心頭滅却すれば

人は青年期にいろいろな悩みをかかえます。私にも人並みにその悩みにさいなまれた時期がありました。進学とはある意味で人生を選択することでもあります。ですから、思ったような成績が得られず、希望するような進路に進めそうにないときは、なおさら「生きる意味」みたいなものをひとりあれこれと考え、自分はこれからどんな人生を歩んでいくんだろうと不安な気持ちになったものです。

人生はなかなか思うようにはなりません。今、改めてこれまでの自分の人生を振り返ってもそう思います。決して一本道ではなく、紆余曲折を経ながら今がある。なんとなく医者になりたいと思いながらも最後までパッとしなかった小学生時代から、家庭教師の大学生に勉強の面白さを教えられた中学時代。理想と現実という大きな壁にぶち当たった高校時代。自分にとってはこの高校時代が一番つらい時期でした。

そんな苦しい時期に私はいろいろな本を読みました。一番読んだのが亀井勝一郎です。彼の人生論に影響を受けていたこともあって彼の著作を片っ端から読みあさりました。その他、亀井勝一郎に限らずいろんな本を読みましたが、一方で心理学に関わる本もしばしば手にしていました。きっとこれから自分はどうなるんだろうという不安な気持ちが、自分の関心を自身の心に向けていたのかもしれません。

そうした背景もあって、北大に入ってからも相変わらず心理学や精神分析に関わる本を読んでいました。以前にも書いたように、医学部に進学する前の2年間は教養学部医学進学課程の学生として医学とはまったく関係のない教養科目ばかりで退屈にしていました。そんなモラトリアムの時期に私は、病める人を相手にする医師に心理学や精神分析学の知識は絶対に必要だという信念のようなものを持っていたのです。

とくにこの時期にのめりこんでいたのはカール・ロジャースの「クライエント中心療法」です。その内容はかなり難しくなるため省略しますが、カール・ロジャースを知ったのは大段智亮先生が書かれた「人間関係の条件」という本を読んでからです。ロジャースの理論を紹介しながら論を進めるこの本のなかで大段先生は「積極的傾聴」という作法を提示しました。「積極的傾聴」とは次のようなものです。

【ケース】
  翌日の手術をひかえて不安で仕方ない患者が回診に来た医者に不安を打ち明けます。「先生、明日
  の手術はうまく行くんでしょうか。不安で不安で眠れないんです」と。

さて、あなたが回診に来た医者だったらなんと答えるでしょうか。「だいじょうぶですよ。目を閉じたらあっという間に手術が終わっていますから」と励ましますか?「なにを弱気になっているんですか。こういうときこそしっかりしなければいけないのに」と檄を飛ばしますか?「まぁ、手術を受ける人はみんなそういいますよね」とさらりと流しますか?そもそもあなたが患者なら医者になんて言ってほしいでしょうか。

大段智亮先生が提唱する積極的傾聴では〝患者の言葉を評価せず、言葉をそのまま傾聴して気持ちに共感せよ”と勧めます。共感を受けた患者は自分自身の心の中で気持ちを整理して解決方法を探っていく。その心理的成長の手助けをするのが積極的傾聴の目的であると指摘しています(30年も前の知識ですから間違っているかもしれませんが)。カール・ロジャースの「クライエント中心療法」もその核となるものは同じです。

私はその後、発達心理学やフロイト心理学、ゲシュタルト療法などにも興味が広がりました。交流分析や脚本分析といったものまで勉強してみました。そのどれもがとても面白く、医者になったらすぐに役に立つ実践的なもののように感じました。しかし、学部にあがり、医学・医療の実際に触れるにしたがって、学生のときに考えていた理想とは異なり、現実はそうたやすいものではないことに気が付きました。

そのことに気づかされたのは精神科の授業ででした。講義をしていた当時の精神科の教授はとても高名な先生でした。授業も刺激的でしたし、人間的にも尊敬できる先生でした。私は授業が終わってからその先生に質問に行きました。「精神科の診療において精神分析や心理学はどの程度重要なのでしょうか」。そう質問する私に先生は優しい笑みを浮かべながらこういいました。「君をがっかりさせる状況かもね」と。

もちろん当時は大学の医学教育の中で「患者にどう接するべきか」といったコミュニケーション論を教える講座はありませんでした。「患者が病む疾患」に対応する術は教育しても「疾患を病んだ患者」に対応するスキルを教えるまでに当時の医学教育は追いついていませんでした。最近ではそれなりに改善されて講義や実習が組まれているようで、興味深い授業・実習がおこなわれていると噂には聞きますけど。

そんなお寒い医学教育を受けて医療の現場に送り出された私は、精神科の教授に言われた「君をがっかりさせる」ような現実を目の当たりにしました。積極的傾聴をしようにもその時間もない。毎日が忙しく通り過ぎていくからです。不治の病と対峙して心が折れそうな患者に対して我々がしてあげられる精神的サポートはほんとにわずかです。本来、担当すべき当時の精神科は内科以上にそうしたことに無関心でしたし。

一方で、積極的傾聴が役に立たない場面も少なくないことにも気が付きました。本来、クライエント中心療法は「来談者中心療法」と訳され、「なにか解決法をもとめてやってきた人」に対しておこなわれる心理療法です。しかし、日常の現場で接する患者のすべてがそうした「来談者」ではなく、ある種「病をもって現れる受け身の人たち」です。そうした人たちに心理的成長を促す作業はそう簡単ではないのです。

欧米人は概して日本人よりも社会的に成熟していますし、個人の精神のよりどころに関しても日本人とはことなります。宗教的な背景の違いも無視できません。しかも、書物でかじった程度の技術で有用な積極的傾聴ができるはずもなく、患者の心理的な成長につなげていくことなどなかなかできなかったのです。日々、こうしたことに意識的になって診療をしていても厳しい現実が目の前に立ちはだかっていたのでした。

とはいえ、今、学生のときに勉強した心理学や精神療法が役に立っているときもあります。それは子どもに注射を打つときです。私は注射を嫌がり泣き叫んで抵抗する子どもを力づくで押さえてワクチンを接種したりしません。子どもに注射をするとき、心理学的な知識を利用してみるとそんな強引なやり方をしなくても済むからです。そのせいか子供たちは「船戸内科の注射は痛くない」と言ってくれます。

子どもが注射を嫌がる主な理由は、痛いからではなく、怖いからです。ですから注射をするときは恐怖心を煽るようなことはできるだけしません。注射を極端に怖がって抵抗する子どもは、えてしてそれまでにとても怖い思いをしているものです。その最たるものが「押さえつけられて注射をされること」です。自分の恐怖心も理解してもらえずに、むりやり注射をされる恐怖。大人だって人によってはトラウマになります。

診察に入って来た子どもを見て、私はまずどの程度の恐怖心をもっているかを推察します。その恐怖心の程度によって、その恐怖心に「寄り添う」ということからはじめます。積極的傾聴です。そして、その恐怖心の中核になっている部分を「明確化」します。怖いのは「実態がわからないから」だからです。お化けが怖いのと同じ理由ですね。「君が怖いと思っているところは実はこうなってるんだよ」と。

ですから、子どもが納得するまで(針を刺させてくれるようになるまで)はなんどもなんども説明します。実物を見せたり、子どものあたまの中で恐怖心が明確な像として浮かび上がるように具体的な話しをします。こういうプロセスを経てようやく恐怖心が薄まるのです。無理やり押さえつけられないことを悟れば、たいがいの子どもは針を刺すところまではやらせてくれるようになります。

あとは冗談をまじえて会話をしながら、子どもが「この医者は信頼できるかも」と思ってくれればあとは簡単です。「この針は一番細い針だからね」と針先を見せると、多くの子どもは「ほんとだ」と言ってくれます。そして、刺入部をちょっと強めにつまんで「ここが一番痛くないところだってことを先生は知っているんだよ」と得意げに。ちなみに、強めにつまむのは針を刺したときの痛みを軽く感じさせるためです。

そして、「はい、息を吸って~」の「て」のときに針を刺してしまいます。人は息を吸うとき意識的になります。「吸って~」と言われて意識が呼吸にそれた瞬間に針を刺してしまえば痛みはあまり感じないのです。と同時に「ほら、もう針がはいってるよ。痛くないでしょ」と暗示にかけながら、「ゆっくりお薬をいれるからね」、「もう半分終わったよ」と矢継ぎ早に声をかけます。目標の明確化ってやつです。

最後は、注射の時間を長く感じさせない話術が必要。「あと3つ数をかぞえたら終わりだよ。さ~ん、に~い、い~ち」とゆっくり語りかければ。これだけで10秒はかせげます。注射液が入っていくときの痛みはこれでなんとか軽減できます。こうした打ち方をすると、多くの子どもは注射が終わった後、「ほんとだ。ぜんぜん痛くない」と言ってくれます。でも、実際は痛いんです。「思ったより痛くなかった」だけ。

いちど痛くないと感じた子どもは次からそれほど大騒ぎをしないで打たせてくれます。安心するのです。こうしたところに心理学的な作法が役に立っていることを実感できます。だからといって、押さえつけて注射をする医療機関を責めてはいけません。そうしなければたくさんの患者をさばけないのですから。ずいぶん昔になりますが、当院では注射を嫌がって30分以上も診察室でねばった子がいました。

そうはいっても心理学の手法を利用することは結構難しいです。診療時間の問題もありますし、こちらの心構えの問題もあります。スキルの錬度の問題もありますから。でも、学生時代に勉強したこと、青年期に読んだいろいろな本が診療のあちこちで役立っているなぁと思える場面があります。なにより、これまでの自分の精神的な成長にも役立っています。家庭円満のひけつにもなっているかもしれません。そう考えると青年期の悩みは長い人生を乗り越えるための貴重な財産だといってもいいでしょう。

「ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、み~んな悩んで大きくなった」ってとこかな。

 

【追記】
 「岩樹荘のおじさん(こちらのブログをご覧ください)」が4月18日に98歳で永眠されました。
  いろいろお世話になったことはすでにこのブログでもなんどかご紹介しました。
  あらためて「岩樹荘のおじさん」に感謝を申し上げたいと思います。
  安らかにお休みください。ありがとうございました。

                                         合掌

 

 

「死ぬ」ということ

「死ぬ」ことを英語では婉曲的な表現で「pass away(亡くなる)」といいます。「die(死ぬ)」という直接的な表現もありますが、あいまいさを嫌う英語においてですら「亡くなる」という柔らかい表現があるのは「死」が持つマイナスの印象を物語ってのことだろうと思います。人の心の細かいひだを表現することが得意な日本語では「死ぬ」「亡くなる」「旅立つ」「永眠する(永遠の眠りにつく)」「天国に行く」「お隠れになる」「逝去する」「死亡する」「絶命する」「薨去する」「冷たくなる」「神に召される」などの多様な表現があり、私たちの祖先が「死」をどのように見てきたかがよくわかります。

死ぬことは怖いことです。とはいいながら、今の私が死を実感として恐れているかと言えばそれは怪しい。今、私が死ぬことによって、「家内や子供たちを残していかねばならない」ことに対する不安感のようなものはありますが、実際のところ、死ぬということがどのようなものなのかは今の私にはまるでわかっていないといっても過言ではありません。これまでたくさんの「死」と関わってきたこともあって、一般の人に比べれば「死」を比較的身近に感じているかもしれません。でも、命に関わるような大病をしているわけでもなく、「死」というものを自分の問題として感じてはいないからでしょう。

先日、聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明先生が亡くなりました。マスコミを通じて報じられる先生はいつもお元気だったので、日野原先生が亡くなるなんてことは想像もしていませんでした。ですから、逝去されたというニュースを聞いたときはなんとなく意外でした。しかし、先生が百歳を超えて近づく自分の死を達観していたかといえばそうではなく、亡くなる何か月か前のインタビューで「死ぬことは怖い。死の話しをストレートに言われると恐ろしい」と答えていたようです。とても正直な感想であり、たくさんの死を看取って来たクリスチャンでありながらも素直に答えるこの姿はさすがだと思いました。

私のクリニックに通って下さる患者さんの多くは高齢者です。これは当院担当の会計士も繰り返し指摘するのですが、当院の通院患者に占める高齢者の多さは特徴的です。したがって、毎年、何人かの通院患者が亡くなります。ある人は長年患ってきた病気の悪化によって。ある人は突然の病によって。また、ある人は理由もわからず朝冷たくなっていたなんていうことすらあります。ですから、外来で患者さんとちょっとした会話をしたときに「死」に関する話題が出てくることだって決して珍しくはありません。今も、手術不能で緩和ケアを受けるようにと宣告されて途方に暮れている患者さんが何人かいます。

ただ、そうした患者さんとの間で、直接的に「死」について話しをすることはあまりありません。患者さん自身がそのような「死」に関する話題を望んでいない限り私の方からお話しを振るようなことはありません。ですから、患者さんに対して本当は「死」に関するもっと突っ込んだお話しをしたいと思っていても、そのようなお話しができないまま亡くなってしまうケースがほとんどです。私はなにか特定の信仰をもっているわけではありません。また、「死」について達観した確固たる確信や信念をもっているわけでもありません。「死」の話しを積極的にできないのは、本来私にとって避けたくなる話題だからかもしれません。

医者になってこれまでたくさんの死を看取ってきました。以前、このブログでも紹介した高校生大学生といった若い人の死もあれば、百歳近い大往生ともいえる人の死までさまざまな経験をしてきました。お坊さんがすでに亡くなった人の魂を慰めるのだとすれば、臨床医は死にゆく人々の魂を慰めるのが仕事だといっても過言ではありません。しかし、現実はどうかと言えば、臨床医は「これから生きていける人」の相手はしても、「死にゆく人々」をしっかり看ているかといえばそうではないように思います。「治療しない(できない)なら退院してくれ」といわんばかりの医療が行われているのもまた事実です。

もちろん私もそうした医療をしてきたのかもしれません。とくに大学病院にいたときはそうかもしれない。しかし、私は私なりに戸惑いながら、そして、悩みながら「死にゆく人たち」に寄り添おうと思ってきたつもりです。そうした気持ちが患者さん自身に伝わっていたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼ら彼女らの気持ちを理解したいと思っていました。でも、患者さんがそれぞれ置かれている立場や心のありようが異なり、また毎日の忙しさに立ち止まって患者のことを考えることができなかったことも多く、死にゆく患者のために十分なことをしてあげられたと胸を張れる自信はまったくありません。

とはいえ、今の私なりにいえることは、人間の「死」の意味は年齢によって違うということです。高齢者が大往生ともいえる生の終焉を迎えるとき、人は「長い間ご苦労さま」「今までありがとう」「ゆっくり休んでください」と声をかけます。もちろん、二度と戻っては来れない旅に出発するわけですから、その別れは淋しいものであり、悲しいものです。しかし、そこには一抹の安ど感があるものです。出棺のときにひとしきり流した涙も、時間と共に笑顔になれるのが高齢者の死です。生あるものはいつか必ず死にます。その限られた命が燃え尽きるように消えていくのは決して悲しいことだけではありません。

しかし、若い人の死はそうではありません。本人にはやり残したことがたくさんあったはずです。生きていれば輝くような幸福も手に入ったかもしれません。しかし、その死によってすべてが奪われてしまったのですから本人の無念はいかばかりのものでしょう。若い人の死を看取る家族の心に残す傷もまた決して浅くはありません。自分たちのかけがえのない子供の、あるいは孫の死を看取らなければならないことがどれほど辛いことかは想像を超えます。若い人の死は何回経験しても嫌なものです。主治医の私たちでさえ時に逃げ出したくなるような気持ちになります。

ただ、そんな死に際してなお残された者がしなければならないことがあります。死にゆく人たちが「生きざま」や、あるいは「死にざま」を通じて残された人たちになにかを残していきます。それは思い出かもしれませんし、財産かもしれません。あるいは勇気かもしれませんし、癒しかもしれない。後悔と反省を残す場合もあるでしょう。いずれにせよ、残された人たちは死にゆく人たちから贈られた「無言のメッセージ」ともいうべき遺志を感じ取り、その思いを引き継いでいかなければならないのです。死にゆく人は死ぬこと、生きることを通じて残された者たちへメッセージを託しているのです。

人は誰も死から免れることはできません。そのなかでどう生きるかということは、どう死ぬかということにつながります。死を宣告された人間がどう生きるかはもちろん、一見して健康的な生活をしているかのように見える人にとっても、生きることは実は死への道をどう歩くかということなのです。これまでの私の臨床経験の中で、いろいろな人の死を看取ってきましたが、やはり「立派な死に方」をした人からはたくさんのメッセージを受け取ったように感じます。「傲慢になるなよ」「肩書なんて人間にとってなんの価値もないんだよ」「家族を大切にせよ」「こだわりなんてものは邪魔なだけ」、などなど。

医者になってよかったと思うことはそれほどないのですが、それでもたくさんの患者さんから得られた無言のメッセージは今に自分に役立っていると思います。考えてみると人生は短いものです。生まれてくるのも一人なら死んでいくのもひとり。おもしろ可笑しく生きるのも人生なら、自分を鼓舞しながらストイックに生きるのも人生。人知れず死んでいくのも人生ですし、他人の注目をあびるような華々しい人生を生きていくのもまたひとつの人生です。なにをどう生きようが、それぞれの人生は他者に無言のメッセージを残していきます。生きる者、残された者はそうしたものに意識的になりたいものです。

死ぬことは確かに怖いことです。でも、絶望することではありません。たとえ死ぬまで苦痛に七転八倒した人でも、死ぬ瞬間は安堵の表情になります。魂が肉体を抜けだすとき、あらゆる苦痛や不安から解放されるからです。魂になったときすべての人は仏になります。その瞬間まで、人の人生は修業なのかもしれません。「早く死にたい」と思っていても、人はその修業に耐えねばなりません。「死にたくない」と思いながら往かねばならない場合もまた同様です。それが仏への道だからです。仏教にせよ、キリスト教にせよ、同じような宗教観を説教・宣教していることは興味深いことです。

なにかとりとめのない内容になってしまいましたが、「死」に悩み、苦しんでいる人になにかを訴えるものになっていれば幸いです。

過ぎ行く夏に

子どもたちがあれほど楽しみにしていた夏休みがもう終わってしまいます。待ちこがれているものはなかなかやって来ないのに、ようやくやって来たと思ったらすぐに終わってしまう。私の小学生の頃を思い出してみても、夏休みまでカウントダウンという時期になると胸がわくわくしたものです。とはいえ、私の場合、夏休みになったからといってなにをするわけでもなく、ゴロゴロダラダラするだけなんですけど。そして、あっという間に夏休みは終わってやりかけの宿題だけが残っているということに。
 
それにしてもなぜ夏休みの宿題があるんでしょうね。しかもそれなりにたくさんの宿題が。「休みが長いか
ら」であろうことは想像に難くないのですが、私にいわせると「長いとなんで宿題?」って感じです。夏休みにいろんなことをやりたい子どもも多いと思います。あるいは「なにもしないでゴロゴロするぞ」と考えている子どもたちや、ひょっとすると「たくさん勉強するぞ」と思っている子どもたちにとっても学校から課されるたくさんの宿題は迷惑な代物です(こんなの見つけました)。
 
私の父は家庭を大切にする人ではなかったので、夏休みに家族でどこかに旅行するなんてことはありませんでした。当時はまだめずらしかった自家用車を所有していた叔父一家に海に連れて行ってもらったことぐらいでしょうか。みんなでなにかをする(大勢でどこかに行く)なんてことが苦手な私でさえ、そうした夏休みの記憶は四十年以上を経てなお楽しいものとして心に残っているのです。自分の家族だけでも大変なのに私達も連れて行ってくれた叔父(もう鬼籍に入っていますが)にはほんとに感謝です。 

ですから、私もこれまで夏と年末には家族でちょっとした小旅行をするのが年中行事にしていました。子どもたちの思い出作りのためではなく、息子たちには私と同じような子ども時代を送らせたくないと思っていましたから。でも、なぜ「年中行事にしていました」と過去形にしたかというと、最近では子ども達が親と歩くのを嫌がって旅行に一緒に行ってくれないからです。どこかに食事に行くことですら「俺は家で適当に食うよ」となるのですから旅行となれば言わずもがなです。
 
長男が来年受験なのですがみんなで旅行をしたいという私の気持ちはかわりません。今年の春のゴールデン ・ウィークに横浜に一泊したときも、「受験生の俺を連れて旅行だなんて信じられないよ」と長男は文句タラタラでした。家内に諭されてしぶしぶ旅行に来ることになったのはいいのですが、彼はなんと夕方にひとりで宿泊先にやってきて、次の日午前中にひとりで自宅に戻っていったのでした。「そんなに勉強が大事なのか」であればいいのですが、そうではなくて「親と一緒に歩けるか」なので困ったものです。
 
話しは少し変わりますが、私のクリニックには毎日製薬会社の MR(営業の担当者)さんがやってきます。 彼らは新しい薬に関する情報を私たちに説明するためにやって来ます。彼らを相手に、話しをするのが好きな私は北海道の素晴らしさをひとりで熱く語ってしまうことがしばしばあります。北海道の四季折々の美しさと良さを MR さん達に熱心に話しをしてしまうのです。そんなときはいつも「先生は北海道が好きなんですねぇ」とあきれられてしまいますが、事実、私は北海道が大好きです。 

そんな私の熱いメッセージが彼らの心に伝わったのか、今年の夏休みに何人かの MRさんが北海道を旅行しました。ゴールデンウィークにも何人かのMRさんが北海道にいっていますから、私自身、北海道の観光PRにひと役かってますね(笑)。彼らから事前に北海道に行く日程を聞いているときは、天気が心配になって何度も北海道の天気をチェックしてしまいます。まるで自分が旅行するような気分になって、「せっかくの北海道旅行だからいい天気になってほしいなぁ」と思うのです。
 
何年か前のこと。ゴールデンウィークに「北海道を満喫してきます」と旅立っていった MR さんがいました。そして、帰って来て「北海道を十分満喫してきました」と私の前に現れた彼の表情はちょっと複雑でした。なんでも、レンタカーで道内を回っているとき、ゴールデンウィークであるにも関わらず大雪に見舞われてしまったというのです。本州に比べてまだ肌寒い北海道とはいえ、ゴールデンウィークにこれほどまでの大雪はめずらしいのですが。とはいえ、これもまさに「北海道を満喫」です。
 
ところで、夏が終わった北海道には秋が駆け足でやってきます。日中は夏のなごりでまだ暑い日も少なくないのですが、朝晩はめっきり涼しくなって長袖でも少し寒いくらいになります。そしてじきに大雪山系に紅葉がはじまります。本州では紅葉(こうよう)というと紅葉(もみじ)の赤を連想します。しかし、紅葉(もみじ)そのものも少ない北海道では紅葉(もみじ)が赤い色を発色する期間がさらに短く、赤い紅葉はあっという間に過ぎて黄色い紅葉がそれにとってかわります。北海道の紅葉は黄色なのです。
 
しかし、大雪山の紅葉はどちらかというと本州の紅葉に近く赤い色合いをしています。おそらくこのときの大雪の気温が本州の紅葉の頃の気候に近いからかもしれません。ですから、黄色い紅葉に見慣れている北海道においては大雪山の紅葉はとても新鮮に映ります。見頃は 9 月の中旬から下旬です。北海道に住み、温泉巡りで秋の北海道らしさに目覚めるまで、紅葉狩りにいくなんてことを考えたことはありませんでした。せいぜい北大構内の銀杏の紅葉をちらと横目で見る程度でしょうか。
 
秋らしくなってくると、朝晩、ストーブを炊こうかどうか迷うようになります。そんなときに行きたくなるのが温泉。とくに露天風呂に行きたくなります。気楽な学生の頃のこと、サークル仲間と私は週末の休みを利用して阿寒湖に行くことにしました。小さな車に男五人が長時間詰め込まれてついたところは雌阿寒岳・雄阿寒岳近くの露天風呂。ひんやりとした爽やかな空気が漂う中で、見上げると見事なほどに紺碧の空が広がっていました。その青く澄んだ空とコントラストを際立たせていてみごとな紅葉でした。
 
私はこのとき初めて紅葉を美しいと心から思いました。それまでは興味そのものがなかったのですから当然ですが、このとき眼前に広がっていた景色は私にとってはまさに「心洗われる」ものでした。以来、私は秋が一番好きな季節になりました。秋の紺碧の空と身と心をシャキッとさせるひんやりとした空気。そして、家に帰れば暖かい部屋が待っている。このときの気持ちはなかなか正確に伝えられないのが残念ですが、この感覚は千葉に住んでいては決して味わうことのできないものです。
 
今年の関東地方の夏は、恒例の大雨にならないうちにいつの間にか梅雨が終わってしまった感じがします。夏本番となっても暑い日もあれば、異様に涼しい日もあったりと、なんだか季節感が安定しませんでした。私が北海道が好きな理由は四季がはっきりしているところにあります。北海道の冬は当然厳しい。しかし、百花繚乱の春を経てときに本州よりも暑い夏となり、一瞬で通り過ぎていく秋を感じながらまた冬を 迎える。冬には冬の、夏には夏のよさが実感としてわかる北海道の生活は私に合っていました。
 
「秋は物悲しいから嫌いだ」という人がいます。でも、私の場合は、秋になってひんやりとした空気を感じながら紺碧の空を見上げるとなぜか「やるぞっ」と力が湧いてきます。なにをやるというわけでもないのに不思議と力がみなぎってくるのです。こういう感覚になったのも、あの秋の露天風呂巡りをしたとき以の紺碧の空を見て以降です。私にとって夏が終わるということは決して淋しいことではなく、いよいよ自分のシーズンがはじまるんだというような感じになります。秋に生まれたからでしょうか。 
 
また、新入生が本格的にドロップアウトするのもこの夏休みです。以前にも書いたように、私たちの時代は「医学部に入学」ではなく「教養学部医学進学課程に入学」。教養学部の 2 年間はまったく医学に接することはありません。医学を学ぶんだと心勇んで入学しても、医学部の学生だということを忘れてしまうような生活が続きます。そのためか、すっかり勉学意欲を消失して大学に来なくなる奴がぽつりぽつりでてきます。そうやって教養学部の2年間に何人もの同級生が退学・留年で消えていきました。
 
私が学生の頃にちょうど「宅配」がはじまったのですが、一緒に入学した学生の一人がアルバイトでその宅配便の配達をしていました。でも、大学での勉学よりもそちらの方が面白くなったのか、いつの間にか大学に来なくなって、結局、退学してしまいました。彼は最初からほとんど大学の授業に顔を出さなかったので印象は薄かったのですが、風の便りに彼はその宅配会社の正社員になったと聞きました。自分に合った仕事が見つかったのであればそれはそれで幸せなことではありますが、当時はびっくりしたものです。
 
欧米では 9 月が新学期。秋は気持ちも新たに勉学に取り組む季節です。私はもうすっかり「勉強」というものとは縁遠くなり、学生のころのように「やるぞっ」って気持ちにはなりません。一方、「勉強」の真っただ中にいる我が家の子どもたちは、夏休みが終わろうとしている今ブルーになっています。毎日、「あ~あ、もうすぐ夏休みも終わりかよ」だなんて愚痴ってますから。学校から出された宿題も終わったのかどうかもわからない状態で新学期に突入・・・。

おおっと。息子たちは、結局、今回のブログの冒頭で書いた私の子どものころと同じになっているではありませんか。DNAとはおそろしいものです。

(追記)
  この歌を聴くと「北海道の秋の紺碧の空」を思い出します。あのときの気持ちが伝わるでしょうか。

         Ruben Studdard  : 「Home」

  素敵ですよね。この歌声も、また、歌詞も。大好きです。

ダイエット

実は今、ダイエットをしています。5月の連休に体重を測ったら、知らない間に70㎏を超えていたことにショックを受けたからです。これまで家族からは「やせろ、やせろ」のコールがありましたし、自分自身でも心の中では密かに「何とかしなくっちゃ」と思っていました。しかし、怠惰な性格と、楽天的な性格は、健康なんてことより、見かけなんてことよりも、そのときどきの満腹感を優先する毎日でした。ですから、家族には「俺ってサングラスをかけると櫻井翔君に似てると思わない?」といっては「どこがじゃ~っ」と完全否定を食らっても、下の子に「翔君というよりカンニングの竹山って感じかな」なんていわれても、一緒になって笑っているくらいでした。

しかし、その「翔君気取り」の私にとって目の前に突き付けられた体重70㎏の現実はあまりにも重く、「このままじゃダメだ」と改めて思い知ったのです。これまでもダイエットはしたことがあります。若いころであればすぐに痩せられ、体重を減らすにはちょっと食事を控えるだけでよかった。40歳になってアメリカに行きましたが、「アメリカでの食生活=脂っこい食事=ブクブク太る」という図式を思い描いていたせいか、毎朝・毎夕に欠かさず家内と大学構内をジョギングして、まだ車の停まっていない広大な駐車場でテニスをし、またジョギングをして帰宅。そして、シャワーを浴びて食事という健康的な生活で体重は60~61㎏をずっと維持していました。当時の写真を見ると、もちろん見かけも若いのですが、体型も適度に筋肉質でスラッとしていてまるで櫻井翔君がそこにいるようです。

ところが50歳を超えると、これまでとは打って変わり、太りやすく痩せにくい体質になり、そう簡単にはやせなくなりました。震災前にもダイエットをしていたのですが、このときは毎日ジョギングと筋トレを繰り返すかなりハードなものでした。当時なぜダイエットをしようと思ったのかというと、買いものに行ったショッピングセンターの窓ガラスに映った己の体の無残な姿にショックを受けたからです。それまでは体重が増えたことの自覚はあったものの、まだ現実のものとはとらえていませんでした。しかし、あの窓ガラスに映った自分の姿。伸びていた髪はぼさぼさで、丸い顔と突き出たおなか。なんといっても「丸太か?」っと見まごうばかりの胴体の「太さ」はあまりにも残酷な現実に感じたのでした。

でも、きついダイエットはそう続かないものです。挫折しそうな気持ちを抑え、毎日歯を食いしばって繰り返す運動に対する熱意などはいとも簡単に崩れ去ってしまうのです。あのときも、風邪で熱を出し、寝込んでしまったことをきっかけにすっかりダイエットの熱は冷めてしまいました。その後、震災があって私の頭の中からダイエットという五文字はきれいさっぱり消えてしまいました。以来、食べたいものを、食べたいだけ食べる生活。当然のことながら太ってきます。それでも体重を測ることなどなく、自分の体型にもほとんど関心はありませんでした。ふたたびあの厳しいダイエットをやる気にはならなかったのです。そんな私を家族は「パパのおなかってお相撲さんみた~い」とか、「ゴロゴロしてるパパってトドに似てないか?」とか、笑いの種にしていましたが、私もそんな言葉に大笑いをしながらおどけてばかりいました。

それ以降もダイエットをしようなんてまるで考えませんでした。ところが、連休中にふと測った体重が70.8㎏。さすがに70㎏越えはショックでした。健康うんぬん以前にこんな体重になってしまった自分が情けなかったのです。鏡に映る自分の体型はいつになく醜く、「中年なんだもの太ってしまうことは仕方ない」と思い込もうとしていた自分に気付きました。そのとき私は決心しました。ふたたびダイエットに挑戦しよう、と。続かないかもしれないと思いましたが、今度は無理をせず、辛くないダイエットを、楽しみながらやってみようと思いました。今までのダイエットのように「頑張るダイエット」は挫折しやすいことを知っていたからです。しかも、効果が実感できない場合はなおさら挫折しやすいということも実体験でわかっていました。そこで、目で見てわかるようにその日の体重を記録し、グラフ化することにしました。

まずは「食べ過ぎ」から是正することにしました。三食のご飯をたべすぎていないか。そして、間食が多くないかを考えてみました。そして、とりあえず「お米を食べるのをやめてみよう」と考えました。お米そのもののカロリーもさることながら、お米を食べるためにおかずもまた食べ過ぎてしまっていたからです。あと、間食はできる限り口にしないこと。そして、体重がそれなりに落ちるまでしばらくは朝食と昼食は極力抜くこと。ちょっと無理をしているように思えるかもしれませんが、開始直後は目に見える効果を得たいと考えたからです。効果はてきめんで、開始数日は毎日1㎏づつ体重が減っていきました。夕食はおかずを食べ過ぎないように食べ、週末はダイエットを少し緩めてみましたが、はじめの数週間は毎日数百g単位で体重が減っていきました。その分だけこれまで食べ過ぎていたということでもあります。こうした効果を目の当たりにしてダイエットに対するモチベーションはぐっと高まりました。

グラフ化するとよくわかるのですが、週の前半でぐいぐい体重が落ち、週末で少し増える。そして、また次の週前半で減る、という変化を繰り返していく中で体重は二ヶ月でほぼ7㎏減りました。でも、決して無理をしている感覚はありませんし、体調の変化もありませんでした。途中で採血もしてみましたが、これといってなにか悪い変化もありませんでした。むしろ、高めだった中性脂肪は正常化するなど脂質の改善が見られました。唯一、白血球数は極端にさがりました。研修医の頃、指導医に「重症患者の白血球数が急に下がったら要注意」といわれたことを思い出しました。ダイエットはからだにとってはある種の危機状態を作るわけですから、そうした体内環境の変化を反映しているのかもしれません。ただ、不思議なことにダイエットをしたら抜け毛が減りました。栄養状態が悪くなるわけですから抜け毛が多くなるならまだわかります。でも、抜け毛の本数が明らかに減っているのです。抜け毛がそれなりに気になり始めた年齢ですので、うれしい変化といえばそうなんですけどなぜなんでしょ。

ダイエットをしてみて感じたのは、ダイエットの極意は「空腹を楽しむ」ということ。空腹とは人間にとってある意味で「苦痛」なのだと思います。苦痛だからこそ人間はそれを避けようと食行動にでるのかもしれません。でも、よく考えてみて下さい。人は空腹にならないように食べるではありませんか。あるいは、それほど空腹でもないのに食事の時間が来たから食べる、という場合もあります。これらって実は「空腹」という「苦痛」をさけるための行為・行動なのだと思うのです。しかし、今回気が付いたことは、ダイエットにおいて「空腹は脂肪が燃焼している貴重な時間」と思えるようになるとだいぶ気分的に楽だということ。空腹は決して苦痛ではないのです。と同時に、なんとなく食べる、時間が来たから食べるということを決してしないようにすること。実際、これまでを振り返ると空腹感を乗り越えた日ほど体重減少が大きいような気がします。この当たり前のようで当たり前でないことに気が付いたことも収穫でした。

一方で、満腹が実は苦痛だという経験もしました。「あ~満腹、満腹」という言葉は幸せの印のように感じます。ところが私の場合、ダイエットが進むにつれて満腹という一時的な「快楽」のあとに嘔気や腹痛という「苦痛」がやってくるようになったのです。ダイエットをしながら「あ~、○○を思いっきり食べてぇ~」って思うことがありました。ところが、そうした思いのままに腹いっぱい食べると、そのあとで必ずと言っていいほど気持ち悪くなったり、おなかが痛くなったりするのです。そして、しばらくトイレにしゃがみ込むはめに。よく「胃が小さくなる」といいますが、単に胃のサイズが小さくなるだけの現象ではないようです。たくさん食べることで脂質かなにかが体の中で急に増えてこのような症状がでるようでもあります。よく拒食症の患者が食べては吐くという異常行動を繰り返すといいますが、この行動の理由に「たくさん食べてしまったことに対する罪悪感」があると説明されます。しかし、実は今私が説明したような生物学的ななにか合理性が背景にあるような気がします。

いずれにせよ、ダイエットはこれからも続きます。5月の連休明けからこれまでで7㎏の体重が減りました。最近は体重の減り方も少なくなり(というよりも意識的に食事量を以前よりも戻しています。また、朝食と昼食のかわりにタンパクとカルシウムを補給するために牛乳を飲むようにもしています)、その分だけ以前ほど毎日の体重測定が楽しみではなくなりました。むしろ、体重が大幅に増えていないか恐る恐る体重計をのぞき込むようになっていますが、あと2㎏の体重を減らしたいと思っています。体重は1㎏などいとも簡単に増減するからです。体重をふやすのは簡単です。ダイエットはいともたやすくなし崩し的に終わってしまいます。時間があれば筋トレ(足上げ腹筋や腕立て伏せ)をやっています。筋トレも意識的にゴロっと横になりながら気軽にできるものにしています。何事も「頑張らない」「仰々しくしない」「成果を実感できる」をモットーにこれからも細く長く続けるつもりです。

あとどれくらいでかはわかりませんが、今以上に櫻井翔君にそっくりな私が出現するかもしれません。先日、すっきりしたおなかをさすりながら、家族に「ほら、こんなにやせたぞ。だからこれからはカンニングの竹山とは言わせないからな」と勝ち誇ってみせました。しかし、そんな得意げな私に息子が冷静に言いました。「からだはやせても、顔は竹山のままなんだよな~」って。ガク~っ。

私の「幸福論」

本年3月1日付で投稿した「私の『幸福論』」については、最近、多数のスパムメールが寄せられています。そこで先の投稿文を削除してあらためて以下アップし直します。

以下、本文

多種多様な価値観を持つ社会ほど、しなやかで力強く、創造的かつ生産的な社会だといわれています。いろいろな考え方の人がいるからこそ社会は支えられ、発展するというわけです。なんらかの価値観にかたよった社会ではいろいろな問題に対応できないといういい方もできます。ひるがえって家庭にあてはめてみると、価値観が完全に一致した配偶者にめぐり逢うなんてことは奇跡に近く、誰もが新婚時代に価値観のぶつかりあいを経験するわけで(今でもぶつかっている?)、価値観の違いを乗り越えるということはそう簡単なことではなさそうです。

 個人的にいえば、人間の価値観の相違はとくに人生観、あるいは幸福観において顕著なのではないでしょうか。「人間、いかに生きるべきか」あるいは「幸せってなんだろう」という命題に正解などなく、百人いれば百通りの答えがあるのです。ストイックな人生が輝いて見える人がいれば、快楽主義的な生き方にこそ価値を感じる人もいる。ですから、これからお話しすることはあくまでも私個人の考えとしてお読みいただければと思います。私の価値観を人に押し付けるものでもありません。と同時に、他人からとやかく言われることでもないという点を強調しておきます。

早いもので今年ももう3月となってしまいました。小中学校の入試も終わり、おおかたの国立大学の二次試験も終了しました。残すは今日からはじまる公立高校の後期試験だけでしょうか。うちにも来年の高校受験を控える中学二年生の子どもがいるので、これからいよいよ否応なしに受験モードに入っていきます。親として表面上は泰然自若を装い、子供には常に冷静な姿を見せておかなければいけないのでしょうが、いかんせんそこは悲しいかな凡人の私。来年の受験に向けてどこまで平常心でいられるか自信はまったくないというのが正直なところです。

 中学二年生にもなると、子どもながらに自分の将来のことをぼんやり考え始めるとともに、不安になる時期でもあります。先日もニュースで、学校の担任とそりが合わなかった中学生が「担任のせいで自分の人生は終わった」と遺書に残して自ら命を絶ったと報道されていました。そうした出来事を耳にするたびに、同じ世代の子どもをもつ親としては切ない気持ちになります。しかし、かくいう私も、これまで自分の子どもとこうしたことをじっくり話し合ったことはありませんでした。ところが、ひょんなことから息子と人生についてじっくり話をする機会がありました。

 それは息子に勉強を教えているときのことでした。仕事を終えて疲れて帰ってきてから少しだけ息子に勉強を教えているのですが、教わっている最近の息子の態度がとてもいい加減に見えていたこともあって、いつになく声を荒げて息子を叱ってしまいました。さすがの息子もその私の怒りっぷりが理不尽に見えたのか、これまたいつになく口をとがらせて反論してきました。息子の言い分もわからないでもありませんでした。しかし、仕事のことで少しイライラしていたからか、私はそれまで心の中にわだかまりとしてたまっていた息子への不満をいっきにぶつけたのでした。

 しかし、私がひとしきりこれまでの息子の勉強への姿勢を批判したあと息子は私に言いました。「父ちゃんは今幸せ?」。「ああ、幸せさ。ママもいて、ふたりの子どもにも恵まれたからね。仕事もそれなりに順調だし」。すると息子はしみじみと「そうだよなぁ。子どものころからなりたかった医者にもなれたんだし」と。彼がそんなことを言うとは思っていなかったせいか、私は彼の次の言葉にショックを受けました。それまで机の上に視線を落としていた息子が私をしっかり見つめてこう言ったのです。「そんな父ちゃんより俺が幸せになれると思うかい?俺は父ちゃんより幸せにはなれないんだよ」。

 息子は私をそんな風に見ていたんだと少し意外な気持ちがしました。これまで息子に私は「いかに自分が子どものころ勉強をしなかったか」、あるいは「どうして勉強するようになったか」をなんども話してきました。私としては「誰でも努力を怠らなければ医者ぐらいにはなれる」という気持ちを彼に伝えたかったからです。そして、それを聴いた息子に「よし、それなら俺も頑張ってみよう」と奮起してもらいたかったのです。しかし、それを聴いていた息子の目には「自分にはとてもまねのできないもの」として映っていたらしく、私はそのことに多少ショックを受けていました。

 でも、私は気を取り直して息子に言いました。「でも、幸せっていったいなんだろう?手にいれることができるものなんだろうか。ずっと手元においておけるものなんだろうか?」。息子は「そんなこと知らないよ」とちょっと投げやりです。「幸せって、人によってその形や中身も違えば、大きさだって違うんだ」。息子は視線を机の上に落としたままです。「君がなにに幸せを感じるかは俺とは違うはずだし、違っててぜんぜん構わないものなんだぜ」。私はこのとき「自分の幸福論」を話しはじめました。延々と1時間ほど続いたでしょうか。息子は意外と黙って聞いていました。

********** 以下はそのときの要旨です。

 世の中にはいろいろな価値観がある。遊んで暮らしていければいいと考える人もいれば、日々努力をしてひとつひとつに向上心をもって生きていくことを善とする人もいる。あるいは人知れず自分の世界を大切にして人里離れた場所でひっそりと暮らす人だっているだろう。でも、そのどれが「いい生き方」かってことでもなければ、どれが素晴らしいかって問題でもない。結局は「どの生き方が好きか?」って問題なんだよ。そうしたいろいろな価値観を持った人が、自分の持ち場でそれぞれが幸せだと感じることができれば、それを「幸福」っていうんじゃないんだろうか。

このあいだ、新聞に、学校の担任に嫌われた中学生が「担任に睨まれたから俺の人生はもうおしまい」なんて遺書を残して自殺してしまったというニュースが載っていた。たかだか担任の先生に気に入られるかどうかで人生って決まっちゃうのかい?いい高校あるいは行きたい高校に行けないと人生は終わりなの?大学行けないと(あるいは行かないと)幸せになれないの?就きたい仕事に就けないと、あるいは定職に就かずにアルバイトで生活していたらその人は不幸なの?逆に、小さいころから勉強ができて、いい大学を出て、大きな会社に勤めて、社長になったらその人は幸せなのかい?

 あのね、会社という組織を考えればよくわかるよ。出世することを第一と考え、家庭生活を犠牲にしてまで懸命に働いたサラリーマンがいたとしよう。そして、その努力と犠牲の甲斐あって見事社長になれたとして、その人は幸せといえるだろうか。奥さんとの四十年や子どもたちとの三十年間の家庭生活を犠牲にして、奥さんや子どもたちがその出世を恨んでいたとしたらどうだろう。その人の幸福にどのような意味があるんだろうって思わないか?会社での何十年かを振り返って「俺の人生に悔いなし」って言えればいいよね。でも、犠牲にしてきた家族との生活はもう戻ってこないんだよ。

もちろん、こうした人も会社には必要だよ。会社で働く人がみんな「家庭が第一。出世しなくてもそこそこに働ければいい」と考えるようじゃ会社は成り立たないからね。だけど、だからといって「家庭が第一」と考える人が社会人として劣っているということでもない。どちらも価値観としては認められていいということなんだ。そういういろいろな価値観があって社会はなりたっている。だから、有名な学校を出ようが出まいが、学校の成績がよかろうが悪かろうが、社会的地位の高いポジションにいようがいまいが、その人の価値を決めるわけでもないし、幸せかどうかを規定するものでは決してないということさ。

 考えてみると、人間は生きていく中でいろいろなターニングポイントに遭遇して、人生の選択を迫られる。そのポイント、ポイントで最善と思えるような選択をしなければならない。「最善の選択」とはいっても正解とは限らないよ。正しいかどうかなんて誰にもわからないんだから。「後悔をしない選択」という意味にすぎないと思う。後悔のない選択をするためには日々努力をしなければいけない。その「日々の努力」あるいは「後悔のない選択」の積み重ねの総体が人間の幸せなんじゃないのだろうか。つまり、幸せに終着点はない。幸せは手に入れられるようなものではないってことなんだ。

君はなんのために勉強しているの?もちろん希望する学校に入るためだよね。それならなんのために希望する学校に入りたいんだい?それは一義的には幸福感を得たいためであり、二義的には将来の希望につなぐためだよね。では、希望の学校に入れないと将来の希望をつなぐことはできないのだろうか。そうじゃないよね。だって、「人生の扉」を前にして、希望の学校に入れたということが正解かどうかだなんて誰にもわからないんだから。つまり、どのような扉を開けるにせよ、それぞれの人がそのときどきに応じて誠意をもって最善の判断を繰り返していくことしかないんだよ。

 「神は自ら助けるものを助ける」という言葉があるよね。人の一生にはなにか正解があって、その正解をたどることが幸せにつながると多くの人はなんとなく思っている。だけど、実はそうじゃない。人生にそもそも正解などないし、お手本なんてものすらない。つまり、その人でしかたどれない人生を誠実に生きていくこと。その積み重ねが少しづつ「幸せの貯金」となっていく。その誠実さ、その日々の努力を神さまは見ているんだよっていうのが、先の言葉の意味なんだと俺は思う。他人の人生なんて自分にはなんの関係もない。自分を誠実に生きるってことこそ大事なんだと思うけど。

 生きるのが苦しくなるのは他人の目を気にするから。他人と自分を比較するからさ。自分がどう生きようと他人には関係ないのと同じように、他人がどのような人生を生きようと君の人生にはなんの関係もないんだよ。君の人生が家族や身近な人たちの人生になんらかの影響をあたえることはあるかもしれない。身近な人たちにどのような影響を与えるにせよ君が誠実に生きるという姿勢を貫くならばそれは許されるものさ。気にしなくたっていい。だってたった一度の自分の人生なんだもの。自分のために生きるのも自分、他人のために生きるのも自分。どちらがより尊いかって問題じゃない。

 君自身は、今やらなければならないこと、選択しなければならないことはなにかに常にアンテナを張り、最善の行動をとるようにしなければいけない。君の年代はその訓練をする時期。結果がどうであろうと知ったこっちゃないじゃないか。やるべきことをやるだけ。それ以上のことは神さまにまかせるしかない。後ろを振り向くな、ただひたすら前をみろ。立ち止まって振り返っている暇はないからね。ただし、心折れて歩けなくなったら、あるいは道に迷って途方に暮れたら地べたに寝そべって目をつぶれ。そして、いつかふたたび立ち上がればいい。人生なんて長いようで短いけど、本来は気楽で自由な旅みたいなものなんだし。

アルバイト考

最近、「働き方改革」という言葉を耳にします。今や死語となってしまった「猛烈サラリーマン」に代表されるように、これまでの日本人はともすると家庭生活はもちろん、あらゆるものを犠牲にして働くことをいといませんでした。それを美徳とすら思ってきたのです。しかし、先ほどの「働き方改革」は、これまでの「働くために生きる」ともいえるようなライフ・スタイルを「よりよく生きるために働く」ものにシフトしようというスローガンのもとで進められています。

思えば、私たちも研修医のころは24時間、365日働いていたと思うくらい働いていました。また、それが当たり前のようにすら感じていました。ですから、最近の研修医の中にはいわゆる「95時勤務」となって、5時になると早々に離院できるという話し(実際はそんなに甘い研修ばかりではないのでしょうが)を耳にするにつけ、なにやらもったいない気持ちになります。ましてや「医者も労働者だ」という視点で医師の労働時間を議論されることにも個人的には少し違和感を覚えます。

とはいえ、これまで生活の中心になっていた労働を、生活を充実させるために働くというパラダイムにシフトさせるということは決して悪いことではありません。自分の生活を犠牲にして働く人がいなければ支えられないものがあるとはいえ、犠牲を強いなければならない人を必要とする社会は本来間違っています。すべての人がよりよく生活できる社会を作らなければいけません。その意味で、「働き方改革」というムーブメントは「はたらく」ことの意味を見直すいい機会になるかもしれません。

私もこれまでいろんなアルバイトをしてきました。自分に向いている仕事もあれば向いていない仕事もあって、それぞれに思い出があり、たくさんの教訓を得ることができました。でも、当時は働くってことがこんなにも大切なことなんだというところまでは考えが至らず、ただ単にお金目的で働いていたに過ぎません。やりがいだとか働く意味なんてことまではまるで考えていませんでした。そうしたことがわかったのはやはり年齢を重ね、社会人となってからです。

総じて私がやったアルバイトはどれも楽しかったです。出版社で辞書を作るバイトだったり、守衛さんのお手伝いだったり、とある私立中学の林間学校のスタッフだったり、あるいは家庭教師だったり塾の先生だったり。今振り返ってみると、そのどれもが貴重な社会勉強になったと思います。お金をもらうこと以上に、働いてみなければわからないいろいろな気づきや学びがあって、アルバイトは単にお金をもらうだけじゃなく、生きることにもつながる大切な社会活動なんだってつくづく思います。

とりわけ私にとって思い出深いアルバイトは花屋の売り子でした。店先に並べた花束をスーパーの買いもの客に売るのです。私と同じ年代の女の子とふたりで店を任されたのですが、店先に立ってものを売るなんてことははじめての経験でした。「いらいっしゃいませ」のひと言を口にすることがいかに難しいことか。一緒に働いていた女の子も私と同じように大きな声で呼び込みができないようで、仕方がないので私が前に出てお客を呼び、彼女がレジに座ることにしました。

ところが、私がいくら勇気を出して「いらっしゃいませ。お花はいかがですかぁ」と声をかけてもお客さんはいっこうに店をのぞいていってくれません。なんども呼び込みをするのですがまったく反応がないのです。その日はお彼岸のまっただ中で、本来であれば墓参用のお花がもっと売れるはずなのに。なぜ買ってくれないのだろう。はじめに感じていた緊張感は徐々に薄れていましたが、いっこうに花が売れないことが不安になってきました。この花屋の主人の不満そうな表情が脳裏をよぎりました。

スーパーで買いものを済ませた客は相変わらず店先の花を横目で見ていきます。しかし、立ち止まって店先をのぞいていってくれませんでした。一緒に働いていた女の子とどうすればいいんだろうと話していると、隣のスペースでカステラを売っていた青年が見るに見かねて声をかけてくれました。「兄ちゃん、それじゃ売れないぜ」。振り返ると、てきぱきとカステラを売りさばいていた青年が、ぎこちなく花を売る私達に微笑んで立っていました。

「そっちのお姉ちゃんが前に立った方がいいぜ。そして、兄ちゃんが後ろで声をかけるのさ」。彼が言うには、私のような男性が前に立っていたのでは女性客は警戒して気軽にのぞいていかないらしい。「兄ちゃんが遠くから呼び込みをして、ひとりがのぞいてくれたらいろいろ話しかけてその客を引っ張るんだ。そうすると他のお客がまたのぞいていくよ、きっと」。カステラ売りの青年のアドバイスはとても具体的でした。私達はさっそくやってみることにしました。

まず女の子が店先でにこやかに呼び込みをしました。あくまでも控えめに。そして私は奥のレジで元気よく声を出すようにしてみました。するとどうでしょう。青年の言ったとおり、ひとりのご夫人が花をのぞき込んでいきました。女の子はすかさずその客に声をかける。すると、それを見て何人かの客が立ち寄っていくようになりました。私はすかさずそれらの客達に軽く声をかけていたら、花が次々と売れ始めました。カステラ売りの青年は忙しくなった私達をときどき遠くから見ていてくれました。

「この花とあの花だと、色合い、おかしくないかしら」。一人の主婦が私に聞いてきました。さっぱりカラーセンスがない私は一瞬答えるのを躊躇してしまいました。適当に答えているように聞こえたらいやだったからです。しかし、それなりにいいカラーコーディネイトだったものですから、勇気を出して「とてもいい組み合わせだと思います」と言ってみました。するとその客はニコリと微笑み、花を四束買ってくれました。

終わってみれば、カステラ売りの青年のアドバイスが効を奏してたくさんの花束が売れました。青年は「ものを売るってむずかしいだろ。でも、コツがわかると楽しいだろ。あの調子で頑張るんだよ」とほめてくれました。一緒に働いている女の子との息もぴったりあって、なんとなくものを売るということに自信がついてきました。どんよりと曇っていた気持ちはすっかり晴れ、なんだかもっと売ってみたいような気持ちがしていました。

花売りの仕事がはじまる前、花屋の店主は手順を説明しながら「ふたりで大丈夫かな」と不安気でした。しかし、店じまいの頃にやって来て私達の売り上げを計算するとその表情はとても明るくなっていました。「よく頑張ってくれたね。たいしたもんだ」と店主満足げです。その表情を見た私もほっとしました。私達に的確なアドバイスをくれたカステラ売りの青年は、さっさと自分の商品を売り切ってしまい、私達よりも先に店をたたんでは風のように去って行きました。

見知らぬ人に商品に関心をもってもらい、その商品を買ってもらうということはとても難しいことです。こんなあたりまえなことでさえ、普段買う側にいると想像することさえしません。どうしたら品物を買ってもらえるか。売る側の人たちは試行錯誤しながらそのコツを体得していくのです。「経験」を「知」に変えるとそれはアート(Art)になります。このアートの域にまで到達することができれば人は創造的に働くことができ、アートを手にした人のみが創造的に働くことができるのです。

働くことは単にお金を稼ぐだけのツールではありません。生きることを知るためのツールでもあります。働くことを通じて創造的かつ能動的に生きることも、前向きに生きることもできます。「はたらき方」を考えるってことは実は人間の生活そのものを考えることかもしれません。アルバイトをすることで、働くことが人生になんらかのヒントあるいは指針をあたえてくれるということに気が付きます。

人生の転換点

人は生きていく中で、なんどか人生の転換点ともいうべき時を経験します。私にもそうしたときが何回かありました。中学生のときがそうでしたし、大学生の時期もそうでした。また研修医のときもまたそうだったと思います。中でもとりわけ中学生の頃は今の自分につながる大きな転換点だったと思います。

以前にもお話ししたように(「医者になる」もご覧ください)、小学生のころはまるで勉強には縁がなく、怠惰に6年間を過ごしてしまいました。中学校は地元には行かず、東京のとある区立中学校に入学しました。地元の中学校ではなく東京の区立中学校への越境は私の希望でしたが、なぜ越境を私が望んだのかは実は今をもってしても不明です。ともあれ、この中学校での三年間がなかったら今の私はなかったといっても過言ではなく、今さらながら運命的な出会いというものはあるんだなぁと実感します

でも、中学に進学しても生活態度は小学校のそれとはほとんど変わらず、電車通学するだけの生活が始まっただけで、進学を期に勉強に目覚めるなんてことは依然としてありませんでした。板書をノートすることもなければ、宿題をきちんとやっていく生徒ではなく、学校でただただボーっと過ごして家に帰ってくる毎日でした。中学1年生のときの担任との面談で母は「このままでは相当頑張らないと高校へ行けない」と冗談とも本気ともわからない指摘を受けてショックを受けて帰ってきたことがあるくらいです。

さすがにそんな私に危機感をもったのか、中学2年生の冬だったか、母親は近所に住んでいた大学生のお兄さんに私の家庭教師を頼んだのでした。数学と英語を教わりましたが、その大学生のお兄さんも教え始めたときの私の出来の悪さにびっくりしたに違いありません。それでもそのお兄さんが根気強く教えてくれたおかげで私自身は学ぶことの楽しさに少しづつ気づきはじめました。決してまじめな教え子ではありませんでしたが、授業がわかるようになるともっと勉強をしたいと思いはじめるようになったのでした。

中3になってこれまでとは多少内容が高度になるにつれて、授業中に先生が出題する問題に食らいつくことが面白く感じるようになってきました。とくに、私が心ひそかに好意を寄せていた女の子が席替えで私の隣になり、わからない問題の解き方をたずねてくるようになって俄然勉強に身が入るようになってきました。そして、授業中に先生が出題する問題にクラスの秀才よりも私の方が早く解けたり、彼よりもスマートな解き方をして先生に褒められるようになるとさらに勉強への意欲がわいてきたのでした。

私が通った中学校は下町にありましたが、文武両道をモットーとしていて、先生たちも熱心に生徒を指導してくれた素晴らしい学校でした。部活にも熱心で区内の中学校との陸上大会でも何度も優勝していましたし、学区内の他の中学校との進学実績でも競い合っていました。春になると「今年はどこどこ高校に何人合格した」ということが話題になり、中学3年生になった私達生徒も「来年はあの中学校には負けないぞ」という気持ちが自然と高まるような雰囲気の学校でした。

その反面、生活指導も厳しく、生徒には今であれば体罰だと騒がれるような指導も行われていました。しかし、そんな指導に反抗するような生徒はいませんでした。むしろ、そうした指導を面白がっていたようなところもありました。恐らく先生たちの愛情を生徒たちが感じていたからだと思います。あまり生活態度のよくなかった私はたびたびこの「指導」を受けていましたが、今となってはどの指導もいい思い出として残っています。今であれば大騒ぎになっているでしょうけど。

私がいつも受けていた指導は「おしゃもじの刑」。授業中におしゃべりをしていたり、宿題を忘れたりすると先生に「はい、おしゃもじ。昼休みに体育館に集合」と宣告されます。宣告を受けた生徒は昼食後、体育館に集合して「おしゃもじの刑」が執行されるのを待ちます。しばらくすると、屈強な体育の先生が給食で使う大きなおしゃもじを肩にかついで体育館に入ってきます。そして、私達生徒は一列に並ばされ、いよいよその刑の執行がはじまるのです。

「はい、壁に手をついてケツを突き出せ」。先生がいうとおりに両手を壁に尻を突き出すと、先生は助走をつけ、振り上げたおしゃもじをお尻めがけてふり下ろします。「パーンっ」。体育館に大きな音を響かせると、生徒は尻を抱えながら体育館を走り回るのです。「イテテ・・・」。それを見て笑い転げる生徒、次は自分かと恐れおののく生徒。体育館の中は阿鼻叫喚の世界と化します。でも、誤解のないようにいっておきますが、これは遠い昔の話し。決して体罰という意識は先生の側にも、生徒の側にもありませんでした。

私はこの他にも、「石抱きの刑」や「重力の刑」も受けたりしていました。前者は掃除用のほうきを二本並べ、その上に正座をさせられることからはじまります。そして、生徒の後ろにまわった先生は、「よく宿題を忘れるな、セバタは」と私の両肩に全体重をかけます。ほうきの上に正座した脛の痛いこと痛いこと。後者の刑は、クラスの出欠を記録する出欠簿の隅を指でつまみ、そこを中心に相対する角をあたまに自然落下させる刑。「ま~たお前か」と言われながらわられるのを生徒は面白がっていたようです。

髪の毛の長さにも校則に決まりがあって、朝の登校時に校門のところに週番の生徒と立っている生活指導の先生が髪の長い生徒を見つけ出します。そして、「昼休みに理科室ね」と声をかけます。そして、先生に指名された生徒は昼休みに理科室に集合。すると腕に自信のある先生が待っていて、髪の長い生徒は先生にバリカンで髪を切られるのです。うまくいかないときはときどき虎刈りのようになりますが、できあがった髪型に一喜一憂する生徒、そしてその生徒を面白がる生徒の姿は今はいい思い出です。

当時は「ゼネスト」とよがれる年中行事がありました。春になると旧国鉄(今のJR)の労働組合が大規模なストライキをして鉄道が全面的に止まるのです。止まらないまでも「順法闘争」と称してノロノロ運転をしてダイヤが大幅に乱れます。そのせいで首都圏の交通機能が完全にマヒ。今思うとよくそんなことがまかり通っていたものだと思いますが、年中行事みたいになっていたのでサラリーマンも私達学生・生徒も仕方ないとなかば諦めムードでなんとか工面をつけて会社や学校に通っていたのです。

ゼネストがあるちょうどその時期に学校では定期試験があります。ですから私のように電車を使って通学している生徒は、親が旅館業を営んでいる同級生の家に泊まり込んでテスト勉強、そして受験をしたのでした。同じ越境入学の友達と一緒に旅館にとまってのテスト勉強は楽しかったのですが、私は同級生たちが試験勉強する中あいかわらずのマイペースでボーっとしていました。それにしても先生も同じようになんとか都合をつけて学校に来なければならなかったのですから先生もずいぶん大変だっただろうと思います。

私の中学校は下町にありましたから、いろいろな生徒がいました。サラリーマンの子よりも親が商店を営んでいる子が多かったように思いますし、在日韓国・朝鮮人の子もたくさんいました。中にはヤクザの子もいました。でもみんな仲が良かった。先生も分け隔てなく生徒全員を同じように扱っていたのです。中にはいつも警察(少年係)のお世話になる生徒もいたりして、ある同級生は最終的に練馬鑑別所に収監されましたが、それでも先生たちは決して我々の前で彼を悪く言うことはありませんでした。

また同じように少年係によくお世話になった生徒の中には、その後、警視庁の警察官になった者もいます。卒業文集の「後輩に残すことば」に彼は「正義なき力は暴力。力なき正義は無力」と書いていました。今頃その生徒はどうしているんだろうとときどき思ったりします。このようにいろいろな生徒がいましたが、学校の中が荒れるなどということはありませんでした。生徒は先生を敬い、素行のよくない生徒ですら先生に手をあげるなど皆無でした。他の学校の不良とトラブルを起こすことはしばしばありましたけど。

このような中学校に通い、さまざまな友人をつくる中で、私は少しづつ変わっていきました。そして、先ほども述べたように、近所の大学生に家庭教師になってもらい、3年生になって密かに心を寄せていた女の子が隣の席になったのをきっかけに、私は勉強することの面白さを実感するようになりました。少なくとも数学と英語はそれなりにできるようになり、夏休みには難関校をめざす塾の入塾テストにも合格するまでになっていました。1年のとき、担任の先生に「このままでは高校に行けない」と言われていた私だったのに。

それでも私は、その塾では深い海底を漂う潜水艦のような生徒でした。みんな一流校と呼ばれる学校を目指す生徒ばかりでしたから私は少しばかり場違いだったのでしょう。先生にあてられてもまともに答えらえず、できるだけ目立たないようにしていました。あるときテキストの英文を訳すように指示されました。そこには「Glasses」という単語があり、これは「メガネ」と訳さなければ意味が通らないところを「草(こちらはgrass)」と訳してしまい、教室中の生徒に大爆笑されたこともありました。

それなりに成績は伸びました。それなりの高校にも受かりました。残念ながら私が思いを寄せていた隣の席の女の子は商業高校に進学して離れ離れになり、最後まで胸をときめかせるだけで終わってしまいました。卒業アルバムを開くと今でも当時の気持ちがよみがえりますが、そのアルバム写真に一緒に写っていた先生方もすでに亡くなられた方も少なくありません。一番私を気にかけて下さった1年生のときの担任の先生も何年か前にお亡くなりになり、教え子が主催したお別れ会が開かれ、私も出席してきました。

そのお別れ会にはたくさんの教え子が集まりました。そして、演壇ではその教え子たちが口々に昔の懐かしい思い出話しを披露していました。そのどれもが今では話すことがはばかられることばかりでした。でも、そのすべてがいい思い出として教え子たちの心の中に残っているんだということがわかるほどに会場は盛り上がりました。千葉の我孫子という田舎から東京の中学校に通っていた私をその先生は「かっぺ(いなかっぺ)」と呼んでいましたが、その先生自身も福島出身でいつもなまっていたのでした。

その先生は私が医学部に合格したとき、長い手紙を送って下さいました。そこには自分のことのように喜んでくれた先生のあふれんばかりの気持ちが綴られてありました。そして、自分の従弟も北大の医学部出身で眼科医だったことが書かれてありました。また、私が数学を教わった先生が、授業中に「教え子が医者になった。頑張ればみんなも夢をかなえることができる」と私のことをうれしそうに生徒に話しをしていることも伝えてくれました。このときばかりは本当にうれしかったです。

当時の中三の学年だよりに、英語の先生が次のような文章を寄稿しました。「人生には踏ん張らなければならないときが何回かある。ここぞというときにどれだけ踏ん張れるかにその人の価値はかかっている。みんなもそのことをいつも胸にして巣立ってほしい」と。私はこの言葉がとても心に残り、今でも自分の心の支えになっています。この中学校でのいろいろな先生との出会い、友人との関わりが今の自分を作っているんだということを実感しています。その意味で、自分の人生の大きな転換期となったいい中学時代を過ごせて本当に幸せだったと思っています。

医者と患者のはざまで

医学部を卒業しても医者としてはまだ不十分です。なるほど国家試験直後の学生さん達の知識は、医学部をはるか昔に卒業した我々よりもはるかに多いだろうということは想像に難くありません。しかし、医師という仕事は当然のことながら知識を必要としますが、それと同じくらい、いや、それ以上に経験がものをいう場面が多々あります。患者の話しに耳を傾け、適宜こちらから問いかけることによって頭にひらめくもの、「ひょっとして」という「勘働き」のようなもので助かる命は決して少なくありません。

逆に、「なぜあのとき、きちんと対応しておかなかったのだろうか」と悔やむこともあります。診療のときに感じた何気ない胸騒ぎ。無駄だと思っても検査をしたり、紹介の手間を惜しまなければ助けられた命だってあります。最近は、やれ医療費だ、C/B(コストバイベネフィット)だ、事前確率だ、エビデンスだ、と合理性のようなものを求められます。患者自身も医療費ですら「できるだけ安く」で、マスコミもそうした風潮を煽ってきますから、おのずと私達医療者も「検査をしない」ことを善としてしまいがちです。

検査をするか、しないか、という問題は意外と難しい問題です。典型的なものに「PSA検査」というものがあります。PSAとは前立腺がんのときに上昇する腫瘍マーカーのひとつですが、このマーカーを検診として調べることの是非がしばしば取り上げられます。PSAは前立腺がんの他に前立腺肥大でも上昇することが知られており、PSAの上昇を検診でひっかけることで過剰な検査を招き、不必要な治療までおこなわれているのではないかという批判にさらされているのです。

PSA検査をすべきではないとする意見がある一方で、PSAを調べることで無症状の前立腺がんが未然に拾い上げられているという事実も重視すべきだという意見もあります。無駄な検査や治療がおこなわれるのは担当する医師の力量の問題なのであって、医療費が無駄遣いされるのはPSA検査のせいではないというわけです。しかし、そうした意見に、PSAの検査によって前立腺がんの生存率が高まるわけではなく、そもそも前立腺がんの悪性度はそれほど高いわけではなく、PSA検査そのものは過剰検査だという反論もあります。

第三者的であれば医療経済学的に見ることができるものも、実際に自分がその患者だったらと視点を替えてみるとまた違った景色が見えてきます。PSA検査を「すべき検査ではない」とみるか、「してもいい検査」とみるか、はたまた「すべき検査」とするかについては医師や学会の間でも見解の相違がみられるのですから、一般社会においてなんらかのコンセンサスを得ることは難しいのです。私も医者になる前と、医者になってからの感じ方もずいぶんと変遷してきたと思いますし。

皆さんは山崎豊子の「白い巨塔」という小説を読んだことがあるでしょうか。昭和40年代の医学部を舞台に、教授をめざして走り続ける財前五郎と、そうした彼や医学部のありかたに疑問をもちながら自分の道を歩む里見脩二。この対照的な二人の生き方を通して壮絶な権力争いを繰り広げる医学界の問題点をあきらかにした力作です。私がこの小説を初めて読んだのは高校一年生のときでしたが、当時は里見脩二の生き方に共感し、彼に自分を重ねていましたが、実際に医者になるとちょっと見方が変わってきます。

この「白い巨塔」という小説は、天才外科医と呼ばれた財前が胃がんを見逃すという「医療ミス」を中心に物語が進んでいきます。「なにかおかしい」と感じながらも繰り返す検査でなにも異常を見つけられなかった患者を里見は財前に託します。しかし、教授選を控えて多忙を極めていた財前はそうした里見の心配を「考えすぎだよ」と一笑に付すのです。ところが、実はその患者は里見が疑った胃がんであることがわかり、その医療ミスをめぐって裁判が開かれ、かつての親友である里見と財前は対峙することになります。

なんどもなんどもいろいろな検査をし、結局は胃がんを見つけられなかった里見。最後は患者に「先生、もういい加減にしてもらえまへんかっ」とまで言われてしまいます。しかし、それでも里見は原因をつきとめようとするのです。一方、財前は「ここまで検査をやったんだ。問題があるはずがない」と里見の心配をまともに受け止めようとしません。しかし、患者は胃がんだった。すでに患者が手遅れであることを知った里見は財前にいいます。「財前君、医学は謙虚でなければいけないのだ」と。

財前は裁判で無罪を主張します。患者側の証人となった里見はその代償として大学を追われます。開業医として日々忙しく診療している里見の兄の「患者のために診療するのに、大学にいるかどうかは問題じゃない」という言葉に背中を押され、里見は大学を辞めるを決意します。その間、財前の周囲では教授選に勝利するためなりふり構わぬ策略が進められ、最終的には教授選とともに裁判にも勝利します。一方の里見は地方の病院へ。読み終わったとき、なにかもやもやとしたものを感じながら続編を期待したくなります。

この小説を初めて読んだ高校生のときとは違って、医者になると少し感じ方が違ってきました。それはどちらかというと財前五郎に「同情的」ともいえる感想かもしれません。確かに、胃がんを見落としたというそしりは免れない。しかし、里見が「患者に叱責される」ほどの検査を繰り返してもなお見つからなかった胃がんを見逃したからと言ってそれほどまでに批判できるかということです。当時はお金も時間もかかり、苦痛だってそれなりにともなう検査をその後もやり続けた方がいいのか、という点です。

「続 白い巨塔」では患者の担当医となった部下の証言が重要な要素になってきます。入院後に担当医は胃がんを疑い確認検査をしてはどうかと財前に進言するのですが、財前は教授選に心を奪われていてまともに取り合わない。そればかりか担当医を不適格だと大学から飛ばしてしまう。続編ではそんなところをクローズアップしながら財前が自壊していく様子を描いています。それはそれで物語としては面白いのですが、患者のマネジメントとしてはそれほど批判されるものではないと医者になってから思ってしまうのです。

里見は医者の勘働きとして「なにかがある」と疑い、財前も同じように勘働きで「なにもない」と言い切る。ここには結果論としての正解と誤答があります。しかし、その正解と誤答の違いは、勘働きにこだわり、修正をおこたった財前の失敗の違いだけ(ものすごく大きな違いでもありますが)であり、当初、財前が「なにもない」と判断したこと自体に瑕疵はないのではないかということが言いたいのです。もちろん「たまたま勘働きが間違ったにすぎない」と済ませられるほど簡単な事柄ではありませんけど。

まだ医学的な知識も、はたまた医療制度や医療経済的な事柄にも知識がないころの見方はどちらかというと「情緒的」にかたよりすぎていたり、世の中の論調(小説であれば作者の意図)にひきづられてしまったりして、ものごとの本質からずれた評価をしがちです。勧善懲悪の視線をどうしても持ってしまいますし。最近、どこかで「科学が風評に負けてはいけない」みたいな言葉が飛び交いましたが、実はこの言葉は意外と示唆に富んだ意味をもっていると思います。

「勘働き」とは意外にも重要な働きをしますが、それにとらわれてはいけないということかもしれません。私達の医療の世界では「エビデンス(根拠)」というものが今まで以上に重視されるようになりました。「経験によらない根拠ある医療」こそ医学というわけです。ところが、とある血圧の薬で問題になったように、そのエビデンスも実はあてにならないこともあります。むしろ、日常の臨床で感じた印象の方が当たっていたってこともあるのです。まぁ、難しい問題ですね。

ありきたりな結論ですが「バランスが大切」ってところでしょうか。常に懐疑的にふりかえること。とらわれてはいけないってことでしょうね。その意味で患者の視線、医学的な知識をもたない人の視点を忘れないということが大切なのかもしれません。こうした視線や視点を持つことって、普段、医療者として仕事をしていると実はなかなか難しいことなんですけど。医学部の学生のとき、ある教授にいわれました。「患者にながされることなく患者に寄り添いなさい」と。今になってこの言葉の含蓄の深さがわかります。

ネボケルワタシ

札幌での学生時代の多くを過ごしたのは「岩樹荘(いわきそう)」というアパートでした。北大に合格してまずやらなければならなかったのは自分の住処をさがすことでした。それまでずっと両親の住む自宅から学校に通っていましたからはじての一人暮らしです。うれしいような不安なような複雑な気持ちだったのを覚えています。入学試験のころはまだ一面に雪が積もっていたのに、アパート探しに札幌を再訪したときにはもうだいぶ雪解けが進んでいました。日中はもはや氷点下になることはないため、道路や歩道の雪は融雪水となってどんどん側溝に流れていきます。そんな市内を札幌在住の知り合いの車に乗せてもらって探し回ったのでした。

除雪が進んでいる大通りは車のながれが多いせいかすっかり雪も姿を消していましたが、ちょっと辻通りに入ると結構な雪がまだ残っていました。私がアパートを探していた地域は学生用のアパートが多く、卒業式を終えて引っ越しをする学生が荷物を運び出している光景も見られました。こんな通りを知り合いの車に乗せられて走っていると、窓ガラスに「空き室あり」の張り紙をした一軒のアパートが目に入りました。それが「岩樹荘」でした。「ここ、どう?」。そう言う知り合いのおばさんの後ろをついていき、玄関の呼び鈴を押すと管理人室から厳格そうな初老の男性が出てきました。それがこのアパートの管理人でもある「岩樹荘のおじさん(「謹賀新年(平成29年)」もご覧ください)」でした。

管理人室でその「岩樹荘のおじさんやおばさん」と話しをして、すぐにこのアパートが気に入ってしまいました。薄暗い廊下はひんやりとしてまだ寒かったのですが、管理人室はストーブがたかれていてポカポカしていました。ごくごく普通の家庭の居間という雰囲気でしたから、なにかとてもアットホームな感じがして他人の部屋と言う感じがしませんでした。このアパートで医学部に進学する前の教養学部医学進学課程の2年間と医学部の2年間の合計4年を過ごしましたが、いろいろな思い出とともに「岩樹荘のおじさんとおばさん」によくしてもらった記憶が今も自分の心の中に生きています。

学生のころは決してまじめな学生ではありませんでした。つまらない授業はさぼっていましたし、代返(本人に代わって出席をとってもらうこと)が効く授業は代返を頼んだりしてアパートでダラダラ。あるとき、私はいつものようにつまらない授業をさぼって自室にこもっていたのですが、多少の後ろめたさを感じながらもいつの間にか寝てしまったのでした。そんなとき突然自室の電話が鳴りました。このアパートに入居してしばらくは電話がなく、管理人さんのところにある公衆電話を使ったり、呼び出しをしてもらったりしていたのですが、しばらくするとそれも不便になって固定電話を自室に引いたのです。

突然鳴り出した電話。私はちょうどそのとき夢のなかで留学生となにか会話をしているところでした。あまりにも急に夢から覚めた私は、受話器をとってもしばらくは夢と現実の間にいるようでした。受話器の向こうからは友人の声。授業に出てこなかった私を心配してくれての電話だったようです。「今日、講義に来ないみたいだけどどうかした?」。そう聞かれてもなんだかうまく言葉がでてきません。友人は「今、何をやってるの?」と。私はそんな受話器の向こうの彼を夢の中で会話をしていた留学生と混同したのか、「Oh、I’m スイミン(睡眠) now.」と答えてしまいました。電話の彼は驚いて、「えっ?なにっ?swimmingだって?」とびっくり。

ねぼけ話しは他にもあります。それは、まだ自室に固定電話をひいていなかったころのこと。外部から私のところに電話がかかってくると、管理人室から私の部屋に設置してあるベルが鳴ります。そのベルが鳴ったら管理人室に「了解しました」のベルで返事をし、電話のところにいって話しをするという仕組みになっていたのです。部屋でコンビニ弁当を食べ、満腹になって横になって寝ていたときのことでした。突然部屋のベルが鳴りました。びっくりした私は熟睡していたときに眠りを妨げられたせいか、「部屋のベル=管理人室に返事のベル」という反応をしなければいけないのに、そのふたつの事柄を結びつけることができず、なにをどう反応すればいいのかわからなくなってしまいました。

動揺した私は、なにを血迷ったのか、テレビのリモコンのボタンをいろいろ押してみたり、ガスコンロをガチャガチャとつけたり消したり、部屋の中をなにをしたらいいのかわからないままウロウロするだけでした。しばらくしてすっかり目が覚めて、ことの顛末を自ら振り返ることができるようになりました。そのとき私は思いました。「痴ほう症の患者ってこんな感覚を経験しているのではないか」と。人間って無意識にやっていることが結構多いということも、無意識のうちにいくつかの事柄を結びつけて行動しているということを実体験したのです。痴ほう症とは、そうした「いくつかの事柄を結びつけることができなくなる状態」ってことだとこのとき知りました。

岩樹荘では嫌な思い出ってまったくありませんでした。静かでしたし、管理人さんがいろいろと配慮してくれたせいか生活する場としては結構快適でした。他の入居者との交流こそありませんでしたが、周囲に迷惑をかける入居者もなく、生活音が気になるということも皆無でした。ただ、いちどだけびっくりしたことがあります。私の部屋のふたつ隣があるときから急ににぎやかになり、夜中までガヤガヤとたくさんの人の声が廊下まで聞こえてくるようになりました。しかも、夕食時になると部屋からはもうもうと煙までがもれてくるのです。しばらくは「友人を呼んで食事会でもしているんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたが、あまりにもそうしたことが続くのでなんだろうと。

ある晩のこと、いつものように夕食後にウトウトしていると、突然、ふたりの男性がたくさんのコンビニ袋をもって私の部屋に入ってきました。あまりにも突然のことだったので、お互いに顔を見つめ合うだけで言葉がでませんでした。これまでなんどか寝ぼけたことがある私はとっさに「この事態を冷静に判断しよう」とあせっていました。「まずはここは自分の部屋だろうか」「さっきまで自分はなにをしていただろうか」「このふたりに悪意や敵意はあるだろうか」、いろいろなことがあたまをよぎりました。結局、彼らは頭を下げるでもなく、バツが悪そうな表情をしながら部屋を出ていきました。

実は、あの騒がしい部屋にはとある外国人が入居したのですが、その後、次々と友人が寝泊まりするようになり、多い時は六畳に5人の人間が住み着くようになったのでした。しかし、そんなことが一か月も続くようになったこと、その部屋の住民はいつのまにかいなくなってしまいました。管理人のおじさんに聞くと、どうやらあまりにも度が過ぎるので退室してもらったとのこと。大陸的といえば大陸的な大胆さ、おおざっぱさですが、日本人の節度とはあまりにも相いれない振る舞いに、おじさんは「もうこりごり」と顔を曇らせていました。

「岩樹荘」での思い出(「X’マスは雪がいい」もご覧ください)は、私の北大時代の思い出でもあります。4年間の医学部の前半の2年までを過ごしましたが、親元を離れ、講義に出席することもふくめて、食事をとるのも、風呂にはいるのも、あるいは寝ることも誰にも束縛されない自由な時間であふれていました。医学部に入学するまではいろいろなことに悩み、不安を感じながら時間を過ごすことが多かったので、この岩樹荘での時間はなによりもゆったりとした幸福なものでした。その分だけ、部屋でゴロゴロと怠惰な時間を過ごしましたし、その思い出が強く私の記憶に残っていますが、そのときのゆったりとした記憶が今の安らかな気持ちにつながっているような気もします。ちなみに、医学部後半の2年間はちゃんと勉強して医者になりましたから誤解ないよう。

謹賀新年(平成29年)

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

時の経つスピードは年々早くなり、子どものころにはあれほど長かった一年が今ではあっという間です。私自身も知らない間に半世紀を生きてきて、いったいこの間にどれだけのことをなしてきたのだろうかと振り返れば、これといったこともしないまま無駄に歳をとってしまったような気がします。

子どもの頃に憧れていたものがだんだん輝きを失っていき、大人になって現実を突きつけられると空しさを感じるものになってしまうものだって決して少なくありません。思い出だけが自分の心のなかでキラキラと輝いていて、心ときめいていた昔のことを懐かしむようなことも最近とても多くなってきました。

これまでなんどかお話ししてきたように、私の心のなかで今でもキラキラと輝いている思い出はなんといっても札幌時代から研修医のときでしょうか。長年住んだ我孫子を後にして、札幌に引っ越した時の事をときどき思い出します。不安と期待が入り混じった胸のときめきは今でもあざやかに覚えています。

元旦に一枚のある年賀状が今年も届きました。それは札幌時代にお世話になったアパートの管理人さんの息子さんからのものです。今年で97歳となったおじさんと95歳になったおばさんの近況を伝えてくれるその年賀状は私にとっては札幌時代を思い出す大切な便りです。

私が学生のときに住んでいたアパートは大学から歩いて10分ほどのところにありました。管理人のおじさんは札幌にやってくる前まではひまわりで有名な雨竜というところで農業をやっていました。戦争で南方に送られ、大変な目にあいながらも父親から譲り受けた土地を少しづつ広げていった働き者のおじさんです。

おばさんも寡黙でとても働き者でした。広いアパートをいつもきれいにお掃除しているおばさんの後ろ姿が目に浮かびます。長年やってきた農業をやめ、札幌でアパート業をやろうと決心したおじさんについてきたおばさんがどのよう気持ちで雨竜を離れたのだろうかと考えたくなるほどにいつも働いていました。

おじさんとおばさんははたから見ていても「夫唱婦随」という言葉がぴったりのご夫婦でした。「昭和の理想的な夫婦」ってところでしょうか。おばさんはおじさんを立て、おじさんは何気におばさんをいたわっている。ふたりが仲たがいをしているところを見たことがありませんでした。

そうそう、今思ったのですが、おじさんの風貌ってTVドラマ「北の国から」の黒板五郎が歳をとったような感じ。短く刈った髪は真っ白でしたが、開拓と農業で鍛え上げた体は当時七十歳近くでしたが筋肉質でがっちり。背丈も私よりもあって、どことなく私が憧れる高倉健(「高倉健、永遠なれ」もご覧ください)を彷彿とさせる風貌でもありました。

長年やってきた農業を、しかもはたから見れば順風満帆に見える生業を捨て、これまでの仕事内容とはまったく異なるアパート業にかわろうと決断した意志の強さをあらわすように、おじさんはときにとても鋭い眼光をもっていました。しかし、アパートに住む人たちにはいつも親切で優しかったのです。

アパートに引っ越してきたとき、おじさんに「いっしょに飲まんか?」と誘われました。私はお酒がまったく飲めなかったのですが、せっかくだからと管理人室にうかがうことにしました。管理人室でのおじさんのまなざしにはいつもの鋭さはなく、にこやかでとてもうれしそうでした。

食卓にはおばさんが作ってくれたお料理が並び、さながら私の歓迎会をやってくれているんだと思いました。「冷がいいかな?」。春とはいえまだ寒かった札幌ですが、管理人室は暖房がたかれていてポカポカ。私はおじさんがいつもそうしているように冷で日本酒を飲むことにしました。

コップ一杯ぐらいなら大丈夫だろうと無理してお酒を交わしていた私は、しばらくすると地面がぐるぐる回ってきました。おばさんが心配そうに、「だいじょうぶかい?」と私の顔をのぞきこみました。そこまでは覚えているのですが、あとはどうなったかわからないまま、いつの間にか自室で寝ていました。

翌日、管理人室のおじさん達にお礼に伺うと、おじさんは「酒、飲めんかったかね?」と申し訳けなさそうに尋ねました。微笑みながらうなづく私におじさんは「そうかね、そりゃ悪いことをした」と。あのあと、私は真っ赤な顔をして意味不明なことをつぶやきつつ、ヘラヘラ笑いながら自室に戻っていったそうです。

以来、このアパートは文字通り私の自宅になりました。おじさんとおばさんからいろいろな心遣いを受けながら4年間をここで過ごしました。風呂がなく、トイレも共同のアパートでしたが居心地は決して悪くありませんでした。管理人さんの息子さんご夫婦も入っていてなんだかとてもアットホームだったのです。

ただ、一度だけこういうことがありました。管理人さんの息子さんご夫婦にはひとりの可愛い女の子がいました。当時はまだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの年齢でした。私の自室からはその子が元気に廊下を走り回る音が聞こえました。でも、決して不快な騒音としてではありませんでした。

あるとき、私は部屋で簡単な自炊をしていました。大した料理ができるわけではありませんでしたが、ときどき気が向くと料理をしていたのです。久しぶりに作った料理がたまたまうまくでき、いい匂いが部屋に満ちていました。盛り付けをしながら私は早く食べたい気持ちを抑えていました。

そのとき、廊下からいつものように女の子がお母さんと一緒に歩いていく音が聴こえます。共同のトイレにでも行くのでしょうか。走ろうとするその子に「走っちゃダメよ」とたしなめるお母さんの声も聴こえました。扉の外の愛らしい光景が目に浮かぶようでした。

いちどは聞こえなくなった二人の話し声がふたたび徐々に大きくなってきました。ちょうど私の部屋の前に二人が差し掛かった時、女の子の足がふと止まりお母さんにこう言ったのです。「ママ、変なにおいがするよ」と。変なにおい・・・。そうです。それは私の部屋から漏れた匂いのことでした。

すかさずお母さんが声を潜めるように「そんなことを大きな声で言っちゃだめ」とたしなめました。私はそのとき隠れてしまいたいような恥ずかしい気持ちになりました。その「変なにおい」をおいしそうに感じていた自分が恥ずかしかったのです。以来、料理をする機会はすっかり減り、それは今でも続いています。

このアパートには風呂がなかったため、医学部も高学年になって気軽に風呂にはいれるワンルームマンションに引っ越しました。しかし、それ以降もこのアパートの管理人さんとのつながりは続きました。時間があればおじさんとおばさんに会いに行きましたし、家内と結婚して札幌に戻っては挨拶に行き、子どもが生まれれば見せに行きました。

あんな管理人さん達のようなご夫婦にはお目にかかれないでしょう。二人は私が憧れていたTVドラマ「大草原の小さな家」に出てくるインガルス夫妻のようでもあり、「北の国から」の黒板五郎のようでもあり、また、高倉健のような風貌のおじさんはひょっとして私の理想の男性像だったかもしれません。

人との出会いってとても大切だと思います。私の人生を振り返っても、いろいろな人との出会いによって今の自分があるといっても過言ではありません。こうした大切な人たちとどのくらい出会えるのかが人生を左右するのでしょうね。年賀状はそれを確認する便りでもあると思いました。