あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろとお世話になりました。
今年はエルニーニョ現象のせいで暖かい日が多く、冬だという実感があまり湧いてきません。札幌時代の冬はしっかり雪が降っていましたから、冬になれば一面の銀世界となり冬らしい景色を見ることができました。昔から札幌に住んでいる人たちから言わせると、それでも「最近は雪が少なくなったよ」ということらしいのですが。そう言えば、私が札幌にいたころも、雪まつりの時期(今年は2月5日からだそうです)になると一時的に寒さが緩み、大道り公園に作られた雪像が溶けてしまって大修復、なんてこともありました。ともあれ、冬はしっかり冬らしく、って方が私は好きです。
この季節になるといつもアメリカにいた頃を思い出します。2000年(平成12年)に私はミシガン州ann arbor(アナーバー)市にあるMichigan大学との共同研究のためにアメリカに滞在していました。日本でおこなった調査をアメリカでもおこなって日米での比較検討をするのが目的です。2000年の1月のちょうど今頃、打ち合わせのためにはじめてアナーバーを訪れたのですが、気候は札幌にとても似ており、すぐにこの町が気に入ってしまいました。雪はそれほど多くはありませんでしたが、寒さは厳しく、車のマフラーから、あるいは街中の煙突からモクモクと水蒸気の煙が立ち上っている景色はなんともアメリカらしく感じたのを覚えています。
大学院に入った私は、自分の研究をなにもかもひとりでやらなければなりませんでした。研究のテーマを決めることも、研究内容の絞り込みや調査の具体的な進め方も、さらには論文の書き方すら自分で学ばなければならなかったのです。それだけでも大変なのに、研究・調査にはお金が予想外にかかり、その研究費をどう捻出するかが当時の私のあたまを悩ます大きな問題でした。いざとなれば自腹で、と思っていましたが、大学からの給料は当然なく、むしろ大学院生として学費を納めなければなりません。アルバイトでようやく生計をたてていた身には、結婚したばかりの家内もふくめて二人分の生活費をまかなうので精いっぱい。自腹で出せる額にも限度がありました。
私の研究テーマに興味をもってくれたミシガン大学の研究者からは「共同研究をするのには300万円の費用が必要」という知らせが届いていました。アメリカでは研究者が研究費を調達し、その中から給与をもらいます。しかも、大学の施設を使用すればその費用もかかる。それらをひっくるめると300万円という大金が必要だったのです。その連絡を受けて、私は日米共同研究はあきらめなければならないかもしれないと思いました。ところが、「拾う神」はいるものです。ダメもとで申請した某製薬会社の研究助成金を運よくもらえることになったのです。しかも500万円という大金。この助成金のおかげで私はなんとか日米共同研究の計画を進めることができたのでした。
当時はこの大金を使って研究をさせてもらう自分の幸運に気がつくこともなく、当時、同じ研究室で研究テーマも見つからずにいた後輩を誘って日米比較研究をすることにしました。でも、今だから正直に言いますが、そのときの私は額の大きな研究費を得てすっかり有頂天になっていたのです。300万円ものミシガン大学への分担金を払ってもなお、調査に同行する後輩の渡航費を払ったり、研究機材を購入したり、調査に協力していただいた人たちへの謝礼に大判振る舞いしたり。その結果、アメリカに渡ってミシガン大学の留学生用住宅に住むころには、あれだけあった助成金はだいぶ少なくなっていて、最終的にはかなりの額の自腹を切るはめになったのでした。
でも、アメリカでの生活はその後の自分に大きな影響を与えました。ミシガン大学の留学生用住宅に住んでいた私と家内は、朝、目を覚ますと大学構内をジョギング。広い駐車場でテニスをやってまたジョギング。家に戻ったらシャワーをあびて朝食。その後、構内を巡回しているバスに乗り大学の研究室へ。朝のカンファレンスに参加して共同研究の準備。そして、調査にでかけたり、調査結果を分析したりしながら、時間に余裕のあるときは家庭医のクリニックや高齢者施設を訪問したりしました。午後は早めに帰宅し、家内とふたたび構内をジョギングしてテニス。シャワーをあびて夕食。日本ではあじわったことのない、夢のような、健康的で、快適な生活はなによりも代えがたい貴重な経験でした。
お休みの日も充実していました。当時、たまたまミシガン大学に留学していた慈恵医大柏病院時代の先輩医師と会ったり、アナーバーの近くに住んでいた家内のいとこ夫婦を自宅に招いてパーティーをしたり。夏のまぶしい日差しの中でおこなわれたアナーバーのサマーフェスティバル(夏祭り)も素敵な思い出です。車でシカゴまで小旅行もしました。帰国する直前には一緒にアメリカに連れて来た大学院の後輩も連れてナイアガラの滝まで行きました。アナーバーから車に乗ってデトロイトを抜け、カナダにわたっての旅はいろいろな事件に遭遇するなど話しはつきません。その辺のことはまた改めて書きます。
これらの経験は帰国後のモチベーションをとても高めました。なにより研究者の端くれとしてのプライドをもつことができるようになりました。自分のやろうとしている研究はまだまだ不十分で、研究手法もほとんど確立されていなかったので、自分の研究で関連領域を体系化し、方法論を確立することができるかもしれないという期待がありました。しかし、当時は圧倒的にマイナーな領域だったので、大学院の中でも、あるいは研究室の中でも異端視され、冷たい視線を向けられていました。それだけに、アメリカの研究者との共同研究は、当時の私のポジションを向上させるのに十分なものであったといえます。
しかし、人間の運命などわからないものです。その後、いろいろなこと(これも是非お話ししたいところですが、ここでは差し障りがあるので書けません)があって大学を離れることになり、最終的には地元にもどって開業することになってしまいました。あのまま自分の研究を続けていれば、という思いもないわけではありません。今になってもなおその領域に着手しようとする人がいないのですから。でも、なにごとも前向きにとらえようと努めている私は、あのときの経験があるからこそ今の自分があるのではないか。とくにアメリカで得られたスピリチュアルな経験があるからこそ頑張れるんだ、と思っています。
私のクリニックの外観は、アナーバーにいたころに訪問したファミリー・ドクターの診療所をイメージして設計しました。診療所らしからぬ、なんとなく人の住む家に来たような、温かみを感じるクリニックを作ろうというのが設計のコンセプトでした。開業して10年が過ぎて振り返ってみると、なんとなくその夢が形になってきたという実感があります。幸い、当院で働くすばらしい職員・スタッフにも恵まれ、なんとか地域に根差したクリニックになりつつあるように感じます。さらにその思いを形にすることができるように頑張らなければいけないと今思いを新たにしているところです。
とりとめのない話しになってしまいましたが、アメリカに行った頃の情熱を思い出しながら、この一年をさらに素晴らしいものにしたいと決意を新たにしたところです。今年もよろしくお願いいたします。