アメリカ帝国のゆくえ

自由と平等は本来、あいいれないものです。自由が過ぎればさまざまな格差が生じ、平等に反する状況になるからです。かつてアメリカは「自由と平等、民主主義の国」でした(子どものころの私はそう思っていました)。でも、今の惨憺たる現状をみれば、自由と平等を両立することがいかに難しいかが容易に理解できると思います。アメリカ合衆国は、1620年に自由を求めて北アメリカ東部の海岸に上陸した100名余りのピルグリムファーザーズと呼ばれた清教徒たちからはじまりました(実際には清教徒は40名あまり)。

プロテスタントである清教徒はそれまで、プロテスタントでありながら実質的にはカトリックである英国国教会から迫害を受けていました。ピルグリムファーザーズたちは、アメリカに向かう船の中で、移住者たちの相互協力とともに、秩序維持のための契約を結びました。「メイフラワー号の誓い」と呼ばれるその契約は、その後、アメリカ合衆国建国の理念となりました。清教徒は厳格なクリスチャンであり、退廃した教義を純化した信仰をアメリカという新天地で実現しようとしたのです。

メイフラワー号の誓いには宗教的な厳格さがあり、入植当初の生活を支えてくれたインディアンが自分たちの「自由」をさまたげる存在になると、異端であることを理由に無慈悲に排除していきました。自分たちの自由を追求するあまりに信仰は寛容さを失っていったのです。アメリカ入植者達は狂信的に西進していき、数百万人から一千万人はいたとされるインディアンを駆逐していきました。また、同じ時期に奴隷商人から安価な労働の担い手として黒人を買い入れ、奴隷労働者として働かせるようになりました。

自由というものは、他の自由を阻害することを前提に成り立つといってもいいかもしれません。そして、結果として、自由なる者と自由ならざる者を生み出します。すべての自由が無条件でいいものではないのです。無条件の自由が認められれば、その社会はやがて無秩序におちいり、混沌と混乱をもたらします。まさに今のアメリカ、これからのヨーロッパがそれなのかもしれません。社会においてはどの程度の自由が許容され、どのような社会のあり方が平等なのかについて合意が必要なのです。

そうした合意を形成するためのシステムが民主主義です。あい対立する自由と平等をどう実現していくかについて民意を反映しようとする仕組みです。しかし、その民意が社会的に成熟していなければ、民主主義はいとも簡単にポピュリズムに陥り、衆愚政治を招くことになります。そして、人々の利害の調整が難しく、社会に不満と不信感が鬱積すると、人々は社会秩序を専制政治に求めるのです。これまでの世界史には、専制から自由、自由から専制へと政治的に大きく振れる実例がいくつもあります。

そう考えてみると、世界広しといえども、日本ほど自由と平等との間で絶妙なバランスがとられてきた国家はなかったように思います。中世のころ、どの国においても女性は劣った存在として見られていました。しかし、日本では古くから女流文学が発達し、平仮名というしなやかな女性らしさを表現する文字までもが生み出されています。そして、平仮名とともに、漢字や男性的ともいわれる万葉仮名、あるいは漢字を簡略化した片仮名などを使って、人々の思いを後世に伝える男も女もない日本独自の文化を築いていきました。

身分社会といわれる江戸時代(実際にはそうでもないのですが、ここでは話しがそれるので詳しく述べません)になっても、街のいたる所で「寺子屋」という教育が子ども達にはほどこされていました。江戸中期、日本の識字率は80%ほどだったといわれています。当時のイギリスの識字率は20%、フランスに至っては10%だともいわれており、当時の日本では学びたいと思えば身分や性別に関係なく学ぶことのできるチャンスがあったのです。日本がいかに平等だったかが理解できると思います。

私が「日本を誇りに思えること」のひとつに廃藩置県があります。これはそれまでの250年以上も統治していた江戸幕府が無血開城をし、その権力を天皇に奏上した大政奉還によってなされた武装解除のことです。全国には250とも300ともいわれた藩が一斉に統治権を天皇と明治政府に引き渡したのです。当時は100万石の加賀藩や80万石の薩摩藩はもとより、数万石ほどの小藩までさまざまな藩がありました。しかし、いくつかの藩で散発的に反乱が起こりましたが、おおむね粛々と廃藩置県に従いました。

各藩の藩主には明治政府から年金が与えられました。その一方で、臣下たちはそれぞれの俸禄に応じたわずかな一時金はもらえたものの、おおかたの人は武士という身分から一般庶民へと放り出されました。ある武士は農民となり、また別の武士は商人となるなどして人生が大きく変化したのです。身分社会の頂点にあった武士から一転して平民として生きていくことの困難さはいかばかりだったでしょうか。しかし、弱肉強食の国際社会に飲み込まれないためには、新国家に生まれ変わらねばならないことを彼等は知っていました。

仕えるべき藩主を失った武士達は、明治という近代国家建設のために獅子奮迅の働きをしました。日本の若き秀才達は、欧米に直接おもむき、有力者の助言を受け、近代国家はどうあるべきかを徹底的に研究しました。そして、自由、平等、民主主義という近代国家の諸要素を明治政府は身につけようとしたのです。と同時に、次々と欧米列強の植民地となっていくアジア諸国の非情な現実から、国際社会において独立国家として生き抜き、維持するためには国家としての強さが必要だということにも気が付いていました。

そこで明治政府は富国強兵を推進しました。と同時に、幕末に次々と締結された欧米各国との不平等条約の改定を急ぎました。すでに産業革命によって大国になっていた欧米列強。そんな彼等の植民地として隷属しないためにやむなく締結された不平等条約。しかし、日本の国富を次々と持ち出される現状を変えるためには、欧米とは法的に平等な立場になる必要があったのです。その結果、日本はアジアの雄として急速に台頭していきました。そして、それを象徴することが明治維新の25年後に起こりました。

明治維新後、日本からハワイに移民が渡っていきました。勤勉で正直、親切で宥和的な日本人移民はハワイの国王らに歓迎されていました。当時の日本はハワイを対等国家として認めた通商条約を結んでいました。一方、アメリカも捕鯨活動の重要な補給基地としてハワイに目をつけていました。イギリスやフランス、スペインもやってきました。しかし、それらの国々は、対等な条約を結んでいた日本とは異なり、武力をちらつかせて国王をおどし、ともすればハワイを植民地にしようと狙っていたのです。

すでに北アメリカ大陸の多くを国土にしていたアメリカのやり方は狡猾でした。ハワイへのアメリカ人移民を徐々に増やすと、ハワイの各地で騒乱を起こしました。そして、「アメリカ人保護」を口実に海兵隊を投入して占領しようとしたのです。そこでハワイの国王は日本に援軍を求めました。実はその5年前、日本からのさらなる移民を求めてハワイの国王は東京を訪問しました。でも、真の目的は、ハワイの王女を皇室に嫁がせたいという希望を明治天皇に伝えるためでした。それほどまでにアメリカの脅威は深刻だったのです。

結局、前例がないことを理由に、ハワイ国王の望みは叶いませんでした。しかし、日本は国王の求めに応じて東郷平八郎が率いる軍艦2隻をハワイに派遣します。日本の軍艦がハワイ沖に出現したとき、現地の人たちは涙を流して喜んだといいます。その結果、アメリカが企んでいた騒乱は一時的に影を潜めました。日本は約半年にわたってハワイに軍艦を駐留させます。ところが、翌年に日清戦争をひかえていたこともあって2隻の軍艦は撤収することになり、するとまもなくハワイ国王は追放され、とうとうアメリカに併合されました。

ハワイを併合する50年前、アメリカはメキシコから今のテキサスやカリフォルニアの土地もハワイと同じような方法で奪い取りました。当時のメキシコの領土は北アメリカ大陸の半分を占めていました。しかし、アメリカはたくさんの不法移民を国境付近に移住させ、テキサス地方を共和国として独立させるとそれを承認・併合して自国としたのです。カリフォルニア地方は戦争をして奪いとりました。今、アメリカに国境を超えて流入してくる不法移民には「ここはかつてメキシコ」という意識があるのかもしれません。

アメリカがメキシコにしたことは、今、ロシアがウクライナにしていることと同じ。メキシコ国境からアメリカに難民が流入している現在の状況も、かつてアメリカがメキシコにおこなったことと同じです。反米の立場をとる国家に対しては、今でもその国内を混乱させ、国民を扇動して政権の転覆をはかっています。あるいは日本軍が真珠湾を攻撃したときと同じように、相手国に戦争をしかけてくるよう仕向けて反撃するという方法も繰り返しています。アメリカはまさに歴史を繰り返しているのです。

世界史を俯瞰すると、これまでのアメリカの覇権主義の歴史は、共和制から帝国となったローマの歴史に酷似しています。イタリア半島の都市国家だったローマは、もともとギリシャの政治制度をもとにした共和制をとっていました。周辺諸国からの移民を積極的に受け入れ、多様な人種、宗教、文化を受け入れる鷹揚さによって発展しました。そして、ローマはゲルマン民族を傭兵として雇いいれ、重装歩兵として強力な軍隊を持つにいたると周辺諸国を屈服させて、懐柔しながら勢力を拡大していきました。

しかし、戦争を繰り返し、国家が大きくなればなるほど、豊かになればなるほど社会の格差は拡大しました。そして、ローマ民主主義の根幹をなしていた元老院や民会は腐敗し、社会には汚職や暴力が横行するようになります。その結果、人々の不満や不安は高まり、政治の機能が行きづまりはじめ、ついにオクタウィアヌスが実権を掌握して皇帝に就任。共和制ローマはローマ帝国となりました。ローマ帝国はその後、農耕を奴隷農民に、守りを異民族の傭兵に頼ります。その一方でローマの人たちの市民意識は低下するのです。

ふたたび社会に安定を取り戻して繁栄したローマ帝国でしたが、為政者の慢心と対立によって社会はふたたび混乱します。富める者はさらに富み、没落する者はさらに没落していくと、社会を支えるべき中産階級が減少していったのです。そして、国内は不安と不満に支配され、異民族の侵入をきっかけにローマ帝国は東西に分かれていきます。東ローマはビザンツ帝国となりますが、西ローマ帝国は異民族の侵入によって滅亡してしまいます。そうした様子は、エスタブリッシュメントに支配される今のアメリカの未来を暗示しているようです。

市民、国民の帰属意識は国家が存続するために重要です。強大で強力なアメリカ合衆国が維持されてきたのは、まさに合衆国に対する忠誠があればこそです。アメリカの学生は授業が始まる前に次のような宣誓をします。「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備え、分割すべからざるひとつの国家としての共和国に忠誠を誓う」と。最近は形式的に宣誓する子ども達が増えていると聞きますが、多くは移民の子孫からなるアメリカ合衆国においては帰属意識を醸成ために役立っているはずです。

アメリカ合衆国は州という共和国の集合体。だからこそ各州には州憲法があり、州最高裁判所があり、州軍や州警察があるのです。ネイティブ・アメリカンを放逐する一方で、世界中からやってきた移民とその子孫で繁栄したアメリカ。そのモザイクのような「アメリカという国家」を維持していくには帰属意識が必須です。しかし、情報網が発達し、いろいろな情報を手にすることができるようになった今、自国の「自由と正義」、「平等と民主主義」に疑問を持つアメリカ国民が増えているといいます。

アメリカの侵略と繁栄の歴史には、合衆国憲法が宣誓する「自由と正義」、「平等と民主主義」とは相容れない側面があります。第二次世界大戦後、とくに近年においてはとくに顕著になっているようにも見えます。現在のアメリカは、その「自由と平等」や「正義」がBMLやLGBT運動に代表されるポリティカル・コレクトネス(政治的に偏った「正当性」)によって変質しています。それはまるで「おぞましい自由」と「倒錯した平等」によって「正義」が乗っ取られてしまったかのようです。

我が国我が国もそうした傾向が顕著です。それは日本の政治家がバカだからなのですが、日本人の多くが戦後教育を受けてきた人たちで占められるようになったこととも無縁ではありません。戦前の教育にも誤りはあったにせよ、戦後の教育にはそれよりも遙かに深刻な問題があると思います。それを論じることは今回の主題ではないので控えますが、戦後教育によって日本人はものを考えなくなったように思います。たやすく周囲にながされる鈍感な国民を量産したのです。まさに53年前の三島由紀夫の予言どおりの日本があるのです。

歴史の転換点ともいえる今、アメリカの行く末は日本の行く末でもあることを再認識すべきです。日本で起きていることはもちろん、世界で起きていることに刮目し、自分のあたまで考え、判断できる日本人が増えなければ、混沌とする世界に日本は飲み込まれて消滅してしまいます。無関心に逃げ込まず、かといって教条主義に陥らず、何人にも利用されず、誰からも強制されない思考力をもちたいと思います。それが本当の意味での自由であることであり、真の平等をもたらすことだからです。

 

尻馬に乗る人たち

このブログにふさわしいことかどうか迷いましたが、黙っていられないので少し書きます。これまでこのブログに掲載したものは一本たりとも消去することなく掲載しています。しかし、今回の記事に書くような内容は、それぞれの個人の価値観に関わるもの。どれが正しくて、どれが間違いかを断定することができません。ですから、あとで私自身が不適切だと思った時点で消去するかもしれません。

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私は子どものころから、親によく「おまえは変わってるね」と言われてきました。確かに、今、振り返ってみても、いわゆる「普通の子」ではなかったように思います。なにが「普通」なのかはっきりしませんが、それでも他の子ども達と違っていたことは、当時の自分もなんとなく自覚していました。簡単にいえば、誰かの指示の通りに動くことができなかったのです。指示通りにしたくなかったといえるかもしれません。同調圧力のようなものを感じたときはなおさらだったように思います。

親戚の子ども達が集まったとき、「みんなでトランプをやろう」と盛り上がっても、私だけは「僕は見てるからいいや」とみんなの輪からはずれました。「どうして?一緒にやろうよ」と言われれば言われるほどかたくなでした。そのときの私は、みんながトランプをしているのを見ているだけで楽しいのに、なぜ「一緒にやらなければならないのか」と思ったのです。でも、そんな私を見ていた親は、仕舞いには「どうしてそうなんだろ。おまえはほんとに変わった子だね」とあきれていました。

日本で開催されたバレーボールの国際大会がTV中継されたときのこと。日本チームに対する応援はいつになく熱を帯び、会場には「ニッポンっ、ニッポンっ」と大声援がこだましています。そして、日本の好プレイのときばかりでなく、相手のチームがミスをするたびに大きな歓声が沸きました。それを見ていた私は、日本チームへの歓声が大きくなればなるほど相手チームを応援していました。観客の応援からは相手チームに対するリスペクトを感じず、一糸乱れぬ熱狂的な応援ぶりに気持ちが冷めてしまったからです。

これまでの例えと本質的には異なることですが、今の「ジャニーズ問題」には、私の「あまのじゃく」が敏感に反応しています。私はジャニーズ事務所などなくなってもいいと思っています。いっそのこと、芸能界そのものがなくなってもいいくらいです。しかし、最近のジャニーズ事務所への「いじめ」のような報道のあり方、社会の反応には「大いに問題あり」だと思います。これは正義の名を借りた制裁だからです。しかも必要以上の制裁であり、場合によっては不当な制裁ですらあるからです。

今回の「ジャニーズ問題」の本質を考えてみましょう。多くの人は故・ジャニー多喜川氏による「性加害、とくに未成年者に対する性加害」の責任を追及していると思い込んでいます。しかし、よく考えてみてください。今、マスコミが、社会が責めているのは誰でしょうか?すでに亡くなってしまった加害者本人の責任を追及しているでしょうか。すると人は言うでしょう。「それを見逃してきた事務所にも責任がある」と。でも、見逃してきたのは事務所だけですか?その責任を追及する側にも責任はありませんか。

これまで性加害の存在をうすうす知っていながら、見て見ぬ振りをしていた人たちに責任はないのでしょうか。故・ジャニー多喜川氏の力と金を利用してきたTV局をはじめとするマスコミ、そのタレントを使ってきた企業はもちろん、タレントを守ってこなかったファンにも、自分たちの子どもをジャニーズに入れてきた親たちにも責任がないとはいえないはず。多くの人たちにも多かれ少なかれ責任があるというのに、なぜ、今、事務所ばかりがあれだけの批判を受けなければならないのでしょうか。

ジャニーズ事務所との契約を解除する企業があとを絶ちません。それは「性加害があったから」ではありません。「性加害があったことが公になってしまったから」です。どの企業も性加害の存在に目をつぶり、これまでタレントを番組に出演させ、CMに起用してきたではありませんか。そうした企業がまずすべきことは、これまでの経緯を猛省し、自らのコンプライアンスを見直すことから始めるべきです。なのに、まずは事務所を切り捨てるという身勝手さ。それはまるで自分たちの責任から逃げるかのようです。

経済同友会の新浪剛史氏は記者会見で「これからもジャニーズ事務所の所属タレントを使うことは小児虐待を認めること。国際的にも理解されることではない」と述べました。まるで他人事です。今回の事件について、こんな英雄気取りの経営者がいる企業がどんな会社かは推して知るべし。そもそも企業が、そして社会が守るべきなのは性被害にあったタレントたちのはず。事務所を切り捨てれば、そうしたタレントたちは救われるのでしょうか。まず守るのが自分たちの企業ブランドというのはあまりにも身勝手すぎます。

尻馬に乗る人が多すぎませんか。「水に落ちた犬は叩け」という言葉があります。これは窮地に落ちたライバルは非情になって蹴落とすべし、という意味に解されます。まさしく今のジャニーズ事務所が置かれた状況を表しているかのようです。しかし、この言葉は本来、「水に落ちた犬は叩くな」という日本の慈悲のことわざを、中国の魯迅が「水に落ちた狂犬には情けをかけるな(助けても襲われるだけ)」という意味で「叩け」と代えたとされています。ジャニーズ事務所ははたして狂犬なのでしょうか。

「福島を守れ」といいながら「フクシマを忘れるな」とカタカナ書きにして差別し、「福島を支えよう」といいつつ、処理水を「汚染水」と呼び、それを「Fukushima water」と書いて福島沖の魚までを汚れたものにでっちあげる。この人たちにとっては、福島のこと、福島県民のことなどどうでもいいのです。自分らのイデオロギーの拡散に利用しているだけですから。このような偽善の裏に「ことの本質」など関係ありません。なに(だれ)を守って、なに(だれ)を支えなければならないのかなどどうでもいいのです。

ついでに言えば、東日本大震災で発生してしまった原発事故は、これまで経験したことのない大地震、そして、予想をはるかに超える大津波が原因です。東京電力を犯人扱いすることは間違いです。東電は事故後まさに懸命な作業で危機を救ってくれた恩人ですらあります。そもそもが、関連死とされる人はいても、原発事故で直接亡くなった人は一人もいません。責任うんぬんをいうのであれば、それまでの原発頼りだった政府のエネルギー政策であるはず。東京電力そのものではありません。

2万人あまりの死者・行方不明者をもたらしたのは津波。想定をはるかに超える大津波に対策を講じてこなかった東電に責任があるのであれば、そうした津波を想定して巨大な防潮堤を建設し、たくさんの住民を移住させなかった地方自治体の責任はもっと大きいはず。東北各県・各地域の被害の補償を都合良く東京電力ばかりに押しつけるのは合理的ではありません。あの震災においては東電だって被害者。みんなが被害者なのです。にもかかわらず、尻馬に乗って「東電叩き」をする人のなんと多いことか。

ジャニーズ問題や原発事故に対する個人の感情はさまざまです。合理的に判断できる人もいれば、感情的になってしまう人もいる。それは仕方ないことです。しかし、人の尻馬に乗っかって、一緒になって「溺れる犬」を叩く人が私は嫌いです。ましてや相手の闇を知りつつ「持ちつ持たれつ」でうまくやってきたのに、その弱り目に乗じて叩く側に回っても平気な卑怯者が大嫌いです。そうした恥知らず(の人や企業)はいつかまた同じように他人(消費者・社員)を利用し、自分が窮地に追い込まれれば平気で踏み台にします。困ったときに真の友人、人の本質がわかります。こういうときにこそ冷静な観察眼を持ちたいものです。

 

 

軽薄な理想主義

以下の文章は、当ブログを愛読していただいている洋子山根コリンズさんが主催する「短歌通信」に掲載していただいたものです。洋子さんのご許可をいただいて掲載いたします。

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かつての私はどちらかというと左翼的な思想の持ち主でした。高校生のときは「天皇は国民の人気投票で決めたらいい」と友人にうそぶいていましたし、日本の伝統や文化はおろか、日本の歴史にすら関心がありませんでした。むしろ、戦前・戦中の日本を、先の大戦で植民地の拡大をもくろみ、アジア諸国を侵略した恥ずべき戦犯国家だと思い込んでいたといっても過言ではありません。

若いときはテレビばかり観ていました。とくに、ドラマやドキュメンタリー、報道番組などが好きでした。「マスコミからの情報は正しい」と信じて疑っていなかったのもこの頃です。フィクションのドラマの中での出来事を実際にあった事件と錯覚するときすらありました。それほどまでに当時の私の価値観に影響を及ぼしていたのがマスコミから流れてくる情報だったのです。

戦時中の日本を批判的に描くドラマを昭和ひとけた生まれの母と観ていたときのことです。そのドラマにいたたまれなくなったのか、母は「昔の日本はこんなにひどい国じゃなかった」とポツリと言いました。私は「戦前の教育に洗脳されている連中ときたらまるで反省がない」と思ったものです。リアルタイムの戦前・戦中を知る両親よりもテレビの世界を私は妄信していたのです。

三島由紀夫の有名な一節があります。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。(果たし得ていない約束ー私の中の二十五年:1971年より)

三島が自決したのは私がまだ小学生のころ。盾の会を率いて「来たるべきとき」に備えて軍事訓練をする三島が、幼い私の目には「兵隊ごっこをする大人」としか映っていませんでした。しかし、その数年後、三島はまるで戦国時代の武士が現代によみがえったかのように切腹して自らの命を絶ちました。そのギャップに子どもながらに強い衝撃を受けたことを今でも覚えています。

三島の足跡をたどってみると、幼いときから病弱で、徴兵検査にも合格できなかったことが彼の負い目となり、そのことが戦後の彼を変えていったことがわかります。青年期という多感な時期に戦前と戦中を過ごした三島が、敗戦を契機に変わっていく日本をどう見ていたのか。「究極のリアリスト」でもある三島由紀夫が書き残した憂国の短い文章は多くのことを語っています。

三島が「究極のリアリスト」だとすれば、先日亡くなった大江健三郎は「軽薄な理想主義者」に見えます。彼は天皇制に批判的な立場をとり、平和と反戦を叫びながらも中国の核実験を擁護しました。三島とは対局にいるかのような大江健三郎という知識人は、リアリストたろうとしながらも結局は理想主義、個人主義の枠を超えることができなかった人物だったようです。

ロシアとウクライナの戦争が続いています。しかし、その戦争にいたるまでの経緯を知らない人が少なくありません。ウクライナは、ロシアから欧州に向かうパイプラインの中継基地として重要な位置にあります。そして、その石油や天然ガスの利権にアメリカ企業が関与し、ウクライナをこれまで翻弄してきたのです。今の戦争にはアメリカの国際戦略が少なからず影を落としています。

とはいえ、ウクライナがロシアに負ければどうなるかがまるでわかっていない人が多すぎます。その歴史的背景がどうであれ、武力による侵略を受け、国境が力ずくで変更された国家は必然的に崩壊します。いつしか世界史から消えていくのです。これまでの世界史が繰り返してきたその恐ろしさをリアルに感じとることができない日本人が少なくないのはなぜでしょうか。

知識人と呼ばれる人たちは、安全な場所に身を置きながら「命は地球より重い」と叫びます。しかし、「人間の尊厳はときに命よりも重い」という側面にも目を向けるべきです。ウクライナを守るために戦っている人々ははたしてなんのために命をかけているのでしょうか。国際法を破って隣国を侵略した国家を暗に容認してしまうような平和主義は真の平和主義とはいえません。

脱原発というムーブメントもそうです。安全保障を無視したエネルギー政策はありえないはずです。また、放射能への恐怖心に翻弄されるあまりに、原子力に代わるはずの化石燃料が多くの人の命を奪い、地球の温暖化に拍車をかけている事実に目をつぶってはいけません。現時点で、太陽光発電であれ、水素燃料であれ、総じて原発を完全に代替するものにはなりえないのです。

福島原発事故の際、原発の再稼働問題について坂本龍一は「たかが電気のこと(で放射能の危険性を無視することはできない)」と発言しました。その彼はヘビースモーカーとして知られています。しかし、タバコの煙にはポロニウムという毒性の強い放射性物質が含まれており、一日三十本の喫煙をする人は年間で八十ミリシーベルトの被爆をしているともいわれています。

彼の音楽活動において大量の電気は欠かすことはできません。つまり、あの坂本龍一にとっても電気は「たかが」と呼べるほど些細なものではないのです。また、タバコが原因とも思える中咽頭癌に苦しんだ彼は、皮肉にもその治療に放射線療法を選びました。私は彼に電気を使うな、放射線治療をするなと言っているのではありません。現実を無視した彼の理想論を批判的に見ているだけです。

社会のリアルはもっと厳しいものです。そのような現実に目をつぶって理想論を叫ぶのは簡単です。私が大江健三郎や坂本龍一たちを「軽薄な理想主義者」と呼ぶのはそのためです。日本のアニメを牽引する宮崎駿もまた同じ。あれだけたくさんのタバコを吸い、周囲に副流煙の健康被害をおよぼしているかもしれないのに、「原発に反対」とはあまりにもご都合主義すぎます。

ながながと書いてしまいましたが、アメリカのBLM運動に端を発し、ウクライナ戦争にいたる世界規模の社会の分断と不安定化は、台湾をめぐる中国の覇権主義によってさらに深刻な対立と混沌に突き進んでいく様相を呈しています。今こそ「軽薄な理想主義」を克服し、厳しいリアルと対峙しながら行動する勇気が必要なのではないか。多くの人にそれに気づいてほしいと願ってやみません。

 

WBCの優勝に思う

2023年のWBC(World Baseball Classic)は日本の優勝で幕を閉じました。予選のときからドキドキに耐えることができなかった私は、日本の選手達の奮闘ぶりをリアルタイムで見ることができませんでした。翌日、日本が勝ったことを確認してから、YouTubeで試合のダイジェスト版を見るのが精一杯。毎試合、毎試合、そんな具合でしたが、さすがの私もメキシコ戦での奇跡的な逆転劇と、まるで劇画を見ているかのような大谷対トラウトの一騎打ちには興奮しました。今回のWBCはこれまでで一番印象深い大会だったと思います。

プロとアマチュアの差は大きいかも知れませんが、プロ選手間の能力の差はわずかです。とくにWBCに出場するほどの超一流の選手ともなればその能力にはほとんど違いはありません。あとは「運の差」だけだといっても過言ではないでしょう。とはいえ、「運も実力のうち」です。大谷選手といった超一流といわれるプレイヤーのパフォーマンスは、自分の能力を極限にまで高めようとする強い意志と不断の努力があってはじめて「運」さえをも呼び込むことができるんだということを教えています。

初の日系人メジャーリーガーとして選ばれたラーズ・テーラー=タツジ・ヌートバー選手の母親は日本人。彼が9歳のとき、ヌートバー家は日米親善試合のためにアメリカに遠征してきた高校野球の日本人選手をホームステイさせました。それをきっかけに少年ヌートバーは「日本の代表選手として野球で活躍したい」という夢を抱いたといいます。そして、その夢を夢として終わらせることなく、リトルリーグから高校、大学、そして、大リーグへと努力を続けた結果が彼の長年の夢であった日本代表選出につながりました。

それにしても大谷選手は、いち選手としてだけではなく、日本チームのまとめ役として欠くことのできなかった存在でした。日系人のメジャーリーガーであるヌートバー選手を招集することも、当初は賛否両論だったといいます。しかし、大谷選手がヌートバーと他の選手達の間に介在することによってチームの結束を高めることにつながったようです。大谷選手が幼い頃から選手としても、また人間的にも秀でた野球少年だったことは周知の事実ですが、それは彼の努力に裏打ちされたものだということも忘れてはいけません。

野球はチームプレイのスポーツです。しかし、投げるだけ、打つだけの成績を残そうとすれば、個人の能力を高めることでそれなりの数字を残すことができます。チームとして負けようが、投手としての、あるいはバッターとしての成績で満足することは可能なのです。今回のWBCが今までになく面白く、充実した大会だったと感じるのは、いずれの試合でも日本チームが一丸となって戦い、最後の最後まであきらめずにプレイし、すべての選手が自分にあたえられた仕事をしっかりこなす姿が垣間見られたからです。

そうしたことを選手達自身も感じていたようです。岡本選手は記者会見で「野球はこんなに楽しいんだと思った」と感想を述べています。この言葉に会場にいる人たちから笑いが沸き起こりましたが、彼は心底そう思っているんだろうと思います。小さい頃から際立った選手だった彼も、その道のりのかなりの部分が「人から強いられたもの」だったのかもしれません。ときには体罰があったかもしれませんし、「なぜ自分は野球をしているのか」という疑問を感じながらプレイしていたときもあったかもしれません。

岡本選手の「楽しかった」という感想は、チームとしての一体感を感じながら、「優勝」という目標に向かって努力することの楽しさをはじめて知ったという意味なのでしょう。人に指示されてではなく、また、人に強制されてでもなく、自分がなにをしなければいけないのかを主体的に考える野球ができたということを彼の言葉は物語っています。チームプレイのスポーツの醍醐味はそこにあります。近年のアメリカのメジャーリーグが面白くないのは、チーム野球というよりも選手個人の野球が目立ってしまったからでしょうか。

今回のWBCの対メキシコ戦を観終えたとき、私は2015年のラグビーW杯「日本VS南アフリカ戦」を思い出しました。試合終了まであと少しとなったとき、日本はペナルティーゴールで点をとれば強豪南アフリカと引き分けにできるチャンスを得ました。しかし、日本チームはそのままスクラムを組むことを選択します。スクラムから逆転ゴールという可能性に賭けてのことでした。南アフリカに勝つことは容易なことではありません。しかし、引き分けよりも勝利に賭けた日本は、その後奇跡的な逆転劇を演じることになりました。

W杯16連敗であり、ランキング13位の日本がランキング3位の南アフリカを相手にスクラムを選択し、土壇場で逆転できたのは、おそらくチームとしての完成度を選手達自身が感じていたからだと思います。ラグビーではよく「one for all, all for one(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)」という言葉が使われます。まさにこの言葉通りのチームであり試合だったからこそ、あの奇跡的な逆転勝利につながったのでしょう。W杯での勝利のために積み重ねてきた努力が呼び寄せたワンシーンだったのでしょう。

大谷はファイターズに在籍していた時、不甲斐ない選手を前にこう鼓舞したといいます。「遊びたい。飲みたい。いろいろやりたい。そんなので優勝できるわけがない。勝ちたいなら野球をやるしかないんです」と。個人としてあれだけの成績をおさめてもなお、チームとしての勝ちにこだわる大谷翔平選手。彼は今回のWBCでときに感情をあらわにしていました。これまでにはなかったことだといいます。でも、私には、大谷選手が、他の日本選手を鼓舞するためのパフォーマンスを意識的にしていたように見えました。

同じく今回の優勝に貢献した近藤選手はかつて、自分のチームの監督に就任した新庄監督の「優勝なんか目指しません」という言葉に反発しました。「勝った方が楽しい。勝つことによって自分のレベルがあがるんだ」と反論します。その後のファイターズは、新庄監督がいった通りになりました。彼は「(今のチームは)連勝もすれば連敗もするという典型的に弱いチーム。そもそもチームが勝とうとしていないのだから」とコメントしています。そして、彼はその後、ソフトバンクに移籍してしまいました。

私がまだ熱心に野球を観ていた子どもの頃、巨人のような常勝チームがある一方で、大洋やヤクルト、ロッテといった負けてばかりのチームがありました。巨人のように資金力のあるところは、力のある選手を集めることが容易でした。おそらく、チーム内は勝つのがあたりまえの明るい雰囲気に満ちていたことでしょう。しかし、「負け癖」のついていたチームでは、「勝つんだ」「負けないぞ」という執念のようなものが欠けていて、選手自身がモチベーションを高め、それを維持することはさぞ難しかったに違いありません。

モチベーションの低い環境の中で努力することの困難さは想像を超えます。今ではドラフト制度が改革され、お金にものをいわせて有力選手をかき集めることが難しくなっています。そして、それはチームの力を均等化することに貢献し、常に勝ち続け、ダントツの1位で優勝するチームも以前ほどはいなくなってきました。また、かつては負け続けて「弱小」と呼ばれていたチームの選手たちのモチベーションを高めることにもなっているはず。「頑張れば勝てるかもしれない」という思いが原動力になっているからです。

最近は「頑張らなくていい」という耳障りのいい言葉をよく耳にします。「なぜ一番でなければいけないのか」とか、「根性とかいう言葉が嫌い」とか言う人もいます。もちろん、それでもいいのです。事実、頑張らなくてもいいし、一番でなくても、根性をもっていなくてもいいのですから。しかし、「悪しき平等主義」は一番になることや、一流になろうとすることをも否定します。それはまるで頑張っている人さえ否定しているかのようです。平等主義とは平等を強いることではなく、違いをリスペクトすることのはずです。

機会の平等主義というのもあります。チャンスはすべての人に等しく与えられるべきだという考え方です。とはいえ、チャンスは平等でも、結果が同じとはかぎりません。能力のある人は、その能力に応じた結果を得ていいはずです。その一方で、能力の違いを努力でカバーすることには限界があります。でも、その格差は決して不平等ではありません。ましてや差別などではありません。今回のWBCの試合を観たり、出場選手たちの思いに耳を傾けてみると、目標に向かって頑張ることの尊さ、あるいはお互いの違いをリスペクトすることのすばらしさを改めて感じます。そして、自分の夢や理想を体現している一流の人たちから、私たちもなにかを学ぶことができるような気がします。

とある父子の会話

とある家庭での会話です。他意はありません。とにかく聴いて(読んで)ください。

子:「新型コロナのワクチンって結局意味がなかったよね」

父:「なんでそう思うんだい?」

子:「だってあれだけの数の国民がワクチン打っても感染が治まらないじゃない」

父:「感染が治まるなんてのはまだまだ先のことさ」

子:「そろそろ勘弁してほしいよ」

父:「ほんとだな。日本だけじゃなく、世界中の人がそう思ってるだろうね」

子:「ワクチンを打ってもこうなるんだから、ワクチン接種なんてやめちまえばいいんだ」

父:「打ちたくなければ打たなくてもいいんじゃないか」

子:「今さらなんだよ。以前はワクチン接種を勧めていたくせに」

父:「『ワクチンなんて意味がなかった』って本当に思ってるんだね」

子:「逆に聴くけど、意味あった?」

父:「そりゃあったさ。ワクチン接種の効果は科学的にも示されているし」

子:「それじゃ、なぜ、今、こんなにたくさんの人が死んでいるのさ」

父:「怖い?」

子:「怖いに決まってるよ。この間の新聞にだって『過去最多の死者数』って書いてあったし」

父:「現象のほんの一面しか見てないとそう思うだろうな」

子:「どういう意味?」

父:「よく考えてごらん。100人の人が感染して1人の死者が出るのと、10000人の人が感染して
100人の死者がでるのとで違いがあるかい。どちらも致死率1%なんだよ。新聞が書いたように
後者は前者の100倍の死者数と大騒ぎするようなことじゃないでしょ」

子:「でも、感染者数は100倍になっているということは事実だと思うけど」

父:「その通り。それならそう書くべきでしょ。『感染者が100倍になった』とね」

子:「でも・・・」

父:「『感染者が100倍になった』という伝え方ではなく、『100倍の人が死んだ』と伝えるのは
間違っている。『100人の人が死んだ』かもしれないけど、『100倍の人が死んだ』わけじゃない
んだから」

子:「それなら『100倍の人が感染した』ってことは問題じゃないの?」

父:「状況によっては問題だろうね。たとえば新型コロナウィルスの感染がはじまったときのよう
  に致死率が比較的高いままの状況が続いているなら感染者数が増えるのはもちろん問題だよ」

子:「今の致死率は低いの?」

父:「そうだよ。今のオミクロン株は従来の季節性インフルエンザよりも致死率は低いとの言われ
ているんだ。そもそも感染当初の新型コロナウィルスと今のウィルスは似て非なるものといえ
るかも。だって遺伝子がかなり変異してきているからね」

子:「遺伝子が変異すると感染力は高まるけど、致死率は低下するってこと?」

父:「一般的にはその傾向があるとされている。でも、今の致死率の低下にはワクチン接種が広く
おこなわれたことも大きく寄与しているだろうね」

子:「『ワクチン接種をしても結局は感染しているじゃないか』って言っている人たちもいるよ」

父:「いるだろうな。でもそれは当たり前なんだよ」

子:「ええっ? 当たり前って・・・」

父:「だって今流行しているのはBA.4、BA.5といわれる遺伝子型をもつウィルス。でも、多くの
人が接種してきたワクチンはそれには対応していないんだからね。効果が限定的になっても
仕方ない側面もある」

子:「ワクチンを打ったのに感染してしまったら・・・」

父:「そもそもワクチンの効果には感染予防という側面と重症化予防という側面がある。新型コロナ
ウィルスのワクチンに限らず、完全に感染は予防できないものなんだ」

子:「感染してしまうワクチンなんて意味が・・・」

父:「感染を完全に予防できればいいけど、重症化を予防することの方が重要じゃないか。実際に
今の感染状況は『感染者は多いが、重症化する人は比較的少なく、亡くなる人はもっと少ない』
っていえる。これはワクチン接種を広くおこなった結果なんじゃないかな」

子:「中国はワクチンを接種してきたのにあれだけの人が死んでるよ」

父:「日本とはワクチンの接種率も違うし、ワクチンの種類も違うからね。中国製の不活化ワクチン
は、日本が使用しているmRNAワクチンよりも効果が低いとされていたからね」

子:「感染者もあれだけ増えて、薬屋さんから解熱剤がなくなったみたいだね」

父:「船戸内科医院の先生から聞いただろ。『むやみに解熱剤使わないように。発熱も大切な生体
反応だよ』って」

子:「TVで言ってることとちょっと違うことをいうから信じていいのかわからない」

父:「まともな医者は船戸内科医院の先生と同じことを言ってるみたいだぞ」

子:「結局、ワクチンは打った方がいいの?」

父:「致死率が低下した今となっては個人の判断だろうな。打たなければ感染確率も、重症化する
危険性も高くなる。接種しない人はそうしたことを受容した上で、さらに他人にうつさない
ようにことさらに配慮しなければいけないよね」

子:「『他人のためにワクチンを接種するのはゴメンだ』といっている人もいるね」

父:「残念だけど、そういう人がいても仕方ない」

子:「今の新型コロナは風邪みたいなものだから、ワクチンを接種しなくてもいいのかな」

父:「ワクチンを接種したおかげで、新型コロナに感染しても風邪程度の症状ですんでいる人が多い
みたいだね。でも、コロナに感染したのに自分は風邪だと思って感冒薬を飲んで会社や学校に
行く人がいて、そういう人たちがまわりに感染を広げているんだよ」

子:「船戸内科医院の先生は『風邪薬は風邪を治す薬じゃないんだから、こちらもむやみに服用
しないように』って言ってるね」

父:「風邪薬で症状が軽くなると『治った』って思っちゃうからね。だから、今は風邪症状があれば
新型コロナに感染したと思うべきで、そのかわり心配せずに自宅内隔離で安静にしていればいい
ようだね」

子:「すぐに検査をすれば安心だしね」

父:「いやいや。船戸内科医院のブログにも書いてあったけど、検査は『一番怪しいときにする
もの』らしいぞ。陽性のときにのみ意味があって、陰性だからと言って『コロナじゃない』
って証明にはならないらしい」

子:「ということは検査も意味がないってこと?」

父:「そうじゃない。重症化しそうなとき、つまり、肺炎になってしまったかもってときにこそ
検査が必要だってことらしい」

子:「でも、熱があると学校からすぐに『検査をしたか?』ってすぐに聞かれる」

父:「学校や会社はアリバイ主義だからな。検査の意味がまるでわかってないんだよ」

子:「検査をしないと学校にもいけないからなぁ」

父:「本来、風邪症状があったら学校や会社を休むべきなんだよ。他人にうつしちゃうからね」

子:「学校より病院にいくべきってことだね」

父:「でも、本来、風邪であるにせよ、新型コロナにせよ、特効薬なんてないからね」

子:「薬がない?」

父:「そう。基本的には家で安静にしていればいい。そうするしかない」

子:「それならなんでみんなは薬をもらいに病院にいくの?」

父:「それは『ツラい症状』を軽減する薬をもらいにいくんだよ」

子:「症状がつらくなければ薬はいらないってこと」

父:「そのとおり。家で安静にしていればいいだけ」

子:「それで具合が悪くなったらどうするのさ」

父:「そのときはかかりつけの医者に電話で相談すればいい」

子:「TVでは『風邪症状がでたら早めに病院へ』っていってるけど」

父:「早めに病院へ行ってなにをするんだい?」

子:「そんなこと素人にはわからないさ」

父:「病院に行くだけで、人からうつされたり、人にうつすリスクがある」

子:「なにがいいことなのかわからなくなりそうだ」

父:「確かに。でも、船戸内科医院のブログをもう一度読み直して整理してみたらどうだい」

子:「うん。そうするよ」

いい会話ですね。では、皆さん、くれぐれもご自愛ください。

昭和、大好き。

今回はちょっと雑ぱくなことをだらだら書きます。

昭和レトロがいちぶの人たちの間でブームになっているというニュースを目にしました。その「いちぶの人たち」とはおそらく私のような「昭和ど真ん中の世代」なのでしょう。今よりも不便なことも、理不尽なことも、残念なことも多かった時代ではありましたが、昭和には多くの人たちに夢や希望があり、「明日は今日よりいい日になるかも」という思いがあったように感じます。

今という時代はいろいろな意味で社会が成熟しているといえなくもありません。機会の平等や豊かな生活が世の中の隅々に行き渡り、多様な生き方さえもが許容される寛容な社会になったともいえます。しかし、その一方で「義務よりも権利」という意識が強くなり、昭和以来の価値観が徐々に変質して、「社会よりも個人」「自由から混沌へ」と大きな振れ幅で変化しつつあることに戸惑うことも少なくありません。

現代社会は自由と平等が尊重される一方で「格差社会」をも生み出しました。チャンスも努力次第で平等になりましたが、富は富める者に集まる傾向がさらに強まっているように思います。富める人たちがその経済力にふさわしいお金の使い方をするかといえば決してそうではありません。デフレの時代に染みついた「節約・倹約・清貧」「よいものをより安く」という価値観は富裕層にまで浸透しています。

大量消費社会を必ずしもいいとは思いません。と同時に、SDGs(持続可能な開発目標)というスローガンも素直に受け入れることができません。今の日本に広く漂っている「閉塞感」は、社会にながれるお金が一部の人たちに偏在し、流動性が阻害されていることから生じているように思えます。お金のある人がもっとお金を使い、「良いものがより高く売れる社会」にしていかなければならないと個人的には思います。

イギリスのベンサムは「最大多数の最大幸福」という社会のあり方を主張しました。多くの人が幸福感を感じる社会を善とするこの考え方を功利主義といいますが、この思想はあたかも今の社会のあり方を批判しているかのようです。なぜなら現代は「上位1%の富裕層が世界の個人資産の40%近くを所有する社会」であり、「コロナ禍にあって富裕層はさらに裕福になっている」という矛盾をかかえているからです。

昭和は「みんなが貧しかったが、みんなが明日を信じていた時代」だったように思います。いろいろな不自由さに我慢を強いられることもありましたが、行き過ぎたポリティカルコレクトネスが幅を効かせる今より人々の心の中はもっと自由だったかもしれません。その意味で昭和は「各人が少しづつ我慢をしながら全体として調和をとっていた功利主義的な時代」だったといえるかもしれません。

これまでの歴史を振り返ると、民主主義が発達していない独裁国家は、自国民の幸福よりも国家の覇権を求めます。それはフランスのナポレオンも、先の大戦のナチス・ドイツもそうでした。プーチンは「ウクライナのネオ・ナチを掃討する」とウクライナに侵攻しました。しかし、彼のやっていることはナチズムそのものです。真の民主主義が育っていないロシアの国民にはそれを止めるすべがありません。

ロシアがはじめた戦争は、ウクライナからの予想外の反撃によって長期化する気配です。武力による国境の変更という暴挙はヨーロッパのみならず全世界にも暗い影を落としつつあり、まさに第三次世界大戦さながらといえるかもしれません。先の大戦でたくさんの自国民を犠牲にし、その後も決して国民を幸福にはしなかったソビエトの地に人権を尊重する真の民主主義はなかなか育たないようです。

先日の新聞に昭和天皇に仕えた武官の日記が公開されたという記事が掲載されていました。敗戦が濃厚となったころの日本は、まるで今のウクライナと同じように、国土は荒廃し、たくさんの国民が犠牲になっていました。その時の昭和天皇のご様子を記録した日記は「昭和天皇実録」にも収載されていないらしく、これまで知られていたものとは異なる陛下のご心情を垣間見ることができます。

その日記によれば、このまま戦争を継続すれば、さらに多くの国民を失い、国土を荒廃させ、戦後の復興が困難になることを昭和天皇が憂いておられたとのこと。また、出撃する若い特攻隊員たちが辞世の寄せ書きをする様子を紹介したニュース映画をご覧になりながら涙をぬぐっておられたそうです。皇祖皇宗から引き継いできた国民・国土のことを考えて忸怩(じくじ)たる思いだったに違いありません。

以前のブログにも書きましたが、昭和天皇は皇太子になられてすぐ第一次世界大戦直後の荒廃したヨーロッパを歴訪されました。これは「将来の国家元首として戦争がいかに悲惨なものかを知っておくべきだ」と考えた西園寺公望や東郷平八郎たちの発案だったとされています。西園寺や東郷自身も幕末から明治にかけて全国で勃発した内戦の厳しい現実を身をもって体験してきたからだと思います。

当時、皇太子だった昭和天皇の目には、破壊の限りをつくした町並みはどのように映ったでしょうか。また、戦禍を乗り越え、復興に向けて立ち上がろうとするヨーロッパの人々の姿をどう思ったでしょうか。陛下は中国大陸への戦線拡大に反対しました。しかし、そのご意志に反して日本は日華事変に突入してしまいました。それほどまでにソ連の南下政策が日本の安全保障を脅かしていたからです。

少し話しはそれますが、戦後、GHQの最高司令官となったダグラス・マッカーサー元帥も第一次世界大戦のときヨーロッパにいました。アメリカ軍の参謀だった父親とともにヨーロッパに滞在していたのです。モンロー主義という孤立主義に徹していたアメリカは、それまでヨーロッパの戦争には関与しない態度をとっていました。しかし、大戦がはじまるとアメリカはその方針をひるがえして参戦を決めたのです。

マッカーサーは第一次世界大戦末期のヨーロッパにおいて、敗戦の色濃いドイツ帝国からほうほうの体でオランダに亡命する皇帝ウィルヘルム2世の姿を目の当たりにしました。自らの責任を放棄し、何両もの貨車に財産を積み込んで逃げていく国王。彼はオランダへの亡命後もしばらく皇帝からの退位をも拒否しました。亡命の責任は自分にはないというのが理由でした。そんな国王をマッカーサーは軽蔑しました。

第二次世界大戦後、日本に着任したマッカーサーは、昭和天皇から面会を求められたとき第一次大戦時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世を思い出したといいます。陛下が自分の命乞いと財産の保護を求めてやって来るのだと確信していたのでしょう。だからこそ陛下を玄関で出迎えもせず、ノーネクタイで面会するという非礼をあえてしたのです。しかし、実際に目の前にした昭和天皇は違いました。

「天皇の名の下で戦った人々に寛大な措置をお願いしたい。そして、戦争で疲弊し、満足に食べることすらできない日本国民を飢えから救ってほしい。そのためであれば私はいかなる責任をも負うつもりである」と昭和天皇は震えながらマッカーサーに語ったといいます。マッカーサーはそんな陛下に衝撃を受けながら、かくも尊敬すべき天皇であるがゆえに日本人は敬愛してやまないのだと理解したといいます。

マッカーサーは父親の代からフィリピンに利権と財産を所有していました。しかし、南進する日本軍の攻勢にマッカーサーはフィリピンから脱出せざるを得なくなりました。たくさんのアメリカ兵を残して去って行く彼は、自らの莫大な財産とともにアメリカ国民からの尊敬を失ったのです。マッカーサーはこのとき日本への復讐を誓いました。「I shall return(私は必ずここに戻ってくる)」という言葉とともに。

日本への復讐を誓ったはずのマッカーサーの気持ちが変わったのは、昭和天皇のお人柄に触れたところも大きかったのでしょう。また、荒廃した国土を立て直すために黙々と努力する日本人を間近で見てきたからかもしれません。マッカーサーは朝鮮戦争の処理をめぐってトルーマン大統領と対立し、6年でGHQ最高司令官の任を解かれましたが、帰国後の1951年米国議会上院軍事外交合同委員会で次のように証言しました。

「日本には蚕を除いて国産の資源はほとんどない。彼らには綿も、羊毛も、石油製品もなく、スズも、ゴムも、その他の多くの資源がないのだ。それらのすべてのものはアジアの海域に存在していた。もしこれらの供給が断たれれば一千万人から一千二百万人の失業者が生まれることを日本政府は恐れていた。以上のように、彼らが戦争を始めた目的は主として安全保障上の必要に迫られてのことだった」。

マッカーサーのこの証言は、サンフランシスコ平和条約の締結を後押しし、早期に日本の主権が回復することに貢献しました。ちなみに、マッカーサーは東京裁判で強まる天皇への戦争責任論を一蹴しました。また、靖国神社を焼き払うという計画が検討された際にも、ローマ教皇庁代表でもあったビッテル神父の「排除すべきは国家神道制度であり靖国神社ではない」という意見を聞き入れ神社の存続を決めたとされています。

1926年からの「昭和」は激動の時代でした。第一次世界大戦後の好景気は長続きせず、世界は大恐慌におちいります。日本は台湾と朝鮮を併合し、満州国を建国し、それらの地域のインフラを整備するために多額の投資をしました。それは日本本国にとってあたかも「母屋で粥を食い、離れですき焼きを食らう」と揶揄されるほどの負担でした。その結果、もともと資源も産業もない日本は世界恐慌の影響をもろに受けました。

そんな世界情勢の中で、日本は南下するソ連と対峙するべく大陸に進むか、東南アジアの資源を確保して来たる戦争にそなえるかを決められないまま米国との戦争に突き進みます。これはソ連がドイツ戦に集中するため、日本とアメリカとを戦わせるようコミンテルンが工作した結果だといわれています。日本の中枢にも、あるいは米国の閣僚にもソ連のスパイが少なからずいたことが今では知られています。

話しはだいぶそれましたが、思えば、こうした近現代史のなかの出来事も、私が生まれた1960年のたった15年前かそこらのこと。そう考えると、大東亜戦争(太平洋戦争)は私の知らない遠い昔のできごとではないことを実感します。私が生まれるたった100年前の日本だってまだ江戸時代。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたころです。教科書のなかでしか知らない歴史が意外に自分と近いことに驚きます。

そういえば、私がまだ小学校にもあがっていなかったころ、東京都葛飾区の亀有にあった警察の家族寮に住んでいました。が警視庁に務めていたからですが、その寮には我が家と同じような警察官の家族が同じ屋根の下に暮らしていました。決して広くもない部屋にひと家族が肩を寄せ合うように生活していたのです。部屋に台所はなく、一階に共同で使う台所があって床は土間になっており、スノコが敷き詰められていました。

トイレはくみ取り式で共同。キンカクシには木でできた蓋がいつもかぶせてありましたが、用を足すときには落ちそうな気がしてとても怖かったことを覚えています。このころの道路はまだ舗装されておらず、各戸の塀はおおむね木の板でつくられた簡単なものでした。そして、街のいたるところにこれまた木製のゴミ箱が設置してあり、ときどき「くず屋さん」と呼ばれる人が回収に来ていました。

私の住んでいた警察寮は古く、ちょっとした強風でも壊れてしまいそうな建物でした。そのためか、台風が近づいてくると寮の近くにあった大きな民家に子ども達は避難させられました。このお宅は広いお庭があるしっかりした建物でしたので、外で強風が吹いていても安心感がありました。子ども達みんなでろうそくの火を囲んで台風が過ぎるのを待っていたときの光景を今でも思い出します。

当時はまだ机と椅子の生活ではなく、狭い部屋の真ん中には丸いちゃぶ台が置いてありました。私の両親は新しいもの好きだったので、当時は高価だった白黒テレビとステレオがありました。テレビで放送される「怪傑ハリマオウ」や「ビックエックス」、「エイトマン」といった子ども向け番組に夢中でしたし、四本足のステレオから流れるクラッシックを聴きながら指揮棒をふっていたことを思い出します。

私が小学生のころにはまだ「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいました。戦地で大きな怪我を負い、腕をなくしたり、義足をつけていたり、なかには目や顔を負傷していたりと、ハンディを抱えながら生きている元兵士が道行く人たちに義援金を求めるのです。繁華街で軍帽と白い着物の人たちが自分の障害をさらしながら地面に四つん這いになっている姿は子どもの目には恐ろしく映ったものです。

繁華街にでたり、お祭りにでかけると、こうした傷痍軍人をよく見かけました。高度経済成長の時代となった当時の風景に「戦争」を感じるものはほとんどありませんでした。でも、街角に立っているこの傷痍軍人だけは暗くて悲しい戦争の痕跡を子どもたちに感じさせるのに十分でした。そして、その光景は、私の心のなかに戦争の勇ましさではなく、戦争のみじめさを植え付けたように思います。

1955年の国民総生産が戦前の水準を超え、翌年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれたことはよく知られています。私たちの世代は、先の大戦がまだ影を落とす中、経済大国へと成長を続ける日本とともに子ども時代を過ごしました。やがて日本は「ジャパン・アズ・ナンバー1」となり、バブル景気を迎えたのです。しかし、そんなときに昭和天皇が崩御されると、日本は一転して長いデフレの時代に突入します。

振り返ってみると、私のなかの昭和にはいつも昭和天皇がおられたように思います。昭和のどの時代を思い出しても、当時の昭和天皇のお顔が浮かぶのです。無知蒙昧だった高校生のころ、私は「天皇は国民の象徴なんだから、国民から選んだらいい」と言ってはばかりませんでした。天皇陛下や皇室が日本にとってどのようなご存在かを考えたこともなかったからです。今思うと本当に恥ずかしいことでした。

大人になっていろいろな本や資料を読み、日本の歴史を調べれば調べるほど、昭和天皇がいかに偉大な方だったかがわかりました。「激動の昭和」と簡単にいいますが、その大きな歴史の渦のなかで生きてこられた陛下の87年間がいったいどのようなものであられたのかは想像を絶します。「皇族もひとりの人間」という人がいますが、昭和天皇のご生涯は皇族が決してそんな卑俗な存在ではないことを示しています。

今の皇族のあり方については私なりに疑問に感じる部分があります。それはまたの機会に開陳しようと思っています。それはともかく、私は昭和を単なるノスタルジーとしてではなく、日本人としての誇りを覚醒させる時代として好きです。天皇というとてつもない重圧のかかる地位でありながら、不平も不満ももらさずに務めあげられた昭和天皇がおられたからこそ、私の中の昭和がいつまでも輝いているのかもしれません。

 

信仰とはなにか

今回は信仰について書きます。我が家(というよりも瀬畠家)は先祖代々仏式の葬儀・葬式をしており、亡くなった父親も仏式の墓に眠っています。しかし、私自身が仏教徒かと問われれば、仏教のなんたるものかについての知識はほとんどありませんし、仏教徒といえるほど功徳を積んでいるわけでもありません。宗教とはなにか、信仰とはどのようなものかすらわかっていないと思います。にもかかわらず今回信仰について語るのは不適切かもしれません。また、すでに信仰をもっている方たちにとって不快なこと、あるいは陳腐なことを書いてしまうかもしれません。そのときは、信仰を持たぬ者のたわごとだと思ってお許しください。

先日、2017年に公開されたマーチン・スコセッシ監督の米映画「沈黙-サイレンス」を観ました。この映画の存在はそれとなく知ってはいましたが、さほど興味・関心はありませんでした。「クリスチャンである欧米人から見た【可哀そうな隠れキリシタンの弾圧】を描いたもの」と決めつけていたからです。欧米人の日本人あるいは日本に対する偏見で描いた映画などたかが知れていると。そして、「当時の日本人がどのような思いで隠れキリシタンとなり、どのような思いで彼らを取り締まったのかなど欧米人には理解できまい」とも思っていました。しかし、そうした私の思い込みはいい意味で裏切られました。

この映画の原作は遠藤周作の小説「沈黙」です。ご存じのとおり遠藤周作自身もカトリック信者であり、「イエスの生涯」や「深い河」といった宗教あるいは信仰に関わる本を何冊も執筆していることで知られています(「深い河」は私の好きな一冊で、当院待合室の書棚にもおいてあります)。監督であるマーチン・スコセッシは遠藤周作のこの原作を読んで以来、ずっと映像化することを切望してきたといわれるだけあって、日本人が観てもまったく違和感を感じない映画になっていました。単なる「宗教弾圧」を描くのではなく、宗教とはなにか、日本人にとって信仰とは、という深くて重いテーマを問いかけた力作だと思います。

映画「沈黙-サイレンス」は17世紀の日本が舞台です。誰もがイエズス会のエースと認める宣教師が日本で行方知れずになります。 キリスト教を捨て、日本人として暮らしているというのです。彼に教えを受けた宣教師ロドリゴは、ガルベ神父とともに恩師を探しに日本に密かに上陸します。しかし、彼らが目の当たりにした日本の禁教政策と隠れキリシタンの現実は、二人の信仰そのものの意味を問いかけるものでした。この映画で一番印象に残ったのは、隠れキリシタンに棄教を迫り、踏み絵を拒む者は容赦なく絞めあげる奉行(この奉行もかつてはキリシタンでした)の言葉です。

The price for your Glory is their suffuring(お前たち宣教師の栄光の代償は彼らキリシタンたちの苦しみなのだぞ).

以前の記事でも紹介しましたが、イエズス会はキリスト教の「武闘派」と呼ばれるほどローマ教皇・ローマ教会に忠実な宗派でした。キリスト教を広めるためであれば自らの命も惜しまない宣教師たちばかりです。教皇の命(めい)を受ければどんな辺境の地へも進んで布教に向かいます。当時は宗教改革の真っただ中でした。キリスト教の権威・権力が高まるとともに、教会は腐敗し、金欲にまみれたものになっていきました。しかし、そうした教会の堕落を憂いた人たちが、信仰の中心は教会ではなく聖書にあるとする「聖書中心主義」を主張してカトリック教会と対峙します。それがのちにプロテスタントと呼ばれる人たちでした。

プロテスタント信者はその後急速に数を増やしました。危機感をもったカトリックは、信者の獲得を目指してたくさんの宣教師を海外に送りました。日本にもカトリック宣教師が送られてきました。フランシスコ・ザビエルはそのひとりです。ザビエルはイエズス会創設当時からのメンバーであり、イエズス会を代表する宣教師でした。当時、黄金の国だと信じられていた日本をキリスト教の国にすることは、イエズス会を保護していたスペインの覇権を広げることにもなります。植民地から香辛料やばくだいな銀を得てスペインは栄えました。布教の急先鋒としてのザビエルには大きな期待がかけられていました。

日本にやってきたザビエルは、日本人の生真面目さ、几帳面さ、そして主(あるじ)への忠実さを目の当たりにし、「日本人ほどキリスト教徒にふさわしい国民はいない」と本国に報告しました。実際、ザビエルの布教によってたくさんの日本人がキリスト教徒になりました。 それにともない、長崎周辺から神社仏閣が消え、教会が次々と建てられるようにもなったのです。 イエズス会は、キリスト教を日本に根付かせるために、九州のキリシタン大名に大砲や弾薬を与え、長崎周辺を要塞化することを密かに考えました。しかし、こうしたイエズス会の方針は、やがて秀吉たち日本の為政者たちにキリスト教に対する猜疑心を植え付けることになります。

大村・有馬などのキリシタン大名の動向に危機感をもった秀吉は、それまでのキリシタン容認という態度を一転させ、1587年、伴天連追放令を出してキリスト教の布教活動を制限しました。そして、追放令にもかかわらず大坂を中心に関西地域で布教活動をしていたキリシタンたちを次々と逮捕したのです。キリシタン大名とも親交のあった石田三成が、逮捕されたキリシタンたちに同情し、170名もの人たちに恩赦をあたえました。しかし、最後まで信仰を捨てようとしなかった、6名の外国人宣教師、6名の日本人宣教師、そして5名の未成年者を含む計24名のキリシタンは、途中で自らの意志により殉教に加わることになった2名とともに長崎に送られ処刑されました。いわゆる日本二十六聖人の殉教者です。

時代は江戸に代わってもキリシタンに対する厳しい取り締まりは続きました。幕府は1614年に禁教令を出してキリスト教の全面禁止を打ち出し、キリシタン大名たちは改宗・改易を強制され、なかには追放される者すらいました。そして、キリシタン大名に仕えた多くの家臣たちが浪人となりました。こうした幕府の方針は、キリシタンの潜伏化をもたらし、キリシタン大名に仕えた浪人たちの不満を高めることになったのです。その不満が頂点に達して起こったのが1637年の島原の乱です。3万7千人ものキリシタンが、有馬氏が改易して主(あるじ)を失った原城にたてこもって12万の幕府軍と対峙したのです。中には幕府側の説得に応じてキリスト教を棄教して城をあとにする者もいました。しかし、最終的に籠城を続けた2万6千人が戦死しました。

映画「沈黙-サイレンス」の中で、隠れキリシタンたちに棄教させようと、奉行らは繰り返し「形だけでいいのだ。軽く踏むだけでいいのだ」と諭す様子が描かれています。 当時のキリシタンの中には、家族が、あるいは村の多くの人々がキリシタンになったという理由から、心ならずもキリシタンになった人も少なくありませんでした。ですから棄教を諭されると、それに素直に応じるキリシタンも少なからずいたのです。 そもそもキリシタンを見つけ出す絵踏みは幕府が強制したものではありません。 取り締まり自体は必ずしも厳しいものばかりではなく、取り締まりには地域差があったともいわれています。

映画では、生きるために仕方なく絵踏みをしてしまうキチジロウというキリシタンの漁師がでてきます。彼はキリシタンでありながら、イエスの肖像を踏んでしまった「罪」に苦しみ、宣教師ロドリゴに「告白」をして許しを乞います。彼の家族は絵踏みをしなかったために火あぶりにされました。しかし、取り締まりから逃れて生き延びるため、なんどもなんどもこの「罪」を繰り返すキチジロウ。そのたびに涙をながして許しを乞いながら、繰り返し主イエスの肖像を踏みつける彼のことをロドリゴは理解できませんでした。それでもロドリゴはキチジロウの告白に耳を傾け、何度も「罪」を繰り返す彼を許すのです。

またロドリゴは、捕らえられ、命と引き換えに棄教を迫られる農民たちが平然としているのを目にします。「おまえたちは殺されるかもしれないのになぜ平気なのか」と怒りをあらわにするロドリゴ。するとひとりの娘が答えます。「かつてパドレ(神父)が言っていました。天国には苦役も重い年貢も、病気も苦痛すらもない。いつもそばに神さまいらっしゃる幸福な場所が天国だと。そんなところに行けることはいいことなのでは?」と。ときに笑顔でそう言って疑わない娘をロドリゴは複雑な目でながめます。そのまなざしはまるで「そんなことを本当に信じているのか」といっているように私には見えました。

そのとき、キリシタンを取り締まる奉行が宣教師に吐き捨てるように言うのです。「あの愚かな百姓どもは自分のあたまで考えることができないのだ。あやつらをいくら責めても彼らは改宗はしない。やっかいな事態になるばかりじゃ。むしろお前たち宣教師を棄教させるのが一番だということがわかったのだ」と。いくら棄教をせまってもキリシタンは信仰を捨てようとしません。責められ、たとえ命を落とそうとも信仰を捨てようとしないのです。しかし、それは宣教師たちのいいつけをかたくなに守るキリシタンたちの純粋さが故のこと。奉行らはそうしたことに気づき始めたのです。

The price for your Glory is their suffuring(お前たち宣教師の栄光の代償は彼らキリシタンたちの苦しみなのだぞ).

人に幸福をもたらすはずの信仰によって苦しむという現実。そんな現実を目のあたりにして、主人公の宣教師ロドリゲスは悩みます。自分がキリスト教を棄教しなければ罪なき人が命を失っていく。自分はなんのために主イエスに仕え、この貧しき善良な人々を導いているのだろうかと自問するのです。「主よ、あなたはなぜ黙っておられるのですか」と。目の前で拷問にあっているキリシタンたちのうめき声を聴きながら耐えるロドリゴ。突然、主イエスの声が聴こえます。「私を踏むのだ。汝らの苦しみを救うために私は使わされたのだ」と。この声は主イエスのものなのか。それとも彼自身の心の声だったのか。

この映画はたんなる「隠れキリシタンの弾圧」を描くものではありません。宗教とはなにか、信仰はなんのためにあるのか、という根源的な問いかけをしているように思います。映画の終盤、日本で姿を消したロドリゴの恩師でもある宣教師の存在感が増します。イエズス会のエースともいうべき宣教師がなぜ忽然として姿を消したのか。その理由が徐々に明らかになっていきます。これ以上書くとネタばらしになってしまうのでこのくらいにしておきますが、人を幸福にするはずの信仰がなぜこうまで人を苦しめるのか。その苦しみの意味とはなにかを考えるいい機会になると思います。是非この映画をご覧になってください。

後輩からのプレゼント

先日、我孫子第四小学校の五年生のみなさんから激励のプレゼントが届きました。「コロナに負けるな」と刺繍がほどこされた手作りのマスクとともにみなさんから励ましのお手紙をいただきました。


私が第四小学校を卒業してもう少しで50年。当時竣工した新しい校舎が今ではもっとも古い校舎になってしまいました。校長室には歴代校長の写真が飾られています。その中に並ぶ当時の校長先生もずいぶんと昔の校長になっていて、今更ながらに自分が歳をとったことを実感します。後輩たちが一生懸命に作ってくれたプレゼントは院内に飾ってあります。来院した患者さんたちにも是非見てほしいと思います。

可愛い後輩のみなさん、どうもありがとうございました。

原発事故の教訓

10年前の3月11日に東日本を襲った大地震。三陸沖130㎞付近の海底で発生した地震のエネルギーはマグニチュード9だといわれています。また、震源が約24㎞と比較的浅かったこともあって、この地震によって震度7を超える強い揺れを記録する地域もありました。まさに日本周辺に発生した地震の中でも史上最大級のものといってもいいでしょう。


あのとき、私はクリニックの外来で診療をしていました。冬も終わりを告げ、徐々に春めいてはきましたが、空は厚い雲におおわれてちょっと寒かったことを覚えています。待合室には数人の患者が診察を待っていました。私は診察室で常連さんとたわいもない世間話しをしていたのですが、突然、遠い彼方から、地鳴りでしょうか、音とも、振動ともつかぬわずかな感覚が足に、そして全身に伝わってきました。私は瞬間的に地震がやってくるのだと思いました。


遠くに聞こえていた地鳴りはほどなく大きな横揺れと縦揺れとなってクリニックを大きく揺さぶり始めました。揺れの大きさといい、ゆれ続けた時間といい、私が今まで経験してきた地震とはあきらかに異なっていました。普段、地震ぐらいではそれほど驚かない私も、今回だけはいつもとちょっと違うことを確信しました。

昨日、福島第一原発事故を描いた映画「Fukushima50」がTV放映されました。原発で働く人たち、あるいは自衛隊や消防、警察の皆さんが、原発事故の収束に向けて、まさに命がけで、いかに苦労されたかが伝わって来る映画でした。地震の直後の私は発生した津波の破壊力のすさまじさに圧倒され、原子力発電所がどんな状況になっているかなど考える余裕もありませんでした。
私は地震の揺れがまだおさまらない中、院内にいた職員や患者さんたちがパニックをおこして外に飛び出さないよう必死に声をかけていました。院長室から待合室にもってきたラジオからは各地の震度とともに予想される津波の高さが報じられていました。それは「6mほどの津波が到達する」と想像をこえるものでした。


実際にはその2倍の高さの津波がおし寄せましたが、それでも「約6mの高さ」と聞いたときはなにかこれから恐ろしいことが起こるのではないかと感じました。その胸騒ぎは的中し、想定をはるかに越えた津波はたくさんの人の命と家屋をのみ込み、原発の建物を突き破って施設を破壊して、全電源喪失という予想もしなかった最悪の事態をもたらしたのでした。

当時のマスコミの論調も、また、いちぶの心ない市民たちからも、東京電力への非難の声があがりました(それは今もなおいちぶの人たちで続いています)。たくさんの人が亡くなり、多くの住民たちが避難を余儀なくされたのが東京電力のせいだというのです。しかし、私は当初から「それは東京電力のせいではない。ましてや東電の社員を責めるのは筋違いだ」と繰り返してきました(こちらもどうぞ)。


なるほどたくさんの住民がその後、長期間にわたって不自由な生活を強いられることになりました。福島原子力発電所の事故によって放射性物質が広範囲に拡散したからです。しかし、その事故はもとをたどれば専門家の予想をはるかに超えた巨大津波が原因です。それまでの専門家会議で想定されていた津波の高さはおおむね6mでした。その後の見直しによって徐々に想定水位があげられ、その都度、原発では対策が進められてきました。でも、残念ながらその対策は今回の巨大津波には間にあいませんでした。


福島第一原発を襲った津波は施設内の建屋を5mも水没させる最大水位16mを超えるすさまじいものでした。この千年に一度とも、数百年に一度ともいわれる大地震によって打ち寄せた巨大な海水の塊にどう立ち向かえばよかったというのでしょう。結果論で責めることは簡単です。しかし、誰一人として想像だにしていなかった災害に加害者はいないはずです。

震災当時、国会には東電の幹部が参考人としてなんども招致され、まるで人民裁判のような質疑がおこなわれました。そして、「津波が想定を超える高さだった」と説明する参考人に、「その想定が間違っていたんだろ」とヤジを飛ばす議員もいました。しかし、想定とはそういうものなのです。想定の根拠となる科学に絶対などないからです。こんなあたり前なことも理解できない国会議員にはあきれるばかりですが、そんな理性的になれない人たちは十年も経った今でも存在します。


原発事故そのもので、あるいは福島第一原発から漏れ出た放射性物質が原因で亡くなった人はただのひとりもいません。原発事故や放射性物質の恐怖にさいなまれ、避難を余儀なくされた生活に精神の不調を来した人はたくさんいました。そのなかには自ら命を絶った人も少なくなかったでしょう。しかし、それは東京電力のせいでも、社員のせいでもなく、いわんや東電社員の家族の責任では決してありません。

一方で、子ども達の避難が遅れたと学校の責任を問う裁判や、路上教習をさせていた自動車教習所の過失を問う裁判なども行なわれています。しかし、よく考えてみて下さい。この震災ではみんなが被害者なのです。児童を避難させるのが遅れた教諭も亡くなりました。地震で揺れる中で路上教習させていた教官だって亡くなっています。

あの未曾有の災害に加害者なんていないのです。確かに震災でたくさんの人が亡くなりましたが、そのほとんどは津波によるものです。 もし、責任を問うべきだというなら、1万8000人あまりの人命を奪った巨大津波への対策を怠った行政の責任も問われるべきです。しかし、津波に対応できる防潮堤や街の移転を進めてこなかった地方自治体の責任を問う人はいません。 誰ひとりとしてあのような大きな地震が起こり、類を見ない巨大な津波に襲われるなんて想像していなかったからです。 にもかかわらず 津波への対応策が間に合わなかった東京電力だけが責められるのは不条理です。

先日の映画「Fukushima50」でも、避難してきた人たちの一部が東電社員の家族に冷たい視線を送り、「あんなところに原発を作ったからだ」「俺たちの生活をどうしてくれる」と心無い言葉を投げつけるシーンがありました。実際にもこうした光景が見られたと聞きます。福島ナンバーの車がいたずら書きされたり、福島県から他府県に避難してきた子どもたちが嫌がらせを受けたという事例も複数報道されています。

不安や怒りからのこととはいえ、こうした心ない言動を抑えきれない人たちがいます。かつて、大東亜戦争(太平洋戦争)のときもそうでした。戦地に向かう兵隊さんを万歳で送り出した人たちが、終戦後、戦地から引き上げてきた兵隊さんに「お前のせいで日本が負けたんだ」と石を投げることもあったと聞きます。あの無謀な戦争に突っ込むことになった責任は、当時の新聞によって戦意をあおられた国民にもあったはず。そうした国民を守るために戦った兵隊さんは、ある意味、その犠牲者、被害者だったともいえるのではないでしょうか。


私たち国民がいつも「か弱い被害者」とは限りません。無意識のうちに「傲慢な加害者」になっている場合もあります。それは新型コロナウィルスの感染が拡大している今も見られる光景です。よりによって感染患者に対して、あるいはその患者を治療・ケアする病院関係者に対して心無い言葉をぶつける人たちがいます。福島原発事故はこうした理不尽な現実を繰り返してはいけないことをも教えているのではないでしょうか。

歴史から見えること(2)

前回のブログで紹介したゲーム「Ghost of Tsushima」の主人公、境井仁を見ていて脳裏に浮かんだ人物がいます。それは小野田寛郎元陸軍少尉です。皆さんもご存知の通り、小野田さんは陸軍中野学校を卒業し、帝国陸軍の残置諜者としてフィリピンのルバング島に潜入。日本の終戦を信じることなく任務を続けていましたが、1974年に捜索隊に発見されて日本に帰国しました。その小野田さんが、対馬を蒙古から奪還するためにひとり戦った境井仁と重なって見えたのです。

小野田さんが日本に帰国したとき私は中学生でした。当時、ルバング島にまだ日本兵がいるらしいことはニュースでたびたび報じられていました。戦後30年を経て、なおもフィリピンのジャングルに隠れていた日本兵とはどんな人なのだろう。私はある種の興奮を感じながら小野田さんの帰国を見守っていました。羽田空港で飛行機のタラップを降りる小野田氏を見たときの感動は今も忘れません。背筋をピンと伸ばした小野田さんはタイムマシンでやって来た「侍」そのものでした。

「Ghost of Tsushima」の冒頭に次のようなセリフがでてきます。数えきれない蒙古兵を前に、境井仁の叔父・志村候は八十騎の侍たちを鼓舞します。「ならわし、武勇、誉れ。それらが我らが道だ。我らこそ武士(もののふ)だ」と。私はこのセリフを聞きながら、1989年にNHKで放送されたトークドキュメント「太郎の国の物語」という番組で司馬遼太郎が語った「昔の日本人の心の中には身分に関わらず『武士道』という『電流』が流れていた」という言葉が思い浮かびました。

司馬遼太郎は「武士道とは主君(国家)への忠誠ではなく、自分に対する責任感に過ぎない」と言います。その責任感は使命感に裏打ちされたものだと言えるかもしれません。帰国した小野田さんは昭和天皇との謁見を辞退しました。それは「陛下から労いの言葉をかけられたら困る」という理由からでした。一兵卒として日本のために戦っただけだという自負があったからでしょうか。そうしたところに小野田さんらしい気骨さが感じられ、その意味でもまさしく侍だったなぁと思います。

小野田さんらしいエピソードをもうひとつ。日頃、感情を顔にあらわすことの少ない小野田さんが怒りの表情で語ったことがあります。それは平成十七年の終戦記念日に発表された総理大臣談話についてでした。終戦60周年を記念するその談話には「心ならずも命を落とされた多くの方々」という一文がありました。自分自身も戦争で戦い、戦後30年経ってもジャングルで戦闘を続けた小野田さんはその「心ならずも」という部分が受け入れられなかったのです。

***** 以下、小野田さんの言葉(一部修正あり)

一国の首長たるものが「心ならずも」と英霊に対して言葉をかけております。果たして私達は「心ならずも」あの戦争で命を散らしたのでありましょうか。私は国の手違いによってこの靖国神社に15年間お祀りしていただきました。しかし、もし私があのとき本当に死んでいたとすれば、「国のために我々が戦わなければ誰が戦うのか」、そういう自分たちの誇りをもって、力いっぱい笑って死んでいったのであります。私だけでなしに、私の仲間も皆そうであります。それがなんで同情の対象なのでしょうか。誇りをもって死んだ人に対して、なぜ黙って「ありがとうございました」と感謝の念を捧げられないのか。

***** 以上

小野田さんは悔しそうでした。ある人は志願で、またある人は招集によって戦場に駆り出され、南方のジャングルで、あるいは酷寒のシベリアで過酷な戦闘を続けた戦友。そんな彼らを思いながら、「お国のため、あるいは家族のため」に死んでいった英霊の気持ちを代弁していたのかも知れません。戦場に倒れた多くの日本兵にはあの「電流」が流れていたのだと思います。それを安っぽい同情で汚さないでくれと小野田さんは言いたかったのでしょう。

現代の日本人にも確かに「電流」が流れていたことを想起させることがありました。それは東日本大震災による原発事故のときのことです。世間では「東電憎し」「東電バッシング」とも思える心ない報道が繰り返されていました。ちょうどそのころ、原発事故を収束させるため、たくさんの東電社員・作業員が命懸けの作業をしていました。想像をはるかに越える大津波による全電源喪失。誰もが経験したことのないこの原発事故と東電職員・作業員との戦いが続いていたのです。

ある大手の新聞は「多くの職員が現場から逃げ出した」と報じました。その後、事故調査委員会の報告書が公表され、その報道が事実誤認であることが明らかになり、新聞社は記事を誤報として謝罪しました。当時の事故現場では高線量の放射能が飛び交う中で一進一退の状況が続いていました。このままでは職員や作業員全員を危険にさらしてしまう。そう判断した吉田所長は「最少人数を残して退避」と叫んでいたのです。「逃げ出した」という報道は悪意に満ちた表現だったのです。

吉田所長は「一緒に死んでくれる人を募ろうと思った」と後に心情を吐露しています。所長が退避命令を出し、多くの人が退避する中、「私は残ります」「おまえは若いからダメだ」というやりとりもあったといいます。 そんな現場に菅直人総理の非情な怒鳴り声が響きました。「撤退などありえない。覚悟を決めてやれっ」と。 押しつぶされそうな重圧といつ収束するとも知れない放射能の恐怖に耐えながら、吉田所長とともに69人の職員・作業員が現場に残りました。そのときの活躍が映画「Fukushima50」で描かれています。

危険極まりない現場で懸命の作業を続ける「Fukushima50」。責任感と使命感に突き動かされるように、黙々と作業をする東電の社員や作業員、あるいは消防や警察、自衛隊の人たちにもきっとあの「電流」が流れていたに違いありません。しかし、現場から離れた東電本店や政府・官邸の人たちにそうした「現場のリアル」が感じられていたでしょうか。彼らは安全な場所から吉田所長に「早くなんとかしろ」と怒鳴るだけでした。そして、それはあのときの一般国民もまた同じだったと思います。

司馬遼太郎は「太郎の国の物語」の中で「現代の日本人もそれぞれが『微弱なる電流』をもっているはずだ。今の日本には規範というものがない。だからこそ、魂の中にもっている『微弱なる電流』を強くすべき」と言っています。かつて三島由紀夫も「このままではこれまでの『日本』はなくなり、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、裕福な、抜け目がない、ある経済的な大国が極東の一角に残るだろう」と予言しています。司馬遼太郎の言葉は三島のそれと重なります。

「故きを温ねて新しきを知る」とは、年月を経て人間や国家が「進歩」するにはそれまでの歴史を正しく知ることからはじまる、という意味です。歴史を学ぶ意義はそこにあると思います。以前のブログにも書いたように、「歴史を良し悪しでとらえるのではなく、『正しい歴史』の経験と知識を共有し、未来に活かす」ことが大切です。失敗を繰り返すのは、過去(歴史)の失敗を振り返っていないから。明日の社会を今日よりも素晴らしいものにするために、歴史(過去)を振り返ることが必要なのです。