運命について(1)

世の中のすべてのことには理由(意味)があります。理由なく起こることはなにひとつありません。今、世界を揺るがしている戦争もそうです。それまでの歴史的な経緯を背景に生じた必然だからです。一方で、その戦禍に巻き込まれた人たちにとって今回の戦争には意味があります。それほどにその後の人生に影響をあたえる大きな出来事だったのです。また、先日、成功裏に終ったアルテミス2計画も、用意周到に準備された計画と確実な実行があって成功しました。月周回軌道をまわった初の女性宇宙飛行士となったクリスティーナ・コック氏にとっても、このミッションはその後の人生に大きく影響するほどの意味がありました。

同じ出来事であっても、その意味するところは個人によってさまざまです。意味を受け取るアンテナをもっていない人すらいます。時間を巻き戻すことはできません。起こってしまったことが自分にとってどのような意味をもっているかを考え、それからをどう行動するべきかを見極めることが大切です。受験に失敗したからといっていつまでも途方に暮れていてはいけません。志望校に合格できたからといって浮かれてばかりいてもいけないのです。「受験」という出来事を自分の中でどう昇華させていくか。その受験の結果をふまえ、「であるなら、自分はこれからどうしなければならないのか」を考え、次の一歩を踏み出すのです。

世の中には「いくら努力をしてもかなわないこと」と「努力すれば実現するかもしれないこと」、そして、「努力をすれば必ずそれなりの成果が得られること」があります。生物学的に男性である人が「女性になりたい」と思っても、生物学的な女性には絶対になれません。起業をして、身を粉にして働いても、成功するかどうかは社会状況と運次第。やってみなければわからないこと。しかし、勉強だけは自分を裏切ることはありません。目的意識をもって努力さえ惜しまなければ、東大にも、ハーバード大学にも行けます。このように、人間には限界がある一方で、可能性もあることに気が付かなければいけません。

 

来年のNHK大河ドラマの主人公は「ジョン・万次郎」であることが発表されました。なぜ、今、ジョン・万次郎なのでしょうか。それは、運命と努力の中で築かれた彼の人生が、不確かな現代社会に生きる若い人たちにも参考になるからです。万次郎は貧しい漁民の子として生まれました。しかし、その後、幕臣となって日米交渉を陰で支え、最終的には開成学校(今の東京大学)の教授となり教育にも関わりました。しかし、彼はそれを目指していたわけではありません。万次郎自身が図らずもその運命のままに努力を重ねた結果だったのです。そんな波瀾万丈な生涯はとてもドラマチックに見えます。今回はその一端をご紹介します。

万次郎、当時の漁民に苗字はありません、は1827年(文政10年)1月27日、土佐の中浜村という漁村に生まれました。貧しい漁民の次男として健康に育っていきますが、9歳のときに父親を亡くしてしまいました。母も兄も病弱だったことから、彼は稼ぎ手として働こうとします。しかし、当時の彼は読み書きすら出来ませんでした。藩の役人の家に奉公に出されたものの、毎日の単純労働の繰り返しに、好奇心旺盛な万次郎が耐えられるはずもありません。結局、自分の父親と同じ漁師の道を選ぶのです。網元の家に預けられ、漁師として成長していきます。知的好奇心に富んでいて活発。万次郎はすぐに漁に出られるほどになりました。

しかし、14歳となった1841年の1月、万次郎は四人の仲間とともに沖合の漁に出ました。五人にはそれぞれ役割がありました。一番若い万次郎は飯炊き・雑用係です。万次郎にとってははじめての遠洋での漁でした。しかし、1月の太平洋は思いのほか大荒れに。波しぶきをかぶりながら操船しますが、船は思ったように動いてくれません。ついに突風によって操舵不能になってしまいます。船は冬の黒潮に流され、どことも知れぬ漂流をはじめました。そして、五日間、まさに生死の境をさまよう五人。荒波に翻弄されながらも運良く伊豆諸島のはずれにある無人島にたどり着くのです。

その島はアホウドリの繁殖地でもありました。しかし、季節は冬です。東京から600kmも離れた南の島とはいえ、起こすべき火も、雨風をしのげる場所すらない絶海の孤島。さぞかし寒かったことでしょう。食べものはアホウドリを捕まえればいいとはいえ、調理する器具もありません。真水すら調達の難しい無人島でこの五人はどのような生活をしていたのか。でも、いつ命が絶えるかもしれない過酷な生活を強いられた143日目のことです。まさに奇蹟ともいうべき偶然が起こりました。鳥とウミガメの卵を調達するため、たまたま島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に彼等は救助されたのです。

当時のアメリカは産業革命のまっただ中でした。宗教弾圧を逃れた清教徒たちが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカにやってきたのが1680年。その100年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法ができ、北東部では自由主義にもとづく工業化が急速に進み、一方、南部では黒人奴隷を使った綿花栽培が盛んとなるなどして南北格差の問題が生じ始めていました。それは南北戦争にもつながる対立でもありました。そんなアメリカにおいて捕鯨は重要な産業でした。食用のためというよりも、機械を動かすときの潤滑油として、ランプやろうそくなどの照明用の油として、鯨油は貴重な産業資源であり生活資源でもありました。

その鯨油を求めてアメリカの捕鯨船は世界中を航海していました。当時のアメリカ合衆国の国土は現在よりも狭く、カリフォルニアやネバダ、アリゾナ、ユタはまだメキシコの領土です。テキサスさえもメキシコから独立をはたした「テキサス共和国」になったばかり。その後、アメリカがテキサス共和国を併合し、米墨戦争で広大な領土の割譲を勝ち取って今の国土になりました。東部13州からはじまったアメリカ合衆国は、「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」を主張しながら西に領土を広げていったのです。そして、ついに太平洋にまで進出したアメリカ。太平洋に捕鯨船の寄港地としてふさわしい場所を求めていました。

救助された万次郎たちが乗船していたジョン・ハウランド号の船長はウィリアム・ホイットニーといいます。彼はまだ厳しい鎖国状態にあった日本に彼等を送り返すことができないことを知っていました。異国船が近づけば日本から攻撃をうけ、異国船で帰国した五人が全員死罪になることは広く知られていることでした。そもそも船長にとって、捕鯨目的の航海を変更し、日本に立ち寄るのはリスクの大きいことでした。それは水や食料、石炭などを補給できる場所が限られていたからです。そこで船長は五人をハワイで下船させることにしました。当時のハワイはアメリカ捕鯨船の重要な補給基地でもあったのです。

ハワイにつくと、万次郎を除いた四人が下船を希望しました。しかし、万次郎だけはアメリカに行くことを希望します。万次郎は、航海中、船内のさまざまなことに関心をもち、船員達に片言の英語でいろいろと質問をしていました。あっという間に会話もできるようになり、乗組員たちからも「ジョン・マン」と呼ばれてかわいがられていたのです。そんな知識欲にあふれた万次郎を見ながら、ホイットニー船長は「彼はアメリカで教育を受けるべきだ」と思っていました。いつしか「アメリカという国を見てみたい」と思っていた万次郎に、船長は「アメリカに行ってみたいか」と尋ねました。彼にとってうれしい申し出でした。

マサチューセッツ州フェアへブンの自宅に戻った船長は万次郎を小学校に通わせました。万次郎もずっと歳下の子ども達と学ぶことを厭いませんでした。読み書きもできなかった万次郎ではありましたが、言葉に慣れるにしたがって徐々に頭角をあらわしました。そして、航海術や造船学を学ぶ頃には常に首席となっていたのです。ホイットニー夫妻にとって万次郎はまるで自分の子どものようでした。自分たちが通う教会にも万次郎を連れて行きました。厳格なプロテスタント精神が残る当時のアメリカで、ホイットニー夫妻は万次郎にも洗礼を受けさせ、「正統なアメリカ市民」になることを希望していたのかも知れません。

しかし、時代は黒人奴隷をめぐって南北戦争が起こる直前のこと。教会といえども人種差別はまだ色濃く残っていました。白人でもない万次郎が夫妻に連れられて教会に行くと、牧師は万次郎に黒人の席に座るように指示します。「信仰に人種が関係あるのか」。ホイットニー船長は牧師に抗議しました。でも、その抗議が通用する時代ではありません。憤慨した夫妻は万次郎を連れてその教会を出て行きます。そして、万次郎も一緒に通える教会を探して町中を探しまわったといいます。三人はついにユニタリアン教会という場所に巡り会うことができました。ユニタリアン教会は人種については極めて寛容な教会だったのです。

「ユニタリアン」とは「唯一の神を信じる者」という意味があります。教義(聖書)を妄信せず、個人の良心と理性を重んじた信仰を勧める、当時のアメリカでは珍しいリベラルな教会でした。万次郎にとってこの教会は、ホイットニー船長に対して感じたのと同じように、アメリカの懐の深さ、「自由と平等」、「民主的な寛容さ」を感じるのに充分な存在となりました。人格形成においてもっとも重要なこの時期に、そうしたリベラリズムを実体験できたことは、後に、万次郎がアメリカから日本に帰国し、望むと望まざるとに関わらず日本とアメリカの架け橋になったときに大きな意味をもつことになります。

 

****************** 「運命について(2)」につづく