「ないこと」の証明

もうすぐ東日本大震災から5年になります。あのときの大きな地震の揺れを思い出すというよりも、その後の津波による被害のすさまじさと、その津波によって引き起こされた原発事故の大きさに打ちのめされた思いがよみがえってきます。そのときの様子は、以前、このブログにも書きましたが、5年という歳月を経て、福島は、あるいは東北は、もっといえば日本はよくぞここまで立ち直ったものだと思います。ところが、いまだに「放射能の危険性」を声高に叫び、ここまで立ち直った人たちの心をくじこうとする人たちがいます。その人たちの言動には個人的にはただあきれるばかり。うんざりしてきます。

放射能による被害については、その後、さまざまな大規模調査がおこなわれ、その都度「放射能の影響は確認できない」との結論が得られています。原発事故直後からマスコミやいちぶの識者から繰り返していわれてきた「子供たちの甲状腺がんの発生」についても、あるいは「胎児の奇形や異常出産」についても、そのことごとくが否定されています。なのになぜ今もなお「放射能の影響が今後も出ないとはいいきれない」などと言っては立ち直ろうとする人たちの足をひっぱるのでしょうか。それはまるで被災者の気持ちに寄り添う振りをしながら、実は被災者を政治的に利用しているかのように私には見えます。

それが本当に政治的に利用しているものなのかどうかはともかく、「放射能の影響がないとはいいきれない」という一見もっともらしい主張が、実は「ないもの(こと)は証明できない」という重要な論理を無視したものであることに気が付かなければなりません。実際に存在することはその存在を根拠に証明できても、存在しないことはその状況証拠で説明するしかない、ということです。「説明」はあくまでも説明であって、人々を論理的に納得させられるかどうかにかかっています。しかし、そうしたその論理性はそれを理解しようとしない(できない)人たちにとってはなんの意味ももたないところがやっかいです。

「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉があります。デカルトという哲学者によるものです。目の前の石ころが本当に「ある」といえるのか。その存在を完全に証明することはできないが、それを「ある」と認識している自分の存在だけは否定できない、という意味です。みんなに見える石ころを「私には見えない」と言えば怪しまれ、みんなに見えない虫が床をはっていると言っても怪しまれます。そこにはみんなの共通認識が正しいという前提があるのです。しかし、そのみんなの共通認識が誤っているということがないとはいえない。それを推し量る道具として科学的事実、統計学的予測が存在します。

現代社会に生きる我々の誰もが地球が太陽のまわりをまわっていることを理解しています。世の中のすべての物質は分子、原子、さらには素粒子からなっていることを知っています。その証拠を見たことがなくても、誰ひとりそれを疑おうとはしません。論理的にあるいは現象的に矛盾のない科学的事実からそう理解しているにすぎないのです。誰かが「それでも太陽が地球のまわりをまわっていて、すべての物質を通り抜けることができる魂が存在する」と確信しているとすれば、それはもはや宗教の世界、あるいは人間の情緒の問題として片づけられてしまいます。

「『そんなものなどない』とどうしていえるのか」と反論されると、反論された側に「それがないこと」を証明する責任があるように感じます。しかし、「ないこと(もの)」は証明できないのです。この証明は「悪魔の証明」と呼ばれているのですが、本来であれば「それがある」という根拠をすべての人が理性的に納得するように提示しなければいけません。そうでなければ利害のことなる様々な人々によって構成される社会は成り立たちません。「あること」の証明がどのくらい人々に受け入れられるのか。そこで客観的事実としての科学と統計が根拠を提示するものとしての役割をはたします。

「放射能の影響がないと言い切れるのか」ではなく「これだけ放射能の影響があったぞ」を指摘しなければなりません。「2011年の東日本大震災クラスの首都圏直下型地震は起こりうる」ではなくて「そうした地震はこのくらいの確率で発生する」という言い方をしなければなりません。一方において、「放射能の影響はない」と言い切ることはできません(「影響はない」と言い切りたいとしても)。「今のところ放射能の影響があるとはいえない」というまどろっこしい言い方でしか表現できないわけです。一見するとあいまいに思えますが、実は事実を正しく表現するためにはそう言わざるを得ないのです。

今回の原発事故で「万全な対策を施した原発に事故はない」という「原発の安全神話」が崩れた、といいます。しかし、もともとそんな「安全」なんてあろうはずがない。しかも、みんなもそれに気が付いていました。本来であれば「これこれの危険がこのくらいの確率で存在するのだから、こうした対策を講じるべき」という真摯な議論がなければいけなかったのです。ところが「一切の危険性があってはいけない」という極端な一部の意見にひきづられて、「安全神話」がなんとなくできあがってしまったのです。理性的な議論がなく、リスク管理という観点から社会的妥協点を見出さないとこうなるといういい例です。

人間は感情の動物ですから、「怖い」「不愉快」「認めたくない」という気持ちがわくのは当然です。しかし、そうした情緒的な反応とはまったく関係ないところに科学的事実、統計学的予測があります。自動車は必ず事故をおこします。今もどこかで事故は起こっています。でも、現代社会は自動車の危険性をいかに低減させ、コントロールするかを図って成立しています。いったん事故がおこればたくさんの命が失われる飛行機もそうです。ある程度のリスクを受け入れ、その利便性を享受しているのです。現代社会は、少なくとも「私は乗らない」という人はいても「自動車や飛行機をなくすべきだ」という社会ではありえないという点が重要です。

以前のブログにも書きましたが、2011年の震災直後、放射能に対する不安がピークに達した患者さんや友人の医師に「原発事故による放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけました。でも、匿名の人から「命を守るべき医者が放射能の危険性に楽観すぎる」との批判を受けました。原発事故直後の混乱した状況において不必要な不安感にさいなまれるのは仕方がないことです。それでなくてもマスコミがあの調子でしたからなおさらです。しかし、そうした人であっても、その後の客観的事実をふまえて少しづつ理性的にならなければなりません。情緒に翻弄されていた自分を乗り越えて、理性的に受け入れる自分に変わっていくべきなのです。

「ないこと」の証明はできません。そのことは「理性的」に理解するしかありません。もしかすると将来、実は人は死んだら体から魂が抜け、天国に上っていくということが証明されるかもしれません。私自身、解剖実習の初日に金縛りにあい、同時に幽霊を見る(これも以前ブログに書きましたのでお読みください)といった不思議体験をしているせいか、守護霊というものがあったり、運命というものすらあることも、なんとなく自分の中に信じている部分もあります。でも、それらが科学的に証明されないかぎり自分の心の中の問題だと思っています。それが私の理性なんだと思います。

理性ですべてが解決しないのが人間です。それは仕方がないことです。しかし、いったん「そんな科学的根拠にはなんの意味があるのか」「科学は『ないこと』を保証するのか」という声があがると、理性は情緒にいとも簡単に駆逐されてしまいます。そうしたことが今の日本の社会ではしばしば見受けられます。それが日本のいいところでもあり、悪いところでもあります。しかし、利害のことなるたくさんの人が住む社会においてはやはり科学的事実あるいは統計学的推測をよりどころとするしかない場合が多いと思います。情緒を乗り越え、その理性あるいは客観性を頼りに発達・発展してきたのが現代社会だからです。そうしたことに時々立ち止まってじっくり考えてみることが大切だと思っています。

年頭の所感

あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろとお世話になりました。

今年はエルニーニョ現象のせいで暖かい日が多く、冬だという実感があまり湧いてきません。札幌時代の冬はしっかり雪が降っていましたから、冬になれば一面の銀世界となり冬らしい景色を見ることができました。昔から札幌に住んでいる人たちから言わせると、それでも「最近は雪が少なくなったよ」ということらしいのですが。そう言えば、私が札幌にいたころも、雪まつりの時期(今年は2月5日からだそうです)になると一時的に寒さが緩み、大道り公園に作られた雪像が溶けてしまって大修復、なんてこともありました。ともあれ、冬はしっかり冬らしく、って方が私は好きです。

この季節になるといつもアメリカにいた頃を思い出します。2000年(平成12年)に私はミシガン州ann arbor(アナーバー)市にあるMichigan大学との共同研究のためにアメリカに滞在していました。日本でおこなった調査をアメリカでもおこなって日米での比較検討をするのが目的です。2000年の1月のちょうど今頃、打ち合わせのためにはじめてアナーバーを訪れたのですが、気候は札幌にとても似ており、すぐにこの町が気に入ってしまいました。雪はそれほど多くはありませんでしたが、寒さは厳しく、車のマフラーから、あるいは街中の煙突からモクモクと水蒸気の煙が立ち上っている景色はなんともアメリカらしく感じたのを覚えています。

大学院に入った私は、自分の研究をなにもかもひとりでやらなければなりませんでした。研究のテーマを決めることも、研究内容の絞り込みや調査の具体的な進め方も、さらには論文の書き方すら自分で学ばなければならなかったのです。それだけでも大変なのに、研究・調査にはお金が予想外にかかり、その研究費をどう捻出するかが当時の私のあたまを悩ます大きな問題でした。いざとなれば自腹で、と思っていましたが、大学からの給料は当然なく、むしろ大学院生として学費を納めなければなりません。アルバイトでようやく生計をたてていた身には、結婚したばかりの家内もふくめて二人分の生活費をまかなうので精いっぱい。自腹で出せる額にも限度がありました。

私の研究テーマに興味をもってくれたミシガン大学の研究者からは「共同研究をするのには300万円の費用が必要」という知らせが届いていました。アメリカでは研究者が研究費を調達し、その中から給与をもらいます。しかも、大学の施設を使用すればその費用もかかる。それらをひっくるめると300万円という大金が必要だったのです。その連絡を受けて、私は日米共同研究はあきらめなければならないかもしれないと思いました。ところが、「拾う神」はいるものです。ダメもとで申請した某製薬会社の研究助成金を運よくもらえることになったのです。しかも500万円という大金。この助成金のおかげで私はなんとか日米共同研究の計画を進めることができたのでした。

当時はこの大金を使って研究をさせてもらう自分の幸運に気がつくこともなく、当時、同じ研究室で研究テーマも見つからずにいた後輩を誘って日米比較研究をすることにしました。でも、今だから正直に言いますが、そのときの私は額の大きな研究費を得てすっかり有頂天になっていたのです。300万円ものミシガン大学への分担金を払ってもなお、調査に同行する後輩の渡航費を払ったり、研究機材を購入したり、調査に協力していただいた人たちへの謝礼に大判振る舞いしたり。その結果、アメリカに渡ってミシガン大学の留学生用住宅に住むころには、あれだけあった助成金はだいぶ少なくなっていて、最終的にはかなりの額の自腹を切るはめになったのでした。

でも、アメリカでの生活はその後の自分に大きな影響を与えました。ミシガン大学の留学生用住宅に住んでいた私と家内は、朝、目を覚ますと大学構内をジョギング。広い駐車場でテニスをやってまたジョギング。家に戻ったらシャワーをあびて朝食。その後、構内を巡回しているバスに乗り大学の研究室へ。朝のカンファレンスに参加して共同研究の準備。そして、調査にでかけたり、調査結果を分析したりしながら、時間に余裕のあるときは家庭医のクリニックや高齢者施設を訪問したりしました。午後は早めに帰宅し、家内とふたたび構内をジョギングしてテニス。シャワーをあびて夕食。日本ではあじわったことのない、夢のような、健康的で、快適な生活はなによりも代えがたい貴重な経験でした。

お休みの日も充実していました。当時、たまたまミシガン大学に留学していた慈恵医大柏病院時代の先輩医師と会ったり、アナーバーの近くに住んでいた家内のいとこ夫婦を自宅に招いてパーティーをしたり。夏のまぶしい日差しの中でおこなわれたアナーバーのサマーフェスティバル(夏祭り)も素敵な思い出です。車でシカゴまで小旅行もしました。帰国する直前には一緒にアメリカに連れて来た大学院の後輩も連れてナイアガラの滝まで行きました。アナーバーから車に乗ってデトロイトを抜け、カナダにわたっての旅はいろいろな事件に遭遇するなど話しはつきません。その辺のことはまた改めて書きます。

これらの経験は帰国後のモチベーションをとても高めました。なにより研究者の端くれとしてのプライドをもつことができるようになりました。自分のやろうとしている研究はまだまだ不十分で、研究手法もほとんど確立されていなかったので、自分の研究で関連領域を体系化し、方法論を確立することができるかもしれないという期待がありました。しかし、当時は圧倒的にマイナーな領域だったので、大学院の中でも、あるいは研究室の中でも異端視され、冷たい視線を向けられていました。それだけに、アメリカの研究者との共同研究は、当時の私のポジションを向上させるのに十分なものであったといえます。

しかし、人間の運命などわからないものです。その後、いろいろなこと(これも是非お話ししたいところですが、ここでは差し障りがあるので書けません)があって大学を離れることになり、最終的には地元にもどって開業することになってしまいました。あのまま自分の研究を続けていれば、という思いもないわけではありません。今になってもなおその領域に着手しようとする人がいないのですから。でも、なにごとも前向きにとらえようと努めている私は、あのときの経験があるからこそ今の自分があるのではないか。とくにアメリカで得られたスピリチュアルな経験があるからこそ頑張れるんだ、と思っています。

私のクリニックの外観は、アナーバーにいたころに訪問したファミリー・ドクターの診療所をイメージして設計しました。診療所らしからぬ、なんとなく人の住む家に来たような、温かみを感じるクリニックを作ろうというのが設計のコンセプトでした。開業して10年が過ぎて振り返ってみると、なんとなくその夢が形になってきたという実感があります。幸い、当院で働くすばらしい職員・スタッフにも恵まれ、なんとか地域に根差したクリニックになりつつあるように感じます。さらにその思いを形にすることができるように頑張らなければいけないと今思いを新たにしているところです。

とりとめのない話しになってしまいましたが、アメリカに行った頃の情熱を思い出しながら、この一年をさらに素晴らしいものにしたいと決意を新たにしたところです。今年もよろしくお願いいたします。

 

 

前を向いて歩こう

2015年が暮れようとしています。この一年を振り返るといろいろなことがありました。世界を見渡しても、また、日本を見ても、あるいは我が家にとっても2015年(平成27年)という年は必ずしも平穏無事な年とはいえなかったように思います。

我が家にとっての一番の出来事は、82歳になる父親が脳梗塞になってしまったということです。ちょうど一年前、父親は整形外科で受ける手術のために病院に入院しました。幸い、そのときに入院後の経過は良好だったのですが、退院後に今度は母親が交通事故で入院したこともあって父は高齢者施設に一時入所。そんな環境になじめるはずもない父親にとってはストレス続きだったのかもしれませんが、母親が退院して間もない夏にとうとう脳梗塞になってしまいました。

当初は軽い左上下肢の麻痺と軽度の構語障害程度だったのですが、入院中に再梗塞と思われる症状の増悪があって左上下肢はほとんど動かなくなり、言葉も聞き取れないほどになりました。幸い、リハビリで症状はだいぶ軽減し、杖を使えばなんとか自分で歩けるようになりました。あわせてやっていただいた言語療法のおかげで会話もなんとかできるほどにまで回復しました。脳梗塞後のリハビリはもとの体に戻るためのものではなく、そのときに残っている身体機能を維持するもの、という認識しかもっていなかった私にとって、父の回復はある意味で驚きでもありました。

もちろん、母親の交通事故も驚きはしました。81歳という高齢での運転は危険だと常々思っていましたし、母親の運転を見ていていつかは運転をやめさせよう(母はそれまでにすでに2回の事故で車を全損廃棄しています)と思っていました。しかし、母はどうしても車を運転するといってきかなかったので、「少なくとも他人を乗せて走るな」となんども注意していました。ですから、母が事故ったと聞いたときは「他人を乗せていなければいいが」という点では心配しましたが、不思議と命にかかわるような怪我ではないだろうとそれほど心配していませんでした。

幸い、母の怪我も大したことはなく、他人も乗せていなかったのが不幸中の幸いでした。しかし、この事故は母親よりもむしろ父親にとってショックだったのかもしれません。その後、脳梗塞を発症してしまい、その後遺症は父を今まで以上に老け込ませました。認知症状も進んだせいもあるかもしれませんが、”とんがって”いた若い時の面影はすっかりなってしまいました。感情失禁のせいで昔話しをするとすぐに泣き出したり、なにごとも病院や施設の職員の手を借りなければなにもできない父親を見ていると、今の父はまるで別人のようです。

先日、父の入所している施設にお見舞いに行ったとき、居室で母と泣きながら話しをしていました。なにを話していたのかと尋ねると、「札幌にもう一度行ってみたい」と言って泣いているのでした。私がまだ札幌にいたころは、ちょくちょく母と札幌に遊びに来ていました。そして、両親を車に乗せては道内を小旅行などして走り回ったものです。私が札幌にいた期間は10年以上にもなりますから、両親も道内を行き尽くしたといってもいいほどです。そのときの楽しい思い出を父親は懐かしんでいたのかもしれません。

「札幌にもう一度行きたい」と言って泣いている父親を見ながら、若くて元気だったころの父を思い出していました。きれい好きで、身なりもきちんとしていて、さっそうと歩いていたころの父。その父を思い出し、その分だけ、今、目の前にいる老いた父親がとても哀れでなりませんでした。そして、できるならもう一度あの頃に戻れればとも思いました。しかし、その一方で、あのとんがっていた若い頃の父親の姿が私の心の中によみがえってきました。家の中ではいつも不機嫌そうに怒ってばかりいた父。イライラを家族にあたることでしか解消できなかったのでしょう。その頃の父親を思い出すと自然と気持ちが沈みます。

そんなことを考えながら、父親も「あの若かったときに戻りたい」と思うのだろうかと想像していました。いつも不機嫌だった父は父なりに感情のコントロールができないことに苦しんでいたのかもしれません。父は7人兄弟の一番下でしたから、親の愛情と庇護を十分に受けることができなかったのだと思います。その満たされない感情がいつも彼を不機嫌にしていたのでしょう。その満たされない心の渇きを家族にぶつけていたのです。そのときの父を支配していたそんな感情を彼自身ふたたび望んでいるとは思えない。そのことに父が気が付けば(気が付いているのかもしれませんが)、今もまんざら悪くないと思うかもしれません。

そう考えると、両親がずいぶんと年老いて、その分だけ私も歳をとり、いろいろなことが輝きを失いつつあるように感じながらも、今は「それほど悪くはない」と感じるのです。そもそもが「今が一番幸せ」という実感がありますから。いつも家庭の中が暗く、家庭内の不和という心の中のずしりと重いおもりが沈んでいる感覚から逃れられなかった子供時代と比べれば、今はなんと幸せなことか。なかなか理想通りにはいかないけれど、家族全員が笑顔でいられることの幸せは何にも代えがたいものだと実感します。

要するに考え方なんだと思います。それにあれだけ嫌な思い出として残っている自分の子供時代があるからこそ今の幸せがある、ともいえるのだし。シラーの有名な詩があります。

時にはみっつの歩みがある。
未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去っていく。
そして、過去は永遠に、静かにたたずんでいる。

私はこの詩が好きです。未来を肯定し、過去を否定しないこの詩は人間の生き方をとても豊かにしてくれると感じます。ひとにはそれぞれが与えられた運命があります。その運命は変えることはできません。なぜなら、過去は消し去ることはできないからです。だからといって、未来を絶望する必要もありません。なぜなら、今を変えることはできるからです。この秋、私がこれまででもっとも感動した試合をしてくれたラグビー日本代表のヘッドコーチであるエディー・ジョーンズが選手たちに問いかけた言葉があります。

過去は変えられるか? もちろん変えられるはずがない。
では、未来は変えられるか? いや、変えられない。
ただし、今を変えれば未来は変えることは可能だ。

変わりゆく世界情勢も、日本ととりまく環境といった大きな問題もそうです。人間ひとりひとりの人生も、過去を悔み、消し去ろうとしてもそれはできない。愚かなのは、過去にとらわれて歩みを止めてしまうこと。ましてや後退するなんてことがあってはいけません。そうではなくて、過去を糧として今を変える。その今が未来を切り開いてくれる。そう信じることが大切だということなんだと思います。今年一年いろいろなことがありました。そのすべてを総括して来年に向かって今を生きる。来年はそんな毎日にしたいと思っています。

今年一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年が皆様にとってさらに素晴らしい年になりますように。

ドラマ小僧は語る

私が幼稚園児のころ我が家にもテレビがやってきました。当時、テレビは高価なものでしたから、オンボロ官舎に住む貧乏公務員の家庭には高嶺の花のはず。それでも両親は分割払いで手に入れたのでしょう。テレビが部屋に運び込まれたときの両親のうれしそうな表情を思い出します。以後、私はテレビっ子となったのですが、不思議と子ども番組には興味はありませんでした。むしろ大人がよく見るようなドラマを好んで見ていた「ドラマ小僧」でした。

今も鮮烈な記憶として私の心に残っているのは「3人家族」。TBSで昭和43年に木下恵介アワーとして放映されたドラマです。竹脇無我扮する商社マンと栗原小巻扮する旅行代理店のOLとの淡い恋物語を中心に男3人の家族と女3人の家族がおりなす人間模様を描いたものです。当時小学生だった私は不思議とこのドラマに魅せられていました。ここに出てくる高度成長時代の大人の社会をなにか憧れに似た気持ちで見ていた記憶があります。それぞれ山手線と京浜東北線に乗って見つめあう竹脇無我と栗原小巻のシーンはとくに印象的です。ちなみに、このドラマの主題歌を今でも歌うことができます。

このころ、青春ドラマと呼ばれるドラマもたくさん放送されました。この中でも昭和46年に放送された「俺は男だ」は記憶に残るドラマです。このドラマの原作は実は漫画でした。今ではめずらしいことではありませんけど。現在、千葉県知事の森田健作演じる「小林君」と早瀬久美(今でもきれいですよね)演じる「吉川君」は私には「素敵なお兄さんとお姉さん」でした。当時の高校生の生活は小学生の私にはなんとなく漠然としたものでしたが、今は死語となりつつある「青春」と呼ぶにふさわしい雰囲気は十分に伝わってきました。

昭和47年に日本テレビで放映された「パパと呼ばないで」も良かったですね。亡くなった姉のひとり娘(杉田かおる)を突然預かることになった独身サラリーマン(石立鉄男)。下宿しているお米屋さんの家族に助けられながら慣れない子育てに奮闘する姿を描いた、涙あり、笑いありの人情ドラマ。どれも大好きだった石立鉄男ドラマの真骨頂でした。何度見ても感動します。このドラマの舞台になったのが下町の風情を残す東京の月島。今では高層マンションが林立する街になってしまいましたが、40年も経った今も私の中では懐かしい場所です。

「ぶらり信兵衛道場破り」も忘れることができません。昭和48年に当時の東京12チャンネルで放映されました。原作は山本周五郎の「人情裏長屋」ですが、中学生だった私はこの短編を読みながら、感動のあまり涙を堪えることができなかったことを覚えています。このドラマは原作の雰囲気をとてもよく残しているドラマで、高橋英樹が主人公の松村信兵衛のイメージとぴったりでした。最近、BSNHKでリメイクドラマが放映されていますが、「ぶらり」を夢中で見ていた私としては残念ながら「ん~なんか違うんだよなぁ(微妙)」って感じ。

高橋英樹といえばなんと言ってもNHKの大河ドラマ「国盗り物語」です。「ぶらり信兵衛」と同じ昭和48年に放映されました。群雄割拠の戦国時代の緊張感が伝わってくる上質で重厚なドラマでした。なかでも高橋英樹が演じる織田信長は私にとってのヒーロー。冷徹で繊細な信長に血湧き肉躍る思いでこのドラマを見ていたのを思い出します。近藤正臣が明智光秀、火野正平が羽柴秀吉。当時の若手俳優が多かったのですが実力者揃いのキャスティングでした。ちょうどこの頃、偶然電車の中で火野正平が向かいの座席に座っていて、緊張しながら握手をしてもらったことを思い出します。

NHKの大河ドラマといえば国盗り物語の次の年(昭和49年)に放映された「勝海舟」もよかったですね。このドラマの主演は当初渡哲也でしたが、途中で病気降板して松方弘樹に変更されました。でも、勝海舟、というより勝麟太郎のイメージはやはり松方弘樹の方がぴったりでした。私はこのころ「氷川清話」という勝海舟の書いた自叙伝を読んでいたのですが、麟太郎の父親である勝小吉がドラマで演じていた尾上松緑と重なり、麟太郎よりもこの小吉にとても魅了されてしまいました。富田勲が作曲した主題曲も実に重厚で、維新を迎えた日本が満を持して世界の荒波に船出するときの興奮をみごとに表現した名曲だと思います。

日本テレビで昭和50年に放送された「俺たちの旅」もよかったですね。中村雅俊が主演していましたが、小椋桂が歌う主題歌を聴くと今でもその当時のことを思い出します。世の中のながれからはちょっとはずれた主人公達の気持ちには当時思春期まっただ中の自分となんとなく共感するものがあったんだと思います。これからの自分の人生がどんなものになるのか。そんなことに漠然とした不安を抱えていた年代ならではの思いがこのドラマを見ると共感できたのかもしれません。

昭和52年のNHK大河ドラマ「花神」もとても記憶に残るドラマでした。それまで村田蔵六(のちの大村益次郎)という人物を私は知りませんでした。適塾ではあまたの若者が学問で切磋琢磨していましたが、村田蔵六はその中でめきめきと頭角をあらわし、明治という時代を背負って立つ逸材のひとりになりました。「花神」は江戸から明治にいたる大きな時代のうねりを感じることができるすばらしいドラマでした。その大村益次郎は今、日本近代軍制の創始者として靖国神社の入り口に大きな銅像となって立っています。

硬派なドラマとしては昭和54年のNHKドラマ「男達の旅路」も忘れてはいけません。元特攻隊員の警備員を演じる鶴田浩二が渋い演技で光ってました。以前のコメントにも書きましたが、説教臭く、「若い奴らが嫌いだ」が口癖の吉岡指令補はとても魅力的でした。その指令補に反目する若者達が次第に吉岡指令補に魅せられていく様は、まさしく私そのものでもありました。とくにこのシリーズの中でも「車輪の一歩」は名作だと思います。私もいつの間にか「若い奴らが嫌いだ」とつぶやく年齢となりましたが、吉岡指令補のような中年にはなれなかったなぁとつくづく思います。

昭和56年に放送されたNHKドラマ「夢千代日記」は、冬の裏日本のモノトーンな風景がとても美しい叙情的なドラマでした。さびれた温泉街が舞台で、人間の性(さが)や定めを夢千代という芸者の日記という形で綴っていきます。個性的な役者さんが多く、樹木希林や中条静夫といった脇役の役者さん達がいい味を出していました。印象的なテーマ曲を聴くと、たちまちタイトルバックにもなっている余部鉄橋があたまの中に浮かんできます。こうしたしっとりとしたドラマがすっかりなくなってしまったことがとても残念です。

「淋しいのはおまえだけじゃない」は昭和57年の向田邦子賞を受賞したTBSのドラマです。西田敏行演じるサラ金の取り立て屋。さる人物から依頼を受けて大衆演劇の劇団を旗揚げします。いろいろな思いを背負って集まってきた劇団員をだますうちに次第に気持ちが変わってきて・・・。このドラマで演出を担当していた高橋一郎は、“ドラマのTBS”とも呼ばれていた当時のTBSドラマのクオリティーを支えたスタッフのひとり。そのながれは平成16年のTBSドラマ「オレンジデイズ」や「砂の器」に受け継がれています。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を題材に昭和59年に放映されたNHKドラマ「日本の面影」もなかなか良かったですね。明治から大正にかけて欧米列強の後を追うべく富国強兵の国策を進めた日本。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という外国人の目を通して、古き良き時代を捨て去り、アジアの一等国になるべく突き進む日本の姿を描いたこのドラマは小泉八雲の「怪談」をモチーフにしていてとてもユニークでした。明治・大正期の日本の雰囲気とはこんな感じだったのかなぁと思わせる演出も素晴らしかったです。

昭和60年のNHKのドラマ「シャツの店」もテレビドラマの傑作のひとつです。鶴田浩二が昔かたぎのシャツ職人の親方を演じています。頑固一徹、自分にも他人にも厳しい親方。そんな親方に愛想をつかして家を出て行った妻(八千草薫)と息子(佐藤浩一)。夫婦間の、あるいは世代間の意識のギャップがユーモラスに描かれ、最後はお決まりのハッピーエンドながら心地よい余韻がのこります。当時はまだ独身だった私が大いに影響を受けたドラマのひとつでした。そういえば、このドラマの舞台も月島でした。

職人ものといえば、平成元年にTBSで放映された「あなたが大好き」もなかなかなものです。江戸指職人(田中邦衛)の跡継ぎ息子を真田広之(実は私と同年代)が演じているのですが、いつもはカッコいい役の真田ですが、今回は“親の後を継ぐと決心したものの、実は自他ともに認める不器用な息子”というちょっとかっこ悪い役でした。でも、真田広之はそれを無難に演じているのですからさすがです。私の好きなエリック・サティの「Je te veux」が主題曲になっていますが、この曲はドラマのテイストを決める重要な役割を果たしています。

戸田菜穂や萩原聖人、櫻井淳子などがまだ新人だった頃のフジテレビのドラマ「葡萄が目にしみる(平成3年)」も特筆すべきドラマでした。いわゆる“青春もの”なのですが、切なくて叙情的なすばらしい作品でした。新人俳優やオーディションで選ばれた素人が多いのでセリフが棒読みだったりしますが、このドラマにおいてはそれはそれで新鮮なものにも思えます。素朴な演出と使われたBGMがよかったこともありますが、なにより林真理子の原作に救われたような気がします。高校生を演じていた戸田菜穂や櫻井淳子が初々しくてとても可愛かったですが、その彼女たちもいつの間にかお母さん役をやる年代になってしまいました。

平成5年に放映されたNHKドラマ「蔵」も秀逸でした。今はすっかり大人になった井上真央が子役として出ていますが彼女の演技力はこのころから特筆すべきものがあります。造り酒屋に生まれた盲目のひとり娘として成長していく烈の生涯を描いています。閉ざされた雪国の冬にじっと耐えて生きる人々の生活が伝わってくるような雰囲気がよかったです。大きくなった烈を演じたのは松たか子でした。彼女もまだ新人だったのにその演技はすばらしいかったです。それにもましてNHKのクオリティの高さを感じます。

最後に「魚心あれば嫁心」。これはテレビ東京で平成10年に放送された連続ドラマです。これも舞台は東京月島。閉院した船津医院の夫人・朋江(八千草薫)をとりまくさまざまな人間模様を、朋江の川柳を通じて描いています。こちらのドラマの脚本も向田邦子賞を受賞しています。とくに、息子が12才も年上の女性と結婚すると言い出し、はからずも彼らと同居することになった朋江。息子夫婦の価値観との違いを乗り越えていこうとする姿にほっとします。ほのぼのとした気持ちになれるドラマでした。

最近のドラマはあまりにも安直に作られ、「いかにして視聴率がとれ、いかに安く作れるか」に主眼がおかれているように感じます。キャストが実力をともなわない人気頼りで決められているようにも思えます。小奇麗な顔立ちでも、その役の雰囲気にはおよそ似つかわしくない俳優が多すぎるような気もします。良いドラマは人を突き動かすエネルギーでもあります。心を潤す清流だともいえるでしょう。その意味で、もっともっと心を揺さぶるような良質なドラマと、画一化されない俳優陣が出てくることを願うばかりです。

「説教おやじ」万歳

早いもので健さんが亡くなって1年になります。1年経っても「俳優 高倉 健」がいなくなってしまった喪失感はそう簡単には癒えそうにありません。健さんは私の父親の世代ですから、もはや超高齢者になろうとする世代なのですが、思い出す「高倉健」はいつも「吠えよ唐獅子 昭和残侠伝」の中の花田秀次郎、若かりしころの健さんです。実生活でもその秀次郎そのままを生きた健さんは私の心のなかでも永遠に秀次郎のままです。

ところで私は「俳優 高倉 健」ともうひとり、鶴田浩二という俳優も好きです。鶴田浩二も健さんとともに東映黄金時代の任侠映画によく出演していました。しかし、任侠映画の人気に陰りが出始めると、映画だけではなくTVドラマにも出演して活躍の場を広げました。それまではずっとスクリーンの中の俳優さんだったので、TVに出てきた鶴田浩二にちょっと違和感を感じていました。しかし、そこは大物俳優。優れた作品を選んで出演していたせいか、鶴田浩二の魅力は決して色あせることはありませんでした。

その鶴田浩二が出演したドラマの中でも、私はNHKで放映された「男たちの旅路シリーズ」と「シャツの店」が好きです。このドラマの中で鶴田浩二はいずれも頑なに自分の価値観を貫く戦中世代を演じていました。戦後、価値観が一変しまったかのような社会にあえて逆らって生きる頑固なオヤジが鶴田浩二の役どころです。戦争を生き残った戦中派には理解しがたい現代の若者に眉をひそめながら、「俺は若い奴が嫌いだ」といってはばからない中年とでもいいましょうか。当時のその「若い奴」のひとりが私なのですが、そんな「頑固な説教おやじ」のような吉岡司令補に惹かれていました。高倉健も鶴田浩二もいわゆる寡黙な「男のなかの男」って感じの役が多いのですが、健さんが演じる花田秀次郎はどちらかというと背中でものをいうタイプ。鶴田浩二演じる吉岡司令補は「俺は甘っちょろい若い奴らが大嫌いなんだ」と明確に自分を主張します。若者に厳しい分、自分にも厳しい。今のおやじ達にはいないタイプですよねぇ。

一方の「シャツの店」は、下町の頑固なシャツ職人の「親方」が突然奥さんに家出されるところから物語がはじまります。はじめは「あいつが許せねぇ」と言っていた親方も、一人息子の思いもよらない離反を通じて自分を振り返り、夫婦を振り返るというもの。このドラマのところどころに印象的なセリフがあります。今でも印象的なのは、お見合いがうまくいかず「独身を貫いてシャツ職人を極める」と言いだした弟子にしみじみと語り掛けるときのセリフ。「そりゃとんだ了見違いだ。ひとりじゃなにをやったってうれしいことがあるか。客がついた、シャツの評判がいい。ひとつひとつ喜びを分かち合うことができる」。自分に従順だと思っていた妻や息子に家出され、ひとりの生活を強いられてはじめて家族の意味を知ります。そして弟子には「いいか。見合いをやめるな」とまでいうのです。当時、独身だった私の胸にもグッとくるものがありました。この頑固な親方の説教も、吉岡司令補とはまた違った魅力があって私は大好きです。

これらのふたつのドラマは、今でもDVDで見直すことがあります。ふたつとも山田太一が脚本を書いているのですが、鶴田浩二の魅力をひきだすセリフにあふれています。そして、今もそのセリフは輝きを失っていないと思います。是非、皆さんも機会があればこれらのドラマをご覧になってみてください。

 

私の好きな詩

皆さんは井上靖という作家をご存知でしょうか。私がはじめて「井上靖」という作家と出会ったのは中学生のころでした。当時の国語の教科書に彼の「夏草冬濤」という小説の一部が紹介されていたのがきっかけです。井上靖にはいくつかの自叙伝的な作品があって、そのうちの「あすなろ物語」「しろばんば」そして「夏草冬濤」は三部作として有名です(旧制高校のときの様子を描いた「北の海」もあります)。井上靖自身とも言われる洪作少年の成長が描かれているのですが、私はこれらの作品を通じて井上靖が少年時代を過ごした昭和初期の古き良き時代の香りに惹かれるようになりました。日本全体がまだ貧しく、それでいながら精神は豊かであった時代。日本が戦争に引きづりこまれそうな不穏な空気が漂いながらも、静かでゆったりとした時間がまだ流れていた時代。そんな雰囲気が井上靖の自伝小説には感じられました。成長した井上靖自身は、その後、旧制第四高等学校に入学し、高下駄を履き、白線帽にマントのいでたちで金沢での三年間を過ごすのですが、そのときに思いをはせた一遍の詩があります。

流 星

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに見を包み、仰向けに横たわって
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星
というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

井上靖

この詩は、金沢市にある石川近代文学館に併設された四校記念文化交流館の庭にひっそりと設置された碑に刻されています。この場所はかつて旧制第四高等学校のあったところであり、建物そのものがその四校の建物です。私は学会で金沢を訪れた際に立ち寄ったこの場所で偶然その石碑を見つけました。記念碑の前にたたずんでこの詩を読んだとき、私はあたかも自分が旧制高校の学生になって、冷たい風の吹きすさぶ冬の浜辺に横たわり、満天の星空を見つめているときの昂揚感のようなものを感じました。「これから自分はどんな人生を送るんだろう」。冬の澄んだ夜空を流れ去る流星の後を追いながら若かりしころの井上靖はきっと考えたんだと思います。当時は私も自分の研究テーマを絞り始めていた時でもあり、自分のこれからの行く末を重ね合わせて感慨にふけていたのでしょう。以来、この場所、この詩は私の大好きな場所・詩のひとつになったのです。

実際の旧制高校のことは実体験としては私はまったく知らないわけですが、伝え聞くような旧制高校の自由さと闊達さにとても惹かれます。旧制高校は全寮制で、大学入試が免除されるため、学生は受験に振り回されることなくそれぞれの思いで学生生活を送る。ある学生は哲学に思索し、ある学生はスポーツに興じ、ある学生は無為に過ごす。大学の本科に入って専門の教科に進む前にまったく自由な時間を過ごすのだそうです。旧制高校での生活を経験した人達は皆この時の経験を「人生にとって貴重だった」と振り返っているようです。ですから、私の中には旧制高校に対する憧れみたいなものがあります。そんな時間を自分も経験してみたかったという思いもあります(だから長男を全寮制の学校に学ばせているんですけど)。ただ、もともとルーズな自分では「自分の時間」なんて主体的な過ごし方はできないだろうと思いますが。いずれにせよ、この「流星」という詩は、そんな私の湧き立つような憧れの気持ちを思い出させてくれるのです。

高倉 健、永遠なれ

11月10日に日本映画界を代表する俳優「高倉 健」が亡くなりました。

このニュースを耳にしたとき、なんだか不思議な感覚になりました。なくしてしまって初めてそれが自分にとっていかに大切なものだったかに気が付いたような喪失感、とでもいいましょうか。ああ、これで二度と健さんには会えないんだなぁと思うとなんだか体中の力が抜けてくるような感覚でもある。これが「心にぽっかりと穴があいた感じ」というものなのかもしれません。

健さんは以前から大好きな俳優さんのひとりでした。「高倉 健」が任侠映画で一世を風靡していたころ、私は小学生でした。世の中は学生運動で騒がしくなり始めたころです。私は少し変わった小学生で、子供向けの番組よりも大人の見るテレビ番組を見るのが好きでした。「ひょっこりひょうたん島」よりも「木下恵介アワー(この中でも竹脇無我と栗原小巻が主演した「三人家族」がとくに好きでした)」や「国盗り物語」を夢中で見ているような子供でした。

当時住んでいたオンボロアパートにはお風呂がなかったので父親に連れられて銭湯に通っていたのですが、その銭湯の壁にはいつも「総天然色」のポスターが貼ってありました。「ゴジラシリーズ」や東映のまんが映画などのポスターの中にあったのが任侠ものの映画のポスターでした。そのポスターで健さんは背中に唐獅子牡丹を彫り、さらしを胴に巻いてドスを握って立っている。私は当時、この健さんのポスターを見ながら、子供ながらに「こんなかっこいい大人になりたいなぁ」と思ったものです。

そんな影響からか、好きな俳優といえば「高倉 健」と「鶴田浩二」でした。このふたりはよく同じ任侠映画に出演することが多いのですが、中でも「昭和残侠伝 吼えよ唐獅子」は今でも印象にのこる映画のひとつです。一宿一飯の恩義のために自分を陰で支えてくれた親分(鶴田)を手にかけなければならない渡世人・花田秀次郎(健さん)。心ならずも切ってしまった彼は親分に駆け寄ります。親分は息も絶え絶えに言います。「切るもいいが、切られるもいいんだ」と。しびれるセリフです。

その後、健さんは任侠映画から路線を変え、いろいろな映画に挑戦します。しかし、どの役を演じるときにも、人間の心の機微を表現するときは任侠映画のときの健さんです。ストイックなまでに自分を追い込み、情に厚く、しかし情に流されず。それは実生活でも同じだったといいます。あくまでも自分のスタイルを貫くその姿はまさしくあのときの花田秀次郎のままです。そんな俳優「高倉 健」が私は大好きでした。

思えば、昭和62年に鶴田浩二が亡くなったときも同じような喪失感を感じていました。鶴田浩二主演のNHKドラマ「男たちの旅路」シリーズに出てきた吉岡司令補も、同じくNHKドラマ「シャツの店(このドラマも大好きです)」の磯島周吉も、健さんが演じた花田秀次郎のように世の中に迎合せずに自分を貫く役柄。その主役たちが鶴田浩二のはまり役だっただけに、彼が63歳で逝去したときも結構ショックでした。

しかし、今回、とうとう健さんも亡くなってしまい、ついに憧れの対象がいなくなってしまったようでとても淋しい。その寂しさは同時に、自分の憧れの対象が実は確実に年をとっていて、その分、自分自身も年齢を重ねていることを思い知らされたものでもあります。

健さんに関するいろいろな動画を見ながら、彼の偉大さ、存在感の大きさをあらためて感じます。そして、そんな彼を失った悲しみに自然と涙が込み上げてきます。健さんは生前、「行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」という言葉が好きだったようです。その言葉通りに生きた健さんに一歩でも近づけるよう頑張ろうという思いが心に芽生えてくる。そう思うと、健さんは多くの日本人に大切なものを残していってくれたのかもしれません。

ありがとう、健さん。どうぞ安らかにおやすみ下さい。      合掌

※「健さんに想いは届いたか?」もご覧ください。

知るべきこと

今、御嶽山では残された行方不明者の捜索が続いています。立て続けにやってくる台風と、迫りくる冬の間隙をぬって自衛官や警察官・消防士の皆さんが懸命の捜索活動を続けています。

御嶽山の標高は約3000m。気温は晴れていても10℃を超えることはなく、日差しがなければ0℃近く、風が吹けば体感気温は氷点下になります。寒いだけでも大変なのに、御嶽山の山頂の酸素濃度は地上の70%しかありません。空気がかなり薄いのです。そのため、捜索隊員の中には高山病になる人が結構いるようです。そりゃそうです。普通、3000mの山頂には時間をかけてゆっくり登るのに、彼らはごくごく短時間で、しかも重い装備を身に着けて山頂に向かい、到着後すぐに捜索活動を始めるんですから。

人間の体に取り込まれた酸素の量は「酸素飽和度」という指標で測定します。通常は99%とか98%です。ところが激しい運動をするとこの酸素飽和度は下がっていきます。その酸素不足を補うために呼吸が荒くなるわけですが、山の頂のような空気の薄いところではいくら呼吸をしても酸素量は増えません。それはまるでビニール袋を口にあてて呼吸しているみたいなもの。相当苦しいものです。御嶽山で捜索している人たちはそんな環境の中で、寒さと戦い、その上、重い装備を身に着けながら頑張っています。

ところが、ネットでは「自衛隊員なのに高山病になるなんて情けない」みたいな心無いコメントが見られるとか。感謝しこそすれ、批判するようなことではないのに。

一方、自衛隊のヘリコプターがこの隊員たちを輸送しているのですが、実は、このヘリコプターの活動も人知れずすごいことなのです。ヘリコプターはプロペラを回して空気を下に送って上昇します。ですから、空気が薄いところでは挙動が不安定になったり、墜落したりする恐れがあります。そこでヘリコプターには活動できる限界高度が定められています。現在、活動している自衛隊のヘリコプターは警察や消防のヘリコプターよりは限界高度は高いものの、それでも御嶽山の山頂の標高よりも低い2700mあまりが限界と定められています。つまり、あのヘリコプターは限界高度を300mも超える危険な場所で作業をしているのです。

ヘリコプターに詳しい人に言わせると「人命救助だから仕方ないが、信じられない」とのこと。しかも、不安定な挙動になってもおかしくない空中での安定したホバリングをしているのは、相当の操縦技術の持ち主でなければできないとか。そうした卓越した技術と強い使命感でこの捜索活動が続けられています。

私たちには知らされていないことが多い。それが意図的なのか、それともたまたまなのかはわかりませんが、人知れず行われていることには多くの人が知っておくべきこともある。報道されていることの多くは表面的な現象です。その裏側に何があるのかは報道されないことが多い。今、御嶽山でどんな過酷な捜索活動が行われているかを、我々は報道だけに頼らずにもっと知ろうとするべきです。その意味で、今のネット社会を大いに活用したい。自らリテラシーを高めなければ、真実は見えない時代になっているのです。

すべての行方不明者の一刻も早い救出と、捜索にあたる多くの人々の健康と安全をお祈りします。