患者の意志

先月、腎不全の重症患者に対する透析治療を中止した病院・医師のことが話題になっていました。腎臓は全身を循環する血液にとけこんだ老廃物、とくに人間の生命活動にとっては毒物となるさまざまな物質をろ過する器官として、あるいはK(カリウム)やNa(ナトリウム)などの生命活動を維持するために必要な電解質のバランスを保つ機関として重要な臓器です。この腎臓がなんらかの病因で機能を停止した場合、人工透析という治療によって腎臓のはたらきを代替しなければ人間は生きていくことができません。

つまり、重症な腎不全患者にとって人工透析の中止とはすなわち死を意味します。ですから、この治療を中止するという判断は通常はありえず、それでも中止をしなければならないのにはなにかやむを得ない事情があるはずです。ですから、今回の報道を耳にしたとき、私はその「やむを得ない事情」がなんだったのだろううかと思いました。報道によれば、透析中止の主たる理由は、透析装置とからだをつなぐ「内シャント」が使用できなくなったことのようです。しかし、それだけであのような判断を下すものでしょうか。

実際の透析はいろいろな意味で辛い治療です。透析を受けなければ命をながらえることができないということだけでも患者にはプレッシャーですが、透析を受ける前に「ダイヤライザー」と呼ばれる透析装置と血管を接続するための手術をしなければならないのはさらに苦痛で不安なものです。この手術で腕の動脈と静脈をつなぐ(通常はつながっていない血管です)「内シャント」を作ります。そして、そのシャントに針を刺してダイヤライザーとからだをチューブで接続して血液を循環させ、透析をするのです。

私も大学病院の総合内科に所属していた時、その「内シャント」を作る手術の手伝いをしていました。太さも壁の厚さも異なる動脈と静脈をつなぐ手術はとても繊細で、神経を使います。皮膚から露出させた血管は乾燥に弱く、すぐによじれてしまいます。また、人によっては細い枝が多かったりして、手術をする医者にとっては集中力と体力を使う結構大変な手術です。透析を繰り返しているうちにその「内シャント」がつぶれて使えなくなることもあり、そのときは作り直さなければなりません。

今回の患者はこうした「内シャントの閉塞」を繰り返し、もうシャントをつくることができなくなったケースだったようです。両腕の内シャントがもう作れないとなれば別のところにこのシャントと同じ働きをする代替経路を作らなければなりません。おそらくその処置(手術)には高いリスクをともない、透析を中止することのリスクとの天秤をかけての中止の判断だったのではないかと想像します。主治医にとっても、もちろん患者にとっても重い決断だったに違いありません。

ダイヤライザーでの透析によって、本来は尿となるべき水分と老廃物を強力にろ過できます。ですが、その分だけ治療後に倦怠感が強くなる場合があります。毎日、少しづつやればいいのかもしれませんが、それではなんども内シャントに針を刺すことになって血管を痛めます。なにより毎日透析に病院に行くのでは日常生活が制限されてしまいます。だからといって週に一回というわけにもいきません。24時間、365日、私たちのからだの中で働いてくれている腎臓の肩代わりをさせることはそれほどまでにやっかいなのです。

食べるものも、飲水量も厳しく制限されます。飲みたいものを飲みたいだけ飲み、食べたいものを食べるという、ごく当たり前と思っていることも、透析を受けるようになるとできなくなります。そうした制限のゆるい腹膜透析という方法もあります。腹膜透析はおなかの中にチューブを通じて直接透析液を入れ、浸透圧の差を利用して透析したあと再びチューブを通してからだの外に廃液するという治療法です。この作業は自宅でできるとはいえ、毎日欠かさず、しかも一日に何回も注入・廃液をやらなければなりません。

ですから、透析治療から逃れたいとどの患者も思っています。逃れるためには腎臓移植のチャンスに恵まれなければなりません。しかし、日本では依然として生体腎移植が盛んになっていません。その順番を何年も待っている患者が多いのです。そんな四面楚歌の状態で気弱になってしまう患者も当然いて、透析医はそうした患者を励ますことに少なからず時間を割かなければなりません。そうした実情が背景にあるだけに、透析の現場では、透析中止の判断はとてもナイーブな問題になっているはずです。

まず私が一番言いたいことは、渦中の医者のあたまの中に「患者の意志は揺れ動く」という現実がしっかり認識されていたかという点です。患者の気持ちはコロコロ変わります。命に関わることゆえそれは当然のことです。あるときは「こんなつらい治療を続けるくらいなら」と否定的な気持ちでいっぱいになることもあるでしょう。また、あるときには「支えてくれている家族のためにも頑張ろう」と前向きになるときもある。患者の心理状態も大きく変化するのです。そうした現実を医者は認識しなければならないのです。

最近、よく「患者の権利」「患者の意志」という言葉を耳にします。「患者の意志が尊重される」ことは「患者の権利だ」というわけです。確かに、自分の命に関わることは患者に判断させるべきだ、判断したいという気持ちは理解できます。しかし、はたしてそれができるものでしょうか。たとえそれができたとして、その「患者の意志」の名のもとに医療が硬直化する危険性はないのでしょうか。つまり言いかえると、「患者の揺らぐ気持ち」が一切考慮されない医療はおこなわれていないと言い切れるでしょうか。

今回の報道にある透析中止の案件もそこが一番の問題なのではないかと思います。透析をなんらかの理由で中止せざるを得ないとき、最終的には患者に継続するか、それとも中止するかの判断をゆだねることになります。そもそもそんな重大な判断をさせられる患者も気の毒ですが、それでも患者が悩みに悩みぬいて結論を出したとして、その意志を途中で翻意することを許容するような雰囲気がはたしてあったのかということです。「あなたが決めたことでしょ」で片づけられていなかったか。そこです。

癌の治療を開始する際、しばしば医者が治療法を提示して「さあどうしますか?」と患者に問いかけます。「患者の意志」の確認というやつです。「どうしますか?」と聞かれてそれに明確に答えられる患者は多くありません。どれがどの程度いいのか悪いのか、医学的知識も経験もない患者が即答できるはずもありません。しばしば「お任せします」と患者から投げ返されて、当惑してしまう医者も決して少数派ではないはずです。「へたに勧めて、あとで責任を問われてもなぁ」って。今はそういう時代なのです。

昔であれば医者は胸を張って「この方法で行きましょう」と勧めるか、さもなければ具体的な説明もないまま治療をはじめてしまうところです。患者も悩む必要がありませんし、医者にとってもある意味楽なやり方です。しかし、こういうやり方は今は通用しません。これまでのさまざな医療事故を通じて生じてしまった医療不信を背景に、「治療の選択においては患者の意志の尊重を」という社会的なコンセンサスが出来上がったのです。これがよかったのか、悪かったのか、私にはわかりません。

とはいいながら、「患者の意志」というものが、医者が裁判沙汰に巻き込まれないための医療者側の方便になっているという側面も見逃せません。治療を自ら選択した以上は、その選択の結果がどうであれ責任は患者にあるというものです。最近はいろいろな情報が氾濫しています。そして、希望する治療が受けられなかったことに患者から「こんなはずじゃなかった」と言われるケースも増えてきました。この「こんなはずじゃなかった」を言わせないために「患者の意志」が利用されているケースもあるかもしれないのです。

でも、患者の意志や気持ちは揺れ動くものです。「私はいつ死んでもいい」あるいは「死など怖くない」という言葉は、死を具体的に意識していないからこそ出る言葉です。アンケートなどで「あなたはどんな死に方をしたいですか」と問われることがあります。でも、そんなアンケートなどほとんど意味がありません。なぜなら、差し迫った死に戸惑い、不安になっている人でなければリアルな回答などできるはずもありません。死をリアルに感じているときと、無縁なときとで意志や意見は大きく変わります。

このように、人間は自分が置かれた環境によってその「意志」は大きく変化します。そのときはきっぱりと決心したように思えたことでも、次の日には「なんであんな決定をしてしまったのだろう」と後悔することもしばしば。臨床心理学では「気持ちが安定しないとき、落ち込んでいるときは重大な決定は先延ばしにしなければいけない」と教えています。私自身もこれまで、なにかを得られる決断であれば「迷ったらやってみる」としますが、なにかを失うかもしれない決断は「迷ったらやらない」ことにしています。

外来にもこんな人がいます。その方は普段から「私はこれ以上長生きしたいとは思わない」とおっしゃっています。でも、と同時に生きながらえるためのさまざまな薬を飲んでいます。そして、手がしびれたとなれば心配になって救急病院に行くわけです。最近、他院で「腎機能が悪くなっているから生活指導や食事指導を受けるべきだ」と言われたそうです。しかし、「そんなことまでして生きていたくない」と断ったとか。それで、結局のところその医者も「それなら、ご勝手にどうぞ」となってしまったらしいのです。

「食べたいものをやめてまで長生きしたくない」とおっしゃるので、私は「でも腎臓がさらに悪くなって尿毒症になったら食べたいものも食べられなくなりますよ」と説明しました。すると困ったように「それならどうすればいいのか」と。「だからこそそうならないように今から生活指導や食事指導をと先生はおっしゃったのでは?」と私。すると、ふたたび「それほどまでして長生きしたくない」と。私は「0(ゼロ)か100かってことじゃないんですよ」と言ったのですが、ご本人の中では戸惑いと不安が錯綜しているようです。

一方でこういう方もいます。その方は肺癌と診断されたものの、幸い手術を受けることができました。しかし、リンパ節転移の可能性が否定できないため、手術後に抗癌剤治療の追加をするかどうかを決めてほしいと主治医にいわれているのです。ただ、高齢でもあり、術後間もない時期での抗癌剤治療は体力を奪って日常生活の支障となるおそれがある。もし抗癌剤の治療を受けなければ癌が再発してくる不安におびえなくてはならない。どちらがいいのだろう、と。そこで「先生の意見を聴かせてほしい」というわけです。

私はいいました。「自分の命に関わる決断は自分で下すしかない。なぜなら人生観や価値観が関わるから。抗癌剤治療を受けなくても再発しないかもしれないし、治療をうけても体力を奪われた上で再発するかもしれない。私が言えることは、せいぜい『自分だったらこうする』程度のことだ」と。抗癌剤の治療を受けるにせよ、受けないにせよ、その結果は自分で受け止めるしかありません。治療方法についてのスペシャリストも確率でしか将来を予測できないのですから。最後は「患者の意志」で決めるしかないのです。

改めて、冒頭の透析中止の件について考えてみると、問題は三つに絞られると思います。まず、透析を中止するという選択肢の提示は医学的に正しいものだったか、という点。ふたつめは、透析の中止を選択した患者の決定が、真に自分の意志にもとづくものだったのか、という点。そして、三つめは、透析中止を患者が申し入れたとして、その後の状況の変化によって患者が当初の意志をひるがえしたときの病院・主治医の対応が適切だったかという点です。とはいえ、そう整理をしてもなお結論のでない問題だとは思いますが。

一見すると、他人の人生など自分にはほとんど関係ないように思えます。しかし、自分という存在が他人に影響を与えているのと同じように、他人という存在は自分にも影響をあたえています。とくに私のような生き死にと関わる仕事をしていると、人に与える影響とその責任の重さをひしひしと感じます。私のひと言で傷ついたり、勇気づけられる患者がいるのです。今回の透析中止の件において主治医と患者のコミュニケーションが十分だったんだろうかということが気になります。亡くなった患者はもう帰ってきませんけど。