いつか見た風景

私の世代以上であれば「傷だらけの人生」という歌をご存知だと思います。1970年に発表された鶴田浩二の歌です。この歌が世に出たころ私はまだ小学生でした。なぜかこの歌がまだ子供だった私の耳に残り、繰り返し口ずさんでいたのを思い出します。その後、大人になってからも、世の中のいろいろな「莫迦と阿呆」を見るたびにこの歌詞があたまに浮かんできます。

なにからなにまで真っ暗闇よ

筋の通らぬことばかり

右を向いても、左を見ても

莫迦と阿呆のからみあい

どこに男の夢がある

連日、TVのワイドショーでは「過去最大の感染者数」とマスコミが叫んでいます。政府は専門家会議を抱してもなお有効な対策を打ち出せず、この新型コロナウィルスの拡大に目途をつけることができません。連日感染者の治療にあたる病院のみならず、社会全体が疲弊していく中、いまだに自粛頼みであり、そのとばっちりがまるで飲酒に向いているかのようです。

一向に感染者(というか、検査陽性者)が減らず、「これからどうなってしまうのだろう」と考えてしまう人も少なくないと思います。中には、「自衛策」として、万がいち新型コロナウィルスに感染して自宅療養になったときのためにサチュレーションモニター(酸素の量を測る装置)あるいは酸素濃縮器を用意しておこうと考える人まで出てきています。

あるいはイベルメクチンという寄生虫の薬が新型コロナ感染症に有効だとする論文がでてから、「イベルメクチンは新型コロナの特効薬」と信じる人もたくさんいます。人によってはネット購入する人もいると聞きます。しかし、多くの研究機関で追試がなされ、「イベルメクチンに有効性は確認されない」「治療薬として推奨しない」と結論づけられているのです。

イベルメクチンの有効性を示したいくつかの論文では、その重大な誤りが指摘され、あるいはねつ造であることを指摘されて撤回を余儀なくされているほどです。「それでもなにも薬を使わないよりまし」と投与している医者もごく少数ですがいます。そういう科学的妥当性に欠ける薬の使い方をしている医者が普段どんな診療をしているのかは推して知るべしです。

このような光景、いつかどこかで見たことありませんか?そうです。10年前に原発事故とその後の放射能の騒ぎが今と重なるのです。「今日の放射線量は〇〇μシーベルトです」と連日報道され、専門家会議を抱しても原発事故への有効な手立てを見いだせない中で、事故現場で文字通り命がけで作業をする東電社員たちの頑張りだけが頼りだったことは今でも鮮明に思い出すことができます。

その放射能に翻弄された過去の風景は、「今日の陽性者数」で人心を惑わせるマスコミだったり、あるいは有識者会議や医師会が自粛要請を繰り返すのみで相も変わらず有効な対応策をとれない政府や行政だったり、新型コロナウィルスの嵐が過ぎ去るまでの頼みの綱が治療にあたっている病院のみだったりする今の風景と重なります。

放射能の不安に駆られた人たちは食料確保に走り、飲料水に放射性物質が混入しているという報道に人々は水を奪い合いました。乳児たちのミルクを作るのに必要な水を、大のおとな達がおかまいなしに買い占めたのです。その様子はまるで消毒用アルコールやマスクを買いにドラッグストアに人々が殺到したときとまるで同じように見えます。

10年前、多くの人たちが空間線量計を購入し、自宅周囲の放射線量をやみくもに測定しては不安を自ら駆り立てていました。放射線量の意味も考えず、子どもたちは校庭や公園で遊ぶことを禁じられ、いたるところで不必要な除染がおこなわれました。ある人達はヨウ素製剤を放射能障害の予防薬だと信じてネット購入し、医療機関でヨウ素剤の処方を求める人すらいました。

あるいは、福島ナンバーの車に嫌がらせをしたり、福島から避難してきた子どもたちがいじめられたりもしました。それはまるで「医療従事者から新型コロナがうつる」あるいは「医療従事者の子どもは保育園に連れてくるな」と根拠のない差別が横行したのと似ています。今のコロナ禍における無知は、あの原発事故の際と変わらぬ社会の分断を引き起こしているのです。

どうして人は学ばないのでしょう。不安にまかせて行動することの愚かさになぜ気が付かないのでしょうか。「ワクチンは打たない」という人がいます。「なぜ?」と尋ねると「副反応が怖いから」「将来、どんな影響があるかわからないから」と答えます。しかし、それらの恐怖や不安にはかくたる根拠はありません。新型コロナに感染することの方がよほど怖いでしょうに。

あのとき「放射能が怖い」と不安にかられた人たちもそうでした。「なぜ放射能が怖いのですか」と聞いても、その多くの人は「なんとなく」「なにか恐ろしいことが起こるかもしれないから」とあいまいです。根拠が希薄なこの不安は、まるで幽霊かなにかを怖がっているかのようです。「なぜ不安なのか?」「どういうところが不安なのか?」という理性が働かないのです。

その一方で、楽観的になることにも理性がは必要です。「なぜ楽観的でいいのか」「どのようなところが楽観的でいいのか」。そういう問いかけに答えを持たなければなりません。「マスクはしなくても大丈夫」、「ワクチンなんてなくても平気」、「今の感染拡大は心配ない」、「イベルメクチンは新型コロナの特効薬」。いずれもその根拠を冷静に考えることが肝要です。

新型コロナの今の感染状況は決して楽観的なものではないと思います。陽性反応者がこれだけ増えれば、やがて重症者も増えてくるでしょうし。しかし、これはワクチン接種を高齢者から重点的に進め、若年者や現役世代への接種をあとまわしにしてきた結果です。陽性者の増加にくらべて重症者や死者の増加が抑制されていることからもそれがわかります。

今、若い人たちに感染が広がっています。それでも若い世代の感染患者の多くは無症状か、さもなけれ軽症の人たちです。重症者の多くは50歳代以上であり、死亡者の多くは60歳代以上といずれも若い人たちは少数派です。しかし、こうした傾向も、やがて若い人たちを中心に変化していくかもしれません。そうなったとき、事態は重大かつ深刻になったと考えるべきです。

若い人たちに感染患者が増えているからといって、彼らに「遊びに行くな、会食するな、飲酒など論外」と強いるのは少し酷だと思います。もうこんな生活が一年半も続いているのですから。彼等にだって仕事があります、学校があります。ありあまるエネルギーがあります。そんな彼らへのワクチン接種を後回しにしておいて、ただ「じっとしていろ」はないだろと思います。

「高齢者へのワクチン接種が進んでいるのだからそろそろ」と気が緩んだとしても仕方ないかもしれません。そんなことに目くじらを立てるより、すべての国民が引き続き手洗い・うがいを励行し、マスク着用を継続するしかないのです。そして、いかにして早く、そしてたくさんの若者や現役世代にワクチンを打ってもらうか、です。そうすれば必ず感染拡大はおさまります。

医療崩壊、とくに病院の診療を崩壊させない方策をいかにとっていくかも重要です。イベルメクチンという、効果が判然しない薬を特効薬と考える一部の医者がSNSやマスコミをつかって世の中を混乱させています。その結果、医療現場ではイベルメクチンが不足し、本来、このイベルメクチンを必要としている患者に対する治療に支障になっているケースもあります。

感染症法上、エボラ出血熱と同じ1類に分類されている新型コロナウィルスは、感染が確認された時点で原則的に病院に収容させることになっています。これが病院のプレッシャーになっています。本来は、病院での管理が必要なケースにかぎって入院させ、それ以外は自宅療養またはホテル療養とすべきです。そうしたことができないのは行政と医師会が手をこまねいているからです。

ワクチン接種が行われていなかったこれまでであれば、家庭内での感染が懸念されたことから原則的に入院となっていたことは理解できます。しかし、ワクチンの接種が進んでいる今、保健所は入院の対象とならない患者およびその家族に対して家庭内で経過観察するポイントを具体的に示し、どのようなケースが入院になるのかを説明して様子を見るという方向性が必要になっています。

それにしても一番大切なことは、いかにして若年者あるいは現役世代にいかにワクチン接種を広めるかです。当院でも通常診療の時間を短縮してできるだけ多くの人にワクチンを接種しています。しかし、接種数をこれ以上増やすことは不可能です。診療の片手間にはワクチンを接種できず、接種数を増やすとなれば通常診療をさらに短縮して対応しなければならないからです。

10月になればインフルエンザワクチンの接種もはじまります。しばらくは新型コロナウィルスワクチンと並行して接種しなければなりません。どうやれば通常診療とバランスと効率よく進められるか現在思案中です。また、通常の風邪なのか、新型コロナの患者なのかの区別がつかない熱発患者をどう安全に診療するかについてもこれから検討しなければなりません。

行動の自粛やロックダウンは感染拡大の初期におこなう対応です。アウトブレイクが進み、ここまで感染が拡大している段階で頼る方法ではありません。ロックダウンに効果がないこともヨーロッパやアメリカの事例で明らかです。検査をたくさんやれば感染を抑えられるということも幻想でした。あの「世田谷方式」あるいは大阪での失敗事例がそれを証明しています。

今の報道ぶりを見ると、これからもどんどん感染が広がり、医療が崩壊するなどして世の中が破綻してしまうのではないかと心配する人もいるかもしれません。繰り返しますが、このままワクチンの接種が広がればやがて感染はおちついていきます。それが9月になるのか、10月になるのかわかりません。しかし、このままワクチン接種が進めば必ず落ち着く日がやってきます。

理性を働かせて行動することです。「副反応が怖いからワクチンを打たない」といっている人は、新型コロナに感染することの方がよほど恐ろしいということを認識してください。自分が感染すれば、家族や他の人の感染リスクを高めてしまいます。と同時に、治療する病院とスタッフをさらに疲弊させることになります。ワクチンを接種するのは自分のためだけではないのです。

一刻もはやくたくさんの人がワクチンを接種し、感染対策を万全にしながら徐々に経済活動をもとに戻していくべきです。社会をまもるためにも「自粛よりもワクチン接種」ということに政府は傾注してほしいものです。病院の疲弊を軽くするために保健所と医師会が有効な方策を打ち出し、国民はできるだけ冷静に対応すること。今、できることはこうしたことに尽きます。

「右を向いても、左を見ても、莫迦と阿呆のからみあい」

私たちがこういう「莫迦と阿呆」にならないためにも、正しい知識をもとに、正しく判断し行動することです。くれぐれも表面的で扇動的な情報にとらわれないでください。ワクチンを2回接種した人の致死率は0.001%未満だともいわれています。デルタ株に対する有効性も67~88%だと発表されています。不必要に不安にならず、やるべきことをして嵐が過ぎるのを待ちましょう。

 

 

 

 

コロナワクチンの現状(4)

新型コロナウィルスに感染した患者のうち、中等症の患者までは自宅での経過観察を可能とする方針を政府は打ち出そうとしています。しかし、こうしたことは新型コロナ対策分科会や尾身会長には諮問されることなく決められたようです。ここにいたるまでの対策について分科会、あるいは有識者会議から有効性の高い方策が提言されなかったからでしょうか。もしそうだとしても、公衆衛生の基本はおろか、医学的な知識もない人たちによってこうした重要な政策が決められていたのだとしたら大きな過ちだといわざるをえません。この政策転換が誰の意見によって決められたのかが重要です。

中等症の新型コロナ感染患者とはどのような人たちをいうのでしょうか。それは「咳や息苦しさなど、ある程度の肺炎症状があるにせよ、まだ深刻な低酸素状態にはない患者」です。したがって、低流量の酸素の投与があっても、これによって十分な酸素を確保できるのであれば在宅で様子を見るという場合もあるということです。このような重要な対策については、現場の医療従事者もふくめて幅広い人たちと真剣な議論を重ねる必要があります。とはいえ、こんなことはこれまで私がブログに何度も書いてきたように、もっと早い段階で検討していくべきことでした。

今思えば、新型コロナが感染拡大を始めたころ、そして、第三波と呼ばれる流行がはじまったころ、さらにその後も私は何度となく「保健所をふくめた行政と医師会は綿密な意思疎通を図って連携をとるべきだ」と主張してきました。あるとき千葉県健康福祉部から県内の開業医に向けて次のようなアンケートが送られてきました。「自宅待機している新型コロナ感染患者が急変したとき、往診したり、胸部レントゲン写真をとるなどの検査をしてくれる診療所はないか」というものでした。私はこのとき「医師会との連携をとらないまま対策が進められている」ことを確信しました。

私はアンケートには「その対応には協力しない」と回答しました。それはあまりにも感染症の現実を知らない対応だったからです。「協力できない」と答え、感染症の現実を知らないアンケートだと感じた理由は三つあります。1)簡単な聴診しかできない往診は役立たないばかりか、重症化を判断するまでに無駄な時間をかけてしまう、2)感染症の対応に不慣れなクリニックで胸部レントゲン写真をとれば、クリニックに新たなクラスターをつくる危険性がある、3)重症化したおそれがあるケースには胸部CT検査が必要であり、急変患者はすみやかに病院で診療すべき、だからです。

急変を疑う、この場合、「病院への移送が必要かどうかの急変を疑う場合」はやはり病院での検査を迅速に受けさせるべきです。開業医が連絡を受けてから駆け付け、事情を聴き、経皮的酸素飽和度を測り、聴診をしたところで「そのまま様子を見ましょう」と判断することは現実的にはまずありません。胸部CTや採血をした上でなければ「引き続き自宅安静でよい」とはならないのです。新型コロナウィルス肺炎はたちどころに増悪してしまうという特徴があります。なかば憶測で重症度を判断することなどできません。保健所が提示してきた対応では救える命も救えなくなる危険性をはらんでいます。

そんなことは医学的知識を持っているまっとうな医者ならすぐにわかるはず。にもかかわらずあのようなアンケートをしてきたのは医師会との協議がないままに進められたからです。もし「医師会との協議のうえの対策だ」というなら、協議したその医師会(あるいは医師)はよっぽど無能です。「対応には協力できない」と千葉県に回答する際、そう考える理由と当院でおこなっている対応策をながながと記述して添付しておきました。しかし、私の返信に対する返事はありません。そして、アンケートのような診療が実際に行われたという噂もその後聞いていません。

以前のブログにも書いたように、当院では熱発は風邪症状のある患者を三つのケースに分類して対応しています。それはできるだけ病院の負担を軽減するためのものです。すべての熱発患者、風邪症状のある患者を病院に押し付けるのではなく、新型コロナウィルスの検査を要さないと思われる患者はできるだけクリニックで診療するための分類です。もちろん新型コロナウィルスの検査を要するケースについては病院の熱発外来への受診を勧めています。クリニックでできることには限界があるのです。マンパワーという面でも、施設設備という面からもぎりぎりの対応だと思っています。

しかし、多くの人へのワクチンの接種が進み、感染拡大がここまで広がってくるとクリニックのやり方もそろそろ変更しなければならないでしょう。それはこのまま感染が広がっていけば、病院への負担が深刻になり、病院診療の崩壊が現実のものになってしまう恐れがあるからです。今、政府が進めようとしている対応策はあまりにも拙速です。でも、もし中等症までの感染患者の自宅での経過観察を解禁するのであれば、医師会や地方自治体、とくに現場の人たちの声を反映したものでなければなりません。体制を整えてやらなければ取り返しのつかないことになります。それこそが医療崩壊です。

中等症以下の患者を自宅で経過観察するのであれば、患者の自宅の近くにあるクリニックの医師が責任をもって経過観察するべきです。そのためにも、自宅で経過を見ることが決まった時点で保健所は経皮的酸素飽和度を測るサチュレーションモニターという装置を患者に配布してほしい。そして、担当医師が朝と夕方に体温と経皮的酸素飽和度、そして体調の変化を直接電話で確認するのです。その結果は報告書に逐次記録。入院が必要だと判断した場合は速やかに保健所に連絡し、保健所は入院先を確保して移送する。その間に経過をフォローしていた医者はそれまでの記録と紹介状を入院先の病院に送付するわけです。

病院側は必ず一定数の空ベットを用意しておくべきです。24時間いつでも急変患者を収容できる体制を用意しておかなければなりません。そのためにも容態がおちついた患者はすみやかに自宅へ。それ以降の患者のフォローはふたたび自宅近くのクリニックの医師が引き継ぎます。保健所が仲介役となって病院とクリニックが連携をとるのです。最近、「病院への入院を拒否され続けて8時間後に自宅から50kmも離れた病院にようやく収容された」というニュースが報じられました。しかし、それはどうやらフェイクニュースのようでした。そんないい加減な報道がなされるのも今の診療体制に欠陥が多いからです。

感染者が急増してあわてているのは病院だけではありません。政権内部も官僚をはじめとする行政側も混乱していることがみてとれます。お勉強(受験勉強)だけはできたのでしょうが、地あたまの悪そうなある大臣が「酒を提供する店には融資を制限しろ」と銀行に要請するなど、まるでヒットラーかと思うほどの対応をしました(この大臣は昨年もロンドン大学の某日本人教授の「検査をもっとやれ」という言葉を真に受けていました)。行政もあたふたするばかりで「Too Little, Too Late」の対応を繰り返しています。有識者会議も日本医師会もまた同様であり、助言すべき人たちが有効策を提言できないでいます。

新型コロナウィルス感染症は、日本人にとっても世界にとってもはじめての経験です。多少の混乱は仕方ありません。しかし、もう一年半が経っています。そろそろ経験に学んでほしいものです。もし今、対策にあたる人が経験に学べないなら、「学べる人間に代わってくれ」と言いたいです。とはいえ、経験に学べないのは一般国民も同じです。原発事故・放射能に対するヒステリックな対応といい、オイルショックのときトイレットペーパーに殺到したパニック振りといい、さらにさかのぼればマスコミに煽動されて戦争に突っ込んでいった戦前の愚かさといい、なんどもなんども煽られるばかりで一向に理性的になれない一般国民にも責任はあるのです。

文章を書きながら徐々に感情的になっていく私。次のブログあたりで「爆発」してしまうかも。