アメリカ滞在記(1)

私がはじめてアメリカに行ったのは2000年の1月のこと。アメリカ合衆国ミシガン州アナーバーにあるミシガン大学と共同研究をすることになり、その打ち合わせをするために渡米したのでした。実をいうと私はそれまで一度も海外旅行に行ったことがありませんでした。新婚旅行でさえ金沢だった私ははじめての国際線だったのです。それはアメリカに同伴する私の家内も同じで、二人ともアメリカ行きが決まると英会話のにわか勉強を開始したりしていました。でも、日本を離れるという当日は飛行機に乗り込む直前まであわただしかったのですが、共同研究の助手として参加する大学院の後輩と一緒だったせいかさほど緊張もしないで済みました。ミシガン大学には成田空港からシカゴ行きノースウェスト航空機に登場し、シカゴ空港で国内線に乗り換えてデトロイト空港まで行かなければなりません。本来であればデトロイトまでの直行便で行けばよかったのですが、運賃がずいぶん安かったシカゴからの国内線乗り継ぎで行くことにしました。しかし、そのセコい選択があとで大事件を招くことになりました。

飛行機の座席は満席。日本人ばかりかと思っていたらアメリカ人らしき白人にまじって、関西空港乗り換えの東洋人(あの「パワフルな団体」はどう見ても大陸系の中国人。旅行者という恰好ではなく移民って感じ)が多かったので少しホッとしたのを覚えています。これが白人ばかりだったらさぞかし緊張したでしょうけど。ノースウェスト航空だったのでCAは皆外国人でした。食事のとき、事前に英会話の本で勉強していた「chicken or beef?」と言いながらCAが機内をまわってきたときは感動しました。「これが『チキン オア ビーフ』かぁ」って。それでもネイティブスピーカーの英語の速さはやはりなかなかついてゆけず、私の耳に彼らの言葉はなかなか入ってきませんでした。実は私は高校でドイツ語を選択したので、英語は中学レベルで終わりでした(でも、大学は英語で受験しました。それもいろいろあってのことですが、いつかまたお話しします)。しかも、40歳となって初めて海外旅行をするまで耳から入る英語の勉強をしたことがなかったので、ある程度は話せても相手の言葉を聞き取るのが難しかったのです。

成田からシカゴまで12時間は長かったです。それに退屈でした。当然のことながらエコノミークラスでしたから足を伸ばして寝れるわけでもなく、一緒に乗った中国人達のように横になるスペースのある座席に移動して寝てしまうなんてこともできなかった私はほとんど眠れませんでした。それでも、アメリカの領空に入り、陸地が見えてきたとき、窓の外に広がる日本とは異なる風景に興奮しました。「は~るばる来たぜアメリカ~っ」って感じ。私も家内も後輩もシカゴ空港に着いたときはクタクタになっていましたが、そんな疲れを吹っ飛ばすような事件がおこりました。シカゴ空港はアメリカでも超過密なスケジュールで航空機が離発着することで有名です。私たちの乗った飛行機も案の定滑走路の渋滞によって上空で待たされることになりました。それでなくてもその影響で乗り継ぎ時間がどんどんなくなっていったのに、国際線ターミナルから国内線ターミナルへ移動するときに利用するモノレールが故障で運休していました。代行運転されているバスに乗り換えることになっていましたが、不案内な空港内でそのバス停すら見つからずにいました。

ちょうどそのとき、そばにいた警察官に「代行バスはどこで乗ればいいのか?」と尋ねました。その警官はにこやかに「便名は?」と聞き返してきました。その笑顔にちょっとだけホッとしながら私たちが乗る飛行機の便名を教えると、その警官はびっくりした表情に一変。「なんてこった。あと10分で出発じゃないか。急げっ!」と私たちを急き立てるようにバス停を指さしました。私たちはどのバスに乗ればいいのかもわからないまま、やってきたバスに飛び乗りました。しかし、そのバスを運転していた黒人のお姉さんの車内アナウンスの声がこれまた小さくて聞き取りにくくてしかも南部なまり。そのお姉さんになんども聞き返しながら降車場所を教えてもらい、国内線ターミナルに降りた私たちは全力疾走。それでも出発時刻はとうに過ぎていて、予定していた飛行機に乗るのを半ばあきらめながら走っていました。遠くに乗り場が見えたとき、待合所には誰もいませんでした。飛行機はもう飛び立ってしまったのか?そう思ったとき係員の声が。「早く、急げ。扉を閉めるぞ」。今まさに扉を閉めようとしているときだったのです。かくして三人は予定した飛行機に奇跡的に搭乗できたのでした。

デトロイト空港に着いたとき、シカゴでのゴタゴタのおかげでどっと疲れてしまいました。しかし、今度はミシガン大学のあるアナーバーまで行くレンタカーを借りなくてはいけません。空港に設置されているレンタカー会社の電話を探して営業所に電話をかけ、すでに予約しており、空港までバスで迎えに来てほしいことを伝えました。このころのミシガンは札幌並みか、それ以上の寒さでした。街の中を走る車はもくもくと水蒸気の雲を吐き出して走っていましたし、融雪のために塩がまかれた道路にはシャーベット状の雪と氷がわだちを作っていて真冬そのもの。しかし、アメリカの地に降り立ったことに少し興奮していた私は少しも寒くありませんでした。レンタカー会社で手続きを済ませ、借りたポンティアックを走らせると思わずアクセルを踏んでいました。「ちょっと、あぶな~いっ」と助手席の家内が悲鳴をあげます。「そんなにスピード出てないよ」。「違うってば。走行車線が反対なんだってば。ほらっ」と家内が指さす方から対向車がクラクションを鳴らしながら迫ってきます。そうです。ようやくミシガンに着いたことに興奮してしまった私は反対車線を軽快に走っていたのでした。

アナーバーには順調に着くことはできませんでした。レンタカーには今みたいにナビが付いているわけでもなく、日本のように微に入り細にいる案内表示板があるわけでもありません。ましてや横文字ばかりだった(あたりまえですが)ので道に迷ってしまい、地図を持たせた助手席の家内をナビゲーターにして走りながらなんども地元の人に道を尋ねるはめに。しかし、こちらの英語が怪しげなせいもあって、いつまでたっても目的地に到着しません。ようやくアナーバーの宿泊先であるホテルに着いたのはもうすっかり暗くなってからでした。ホテルの部屋に入るとどっと疲れが出てしまい、このまま寝てしまいたいくらいでした。でも、家内も一緒に連れてきた後輩も空腹だというので、近くのピザ屋に買い出しに行ってくることにしました。アメリカの夜道は危ないので家内はひとりでホテルで留守番。後輩と二人でピザ屋に行くことにしました。後輩は身長が180㎝あり、筋肉質でがっちりタイプ(ただ太ってるだけ?)。ひげ面で、ちょっと見はアラブ系にも見えるので用心棒にはもってこいでした。

ピザ屋に着くと、店の奥でアルバイトらしき白人のお兄ちゃんが数人で雑談をしていました。なぞのアラブ人を連れた東洋人が入ってきたせいか、私たちを見るお兄ちゃんたちの顔からは笑顔がさっと消えました。なんとか英語で注文しましたが、応対したお兄ちゃんは私になにか質問をしています。でもなんと聞かれているのか、私も後輩もわからない。何度か聞き返すうちに「おまえの名前はなんていうんだ」と言っているようでした。そこで私は「セバタ。セ・バ・タ」と繰り返しました。でも、お兄ちゃんは首をひねってばかりでわかってくれません。そのうち、お兄ちゃんは「お前の名前はボブだ。ボブだから」と念を押しました。私は「いや、違う。私の名前はセ・バ・タ」と言い直すのですが、お兄ちゃんは怪訝そうな顔をしてついには「いいんだ。お前はボブなんだ」と言い残して店の奥に行ってしまいました。しばらくすると、そのお兄ちゃんはピザの入った箱を持ってやってきました。「ボブ、できたぞ。うまいぞ」と言って私に箱を手渡しました。私は箱を受け取りながら「いや、私の名前は…」、そう言おうとするとお兄ちゃんは「オーケー。お前はボブ、ボブでいいんだ」とめんどくさそう。

ホテルに持って帰ったピザのまずかったこと。野菜はしなびていて、サラミは干からびているし、ピザの生地だって日本で食べるピザの方がどれだけ美味しいことか。お兄さんに「お前はボブ」だと言われ、東洋人だと思って馬鹿にされたように感じたこともピザを不味くしたのかもしれません。でも、あとで共同研究者のアメリカ人に聞いてみると、アメリカ人にとって「せばた」という名前は聞き取りが難しいとのこと。彼が言うには、唯一聞き取れた「ば」の破裂音から「ボブ」というなじみのある名前を仮の名前にして私を呼ぼうとしたのではないかということでした。お兄さんの苦肉の策だったというわけ。そんなこんなでいろいろなことがあったアメリカ旅行の一日目がようやく終わろうとしていました。その日の夜は爆睡してしまいましたが、次の日はいよいよ共同研究者を訪ねてミシガン大学に行くことに。興奮と感動の珍道中は私にとっては思い出深い貴重な体験でした。初めての海外旅行にしてはあまりにもハードすぎましたが。それでもこの体験でアメリカをより身近に感じることができましたし、アメリカの懐の深さというべきものも感じることができました。なにより、私自身のモチベーションを高める体験となりました。

アメリカ滞在記(2)」もご覧ください。

 

 

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