札幌は先日ふたたび降った大雪で早くも根雪になるでしょう。60㎝を超える降雪量を記録するのはなんでも29年ぶりだそうで、札幌にいたころのこの時の大雪を思い出しました。当時、私は自分の車を青空駐車場に停めていました。ですから、雪が降るたびに車の上に積もった雪と駐車場の出入り口から車までの雪をどけに行かなければなりませんでした。しかし、そのときの雪はそれこそ一晩に50㎝は降ったかと思われるほどでしたから、いつもの雪かきとはくらべものにならないほどの重労働でした。まずはアパートから駐車場に向かうのが大変。北海道のサラサラした雪とはいえ、腰まではあろうかと思われる雪をかきわけながら歩くためにはかなりの体力を使いました。駐車場はアパートのすぐ近くとはいえ、歩道に降り積もった雪に足をとられながら歩くと駐車場に着くころにはもうヘトヘト。そして、駐車場に目をやれば、車が見えないほどの一面の雪にはただただ茫然となるのみでした。
よりによって私の車は駐車場の一番奥にありましたから、そこにたどり着くまでの経路の雪を排除しなければなりません。もちろんただ左右に雪を押しのけただけでは他の車の前に雪をどけるだけになってしまいそれらの車に迷惑をかけます。しかし、どけた多量の雪をどこかに捨てようにも、ドカ雪のときはその捨てるところさえないのです。ですから、車の通行に迷惑なならないように車道の脇に寄せて(といっても、どこが脇なのかもわからない)雪をもっていくのですが、雪にはまった車を掘り出すための小さなスコップで運ぶものですからものすごい時間と労力を要します。結局、数時間をかけて他の人の車の分まで除雪したあげくにようやく自分の車の上に積もった雪をどける作業にとりかかれるといった状況でした。当然のことながら、大学の講義などには出席できるはずもなく、重労働で汗をかいたあと銭湯にいって「自宅療養せざるを得ない状況」になってしまいました。
もともと寒い日に昼間っから大学をさぼって銭湯に行くのは好きでした。まだ入浴客も少なく、広い湯船でじっくり温まってアパートに帰るときの爽快感がなんともいえず気持ちがいいのです。真冬のときなどは、帰りしな濡れたタオルをぐるぐる振り回すとカチンカチンに凍ったりして北海道の冬を実感できます。でも、あるとき、恐ろしい「事件」に遭遇しました。いつものように明るいうちに銭湯にいって頭を洗っていたら、なんとなく自分に降り注がれる視線を感じました。ふと顔をあげて鏡を見れば、なんと背後に私をじっと見つめる男性の姿があるではありませんか。しかも私が移動するたびにその男性がそばにくる。彼はあきらかに私のあとをついて来るのです。急に怖くなった私はあわてて銭湯を後にしました。以来、その銭湯を利用することがなかったということはいうまでもありません。あの恐怖心は大学祭での「おかまバー事件」のときに感じて以来のものでした。
その「おかまバー」は、まだ医学部に進学する前(教養学部医学進学課程のとき)の北大祭のイベントとしてクラスで企画したものでした。当の企画者はシャレでやるつもりで、女の子がおもしろがってたくさんくるだろうぐらいの単純な発想だったのです。ホステス(ホスト?)をやらされた私たちは化粧をし、布を適当に体に巻き付けただけのあらわな姿をさせられました。当然のことながら私ははじめて化粧をしました。そして、女子学生にお化粧をしてもらいながら、変わっていく鏡の中の自分がどんどん「きれいに」なっていきました(幸い、その後、お化粧が癖にはなりませんでした)。お化粧が完成したとき、それなりに「きれいになった自分」を再発見。化粧をすると別人になったような気持がして、人前に出ても不思議とはずかしくありませんでした。ところがそんなことに「感動」していたのもつかの間。ホステスをやっていたひとりの友人の悲鳴によって「おかまバー」は恐怖のどん底に突き落とされることになりました。
二人の本物の「おかまさん」が来店したのです。悲鳴をあげた友人は開店後はじめてのそのお客を接客して体を触られたと控室に駆け込んできたのです。控室にいた「ホステス達」は一様に恐怖に顔を引きつらせながらどうしたらいいものか考えあぐんでいました。二人の本物の「おかまさん」をテーブルに残したまま、誰もそのテーブルに行こうとしないのです。そのうちに客席の方から大きな声が聴こえてきました。「お客を放りっぱなしってどういうことよ。ビールぐらい出しなさいよっ!」と怒っています。結局、体が大きく腕っぷしの強そうな友人が勇気を出して接客にいくことになりました。「変なことをしたらぶんなぐってやる」と言いながら彼は接客に向かいました。ふたりの「おかまさん」達は怖がる私達をしり目に、自分たちで歌ったり踊ったりとひとしきり楽しんで帰っていきました。そのパフォーマンスの高さはさすが「本物」で、他のお客さんはもちろん私達ホステスも関心するほどでした。
話しが横道にそれてしまいましたが、この雪で札幌はもちろんホワイトクリスマスになると思います。クリスマスにはやっぱり雪が必要ですね。以前にもご紹介したように、学生のころ、イブの夜に讃美歌を聴きたくなって雪の中を教会に行ったことがあります(「北海道のこと」をご覧ください)。讃美歌、いいですよねぇ。私は「神の御子は」という讃美歌が大好きです。大学のサークルでこの歌を合唱したことをきっかけに好きになりました。私はかつてNHKで放映されていた「大草原の小さな家」が好きでよく見ていたのですが、たまたまつけたTVでそのドラマが放映されていて「インガルス一家のクリスマス」という回をやっていました。家族のみんなが自分の大切にしているものをこっそり売って家族が喜ぶクリスマスプレゼントを用意するという感動的な回だったのですが、やはりこのときのウォルナットグローブも一面銀世界でした。その前後の回の同じウォルナットグローブに雪などまったくなく、青々とした草も生えていたのでクリスマス用の特別編集だったんでしょう。
独身の頃、「結婚願望」なんてぜんぜんありませんでしたが、その一方でなんとなくこのインガルス一家みたいな家族が将来できればいいなぁなんて思っていました。頼りになって思いやりのあるお父さんと、優しくて慈しみに満ちたお母さん。そして、元気いっぱいでいつも前向きな子供達。そんな家族みんなで「神の御子は」を合唱するなんて素敵って思っていました。でも、現実はそう簡単にはいかないものです。私も家庭をもち、改めて振り返ってみれば、大きくなった子供たちに「みんなで合唱しようよ」と提案しても、「やだよ」「めんどくさい」「ひとりで歌っていればいいじゃないか」などと誰も相手にしてくれない。「それなら」と、ひとりYouTubeを見ながら大声で気持ちよく歌っていれば「うるさいから小さい声で歌ってよ」と言われてしまいます。そんな「可哀想なチャールズ」はTVで札幌での大雪のニュースを見たり、ドラマでのクリスマスのシーンを見るたびに、「神の御子は」を思い出しながら「やっぱりクリスマスには雪だよなぁ」なんて思ってしまいます。
暖かい家の中の心地よさがそう思わせるんだと思います。北海道の家はこちらの家とはくらべものにならないくらい暖かいのです。冬が長いのであたりまえですが、家の中だけで言えばこっちの家の方がよっぽど寒い。なにせコタツなんていらないくらいですから。家の中で厚着をするなんてこともありません。最近の家であれば床暖は当たり前になっていて、ストーブをガンガン炊きます。家の外には大きな石油タンクを備えていて、夜も微弱ながらもストーブはつけっぱなし。ストーブを止めてしまうと窓には氷の結晶がこびりついていて(当然のことながら窓は二重窓になっていますから、氷の結晶がこびりつくのは外側の窓ガラスです)、ストーブをつけてもなかなか部屋が温まらないなんてことがあるからです。北大に入学してはじめて友人の部屋に遊びに行ったとき、春だというのにまだまだ寒い中、玄関の扉が開いてTシャツ姿の友人が出てきたときはびっくり。部屋のなかは汗ばむほどの暖かさでさらにびっくりしたものです。
そう考えると雪のない冬はものすごく物足りなく感じます。先日の札幌の大雪のように道民の日常生活に支障をきたす雪というのも迷惑な話しですが。それでもそれが冬の風物詩と思える私にとっては、雪のない今の風景はどことなく殺風景に見えるほどです。夜に雪が積もり、朝日にまぶしく輝く新雪を見るとすがすがしい気持ちになります。新雪が積もった日の朝はとても静かです。そして、しばらくすると除雪のために家々からひとりふたりと人々が出てきて少しづつにぎわい始める街並みを見るのもいいものです。北国の冬というと、寒くて暗くて家の中でじっと春を待っているといった印象があるかもしれません。しかし、雪が降るたびに始まる静かな朝。そして、みんなが協力し合って雪をかき、除雪車がけたたましい音を立てて夜通し作業をする。北国の冬って決して人間の生活感に乏しい冷たいものじゃないのです。むしろ、こちらの冬よりもにぎやかに感じるのが北国の冬なのです。クリスマスまでもう少し。こちらでもイブの夜だけでもいいから雪が降らないかなぁ。