神さま、お願い(2)

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******* 以下、本文

勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じていたがなにかが違うと思いながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、じっと私の話しを聞いていた助教授がその教授の言葉を遮るように言いました。「君の意志は固いの?」。「はい」、きっぱりうなづく私。「だったら再受験すべきだと思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくよ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその助教授の言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ励みになったことか。この先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。

神さま、お願い

久しぶりの投稿です。忙しかったこともありますが、書くに足るネタがなくなってしまったのです。もともと筆不精で、文章を書くのも苦手だってこともあります。このブログでの文章も結構苦労しながら書いているくらいですし。このブログがここまで続いたことだけでも奇跡的なのかもしれません。でも、久しぶりに書いてみようと思うものがありましたので投稿します。ちょっと変わった内容です。人によって好き嫌いがありますが読んでみて下さい((注)赤字部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます)。

******** 以下、本文

私には信仰している特定の宗教はありません。でも、心の中ではなんとなく「神さま」というものはいるのではないかと思っています。私にとっての「神さま」は、ある意味「ご先祖様」かも知れません。神社や寺院でも手をあわせますし、お地蔵さまやお稲荷さまにも手をあわせます。しかし、具体的に「神さま」という対象として手をあわせるのは私の「ご先祖様」でしょうか。具体的には私の母方の祖父の顔を思い浮かべながら手を合わせているような気がします。

たくさんの孫たちのなかで、祖父がとりわけ私を可愛がってくれていたのかどうかはわかりません。しかし、私の心の中には不思議といつも祖父がいます。今でもときどき夢にでてきます。祖父は昔、商売をしていました。私がまだ幼稚園児ぐらいのときに、オート三輪に乗せられて一緒に集金にまわったことがあります。得意先をまわりながら、私に「ほら、こんにちわは?」と挨拶を促しながら目を細めていた祖父のことを今でも思い出します。そんな優しかった祖父がいつも私の心の中にいるのです。

祖父が亡くなる数日前、私は祖父が入院している病院にお見舞いに行きました。そのときはまだそんなに急に亡くなるとは思えないほど元気だった祖父でしたが、「じゃあ帰るよ」と部屋を出ていこうとする私を祖父は呼び止めて「元気でな」とひと言。なんでこんなことを言うんだろう。そう思いながらも「また来るから」と笑って病室を後にした数日後に祖父は亡くなりました。思いがけずに祖父が亡くなってしまいましたが、その一報を受けたと聞いたとき、私はすぐにあのとき交わした言葉を思い出しました。

祖父の葬儀のとき、私は葬儀を終えたお寺から祖父の家まで参列客を車で送迎しなければなりませんでした。お寺で数名の参列客を車に乗せてまさに出発しようとしたとき、私の車を追いかけてくるお坊さんがバックミラーに映りました。その僧侶はついさっき祖父の葬儀でお経を唱えてくれた方でした。私はなんだろうと思って車を止めました。車の窓ガラスを開けるとそのお坊さんが私に言うのです。「気を付けて行くんだよ」と。「はい、わかりました」と軽く会釈をして私はふたたび車を発進させました。

田んぼの中の見晴らしのいい道路を走って、正面のT字路を左折しようとスピードを落としました。左右を確認して左にハンドルを切った瞬間、突然赤い車が目の前に現れました。「あっ!」と言う間もなく、私の車は相手の車の側面に衝突。なにが起こったのかわかりませんでした。幸い怪我人はひとりもおらず、車の損傷も思ったほどではありませんでした。私も相手もはじめは混乱していましたが、二人とも落ち着くとお互いに謝り合っていました。相手がとても優しい人だったので助かりました。

私は思いました。あのとき、お坊さんがわざわざ私を追いかけてきて言った「気を付けて行きなさい」の言葉。あれは祖父が言わせたのではないか、と。実はその僧侶は私の母とは幼稚園での幼馴染でもありました。そして、祖父とは一緒に旅行に行くほど懇意にしていただいていた人でした。祖父が入院する数日前にも、近くを散歩したからと祖父の家に立ち寄ってくれたほど。このことを後日このお坊さんにお話ししたら、「なんとなく声をかけた方がいいと思ったから」と笑みを浮かべながらおっしゃいました。

ときどき自分の半生を振り返ると、まさに「神がかり」あるいは「神さまのお導き」、ひょっとすると「神さまに守られていた」と思えるようなことがいくつもあったことに気がつきます。神さまへの願い事がかなったということはもちろん、決して自分の力や努力だけではどうにもならないことがなんとかなった。あるいは誰かのひと言が私の人生を大きく変えた、なんてことが何度もありました。これらはまさに「神さま」のなせる業だったのではないかと思えるほどです。

息子が第一志望の高校に不合格になって落胆しているとき、「神さまに願いを聴いてもらえなかったなぁ」と彼がつぶやくのを私は耳にしました。でも、私は言いました。「それは違うと思うよ。神さまは単に願いを聴いてくれるとか、聴いてくれないとか、そんなちっぽけなことを考えているわけじゃないんだよ」と。実は、息子ばかりではなく、私も家内も息子の第一志望の高校の合格発表を前にして、神社に願掛けにいったり、先祖の墓参りに行って合格をお願いしたりしていました。ところが結果は不合格。

息子にとってはその渾身の願掛けがかなわなかったことが恨めしかったのでしょう。でも私は息子を諭したのです。「神さまを恨むのではなくて、自分自身のこれまでの至らなさはどこだったのかを振り返るべきだ」ってことを。事実、反省すべき点はたくさんありましたから。「神さまを恨むべきじゃない」という思い。それは私の本当の気持ちであり、私自身の経験から日頃から思っていることでもあります。それはこれまで私がたどってきた人生をプレイバックするとよくわかります。

私が進学した高校には自由な校風がありました。でも、自分にはその校風がまったくなじめませんでした。入学早々「なんでこんな高校に来てしまったのだろう」といつもいつも後悔ばかりしていました。そして、小学校のときのような無気力な生徒に逆戻り。結局のところ、高校2年まではほとんど無気力で無為な学校生活を送ってしまいました。しかも、入学当初から第一外国語にドイツ語を選んでしまった私は、高校3年になってドイツ語ではなく英語で大学受験することを決心。まったく無謀な決断でした。

その結果、周りの同級生たちが医学部に合格していく中、私は当然の結果として浪人することになりました。翌年、なんとか理工系の大学に合格しました。あのような高校生生活を送っていたので、当然のことながら医学部には遠く及ばなかったのです。そのときの私は傲慢にも「なんであんな(医者に向かない)奴らが医学部に受かって自分は合格できないんだ。いい医者になる自信は誰にも負けないのに」と神さまを恨みました。自分のふがいなさと無謀さを棚に上げて「神さまのせい」にしていたのです。

ところが、その後、いろいろなことがあって、あるいはいろいろな人との出会いがあって、大学を卒業後にふたたび医学部を受験することに。そして、今があるのです。そうしたひとつひとつを振り返って思うのは、「神さまは願い事をかなえるか否かといったちっぽけなことを考えているのではない。この結果をふまえてその人がどう行動するのかを神さまは見守っているのだ」ということ。息子にも「願いがかなっても、かなわなくても、その後のおこないによって道はかわっていくんだよ」と言いました。

幸福の種類は人間の数だけあります。人があわれむような人生であっても、その人には幸せだったという場合だってあります。幸福な人生は、どこかにあって手に入れられるものではなく、ひとつひとつの積み重ねそものの総体を幸福な人生というんだと思っています。だから、有名大学に受かることそれ自体が幸福なのではなく、また、希望する仕事に就けなかったことが不幸なのではない。素敵なつれあいに恵まれたことそれ自体が幸福なのではなく、大病をしてしまったことが必ずしも不幸ではないということです。

どんな人にも守ってくれている神さまがいるんだと思います。そして、なんらかの出来事を通して、あるいは他人の言葉を通して語り掛けているのです。「こうした方がいいよ」と。視線を未来に向け、過去にとどまらないこと。こうした神さまの言葉に耳を傾けられるかどうか。今の息子に重ねて言えば、第一志望の高校の一次試験に合格したことにも意味があり、また、最終的に不合格になったことにも意味がある。そして、今の高校に通っていることにだって。きっとそのことを今の息子は実感していると思います。

人は「困ったときの神頼み」になりがちです。しかし、それでもいいのです。神さまはそんなささいなことをどうとも思っていないと思います。特定の「神さま」を信仰しているかどうかも無関係です。毎日手を合わせても、ときどきしか手を合わせなくても、「神さま」の存在を心のどこかにとどめながら、その声に耳を傾けようとすることが大切なのです。「神さま」がご先祖様であれ、なんであれ、「神さま、お願い」とは、神さまの言葉に耳を傾けることに他ならない。神さまは常に皆さんのそばにいるのです。

アメリカ滞在記(3)

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、またまたスパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学との共同研究のためにアメリカに行かなければならなくなったとき、実は家内はあまり乗り気ではありませんでした。英語を話せるわけではありませんでしたし、なにより海外旅行にも行ったことがなかったので不安だったのでしょう。だからといって家内を日本においていくわけにもいかず、家内を説得してなんとかアメリカ行きを納得させたのでした。

アメリカに行くことが決まると家内は英会話を勉強し始めました。ネイティブスピーカーの先生のいる英会話教室に通い、英会話の通信教育を受講して滞在中会話に困らないよう準備しようというわけです。私も英会話に困らなかったわけではありませんが、英語を話さなければならない状況に追い込まれなければいくら事前に勉強しても使いものにならないだろうと思ってさしたる準備はしませんでした。

その私の考えは間違っていませんでした。日本でやったことなどほとんど役に立たず、実際にアメリカ人を相手に冷汗をかきながら話しをし、苦労しながら英語でコミュニケーションをとらないと英会話は身に着かないことを実感しました。アメリカに渡っていつも英語を話さなければならくなった当初、私は寝言を英語で言っていたそうです。それだけ頭の中を英語が駆け巡っていたんだと思います。

当初は英会話に苦労するのではないかと心配していた家内も、買い物をするときのやり取りに困らなくなるとどんどんと英語が聞き取れるようになっていきました。日本に戻ってくるころには私よりも聞き取れるようになっていて、家内の上達ぶりは目を見張るものがありました。私はといえば、なんとか自分の言いたいことを言えるようになってはいたものの、聞き取りには最後まで苦労していました。

ミシガン大学があるアナーバーから自動車でナイアガラの滝まで旅行した時のことでした。出発したのはまだ陽の登らぬ早朝でしたが、猛烈な雷雨で真黒な雲の表面を稲妻が走り抜けるのをはじめて見て圧倒されました。アメリカの気象の変化はものすごくスケールが大きく、真夏になるとTVの天気予報では「Thunder storm alert(雷雨・竜巻予報)」をやっているほどです。

真夏の強い日差しが照り付けていたかと思っていたら突然真っ黒い雲が出てくるなんてことも珍しくありません。家内と真夏の日差しの中をスーパーに行ったのですが、買いものをしているうちに外がたちまち真っ暗になりゴルフボールほどの雹(ひょう)がボンボンふってきたことがありました。まるで地獄のようなすさまじい光景を目の当たりにして小さな子どもなどはその恐ろしさに泣いていました。

そんな雷雨の中、アナーバーからハイウェイを走ってデトロイトのダウンタウンを抜け、アメリカとカナダの国境へ向かいます。ミシガン大学の共同研究者から「デトロイトの危険なダウンタウンに迷い込まないように注意するんだぞ」と脅かされていたせいか、まわりの風景を楽しむこともできずにカナダ入りしました。万が一スラム街に入ってしまったらどうしよう・・・なんて。

それでも往路はトラブルもなく順調でした。ナイアガラに着くと轟音を立てて流れる滝のスケールの大きさに感動。夜のライトアップされた滝も美しく、それにもまして早朝の太陽に水しぶきがキラキラと輝く滝の美しさはまた格別でした。滝周辺のフラワーランドをまわったり、有名な花時計に立ち寄ったりと、楽しい旅を満喫してミシガンへの帰途に就きました。事件はそのときに起きました。

ミシガンに戻るため、カナダ側から国境に入った私たちの車をアメリカの国境警備隊の隊員が呼び止めました。ナイヤガラの旅を満喫してすっかりご機嫌だった私はこれからなにが起こるかもわからずにいました。私がにこやかに挨拶をするとその隊員はなにか質問をしてきました。その質問は英語のはずなのですが、なにを言っているのかわからない。どこかのなまりでもあったのか聞き取りにくかったのです。

なんども聞き直すうちになんとなく「おみやげをなにか買って来たのか?」と言っているような気がしてきました。私は「なんてフレンドリーな隊員なんだろう」と思いながら、「いいものが手に入ったよ(直訳)。メープルシロップでしょ、帽子でしょ、それと・・・」、にこやかにそう答えて品物を見せる私にその隊員は急に血相をかえて言いました。「車を降りるんだ。今すぐにだっ!」と。

突然のことだったので私は狼狽してしまいました。何がおこったのかさっぱりわからなかったからです。私は隊員に言われるがままに車を降りて事務室に「連行」されました。事務室に入り、机の前に座らされてなにがはじまるんだろうとまわりをきょろきょろしていると、私が得意げに見せた品物をもって隊員がやってきました。彼はあきれたような表情で私に事情を説明しはじめました。

改めて彼の話しをよく聞いてみると、どうやら「カナダ側で知らない人間からなにか荷物をあずからなかったか?」と質問していたらしいのです。その質問に私が「もちろん。メープルシロップでしょ、帽子おでしょ」なんて答えたものですから、私はてっきり麻薬の運び人かなにかと間違われたようです。私の聞き取り能力の悪さが招いたとんだ誤解というわけです。お恥ずかしい話しです。

アメリカ人の友人によれば、アメリカとカナダの国境の警備はそれでも結構ゆるいんだそうです。違法移民や麻薬の密輸が多いメキシコ国境での警備はもっと厳しいとのこと。このときのことがあったからかどうかはわかりませんが、その後、帰りのシカゴ空港でも麻薬の運び屋と疑われ、飛行機に持ち込もうとした荷物の取っ手の部分を中心に検査をされました。麻薬の運び屋には私のような顔が多いのでしょうか。

当時はまだアメリカの安全保障を根底から揺るがした「9.11テロ」の前。とはいえどの空港でも警備は結構厳重でしたから、今では相当厳しい警備がおこなわれているのでしょう。麻薬の運び屋と間違われた私などが今のアメリカに行ったらどうなってしまうんだろうと考えただけでも恐ろしくなります。つくづくなんの不安も持たずに生活できる日本に住んでいることをありがたく思います。

他の国に住み、その国を理解する。そしてその国の人々と交流を深めて友好関係を築く。その意味でも外国語を学ぶことは意義深いと思います。人と人とのきずな、国と国との信頼関係はコミュニケーションからはじまるんだということを痛感します。海外での生活を経験し、海外の文化を知ることで世界平和につながっていくのでしょう。お互いを理解することはとても大切です。

アメリカに行って私はアメリカの懐の広さを知りました。そして、アメリカが好きになりました。と同時に日本の歴史と文化のすばらしさにも改めて気が付いて日本人であることを今まで以上に誇りに思うようになりました。今、このときのことを子供たちに話して、子供たちにも是非海外での生活をさせたいと思っています。アメリカでの生活は私たち夫婦にとってはかけがえのない経験だったなぁと思います。

医者の専門性

この記事は平成27年1月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。それにしても、最近、スパムが多くて嫌になります。

 

「大病院指向」という言葉があります。これは「開業医よりも大病院を指向する患者の行動パターン」のことをいいます。そして、ここには「大病院に通院する必要がないにもかかわらず」という意味が秘められています。受診した方はおわかりだと思いますが、大病院の待合室はあふれんばかりの人です。その人たちすべてが大病院での治療やフォローアップが必要な人たちとはいえないのが現状です。本来、大病院への通院が必要な人たちが何時間も待たされたり、受診がほとんど一日がかりになる原因のひとつが「本来、大病院に通院する必要がないにもかかわらず大病院を受診・通院する人たち」というわけです。

この「大病院指向」はどうして生まれたのでしょう。もちろん、専門医のレベルが高いと思われているからですが、それ以上に私たち「プライマリ・ケア医(開業医)」のレベルが多くの患者にとって信頼に足るものではないと思われているという点も見逃せません。日本では「開業医だから」という言葉は「レベルの低い医者」というニュアンスをもっています。我々医者の世界でも「あいつは開業医に身を落とした」と言われることがあります。患者の側にも、あるいは医者の側においてですら「大病院の専門医」のレベルが高く、「開業医」のレベルが一段も二段も低く見られている部分があるのです。

でも、我々開業医の多くはそれまで働いていた大学病院などの大病院を退職して開業するパターンが多い。それなのに、「大病院指向」の人たちの中で、なぜ大病院の「有能」だった医者が開業したとたんに「能力の低い医者」になってしまうのでしょう。それには患者の深層心理があります。つまり、大病院にはさまざまな診療機器があって、たくさんの診療科もあり、おなじ病気を何人もの医師たちが見逃しのないように見張っていてくれる、という期待があるから。つまり、言い換えると、ひとりひとりの医者のレベルというよりも、システムとしての大病院の機能に期待しているからです。

私が大学にいたころ、ある先生が診療中に「(大学病院は混むから)私が出張している病院の外来に来ないか」と患者にいったところ、「私はこの病院に来ているのであって、先生の外来に来ているわけではない」といわれてショックを受けていました。これは極端な例としても、少なからずこのような傾向が「大病院指向」の人たちにはあります。もちろん、優れた「大病院の医師」に通院している患者もいるでしょう。そうした医師が開業してもその方は主治医についていくのかもしれませんし、そうした医師は「たかが開業医」とは言われないのかもしれません。

一方で、「開業医」と呼ばれる、いわゆるプライマリ・ケア医にも患者から不信感をもたれても仕方がない部分があります。診れもしない疾患を無責任に診てしまいがちなのもプライマリ・ケア医の陥りやすいところです。あるいは、特定の専門領域を標榜していることを言いわけにして、それ以外には興味も関心もありませんという医療をやっているプライマリ・ケア医もいます。本来、プライマリ・ケアを担っている以上、「専門」以外は興味がないなどということがあってはいけないと思いますが、「自分の範囲外のことは知りません。自分でどこか診てもらえるところに行ってくれ」というプライマリ・ケアが行われていることも残念ながら事実です。

あくまでも私の個人的な考えですが、プライマリ・ケア医の仕事は専門的な治療を必要としない安定した疾患を管理し、ふだんの日常生活によく見られる疾患を治療し、ごくまれに出現する重大疾患を見落とさず、専門医に紹介するタイミングを逸さないこと、だと思っています。普段、診ている患者の99%は問題のない患者です。しかし、その中に潜むごくいちぶの重大な疾患を見逃さない眼と勘をもっていること。それが私たちの重要な仕事であり、また、もっとも大切な役割だと思っています。

深さの専門性があるなら、広さを専門性とする医療もあります。プライマリ・ケア医にはそうした「広さの専門性」がなくてはいけないと思います。と同時に、診れる疾患とそうでない疾患をしっかりわきまえることも大切だと思います。周囲に医療機関がない医療過疎地ではそんな悠長なことをいってはいられませんが、首都圏の都市であれば専門の診療科に任せた方がいい場合はそうするべきです。自分の力量において診れるものは診る。その上で、専門医療機関に任せるべきケースを見落とさないこと。この要素がプライマリ・ケア医には不可欠です。

日本では標榜診療科目に制限がありません。内科医でなくとも開業するときは「内科」を標ぼうできる。それは医師の裁量権を侵すものとしてアンタッチャブルになっている部分です。しかし、医学部卒業後、ずっと内科をやってきた人間から言わせてもらえば、そんなに簡単に「内科」を標ぼうできるほど内科は浅くない。ただ血圧やコレステロールの薬を出していればいいってものじゃないのです。逆を考えてみればわかります。そもそも内科医が「外科」を標ぼうするなんてことはあり得ないし、患者自身もそんなことを望まないはず。それこそまわりに医療機関のない医療過疎地じゃないんですから。

私は「小児科」を標ぼうしていません。もちろん、風邪ぐらいのお子さんは診ます。でも、所詮は「なんちゃって小児科」です。お話しができて、コミュニケーションがとれるような年齢のお子さんじゃなければ責任をもって診ることはできません。どこにどういう症状があるのかが表現できない小児は、小児科の先生の「勘働き」が重要になることがあるのです。ですから、風邪ぐらい(それも内科医としての判断)でお話しのできる小児患者は診ますが、小児科受診がいいと思った場合は「小児科を単独で標ぼうしている医院(つまり、なんちゃって小児科じゃないところ)」を受診するようにおすすめしています。

とはいえ、患者にはどこの医者がどんな医者かなんてことはわからないと思います。その医者の経歴や職歴が詳細に開示されているとは限りませんから。内科医といいながらとても内科医とは思えない医師もいます。逆に、内科以外の医者なのに、その辺の内科医よりもよっぽど内科的な知識や経験をもっている医師もいます。そうなるとどう医師の専門性を考えればいいのか、素人にはわからないかもしれません。ただ、唯一いえることは、普段かかっていて「主治医としての責任感」をその医師に感じるか、が重要だということです。患者としての「勘」っていうのも結構あてになったりするものです。

「じゃあ、おまえはどうなんだ」と言われるかもしれません。胸に手を当ててみれば、正直、後ろめたくなる部分もあります。でも、日々、最新の医学情報を収集し、患者からも、他の医師からも後ろ指をさされない医療をしようと心がけています。私は患者さんにはどんどん「ドクターショッピング」をしてほしいと思っています。主治医を離れて別の医師の診療を受けてはじめて主治医の良さ・悪さがわかりますから。そして、そのことをできれば主治医にフィードバックしてほしい。そうすることで医師も進歩すると思います。「患者は医師の教科書」っていいますし。それでもし、主治医と方向性があわないと思ったら別の医者を探す。今はいくらでも医者がいますから。私もそんな緊張感をもって診療しているつもりです。

 

 

 

 

 

荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば開復手術しか治療法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。

健さんに想いは届いたか

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

夏、恒例の番組と言えば日本テレビの「愛は地球を救う 24時間テレビ」だと思います。私は「あまのじゃく」なので、あの手の番組が偽善に見えたり、「お涙ちょうだい」に見えたり、ひょっとすると社会的弱者がマスコミの商業主義に利用されているように見えたりするので、24時間テレビの放送をしているときはまったくといいほど日本テレビにチャンネルをあわせません。ですから家族が24時間テレビを見ていようものなら、「なんかさ~」とケチをつけては家族のひんしゅくを買っています。

ところが今年はその24時間テレビでちょっとしたハプニングがありました。「今年の24時間テレビは二宮君が硫黄島を訪れたときの様子を紹介した番組がよかった」と友人から聞いた家内はその番組をDVDに落としてもらいました。家内は夕べ、そのDVDをリビングで見ていたのですが、かねてから映画「硫黄島からの手紙」で二等兵を演じた二宮君の演技のうまさに感心していた私もつい一緒にその番組を見てしまいました。なるほど噂どおりよかったのですが、その番組のあとに放送した「岡田准一君が高倉健さんのゆかりの地と健さんと親交のあった人たちを尋ねる番組」にそのハプニングはおこりました。

なんと私が健さんを偲んで書いたメッセージがテレビ画面いっぱいに映し出されたのです。今年の夏、私たちは家族四人で北海道を旅行しました。久しぶりの北海道でした。この旅行の目的は昨年亡くなった大学の後輩の遺影にお線香をあげることと、同じく昨年亡くなった高倉健さんを偲んで夕張の「黄色いハンカチの撮影現場」に行くことでした。とくに後者は、映画「黄色いハンカチ」が大好きな小学校三年生の次男も、是非そのときに使われた車(マツダ ファミリア)を見てみたいといっていたこともあって、今回の旅行のメインイベントになっていました。

千歳空港についた私たちはさっそく「黄色いハンカチ」が撮影された夕張を訪れました。その撮影現場には映画で使用された建物が残っていて、そのひとつに入っていきました。そこには次男が見たいと言っていた映画に出てきた実際の車が展示されていました。また、その建物の内部にはメモ用紙ほどの黄色い付箋が壁と言わず、天井と言わず、何万枚・何十万枚という数が貼られていました。私も家族も、天国の健さんに自分の思いを伝えようと各自ひとこと付箋に書きました。私は「高倉健様 あなたの雄姿にどれだけ力付けられてきたかわかりません。安らかにお休みください」と書きました。あらかじめ考えていたわけではないのでなんだか気持ちがたかぶってしまっていい文章にはなりませんでしたが。

でも、そのときの私の付箋がでかでかとテレビ画面に映ったのです。そのとき、なんだか自分の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。あの付箋が私のものだとは私でなければわからなかったでしょう。私がいつものように「24時間テレビなんてさ~」とこの番組を見なかったら、誰もこのことを知ることなく終わっていたはずです。だから、テレビ画面に私の付箋が出てきたとき、私の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。もちろん健さんには会ったこともありませんし、健さんは私の存在すら知らないのですが、今回のハプニングは「人知れず頑張っている人が好きな健さん」が私を励ましてくれたように感じられてとてもうれしかったです。

11月で健さんが亡くなって1年になります。それを思い出すたびに、昨年、ニュースで健さんの訃報に接したときの虚無感がよみがえってきます。でも、健さんは言っているんだと思います。「人間には順番がある。今度は俺の代わりにみんなが次の世代になにかを引き継ぐ番だ」と。私はあまのじゃくですし、これといって取りえがあるわけでもありません。でも、そんな私にもなにか次の世代に引き継ぐべきものがあるのかもしれない。それがなにかは今はわかりません。ひょっとすると、それがわからないまま人生が終わってしまうのかもしれません。でも、次の世代が私の背中を見てなにかを感じてくれるような、そんな人間に近づけるよう頑張りたいと思います。うれしくて今晩も眠れそうにない。

※「高倉 健、永遠なれ」もご覧ください。

アメリカ滞在記(2)

この記事は平成28年5月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学は3つのキャンパス(北キャンパス、中央キャンパス、メディカルキャンパス)からできています。私たちが住んでいたのは北キャンパスにある大学の留学生用の宿舎でした。木造2階建ての決して大きくはない宿舎でしたが、私と家内のふたりでしたから広さという点ではまったく不満はありませんでした。家具も備え付けで冷暖房も完備され、週1回でしたが室内を掃除してくれるハウスキーパーもいました。周囲を森に囲まれ、自然がとても豊かでした。滞在中の生活はとても健康的で快適でした(それらのことは「年頭の所感」の回にも書きましたのでお読みください)。

宿舎の近くにはサッカーやバーベキューができる広場があって、お休みの日になると憩いの場になります。私たちの宿舎が家族用だったのか、人種の異なる入居者にはどの家族にも小さなお子さんがいるようでした。遊んでいる日本人の子どもなどは日本語と英語をチャンポンで話していて面白かったです。私たちが住んでいた部屋には朝になるといつも決まった時間に2匹のリスがやってきました。以前、この部屋に住んでいた留学生が餌付けでもしたんでしょうか。窓のすぐ近くまでやってきてはもの惜しそうに部屋の中を覗き込んでは巣に戻っていきました。

宿舎に出没するリスはそれなりに可愛かったのですが、大学のキャンパスにいるリスはとてつもなく大きく、野良猫かと思うほどです。しかも、駆け寄ろうとしたとたんにこちらを威嚇するようにスゴんでくるのにはびっくり。実はこのリス、Wolverineという凶暴なリスなのです。友人からは「中には狂犬病のリスがいるから注意しろ」と教えてもらってからは、キャンパスのリスがまるでスティッチか、はたまたグレムリンのように見えてきます。アメリカの大学構内の芝生で学生がのんびり横になって本を読んでいる姿をテレビなどでよく見かけますが、私にはとてもそんな気にはなれませんでした。

大学構内に出没するWolverineはミシガン大学のフットボールチームの名前にもなっています。ミシガン大学のWolverines は全米でも強豪のチームです。ミシガン大学は来年2017年に創立200周年を迎えるのですが、構内には歴史を感じる建物も多く、自然に囲まれた素晴らしい環境にあります。秋のシーズンに入ると、アナーバーはすっかりフットボール一色になって、ダウンタウンのはずれにあるフットボールスタジアムからはものすごい歓声が聴こえてくるようになります。その大学のマスコットともいうべきWolverineがあれほど大きく、凶暴とは思ってもみませんでした。

自然あふれる環境といえば聞こえはいいのですが、それは自然と共存しなければならないことを意味しています。その事件はナイアガラの滝まで3泊4日の旅行から帰ってきた日に起こりました。アメリカでの生活も残り少なくなり、記念になるからということで計画したものです。アナーバーからデトロイトを抜け、カナダとの国境を通過してナイヤガラに向かいました。出発当日の朝は猛烈な雷雨に見舞われましたが、カナダとの国境を抜けるころには雨が上がり、ナイアガラに到着したときには夏の日差しがもどる快晴に。その後も天気は恵まれ、長旅ではありましたがとても楽しい旅行でした。

ミシガンの宿舎にもどった私たちは、疲れもあって夕食もそこそこに床につくことにしました。ずっと車を運転していたせいか、眠いけど眠れない状態がしばらく続いてゴロゴロと寝返りを繰り返していました。そんなとき、私たちの寝室の扉の向こうから何かが繰り返しぶつかってくる音が聞こえてきました。それは夢ではなく、間違いなくなにかがドアにぶつかる音です。家内も目覚めてそれに気が付いたらしく、「あれ、なんの音?」と不安そうにつぶやきました。私がじっと耳を澄ましていると、「ねぇ、なにか見て来てよ」と家内。私はその音の正体を見極めるために寝室のドアに向かいました。

そっと扉をあけて照明をつけましたが、室内はいつも通りで床にもなにも落ちていません。部屋中を見まわしましたが、なにかが潜んでいる気配はありません。もしかするとネズミか何かが室内を駆け回っているんじゃないかと思った私は、怪しい場所をモップの柄でつついてみたりしましたがなにも出てくることはありませんでした。「なにもいなかったよ」とベットに入り、早く寝てしまおうと思いましたが、しばらくすると再び寝室の扉にぶつかる音が。「ちゃんと見て来てよ」と家内にせかされながら、もう一度室内を捜索に向かいましたがやはりなにも見つかりませんでした。

「やっぱりなにもいなかったよ」と言う私に、家内は「なにもいないはずないじゃない」ときっぱり言いました。ごもっともです。何度もあの音を聴かされれば、なにもいないはずがありません。私は仕方なくまた室内を見回りに。内心なにかが飛び出してくるんじゃないかとびくびくしながらでしたが。ところが、洗面所を見回ったときのことでした。ついに流し台の上に鳥のフンのようなものを見つけてしまったのです。直感的にこれを家内が知ったらきっと彼女は大騒ぎするだろうと思いました。そこで、このことは黙っておくことにしました。私はそのまま何事もなかったかのような振りをして寝室に戻ったのです。

「やっぱり見つからないから続きは明日にしようよ」。そう言って眠ろうとしたのですが、しばしの沈黙のあと、家内がいぶかしげに言いました。「なにかいたんでしょ?」。「す、するどいっ」と私は思いました。「い、いや。なにもいなかったよ」。「うそだっ。なにかいたんだ。わかるんだからね」と家内はすごい剣幕です。「なんでわかるのよ」とブツブツ言いながら、今度は天井を中心に小鳥が留まっていないか慎重に見てまわりました。家内も私の後ろから心配そうに見ています。そしてついに見つけたのです。室内の観葉植物の枝になにか黒っぽいものがぶら下がっているのを。

そうです。それはコウモリだったのです。胴体は決して大きくはありませんでしたが、翼を広げると30㎝にはなる大きさです。なんだろうと覗き込んだ私に向かって、突然そのコウモリが飛び始めたのです。あまりにもとっさのことだったので、私はびっくりしてしまい寝室に逃げ込もうときびすを返してダッシュ。コウモリの動きは不規則で俊敏です。それはまるで私の苦手なゴキブリのよう。私はあまりの恐ろしさに我を忘れて寝室に駆けていきました。ところが私の前を走って逃げていた家内は、私が部屋に入る前に扉を閉め、鍵をかけて閉じこもっってしまったのです。

「開けてくれぇっ!」。ドンドンと扉を叩きながら助けを求める私を家内は部屋に入れてくれません。ドアの向こうで家内は「コウモリを外に出してよ」と叫ぶばかりです。私はこの非情な仕打ちに我に返りました。そして、勇気を出してコウモリを駆除することにしました。それはまるで映画の中で謎の生物と戦うヒーローのような気分でした。結局、ビニール袋を使ってコウモリを外に逃がすことに成功しました。あとでわかったことですが、スイッチを切っていた浴室の換気扇からコウモリが室内に入り込んだようです。この辺はリスも多いが、コウモリも多いことを友人から聞きました。

それにしても、今は笑い話しになったこの事件ですが、ドアの外に締め出されたときは恐怖のドン底に落とされた気分でした。家内もパニックになって前後不覚におちいってしまったのでしょう。こんな事件があっても、その後、夫婦仲が悪くなることもなく、アメリカでの楽しい生活を完結できたのは我々夫婦のきずなの賜物だと思います。ちなみに、その後、札幌に戻った私は今度はカラスに襲われることになります。またもや黒い飛翔体からの襲撃。頭を鷲づかみにされながらからくも逃げましたが、ミシガンで扉の外に取り残されたあの恐怖感を思い出しました。でも、不思議と懐かしい思いがして不快ではありませんでした。そのくらいミシガンでの生活が楽しかったんだと思います。またあの頃に戻りたい。

アメリカ滞在記(3)」もご覧ください。

 

子どもたちへのエール

息子の高校受験が終わりました。第一志望の学校は、一次の学科試験には合格したものの二次の面接で不合格という残念な結果に終わりました。息子の学年から大学入試制度が大幅に変更されるため、考えることは皆同じで、今年は大学附属の高校が軒並み志願者を増やしました。しかも、どの学校も合格者がしぼられていました。息子が行きたかった高校も例外ではなく、志願者が増えたにもかかわらず合格者が大幅に減らされ、ボーダーラインだった(であろう)うちの息子がそのあおりを受けたということかもしれません。

第一志望の学校はダメだったとはいえ、第二志望の学校に合格できたのですから立派なものです。振り返ればいろいろありました。それまで通っていた私立の中学校をやめ、地元の公立中学に転校して本当に行きたい高校を受験するという決断をしたのが中二の夏休み直前。寮生活という慣れない環境になじめなかったのか、帰省して帰って来るたびに元気がなくなる息子のことが少し気になっていました。勉強の方もぱっとしていませんでしたし。ですから、息子の決意を聞かされたときは驚きませんでした。

息子から「学校をやめようと思うんだ」と送られてきたメールに私はなんの躊躇もなく「帰っておいで」と返事を送りました。正直にいって親として不安がなかったといえば嘘になりますが、「よくぞそこまで決心した」という誇らしい気持ちの方が強かったのです。リスクを負いながらも自分の夢を実現するために捲土重来を期す決断をしただけ成長したわけですし。私の目にはそうした息子の成長がまるで若かりしころの自分と重なるようでうれしかった。ですから、彼の決意に水を差す気持ちにはまったくなりませんでした。

そうとはいえ、彼なりに悩んだすえの決断だったのかもしれません。私は彼に「学校をやめると決めた以上は結果を残せるよう頑張りなさい」と釘を刺しました。道のりはそう楽なものではないということはわかっていました。なぜなら彼が目指した学校はそう簡単には合格できないところだったからです。もっと正確にいえば、そのときの成績ではとても合格できそうにない学校を彼は目指していたのです。しかし、当の本人は、そうした自分の現状を知ってか知らずか、重大な決断をしたわりには淡々としていました。

自宅に戻ってきた息子と私は、それ以後、まさに二人三脚ともいえるように勉強しました。それまで、春休みや夏休み、冬休みといった長期休暇を利用して学校の教科書の予習をやっていました。そのせいもあって私立中学校での数学と英語の成績はなんとかなっていました。また、前の学校では先取り授業をしていたので公立中学校の授業はまったく問題ありませんでした。しかし、高校入試のレベルということとなるとまだまだ十分ではありません。私たちは前の学校で使っていたテキストの総復習からはじめました。

心配だったのは息子の集中力でした。彼は集中力が持続しないのです。勉強中、ふと顔をのぞきこむとすぐに「あっちの世界」に行ってしまっていることがわかります。そんなとき、私はあえて強く叱ります。「そんなにやる気がないならもう教えないぞ。俺が教えなくなったらお前はもうお仕舞いだからなっ」。まるで脅し文句のような言葉を息子に吐きつけなければならないこともありました。でも息子にはこの言葉が一番こたえます。不満そうな顔をしながらではありましたが気を取りなおしたように机に向いました。

というのも息子には「前科」があるのです。それは中学受験のときのこと。彼はとある進学塾に通ってはいたものの、一番下のクラスで鳴かず飛ばずの状況が続いていました。そもそも私が息子に中学受験をさせようと思ったのは、もし結果として公立中学校に行くことになっても受験勉強で学んだことはきっと役に立つはずだと考えたからです。「なんとしても私立の中学校に」という気持ちはありませんでした。ですから、たとえ結果がどうであれ、受験勉強をするからにはしっかりやってほしかったのです。

しかし、当の息子にそのモチベーションはありませんでした。当時の彼にも「どうしても私立に」という強い気持ちもなく、「親に言われるから」やっていたのですから無理もありません。勉強には真剣さが感じられず、おまけに家内から10時には就寝するよう命じられていたのでは塾の宿題すらこなせるわけがない。結果として一番下のクラスに漂う潜水艦状態に。ついに私が息子の勉強を見ることになりました。仕事から帰ってきて簡単に夕食を済ませてから息子に勉強を教えるのです(10時就寝厳守)。

私自身、大変は大変でした。仕事で疲れて帰ってきてから家庭教師をするのですから。しかし、苦労の甲斐があって、比較的短い期間で塾でのクラスは上がっていきました。もう少しで一番いいクラスに入れそうになったとき、ついに私の堪忍袋の緒が切れてしまいました。息子が次第に勉強に手を抜くようになったからです。教わっているからこそ成績が上がっているのに、自分の実力と勘違いしたからかもしれません。いくら注意しても一向に息子の態度が変わりません。ついに私は彼の勉強から完全に手を引きました。

息子の成績はどんどん落ちていきました。それでも私は再び息子の勉強に手を貸そうとしませんでした。息子は意地を張ったように「公立中学には絶対に行かない」といいました。ところが、彼の勉強は私の目から見てもあまり実にならない非効率的なもの。ついに息子は塾の成績を上げることができないまま受験に突入しました。私は「公立に行きたくないなら、受かる学校を受験すべきだ」と助言しましたが、彼は私の助言にもいっさい耳を貸しませんでした。その結果、合格したのはたった一校。それが前の私立中学でした。

こうした中学受験のときの体験が息子の中に残っているのでしょう。なにせ中学受験が私が息子に忠告していたとおりに展開していったのですから。私には、自分が、勉強にまったく興味のなかった小学校時代からここまで這い上がってきたという自負があります。また、できない人間なりの勉強のコツも知っています。中学受験での息子の経験をふまえ、高校受験を迎える彼にまず言ったことは、「俺の言うとおりに勉強しろ」ということでした。今回の彼はその忠告にしたがって勉強をしようと努力していました。

私の指示やアドバイスにしたがって勉強を始めると、息子の成績はどんどんあがっていきました。進学塾の模擬試験もそれこそ右肩上がりでした。塾の先生も感心するほどの変化でした。学校の成績もまた同じで、三教科だけでいえば彼はいつも学年の最上位にいるほどになりました(結局は学年一位にはなれませんでしたが)。さすがに私自身が苦手な国語の読解問題を教えることはできませんでしたが、国文法や文学史などは私もいっしょに勉強するなどして、暗記させたり、問題を解かせたりしていました。

入試直前、息子が一番行きたかった高校のプレ模試がありました。彼はそこでもそれなりにいい成績をおさめました。私も息子も「もしかして合格できるかも」という自信のようなものを持ちました。そして期待感一杯で臨んだ入試。しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。一次試験の学力試験に合格して喜んだのもつかの間、二次試験の面接でみごとに振られてしまいました。期待が大きかった分、へこみ方も大きかったのですが、でも、一次合格だけでも立派なもの。ここまで頑張った息子を褒めてやりたいです。

息子は今だにあきらめがつかない様子です。もうひと息というところまでいったのですから当然かもしれません。試験の合否が確定し、塾に電話をかけて報告している息子を見て、この一年でずいぶんと成長したと思いました。希望校の不合格が確定して落胆しているだろうに、電話口で先生に「一年間お世話になりました」とお礼をいっている息子の背中を見ていたら私の目から涙がこぼれてきました。希望校には落ちてしまったけれど、息子はなにものにも代えがたい貴重な経験をしたんだと確信しました。

先日、息子が学校で作った扇子を渡されました。卒業にあたって制作したものなのでしょう。「あの学校以外は受験したくない」と言わしめたほど彼が行きたかった学校のシンボルカラーできれいに色塗りされた扇子でした。その表側を見ると大きな字で「不屈の魂」と書かれていました。その四文字には息子の確かな決意が感じられるようでした。そして、両親になにかひと言添えなさいと先生に指示されたのか、裏側には私たちへのメッセージが次のように書かれていました。

*************** 以下、彼のメッセージ

いろいろあった中学校生活が終わりました。
K学園をやめてJ高を受験するという自分勝手な決断を後押ししてくれたことには感謝しかありません。
結局、約束は果たせなかったけど、今回の高校受験で僕は大いに成長できました。
大学受験でリベンジして次こそ親孝行がしたいです。
これからもよろしくおねがいします。
僕も、日々精進できるように努力します。

*************** 以上、原文のママ

この扇子を「ほら、これもらったよ」と家内から渡された時、私はグっときてしまいました。そして、なぜかあたまの中で Beatlesの歌 「Let it be」 がながれ、映画のエンドロールが回っているときのような気持ちになりました。私と息子の高校受験がこれで終わったんだと感じたのでしょう。と同時に、私自身が、劣等生だった小学校時代から奇跡的にここまで這い上がってきた「不屈の魂」を息子も確実に受け継いでくれているようでうれしかったのだと思います。一歩下がって二歩進む。この精神こそ大切なのです。

人生は決して順風満帆とはかぎりませんが、不遇なときほど「不屈の精神」を発揮して乗り切ってほしいと思います。人生はこれから。頑張れ!

心に残る患者(5)

実は、今、ちょっとへこんでます。

それは先日往診した患者が亡くなったからです。その患者さんは当院が開院したころから通って下さった92歳の方。膝を悪くして歩くのもようやくという状況にも関わらず、いつもご主人とお元気な顔を外来で見せてくれていました。膝の悪いのを除けばいつもお元気そうで、「この分だと軽く100歳までいけそうですね」などと笑いあったのがついこの間でした。ですから、突然の訃報は主治医をしていた私にとってはショックなことには違いないのですが、しかしそれが私が往診をした直後だったのでなおさらでした。

ご主人から「お母さんが急に歩けなくなった。足が動かないようなので往診してほしい」と依頼を受けたのは午前中の診療が終わろうとしているころのこと。数日前に訪問診療をしている別の患者でも、同じように「歩けなくなった」という訴えのあとに高熱が出て、結局インフルエンザだったというケースを経験していた私はすぐに「インフルエンザ」を疑いました。しかもご主人自身が数日前からインフルエンザの抗ウィルス薬を飲んでいたこともあって「インフルエンザだろう」という予断をもってしまったのです。

その日は午前中の診療後にクリニックで新薬の説明会が開かれることになっていました。さしたる根拠もないまま緊急性がないと即断してしまった私は、ご主人に「午後1時過ぎにうかがうます」と告げて帰ってもらいました。しかし、たまたま診療待ちの患者がいなかったことと、なんとなく「早く行った方がいいかも」と胸騒ぎのような気持ちがしたものですから(こういう胸騒ぎがえてして当たるのです)、新薬の説明会が多少遅れてもいいから患者さんのご自宅に行ってみようと思ったのでした。

ご自宅まで行って呼び鈴を押すとご主人がすぐに出てこられました。部屋にいくと患者さんが畳の上に横になっていて、体の上に布団がかけれていました。呼びかけるとすぐに返事が返ってきました。いつもよりも少し元気がなさそうな声でしたが、構語障害(ろれつが回らないこと)はなさそうでした。状況を簡単にうかがうと、「トイレに行きたくなって下痢をした。そして、ちょっと吐いたら足が動かなくなった」というのです。正直、緊急性がなさそうな様子に少しホッとしたのでした。

ひとときのインフルエンザの猛威をおさまりましたが、胃腸炎を合併しているインフルエンザの患者も何人か診ていたこともあり、「やっぱりご主人のインフルエンザがうつったかな?」と思っていました。そして、血圧や脈拍、経皮的酸素飽和度を測りましたが、いつもよりは血圧が低めだった以外に大きな異常はありませんでした。聴診でも肺や心臓の雑音はなく、脈の不整や促迫もありません。「仰向けになれますか」と声をかけると自力で仰向けになりました。手足もゆっくりながら問題なく動かせました。

布団から出ている手を握ってみると冷たかったのですが、「気持ち悪いですか?」とたずねると、「今は吐き気はない」といいます。私はこの時点でご主人に「インフルエンザかもしれません。これから高熱がでてくるサインかも」とお話しして、「救急車を呼んで詳しく調べてみますか?」とたずねました。ご主人は困ったように「救急車はどうも・・・」と下を向かれるので、「それなら3時ぐらいまで少し様子をみましょう。3時にまたクリニックの方に電話してください」と言ってクリニックに戻って来ました。

クリニックでは予定通り薬の説明会が開かれ、遅くなったお昼ご飯を食べて午後の診療がはじまるころに娘さんが来院されました。「救急車を呼ばなくて大丈夫だろうか」というご相談でした。私は「これから高熱が出てくる前兆かもしれないのでもう少し様子をみてはどうか」とお話ししました。しかし、お嬢さんはなにか不安げで、救急病院に受診させたい様子でした。そこで「原因は検査をしなければわからないので病院を受診してもいいと思いますがご紹介しますか?」と言いました。お嬢さんは安心したようでした。

ところが、タイミングが悪いことに、いつも紹介している病院からは「救急医が手術に入ってしまった。内科も患者が多いので・・・」と断られてしまいました。要するに、私の紹介状からは「緊急性は感じられない」ということだったのです。そこでお嬢さんには、「紹介状はもう書きましたから、救急車を呼んで、救急隊に収容先を見つけてもらってください」と頼みました。これは「たらい回し事件」の影響か、最近は我々が病院に直接頼むよりも、救急隊経由の方が病院は急患を受け入れてくれることが多いのです。

救急車が来たのは、くしくも私が様子を見ましょうといった「午後3時」を過ぎた頃でした。あれから3時間以上がたっていたのです。このとき私の心の中では、紹介先の病院から「検査をしてみたけど、ただのインフルエンザだった(大騒ぎした割には大した緊急性のない患者じゃないか)」と書かれた返事がくるのではないかと思っていました。そうであってほしいような、そうであってほしくないような複雑な気持ちでした。しかし、救急車のサイレンが聴こえなくなってからは患者さんのことはすっかり忘れていました。

二日後、そのご主人が「いったん下がった熱がふたたび高熱になった」とクリニックにやってきました。ご主人も超高齢でしたから、初診時の高熱の時点でインフルエンザの抗ウィルス薬を処方してあります。ですが、下がって来た体温がふたたび急に高熱になったとなると「インフルエンザ後肺炎」を心配しなければなりません。この肺炎が一番心配なのです。でも胸部レントゲン写真をとりましたが明らかな陰影はありませんでした。抗生物質を追加して様子をみようと思ったとき、ふと奥さまのことを思い出しました。

「ところで奥さまはその後どうされましたか?」。思い出したように私がおききすると、付き添ってこられたお嬢様が「母はあれからすぐに亡くなりました」と。私はびっくり。私はインフルエンザ後肺炎かもしれないご主人のことをすっかり忘れて「ええ、ほんとですかっ!」と声をあげてしまいました。しかも「腹部大動脈破裂だったようです」との言葉に二度びっくり。往診した私の頭の中にはそんな病態などまったくなかったからです。驚きと同時になんともいえない無力感がそのときの私をうちのめしていました。

ご主人とお嬢さんに私は謝りました。「まったく想定もしていませんでした。申し訳ありません」と。お嬢さんは「でも、早く見つかったとしても手術に耐えられたかどうかわかりませんから」と言ってくださいましたが、結果的に見逃がしたことには違いなく、また、往診にうかがった時点で救急車を要請していたらもっと違う展開になっていたのではないかと思うとなんともいえない後悔の念と申し訳なさでいっぱいになりました。予断をもって対応してしまったのではないかという思いがさらに自分を苦しめたのです。

結局、ご主人も「インフルエンザ後肺炎」で病院に入院。レントゲン写真でははっきりしなかった影が胸部CTで見つかったとのこと。つくづくあのまま抗生物質を処方して自宅で様子を見てもらわなくてよかったと思いました。おそらく奥さまの件がなければそうしていたかもしれません。咳嗽もそうひどくはなく、聴診所見でもレントゲン写真でも肺炎を思わせる明らかな異常はなかったのですから。つくづく診断とは難しいものです。と同時に、自分のふがいなさになんだかちょっと自信をなくします。

ご家族には「仕方ないことですから気にしないでください」「苦しまずに逝けたのでよかったです」と慰められてはみても、そうしてもらえばもらうほど、往診にいっておきながら見逃してしまったというか、手際よく対応できなかったことにへこんでしまいます。と同時に、きちんと検査ができない往診の難しさも思い知らされます。いつもの様子との違いに敏感なご家族の不安を、医療者が共有できないとこういうことが起こるんだということを改めて痛感します。

最近、救急車の使用については「重症の場合」という制限をかけるべきだという意見がしばしばでてきます。自分で受診できるのにタクシーのように利用するのはもちろん論外です。でも、「重症かどうか」ということを誰が決めるのでしょう。往診した医者でもない、電話口の向こうにいる救急隊員が決めるのでしょうか。そして、その決定の責任は誰がとるのでしょう。救急隊員なんでしょうか。そもそも救急車の要請を遠慮して患者に不利益をもたらすようなことにならないという保証があるでしょうか。

診断はときとして難しい場合があります。いや、診断は難しいものなのです。それなりの経験のある医者ですらそうなのに、緊急性の判断を素人がするのはとても危険です。そう考えると、救急車を要請しようかどうかについて腰がひけてしまうことは決していいことではないと思います。「いつもと違う」「なんとなく心配だ」。こうした家族の直感というものを軽視すべきではないのです。救急車で病院に行ったけれどなんでもなかったでもいいではありませんか。私は今回の痛い経験でそのことを学びました。

自分を信じて通院してきてくれた患者を、主治医が不本意に感じることで亡くすこのはとても辛いことです。ただ、辛いことながらも、今回のことは「私に別れを告げるために私を往診で呼んでくれたのかも」という思えなくもない。であるならもっと明確なかたちでお別れが言いたかったと思います。主治医としてやるべきことはやったといえる最期であってほしかった。だからこそ今回の苦い経験は悔やまれることばかりなのです。いずれせねよ、しばらくはこのショックから立ち直れそうにありません。

再びインフルエンザ

ひとときのインフルエンザの勢いも落ち着きはじめ、患者の数もだいぶ少なくなってきました。とはいえ、これまでの流行では、B型が70%、A型が20%、残りがA・B混合型というようにB型が主流だったため、今後は従来のようなA型の流行があるかもしれませんので注意が必要です。例年にないこの流行の形態は、おそらくB型が比較軽症であったため、患者も医者も普通の風邪と判断して感染を広めたのはないかと思います。

この流行の拡大と軽症例の多さが診療の現場が混乱する原因にもなりました。わずかばかりの風邪症状があり、体温も平熱にすぎない患者が「TVで『隠れインフル』っていうのがあるといっていたので検査をしてください」と受診してきたり、きわめて軽症のインフルエンザの患者までもが抗ウィルス薬を求めてきたりと、必ずしも適切な医療とはいえない診療をいつになく求められたのも今年の特徴だといえるでしょう。

インフルエンザ検査や抗ウィルス薬投与の適否については、我が家でも私と家内との論争の原因にしばしばなっていました。検査や抗ウィルス薬を安易に(というとまた怒られるのですが)考えている家内と、必要性に応じて検査や投薬を考えるべきとする私とはまったく議論がかみあいません。こうした光景は当院の外来でもしばしば見られ、私の説明に不満げに帰っていく患者が少なからずいます。

こうした現状をふまえ、私が皆さんにいいたいことを、想定問答のような形でご説明したいと思います。もちろん考え方にはいろいろあって、私の言い分がすべて正しいと主張するつもりもありません。また、私の考えに賛同できない方たちを全否定するつもりもありません。ですが、私の言いたいことを通じて、皆さんにもこの問題を冷静に考えていただければ幸いです。

   【私の基本的スタンス】

○検査や投薬は「実施すべきケース」「実施してもいいケース」および「実施すべきではないケー
 ス」で考えるべきである

○医療に関しては「医学的に正しいかどうか」という観点とともに「医療費の支出として適切かど
 うか」という観点も考慮すべき

○インフルエンザが流行する前にすべての国民はワクチンを接種し、「インフルエンザに感染しに
 くい環境を作る」とともに「かかっても軽症ですみ、抗ウィルス薬を必要としない状況を作るこ
 と」が重要である

○インフルエンザはすべてがおそろしい結果をもたらすわけではなく、「重症例をはやく見つけて
 対処すること」が重要であり、「軽症例は安静を基本として、適宜、症状を薬で緩和すること」
   でいいと認識すべき

○インフルエンザの流行シーズンに入った場合は、「急に高熱となったケース」や「高熱にはなっ
 ていなくても、強い関節痛や悪寒、頭痛をともなう発熱のケース」は検査の有無をとわずインフ
 ルエンザとして学校や仕事を休んで自宅安静あるいは経過観察とするべき

これらのことをこれから具体的な想定問答として記述してみたいと思います。こうしたやりとりは当院の診察室でも同じようになることがあります。このやりとりの結末は残念ながらいつもunhappyです。ただし、ここでの想定問答では症状もなく「念のために検査」といって来院したケースを想定しています。また、当院ですべてのインフルエンザ検査・抗ウィルス薬の投与をお断りしているわけではありません。

念のために申し上げておきますが、インフルエンザの検査や抗ウィルス薬を希望される方は私に伝えてください。適宜、それぞれの患者の状況に応じて検査・投薬の適否を考え、「検査が必要な場合」はもちろん、「検査をしてもいい場合」であれば検査も投薬もご希望に応じておこなっています。

 

*****************以下、想定問答

患者:TVで「『隠れインフル』っていうのがある」といっていたので検査してください。

医師:でも、あなたは今、平熱ですよ。検査、必要ないと思いますけど。

患者:うちの夫が先日「B型インフル」って診断されたので感染していないかと思って。

医師:まだ検査してもでてきてない可能性が高いですよ。

患者:夫は熱が出てなくてもインフルエンザだったんです。

医師:それでなぜ検査をしたのかわかりませんが、なにかお辛い症状でもあったんですか?

患者:ちょっと頭痛が。でも今は元気ですけど。

医師:ですよね。ご主人は軽症だったんですよね。

患者:インフルエンザの薬をもらいましたからすぐによくなったんです。

医師:えっ?熱がなくて軽症だったのにインフルエンザの薬をもらったんですか?

患者:はい。だって早くよくなりたかったんで。出かけなきゃいけない用事もあったし。

医師:もしかして、薬飲んですぐに外出されたんですか?

患者:はい。薬を飲んだ翌日には平熱になって元気になったから。

医師:インフルエンザのときは解熱してもしばらくは人に移す可能性があるので外出はだめですよ。

患者:それじゃインフルエンザの薬を使う意味がないじゃないですか。

医師:インフルエンザの薬を飲む目的は「熱が出ている期間を1日程度短縮するため」なんです。

患者:よくなってるじゃないですか。

医師:そうです。改善はします。高熱の期間は短縮しますから。でも、しばらくは人にうつすんです。

患者:うちの夫は熱がなかった場合でもうつすんですか。

医師:だから「必要だったんでしょうか?」と申し上げたんです。自宅でしばらく安静にして・・・

患者:でも、普段のように元気でしたよ。

医師:いや、自宅安静の目的はご本人の療養という意味と他人に移さないという意味があるんです。

患者:うちの孫もインフルになったけど、すぐに熱がさがって元気になったので学校へ行ったけど。

医師:それが学校でインフルエンザを広めてしまう原因のひとつなんです。

患者:うちの嫁も働いているし、孫もゲームばっかりやってるから。

医師:ご家庭によって事情はあるでしょうが、やはり感染を広めないという意味では・・・。

患者:じゃあ、私の検査もインフルエンザを広げないために早めにやった方がいいんじゃない?

医師:いや、この検査は「インフルであることを確認する検査」なんです。

患者:「確認検査」?

医師:そう。陽性であれば「インフルです」って言えますが、陰性でも「違います」とは言えない。

患者:それじゃあ意味ないじゃない。

医師:意味はあります。インフルエンザだと確認はできますから。

患者:なら、今検査してもいいじゃないですか?

医師:確認だからこそ、怪しげなときにやるべきなのです。今のあなたは違います。

患者:とりあえず今やっておくっていうのはダメですか?もしかしてってこともあるし。

医師:今回が陰性でも、明日に陽性になるかもしれないし、あさってかもしれません。

患者:そのときにまたやればいいんじゃない。

医師:そんなことをしていたら医療費がもたないし、そもそも保険組合がそれを認めないのです。

患者:早期発見、早期治療は必要ないってこと?

医師:風邪やインフルエンザに関していえば「重症化を防ぐこと」が重要なのです。

患者:早期に治療すれば重症化だって防げるじゃないですか。

医師:それはそうですが、風邪やインフルエンザは本来なにもしなくても治る病気です。

患者:治療はいらないってこと?

医師:本来はそうです。でも、なかには重症化するケースがあり、その場合は早期発見。早期治療。

患者:なら、なんでインフルエンザの薬があるんですか。

医師:このまま放置していたら重症化しそうな人や高熱で辛そうな人のための薬として考えてください。

患者:検査もそうですか?

医師:明らかにインフルエンザと思われる人は検査をしなくてもいいってことになっています。

患者:検査しないで「インフルエンザ」って診断してもいいってこと?

医師:だって検査が「陰性」だからといって「インフルじゃない」って言えないんですから。

患者:それなら検査はまったく不要ってわけ?

医師:いえ、たとえば肺炎を思わせる患者が来たとき、肺炎治療を優先させるか、インフル治療を併用する
   かの判断にはとても重要です。そこまでいわないにせよ、怪しげなケースでれば検査はします。

患者:私、職場の方からも「検査をやってこい」っていわれるんですよ。

医師:インフルエンザが疑われるケースであっても検査が陰性なら仕事にいってもいいのですか?インフル
   エンザかもしれないと思ったら仕事はやはり休むべきでしょう。検査なんて補助的なものですし。

患者:でも、「A型?B型?」って聞かれるし。

医師:型なんてわかっても対応はかわりません。インフルエンザなんだし。ワクチンを打ってなければ重症
なることだってあるし。

患者:いずれにしても、今の私には検査はやってもらえないってことでしょうか。

医師:必要性はないですよ。あなたのようなケース全員に検査をやっていたら医療費が大変ですから。

患者:患者の命よりも医療費の方が重要ってことですね。

医師:いえ、そういう意味じゃありません。誤解しないでください。

患者:でも、そう聞こえますよ。

医師:つまり、この検査をしないからといって今のあなたに大きな不利益はないが、あなたと同じケース全
   員にこの検査をやった場合の医療費の無駄は計り知れないってことです。

患者:・・・・。

医師:もちろん、今後、あなたになんらかの症状が出てきてインフルエンザであることを確認する必要がで
   てきたらちゃんと検査します。うちも検査すればそれだけもうかります。検査をするのが嫌で言って
   いるのではないのです。決して安い検査ではなく、あなたも無駄をお金を出さないで済むし。

患者:自分の財布から出すので心配いただかなくても結構ですよ。

医師:あなたの財布からも三割は支払われますが、残りの七割は医療費から支払われるんです。

患者:わかりました。別のクリニックでやってもらいますからもう結構です。

 

ほら、やっぱりunhappyだったでしょ。でも、実際はこうはいきません。インフルエンザ検査や抗ウィルス薬を希望される方についてはそのご希望を尊重しながらも、本当に必要かどうかに関して疑問に思う場合はその必要性は説明した上で「どうしても」という場合は検査もしますし、投薬もします。ただし、「してもいいケース」に関してです。「すべきではないケース」に関しては当然のことですがお断りしていますので悪しからず。医療と医療のバランスって難しいですよね。

でも、誰かが言ってました。「そんな固いこといってないで、言われるがままに検査をし、抗ウィルス薬を処方していれば患者は満足するし、医療機関や薬局、製薬会社ももうかる。すべてがハッピーじゃないか」って。私が「でも医療費が・・・」と言いかけたら「それも結局は国民の負担になるんだしいいんじゃないの」とも。しかし、それで医療保険制度が崩壊してしまったら元も子もないって考えないのでしょうか。きっと彼は言うでしょうね。「そんなこといち医療機関のひとりの医者が心配することじゃない。それは偉い政治家が考えること」ってね。う~ん、あたまの固い自分には実に悩ましい・・・。