運命について(終)

万次郎とともに阿部の私邸を訪れた江川太郎左衛門は、アメリカとの交渉の通訳には万次郎をあたらせるよう進言しました。しかし、幕府の中枢では、万次郎がアメリカの立場を説明すればするほど、彼がアメリカの諜者(スパイ)ではないかと疑う人間が現れたのです。その代表格が水戸藩の徳川斉昭でした。水戸藩は鎖国の維持と外国勢力の排斥をもとめる攘夷派の中心的な存在。斉昭は、万次郎を通訳として使えば交渉がアメリカに有利になってしまうかもしれない、というのです。結局、幕府は、斉昭の意見に押され、ふたたびやってきたペリーらとの交渉に万次郎を同席させないことにしました。

1854年2月、黒船艦隊がまたやってきました。しかも今回は、七隻の軍艦がいきなり江戸湾に入ってきたのです。「浦賀まで引き下がるように」との幕府の申し入れも聞き入れません。そんな緊張感のなかで交渉がはじまりました。一方で万次郎にはさまざまな仕事が与えられました。西洋型帆船の建造指導や捕鯨術の指導、幕府が設立した「軍艦教授所(翌年には海軍伝習所と改名)」の教授にも就任しました。教授所で万次郎は、アメリカの航海術の教科書を翻訳し、学生にあたえて教育しました。測量術だけではなく、それらに必要な高等数学も教え、日本初の英会話事典を作って実践的な英会話も教えたのです。

ちなみに、この伝習所の責任者は、すでに長崎海軍伝習所でオランダ式の航海術を修めた勝海舟でした。日本の国防を担う海軍軍人を日本人の手で育成することが重要だと考えていた彼が教授方頭取(教官のトップ)となったのです。勝海舟は万次郎から、アメリカの民主主義、とくに実力さえあれば身分に関係なく出世ができ、奴隷を除けばおおむね皆が平等であることを聞いて感銘を受けます。そして、それまで幕臣でなければ入学できなかった伝習所を、優秀な人間であれば藩も身分も問わないという採用方法に改革しました。勝はその理想を追い求め、神戸海軍操練所を新たに創りますが、ここでのちに坂本龍馬が学びました。

200年以上も鎖国をつづけた幕府は、条約の交渉において終始アメリカ側の真意を疑っていました。でも、アメリカの条約案とその意図を知る上で、万次郎の助言はきわめて重要な役割をはたしました。そして、万次郎が説明したとおり、条約の目的は日本との自由貿易をすることであり、捕鯨船への補給にあったことを理解します。強大な軍事力をもつアメリカとの不必要な衝突は、日本にとって得策ではないと万次郎はつけくわえました。結局、林大学頭(昌平校の責任者)らの交渉によってペリーがやってきた二ヶ月後に「日米和親条約」が調印されました。その内容はおおむね万次郎が説明した通りのものでした。

日・米の間では、本格的な通商をするための条約ともいえる「日米通商修好条約」の締結に向けて交渉が継続していました。しかし、国内では外国勢力を打ち払うべきだとする攘夷派が日増しに力を増していました。条約を締結する際には天皇からの裁可(勅許)が必要なのですが、その朝廷自身までもが攘夷に傾いていました。アメリカの出方を推し量りながら、激しいやりとりのすえ「日米通商修好条約」はようやく妥結寸前にまでこぎ着けました。ところが、天皇からの勅許がおりません。交渉の詳細を説明しても勅許を出そうとしない朝廷。しびれを切らした幕府はついに勅許のないまま条約を締結してしまいました。

攘夷派は、その条約が朝廷からの勅許を得ないままに締結されたうえ、日本にとって不平等な内容になっていると激しく反発します。世の中が騒然とする中、1860年2月、条約の批准書を交換するため、総勢70名を超える幕府の訪米団がアメリカの軍艦ポーハタン号に乗船して江戸湾を出発していきました。軍艦奉行や勝海舟、万次郎、軍艦奉行の従者として同伴した福沢諭吉らも伝習所の練習船・咸臨丸に乗船してアメリカに向かいました。大荒れの太平洋を渡り、カリフォルニアで合流した幕府の訪問団本隊と咸臨丸の一行は、パナマまで船で南下し、鉄道で東海岸に向かい、無事条約の批准をはたしたのでした。

咸臨丸がアメリカに出港した二ヶ月後に「桜田門外の変」が起こりました。水戸藩を脱藩した浪士ら18名が、条約を締結した大老・井伊直弼を襲撃する事件でした。この事件が勃発する直前、条約締結の実質的な責任者だった真鍋詮勝が、吉田松陰らに命を狙われるという未遂事件が発覚しました。直弼は、吉田松陰をはじめとする攘夷派を一斉に逮捕し、処罰しました。桜田門外の変は、そうした幕府の対応を恨んでの事件でした。井伊直弼にとって、条約の締結はアメリカとの争いを回避するための苦渋の決断でした。日本を守るため、やむにやまれず結んだ条約だということを理解されなかった直弼の心中はどのようなものだったでしょう。

批准書交換から帰国した万次郎は、休む暇もなく知識と経験を伝授するため、全国の藩を奔走しました。1864年には薩摩藩に迎えられ、藩校の教授として航海術や測量術を教え、造船の指導もおこないました。その前年に薩摩藩はイギリスと戦争(薩英戦争)をし、西洋の軍事力の強さを思い知らされていたのです。また、万次郎は、1866年に土佐の藩主・山内容堂の依頼で藩校を設立するために招聘されました。そして、三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎や明治の有力な政治家・後藤象二郎らとともに、土佐藩の軍艦を購入するため上海に渡るなどしました。このように、万次郎は幕末から明治維新にかけて藩改革の原動力となったのです。

1869年、万次郎は明治新政府により開成学校(今の東京大学)の英語の教授に招聘されました。ネイティブスピーカーと英語で会話できる数少ない日本人として、実践的な英会話を学生たちに教えたのです。そして、翌1870年には、通訳を兼ねて大山巌らと普仏戦争の視察団としてヨーロッパに向かいました。その途中、フェアへブンのウィットフィールド船長の自宅を訪ねました。突然の訪問でしたが、自分を育ててくれた恩人との20年ぶりの再会をはたすことができたのです。抱き合って再開を喜ぶ二人。その後ろには万次郎が遭難したときとほぼ同じ15歳になった船長の次男が立っていました。二人の話は夜遅くまで尽きませんでした。

万次郎は、翌年、軽い脳梗塞になってしまいます。幸い後遺症は軽いものでしたが、彼はそれを機に一切の公職から身を引くことにしました。万次郎が45歳のときのことです。それ以後の彼は、ときどき乞われるままに英語を教えましたが、おおむね静かで穏やかな余生を過ごしました。一説ではときおり小舟で海に出ていたともいわれています。やはり万次郎にとっては最後まで「自分は漁師」だったのかもしれません。そして、万次郎は1898年に71歳で亡くなりました。東京帝国大学医学部を卒業し、医師・医学者となった長男・東一郎氏は、父親・中浜万次郎の晩年を次のように書いています。

「彼ののちの半生はきわめて静寂にして無為なりき」

 

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万次郎の人生は、近代化の黎明期にあった日本にとって欠くことのできないものになりました。ヨーロッパの強国が植民地を求めてアジアに迫り来る時代となり、小国にすぎなかった当時の日本はどのように行動すべきか。それを万次郎は指ししめしたのです。万次郎が残したこうした功績には、彼の運命に対する姿勢が大きく影響しています。万次郎は読み書きのできない漁師の子として育ちました。しかし、彼は自分の意志とは無関係に日本の運命に関わる立場になっていきます。でも、万次郎はそれを求めたわけではありません。ただ彼は運命にさからわず、自分がなすべきことを黙々と実行していただけなのです。

ひとつひとつの成功や失敗で人生は決まりません。ことの結果がなんども突きつけられ、そのたびに「次に自分はなにをなすべきか」を考え、誠実に行動する。その積み重ねの総体が「人生」というものです。その人生になんらかの「意味」が見えてきたとき、人はそれを「運命」と呼びます。万次郎は第一線を退くまでのたった30年間に、多くの幕末の志士や維新の盟主に影響をあたえてきました。それが彼の「運命」であり、彼が生きた「意味」だったのでしょう。万次郎がアメリカで体験してきた「自由と平等」と、彼の人生で一貫していた「希望を持ち続ける」という精神は、今の日本人の心の中にもきっと生きているはずです。

                                           (完)

※ 「ジョン・万次郎の生涯」のオープニングテーマ曲はNHK大河ドラマ「勝海舟」ですね

※  エンディングテーマ曲は私的にはX JAPANの「Tears」なんですけど