1851年の正月、ついに万次郎、伝蔵、五右衛門の三人は祖国・日本への帰国を果たしました。この三人に寅右衛門と伝蔵をふくめた五人が土佐の足摺岬沖で遭難し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてから10年の歳月が経っていました。重助は漂着した島に上陸する際の怪我がもとで亡くなり、寅右衛門は遭難したときの恐ろしさのあまりに帰国をあきらめてしまいました。万次郎も、また、伝蔵・五右衛門の兄弟も、当初はなんどもチャンスがありながら帰国を果たせずにいました。しかし、なんど失敗しても希望を捨てず、次にやってきたチャンスに食らいついてきた結果がこの帰国につながったのです。
三人は入り江に舟を係留させ、ずぶ濡れになったからだで陸にあがると、村を探して歩きはじめました。まもなく数人の村人が近づいて来るのがわかりました。声をかけましたが言葉が通じないようです。しばらくすると何人かがやって来て日本語で万次郎に話しかけてきました。万次郎は「自分たちは漁をしているときに遭難し、外国で何年も暮らして戻ってきた日本人だ」と説明しました。すると、彼らは三人に食べ物や水をもってきてくれました。そうこうしているうちに、たくさんの村人が三人のまわりにどんどんと集まってきて、「うまく取り次いであげるから、役人に早く届け出た方がいい」と言ってくれました。
万次郎らが役所に出向くと、さっそく事情聴取がはじまりました。地元の役人たちには、これまでの長い経過を話して聞かせました。でも、厳しい鎖国状態の日本にあって、彼等のあつかいは難しいものとなりました。薩摩藩、そして幕府に対してお伺い立てをしなければならないことだったからです。三人は一軒の民家を逗留地に、しばらく滞在することになりました。そこに薩摩藩の役人もやってきていろいろと質問されました。結局、半年にわたってその家に軟禁状態になることを強いられてしまいます。しかし、新しい衣服も与えられ、食事も料理人が作ってくれました。三人は久しぶりに日本で生活していることを実感しました。
琉球での生活にも慣れた夏、三人は薩摩藩の取り調べをうけるために移送されることになりました。突然のこととはいえ、万次郎たちは服を着替え、出迎えに来たたくさんの役人を連れだって駕籠に乗ります。これまで面倒を見てくれた村人は涙をながしながら三人を見送りました。その後、鹿児島湾に到着した万次郎達を薩摩藩は丁重に扱ってくれました。藩主の島津斉彬から「食事もふくめて三人の要望に従い、彼等には丁寧に接するように」と厳命されていたからです。以後、贅沢ともいえるような食事と、晩酌に酒までがふるまわれた上に、三人には金一両の俸給までが支払われました。
薩摩藩の島津斉彬は開明派として知られ、軍をはじめとする藩政の近代化を進めていました。薩摩藩は琉球を通じて海外と交易していたため、当時の国際状況については比較的よく知っていました。このころの薩摩藩の沖には海外の船舶がさかんにやってくるようになっていました。なかには大砲を搭載した巨大軍艦が姿を見せることさえありました。斉彬は万次郎たちからアメリカやハワイの様子をこまかく聞きたかったのです。城に呼び寄せられた三人と面会したとき、斉彬は世界地図・地理のことを説明させ、アメリカの大統領制と民主主義のことや科学技術の発達した社会の様子などをたずねました。
二ヶ月もすると幕府直轄の長崎奉行所に移されることになりました。そこでまた事情聴取が繰り返されるのです。長崎に上陸した三人は奉行所につくと白州に召し出されました。そして、簡単な質問に答えると、真鍮でできた30cm四方の金属製の板を踏むように指示されました。「絵踏(えふみ)」でした。そこには聖母マリアと幼いキリストの姿が彫られていましたが、三人にはその板を踏むのになんの躊躇もありませんでした。すぐに長崎奉行直々の取り調べが始まりました。その結果、「三日間の入牢」が形式的に執行されることになったのですが、それを期に三人は月代(さかやき)に髷(まげ)を結うことが許されました。
入牢といっても、万次郎たちが入ったのは「揚がり屋」です。そこは下級武士や医師、僧侶などの一定の身分のものが入る場所でした。一般庶民が収容される大牢とは異なり、狭いところにすし詰めにされたり、劣悪な待遇を受けたりすることはありません。万次郎たちはそこでハワイで知り合った紀州船の船乗り達と再会することができました。あれから中国に到着し、しばらく滞在した後、日本行きの船に乗れて帰国してきたようです。そして今、故郷の紀州に戻るのを待っているとのこと。まもなく、紀州から役人が迎えにきて彼等は長崎を去って行きました。「いよいよ自分たちも土佐に帰れるぞ」と三人も期待に胸がふくらみます。
ついに万次郎、伝蔵と五右衛門にも奉行所から呼び出しがかかりました。三人が白州で待っていると、長崎奉行と奉行所の役人、そして、土佐藩の役人が入ってきました。奉行は「三人が嵐に会い漂流して異国に行かざるを得ず、キリシタンになることなく帰国を果たした」と述べ、「ゆえに土佐への帰還を許す」と宣言しました。ただし、以後、土佐を離れないこと、重助や寅右衛門のことは家族に説明してもよいが、それ以外のことはむやみに話さないことなどを申しつけられました。アメリカからもちかえった物品の多くは没収されましたが、砂金や銀貨については日本銀に両替して返却されました。
三人は念願だった土佐に帰還をはたしました。しかし、すぐに家族が待っている家に帰れたわけではありません。土佐藩の事情聴取があったのです。その尋問は二ヶ月ほどかかりました。帰郷の許可がおりたのはそれから。伝蔵と五右衛門の家は朽ち果ててどこにあるのかもわからない状態でした。やむを得ずいとこの家を見つけ、そこで親戚達と二人の帰国を喜び合いました。万次郎も母がいる中浜に戻ってきました。幸いにも年老いた母はまだ生きていてくれました。兄弟達も酒をもって集まってくれ、万次郎の十年にもおよぶ苦労話しに涙を流しました。三人は土佐藩の下級武士となり、漁に出られないかわりに俸禄があたえられました。
しかし、万次郎の物語はこれで終りません。万次郎が土佐に戻った翌年の1853年、浦賀にはマシュー・ペリーを司令長官とする4隻のアメリカ海軍東インド艦隊がやってきました。このときの艦隊のうちの2隻が黒い煙をはきながら自走する大きな蒸気船でした。その圧倒される光景に、浦賀はもちろん、江戸でもうわさがうわさを呼んで大騒ぎになっていたのでした。その時の幕府は、アメリカから帰国していた万次郎のことを知っていました。万次郎は急遽、幕府に呼び出されることになりました。そして、江戸城に登城させるため、幕府は彼を御普請役格という幕府直参の武士(旗本)に任じました。幕臣「中浜万次郎」の誕生です。
万次郎が幕府の直参になるという話しは土佐藩中に広まりました。うろたえたのは土佐藩自身です。それほどの大人物を下級の武士として召し抱えていたことを幕府にとがめられはしないかと考えたのです。土佐藩と幕府がともに動揺する中、幕臣となった万次郎は江戸に向かいました。万次郎は江川太郎左衛門の私邸に住み込みながら、彼のもとで幕府の国防に関わる仕事をすることになっていました。江川家は伊豆国にある幕府直轄領を治める代官を世襲した名士。江戸湾防衛の砲台である「品川台場(現在のお台場)」を設計・築造したり、大砲を造るために「韮山反射炉(のちに世界文化遺産に登録)」を造ったことで知られています。
ときの老中首座は阿部正弘。彼は福山藩という中国地方では小さな藩の出ではありましたが、23歳で幕府の老中に抜擢されるほどの秀才でした。ペリーらとの対応に忙殺される中、彼は江戸にやってきた万次郎と直接会ってみたいと思いました。万次郎がどれほどの賢者であるかを自分の目で確かめたかったのです。老中・阿部の私邸に江川太郎左衛門とともに呼び寄せられた万次郎は、これまで自分が見聞きしてきたアメリカの政治・社会全般のことや、自分が受けてきた教育や捕鯨という仕事のことなどを詳細に説明しました。どの話しもアメリカと日本の文化や国力の差を感じさせるものばかりでした。
さすがの阿部もまったく想像もつかない話しに驚嘆したことでしょう。そして、ペリー艦隊が「日本国皇帝」に対して置いていった大統領からの親書の意図を、万次郎は捕鯨船の補給基地を求めてのことだろうと説明しました。そして、10年間という長期にわたってアメリカで生活してきた経験をふまえて、アメリカという国家の懐の深さと、キリスト教精神に裏付けられたアメリカ人の寛容さからいって、アメリカが武力を使って日本を植民地にするはずがないと付け加えたに違いありません。これは万次郎がアメリカをかばうためにとりつくったことではなく、実物大のアメリカを知っている彼の正直な気持ちだったはずです。
************************** 「運命について(終)」につづく