X’マスは雪がいい

札幌は先日ふたたび降った大雪で早くも根雪になるでしょう。60㎝を超える降雪量を記録するのはなんでも29年ぶりだそうで、札幌にいたころのこの時の大雪を思い出しました。当時、私は自分の車を青空駐車場に停めていました。ですから、雪が降るたびに車の上に積もった雪と駐車場の出入り口から車までの雪をどけに行かなければなりませんでした。しかし、そのときの雪はそれこそ一晩に50㎝は降ったかと思われるほどでしたから、いつもの雪かきとはくらべものにならないほどの重労働でした。まずはアパートから駐車場に向かうのが大変。北海道のサラサラした雪とはいえ、腰まではあろうかと思われる雪をかきわけながら歩くためにはかなりの体力を使いました。駐車場はアパートのすぐ近くとはいえ、歩道に降り積もった雪に足をとられながら歩くと駐車場に着くころにはもうヘトヘト。そして、駐車場に目をやれば、車が見えないほどの一面の雪にはただただ茫然となるのみでした。

よりによって私の車は駐車場の一番奥にありましたから、そこにたどり着くまでの経路の雪を排除しなければなりません。もちろんただ左右に雪を押しのけただけでは他の車の前に雪をどけるだけになってしまいそれらの車に迷惑をかけます。しかし、どけた多量の雪をどこかに捨てようにも、ドカ雪のときはその捨てるところさえないのです。ですから、車の通行に迷惑なならないように車道の脇に寄せて(といっても、どこが脇なのかもわからない)雪をもっていくのですが、雪にはまった車を掘り出すための小さなスコップで運ぶものですからものすごい時間と労力を要します。結局、数時間をかけて他の人の車の分まで除雪したあげくにようやく自分の車の上に積もった雪をどける作業にとりかかれるといった状況でした。当然のことながら、大学の講義などには出席できるはずもなく、重労働で汗をかいたあと銭湯にいって「自宅療養せざるを得ない状況」になってしまいました。

もともと寒い日に昼間っから大学をさぼって銭湯に行くのは好きでした。まだ入浴客も少なく、広い湯船でじっくり温まってアパートに帰るときの爽快感がなんともいえず気持ちがいいのです。真冬のときなどは、帰りしな濡れたタオルをぐるぐる振り回すとカチンカチンに凍ったりして北海道の冬を実感できます。でも、あるとき、恐ろしい「事件」に遭遇しました。いつものように明るいうちに銭湯にいって頭を洗っていたら、なんとなく自分に降り注がれる視線を感じました。ふと顔をあげて鏡を見れば、なんと背後に私をじっと見つめる男性の姿があるではありませんか。しかも私が移動するたびにその男性がそばにくる。彼はあきらかに私のあとをついて来るのです。急に怖くなった私はあわてて銭湯を後にしました。以来、その銭湯を利用することがなかったということはいうまでもありません。あの恐怖心は大学祭での「おかまバー事件」のときに感じて以来のものでした。

その「おかまバー」は、まだ医学部に進学する前(教養学部医学進学課程のとき)の北大祭のイベントとしてクラスで企画したものでした。当の企画者はシャレでやるつもりで、女の子がおもしろがってたくさんくるだろうぐらいの単純な発想だったのです。ホステス(ホスト?)をやらされた私たちは化粧をし、布を適当に体に巻き付けただけのあらわな姿をさせられました。当然のことながら私ははじめて化粧をしました。そして、女子学生にお化粧をしてもらいながら、変わっていく鏡の中の自分がどんどん「きれいに」なっていきました(幸い、その後、お化粧が癖にはなりませんでした)。お化粧が完成したとき、それなりに「きれいになった自分」を再発見。化粧をすると別人になったような気持がして、人前に出ても不思議とはずかしくありませんでした。ところがそんなことに「感動」していたのもつかの間。ホステスをやっていたひとりの友人の悲鳴によって「おかまバー」は恐怖のどん底に突き落とされることになりました。

二人の本物の「おかまさん」が来店したのです。悲鳴をあげた友人は開店後はじめてのそのお客を接客して体を触られたと控室に駆け込んできたのです。控室にいた「ホステス達」は一様に恐怖に顔を引きつらせながらどうしたらいいものか考えあぐんでいました。二人の本物の「おかまさん」をテーブルに残したまま、誰もそのテーブルに行こうとしないのです。そのうちに客席の方から大きな声が聴こえてきました。「お客を放りっぱなしってどういうことよ。ビールぐらい出しなさいよっ!」と怒っています。結局、体が大きく腕っぷしの強そうな友人が勇気を出して接客にいくことになりました。「変なことをしたらぶんなぐってやる」と言いながら彼は接客に向かいました。ふたりの「おかまさん」達は怖がる私達をしり目に、自分たちで歌ったり踊ったりとひとしきり楽しんで帰っていきました。そのパフォーマンスの高さはさすが「本物」で、他のお客さんはもちろん私達ホステスも関心するほどでした。

話しが横道にそれてしまいましたが、この雪で札幌はもちろんホワイトクリスマスになると思います。クリスマスにはやっぱり雪が必要ですね。以前にもご紹介したように、学生のころ、イブの夜に讃美歌を聴きたくなって雪の中を教会に行ったことがあります(「北海道のこと」をご覧ください)。讃美歌、いいですよねぇ。私は「神の御子は」という讃美歌が大好きです。大学のサークルでこの歌を合唱したことをきっかけに好きになりました。私はかつてNHKで放映されていた「大草原の小さな家」が好きでよく見ていたのですが、たまたまつけたTVでそのドラマが放映されていて「インガルス一家のクリスマス」という回をやっていました。家族のみんなが自分の大切にしているものをこっそり売って家族が喜ぶクリスマスプレゼントを用意するという感動的な回だったのですが、やはりこのときのウォルナットグローブも一面銀世界でした。その前後の回の同じウォルナットグローブに雪などまったくなく、青々とした草も生えていたのでクリスマス用の特別編集だったんでしょう。

独身の頃、「結婚願望」なんてぜんぜんありませんでしたが、その一方でなんとなくこのインガルス一家みたいな家族が将来できればいいなぁなんて思っていました。頼りになって思いやりのあるお父さんと、優しくて慈しみに満ちたお母さん。そして、元気いっぱいでいつも前向きな子供達。そんな家族みんなで「神の御子は」を合唱するなんて素敵って思っていました。でも、現実はそう簡単にはいかないものです。私も家庭をもち、改めて振り返ってみれば、大きくなった子供たちに「みんなで合唱しようよ」と提案しても、「やだよ」「めんどくさい」「ひとりで歌っていればいいじゃないか」などと誰も相手にしてくれない。「それなら」と、ひとりYouTubeを見ながら大声で気持ちよく歌っていれば「うるさいから小さい声で歌ってよ」と言われてしまいます。そんな「可哀想なチャールズ」はTVで札幌での大雪のニュースを見たり、ドラマでのクリスマスのシーンを見るたびに、「神の御子は」を思い出しながら「やっぱりクリスマスには雪だよなぁ」なんて思ってしまいます。

暖かい家の中の心地よさがそう思わせるんだと思います。北海道の家はこちらの家とはくらべものにならないくらい暖かいのです。冬が長いのであたりまえですが、家の中だけで言えばこっちの家の方がよっぽど寒い。なにせコタツなんていらないくらいですから。家の中で厚着をするなんてこともありません。最近の家であれば床暖は当たり前になっていて、ストーブをガンガン炊きます。家の外には大きな石油タンクを備えていて、夜も微弱ながらもストーブはつけっぱなし。ストーブを止めてしまうと窓には氷の結晶がこびりついていて(当然のことながら窓は二重窓になっていますから、氷の結晶がこびりつくのは外側の窓ガラスです)、ストーブをつけてもなかなか部屋が温まらないなんてことがあるからです。北大に入学してはじめて友人の部屋に遊びに行ったとき、春だというのにまだまだ寒い中、玄関の扉が開いてTシャツ姿の友人が出てきたときはびっくり。部屋のなかは汗ばむほどの暖かさでさらにびっくりしたものです。

そう考えると雪のない冬はものすごく物足りなく感じます。先日の札幌の大雪のように道民の日常生活に支障をきたす雪というのも迷惑な話しですが。それでもそれが冬の風物詩と思える私にとっては、雪のない今の風景はどことなく殺風景に見えるほどです。夜に雪が積もり、朝日にまぶしく輝く新雪を見るとすがすがしい気持ちになります。新雪が積もった日の朝はとても静かです。そして、しばらくすると除雪のために家々からひとりふたりと人々が出てきて少しづつにぎわい始める街並みを見るのもいいものです。北国の冬というと、寒くて暗くて家の中でじっと春を待っているといった印象があるかもしれません。しかし、雪が降るたびに始まる静かな朝。そして、みんなが協力し合って雪をかき、除雪車がけたたましい音を立てて夜通し作業をする。北国の冬って決して人間の生活感に乏しい冷たいものじゃないのです。むしろ、こちらの冬よりもにぎやかに感じるのが北国の冬なのです。クリスマスまでもう少し。こちらでもイブの夜だけでもいいから雪が降らないかなぁ。

 

 

「老いる」ということ

今月のはじめ、札幌に大雪が降りました。例年であれば今頃の雪はすぐに溶け、陽の当たらない道端に小さな雪のかたまりが残っている程度です。昨今の異常気象のせいなのか、まだ11月になったばかりだというのにあの大雪。しかもまだ気温が十分に低くなっていないのであのときの雪は湿っていてずいぶんと重かったらしい。12月後半の雪であればさらさらと軽く、頭や肩に降り積もっても簡単に吹き飛ばすことができるのに、雪に慣れている北海道の人たちも今回の除雪(北海道では「雪かき」といいます)はさぞかし大変だっただろうと思います。

でも、私はこんな厳しい気候もふくめて北海道が好きです。しばれた冬の冷たさも、視界をおおう真っ白な雪でさえも、私にとっては懐かしくも北国の郷愁を感じる素敵な光景に見えます。人によっては「あんな寒いところ」と言いますが、そうした厳しい冬が私には素敵に見えるのはきっと家の中の暖かさがあるから。家の中の暖かさから言えば、北海道はこちらの比ではないくらいに暖かいのです。ストーブをがんがん炊きながらTシャツ姿なんて普通のこと。寒くて冷たい外から帰ってきて、暖かい室内に入ったときのなんともいえないホッとした気持ちは北海道ならではかも知れません。

そんなことを人に話すと、よく「ほんとに北海道が好きなんだねぇ」って言われます。当ブログの「北海道のこと」でも書きましたが、春夏秋冬の季節感がはっきりしている北海道の自然や気候はなぜか私の琴線に触れます。肌に合うっていう奴でしょうか。だから、息子たちには「俺が歳をとってボケたり寝たきりになったら札幌の老人ホームに入れてくれ」と言ってあります。家内や息子たちのお荷物になりたくない私は、たとえ一人であっても大好きな札幌に戻って安らかな気持ちで余生を送りたいと思っています。北海道、とくに札幌はそれほど私にとっては特別な場所なのです。

老後だとか、余生だとか、これまで自分とは無縁だと思えていたことが、いつの間にか現実的なものに感じる年齢になってしまいました。思えば私のクリニックも開院して今年で十年。あのとき受診してきた幼稚園児だった子ども達も今は高校生。背丈も僕よりも大きくなり、ワクチン注射のときに大騒ぎしていたあの頃がずいぶんと昔のように感じます。私自身、彼らをわが子のように見ていたせいか、その成長した様子が私にはなんとなく淋しく映ります。成長した彼らの後ろ姿を見ながら、お母さん達にはつい「淋しくなっちゃいますね」とこぼしてしまいます。

私自身も歳をとりました。いつの間にか私が大学生だったときの父親の年齢になってしまい、なんだか不思議な感覚です。かつての父親の歳になってはじめてわかることもあります。当時の父は仕事から帰ってくるといつもゴロゴロしていました。そんな父を見ながら、「なんでそんなにゴロゴロしているんだろう」と思ったものです。しかし、その年齢になった今の私もまたゴロゴロしている。老眼も年々強くなり、また、いろいろなことが覚えられなくなったり、思考がまとまりにくくなったりといった、かつてよく母親がこぼしていた変化が今の私にも徐々に現れてきています。

よく患者さんから「老化」に関わる相談を受けることがあります。ごくまれに何らかの病気から来る症状である場合もあります。しかし、ほとんどのケースは加齢にともなう変化。むしろ、受け入れなければならない問題だといってもいいのです。正解のないこの「老化の諸問題」にどう答えるのか私自身言葉に窮することがあります。なぜなら私にも「老化」の問題は未経験だからです。私が見聞きした患者さんの体験を通じてでしか答えられない。そもそも人によって直面する問題はさまざま。ましてやそれらのすべてが人によって受け止め方が違うのでなおさら難しい問題です。

ただ、悩んでいる人の多くに共通しているのは「はじめて経験する『老化』にとまどっている」という点。時の経つスピードは年齢とともに早くなっていき、10代のときの一年と40歳代での一年とはその長さがずいぶん違います。80歳代となればなおさらです。その分だけ人は知らない間に歳をとっているのです。それはまるで「肉体年齢のあとを精神年齢が追いかけている」かのようです。私も気持ちはまだ実年齢よりもひと回りは若いのですが、仕事中にふと漏れるため息と、自宅に戻るとすぐにゴロゴロしてしまう気力・体力の低下は明らかに実年齢そのものです。

現代の80歳は、昔の80歳と違ってとても健康で若々しく見えます。中には認知症もなく、60歳代だといってもわからない人もいます。しかし、どんなにトレーニングを欠かさずに体力を維持していようが、生物学的に80歳はあくまでも80歳。維持されてきた体力もいつか衰えるときがやってくる。これは揺るがぬ事実です。ところが、人はそうしたことを頭では理解できても、なかなか受け入れられないもの。いつまでも自分は以前のままであると何気に思い込んでしまっているから。加齢にともなう変化に不安を感じている人は概してそうした事実を受容できていないように見えます。

70歳代の人は気持ちはまだ60歳代。しかし、肉体年齢は確実に80歳に向かっているのです。そのギャップに悩む人は少なくありません。私はそうした人によく「かつて自分が20歳だったときのことを思い出してください。そのときのあなたには70歳代の人がどのように映っていましたか?」と問いかけます。そうすることで自分の年齢というものを実感できるからです。すると、多くの人は納得したような、それでいてちょっぴり落胆したような表情をします。中には「歳をとったと言われた」とショックを受ける人もいます。厳しいようですがこれが現実であると気が付くことは重要です。

受け入れられないのも無理はありません。鏡の前で見る毎日の自分はいつまでも「今のまま」なのですから。毎日ほんのわずかだけ変化する自分とその変化の積み重ねにほとんどの人は気づきません。これが「精神年齢は実年齢を追いかけていく」と表現した理由です。しかし、その間にも肉体は確実に歳をとっていく。そして、あるとき突然「加齢」という現実に直面するのですから、そうした変化を受け入れられないのもある意味当然なのです。でも、その「加齢」という変化に対する見方を変えてみると違った風景が見えてきます。巻き戻せない時間に絶望するのではなく、「老いること」をもっと前向きにとらえるのです(「心に残る患者(4) 」もご覧ください)。

かつてできたことができなくなった不安。あるいは、肌にしわやしみが多くなって、腰が曲がり、ちょっとしたことで転ぶようになってしまったことへの落胆。そうした変化を人は「忌まわしいもの」あるいは「醜いもの」ととらえがちです。それはかつての輝いていたころの自分と比較するからです。でもよく考えてみて下さい。無心に虫を追いかけていた子どもの頃の‘あなた’も「あなた」なら、公私に充実して輝いていた若かりし頃の‘あなた’も「あなた」。ならば、老いを迎えていろいろなことが若いころと違ってしまった今の‘あなた’も「あなた」ではありませんか。

人間はいつか死にます。これは避けることはできません。その最期の日がいつ来るのか。それは神のみぞ知ること。そんなこと「知ったこっちゃない」のです。ある高齢の患者さんから「私はなんのために生きているのかわからない」と言われたことがあります。しかし、そのとき私は次のように答えました。「生きる目的は世代によってさまざまです。ご主人と結婚したときにはそのときの目的があり、子どもを育てているときにはそのときの目的がある。孫の成長を見守っているときにもそのときの目的がある。だから、生きていることそのこと自体が目的になるときがあってもいいのではないか」と。

人の価値には、もちろん他者の役に立つという価値もありますが、存在することだけに価値がある場合もあります。家族がそのいい例です。世話になっている、面倒をかけていると本人が思っていても、世話をしている家族からすれば「いてくれるだけでいい存在」というものがあるのです。それが「存在価値」です。存在価値はそれまで生きてきた人生で積み重ねてきた価値の集大成でもあります。老いを迎えて得られた自分の価値は、本人がいかに生きてきたかの証として自分自身が実感できるものであると同時に、まわりの人にしか感じられない価値でもあるのです。

「老い」は長生きできた人にしか経験できないことです。「老い」は長生きしたことの代償だということもできます。これまでこのブログで書いてきたように、私の心に残る患者の多くは若くして亡くなった人たち(「心に残る患者」「心に残る患者(2」をご覧ください)です。それは若くして逝かなくてはならなかった患者たちの無念さを痛いほど感じるからです。ですから、人生をまっとうできた人の死に私は悲しみをあまり感じません。もちろん別れは淋しく辛いものです。でも、「老い」を経ることのできた人たちとの別れは決して悲しいものではありません。

「老いを前向きにとらえろ」などと簡単に言ってくれるなと言われるかもしれません。老いることの苦しみや辛さを実体験として私は感じたことがないのですから。しかし、医師という仕事を通じて生老病死を見てきた私から言えることは、生きながらえた代償としての「老い」を受け入れることはできるはずだということ。つまり、「今を生きる」のです。人にはいつかお迎えが来ます。それが明日なのか、何年、何十年先のことなのか、そんなことは「知ったこっちゃない」のです。今を穏やかに、無事に過ごせればいいのです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。それが生けるものの宿命だからです。

今日はずいぶんと生意気なことを書いてすみませんでした。
不愉快な思いをした方がいらっしゃったらご容赦ください。

「子育て」はおもしろい

最近、なかなかブログを書く時間がとれません。しかも、もともと文才があるわけでもなく、書きたい題材はたくさんありながらそれらを皆様に読んでいただけるような文章にできないのです。

ブログは上の息子が2歳のときに「子育てブログ」を書いたのがはじめてです。その後、下の子が生まれるまでの5年間にわたって書き続けました。今、このブログを振り返ると、その文章はつたないながらも札幌時代の懐かしい風景がよみがえってきます。

今回はその「新・子育てはおもしろい」をご紹介してみたいと思います。12年も前のブログですが、まだ四十路だった私の子育ての奮闘ぶりを読んでいただければと思います。ここでは私自身が是非皆さんに読んでいただきたいページをいくつかご紹介します。

※なお、プライバシー保護のため、登場する子供達の名前は仮名になっています。

下の題名をクリックすれば見られます。

第一回目のブログ:子育てはおもしろい

金沢のこと

永平寺訪問

ダイジョーブ?】

立てば歩め

今回はこんなお茶を濁すような内容ですみません。次回はもっとしっかり書きます。

傲慢な診療

医師という仕事はものすごく地味です。とくに我々のような患者との接点となるプライマリ・ケアの仕事の多くは生活習慣病の管理であり、風邪や花粉症に対する投薬だったり、患者となにげない話しをしながら不安を軽減することだったりと、救急救命医や専門医療のような仕事とは違って、テレビにしばしば出てくる華々しいシーンはほとんどありません。いろいろな訴えを抱えて来院する患者の多くは大きな病気ではなく、経過観察とすべきものがほとんどであり、医学的な説明をしてお帰りいただくことが多いのです。

しかし、私たちの仕事でもっとも大切なことは患者の健康の「管理」ですから、ともすると日常になりがちな診療の中でいかに患者の変化を見落とさないかが重要です。私自身がとくに留意しているのは、ありふれた症状や病気の中にかくれた重大な疾患を見逃さないことです。ともすると「こんな症状」と簡単に片づけてしまうようなありふれた症状の中に、実は重大な病気が隠れていることがあります。それを見逃さないアンテナを張っておくこと。それはとても難しいことですが、私たちには欠くことのできない要素です。

ただ、「言うは安し」です。ありふれた症状から重大な病気が見つかることはそれほど多くはありません。ほとんどは特にどういうこともなく自然に治ってしまいます。どこぞの医療番組にでてくるような実は「診断の裏をかく病気」だったなんてことはほとんどありません。そんな病気まで想定して検査するわけにもいかず、やはりこういう場合は臨床医としての勘ばたらきと注意深い観察眼が頼りということになります。日常のなにげない診療の中で大きな病気を見落とさないことは意外と難しいことです。

一方において、日常生活の中でありふれた病気をきちんと診るということも大切です。「単なる風邪」と一言でいっても、その症状のバリエーションはさまざまです。ある人には辛くなくても、他の人には辛い症状だってあります。そうしたバリエーションの中でどう薬を出し、あるいは薬を出さずに済ますかというところにアートがあります。アートというのは「技術」あるいは「技」という意味ですが、経験を積んだ有能な医師はまさに職人技のようなアートをもっています。

 私などはそんなアートにはまだまだ程遠いのですが、それでも研修医を終えたころの青い時代と比べれば多少アートらしきものを身に着けているでしょうか。若いころは理想に燃えています。というか、理想ででしか行動できないところもあります。臨床経験が浅い分だけ教科書に書かれていることを妄信しているからです。場合によっては傲慢と思えるようなところもあります。振り返れば、私もかつてはずいぶんと傲慢な医療をしていた時代がありました。その傲慢さに気が付かせてくれたのは他でもない患者さん自身でした。

 当時、私には「風邪に薬はいらない」という「信念」がありました。のどが痛かろうかが、鼻水が落ちてこようが、あるいは咳をしていようが、自宅で寝ていればじきに治るものだし、薬など飲むべきではないという「信念」です。ですから、風邪症状で来院した患者には「あなたがいかに薬を飲む必要がないか」を詳しく説明し、薬を処方せず、患者に自宅で経過を見させることが「よい医療」だと思っていました。とあるクリニックでアルバイトの診療をしていたころの私はそこでもそんな診療をしていました。

 その患者は咳が止まらないという訴えで来院しました。診察を待っている廊下からはときどき咳の音が聞こえてきました。診察室に入ってきたその患者は60歳代のご婦人。症状の経過と現在の状況をお聞きしてから一般的な診察をしましたが、とくに薬を出すほどの症状とは思えませんでした。私はいつものように「いかに薬を必要としていないか」を説明しました。患者は神妙な面持ちで、私の話しを最後まで聞いていました。そして、笑顔で「とてもよくわかりました」と深々と頭をさげて診察室を出て行きました。

 診察を終えた私は悦に入っていました。「いい医療をした」「患者の意識を変えることができた」と満足していたのです。ところが、ふと我に返ると、受付の方から怒鳴り声が聞こえてくるのに気が付きました。耳を澄ますと、ついさっき、私の説明に納得し、薬をもらわずに帰るものと思っていた患者がなにやら窓口で抗議していたのです。耳をそばだてて聞いていた私は完全に打ちのめされました。「咳がつらいからわざわざこの病院に来たのに、なにも薬を出さないで帰れってどういうことですか」というのです。

 私はこのとき、自分がいかに傲慢な診療をしていたのかということに気がつきました。私が「いい医療」と考えていた診療がその患者に完全に否定されてしまったからです。思えばクリニックにやって来ることは面倒なことです。それなのにあえて来院したのはそれほどにこの咳はつらかったのでしょう。そこで咳を止めてもらおうとわざわざ来たのに、「薬を飲むよりも自宅で安静にしていろ」と言われれば誰だって怒鳴りたくもなります。そんな当たり前なことすら、当時の私は気が付いていなかったのです。

 以来、私は医学的に間違っていることでなければ、できるだけ患者の訴えに耳を傾け、患者が求める方向で処方をすればいいと考えるようになりました。咳が出るのであれば咳止めを出せばいい(もちろん肺炎でないことが前提です)し、鼻水が出るのであれば鼻水止めを出せばいい。患者さんはそれらがつらくてわざわざ来ているんですから。そうした患者の求めるものに向き合ったうえで処方することにしたのです。深々と頭をさげて診察室を出て行ったあの患者の怒りが私の思いあがりに気付かせてくれたのかもしれません。

 もちろん患者の言いなりに薬を出すという意味ではありません。医学的に出せないものは出せないし、患者さんの不利益になることでも希望さえあればそうするということでもありません。そのような場合はきちんと患者さんに説明してお断りします。そのようにちゃんと説明すればほとんどの患者はわかってくれますから。そうではなくて、患者の苦痛にすら思いが至らないままに「医療はこうあるべきだ」などと思い上がってはいけなかったという意味です。それはひとえに私が「青かったから」にほかなりません。

医療の現場で働いているとなかなか理想通りにはいきません。抗生物質の投与の仕方もそうです。教科書的には「起因菌を同定してから使用せよ」、つまり原因となった細菌を特定し、その細菌に合った抗生物質を使いなさいということが書かれてあります。そんなことは百も承知なのですが、同定をしてからだと「受診して、検査して、結果がわかって処方」となり、その分だけ治療が遅くなります。高熱と咳で受診した人にそんなことできません。どうしたって経験的にふさわしいと思われる抗生物質を出してしまいます。

 「抗生物質は安易に使うな」とも書かれています。抗生物質を処方する身とすれば安易に出しているつもりはありません。それでも「抗生物質は肺炎になってから投与せよ」と、肺炎になったことが確認されてから抗生物質を投与された患者さんはどう思うでしょうか。「私のことを考えてくれている」と思ってくれるでしょうか。多くの人は「なぜ肺炎になるまえにちゃんと対処してくれなかったんだ」と不信感をもつのではないでしょうか。私たち、いや少なくとも私はそう考えてしまうのです。

そんな先走りをするせいか、多くの場面で「これは肺炎、もしくはこのままでは肺炎に移行するだろう」と判断した時点で経験的に抗生物質を出してしまいます。ましてや私は喀痰検査や胸部レントゲン検査、あるいは採血といったものは、入院すべきかどうかを判断しなければならない限られたケースでなければやりません。ですから、その分だけ他の先生よりも早い段階で抗生物質を処方しているかもしれません。そうしたことは批判されるべきことかもしれませんが、私としてはそれはそれで覚悟の上です。

 アメリカではすべてではないにしろ、治療を受けた病院に医療費を支払う保険会社が定めた薬や治療法でなければなりません。それ以外の薬や治療法には医療費が支払われないのです。すなわち、患者が受ける医療の内容は保険会社が決めているのです。そういう社会にあっては、我々医師はその善し悪しとは無関係に治療方法を選択するしかありません。そこには患者のニーズなど無縁です。傲慢だとか、教科書的とか、理想主義とかいう以前に経済原理にのっとって決められた治療法が優先されるのですから。

 最近では医療の世界にも経済原理が導入され、コスト削減だとか、費用対効果だとか、経営効率だとかいう経済用語が盛んに使われるようになってきました。でも考えてみて下さい。医療はなにかを具体的に生産する業種ではありません。何かを生み出すという側面よりも、なにかを消費する側面が大きいのです。消費することで人間の健康を守るとでもいいましょうか。どうしても非効率な部分が出てしまいます。そうしたところが一般的な産業と違うところであり、そもそもが経済的原理をあてはめるのには無理があるのです。

 時代は変わりました。医療も変わりました。「患者さん」を「患者様」と呼び、患者さんの名前を呼ぶと個人情報の保護に反するといわれる。最近では点滴を詰めたり、薬を調合する場所に防犯カメラを置けと言われる時代です。「病気を治してやっている」という意識が強かった昔の医療は論外ですが、ある意味でそうした傲慢な医療ですらしようにもできない時代になりました。それだからこそ、医療者も患者がお互いに卑屈にならずに協力的に健康を考えていける時代であることが必要です。コストや効率性に振り回されない、患者のニーズをふまえた自由度が確保された医療を守りたいものです。

 

 

わが心の故郷「逓信病院」(2)

これまでなんども書いてきたように、研修医としての2年はその後の医者としてのスタンスを左右する大切な期間です。私はその研修の場に東京逓信病院を選んだのですが(「わが心の故郷「逓信病院」」もご覧ください)、そのときの研修で身についた姿勢は今の自分にも生きていると思います。思えば大学卒業したての人間に医師という仕事のイロハを2年間で叩き込むのですから、指導医の先生はもちろん、一緒に働く看護師やコメディカルの人達も大変だったと思います。それでなくても研修医になったばかりの連中はプライドが高く、小さなころから失敗らしい失敗もせずにとんとん拍子で医者になった連中も少なくないでしょうから。

今の研修医制度は私たちのころとはずいぶん変わってしまいましたが、私たちのころの研修病院の採用試験は医師国家試験を受ける前の年(つまり6年生)の秋に実施されました。当時、私の級友達も早い人達で5年生のころから医師国家試験(「国試」といいます)に向けての勉強をはじめ、友達同士で勉強会をして教えあったり、過去の国家試験を解きあったりしていました。また、熱心な学生は夏休みに研修を希望する病院に出向いて見学あるいは実習をしていました。私はどうかといえば相変わらずのんびりしていました。勉強会をしたり、病院見学にいくような熱心な連中を横目にみながらこれまで通りのマイペースでした。

そんなありさまでしたから、いざ研修病院の採用試験を受験するときになっても国試の勉強はまだ道半ば。研修病院の採用試験に合格するとはとても思えない状況でした。しかも、噂では学生のときに夏休みの見学に来た人が優先されるとか、この病院は○○大学閥だから地方大学出身者には不利だとか、ウソかまことかわからない話しが錯綜していました。ですから、私のように医学部に奇跡的に合格し、なんとか落第もせずに6年までこぎつけ、国家試験の勉強ですら遅れに遅れている学生に研修病院の採用試験に合格できる自信などあるはずもなく、受かればもうけもの、とぐらいにしか思っていませんでした(採用試験受験後の出来事については「白馬の女(ひと)」もご覧ください)。

ところが、奇跡はまた起こり、受験した三つの研修病院の採用試験にすべて合格しました。この中で一番行きたかった東京逓信病院から一番最初に合格通知が届きました。病院からは入職する意志を確認する電話があり、私は合格させていただいたお礼とともに入職を確約する旨の返事をしました。でも、もし次の年に実施される国家試験に落ちれば採用は取り消しになります。なので、それまではなかなかスイッチの入らなかった国試の勉強も、研修病院が決まってからは一気にモチベーションが高まりました。とはいえ、周りの級友たちの中にはすでに模擬試験で合格ラインに入ったなどと豪語している人もいて、周回遅れの私との差は歴然としていました。

医師国家試験は3月でしたが、その前に医学部の卒業試験があります。文字通り医学部を卒業するための試験です。この試験で1科目でも不合格であれば卒業できません。私の卒業した北海道大学は、多くの私立大学でやられているような「国家試験対策」なるものはやってくれません。多くの私大は卒業試験も国家試験と同じマークシートで、その内容も国家試験の予想問題だったりして、卒業試験の勉強がそのまま国家試験の勉強になっていました。大学によっては夏休みや冬休みに合宿形式の国家試験対策セミナーをやってくれるところもあるようで、手取り足取りと面倒見のいい大学とは違って北大はそうしたことにはあまり熱心ではありませんでした

でも、国立大学では予算の関係もあって次年度にたくさんの学生を留年させることができないらしく、卒業試験では「名前を書いたらプラス5点」「学籍番号を書いたらプラス2点」などとどんどん加点して不合格にはしないのだ、という根拠のないうわさが流れていました。ですから、学生の間では「卒試は問題なし。肝心なのは国試」というのが定説になっていました。実際、どんなに勉強をしない学生でも、卒業試験で合格できなかったという話しを聞いたことがありませんでした。なんとか卒業試験までこぎつければ、どんなに成績が悪くても最終的にはレポートで救済され、卒業させてもらっているようでした。

のんびりしていた私もさすがに年が明けるくらいになるとあせって勉強していました。あのころが人生で一番勉強していたかもしれません。大学の講義もなくなって早朝から深夜まで一日中国試向けの問題集をやっていました。国試ではたった3日間で500問以上の問題を解かなければなりません。内科や外科、小児科や産婦人科、耳鼻科や皮膚科、放射線科などの臨床科目はもちろん、公衆衛生学や病理学、薬理学や解剖学などの基礎医学もふくめて6年間の大学教育のなかで履修したすべての科目が出題範囲になるので試験勉強の量たるや教科書を積み上げれば天井につくほどです。試験の前日、シャワーを浴びながらついさっき勉強した内容を思い出そうとしたのに頭に浮かんでこなかった時は、さすがの私もパニックになりました。

国家試験は代々木ゼミナール札幌校でおこなわれました。ここはアルバイトで中学生に理科を教えていたので気心の知れた場所でした。北海道にある三つの医学部(北海道大学、旭川医科大学、札幌医科大学)の学生はここで試験を受けます。当日、会場に到着するとたくさんの学生たちが必死になにかコピー用紙を回し読みしていました。なんでも東京の私立大学から送られてきた「重要情報」だとか。全国の大学から「うちの大学にいる国家試験の出題委員の○○教授が『ここはしっかりやっておくように』と言っていた」といった情報が全国の大学の「国試対策委員」なる学生に一斉に送られてくるのです。

もちろん北大にも出題委員の教授はいましたが、「ここは重要だ」といっていたところが国家試験にでるなどということはありませんでしたから、国試直前に飛び交うこうした情報の信ぴょう性は定かではありません(そもそも法律違反)。しかし、学生にすれば「溺れるものはわらをもつかむ」。そうした情報に学生はちまなこです。国家試験はすべてがマークシートなので記入ミスがあればすべてはおじゃん。それだけも神経を使うのに、膨大な数の試験問題に神経を集中させていたのであっという間に終わってしまいました。そして、3日間の国試終了。終わってからはしばらくは何もする気にならず、私の部屋はまるでごみ屋敷のようでした。

当時は国試の明確な合格基準が発表されていなかったので、合格したと思っていたら不合格だったという話しもちらほら聞こえてきました。ですから、実際に札幌にある厚生省の出先機関で発表される合格者名簿で自分の名前を確認するまではドキドキしていました。発表当日は札幌に遊びに来ていた両親と道内を旅行していたので、あらかじめ合否の確認を頼んでいた友人のところに電話をして合格を知りました。しかし、不思議とうれしさはありませんでした。それは合格を確信していたからではなく、試験でエネルギーを使い果たしたからだと思います。むしろ、何人かの級友が国試に落ちてしまったことがショックでした。

それでも、この春から東京逓信病院で研修できることがうれしかった。はじめての東京生活ということもありますが、それ以上に自分が目指す医師像に向けてスタートを切ることに少し興奮していたのでした。臨床家になるのか、それとも大学で研究者になるのか、そんな遠い将来のことまで考えていませんでしたが、まずはしっかり内科の知識と経験を身につけたいと思っていました。その意味で、東京逓信病院は大きさといい、施設面といい、スタッフの数といい、私の理想通りの病院だったのです。

実は国家試験が終わってからちょっとした「事件」がありました。看護師をしていた妹が働く病院に、北大医学部の先輩であり、医学界の歴史に残る手術をされたある有名な先生がいました。私が北大医学部を卒業したことを妹から聞いて「是非会いたいから連れてきなさい」と言ってくださったのでした。当然私もTVや新聞などでよく知っていた先生でした。でも、あまりにも偉い先生だったので、私のようなまだ研修医にもなっていない者が挨拶にいくなんて、と尻込みしていました。でも、「せっかく言ってくださったんだから」という妹にせっつかれて病院に会いに行くことにしました。

私には珍しく正装して会いに行きましたが、TVで見たことのあるその先生は笑顔で私を出迎えてくれました。そして「おめでとう」と力強く握手をしてくださいました。そのあとなんの話しをしたのかはよく覚えていないのですが、挨拶に行くのだからと持参した商品券を手渡そうとしたとき、先生はその商品券の包みを手に取って「なにがはいってるの?」と私に尋ねました。私がとまどいながら「商品券です」と答えると、先生は「そう。遠慮なくいただくよ」と懐にしまうとすぐにその包みを私に返しました。そして、「これは私からの卒業祝い。こういうものは立派な医者になってからにしなさい」と言ってくれました。

まだ学生だった私が偉い先生に商品券などを渡そうとしたことが恥ずかしく思えました。顔を真っ赤にしながらかしこまっている私に先生は続けました。「ところで君はどこで研修するのかな?」と。私は「東京逓信病院にしました」と答えると、先生は「そんなところで研修してもだめだ。今からでも遅くないから断りなさい」ときっぱり言いました。あっけにとられる私をよそに、先生は「君は女子医大で研修するんだ。そして、結婚相手に開業医の娘を見つけ、経済的に余計な心配をしないですむ環境で研究を続けること。いいね」と。私はその押しの強さに驚いて、あいまいな返事をして早々に札幌に帰ってきました。

ところが、札幌から東京に引っ越す準備をしているとき、先生から電話がかかってきました。「もしもし○○です」と先生。私はあの先生からとはまったく気がつかず、つい「どちらの○○さんでしょうか?」と失礼なことを聞いてしまいました。すると「妹さんが働いている病院の○○です」と。びっくりした私は「もうしわけありません」と電話口でなんども頭をさげていました。「研修病院の件はどうなりましたか」。どうやら先生はあいまいに返事をして逃げ帰った私にダメ押しの電話をかけてきたようでした。冷汗を拭き拭きお礼を言いつつなんとかその場を取り繕って研修病院の件をお断りしたのでした。

そんなこんながあってようやく東京逓信病院の研修医になれた私でしたが、逓信病院での生活は予想以上に充実していました。春には外堀通りの観桜会、夏は靖国神社の「みたま祭り」。四季折々の風景が病院の界隈にはあふれています。近くには東京大神宮もあれば大学もあり、日曜日には神楽坂の散策もできる。電車も都内の各所に行くにも便利な路線が通っており、自転車やバイクがあればさらにいろいろなところに足を延ばせる。当時、研修医用の宿舎をもっている病院は逓信病院くらいでしたから、夜中まで仕事をしていても病院の敷地内にある宿舎に戻れる。こんな快適で生活のしやすい研修場所は他になかったと思います。

先生方もすばらしい先生ばかりでした。我々研修医をことあるごとにいろいろなところに食べに連れて行ってくれる先生。夜中に突然現れて、まだ仕事をしている私たちに差し入れをして励ましてくれる先生もいました。教育用のプリントを作ってくれて国家試験後すっかりバカになった我々の頭を活性化してくれた先生。あるいは自分が経験した貴重な症例を示しながら講義をしてくれる先生など、医師としてはもちろん、人間的にもすばらしい先生が多かったと思います。それらの先生方とは今でも年賀状のやり取りをしていて、当時のことを懐かしんでいます。

たった2年間ではありましたが、こんな私でもなんとか医者らしくなれたのは逓信病院のおかげ。ここでのいろいろな体験や経験が自分をここまで成長させてくれました。目をつぶればいろいろな思い出がよみがえってきます。どれもが医師としての今の自分の下地になっていると思います。病院の界隈を歩くたびに、つくづく「ここは自分の心の故郷だなぁ」って感じます。

 

 

 

 

 

 

 

現実はあそこにも

私はいわゆる「医療ドラマ」というものを見ません。現実との違いにとても見ていられなくなるからです。三十代そこそこの医者が「天才外科医」と呼ばれたり、出てくる医者が皆判で押したように高級外車を乗り回し、まるで「鳩山御殿」かと見まごうような家に住んでいる。あるいは代々医者の家庭に嫁いだ女性が姑に「○○家の後継ぎを産むのがあなたの使命なのよ」なんてすごまれる。まれにそうしたケースがあるかもしれませんが、そんな話しは私のまわりで見たことも聞いたこともありません。

そもそも三十代そこそこの医者と言えば、後期研修をおえてようやく独り立ちする年齢です。第一術者になれるかどうかって年齢でどうして「天才外科医」なんでしょう。しかもそれで「大学教授」なんてちゃんちゃら可笑しくて見ちゃいられません。高級外車をこれ見よがしに乗り回し、立派なおうちに住んでいる医者だって今どきそういるもんじゃない。いることはいますよ、私たちと別世界の人達は。でもそれは少数派。だって多くの医者はそんな生活するために医者になったわけじゃありませんから。

世の中に幅を利かせているイメージって、実は結構いい加減なものです。私の父は警察官でしたが、刑事ドラマを見ている父を見たことがありません。これもドラマに出てくる警察官の姿と実際があまりにも違いすぎていて、ちゃっちくて見ていられなかったんだと思います。もとより医療の世界はある意味で閉鎖的ですから、そうしたいい加減なイメージが作られやすいのでしょう。逆にいうと、一般の人には知られていない苦労も医者には多い。そんな苦労を知ってもらうためにも医療の本当の姿をドラマ化してほしいのですが、イメージ先行の今の世の中ですからなかなかそんなドラマにお目にかかれません。

僕らのときは、大学病院の研修医の月給は約5万円。市中病院でも月給約15万円ほどでした。私達には労働基準法は適用されません。研修医のほとんどは24時間、365日の勤務みたいなもの。いくら残業してもそのほとんどはサービス残業なのです。それでも指導医には「おまえら研修医は本来給料なんてもらっちゃいけないんだ」と言われたくらいです。でも、研修医は給料をもらえるのでまだましです。医員と呼ばれる大学の医者のほとんどは無給です。それでは食べていけませんから、医員の多くは大学病院での勤務が終わると他所の病院で外来診療をしたり、検査や当直のアルバイトをします。そして、大学に戻れば通常勤務。

私が一人前の医者になったころ、研修医の過労死の問題がクローズアップされて待遇が見直されました。そして、今ではアルバイトを禁止するかわりに給料が増額されたようです。病院によっては朝9時に勤務開始、夕方5時に勤務終了なんて夢のような研修ができるところもあると聞きます(個人的にはそれがいい研修だとは決して思いませんけど)。ですから、その勤務時間をはずれての業務は指導医がやらなければならないとか。僕らの頃は雑務は研修医がやるものだったのですが、そんな時代になっちゃったんですね。もっともそんな病院は現実には少数でしょうけど。

医者になりたてのころ、私がアルバイトに行かされていたのは東京の下町にある小さな病院でした。月に1回だけ土曜日の午後から日曜日の午前中までの日当直が仕事でした。入院中の患者の具合が悪い時に病棟に呼ばれて薬を出したり、あるいは検査をしたり、ときには休日の外来診療もやらなければなりませんでした。その病院の近くにはお寺がいくつかありました。最寄りの駅を出て病院に向かう道は下町の風情を残していて私は嫌いではありませんでしたが、ちょっぴり寂しい雰囲気の場所でした。その道すがら、ひとつのお寺の門前に掲示板があるのに気が付きました。そこはそのお寺の歴史が書かれてありました。

病院の周辺はかつて花街であり、昔はたくさんの女郎さんが働いていました。その女郎さんたちは病気になって働けなくなると故郷に帰されるのですが、中にはその故郷になんらかの事情で戻れない人もいます。そうした人たちが亡くなると、この寺の前に捨てられていったのだそうです。そのお寺はそんな人たちを弔うところだったのです。いつもこのお寺の前を通りながら、私は心の中で手を合わせていました。住宅地のなかにポツンと立っているそのお寺の悲しい歴史を知ると、なおいっそうお寺の界隈が悲しく見えてきて、当直する病院もなんとなく悲しげに見えたものです。

病院はその場所に古くからある個人病院でした。古びた建物は増改築を繰り返して複雑な構造をしていました。曲がりくねった狭い廊下を歩くといろいろな病室が並んでいます。どの病室も畳敷きで、患者はその畳の上に布団を敷いて寝ていました。酸素吸入を必要とする患者の枕元には酸素ボンベが無造作に転がっていて、私はカルテを入れたスーパーのかごをぶらさげながら回診をしました。入院患者は皆高齢者で、かつて花街の女郎さんだった人もいましたし、ヤクザだった人や在日朝鮮人も少なくありませんでした。多くは肝炎を患い、肝硬変となり、中には末期癌となっていた患者もいました。

私は回診をしながら「この人たちにはもうここしか居場所はないんだ」ということを思い知らされました。引き取ってくれる家族もなく、帰る故郷もない。皆うつろな目をして一日中天井を見ている。中には「先生、この病院から出してください」と私の腕を力なくつかんで涙をこぼす人もいました。まるで死ぬのを待っているかのような人たちを見ながら切ない気持ちを抑えて回診をしました。夜になると、病棟からはうめき声が。「苦しい、苦しい。誰か、誰かっ」。それも一人ではありません。消灯後の暗闇の中で助けを求める声がずっと続き、そのたびに私は病棟に呼ばれていました。

あるとき、外来にひとりの高齢のご婦人が急患で来院しました。「胸にできたおできが治らない」ということでしたが、診察室に入った私はすぐにその患者から悪臭が漂っていることに気付きました。その患者の衣服を脱がせ、胸に当てられているタオルをとって私は驚きました。左の乳房に大きなしこりがあり、その表面から血液の混じった浸出液がにじんでいたのです。悪臭はここからのものでした。明らかに末期の乳がんです。聞けば半年以上前からしこりには気が付いていた、と。しかし、そのご婦人は怖かったのか、あるいは貧しい生活に医療機関に受診する余裕がなかったのか、これまで放置していたといいます。

私は言葉を選びながら「これは病院で検査を受けなければなりません」と説明しました。すでに悪性のものであることを察しているのか、それほど驚く様子もありませんでした。でも、その表情からは病院に受診しないだろうことは容易に想像できました。乳房のしこりから滲み出し、悪臭を放っている浸出液をぬぐって、軽く消毒をしてガーゼを当てながら、きっとこの人はもはや死ぬ覚悟をしていると感じました。私は痛み止めと抗生物質を渡しながら、「(経済的な理由で病院に受診できないのであれば)区役所に相談すればいい方法を考えてくれるので、週明けには必ず区役所に連絡してください」と説明しました。

丁寧に礼を言って診察室から出ていくその人の後ろ姿を見ながら無力感を感じていました。普段努めている近代的な病院とはまるで違う医療がここにはある。医療はすべての人に平等だと言われているけど、現実は決して平等なんかじゃない。でも自分にはなにもできない。「社会の吹き溜まり」とも言うべき現実を突きつけられ、その無力感に押しつぶされそうだったのです。陽も満足にあたらない薄暗い病室の布団の上に横になり、ただじっと天井を見ているだけの患者たちを今でも思い出します。なにもできない無力感にうちのめされたあのときの自分と共に。医療の現実はあそこにもあったんだと改めて思います。

 

心に残る患者(4)

母校にもどってはみたものの、千葉にいたときからいろいろな出来事があって、私は大学というものに少なからず失望していました。そんなこんながあって、私は大学を去り、小樽のとある療養型の病院に勤務することになりました。小樽は長崎と同様に「坂の街」でいたるところに坂道があります。私が勤務することになった病院は、それまであった場所から遠くに小樽築港を望む景色のよい場所に移転して建て直されたばかりでした。新しく広々とした建物の中からは四季折々の市内を見渡すことができました。

入院患者の多くは寝たきりや、重い認知症の高齢患者でした。大学での診療と比べると、この病院での仕事はずいぶんと内容の異なるものでした。ただベットに横たわるだけの寝たきり患者、末期癌や食事をまったく受け付けなくなった高齢患者を受け持ちながら、人生の最期をいかに迎えるか、人間の死にざまはどうあるべきなのかについて考える機会になりました。医師として命の幕引きのお手伝いをしながら、ときには理想的な医療と現実のはざまの中で人の一生がとてもちっぽけに見えたりすることもありました。

この病院で受け持っていた患者の中にM子さんという寝たきりになって10年以上になる方がいました。M子さんはこれまでの20年もの間になんども脳梗塞を繰り返してきました。その間、手足は固く折り曲げたまま拘縮し、ただ一点を見つめるままで声をかけてもまったく反応をしなくなっていました。そのM子さんのもとにはご主人が毎日お見舞いに来ていました。おふたりにはお子さんがおらず、ご主人は銀行を退職してからずっと奥さまの元に足を運ぶことを日課にしていたのでした。

とうに80歳を超えたおふたりが病室で過ごされる時間が唯一の夫婦の時間でした。ご主人はいつも決まった時間に花束をもって病院にやってきました。ときどき道端で摘んできた野草を片手に来院することもありました。奥さまの病室に活けるためです。そんな優しいご主人は奥さまとお話しするでもなく、枕元に置かれた椅子に腰を掛けて静かに本を読んで過ごしておられました。そして、ひとしきり奥様との時間を過ごすと、午後、定時に自宅にお帰りになるのです。

M子さんの病室は個室でしたが、いろいろな家財道具が置かれてあって、まるでご夫婦の部屋のようでした。そこで一日の多くを過ごされるご主人と私は、はじめは短いあいさつを交わす程度でしたが、次第にいろいろなお話しをうかがうようになっていました。ご主人が銀行を定年で退職した矢先に奥さまが脳梗塞に倒れてしまい、それ以降、20年以上もの長い間、ご主人はずっと奥さまの介護に明け暮れていたのだそうです。それでもご主人はそんな話しを決して苦労のようにお話しすることはありませんでした。

ある年のお正月のこと。状態の悪い受け持ち患者の様子を見に病院に来た私は、M子さんの病室にご主人がいらっしゃるのを見かけました。「お正月もいらっしゃったんですか?」。そう私が声をかけるとご主人はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらうなづきました。病室に置かれたテレビはもっぱらご主人が見るためのものでしたが、そこでは正月恒例の箱根駅伝の中継が放送されていました。その中継を見ながら、ご主人は「私、箱根駅伝を走ったことがあるんですよ」とぽつりと言いました。

「そうなんですかぁ!」、そう言って驚く私には目もくれず、テレビで伝えられている中継を見ながらご主人は静かに語り始めました。かつて早稲田大学の学生だったご主人は4年間を駅伝に明け暮れ、最後の年に念願の箱根駅伝の走者になれたこと。このときに知り合った奥さまと結婚され、その後、生まれ故郷である小樽に戻って銀行に勤めたことなど、これまでお聞きしたことのなかったことを話してくれました。私はそのとき、ご主人は奥さまとの思い出の駅伝を二人で見るために病室へ来ているんだと思いました。

ご主人の優しさが悲しいくらい素敵に思えて、私はちょっと感動してしまいました。寝たきりの患者にはお見舞いの方が来ない人が少なからずいます。奥さんやご主人、あるいはお子さんなどがいるにも関わらず、です。はじめは足しげく通ってこられても、それが1年になり、2年になると足が遠くなってしまうのです。それぞれの生活があるのだからそれは仕方ないことです。しかし、そんな中で20年以上もこうして奥さまのお見舞いに通ってこられるご主人は本当に立派だなぁと私は感心していました。

そのM子さんも徐々に様態が悪くなり、とうとう臨終が近づいてきました。しかし、ご主人はこれまでと変わらず、毎日花束をもって病院にやってきました。ちょうどそのころ、ご主人も実は体調を崩されていたのでした。もともと肝炎ウィルスのキャリアーだったご主人は肝臓癌になってしまったのです。それでもご主人はすべてを受け入れているかのようになにもかもが普段通りでした。しばらくして奥さまが亡くなり、今度は自分が同じ部屋に入院することもすべてが予定されていたかのようでした。

ご主人は奥さまのあとを追うようにあっという間に亡くなってしまいました。病室には主を失った家財道具だけが残されていました。ご高齢となっていたお二人の身寄りと言えば、神奈川県に住んでいるご主人のお兄さまだけでした。ご主人の様態が悪い時になんどかお見舞いに来られましたが、お兄さんはご主人とは違って厳格な印象のある方でした。言葉少なく、弟の病室にしばらくいるとすぐに神奈川に戻っていきました。そんな様子に、この二人の兄弟にはなんとなく疎遠になっているような雰囲気が感じられました。

M子さん、そして、ご主人が亡くなり、病室に残された家財道具を引き取りにお兄さまが病院に来られました。私はお兄さまからご挨拶をいただきながら、弟さんの面影を感じさせるお兄さまの顔を見つめていました。何十年も離れて住んでいたせいか、亡くなった弟夫婦のことに感傷的になることもなく、冷静に受け止めているようでした。あのご主人もこのお兄さまも、お年は召していても理性的な雰囲気がありました。私はそのお兄さまに病室での弟ご夫婦の在りし日の様子をお話ししました。

「ふたりは仲がよかったですからね」とお兄さま。ところが、私がお正月にお二人で駅伝の中継をテレビで見ていたときのことをお話ししたとき、それまでのお兄さまの穏やかな表情が一変しました。「弟さんは駅伝の選手だったそうですね」と私がそう言うとお兄さまは、「もしかすると、早稲田大学の駅伝選手だったと言いましたか?」といぶかしげに言いました。私はその変わりように驚きながらうなずくと、お兄さまはすべてをお話しされました。

実は、弟さんは駅伝の選手でもなければ、早稲田大学卒業でもなかったのです。もちろん箱根駅伝を走ったこともなかったのです。私はM子さんのご主人から聞かされていたことの多くが「嘘」だったことに打ちのめされていました。毎日花束をもって病院に来ては、ただじっと寝ている奥さまの枕元に座って静かに本を読んでいたご主人。お正月に「思い出の箱根駅伝」を奥さまとご覧になっていたあのご主人が私に「嘘」を語っていたなんて。私はお兄さまが帰られたあともしばらくはショックから立ち直れませんでした。

でも、その後、いろいろな高齢患者の診療に関わり、さまざまな最期を看取る中でその「嘘」の受け止め方が少しづつ変わってきました。つまり、ご主人が語られたことの多くが偽りだったとしても、ご主人は奥さまとの生活を自己完結したのだからよかったではないかと思えるようになったのです。自分が「早稲田大学卒」の「元駅伝選手」で、「箱根駅伝が妻との思いで」であり、「20年以上もの間、妻の介護に残された人生を捧げた夫」を演じたご主人の生き方は決して「嘘」ではなかったのかもしれません。

人間の一生は短いということは齢五十を超えて実感としてわかってきました。1年はおろか、10年などあっという間です。その短い人生を泣いて暮らしても、不満をぶちまけながら暮らしても長さを同じです。同じ期間を生きるのであれば、できれば最期に自己完結できるような生き方をしたいものです。多くの寝たきりの高齢者が入院する病院で診療してきた私はそう思います。それは、M子さんのご主人が、私たちに語ってきた「嘘」を演じることで日常を自己完結できたのと同じように。

幸せの定義はひとそれぞれです。なにがよくて、なにが悪いという問題ではありません。大事なのは生きることからなにを学んでいくかだと思います。私は医師という仕事をしながら、さまざまな人の死にざま、生きざまを見ることができました。それらを通じて、ひとよりもより深く生きてこれた気がしています。なにげなく普通に生活していては知ることのできないことにも気が付けました。その意味で、M子さんとご主人の「人生」は私にとって貴重な「体験」であり美しい「おとぎ話」だったのではないかと思っています。

アメリカ滞在記(1)

私がはじめてアメリカに行ったのは2000年の1月のこと。アメリカ合衆国ミシガン州アナーバーにあるミシガン大学と共同研究をすることになり、その打ち合わせをするために渡米したのでした。実をいうと私はそれまで一度も海外旅行に行ったことがありませんでした。新婚旅行でさえ金沢だった私ははじめての国際線だったのです。それはアメリカに同伴する私の家内も同じで、二人ともアメリカ行きが決まると英会話のにわか勉強を開始したりしていました。でも、日本を離れるという当日は飛行機に乗り込む直前まであわただしかったのですが、共同研究の助手として参加する大学院の後輩と一緒だったせいかさほど緊張もしないで済みました。ミシガン大学には成田空港からシカゴ行きノースウェスト航空機に登場し、シカゴ空港で国内線に乗り換えてデトロイト空港まで行かなければなりません。本来であればデトロイトまでの直行便で行けばよかったのですが、運賃がずいぶん安かったシカゴからの国内線乗り継ぎで行くことにしました。しかし、そのセコい選択があとで大事件を招くことになりました。

飛行機の座席は満席。日本人ばかりかと思っていたらアメリカ人らしき白人にまじって、関西空港乗り換えの東洋人(あの「パワフルな団体」はどう見ても大陸系の中国人。旅行者という恰好ではなく移民って感じ)が多かったので少しホッとしたのを覚えています。これが白人ばかりだったらさぞかし緊張したでしょうけど。ノースウェスト航空だったのでCAは皆外国人でした。食事のとき、事前に英会話の本で勉強していた「chicken or beef?」と言いながらCAが機内をまわってきたときは感動しました。「これが『チキン オア ビーフ』かぁ」って。それでもネイティブスピーカーの英語の速さはやはりなかなかついてゆけず、私の耳に彼らの言葉はなかなか入ってきませんでした。実は私は高校でドイツ語を選択したので、英語は中学レベルで終わりでした(でも、大学は英語で受験しました。それもいろいろあってのことですが、いつかまたお話しします)。しかも、40歳となって初めて海外旅行をするまで耳から入る英語の勉強をしたことがなかったので、ある程度は話せても相手の言葉を聞き取るのが難しかったのです。

成田からシカゴまで12時間は長かったです。それに退屈でした。当然のことながらエコノミークラスでしたから足を伸ばして寝れるわけでもなく、一緒に乗った中国人達のように横になるスペースのある座席に移動して寝てしまうなんてこともできなかった私はほとんど眠れませんでした。それでも、アメリカの領空に入り、陸地が見えてきたとき、窓の外に広がる日本とは異なる風景に興奮しました。「は~るばる来たぜアメリカ~っ」って感じ。私も家内も後輩もシカゴ空港に着いたときはクタクタになっていましたが、そんな疲れを吹っ飛ばすような事件がおこりました。シカゴ空港はアメリカでも超過密なスケジュールで航空機が離発着することで有名です。私たちの乗った飛行機も案の定滑走路の渋滞によって上空で待たされることになりました。それでなくてもその影響で乗り継ぎ時間がどんどんなくなっていったのに、国際線ターミナルから国内線ターミナルへ移動するときに利用するモノレールが故障で運休していました。代行運転されているバスに乗り換えることになっていましたが、不案内な空港内でそのバス停すら見つからずにいました。

ちょうどそのとき、そばにいた警察官に「代行バスはどこで乗ればいいのか?」と尋ねました。その警官はにこやかに「便名は?」と聞き返してきました。その笑顔にちょっとだけホッとしながら私たちが乗る飛行機の便名を教えると、その警官はびっくりした表情に一変。「なんてこった。あと10分で出発じゃないか。急げっ!」と私たちを急き立てるようにバス停を指さしました。私たちはどのバスに乗ればいいのかもわからないまま、やってきたバスに飛び乗りました。しかし、そのバスを運転していた黒人のお姉さんの車内アナウンスの声がこれまた小さくて聞き取りにくくてしかも南部なまり。そのお姉さんになんども聞き返しながら降車場所を教えてもらい、国内線ターミナルに降りた私たちは全力疾走。それでも出発時刻はとうに過ぎていて、予定していた飛行機に乗るのを半ばあきらめながら走っていました。遠くに乗り場が見えたとき、待合所には誰もいませんでした。飛行機はもう飛び立ってしまったのか?そう思ったとき係員の声が。「早く、急げ。扉を閉めるぞ」。今まさに扉を閉めようとしているときだったのです。かくして三人は予定した飛行機に奇跡的に搭乗できたのでした。

デトロイト空港に着いたとき、シカゴでのゴタゴタのおかげでどっと疲れてしまいました。しかし、今度はミシガン大学のあるアナーバーまで行くレンタカーを借りなくてはいけません。空港に設置されているレンタカー会社の電話を探して営業所に電話をかけ、すでに予約しており、空港までバスで迎えに来てほしいことを伝えました。このころのミシガンは札幌並みか、それ以上の寒さでした。街の中を走る車はもくもくと水蒸気の雲を吐き出して走っていましたし、融雪のために塩がまかれた道路にはシャーベット状の雪と氷がわだちを作っていて真冬そのもの。しかし、アメリカの地に降り立ったことに少し興奮していた私は少しも寒くありませんでした。レンタカー会社で手続きを済ませ、借りたポンティアックを走らせると思わずアクセルを踏んでいました。「ちょっと、あぶな~いっ」と助手席の家内が悲鳴をあげます。「そんなにスピード出てないよ」。「違うってば。走行車線が反対なんだってば。ほらっ」と家内が指さす方から対向車がクラクションを鳴らしながら迫ってきます。そうです。ようやくミシガンに着いたことに興奮してしまった私は反対車線を軽快に走っていたのでした。

アナーバーには順調に着くことはできませんでした。レンタカーには今みたいにナビが付いているわけでもなく、日本のように微に入り細にいる案内表示板があるわけでもありません。ましてや横文字ばかりだった(あたりまえですが)ので道に迷ってしまい、地図を持たせた助手席の家内をナビゲーターにして走りながらなんども地元の人に道を尋ねるはめに。しかし、こちらの英語が怪しげなせいもあって、いつまでたっても目的地に到着しません。ようやくアナーバーの宿泊先であるホテルに着いたのはもうすっかり暗くなってからでした。ホテルの部屋に入るとどっと疲れが出てしまい、このまま寝てしまいたいくらいでした。でも、家内も一緒に連れてきた後輩も空腹だというので、近くのピザ屋に買い出しに行ってくることにしました。アメリカの夜道は危ないので家内はひとりでホテルで留守番。後輩と二人でピザ屋に行くことにしました。後輩は身長が180㎝あり、筋肉質でがっちりタイプ(ただ太ってるだけ?)。ひげ面で、ちょっと見はアラブ系にも見えるので用心棒にはもってこいでした。

ピザ屋に着くと、店の奥でアルバイトらしき白人のお兄ちゃんが数人で雑談をしていました。なぞのアラブ人を連れた東洋人が入ってきたせいか、私たちを見るお兄ちゃんたちの顔からは笑顔がさっと消えました。なんとか英語で注文しましたが、応対したお兄ちゃんは私になにか質問をしています。でもなんと聞かれているのか、私も後輩もわからない。何度か聞き返すうちに「おまえの名前はなんていうんだ」と言っているようでした。そこで私は「セバタ。セ・バ・タ」と繰り返しました。でも、お兄ちゃんは首をひねってばかりでわかってくれません。そのうち、お兄ちゃんは「お前の名前はボブだ。ボブだから」と念を押しました。私は「いや、違う。私の名前はセ・バ・タ」と言い直すのですが、お兄ちゃんは怪訝そうな顔をしてついには「いいんだ。お前はボブなんだ」と言い残して店の奥に行ってしまいました。しばらくすると、そのお兄ちゃんはピザの入った箱を持ってやってきました。「ボブ、できたぞ。うまいぞ」と言って私に箱を手渡しました。私は箱を受け取りながら「いや、私の名前は…」、そう言おうとするとお兄ちゃんは「オーケー。お前はボブ、ボブでいいんだ」とめんどくさそう。

ホテルに持って帰ったピザのまずかったこと。野菜はしなびていて、サラミは干からびているし、ピザの生地だって日本で食べるピザの方がどれだけ美味しいことか。お兄さんに「お前はボブ」だと言われ、東洋人だと思って馬鹿にされたように感じたこともピザを不味くしたのかもしれません。でも、あとで共同研究者のアメリカ人に聞いてみると、アメリカ人にとって「せばた」という名前は聞き取りが難しいとのこと。彼が言うには、唯一聞き取れた「ば」の破裂音から「ボブ」というなじみのある名前を仮の名前にして私を呼ぼうとしたのではないかということでした。お兄さんの苦肉の策だったというわけ。そんなこんなでいろいろなことがあったアメリカ旅行の一日目がようやく終わろうとしていました。その日の夜は爆睡してしまいましたが、次の日はいよいよ共同研究者を訪ねてミシガン大学に行くことに。興奮と感動の珍道中は私にとっては思い出深い貴重な体験でした。初めての海外旅行にしてはあまりにもハードすぎましたが。それでもこの体験でアメリカをより身近に感じることができましたし、アメリカの懐の深さというべきものも感じることができました。なにより、私自身のモチベーションを高める体験となりました。

アメリカ滞在記(2)」もご覧ください。

 

 

井の中の蛙

医師国家試験の合格発表がありました。今年は1985年以降で最高の合格率だそうです。わが母校・北海道大学の合格率はそれほど振るわなかったようですが、毎年あのような数字で相変わらずのマイペースです。ちなみに東京大学の合格率が90%を切っていて「あんなに優秀な人たちなのに」と不思議に思うかもしれません。でも、「医学部に入りたい」ということと「医師になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということは必ずしも同じではないといういい証拠なのです。数学オリンピックや各種学術オリンピックで優勝するほどの学生が、医学部に流れて来てしまったばっかりに国試に落ちて宙ぶらりんになってしまったのでは頭脳を浪費したようなもの。本当に自分のやりたい学問の道に進んでいれば、彼らにとっても日本にとってもいいことなのにと残念です。それはともかく、6年間の長い学生生活の中でたくさんの履修科目の試験をクリアし、進級試験を切り抜け、卒業試験をパスした上での国家試験の合格。ほんとうにご苦労さまと言いたいです。と同時に、これからが本当の修練であることを肝に銘じて頑張ってほしいと思います。

ところで、医者には世間知らずと思われる人が少なくありません。それは大学を卒業するとすぐに「先生」と持ち上げられ、医療という特殊な世界にどっぷりつかってしまい社会常識を身に付ける機会がないまま大人になってしまうからかも知れません。私のまわりにも、自分の父親よりも年上の製薬会社の営業マンに「タメぐち」をきいてもなんとも思わない若い医者がいましたし、人に文句は言えても、日常の挨拶や、「ありがとう、ごめんなさい」という基本的なことも言えない医者もいました。医学生のとき、所属していたクラブの部室に外部から電話がかかってきたので、「○○は今不在ですが、ご用件はなんでしょうか?」と先輩を呼び捨てにしたところ、「先輩に向かって呼び捨てはないだろ」とその本人に注意されてびっくり。「社会ではそれが常識じゃありませんか」というと、「医療の世界と世間は違うんだ」とおよそ考えもおよばない言葉をぶつけてきた先輩もいて、世間知らずっているもんだなと思ったものです。一般社会とかけ離れているって意識をなかなか感じられない世界なんでしょう。

私がまだ北大病院で仕事をしていたころ、臨床実習でまわってきた学生に茶髪の男の子がいました。私たちのころとは違って、講義の時に最前列で缶コーヒーを飲める学生がいる時代になっていたので、茶髪の学生にはそれほど驚きませんでした(でも、白状すると「北大にもついに茶髪の学生かぁ」なんて思いました)。しかし、いくらなんでも臨床実習に茶髪はどうなんだろと思った私は、その学生に「その茶髪で実習にでてるのかい?」と疑問を投げかけてみました。するとその学生は表情も変えずに「はい、そうですけど」と。私はその平然とした様子に驚いたのですが、「もし、患者が『茶髪の医者にはかかりたくない』と言ったらどうするの?」と尋ねてみました。すると「そのときは僕以外の医者にかかるようにいいます」と。そして、「医者の力量と外見は関係ありませんから」と念を押す始末。私は唖然として、「それほどまで信念もって茶髪にしてるわけ?」とあきれていると、「いいえ、茶髪ってそれくらい大した問題じゃないってことです」とも。さすが北大生。妙に感心してしまい、それ以上何も言えませんでした。

限られた世界に身をおいていると、一般社会がどうなっているかに気が付かないばかりか、それが常識はずれを飛び越えて非常識であることにすら気がつきません。私が研修したのは公的な病院だったせいか、業者からの接待は厳しく制限されていました。私が医学部を卒業したころは、病院と企業の癒着が社会問題になりつつある時でした。ですから、当時は製薬会社が提供するボールペンすらもらってはいけないような雰囲気がありました。だからというわけではありませんが、医局の歓送迎会や忘年会・新年会は先生方の割り勘であり、製薬会社の営業マンが支払いをするなんてこともなく、私達研修医の費用でさえも先生たちが支払ってくれました。ところが、私立大学の医局に移ったとたんにそれらのほとんどが業者の支払いになっていることにびっくり。ある先生などは、病棟の看護婦さん達に「今日、夕飯をごちそうするから食べに行かない?」と誘っているので、「あの先生は太っ腹だな」と感心していたら現場には製薬会社の営業マンが待っていた、なんてセコい話しもありました。

こんな昔の光景は今は見られないのかもしれませんが、大学を卒業してからずっとそんな環境にいたら、それが一般社会では常識はずれだってことにも気がつかないんだなぁと当時思ったものです。最近、公務員が他の省庁や一般企業に出向するのが当たり前になっていますが、これもそうした弊害を防ぐためのものなのでしょう。その意味で、いちど社会人を経験した人を医学部に学士入学させることはいいことだと思います。一方で、医学部の学生のうちに一定期間だけ医師以外の職種を経験させることも重要です。学生のときに所属していたクラブの実習でいわゆる老人ホームでケアワーカーの仕事をしたことがあります。そのとき、当時の私のような若い男性に下の世話をさせることを嫌がるおばあさんがいたこと、その施設で働くケアワーカーの仕事がどれだけ大変で大切なことかということも、病院とは異なる場所で、医療従事者とは異なる視点を持てたからこその気づきでした。そのことがあってか、以後、病院で働いていても他の職種の人達のことを身近に感じることができたと思っています。

そういう私にも恥ずかしいエピソードがあります。二年間の臨床研修を終えた私は、私立大学の医局に入局することになりました。その医局の新入局員の先生たちと私は主任教授の自宅に招待されたのでした。教授のお宅は東京都千代田区一番町という都心の中でもイギリス大使館などがある静かな高級住宅地にありました。当時、オートロックなど見たことがなかった私はマンションの入り口の前に立っても扉がまったく開かないことに戸惑っていました。すると、中から出てきた住人らしき人に、それがオートロックドアといい、住民の部屋の番号をボタンで押して施錠を解除してもらわなければ入れないことを教えてもらいました。教授のお宅に入ると、すでに10人はいるであろう新入局員のほぼ全員がすでに勢ぞろい。「遅くなってすみません」といって私が部屋に入るとなにかただならぬ雰囲気が漂っています。遅れて入ってきた私を見るみんなの目が点になっているのを私は見逃しませんでした。みんなの視線を感じつつ周囲を見渡すと、すぐにその理由がわかりました。なんと勢ぞろいしているみんなは背広の正装、私はジーンズにボタンダウンシャツ姿だったのです。

自宅に招待してくださった教授ですらネクタイにスーツ。奥さまもよそ行きの服装です。すっかり恐縮している私に同僚が「せばた先生らしいよ」と言ってくれましたが慰めになっていません。でも、もうひとりの入局員がまだ来ていないことを教えてもらいました。実はその先生は私以上に正装をしそうになかったのです。私はラフな格好をしたもうひとりの仲間がやってくるのを心ひそかに期待して待っていました。しかし、その期待はもろくも崩れ去りました。その「正装しそうもない先生」ですらスーツ姿だったからです。自己紹介ののちに奥さまの手料理の数々に舌鼓を打ちながらの歓談でしたが、私はこの場から一刻も早く姿を消したい気持ちを抑えながら歓迎会を終えました。最後に教授ご夫妻を真ん中にして新入局員全員で記念写真の撮影。ところが、後日、病院で教授から直々に手渡されたその写真を見てまたまたびっくり。教授が背筋を伸ばしてかしこまっている横で、私は大胆不敵に足を組んでニヤけているではありませんか。以後、私は悟りました。自分はこういう世界・雰囲気にまったくなじまないことを。

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。大海を知って成長する蛙もいますが、その大海の水があわずに、「やっぱり池の水の方がいいや」と開き直る蛙もいるのです。池に生活する蛙にとってあえて大海を知る必要があるか、という言い方もできます。どっちがどうと単純に割り切れないことではありますが、親から「おまえは変わってる」「お前には常識がない」と言われ続けてきた私にふさわしいエピソードでした。個人的にはいろんな蛙がいていいんだと思うんだけどなぁ・・・。

 

憂鬱な季節

1週間ほど前から花粉症の患者が増えています。それまで症状が軽かったのに限度を超えたために来院した人もいれば、症状が急に出てきたことから受診してきた人もいます。おそらく杉の花粉量が急速に増加したからでしょう。それは私の実感からもわかります。私もバリバリの花粉症だからです。昔から「春よ来い、早く来い」と歌われているように、世間では春は待ち遠しいものされています。でも、毎年花粉症に苦しむ私にすれば春は「憂鬱な季節」でしかありません。早く来て、すみやかに過ぎ去ってほしい季節です。暖かいのに底冷えしているような中途半端な気候もふくめて私にはどうしても春が好きになれません。

私が花粉症になったのは高校2年生のとき。発症するまでといえば、通学の途中、電車の中でくしゃみを連発する人を見かけると、それがとてもおかしくて笑いをこらえているほどでした。しかし、花粉症の症状はなんの前触れもなく突然現れました。高2の春のある日、夜明けにくしゃみが止まらなくなり、左右の鼻の穴からは鼻水があふれ出してきたのです。仰向けに寝ているのにあふれ出す鼻水。それはあたかも火山から流れ出す溶岩のようでした。しかも、鼻が詰まっているのであふれ出てきた鼻水をかむことができない。おまけに目はかゆく、目の周りは目ヤニでガベガベとなっていて開けることもできない。花粉症がこれほど辛いものだとは思いませんでした。

以後、私は、およそ40年余の長きにわたり、春になるたびにこの花粉症に苦しむことになりました。電車の中でくしゃみを連発していた人がどれほど辛い思いをしていたのかを身をもって知ったのです。今でこそそれなりにいい薬がありますから、2月から抗アレルギー薬を飲みはじめ、3月に点鼻薬と点眼薬を使いはじめればなんとか「辛い」という状況からは逃れることができます。しかし、花粉症それ自体があまり認知されていなかった当時はあまりいい薬がありませんでした。ですから、どの薬を飲んでも症状は楽にならず、市販の薬を指示された量の2倍の量を飲んだり、複数の薬を一緒に飲むなんてむちゃなことをすることもありました。それくらいに症状は激烈でした。

北海道に渡った理由のひとつがこの花粉症です。北海道には杉の木がありませんから。津軽海峡にひかれたブラキストン線によって本州と北海道の植生はそれほど違うのです。正確に言うと函館あたりまでは杉の花粉が飛んでいるそうです。しかし、札幌までとなるともはや私が症状に苦しむほどの花粉はほとんど飛んできません。ですから、札幌では1年を通じて花粉症の症状とは無縁の生活が送れます。4月になって雪がとけはじめ、入学式がおこなわれることには町中が泥と雪でぐちゃぐちゃに。そして、5月になってようやく本州の3月ごろの気候になりますが、あの憂鬱な症状から逃れることができます。長年花粉症に苦しめられてきた私にとってこれほど幸せなことはありませんでした。

北海道は5月になると急速に春めいてきます。木々が芽吹くと同時に、梅や桜、タンポポの花がいっせいに咲き始めます。まさしく百花繚乱の季節です。このころの札幌ではいたるところできれいな花壇を見かけます。杉のない札幌ではあれだけ私を悩ます花粉症の症状がないので、花をめでにいろいろな場所に出かけることができます。これが春を満喫するということなんだと実感できます。シラカバの花粉症っていうものはあります。春、いろいろな花が咲き始めるころ、シラカバの綿毛がふわふわと漂い出し、スギ花粉症ほどではないにしろ、クシュン、クシュンとくしゃみをする人がでてきます。幸い私はシラカバの花粉症ではなかったので。まさに快適な春を送ることができました。

札幌で花粉症とは縁遠い生活をしていると、自分が花粉症であることを忘れてしまいます。でも、花粉症のシーズンにときどき学会などで上京すると(この季節に帰省することはほとんどありませんでした)、自分が花粉症であることを思い知らされます。こちらに着いて48時間から72時間もすると症状がでてくるのです。札幌を発つとき予防のためにアレルギーの薬なんて飲んできませんから、突然花粉症の症状が出てきて辛い思いをすることになります。そして、早々に学会を切り上げ、逃げるように札幌への家路を急ぐことになります。このときほど札幌を恋しく感じることはありません。

このように札幌での快適な春を過ごしていた私ですが、こちらに戻ってきた10年前からは再び春を前に花粉症に対する事前策を講じなければならなくなりました。とくに今年の冬は暖かかったので、花粉の飛散時期が早まるだろうと予想して昨年末から抗アレルギー薬を飲み始めています。その効果があってか、これまではとくに症状もなく過ごすことができました。しかし、ついに1,2週間前からくしゃみや目のかゆみが出てきました。今は点鼻・点眼薬を併用しています。アレルギーの薬は辛い時だけ使用してもほとんど役に立たないので、早めに、そして、継続的に使用しなければなりません。私の場合、こうした薬を5月のGWまで続けることになります。

今ではお薬もいろいろと改良され、以前に比べてだいぶ効果を実感できるようになってきました。高校生のころのようなひどい症状で苦しむことはありません。眠気の副作用もそれほどでもなくなりましたし。来院する患者にも、私の経験をふまえてアドバイスすることができます。花粉症の症状がどれほど辛いのかも理解できます。例えば単に「鼻水が出て、目がかゆい」だけじゃないってことも。どの薬が効いて、どの程度の副作用があるのかなど、実体験を通じた説明をすることもできます。患者になってみなければ、わからないことって多いです。

もっと簡便で恒久的な治療法が開発されるといいなと思います。薬を飲むということも、点鼻薬や点眼薬を使うこともそう面倒なことではありません。しかし、できれば一回の治療でもうおしまいなんて治療法があればどれだけいいかと思います。長年花粉症に苦しめられてきた私にとって、花粉症こそが春を「憂鬱な季節」にしてしまった元凶なのですから。桜の枝がつぼみを持ち、清楚な花を咲かせるころ、また新たな気持ちになれるためにも新しい治療法の登場が待たれます。耳鼻科の先生方、よろしくお願いしますね。