「新型肺炎」(2)

このブログで新型肺炎について書いたのはつい1か月前のことです。あのとき私が懸念したことが現実のものとなり、新型コロナウィルス(正式呼称は「COVID-19」)に感染した人は今も増加を続けています。感染源である中国での感染者は2月21日現在で75000人を超え、死者もついに2200人を上回っています。前回のブログで警告しましたが、COVID-19に感染した人をふくめたたくさんの中国人が来日したこともあり、2月21日現在で感染者93名(うち無症状病原体保有者14名:15%)であり、死亡した人は1名です。なお、ここにはクルーズ船での感染に関わる数字ははいっていません。

さて、今回のCOVID-19の感染患者に関しては、2月11日時点での疫学調査結果が中国から発表されました。いかんせん彼の国のことですから、これらの統計データにどの程度の信頼性があるのかは定かではありません。統計の基準がなんどか変更されていますから。おそらく中国共産党政府への批判につながらないことを優先してのことでしょう。ですから、今後、WHOなどの国際機関が正式に調査をすれば多少の訂正があるかもしれません。とはいいながら、現時点で発表された結果をみれば、COVID-19の姿をおおざっぱに垣間見ることができます。「正しく恐れる」ためにもこれらの数値を眺めてみましょう。

ながながと数字を並べてもわかりずらいので要点を列挙します。

●中国全土でCOVID-19の感染が確定された44000例を超える患者のデータ解析結果
●19歳以下の患者が2.1%、20~59歳は66.7%、60歳以上は31.2%(うち80歳以上は3.2%)
●患者の80.9%が軽症、中等症は13.8%、重症例は4.7%
●死者数は19歳以下で0.2%(うち9歳以下なし)、20~59歳は2.1%、60歳以上は26.4%
●致死率は全体で2.3%(武漢市で3%、その他の地域では0.6%)

つまり、若年者と高齢者は感染しにくいようです。しかし、高齢者、あるいは基礎疾患をもっている人は死亡する割合が高いという傾向があります。また、このウィルスに感染した多くの人は比較的軽症で、重症になる割合は5%以下です。一方、致死率2.3%という数字については、インフルエンザでの0.2%とくらべれば確かに怖い数字ですが、かつて流行したSARSは10%程度、MERSは35%、エボラ出血熱においては50%と、これらの感染症の方がはるかに恐ろしいようです。ちなみに、「移りやすい感染症の致死率は低く、致死率が高いものほど感染死にくい」という一般的な傾向が知られています。

季節性インフルエンザでは、ひとりの患者が感染させてしまう人の数は2~3人とされており、COVID-19もほぼこれと同じ感染力を有していると言われています。その意味で言うと、今、ちまたで広がっている「感染しやすい危険なウィルス」というイメージとは多少異なるのかもしれません。むしろ、まだ流行という状況からはほど遠い今の現状からいえば、今年になってすでに日本では1000名、アメリカにいたっては14000名あまりが亡くなっているインフルエンザの方が恐ろしい伝染病だということになります。季節性インフルエンザに対する認識の甘い人が多いのですが、日本では毎年約3000人の人が亡くなっています。

今回のウィルス感染がこれからどのくらい拡大するのかは未知数です。今後、中国のように全土に広がって日本でもアウトブレイク(大流行)が宣言されるかもしれません。もしそうなれば世界各国は日本を「感染国」として指定し、日本への渡航制限をかけてくるでしょう。となれば各国はオリンピックの選手団を日本には派遣しないという事態となってオリンピックは中止になるかもしれません。あれほどの費用と時間をかけて準備してきた東京オリンピックがまぼろしに終わり日本の国際的な信頼は失墜します。そうならないようにしっかり対応してもらいたいのですが今の対応はなんとも頼りない限りです。

COVID-19の感染拡大は、日本にとって、あるいは日本人にとって教訓にしなければならない経験です。なぜなら、近い将来、高病原型鳥インフルエンザウィルス(H5N1)の大流行があるかもしれないからです。H5N1インフルエンザの致死率は60%とエボラ出血熱を上回わる恐ろしい伝染病です。幸い、このウィルスではまだ人から人への感染は確認されておらず、中国のごく一部の地域で鳥から人に散発的に感染するだけにとどまっています。しかし、その遺伝子は変異しやすいことが知られており、近い将来、人から人への感染が成立するだろうと言われています。もしそうなれば今回のCOVID-19と同様にいっきに感染が拡大します。

ところが日本人の危機意識はどうでしょう。年間3000人もの死者を出している季節性インフルエンザでさえワクチンも接種せず、「どうせ打ってもなるから」と高をくくっている人のなんと多いことか。ワクチンはもちろん感染予防のためでもありますが、感染しても重症化しないためのものでもあります。重症化すれば命に関わるばかりか、たくさんの人にも移してしまうことになります。ワクチンを接種しなかったばかりに死んでしまうのは自己責任だからよいとして、他人に感染させてその人を死なせてしまったらどう責任をとるのでしょうか。ワクチン接種は「自分のためであり、また周囲の人達のため」でもあるのです。

日本人にとっての教訓はまだあります。それは解熱剤(あるいはカゼ薬)の濫用です。風邪やインフルエンザを広げる原因のひとつが、解熱剤、あるいは解熱剤入りのカゼ薬を飲みながら勤務・登校する人たちの存在なのです。意外と多くの人がいまだに「カゼ薬は風邪を治す薬」と信じています。しかし、カゼ薬は風邪を治す薬ではありません。カゼ薬は風邪症状を軽くする薬にすぎません。発熱があっても、カゼ薬の解熱成分によって熱を抑えてしまうのです。今の季節、製薬会社は「熱があっても休めないときは」というキャッチフレーズでカゼ薬を売ろうとします。しかし、そこに落とし穴があります。

発熱はからだの免疫力にスイッチをいれるきっかけにもなります。今回のコロナウィルスに限らずすべてのウィルスには特効薬はありません。結局はからだの免疫力でウィルスを退治するしかないのです。ところが解熱剤で熱を下げてしまえば、たよりの免疫力にスイッチが入りにくくなり、結果として風邪がこじれるか、治りが悪くなるわけです。カゼ薬の「風邪をひいたら○○3錠」というキャッチフレーズは実は風邪を長引かせて薬をたくさん売るため、といってもいいものなのです。これらのことは普段の診療でいつも患者にいってきたことです。「解熱剤を一日三回なんて飲んじゃダメですからね」と。

熱があがらなければ、患者自身も、また医師も重症度の判断に予断をもってしまいます。「高熱だから重症?」と疑うチャンスを失ってしまうのです。中国であれだけあっという間に感染を広げてしまった原因にもカゼ薬(あるいは解熱剤)の濫用があったのではないか、と指摘する人もいます。解熱剤を服用しても熱を抑えきれなくなり、ようやく受診した患者に肺炎を合併していることがあります。「なんでこんなになるまで我慢したんですか?」と尋ねると、患者は「大した熱ではなかったので様子を見ていた」と答えます。そんなとき心の中で「カゼ薬なんてなくなってしまえっ!」と叫んでしまいます。

医者も悪いのです。風邪で受診するたびに解熱剤を出す医者がいるからです。確かに「熱がある」「頭痛がする」「のどが痛い」と患者が訴えれば解熱剤(=痛み止め)をだしてあげたくなるのは人情です。しかし、だからといって無頓着に一日三回の解熱剤(=痛み止め)を処方するのはどうかと思います。多少なりとも症状を軽減できても、風邪症状を長引かせたり、重症化を見逃しかねない処方は避けるべきなのです。風邪のとき、あるいはインフルエンザのときは本来つらいもの、と割り切ることも大切です。苦痛から逃れたいという気持ちはわかりますが、少なくとも発熱に関していえばこういうときは仕方ないともいえます。

検査もそうです。以前のこのブログでも書きましたが、インフルエンザの検査は絶対的なものではありません。検査結果は診断するためのひとつの情報ではありますがすべてではありません。場合によっては検査で陰性の判定が出ても、インフルエンザだと診断して抗ウィルス薬をお勧めすることもあります。この検査は、インフルエンザに感染し、からだの外にあふれ出てきたウィルスを検出するものです。ですから、うまくそのウィルスを拾えなかったり、まだあふれてきていないときに実施しても陰性になってしまうのです。この検査は「インフルエンザであることを確認するもの」ですが、あくまでも参考にすぎません。

今回のCOVID-19でも同じです。検査で陰性が出てもそれで「新型ウィルスに感染していない」ということにはなりません。ニュースでは「検査陰性だった人が発症した」と大騒ぎですが、我々医者にすれば「そんなことあたりまえなこと」なのです。もちろん逆に陽性であってもウィルスに感染していない場合もあります。それを擬陽性といいますが、COVID-19の感染患者とされている人たちのなかにはそうした擬陽性の人がいるはずです。今、日本には14名の「無症状病原体保有者」がいますが、その人たちにもおそらくこの擬陽性の人がふくまれているのではないかと思います。

「それならどうやって診断すればいいのか」と疑問に思うかもしれません。私をはじめ、多くの医者は検査はあくまでも参考にして診断しています。検査の結果だけを根拠にインフルエンザかどうかと判断するのではなく、その人の症状の経過や全身状態、あるいは診察所見などを総合的に判断するのです。ですから検査が陰性でも症状の勢いが強ければインフルエンザと診断して薬をお勧めすることもありますし、陽性でも症状が軽い場合はあえてお薬はお勧めしない場合もあります。COVID-19は未知のウィルスであり、今後の感染がどのように展開していくのかわかりません。だからこそ今は厳しめに判断しているのだと思います。

結局のところ今回の新型コロナウィルスは恐ろしいのでしょうか。結論からいえば、その判断をするのはまだ時期尚早だと思います。今の私自身は楽観的でもありませんし、悲観的でもありません。しかし、感染が拡大していくことだけは間違いないでしょう。なぜなら、中国との人的交流は続いており、感染者が日本に入国してくることは否定できないからです。政府も入国制限をしないという方針はしばらく変更するつもりはなさそうです。とはえ、1か月前に「新型肺炎について」とタイトルをつけた原稿をこのブログに掲載したとき、アメリカやカナダなどと協調して入国制限していればまた違った展開になっていたかもしれません。

しかし、そんなことを今さらいっても仕方ありません。これからどうするかについて、専門家の意見をまじえて真剣に考えるしかありません。ついこの間、「はじめての専門家会議が官邸で開かれた」というニュースを聴いたとき私は耳を疑ってしましました。とっくの昔に専門家の助言を得て対策をとってきたとばかり思っていたからです。厚生労働省には医系技官という医学部を卒業した官僚がいます。しかし、彼らのほとんどは感染症の専門家ではありません。感染症を専門にした大学の研究者とてその多くは感染症対策の実務を経験していません。大規模な感染症の対策がなおざりにされてきた証拠です。

アメリカには感染症の研究と対策の専門機関であるCDC(米国疾病管理予防センター)があります。また、感染症の拡大を安全保障の一環ととらえてDHS(国土安全保障省)が対応することもあると聞きます。しかし、日本にはこうした組織がなく、一朝有事となったときに政府の各機関が統合して動くことができないのです。とすればやはり生物・化学兵器の対策を専門にしている部署がある防衛省が国家安全保障会議の中心メンバーとして対応すべきです。今回もそうした案が政府内にはあったはずですが、軍組織に対する旧態以前とした頭の固い抵抗勢力のせいで封印され、それぞれの組織がバラバラで活動しているのが現状です。

私は新型コロナウィルスの感染拡大そのものよりも、日本のこれからがとても心配です。1か月前に感じていた胸騒ぎはきっとそれだったのではないかと思います。つまり、昨年10月の消費税増税で日本経済は少なからずダメージを受けました。多少のダメージがあることは多くの人達が予想していましたが、COVID-19による影響がそこに加わることになるとは誰も想像していなかったでしょう。中国発の新型コロナウィルスによってサプライチェーンが寸断され、今、日本の産業に大きくて暗い影を落としています。一方で、国内のさまざまな自粛によって観光客が激減し、国民の購買意欲を低下させています。

日本での感染患者がどんどん増え、国際社会から信頼を失なえばオリンピックは中止または延期になるかもしれません。もしそうなったらどうなるでしょう。インバウンド頼みとはいえ、なんとか堅調さを保ってきた日本の景気は一気に吹っ飛んでしまいます。私が警告してきた、日本の景気に対する懸念が現実のものとなってしまうのです。私が今回の新型コロナウィルスの感染拡大を不安に思う主要な原因がここにあります。そのときの責任は誰がとるのでしょうか。総理大臣や現在の政府が変わったところでいったん奈落におちた日本の経済を回復させることは容易ではないのです。

とはいえ、今すべきこと、これからすべきことを真剣に考えるべきです。いつか発生するであろう高病原性インフルエンザの流行も念頭におかなければなりません。だからこそ現在進行中のCOVID-19の感染拡大に対しては慎重かつ適切に行動しなければなりません。手洗いとうがいの価値、あるいは今まで軽視してきたワクチン接種の意義を見直すべきです。検査至上主義の風潮、あるいは風邪薬への過信をあらためなければいけません。部活優先のために学級閉鎖を躊躇するような学校運営をあらためなければなりません。新型コロナウィルスの感染拡大はこれからが正念場。「正しく恐れる」とは根拠なく楽観視することでもなければ、目をそむけることでも、取り乱すことでもないのです。

【追記】
 新型コロナウィルスに感染した人、あるいは感染拡大の阻止に力を尽くしている人たちへの差別的な
 言動が報道されています。すべての人がいつ感染者の立場になるかわかりません。また、感染拡大の
 阻止に向けて尽力する人たちがいなければすべての国民が危険にさらされます。ですから、こうした
 人たちへの偏見あるいは差別的な言動は絶対に許してはなりません。あの原発事故のときもそうでし
 た。被爆被災した地域の住民、あるいは原発事故の収束、停電の復旧に向けて頑張っていた東京電力
 社員への心ない言葉が飛び交っていました。本来、被災住民にも、あるいは東京電力社員にも責任は
 ないはずです。なぜなら原発を破壊したのは、想像をはるかに超えた津波なのですから。今回の新型
 ウィルス感染に関しても原発事故の当時と同じような差別や偏見があるとすれば、実になげかわしく、
 恥ずべきことです。そうした人の道にはずれるような行為がなくなることを願ってやみません。

 

 

心に残る患者(7)

ときどき患者さんから「薬を2ヶ月出してください」と言われます。昔と違って今は1ヶ月という「長期処方」があたりまえで、14日分という本来の投薬日数通りに薬を出すことの方がめずらしくなりました。大きな病院が平気で三ヶ月分の薬を出すことも影響しているかもしれません。三ヶ月という乱暴な処方をするのは、待合室にあふれかえる患者をさばくための方便であることがほとんどです。ともかく、そんな「診療」を受けていれば「2ヶ月ください」となるのも無理はありません。

でも、一か月を大きく超える薬を出す「診療」って本当に「医療」なんでしょうか。何時間も待たされたあげく、ようやく診察室の中に入ったと思ったら、医者はコンピューターの画面を見ながら「変りありませんね」とひと言。そして、聴診器も当てず、血圧も測らずに「ハイっ、いつものお薬を出しておきます」と事務的に終了。受診のたびに繰り返される採血の結果さえほとんど説明なし。たった今椅子に腰掛けたばかりなのにもう終わり?って「診察」などどう考えても「医療」じゃないですよ。

病院の理屈からすれば「そうでもしなけりゃこんなにたくさんの患者を診れないよ」なのでしょう。私も大学病院で診療していましたからよくわかります。でも、その一方で、こんな「診療」でも患者によってはありがたいと思う人もいます。「大きい病院だから安心」、「なんども受診しなくて済む」など、混んで待たされたあげくの「二言三言の診察」を上回る利点があるのでしょう。でも、ちょっと待って下さい。なんのための受診ですか?薬をもらうだけでいいんですか?

医者も患者も納得づくならそれでいいじゃないか、と言う人がいます。しかし、診察でなんらかの病気を見逃してしまった場合を考えて見て下さい。三ヶ月処方なら次回の診察は半年後。癌だったら全身に転移していてもおかしくない期間です。考えてみれば恐ろしいことです。その間、患者が不具合を感じて受診してくれればいいのですが、自覚症状がない場合や、自覚症状があってもその危険性を患者が認識できないこともあります。長期(一か月以上)の処方には長期なりの危険性がつきまとうのです。

Hさんという血圧の薬をもらいに通院していた人がいました。あるとき、いつものように血圧をはかり、聴診をすませると、Hさんは「先生、薬、2ヶ月出してくれねぇか?」と言い出しました。当時、私は二ヶ月処方をすることはほとんどありませんでした(今はケースによっては一か月を超える処方をすることがあります)。たまに状態が安定していて、服用している薬の種類が少ないとき、あるいは、夏休み前や年末など、途中でお薬がなくなってしまうときなどに二ヶ月分の処方をしているにすぎませんでした。

私はHさんのご要望をお断りすることにしました。一ヶ月とはいえ「長期処方」です。薬を服用しているうちに副作用が出るかもしれません。あるいは他の症状が現れているかもしれない。私たちが定期的な診察で問診をおこない、聴打診や触診をし、血圧を測り、ときには採血をするのはそうした変化を見逃さないためです。多くの人は「薬を飲んでいれば安心」と思っているようですが、薬を服用するということは、それなりのリスクを抱えているということを忘れてはいけません。

しかし、Hさんは受診のたびに「2ヶ月処方」を希望しました。いつしか私は繰り返していた説明も面倒になって、とうとうHさんの要望に負けてしまいました。私はHさんに二ヶ月分の薬を処方することにしました。しかし、いったんそうなるとなし崩し的に毎回2ヶ月分を処方するように。私もHさんと同様に「なにも変化がないじゃないか」という予断をもってしまったのです。いつしかHさんには漫然と薬を処方するようになり、ある種の緊張感のようなものがなくなってしまいました。

漫然とした診療には落とし穴があります。あるとき受診したHさんは「咳が出る」と訴えました。診察中に咳をする様子もなく、診察してもなんの異常もなかったことから、急性気管支炎として薬を追加して様子をみることにしました。そして2ヶ月がたちました。私はHさんに「前回の咳はどうなりましたか?」と聞いてみました。「だいぶよくなったがときどきまだ咳がでる」と。やはり聴診では異常がありません。私はHさんに言われるがままに咳止めを追加して診療を終えました。

普段の診療に追われ、Hさんの咳のことなどすっかり忘れていたある日、Hさんが定期受診のために来院しました。そして、今さらながらに「咳がひどくなった」というのです。確かに待合室にいるときから咳をしていました。私はHさんの胸に聴診器をあてて愕然としました。これまで聞こえなかった肺雑音が聞こえるのです。私の胸には暗雲がたちこめてきました。直感的に「これはただの肺炎や気管支炎ではない」と思いました。Hさんに胸部レントゲン写真を撮らせてほしいと頼みました。

できあがった写真を見た私のからだからは力が抜けていきました。肺癌だったからです。しかもかなり進行した肺癌です。すぐに専門的な治療を受けられる病院に紹介しました。病院からの返事には、「肺癌。全身に転移あり、脳の転移巣に対しては放射線治療の予定」と書かれてありました。私は「なぜHさんに咳のことをもっとしつこくたずねなかったのだろう」と後悔しました。ご本人もまさか肺癌だとは思わなかったのかもしれません。結果的に患者の言葉をうのみにした私の落ち度です。

「一ヶ月なんてあっという間」と皆はいいます。私もそう思います。しかし、二ヶ月という日数は癌が成長するのには十分な期間です。しかも、一回見逃せば次回の受診は四ヶ月後です。Hさんのケースのように癌を見逃してしまえば、決定的な失敗を招くことになります。自分が見逃した病気で患者を失うことは医者にとってつらいことです。主治医にとっては打ちのめされるような失敗です。一ヶ月を超える超長期間の処方の恐ろしさはこんなところに潜んでいます。

昨年も「2ヶ月の処方をしてくれ」と執拗に要求する患者さんがいました。しかも「毎回2ヶ月分の薬を出してほしい」というのです。私はきっぱり断りました。「私はそういう医療はやらないので、他の医院で頼んでみてはどうか」と勧めしました。しかし、その患者さんは「(超長期処方を断って)他のクリニックに患者が逃げるより、二ヶ月分出しても患者が定期受診した方が経営的にいいではないか」と引き下がりません。私は「そんなことを言ってるんじゃない」と叫びたい気持ちをこらえていました。

「毎月2ヶ月かそれ以上の処方」を求めてくる患者は、検査を勧めても「いえ、結構です」と拒絶する人が多いように思います。検査はむやみにやっているわけではありません。よもや収入を増やすためにやっているわけでもない。医療用の医薬品は効能と副作用の両面に注意をはらう必要があるのです。その薬を服用するからには、効果判定とともに副作用の有無を検査等で把握しなければならない。薬を服用するということはそういうことなのです。

主治医の指示が絶対だといっているのではありません。医学的な観点から助言しているだけなのですから。だからといって「検査するかしないかは患者の勝手」というわけにはいきません。薬を処方するからにはそれなりの責任が生じます。適当な診療ができる医者とそうではない医者の違いはその責任感の差かもしれません。本来、そうした責任感のない医師から薬をもらってはいけないのです。ただ薬をもらって飲んでいればいいと考えるのは間違いだと思います。

昨年、危うく一命を落とすところだったYさんという患者がいました。Yさんも血圧の薬をもらいに定期的に当院に通院していました。師走に入ったある日、胸の痛みを訴えてやって来ました。看護師がベットに寝かせて問診していると、Yさんは「今までにはない胸の痛み」と症状を訴えました。それまでの血圧のコントロールは良好でしたが、このときばかりはいつもよりも高くなっていました。私は「狭心症?それとも心筋梗塞?」と考えをめぐらせながら心電図をとりました。

心電図はいつもと変わりなく異常ありませんでした。聴診をしましたが心雑音や不整脈など気になる所見も見られません。「今の痛みはいかがですか」とたずねると、「痛みはだいぶ落着いてきたが、まだなにか違和感を感じる」と。いつもよりも高い血圧や「今までにない痛み」「違和感を感じる」という表現に私はなんとなく胸騒ぎがしました。私は直感的に「病院で検査を受けさせた方がいい」と思いました。でも、さしたる根拠はないのにわざわざYさんを病院を受診させることを少し躊躇していました。

「Yさん、今のところ心電図に異常はなく痛みもおさまっていますが、念のために病院に行って検査をしませんか。私を安心させるためと思って」と私。このような言い方をしたのは、Yさんは「自宅で様子をみたい」というのではないかと内心思っていたからです。しかし、Yさんは思いのほかあっさりと「わかりました」と言ってくれました。私はなぜかホッとしました。救急車を要請しようか迷いましたが、結局Yさんはタクシーで紹介先の病院に向かいました。

このような経過をたどるケースの中には、心電図に変化のない心筋梗塞だったり、心筋梗塞になりかけた狭心症という場合があります。医学部を卒業して三十年、これまでに経験したいろいろなケースがあたまをよぎりました。とはいえ、わざわざ病院に受診させてなんの異常もなかったり、結果として救急車を要請するほどのことではなかったりして、結果として過剰診断となることを気にする自分がいました。「やみくもに病院を紹介する医者」と見られたくないからかもしれません。

今回のケースも「病院での検査」を受けさせた方がいいと思いながら、もしYさんが「胸の痛みもおさまってきたので自宅に戻って様子をみる」と強く主張してきたら、薬を処方した上で帰宅させてしまったかもしれません。あえて病院を受診させて「タクシー代や診察代をかけて行ったのになんでもなかったじゃないか」とひんしゅくを買うのを恐れるからです。Yさんが助かったのは、私の勧めを素直に聞いてくれたからだともいえます。命をつなぐ糸は実は細くて危ういものなのです。

Yさんの病気が私の想像を超えていたことを知ったのは翌日の朝のことでした。診療前に紹介先の病院から電話がありました。Yさんを見送った後もなにか胸騒ぎが続いていて、看護婦さんと「Yさんのことが気になるね」と話していたところでした。電話口で紹介先の主治医は少し興奮気味に説明してくれました。「Yさんは実は大動脈瘤でした。先生が素早く対応してくださったおかげで救命できました。ありがとうございました」とお礼を言われました。むしろこちらこそお礼を言わなければいけないのに。

私はまさか大動脈瘤だとは思っていませんでした。背中の強い痛みを訴えていたら疑ったかもしれません。しかし、Yさんの動脈瘤はスタンフォードA型という心臓と大動脈の境界付近に生じる比較的めずらしい動脈瘤でした。背中の痛みにはならない場合があるのです。紹介先の病院で冠動脈CT検査をやってくれたおかげで見つかりました。あのまま自宅に返していたら、そう思うとゾッとします。スタンフォードA型の大動脈瘤は一時間当たり2%ずつ致死率が上昇し、24時間放置すると90%以上が急死するのです。

実はYさんは以前にも幸運なことがありました。通常受診のときの雑談でYさんは冗談めいたように「最近、ちょっと新聞の字が読みづらいんですよ」と笑いました。いつもの私なら「老眼が進んじゃいましたか?」と笑い返すところなのですがこのときは違いました。私は一瞬「脳下垂体腫瘍では?」と思ったのです。私はYさんに「念のために脳のMRI検査を受けてください」と頼みました。「様子を見ますから大丈夫です」といわれるだろうと思いながらですけど。

しかし、Yさんは病院を受診してくれました。そして、心配した通り脳下垂体腫瘍が見つかりました。でも、その後、手術で腫瘍を完全に摘除し、後遺症もなく生活されていました。このときも私がなにげなくお勧めした検査を素直に受けてくれたからこそ命拾いをしたのだと思います。決して私の見立てがよかったのではありません。私を信じて私の助言に耳を傾けてくれたおかげなのです。診療とはそういうものです。このように診療とは医師と患者がお互いの信頼を得てなりたつものだといえます。

このように、診療が単に「薬をもらえばいいもの」ではないということがわかると思います。ひょんなことから一命をとりとめた事例は他にも少なくなく、そうした事例も今後ご紹介できればと思っています。最近のTVでは視聴者の医療不信を高めるような番組が多いように感じます。そうしたことが患者の医療者に対する不信感を高める原因のひとつにもなっているのかもしれません。もちろん患者にとって「自己防衛すること」は大切です。しかし、それには限界があることも知らなければなりません。

一方で、不信感を持たれてもしかたない医療がおこなわれているのも事実です。患者が自己防衛しなければならないのは、そうした質の悪い医療があるからです。でも、質の悪い医療はなにも開業医による診療だけの話しではなく、大学病院をはじめとする大病院でもあります。もちろん医療の良し悪しは素人である患者が見極められるほど簡単ではないかもしれません。しかし、「薬だけもらえばいい(出せばいい)」という医療から抜け出すことはできるはずです。まずはそこからはじめるべきだと私は思います