白馬の女(ひと)

ひとことで言うと、私は正義感が強い方だと思います。これは私の父親が警察官だったことが影響しているのかも知れませんが、私の長男の性格を見ていると同じく「正義感が強い(強すぎる?)」と感じることがあります。もしかするとこれは環境によって形成されたものではなく、遺伝的なものなのかもしれません。しかし、「正義感が強い」のも善し悪しで、「正義感が強すぎる」とときとして「まわりの空気を読めない」ということになり周囲の人たちに迷惑をかけます。

今でも思い出すのは、研修先の病院の採用試験を受けに行った日のこと。受験を終えて札幌に帰ろうと電車に乗っているとき、吊革につかまっていた私のななめ前に若い女性が座っていました。当初はそんなことにも気が付かなかったのですが、ふと私は電車の中の雰囲気が微妙に変化するのを感じました。というのも隣の車両から大声を出しながら移動してくる酔っ払いがいたからです。車内の人たちは一様にそんなことに気付いていないかのように装っていますが、みんなの意識がその男に集中しているのがよくわかりました。

はじめは私も同じように知らぬふりをしていたのですが、こういうときに限ってその酔っ払いは私の斜め前に座る女性を見るやいなや絡み始めました。両隣には男性が座っていましたが見て見ぬふりをしています。私は一瞬戸惑いましたが、どうしようかと思案するまでもなくその酔っ払いに声をかけていました。「私の連れなのでやめてもらえませんか」。その酔っ払いは不敵な笑みを浮かべながら私の方をにらんで言いました。「なにを。おまえの女って証拠あんのかよ」。そのあとどう受け答えしたのかよく覚えていないのですが、結局、その男に「次の駅で降りろ」と言われるままに電車を降りました。

駅で降りると酔っ払いは私の襟をつかんですごみました。私の頭の中は意外と冷静だったのですが、もしこの男が私に手を出してきたときにどう対処するかを考えていました。こぶしがこっちからきたらこうかわして、けりが来そうだったらこう防いで・・・。私がなされるままにしていると男はますます興奮してきて、今にも手をあげそうな勢いです。いよいよ取っ組み合いをしなければならないのか。そう思ったとき、近くで女性の声がしました。「あんた、なにやってるのよ」。そう言いながら、もみ合っている私たちのそばにひとりの中年の女性が近寄ってきました。酔っ払いは少し驚いたように振り返りました。

「昼間っから酔っぱらってるんじゃないよ。私は錦糸町で30年ホステスをやってるけど、あんたみたいなみっともない男は見たことないよ」。すごい剣幕で男をまくし立てています。あっけにとられたようにその男はつかんでいた私の襟を離すとなにやら捨て台詞を残して消えてしまいました。私は女性にお礼をいいました。「助けていただいてありがとうございました」。気風(きっぷ)のよいその女性は「あんな奴、まともに相手をしない方がいいよ。どうやら女の子を助けようとしたらしいけど、その子、どっか行っちゃったね」と私に微笑むと風のように去っていきました。

私はその中年の女性の後ろ姿を見送りながらとても爽やかな気持ちになりました。まるで白馬に乗った王子さま(王女さま)に出会ったような気分でした。しかも、私が女の子を助けようとしたことを知っていたということは、おそらく電車の中での私たちのやり取りを見ていたのかもしれません。電車から引きづりおろされるように連れていかれる私が気になって一緒に降りてくれたんだと思います。だって、錦糸町はそのまま電車に乗ってたった数駅のところなのですから。そのときはそんなことも気が付かなかったので、お礼をひとこと言うぐらいのことしかできませんでした。それにしても実にかっこいい女性でした。

いちじが万事、こんな風によく考えもせず行動してしまうのでしばしば「火傷」をします。それも私の「正義感」のなせる業なんですが、目の前で起こっている緊急事態に誰もがだんまりを決めているとどうしても手が出てしまう(口を出してしまう)のです。うちの息子もまるでそうで、誰も引き受けない役回りがあると自分から手をあげてしまう。でも実はその役回りをやりたいわけでもなく、彼にその役割を満足に果たせるわけもない、なんてことがよくあります。そんなとき、「ああ俺に似ちまったなぁ」って思うんです。ちょっぴりうれしいですけど。

私のこうした性格が災いして、上司と衝突したりして職場をやめることになったことも一度や二度ではありません。このときの顛末には小説になるような出来事があったりして、まとめれば一冊の小説が書けるくらいです。しかも、ずいぶんと面白いものになるだろうと思います。きっとそんなことをしたら、以前の職場の上司たちはみんな真っ青になることばかりですけど。でも、安心してください。残念ながら私には文才がないので小説なんて書けませんから。せめてこのブログで紹介する程度ですよ(当事者しか個人が特定できないようにしますから大丈夫です)。

医者になる

よく、「なぜ医者になったのですのですか?」と聞かれることがあります。直接的には小学校に入学するときに親戚の人からお祝いにもらった「野口英世」の伝記がきっかけです。当時はまだ字も満足に読めませんでしたから、「伝記を読んだ」というよりも「本の挿絵を見た」というべきかもしれません。貧しさの中で重いやけどを負うという恵まれない境遇から世界的な医学者にまで登りつめた偉人伝は小学生の私に強烈な印象をあたえたのでしょう。

ここまではよくある話しです。でも、私の場合、ここからが他の人とは違います。「野口英世」が「医者になりたい」と思うきっかけになったとはいえ、それから猛勉強をして医者になったというわけではないからです。小学校のころは無気力な子供でした。なんとなく学校には通っていましたが、授業では先生の話しもろくすぽ聞いていませんでしたし、板書をノートすることもない。おまけに与えられた宿題すらやろうとしないような、勉強にはまるで縁のない子供だったのです。

世間では「ろくに勉強もしなかったのにテストの成績はよかった」なんて自慢話しもよく耳にしますが、現実はそんなに甘くはありません。勉強もせず、宿題すらやってこないのにテストの点数がいいはずがありません。いつも低空飛行の結果を家に持って帰ることはさすがの私も気が重いことでしたが、さりとて点数の悪さに奮起するなんてこともありませんでした。両親も「しょうがないねぇ」とあきれた表情でテスト用紙を見ていましたが、怒るでもなく、励ますでもなく、なかば諦めていたのかも知れません。

今でも覚えているのは、小学校の卒業式のこと。同級生に超有名私立中学(K成中学というところ)に合格した子がいました。彼が卒業式の当日に何をしていたと思いますか?なんと中学で使う数学の教科書を予習していたのです。彼が熱心に勉強している教科書をのぞいて私は驚きました。だって「ゼロより小さな数」があったからです。マイナスの概念がほとんどなかった当時の私にとって、そんな数を勉強している彼は雲の上の人。さすがK成中学は違うなぁと子供ながらに感心したものです。

劣等生とまではいかなかったにしろ、いつも低空飛行していた私がその後医学部に入学し、今こうして医者をしているのは不思議な気がします。私以上に当時の私を知っている人はびっくりしているのではないでしょうか(私の親でさえもそうですから)。医学部時代の私の同級生たちは皆小学校のころから常に優等生で、私のような小学校時代を過ごした人はまずいないと思います。彼らのほとんどは名門高校のトップクラスの生徒たちですし、私にとっては多少なりとも別世界の人たちなのでしょう。

ただ、医学部に入ってきた連中が全員「医者になりたくて、あるいは医学を学びたくて入学してきた」とは限りません。「成績がよかったので医学部を受験した」と思われる人が少なからずいます。世の中の風潮として「テストの成績がいい」と「医学部をめざす」という傾向にあります。「テストの成績がいい」ということは必ずしも「地あたまがいい(天才的頭脳を持っている)」ということではありませんが、逆に「地あたまがいい人」はおおむね「テストの成績がいい」という傾向はあります。

いつだったか、数学オリンピックや物理オリンピックで金メダルをとってきた東大や京大の医学生がテレビ番組で数学や物理の難問に挑戦していました。そうした様子を見て、私はせっかくの頭脳を持ちながらなんで医学部などに入ってしまったんだろうと思ってしまいます。医学部であれば中の上以上の学力があれば十分。彼らがそのまま数学や理論物理学などの科学の道を進んでくれれば日本にとってどれだけ科学レベルを引き上げることになったことか。せっかくの頭脳を無駄にしてしまうようなもの。もったいないことです。

一方、最近、文部科学省の方針で「学力重視だった大学入試を人物本位」にする方針が発表されました。これは日本の科学の根幹をゆるがすいち大事です。人物を評価しても学問にふさわしいかどうかがを測れるわけではないのですから。そもそも人物をどう評価するのでしょう。よく、「医者は人間を相手にする仕事。だから医学部の入試こそ人間性を重視した合否判定を」なんてことがいわれます。テストの成績がいい学生は人間性が劣っているんでしょうか。人間性なんてものは学力とはなんの関係もないのです。

話しは戻りますが、テストの成績がいいということは「地あたまがいい」ということではありません。でも、それでいいのです。なぜなら「テストの成績がいい」ということは、少なくとも学習意欲はある程度期待できますから。医者にとって重要なのは学習意欲です。日進月歩の医学についていき、最新の医学的知識をもとに診療することはとても大切だからです。そもそも学習意欲がなければ医学部を卒業することも、国家試験に合格することもできないでしょうし。

医学部では基礎教養科目からはじまって、解剖学や病理学、薬理学などの基礎医学科目。そして、内科学や外科学、小児科学や産婦人科学、眼科や耳鼻科、皮膚科にいたるすべての診療科目を学びます。医学部の6年間に学ぶ学科は50種類にもおよぶのです。これらのすべての科目の試験に合格し、卒業試験をクリアしてようやく医師国家試験を受験します。学習意欲がなければとても「医師免許」にたどりつけないのです。私は今でもときどき「国家試験が目の前にせまっているのにまったく勉強しておらずあせりまくる」という夢を見るほどのプレッシャーの連続でした。

医者という仕事には向き・不向きがあります。決して楽しいばかりの仕事ではありませんし、創造的な仕事ができるともかぎりません。なにより、人の生老病死を見守る仕事ですから、気持ちを切り替えられる人間でなければとても辛い(とくに内科は)。人間の人生は長いようで短いのですから、この限られた人生をどう生きるかはとても重要です。その人が幸せなのは、人生を通して自己実現できたと実感できるときだと思います。その意味で、成績だけで選んでしまった人にとって医師という仕事ははたして人生を自己実現する仕事になるのでしょうか。

ひるがえって私にとって医師という仕事はどうだったでしょうか。おこがましいようですが、私自身は天職だったのではないかと思っています。私は組織の一員としてその歯車として働くということが苦手です。いつかこのブログで書く機会もあると思いますが、これまでいろいろな上司とぶつかってきましたし、組織の論理というものの理不尽さに歯ぎしりしてきました。その結果、大学という組織を去り、病院を離れることにつながりました。おそらく普通のサラリーマンとして働いていたらものすごいストレスを抱えて文句ばかりいいながら仕事をしていたんだろうと思います。

小学生の頃、およそ医者になれるはずもなかった自分が、人生を変えるような人との出会いがあり、運命的とも思える偶然が重なって医師になった。もちろん努力はしました。他のひとよりもスタートは遅かったですけど。中3になって突如として勉強に対する姿勢がかわりました。その辺のことはまた機会があればお話ししますが、結局のところ、その後、紆余曲折がありながらも子供のころの夢を実現できた。まさに神の見えざる手が導いてくれた、と言ってもいいような経過だったと思います。そう考えると、医師という職業は自分にとっては天職だと思うのです。

医師という職業は免許をとって完成するものではありません。まさしく「医師になっていく」ものであり終点はないのです。教科書に学び、症例にまなび、患者に学びながらなっていく。誰もが見逃していた病気を見つけ、未然に大きな病気を防いだり、病に悩む人の支えのひとつになる。そうしたことすべてによって「医師になっていく」んだと思います。まだまだ自分にはその修業が足りません。まだ、学びの徒なのだということなのですが、くれぐれも小学生の時のような無気力でぼんやりとした学徒にもどらぬよう気合をいれていきたいと思います。この職業を「天職」とまで言い切ったのですから。

※「内科を選んだ理由」もご覧ください。

心に残る患者(2)

長いこと医者をしていると心に残る患者はたくさんいます。目を閉じれば、そうした人達が次々とまぶたに浮かんできます。とくに印象深い患者は研修医時代に出会った患者が多いです。研修医はまだ患者の立場と医療者の立場の両者にまたがっているようなものですから、医療の矛盾に反発を感じたり、医療の難しさに苦悩したりと、一人前の医者になる通過点としていろんな体験と直面するからでしょう。

私が研修した病院は靖国神社にも近く、お休みのときは神楽坂にお昼を食べに行ったり、神田の書店街を回ったり、生活環境としては申し分のない場所にありました。レジデントハウスと呼ばれる研修医の宿舎に住み込みながらの研修はとても忙しかったですが、指導を受ける先生たちは人間性に富み、尊敬できる先生方ばかりでした。病棟の看護婦さんも新人から中堅までバランスよくそろっていましたし、放射線科や臨床検査の技師さんや薬剤部の薬剤師さんにいたるまでが素晴らしい仲間であり、研修の2年間で嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。

私はある指導医に「医者としてのスタンスはこの研修医のときに決まる」と言われたことがあります。今振り返るとほんとうにその通りだと思います。厳しい指導医の元で胃に穴があくようなときを過ごしたことも、朝早くから深夜遅くまでくたくたになりながら病棟業務をこなしたことも、素晴らしい病院で素敵な人たち囲まれて修練したことが今の自分に確かにつながっています。もし、もっと楽で、ゆるゆるな研修をしていたら、自分は今ごろもっといい加減な医者になっていたのではないかと思うほどです。

●医師としてのあり方を示してくれたM君
そんな研修医時代を終え、それなりに医者らしくなったころにであった患者のことを今回はお話ししたいと思います。当時、大学病院の呼吸器内科のスタッフとして働いていた私は、他院から「レントゲン写真上の肺炎の影が改善しない」と紹介されてきた高校1年生のM君を担当しました。M君はお父さん、お母さんご自慢の高校生でした。中学時代にスポーツで素晴らしい成績を収めていたばかりか、ある有名大学付属高校に合格した秀才でもありました。しかし、その高校に入学する前に肺炎症状が出現して他院に入院。合格した高校の入学式にも出られないまま入院生活を続けていたのでした。

もの静かな彼は口数は少なく、自分がおかれた境遇を愚痴ったり、不安をもらすことはありませんでした。一方のご両親は二人とも今の彼がおかれている状況を冷静に受け止めようとしていましたが、やはり転院するという事態に至ったことに多少動揺していました。M君は入院して間もなくいろいろな検査を受けました。中には気管支鏡検査という、多少苦痛をともなう検査にもじっと耐えていました。しかし、ほどなく彼が15歳にして肺がんという不治の病気に侵されており、しかも思った以上に進行している状態であることがわかりました。

ご両親にそうした事情を説明しなければならないのはとても辛いことでした。二人はM君が「治りのわるい肺炎」と思って転院してきたのです。しかもすでに手術できる状況ではなく、抗がん剤による治療もほとんど効果は期待できませんでした。ご両親の落胆ぶりはたいへんなものでした。若年者のがんは進行が早いことが多く、治療によって進行を抑えることすら難しいのです。私はそうしたことを淡々と説明しました。慰めの言葉など見つかるはずもありません。I君の前では気丈にふるまうお母さんや優しい笑顔で接するお父さんの姿がいたたまれませんでした。

その後、このまま何もしないで緩和療法とするか、それとも治療に反応することを期待して抗がん剤を投与するかご両親と相談しました。ただ、なにもしなくても早晩辛い状況になることが予想されるため、抗がん剤を使ってみることにご両親は希望をたくすことにしました。幸い、嘔気の副作用は短期間で済みましたが、彼の髪の毛はすべて抜け落ち、間もなく胸水が溜まる状況になってしましました。放射線治療を併用したりしましたが、進行はとめることも遅くすることもできない状況であり、もはや我々の心のなかは手詰まり感が支配するようになってきました。

彼は素直に治療を受け、検査を受けていました。自分の病気に疑問を持つこともなく、というより疑問をもっているそぶりを私たちに一切見せませんでした。私にはそのことがかえって不憫でなりませんでした。前医に入院して早4か月が過ぎようとしています。合格した学校に通うことはおろか、制服に腕を通すことすらできないでいます。少なくとも彼から不安や恐怖心を遠ざけるために自分に何ができるだろうかと考える毎日でした。そして、できるかぎり彼の病室に顔を出して声をかけるようにしていました。努めて明るく、淡々と。ときには当時上映されていた映画のビデオを貸してあげたり。しかし、それでも彼の孤独をいやすことにはなっていないことに私は気が付いていました。

楽観できない状況の中にあって、それでも胸水のコントロールがつくようになりました。それを機会に帰せるうちに自宅に帰してあげようと考えました。でも、医事課からは、たまに外泊するのはいいが、それなりの期間を自宅で過ごさせるためには一旦退院させなければならない、とのことでした。しかし、いつ彼の様態が悪化するかもわからないのに退院など考えられません。そこで、なんとか外泊ができるようにし、その間、往診に行かせてもらえないかと上司に頼んでみました。しかし、病棟の婦長らからは「そういうことはできない」とつれない返事が戻ってきたのでした。

それでも、私はあきらめることができませんでした。そこで私は彼に外泊として認められるぎりぎりの期間を自宅で過ごさせ、病院と上司に隠れて彼の自宅を往診することにしました(もう20年以上前の話しですから「時効」でお願いします)。私は夜勤明けの看護婦さんからボランティアを募り、お昼休みに彼女らとそっと病院を抜け出して彼の自宅に往診に行きました。今思えば、大変な職務違反ですし、ついてきてもらった夜勤明けの看護婦さんにも疲れているのにずいぶんと無理なお願いをしたもんだと思います。でも、若かった私はなんの躊躇もなくそんなことをやっていました。

自宅での彼の表情は、病院にいたときとは違いとてもにこやかでした。往診とはいっても聴診をして、血圧や経皮的酸素飽和度を測り、ちょっと雑談をかわす程度。でも、当時の私は、治療らしい治療をしてあげられない罪滅ぼしがちょっとだけできているように感じました。お母さんもなんとなくうれしそうにしており、往診に伺う私たちを心待ちにしてくれていました。そんな穏やかなM君とお母さんの様子を見ながら、看護婦さんを連れて病院を抜け出すことに後ろめたさはまったく感じていませんでした。

しかし、そんな穏やかな状況はそう長くは続きませんでした。外泊をなんどか繰り返すうちに彼の肺がんはさらに進行し、みるみるうちに彼は衰弱していきました。病室のベットで横たわっている彼は苦しそうに酸素マスクをつけています。あのときのにこやかな表情はもうありません。ご両親も心配そうに彼を見守っていましたが、私はその二人に「なんとかならないか」と言われるのがとても切なかった。なにもしてあげられなかったからです。苦しまないようにするには鎮静剤なり麻薬なりを投与しなければならず、そうすると呼吸も弱くなってしまうかもしれない。私は、彼の残り少ない命に決定的なくさびを打ち込んでしまうことを恐れたのです。

苦しみに顔をしかめて耐えている彼を見るのが私は辛かった。その彼の手を握り、涙をこらえているご両親を見るのも辛かった。いよいよ臨終が近づき、彼の呼吸が弱くなってくると、ご両親は必死に彼の体をさすりました。「もっと息を吸って。ほら、もう一回、がんばって」。そう呼びかけるお母さんを、なにもできずに私は後ろから見つめていました。そして、いたたまれなくなった私は心のなかでつぶやきました。「もう君はずいぶん頑張ったんだから、もう頑張らなくていいんだ」「神さま、どうかこの子を安らかに天にお召しください」と。彼はほどなくして天国に旅立っていきました。

病院から自宅に帰る彼の亡骸には、一度も腕を通すことのなかった学生服がかけられていました。私は穏やかな表情に戻った彼に手を合わせながら不覚にも泣いてしまいました。彼のお母さんや病棟の看護婦さんを前にしながら私は涙をこらえることができなかったのです。その涙は、自宅で穏やかに過ごしていた彼のことを思いだして流した涙であり、また、なにもしてあげられなかったことへの悔しさの涙でもありました。のちに、お母さんからは「先生から息子の病気の告知を受けた時、本当は淡々としたその様子に『先生は冷たい人だ』って思ったんです。でも、今はそれでよかったんだと思います。あのとき同情されていたら、自分の気持ちを今まで支え切れなかったでしょうから」と言われました。この言葉が今も忘れることができません。

私は、荒井由実の「ひこうき雲」という歌を聴くといつもM君のことを思いだします。そして、涙がこみあげてきます。この歌の歌詞のように、あまりにも短すぎる命でしたが、白い坂道を登って天国に召されたいったM君が天上界ではいつも安らかであることを思いながらこの歌を聴きます。彼を見送ったご両親はさぞかしお辛かったことでしょう。でも、彼はきっとご両親になにかを残していったと思います。私にも残していってくれたのと同じように。

※「心に残る患者(3)」もお読みください。

震災から学んだこと

東日本大震災からもう4年になるんですね。今までになく大きな揺れが襲ったとき、私は午後の診療の真っ最中でした。大きな揺れではあっても、すぐに収まるだろうとたかをくくっていた私は予想に反していつまでも揺れていることにただならぬ気配を感じていました。あわてる患者や職員に落ち着くように声をかけながらも、みんなで耳を傾けていたラジオからながれてくる津波警報は未曽有の災害を暗示するような波の高さを伝えています。アナウンサーの上ずったような声はあきらかにこれまでとは違うことを物語っていました。

その後のことはすで皆さんもご存知の通りです。東北から関東地方一帯の沿岸を襲った巨大津波は2万人をゆうに超える人たちの命を一瞬のうちに奪い、海水が流れ込んだ福島原発は全電源喪失という最悪な事態となりました。そして、やがて原子炉はメルトダウンとなり、水素爆発した建屋からは放射性物質が周囲にまきちらされる事態に。私たちが住む東葛地域も「ホットスポット」と呼ばれる放射線量の高い地域として連日報道されることになりました。計画停電などというこれまで経験したことのない不自由さとともに、不安な毎日を過ごしながら自分ではどうすることもできないもどかしさを感じたものです。

これまでにない津波の恐ろしさは、今までの常識をいっぺんに吹き飛ばすような規模でした。津波被害など海外での話しであり、身近に起こる災害だという意識はそれまでの私の中にはありませんでした。テレビ画面の向こうでひとつの町が津波にいっぺんに飲み込まれ、目の前で人々が次々と真黒な水の中に消えていく。まさしく息を飲むような映像が毎日繰り返されていました。おまけに日増しに事態が悪化していく原発事故。これから日本はどうなってしまうんだろう。津波の被害の大きさもあいまって、マスコミの報道に多くの人が絶望を見た、といっても言い過ぎではなかったと思います。

大学で核医学を学んだとはいえ、実のところ放射能の危険性についてはそれほど意識したことはありませんでした。しかし、原発事故以降、世の中を飛び交う情報は実にさまざまで、どの情報が正しいのか、どの情報を信じていいのかわからなくなってしまうほどです。そうした中、私はインターネットでいろいろな情報にあたっていました。納得できない情報にはそれを裏付ける情報を探し、一方で正しそうな情報はメモを取りながら、ひまさえあれば放射能に関する知識を集めていきました。そうするうちに、マスコミが必ずしも正しい情報を提供していないこと。そして、多くの人たちがそれに過剰に反応してパニックになりつつあることを感じていました。

私の医者仲間ですらこうした誤った情報に翻弄されている人がいました。彼は知り合いから毎日送られてくる悲観的な情報に追い詰められているようでした。私に送られてくるメイルにはそうした様子が容易に見て取れます。関西地方への転居も考えているほどでした。患者にも悲観的な情報に惑わされている人がとても多いことに気づいていた私は、それまで私が理解していた放射能の知識を整理し、今の状況は決して悲観すべきことばかりではないことを文章にまとめることにしました。そして、彼にそのレジュメを送ってなんとか気持ちを落ち着かせることはできないものかと考えました。と同時に、このレジュメを院内に置いて、不安にさいなまれる患者にそれを渡していました。

言うまでもなくマスコミの影響は大きい。なにせマスコミが間違った情報を発信するはずがないと人々は考えているからです。しかし、間違った情報は少ないにしても、マスコミは偏った情報を報道します。印象操作をするためです。報道内容によっては針小棒大ともいえる「脚色」をつけて、です。当時のマスコミはまさにそうしたバイアスのかかった情報をながしていました。番組の趣旨にそった意見を言わせるため、とても専門家とはいえない識者を出演させて見解を引き出し、タレントをコメンテーターにして視聴者を煽るような感想を述べさせる。そんな番組を毎日見せられればどんな人でも悲観的になります。

私はさまざまな情報を自分で調べるようになって以来、マスコミの報道や「専門家」と称する識者の意見をほとんど信用しなくなっていました。なにが正しいのかは自分で調べ、自分で判断するしかないことがわかったのです。調べれば調べるほど、マスコミは低線量の放射能の危険性について煽りすぎており、人々を不安のどん底に突き落とそうとさらに悲観的な憶測を言ってまわる人までうじょうじょ湧いてくる。ますます正しい情報を人々に知らせることが大切だと思いました。その後も集めた情報がまとまるたびに不安にとらわれている医者仲間や来院患者に知らせました。そのうちに徐々にではありましたが、彼らが落ち着いてくるのがわかりました。

しかし、その間、私には「医師という命を守るべき職業の人間が、放射能の危険性に楽観的になりすぎている。恥ずかしいと思わないのか」という意見が送り付けられたこともありました。これまで通りの情報発信を続けていると「まだそんないい加減な情報を発信しているのか」とも言われたりしました。当時は原発事故を批判的に、放射能の危険性を悲観的にとらえない情報を発信するものはすべて「原子力むら」の回し者のように言われることが多かったのです。それでも私は「原発事故で死亡した人間はひとりもいない」「メルトダウンになっていたとしても今は悲観的な客観的データはない」と言い続けました。

あのときまとめたレジュメを今読むと、我ながら正しい情報にもとづいた冷静なまとめができたと思います。その後の原発事故の経緯を見てもわかるように、当時、世の中を騒乱させることを目的に流布していた「今後、東北地方には固形がんや白血病が多発する」などという事態はおこっていません。発がんの危険性が高いとされる子供たちにおいてですら甲状腺がんが有意に増えたというデータもありません。ましてや放射能障害により死亡した人間はひとりもいません。こうした事実をもとにあのときの報道、あるいは流布したデマ情報を今あらためて振り返る必要があります。

震災報道は情報のリテラシーという意味で私に大きな影響をあたえました。マスコミが決して正しい情報を伝えているわけではなかったという事実を重く受け止めるべきです。その情報を批判的に吟味し、自分の知識を整理することがいかに大切かを私は思い知りました。もっと意地の悪い言い方をすれば、マスコミはこうして世論誘導し、国の方向にも影響を与えるんだということがわかりました。当時、人心を騒乱させる情報を発信し続けた人の何人かが今になってようやく謝罪しました。謝罪したとはいえ、「あのときはあんなことをしちゃったね、と笑いあえるといいね」などと他人事を装っていて腹が立ちますけど。

世の中を騒乱させることだけを目的にした情報には根拠がありません。しかも、それらは極端に情緒的で、他者の批判あるいは反対の意見を許しません。「低線量の放射線の危険性はほとんど心配ない」という意見に対しては、「危険性がゼロだと言い切れるのか」「フクシマの住民の健康をないがしろにする意見だ」など実にヒステリックです。科学的な根拠を示しても、こうした情緒的な意見は客観的な事実を聴く耳を持ちません。ヒステリックで情緒的な意見や情報は社会を不安に陥れ、人を絶望させ、人々の前向きな気持ちをくじくことが目的だからです。

いまだにデマ情報が闊歩しています。デマとまでいかなくとも、災害に打ちひしがれている人々に寄り添う振りをしながら、実はその人達を絶望させるような情報を発信する人や報道もまだあります。でも、冷静かつ客観的に情報を整理していけば、自ずとこれからのあるべき姿が見えてきます。悲しい過去は過去のものとして記憶にとどめ、しかしそれでも前向きな気持ちを強く持って進んでいくのが日本のすばらしさです。整然と列をなして配給を受ける姿。騒乱に乗じて利己的にふるまう人の少なさ。いいことにも、悪いことにも意味があると考える精神の深さ。日本人のこの理性こそが震災あるいは原発事故を克服していく最大の強みです。

私たちを襲った甚大な災害を乗り越えるのにはまだまだ時間がかかるでしょう。また、これからもいろいろな災害が日本を襲うかも知れません。しかし、そのたびに日本人の理性を発揮して、氾濫する不条理で情緒的な情報から本当の情報を取捨選択する努力を続けなければなりません。そして、どんな不幸に対しても、それぞれが与えられた立場から前向きで建設的な判断をしたい。世の中が混乱すればするほど、こうした前向きで建設的な判断をするための支えあいがもっとも大切であると思います。

心に残る患者(1)

人間の生老病死に係わる医師という仕事は、一般の職業と違ってあらたに何かを創り出すという意味では生産性の高い仕事ではありません。私たちの仕事は、人の死を看取るか、怪我や病気が治癒する手伝いをしたり、それ以上に悪くならないようにすることですから、なにか「創造的な仕事をした」という満足感はなかなか感じられないものです。しいて言えば、外科医であれば難しい手術のすえに患者の命を救ったとき、内科医であれば診断がつかなかった患者の病気を見つけ、治療がうまくいったときに達成感のようなものを感じる程度でしょうか。

そんな仕事を長い間やっていると、心に残る患者が何人かいます。残念ながら、そのいずれの人のほとんどは亡くなった人たちですが、いずれも医師としての今の自分につながる大切な人たちばかりです。今回はそんな人たちのひとりの思い出をお話ししたいと思います。

●あるべき医師・患者関係を教えてくれたU君
慢性骨髄性白血病で緊急入院となったU君は当時はある大学の3年生。金融関係に進みたいと考えていた彼はそろそろ就職活動を始めようかと考えていた矢先の入院でした。当時、研修医だった私は上司から「本人に病名を告げてはならない」と厳命されていました。いつも病室を訪れると、彼は晴れやかな笑顔で私を迎えてくれました。私にとってそんな彼はなんとなく弟みたいな存在でした。彼は自分の病気がなんであるのか、そして、これからどうなっていくのかを知りたがっていました。私は上司に病名を告げてはならないと命じられていましたが、彼なら自分の病気のことを理性的にとらえてくれるであろうと感じていました。御両親も私の考えと一緒でした。そこで私はその後何度となく上司に「病名を告げてはどうか」と相談してみました。しかし、上司の返事はいつも同じです。私は上司の指示に従ってはいましたが、心の中では決して納得していませんでした。

あるとき、病状が落ち着き、外出できるようになったU君は病院の近くにある大学の学生食堂に行ってみたいと言い出しました。本来であれば大学での学生生活を謳歌しているはずの彼ですから、その気持ちは私にも十分理解できました。そこで、彼の申し出を許可することにしました。当時、私が研修をしていた病院は病院食がおいしいことで有名でした。でも、学生であふれた学食で久しぶりに食事をする彼の気持ちを想像すると、さぞかし開放感でいっぱいなんだろうと彼の外出を私自身も楽しみにしていました。ところが、その日の夕方、ご両親が私のところにあわててやってきました。「息子が自分は白血病だとショックを受けている」というのです。詳しくお話しを聞くと、大学に外出すると出かけた彼が向かったのは神田の書店街。そこで薬の事典を調べ、今、自分が飲んでいる薬が白血病の治療薬であること。そして、医学書に書かれた症状から自分の病気は白血病だと確信して帰ってきたとのこと。ご両親に彼は「どうして病気のことを黙っていたのか。どうして嘘の病名で自分をだましてきたのか」と問い詰めたそうです。

私はそのことを上司に報告しました。しかし、上司は「それでも真実をつげるべきではない」と主張しました。「患者は本当の病名にうすうす気付いても、主治医がそれを認めない限り、万にひとつの希望を持ち続けるんだ」というのです。そして、「その間に骨髄移植のドナーが見つかれば、そのときこそ真実を告げればいいんだ」とも言いました。私はそれもひとつの考え方かもしれない。でも、U君にとってはそれがいい選択だとは思えませんでした。担当医としての私と患者である彼との関係は、今回の外出で深い溝ができてしまいました。病室に行っても、彼は私に本当の病名を敢えて聞こうとはしませんでした。いつもの笑顔もすっかり消え、私の問いかけに短く答えるのみです。私も彼になんと声をかけたらいいのかわかりませんでした。その後、私はU君との関係を改善させることもできないまま、他科の研修を受けるために病棟を離れることになりました。「他の科に移るけど、なにか相談があったら気軽に声をかけてほしい」と彼に告げましたが、彼は軽くうなずくだけでした。

研修医として忙しい毎日を送っていた私は、いつの間にか彼のことを忘れていました。他科に移った当初は何度か彼の病室に顔を出してみましたが、それも次第にできなくなっていたのです。日々の研修をこなすうちにすっかり彼の病状を気にすることもなくなり、私の中から彼の存在がすっかり薄れてしまったある日のことです。遅くなった昼食を買いに売店に小走りに急いでいたとき、U君のご両親と廊下でばったり会いました。あれから数か月を経て彼のことなどすっかり忘れていた私は、そのご両親に声をかけられたときなぜかとても後ろめたい気持ちがしました。ときどき病室に顔を出そうと決めていたのに実際にはそれができなかったからです。私はU君のご両親に彼の様子を尋ねました。久しぶりに会って笑顔だったご両親の表情は一転しました。「息子は先月亡くなりました」。私の全身から力が抜けていくのを感じました。私が病棟を移ってからというもの、検査という検査、治療という治療をすべて拒否してしまったというのです。

「息子は何度か担当の先生に『せばた先生に会いたい』とお願いしたんですよ。でも、病棟が変わってしまったのでそれはできないと言われて…」とご両親は残念そうに言いました。私は言葉に詰まってしまい、ご両親になにも言えなくなってしまいました。と同時に、「なぜU君のことを自分に伝えてくれなかったんだ」と怒りに似た感情が込み上げてくるのを感じました。私はU君のご両親にお悔やみとお詫びの気持ちをなんとか伝えて、U君が入院していた病棟に向かいました。そして、病棟の看護婦さんに彼のことを詳しく聞きました。私と交代で担当医になった研修医と彼は十分な信頼関係を築くことができず、検査と治療を拒否しているうちに肝臓に腫瘍細胞が転移。あっという間に亡くなってしまったということでした。それよりも私を打ちのめしたのは、彼が亡くなってから骨髄移植のドナーが見つかったということでした。あのとき、彼に真実を話し、彼との信頼関係をもっと築ければ、彼は検査にも協力し、急性期の治療を受け、ひいては骨髄移植を受けることができたかもしれないのです。

私は今でも彼のことを思い出します。しかし、思い出すのはいつも事実を知ってしまい、私との信頼関係が壊れてしまってからの彼の表情。恨めしそうにベットから見上げる彼のまなざしは、悔しそうでもありまた悲しげでもありました。今では真実を告げることが当たり前になりました。真実を受け止めることができようができまいが、患者に真実を告知することが医師の義務であるかのようになってしましました。それはあたかも、医師が告知しないことで患者やその家族から訴訟をおこされるのを避けるためのようでもあります。本来は、医師・患者関係をより深いものにするための告知なのに。患者に寄り添うことは容易なことではありません。ドラマのように美しいものでもありません。忙しい診療に追い回され、患者の心のひだに触れることをあえて避けている場合も少なくないのです。医師にとって担当患者はたくさんいますが、患者にとって主治医はひとり。患者のよりどころは主治医しかいないということをU君は教えてくれました。その後の研修で、ともすれば日常に流されそうになるたびに、彼のあのときの寂しげなまなざしを思い出していました。その思いは今の私の心の底に重く沈んで残っています。

※「心に残る患者(2)」もお読みください。

漢方薬

私は漢方薬をよく使います。しかし、漢方薬を使わない医者もいます。使わないというよりは、漢方薬を信用していないというべきでしょうか。数という意味では、漢方薬を使わない医者の方が多いかもしれません。患者もそうです。積極的に漢方薬を受け入れる患者とそうでない患者がいます。でも、医者であれ、患者であれ、漢方薬を受け入れられない人に「なぜ漢方薬が嫌いなのですか?」とたずねれば、おそらく「怪しげだから」と答えるのでしょう。どうして漢方薬はこのように怪しげにみられるのか。これから私なりの意見を書きたいと思います(あくまでも私の意見であって、なんらかのしっかりした根拠があるわけではありませんので悪しからず)。

私も医者になりたてのころは漢方薬を使っていませんでした。あるとき、担当患者にいくら調べても腹痛の原因が見つからない人がいました。原因がわからないものですから、効きそうな薬をかたっぱしから試すというとても医療とは思えない治療をしていたのでした。毎日病室に診察に行くたびに「お薬は効きましたか?」と聞くのですが、腹痛に顔をしかめている患者からは「ぜんぜんよくなりません」とお決まりの返事が。患者に申し訳ないやら、情けないやらでついつい病室から足が遠のきそうになります。そんな気持ちを振り切って、病室に行くときの重い気持ちは今でも忘れません。どうしたらこの患者の腹痛を治すことができるだろうかといつも考えていた私の目に飛び込んできたのが「ツムラ」の文字でした。

「ツムラ」とは漢方薬のトップメーカーです。その「ツムラ」の文字を目にした私は破れかぶれで「漢方薬を使ってみよう」となったのです。それまで私は漢方薬を使ったこともありませんでしたし、興味もありませんでした。でも、いろいろ調べてみると、どうやらあの患者に使えそうな漢方薬があることがわかりました。漢方薬は一般的に、患者の体型や病態、症状群を参考に薬の種類を決めます。西洋医学においてはその原因を見つけ、それを改善する薬を投与することが多く、その意味で漢方薬は西洋薬とは多少異なる側面があります。ですから、いろいろな検査をしても異常がなく、従って治療のとっかかりが見つからなかったあの患者には漢方薬がうまく使えそうでした。さっそく患者にその漢方薬を使ってみることにしました。

漢方薬を開始した翌日、効果を聞こうと病室に入ると患者の表情は一転していました。「先生、あれ、効きます」と患者はニコニコ顔です。私もこれまでのモヤモヤがすっかり晴れて、「そうですか。よかったですねぇ」と思わず笑顔になりました。とはいえ、「先生は名医ですよ~」と患者に言われながら、心の中では「破れかぶれに処方した最後の頼みだったんです」と後ろめたさ感じていました。患者の腹痛はみるみるよくなり、しばらくして退院していきました。私はそれ以来漢方薬にはまってしまい、西洋薬では十分に対応できないケースなどに漢方薬をしばしば使うようになりました。漢方薬はすべての病気に効くわけではありませんが、ケースを選べば非常に有用な治療薬であることに気が付いたのです。

にもかかわらず、今だに漢方薬に否定的な医者や患者がいるのはなぜでしょうか。それは漢方薬がたどってきた歴史が影響しています。漢方薬というと、皆さんは「中国の薬」と思われるかもしれません。もちろん中国にも漢方薬はあります。しかし、今、日本で広くもちいられている漢方薬の多くは日本で発達したものです。日本での使用経験をふまえて生薬の組み合わせと適応になる疾患や病態がまとめられ今に伝えられているのです。近代医学が導入されるまでの日本で医師といえば漢方医のことであり、漢方治療が医療の中心でした。よく、昔の医者が薬箱をもって往診にでかける様子をドラマで時々目にします。確か、映画「赤ひげ」にも三船敏郎演じる赤ひげが生薬を調合している場面があったと思います。ちなみに、当時の薬代は1日分で米約1升という決まりがあったそうです。今の貨幣価値に直すと約800円といったところでしょうか。

さて、明治維新後、それまでの医学の中心だった漢方医学が西洋医学にとってかわられます。新政府は日本の近代化をはかるため、公衆衛生を普及させ、近代的な医学を導入して国民の健康増進をはかろうとしたのです。そして、明治八年に医術開業試験を導入した開業医制度を採り入れます。当時、最新の医学を有するとされたプロシア(ドイツ)から著名な医学者を招へいするとともに、日本の医師にも近代的な医学教育をほどこそうとしました。しかし、当然のことながら当時の漢方医にはそうした西洋医学の知識はありません。漢方医たちは、新しい開業医制度が自分たちを駆逐する方便だということを知っていたため、激しい抵抗運動を繰り広げました。ところが、国民の視線も漢方医学から近代的な西洋医学に移ってしまったこともあって、過渡的措置として認められた漢方医もその後しばらくして姿を消しました。

以後、漢方医学はすっかり脇役になってしまいました。最新の西洋医学を身に付けた医師の社会的地位は高く、医学博士にもなると月給は200円(今の貨幣価値に直して約400万円)、医学士と呼ばれる病院の医師でも月給は100円(同約200万円)と当時としては破格の給与をもらいました。しかし、漢方医のながれをくみ、開業医試験にようやく合格した医師(試験医師といいます)の月給はたかだか10円(同約20万円)。世の中の人々の中にも次第に漢方が西洋医学に劣るものとしてのイメージが確立していくのです。江戸時代、医師は武士と同様にまげを結い、帯刀を許されました。士農工商の身分にとらわれずに世の中でのし上がっていくために医師は絶好の職業でした。今でいう3Kの職業でありながらも、町医者から御殿医になれれば法外な報酬と地位が得られるため、貧しく身分の低い若者で漢方をまなぶ者が少なくなかったのです。

このような背景があって今だに漢方薬に対する負のイメージがつきまとっているのです。「得体のしれぬ薬」。漢方薬を使う以前の私もそんなイメージをもっていました。最近、有効性を統計学的に示す必要があるとの国の方針のもと、経験的に使用され続けてきた漢方薬を医療保険の適用からはずそうとする動きがあります。これには増大の一途をたどる医療費の抑制という意味合いがあります。しかし、漢方薬は西洋薬のように服用させればそれなりにどんな人にも効くというものではなく、効く人には効くが効かない人には効かないという傾向が漢方薬にはあるようです。こうしたことは漢方薬を実際に使ってみた者でなければわからないことです。ですから、統計学的に漢方薬の有効性を証明しようにもプラスとマイナスが相殺してゼロになる、なんてことも。漢方薬は西洋薬とは同列には語れないのです。

考えてみれば、漢方薬が生き残ってきたのにはそれなりの理由があったんだと思います。あらたに創薬される薬と違って、漢方薬はこれまで長年積み重ねた使用経験で淘汰されてきたものです。はなから効果がなければとっくの昔に姿を消していたわけで、それを単純に効果の統計学的判定でその価値を決めつけるのは間違っています。使ってもみないで漢方薬を批判するのもどうかと思いますが、その一方で漢方薬ですべてが治るかのようないわれ方をするのもどうかと思います。そんなことをすればさらに漢方薬の評価を落とすだけですから。ともあれ、必要に応じて漢方薬を使えば、とても幅の広い診療ができます。でも、そのような診療も保険から漢方薬がはずされればできなくなります。そんなことを考えると、明治維新とともに日本の医療から駆逐された漢方医がどれだけくやしい思いをしたか、私にはなんとなくわかるような気がします。

脳震盪は外傷

(この原稿にスパムメールが送られてきたため、元原稿を削除し1月26日に再掲しました。)

昨日のフィギュアスケートでの羽生選手の演技が話題になっています。事前の練習中に中国の選手と激しくぶつかって転倒。七針を縫う傷を顎に、額も三針縫う怪我を負い、一時氷上で意識を失ったかのような状態になったようです。それにも関わらず、羽生選手は気丈に演技を強行して見事銀メダル。「感動した」「すごい精神力」など、羽生選手の健闘を讃える報道が繰り返されていました。しかし、この感動に水を差すようですが、今回の羽生選手に演技を強行させた判断に私は賛成できませんし、彼の健闘も素直に讃えられません。

中国の選手とぶつかったときの様子はTVで見ましたが、あのときの衝撃は決して軽くはなかったようです。そのことはあの顎と額の傷を見ても、あるいは演技のあとの様子からも容易に想像がつきます。氷上に倒れた彼はしばらく起き上がれませんでしたが、それ自体は脳震盪が疑われます所見です。「のうしんとう」という言葉はよく耳にする言葉ですが、「脳震盪」は実は「外傷」です。しかも、「死にいたる可能性のある外傷」なのです。ただ単に頭を打ったということではなく、のちに脳に少なからず深刻なダメージをおよぼす可能性がある外傷、それが「脳震盪」です。

脳震盪というとすぐに「意識消失」をイメージしますが、頭部を強く打って意識が消失したかどうかは脳震盪の診断に関係ありません。「脳震盪」の代表的な症状としては頭痛やめまい、ふらつき、記憶障害などがありますが、受傷直後には症状に乏しい場合があります。とりあえずは大ごとにならぬように配慮し、その診断がついたときにすでに手遅れにならないようするのが脳震盪のマネジメントの肝なのです。しかし、一般の人(ひょっとするとスポーツの指導者でさえ)のなかには、この脳震盪を甘く見ている人が少なくないようです。

脳震盪のとき、あるいは脳震盪を疑うとき、まずやらねばならないことはなんでしょうか。それは、「少なくとも24時間は絶対安静にして経過観察をする」ということです。受傷直後に検査をして異常がなくても、あるいは受傷直後に症状がはっきりしなくても大事をとって安静にする。命にかかわる状態に至ることがある脳震盪ならではの対応です。脳震盪をしばしば経験するラグビーにおいては、脳震盪の疑いのある日にプレーを再開することは禁止していますし、子供や青年に起こった脳震盪疑い例では24時間以上の安静を推奨しているくらいです。

フィギュアスケートは私もよく見ますが、頭部や首に強い衝撃を受けるスポーツです。決して負担の軽いスポーツではありません。その競技に受傷直後の羽生選手がああして出場することは絶対にあってはならないと思います。演技をし終わったとき、彼がフラフラになっていた様子を見てもそれは明らかです。周囲の人たちは欠場を勧めたが本人の意志が固かったとも報道されています。しかし、このようなことは本人の意志とは関係ありません。協会の名のもとに出場を禁止すべきだったのです。それができなかったのは、ひとえに脳震盪が外傷であり、恐ろしい結果を招く可能性があることを知らなかったからです。

なるほど出場を強行した羽生選手は立派だったかもしれない。しかし、羽生選手自身や彼の周囲の人たちにもう少し脳震盪に対する知識があって、脳震盪の恐ろしさを冷静に説明できる人がいたら彼も素直に欠場したかもしれない。そのとき、それを助言するひとが会場にはひとりもいなかったのが羽生選手には不運だったのです。転倒後に歩いてリンク外に移動するなどという対応が行われていましたし。それを思うと、マスコミにはあえてこの演技に疑問を呈し、脳震盪の恐ろしさを知らせてほしかった。今回の羽生選手の演技強行を美談で終わらせてはいけません。

いつもマスコミ批判をしてしまいますが、一般の国民がマスコミに情報をゆだねている以上、その情報が間違っていれば誰かが正さなければいけない。そんな思いでいつもブログを書いていますので当ブログを読んで不愉快になったとしたらお許しください。