本年3月1日付で投稿した「私の『幸福論』」については、最近、多数のスパムメールが寄せられています。そこで先の投稿文を削除してあらためて以下アップし直します。
以下、本文
多種多様な価値観を持つ社会ほど、しなやかで力強く、創造的かつ生産的な社会だといわれています。いろいろな考え方の人がいるからこそ社会は支えられ、発展するというわけです。なんらかの価値観にかたよった社会ではいろいろな問題に対応できないといういい方もできます。ひるがえって家庭にあてはめてみると、価値観が完全に一致した配偶者にめぐり逢うなんてことは奇跡に近く、誰もが新婚時代に価値観のぶつかりあいを経験するわけで(今でもぶつかっている?)、価値観の違いを乗り越えるということはそう簡単なことではなさそうです。
個人的にいえば、人間の価値観の相違はとくに人生観、あるいは幸福観において顕著なのではないでしょうか。「人間、いかに生きるべきか」あるいは「幸せってなんだろう」という命題に正解などなく、百人いれば百通りの答えがあるのです。ストイックな人生が輝いて見える人がいれば、快楽主義的な生き方にこそ価値を感じる人もいる。ですから、これからお話しすることはあくまでも私個人の考えとしてお読みいただければと思います。私の価値観を人に押し付けるものでもありません。と同時に、他人からとやかく言われることでもないという点を強調しておきます。
早いもので今年ももう3月となってしまいました。小中学校の入試も終わり、おおかたの国立大学の二次試験も終了しました。残すは今日からはじまる公立高校の後期試験だけでしょうか。うちにも来年の高校受験を控える中学二年生の子どもがいるので、これからいよいよ否応なしに受験モードに入っていきます。親として表面上は泰然自若を装い、子供には常に冷静な姿を見せておかなければいけないのでしょうが、いかんせんそこは悲しいかな凡人の私。来年の受験に向けてどこまで平常心でいられるか自信はまったくないというのが正直なところです。
中学二年生にもなると、子どもながらに自分の将来のことをぼんやり考え始めるとともに、不安になる時期でもあります。先日もニュースで、学校の担任とそりが合わなかった中学生が「担任のせいで自分の人生は終わった」と遺書に残して自ら命を絶ったと報道されていました。そうした出来事を耳にするたびに、同じ世代の子どもをもつ親としては切ない気持ちになります。しかし、かくいう私も、これまで自分の子どもとこうしたことをじっくり話し合ったことはありませんでした。ところが、ひょんなことから息子と人生についてじっくり話をする機会がありました。
それは息子に勉強を教えているときのことでした。仕事を終えて疲れて帰ってきてから少しだけ息子に勉強を教えているのですが、教わっている最近の息子の態度がとてもいい加減に見えていたこともあって、いつになく声を荒げて息子を叱ってしまいました。さすがの息子もその私の怒りっぷりが理不尽に見えたのか、これまたいつになく口をとがらせて反論してきました。息子の言い分もわからないでもありませんでした。しかし、仕事のことで少しイライラしていたからか、私はそれまで心の中にわだかまりとしてたまっていた息子への不満をいっきにぶつけたのでした。
しかし、私がひとしきりこれまでの息子の勉強への姿勢を批判したあと息子は私に言いました。「父ちゃんは今幸せ?」。「ああ、幸せさ。ママもいて、ふたりの子どもにも恵まれたからね。仕事もそれなりに順調だし」。すると息子はしみじみと「そうだよなぁ。子どものころからなりたかった医者にもなれたんだし」と。彼がそんなことを言うとは思っていなかったせいか、私は彼の次の言葉にショックを受けました。それまで机の上に視線を落としていた息子が私をしっかり見つめてこう言ったのです。「そんな父ちゃんより俺が幸せになれると思うかい?俺は父ちゃんより幸せにはなれないんだよ」。
息子は私をそんな風に見ていたんだと少し意外な気持ちがしました。これまで息子に私は「いかに自分が子どものころ勉強をしなかったか」、あるいは「どうして勉強するようになったか」をなんども話してきました。私としては「誰でも努力を怠らなければ医者ぐらいにはなれる」という気持ちを彼に伝えたかったからです。そして、それを聴いた息子に「よし、それなら俺も頑張ってみよう」と奮起してもらいたかったのです。しかし、それを聴いていた息子の目には「自分にはとてもまねのできないもの」として映っていたらしく、私はそのことに多少ショックを受けていました。
でも、私は気を取り直して息子に言いました。「でも、幸せっていったいなんだろう?手にいれることができるものなんだろうか。ずっと手元においておけるものなんだろうか?」。息子は「そんなこと知らないよ」とちょっと投げやりです。「幸せって、人によってその形や中身も違えば、大きさだって違うんだ」。息子は視線を机の上に落としたままです。「君がなにに幸せを感じるかは俺とは違うはずだし、違っててぜんぜん構わないものなんだぜ」。私はこのとき「自分の幸福論」を話しはじめました。延々と1時間ほど続いたでしょうか。息子は意外と黙って聞いていました。
********** 以下はそのときの要旨です。
世の中にはいろいろな価値観がある。遊んで暮らしていければいいと考える人もいれば、日々努力をしてひとつひとつに向上心をもって生きていくことを善とする人もいる。あるいは人知れず自分の世界を大切にして人里離れた場所でひっそりと暮らす人だっているだろう。でも、そのどれが「いい生き方」かってことでもなければ、どれが素晴らしいかって問題でもない。結局は「どの生き方が好きか?」って問題なんだよ。そうしたいろいろな価値観を持った人が、自分の持ち場でそれぞれが幸せだと感じることができれば、それを「幸福」っていうんじゃないんだろうか。
このあいだ、新聞に、学校の担任に嫌われた中学生が「担任に睨まれたから俺の人生はもうおしまい」なんて遺書を残して自殺してしまったというニュースが載っていた。たかだか担任の先生に気に入られるかどうかで人生って決まっちゃうのかい?いい高校あるいは行きたい高校に行けないと人生は終わりなの?大学行けないと(あるいは行かないと)幸せになれないの?就きたい仕事に就けないと、あるいは定職に就かずにアルバイトで生活していたらその人は不幸なの?逆に、小さいころから勉強ができて、いい大学を出て、大きな会社に勤めて、社長になったらその人は幸せなのかい?
あのね、会社という組織を考えればよくわかるよ。出世することを第一と考え、家庭生活を犠牲にしてまで懸命に働いたサラリーマンがいたとしよう。そして、その努力と犠牲の甲斐あって見事社長になれたとして、その人は幸せといえるだろうか。奥さんとの四十年や子どもたちとの三十年間の家庭生活を犠牲にして、奥さんや子どもたちがその出世を恨んでいたとしたらどうだろう。その人の幸福にどのような意味があるんだろうって思わないか?会社での何十年かを振り返って「俺の人生に悔いなし」って言えればいいよね。でも、犠牲にしてきた家族との生活はもう戻ってこないんだよ。
もちろん、こうした人も会社には必要だよ。会社で働く人がみんな「家庭が第一。出世しなくてもそこそこに働ければいい」と考えるようじゃ会社は成り立たないからね。だけど、だからといって「家庭が第一」と考える人が社会人として劣っているということでもない。どちらも価値観としては認められていいということなんだ。そういういろいろな価値観があって社会はなりたっている。だから、有名な学校を出ようが出まいが、学校の成績がよかろうが悪かろうが、社会的地位の高いポジションにいようがいまいが、その人の価値を決めるわけでもないし、幸せかどうかを規定するものでは決してないということさ。
考えてみると、人間は生きていく中でいろいろなターニングポイントに遭遇して、人生の選択を迫られる。そのポイント、ポイントで最善と思えるような選択をしなければならない。「最善の選択」とはいっても正解とは限らないよ。正しいかどうかなんて誰にもわからないんだから。「後悔をしない選択」という意味にすぎないと思う。後悔のない選択をするためには日々努力をしなければいけない。その「日々の努力」あるいは「後悔のない選択」の積み重ねの総体が人間の幸せなんじゃないのだろうか。つまり、幸せに終着点はない。幸せは手に入れられるようなものではないってことなんだ。
君はなんのために勉強しているの?もちろん希望する学校に入るためだよね。それならなんのために希望する学校に入りたいんだい?それは一義的には幸福感を得たいためであり、二義的には将来の希望につなぐためだよね。では、希望の学校に入れないと将来の希望をつなぐことはできないのだろうか。そうじゃないよね。だって、「人生の扉」を前にして、希望の学校に入れたということが正解かどうかだなんて誰にもわからないんだから。つまり、どのような扉を開けるにせよ、それぞれの人がそのときどきに応じて誠意をもって最善の判断を繰り返していくことしかないんだよ。
「神は自ら助けるものを助ける」という言葉があるよね。人の一生にはなにか正解があって、その正解をたどることが幸せにつながると多くの人はなんとなく思っている。だけど、実はそうじゃない。人生にそもそも正解などないし、お手本なんてものすらない。つまり、その人でしかたどれない人生を誠実に生きていくこと。その積み重ねが少しづつ「幸せの貯金」となっていく。その誠実さ、その日々の努力を神さまは見ているんだよっていうのが、先の言葉の意味なんだと俺は思う。他人の人生なんて自分にはなんの関係もない。自分を誠実に生きるってことこそ大事なんだと思うけど。
生きるのが苦しくなるのは他人の目を気にするから。他人と自分を比較するからさ。自分がどう生きようと他人には関係ないのと同じように、他人がどのような人生を生きようと君の人生にはなんの関係もないんだよ。君の人生が家族や身近な人たちの人生になんらかの影響をあたえることはあるかもしれない。身近な人たちにどのような影響を与えるにせよ君が誠実に生きるという姿勢を貫くならばそれは許されるものさ。気にしなくたっていい。だってたった一度の自分の人生なんだもの。自分のために生きるのも自分、他人のために生きるのも自分。どちらがより尊いかって問題じゃない。
君自身は、今やらなければならないこと、選択しなければならないことはなにかに常にアンテナを張り、最善の行動をとるようにしなければいけない。君の年代はその訓練をする時期。結果がどうであろうと知ったこっちゃないじゃないか。やるべきことをやるだけ。それ以上のことは神さまにまかせるしかない。後ろを振り向くな、ただひたすら前をみろ。立ち止まって振り返っている暇はないからね。ただし、心折れて歩けなくなったら、あるいは道に迷って途方に暮れたら地べたに寝そべって目をつぶれ。そして、いつかふたたび立ち上がればいい。人生なんて長いようで短いけど、本来は気楽で自由な旅みたいなものなんだし。