子ども達に伝えたいこと(3)

10月21日、今年も麗澤中学校で開催された職業別講演会に行ってきました。毎年、中学三年生の生徒さんに「医師について」と題してお話ししています。でも、本当に伝えたいことは、「医師」という職業についてではなく、「ダメダメ小学生だった自分が、いかにして医者になったか」ということ。失敗を繰り返しながらも、子どものころからの夢だった「医師」になれた私の半生を知ってほしいのです。その体験を通じて、「くじけないことの尊さ」を感じてほしい。そんなことを思いながらお話ししています。とはいえ、伝えたいことすべてを言い尽くすのは不可能です。また、生徒さんの中には「医師」という職業を選択しなかった人もいます。そこで今回は、私がいつも講演で伝えたいと思っていることをまとめてみました。

*****************************

麗澤中学校のみなさんへ

先日はお疲れさまでした。職業別講演会はいかがだったでしょうか。「面白かった」で終らさず、「自分はどんな職業に就きたいのか」「どのような仕事が自分に向いているのか」を考えてみて下さい。

皆さんの多くは、自分の将来についてはまだ漠然としていて、明確な目標を持っていない人もいると思います。「なんとなく大学に進もう」と考えている人が大多数かもしれません。しかし、どのような学校を、あるいは、どのような学部を選ぶかは職業選びに影響します。特に大学の理系学部に進んだ場合はそうですが、文系学部であっても学部選びを間違ったために希望する職種に就けないことがあります。だからこそ、「どんな職業に就きたいのか」「どのような仕事が自分に向いているのか」を考えておくべきなのです。

何かを選択するときは、必要条件と十分条件を考えるといいと思います。必要条件とは、「これだけははずせない条件」のことです。そして、十分条件とは「これがあればなおいい条件」のこと。たとえば、職業を選ぶ際、「やりがいを感じることが絶対に必要」なのであれば「やりがい」は必要条件になります。「職場が自宅に近ければなおいい」のであればそれが十分条件です。そして、「給料さえよければどんな仕事でもいい」という場合であれば、「給料がいいこと」は「必要かつ十分な条件」になります。

今、AI(人工知能)が進化を続けています。将来、そのAIに取って代わられてしまう仕事があるかもしれません。とくに膨大な知識を前提とする職業、あるいは正確さ・緻密さを求められるような職業はAIの得意分野であるだけにその影響は避けられません。だからといって「どの仕事を選べば身分が安定しているか」と選ぼうとしても、そんなことを見通すのは不可能。多くの予想ははずれるものなのです。そうではなくて、「やりたい仕事」「自分に向いている仕事」を必要条件にした職業選びをした方がいいと思います。

私は幼いころから「医者になりたい」と思っていました。しかし、小学生のころは勉強をしない、宿題すらやっていかない、そもそも学校が嫌いな子どもでした。そして、そのままなんの努力もしない中学生になってしまいました。なのに、そんな私が夢だった医者になれたのは奇蹟かも知れません。でも、偶然ではありません。偶然では決して医者にはなれないのです。医者になれたのは、まさに皆さんと同じ中学三年生のときの私が生まれ変わりはじめたからです(以前の記事「やる気スイッチ」を読んで下さい)。

私が生まれ変わるきっかけは「三つの転機」にあります。「三つの転機」とは、「このままでは高校には受からない」と担任の先生に宣告された中三のとき。そして、それまで高校で外国語として習っていたドイツ語を大学生の先輩に否定されてしまった高三のとき。さらに、卒業研究に打ち込む同級生たちの姿に「やりたいことを仕事にする大切さ」を思い知らされた大学四年生のときのこと。この「三つの転機」を乗り切れたからこそ今の私があります。これらの転機がなかったら私は医者にはなれなかったと思います。

一方、その「転機」を乗り切る勇気と力を与えてくれたのが、ふたりの恩師から贈られた「言葉」です。ひとつは、勉強の面白さに気がつきはじめた中学三年のときに英語の先生から言われた言葉。「人間にはなんどか【ここぞ】というときがある。その【ここぞ】というときに踏ん張れるかどうかで、その人の価値が決まるんだよ。」というものです。この言葉は中学生の私の心になぜか響きました。そして、それ以後、私は苦境に立たされるたびにこの言葉を思い出し、くじけそうな自分を支えてくれたように思います。

もうひとつは、大学の就職担当の先生に言われた言葉です。当時の私は就職先を決めなければならない時期なのに、医学部を再受験するかどうか迷っていました。それは、同級生たちが就職・進学する中、自分だけが大学受験生に戻ることが不安だったから。また、「なんど受験しても合格できなかったらみじめだ」と思っていたからです。そんな時に先生は言いました。「他人(ひと)がどう思うかではなく、君がなにをしたいかじゃないか。他人は他人、君は君なんだよ」と。この言葉が私に再受験をする勇気を与えてくれました。

ひとつひとつの苦境にくじけていたら、きっと私は、うまくいかないことを運の悪さのせいにする、いじけた人間になっていたでしょう。これまでの半生を振り返ると、なりたかった医師になれたことそれ自体よりも、医師になるために頑張ったことがいかに貴重だったかに気が付きます。困難にぶつかってもあきらめず、立ちはだかる壁を乗り越えようとする努力こそが重要なのです。そうした経験はなにか大切なものを残してくれます。その意味で、先ほどの「三つの転機」と「ふたつの言葉」は私の宝物になりました。

皆さんに強調したいのは、「一回や二回の成功や失敗で人生は決まらない」ということです。「人生はなんどでもやりなおせる」ということも知ってほしい。人生をまっとうするうえで大切なのは、成功を繰り返すことでもなければ、失敗しないことでもありません。むしろ、「ひとつひとつの成功や失敗をふまえて、『これからの自分はなにをしなければならないのか』を考え、それを誠実に実行すること」です。成功や失敗は単なる通過点にすぎません。その積み重ねが皆さんの人生を意義深いものにしていくのです。

世の中には「下らない序列」にあふれています。偏差値がどうの、学歴がどうの、社会的地位がどうの、収入がどうの、と忌まわしい序列が人々を振り回しています。人の幸せにはいろいろな形があります。同じものなどひとつとしてありません。ましてや、他人に誇らしげに見せつけるものではない。楽しい家庭を持つことを幸福と呼ぶ人もいるでしょう。使い切れないほどの財産を所有することが幸せだと思う人すらいます。幸せの形がどうであれ、あなた自身の幸福のために「どんな職業が自分にふさわしいか」を考えることが大切です。

人生は長いようで短いもの。私が【ジョン・万次郎の生涯】をたくさんの人に知ってほしいのは、彼が自分の人生における困難にくじけず、常に前を向いて生き抜いたことを伝えたいからです。皆さんはこれからさまざまな経験をしていくことでしょう。うまくいって欣喜雀躍(きんきじゃくやく)することがあると思います。しかし、うまくいかずに打ちのめされることだってあるかもしれません。そのいずれのときであっても、ぜひ思い出してほしいことを今日はまとめてみました。

                                   皆さん、頑張りましょう。

「【ここぞ】というときに踏ん張れるかどうかで、その人の価値が決まるんだよ 」

「 他人(ひと)がどう思うかではなく、君がなにをしたいかじゃないか 」

「 一回や二回の成功や失敗で人生は決まらない 」

「 人生はなんどでもやり直すことができる 」

                   ※ 姉妹編「子ども達に伝えたいこと(2)」もお読み下さい

 

アジアのなかの日本

今ほど「激動の時代」と呼ぶのにふさわしい時代はありません。欧州ではゲルマン民族の大移動を見るような移民流入が各国の治安をおびやかし、政治をゆさぶり続けています。また、大国が主導する戦争が勃発し、力による現状変更が横行しています。さらにはAIの急速な発達によって、人間の生活そのものを大きく変えようとし、AIが進化を続ければ人類を滅亡させてしまうかもしれないといわれるほどです。日本に目を向ければ、激変する世界と無縁ではなく、さまざまな社会問題が表面化しています。社会の分断と対立が徐々に深刻になっているようにも見えます。そんな混沌とした現代だからこそ、私たちの未来がどうあるべきなのかを冷静に考えてみなければなりません。そのためにも歴史を振り返ることが大切です。ただし、過去のできごとにとらわれず、現状を認めたうえでこれからどうすべきかを考えたいものです。

歴史において起こってしまったことを現在の価値観で評価することはできません。価値観は時代によって変化・変遷するからです。中世の宗教戦争においてたくさんの人の命が奪われました。そのことを今さら責めても意味がありません。近・現代において欧米列強が世界中に植民地を求め、その資源や労働力を搾取したと批判しても仕方がないのです。そうではなく、これまでの歴史を振り返ったうえで、「これからの我々はどうあるべきか」を自分のあたまで考えるのです。とはいえ、学校で教えられている歴史は不十分です。歴史の価値すら認識していない人も少なくありません。その一方で、特定の目的をもって偏向教育がおこなわれることもあります。子どものころ、学校では「日本は戦争をした悪い国」と教えられました。でも、そこには「なぜ戦争をしたのか?」という問いはありませんでした。しかし、インターネットを使ってさまざまな情報が手に入るようになると、その「なぜ?」の答え、言い換えると、これまでいわれてきた姿とはことなる日本が見えてきます。今回のブログでは、学校では詳しく習わない、でもこれからの日本を考える上で参考になるできごとをまとめてみたのでご紹介します。

 

隋(ずい)が中国という広大な地域を統一した頃、日本はまだ「倭国(わこく)」と呼ばれていました。当時、隋はアジアの超大国であり、文明や文化の中心でもありました。その存在感は畏怖といえるほどに大きく、周辺諸国は隋に朝貢をして保護を求めました。隋は日本を「倭」という蔑む意味をもつ文字をあてて呼び、日本にも朝貢するよう求めます。ときの天皇は第33代推古天皇。その天皇を補佐していたのは、聖徳太子として知られる厩戸皇子(うまやどのおうじ)です。このとき、すでに倭国には朝鮮半島からさまざまな情報が伝えられており、聖徳太子は、隋に朝貢することの意味、そして、朝貢を拒否することの意味を知っていました。このときの朝鮮半島は、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)が覇権をあらそう「三国時代」にありました。高句麗は満州系の狩猟民族が高緑江中流域に打ち立てた国家にはじまり、百済や新羅とともに半島での勢力争いをする一方、常に中国からの脅威にさらされていました。百済は古くから日本との良好な関係が続き、仏教もこの百済を経由して日本に伝来したのです。しかし、高句麗と新羅にはさまれた百済は、日本との協力関係を結んで存続しているという状態でした。なお、半島の南端にはもともと任那(みまな)という小国家群がありました。そして、任那日本府がおかれるなど、日本とは鉄や磁器などの貿易を通じて深い関係にあったのです。しかし、この任那は562年に新羅によって征服されてしまいました。

聖徳太子は、日本が隋の冊封体制に組み込まれれば、いつしか朝鮮半島が中国の一部となったとき、隋が日本の現実的な脅威になるだろうと考えていました。そこで、中国を統一した隋の現状を知り、全国を統治するための律令制度がどのようなものなのかを知るため、遣隋使を派遣することにしました。西暦600年のことです。しかし、隋の初代皇帝である文帝(ぶんてい)に日本の国家体制を問われたとき、倭国からやってきた使者は「我が国は神の国であり、神の言葉によって政治を進めている」と答えます。すると文帝は「おまえの国はそんな道理のあわない国なのか」と冷笑します。かくして、初めての遣隋使の派遣は屈辱に満ちたものになってしまいました。しかし、聖徳太子はあきらめませんでした。ただちに「冠位十二階」や「十七条憲法」などを矢継ぎばやに制定し、律令国家にふさわしい体制の整備を急ぎました。朝貢はしても隋の冊封体制に組み込まれぬよう、日本は独立した国家の立場を貫こうとしたのです。

そして、607年、満を持して小野妹子を第二回遣隋使として中国に派遣します。そこであの有名な「日出づるところの天子、日没するところの天子に書を致す」という国書を、文帝にかわって皇帝となった煬帝(ようだい)に渡すのです。ところが、「倭国」とあなどっていた日本が自らの王を「天子(皇帝の意)」と呼ぶことに煬帝は激怒します。天子とは世界で唯一自分だけだからです。とはいえ、隋はちょうどそのとき高句麗と緊張状態にありました。日本とことを荒立てるのは得策ではありません。そこで隋は使節を歓待し、帰国する際にも外交事務官の裴世清(はいせいせい)を答礼使として同伴させました。日本に渡った裴世清も歓迎され、煬帝からの親書を推古天皇の前で読み上げました。

その後の朝鮮半島では高句麗、百済、新羅による覇権争いが繰り返されていました。百済は新羅と高句麗にはさまれ、常に圧迫を受けており、百済は生き残りをかけて日本を後ろ盾にしていました。618年、中国では唐が隋を滅ぼし、新たな王朝を築きます。そして、唐の3代皇帝高宗は、新羅との連合軍を作って百済に攻めてきます。そこで百済は、若き王族の一員である豊璋(ほうしょう)と弟の善光(ぜんこう)を日本に送りました。名目上は人質ですが、実際には王子たちを避難させることが目的です。660年、ついに王朝が滅ぼされ、孤立した百済軍は豊璋の帰国と日本の援軍を求めます。そこで中大兄皇子(のちの天智天皇)は、すぐさま一万人を越える日本兵とともに豊璋を百済に帰国させました。豊璋は地元で新羅・唐連合軍と対峙している百済軍と合流。百済の王に即位すると、一緒にやってきた日本の兵士とともに新羅および唐と戦いました。これが665年の「白村江(はくそんこう)の戦い」です。日本は三回にわたって計4万人にもおよぶ兵を送ります。しかし、対する新羅・唐連合軍の兵士は18万人。この圧倒的な兵力の差にくわえ、百済軍内での対立もあって百済・倭国連合軍は敗れてしまいます。敗走した豊璋は高句麗に亡命。ところが、その高句麗もまもなく唐に滅ぼされ、連行された豊璋は中国南部に流刑となって非業の死をとげました。

百済という国家はなくなりましたが、日本には豊璋の弟である善光が残りました。彼は持統天皇から亡命貴族の称号である「王(こにきし)」を賜り、「百済王(くだらのこにきし)」を名乗りました。そして、その後も朝廷は彼を丁重にあつかったのです。この百済の王家は日本で生き残り、のちのちまで朝廷と天皇に仕えました。ちなみに、752年に開眼供養がおこなわれた奈良・東大寺の大仏の建造事業は、当初、使用する金が不足して頓挫しかけていました。しかし、当時、東北の地方長官だった百済王・善光のひ孫が金鉱を発見。大量の金を朝廷に献上したことで大仏は無事完成したことが知られています。ところで、第50代天皇として即位した桓武天皇の生母・高野新笠(たかののあらがさ)も百済系渡来人の子孫でした。2001年に今の上皇陛下(当時は天皇陛下)が誕生日の記者会見で、W杯サッカー大会が日韓で共催されることに際して、「桓武天皇の生母は百済人であり、韓国にはゆかりを感じる」と述べられました。日本と朝鮮の関係は、今、多くの人が思っている以上に深かったのです。

 

「高麗(こうらい)」という言葉ですぐに思い浮かぶのが「高麗人参」かもしれません。朝鮮半島でとれる薬用人参を朝鮮人参といいますが、その中でも質の高いものは高句麗があった高麗地域(北朝鮮)産だといわれています。それをとくに「高麗人参」と呼ぶのです。ちなみに、朝鮮人参は食用人参とは似て非なるもの。食用人参はセリの仲間で甘みがありますが、朝鮮人参は苦みのあるウドの一種であり、食用人参とは種類のことなる植物です。私が研修医をしていた東京逓信病院のすぐそばには朝鮮総連の本部ビルがありました。北朝鮮の要人の誕生日になると、この朝鮮総連からパーティーの招待状が医師に届きます。毎日が忙しい医師達が出席することはほとんどありませんが、そうした人にはあとで「高麗人参酒」が届くのです。なお、私たちのような末端の研修医には招待状も高麗人参酒も届きません。

埼玉県に「高麗(こま)神社」という神社があります。神社というと、日本の神話にでてくる人物が祀られていることが多いのですが、高麗神社の主祭神は高句麗の王・若光(じゃくこう)です。神社に朝鮮人が祀られているのはなにか不思議な気がします。しかし、ここにも日本と朝鮮半島との深い関係が影響しています。半島で大きな政治的変化が起こっていた660年、百済が新羅・唐連合軍によって滅ぼされ、唐はその強大な軍事力を次の高句麗に向けます。そこで高句麗は、百済・倭国連合軍が白村江の戦いに敗れた3年後の666年、若光を「外交使節」として日本に派遣しました。若光を守るためです。しかし、若光が日本に到着して間もない668年、高句麗はついに唐に滅ぼされてしまいます。祖国を失った若光は日本に残ることになりました。大和朝廷は、若光に「高麗王」という姓を与えて保護します。朝廷は全国に散らばっていた高句麗からの渡来人1779名を武蔵国に集めて「高麗郡」を創設しました。そして、その長官に若光を任命したのです。若光は郡民となる高麗人たちをよくまとめ、土地の開拓を進めていきました。このように、祖国に帰ることのできなかった若光の威徳を偲んで作られたのが高麗神社なのです。

この神社には猿田彦命(さるたひこのみこと)と武内宿禰命(たけのうちすくねのみこと)も祀られています。猿田彦命は、天照大神の孫であるニニギのミコトが高千穂の地に天孫降臨する際、地上への道案内をした人物とされ、「導きの神」として知られています。武内宿禰命は、何代もの天皇に仕え、たびたび日本沿岸を襲ってきた新羅の海賊を征伐して国を守った功労者。そのため「忠臣の鑑(かがみ)」とされていました。若光は天皇から下賜された「高麗郡」を開拓するにあたり、神の導きと天皇の加護を願い、猿田彦命と武内宿禰命の社(やしろ)を作って祀っていたのです。民族の誇りを忘れず、しかし、自分を保護してくれた天皇に感謝する若光の思いが伝わってくるようです。

 

日本の近現代史を振り返ってみると、朝鮮半島や中国において大きな変革をおこそうとした人物と日本には浅からぬ縁があります。日本の明治維新に刺激を受け、朝鮮半島の近代化を模索した金玉均(きんぎょくきん)はそのひとりです。両班(やんばん)とよばれる貴族階級にいた彼は、李氏朝鮮がこのまま鎖国状態を続けて近代化を拒めば、大国の植民地になってしまうと懸念していました。そこで、近代化に成功した日本に学ぶため、玉均は1882年に日本に渡ります。福沢諭吉は玉均の志に感銘を受け、彼が日本に滞在している間、物心両面にわたる支援を惜しみませんでした。そして、「近代化のためには、まず文盲の国民にハングル文字を普及させ、識字率を高めよ。次に、新聞を作って国民の政治に対する意識を醸成するのだ」と助言します。帰国した玉均は、諭吉の言うとおり、朝鮮ではじめてとなる新聞「漢城旬報」を発行しました。そして、李氏朝鮮の王朝を倒すための革命を試みますが失敗。1884年、日本に亡命します。日本では福沢諭吉のみならず、大日本帝国憲法を草案した井上馨らが援助するのですが、李氏朝鮮が送り込んだ暗殺者によって逃亡先の中国・清で殺害されます。そのうえ、祖国に運ばれた遺体は残忍な方法で見せしめにされるのです。李氏朝鮮のそうした理不尽さに福沢諭吉は憤慨します。「脱亜論」にて「もはや近代化に背を向けるアジア諸国との関係を日本は絶つべし」と説くほどでした。

ちょうどそのころ、中国・清も変革期にありました。こちらも近代化が遅れた結果、国内は混乱をきわめていました。そんなときに孫文が登場します。孫文は「今こそ中国にも日本のような維新をおこすときだ」と叫びます。しかし、中国国内では軍閥が次々と武装蜂起するなど、政治状況は流動的でした。裏切りと謀略のなかで翻弄される孫文でしたが、二度も日本に亡命し、宮崎滔天(とうてん)ら、たくさんの日本人の支援を受けます。1911年、清朝の高官だった袁世凱(えんせいがい)のクーデターによる辛亥革命(しんがいかくめい)で清王朝は滅亡。翌12年に孫文は中華民国政府の樹立を宣言します。しかし、狡猾な袁世凱との政権移譲に失敗すると、中華民国政府は徐々に中国共産党に飲み込まれていくことになります。亡くなる直前、孫文は日本に対して「西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、日本に欧米の帝国主義に対抗するよう求めました。しかし、皮肉にも、その後の中華民国・国民党自身がそのアメリカの支援を受け、国共合作によって共産党と共闘する関係になってしまいます。

中華民国・国民党軍が日本軍との泥沼の戦いに陥った原因は蒋介石にありました。彼は日本の軍人養成学校に留学した経験があります。1907年のことです。そして、日本帝国陸軍の士官候補生になり、2年ほどでしたが軍務にもついていました。1911年の辛亥革命にも参加し、そこで孫文と知り合うのです。帝国陸軍の戦い方を熟知していた蒋介石は、軍閥が乱立する中国国内を徐々にまとめて行きます。当初は反共産主義の立場から中国共産党軍と戦っていました。しかし、南下して満州地方の支配をたくらむソ連軍を押さえるため、中国大陸に本格的に進出してきた日本軍とも交戦することになったのです。中国共産党と日本軍との両面作戦に苦慮していた蒋介石は、「当面は中国共産党とともに日本軍と戦う」と宣言します。これが国共合作です。アメリカから軍事・資金両面の援助を受けて、国民党軍と日本軍との戦いは泥沼化していきます。かくして国民党軍の力は徐々に弱まっていきました。しかし、日本はポツダム宣言を受諾して第二次世界大戦で敗戦することに。すると、中国共産党軍は一転して弱っていた国民党軍を追撃するようになり、蒋介石が率いる中華民国・国民党軍は台湾に敗走を余儀なくされるのです。

その中国共産党軍の指揮官のひとりが周恩来(しゅうおんらい)でした。周恩来も、実は日本に留学しようとした時期があります。辛亥革命が一段落した1917年のことです。日本の高等学校に進学することを希望し、東京で受験勉強をしながら貧しい生活を余儀なくされていた周恩来。しかし、日本語がなかなか上達せず、希望する学校の入学試験に合格できずにいました。仕方なく、いくつかの大学の講義を聴講しに歩きます。そのなかでもとくに京都大学の河上肇教授が講義する「マルクス主義」には強い影響を受けました。河上肇はマルクス主義の権威として知られ、周恩来とときを同じくして近衛文麿が東京大学から京都大学に転学したのも河上肇に学ぶためでした。周恩来はその後、毛沢東とともに中国共産党の結成に参加します。周恩来は、国共合作にあっては中華民国・国民党軍との関係を重視する立場をとりました。また、日本軍の捕虜に対しては、素行良好な者は早期に釈放するなど人道的な態度で臨みます。周恩来の人柄はつねに冷静で、寛大・篤実であり、あの文化大革命でも粛清されることはありませんでした。また、文革が終ってもなお中国共産党の首相として日中国交回復にも尽力したのです。晩年、病床にあった周恩来は日本に留学しようとした時代を懐かしみ、「もう一度日本に行ってみたい」と語っていたといいます。京都の亀山公園には、かつて周恩来が嵐山を訪れたときの思いを綴った詩「雨中嵐山」の石碑があります。

 

歴史は正しく知ることが重要です。でも、残念ながら、正しい歴史は教科書やメディアを通じて知ることは難しいのです。そこにはなんらかの意図が見え隠れしている場合があるからです。自分の意志によって能動的に調べなければ「真実」は見えてきません。歴史は史実を通じた「解釈」。同じ史実でも、日本側から観た解釈もあれば、相手国から観た解釈もある。どちらの解釈が正しいか判断できないことも少なくありません。今、世界は歴史の転換点にあります。これまでとはまったく異なる社会になろうとしているのです。明日の日本を背負う若い人たちには、イデオロギーや固定観念にとらわれることなく、まっさらな気持ちで歴史を学び直してほしいと思います。

今年も10月5日からノーベル賞各賞の受賞者が発表されます。出身国別の受賞者数ランキングにおいて日本は世界の第6位です。資源のない貧しいアジアの国家であった日本が、多数のノーベル賞の受賞者を輩出する科学大国・経済大国になれたのは、私たちの先人の不断の努力と英知があったからです。一方で、日本はこれまで、一度たりとも欧米列強の植民地にはなりませんでした。それも単なる偶然ではありません。それぞれの時代の変化を感じとり、変革すべき時に果敢に行動する勇気を日本人がもっていたからです。そして、そうした日本人の姿は、他のアジアの国々の改革の志士たちをも突き動かして来ました。私はそのことを誇りに思います。と同時に、これからの日本人も是非そうであってほしいと願ってやみません。

死の準備教育

「武士道といふは死ぬことと見つけたり」とは、江戸時代中期に武士道についてまとめられた「葉隠(はがくれ)」にある有名な一節です。でも、その意味については誤った解釈が一部に広まっています。それは、先の大戦で、国民に「命を惜しむな」と教え、「死ね」と教唆する精神論になった、という言説です。こうした解釈は悪意にもとづいてねじ曲げられた理解によるものです。葉隠でいう「死ぬことと見つけたり」とは「人間はいつか死ぬ。だからこそ、いつでも死ねる覚悟を持ち、死の恐怖や生への執着から解放されるのだ。そして、今、この瞬間を後悔なく、全力で生きろ」という教えなのです。その精神は、武士道の「微弱な電流」がながれている日本人にはそれとなく理解できる教えだと思います。

人は皆、「長生きすること」を疑いようのない「絶対的な善」だと思っています。また、多くの人は「長生きは幸せなもの」と信じています。しかし、「長生き」は、「幸運なこと」ではありますが、必ずしも「幸福なもの」とは限りません。私はたくさんの高齢者の方を診てきました。と同時に、たくさんの死も見てきました。人の一生に同じものはひとつもありません。気の毒な生い立ちながら、晩年は幸せな人生をまっとうできた人がいます。逆に、裕福な両親のもとに生まれながら、家庭が徐々に崩壊し、社会に翻弄されながら亡くなっていった人もいます。また、若くして不治の病となり、社会で活躍するという夢を実現することも、家庭をもつ喜びも経験できないまま、失意のうちに亡くなった人もいるのです。

当院に通う高齢患者さんが皆、毎日、幸せを感じながら生活しているかといえばそうではありません。日に日にからだの衰えを感じ、「耳が遠くなった」「転びやすくなった」「物忘れがひどくなった」「からだのあちこちが痛い」など、さまざまな不自由や苦痛を受け入れられず、孤独と不安にさいなまれている人が少なくないのです。昨年7月に92歳で亡くなった私の母は、実家で一人暮らしをしていました。「病気のデパート」といえるほどたくさんの病気を抱え、飲まなければならない薬がとても多い人でした。なんども心臓発作で入院し、大きな交通事故にも遭いました。でも、晩年は「なにも心配事がない今が一番幸せ」と繰り返し言っていました。そのような思いで生活できる幸運な高齢者はむしろ少数派かもしれません。

多くの人が「長生きしたい」といいます。若い人がそう言うのは、「年を取ること」がつらいことだと知らないからです。年齢を重ねた人が「長生きしたい」というのは、「死」から逃れたいという思いの裏返しです。しかし、「長生き」は決して安楽なことではない一方で、「死ぬこと」は決して恐ろしいものではありません。そのなかで、幸運にも長生きできた超高齢者の中には「早くお迎えに来てほしい」と口にする人が少なくありません。それは「長生き」がつらく、苦しいと感じているからです。私は、そうした人たちには「長生きは修行なのです」とお話しします。「若くして逝かざるをえなかった人たちの分まで生きていかねばならないからです」と付け加えることも忘れません。人は毎日をただ無駄に生きているわけではないのです。

「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という一節をもちいて、三島由紀夫は戦後の日本に高まりつつあった物質主義を批判しました。と同時に、日本人の精神がどんどん空虚になっていくさまを憂いました。三島由紀夫の目に映った戦後の日本は、経済的繁栄を優先し、理想と誇りを見失った卑しい国家に見えたのです。また、打算で生き、事なかれ主義の中で命を長らえるだけの日本人に「腐敗する精神」を見たのかもしれません。それはまさしく「今だけ、金だけ、自分だけ」という社会・人間の醜さだったのでしょう。築いてきた社会的地位も、使い切れないほどの財産までもが、死に際してはなんの役にもたちません。三島由紀夫は「おまえには満足して死ねるなにかがあるのか」と問うているのです。

私自身に「死ぬ覚悟」はできています。できているつもりです。日本人の二人にひとりは癌になります。父も膵臓癌でしたし、母は脳腫瘍でした。私もそれに近い病気で死ぬのでしょう。「長生きしたい」とは思いません。でも、「長生きしたいと思わない」とは「したくない」という意味ではありません。「長生きできない覚悟はできている」という意味です。と同時に、「『修行』のような長生きに耐える覚悟もある」ということでもあります。私のこれまでの半生に一片の悔いもありません。人に誇れるようなものでもありませんし、そもそも誇るつもりもありません。ただ淡々と生きて、淡々と去って行くのみです。願わくば、そうした私の一生から、誰かが生きる勇気を見つけてくれれば、と思うだけです。

「死の準備教育」というものをご存じでしょうか。「死の準備教育」は、1980年代に上智大学の教授でありイエズス会の司祭でもあったアルフォンス・デーケン氏が提唱しました。彼は「生と死を考える会」を立ち上げ、「死と向き合うことは、今を大切に生きること」というメッセージを一般市民に伝えました。これはまさしく葉隠の「死ぬことと見つけたり」そのものです。日本でタブーとされてきた「死」を、宗教という観点から少し離れ、オープンに語り合い、ひとりひとりの死生観を学びあう場を作る必要があるとデーケン氏は考えました。私は、物質主義と虚無主義の現代社会に生きる子ども達にこそ、この「死の準備教育」が必要だと思っています。子ども達にとって、限りある命を大切に生きるきっかけになるからです。

今、学校では間違った教育がおこなわれています。LGBTQをはじめとする人権教育がそのひとつです。偏った男女平等の概念や倒錯した性別の意識、過激な性教育までもが子ども達には教えられています。偏向した平和教育や拙速な多文化共生についても、です。そうした教育の恐ろしさは、彼等が大人になった未来に思いがけない変化となってあらわれます。まだ社会的に未熟で、それぞれの価値観も育っていない子ども達に、特定の社会意識を植え付けることの危険性を大人達は自覚するべきです。それらの問題には正解というものがありません。正しいかどうかは成長していく過程で子ども達自身が考えていくこと。そんな薄っぺらなことよりも、子ども達には命の大切さと生きる意味を考えさせる「死の準備教育」の方がよほど大切です。

死は避けられません。すべての人は必ずいつか死ぬのです。だからこそ今を大切に生きなければなりません。死の瞬間は苦ではありません。それはまるで修行から解放されるかのように安らかなものです。だからといって死に急ぐことは許されません。「生きる」ことは、生をまっとうできずに亡くなった人たちの分まで生きることだからです。長生きをしている「幸運な人たち」は、無念の思いで若くして逝った人たちの分まで生きなければならない。彼等の悔しさや悲しさを背負って生きる義務があるのです。それが長生きをすることの意味でもあります。生の長さがどうであれ、死ぬことから目をそらさず、いつ死んでも悔いがないように生きること。葉隠の「死ぬことと見つけたり」はそれを私たちに教えているのです。

 

子ども達に伝えたいこと(2)

7月1日(水)に柏市立土中学校で講演して来ました。これまでの中学校でおこなった講演の多くは、「医師という職業」について。中学生の皆さんが将来どんな職業につくのか。それを考えるきっかけになるような内容でした。でも、今回は「失敗や挫折の大切さについて」というテーマ。それまで勉強もせず、成績も振るわなかった中学生の私が、その後、どのようにして医師になったかをお話ししました。私の「失敗と挫折」の人生が中学生の心に響くかもしれないと思ったのです。

講演を依頼していただいた校長先生からは「生徒達が元気になるお話しを」と頼まれていました。私のような体験をした人はおそらくいないでしょう。なんども失敗し、挫折を繰り返しながら、その都度、いろいろな人との出会いが私を支えてくれた。こうした半生から、きっと中学生の皆さんに何かを感じてもらえるはず。今の中学生は、生まれてからずっとデフレの社会に生きてきました。昔にくらべておとなしい生徒が多くなったとも聴きます。そんな彼等を、私の経験談で元気にできれば、と意気込んで会場に向かいました。

会場となった中学校の体育館には、一年生から三年生までの250人あまりが集まってくれました。硬い床に体育座りをした彼等を前に、プロジェクタに映し出されるスライドを流しながらお話ししました。約一時間でしたが、できるだけ飽きないようにお話しの内容を工夫したつもりです。生徒さん達の視線を追い、つまらなそうにしていないか、わかりにくいものになっていないかを確認しながらのお話しでした。しかし、そんな私の配慮がいらなかったくらい、生徒さん達は真剣に聴いてくれました。

生徒さんを見渡すと、瞳をキラキラさせながらスライドを見ている人、乗り出すように聴いてくれている人、手元のノートに一生懸命メモをとっている人もいました。一時間も硬い床の上に座っての聴講だったので、さぞかし疲れただろうと思います。でも、ついこの間まで小学生だった一年生も、高校受験であせりはじめているだろう三年生も、あるいは遊びたい盛りの二年生も、聴いているときの様子を見ていると、私が言いたかったことをしっかり受け止めてくれていたようでうれしかったです。

後日、校長先生から生徒さんの感想が送られてきました。その感想を読んでみると、私が言いたかったことが確かに伝わっていたようでした。感想の中には、中学生たちの感性の高さを感じるひと言がたくさんありました。「こんな素晴らしい文章が書ける中学生がいるんだ」と感心する立派な文面もありました。そこで、当ブログを読んでいただいている皆さんにも、土中学校の生徒さん達の感想をご紹介したいと思います。その感想のごく一部ですが、全学年・順位不同でご紹介します。

なお、感想を当ブログに掲載することは校長先生の了承済みです。

 

***************************** 以下、生徒さんの感想

 

一回、二回の挫折で人生は終らないという言葉。挫折をしたときに、自分がどう対応するかによって人生が変わるとわかったから、挫折をしてくじけるのではなく、そこからまた頑張るということ。

私は飽きっぽく、あきらめやすい性格をしていますが、もし挫折しかけたときはこの講演のことを思い出して、「またいちからやってみよう!」とチャレンジしたいと思うことができました。

今年は受験で、一度や二度の失敗で人生は決まらないという言葉に勇気づけられました。でも、自分が受験で成功するためにできることはたくさんあると思うので、最後まであきらめず、ねばりづよく、自分の決めた道にしがみつきたいです。また、「何をするか。そのためになにができるか」は、これから自分自身に問い続けたいと思います。これからの人生で、この問いを自分で問い続けて、振り返ったときに、そのひとつひとつの目標にしがみつき、何かを得られていたら、自分の人生には意味があったなと感じると思います。

なんど挫折をしてもやり直すことができる。「あ~試験が不合格だった。もうだめだ、、、」などと思ったりしたときに、「あ~試験が不合格だった。でも、もう一回やってみよう」という風に考えられるようになろうと思いました。

一度の挫折や失敗で人生は終らないというお話しを聞いて、失敗などを恐れずになにごとにも挑戦していきたいなと思った。

生きていくうえで思ったことは、何回もやり直して、やり直して、やり直して、結果が実るのだから、僕もあきらめずに勉強などに取り組みたいです。今からでもいいから将来自分がつきたい職業で働けるように頑張りたいと思いました。

なんど挫折してもあきらめずに挑戦する強さが大切なんだなと思いました。私は小学生の頃から獣医師という職業に憧れがありました。ですが、獣医師になるにはさまざまな資格をとらないといけなかったり、勉強もたくさんしないとなれない職業ということがわかってから、成績も悪く、あたまも良くない自分じゃ無理だとあきらめようと思っていました。ですが、今回のお話しを聞いて、やっぱりあきらめずに獣医師になるために頑張ろうと思いました。なので、今の自分だけをみてあきらめるのではなく、これからの自分がどうありたいかを考えて行動し、生活していこうと思います。

「もうダメだ」と思ったときに踏ん張るか踏ん張らないかで人の価値は決まるということ。人は踏ん張らなければならないときがあり、自分もその壁にぶつかったとき、踏ん張るのを諦めるのではなく、最後の最後まで踏ん張りたいと思いました。

人生に何度かある「ここぞ」というときに、しっかり踏ん張れるかで自分の価値が決まるので、ここぞのときにしっかりと踏ん張っていきたいです。また、努力はとても大切だということが参考になったので、しっかりと受験勉強を努力していきたいと思います。

「やると決めたときから始まっている」ということや、「ここぞというときに踏ん張れることが人間の価値を決める」ということです。たとえ、一度や二度、なんどでも壁にぶつかったとしても、最後まであきらめないということが大事ということがわかりました。

あきらめないことが何より大事なんだな、と思いました。私もテストが返されてもう無理だと思ったけど、そこで終るのではなくて、行動にうつすことが大切だと思いました。また、他人がどうとかではなく、自分がどうしたいかという言葉が印象に残りました。私はまわりのことを気にしすぎてしまう時があるので、この考えを覚えておきたいと思います。

テストで思うような点数が取れなくて、他人とくらべたりしてたけど、今からでも遅くないし、他人は他人、自分は自分。他人に何を言われても自分のことだから気にしなくていいんだ。くらべる必要がないとわかって、今日から頑張ろうと思えました!

私はよく、誰かと自分をくらべてしまったり、失敗したりしてネガティブ思考になり、前へ進めなくなったことがあったので、今回の話しを聞いて、くじけてもあきらめずに頑張っていきたいと思いました。

人生のぼんやりとした不安におびえていましたが、今回のお話しのおかげで失敗や成功などよりも、その後に踏ん張れるかで決まることを知り、ここぞというときに踏ん張れるようにしたいと思いました。

「勉強は今からでも間にあう」、「やろうと思った日がスタート」などが参考になりました。私は勉強のやる気がでず、あとでやろう、明日やろうの繰り返しなので、今日の講演を参考にし、勉強していこうと思いました。

高校受験はひとつの乗り越えなければならない壁にすぎないということが印象に残りました。私は高校受験がとても不安でした。今日の講演を聞き、少し気持ちが楽になった気がしました。

受験で人生が決まるわけではないと聞き、少し気持ちが楽になった。今、勉強ができなくても、これからやっていけばできるようになる。

今までの僕は、自分の将来の夢をもったことがありません。それは「きっとなれないから」が原因だと思っています。この今回の講演を聴き、たとえ無理かもしれないことでも、チャレンジしたいと思いました。

私は今年受験生ですが、勉強が大の苦手で、勉強をする気がまったくおきず、スマホをいじって終る毎日でした。ですが、今日の講演を聞き、なんど挫折して、なんど失敗してもあきらめずに挑戦する気持ちが大事なんだなと思いました。高校受験は人生の中での単なる通過点なので、ずっと苦しんで過ごす必要はないと考えると少し荷が軽くなり、少しづつですが勉強をやる気が出てきました。

 

************************* 以上

 

講演をして私がうれしかったのは、感想の中に「今は成績が振るわないけど頑張ろうと思った」、「話しを聴いて少しやる気が湧いてきた」という言葉が多かったこと。また、「今までどうしたらいいかわからなかった勉強のやり方がわかった」と書いてくれたこともうれしかったです。生まれ変わった中学生のときの私が、当時気づいたのと同じ気持ちを彼等が感じてくれたように思えたのです。そうした感想を読みながら、「その調子!これからの頑張りが大切なんだよ。ガンバレっ!」と応援したくなりました。

生徒さん達の心の中には、高校受験という得体の知れない不安がつきまとっているはず。そうした「壁」を突破してみせると意気込んでいる子もいるでしょう。一方、その壁があまりにも大きく見えて怖じ気づいている子もいると思います。でも、私は講演で強調しました。「高校受験はひとつの通過点にすぎない」と。高校受験ですべてが決まってしまうわけではありません。大人になり、社会に出てみればわかるとおり、高校なんてものが自分の人生に決定的な影響をあたえることなどほとんどないのです。

「有名高校に合格した」ということで慢心し、大学受験に失敗する人をたくさん見てきました。大人になってもなお「有名高校を卒業した」ことだけが自慢の人も見てきました。しかし、有名高校に進学すれば安泰だということもなければ、思いどおりの高校に進学できなかったからと希望をしぼませてしまう必要もない。希望する高校に入学しようが、できまいが、ひとえに「(高校受験が終って)これからの自分はなにをするのか」にかかっている。「頑張ろう!」と思ったときがスタートなのです。

 

私は第一希望の高校に入学しながら、校風があわないことに失望して不毛な二年間を過ごしてしまいました。それは「他人は他人、自分は自分」だということに気づかず、ただ落胆するだけで努力することを怠ってしまったからです。また、大学四年生になるまで、医学部に再受験する決心がつかなかったのは、同級生たちは皆就職していくのに、自分だけが再受験に失敗し続けたらどうしよう。もしそうなったらみじめだとひとり思い込んでいたから。そんなときに「他人は他人、自分は自分」という言葉が私の背中を押してくれたのです。

「他人は他人、自分は自分」という言葉は、必ずしも「自分勝手に生きろ」ということではありません。そうではなくて、「他人の視線に振り回されるな」ということであり、「自分が納得できるような努力をすればいいだけ」ということ。誰かが有名大学に合格しようとしまいと自分には関係ありません。また、自分が有名大学に合格できてもできなくても他人にはまったく関係ありません。自分の履歴など他人に自慢することではなく、逆にまた他人に恥じることですらないのです。

最近、人の学歴を笑いのネタにしている動画がSNSで流れてきます。偏差値が高いとか、低いとか。大卒だとか、高卒だとか。そんなことで他人をからかって面白がる実に下らない動画です。インタビューを受ける人も笑って答えていますが、私などは「『おまえには関係ないだろ』と言ってやればいいのに」と思ってしまいます。その動画のユーチューバー自身は、有名大学に入学したものの卒業も出来ずに中退しているといいます。大学に入学した時点で終っている「中途半端な人間」に笑われる筋合いはないのです。

もちろん、偏差値の高い学校に行くこと、有名大学に進み、大企業に勤めることに意味がないと言っているのではありません。それを目標に努力することも人によっては尊いことなのでしょう。だからといって、それは「自分自身の勲章」にすぎません。他人に誇らしげに自慢するようなものじゃない。よもや他人を笑いものにする道具であろうはずがない。「他人は他人、自分は自分」という言葉にはそういう戒めの意味もあるのです。子ども達にはそんなことにも気づいてほしいと思いながらお話ししています。

 

AIが急速に発達している現代社会は、近い将来、今とはまったく異質なものになるだろうといわれています。AIが普及することでホワイトカラーは減少し、ブルーカラーを中心とする社会になっていくというのです。実際、かつての花形産業だった業界ほど変化はめざましい。社会の変化に敏感な企業は学歴だけでは人材を選ばなくなっていくでしょう。今まで以上に「即戦力」が求められるようになるのです。そして、それは「学歴以外の真の実力をもった人たち」を採用できない会社は淘汰される社会・時代だということ。

中学生には「自分の人生はどうあるべきか」を考える大人になってほしいのです。人に言われるから、ではなく、他人の視線に左右されて、でもない。自分のあたまで「なにがしたいのか。そのためになにをすべきか」を考える大人になってもらいたい。と同時に「一度や二度の成功や失敗で人生は決まらない。人間は何度でもやりなおせるのだ」と前向きに生きてほしい。どんな子どもにも無限の可能性があります。中学生の皆さんには、私が経験してきたことを通じてそれに気づき、やる気スイッチを是非オンにしてほしいと思います。

 

生徒さん達の感想にいくつかの質問がありました。感想を書いてくれたお礼をかねて、私なりの回答を書いて学校に送りました。最後にそれを掲載して終りたいと思います(下記の赤字をクリックしてください)。

土中学校のみなさんへ

 

姉妹編「子ども達に伝えたいこと」もお読み下さい。

 

運命について(終)

万次郎とともに阿部の私邸を訪れた江川太郎左衛門は、アメリカとの交渉の通訳には万次郎をあたらせるよう進言しました。しかし、幕府の中枢では、万次郎がアメリカの立場を説明すればするほど、彼がアメリカの諜者(スパイ)ではないかと疑う人間が現れたのです。その代表格が水戸藩の徳川斉昭でした。水戸藩は鎖国の維持と外国勢力の排斥をもとめる攘夷派の中心的な存在。斉昭は、万次郎を通訳として使えば交渉がアメリカに有利になってしまうかもしれない、というのです。結局、幕府は、斉昭の意見に押され、ふたたびやってきたペリーらとの交渉に万次郎を同席させないことにしました。

1854年2月、黒船艦隊がまたやってきました。しかも今回は、七隻の軍艦がいきなり江戸湾に入ってきたのです。「浦賀まで引き下がるように」との幕府の申し入れも聞き入れません。そんな緊張感のなかで交渉がはじまりました。一方で万次郎にはさまざまな仕事が与えられました。西洋型帆船の建造指導や捕鯨術の指導、幕府が設立した「軍艦教授所(翌年には海軍伝習所と改名)」の教授にも就任しました。教授所で万次郎は、アメリカの航海術の教科書を翻訳し、学生にあたえて教育しました。測量術だけではなく、それらに必要な高等数学も教え、日本初の英会話事典を作って実践的な英会話も教えたのです。

ちなみに、この伝習所の責任者は、すでに長崎海軍伝習所でオランダ式の航海術を修めた勝海舟でした。日本の国防を担う海軍軍人を日本人の手で育成することが重要だと考えていた彼が教授方頭取(教官のトップ)となったのです。勝海舟は万次郎から、アメリカの民主主義、とくに実力さえあれば身分に関係なく出世ができ、奴隷を除けばおおむね皆が平等であることを聞いて感銘を受けます。そして、それまで幕臣でなければ入学できなかった伝習所を、優秀な人間であれば藩も身分も問わないという採用方法に改革しました。勝はその理想を追い求め、神戸海軍操練所を新たに創りますが、ここでのちに坂本龍馬が学びました。

200年以上も鎖国をつづけた幕府は、条約の交渉において終始アメリカ側の真意を疑っていました。でも、アメリカの条約案とその意図を知る上で、万次郎の助言はきわめて重要な役割をはたしました。そして、万次郎が説明したとおり、条約の目的は日本との自由貿易をすることであり、捕鯨船への補給にあったことを理解します。強大な軍事力をもつアメリカとの不必要な衝突は、日本にとって得策ではないと万次郎はつけくわえました。結局、林大学頭(昌平校の責任者)らの交渉によってペリーがやってきた二ヶ月後に「日米和親条約」が調印されました。その内容はおおむね万次郎が説明した通りのものでした。

日・米の間では、本格的な通商をするための条約ともいえる「日米通商修好条約」の締結に向けて交渉が継続していました。しかし、国内では外国勢力を打ち払うべきだとする攘夷派が日増しに力を増していました。条約を締結する際には天皇からの裁可(勅許)が必要なのですが、その朝廷自身までもが攘夷に傾いていました。アメリカの出方を推し量りながら、激しいやりとりのすえ「日米通商修好条約」はようやく妥結寸前にまでこぎ着けました。ところが、天皇からの勅許がおりません。交渉の詳細を説明しても勅許を出そうとしない朝廷。しびれを切らした幕府はついに勅許のないまま条約を締結してしまいました。

攘夷派は、その条約が朝廷からの勅許を得ないままに締結されたうえ、日本にとって不平等な内容になっていると激しく反発します。世の中が騒然とする中、1860年2月、条約の批准書を交換するため、総勢70名を超える幕府の訪米団がアメリカの軍艦ポーハタン号に乗船して江戸湾を出発していきました。軍艦奉行や勝海舟、万次郎、軍艦奉行の従者として同伴した福沢諭吉らも伝習所の練習船・咸臨丸に乗船してアメリカに向かいました。大荒れの太平洋を渡り、カリフォルニアで合流した幕府の訪問団本隊と咸臨丸の一行は、パナマまで船で南下し、鉄道で東海岸に向かい、無事条約の批准をはたしたのでした。

咸臨丸がアメリカに出港した二ヶ月後に「桜田門外の変」が起こりました。水戸藩を脱藩した浪士ら18名が、条約を締結した大老・井伊直弼を襲撃する事件でした。この事件が勃発する直前、条約締結の実質的な責任者だった真鍋詮勝が、吉田松陰らに命を狙われるという未遂事件が発覚しました。直弼は、吉田松陰をはじめとする攘夷派を一斉に逮捕し、処罰しました。桜田門外の変は、そうした幕府の対応を恨んでの事件でした。井伊直弼にとって、条約の締結はアメリカとの争いを回避するための苦渋の決断でした。日本を守るため、やむにやまれず結んだ条約だということを理解されなかった直弼の心中はどのようなものだったでしょう。

批准書交換から帰国した万次郎は、休む暇もなく知識と経験を伝授するため、全国の藩を奔走しました。1864年には薩摩藩に迎えられ、藩校の教授として航海術や測量術を教え、造船の指導もおこないました。その前年に薩摩藩はイギリスと戦争(薩英戦争)をし、西洋の軍事力の強さを思い知らされていたのです。また、万次郎は、1866年に土佐の藩主・山内容堂の依頼で藩校を設立するために招聘されました。そして、三菱財閥の創始者となる岩崎弥太郎や明治の有力な政治家・後藤象二郎らとともに、土佐藩の軍艦を購入するため上海に渡るなどしました。このように、万次郎は幕末から明治維新にかけて藩改革の原動力となったのです。

1869年、万次郎は明治新政府により開成学校(今の東京大学)の英語の教授に招聘されました。ネイティブスピーカーと英語で会話できる数少ない日本人として、実践的な英会話を学生たちに教えたのです。そして、翌1870年には、通訳を兼ねて大山巌らと普仏戦争の視察団としてヨーロッパに向かいました。その途中、フェアへブンのウィットフィールド船長の自宅を訪ねました。突然の訪問でしたが、自分を育ててくれた恩人との20年ぶりの再会をはたすことができたのです。抱き合って再開を喜ぶ二人。その後ろには万次郎が遭難したときとほぼ同じ15歳になった船長の次男が立っていました。二人の話は夜遅くまで尽きませんでした。

万次郎は、翌年、軽い脳梗塞になってしまいます。幸い後遺症は軽いものでしたが、彼はそれを機に一切の公職から身を引くことにしました。万次郎が45歳のときのことです。それ以後の彼は、ときどき乞われるままに英語を教えましたが、おおむね静かで穏やかな余生を過ごしました。一説ではときおり小舟で海に出ていたともいわれています。やはり万次郎にとっては最後まで「自分は漁師」だったのかもしれません。そして、万次郎は1898年に71歳で亡くなりました。東京帝国大学医学部を卒業し、医師・医学者となった長男・東一郎氏は、父親・中浜万次郎の晩年を次のように書いています。

「彼ののちの半生はきわめて静寂にして無為なりき」

 

************************

万次郎の人生は、近代化の黎明期にあった日本にとって欠くことのできないものになりました。ヨーロッパの強国が植民地を求めてアジアに迫り来る時代となり、小国にすぎなかった当時の日本はどのように行動すべきか。それを万次郎は指ししめしたのです。万次郎が残したこうした功績には、彼の運命に対する姿勢が大きく影響しています。万次郎は読み書きのできない漁師の子として育ちました。しかし、彼は自分の意志とは無関係に日本の運命に関わる立場になっていきます。でも、万次郎はそれを求めたわけではありません。ただ彼は運命にさからわず、自分がなすべきことを黙々と実行していただけなのです。

ひとつひとつの成功や失敗で人生は決まりません。ことの結果がなんども突きつけられ、そのたびに「次に自分はなにをなすべきか」を考え、誠実に行動する。その積み重ねの総体が「人生」というものです。その人生になんらかの「意味」が見えてきたとき、人はそれを「運命」と呼びます。万次郎は第一線を退くまでのたった30年間に、多くの幕末の志士や維新の盟主に影響をあたえてきました。それが彼の「運命」であり、彼が生きた「意味」だったのでしょう。万次郎がアメリカで体験してきた「自由と平等」と、彼の人生で一貫していた「希望を持ち続ける」という精神は、今の日本人の心の中にもきっと生きているはずです。

                                           (完)

※ 「ジョン・万次郎の生涯」のオープニングテーマ曲はNHK大河ドラマ「勝海舟」ですね

※  エンディングテーマ曲は私的にはX JAPANの「Tears」なんですけど

運命について(5)

1851年の正月、ついに万次郎、伝蔵、五右衛門の三人は祖国・日本への帰国を果たしました。この三人に寅右衛門と伝蔵をふくめた五人が土佐の足摺岬沖で遭難し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてから10年の歳月が経っていました。重助は漂着した島に上陸する際の怪我がもとで亡くなり、寅右衛門は遭難したときの恐ろしさのあまりに帰国をあきらめてしまいました。万次郎も、また、伝蔵・五右衛門の兄弟も、当初はなんどもチャンスがありながら帰国を果たせずにいました。しかし、なんど失敗しても希望を捨てず、次にやってきたチャンスに食らいついてきた結果がこの帰国につながったのです。

三人は入り江に舟を係留させ、ずぶ濡れになったからだで陸にあがると、村を探して歩きはじめました。まもなく数人の村人が近づいて来るのがわかりました。声をかけましたが言葉が通じないようです。しばらくすると何人かがやって来て日本語で万次郎に話しかけてきました。万次郎は「自分たちは漁をしているときに遭難し、外国で何年も暮らして戻ってきた日本人だ」と説明しました。すると、彼らは三人に食べ物や水をもってきてくれました。そうこうしているうちに、たくさんの村人が三人のまわりにどんどんと集まってきて、「うまく取り次いであげるから、役人に早く届け出た方がいい」と言ってくれました。

万次郎らが役所に出向くと、さっそく事情聴取がはじまりました。地元の役人たちには、これまでの長い経過を話して聞かせました。でも、厳しい鎖国状態の日本にあって、彼等のあつかいは難しいものとなりました。薩摩藩、そして幕府に対してお伺い立てをしなければならないことだったからです。三人は一軒の民家を逗留地に、しばらく滞在することになりました。そこに薩摩藩の役人もやってきていろいろと質問されました。結局、半年にわたってその家に軟禁状態になることを強いられてしまいます。しかし、新しい衣服も与えられ、食事も料理人が作ってくれました。三人は久しぶりに日本で生活していることを実感しました。

琉球での生活にも慣れた夏、三人は薩摩藩の取り調べをうけるために移送されることになりました。突然のこととはいえ、万次郎たちは服を着替え、出迎えに来たたくさんの役人を連れだって駕籠に乗ります。これまで面倒を見てくれた村人は涙をながしながら三人を見送りました。その後、鹿児島湾に到着した万次郎達を薩摩藩は丁重に扱ってくれました。藩主の島津斉彬から「食事もふくめて三人の要望に従い、彼等には丁寧に接するように」と厳命されていたからです。以後、贅沢ともいえるような食事と、晩酌に酒までがふるまわれた上に、三人には金一両の俸給までが支払われました。

薩摩藩の島津斉彬は開明派として知られ、軍をはじめとする藩政の近代化を進めていました。薩摩藩は琉球を通じて海外と交易していたため、当時の国際状況については比較的よく知っていました。このころの薩摩藩の沖には海外の船舶がさかんにやってくるようになっていました。なかには大砲を搭載した巨大軍艦が姿を見せることさえありました。斉彬は万次郎たちからアメリカやハワイの様子をこまかく聞きたかったのです。城に呼び寄せられた三人と面会したとき、斉彬は世界地図・地理のことを説明させ、アメリカの大統領制と民主主義のことや科学技術の発達した社会の様子などをたずねました。

二ヶ月もすると幕府直轄の長崎奉行所に移されることになりました。そこでまた事情聴取が繰り返されるのです。長崎に上陸した三人は奉行所につくと白州に召し出されました。そして、簡単な質問に答えると、真鍮でできた30cm四方の金属製の板を踏むように指示されます。「絵踏(えふみ)」でした。そこには聖母マリアと幼いキリストの姿が彫られていたのですが、三人にはその板を踏むのになんの躊躇もありませんでした。すぐに長崎奉行直々の取り調べが始まりました。その結果、「三日間の入牢」が形式的に執行されることになったのですが、それを期に三人は月代(さかやき)に髷(まげ)を結うことが許されました。

入牢といっても、万次郎たちが入ったのは「揚がり屋」です。そこは下級武士や医師、僧侶などの一定の身分のものが入る場所でした。一般庶民が収容される大牢とは異なり、狭いところにすし詰めにされたり、劣悪な待遇を受けたりすることはありません。万次郎たちはそこでハワイで知り合った紀州船の船乗り達と再会することができました。あれから中国に到着し、しばらく滞在した後、日本行きの船に乗れて帰国してきたようです。そして今、故郷の紀州に戻るのを待っているとのこと。それからまもなくして、紀州から役人が迎えにきて彼等は長崎を去って行きました。「いよいよ自分たちも土佐に帰れるぞ」と三人も期待に胸がふくらみます。

ついに万次郎、伝蔵と五右衛門にも奉行所から呼び出しがかかりました。三人が白州で待っていると、長崎奉行と奉行所の役人、そして、土佐藩の役人が入ってきました。奉行は「三人が嵐に会い漂流して異国に行かざるを得ず、キリシタンになることなく帰国を果たした」と述べ、「ゆえに土佐への帰還を許す」と宣言しました。ただし、以後、土佐を離れないこと、重助や寅右衛門のことは家族に説明してもよいが、それ以外のことはむやみに話さないことなどを申しつけられました。アメリカからもちかえった物品の多くは没収されましたが、砂金や銀貨については日本銀に両替して返却されました。

三人は念願だった土佐に帰還をはたしました。しかし、すぐに家族が待っている家に帰れたわけではありません。土佐藩の事情聴取があったのです。その尋問は二ヶ月ほどかかりました。帰郷の許可がおりたのはそれから。伝蔵と五右衛門の家は朽ち果てていて、どこにあるのかもわからない状態でした。やむを得ずいとこの家を見つけ、そこで親戚達と二人の帰国を喜び合いました。万次郎も母がいる中浜に戻ってきました。幸いにも年老いた母はまだ生きていてくれました。兄弟達も酒をもって集まってくれ、万次郎の十年にもおよぶ苦労話しに涙を流しました。三人は土佐藩の下級武士となり、漁に出られないかわりに俸禄があたえられました。

 

しかし、万次郎の物語はこれで終りません。万次郎が土佐に戻った翌年の1853年、浦賀にはマシュー・ペリーを司令長官とする4隻のアメリカ海軍東インド艦隊がやってきました。このときの艦隊のうちの2隻が黒い煙をはきながら自走する大きな蒸気船でした。その圧倒される光景に、浦賀はもちろん、江戸でもうわさがうわさを呼んで大騒ぎになっていたのでした。その時の幕府は、アメリカから帰国していた万次郎のことを知っていました。万次郎は急遽、幕府に呼び出されることになりました。そして、江戸城に登城させるため、幕府は彼を御普請役格という幕府直参の武士(旗本)に任じました。幕臣「中浜万次郎」の誕生です。

万次郎が幕府の直参になるという話しは土佐藩中に広まりました。うろたえたのは土佐藩自身です。それほどの大人物を下級の武士として召し抱えたことを幕府にとがめられはしないかと考えたのです。土佐藩と幕府がともに動揺する中、幕臣となった万次郎は江戸に向かいました。万次郎は江川太郎左衛門の私邸に住み込みながら、彼のもとで幕府の国防に関わる仕事をすることになっていました。江川家は伊豆国にある幕府直轄領を治める代官を世襲した名士です。江戸湾防衛の砲台である「品川台場(現在のお台場)」を設計・築造したり、大砲を造るために「韮山反射炉(今は世界文化遺産に登録)」を造ったことで知られています。

ときの老中首座は阿部正弘。彼は福山藩という中国地方では小さな藩の出ではありましたが、23歳で幕府の老中に抜擢されるほどの秀才でした。ペリーらとの対応に忙殺される中、彼は江戸にやってきた万次郎と直接会ってみたいと思いました。万次郎がどれほどの賢者であるかを自分の目で確かめたかったのです。老中・阿部の私邸に江川太郎左衛門とともに呼び寄せられた万次郎は、これまで自分が見聞きしてきたアメリカの政治・社会全般のことや、自分が受けてきた教育や捕鯨という仕事のことなどを詳細に説明しました。どの話しもアメリカと日本の文化や国力の差を感じさせるものばかりでした。

さすがの阿部もまったく想像もつかない話しに驚嘆したことでしょう。そして、ペリー艦隊が「日本国皇帝」に対して置いていった大統領からの親書の意図を、万次郎は捕鯨船の補給基地を求めてのことだろうと説明しました。そして、10年間という長期にわたってアメリカで生活してきた経験をふまえて、アメリカという国家の懐の深さと、キリスト教精神に裏付けられたアメリカ人の寛容さからいって、アメリカが武力を使って日本を植民地にするはずがないと付け加えたに違いありません。これは万次郎がアメリカをかばうためにとりつくったことではなく、実物大のアメリカを知っている彼の正直な気持ちだったはずです。

 

************************** 「運命について(終)」につづく