「武士道といふは死ぬことと見つけたり」とは、江戸時代中期に武士道についてまとめられた「葉隠(はがくれ)」にある有名な一節です。でも、その意味については誤った解釈が一部に広まっています。それは「命を惜しむな」と教え、先の大戦では国民に「死ね」と教唆する精神論になった、というものです。こうした解釈は悪意にもとずいてねじ曲げられて理解されたもの。葉隠でいう「死ぬことと見つけたり」とは「人間はいつか死ぬ。だからこそ、いつでも死ねる覚悟を持ち、死の恐怖や生への執着から解放されるのだ。そして、今、この瞬間を後悔なく、全力で生きろ」という教えなのです。そのことは、武士道の「微弱な電流」がながれている日本人にはそれとなく理解できる教えだと思います。
人は皆、「長生きすること」を疑いようのない「絶対的な善」だと思っています。また、多くの人は「長生きは幸せなもの」と信じています。しかし、「長生き」は、「幸運なこと」であっても、必ずしも「幸福なもの」とは限らないのです。私はたくさんの高齢者の方を診てきました。と同時に、たくさんの死も見てきました。人の一生に同じものはひとつもありません。気の毒な生い立ちながら、晩年は幸せな人生をまっとうできた人がいます。逆に、裕福な家庭に生まれながら、家庭が徐々に崩壊し、社会に翻弄されながら亡くなっていった人もいます。また、若くして不治の病となり、社会で活躍するという夢も、家庭をもつ喜びをも得られずに失意のうちに亡くなった人もいたのです。
当院に通う高齢患者さんが皆、毎日を幸せだと感じながら生活しているかといえばそうではありません。日に日にからだの衰えを感じ、「耳が遠くなった」「転びやすくなった」「物忘れがひどくなった」「からだのあちこちが痛い」など、さまざまな不自由や苦痛を受け入れられず、孤独と不安にさいなまれている人が少なくないのです。昨年7月に92歳で亡くなった私の母は、実家で一人暮らしをしていました。病気のデパートといえるほどたくさんの病気を抱え、飲まなければならない薬がとても多い人でした。なんども心臓発作で入院し、大きな交通事故にも遭いました。でも、晩年は「なにも心配事がない今が一番幸せ」と繰り返し言っていました。そのような思いで生活できる幸運な高齢者はむしろ少数派かもしれません。
多くの人が「長生きしたい」といいます。若い人がそう言うのは、「年を取ること」がつらいことだと知らないからです。年齢を重ねた人が「長生きしたい」というのは、恐ろしい「死」から逃れたいと思っていることの裏返しです。しかし、「長生き」は決して安楽なことではない一方で、「死ぬこと」は決して恐ろしいことではありません。そのなかで、実際に長生きをしている超高齢者の中には「早くあちらに行きたい」と口にする人が少なくありません。それは「長生き」がつらく、苦しいからです。私は、そうした人たちには「長生きは修行なのです」とお話しします。「長生きする人たちは、若くして逝かざるをえなかった人たちの分まで生きていかねばならないから」とも。人は毎日をただ無駄に生きているわけではないのです。
「武士道といふは死ぬことと見つけたり」という一節をもちいて、三島由紀夫は戦後の日本に高まりつつあった物質主義を批判しました。と同時に、日本人の精神がどんどん空虚になっていくさまを憂いました。三島由紀夫の目に映った戦後の日本は、経済的繁栄を優先し、理想と誇りを見失った卑しい国家になっていくように見えたのです。また、打算で生き、事なかれ主義の中で命を長らえるだけの日本人に「腐敗する精神」を見たのかもしれません。それはまさしく「今だけ、金だけ、自分だけ」という社会・人間の醜さだったのでしょう。築いてきた社会的地位も、使い切れないほどの財産までもが、死に際してはなんの役にもたちません。三島由紀夫は「おまえには満足して死ねるなにかがあるのか」と問うているのです。
私自身に「死ぬ覚悟」はできています。できているつもりでいます。日本人の二人にひとりは癌になります。父も膵臓癌でしたし、母は脳腫瘍でした。私もそれに近い病気で死ぬのでしょう。「長生きしたい」とは思いません。でも、「長生きしたいと思わない」とは「したくない」という意味ではありません。「長生きできない覚悟はできている」という意味です。と同時に、「『修行』としての長生きに耐える覚悟もある」ということでもあります。私のこれまでの半生に一片の悔いもありません。人に誇れるようなものでもなければ、誇るつもりもありません。淡々と生きて、淡々と去って行くのみです。願わくば、そうした私の一生から、誰かが生きるヒントを見つけてくれればと思うだけです。
「死の準備教育」というものをご存じでしょうか。「死の準備教育」は、1980年代に上智大学教授でありイエズス会の司祭でもあったアルフォンス・デーケン氏が提唱しました。彼は「生と死を考える会」を立ち上げ、死と向き合うことは、今を大切に生きること」というメッセージを一般市民に伝えました。これはまさしく葉隠の「死ぬことと見つけたり」そのものです。日本でタブーとされてきた「死」を、宗教という観点から少し離れ、オープンに語り合い、ひとりひとりの死生観を学びあう場を作る必要があるとデーケン氏は考えました。私は、物質主義と虚無主義の現代社会に生きる子ども達にこそ、この「死の準備教育」が必要だと思っています。子ども達にとって、限りある命を大切に生きるきっかけになるからです。
今、学校では間違った教育がおこなわれています。LGBTQをはじめとする人権教育がそのひとつです。偏った男女平等の概念や倒錯した性別の意識、過激な性教育までもが子ども達には教えられています。そうした教育の恐ろしさは、彼等が大人になった未来に思いがけない変化となってあらわれます。偏向した平和教育や拙速な多文化共生についてもそうです。まだ社会的に未熟で、それぞれの価値観も育っていない子ども達に、特定の社会意識を植え付けることの危険性を大人達は自覚するべきです。それらの問題には正解というものがありません。正しいかどうかは成長していく過程で子ども達自身が考えていくこと。そんな軽薄なことよりも、子ども達には命の大切さ、生きる意味を考え、自覚させる「死の準備教育」の方がよほど大切です。
死は避けられません。すべての人は必ずいつか死ぬのです。だからこそ今を大切に生きなければなりません。死の瞬間は苦ではありません。それはまるで修行から解放されるかのように安らかなものです。だからといって死に急ぐことは許されません。「生きる」ことは、生をまっとうできずに亡くなった人たちの分まで生きることだからです。長生きをしている「幸運な人たち」は、無念の思いで若くして逝った人たちの分まで生きなければならない。彼等の悔しさや悲しさを背負って生きる義務があるのです。それが長生きをする意味でもあります。生の長さがどうであれ、死ぬことから目をそらさず、いつ死んでも悔いがないように生きること。葉隠の「死ぬことと見つけたり」はそれを私たちに教えています。