良きサマリア人

みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。

とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。

つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。

以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。

かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。

ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。

「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。

「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。

ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。

あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。

倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。

だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。

 

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