私の好きな詩

皆さんは井上靖という作家をご存知でしょうか。私がはじめて「井上靖」という作家と出会ったのは中学生のころでした。当時の国語の教科書に彼の「夏草冬濤」という小説の一部が紹介されていたのがきっかけです。井上靖にはいくつかの自叙伝的な作品があって、そのうちの「あすなろ物語」「しろばんば」そして「夏草冬濤」は三部作として有名です(旧制高校のときの様子を描いた「北の海」もあります)。井上靖自身とも言われる洪作少年の成長が描かれているのですが、私はこれらの作品を通じて井上靖が少年時代を過ごした昭和初期の古き良き時代の香りに惹かれるようになりました。日本全体がまだ貧しく、それでいながら精神は豊かであった時代。日本が戦争に引きづりこまれそうな不穏な空気が漂いながらも、静かでゆったりとした時間がまだ流れていた時代。そんな雰囲気が井上靖の自伝小説には感じられました。成長した井上靖自身は、その後、旧制第四高等学校に入学し、高下駄を履き、白線帽にマントのいでたちで金沢での三年間を過ごすのですが、そのときに思いをはせた一遍の詩があります。

流 星

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星
というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

井上靖

この詩は、金沢市にある石川近代文学館に併設された四校記念文化交流館の庭にひっそりと設置された碑に刻されています。この場所はかつて旧制第四高等学校のあったところであり、建物そのものがその四校の建物です。私は学会で金沢を訪れた際に立ち寄ったこの場所で偶然その石碑を見つけました。記念碑の前にたたずんでこの詩を読んだとき、私はあたかも自分が旧制高校の学生になって、冷たい風の吹きすさぶ冬の浜辺に横たわり、満天の星空を見つめているときの昂揚感のようなものを感じました。「これから自分はどんな人生を送るんだろう」。冬の澄んだ夜空を流れ去る流星の後を追いながら若かりしころの井上靖はきっと考えたんだと思います。当時は私も自分の研究テーマを絞り始めていた時でもあり、自分のこれからの行く末を重ね合わせて感慨にふけていたのでしょう。以来、この場所、この詩は私の大好きな場所・詩のひとつになったのです。

実際の旧制高校のことは実体験としては私はまったく知らないわけですが、伝え聞くような旧制高校の自由さと闊達さにとても惹かれます。旧制高校は全寮制で、大学入試が免除されるため、学生は受験に振り回されることなくそれぞれの思いで学生生活を送る。ある学生は哲学に思索し、ある学生はスポーツに興じ、ある学生は無為に過ごす。大学の本科に入って専門の教科に進む前にまったく自由な時間を過ごすのだそうです。旧制高校での生活を経験した人達は皆この時の経験を「人生にとって貴重だった」と振り返っているようです。ですから、私の中には旧制高校に対する憧れみたいなものがあります。そんな時間を自分も経験してみたかったという思いもあります(だから長男を全寮制の学校に学ばせているんですけど)。ただ、もともとルーズな自分では「自分の時間」なんて主体的な過ごし方はできないだろうと思いますが。いずれにせよ、この「流星」という詩は、そんな私の湧き立つような憧れの気持ちを思い出させてくれるのです。

白馬の女(ひと)

ひとことで言うと、私は正義感が強い方だと思います。これは私の父親が警察官だったことが影響しているのかも知れませんが、私の長男の性格を見ていると同じく「正義感が強い(強すぎる?)」と感じることがあります。もしかするとこれは環境によって形成されたものではなく、遺伝的なものなのかもしれません。しかし、「正義感が強い」のも善し悪しで、「正義感が強すぎる」とときとして「まわりの空気を読めない」ということになり周囲の人たちに迷惑をかけます。

今でも思い出すのは、研修先の病院の採用試験を受けに行った日のこと。受験を終えて札幌に帰ろうと電車に乗っているとき、吊革につかまっていた私のななめ前に若い女性が座っていました。当初はそんなことにも気が付かなかったのですが、ふと私は電車の中の雰囲気が微妙に変化するのを感じました。というのも隣の車両から大声を出しながら移動してくる酔っ払いがいたからです。車内の人たちは一様にそんなことに気付いていないかのように装っていますが、みんなの意識がその男に集中しているのがよくわかりました。

はじめは私も同じように知らぬふりをしていたのですが、こういうときに限ってその酔っ払いは私の斜め前に座る女性を見るやいなや絡み始めました。両隣には男性が座っていましたが見て見ぬふりをしています。私は一瞬戸惑いましたが、どうしようかと思案するまでもなくその酔っ払いに声をかけていました。「私の連れなのでやめてもらえませんか」。その酔っ払いは不敵な笑みを浮かべながら私の方をにらんで言いました。「なにを。おまえの女って証拠あんのかよ」。そのあとどう受け答えしたのかよく覚えていないのですが、結局、その男に「次の駅で降りろ」と言われるままに電車を降りました。

駅で降りると酔っ払いは私の襟をつかんですごみました。私の頭の中は意外と冷静だったのですが、もしこの男が私に手を出してきたときにどう対処するかを考えていました。こぶしがこっちからきたらこうかわして、けりが来そうだったらこう防いで・・・。私がなされるままにしていると男はますます興奮してきて、今にも手をあげそうな勢いです。いよいよ取っ組み合いをしなければならないのか。そう思ったとき、近くで女性の声がしました。「あんた、なにやってるのよ」。そう言いながら、もみ合っている私たちのそばにひとりの中年の女性が近寄ってきました。酔っ払いは少し驚いたように振り返りました。

「昼間っから酔っぱらってるんじゃないよ。私は錦糸町で30年ホステスをやってるけど、あんたみたいなみっともない男は見たことないよ」。すごい剣幕で男をまくし立てています。あっけにとられたようにその男はつかんでいた私の襟を離すとなにやら捨て台詞を残して消えてしまいました。私は女性にお礼をいいました。「助けていただいてありがとうございました」。気風(きっぷ)のよいその女性は「あんな奴、まともに相手をしない方がいいよ。どうやら女の子を助けようとしたらしいけど、その子、どっか行っちゃったね」と私に微笑むと風のように去っていきました。

私はその中年の女性の後ろ姿を見送りながらとても爽やかな気持ちになりました。まるで白馬に乗った王子さま(王女さま)に出会ったような気分でした。しかも、私が女の子を助けようとしたことを知っていたということは、おそらく電車の中での私たちのやり取りを見ていたのかもしれません。電車から引きづりおろされるように連れていかれる私が気になって一緒に降りてくれたんだと思います。だって、錦糸町はそのまま電車に乗ってたった数駅のところなのですから。そのときはそんなことも気が付かなかったので、お礼をひとこと言うぐらいのことしかできませんでした。それにしても実にかっこいい女性でした。

いちじが万事、こんな風によく考えもせず行動してしまうのでしばしば「火傷」をします。それも私の「正義感」のなせる業なんですが、目の前で起こっている緊急事態に誰もがだんまりを決めているとどうしても手が出てしまう(口を出してしまう)のです。うちの息子もまるでそうで、誰も引き受けない役回りがあると自分から手をあげてしまう。でも実はその役回りをやりたいわけでもなく、彼にその役割を満足に果たせるわけもない、なんてことがよくあります。そんなとき、「ああ俺に似ちまったなぁ」って思うんです。ちょっぴりうれしいですけど。

私のこうした性格が災いして、上司と衝突したりして職場をやめることになったことも一度や二度ではありません。このときの顛末には小説になるような出来事があったりして、まとめれば一冊の小説が書けるくらいです。しかも、ずいぶんと面白いものになるだろうと思います。きっとそんなことをしたら、以前の職場の上司たちはみんな真っ青になることばかりですけど。でも、安心してください。残念ながら私には文才がないので小説なんて書けませんから。せめてこのブログで紹介する程度ですよ(当事者しか個人が特定できないようにしますから大丈夫です)。