受験という人生

2月7日(土)と8日(日)の二日間、第120回医師国家試験(国試)が実施されました。医師になるためにはなんとしても合格しなければならない試験です。合計400問の問題が出題され、その70%以上を正解しなければ合格できない厳しい試験です。私たちのときの国試は600問の問題を3日間で回答する形式で行なわれていましたが、2018年(平成30年)から二日間で400問に変更されました。でも、問題数が減ったからといって易しくなったわけではありません。私たちのときとくらべると、最近の画像診断や治療方法ははるかに発達・進歩しており、膨大な知識を必要とする今の試験は、かえって昔より難しいものになっています。

あれだけ勉強して医学部の入試を突破してきた医学生たちにも、「今までこれほど勉強したことはない」といわせるほどの勉強量を要します。「90%の人が合格するのだから」といえるほど簡単な試験ではありません。「問題の70%を正解すればいいだけ」と励ます人もいますが、むしろ「上位何名までが合格」と定員が決まっていた方がどれだけ楽でしょう。なぜなら、その年の試験の難しさに関係なく定員までは合格できるからです。しかし、「70%以上の正解で合格」となればそうはいきません。難しい問題が多い年に当たってしまえば合格者の数は激減し、受験したときの国試の難易度によって医者になれるかどうかが左右されるのです。

医師国家試験が医学生にとってどれほどの重圧になっているかは、私自身が今もときどき国試に合格できなかった悪夢にうなされることからもわかります。私のこの悪夢は、国家試験を目前にしているのに、まったくその準備ができていない場面からはじまります。夢の中の同級生たちはすでに国試対策が完了していて自信満々です。私は心の中で「来年までの一年間しっかり勉強して試験に臨めばいい」と自分をなぐさめるのです。合格していく同級生達に取り残される孤独感。下級生達と国家試験を受けることになった屈辱感。来年の国試には無事合格できるだろうかという不安な気持ちに押しつぶされそうになって目が覚めるのです。

国家試験が終わるとまさに放心状態が続きます。開放感を味わう余裕もないほどくたくたになっているのです。国試が終ったあとの私の自室は、しばらくの間、プリントや資料が散乱し、たくさんの医学書や問題集などが机に積み重なっていました。「合否なんてどうでもいい。やるだけのことはやったんだ」。そんなところでしょうか。そして、ホッとする間もなく、合格発表の日が近づいてきます。自己採点をしなかった私は再び緊張と重圧感でいっぱいに。私はそんな感情から逃れるように、千葉から来た両親と道内旅行をしました。友人から合格の知らせが道北の旅館に届いたとき、両親はもちろん、旅館の方までもが喜んでくれました。

戦後の医師国家試験でもっとも低い合格率は、1954年の第14回医師国家試験の64.1%だといわれています。このころの試験は今のようにマークシート形式の試験ではなく、筆記試験(記述式)と口頭試問でした。まだ戦後の混乱期にあり、国家試験の制度そのものが整備されておらず、問われる知識も採点する試験監督によってまちまちでした。また、当時は、質の高い医師を養成するという政策の一環で、合否に関しては厳しい態度がとられていました。1984年(昭和54年)の第73回医師国家試験から筆記試験と口頭試問はマークシート形式に統一され、それまで春と秋の年二回おこなわれていた試験は1986年に年一回になりました。

こうした試験制度の変更は、マークシート形式の入試方法が導入されたことがその背景にあります。シート上に印刷された選択肢を鉛筆で塗りつぶし、OMR(光学式読み取り装置)によって読み取り、短期間に採点を終えられるようになったのです。以前の国立大学の入学試験は、一次試験と二次試験を課す大学も、また、一回の試験で合否を決める大学も、各大学が独自に入試問題を作っていました。しかし、大学が独自性を出そうとすればするほど、教科書の範囲を逸脱したいわゆる「難問・奇問」が誕生するなどして社会問題になりました。そうした問題を改善するために、1979年にはじまったのが「共通一次試験」です。

共通一次試験の目的は、本来、学校教育における受験生の学習習熟度を測ることにありました。問題はどの教科もいわゆる教科書レベルに近く、「学校の勉強をまじめにやっていれば平均点はとれる」といわれるものでした。ですから、開始された当初、多くの大学は一次試験として5教科7科目(英・数・国・理2・社2)を受験することが必要でした。しかし、1990年から「大学入試センター試験」と名称が変更され、政府の主導で私立大学の入試においても利用されはじめました。そして、大学や学部によって要求される受験科目数はさまざまになりましたが、問題自体は難化し、教科書レベルだけでは対応できないものになっていきました。

2021年からセンター試験は「大学入学共通テスト」と名称が変わりました。世界のグローバル化、国際化、多様化に対応する受験生を選抜するためとされました。しかし、そうした「お花畑の理念」は、かえって教育の質を低下させ、受験生を翻弄しています。かつて、「ゆとり教育」がおこなわれていた時期がありました。教育内容の簡素化や教育時間の短縮などによって「受験戦争」と呼ばれる「競争の激化」を解消しようとしたのです。しかし、そのような小手先の改革は「受験戦争」という問題を解決しませんでした。むしろ、自主的に勉強していた生徒と「ゆとり教育」に乗せられた生徒との間で格差を生じさせるだけだったのです。

高校受験や大学受験、あるいは就職試験のように、合格定員が設けられた選抜において競争となるのはやむを得ないことです。あらゆるところに競争が待ち受ける社会に生きる以上、競争と無縁ではいられないのです。「ゆとり教育」は「受験戦争」や「競争社会」から子ども達を守る改革と思われていました。しかし、実際には、その「ゆとり教育」は「逃れられない競争からのモラトリアム」にすぎなかったのです。現実に存在する競争を社会悪として、子ども達をそこから遠ざけようとするのは間違いです。教育は少なくともそうした現実に対処するすべを子ども達に教え、「失敗を恐れてはいけない」と背中を押す存在であるべきです。

いくつかの理工系大学の入試ではいわゆる「女子枠」が設けられるようになりました。女子枠を設けて理工系学部における女子学生の数を増やそうというわけです。しかし、これも間違った改革です。よく考えてみて下さい。なぜ理工系学部の女子学生を増やさなければならないのでしょうか。社会のリケジョを増やすためですか。でも、なぜリケジョを増やすのでしょうか。ある人は言います。「男女平等参画社会を実現するためだ」と。そこまでして理系の職場に女性労働者を増やすことが、どうして「男女平等」につながるのでしょうか。そんなことは単なる数あわせにすぎず、ことの本質が理解できていない人間が考える浅知恵です。

そもそも「女子枠」を設置すること自体が「男女平等参画社会」という理念に矛盾しています。本来であれば、理系に進みたいと思う女子生徒を増やす工夫が必要であるはず。もし、「女子枠」を設けるのであれば合理的な目的と理由が必要です。私は、医学部の入試において、男子枠と女子枠を別々に設けて募集すべきだと思っています。それは大学医学部には地方の病院に医師を派遣して地域医療を支える使命があるからです。とくに激務がもとめられる外科系の医師は地方の医療に欠かすことができません。しかし、医学部に女子学生が増えすぎれば、そうした激務に従事する医師の数が減り、地域医療を支えることができなくなるのです。

もちろん、激務をこなす女医の数が増えれば問題は解決します。しかし、現実問題として、今の男子学生ですら、そうした激務の科には進もうとしない傾向が高まっているご時世です。地域医療を守るためにも、その大学医学部が必要としている医師の受給を考慮して、男子枠・女子枠それぞれの募集定員を設けた上で入試をすればいいと思うのです。でも、理工系学部の入試に広がる「女子枠」はそうした説明可能で合理的な目的や理由がありません。とくに、パイロット不足の解消を目的にした航空大学校での女子枠は、学科試験も免除という優遇ぶりなのにはあきれます。航空大学校の募集定員を増やせばいいだけの話しです。

試験はひとりの人間が試されるとき。その人の努力、忍耐力、意志の強さのみならず、価値観や人生観までもが問われる場面です。人生の大切な局面としての試験は、だからこそ平等でなければなりません。しかし、平等とは必ずしも「同じであること」を意味しません。「男女平等参画社会」に代表されるような、今の社会に錯綜するスローガンは必ずしも平等のあるべき姿を正しく主張していないのです。受験という人生の大きなイベントだけは、社会のあり方に左右されないものであってほしい。その意味で、一発勝負であろうと、受験生の負担が大きかろうと、昔の受験制度の方が今よりよほど平等だったのではないかと思います。

競争のない社会が平等なのではありません。格差のない社会が平等なのでもありません。誰もが競争に加わることができること、努力が努力として報われる社会こそが平等なのだと思います。そして、競争に失敗しても、何度でもチャレンジできる社会の実現が必要なのです。教育は子ども達にそのことを教える必要があります。頑張ることの尊さとチャレンジする勇気。頑張った結果にとらわれず、他者の価値観や人生観を尊重する大切さを子ども達に教えるのです。その意味で、男女の差違や区別を否定的にとらえたり、競争や格差の負の側面をことさらに強調する今の社会の風潮は間違っていると思っています。

やる気スイッチ

母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。

母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。

なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。

都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。

同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。

意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。

また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。

我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。

長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?

母:都立高校であればどこでもいいと思っています。

長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。

母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。

帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。

勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。

**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)

「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。

私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。

医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。

***************** 以上

この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。

その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。

先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。

私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。

その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。

いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。

このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。

自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。

私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。

とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。

※ 未来のある子ども達に贈る歌  「壊れかけのRadio」

※ 中学生のころの自分に贈る歌  「帰れない二人」

 

琴線にふれる街

以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

************ 以下、本文

「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。

スポーツのもつ力

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

TVでは箱根駅伝の様子が中継されています。毎年、お正月の恒例でもあるこの駅伝大会に、長い間、私はまるで興味がありませんでした。亡くなった父がかつて駅伝の選手だったにもかかわらず、です。しかし、以前のブログでも紹介したように、かつての勤務先の病院に入院中の奥さんを毎日見舞いに来られていた方が「箱根駅伝に出場した選手だった」ということを知ってから箱根駅伝の中継を見るようになりました。

私は小さいときから運動音痴でしたが、スポーツに興味だけはありました。小学生のころはテレビでよく放映されていたキックボクシングにはまっていました。当時、「キックの鬼」として有名だった沢村忠よりも「錦利弘(にしきとしひろ)」という選手が好きでした。なぜそうだったのかはわかりません。へそ曲がりだったのでしょうね(今もそうです)。彼の「電光回し蹴り」に胸をときめかせていたのを思い出します。

小学校の修学旅行はご多分にもれず日光に行ったのですが、私は宿で熱を出してしまい、夜は先生達が泊まっている大部屋に寝かされていました。そして、担任の先生や生徒達が夕食のために大広間に行っている間、私は校長先生とプロレスをテレビで見ていました。それまで近づきにくかった校長先生はプロレスファンだったらしく、高熱に苦しんでいる私にレスラーの説明をずっとしてくれていました。

中学に入る頃になると、いろいろなスポーツに興味を持ちはじめました。自分でやるというよりも、自宅の庭の芝生に穴を掘って、パターを自作してゴルフの練習をしたり、母から洋服生地の切れ端をもらってアメリカン・フットボールのボールを作り、友達とキャッチボールをしたりする程度でした。コツコツ練習をする努力も、長距離走のような「苦しい運動」も好きじゃなかったんでしょうね。

私が小学生から中学生だったころはプロ野球が全盛期でした。ジャイアンツのV9(9連続日本一)もありましたし、長島や王は子ども達のヒーローでした。子どもの頃の私はジャイアンツの大ファンでした。華やかな長島選手よりも淡々とした王選手が好きでした。しかし、あの「江川投手をめぐる空白の一日事件」ですっかり野球への興味をなくし、巨人が負ければどこが勝ってもいい「アンチ巨人」となってしまいました。

最近、部活の問題がしばしばとりあげられるようになりました。子ども達への鉄剤投与の問題もそのひとつです。記録が伸びないことを鉄剤の投与でカバーしようというものです。医学的にも問題が多いことが指摘され、コーチングのあり方として疑問が呈されている問題です。部活とは本来教育の一環として行なわれるべきです。しかし、行きすぎた結果至上主義は選手の健康を蝕むことにつながります。

運動誘発性無月経の問題も同様です。過剰な練習を続ける女子選手に無月経が起こることがあります。以前、スポーツ医学を専門にしている医師と連絡をとったとき、彼が「この問題が広く認識されていない」と嘆いていました。無月経が長期間続くとどんな結果につながるのかを多くのコーチが知りません。結果至上主義を全否定しませんが、「部活は教育だ」という視点を忘れてはいけません。

とはいえ、私はまともにスポーツをやったことのない人間です。その私が「たかが部活」と言ったところで、選手やコーチがどんな思いで練習をし、大会に挑んでいるかなどわかるはずもありません。私をアンチ巨人にしたあの「空白の一日事件」の江川投手にしても同じです。あの一件で彼がどれだけ傷ついたか。あの事件を背負いながら生きてきた45年の重みは誰にも想像できないでしょう。

来年の箱根駅伝は第100回を迎えるそうです。その記念すべき大会のシード権をめぐって選手達は大手町のゴールをめざしています。若い人たちがなにかに向けて頑張ることは素晴らしいことです。その結果がどうであれ、次の目標に向かって走り続けることが大切です。人生に「最終目標」などありません。良い結果も悪い結果も次につながる良い結果にしなければなりません。人生、万事塞翁が馬。今年も一年頑張りましょう。

 

年末に感じること

早いもので今日で2022年が終わってしまいます。ここ数年、日本のみならず世界中が新型コロナウィルスに振り回されてきました。しかし、この2月に始まったウクライナ戦争は、世界の秩序を乱し、世界経済にも暗い影を落としています。ウクライナの悲しい歴史を多くの日本人は知りません。ウクライナ国民の多くはスラブ民族ですが、奴隷を意味する英語の「slave」はこのスラブに由来しているのです。

新型コロナウィルス感染症は中国の武漢に起源するといわれています。新型のウィルス感染症が人から人に感染し、重症率も鳥インフルエンザほどではないにせよそれなりのものであることは当初からわかっていました。このウィルス感染症はまたたく間に武漢から中国全土へと広がり、絶好調だった中国経済の勢いに乗って世界中に拡散していきました。それからの惨状は皆さんもご存知の通りです。

その新型コロナがようやく落ち着いてきたかと思った矢先のウクライナ戦争です。ウクライナは世界有数の穀倉地帯であり、一方のロシアは原油や天然ガスをEU諸国に供給する主要な資源国。その両者の戦争が世界経済に大きな影響を与えないはずはありません。しかも独立国家が公然と独立国家に侵略するという国際法違反は、領土拡大を目指す他の覇権主義の国家を刺激してあらたな危機を作り出そうとしています。

そんな不穏な空気、漠然とした危機感を感じながら迎える年末です。自宅のちょっとした大掃除を終えてホッとしていても、ふと「今ごろ、病院ではたくさんの人たちが不眠不休で仕事をしているのだ」、「暖房もままならないウクライナの人たちはどんな新年を迎えるのだろうか」という思いが心をよぎります。来年こそは日本中の、そして世界中の人たちが新年を祝えるようになりますようにと祈るような気持ちです。

昨日の夕方、NHK総合では年末恒例の「ドキュメント72時間 年末スペシャル2022」が放映されていたので、それをただぼうっと見ていました。最近のテレビ番組にはどれも興味がわかないのですが、年末に放送されるこのスペシャル番組だけは不思議と見入ってしまうのでした。かつてはテレビ局に勤めてこうした番組を作ってみたいと思ったこともあったからでしょうか。

この「ドキュメント72時間」の中で紹介された「看護専門学校 ナイチンゲールに憧れて」はとてもよかったです。関西のとある看護学校での生徒達の姿を追ったドキュメンタリーでした。看護師という仕事に興味があって入学した人もいれば、「漠然とした気持ちで(入学した)」という人もいる。美容師やCA(スチュワーデス)からの転職だったりとさまざまな背景を持つ生徒の72時間を取材したものです。

私も一般大学を卒業してから医学部を再受験したひとりでした。北大の同級生にも、同じような境遇で入学してきた人が10名ほどいました。年齢もバックグラウンドもさまざまでしたが、北大医学部のいいところはそうした学生ひとりひとりの背景に誰も関心を持たないというところ。現役合格したかどうか、多浪生であったかどうか、そんなことにこだわる学生もいません。それが北大を魅力的な場所にしています。

この「看護専門学校 ナイチンゲールに憧れて」はとてもいい番組でした。皆さんは戴帽式というものをご存じでしょうか。昔の看護師はキャップと呼ばれる看護帽をかぶっていました。看護師という職業を象徴するようなもので、病院によっていろいろな大きさや形状をしていました。キャップを見れば病院がわかるほどでした。しかし、病院での業務の支障になるという理由で今ではすっかり見なくなってしまいました。

それまでの看護学校では、看護に関する座学が一段落し、いよいよ病棟での実習が始まるときにこの戴帽式がおこなわれます。看護師としての象徴でもあるキャップを学生に授与するのです。この式を通じて看護学生はいよいよ看護師になるのだという意識を高めます。私の妹も看護師なのですが、妹の戴帽式のとき、私も看護学校に行って式に出席しました。厳かな雰囲気の中でおこなわれた式はとても感動的なものでした。

しかし、看護師のキャップがなくなるにつれ、戴帽式も廃止してしまう看護学校が続出しました。看護師になることを自覚する機会にもなっている戴帽式。この戴帽式の意義が再認識されて復活させる学校も最近増えてきたとも聴きます。取材された学校でも戴帽式が行なわれ、看護学生としての区切りとなる戴帽式に出席するために苦悩・苦闘するさまざまな学生の姿はまさに青春ドラマそのものです。

この番組は看護師でもある家内と見ていました。そして、私は自分の医学生・研修医時代を、家内は看護学校時代と重ね合わせて見ていました。見終わったとき、私たちふたりの口から思わず出た言葉は「初心を呼び覚まされるね」でした。医療系の学校はうれしいことや楽しいことよりも、辛いことや精神的に苦しいことの方が多いのですが、それでも頑張れるのはやはり自分の仕事に対するプライドがあるからだと思います。

今も病院ではたくさんの人が働いています。新型コロナウィルスワクチンは無効だとか、打っても意味がないだとか。その一方で、新型コロナウィルス感染症による死者は最多になっていて感染は広まる一方だとか。雑音は実に勝手なものです。病院で治療に専念する医師や看護師、薬剤師やその他の病院職員はそんな雑音とはまったく関係なく、目の前にいる患者を救うためにこの瞬間も奔走しているのです。

ゼロコロナ政策から大転換した中国では、新型コロナウィルスがまさに感染爆発し、SNSでは病室はもちろん、遺体安置所や火葬場も不足しているという動画が飛び交っています。そして、薬を求めて病院の熱発外来に人々が殺到し、薬局からは解熱剤が姿を消す事態になっているようです。日本もあのような惨状にならないとはかぎりません。日本人ひとりひとりがよく考えて行動しなければいけないのです。

とある芸能人が「ワクチンを打てば新型コロナウィルスに感染しないといったのに、なぜ新型コロナの死者が過去最多になるんだ」とツイートしていました。社会に影響力を持つ有名人がこの程度のツイートをするのにも困ったものですが、それに乗じて騒ぎを煽り、社分を分断するような医者(医師免許をもっている人たち)の存在にも困ったものです。医者にもいろいろいます。まともなことを言うとは限りません。

新型コロナウィルス感染症で亡くなった人の数が過去最多になるのには理由があります。まずはそれだけ感染する人の数が多いからです。これまでも繰り返してきたように、ウィルスは遺伝子の変異のたびに感染力を高め、一方で致死率を低下させていきます。今の新型コロナウィルスは季節性インフルエンザウィルスとくらべても致死率は低いとされています。亡くなった人の数だけで判断するのは間違いです。

また、大手の新聞社が「直近3ヶ月の死者数は前年の16倍」という見出しで記事を書いています。この直近の3ヶ月と比較された昨年の状況はどうだったでしょうか。当時の新型コロナウィルスの感染状況はきわめて落ち着いているときでした。感染者は今とくらべてずっと少なかったのです。そんな昨年と今とを比較して「16倍も増えている」と不安を煽る報道の目的はなんなのでしょうか。推して知るべしですが。

このウクライナ戦争でロシア軍は国際法にもとる非人道的な行為を続けていることが報道されています。しかし、よく考えて見て下さい。ロシアがそのような愚劣な手段をとるのは今回のウクライナ戦争に限ったことでしょうか。第二次世界大戦のとき、不可侵条約を一方的に破棄して北方領土を侵略したとき、あるいは、日本人入植者を蹴散らしながら満蒙国境を越えてきたときに彼等がどんなことをしたのか。

いや、アフガニスタンに侵攻したとき、あるいは、シリア戦争のときのロシアによる軍事作戦だって同じです。今のウクライナでおこなわれていることや、それ以上のことがおこなわれてきたはずです。それを我々は知らされなかっただけ。報道(ジャーナリズム)の使命はそうした世界の「隠された真実」を明らかにすること。国民・市民にそれらをありのままに伝えることです。煽ることでは決してありません。

来年はいったいどんな年になるのでしょうか。少なくとも、世界中の英知を結集して、新型コロナウィルス渦から逃れ、世界に平和と協調をもたらさなければなりません。そのためには「真実」を知らなければいけない。なにが正しく、なにが正義なのか。形而上学的な議論によるものではなく、よもやマスコミの論調にながされるようなものでもない。自分の頭を使って真実かどうかを見極めるのです。私自身はそう努力し続けるいち年にしたいと思っています。

皆さん、佳い大晦日をお過ごし下さい。来年が皆さんにとってより素晴らしい年になりますように。
Prosit Neujahr !

昭和、大好き。

今回はちょっと雑ぱくなことをだらだら書きます。

昭和レトロがいちぶの人たちの間でブームになっているというニュースを目にしました。その「いちぶの人たち」とはおそらく私のような「昭和ど真ん中の世代」なのでしょう。今よりも不便なことも、理不尽なことも、残念なことも多かった時代ではありましたが、昭和には多くの人たちに夢や希望があり、「明日は今日よりいい日になるかも」という思いがあったように感じます。

今という時代はいろいろな意味で社会が成熟しているといえなくもありません。機会の平等や豊かな生活が世の中の隅々に行き渡り、多様な生き方さえもが許容される寛容な社会になったともいえます。しかし、その一方で「義務よりも権利」という意識が強くなり、昭和以来の価値観が徐々に変質して、「社会よりも個人」「自由から混沌へ」と大きな振れ幅で変化しつつあることに戸惑うことも少なくありません。

現代社会は自由と平等が尊重される一方で「格差社会」をも生み出しました。チャンスも努力次第で平等になりましたが、富は富める者に集まる傾向がさらに強まっているように思います。富める人たちがその経済力にふさわしいお金の使い方をするかといえば決してそうではありません。デフレの時代に染みついた「節約・倹約・清貧」「よいものをより安く」という価値観は富裕層にまで浸透しています。

大量消費社会を必ずしもいいとは思いません。と同時に、SDGs(持続可能な開発目標)というスローガンも素直に受け入れることができません。今の日本に広く漂っている「閉塞感」は、社会にながれるお金が一部の人たちに偏在し、流動性が阻害されていることから生じているように思えます。お金のある人がもっとお金を使い、「良いものがより高く売れる社会」にしていかなければならないと個人的には思います。

イギリスのベンサムは「最大多数の最大幸福」という社会のあり方を主張しました。多くの人が幸福感を感じる社会を善とするこの考え方を功利主義といいますが、この思想はあたかも今の社会のあり方を批判しているかのようです。なぜなら現代は「上位1%の富裕層が世界の個人資産の40%近くを所有する社会」であり、「コロナ禍にあって富裕層はさらに裕福になっている」という矛盾をかかえているからです。

昭和は「みんなが貧しかったが、みんなが明日を信じていた時代」だったように思います。いろいろな不自由さに我慢を強いられることもありましたが、行き過ぎたポリティカルコレクトネスが幅を効かせる今より人々の心の中はもっと自由だったかもしれません。その意味で昭和は「各人が少しづつ我慢をしながら全体として調和をとっていた功利主義的な時代」だったといえるかもしれません。

これまでの歴史を振り返ると、民主主義が発達していない独裁国家は、自国民の幸福よりも国家の覇権を求めます。それはフランスのナポレオンも、先の大戦のナチス・ドイツもそうでした。プーチンは「ウクライナのネオ・ナチを掃討する」とウクライナに侵攻しました。しかし、彼のやっていることはナチズムそのものです。真の民主主義が育っていないロシアの国民にはそれを止めるすべがありません。

ロシアがはじめた戦争は、ウクライナからの予想外の反撃によって長期化する気配です。武力による国境の変更という暴挙はヨーロッパのみならず全世界にも暗い影を落としつつあり、まさに第三次世界大戦さながらといえるかもしれません。先の大戦でたくさんの自国民を犠牲にし、その後も決して国民を幸福にはしなかったソビエトの地に人権を尊重する真の民主主義はなかなか育たないようです。

先日の新聞に昭和天皇に仕えた武官の日記が公開されたという記事が掲載されていました。敗戦が濃厚となったころの日本は、まるで今のウクライナと同じように、国土は荒廃し、たくさんの国民が犠牲になっていました。その時の昭和天皇のご様子を記録した日記は「昭和天皇実録」にも収載されていないらしく、これまで知られていたものとは異なる陛下のご心情を垣間見ることができます。

その日記によれば、このまま戦争を継続すれば、さらに多くの国民を失い、国土を荒廃させ、戦後の復興が困難になることを昭和天皇が憂いておられたとのこと。また、出撃する若い特攻隊員たちが辞世の寄せ書きをする様子を紹介したニュース映画をご覧になりながら涙をぬぐっておられたそうです。皇祖皇宗から引き継いできた国民・国土のことを考えて忸怩(じくじ)たる思いだったに違いありません。

以前のブログにも書きましたが、昭和天皇は皇太子になられてすぐ第一次世界大戦直後の荒廃したヨーロッパを歴訪されました。これは「将来の国家元首として戦争がいかに悲惨なものかを知っておくべきだ」と考えた西園寺公望や東郷平八郎たちの発案だったとされています。西園寺や東郷自身も幕末から明治にかけて全国で勃発した内戦の厳しい現実を身をもって体験してきたからだと思います。

当時、皇太子だった昭和天皇の目には、破壊の限りをつくした町並みはどのように映ったでしょうか。また、戦禍を乗り越え、復興に向けて立ち上がろうとするヨーロッパの人々の姿をどう思ったでしょうか。陛下は中国大陸への戦線拡大に反対しました。しかし、そのご意志に反して日本は日華事変に突入してしまいました。それほどまでにソ連の南下政策が日本の安全保障を脅かしていたからです。

少し話しはそれますが、戦後、GHQの最高司令官となったダグラス・マッカーサー元帥も第一次世界大戦のときヨーロッパにいました。アメリカ軍の参謀だった父親とともにヨーロッパに滞在していたのです。モンロー主義という孤立主義に徹していたアメリカは、それまでヨーロッパの戦争には関与しない態度をとっていました。しかし、大戦がはじまるとアメリカはその方針をひるがえして参戦を決めたのです。

マッカーサーは第一次世界大戦末期のヨーロッパにおいて、敗戦の色濃いドイツ帝国からほうほうの体でオランダに亡命する皇帝ウィルヘルム2世の姿を目の当たりにしました。自らの責任を放棄し、何両もの貨車に財産を積み込んで逃げていく国王。彼はオランダへの亡命後もしばらく皇帝からの退位をも拒否しました。亡命の責任は自分にはないというのが理由でした。そんな国王をマッカーサーは軽蔑しました。

第二次世界大戦後、日本に着任したマッカーサーは、昭和天皇から面会を求められたとき第一次大戦時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世を思い出したといいます。陛下が自分の命乞いと財産の保護を求めてやって来るのだと確信していたのでしょう。だからこそ陛下を玄関で出迎えもせず、ノーネクタイで面会するという非礼をあえてしたのです。しかし、実際に目の前にした昭和天皇は違いました。

「天皇の名の下で戦った人々に寛大な措置をお願いしたい。そして、戦争で疲弊し、満足に食べることすらできない日本国民を飢えから救ってほしい。そのためであれば私はいかなる責任をも負うつもりである」と昭和天皇は震えながらマッカーサーに語ったといいます。マッカーサーはそんな陛下に衝撃を受けながら、かくも尊敬すべき天皇であるがゆえに日本人は敬愛してやまないのだと理解したといいます。

マッカーサーは父親の代からフィリピンに利権と財産を所有していました。しかし、南進する日本軍の攻勢にマッカーサーはフィリピンから脱出せざるを得なくなりました。たくさんのアメリカ兵を残して去って行く彼は、自らの莫大な財産とともにアメリカ国民からの尊敬を失ったのです。マッカーサーはこのとき日本への復讐を誓いました。「I shall return(私は必ずここに戻ってくる)」という言葉とともに。

日本への復讐を誓ったはずのマッカーサーの気持ちが変わったのは、昭和天皇のお人柄に触れたところも大きかったのでしょう。また、荒廃した国土を立て直すために黙々と努力する日本人を間近で見てきたからかもしれません。マッカーサーは朝鮮戦争の処理をめぐってトルーマン大統領と対立し、6年でGHQ最高司令官の任を解かれましたが、帰国後の1951年米国議会上院軍事外交合同委員会で次のように証言しました。

「日本には蚕を除いて国産の資源はほとんどない。彼らには綿も、羊毛も、石油製品もなく、スズも、ゴムも、その他の多くの資源がないのだ。それらのすべてのものはアジアの海域に存在していた。もしこれらの供給が断たれれば一千万人から一千二百万人の失業者が生まれることを日本政府は恐れていた。以上のように、彼らが戦争を始めた目的は主として安全保障上の必要に迫られてのことだった」。

マッカーサーのこの証言は、サンフランシスコ平和条約の締結を後押しし、早期に日本の主権が回復することに貢献しました。ちなみに、マッカーサーは東京裁判で強まる天皇への戦争責任論を一蹴しました。また、靖国神社を焼き払うという計画が検討された際にも、ローマ教皇庁代表でもあったビッテル神父の「排除すべきは国家神道制度であり靖国神社ではない」という意見を聞き入れ神社の存続を決めたとされています。

1926年からの「昭和」は激動の時代でした。第一次世界大戦後の好景気は長続きせず、世界は大恐慌におちいります。日本は台湾と朝鮮を併合し、満州国を建国し、それらの地域のインフラを整備するために多額の投資をしました。それは日本本国にとってあたかも「母屋で粥を食い、離れですき焼きを食らう」と揶揄されるほどの負担でした。その結果、もともと資源も産業もない日本は世界恐慌の影響をもろに受けました。

そんな世界情勢の中で、日本は南下するソ連と対峙するべく大陸に進むか、東南アジアの資源を確保して来たる戦争にそなえるかを決められないまま米国との戦争に突き進みます。これはソ連がドイツ戦に集中するため、日本とアメリカとを戦わせるようコミンテルンが工作した結果だといわれています。日本の中枢にも、あるいは米国の閣僚にもソ連のスパイが少なからずいたことが今では知られています。

話しはだいぶそれましたが、思えば、こうした近現代史のなかの出来事も、私が生まれた1960年のたった15年前かそこらのこと。そう考えると、大東亜戦争(太平洋戦争)は私の知らない遠い昔のできごとではないことを実感します。私が生まれるたった100年前の日本だってまだ江戸時代。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたころです。教科書のなかでしか知らない歴史が意外に自分と近いことに驚きます。

そういえば、私がまだ小学校にもあがっていなかったころ、東京都葛飾区の亀有にあった警察の家族寮に住んでいました。が警視庁に務めていたからですが、その寮には我が家と同じような警察官の家族が同じ屋根の下に暮らしていました。決して広くもない部屋にひと家族が肩を寄せ合うように生活していたのです。部屋に台所はなく、一階に共同で使う台所があって床は土間になっており、スノコが敷き詰められていました。

トイレはくみ取り式で共同。キンカクシには木でできた蓋がいつもかぶせてありましたが、用を足すときには落ちそうな気がしてとても怖かったことを覚えています。このころの道路はまだ舗装されておらず、各戸の塀はおおむね木の板でつくられた簡単なものでした。そして、街のいたるところにこれまた木製のゴミ箱が設置してあり、ときどき「くず屋さん」と呼ばれる人が回収に来ていました。

私の住んでいた警察寮は古く、ちょっとした強風でも壊れてしまいそうな建物でした。そのためか、台風が近づいてくると寮の近くにあった大きな民家に子ども達は避難させられました。このお宅は広いお庭があるしっかりした建物でしたので、外で強風が吹いていても安心感がありました。子ども達みんなでろうそくの火を囲んで台風が過ぎるのを待っていたときの光景を今でも思い出します。

当時はまだ机と椅子の生活ではなく、狭い部屋の真ん中には丸いちゃぶ台が置いてありました。私の両親は新しいもの好きだったので、当時は高価だった白黒テレビとステレオがありました。テレビで放送される「怪傑ハリマオウ」や「ビックエックス」、「エイトマン」といった子ども向け番組に夢中でしたし、四本足のステレオから流れるクラッシックを聴きながら指揮棒をふっていたことを思い出します。

私が小学生のころにはまだ「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいました。戦地で大きな怪我を負い、腕をなくしたり、義足をつけていたり、なかには目や顔を負傷していたりと、ハンディを抱えながら生きている元兵士が道行く人たちに義援金を求めるのです。繁華街で軍帽と白い着物の人たちが自分の障害をさらしながら地面に四つん這いになっている姿は子どもの目には恐ろしく映ったものです。

繁華街にでたり、お祭りにでかけると、こうした傷痍軍人をよく見かけました。高度経済成長の時代となった当時の風景に「戦争」を感じるものはほとんどありませんでした。でも、街角に立っているこの傷痍軍人だけは暗くて悲しい戦争の痕跡を子どもたちに感じさせるのに十分でした。そして、その光景は、私の心のなかに戦争の勇ましさではなく、戦争のみじめさを植え付けたように思います。

1955年の国民総生産が戦前の水準を超え、翌年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれたことはよく知られています。私たちの世代は、先の大戦がまだ影を落とす中、経済大国へと成長を続ける日本とともに子ども時代を過ごしました。やがて日本は「ジャパン・アズ・ナンバー1」となり、バブル景気を迎えたのです。しかし、そんなときに昭和天皇が崩御されると、日本は一転して長いデフレの時代に突入します。

振り返ってみると、私のなかの昭和にはいつも昭和天皇がおられたように思います。昭和のどの時代を思い出しても、当時の昭和天皇のお顔が浮かぶのです。無知蒙昧だった高校生のころ、私は「天皇は国民の象徴なんだから、国民から選んだらいい」と言ってはばかりませんでした。天皇陛下や皇室が日本にとってどのようなご存在かを考えたこともなかったからです。今思うと本当に恥ずかしいことでした。

大人になっていろいろな本や資料を読み、日本の歴史を調べれば調べるほど、昭和天皇がいかに偉大な方だったかがわかりました。「激動の昭和」と簡単にいいますが、その大きな歴史の渦のなかで生きてこられた陛下の87年間がいったいどのようなものであられたのかは想像を絶します。「皇族もひとりの人間」という人がいますが、昭和天皇のご生涯は皇族が決してそんな卑俗な存在ではないことを示しています。

今の皇族のあり方については私なりに疑問に感じる部分があります。それはまたの機会に開陳しようと思っています。それはともかく、私は昭和を単なるノスタルジーとしてではなく、日本人としての誇りを覚醒させる時代として好きです。天皇というとてつもない重圧のかかる地位でありながら、不平も不満ももらさずに務めあげられた昭和天皇がおられたからこそ、私の中の昭和がいつまでも輝いているのかもしれません。