「万次郎にアメリカで教育を受けさせたい」。ウィットフィールド船長の教育を重視するこうした姿勢は会衆派教会の教えでもありました。アメリカにやってきたピューリタン(清教徒)の信仰を色濃く残していた会衆派は、同志社を創設した新島襄がアメリカで洗礼を受けた宗派としても有名です。新島襄は若いころ、日本に帰国した万次郎が教授をしていた幕府の軍艦操練所に入学していましたが、やがてアメリカの政治制度やキリスト教精神に強い関心を持つようになりました。そして、1864年、アメリカに渡ってキリスト教を学ぶことを決意した新島は、商船に乗って新大陸への密航を果たしたのです。
アメリカでの新島襄には、身寄りも、頼る人もいません。しかし、会衆派の教会が主催する講演会で彼が「私は聖書を学び、日本で学校を作りたい」と語ると、ひとりの裕福な信者が彼の志に感銘を受けます。そして、「ジョウには教育を与えるべきであり、私が彼の生活の一切を援助する」と申し出るのです。新島襄(そして、万次郎も)が暮らしたアメリカ北東部には、こうした敬虔なプロテスタントが当時数多くいました。新島襄はその後、会衆派教会で洗礼を受け、同派が設立した名門アーマスト大学に進学して日本人初の学士号をとります。そこで彼は、後に札幌農学校に赴任するクラーク博士に化学を教わりました。
ウィットフィールド船長にとって、万次郎は自分の息子のような存在でした。それには理由がありました。航海の直前に船長は再婚したばかり。その2年前に前妻が亡くなっていたのです。その後、男の子が産まれますが、その子も二歳になってすぐに亡くなってしまいました。悲嘆にくれる船長夫妻を町中の人が気の毒に思うほどでした。そんな夫妻のもとにやってきた万次郎は、まさに自分たちの子どものように感じたに違いありません。その万次郎が教会で「黒人の席に座れ」と言われます。当時はまだ南北戦争が起こる前。いつもは温厚で人格者の船長でしたが、万次郎への扱いを人種差別だと憤慨して教会をあとにしました。
成長した万次郎は、アメリカの船員学校で優秀な成績をおさめていました。そして、今度は正式な船員として捕鯨船で航海に出ることになりました。万次郎が乗船するフランクリン号の船長はかつてジョン・ハウランド号の乗組員。ニューベットフォードの港から、補給基地だったマニラに向けて出発することになっていました。船が出航してしばらく進むと、大砲を積んだ大きな軍艦が何隻も停泊するボストン港に入りました。当時、アメリカとメキシコは戦争のまっただ中。両国ともに戦力を増強して戦争が終る気配はありません。海岸には砲台が何基も並び、まるで城塞のような様相にただならぬ雰囲気を漂わせていました。
その後、フランクリン号は大西洋を南下します。航海の途中、いくつかの島に寄港しながら燃料と食料を補給しました。遠く小笠原の近くまで来ると、二十隻ほどの漁船が鰹漁をしていました。どうやら日本の漁船のようでした。万次郎は船の舳先に立って声をかけます。「ここはなんという国ですか?」。すると、真っ黒に日焼けしたひとりの漁師が「陸奥の国、仙台だ」と答えました。久しぶりに耳にする日本語でした。万次郎は故郷である土佐の方角を聞いたものの、漁師は土佐のことを知らないようすです。万次郎は少し落胆しましたが、漁師に謝意を述べ、船はハワイを目指して出発しました。
ハワイは一緒に救出された4人と別れた場所。ハワイに到着した万次郎は街の人に「どこかに日本人はいないか」と聞いてまわります。そして、ひとりの日本人が住んでいるという家を教えてもらい、たずねてみることにしました。その日本人は寅右衛門でした。容姿が変わっていたせいか、彼ははじめ万次郎だとは気づきません。しかし、その訪問者が成長した万次郎だとわかると、二人は抱き合って五年ぶりの再会を喜びました。ところが、他の三人の姿はそこにはありません。寅右衛門が言うには、重助は怪我がもとで死んでしまい、伝蔵と五右衛門は日本に帰るために船に乗って行ってしまった、とのことでした。
寅右衛門との再会をはたし、フランクリン号に戻った万次郎は、ふと沖の方に目をやりました。港に入ってくる捕鯨船に、二人の日本人が乗船しているという噂を聞いたからです。万次郎はさっそくその船の日本人に会ってみることにしました。船の近くまで行ってみると、その二人は伝蔵と五右衛門だということがわかりました。肩をたたき合って久しぶりの再会を喜ぶ三人。「ふたりは日本に帰ったと寅右衛門から聞いたけど・・・」。そうたずねると二人は「八丈島と蝦夷まで行ったが帰国がかなわなかった」と涙ながらに語りました。二人の話しを聞きながら、「日本に帰りたい」という思いが万次郎にはこみ上げてくるのでした。
伝蔵と五右衛門との話しはつきませんでしたが、フランクリン号は万次郎を乗せてハワイを出発しました。そして、1848年2月、船はマニラに向かう直前、グアムに到着しました。しかし、このころから船長が精神に異常をきたします。わけのわからぬことを言ったり、暴れるようになってきたのです。マニラに到着すると、彼をアメリカ領事館に預けることにしました。そして、それ以後は万次郎が船長代行として船を進めることになったのです。マニラの新聞では、アメリカの商船が日本に帰港し、領事館を作らせてほしいと求めたものの、幕府は拒否したと報じていました。「帰国はそう簡単ではないようだ」と万次郎は思いました。
40ヶ月におよぶ長い航海を終え、フランクリン号はニューベットフォード港に戻りました。万次郎はウィットフィールド船長の自宅を訪れ、無事帰港したことを報告しました。船長は万次郎の成長ぶりに感心し、無事帰還したことを喜んでくれました。しかし、万次郎の表情はさえません。ハワイで伝蔵・五右衛門、寅右衛門と再会して以来、日本に帰りたい、土佐に戻りたいという思いが高まっていたからです。なにより土佐に残してきた母のことが頭を離れません。アメリカに来てからの八年間というもの、万次郎は、言葉を覚え、新しい知識を吸収するのに必死でした。母や故郷のことを考えている暇などなかったのです。
ハワイで生活している三人もまた家族や故郷のことを忘れていませんでした。伝蔵や五右衛門は何度か日本への帰国を試みたものの失敗を繰り返していました。重助に至っては傷がもとで亡くなり、帰国することはかないませんでした。「重助もどんなに悔しかっただろう」と思うと、万次郎には「日本に帰ってもう一度母に会いたい」という感情があふれてくるのです。そんな中、アメリカがメキシコとの戦争で割譲させたカリフォルニアが、今、空前のゴールドラッシュに沸いていることを万次郎は知ります。その金山で働いて、日本に帰る資金を作れないものだろうか。いつしか彼はそんなことを考えるようになっていました。
迷ったすえ、万次郎はウィットフィールド船長に相談してみることにしました。でも、これまで育ててくれた船長夫妻に、「日本に帰りたい」などと言い出せません。そこで万次郎は「カリフォルニアに行って金を掘って来たい。ひと財産を築くことができれば、一生楽な生活ができるかもしれない」と船長に切り出します。しかし、万次郎の性格を理解していた船長は、それが彼の本心ではないことを知っていました。「マンジロウはきっと日本に帰りたいに違いない」。伏し目がちな万次郎を見ながら、船長はそう思いました。「そうか。頑張ってきなさい」と万次郎と握手する船長。でも、その目には涙がにじんでいました。
はるばる船でやってきたカリフォルニア。そのサンフランシスコには近代的な港があって、街はとても栄えていました。そこからさらに蒸気船で川をさかのぼるとサクラメントに。万次郎は街の郊外にある金鉱で働くことにしました。雇われ鉱夫としての不慣れな仕事でしたが、見よう見まねでコツをつかんでいきます。多少のお金が入ると採掘道具を購入して、今度は自分で金を採りはじめました。金の採掘量は日増しに多くなっていきます。掘り出した金を横取りする’ならず者’に襲われぬように気をつけながら、万次郎は黙々と金を採り続けました。すると、70日ほどで日本に帰るためには充分なお金が貯まったのでした。
万次郎はハワイまで乗せてくれる船を探しました。彼は、そこで伝蔵と五右衛門、寅右衛門をひろって一緒に帰ろうと思っていたのです。万次郎は念入りに計画を練りました。四人が乗れる小舟や櫓、帆、食料などをハワイで用意し、日本の近海に来たらその舟を下ろしてもらうのです。より安全に岸に近づくためには琉球付近から入国するのがよさそうです。ハワイのオアフ島に向かう船を見つけ、さっそくその船長と乗船する交渉をしました。すると、すぐに交渉はまとまり、船に乗れることになりました。万次郎は不安と興奮の入り交じった気持ちを抑えながら船に乗り込みます。いよいよ帰国への第一歩がはじまりました。
************************ 「運命について(4)」につづく