価値観の違い

17世紀、それまで強大な力で欧州全土を支配していたローマ帝国が急速に衰退していきました。そして、ついに神聖ローマ帝国が崩壊すると、欧州は宗教や民族などによって小国家に再構成され、独立国家が林立する地域へと変わっていきました。利害を調整し、紛争を回避するため、いくつかの国家はウェストファリア条約を締結し、国際法という基準を設けて不測の衝突が起こらないようにしました。ウェストファリア体制に至るまでの欧州の歴史は、貪欲なまでに富を求めて侵略を拡大し、宗教の名のもとに殺戮を繰り返してきました。混乱と破壊の中世から抜け出すことが近代国家への第一歩だったのです。

一国の利害はその国民の価値観や歴史観にも関わることでもあり、簡単に調整できるものではありません。今の日本をとりまく国際状況を見れば、それは容易に理解できると思います。歴史は史実に基づくものであるべきですが、その一方で史実の解釈には価値観やそれまでの歴史観が影響します。同じ歴史的事実を見るにせよ、その視点を変えるとまるで違った解釈が生じてしまいます。「大人の対応」をしても、それで相手の態度が変わらなければ意味がありません。善かれと思ってやったことに対して相手が被害者意識を持つこともあります。価値観の違いとは実に難しいものです。

国と国とのつきあいがそうであるように、たとえ親子であっても価値観の一方的な押しつけになってはいけないと思っています。価値観の多くが「良いこと、悪いこと」ではなく、「好き、嫌いの問題」だからです。もちろん、国際法のような基準が存在し、その基準に照らして判断できるときはまだいいのです。そうした絶対的かつ客観的な基準が存在しない価値観の問題は、どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると言い切れないだけに、調和を図っていくために明確な答えはありません。たとえば家族内のもめごとの多くは、そんな価値観の相違から生じるのではないでしょうか。

若い頃の私は、しばしば両親と価値観の違いで衝突したものです。私の両親はどちらかというと自分の価値観を押しつけてくるタイプ。それに対して私は、自分の価値観を押しつけないかわりに人から価値観を押しつけられることに反発するタイプ。ですから、親から「そんなの常識だろ」といわれると、「それは誰の常識なんだよ」と言い返しては口喧嘩になることがありました。親が善かれと思ってやってくれたことが私には「ありがた迷惑」そのもので、拒絶する私に両親は「おまえにはありがたみがない」とよくこぼしていました。そんな光景はかつてほどではなくなったにせよ今もときどきあります。

価値観の違いを否応なしに認識させられるのが新婚のころです。生まれも育ちも異なる二人が同じ屋根の下で一緒に生活をするのですから、さまざまな局面で価値観の衝突が起こります。その衝突をうまくかわすことができたり、なんなく解決することができればいいのですが、いかんせん人生経験が圧倒的に足らない二人です。若い夫婦にとって価値観の違いを埋めたり、あるいは調整するという作業はそう簡単ではありません。かつては新鮮に見えたり、魅力的にさえ見えたお互いの価値観が、日常のありふれた光景になるにしたがってふたりの間に壁となって立ちふさがるようになってくるのです。

私たちもそうでした。新婚当初、なんども家内の価値観との違いにぶつかって「このまま一緒に生活していけるのだろうか」と思ったほどです。とてもたわいのない気持ちのすれ違いや、どうってことのない誤解が二人の間に溝を作り、その溝がまた新たなすれ違いや誤解を生む。こうした事態をどう解決したらいいのだろうかとひとり思い悩んだことが何度もありました。おそらくそれは家内も同じだったろうと思います。ふたりのゴタゴタは家の中に不穏な空気をつくります。幼かったころの私は、両親にとってはとるにならないゴタゴタであったとしても、家庭の中がいかに重苦しいものになるかを敏感に感じ取っていました。

ですから、新婚時代の私にとって価値観が衝突することは思いのほかストレスでした。価値観の違いそのものというよりは衝突により家の中の雰囲気が悪くなることがなにより嫌だったのです。私はどうしてそういう険悪な状況になってしまうのかを考えてみました。するとそこには一定のパターンがあることに気が付きました。そして、この負のパターンを断ち切るためにはどうすればいいか。あれこれ考えたあげく、家内と次のような約束をしようと決心したのでした。

① もしお互いに不愉快な思いをしても、翌日にはいつものように接すること。たとえ相手に
  100%の責任があると思ったとしても、できるだけ普段通りの接し方をする。

② 気分を害するような相手の言葉や態度についてはできるだけ相手に指摘するようにしよう。
  それができなかった場合でも、決して「口をきかない」などという非生産的なことはしない。

といったものでした。でも、相手の言動に腹を立てた翌日にいつも通りに接することは言うほど簡単ではありません。言い出した私自身も簡単にできたわけではありません。とはいえ、腹を立てているはずの相手がいつもどおりに接しようとしている姿に気がつくと不思議とこちらの気持ちが穏やかになるのを感じました。そして、100%相手が悪いと思っていても「こちらにも非があった」ということに気がつくことさえありました。そんなあのときの約束がなんとなく日常となって20年。努力の甲斐があってか、今の私達はむしろ新婚の時よりも仲がいいのではないかと思います。

価値観の異なる二人が同じ屋根の下で生活することになれば、多少なりとも自分の価値観を抑え、譲歩しなければならないときがあります。「価値観の譲歩」などというとたいそうなことのように思いますが、よく考えてみると実はささいなことで衝突している場合がほとんどです。カチンときても何日かすれば忘れてしまうようなたわいのないものばかり。そんなつまらないことで腹を立てたり、衝突しているのだということに気がつくことが大切。それに気がつけば、自分の価値観を振り回して他者を断罪したり、自分の価値観を押し通そうとすることがいかにくだらないかにも気がつきます。

私はまだ結婚していない若い人たちに「結婚は【ゆ・あ・が・り】が大切だよ」とアドバイスすることがあります。【ゆ・あ・が・り】の「ゆ」とは「(相手を)許す」ということ。「あ」とは「あきらめる」ということ。「が」とは「我慢する」ということ。そして、「り」とは「理解する」ということです。そんなことを言うと必ず「結婚生活ってつらいものなんですね」と笑われるのですがそうではありません。こうした努力が「明日の幸せ」につながるのです。そして、私は若い人たちに付け加えるのを忘れません。「【ゆ・あ・が・り】をしてまでも幸せな生活を築いていきたいと思う相手と一緒になりなさい」と。

国家間のあり方も同じです。どちらか一方だけが我慢する関係や、力づくで自分の欲しいものを奪い取る・奪い取られる関係はどう考えてもいびつです。ましてや、一方の国の誠実さや弱さ、相手の「人のよさ」につけこむような狡猾さをもっていては決して信頼関係を築けません。しかし、海千山千の国際社会において、国際法を守っていれば、正義を貫いていればどんな国でも正当に評価し、支持してくれるほど現実は甘くありません。どの国も国益をかけているのですから。でも、せめて家庭の中だけは心許せる安心・快適な場所でありたい。そのために必要なのは価値観の調整なのではないかと思います。

皆さんも家族の幸せのために【ゆ・あ・が・り】を実践してみせんか。

ある「バイト」にて

7月7日の「あるバイトにて」にスパムメイルが集中してきましたので、原文そのままで再投稿します。

********** 以下、原文

ひとつの記事が少し長すぎるようです。しかし、書きたいと思うテーマがなかなか見つからない割には、いったんかき出すと次々と伝えたいことが湧いてきます。そして、あっという間に5000文字を超えてしまうのです。小学校のころ作文といえば超苦手なもので、なにをどう書けばいいのかもわからないまま、原稿用紙はずっと机の上に置きっぱなしになっていたというのに。人間とは成長する生物だってことでしょうか。
そして、また今度も長くなってしまいました。どうぞご容赦くださいませ。

********************* 以下、本文

 

先日の新聞に「全国の医学部に無給医が2000名あまり」という記事が載っていました。多くの国民の皆さんは「給料をもらわないで働いている医者がそんなにいるんだろうか」とびっくりしたかもしれません。しかし、私たち医者からすれば「ほんとにそれだけなのかな?」と別の意味で驚きでした。大学病院の研修医の待遇はずいぶんと改善されました。かつて、大学病院で働く研修医には給料は払われていませんでしたから。研修医ばかりではありません。卒業後そう年数がたっていない若い医者でさえ、助手以上の肩書がつかなければ給料はありませんでした。その待遇改善が70年代の学生運動の発端でもありました。

「給料をもらわずにどうやって生活するの?」と思われるかもしれません。当然の疑問です。給料をもらえない医師たちは外部の病院でアルバイトをして生活費を稼ぐのです。そうした医師たちの中には妻帯者もいます。子どもを抱えながら家庭を支えている医師もいます。しかし、多くの若い医師たちは社会保険にも加入できないフリーターのような生活を余儀なくされているのです。アルバイトは外来診療だったり、内視鏡などの検査だったり、病院の当直だったりとさまざまです。だからといって大学はアルバイトをする日を勤務日として認めてくれません。休日を使ってアルバイトに行くという位置づけになっています。

「そんなこと当たり前じゃないか」と言われるかもしれませんが、当直明けに大学にもどってもそのまま通常診療となるのです。当直(宿直)の仕事といえば、通常であればそれ相応の睡眠時間が確保されていることになっています。「必要に応じてときどき働く」からです。一方、夜勤というものは、仮眠はあるものの「日中のように働く」というものであり、給与は日中よりも割増しになっています。しかし、病院の当直業務は、仮眠はおろかまったく睡眠がとれないままに診療をするものが少なくありません。にも関わらず給与は「当直」並み。おまけに次の日が休日になることはなく通常通りの勤務になるのです。

以前、そうした当直バイトのことを書きました。若い医者にとって、それはそれなりに勉強にはなりますが体力的にはやはりきついものです。ですから、バイトを余儀なくされている医者はできれば「寝たきりバイト」にならないかなぁなどと考えます。「寝たきりバイト」とは、たまに病棟から呼ばれるだけで夜起こされることのほとんどない当直バイトのこと。しかし、そんな楽なバイトがそう簡単に見つかるものではありません。でも、臨床経験の少ない研修医はそんな「寝たきりバイト」であってもいろいろなことを学べます。彼らにとっては単なるお金稼ぎのアルバイトじゃないのです。

かつて私がやった「割がいいバイト」に、検診車に乗って健康診断の内科診察に行くアルバイトがありました。大学にいたときしばしばやらされました。朝、指定された時間と場所で待っていると検診車がやってきます。その検診車には採血をする看護婦さんやレントゲン技師さん、会場設営や受付などをする職員が乗っていて、一緒に健診会場に向かうのです。会場に着くと手際よく設営の準備がはじまります。私達医者がへたに手を出すとかえって足手まといになるのではないかと思うほどの手際のよさです。会社の営業所だったり、ファミレスの職員休憩室だったり、限られたスペースにあっというまに健診会場ができあがります。

一番記憶に残っているのが高速道路の料金所の健診のこと。料金収受員の皆さんの健康診断でした。そこで驚いたのは収受員の皆さんの多くが難聴だったことです。どの健診でも聴力が落ちている人は何人かはいるのですが、その高速道路の料金所ではほとんどの人が難聴でした。不思議に思った私は収受員のひとりに質問してみました。まわりにいた収受員の人たちが互いに顔を見合わせて笑い出しました。笑いながら「先生、なんでだと思う?」と。私にはその理由を医学的に説明することができません。しばらく考えてはみたものの結局わからず、その理由を収受員の人から教えてもらいました。私はその理由に愕然としました。

「俺たちはみんな元陸上自衛官なんだよ」というのです。この料金所の近くには自衛隊の駐屯地がありました。ですから、退職者がその料金所に再就職していても不思議ではありません。「耳が悪いのがなんでかわかるかい、先生?」。私はその理由に見当がつきませんでした。「陸上自衛官はどんな仕事をするんだい」、そう言われて気が付きました。ハッとして私は「鉄砲を撃つからですか?」ととっさに答えました。収受員の皆さんが微笑みながらうなづきました。「戦車の大砲だってあるよ。高射砲や機関銃もね。だからみんな耳が悪いのさ」。私は思わず「耳栓はしていないのですか?」と訊いてしまいました。

健診会場にいた元自衛官達は一斉に笑い出しました。「先生、耳栓をして戦争ができるかい?敵の動きを耳で確認しなきゃ先に打たれちゃうでしょ」と収受員。私はなんてつまらないことを訊いてしまったんだろうと思いました。と同時に、自衛官たちはこうして聴力を犠牲にしながら日々訓練しているんだ、と改めて思いました。「だから自衛隊病院があるんですね」と私が言うと、ひとりの収受員が「先生はなにも知らないんだな。訓練でなっちまった難聴なんて治らないし、俺たちみたいに退職したら自衛隊病院は使えないんだよ」と諭すような口調で言いました。なにも知らない自分が恥ずかしくなりました。

そういえば、私がアメリカ・ミシガン州にいたときミシガン大学病院の近くに「Veterans’ Hospital」という病院がありました。当時、「Veterans」という言葉の意味を知らなかった私は、アメリカ人の友人にその意味を教えてもらいました。実は「Veterans」は「退役軍人」のことでした。この「Veterans’ Hospital」という病院は、戦争で負傷した、あるいは障害をおった退役軍人のための病院だったのです。退役軍人がこの病院をかかるとき、医療費は一切かからないということでした。「アメリカでは国のために戦った軍人は尊敬される存在なんだよ。その軍人が怪我をしたり、障害が残ったら国が責任を持つんだ」というのです。

料金所の収受員さん達の話しを聴きながら、私はアメリカで聴いた「Veterans’ Hospital」のことを思い出しました。と同時に、退職した自衛官は自衛隊病院を受診できず、ケアも受けていないということを知り、アメリカと日本との軍人に対する国の姿勢の違いにびっくりしました。「俺たちは鉄砲の弾みたいなものだからな」と自嘲する元自衛官を見ながら、日本人の多くがこうした現実を知らないことをなんとなく腹立たしく感じました。そんな国の姿勢にも関わらず、毎日、泥だらけ、埃だらけになり、身体機能を犠牲にしてまで訓練に励む自衛官がほんとうに立派に思えました。

私がまだ中学生のころだったでしょうか。当時はまだ私服での外出が許されなかった防衛大学の学生をときどき見かけました。あるとき、電車の中で制服姿の防衛大学の学生が数人の大人に囲まれてなにかを言われているのを見かけました。なんて言われていたのかはっきりは覚えていません。しかし、その学生が下を向いてじっと耐えていたその様子からはきっと心ない言葉を投げつけられていたんだと思います。そんな思いをしながらも日本を守るために昼夜を問わず働いている自衛官。難聴になったことを自虐的に話す料金所の元自衛官達があのときの防大の学生と重なってとても切ない気持ちになりました。

今、思うと、無給で働く医者も同じだと思います。当時はそれが当たり前だと思っていましたからなんの疑問も感じませんでした。しかし、身体的な犠牲を強いられながら訓練を重ねる自衛官が、退職後、身体的なあるいは心理的なケアがなされていないと同じように、無給で働きながら、休日にアルバイトを強いられ、しかもその翌日はまたいつものように大学病院で働く若い医者たち。考えてみればおかしなことです。医者には労働時間というものがありません。残業時間でいえば多くの医者はそれこそ「過労死レベル」です。今でこそいろいろなところで待遇は改善されているかもしれません。それでもまだまだ不十分です。

大学を辞めて民間病院に勤務することになったとき、家内ははじめてもらった給与明細を見ながら「なんかほっとした」といいました。はじめはどういう意味かわかりませんでした。でも、それまではまるで日雇いみたいなアルバイト生活でしたから、「常勤医が見つかったからもう結構です」と言われればその日から仕事はありません。また次のアルバイトを探さなければならないのです。その月によって収入も一定しなかったこともあり、毎月決まった額の給与が銀行口座に振り込まれることは「ほっとした」ことに違いありません。それまで家内も不安だったんだなぁとその時はじめて知りました。

人知れず頑張っている人たちに光が当たることはいいことです。その人たちがいればこその社会なのに、多くの人達はそうしたことに気が付いていません。本来、誰かがそうした声なき声を発する人たちに代わって待遇改善を叫ばなければならないのに、これまで長年にわたって放置され続けてきたことが多すぎます。その意味で「無給医」の問題が今マスコミに取り上げられることは悪いことではありません。本来は大学の中にいる人たちから声があがらなければいけなかったことです。70年代にこうした若手医師の待遇に声をあげたはずのかつての学生たちは、教授になったとたん、すっかり体制側の人になってしまったようです。

今では、医学部に入学しても臨床医にはならずに、マスコミや商社で働くことを希望する医学生もいると聞きます。多額の税金をかけて教育を受けた学生がそうした選択をすることには賛否両論あると思います。同じように、防衛大学でも卒業後は自衛官に任官せず、民間企業に就職する学生がいます。人の人生はいろいろですから、それが自分の進むべき道だと信じるならそれも仕方ないことだと思います。人は働くことで社会のことを深く考えることができます。ですから、その人がどのような人生を送るにせよ、社会に生かされている(生かされてきた)ことを自覚しながら働いてもらえればそれでいいのではないかと思っています。

私もアルバイトでいろいろなことを学びました。社会勉強とはよくいったものです。単に収入を得るためということではなく、社会の縮図を目の当たりにしたり、他人の人生のいちぶを垣間見ることこともできました。こうした経験が、ともすると視野の狭い、世間知らずの私を少しだけ大人にしてくれたのかもしれません。と同時に、アルバイトの経験が、日の当たらない人たち、人知れず頑張っている人たちに目を向けなければいけないという意識付けにもなりました。人間の生老病死に関わる医師という職業は、否応なしに社会と人間との関わりを考えながら働かなければなりません。私はそれが医者の醍醐味だと思っています。