで終わったんだと感じたのでしょう。と同時に、私自身が、劣等生だった小学校時代から奇跡的にここまで這い上がってきた「不屈の魂」を息子も確実に受け継いでくれているようでうれしかったのだと思います。一歩下がって二歩進む。この精神こそ大切なのです。

人生は決して順風満帆とはかぎりませんが、不遇なときほど「不屈の精神」を発揮して乗り切ってほしいと思います。人生はこれから。頑張れ!

わが心の故郷「逓信病院」(2)

これまでなんども書いてきたように、研修医としての2年はその後の医者としてのスタンスを左右する大切な期間です。私はその研修の場に東京逓信病院を選んだのですが(「わが心の故郷「逓信病院」」もご覧ください)、そのときの研修で身についた姿勢は今の自分にも生きていると思います。思えば大学卒業したての人間に医師という仕事のイロハを2年間で叩き込むのですから、指導医の先生はもちろん、一緒に働く看護師やコメディカルの人達も大変だったと思います。それでなくても研修医になったばかりの連中はプライドが高く、小さなころから失敗らしい失敗もせずにとんとん拍子で医者になった連中も少なくないでしょうから。

今の研修医制度は私たちのころとはずいぶん変わってしまいましたが、私たちのころの研修病院の採用試験は医師国家試験を受ける前の年(つまり6年生)の秋に実施されました。当時、私の級友達も早い人達で5年生のころから医師国家試験(「国試」といいます)に向けての勉強をはじめ、友達同士で勉強会をして教えあったり、過去の国家試験を解きあったりしていました。また、熱心な学生は夏休みに研修を希望する病院に出向いて見学あるいは実習をしていました。私はどうかといえば相変わらずのんびりしていました。勉強会をしたり、病院見学にいくような熱心な連中を横目にみながらこれまで通りのマイペースでした。

そんなありさまでしたから、いざ研修病院の採用試験を受験するときになっても国試の勉強はまだ道半ば。研修病院の採用試験に合格するとはとても思えない状況でした。しかも、噂では学生のときに夏休みの見学に来た人が優先されるとか、この病院は○○大学閥だから地方大学出身者には不利だとか、ウソかまことかわからない話しが錯綜していました。ですから、私のように医学部に奇跡的に合格し、なんとか落第もせずに6年までこぎつけ、国家試験の勉強ですら遅れに遅れている学生に研修病院の採用試験に合格できる自信などあるはずもなく、受かればもうけもの、とぐらいにしか思っていませんでした(採用試験受験後の出来事については「白馬の女(ひと)」もご覧ください)。

ところが、奇跡はまた起こり、受験した三つの研修病院の採用試験にすべて合格しました。この中で一番行きたかった東京逓信病院から一番最初に合格通知が届きました。病院からは入職する意志を確認する電話があり、私は合格させていただいたお礼とともに入職を確約する旨の返事をしました。でも、もし次の年に実施される国家試験に落ちれば採用は取り消しになります。なので、それまではなかなかスイッチの入らなかった国試の勉強も、研修病院が決まってからは一気にモチベーションが高まりました。とはいえ、周りの級友たちの中にはすでに模擬試験で合格ラインに入ったなどと豪語している人もいて、周回遅れの私との差は歴然としていました。

医師国家試験は3月でしたが、その前に医学部の卒業試験があります。文字通り医学部を卒業するための試験です。この試験で1科目でも不合格であれば卒業できません。私の卒業した北海道大学は、多くの私立大学でやられているような「国家試験対策」なるものはやってくれません。多くの私大は卒業試験も国家試験と同じマークシートで、その内容も国家試験の予想問題だったりして、卒業試験の勉強がそのまま国家試験の勉強になっていました。大学によっては夏休みや冬休みに合宿形式の国家試験対策セミナーをやってくれるところもあるようで、手取り足取りと面倒見のいい大学とは違って北大はそうしたことにはあまり熱心ではありませんでした

でも、国立大学では予算の関係もあって次年度にたくさんの学生を留年させることができないらしく、卒業試験では「名前を書いたらプラス5点」「学籍番号を書いたらプラス2点」などとどんどん加点して不合格にはしないのだ、という根拠のないうわさが流れていました。ですから、学生の間では「卒試は問題なし。肝心なのは国試」というのが定説になっていました。実際、どんなに勉強をしない学生でも、卒業試験で合格できなかったという話しを聞いたことがありませんでした。なんとか卒業試験までこぎつければ、どんなに成績が悪くても最終的にはレポートで救済され、卒業させてもらっているようでした。

のんびりしていた私もさすがに年が明けるくらいになるとあせって勉強していました。あのころが人生で一番勉強していたかもしれません。大学の講義もなくなって早朝から深夜まで一日中国試向けの問題集をやっていました。国試ではたった3日間で500問以上の問題を解かなければなりません。内科や外科、小児科や産婦人科、耳鼻科や皮膚科、放射線科などの臨床科目はもちろん、公衆衛生学や病理学、薬理学や解剖学などの基礎医学もふくめて6年間の大学教育のなかで履修したすべての科目が出題範囲になるので試験勉強の量たるや教科書を積み上げれば天井につくほどです。試験の前日、シャワーを浴びながらついさっき勉強した内容を思い出そうとしたのに頭に浮かんでこなかった時は、さすがの私もパニックになりました。

国家試験は代々木ゼミナール札幌校でおこなわれました。ここはアルバイトで中学生に理科を教えていたので気心の知れた場所でした。北海道にある三つの医学部(北海道大学、旭川医科大学、札幌医科大学)の学生はここで試験を受けます。当日、会場に到着するとたくさんの学生たちが必死になにかコピー用紙を回し読みしていました。なんでも東京の私立大学から送られてきた「重要情報」だとか。全国の大学から「うちの大学にいる国家試験の出題委員の○○教授が『ここはしっかりやっておくように』と言っていた」といった情報が全国の大学の「国試対策委員」なる学生に一斉に送られてくるのです。

もちろん北大にも出題委員の教授はいましたが、「ここは重要だ」といっていたところが国家試験にでるなどということはありませんでしたから、国試直前に飛び交うこうした情報の信ぴょう性は定かではありません(そもそも法律違反)。しかし、学生にすれば「溺れるものはわらをもつかむ」。そうした情報に学生はちまなこです。国家試験はすべてがマークシートなので記入ミスがあればすべてはおじゃん。それだけも神経を使うのに、膨大な数の試験問題に神経を集中させていたのであっという間に終わってしまいました。そして、3日間の国試終了。終わってからはしばらくは何もする気にならず、私の部屋はまるでごみ屋敷のようでした。

当時は国試の明確な合格基準が発表されていなかったので、合格したと思っていたら不合格だったという話しもちらほら聞こえてきました。ですから、実際に札幌にある厚生省の出先機関で発表される合格者名簿で自分の名前を確認するまではドキドキしていました。発表当日は札幌に遊びに来ていた両親と道内を旅行していたので、あらかじめ合否の確認を頼んでいた友人のところに電話をして合格を知りました。しかし、不思議とうれしさはありませんでした。それは合格を確信していたからではなく、試験でエネルギーを使い果たしたからだと思います。むしろ、何人かの級友が国試に落ちてしまったことがショックでした。

それでも、この春から東京逓信病院で研修できることがうれしかった。はじめての東京生活ということもありますが、それ以上に自分が目指す医師像に向けてスタートを切ることに少し興奮していたのでした。臨床家になるのか、それとも大学で研究者になるのか、そんな遠い将来のことまで考えていませんでしたが、まずはしっかり内科の知識と経験を身につけたいと思っていました。その意味で、東京逓信病院は大きさといい、施設面といい、スタッフの数といい、私の理想通りの病院だったのです。

実は国家試験が終わってからちょっとした「事件」がありました。看護師をしていた妹が働く病院に、北大医学部の先輩であり、医学界の歴史に残る手術をされたある有名な先生がいました。私が北大医学部を卒業したことを妹から聞いて「是非会いたいから連れてきなさい」と言ってくださったのでした。当然私もTVや新聞などでよく知っていた先生でした。でも、あまりにも偉い先生だったので、私のようなまだ研修医にもなっていない者が挨拶にいくなんて、と尻込みしていました。でも、「せっかく言ってくださったんだから」という妹にせっつかれて病院に会いに行くことにしました。

私には珍しく正装して会いに行きましたが、TVで見たことのあるその先生は笑顔で私を出迎えてくれました。そして「おめでとう」と力強く握手をしてくださいました。そのあとなんの話しをしたのかはよく覚えていないのですが、挨拶に行くのだからと持参した商品券を手渡そうとしたとき、先生はその商品券の包みを手に取って「なにがはいってるの?」と私に尋ねました。私がとまどいながら「商品券です」と答えると、先生は「そう。遠慮なくいただくよ」と懐にしまうとすぐにその包みを私に返しました。そして、「これは私からの卒業祝い。こういうものは立派な医者になってからにしなさい」と言ってくれました。

まだ学生だった私が偉い先生に商品券などを渡そうとしたことが恥ずかしく思えました。顔を真っ赤にしながらかしこまっている私に先生は続けました。「ところで君はどこで研修するのかな?」と。私は「東京逓信病院にしました」と答えると、先生は「そんなところで研修してもだめだ。今からでも遅くないから断りなさい」ときっぱり言いました。あっけにとられる私をよそに、先生は「君は女子医大で研修するんだ。そして、結婚相手に開業医の娘を見つけ、経済的に余計な心配をしないですむ環境で研究を続けること。いいね」と。私はその押しの強さに驚いて、あいまいな返事をして早々に札幌に帰ってきました。

ところが、札幌から東京に引っ越す準備をしているとき、先生から電話がかかってきました。「もしもし○○です」と先生。私はあの先生からとはまったく気がつかず、つい「どちらの○○さんでしょうか?」と失礼なことを聞いてしまいました。すると「妹さんが働いている病院の○○です」と。びっくりした私は「もうしわけありません」と電話口でなんども頭をさげていました。「研修病院の件はどうなりましたか」。どうやら先生はあいまいに返事をして逃げ帰った私にダメ押しの電話をかけてきたようでした。冷汗を拭き拭きお礼を言いつつなんとかその場を取り繕って研修病院の件をお断りしたのでした。

そんなこんながあってようやく東京逓信病院の研修医になれた私でしたが、逓信病院での生活は予想以上に充実していました。春には外堀通りの観桜会、夏は靖国神社の「みたま祭り」。四季折々の風景が病院の界隈にはあふれています。近くには東京大神宮もあれば大学もあり、日曜日には神楽坂の散策もできる。電車も都内の各所に行くにも便利な路線が通っており、自転車やバイクがあればさらにいろいろなところに足を延ばせる。当時、研修医用の宿舎をもっている病院は逓信病院くらいでしたから、夜中まで仕事をしていても病院の敷地内にある宿舎に戻れる。こんな快適で生活のしやすい研修場所は他になかったと思います。

先生方もすばらしい先生ばかりでした。我々研修医をことあるごとにいろいろなところに食べに連れて行ってくれる先生。夜中に突然現れて、まだ仕事をしている私たちに差し入れをして励ましてくれる先生もいました。教育用のプリントを作ってくれて国家試験後すっかりバカになった我々の頭を活性化してくれた先生。あるいは自分が経験した貴重な症例を示しながら講義をしてくれる先生など、医師としてはもちろん、人間的にもすばらしい先生が多かったと思います。それらの先生方とは今でも年賀状のやり取りをしていて、当時のことを懐かしんでいます。

たった2年間ではありましたが、こんな私でもなんとか医者らしくなれたのは逓信病院のおかげ。ここでのいろいろな体験や経験が自分をここまで成長させてくれました。目をつぶればいろいろな思い出がよみがえってきます。どれもが医師としての今の自分の下地になっていると思います。病院の界隈を歩くたびに、つくづく「ここは自分の心の故郷だなぁ」って感じます。

 

 

 

 

 

 

 

井の中の蛙

医師国家試験の合格発表がありました。今年は1985年以降で最高の合格率だそうです。わが母校・北海道大学の合格率はそれほど振るわなかったようですが、毎年あのような数字で相変わらずのマイペースです。ちなみに東京大学の合格率が90%を切っていて「あんなに優秀な人たちなのに」と不思議に思うかもしれません。でも、「医学部に入りたい」ということと「医師になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということは必ずしも同じではないといういい証拠なのです。数学オリンピックや各種学術オリンピックで優勝するほどの学生が、医学部に流れて来てしまったばっかりに国試に落ちて宙ぶらりんになってしまったのでは頭脳を浪費したようなもの。本当に自分のやりたい学問の道に進んでいれば、彼らにとっても日本にとってもいいことなのにと残念です。それはともかく、6年間の長い学生生活の中でたくさんの履修科目の試験をクリアし、進級試験を切り抜け、卒業試験をパスした上での国家試験の合格。ほんとうにご苦労さまと言いたいです。と同時に、これからが本当の修練であることを肝に銘じて頑張ってほしいと思います。

ところで、医者には世間知らずと思われる人が少なくありません。それは大学を卒業するとすぐに「先生」と持ち上げられ、医療という特殊な世界にどっぷりつかってしまい社会常識を身に付ける機会がないまま大人になってしまうからかも知れません。私のまわりにも、自分の父親よりも年上の製薬会社の営業マンに「タメぐち」をきいてもなんとも思わない若い医者がいましたし、人に文句は言えても、日常の挨拶や、「ありがとう、ごめんなさい」という基本的なことも言えない医者もいました。医学生のとき、所属していたクラブの部室に外部から電話がかかってきたので、「○○は今不在ですが、ご用件はなんでしょうか?」と先輩を呼び捨てにしたところ、「先輩に向かって呼び捨てはないだろ」とその本人に注意されてびっくり。「社会ではそれが常識じゃありませんか」というと、「医療の世界と世間は違うんだ」とおよそ考えもおよばない言葉をぶつけてきた先輩もいて、世間知らずっているもんだなと思ったものです。一般社会とかけ離れているって意識をなかなか感じられない世界なんでしょう。

私がまだ北大病院で仕事をしていたころ、臨床実習でまわってきた学生に茶髪の男の子がいました。私たちのころとは違って、講義の時に最前列で缶コーヒーを飲める学生がいる時代になっていたので、茶髪の学生にはそれほど驚きませんでした(でも、白状すると「北大にもついに茶髪の学生かぁ」なんて思いました)。しかし、いくらなんでも臨床実習に茶髪はどうなんだろと思った私は、その学生に「その茶髪で実習にでてるのかい?」と疑問を投げかけてみました。するとその学生は表情も変えずに「はい、そうですけど」と。私はその平然とした様子に驚いたのですが、「もし、患者が『茶髪の医者にはかかりたくない』と言ったらどうするの?」と尋ねてみました。すると「そのときは僕以外の医者にかかるようにいいます」と。そして、「医者の力量と外見は関係ありませんから」と念を押す始末。私は唖然として、「それほどまで信念もって茶髪にしてるわけ?」とあきれていると、「いいえ、茶髪ってそれくらい大した問題じゃないってことです」とも。さすが北大生。妙に感心してしまい、それ以上何も言えませんでした。

限られた世界に身をおいていると、一般社会がどうなっているかに気が付かないばかりか、それが常識はずれを飛び越えて非常識であることにすら気がつきません。私が研修したのは公的な病院だったせいか、業者からの接待は厳しく制限されていました。私が医学部を卒業したころは、病院と企業の癒着が社会問題になりつつある時でした。ですから、当時は製薬会社が提供するボールペンすらもらってはいけないような雰囲気がありました。だからというわけではありませんが、医局の歓送迎会や忘年会・新年会は先生方の割り勘であり、製薬会社の営業マンが支払いをするなんてこともなく、私達研修医の費用でさえも先生たちが支払ってくれました。ところが、私立大学の医局に移ったとたんにそれらのほとんどが業者の支払いになっていることにびっくり。ある先生などは、病棟の看護婦さん達に「今日、夕飯をごちそうするから食べに行かない?」と誘っているので、「あの先生は太っ腹だな」と感心していたら現場には製薬会社の営業マンが待っていた、なんてセコい話しもありました。

こんな昔の光景は今は見られないのかもしれませんが、大学を卒業してからずっとそんな環境にいたら、それが一般社会では常識はずれだってことにも気がつかないんだなぁと当時思ったものです。最近、公務員が他の省庁や一般企業に出向するのが当たり前になっていますが、これもそうした弊害を防ぐためのものなのでしょう。その意味で、いちど社会人を経験した人を医学部に学士入学させることはいいことだと思います。一方で、医学部の学生のうちに一定期間だけ医師以外の職種を経験させることも重要です。学生のときに所属していたクラブの実習でいわゆる老人ホームでケアワーカーの仕事をしたことがあります。そのとき、当時の私のような若い男性に下の世話をさせることを嫌がるおばあさんがいたこと、その施設で働くケアワーカーの仕事がどれだけ大変で大切なことかということも、病院とは異なる場所で、医療従事者とは異なる視点を持てたからこその気づきでした。そのことがあってか、以後、病院で働いていても他の職種の人達のことを身近に感じることができたと思っています。

そういう私にも恥ずかしいエピソードがあります。二年間の臨床研修を終えた私は、私立大学の医局に入局することになりました。その医局の新入局員の先生たちと私は主任教授の自宅に招待されたのでした。教授のお宅は東京都千代田区一番町という都心の中でもイギリス大使館などがある静かな高級住宅地にありました。当時、オートロックなど見たことがなかった私はマンションの入り口の前に立っても扉がまったく開かないことに戸惑っていました。すると、中から出てきた住人らしき人に、それがオートロックドアといい、住民の部屋の番号をボタンで押して施錠を解除してもらわなければ入れないことを教えてもらいました。教授のお宅に入ると、すでに10人はいるであろう新入局員のほぼ全員がすでに勢ぞろい。「遅くなってすみません」といって私が部屋に入るとなにかただならぬ雰囲気が漂っています。遅れて入ってきた私を見るみんなの目が点になっているのを私は見逃しませんでした。みんなの視線を感じつつ周囲を見渡すと、すぐにその理由がわかりました。なんと勢ぞろいしているみんなは背広の正装、私はジーンズにボタンダウンシャツ姿だったのです。

自宅に招待してくださった教授ですらネクタイにスーツ。奥さまもよそ行きの服装です。すっかり恐縮している私に同僚が「せばた先生らしいよ」と言ってくれましたが慰めになっていません。でも、もうひとりの入局員がまだ来ていないことを教えてもらいました。実はその先生は私以上に正装をしそうになかったのです。私はラフな格好をしたもうひとりの仲間がやってくるのを心ひそかに期待して待っていました。しかし、その期待はもろくも崩れ去りました。その「正装しそうもない先生」ですらスーツ姿だったからです。自己紹介ののちに奥さまの手料理の数々に舌鼓を打ちながらの歓談でしたが、私はこの場から一刻も早く姿を消したい気持ちを抑えながら歓迎会を終えました。最後に教授ご夫妻を真ん中にして新入局員全員で記念写真の撮影。ところが、後日、病院で教授から直々に手渡されたその写真を見てまたまたびっくり。教授が背筋を伸ばしてかしこまっている横で、私は大胆不敵に足を組んでニヤけているではありませんか。以後、私は悟りました。自分はこういう世界・雰囲気にまったくなじまないことを。

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。大海を知って成長する蛙もいますが、その大海の水があわずに、「やっぱり池の水の方がいいや」と開き直る蛙もいるのです。池に生活する蛙にとってあえて大海を知る必要があるか、という言い方もできます。どっちがどうと単純に割り切れないことではありますが、親から「おまえは変わってる」「お前には常識がない」と言われ続けてきた私にふさわしいエピソードでした。個人的にはいろんな蛙がいていいんだと思うんだけどなぁ・・・。