過ぎ行く夏に

子どもたちがあれほど楽しみにしていた夏休みがもう終わってしまいます。待ちこがれているものはなかなかやって来ないのに、ようやくやって来たと思ったらすぐに終わってしまう。私の小学生の頃を思い出してみても、夏休みまでカウントダウンという時期になると胸がわくわくしたものです。とはいえ、私の場合、夏休みになったからといってなにをするわけでもなく、ゴロゴロダラダラするだけなんですけど。そして、あっという間に夏休みは終わってやりかけの宿題だけが残っているということに。
 
それにしてもなぜ夏休みの宿題があるんでしょうね。しかもそれなりにたくさんの宿題が。「休みが長いか
ら」であろうことは想像に難くないのですが、私にいわせると「長いとなんで宿題?」って感じです。夏休みにいろんなことをやりたい子どもも多いと思います。あるいは「なにもしないでゴロゴロするぞ」と考えている子どもたちや、ひょっとすると「たくさん勉強するぞ」と思っている子どもたちにとっても学校から課されるたくさんの宿題は迷惑な代物です(こんなの見つけました)。
 
私の父は家庭を大切にする人ではなかったので、夏休みに家族でどこかに旅行するなんてことはありませんでした。当時はまだめずらしかった自家用車を所有していた叔父一家に海に連れて行ってもらったことぐらいでしょうか。みんなでなにかをする(大勢でどこかに行く)なんてことが苦手な私でさえ、そうした夏休みの記憶は四十年以上を経てなお楽しいものとして心に残っているのです。自分の家族だけでも大変なのに私達も連れて行ってくれた叔父(もう鬼籍に入っていますが)にはほんとに感謝です。 

ですから、私もこれまで夏と年末には家族でちょっとした小旅行をするのが年中行事にしていました。子どもたちの思い出作りのためではなく、息子たちには私と同じような子ども時代を送らせたくないと思っていましたから。でも、なぜ「年中行事にしていました」と過去形にしたかというと、最近では子ども達が親と歩くのを嫌がって旅行に一緒に行ってくれないからです。どこかに食事に行くことですら「俺は家で適当に食うよ」となるのですから旅行となれば言わずもがなです。
 
長男が来年受験なのですがみんなで旅行をしたいという私の気持ちはかわりません。今年の春のゴールデン ・ウィークに横浜に一泊したときも、「受験生の俺を連れて旅行だなんて信じられないよ」と長男は文句タラタラでした。家内に諭されてしぶしぶ旅行に来ることになったのはいいのですが、彼はなんと夕方にひとりで宿泊先にやってきて、次の日午前中にひとりで自宅に戻っていったのでした。「そんなに勉強が大事なのか」であればいいのですが、そうではなくて「親と一緒に歩けるか」なので困ったものです。
 
話しは少し変わりますが、私のクリニックには毎日製薬会社の MR(営業の担当者)さんがやってきます。 彼らは新しい薬に関する情報を私たちに説明するためにやって来ます。彼らを相手に、話しをするのが好きな私は北海道の素晴らしさをひとりで熱く語ってしまうことがしばしばあります。北海道の四季折々の美しさと良さを MR さん達に熱心に話しをしてしまうのです。そんなときはいつも「先生は北海道が好きなんですねぇ」とあきれられてしまいますが、事実、私は北海道が大好きです。 

そんな私の熱いメッセージが彼らの心に伝わったのか、今年の夏休みに何人かの MRさんが北海道を旅行しました。ゴールデンウィークにも何人かのMRさんが北海道にいっていますから、私自身、北海道の観光PRにひと役かってますね(笑)。彼らから事前に北海道に行く日程を聞いているときは、天気が心配になって何度も北海道の天気をチェックしてしまいます。まるで自分が旅行するような気分になって、「せっかくの北海道旅行だからいい天気になってほしいなぁ」と思うのです。
 
何年か前のこと。ゴールデンウィークに「北海道を満喫してきます」と旅立っていった MR さんがいました。そして、帰って来て「北海道を十分満喫してきました」と私の前に現れた彼の表情はちょっと複雑でした。なんでも、レンタカーで道内を回っているとき、ゴールデンウィークであるにも関わらず大雪に見舞われてしまったというのです。本州に比べてまだ肌寒い北海道とはいえ、ゴールデンウィークにこれほどまでの大雪はめずらしいのですが。とはいえ、これもまさに「北海道を満喫」です。
 
ところで、夏が終わった北海道には秋が駆け足でやってきます。日中は夏のなごりでまだ暑い日も少なくないのですが、朝晩はめっきり涼しくなって長袖でも少し寒いくらいになります。そしてじきに大雪山系に紅葉がはじまります。本州では紅葉(こうよう)というと紅葉(もみじ)の赤を連想します。しかし、紅葉(もみじ)そのものも少ない北海道では紅葉(もみじ)が赤い色を発色する期間がさらに短く、赤い紅葉はあっという間に過ぎて黄色い紅葉がそれにとってかわります。北海道の紅葉は黄色なのです。
 
しかし、大雪山の紅葉はどちらかというと本州の紅葉に近く赤い色合いをしています。おそらくこのときの大雪の気温が本州の紅葉の頃の気候に近いからかもしれません。ですから、黄色い紅葉に見慣れている北海道においては大雪山の紅葉はとても新鮮に映ります。見頃は 9 月の中旬から下旬です。北海道に住み、温泉巡りで秋の北海道らしさに目覚めるまで、紅葉狩りにいくなんてことを考えたことはありませんでした。せいぜい北大構内の銀杏の紅葉をちらと横目で見る程度でしょうか。
 
秋らしくなってくると、朝晩、ストーブを炊こうかどうか迷うようになります。そんなときに行きたくなるのが温泉。とくに露天風呂に行きたくなります。気楽な学生の頃のこと、サークル仲間と私は週末の休みを利用して阿寒湖に行くことにしました。小さな車に男五人が長時間詰め込まれてついたところは雌阿寒岳・雄阿寒岳近くの露天風呂。ひんやりとした爽やかな空気が漂う中で、見上げると見事なほどに紺碧の空が広がっていました。その青く澄んだ空とコントラストを際立たせていてみごとな紅葉でした。
 
私はこのとき初めて紅葉を美しいと心から思いました。それまでは興味そのものがなかったのですから当然ですが、このとき眼前に広がっていた景色は私にとってはまさに「心洗われる」ものでした。以来、私は秋が一番好きな季節になりました。秋の紺碧の空と身と心をシャキッとさせるひんやりとした空気。そして、家に帰れば暖かい部屋が待っている。このときの気持ちはなかなか正確に伝えられないのが残念ですが、この感覚は千葉に住んでいては決して味わうことのできないものです。
 
今年の関東地方の夏は、恒例の大雨にならないうちにいつの間にか梅雨が終わってしまった感じがします。夏本番となっても暑い日もあれば、異様に涼しい日もあったりと、なんだか季節感が安定しませんでした。私が北海道が好きな理由は四季がはっきりしているところにあります。北海道の冬は当然厳しい。しかし、百花繚乱の春を経てときに本州よりも暑い夏となり、一瞬で通り過ぎていく秋を感じながらまた冬を 迎える。冬には冬の、夏には夏のよさが実感としてわかる北海道の生活は私に合っていました。
 
「秋は物悲しいから嫌いだ」という人がいます。でも、私の場合は、秋になってひんやりとした空気を感じながら紺碧の空を見上げるとなぜか「やるぞっ」と力が湧いてきます。なにをやるというわけでもないのに不思議と力がみなぎってくるのです。こういう感覚になったのも、あの秋の露天風呂巡りをしたとき以の紺碧の空を見て以降です。私にとって夏が終わるということは決して淋しいことではなく、いよいよ自分のシーズンがはじまるんだというような感じになります。秋に生まれたからでしょうか。 
 
また、新入生が本格的にドロップアウトするのもこの夏休みです。以前にも書いたように、私たちの時代は「医学部に入学」ではなく「教養学部医学進学課程に入学」。教養学部の 2 年間はまったく医学に接することはありません。医学を学ぶんだと心勇んで入学しても、医学部の学生だということを忘れてしまうような生活が続きます。そのためか、すっかり勉学意欲を消失して大学に来なくなる奴がぽつりぽつりでてきます。そうやって教養学部の2年間に何人もの同級生が退学・留年で消えていきました。
 
私が学生の頃にちょうど「宅配」がはじまったのですが、一緒に入学した学生の一人がアルバイトでその宅配便の配達をしていました。でも、大学での勉学よりもそちらの方が面白くなったのか、いつの間にか大学に来なくなって、結局、退学してしまいました。彼は最初からほとんど大学の授業に顔を出さなかったので印象は薄かったのですが、風の便りに彼はその宅配会社の正社員になったと聞きました。自分に合った仕事が見つかったのであればそれはそれで幸せなことではありますが、当時はびっくりしたものです。
 
欧米では 9 月が新学期。秋は気持ちも新たに勉学に取り組む季節です。私はもうすっかり「勉強」というものとは縁遠くなり、学生のころのように「やるぞっ」って気持ちにはなりません。一方、「勉強」の真っただ中にいる我が家の子どもたちは、夏休みが終わろうとしている今ブルーになっています。毎日、「あ~あ、もうすぐ夏休みも終わりかよ」だなんて愚痴ってますから。学校から出された宿題も終わったのかどうかもわからない状態で新学期に突入・・・。

おおっと。息子たちは、結局、今回のブログの冒頭で書いた私の子どものころと同じになっているではありませんか。DNAとはおそろしいものです。

(追記)
  この歌を聴くと「北海道の秋の紺碧の空」を思い出します。あのときの気持ちが伝わるでしょうか。

         Ruben Studdard  : 「Home」

  素敵ですよね。この歌声も、また、歌詞も。大好きです。

人生の転換点

人は生きていく中で、なんどか人生の転換点ともいうべき時を経験します。私にもそうしたときが何回かありました。中学生のときがそうでしたし、大学生の時期もそうでした。また研修医のときもまたそうだったと思います。中でもとりわけ中学生の頃は今の自分につながる大きな転換点だったと思います。

以前にもお話ししたように(「医者になる」もご覧ください)、小学生のころはまるで勉強には縁がなく、怠惰に6年間を過ごしてしまいました。中学校は地元には行かず、東京のとある区立中学校に入学しました。地元の中学校ではなく東京の区立中学校への越境は私の希望でしたが、なぜ越境を私が望んだのかは実は今をもってしても不明です。ともあれ、この中学校での三年間がなかったら今の私はなかったといっても過言ではなく、今さらながら運命的な出会いというものはあるんだなぁと実感します

でも、中学に進学しても生活態度は小学校のそれとはほとんど変わらず、電車通学するだけの生活が始まっただけで、進学を期に勉強に目覚めるなんてことは依然としてありませんでした。板書をノートすることもなければ、宿題をきちんとやっていく生徒ではなく、学校でただただボーっと過ごして家に帰ってくる毎日でした。中学1年生のときの担任との面談で母は「このままでは相当頑張らないと高校へ行けない」と冗談とも本気ともわからない指摘を受けてショックを受けて帰ってきたことがあるくらいです。

さすがにそんな私に危機感をもったのか、中学2年生の冬だったか、母親は近所に住んでいた大学生のお兄さんに私の家庭教師を頼んだのでした。数学と英語を教わりましたが、その大学生のお兄さんも教え始めたときの私の出来の悪さにびっくりしたに違いありません。それでもそのお兄さんが根気強く教えてくれたおかげで私自身は学ぶことの楽しさに少しづつ気づきはじめました。決してまじめな教え子ではありませんでしたが、授業がわかるようになるともっと勉強をしたいと思いはじめるようになったのでした。

中3になってこれまでとは多少内容が高度になるにつれて、授業中に先生が出題する問題に食らいつくことが面白く感じるようになってきました。とくに、私が心ひそかに好意を寄せていた女の子が席替えで私の隣になり、わからない問題の解き方をたずねてくるようになって俄然勉強に身が入るようになってきました。そして、授業中に先生が出題する問題にクラスの秀才よりも私の方が早く解けたり、彼よりもスマートな解き方をして先生に褒められるようになるとさらに勉強への意欲がわいてきたのでした。

私が通った中学校は下町にありましたが、文武両道をモットーとしていて、先生たちも熱心に生徒を指導してくれた素晴らしい学校でした。部活にも熱心で区内の中学校との陸上大会でも何度も優勝していましたし、学区内の他の中学校との進学実績でも競い合っていました。春になると「今年はどこどこ高校に何人合格した」ということが話題になり、中学3年生になった私達生徒も「来年はあの中学校には負けないぞ」という気持ちが自然と高まるような雰囲気の学校でした。

その反面、生活指導も厳しく、生徒には今であれば体罰だと騒がれるような指導も行われていました。しかし、そんな指導に反抗するような生徒はいませんでした。むしろ、そうした指導を面白がっていたようなところもありました。恐らく先生たちの愛情を生徒たちが感じていたからだと思います。あまり生活態度のよくなかった私はたびたびこの「指導」を受けていましたが、今となってはどの指導もいい思い出として残っています。今であれば大騒ぎになっているでしょうけど。

私がいつも受けていた指導は「おしゃもじの刑」。授業中におしゃべりをしていたり、宿題を忘れたりすると先生に「はい、おしゃもじ。昼休みに体育館に集合」と宣告されます。宣告を受けた生徒は昼食後、体育館に集合して「おしゃもじの刑」が執行されるのを待ちます。しばらくすると、屈強な体育の先生が給食で使う大きなおしゃもじを肩にかついで体育館に入ってきます。そして、私達生徒は一列に並ばされ、いよいよその刑の執行がはじまるのです。

「はい、壁に手をついてケツを突き出せ」。先生がいうとおりに両手を壁に尻を突き出すと、先生は助走をつけ、振り上げたおしゃもじをお尻めがけてふり下ろします。「パーンっ」。体育館に大きな音を響かせると、生徒は尻を抱えながら体育館を走り回るのです。「イテテ・・・」。それを見て笑い転げる生徒、次は自分かと恐れおののく生徒。体育館の中は阿鼻叫喚の世界と化します。でも、誤解のないようにいっておきますが、これは遠い昔の話し。決して体罰という意識は先生の側にも、生徒の側にもありませんでした。

私はこの他にも、「石抱きの刑」や「重力の刑」も受けたりしていました。前者は掃除用のほうきを二本並べ、その上に正座をさせられることからはじまります。そして、生徒の後ろにまわった先生は、「よく宿題を忘れるな、セバタは」と私の両肩に全体重をかけます。ほうきの上に正座した脛の痛いこと痛いこと。後者の刑は、クラスの出欠を記録する出欠簿の隅を指でつまみ、そこを中心に相対する角をあたまに自然落下させる刑。「ま~たお前か」と言われながらわられるのを生徒は面白がっていたようです。

髪の毛の長さにも校則に決まりがあって、朝の登校時に校門のところに週番の生徒と立っている生活指導の先生が髪の長い生徒を見つけ出します。そして、「昼休みに理科室ね」と声をかけます。そして、先生に指名された生徒は昼休みに理科室に集合。すると腕に自信のある先生が待っていて、髪の長い生徒は先生にバリカンで髪を切られるのです。うまくいかないときはときどき虎刈りのようになりますが、できあがった髪型に一喜一憂する生徒、そしてその生徒を面白がる生徒の姿は今はいい思い出です。

当時は「ゼネスト」とよがれる年中行事がありました。春になると旧国鉄(今のJR)の労働組合が大規模なストライキをして鉄道が全面的に止まるのです。止まらないまでも「順法闘争」と称してノロノロ運転をしてダイヤが大幅に乱れます。そのせいで首都圏の交通機能が完全にマヒ。今思うとよくそんなことがまかり通っていたものだと思いますが、年中行事みたいになっていたのでサラリーマンも私達学生・生徒も仕方ないとなかば諦めムードでなんとか工面をつけて会社や学校に通っていたのです。

ゼネストがあるちょうどその時期に学校では定期試験があります。ですから私のように電車を使って通学している生徒は、親が旅館業を営んでいる同級生の家に泊まり込んでテスト勉強、そして受験をしたのでした。同じ越境入学の友達と一緒に旅館にとまってのテスト勉強は楽しかったのですが、私は同級生たちが試験勉強する中あいかわらずのマイペースでボーっとしていました。それにしても先生も同じようになんとか都合をつけて学校に来なければならなかったのですから先生もずいぶん大変だっただろうと思います。

私の中学校は下町にありましたから、いろいろな生徒がいました。サラリーマンの子よりも親が商店を営んでいる子が多かったように思いますし、在日韓国・朝鮮人の子もたくさんいました。中にはヤクザの子もいました。でもみんな仲が良かった。先生も分け隔てなく生徒全員を同じように扱っていたのです。中にはいつも警察(少年係)のお世話になる生徒もいたりして、ある同級生は最終的に練馬鑑別所に収監されましたが、それでも先生たちは決して我々の前で彼を悪く言うことはありませんでした。

また同じように少年係によくお世話になった生徒の中には、その後、警視庁の警察官になった者もいます。卒業文集の「後輩に残すことば」に彼は「正義なき力は暴力。力なき正義は無力」と書いていました。今頃その生徒はどうしているんだろうとときどき思ったりします。このようにいろいろな生徒がいましたが、学校の中が荒れるなどということはありませんでした。生徒は先生を敬い、素行のよくない生徒ですら先生に手をあげるなど皆無でした。他の学校の不良とトラブルを起こすことはしばしばありましたけど。

このような中学校に通い、さまざまな友人をつくる中で、私は少しづつ変わっていきました。そして、先ほども述べたように、近所の大学生に家庭教師になってもらい、3年生になって密かに心を寄せていた女の子が隣の席になったのをきっかけに、私は勉強することの面白さを実感するようになりました。少なくとも数学と英語はそれなりにできるようになり、夏休みには難関校をめざす塾の入塾テストにも合格するまでになっていました。1年のとき、担任の先生に「このままでは高校に行けない」と言われていた私だったのに。

それでも私は、その塾では深い海底を漂う潜水艦のような生徒でした。みんな一流校と呼ばれる学校を目指す生徒ばかりでしたから私は少しばかり場違いだったのでしょう。先生にあてられてもまともに答えらえず、できるだけ目立たないようにしていました。あるときテキストの英文を訳すように指示されました。そこには「Glasses」という単語があり、これは「メガネ」と訳さなければ意味が通らないところを「草(こちらはgrass)」と訳してしまい、教室中の生徒に大爆笑されたこともありました。

それなりに成績は伸びました。それなりの高校にも受かりました。残念ながら私が思いを寄せていた隣の席の女の子は商業高校に進学して離れ離れになり、最後まで胸をときめかせるだけで終わってしまいました。卒業アルバムを開くと今でも当時の気持ちがよみがえりますが、そのアルバム写真に一緒に写っていた先生方もすでに亡くなられた方も少なくありません。一番私を気にかけて下さった1年生のときの担任の先生も何年か前にお亡くなりになり、教え子が主催したお別れ会が開かれ、私も出席してきました。

そのお別れ会にはたくさんの教え子が集まりました。そして、演壇ではその教え子たちが口々に昔の懐かしい思い出話しを披露していました。そのどれもが今では話すことがはばかられることばかりでした。でも、そのすべてがいい思い出として教え子たちの心の中に残っているんだということがわかるほどに会場は盛り上がりました。千葉の我孫子という田舎から東京の中学校に通っていた私をその先生は「かっぺ(いなかっぺ)」と呼んでいましたが、その先生自身も福島出身でいつもなまっていたのでした。

その先生は私が医学部に合格したとき、長い手紙を送って下さいました。そこには自分のことのように喜んでくれた先生のあふれんばかりの気持ちが綴られてありました。そして、自分の従弟も北大の医学部出身で眼科医だったことが書かれてありました。また、私が数学を教わった先生が、授業中に「教え子が医者になった。頑張ればみんなも夢をかなえることができる」と私のことをうれしそうに生徒に話しをしていることも伝えてくれました。このときばかりは本当にうれしかったです。

当時の中三の学年だよりに、英語の先生が次のような文章を寄稿しました。「人生には踏ん張らなければならないときが何回かある。ここぞというときにどれだけ踏ん張れるかにその人の価値はかかっている。みんなもそのことをいつも胸にして巣立ってほしい」と。私はこの言葉がとても心に残り、今でも自分の心の支えになっています。この中学校でのいろいろな先生との出会い、友人との関わりが今の自分を作っているんだということを実感しています。その意味で、自分の人生の大きな転換期となったいい中学時代を過ごせて本当に幸せだったと思っています。

ネボケルワタシ

札幌での学生時代の多くを過ごしたのは「岩樹荘(いわきそう)」というアパートでした。北大に合格してまずやらなければならなかったのは自分の住処をさがすことでした。それまでずっと両親の住む自宅から学校に通っていましたからはじての一人暮らしです。うれしいような不安なような複雑な気持ちだったのを覚えています。入学試験のころはまだ一面に雪が積もっていたのに、アパート探しに札幌を再訪したときにはもうだいぶ雪解けが進んでいました。日中はもはや氷点下になることはないため、道路や歩道の雪は融雪水となってどんどん側溝に流れていきます。そんな市内を札幌在住の知り合いの車に乗せてもらって探し回ったのでした。

除雪が進んでいる大通りは車のながれが多いせいかすっかり雪も姿を消していましたが、ちょっと辻通りに入ると結構な雪がまだ残っていました。私がアパートを探していた地域は学生用のアパートが多く、卒業式を終えて引っ越しをする学生が荷物を運び出している光景も見られました。こんな通りを知り合いの車に乗せられて走っていると、窓ガラスに「空き室あり」の張り紙をした一軒のアパートが目に入りました。それが「岩樹荘」でした。「ここ、どう?」。そう言う知り合いのおばさんの後ろをついていき、玄関の呼び鈴を押すと管理人室から厳格そうな初老の男性が出てきました。それがこのアパートの管理人でもある「岩樹荘のおじさん(「謹賀新年(平成29年)」もご覧ください)」でした。

管理人室でその「岩樹荘のおじさんやおばさん」と話しをして、すぐにこのアパートが気に入ってしまいました。薄暗い廊下はひんやりとしてまだ寒かったのですが、管理人室はストーブがたかれていてポカポカしていました。ごくごく普通の家庭の居間という雰囲気でしたから、なにかとてもアットホームな感じがして他人の部屋と言う感じがしませんでした。このアパートで医学部に進学する前の教養学部医学進学課程の2年間と医学部の2年間の合計4年を過ごしましたが、いろいろな思い出とともに「岩樹荘のおじさんとおばさん」によくしてもらった記憶が今も自分の心の中に生きています。

学生のころは決してまじめな学生ではありませんでした。つまらない授業はさぼっていましたし、代返(本人に代わって出席をとってもらうこと)が効く授業は代返を頼んだりしてアパートでダラダラ。あるとき、私はいつものようにつまらない授業をさぼって自室にこもっていたのですが、多少の後ろめたさを感じながらもいつの間にか寝てしまったのでした。そんなとき突然自室の電話が鳴りました。このアパートに入居してしばらくは電話がなく、管理人さんのところにある公衆電話を使ったり、呼び出しをしてもらったりしていたのですが、しばらくするとそれも不便になって固定電話を自室に引いたのです。

突然鳴り出した電話。私はちょうどそのとき夢のなかで留学生となにか会話をしているところでした。あまりにも急に夢から覚めた私は、受話器をとってもしばらくは夢と現実の間にいるようでした。受話器の向こうからは友人の声。授業に出てこなかった私を心配してくれての電話だったようです。「今日、講義に来ないみたいだけどどうかした?」。そう聞かれてもなんだかうまく言葉がでてきません。友人は「今、何をやってるの?」と。私はそんな受話器の向こうの彼を夢の中で会話をしていた留学生と混同したのか、「Oh、I’m スイミン(睡眠) now.」と答えてしまいました。電話の彼は驚いて、「えっ?なにっ?swimmingだって?」とびっくり。

ねぼけ話しは他にもあります。それは、まだ自室に固定電話をひいていなかったころのこと。外部から私のところに電話がかかってくると、管理人室から私の部屋に設置してあるベルが鳴ります。そのベルが鳴ったら管理人室に「了解しました」のベルで返事をし、電話のところにいって話しをするという仕組みになっていたのです。部屋でコンビニ弁当を食べ、満腹になって横になって寝ていたときのことでした。突然部屋のベルが鳴りました。びっくりした私は熟睡していたときに眠りを妨げられたせいか、「部屋のベル=管理人室に返事のベル」という反応をしなければいけないのに、そのふたつの事柄を結びつけることができず、なにをどう反応すればいいのかわからなくなってしまいました。

動揺した私は、なにを血迷ったのか、テレビのリモコンのボタンをいろいろ押してみたり、ガスコンロをガチャガチャとつけたり消したり、部屋の中をなにをしたらいいのかわからないままウロウロするだけでした。しばらくしてすっかり目が覚めて、ことの顛末を自ら振り返ることができるようになりました。そのとき私は思いました。「痴ほう症の患者ってこんな感覚を経験しているのではないか」と。人間って無意識にやっていることが結構多いということも、無意識のうちにいくつかの事柄を結びつけて行動しているということを実体験したのです。痴ほう症とは、そうした「いくつかの事柄を結びつけることができなくなる状態」ってことだとこのとき知りました。

岩樹荘では嫌な思い出ってまったくありませんでした。静かでしたし、管理人さんがいろいろと配慮してくれたせいか生活する場としては結構快適でした。他の入居者との交流こそありませんでしたが、周囲に迷惑をかける入居者もなく、生活音が気になるということも皆無でした。ただ、いちどだけびっくりしたことがあります。私の部屋のふたつ隣があるときから急ににぎやかになり、夜中までガヤガヤとたくさんの人の声が廊下まで聞こえてくるようになりました。しかも、夕食時になると部屋からはもうもうと煙までがもれてくるのです。しばらくは「友人を呼んで食事会でもしているんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたが、あまりにもそうしたことが続くのでなんだろうと。

ある晩のこと、いつものように夕食後にウトウトしていると、突然、ふたりの男性がたくさんのコンビニ袋をもって私の部屋に入ってきました。あまりにも突然のことだったので、お互いに顔を見つめ合うだけで言葉がでませんでした。これまでなんどか寝ぼけたことがある私はとっさに「この事態を冷静に判断しよう」とあせっていました。「まずはここは自分の部屋だろうか」「さっきまで自分はなにをしていただろうか」「このふたりに悪意や敵意はあるだろうか」、いろいろなことがあたまをよぎりました。結局、彼らは頭を下げるでもなく、バツが悪そうな表情をしながら部屋を出ていきました。

実は、あの騒がしい部屋にはとある外国人が入居したのですが、その後、次々と友人が寝泊まりするようになり、多い時は六畳に5人の人間が住み着くようになったのでした。しかし、そんなことが一か月も続くようになったこと、その部屋の住民はいつのまにかいなくなってしまいました。管理人のおじさんに聞くと、どうやらあまりにも度が過ぎるので退室してもらったとのこと。大陸的といえば大陸的な大胆さ、おおざっぱさですが、日本人の節度とはあまりにも相いれない振る舞いに、おじさんは「もうこりごり」と顔を曇らせていました。

「岩樹荘」での思い出(「X’マスは雪がいい」もご覧ください)は、私の北大時代の思い出でもあります。4年間の医学部の前半の2年までを過ごしましたが、親元を離れ、講義に出席することもふくめて、食事をとるのも、風呂にはいるのも、あるいは寝ることも誰にも束縛されない自由な時間であふれていました。医学部に入学するまではいろいろなことに悩み、不安を感じながら時間を過ごすことが多かったので、この岩樹荘での時間はなによりもゆったりとした幸福なものでした。その分だけ、部屋でゴロゴロと怠惰な時間を過ごしましたし、その思い出が強く私の記憶に残っていますが、そのときのゆったりとした記憶が今の安らかな気持ちにつながっているような気もします。ちなみに、医学部後半の2年間はちゃんと勉強して医者になりましたから誤解ないよう。

謹賀新年(平成29年)

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

時の経つスピードは年々早くなり、子どものころにはあれほど長かった一年が今ではあっという間です。私自身も知らない間に半世紀を生きてきて、いったいこの間にどれだけのことをなしてきたのだろうかと振り返れば、これといったこともしないまま無駄に歳をとってしまったような気がします。

子どもの頃に憧れていたものがだんだん輝きを失っていき、大人になって現実を突きつけられると空しさを感じるものになってしまうものだって決して少なくありません。思い出だけが自分の心のなかでキラキラと輝いていて、心ときめいていた昔のことを懐かしむようなことも最近とても多くなってきました。

これまでなんどかお話ししてきたように、私の心のなかで今でもキラキラと輝いている思い出はなんといっても札幌時代から研修医のときでしょうか。長年住んだ我孫子を後にして、札幌に引っ越した時の事をときどき思い出します。不安と期待が入り混じった胸のときめきは今でもあざやかに覚えています。

元旦に一枚のある年賀状が今年も届きました。それは札幌時代にお世話になったアパートの管理人さんの息子さんからのものです。今年で97歳となったおじさんと95歳になったおばさんの近況を伝えてくれるその年賀状は私にとっては札幌時代を思い出す大切な便りです。

私が学生のときに住んでいたアパートは大学から歩いて10分ほどのところにありました。管理人のおじさんは札幌にやってくる前まではひまわりで有名な雨竜というところで農業をやっていました。戦争で南方に送られ、大変な目にあいながらも父親から譲り受けた土地を少しづつ広げていった働き者のおじさんです。

おばさんも寡黙でとても働き者でした。広いアパートをいつもきれいにお掃除しているおばさんの後ろ姿が目に浮かびます。長年やってきた農業をやめ、札幌でアパート業をやろうと決心したおじさんについてきたおばさんがどのよう気持ちで雨竜を離れたのだろうかと考えたくなるほどにいつも働いていました。

おじさんとおばさんははたから見ていても「夫唱婦随」という言葉がぴったりのご夫婦でした。「昭和の理想的な夫婦」ってところでしょうか。おばさんはおじさんを立て、おじさんは何気におばさんをいたわっている。ふたりが仲たがいをしているところを見たことがありませんでした。

そうそう、今思ったのですが、おじさんの風貌ってTVドラマ「北の国から」の黒板五郎が歳をとったような感じ。短く刈った髪は真っ白でしたが、開拓と農業で鍛え上げた体は当時七十歳近くでしたが筋肉質でがっちり。背丈も私よりもあって、どことなく私が憧れる高倉健(「高倉健、永遠なれ」もご覧ください)を彷彿とさせる風貌でもありました。

長年やってきた農業を、しかもはたから見れば順風満帆に見える生業を捨て、これまでの仕事内容とはまったく異なるアパート業にかわろうと決断した意志の強さをあらわすように、おじさんはときにとても鋭い眼光をもっていました。しかし、アパートに住む人たちにはいつも親切で優しかったのです。

アパートに引っ越してきたとき、おじさんに「いっしょに飲まんか?」と誘われました。私はお酒がまったく飲めなかったのですが、せっかくだからと管理人室にうかがうことにしました。管理人室でのおじさんのまなざしにはいつもの鋭さはなく、にこやかでとてもうれしそうでした。

食卓にはおばさんが作ってくれたお料理が並び、さながら私の歓迎会をやってくれているんだと思いました。「冷がいいかな?」。春とはいえまだ寒かった札幌ですが、管理人室は暖房がたかれていてポカポカ。私はおじさんがいつもそうしているように冷で日本酒を飲むことにしました。

コップ一杯ぐらいなら大丈夫だろうと無理してお酒を交わしていた私は、しばらくすると地面がぐるぐる回ってきました。おばさんが心配そうに、「だいじょうぶかい?」と私の顔をのぞきこみました。そこまでは覚えているのですが、あとはどうなったかわからないまま、いつの間にか自室で寝ていました。

翌日、管理人室のおじさん達にお礼に伺うと、おじさんは「酒、飲めんかったかね?」と申し訳けなさそうに尋ねました。微笑みながらうなづく私におじさんは「そうかね、そりゃ悪いことをした」と。あのあと、私は真っ赤な顔をして意味不明なことをつぶやきつつ、ヘラヘラ笑いながら自室に戻っていったそうです。

以来、このアパートは文字通り私の自宅になりました。おじさんとおばさんからいろいろな心遣いを受けながら4年間をここで過ごしました。風呂がなく、トイレも共同のアパートでしたが居心地は決して悪くありませんでした。管理人さんの息子さんご夫婦も入っていてなんだかとてもアットホームだったのです。

ただ、一度だけこういうことがありました。管理人さんの息子さんご夫婦にはひとりの可愛い女の子がいました。当時はまだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの年齢でした。私の自室からはその子が元気に廊下を走り回る音が聞こえました。でも、決して不快な騒音としてではありませんでした。

あるとき、私は部屋で簡単な自炊をしていました。大した料理ができるわけではありませんでしたが、ときどき気が向くと料理をしていたのです。久しぶりに作った料理がたまたまうまくでき、いい匂いが部屋に満ちていました。盛り付けをしながら私は早く食べたい気持ちを抑えていました。

そのとき、廊下からいつものように女の子がお母さんと一緒に歩いていく音が聴こえます。共同のトイレにでも行くのでしょうか。走ろうとするその子に「走っちゃダメよ」とたしなめるお母さんの声も聴こえました。扉の外の愛らしい光景が目に浮かぶようでした。

いちどは聞こえなくなった二人の話し声がふたたび徐々に大きくなってきました。ちょうど私の部屋の前に二人が差し掛かった時、女の子の足がふと止まりお母さんにこう言ったのです。「ママ、変なにおいがするよ」と。変なにおい・・・。そうです。それは私の部屋から漏れた匂いのことでした。

すかさずお母さんが声を潜めるように「そんなことを大きな声で言っちゃだめ」とたしなめました。私はそのとき隠れてしまいたいような恥ずかしい気持ちになりました。その「変なにおい」をおいしそうに感じていた自分が恥ずかしかったのです。以来、料理をする機会はすっかり減り、それは今でも続いています。

このアパートには風呂がなかったため、医学部も高学年になって気軽に風呂にはいれるワンルームマンションに引っ越しました。しかし、それ以降もこのアパートの管理人さんとのつながりは続きました。時間があればおじさんとおばさんに会いに行きましたし、家内と結婚して札幌に戻っては挨拶に行き、子どもが生まれれば見せに行きました。

あんな管理人さん達のようなご夫婦にはお目にかかれないでしょう。二人は私が憧れていたTVドラマ「大草原の小さな家」に出てくるインガルス夫妻のようでもあり、「北の国から」の黒板五郎のようでもあり、また、高倉健のような風貌のおじさんはひょっとして私の理想の男性像だったかもしれません。

人との出会いってとても大切だと思います。私の人生を振り返っても、いろいろな人との出会いによって今の自分があるといっても過言ではありません。こうした大切な人たちとどのくらい出会えるのかが人生を左右するのでしょうね。年賀状はそれを確認する便りでもあると思いました。

 

 

 

X’マスは雪がいい

札幌は先日ふたたび降った大雪で早くも根雪になるでしょう。60㎝を超える降雪量を記録するのはなんでも29年ぶりだそうで、札幌にいたころのこの時の大雪を思い出しました。当時、私は自分の車を青空駐車場に停めていました。ですから、雪が降るたびに車の上に積もった雪と駐車場の出入り口から車までの雪をどけに行かなければなりませんでした。しかし、そのときの雪はそれこそ一晩に50㎝は降ったかと思われるほどでしたから、いつもの雪かきとはくらべものにならないほどの重労働でした。まずはアパートから駐車場に向かうのが大変。北海道のサラサラした雪とはいえ、腰まではあろうかと思われる雪をかきわけながら歩くためにはかなりの体力を使いました。駐車場はアパートのすぐ近くとはいえ、歩道に降り積もった雪に足をとられながら歩くと駐車場に着くころにはもうヘトヘト。そして、駐車場に目をやれば、車が見えないほどの一面の雪にはただただ茫然となるのみでした。

よりによって私の車は駐車場の一番奥にありましたから、そこにたどり着くまでの経路の雪を排除しなければなりません。もちろんただ左右に雪を押しのけただけでは他の車の前に雪をどけるだけになってしまいそれらの車に迷惑をかけます。しかし、どけた多量の雪をどこかに捨てようにも、ドカ雪のときはその捨てるところさえないのです。ですから、車の通行に迷惑なならないように車道の脇に寄せて(といっても、どこが脇なのかもわからない)雪をもっていくのですが、雪にはまった車を掘り出すための小さなスコップで運ぶものですからものすごい時間と労力を要します。結局、数時間をかけて他の人の車の分まで除雪したあげくにようやく自分の車の上に積もった雪をどける作業にとりかかれるといった状況でした。当然のことながら、大学の講義などには出席できるはずもなく、重労働で汗をかいたあと銭湯にいって「自宅療養せざるを得ない状況」になってしまいました。

もともと寒い日に昼間っから大学をさぼって銭湯に行くのは好きでした。まだ入浴客も少なく、広い湯船でじっくり温まってアパートに帰るときの爽快感がなんともいえず気持ちがいいのです。真冬のときなどは、帰りしな濡れたタオルをぐるぐる振り回すとカチンカチンに凍ったりして北海道の冬を実感できます。でも、あるとき、恐ろしい「事件」に遭遇しました。いつものように明るいうちに銭湯にいって頭を洗っていたら、なんとなく自分に降り注がれる視線を感じました。ふと顔をあげて鏡を見れば、なんと背後に私をじっと見つめる男性の姿があるではありませんか。しかも私が移動するたびにその男性がそばにくる。彼はあきらかに私のあとをついて来るのです。急に怖くなった私はあわてて銭湯を後にしました。以来、その銭湯を利用することがなかったということはいうまでもありません。あの恐怖心は大学祭での「おかまバー事件」のときに感じて以来のものでした。

その「おかまバー」は、まだ医学部に進学する前(教養学部医学進学課程のとき)の北大祭のイベントとしてクラスで企画したものでした。当の企画者はシャレでやるつもりで、女の子がおもしろがってたくさんくるだろうぐらいの単純な発想だったのです。ホステス(ホスト?)をやらされた私たちは化粧をし、布を適当に体に巻き付けただけのあらわな姿をさせられました。当然のことながら私ははじめて化粧をしました。そして、女子学生にお化粧をしてもらいながら、変わっていく鏡の中の自分がどんどん「きれいに」なっていきました(幸い、その後、お化粧が癖にはなりませんでした)。お化粧が完成したとき、それなりに「きれいになった自分」を再発見。化粧をすると別人になったような気持がして、人前に出ても不思議とはずかしくありませんでした。ところがそんなことに「感動」していたのもつかの間。ホステスをやっていたひとりの友人の悲鳴によって「おかまバー」は恐怖のどん底に突き落とされることになりました。

二人の本物の「おかまさん」が来店したのです。悲鳴をあげた友人は開店後はじめてのそのお客を接客して体を触られたと控室に駆け込んできたのです。控室にいた「ホステス達」は一様に恐怖に顔を引きつらせながらどうしたらいいものか考えあぐんでいました。二人の本物の「おかまさん」をテーブルに残したまま、誰もそのテーブルに行こうとしないのです。そのうちに客席の方から大きな声が聴こえてきました。「お客を放りっぱなしってどういうことよ。ビールぐらい出しなさいよっ!」と怒っています。結局、体が大きく腕っぷしの強そうな友人が勇気を出して接客にいくことになりました。「変なことをしたらぶんなぐってやる」と言いながら彼は接客に向かいました。ふたりの「おかまさん」達は怖がる私達をしり目に、自分たちで歌ったり踊ったりとひとしきり楽しんで帰っていきました。そのパフォーマンスの高さはさすが「本物」で、他のお客さんはもちろん私達ホステスも関心するほどでした。

話しが横道にそれてしまいましたが、この雪で札幌はもちろんホワイトクリスマスになると思います。クリスマスにはやっぱり雪が必要ですね。以前にもご紹介したように、学生のころ、イブの夜に讃美歌を聴きたくなって雪の中を教会に行ったことがあります(「北海道のこと」をご覧ください)。讃美歌、いいですよねぇ。私は「神の御子は」という讃美歌が大好きです。大学のサークルでこの歌を合唱したことをきっかけに好きになりました。私はかつてNHKで放映されていた「大草原の小さな家」が好きでよく見ていたのですが、たまたまつけたTVでそのドラマが放映されていて「インガルス一家のクリスマス」という回をやっていました。家族のみんなが自分の大切にしているものをこっそり売って家族が喜ぶクリスマスプレゼントを用意するという感動的な回だったのですが、やはりこのときのウォルナットグローブも一面銀世界でした。その前後の回の同じウォルナットグローブに雪などまったくなく、青々とした草も生えていたのでクリスマス用の特別編集だったんでしょう。

独身の頃、「結婚願望」なんてぜんぜんありませんでしたが、その一方でなんとなくこのインガルス一家みたいな家族が将来できればいいなぁなんて思っていました。頼りになって思いやりのあるお父さんと、優しくて慈しみに満ちたお母さん。そして、元気いっぱいでいつも前向きな子供達。そんな家族みんなで「神の御子は」を合唱するなんて素敵って思っていました。でも、現実はそう簡単にはいかないものです。私も家庭をもち、改めて振り返ってみれば、大きくなった子供たちに「みんなで合唱しようよ」と提案しても、「やだよ」「めんどくさい」「ひとりで歌っていればいいじゃないか」などと誰も相手にしてくれない。「それなら」と、ひとりYouTubeを見ながら大声で気持ちよく歌っていれば「うるさいから小さい声で歌ってよ」と言われてしまいます。そんな「可哀想なチャールズ」はTVで札幌での大雪のニュースを見たり、ドラマでのクリスマスのシーンを見るたびに、「神の御子は」を思い出しながら「やっぱりクリスマスには雪だよなぁ」なんて思ってしまいます。

暖かい家の中の心地よさがそう思わせるんだと思います。北海道の家はこちらの家とはくらべものにならないくらい暖かいのです。冬が長いのであたりまえですが、家の中だけで言えばこっちの家の方がよっぽど寒い。なにせコタツなんていらないくらいですから。家の中で厚着をするなんてこともありません。最近の家であれば床暖は当たり前になっていて、ストーブをガンガン炊きます。家の外には大きな石油タンクを備えていて、夜も微弱ながらもストーブはつけっぱなし。ストーブを止めてしまうと窓には氷の結晶がこびりついていて(当然のことながら窓は二重窓になっていますから、氷の結晶がこびりつくのは外側の窓ガラスです)、ストーブをつけてもなかなか部屋が温まらないなんてことがあるからです。北大に入学してはじめて友人の部屋に遊びに行ったとき、春だというのにまだまだ寒い中、玄関の扉が開いてTシャツ姿の友人が出てきたときはびっくり。部屋のなかは汗ばむほどの暖かさでさらにびっくりしたものです。

そう考えると雪のない冬はものすごく物足りなく感じます。先日の札幌の大雪のように道民の日常生活に支障をきたす雪というのも迷惑な話しですが。それでもそれが冬の風物詩と思える私にとっては、雪のない今の風景はどことなく殺風景に見えるほどです。夜に雪が積もり、朝日にまぶしく輝く新雪を見るとすがすがしい気持ちになります。新雪が積もった日の朝はとても静かです。そして、しばらくすると除雪のために家々からひとりふたりと人々が出てきて少しづつにぎわい始める街並みを見るのもいいものです。北国の冬というと、寒くて暗くて家の中でじっと春を待っているといった印象があるかもしれません。しかし、雪が降るたびに始まる静かな朝。そして、みんなが協力し合って雪をかき、除雪車がけたたましい音を立てて夜通し作業をする。北国の冬って決して人間の生活感に乏しい冷たいものじゃないのです。むしろ、こちらの冬よりもにぎやかに感じるのが北国の冬なのです。クリスマスまでもう少し。こちらでもイブの夜だけでもいいから雪が降らないかなぁ。

 

 

ごめんね、K先生。

人間というものは、とかく自分のことを棚に上げて他人のことをとやかく批判するものです。自分の価値観や理想が「正しいもの」であると確信している場合であればなおさらです。しかし、人が腹を立てていること、あるいは批判したくなることがらの多くは、よくよく考えてみると「良し悪し」の問題ではなく、実は「好き嫌い」の問題であることに気づくことも少なくありません。 

正義感が強く、どちらかというと曲がったことが嫌いで、「長いものには巻かれろ」的な世渡りができない私にとって、自分とは異なる他人の価値観を認め、他人の価値観を尊重し、調整を図ることができるようになったのはそう昔のことではなかったように思います。簡単に白か黒かで判断できるものばかりではないことに気が付いたのは結婚してからでしょうか。 

医学部を卒業して研修医になったころは、「医療はこうあるべきだ」「医者はこうあるべきだ」といった理想論であたまでっかちになっていました。それにはずれるものは「良くないもの」「邪悪なもの」と断罪し、心のなかで批判し、軽蔑していたのでした。甘っちょろい理想論を振り回しながら傲慢な考え方に支配されていることに気が付かなかったのです。それほどに自分は「青い存在」だったのです。 

ですから当時はいろいろな人に迷惑をかけたり、不愉快な思いをさせたと思います。その反省を込めて当時のエピソードを書きます。 

それは研修医も2年目となり、新たに2人の研修医を迎えたときのことでした。それまで1年目の研修医として私ともうひとりの研修医(女医さん)とで医学生から医師になるための修練を重ねてきたのですが、そこに二人の新人研修医が採用されたのでした。彼らもまた男女各1名の研修医でしたが、実は、この新人女医さんと私はことごとく価値観があわず、最後には口もきかなくなってしまいました。 

それまで私は女医さんというものは頑張り屋で負けず嫌いで誰よりも働くというイメージをもっており、同じ2年目の研修医として頑張ってきた女医さんもふくめてそのイメージが裏切られることはありませんでした。しかし、新しく採用された女医はこれまで出会ったどの女医とも異なるタイプだったのです。私はそれがどうしても受け入れられなかったのです。

診療科の先生たちが休日に研究会などに出席するとき、研修医は病棟の重症患者の対応を頼まれることがあります。いわゆる「留守番」です。上司である先生や他の先生たちの患者の対応を任されたわれわれ研修医は休日に病院に出てこなければならないのです。私と1年目の女医(K先生としましょう)はその「留守番係り」となり、週末の二日間の病棟管理をまかされたのでした。

K先生とは土曜日と日曜日のどちらを担当するか相談することにしました。「先生はどっちがいい?」と私が尋ねると彼女は「日曜日は友達の結婚式が前橋であるので出てこられません」と言います。「そう、じゃあ土曜日、頼むよ」。そう私がいうと彼女は「土曜日の午後から前橋に向かうのでちょっと・・・」と。私は心の中で「マジかよ」と思いつつ、「それなら土曜日の午前中だけでいいよ」と譲歩したのですが、「私、毎朝、ジョギングをしているんです。ジョギングをしないと体調が・・・」と不満そう。

ムッとした私はつい「それなら、ポケベルを持ってってよっ(当時は携帯などなくポケベルを持たされていました)!」とちょっとだけ強く言ってしまいました。しかし、彼女も負けていません。「えぇ?ポケベル持って走るんですかぁ?」。私は思わず「そういうときのためにポケベルってあるんだろうがっ」とすっかり怒りモードに。結局、土曜日の午前中は彼女、それ以降は私が病棟を守ることになりました。

その後もそんなやりとりが繰り返され、休日出勤を命じられるといつも「友達の結婚式が・・・」となるので、いつしか彼女のことは信用しなくなっていました。私にはそんな彼女にやる気が感じられなくて、いつもイライラ。ある時、めずらしくレントゲン写真を持ってきて「先生、この影はなんですか?」とかいがいしく質問するので、「そうだなぁ、陳旧性胸膜炎による石灰化じゃないかな」と答えました。

いつも眉をひそめていた彼女に質問されて私はちょっといい気になっていました。しばらくして病棟にあがってきた指導医のところに彼女はおもむろに駆け寄ると、「先生、この陰影は陳旧性胸膜炎による石灰化でいいでしょうか?」と質問。指導医は「おおっ、よく勉強しているね。その通り」と。彼女の頭をなでんばかりの褒めようです。「いえ、まぐれですぅ」とうれしそうに小さく飛び跳ねる彼女を横目に、私は心の中で「まぐれはないだろ」とつぶやく。いち事が万事こうなのです。

私が1年目のときは長い夏休みなど申し訳なくてとれなかったのに、K先生が他科の専修医(研修医を終えてさらに修練を積んでいる先生)に自分の担当患者のことを頼んで長い夏休みをとることを知ったとき、私は思わず彼女に注意してしまいました。「自分の患者を、しかも他科の専修医の先生に頼んで夏休みだなんて無責任だよ」と私。それを聞いた彼女はまるで「どうしてよ?」と不服そうに見えました。

ところが、その翌日、彼女が自分の患者の管理を頼んだ専修医が私のところにやってきて「セバタ先生、僕がK先生の患者のことやっとくから大丈夫だよ」と微笑んでいます。おまけに病棟回診に来た部長先生も不機嫌にしている私に「先生は厳しいなぁ。もっとK先生に優しくしてやってよ」と笑っています。私は彼女が専修医やこの部長先生に泣きを入れたなと直感しました。「あいつめ、言いつけやがったな」。

また、こんなこともありました。その日は指導医の先生がおこなう検査の準備をわれわれ研修医が事前にやっておかなければなりませんでした。ところが、いつになってもK先生がやってこない。私ひとりで準備をして検査は始まりましたが、一向に彼女の姿が見えないのです。しかも運悪くその日に限って検査がうまくいかずに指導医もイライラしています。ついに、指導医が怒鳴るように私に言いました。

「セバタ。Kはどうしたんだよっ」。「まだ登院していないみたいです」。「『みたい』じゃねぇよ。あいつのレジデントハウスに電話しろっ」とカンカン。私は検査室から彼女の部屋に電話をしました。はじめはなかなか電話にでなかったのですが、しつこくコールしているとようやく電話口に。「なにやってるの。今日は検査だよ」と私。すると「きょ~わ~、朝からあたまがいたくてぇ~」とK先生はけだるそうです。

私は指導医に「頭が痛いので今日は休みたいといってます」と報告。すると、ついに指導医の怒りが爆発。「ふざんけんなっ。看護婦さんだって頭痛薬を飲みながら仕事してんだ。出てこいって言えっ」と私を怒鳴りつけます。「俺に怒ってどうすんだよ。自分で言えばいいのにじゃないか」と心の中でブツブツいいながら言われた通りに彼女に伝言しました。しかし、結局その日彼女が登院することはありませんでした。

そんなことばかりが立て続けに起こるので、夜中、二人病棟でカルテ書きをしているとき、私は彼女に言いました。「K先生、内科が大変なら保健所の医者って選択肢もあるんじゃないの?」と。K先生は黙って聞いていましたが、明らかにムッとしている様子がうかがえました。その翌日、病棟の患者の採血をしようと病棟に行くとどういうわけか夜勤明けの看護婦さんが私をにらんで待っていました。

というのも、私が「K先生にひどいこと言った」と言うのです。「ええ?ひどいことなんて言ってないけど」、そう言うと「『おまえみたいなのは保健所の医者にでもなれ』って言われたってK先生泣いてたから」と。私はもうなにも反論する気がなくなりました。そんなことをしているうちにK先生も次第に私を疎ましいと思ったらしく、次第に私を避けるようになりました。もちろん私もそうだったので、いつの日かお互いに目を合わせることも話しかけることもなくなりました。

こうした二人の関係を改善することもなく私は研修を終えて病院を去りました。でも三十年近くたった今思うと、彼女は彼女なりに一生懸命だったのかもしれないと思えるようになりました。しかし、当時の私にはその彼女なりの頑張りが適当に見えたり、うまく立ち回っているように見えたりして、どうしても許せなかったのです。周囲の先生たちが彼女のそうした行動をなぜとがめないのか理解できませんでした。とがめるどころかむしろ寛容な先生たちの対応に歯がゆい思いをしていたのでした。

当時の私は「こうしなければならない」「こうすべきだ」という価値観に拘泥されていたんだと思います。そして、「こっちは忙しく働いているのになんであいつだけ」という気持ちが強かったのでしょう。要するに余裕がなかったんです。冒頭にも書いたように人の価値観はさまざまです。それは「良い、悪い」ではなく、「好き、嫌い」の問題がほとんどです。そうしたことに気が付くには随分と時間がかかりました。

あのときもう少しK先生の価値観を尊重できて、寛容になれたらお互いにもっと楽しい研修になったかもしれません。仲直りもできずに離れ離れになってしまいましたが、あれからずっとあのときのことが気になっていました。今、改めて謝りたいと思います。K先生、ごめんね。

わが心の故郷「逓信病院」(2)

これまでなんども書いてきたように、研修医としての2年はその後の医者としてのスタンスを左右する大切な期間です。私はその研修の場に東京逓信病院を選んだのですが(「わが心の故郷「逓信病院」」もご覧ください)、そのときの研修で身についた姿勢は今の自分にも生きていると思います。思えば大学卒業したての人間に医師という仕事のイロハを2年間で叩き込むのですから、指導医の先生はもちろん、一緒に働く看護師やコメディカルの人達も大変だったと思います。それでなくても研修医になったばかりの連中はプライドが高く、小さなころから失敗らしい失敗もせずにとんとん拍子で医者になった連中も少なくないでしょうから。

今の研修医制度は私たちのころとはずいぶん変わってしまいましたが、私たちのころの研修病院の採用試験は医師国家試験を受ける前の年(つまり6年生)の秋に実施されました。当時、私の級友達も早い人達で5年生のころから医師国家試験(「国試」といいます)に向けての勉強をはじめ、友達同士で勉強会をして教えあったり、過去の国家試験を解きあったりしていました。また、熱心な学生は夏休みに研修を希望する病院に出向いて見学あるいは実習をしていました。私はどうかといえば相変わらずのんびりしていました。勉強会をしたり、病院見学にいくような熱心な連中を横目にみながらこれまで通りのマイペースでした。

そんなありさまでしたから、いざ研修病院の採用試験を受験するときになっても国試の勉強はまだ道半ば。研修病院の採用試験に合格するとはとても思えない状況でした。しかも、噂では学生のときに夏休みの見学に来た人が優先されるとか、この病院は○○大学閥だから地方大学出身者には不利だとか、ウソかまことかわからない話しが錯綜していました。ですから、私のように医学部に奇跡的に合格し、なんとか落第もせずに6年までこぎつけ、国家試験の勉強ですら遅れに遅れている学生に研修病院の採用試験に合格できる自信などあるはずもなく、受かればもうけもの、とぐらいにしか思っていませんでした(採用試験受験後の出来事については「白馬の女(ひと)」もご覧ください)。

ところが、奇跡はまた起こり、受験した三つの研修病院の採用試験にすべて合格しました。この中で一番行きたかった東京逓信病院から一番最初に合格通知が届きました。病院からは入職する意志を確認する電話があり、私は合格させていただいたお礼とともに入職を確約する旨の返事をしました。でも、もし次の年に実施される国家試験に落ちれば採用は取り消しになります。なので、それまではなかなかスイッチの入らなかった国試の勉強も、研修病院が決まってからは一気にモチベーションが高まりました。とはいえ、周りの級友たちの中にはすでに模擬試験で合格ラインに入ったなどと豪語している人もいて、周回遅れの私との差は歴然としていました。

医師国家試験は3月でしたが、その前に医学部の卒業試験があります。文字通り医学部を卒業するための試験です。この試験で1科目でも不合格であれば卒業できません。私の卒業した北海道大学は、多くの私立大学でやられているような「国家試験対策」なるものはやってくれません。多くの私大は卒業試験も国家試験と同じマークシートで、その内容も国家試験の予想問題だったりして、卒業試験の勉強がそのまま国家試験の勉強になっていました。大学によっては夏休みや冬休みに合宿形式の国家試験対策セミナーをやってくれるところもあるようで、手取り足取りと面倒見のいい大学とは違って北大はそうしたことにはあまり熱心ではありませんでした

でも、国立大学では予算の関係もあって次年度にたくさんの学生を留年させることができないらしく、卒業試験では「名前を書いたらプラス5点」「学籍番号を書いたらプラス2点」などとどんどん加点して不合格にはしないのだ、という根拠のないうわさが流れていました。ですから、学生の間では「卒試は問題なし。肝心なのは国試」というのが定説になっていました。実際、どんなに勉強をしない学生でも、卒業試験で合格できなかったという話しを聞いたことがありませんでした。なんとか卒業試験までこぎつければ、どんなに成績が悪くても最終的にはレポートで救済され、卒業させてもらっているようでした。

のんびりしていた私もさすがに年が明けるくらいになるとあせって勉強していました。あのころが人生で一番勉強していたかもしれません。大学の講義もなくなって早朝から深夜まで一日中国試向けの問題集をやっていました。国試ではたった3日間で500問以上の問題を解かなければなりません。内科や外科、小児科や産婦人科、耳鼻科や皮膚科、放射線科などの臨床科目はもちろん、公衆衛生学や病理学、薬理学や解剖学などの基礎医学もふくめて6年間の大学教育のなかで履修したすべての科目が出題範囲になるので試験勉強の量たるや教科書を積み上げれば天井につくほどです。試験の前日、シャワーを浴びながらついさっき勉強した内容を思い出そうとしたのに頭に浮かんでこなかった時は、さすがの私もパニックになりました。

国家試験は代々木ゼミナール札幌校でおこなわれました。ここはアルバイトで中学生に理科を教えていたので気心の知れた場所でした。北海道にある三つの医学部(北海道大学、旭川医科大学、札幌医科大学)の学生はここで試験を受けます。当日、会場に到着するとたくさんの学生たちが必死になにかコピー用紙を回し読みしていました。なんでも東京の私立大学から送られてきた「重要情報」だとか。全国の大学から「うちの大学にいる国家試験の出題委員の○○教授が『ここはしっかりやっておくように』と言っていた」といった情報が全国の大学の「国試対策委員」なる学生に一斉に送られてくるのです。

もちろん北大にも出題委員の教授はいましたが、「ここは重要だ」といっていたところが国家試験にでるなどということはありませんでしたから、国試直前に飛び交うこうした情報の信ぴょう性は定かではありません(そもそも法律違反)。しかし、学生にすれば「溺れるものはわらをもつかむ」。そうした情報に学生はちまなこです。国家試験はすべてがマークシートなので記入ミスがあればすべてはおじゃん。それだけも神経を使うのに、膨大な数の試験問題に神経を集中させていたのであっという間に終わってしまいました。そして、3日間の国試終了。終わってからはしばらくは何もする気にならず、私の部屋はまるでごみ屋敷のようでした。

当時は国試の明確な合格基準が発表されていなかったので、合格したと思っていたら不合格だったという話しもちらほら聞こえてきました。ですから、実際に札幌にある厚生省の出先機関で発表される合格者名簿で自分の名前を確認するまではドキドキしていました。発表当日は札幌に遊びに来ていた両親と道内を旅行していたので、あらかじめ合否の確認を頼んでいた友人のところに電話をして合格を知りました。しかし、不思議とうれしさはありませんでした。それは合格を確信していたからではなく、試験でエネルギーを使い果たしたからだと思います。むしろ、何人かの級友が国試に落ちてしまったことがショックでした。

それでも、この春から東京逓信病院で研修できることがうれしかった。はじめての東京生活ということもありますが、それ以上に自分が目指す医師像に向けてスタートを切ることに少し興奮していたのでした。臨床家になるのか、それとも大学で研究者になるのか、そんな遠い将来のことまで考えていませんでしたが、まずはしっかり内科の知識と経験を身につけたいと思っていました。その意味で、東京逓信病院は大きさといい、施設面といい、スタッフの数といい、私の理想通りの病院だったのです。

実は国家試験が終わってからちょっとした「事件」がありました。看護師をしていた妹が働く病院に、北大医学部の先輩であり、医学界の歴史に残る手術をされたある有名な先生がいました。私が北大医学部を卒業したことを妹から聞いて「是非会いたいから連れてきなさい」と言ってくださったのでした。当然私もTVや新聞などでよく知っていた先生でした。でも、あまりにも偉い先生だったので、私のようなまだ研修医にもなっていない者が挨拶にいくなんて、と尻込みしていました。でも、「せっかく言ってくださったんだから」という妹にせっつかれて病院に会いに行くことにしました。

私には珍しく正装して会いに行きましたが、TVで見たことのあるその先生は笑顔で私を出迎えてくれました。そして「おめでとう」と力強く握手をしてくださいました。そのあとなんの話しをしたのかはよく覚えていないのですが、挨拶に行くのだからと持参した商品券を手渡そうとしたとき、先生はその商品券の包みを手に取って「なにがはいってるの?」と私に尋ねました。私がとまどいながら「商品券です」と答えると、先生は「そう。遠慮なくいただくよ」と懐にしまうとすぐにその包みを私に返しました。そして、「これは私からの卒業祝い。こういうものは立派な医者になってからにしなさい」と言ってくれました。

まだ学生だった私が偉い先生に商品券などを渡そうとしたことが恥ずかしく思えました。顔を真っ赤にしながらかしこまっている私に先生は続けました。「ところで君はどこで研修するのかな?」と。私は「東京逓信病院にしました」と答えると、先生は「そんなところで研修してもだめだ。今からでも遅くないから断りなさい」ときっぱり言いました。あっけにとられる私をよそに、先生は「君は女子医大で研修するんだ。そして、結婚相手に開業医の娘を見つけ、経済的に余計な心配をしないですむ環境で研究を続けること。いいね」と。私はその押しの強さに驚いて、あいまいな返事をして早々に札幌に帰ってきました。

ところが、札幌から東京に引っ越す準備をしているとき、先生から電話がかかってきました。「もしもし○○です」と先生。私はあの先生からとはまったく気がつかず、つい「どちらの○○さんでしょうか?」と失礼なことを聞いてしまいました。すると「妹さんが働いている病院の○○です」と。びっくりした私は「もうしわけありません」と電話口でなんども頭をさげていました。「研修病院の件はどうなりましたか」。どうやら先生はあいまいに返事をして逃げ帰った私にダメ押しの電話をかけてきたようでした。冷汗を拭き拭きお礼を言いつつなんとかその場を取り繕って研修病院の件をお断りしたのでした。

そんなこんながあってようやく東京逓信病院の研修医になれた私でしたが、逓信病院での生活は予想以上に充実していました。春には外堀通りの観桜会、夏は靖国神社の「みたま祭り」。四季折々の風景が病院の界隈にはあふれています。近くには東京大神宮もあれば大学もあり、日曜日には神楽坂の散策もできる。電車も都内の各所に行くにも便利な路線が通っており、自転車やバイクがあればさらにいろいろなところに足を延ばせる。当時、研修医用の宿舎をもっている病院は逓信病院くらいでしたから、夜中まで仕事をしていても病院の敷地内にある宿舎に戻れる。こんな快適で生活のしやすい研修場所は他になかったと思います。

先生方もすばらしい先生ばかりでした。我々研修医をことあるごとにいろいろなところに食べに連れて行ってくれる先生。夜中に突然現れて、まだ仕事をしている私たちに差し入れをして励ましてくれる先生もいました。教育用のプリントを作ってくれて国家試験後すっかりバカになった我々の頭を活性化してくれた先生。あるいは自分が経験した貴重な症例を示しながら講義をしてくれる先生など、医師としてはもちろん、人間的にもすばらしい先生が多かったと思います。それらの先生方とは今でも年賀状のやり取りをしていて、当時のことを懐かしんでいます。

たった2年間ではありましたが、こんな私でもなんとか医者らしくなれたのは逓信病院のおかげ。ここでのいろいろな体験や経験が自分をここまで成長させてくれました。目をつぶればいろいろな思い出がよみがえってきます。どれもが医師としての今の自分の下地になっていると思います。病院の界隈を歩くたびに、つくづく「ここは自分の心の故郷だなぁ」って感じます。

 

 

 

 

 

 

 

当たるも八卦(はっけ)

青年期にはいろいろな悩みに直面するものです。そのときの不幸を嘆いたり、そこはかとない不安を感じたり。将来を絶望したりすることだってあるかも知れません。私もご多分にもれず青年期には迷いを感じながら手さぐりで自分の進むべき道を探していた時期がありました。もともと悩みを相談できるような友達もいませんでしたし、親や兄弟にそうした葛藤や苦しみを打ち明けるほど家族の絆を感じてもいませんでしたから、自分の中でじっと耐えることしかできなかったのでした。

青年期の悩みを解決する手がかりを求めていろいろな本も読みました。亀井勝一郎だったり、加藤諦三だったり、あるいは当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏が書いてベストセラーとなった「男は20代でなにをなすべきか」だったり、生き方のヒントとなりそうな本を片っ端から読んでみたのでした。また、このころ小説もたくさん読みました。もともと好きだった山本周五郎の文庫本はほぼ全部読みましたし、かつて読んだ井上靖の「三部作」も何度も読み返したりしました。きっと私なりにもがいていたんだと思います。

そんなとき、母親に「よく当たる手相の占い師がいるから行ってみないか」と誘われました。自分の悩みを親に相談することはありませんでしたが、もしかすると母は私の悩む姿を見かけて心配してくれたのかもしれません。それにしても正直いってはじめは「手相かよ」って感じでした。占いなど、抽象的なことをいって当たったように思わせる詐欺みたいなもの、といった印象を私自身はもっていたからです。が、溺れる者はわらをもつかみたくなるわけで、母に勧められるままにその占い師の家に行ってみることにしました。

事前にその占い師に手相を観てもらった母親は「とても当たるんだよ」と興奮気味でしたが、その分だけ私は懐疑的になっていました。東急東横線の学芸大学駅でおりて住宅街を歩くと、まるでドラマに出てくるような木造モルタルの古いアパートに到着しました。そして、これまたドラマにでてくるようなさび付いた階段を二階に上るとその占い師の自宅がありました。出迎えてくれたその占い師は白髪に白いひげをたくわえた老人で、年齢は当時すでに80歳をゆうに超えているように見えました。

室内は小奇麗に片付いており、6畳ほどの古い部屋の四隅には小さな神棚がありました。その老人の奥さんとおぼしき女性は、私たちがもってきた菓子折りからお菓子をとりだし、その神棚にそなえていました。母親がいうには、その占い師は商売で手相を観ているのではなくあくまでも趣味でやっているんだとか。それにしてもその風貌といい、住んでいる部屋といい、小机の上にのっている占い道具といい、占い師としては趣味の域を超えているようにしか見えませんでした。

「まずここに生年月日と名前を書いてごらん」。占い師の老人に言われるままメモ用紙に生年月日と名前を書きました。するとその老人は私が書いた文字を虫眼鏡でのぞき込みながら、紙に計算のような式を書き込み、古びた表紙の本をなんども開いては紙になにかを書きつけていました。そんな老人の様子を見ながら、「インチキ占い師じゃなさそうだなぁ」と思い始めていました。すると、その占い師は「今度は手相を見せてもらおうか」と言いました。私は恐る恐る手を出しました。

老人は私の左右の手のひらを何度も見比べながら、手のひらのしわを伸ばしてみたり、虫眼鏡をのぞき込んだりしていました。そして、ときどき私の顔をじっと見てはまた手のひらを見るということを繰り返しました。ひとしきり儀式のような作業を終えると、にこやかに私の方を向いて「なにについてお話しすればいいかな?」と自信ありげに口を開きました。私はすぐに本題に入ることをためらいました。なぜなら「抽象的な言い方でごまかす詐欺」という不信感をぬぐえなかったからです。

しかし、私がまごついているうちに老人はずばっと切り出しました。「なんか悩みがありそうだけど、君の中では結論が出ているんじゃないかな?」。そう言い切った老人はすべてがお見通しのかのように自信ありげでした。当時、医学部の受験を控えて迷いがありました。落ちたらどうしよう、落ち続けたらどうしよう。失敗したときのことを考えるたびに、医学部以外の無難な道を選んでしまいそうになっていたのでした。しかし、一方では心のどこかに医学部を受験することになるだろうという気持ちがあったのでした。

「すでに君が出した結論は正しい。これまでいろいろ悩んだと思うが、再来年にはいい年がやってくるから頑張りなさい」。すべてはこの言葉で決まりました。そして、紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は東北の方角」と書いて私に渡しました。さらに老人は続けました。「自宅周辺の白地図を買ってきなさい。そして、自宅から西の方角に線を引くと神社がある。そこの湧水をもらってきて飲みなさい」と。私は半信半疑でしたが、占いが終わるころにはすっかりこの老人の言葉に引き込まれていました。

母親と自宅に戻ると早速白地図を買ってきて鉛筆で西に向かって線を引いてみました。するとどうでしょう。引いた直線のまさに線上に神社があるではありませんか。今までそんなところに神社があるなんて思いもしませんでした。「すごいっ!」と興奮気味の母親とともに、いてもたってもいられなくなってその神社に行ってみることにしました。地図を頼りに車を走らせて到着したその神社は自宅から直線距離にして7㎞あまりのところにありました。

境内を歩いてみると、森に囲まれていてとても静かで厳かな雰囲気を感じる神社でした。しかも想像していた以上に立派な神社です。訪れたときは参拝者はほとんどおらず、宮司さんがひとり石畳を掃き清めていました。あたりを注意深く見渡しましたが、あの老人が言った湧水をもらえそうな場所が見当たりません。そこで私たちはお掃除をしている宮司に尋ねてみました。「すみません。この神社に湧水はありますか」。すると宮司は境内の奥を指さして言いました。「それならこの先の突き当りにあります」。

宮司に教えられたとおりに歩いていくと、確かに湧水があり、その水をもらっていくための入れ物まで置いてありました。私も母親もすっかり驚いてしまって、お互いに顔を見合わせてしまいました。さっそくそのお水をもらって自宅にもちかえり、老人に指示された通りに湧水を飲んでみました。その成果があったのかどうかはわかりませんが、2年後、私は北海道大学に入学しました。しかも、念願だった医学部に。北大の方角は私の自宅から北東の方角にあります。決してあの占いを信じて北大を選んだわけでもなにのに。

今、振り返ると、あの占い師の言ったことはいろいろと当たりました。手相を見てもらったとき、私の生命線は途中でぶっつりと切れていました。手相など信じていなかったとはいえ、決していい気持ちがしていませんでした。そこでこのことを聴いてみると老人は微笑みながら言いました。「手相ってかわるんだよ。大丈夫、この線は必ずつながるから」と。本当かなと思いながらもその後たびたび気にしていた生命線は、今では彼の言った通りにつながっています。不思議です。

また、面白半分に「結婚はいつぐらいになりますか」と聞いてみました。すると「40歳ぐらいに結婚するのが一番いいけど、そのまえにも二度機会があるかな…」と言われました。当時はまだ若かったので「おいおい40歳なんて年齢で結婚するのかよ」と思いましたが、その「予言」は図らずも当たってしまいました。老人が指摘した年齢に確かにお見合いがありましたし、結果として38歳で「運命の人(今の家内です)」との結婚することになったんですから(先ほどの神社で挙式したのは言うまでもありません)。

意地悪な人からは「占いの結果に無意識に引きづられただけ」と言われますが、意識してそうなろうとしてもなれるものじゃありません。それを縁というかどうかは別として、占いに人生を振り回わされるのではなく、背中を押してくれるものになるのであればそれはそれでありかな、と思います。思い通りにならないのが人生。岐路に立たされた時にいかにベストと思える判断をくだせるか。そして、その判断が結果として最善ではなかったとしても、その都度ベストと思える判断をくだせばいいだけですから。

あのときの占い師の老人はすでに鬼籍の人だと思います。それでも今でも私の記憶に残る「奇跡の人」だったと思います。その後、私たちの話しをきいて何人もの人が手相を見てもらいにその老人のもとを訪れたようです。しかし、その老人は「占いを信じない興味だけの人は見ない」と何人かの人を追い返したと聞きます。それなのに、占いに否定的だった当時の私を「面白い人だから連れてきなさい」と母に言ったあの「奇跡の人」は、その後、ほぼ占いの結果通りになることになる私のすべてをお見通しだったのでしょうか。

現実はあそこにも

私はいわゆる「医療ドラマ」というものを見ません。現実との違いにとても見ていられなくなるからです。三十代そこそこの医者が「天才外科医」と呼ばれたり、出てくる医者が皆判で押したように高級外車を乗り回し、まるで「鳩山御殿」かと見まごうような家に住んでいる。あるいは代々医者の家庭に嫁いだ女性が姑に「○○家の後継ぎを産むのがあなたの使命なのよ」なんてすごまれる。まれにそうしたケースがあるかもしれませんが、そんな話しは私のまわりで見たことも聞いたこともありません。

そもそも三十代そこそこの医者と言えば、後期研修をおえてようやく独り立ちする年齢です。第一術者になれるかどうかって年齢でどうして「天才外科医」なんでしょう。しかもそれで「大学教授」なんてちゃんちゃら可笑しくて見ちゃいられません。高級外車をこれ見よがしに乗り回し、立派なおうちに住んでいる医者だって今どきそういるもんじゃない。いることはいますよ、私たちと別世界の人達は。でもそれは少数派。だって多くの医者はそんな生活するために医者になったわけじゃありませんから。

世の中に幅を利かせているイメージって、実は結構いい加減なものです。私の父は警察官でしたが、刑事ドラマを見ている父を見たことがありません。これもドラマに出てくる警察官の姿と実際があまりにも違いすぎていて、ちゃっちくて見ていられなかったんだと思います。もとより医療の世界はある意味で閉鎖的ですから、そうしたいい加減なイメージが作られやすいのでしょう。逆にいうと、一般の人には知られていない苦労も医者には多い。そんな苦労を知ってもらうためにも医療の本当の姿をドラマ化してほしいのですが、イメージ先行の今の世の中ですからなかなかそんなドラマにお目にかかれません。

僕らのときは、大学病院の研修医の月給は約5万円。市中病院でも月給約15万円ほどでした。私達には労働基準法は適用されません。研修医のほとんどは24時間、365日の勤務みたいなもの。いくら残業してもそのほとんどはサービス残業なのです。それでも指導医には「おまえら研修医は本来給料なんてもらっちゃいけないんだ」と言われたくらいです。でも、研修医は給料をもらえるのでまだましです。医員と呼ばれる大学の医者のほとんどは無給です。それでは食べていけませんから、医員の多くは大学病院での勤務が終わると他所の病院で外来診療をしたり、検査や当直のアルバイトをします。そして、大学に戻れば通常勤務。

私が一人前の医者になったころ、研修医の過労死の問題がクローズアップされて待遇が見直されました。そして、今ではアルバイトを禁止するかわりに給料が増額されたようです。病院によっては朝9時に勤務開始、夕方5時に勤務終了なんて夢のような研修ができるところもあると聞きます(個人的にはそれがいい研修だとは決して思いませんけど)。ですから、その勤務時間をはずれての業務は指導医がやらなければならないとか。僕らの頃は雑務は研修医がやるものだったのですが、そんな時代になっちゃったんですね。もっともそんな病院は現実には少数でしょうけど。

医者になりたてのころ、私がアルバイトに行かされていたのは東京の下町にある小さな病院でした。月に1回だけ土曜日の午後から日曜日の午前中までの日当直が仕事でした。入院中の患者の具合が悪い時に病棟に呼ばれて薬を出したり、あるいは検査をしたり、ときには休日の外来診療もやらなければなりませんでした。その病院の近くにはお寺がいくつかありました。最寄りの駅を出て病院に向かう道は下町の風情を残していて私は嫌いではありませんでしたが、ちょっぴり寂しい雰囲気の場所でした。その道すがら、ひとつのお寺の門前に掲示板があるのに気が付きました。そこはそのお寺の歴史が書かれてありました。

病院の周辺はかつて花街であり、昔はたくさんの女郎さんが働いていました。その女郎さんたちは病気になって働けなくなると故郷に帰されるのですが、中にはその故郷になんらかの事情で戻れない人もいます。そうした人たちが亡くなると、この寺の前に捨てられていったのだそうです。そのお寺はそんな人たちを弔うところだったのです。いつもこのお寺の前を通りながら、私は心の中で手を合わせていました。住宅地のなかにポツンと立っているそのお寺の悲しい歴史を知ると、なおいっそうお寺の界隈が悲しく見えてきて、当直する病院もなんとなく悲しげに見えたものです。

病院はその場所に古くからある個人病院でした。古びた建物は増改築を繰り返して複雑な構造をしていました。曲がりくねった狭い廊下を歩くといろいろな病室が並んでいます。どの病室も畳敷きで、患者はその畳の上に布団を敷いて寝ていました。酸素吸入を必要とする患者の枕元には酸素ボンベが無造作に転がっていて、私はカルテを入れたスーパーのかごをぶらさげながら回診をしました。入院患者は皆高齢者で、かつて花街の女郎さんだった人もいましたし、ヤクザだった人や在日朝鮮人も少なくありませんでした。多くは肝炎を患い、肝硬変となり、中には末期癌となっていた患者もいました。

私は回診をしながら「この人たちにはもうここしか居場所はないんだ」ということを思い知らされました。引き取ってくれる家族もなく、帰る故郷もない。皆うつろな目をして一日中天井を見ている。中には「先生、この病院から出してください」と私の腕を力なくつかんで涙をこぼす人もいました。まるで死ぬのを待っているかのような人たちを見ながら切ない気持ちを抑えて回診をしました。夜になると、病棟からはうめき声が。「苦しい、苦しい。誰か、誰かっ」。それも一人ではありません。消灯後の暗闇の中で助けを求める声がずっと続き、そのたびに私は病棟に呼ばれていました。

あるとき、外来にひとりの高齢のご婦人が急患で来院しました。「胸にできたおできが治らない」ということでしたが、診察室に入った私はすぐにその患者から悪臭が漂っていることに気付きました。その患者の衣服を脱がせ、胸に当てられているタオルをとって私は驚きました。左の乳房に大きなしこりがあり、その表面から血液の混じった浸出液がにじんでいたのです。悪臭はここからのものでした。明らかに末期の乳がんです。聞けば半年以上前からしこりには気が付いていた、と。しかし、そのご婦人は怖かったのか、あるいは貧しい生活に医療機関に受診する余裕がなかったのか、これまで放置していたといいます。

私は言葉を選びながら「これは病院で検査を受けなければなりません」と説明しました。すでに悪性のものであることを察しているのか、それほど驚く様子もありませんでした。でも、その表情からは病院に受診しないだろうことは容易に想像できました。乳房のしこりから滲み出し、悪臭を放っている浸出液をぬぐって、軽く消毒をしてガーゼを当てながら、きっとこの人はもはや死ぬ覚悟をしていると感じました。私は痛み止めと抗生物質を渡しながら、「(経済的な理由で病院に受診できないのであれば)区役所に相談すればいい方法を考えてくれるので、週明けには必ず区役所に連絡してください」と説明しました。

丁寧に礼を言って診察室から出ていくその人の後ろ姿を見ながら無力感を感じていました。普段努めている近代的な病院とはまるで違う医療がここにはある。医療はすべての人に平等だと言われているけど、現実は決して平等なんかじゃない。でも自分にはなにもできない。「社会の吹き溜まり」とも言うべき現実を突きつけられ、その無力感に押しつぶされそうだったのです。陽も満足にあたらない薄暗い病室の布団の上に横になり、ただじっと天井を見ているだけの患者たちを今でも思い出します。なにもできない無力感にうちのめされたあのときの自分と共に。医療の現実はあそこにもあったんだと改めて思います。

 

心に残る患者(4)

母校にもどってはみたものの、千葉にいたときからいろいろな出来事があって、私は大学というものに少なからず失望していました。そんなこんながあって、私は大学を去り、小樽のとある療養型の病院に勤務することになりました。小樽は長崎と同様に「坂の街」でいたるところに坂道があります。私が勤務することになった病院は、それまであった場所から遠くに小樽築港を望む景色のよい場所に移転して建て直されたばかりでした。新しく広々とした建物の中からは四季折々の市内を見渡すことができました。

入院患者の多くは寝たきりや、重い認知症の高齢患者でした。大学での診療と比べると、この病院での仕事はずいぶんと内容の異なるものでした。ただベットに横たわるだけの寝たきり患者、末期癌や食事をまったく受け付けなくなった高齢患者を受け持ちながら、人生の最期をいかに迎えるか、人間の死にざまはどうあるべきなのかについて考える機会になりました。医師として命の幕引きのお手伝いをしながら、ときには理想的な医療と現実のはざまの中で人の一生がとてもちっぽけに見えたりすることもありました。

この病院で受け持っていた患者の中にM子さんという寝たきりになって10年以上になる方がいました。M子さんはこれまでの20年もの間になんども脳梗塞を繰り返してきました。その間、手足は固く折り曲げたまま拘縮し、ただ一点を見つめるままで声をかけてもまったく反応をしなくなっていました。そのM子さんのもとにはご主人が毎日お見舞いに来ていました。おふたりにはお子さんがおらず、ご主人は銀行を退職してからずっと奥さまの元に足を運ぶことを日課にしていたのでした。

とうに80歳を超えたおふたりが病室で過ごされる時間が唯一の夫婦の時間でした。ご主人はいつも決まった時間に花束をもって病院にやってきました。ときどき道端で摘んできた野草を片手に来院することもありました。奥さまの病室に活けるためです。そんな優しいご主人は奥さまとお話しするでもなく、枕元に置かれた椅子に腰を掛けて静かに本を読んで過ごしておられました。そして、ひとしきり奥様との時間を過ごすと、午後、定時に自宅にお帰りになるのです。

M子さんの病室は個室でしたが、いろいろな家財道具が置かれてあって、まるでご夫婦の部屋のようでした。そこで一日の多くを過ごされるご主人と私は、はじめは短いあいさつを交わす程度でしたが、次第にいろいろなお話しをうかがうようになっていました。ご主人が銀行を定年で退職した矢先に奥さまが脳梗塞に倒れてしまい、それ以降、20年以上もの長い間、ご主人はずっと奥さまの介護に明け暮れていたのだそうです。それでもご主人はそんな話しを決して苦労のようにお話しすることはありませんでした。

ある年のお正月のこと。状態の悪い受け持ち患者の様子を見に病院に来た私は、M子さんの病室にご主人がいらっしゃるのを見かけました。「お正月もいらっしゃったんですか?」。そう私が声をかけるとご主人はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらうなづきました。病室に置かれたテレビはもっぱらご主人が見るためのものでしたが、そこでは正月恒例の箱根駅伝の中継が放送されていました。その中継を見ながら、ご主人は「私、箱根駅伝を走ったことがあるんですよ」とぽつりと言いました。

「そうなんですかぁ!」、そう言って驚く私には目もくれず、テレビで伝えられている中継を見ながらご主人は静かに語り始めました。かつて早稲田大学の学生だったご主人は4年間を駅伝に明け暮れ、最後の年に念願の箱根駅伝の走者になれたこと。このときに知り合った奥さまと結婚され、その後、生まれ故郷である小樽に戻って銀行に勤めたことなど、これまでお聞きしたことのなかったことを話してくれました。私はそのとき、ご主人は奥さまとの思い出の駅伝を二人で見るために病室へ来ているんだと思いました。

ご主人の優しさが悲しいくらい素敵に思えて、私はちょっと感動してしまいました。寝たきりの患者にはお見舞いの方が来ない人が少なからずいます。奥さんやご主人、あるいはお子さんなどがいるにも関わらず、です。はじめは足しげく通ってこられても、それが1年になり、2年になると足が遠くなってしまうのです。それぞれの生活があるのだからそれは仕方ないことです。しかし、そんな中で20年以上もこうして奥さまのお見舞いに通ってこられるご主人は本当に立派だなぁと私は感心していました。

そのM子さんも徐々に様態が悪くなり、とうとう臨終が近づいてきました。しかし、ご主人はこれまでと変わらず、毎日花束をもって病院にやってきました。ちょうどそのころ、ご主人も実は体調を崩されていたのでした。もともと肝炎ウィルスのキャリアーだったご主人は肝臓癌になってしまったのです。それでもご主人はすべてを受け入れているかのようになにもかもが普段通りでした。しばらくして奥さまが亡くなり、今度は自分が同じ部屋に入院することもすべてが予定されていたかのようでした。

ご主人は奥さまのあとを追うようにあっという間に亡くなってしまいました。病室には主を失った家財道具だけが残されていました。ご高齢となっていたお二人の身寄りと言えば、神奈川県に住んでいるご主人のお兄さまだけでした。ご主人の様態が悪い時になんどかお見舞いに来られましたが、お兄さんはご主人とは違って厳格な印象のある方でした。言葉少なく、弟の病室にしばらくいるとすぐに神奈川に戻っていきました。そんな様子に、この二人の兄弟にはなんとなく疎遠になっているような雰囲気が感じられました。

M子さん、そして、ご主人が亡くなり、病室に残された家財道具を引き取りにお兄さまが病院に来られました。私はお兄さまからご挨拶をいただきながら、弟さんの面影を感じさせるお兄さまの顔を見つめていました。何十年も離れて住んでいたせいか、亡くなった弟夫婦のことに感傷的になることもなく、冷静に受け止めているようでした。あのご主人もこのお兄さまも、お年は召していても理性的な雰囲気がありました。私はそのお兄さまに病室での弟ご夫婦の在りし日の様子をお話ししました。

「ふたりは仲がよかったですからね」とお兄さま。ところが、私がお正月にお二人で駅伝の中継をテレビで見ていたときのことをお話ししたとき、それまでのお兄さまの穏やかな表情が一変しました。「弟さんは駅伝の選手だったそうですね」と私がそう言うとお兄さまは、「もしかすると、早稲田大学の駅伝選手だったと言いましたか?」といぶかしげに言いました。私はその変わりように驚きながらうなずくと、お兄さまはすべてをお話しされました。

実は、弟さんは駅伝の選手でもなければ、早稲田大学卒業でもなかったのです。もちろん箱根駅伝を走ったこともなかったのです。私はM子さんのご主人から聞かされていたことの多くが「嘘」だったことに打ちのめされていました。毎日花束をもって病院に来ては、ただじっと寝ている奥さまの枕元に座って静かに本を読んでいたご主人。お正月に「思い出の箱根駅伝」を奥さまとご覧になっていたあのご主人が私に「嘘」を語っていたなんて。私はお兄さまが帰られたあともしばらくはショックから立ち直れませんでした。

でも、その後、いろいろな高齢患者の診療に関わり、さまざまな最期を看取る中でその「嘘」の受け止め方が少しづつ変わってきました。つまり、ご主人が語られたことの多くが偽りだったとしても、ご主人は奥さまとの生活を自己完結したのだからよかったではないかと思えるようになったのです。自分が「早稲田大学卒」の「元駅伝選手」で、「箱根駅伝が妻との思いで」であり、「20年以上もの間、妻の介護に残された人生を捧げた夫」を演じたご主人の生き方は決して「嘘」ではなかったのかもしれません。

人間の一生は短いということは齢五十を超えて実感としてわかってきました。1年はおろか、10年などあっという間です。その短い人生を泣いて暮らしても、不満をぶちまけながら暮らしても長さを同じです。同じ期間を生きるのであれば、できれば最期に自己完結できるような生き方をしたいものです。多くの寝たきりの高齢者が入院する病院で診療してきた私はそう思います。それは、M子さんのご主人が、私たちに語ってきた「嘘」を演じることで日常を自己完結できたのと同じように。

幸せの定義はひとそれぞれです。なにがよくて、なにが悪いという問題ではありません。大事なのは生きることからなにを学んでいくかだと思います。私は医師という仕事をしながら、さまざまな人の死にざま、生きざまを見ることができました。それらを通じて、ひとよりもより深く生きてこれた気がしています。なにげなく普通に生活していては知ることのできないことにも気が付けました。その意味で、M子さんとご主人の「人生」は私にとって貴重な「体験」であり美しい「おとぎ話」だったのではないかと思っています。