子ども達に伝えたいこと(3)

10月21日、今年も麗澤中学校で開催された職業別講演会に行ってきました。毎年、中学三年生の生徒さんに「医師について」と題してお話ししています。でも、本当に伝えたいことは、「医師」という職業についてではなく、「ダメダメ小学生だった自分が、いかにして医者になったか」ということ。失敗を繰り返しながらも、子どものころからの夢だった「医師」になれた私の半生を知ってほしいのです。その体験を通じて、「くじけないことの尊さ」を感じてほしい。そんなことを思いながらお話ししています。とはいえ、伝えたいことすべてを言い尽くすのは不可能です。また、生徒さんの中には「医師」という職業を選択しなかった人もいます。そこで今回は、私がいつも講演で伝えたいと思っていることをまとめてみました。

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麗澤中学校のみなさんへ

先日はお疲れさまでした。職業別講演会はいかがだったでしょうか。「面白かった」で終らさず、「自分はどんな職業に就きたいのか」「どのような仕事が自分に向いているのか」を考えてみて下さい。

皆さんの多くは、自分の将来についてはまだ漠然としていて、明確な目標を持っていない人もいると思います。「なんとなく大学に進もう」と考えている人が大多数かもしれません。しかし、どのような学校を、あるいは、どのような学部を選ぶかは職業選びに影響します。特に大学の理系学部に進んだ場合はそうですが、文系学部であっても学部選びを間違ったために希望する職種に就けないことがあります。だからこそ、「どんな職業に就きたいのか」「どのような仕事が自分に向いているのか」を考えておくべきなのです。

何かを選択するときは、必要条件と十分条件を考えるといいと思います。必要条件とは、「これだけははずせない条件」のことです。そして、十分条件とは「これがあればなおいい条件」のこと。たとえば、職業を選ぶ際、「やりがいを感じることが絶対に必要」なのであれば「やりがい」は必要条件になります。「職場が自宅に近ければなおいい」のであればそれが十分条件です。そして、「給料さえよければどんな仕事でもいい」という場合であれば、「給料がいいこと」は「必要かつ十分な条件」になります。

今、AI(人工知能)が進化を続けています。将来、そのAIに取って代わられてしまう仕事があるかもしれません。とくに膨大な知識を前提とする職業、あるいは正確さ・緻密さを求められるような職業はAIの得意分野であるだけにその影響は避けられません。だからといって「どの仕事を選べば身分が安定しているか」と選ぼうとしても、そんなことを見通すのは不可能。多くの予想ははずれるものなのです。そうではなくて、「やりたい仕事」「自分に向いている仕事」を必要条件にした職業選びをした方がいいと思います。

私は幼いころから「医者になりたい」と思っていました。しかし、小学生のころは勉強をしない、宿題すらやっていかない、そもそも学校が嫌いな子どもでした。そして、そのままなんの努力もしない中学生になってしまいました。なのに、そんな私が夢だった医者になれたのは奇蹟かも知れません。でも、偶然ではありません。偶然では決して医者にはなれないのです。医者になれたのは、まさに皆さんと同じ中学三年生のときの私が生まれ変わりはじめたからです(以前の記事「やる気スイッチ」を読んで下さい)。

私が生まれ変わるきっかけは「三つの転機」にあります。「三つの転機」とは、「このままでは高校には受からない」と担任の先生に宣告された中三のとき。そして、それまで高校で外国語として習っていたドイツ語を大学生の先輩に否定されてしまった高三のとき。さらに、卒業研究に打ち込む同級生たちの姿に「やりたいことを仕事にする大切さ」を思い知らされた大学四年生のときのこと。この「三つの転機」を乗り切れたからこそ今の私があります。これらの転機がなかったら私は医者にはなれなかったと思います。

一方、その「転機」を乗り切る勇気と力を与えてくれたのが、ふたりの恩師から贈られた「言葉」です。ひとつは、勉強の面白さに気がつきはじめた中学三年のときに英語の先生から言われた言葉。「人間にはなんどか【ここぞ】というときがある。その【ここぞ】というときに踏ん張れるかどうかで、その人の価値が決まるんだよ。」というものです。この言葉は中学生の私の心になぜか響きました。そして、それ以後、私は苦境に立たされるたびにこの言葉を思い出し、くじけそうな自分を支えてくれたように思います。

もうひとつは、大学の就職担当の先生に言われた言葉です。当時の私は就職先を決めなければならない時期なのに、医学部を再受験するかどうか迷っていました。それは、同級生たちが就職・進学する中、自分だけが大学受験生に戻ることが不安だったから。また、「なんど受験しても合格できなかったらみじめだ」と思っていたからです。そんな時に先生は言いました。「他人(ひと)がどう思うかではなく、君がなにをしたいかじゃないか。他人は他人、君は君なんだよ」と。この言葉が私に再受験をする勇気を与えてくれました。

ひとつひとつの苦境にくじけていたら、きっと私は、うまくいかないことを運の悪さのせいにする、いじけた人間になっていたでしょう。これまでの半生を振り返ると、なりたかった医師になれたことそれ自体よりも、医師になるために頑張ったことがいかに貴重だったかに気が付きます。困難にぶつかってもあきらめず、立ちはだかる壁を乗り越えようとする努力こそが重要なのです。そうした経験はなにか大切なものを残してくれます。その意味で、先ほどの「三つの転機」と「ふたつの言葉」は私の宝物になりました。

皆さんに強調したいのは、「一回や二回の成功や失敗で人生は決まらない」ということです。「人生はなんどでもやりなおせる」ということも知ってほしい。人生をまっとうするうえで大切なのは、成功を繰り返すことでもなければ、失敗しないことでもありません。むしろ、「ひとつひとつの成功や失敗をふまえて、『これからの自分はなにをしなければならないのか』を考え、それを誠実に実行すること」です。成功や失敗は単なる通過点にすぎません。その積み重ねが皆さんの人生を意義深いものにしていくのです。

世の中には「下らない序列」にあふれています。偏差値がどうの、学歴がどうの、社会的地位がどうの、収入がどうの、と忌まわしい序列が人々を振り回しています。人の幸せにはいろいろな形があります。同じものなどひとつとしてありません。ましてや、他人に誇らしげに見せつけるものではない。楽しい家庭を持つことを幸福と呼ぶ人もいるでしょう。使い切れないほどの財産を所有することが幸せだと思う人すらいます。幸せの形がどうであれ、あなた自身の幸福のために「どんな職業が自分にふさわしいか」を考えることが大切です。

人生は長いようで短いもの。私が【ジョン・万次郎の生涯】をたくさんの人に知ってほしいのは、彼が自分の人生における困難にくじけず、常に前を向いて生き抜いたことを伝えたいからです。皆さんはこれからさまざまな経験をしていくことでしょう。うまくいって欣喜雀躍(きんきじゃくやく)することがあると思います。しかし、うまくいかずに打ちのめされることだってあるかもしれません。そのいずれのときであっても、ぜひ思い出してほしいことを今日はまとめてみました。

                                   皆さん、頑張りましょう。

「【ここぞ】というときに踏ん張れるかどうかで、その人の価値が決まるんだよ 」

「 他人(ひと)がどう思うかではなく、君がなにをしたいかじゃないか 」

「 一回や二回の成功や失敗で人生は決まらない 」

「 人生はなんどでもやり直すことができる 」

                   ※ 姉妹編「子ども達に伝えたいこと(2)」もお読み下さい

 

受験という人生

2月7日(土)と8日(日)の二日間、第120回医師国家試験(国試)が実施されました。医師になるためにはなんとしても合格しなければならない試験です。合計400問の問題が出題され、その70%以上を正解しなければ合格できない厳しい試験です。私たちのときの国試は600問の問題を3日間で回答する形式で行なわれていましたが、2018年(平成30年)から二日間で400問に変更されました。でも、問題数が減ったからといって易しくなったわけではありません。私たちのときとくらべると、最近の画像診断や治療方法ははるかに発達・進歩しており、膨大な知識を必要とする今の試験は、かえって昔より難しいものになっています。

あれだけ勉強して医学部の入試を突破してきた医学生たちにも、「今までこれほど勉強したことはない」といわせるほどの勉強量を要します。「90%の人が合格するのだから」といえるほど簡単な試験ではありません。「問題の70%を正解すればいいだけ」と励ます人もいますが、むしろ「上位何名までが合格」と定員が決まっていた方がどれだけ楽でしょう。なぜなら、その年の試験の難しさに関係なく定員までは合格できるからです。しかし、「70%以上の正解で合格」となればそうはいきません。難しい問題が多い年に当たってしまえば合格者の数は激減し、受験したときの国試の難易度によって医者になれるかどうかが左右されるのです。

医師国家試験が医学生にとってどれほどの重圧になっているかは、私自身が今もときどき国試に合格できなかった悪夢にうなされることからもわかります。私のこの悪夢は、国家試験を目前にしているのに、まったくその準備ができていない場面からはじまります。夢の中の同級生たちはすでに国試対策が完了していて自信満々です。私は心の中で「来年までの一年間しっかり勉強して試験に臨めばいい」と自分をなぐさめるのです。合格していく同級生達に取り残される孤独感。下級生達と国家試験を受けることになった屈辱感。来年の国試には無事合格できるだろうかという不安な気持ちに押しつぶされそうになって目が覚めるのです。

国家試験が終わるとまさに放心状態が続きます。開放感を味わう余裕もないほどくたくたになっているのです。国試が終ったあとの私の自室は、しばらくの間、プリントや資料が散乱し、たくさんの医学書や問題集などが机に積み重なっていました。「合否なんてどうでもいい。やるだけのことはやったんだ」。そんなところでしょうか。そして、ホッとする間もなく、合格発表の日が近づいてきます。自己採点をしなかった私は再び緊張と重圧感でいっぱいに。私はそんな感情から逃れるように、千葉から来た両親と道内旅行をしました。友人から合格の知らせが道北の旅館に届いたとき、両親はもちろん、旅館の方までもが喜んでくれました。

戦後の医師国家試験でもっとも低い合格率は、1954年の第14回医師国家試験の64.1%だといわれています。このころの試験は今のようにマークシート形式の試験ではなく、筆記試験(記述式)と口頭試問でした。まだ戦後の混乱期にあり、国家試験の制度そのものが整備されておらず、問われる知識も採点する試験監督によってまちまちでした。また、当時は、質の高い医師を養成するという政策の一環で、合否に関しては厳しい態度がとられていました。1984年(昭和54年)の第73回医師国家試験から筆記試験と口頭試問はマークシート形式に統一され、それまで春と秋の年二回おこなわれていた試験は1986年に年一回になりました。

こうした試験制度の変更は、マークシート形式の入試方法が導入されたことがその背景にあります。シート上に印刷された選択肢を鉛筆で塗りつぶし、OMR(光学式読み取り装置)によって読み取り、短期間に採点を終えられるようになったのです。以前の国立大学の入学試験は、一次試験と二次試験を課す大学も、また、一回の試験で合否を決める大学も、各大学が独自に入試問題を作っていました。しかし、大学が独自性を出そうとすればするほど、教科書の範囲を逸脱したいわゆる「難問・奇問」が誕生するなどして社会問題になりました。そうした問題を改善するために、1979年にはじまったのが「共通一次試験」です。

共通一次試験の目的は、本来、学校教育における受験生の学習習熟度を測ることにありました。問題はどの教科もいわゆる教科書レベルに近く、「学校の勉強をまじめにやっていれば平均点はとれる」といわれるものでした。ですから、開始された当初、多くの大学は一次試験として5教科7科目(英・数・国・理2・社2)を受験することが必要でした。しかし、1990年から「大学入試センター試験」と名称が変更され、政府の主導で私立大学の入試においても利用されはじめました。そして、大学や学部によって要求される受験科目数はさまざまになりましたが、問題自体は難化し、教科書レベルだけでは対応できないものになっていきました。

2021年からセンター試験は「大学入学共通テスト」と名称が変わりました。世界のグローバル化、国際化、多様化に対応する受験生を選抜するためとされました。しかし、そうした「お花畑の理念」は、かえって教育の質を低下させ、受験生を翻弄しています。かつて、「ゆとり教育」がおこなわれていた時期がありました。教育内容の簡素化や教育時間の短縮などによって「受験戦争」と呼ばれる「競争の激化」を解消しようとしたのです。しかし、そのような小手先の改革は「受験戦争」という問題を解決しませんでした。むしろ、自主的に勉強していた生徒と「ゆとり教育」に乗せられた生徒との間で格差を生じさせるだけだったのです。

高校受験や大学受験、あるいは就職試験のように、合格定員が設けられた選抜において競争となるのはやむを得ないことです。あらゆるところに競争が待ち受ける社会に生きる以上、競争と無縁ではいられないのです。「ゆとり教育」は「受験戦争」や「競争社会」から子ども達を守る改革と思われていました。しかし、実際には、その「ゆとり教育」は「逃れられない競争からのモラトリアム」にすぎなかったのです。現実に存在する競争を社会悪として、子ども達をそこから遠ざけようとするのは間違いです。教育は少なくともそうした現実に対処するすべを子ども達に教え、「失敗を恐れてはいけない」と背中を押す存在であるべきです。

いくつかの理工系大学の入試ではいわゆる「女子枠」が設けられるようになりました。女子枠を設けて理工系学部における女子学生の数を増やそうというわけです。しかし、これも間違った改革です。よく考えてみて下さい。なぜ理工系学部の女子学生を増やさなければならないのでしょうか。社会のリケジョを増やすためですか。でも、なぜリケジョを増やすのでしょうか。ある人は言います。「男女平等参画社会を実現するためだ」と。そこまでして理系の職場に女性労働者を増やすことが、どうして「男女平等」につながるのでしょうか。そんなことは単なる数あわせにすぎず、ことの本質が理解できていない人間が考える浅知恵です。

そもそも「女子枠」を設置すること自体が「男女平等参画社会」という理念に矛盾しています。本来であれば、理系に進みたいと思う女子生徒を増やす工夫が必要であるはず。もし、「女子枠」を設けるのであれば合理的な目的と理由が必要です。私は、医学部の入試において、男子枠と女子枠を別々に設けて募集すべきだと思っています。それは大学医学部には地方の病院に医師を派遣して地域医療を支える使命があるからです。とくに激務がもとめられる外科系の医師は地方の医療に欠かすことができません。しかし、医学部に女子学生が増えすぎれば、そうした激務に従事する医師の数が減り、地域医療を支えることができなくなるのです。

もちろん、激務をこなす女医の数が増えれば問題は解決します。しかし、現実問題として、今の男子学生ですら、そうした激務の科には進もうとしない傾向が高まっているご時世です。地域医療を守るためにも、その大学医学部が必要としている医師の受給を考慮して、男子枠・女子枠それぞれの募集定員を設けた上で入試をすればいいと思うのです。でも、理工系学部の入試に広がる「女子枠」はそうした説明可能で合理的な目的や理由がありません。とくに、パイロット不足の解消を目的にした航空大学校での女子枠は、学科試験も免除という優遇ぶりなのにはあきれます。航空大学校の募集定員を増やせばいいだけの話しです。

試験はひとりの人間が試されるとき。その人の努力、忍耐力、意志の強さのみならず、価値観や人生観までもが問われる場面です。人生の大切な局面としての試験は、だからこそ平等でなければなりません。しかし、平等とは必ずしも「同じであること」を意味しません。「男女平等参画社会」に代表されるような、今の社会に錯綜するスローガンは必ずしも平等のあるべき姿を正しく主張していないのです。受験という人生の大きなイベントだけは、社会のあり方に左右されないものであってほしい。その意味で、一発勝負であろうと、受験生の負担が大きかろうと、昔の受験制度の方が今よりよほど平等だったのではないかと思います。

競争のない社会が平等なのではありません。格差のない社会が平等なのでもありません。誰もが競争に加わることができること、努力が努力として報われる社会こそが平等なのだと思います。そして、競争に失敗しても、何度でもチャレンジできる社会の実現が必要なのです。教育は子ども達にそのことを教える必要があります。頑張ることの尊さとチャレンジする勇気。頑張った結果にとらわれず、他者の価値観や人生観を尊重する大切さを子ども達に教えるのです。その意味で、男女の差違や区別を否定的にとらえたり、競争や格差の負の側面をことさらに強調する今の社会の風潮は間違っていると思っています。

やる気スイッチ

母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。

母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。

なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。

都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。

同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。

意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。

また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。

我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。

長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?

母:都立高校であればどこでもいいと思っています。

長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。

母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。

帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。

勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。

**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)

「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。

私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。

医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。

***************** 以上

この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。

その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。

先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。

私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。

その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。

いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。

このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。

自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。

私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。

とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。

※ 未来のある子ども達に贈る歌  「壊れかけのRadio」

※ 中学生のころの自分に贈る歌  「帰れない二人」

 

琴線にふれる街

以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

************ 以下、本文

「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。

スポーツのもつ力

新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

TVでは箱根駅伝の様子が中継されています。毎年、お正月の恒例でもあるこの駅伝大会に、長い間、私はまるで興味がありませんでした。亡くなった父がかつて駅伝の選手だったにもかかわらず、です。しかし、以前のブログでも紹介したように、かつての勤務先の病院に入院中の奥さんを毎日見舞いに来られていた方が「箱根駅伝に出場した選手だった」ということを知ってから箱根駅伝の中継を見るようになりました。

私は小さいときから運動音痴でしたが、スポーツに興味だけはありました。小学生のころはテレビでよく放映されていたキックボクシングにはまっていました。当時、「キックの鬼」として有名だった沢村忠よりも「錦利弘(にしきとしひろ)」という選手が好きでした。なぜそうだったのかはわかりません。へそ曲がりだったのでしょうね(今もそうです)。彼の「電光回し蹴り」に胸をときめかせていたのを思い出します。

小学校の修学旅行はご多分にもれず日光に行ったのですが、私は宿で熱を出してしまい、夜は先生達が泊まっている大部屋に寝かされていました。そして、担任の先生や生徒達が夕食のために大広間に行っている間、私は校長先生とプロレスをテレビで見ていました。それまで近づきにくかった校長先生はプロレスファンだったらしく、高熱に苦しんでいる私にレスラーの説明をずっとしてくれていました。

中学に入る頃になると、いろいろなスポーツに興味を持ちはじめました。自分でやるというよりも、自宅の庭の芝生に穴を掘って、パターを自作してゴルフの練習をしたり、母から洋服生地の切れ端をもらってアメリカン・フットボールのボールを作り、友達とキャッチボールをしたりする程度でした。コツコツ練習をする努力も、長距離走のような「苦しい運動」も好きじゃなかったんでしょうね。

私が小学生から中学生だったころはプロ野球が全盛期でした。ジャイアンツのV9(9連続日本一)もありましたし、長島や王は子ども達のヒーローでした。子どもの頃の私はジャイアンツの大ファンでした。華やかな長島選手よりも淡々とした王選手が好きでした。しかし、あの「江川投手をめぐる空白の一日事件」ですっかり野球への興味をなくし、巨人が負ければどこが勝ってもいい「アンチ巨人」となってしまいました。

最近、部活の問題がしばしばとりあげられるようになりました。子ども達への鉄剤投与の問題もそのひとつです。記録が伸びないことを鉄剤の投与でカバーしようというものです。医学的にも問題が多いことが指摘され、コーチングのあり方として疑問が呈されている問題です。部活とは本来教育の一環として行なわれるべきです。しかし、行きすぎた結果至上主義は選手の健康を蝕むことにつながります。

運動誘発性無月経の問題も同様です。過剰な練習を続ける女子選手に無月経が起こることがあります。以前、スポーツ医学を専門にしている医師と連絡をとったとき、彼が「この問題が広く認識されていない」と嘆いていました。無月経が長期間続くとどんな結果につながるのかを多くのコーチが知りません。結果至上主義を全否定しませんが、「部活は教育だ」という視点を忘れてはいけません。

とはいえ、私はまともにスポーツをやったことのない人間です。その私が「たかが部活」と言ったところで、選手やコーチがどんな思いで練習をし、大会に挑んでいるかなどわかるはずもありません。私をアンチ巨人にしたあの「空白の一日事件」の江川投手にしても同じです。あの一件で彼がどれだけ傷ついたか。あの事件を背負いながら生きてきた45年の重みは誰にも想像できないでしょう。

来年の箱根駅伝は第100回を迎えるそうです。その記念すべき大会のシード権をめぐって選手達は大手町のゴールをめざしています。若い人たちがなにかに向けて頑張ることは素晴らしいことです。その結果がどうであれ、次の目標に向かって走り続けることが大切です。人生に「最終目標」などありません。良い結果も悪い結果も次につながる良い結果にしなければなりません。人生、万事塞翁が馬。今年も一年頑張りましょう。

 

年末に感じること

早いもので今日で2022年が終わってしまいます。ここ数年、日本のみならず世界中が新型コロナウィルスに振り回されてきました。しかし、この2月に始まったウクライナ戦争は、世界の秩序を乱し、世界経済にも暗い影を落としています。ウクライナの悲しい歴史を多くの日本人は知りません。ウクライナ国民の多くはスラブ民族ですが、奴隷を意味する英語の「slave」はこのスラブに由来しているのです。

新型コロナウィルス感染症は中国の武漢に起源するといわれています。新型のウィルス感染症が人から人に感染し、重症率も鳥インフルエンザほどではないにせよそれなりのものであることは当初からわかっていました。このウィルス感染症はまたたく間に武漢から中国全土へと広がり、絶好調だった中国経済の勢いに乗って世界中に拡散していきました。それからの惨状は皆さんもご存知の通りです。

その新型コロナがようやく落ち着いてきたかと思った矢先のウクライナ戦争です。ウクライナは世界有数の穀倉地帯であり、一方のロシアは原油や天然ガスをEU諸国に供給する主要な資源国。その両者の戦争が世界経済に大きな影響を与えないはずはありません。しかも独立国家が公然と独立国家に侵略するという国際法違反は、領土拡大を目指す他の覇権主義の国家を刺激してあらたな危機を作り出そうとしています。

そんな不穏な空気、漠然とした危機感を感じながら迎える年末です。自宅のちょっとした大掃除を終えてホッとしていても、ふと「今ごろ、病院ではたくさんの人たちが不眠不休で仕事をしているのだ」、「暖房もままならないウクライナの人たちはどんな新年を迎えるのだろうか」という思いが心をよぎります。来年こそは日本中の、そして世界中の人たちが新年を祝えるようになりますようにと祈るような気持ちです。

昨日の夕方、NHK総合では年末恒例の「ドキュメント72時間 年末スペシャル2022」が放映されていたので、それをただぼうっと見ていました。最近のテレビ番組にはどれも興味がわかないのですが、年末に放送されるこのスペシャル番組だけは不思議と見入ってしまうのでした。かつてはテレビ局に勤めてこうした番組を作ってみたいと思ったこともあったからでしょうか。

この「ドキュメント72時間」の中で紹介された「看護専門学校 ナイチンゲールに憧れて」はとてもよかったです。関西のとある看護学校での生徒達の姿を追ったドキュメンタリーでした。看護師という仕事に興味があって入学した人もいれば、「漠然とした気持ちで(入学した)」という人もいる。美容師やCA(スチュワーデス)からの転職だったりとさまざまな背景を持つ生徒の72時間を取材したものです。

私も一般大学を卒業してから医学部を再受験したひとりでした。北大の同級生にも、同じような境遇で入学してきた人が10名ほどいました。年齢もバックグラウンドもさまざまでしたが、北大医学部のいいところはそうした学生ひとりひとりの背景に誰も関心を持たないというところ。現役合格したかどうか、多浪生であったかどうか、そんなことにこだわる学生もいません。それが北大を魅力的な場所にしています。

この「看護専門学校 ナイチンゲールに憧れて」はとてもいい番組でした。皆さんは戴帽式というものをご存じでしょうか。昔の看護師はキャップと呼ばれる看護帽をかぶっていました。看護師という職業を象徴するようなもので、病院によっていろいろな大きさや形状をしていました。キャップを見れば病院がわかるほどでした。しかし、病院での業務の支障になるという理由で今ではすっかり見なくなってしまいました。

それまでの看護学校では、看護に関する座学が一段落し、いよいよ病棟での実習が始まるときにこの戴帽式がおこなわれます。看護師としての象徴でもあるキャップを学生に授与するのです。この式を通じて看護学生はいよいよ看護師になるのだという意識を高めます。私の妹も看護師なのですが、妹の戴帽式のとき、私も看護学校に行って式に出席しました。厳かな雰囲気の中でおこなわれた式はとても感動的なものでした。

しかし、看護師のキャップがなくなるにつれ、戴帽式も廃止してしまう看護学校が続出しました。看護師になることを自覚する機会にもなっている戴帽式。この戴帽式の意義が再認識されて復活させる学校も最近増えてきたとも聴きます。取材された学校でも戴帽式が行なわれ、看護学生としての区切りとなる戴帽式に出席するために苦悩・苦闘するさまざまな学生の姿はまさに青春ドラマそのものです。

この番組は看護師でもある家内と見ていました。そして、私は自分の医学生・研修医時代を、家内は看護学校時代と重ね合わせて見ていました。見終わったとき、私たちふたりの口から思わず出た言葉は「初心を呼び覚まされるね」でした。医療系の学校はうれしいことや楽しいことよりも、辛いことや精神的に苦しいことの方が多いのですが、それでも頑張れるのはやはり自分の仕事に対するプライドがあるからだと思います。

今も病院ではたくさんの人が働いています。新型コロナウィルスワクチンは無効だとか、打っても意味がないだとか。その一方で、新型コロナウィルス感染症による死者は最多になっていて感染は広まる一方だとか。雑音は実に勝手なものです。病院で治療に専念する医師や看護師、薬剤師やその他の病院職員はそんな雑音とはまったく関係なく、目の前にいる患者を救うためにこの瞬間も奔走しているのです。

ゼロコロナ政策から大転換した中国では、新型コロナウィルスがまさに感染爆発し、SNSでは病室はもちろん、遺体安置所や火葬場も不足しているという動画が飛び交っています。そして、薬を求めて病院の熱発外来に人々が殺到し、薬局からは解熱剤が姿を消す事態になっているようです。日本もあのような惨状にならないとはかぎりません。日本人ひとりひとりがよく考えて行動しなければいけないのです。

とある芸能人が「ワクチンを打てば新型コロナウィルスに感染しないといったのに、なぜ新型コロナの死者が過去最多になるんだ」とツイートしていました。社会に影響力を持つ有名人がこの程度のツイートをするのにも困ったものですが、それに乗じて騒ぎを煽り、社分を分断するような医者(医師免許をもっている人たち)の存在にも困ったものです。医者にもいろいろいます。まともなことを言うとは限りません。

新型コロナウィルス感染症で亡くなった人の数が過去最多になるのには理由があります。まずはそれだけ感染する人の数が多いからです。これまでも繰り返してきたように、ウィルスは遺伝子の変異のたびに感染力を高め、一方で致死率を低下させていきます。今の新型コロナウィルスは季節性インフルエンザウィルスとくらべても致死率は低いとされています。亡くなった人の数だけで判断するのは間違いです。

また、大手の新聞社が「直近3ヶ月の死者数は前年の16倍」という見出しで記事を書いています。この直近の3ヶ月と比較された昨年の状況はどうだったでしょうか。当時の新型コロナウィルスの感染状況はきわめて落ち着いているときでした。感染者は今とくらべてずっと少なかったのです。そんな昨年と今とを比較して「16倍も増えている」と不安を煽る報道の目的はなんなのでしょうか。推して知るべしですが。

このウクライナ戦争でロシア軍は国際法にもとる非人道的な行為を続けていることが報道されています。しかし、よく考えて見て下さい。ロシアがそのような愚劣な手段をとるのは今回のウクライナ戦争に限ったことでしょうか。第二次世界大戦のとき、不可侵条約を一方的に破棄して北方領土を侵略したとき、あるいは、日本人入植者を蹴散らしながら満蒙国境を越えてきたときに彼等がどんなことをしたのか。

いや、アフガニスタンに侵攻したとき、あるいは、シリア戦争のときのロシアによる軍事作戦だって同じです。今のウクライナでおこなわれていることや、それ以上のことがおこなわれてきたはずです。それを我々は知らされなかっただけ。報道(ジャーナリズム)の使命はそうした世界の「隠された真実」を明らかにすること。国民・市民にそれらをありのままに伝えることです。煽ることでは決してありません。

来年はいったいどんな年になるのでしょうか。少なくとも、世界中の英知を結集して、新型コロナウィルス渦から逃れ、世界に平和と協調をもたらさなければなりません。そのためには「真実」を知らなければいけない。なにが正しく、なにが正義なのか。形而上学的な議論によるものではなく、よもやマスコミの論調にながされるようなものでもない。自分の頭を使って真実かどうかを見極めるのです。私自身はそう努力し続けるいち年にしたいと思っています。

皆さん、佳い大晦日をお過ごし下さい。来年が皆さんにとってより素晴らしい年になりますように。
Prosit Neujahr !