運命について(5)

1851年の正月、ついに万次郎、伝蔵、五右衛門の三人は祖国・日本への帰国を果たしました。この三人に寅右衛門と伝蔵をふくめた五人が土佐の足摺岬沖で遭難し、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されてから10年の歳月が経っていました。重助は漂着した島に上陸する際の怪我がもとで亡くなり、寅右衛門は遭難したときの恐ろしさのあまりに帰国をあきらめてしまいました。万次郎も、また、伝蔵・五右衛門の兄弟も、当初はなんどもチャンスがありながら帰国を果たせずにいました。しかし、なんど失敗しても希望を捨てず、次にやってきたチャンスに食らいついてきた結果がこの帰国につながったのです。

三人は入り江に舟を係留させ、ずぶ濡れになったからだで陸にあがると、村を探して歩きはじめました。まもなく数人の村人が近づいて来るのがわかりました。声をかけましたが言葉が通じないようです。しばらくすると何人かがやって来て日本語で万次郎に話しかけてきました。万次郎は「自分たちは漁をしているときに遭難し、外国で何年も暮らして戻ってきた日本人だ」と説明しました。すると、彼らは三人に食べ物や水をもってきてくれました。そうこうしているうちに、たくさんの村人が三人のまわりにどんどんと集まってきて、「うまく取り次いであげるから、役人に早く届け出た方がいい」と言ってくれました。

万次郎らが役所に出向くと、さっそく事情聴取がはじまりました。地元の役人たちには、これまでの長い経過を話して聞かせました。でも、厳しい鎖国状態の日本にあって、彼等のあつかいは難しいものとなりました。薩摩藩、そして幕府に対してお伺い立てをしなければならないことだったからです。三人は一軒の民家を逗留地に、しばらく滞在することになりました。そこに薩摩藩の役人もやってきていろいろと質問されました。結局、半年にわたってその家に軟禁状態になることを強いられてしまいます。しかし、新しい衣服も与えられ、食事も料理人が作ってくれました。三人は久しぶりに日本で生活していることを実感しました。

琉球での生活にも慣れた夏、三人は薩摩藩の取り調べをうけるために移送されることになりました。突然のこととはいえ、万次郎たちは服を着替え、出迎えに来たたくさんの役人を連れだって駕籠に乗ります。これまで面倒を見てくれた村人は涙をながしながら三人を見送りました。その後、鹿児島湾に到着した万次郎達を薩摩藩は丁重に扱ってくれました。藩主の島津斉彬から「食事もふくめて三人の要望に従い、彼等には丁寧に接するように」と厳命されていたからです。以後、贅沢ともいえるような食事と、晩酌に酒までがふるまわれた上に、三人には金一両の俸給までが支払われました。

薩摩藩の島津斉彬は開明派として知られ、軍をはじめとする藩政の近代化を進めていました。薩摩藩は琉球を通じて海外と交易していたため、当時の国際状況については比較的よく知っていました。このころの薩摩藩の沖には海外の船舶がさかんにやってくるようになっていました。なかには大砲を搭載した巨大軍艦が姿を見せることさえありました。斉彬は万次郎たちからアメリカやハワイの様子をこまかく聞きたかったのです。城に呼び寄せられた三人と面会したとき、斉彬は世界地図・地理のことを説明させ、アメリカの大統領制と民主主義のことや科学技術の発達した社会の様子などをたずねました。

二ヶ月もすると幕府直轄の長崎奉行所に移されることになりました。そこでまた事情聴取が繰り返されるのです。長崎に上陸した三人は奉行所につくと白州に召し出されました。そして、簡単な質問に答えると、真鍮でできた30cm四方の金属製の板を踏むように指示されます。「絵踏(えふみ)」でした。そこには聖母マリアと幼いキリストの姿が彫られていたのですが、三人にはその板を踏むのになんの躊躇もありませんでした。すぐに長崎奉行直々の取り調べが始まりました。その結果、「三日間の入牢」が形式的に執行されることになったのですが、それを期に三人は月代(さかやき)に髷(まげ)を結うことが許されました。

入牢といっても、万次郎たちが入ったのは「揚がり屋」です。そこは下級武士や医師、僧侶などの一定の身分のものが入る場所でした。一般庶民が収容される大牢とは異なり、狭いところにすし詰めにされたり、劣悪な待遇を受けたりすることはありません。万次郎たちはそこでハワイで知り合った紀州船の船乗り達と再会することができました。あれから中国に到着し、しばらく滞在した後、日本行きの船に乗れて帰国してきたようです。そして今、故郷の紀州に戻るのを待っているとのこと。それからまもなくして、紀州から役人が迎えにきて彼等は長崎を去って行きました。「いよいよ自分たちも土佐に帰れるぞ」と三人も期待に胸がふくらみます。

ついに万次郎、伝蔵と五右衛門にも奉行所から呼び出しがかかりました。三人が白州で待っていると、長崎奉行と奉行所の役人、そして、土佐藩の役人が入ってきました。奉行は「三人が嵐に会い漂流して異国に行かざるを得ず、キリシタンになることなく帰国を果たした」と述べ、「ゆえに土佐への帰還を許す」と宣言しました。ただし、以後、土佐を離れないこと、重助や寅右衛門のことは家族に説明してもよいが、それ以外のことはむやみに話さないことなどを申しつけられました。アメリカからもちかえった物品の多くは没収されましたが、砂金や銀貨については日本銀に両替して返却されました。

三人は念願だった土佐に帰還をはたしました。しかし、すぐに家族が待っている家に帰れたわけではありません。土佐藩の事情聴取があったのです。その尋問は二ヶ月ほどかかりました。帰郷の許可がおりたのはそれから。伝蔵と五右衛門の家は朽ち果てていて、どこにあるのかもわからない状態でした。やむを得ずいとこの家を見つけ、そこで親戚達と二人の帰国を喜び合いました。万次郎も母がいる中浜に戻ってきました。幸いにも年老いた母はまだ生きていてくれました。兄弟達も酒をもって集まってくれ、万次郎の十年にもおよぶ苦労話しに涙を流しました。三人は土佐藩の下級武士となり、漁に出られないかわりに俸禄があたえられました。

 

しかし、万次郎の物語はこれで終りません。万次郎が土佐に戻った翌年の1853年、浦賀にはマシュー・ペリーを司令長官とする4隻のアメリカ海軍東インド艦隊がやってきました。このときの艦隊のうちの2隻が黒い煙をはきながら自走する大きな蒸気船でした。その圧倒される光景に、浦賀はもちろん、江戸でもうわさがうわさを呼んで大騒ぎになっていたのでした。その時の幕府は、アメリカから帰国していた万次郎のことを知っていました。万次郎は急遽、幕府に呼び出されることになりました。そして、江戸城に登城させるため、幕府は彼を御普請役格という幕府直参の武士(旗本)に任じました。幕臣「中浜万次郎」の誕生です。

万次郎が幕府の直参になるという話しは土佐藩中に広まりました。うろたえたのは土佐藩自身です。それほどの大人物を下級の武士として召し抱えたことを幕府にとがめられはしないかと考えたのです。土佐藩と幕府がともに動揺する中、幕臣となった万次郎は江戸に向かいました。万次郎は江川太郎左衛門の私邸に住み込みながら、彼のもとで幕府の国防に関わる仕事をすることになっていました。江川家は伊豆国にある幕府直轄領を治める代官を世襲した名士です。江戸湾防衛の砲台である「品川台場(現在のお台場)」を設計・築造したり、大砲を造るために「韮山反射炉(今は世界文化遺産に登録)」を造ったことで知られています。

ときの老中首座は阿部正弘。彼は福山藩という中国地方では小さな藩の出ではありましたが、23歳で幕府の老中に抜擢されるほどの秀才でした。ペリーらとの対応に忙殺される中、彼は江戸にやってきた万次郎と直接会ってみたいと思いました。万次郎がどれほどの賢者であるかを自分の目で確かめたかったのです。老中・阿部の私邸に江川太郎左衛門とともに呼び寄せられた万次郎は、これまで自分が見聞きしてきたアメリカの政治・社会全般のことや、自分が受けてきた教育や捕鯨という仕事のことなどを詳細に説明しました。どの話しもアメリカと日本の文化や国力の差を感じさせるものばかりでした。

さすがの阿部もまったく想像もつかない話しに驚嘆したことでしょう。そして、ペリー艦隊が「日本国皇帝」に対して置いていった大統領からの親書の意図を、万次郎は捕鯨船の補給基地を求めてのことだろうと説明しました。そして、10年間という長期にわたってアメリカで生活してきた経験をふまえて、アメリカという国家の懐の深さと、キリスト教精神に裏付けられたアメリカ人の寛容さからいって、アメリカが武力を使って日本を植民地にするはずがないと付け加えたに違いありません。これは万次郎がアメリカをかばうためにとりつくったことではなく、実物大のアメリカを知っている彼の正直な気持ちだったはずです。

 

************************** 「運命について(終)」につづく

運命について(4)

1850年8月、万次郎の乗ったアメリカの捕鯨船イライザ号はハワイ・オアフ島に到着しました。イライザ号は蒸気船で、それまでの捕鯨船の2倍はあるかという大きさです。カリフォルニアを出発してから二週間あまり。あっという間にハワイに着いてしまいました。万次郎は早速、島に住んでいた寅右衛門の家をたずねていきました。そして、伝蔵と五右衛門も呼び寄せて、帰国するという自分の強い意志を三人に告げました。伝蔵と五右衛門は万次郎の決意に共鳴し、自分たちも一緒に帰国したいと言います。しかし、寅次郎だけが表情を曇らせたのを万次郎は見逃しませんでした。しばらく黙っていた寅右衛門は重い口を開きました。

「伝蔵も五右衛門も、以前、日本に帰ろうとしたがうまくいかなかった。また命がけで帰国を試みてもうまくいくとは限らない。俺はここでの生活に慣れ、仕事もでき、嫁ももらった。だから、この土地で一生を終えてもいいと思っている」。淡々とそう語る寅右衛門に、万次郎ら三人は「一緒に日本に帰ろう」と繰り返し説得します。しかし、彼の気持ちが変わることはありませんでした。万次郎たちは寅右衛門を翻意させることが難しいとわかりました。そして、三人で帰国の準備を進めることにしました。万次郎は採掘した金と交換できた銀貨600枚あまりで、上陸用の小型の船などの必要なものを購入していきました。

万次郎らと小舟一式を乗せてくれ、琉球付近で降ろしてくれる船を探しました。三人には希望があふれ、そのまなざしには「必ず帰国を果たしてみせる」という決意が感じられます。そんなとき、一隻のアメリカ船がオアフ島に入港してきました。その船には五人の日本人が乗っていました。万次郎は彼らに会いに行きましたが、五人は紀州の荷を乗せて江戸まで運び、その帰りに嵐に会って遭難したとのこと。運良くアメリカの船に助けてもらい、中国に向かう船に乗り換えてハワイまで乗せてきてもらったところだといいます。「彼らと一緒に帰れるかもしれない」。万次郎は希望が現実のものになってきたように感じました。

紀州船の船員たちには、彼らが乗ってきた中国行きの船の船長を紹介してもらいました。ところが、その船長と万次郎がささいなことでトラブルとなってしまったのです。船長は万次郎だけは乗船させたくないと言います。紀州船の人達が取りなそうとしましたが、船長は「どうしてもダメだ」と頑なです。万次郎は伝蔵と五右衛門に「自分のことは気にしないで行ってくれ」と言います。しかし、「それはできない」と、ふたりと万次郎の押し問答は続きました。結局、「万次郎ひとりを残して行くわけにはいかない」ということに。紀州船の船員たちは三人に同情してくれましたが、万次郎たちは船を涙で見送ることにしました。

万次郎には複雑な思いがありました。それは「カリフォルニアで大金を稼いでくる」と告げて別れてきたウィンフィールド船長のことです。今回の帰国のことを船長にはまったく相談せずにハワイに来てしまいました。船長は自分がフェアヘブンの自宅に帰ってくると思っているに違いない。そう考えただけで、自分に教育をあたえ、ここまで育ててくれた船長にはとても大きな不義理をしているように思えてならなかったのです。今回の帰国がもし失敗すれば、自分は命を失うかもしれません。そうなれば船長との再会は二度とかなうことはないのです。万次郎は船長に手紙を書きました。

 

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「あなたには幼い頃から大切に育てていただきました。このように成長することのできた恩義を、私は決して忘れません。なにひとつ恩返しができないまま、私は日本に帰国しようとしています。恩知らずのこの行動をどうかお許しください。もし生きて帰国をはたすことができ、世の中が変わって事情が許せば、ふたたびお目にかかれる日がやってくるでしょう。どうか寛大なご慈悲をもって私をお許しいただければ幸いです。」

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ハワイ・マウイ島に中国・上海行きのアメリカ船が入ってきました。しかも、その船では乗組員を募集しているといううわさです。日本に帰国するチャンスがいよいよ訪れたのだ、と万次郎は思いました。用意した小舟とともに三人をその船に乗せてもらい、琉球が近くなったら降ろしてもらえばいいのです。その船の船長の名前に万次郎は聞き覚えがありました。そのことを頼りに船長に直談判してみることにしました。「私たち三人は日本に帰国する決心です。なんとか日本近海まで船員として雇ってもらえないだろうか」。しかし、船長はあまりいい顔をしませんでした。「途中で船員がいなくなるのは困る」というのです。

万次郎は船長に言いました。「他の二人は大型船の仕事には慣れていない。仕事という仕事はほとんどできないだろう。しかし、二人の分まで私が必死に働くので彼等もこの船に乗せてもらいたい。私たちには給与はいらない。もし、日本の沖で二人を降ろしてもらえれば、私だけは中国まで働き続けるのでどうかそれでお願いしたい」。万次郎の言葉を聞いて、船長は渋々三人の乗船を認めることにしました。万次郎たちは、あらかじめ用意していた小舟や帆、櫓などを船に積み込むと、三人をふくむ18人の乗員を乗せた船はハワイを出港しました。遭難してから10年という歳月が過ぎていました。

日本までの長い航海を三人はどのような思いで過ごしたことでしょう。その間、万次郎は船長が目を見張るような働きぶりだったに違いありません。伝蔵と五右衛門も、慣れないながらも誠意をもって働いたのでしょう。航海中の三人の様子に、当初は渋々受け入れた船長も、彼等がいかに祖国に、故郷に戻りたかったかが伝わってきたようです。いよいよ琉球が近づいてきたとき、船長は万次郎を呼び寄せて尋ねました。「君はこのまま中国に行くということでよいか」。そう確認する船長に万次郎はきっぱりと答えました。「伝蔵と五右衛門は琉球に到着したら下船させてください。私はこのまま中国まで働きます」。

そう言い切った万次郎のまなざしを見つめながら船長はしばらく黙っていました。そして、万次郎の覚悟を確かめたかのように船長は静かな口調で言いました。「この先の航海で船員が足らなくなるのは困る。しかし、私はそれを我慢することにしよう。君も彼らといっしょに下船しなさい」。その船長の言葉を聞いた万次郎の目からはとめどもなく涙がこぼれおちました。琉球まであと少しとなったころ、船長は船をできるだけ陸地に近づけるよう船員に指示しました。いよいよ三人が日本にもどる時がやってきたのです。「琉球はもう目の前だ。心配することはない。きっと上陸できる」と船長の目にも涙がにじみました。

船長は下船の準備に忙しい万次郎を呼び止めました。そして、一枚の航海図を広げると「ここは上陸には向いていないからここから試みたまえ」と助言してくれました。「もし万が一、上陸が難しいとなったら戻ってきなさい。我々は君らの上陸を確認するまでここにとどまっているから」と食料を渡しながら言いました。上陸用に購入した小舟に、万次郎たちは「アドベンチャー号」と名前をつけました。そのアドベンチャー号は、万次郎、伝蔵、五右衛門を乗せ、日本の海岸を目指して冒険(アドベンチャー)をはじめるのです。三人は船長や乗組員たちに謝意と別れを告げ、小舟に乗り込みました。

沖の波は思いのほか高く、小舟を木の葉のように大きく揺らしました。万次郎は小舟の帆を張り、船長が示していた海岸に向けて舵をとります。しかし、ときに押し寄せる大波に、舟は遭難したときのように押し流されていきます。なんども転覆しそうになりながら、必死に舟を立て直そうとする三人。恐ろしさのあまり、顔をひきつらせた五右衛門が「もうだめだ。どうしたらいいんだ」と泣き叫びます。そんな彼を叱りつけながら櫓をこぐ万次郎。それはものすごく長い時間が経ったように感じました。ついに、三人はなんとか入り江までたどり着くことができました。沖合に停泊していた船は、それを確認して中国に出発していったのでした。

 

*********************** 「運命について(5)」につづく

 

運命について(3)

「万次郎にアメリカで教育を受けさせたい」。ウィットフィールド船長の教育を重視するこうした姿勢は会衆派教会の教えでもありました。アメリカにやってきたピューリタン(清教徒)の信仰を色濃く残していた会衆派は、同志社を創設した新島襄がアメリカで洗礼を受けた宗派としても有名です。新島襄は若いころ、日本に帰国した万次郎が教授をしていた幕府の軍艦操練所に入学していましたが、やがてアメリカの政治制度やキリスト教精神に強い関心を持つようになりました。そして、1864年、アメリカに渡ってキリスト教を学ぶことを決意した新島は、商船に乗って新大陸への密航を果たしたのです。

アメリカでの新島襄には、身寄りも、頼る人もいません。しかし、会衆派のある篤志家が、「聖書を学び、帰国して学校を作りたい」という彼の志に感銘を受け、「ジョウには教育を与えるべきであり、私が彼の生活の一切を援助する」と申し出ました。新島襄や万次郎が暮らしたアメリカ北東部には、こうした敬虔なプロテスタントが当時数多くいました。新島襄はその後、会衆派教会で洗礼を受け、同派が設立した名門アーマスト大学に進学して日本人初の学士号をとります。そこで彼は、後に札幌農学校に赴任するクラーク博士に化学を教わりました。そして、さらに神学校に進んだ新島は、帰国後、志どおりに同志社大学を作ります。

ウィットフィールド船長にとって、万次郎は自分の息子のような存在でした。それには理由がありました。航海の直前に船長は再婚したばかり。その2年前に前妻が亡くなっていたのです。その後、男の子が産まれますが、その子も二歳になってすぐに亡くなってしまいました。悲嘆にくれる船長夫妻を町中の人が気の毒に思うほどでした。そんな夫妻のもとにやってきた万次郎は、まさに自分たちの子どものように感じたに違いありません。だからこそ、その万次郎が教会で「黒人の席に座れ」と言われたとき、いつもは温厚で人格者だった船長が「万次郎に対する扱いは人種差別だ」と憤慨して教会をあとにしたのでしょう。

成長した万次郎は、アメリカの船員学校で優秀な成績をおさめていました。そして、今度は正式な船員として捕鯨船で航海に出ることになりました。万次郎が乗船するフランクリン号の船長はかつてジョン・ハウランド号の乗組員。ニューベットフォードの港から、補給基地だったマニラに向けて出発することになっていました。船が出航してしばらく進むと、大砲を積んだ大きな軍艦が何隻も停泊するボストン港に入りました。当時、アメリカとメキシコは戦争のまっただ中。両国ともに戦力を増強して戦争が終る気配はありません。海岸には砲台が何基も並び、まるで城塞のような様相にただならぬ雰囲気を漂わせていました。

その後、フランクリン号は大西洋を南下します。航海の途中、いくつかの島に寄港しながら燃料と食料を補給しました。遠く小笠原の近くまで来ると、二十隻ほどの漁船が鰹漁をしていました。どうやら日本の漁船のようでした。万次郎は船の舳先に立って声をかけます。「ここはなんという国ですか?」。すると、真っ黒に日焼けしたひとりの漁師が「陸奥の国、仙台だ」と答えました。久しぶりに耳にする日本語でした。万次郎は故郷である土佐の方角を聞いたものの、漁師は土佐のことを知らないようすです。万次郎は少し落胆しましたが、漁師に謝意を述べ、船はハワイを目指して出発しました。

ハワイは一緒に救出された4人と別れた場所。ハワイに到着した万次郎は街の人に「どこかに日本人はいないか」と聞いてまわります。そして、ひとりの日本人が住んでいるという家を教えてもらい、たずねてみることにしました。その日本人は寅右衛門でした。容姿が変わっていたせいか、彼ははじめ万次郎だとは気づきません。しかし、その訪問者が成長した万次郎だとわかると、二人は抱き合って五年ぶりの再会を喜びました。ところが、他の三人の姿はそこにはありません。寅右衛門が言うには、重助は怪我がもとで死んでしまい、伝蔵と五右衛門は日本に帰るために船に乗って行ってしまった、とのことでした。

寅右衛門との再会をはたし、フランクリン号に戻った万次郎は、ふと沖の方に目をやりました。港に入ってくる捕鯨船に、二人の日本人が乗船しているという噂を聞いたからです。万次郎はさっそくその船の日本人に会ってみることにしました。船の近くまで行ってみると、その二人は伝蔵と五右衛門だということがわかりました。肩をたたき合って久しぶりの再会を喜ぶ三人。「ふたりは日本に帰ったと寅右衛門から聞いたけど・・・」。そうたずねると二人は「八丈島と蝦夷まで行ったが帰国がかなわなかった」と涙ながらに語りました。二人の話しを聞きながら、「日本に帰りたい」という思いが万次郎にはこみ上げてくるのでした。

伝蔵と五右衛門との話しはつきませんでしたが、フランクリン号は万次郎を乗せてハワイを出発しました。そして、1848年2月、船はマニラに向かう直前、グアムに到着しました。しかし、このころから船長が精神に異常をきたします。わけのわからぬことを言ったり、暴れるようになってきたのです。マニラに到着すると、彼をアメリカ領事館に預けることにしました。そして、それ以後は万次郎が船長代行として船を進めることになったのです。マニラの新聞では、アメリカの商船が日本に帰港し、領事館を作らせてほしいと求めたものの、幕府は拒否したと報じていました。「帰国はそう簡単ではないようだ」と万次郎は思いました。

40ヶ月におよぶ長い航海を終え、フランクリン号はニューベットフォード港に戻りました。万次郎はウィットフィールド船長の自宅を訪れ、無事帰港したことを報告しました。船長は万次郎の成長ぶりに感心し、無事帰還したことを喜んでくれました。しかし、万次郎の表情はさえません。ハワイで伝蔵・五右衛門、寅右衛門と再会して以来、日本に帰りたい、土佐に戻りたいという思いが高まっていたからです。なにより土佐に残してきた母のことが頭を離れません。アメリカに来てからの八年間というもの、万次郎は、言葉を覚え、新しい知識を吸収するのに必死でした。母や故郷のことを考えている暇などなかったのです。

ハワイで生活している三人もまた家族や故郷のことを忘れていませんでした。伝蔵や五右衛門は何度か日本への帰国を試みたものの失敗を繰り返していました。重助に至っては傷がもとで亡くなり、帰国することはかないませんでした。「重助もどんなに悔しかっただろう」と思うと、万次郎には「日本に帰ってもう一度母に会いたい」という感情があふれてくるのです。そんな中、アメリカがメキシコとの戦争で割譲させたカリフォルニアが、今、空前のゴールドラッシュに沸いていることを万次郎は知ります。その金山で働いて、日本に帰る資金を作れないものだろうか。いつしか彼はそんなことを考えるようになっていました。

迷ったすえ、万次郎はウィットフィールド船長に相談してみることにしました。でも、これまで育ててくれた船長夫妻に、「日本に帰りたい」などと言い出せません。そこで万次郎は「カリフォルニアに行って金を掘って来たい。ひと財産を築くことができれば、一生楽な生活ができるかもしれない」と船長に切り出します。しかし、万次郎の性格を理解していた船長は、それが彼の本心ではないことを知っていました。「マンジロウはきっと日本に帰りたいに違いない」。伏し目がちな万次郎を見ながら、船長はそう思いました。「そうか。頑張ってきなさい」と万次郎と握手する船長。でも、その目には涙がにじんでいました。

はるばる船でやってきたカリフォルニア。そのサンフランシスコには近代的な港があって、街はとても栄えていました。そこからさらに蒸気船で川をさかのぼるとサクラメントに。万次郎は街の郊外にある金鉱で働くことにしました。雇われ鉱夫としての不慣れな仕事でしたが、見よう見まねでコツをつかんでいきます。多少のお金が入ると採掘道具を購入して、今度は自分で金を採りはじめました。金の採掘量は日増しに多くなっていきます。掘り出した金を横取りする’ならず者’に襲われぬように気をつけながら、万次郎は黙々と金を採り続けました。すると、70日ほどで日本に帰るためには充分なお金が貯まったのでした。

万次郎はハワイまで乗せてくれる船を探しました。彼は、そこで伝蔵と五右衛門、寅右衛門をひろって一緒に帰ろうと思っていたのです。万次郎は念入りに計画を練りました。四人が乗れる小舟や櫓、帆、食料などをハワイで用意し、日本の近海に来たらその舟を下ろしてもらうのです。より安全に岸に近づくためには琉球付近から入国するのがよさそうです。ハワイのオアフ島に向かう船を見つけ、さっそくその船長と乗船する交渉をしました。すると、すぐに交渉はまとまり、船に乗れることになりました。万次郎は不安と興奮の入り交じった気持ちを抑えながら船に乗り込みます。いよいよ帰国への第一歩がはじまりました。

 

************************ 「運命について(4)」につづく