「死ぬ」ことを英語では婉曲的な表現で「pass away(亡くなる)」といいます。「die(死ぬ)」という直接的な表現もありますが、あいまいさを嫌う英語においてですら「亡くなる」という柔らかい表現があるのは「死」が持つマイナスの印象を物語ってのことだろうと思います。人の心の細かいひだを表現することが得意な日本語では「死ぬ」「亡くなる」「旅立つ」「永眠する(永遠の眠りにつく)」「天国に行く」「お隠れになる」「逝去する」「死亡する」「絶命する」「薨去する」「冷たくなる」「神に召される」などの多様な表現があり、私たちの祖先が「死」をどのように見てきたかがよくわかります。
死ぬことは怖いことです。とはいいながら、今の私が死を実感として恐れているかと言えばそれは怪しい。今、私が死ぬことによって、「家内や子供たちを残していかねばならない」ことに対する不安感のようなものはありますが、実際のところ、死ぬということがどのようなものなのかは今の私にはまるでわかっていないといっても過言ではありません。これまでたくさんの「死」と関わってきたこともあって、一般の人に比べれば「死」を比較的身近に感じているかもしれません。でも、命に関わるような大病をしているわけでもなく、「死」というものを自分の問題として感じてはいないからでしょう。
先日、聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明先生が亡くなりました。マスコミを通じて報じられる先生はいつもお元気だったので、日野原先生が亡くなるなんてことは想像もしていませんでした。ですから、逝去されたというニュースを聞いたときはなんとなく意外でした。しかし、先生が百歳を超えて近づく自分の死を達観していたかといえばそうではなく、亡くなる何か月か前のインタビューで「死ぬことは怖い。死の話しをストレートに言われると恐ろしい」と答えていたようです。とても正直な感想であり、たくさんの死を看取って来たクリスチャンでありながらも素直に答えるこの姿はさすがだと思いました。
私のクリニックに通って下さる患者さんの多くは高齢者です。これは当院担当の会計士も繰り返し指摘するのですが、当院の通院患者に占める高齢者の多さは特徴的です。したがって、毎年、何人かの通院患者が亡くなります。ある人は長年患ってきた病気の悪化によって。ある人は突然の病によって。また、ある人は理由もわからず朝冷たくなっていたなんていうことすらあります。ですから、外来で患者さんとちょっとした会話をしたときに「死」に関する話題が出てくることだって決して珍しくはありません。今も、手術不能で緩和ケアを受けるようにと宣告されて途方に暮れている患者さんが何人かいます。
ただ、そうした患者さんとの間で、直接的に「死」について話しをすることはあまりありません。患者さん自身がそのような「死」に関する話題を望んでいない限り私の方からお話しを振るようなことはありません。ですから、患者さんに対して本当は「死」に関するもっと突っ込んだお話しをしたいと思っていても、そのようなお話しができないまま亡くなってしまうケースがほとんどです。私はなにか特定の信仰をもっているわけではありません。また、「死」について達観した確固たる確信や信念をもっているわけでもありません。「死」の話しを積極的にできないのは、本来私にとって避けたくなる話題だからかもしれません。
医者になってこれまでたくさんの死を看取ってきました。以前、このブログでも紹介した高校生や大学生といった若い人の死もあれば、百歳近い大往生ともいえる人の死までさまざまな経験をしてきました。お坊さんがすでに亡くなった人の魂を慰めるのだとすれば、臨床医は死にゆく人々の魂を慰めるのが仕事だといっても過言ではありません。しかし、現実はどうかと言えば、臨床医は「これから生きていける人」の相手はしても、「死にゆく人々」をしっかり看ているかといえばそうではないように思います。「治療しない(できない)なら退院してくれ」といわんばかりの医療が行われているのもまた事実です。
もちろん私もそうした医療をしてきたのかもしれません。とくに大学病院にいたときはそうかもしれない。しかし、私は私なりに戸惑いながら、そして、悩みながら「死にゆく人たち」に寄り添おうと思ってきたつもりです。そうした気持ちが患者さん自身に伝わっていたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼ら彼女らの気持ちを理解したいと思っていました。でも、患者さんがそれぞれ置かれている立場や心のありようが異なり、また毎日の忙しさに立ち止まって患者のことを考えることができなかったことも多く、死にゆく患者のために十分なことをしてあげられたと胸を張れる自信はまったくありません。
とはいえ、今の私なりにいえることは、人間の「死」の意味は年齢によって違うということです。高齢者が大往生ともいえる生の終焉を迎えるとき、人は「長い間ご苦労さま」「今までありがとう」「ゆっくり休んでください」と声をかけます。もちろん、二度と戻っては来れない旅に出発するわけですから、その別れは淋しいものであり、悲しいものです。しかし、そこには一抹の安ど感があるものです。出棺のときにひとしきり流した涙も、時間と共に笑顔になれるのが高齢者の死です。生あるものはいつか必ず死にます。その限られた命が燃え尽きるように消えていくのは決して悲しいことだけではありません。
しかし、若い人の死はそうではありません。本人にはやり残したことがたくさんあったはずです。生きていれば輝くような幸福も手に入ったかもしれません。しかし、その死によってすべてが奪われてしまったのですから本人の無念はいかばかりのものでしょう。若い人の死を看取る家族の心に残す傷もまた決して浅くはありません。自分たちのかけがえのない子供の、あるいは孫の死を看取らなければならないことがどれほど辛いことかは想像を超えます。若い人の死は何回経験しても嫌なものです。主治医の私たちでさえ時に逃げ出したくなるような気持ちになります。
ただ、そんな死に際してなお残された者がしなければならないことがあります。死にゆく人たちが「生きざま」や、あるいは「死にざま」を通じて残された人たちになにかを残していきます。それは思い出かもしれませんし、財産かもしれません。あるいは勇気かもしれませんし、癒しかもしれない。後悔と反省を残す場合もあるでしょう。いずれにせよ、残された人たちは死にゆく人たちから贈られた「無言のメッセージ」ともいうべき遺志を感じ取り、その思いを引き継いでいかなければならないのです。死にゆく人は死ぬこと、生きることを通じて残された者たちへメッセージを託しているのです。
人は誰も死から免れることはできません。そのなかでどう生きるかということは、どう死ぬかということにつながります。死を宣告された人間がどう生きるかはもちろん、一見して健康的な生活をしているかのように見える人にとっても、生きることは実は死への道をどう歩くかということなのです。これまでの私の臨床経験の中で、いろいろな人の死を看取ってきましたが、やはり「立派な死に方」をした人からはたくさんのメッセージを受け取ったように感じます。「傲慢になるなよ」「肩書なんて人間にとってなんの価値もないんだよ」「家族を大切にせよ」「こだわりなんてものは邪魔なだけ」、などなど。
医者になってよかったと思うことはそれほどないのですが、それでもたくさんの患者さんから得られた無言のメッセージは今に自分に役立っていると思います。考えてみると人生は短いものです。生まれてくるのも一人なら死んでいくのもひとり。おもしろ可笑しく生きるのも人生なら、自分を鼓舞しながらストイックに生きるのも人生。人知れず死んでいくのも人生ですし、他人の注目をあびるような華々しい人生を生きていくのもまたひとつの人生です。なにをどう生きようが、それぞれの人生は他者に無言のメッセージを残していきます。生きる者、残された者はそうしたものに意識的になりたいものです。
死ぬことは確かに怖いことです。でも、絶望することではありません。たとえ死ぬまで苦痛に七転八倒した人でも、死ぬ瞬間は安堵の表情になります。魂が肉体を抜けだすとき、あらゆる苦痛や不安から解放されるからです。魂になったときすべての人は仏になります。その瞬間まで、人の人生は修業なのかもしれません。「早く死にたい」と思っていても、人はその修業に耐えねばなりません。「死にたくない」と思いながら往かねばならない場合もまた同様です。それが仏への道だからです。仏教にせよ、キリスト教にせよ、同じような宗教観を説教・宣教していることは興味深いことです。
なにかとりとめのない内容になってしまいましたが、「死」に悩み、苦しんでいる人になにかを訴えるものになっていれば幸いです。