高倉 健、永遠なれ

11月10日に日本映画界を代表する俳優「高倉 健」が亡くなりました。

このニュースを耳にしたとき、なんだか不思議な感覚になりました。なくしてしまって初めてそれが自分にとっていかに大切なものだったかに気が付いたような喪失感、とでもいいましょうか。ああ、これで二度と健さんには会えないんだなぁと思うとなんだか体中の力が抜けてくるような感覚でもある。これが「心にぽっかりと穴があいた感じ」というものなのかもしれません。

健さんは以前から大好きな俳優さんのひとりでした。「高倉 健」が任侠映画で一世を風靡していたころ、私は小学生でした。世の中は学生運動で騒がしくなり始めたころです。私は少し変わった小学生で、子供向けの番組よりも大人の見るテレビ番組を見るのが好きでした。「ひょっこりひょうたん島」よりも「木下恵介アワー(この中でも竹脇無我と栗原小巻が主演した「三人家族」がとくに好きでした)」や「国盗り物語」を夢中で見ているような子供でした。

当時住んでいたオンボロアパートにはお風呂がなかったので父親に連れられて銭湯に通っていたのですが、その銭湯の壁にはいつも「総天然色」のポスターが貼ってありました。「ゴジラシリーズ」や東映のまんが映画などのポスターの中にあったのが任侠ものの映画のポスターでした。そのポスターで健さんは背中に唐獅子牡丹を彫り、さらしを胴に巻いてドスを握って立っている。私は当時、この健さんのポスターを見ながら、子供ながらに「こんなかっこいい大人になりたいなぁ」と思ったものです。

そんな影響からか、好きな俳優といえば「高倉 健」と「鶴田浩二」でした。このふたりはよく同じ任侠映画に出演することが多いのですが、中でも「昭和残侠伝 吼えよ唐獅子」は今でも印象にのこる映画のひとつです。これまで自分を陰で支えてくれた三州の親分(鶴田)を手にかけなければならない渡世人・花田秀次郎(健さん)。自分を切りに来た秀次郎に親分は言います。「勝負は時の運。切るも因果、切られるも因果。どちらが倒れても、この場限りにしておくんなさい」。ところが、秀次郎は卑怯な方法で親分にとどめを刺そうとする仲間に怒りをあらわにします。はからずも切るはずだった親分の命を助けた彼は駆け寄ります。そんな秀次郎を見た親分のひと言。「一宿一飯の義理であっしを切りに来なすったおめぇさんが・・・。因果な渡世だな」と。そして、秀次郎は返します。「運否天賦、出たとこ勝負。そのお心遣いは無用に願います」。しびれるセリフです。

その後、健さんは任侠映画から路線を変え、いろいろな映画に挑戦します。しかし、どの役を演じるときにも、人間の心の機微を表現するときは任侠映画のときの健さんです。ストイックなまでに自分を追い込み、情に厚く、しかし情に流されず。それは実生活でも同じだったといいます。あくまでも自分のスタイルを貫くその姿はまさしくあのときの花田秀次郎のままです。そんな俳優「高倉 健」が私は大好きでした。

思えば、昭和62年に鶴田浩二が亡くなったときも同じような喪失感を感じていました。鶴田浩二主演のNHKドラマ「男たちの旅路」シリーズに出てきた吉岡司令補も、同じくNHKドラマ「シャツの店(このドラマも大好きです)」の磯島周吉も、健さんが演じた花田秀次郎のように世の中に迎合せずに自分を貫く役柄。その主役たちが鶴田浩二のはまり役だっただけに、彼が63歳で逝去したときも結構ショックでした。

しかし、今回、とうとう健さんも亡くなってしまい、ついに憧れの対象がいなくなってしまったようでとても淋しい。その寂しさは同時に、自分の憧れの対象が実は確実に年をとっていて、その分、自分自身も年齢を重ねていることを思い知らされたものでもあります。

健さんに関するいろいろな動画を見ながら、彼の偉大さ、存在感の大きさをあらためて感じます。そして、そんな彼を失った悲しみに自然と涙が込み上げてきます。健さんは生前、「行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉が好きだったようです。その言葉通りに生きた健さんに一歩でも近づけるよう頑張ろうという思いが心に芽生えてくる。そう思うと、健さんは多くの日本人に大切なものを残していってくれたのかもしれません。

ありがとう、健さん。どうぞ安らかにおやすみ下さい。      合掌

※「健さんに想いは届いたか?」もご覧ください。