心に残る患者(3)

医学部での講義でしばしば「患者は生きた教科書」という言葉を耳にします。その意味は、医学書に書いてある知識だけでなく、目の前の「病んだひとりの人間」と向き合いなさいという意味をもっています。なるほど医学書にはいろいろな疾患に関する知識が網羅されています。しかし、現実の診療の現場でそれらの病に苦しむ患者は必ずしも教科書通りではなく、ひとりひとりのバリエーションがあることに気が付きます。それぞれの患者がどんなことに苦しみ、悩んでいるかについては当然教科書には書かれていません。そうしたことすべてが先ほどの「患者は生きた教科書」という言葉には込められています。

私自身も振り返ってみると、医学書から学んだことよりも、実際に患者さんから学んだことの方が多かったかもしれません。さまざまな患者と接してみて、医者として成長していったという側面もあります。もちろんいい思い出ばかりではありません。苦い経験や悲しい思いもたくさんしました。医者としてはそうした思い出の方が多いようにも感じます。しかし、そのような経験や思い出、履歴を重ねていくうちに医師として洗練されていくのかもしれません。その意味でたくさんの患者さんの思い出は私にとって財産です。

(1)研修医としての試練をあたえてくれたTさん
Tさんは当時80歳を超えていました。いわゆる江戸指物の職人で東京都から表彰されたということを誇りにしている人でした。職人としてはかなりの腕前なのでしょうが、その分だけ厳しい人でもありました。まだ医者になりたての新人研修医であった私が慣れない手つきで点滴をしようと苦戦していると、眉をひそめながら痛そうに私をにらみつけている、そんな人でした。よりによってTさんは誰よりも針刺しが難しい血管をしていました。点滴に慣れている看護婦さんでさえも一度では成功しないのですから新人研修医にうまく針が入るはずがありません。何度刺しても針は血管に当たらず、針先をさぐっているとTさんは「いててて、痛った~っ。お~痛てっ」と大声で叫びます。ちょっと大げさだなと思うくらいの痛がり方でしたが、こっちは冷汗をかきながら心の中で「早く血管にあたってくれ」と祈るような気持ちで処置をしていました。しかし、結局はあえなく失敗。するとTさんはため息をつきながら「ま~たダメか。おまえは下手くそだな~」と憎々しくつぶやきました。「すみません。もう一度やらせてください」と病室を逃げ出したい気持ちを抑えての再チャレンジ。ところが、針が血管に入っても、点滴を流すと血管の外に漏れだしてまた失敗。「もういい。点滴はやめてくれっ」と私をにらみながら吐き捨てるようにTさんは言いました。誰も代わってくれませんから、「またあとでもう一回やらせてください」といって部屋を逃げるように退散。そんなことの繰り返しでした。でも、毎日、そして何度もそんなことをやっていくうちにだんだん点滴の針がうまく入るようになってきます。一発で針が血管を当てたときなどは、Tさんは私以上にうれしそうでした。「だいぶうまくなったじゃないか」と。あの厳しかったTさんがそういってくれるようになったころには、Tさんの点滴をしに行くのが楽しみなくらいになりました。そのときは気づきませんでしたが、患者の苦痛を乗り越えて医者は成長するんだと今改めて思います。Tさんには申し訳なかったのですが、本当に感謝、感謝です。

(2)思い上がりを静かに叱ってくれたMさん
研修医2年目となった私はそれなりに医者らしくなり、少し自信を持ち始めたころでした。新人の研修医も入っていっちょ前に指導医のようなこともやっていました。新人研修医と一緒に担当していたMさんは肺癌の脊椎転移でほぼ寝たきりでした。原疾患である肺癌のせいもあってだいぶやせてはいましたが、それでもかつては「大いに飲み、大いに働く」といったモーレツサラリーマンだったことを思わせるのに十分な雰囲気をMさんは持っていました。脊椎に転移した癌による痛みもあるでしょうに、私達が点滴をしに病室に入ると張りのある元気な声であいさつをしてくれました。それはあたかも研修医に「頑張れよ」といってくれているようで、むしろ病室を訪れる私の方が元気をもらっていました。2年目の研修医となり、それなりにある程度のことができるようになっていた私は、あるときMさんの点滴をするのにまごつく新人にイライラしていました。そして、何度もしくじるその新人研修医をMさんの前で叱ってしまったのです。Mさんがその様子をどう見ていたのかはわかりませんが、そのときの私はさぞかし傲慢に見えていたんだと思います。そのあと、なにかの用事で私ひとりでMさんの病室を訪れたとき、Mさんは静かに私に言いました。「先生、あの先生を叱るのはやめてください」。私はハッとしました。「彼もなにをどうしたらいいのかまだわからないのです。私も部下をさんざん怒鳴ってきましたが、なんて傲慢だったんだって今頃になってわかりました。もう遅すぎますけどね」。私はなんとか笑顔を作ってお礼を言いましたが、心の中は恥ずかしい思いでいっぱいでした。そのときはじめて自分の傲慢さに気が付いたからです。しかも、Mさんは新人研修医と一緒のときではなく、私ひとりのときにそんなことを話してくれたのでいっそう心に響きました。以来、私はいつも謙虚であろうと思いました。そして、研修医を指導するのではなく、一緒に学ぼうと心に誓いました。それに気が付かせてくれたMさんにも感謝、感謝です。

(3)明治生まれの気骨と品を教えてくれたKさんとSさん
研修医の時に担当したふたりの明治生まれの患者も思い出深い方々です。ひとりは元関東軍参謀だったKさん。関東軍とは大東亜戦争(第二次世界大戦)のとき、遼東半島から満州を守っていた帝国陸軍の総軍のことです。その後、日本が戦争にひきづりこまれるきっかけとなった満州事変にも関与したとされる歴上有名な軍隊です。その参謀をしていたというので、はじめはどれだけ厳しくて怖い人かと思っていたのですが、Kさんはいつももの静かで優しい「おじいちゃん」でした。私が研修していた東京逓信病院は、昔、関東軍の作戦参謀をしていた石原莞爾中将が入院していた病院でもありました。Kさんが石原中将と知り合いだったのかどうかはわかりませんが、そのこともあっての入院だったのかもしれません。お見舞いにくる人たちは皆そうそうたる人ばかりで、来客は皆、Kさんの前では直立不動で話しをしていました。いつもは「優しいおじいちゃん」だったKさんも来客のときばかりは背筋をピッと伸ばしていて、その姿はまさしく関東軍の参謀そのものといった雰囲気を漂わせていました。幕末から明治維新にかけての歴史が好きで、今の日本の礎を築いた明治の人々に特別な思いをもっている私にとってKさんはまさしく「尊敬すべき明治人」。明治の気骨を感じる人でした。

思い出に残る明治生まれのSさんも忘れられません。Sさんは明治生まれにして横浜の女学校に通ったという才女でした。品のよい顔立ちもいかにも横浜生まれの「おばあさま」。Sさんのふたりの息子さんも大手企業の社長と重役でした。担当した私は折に触れてSさんとする世間話しがとても楽しみでした。どんなときでも穏やかに語りかけるようにお話しするSさんはなんとなく皇族の方々のように見えました。あるとき、Sさんが私に言いました。「先生は結婚してらっしゃるのかしら」。世間話しのときのことですから、私はさらっと「いいえ」と受け流したのですが、Sさんはさらに「お付き合いしている方は?」と尋ねてきました。「いえ、研修医はそんな身分じゃありませんから」と言うと、突然「うちの孫娘とお見合いしてみません?」と。あまりにも突然だったのですが、ずいぶん前から私にお孫さんの話しを切り出すタイミングを探っていた、とのこと。私は「Sさんのお孫さんとなんてめっそうもない」と丁重にお断りしましたが、粗雑に育ったきた私にとっては謙遜ではなく、心底そう思っていました。あんなに品のある人の孫娘さんってどんな人だろうと関心はありましたけど。Sさんは女学生が袴をはいて自転車に乗った主人公が出てくる「はいからさんが通る」という漫画の世界を彷彿とさせる上品で明るい人でした。私がもの心ついたころにはもうふたりの祖母は亡くなっていたので、その分だけ心に残る「おばあさま」でもありました。

 

今の自分につながっている記憶に残る人たちはまだまだたくさんいます。でも、その多くはもうこの世にはいません。そうした人たちが今の私を見てなんというでしょうか。褒めてくれるでしょうか。それとも、ダメ出しされてしまうでしょうか。研修医と言う感受性の強い時期に巡り合った人たちは今の私の財産です。今でもときどきあのときに戻りたいと思うことがあります。いろいろな可能性を秘め、希望にあふれ、なにもかもが新鮮だったあのころ。苦労をひとつひとつ乗り越えては成長を実感できたあのときの胸のときめきが今はとても懐かしく感じます。そんなことを考えるのも私が歳をとった証拠でしょうけど。

※「心に残る患者(4)」もお読みください。

良きサマリア人

みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。

とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。

つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。

以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。

かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。

ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。

「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。

「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。

ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。

あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。

倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。

だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。

 

内科を選んだ理由

「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。

医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。

教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。

今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。

医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。

医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。

当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。

ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。

「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。

そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。

そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。

大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。

結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。

しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。

シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。

女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。

結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。

内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。

わが心の故郷「逓信病院」

医学部を卒業し、医師国家試験に合格してもまだ「医師」というには程遠い存在です。医学部を卒業した時点での医学的「知識」はまだ単なる「点」であって、それらの点は「経験」という「線」でつながらないと使いものにならないからです。

その「点」を「線」でつなぐ修練の場が研修です。私が研修の場所として選んだのは、飯田橋というところにある東京逓信病院でした。この病院は近くに靖国神社や皇居があり、周囲には大学や中学・高校も多く、都内でありながらとても閑静な場所に建っている中規模の病院です。ここで内科の研修医として呼吸器科、循環器科、消化器科、血液内科、内分泌内科、神経内科などの主要診療科をまわるとともに、オプションで放射線科の研修をすることができました。もともと特定の専門領域ではなく、一般内科を広く診ることができる医者になりたいと思っていた私にとって東京逓信病院での研修は、周囲の環境といい、その研修内容といい、まさに希望通りのものでした。

当時、この病院はまだ「郵政省の病院」でした。研修医の私たちの身分も郵政省医系技官でした。給与は今でいう「ゆうちょ銀行」に振り込まれるため、郵便貯金の口座を開設させられました。また、以前は郵政職員でなければ受診できない病院でしたが、私が研修医のときにはすでに一般の人にも開放されていました。大物政治家から有名芸能人までいろいろな人が受診・通院・入院していました。有名人が入院するという噂を耳にすると、「もしかして担当医になれるかも」なんてドキドキしていたものです。しかし、VIPが入院しても私たち研修医は担当医などになれるはずもなく、指導医クラスの人たちが担当医になりました。とある女優さんが検査入院したときなどは「握手して、サインをもらうぞ」とワクワクしていたのですが、部屋に近づくことさえ許されませんでした。

この研修医としての2年間は医師として働いている今の自分に大きく影響しています。朝早くから夜遅くまで働きづくめの毎日はとても大変でしたが、やりがいもありましたし、すべての体験がとても刺激的でスリリングでした。研修医の仕事はおもに病棟業務が中心です。患者の採血をして病棟を回診し、指導医の指示に従って検査のオーダーをして、ときには助手として検査に入ります。それらが終わると、一日の検査結果を確認し、指導医に報告して一緒に病棟を回診したら新たな指示を受けます。そしてようやくデスクワーク。カルテに検査結果を張り付けたり、患者の診察記録をカルテに記載する作業です。一人あたり40人ほどの患者を受け持っているので、すべてのカルテ記載が終わるのはだいたいが深夜。当然、重症患者がいたりすればほとんど眠れません。

研修医になりたてのころは、気持ちはまだ患者みたいなものですから、採血をするにしても、薬を処方するにしても、あるいはカルテ記載することすら「こんなこと自分がやっていいんだろうか」と躊躇したものです。それでも患者の前でそんなことをおくびに出せませんから、患者の採血をするときなどは心のなかで冷や汗をかきながら冷静を装っていました。それでも研修をこなしていくにつれ、少しずつ医者らしくなっていきます。それは医師としての自信がついてくるからですが、今でもありがたかったのは病棟の看護婦さん達の「教育」でした。東京逓信病院の病棟には新人・中堅・ベテランの看護婦さんがバランスよく配置されていました。その看護婦さんたちが我々研修医をときに励まし、ときに喝を入れ、ときにおだててくれました。なんといっても研修医よりも経験豊富な人たちです。厳しい指導医に叱責されてしょげているときや、処置や検査がうまくいかないときにかけてくれる言葉やアドバイスが研修医にはありがたかったです。

東京逓信病院で研修をしてよかった点は他にもあります。職員同志のコミュニケーションが良好で、アットホームなところでした。薬剤部の薬剤師さんたちや栄養科の人たちなど、他の職種の人たちとの間に不毛な壁を感じることがなく、むしろ、「同じ病院の仲間」というような一体感を感じていました。この感覚はうまく説明できないのですが、その後働いた病院では感じられなかった感覚でした。薬について相談するときも、食事内容の確認をするときも、それぞれの担当の人たちにプロフェッショナルな自負みたいなものを感じたのかもしれません。よくありがちな閉鎖的で排他的なセクショナリズムはありませんでしたし。ですから、研修の2年間に嫌な思い出ってないのです。いい思い出ばかり。

ちょうど研修医の2年目のときバイクを買いました。YAMAHAの「Virago」という400㏄のアメリカンバイクです。休みの日の深夜に皇居周辺や官庁街をよく爆走していました。この辺の信号は深夜になると黄色の点滅になるんです。つまりノンストップで走り抜けることができるということ。しかも場所にとっては上下線あわあせて8車線もあったりして、車もほとんど走っていない。夜中の警視庁本庁舎前を暴走族のように蛇行運転していました。休日も靖国神社界隈を散歩したり、神楽坂や飯田橋あたりの食堂をまわったりしました。神楽坂の「五十番」という中華料理屋さんの大きな肉まんや、東京大神宮の近くにある洋食屋さんのハヤシライス、当時はご近所だった東京警察病院の近くのお弁当屋さんの海苔巻などは思い出の昼食です。

そんなことを思い出すと、今でもあのときに戻りたいなぁって思います。楽しくもあり、大変でもあり、ストレスフルでもありましたけど。充実していたからでしょうか。研修を開始した直後は、何度となく「これから医者としてやっていけるんだろうか」と思ったりしました。もともと内科志望だったわけではなく、消去法で残ったのが内科だったからかもしれません( 内科を選んだ理由」もご覧ください)。でも、そんなダメダメ内科研修医でも、それなりの医者になっていけたのはこの東京逓信病院での研修があったからだと思っています。当時の先生たちはほとんどがいなくなり、病院自体も民営化されてかつてののんびりした雰囲気はなくなちゃったのかもしれませんが。医師という職業は自分を成長させてくれました。その意味で東京逓信病院は私の第三の故郷(第二の故郷は札幌なので)なのかもしれません(「わが心の故郷「逓信病院(2)」もご覧ください)。

ふるさとは遠きにありておもふもの(室生犀星)。

ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな(石川啄木)

心に残る患者(2)

長いこと医者をしていると心に残る患者はたくさんいます。目を閉じれば、そうした人達が次々とまぶたに浮かんできます。とくに印象深い患者は研修医時代に出会った患者が多いです。研修医はまだ患者の立場と医療者の立場の両者にまたがっているようなものですから、医療の矛盾に反発を感じたり、医療の難しさに苦悩したりと、一人前の医者になる通過点としていろんな体験と直面するからでしょう。

私が研修した病院は靖国神社にも近く、お休みのときは神楽坂にお昼を食べに行ったり、神田の書店街を回ったり、生活環境としては申し分のない場所にありました。レジデントハウスと呼ばれる研修医の宿舎に住み込みながらの研修はとても忙しかったですが、指導を受ける先生たちは人間性に富み、尊敬できる先生方ばかりでした。病棟の看護婦さんも新人から中堅までバランスよくそろっていましたし、放射線科や臨床検査の技師さんや薬剤部の薬剤師さんにいたるまでが素晴らしい仲間であり、研修の2年間で嫌な思いをしたことは一度もありませんでした。

私はある指導医に「医者としてのスタンスはこの研修医のときに決まる」と言われたことがあります。今振り返るとほんとうにその通りだと思います。厳しい指導医の元で胃に穴があくようなときを過ごしたことも、朝早くから深夜遅くまでくたくたになりながら病棟業務をこなしたことも、素晴らしい病院で素敵な人たち囲まれて修練したことが今の自分に確かにつながっています。もし、もっと楽で、ゆるゆるな研修をしていたら、自分は今ごろもっといい加減な医者になっていたのではないかと思うほどです。

●医師としてのあり方を示してくれたM君
そんな研修医時代を終え、それなりに医者らしくなったころにであった患者のことを今回はお話ししたいと思います。当時、大学病院の呼吸器内科のスタッフとして働いていた私は、他院から「レントゲン写真上の肺炎の影が改善しない」と紹介されてきた高校1年生のM君を担当しました。M君はお父さん、お母さんご自慢の高校生でした。中学時代にスポーツで素晴らしい成績を収めていたばかりか、ある有名大学付属高校に合格した秀才でもありました。しかし、その高校に入学する前に肺炎症状が出現して他院に入院。合格した高校の入学式にも出られないまま入院生活を続けていたのでした。

もの静かな彼は口数は少なく、自分がおかれた境遇を愚痴ったり、不安をもらすことはありませんでした。一方のご両親は二人とも今の彼がおかれている状況を冷静に受け止めようとしていましたが、やはり転院するという事態に至ったことに多少動揺していました。M君は入院して間もなくいろいろな検査を受けました。中には気管支鏡検査という、多少苦痛をともなう検査にもじっと耐えていました。しかし、ほどなく彼が15歳にして肺がんという不治の病気に侵されており、しかも思った以上に進行している状態であることがわかりました。

ご両親にそうした事情を説明しなければならないのはとても辛いことでした。二人はM君が「治りのわるい肺炎」と思って転院してきたのです。しかもすでに手術できる状況ではなく、抗がん剤による治療もほとんど効果は期待できませんでした。ご両親の落胆ぶりはたいへんなものでした。若年者のがんは進行が早いことが多く、治療によって進行を抑えることすら難しいのです。私はそうしたことを淡々と説明しました。慰めの言葉など見つかるはずもありません。I君の前では気丈にふるまうお母さんや優しい笑顔で接するお父さんの姿がいたたまれませんでした。

その後、このまま何もしないで緩和療法とするか、それとも治療に反応することを期待して抗がん剤を投与するかご両親と相談しました。ただ、なにもしなくても早晩辛い状況になることが予想されるため、抗がん剤を使ってみることにご両親は希望をたくすことにしました。幸い、嘔気の副作用は短期間で済みましたが、彼の髪の毛はすべて抜け落ち、間もなく胸水が溜まる状況になってしましました。放射線治療を併用したりしましたが、進行はとめることも遅くすることもできない状況であり、もはや我々の心のなかは手詰まり感が支配するようになってきました。

彼は素直に治療を受け、検査を受けていました。自分の病気に疑問を持つこともなく、というより疑問をもっているそぶりを私たちに一切見せませんでした。私にはそのことがかえって不憫でなりませんでした。前医に入院して早4か月が過ぎようとしています。合格した学校に通うことはおろか、制服に腕を通すことすらできないでいます。少なくとも彼から不安や恐怖心を遠ざけるために自分に何ができるだろうかと考える毎日でした。そして、できるかぎり彼の病室に顔を出して声をかけるようにしていました。努めて明るく、淡々と。ときには当時上映されていた映画のビデオを貸してあげたり。しかし、それでも彼の孤独をいやすことにはなっていないことに私は気が付いていました。

楽観できない状況の中にあって、それでも胸水のコントロールがつくようになりました。それを機会に帰せるうちに自宅に帰してあげようと考えました。でも、医事課からは、たまに外泊するのはいいが、それなりの期間を自宅で過ごさせるためには一旦退院させなければならない、とのことでした。しかし、いつ彼の様態が悪化するかもわからないのに退院など考えられません。そこで、なんとか外泊ができるようにし、その間、往診に行かせてもらえないかと上司に頼んでみました。しかし、病棟の婦長らからは「そういうことはできない」とつれない返事が戻ってきたのでした。

それでも、私はあきらめることができませんでした。そこで私は彼に外泊として認められるぎりぎりの期間を自宅で過ごさせ、病院と上司に隠れて彼の自宅を往診することにしました(もう20年以上前の話しですから「時効」でお願いします)。私は夜勤明けの看護婦さんからボランティアを募り、お昼休みに彼女らとそっと病院を抜け出して彼の自宅に往診に行きました。今思えば、大変な職務違反ですし、ついてきてもらった夜勤明けの看護婦さんにも疲れているのにずいぶんと無理なお願いをしたもんだと思います。でも、若かった私はなんの躊躇もなくそんなことをやっていました。

自宅での彼の表情は、病院にいたときとは違いとてもにこやかでした。往診とはいっても聴診をして、血圧や経皮的酸素飽和度を測り、ちょっと雑談をかわす程度。でも、当時の私は、治療らしい治療をしてあげられない罪滅ぼしがちょっとだけできているように感じました。お母さんもなんとなくうれしそうにしており、往診に伺う私たちを心待ちにしてくれていました。そんな穏やかなM君とお母さんの様子を見ながら、看護婦さんを連れて病院を抜け出すことに後ろめたさはまったく感じていませんでした。

しかし、そんな穏やかな状況はそう長くは続きませんでした。外泊をなんどか繰り返すうちに彼の肺がんはさらに進行し、みるみるうちに彼は衰弱していきました。病室のベットで横たわっている彼は苦しそうに酸素マスクをつけています。あのときのにこやかな表情はもうありません。ご両親も心配そうに彼を見守っていましたが、私はその二人に「なんとかならないか」と言われるのがとても切なかった。なにもしてあげられなかったからです。苦しまないようにするには鎮静剤なり麻薬なりを投与しなければならず、そうすると呼吸も弱くなってしまうかもしれない。私は、彼の残り少ない命に決定的なくさびを打ち込んでしまうことを恐れたのです。

苦しみに顔をしかめて耐えている彼を見るのが私は辛かった。その彼の手を握り、涙をこらえているご両親を見るのも辛かった。いよいよ臨終が近づき、彼の呼吸が弱くなってくると、ご両親は必死に彼の体をさすりました。「もっと息を吸って。ほら、もう一回、がんばって」。そう呼びかけるお母さんを、なにもできずに私は後ろから見つめていました。そして、いたたまれなくなった私は心のなかでつぶやきました。「もう君はずいぶん頑張ったんだから、もう頑張らなくていいんだ」「神さま、どうかこの子を安らかに天にお召しください」と。彼はほどなくして天国に旅立っていきました。

病院から自宅に帰る彼の亡骸には、一度も腕を通すことのなかった学生服がかけられていました。私は穏やかな表情に戻った彼に手を合わせながら不覚にも泣いてしまいました。彼のお母さんや病棟の看護婦さんを前にしながら私は涙をこらえることができなかったのです。その涙は、自宅で穏やかに過ごしていた彼のことを思いだして流した涙であり、また、なにもしてあげられなかったことへの悔しさの涙でもありました。のちに、お母さんからは「先生から息子の病気の告知を受けた時、本当は淡々としたその様子に『先生は冷たい人だ』って思ったんです。でも、今はそれでよかったんだと思います。あのとき同情されていたら、自分の気持ちを今まで支え切れなかったでしょうから」と言われました。この言葉が今も忘れることができません。

私は、荒井由実の「ひこうき雲」という歌を聴くといつもM君のことを思いだします。そして、涙がこみあげてきます。この歌の歌詞のように、あまりにも短すぎる命でしたが、白い坂道を登って天国に召されたいったM君が天上界ではいつも安らかであることを思いながらこの歌を聴きます。彼を見送ったご両親はさぞかしお辛かったことでしょう。でも、彼はきっとご両親になにかを残していったと思います。私にも残していってくれたのと同じように。

※「心に残る患者(3)」もお読みください。

心に残る患者(1)

人間の生老病死に係わる医師という仕事は、一般の職業と違ってあらたに何かを創り出すという意味では生産性の高い仕事ではありません。私たちの仕事は、人の死を看取るか、怪我や病気が治癒する手伝いをしたり、それ以上に悪くならないようにすることですから、なにか「創造的な仕事をした」という満足感はなかなか感じられないものです。しいて言えば、外科医であれば難しい手術のすえに患者の命を救ったとき、内科医であれば診断がつかなかった患者の病気を見つけ、治療がうまくいったときに達成感のようなものを感じる程度でしょうか。

そんな仕事を長い間やっていると、心に残る患者が何人かいます。残念ながら、そのいずれの人のほとんどは亡くなった人たちですが、いずれも医師としての今の自分につながる大切な人たちばかりです。今回はそんな人たちのひとりの思い出をお話ししたいと思います。

●あるべき医師・患者関係を教えてくれたU君
慢性骨髄性白血病で緊急入院となったU君は当時はある大学の3年生。金融関係に進みたいと考えていた彼はそろそろ就職活動を始めようかと考えていた矢先の入院でした。当時、研修医だった私は上司から「本人に病名を告げてはならない」と厳命されていました。いつも病室を訪れると、彼は晴れやかな笑顔で私を迎えてくれました。私にとってそんな彼はなんとなく弟みたいな存在でした。彼は自分の病気がなんであるのか、そして、これからどうなっていくのかを知りたがっていました。私は上司に病名を告げてはならないと命じられていましたが、彼なら自分の病気のことを理性的にとらえてくれるであろうと感じていました。御両親も私の考えと一緒でした。そこで私はその後何度となく上司に「病名を告げてはどうか」と相談してみました。しかし、上司の返事はいつも同じです。私は上司の指示に従ってはいましたが、心の中では決して納得していませんでした。

あるとき、病状が落ち着き、外出できるようになったU君は病院の近くにある大学の学生食堂に行ってみたいと言い出しました。本来であれば大学での学生生活を謳歌しているはずの彼ですから、その気持ちは私にも十分理解できました。そこで、彼の申し出を許可することにしました。当時、私が研修をしていた病院は病院食がおいしいことで有名でした。でも、学生であふれた学食で久しぶりに食事をする彼の気持ちを想像すると、さぞかし開放感でいっぱいなんだろうと彼の外出を私自身も楽しみにしていました。ところが、その日の夕方、ご両親が私のところにあわててやってきました。「息子が自分は白血病だとショックを受けている」というのです。詳しくお話しを聞くと、大学に外出すると出かけた彼が向かったのは神田の書店街。そこで薬の事典を調べ、今、自分が飲んでいる薬が白血病の治療薬であること。そして、医学書に書かれた症状から自分の病気は白血病だと確信して帰ってきたとのこと。ご両親に彼は「どうして病気のことを黙っていたのか。どうして嘘の病名で自分をだましてきたのか」と問い詰めたそうです。

私はそのことを上司に報告しました。しかし、上司は「それでも真実をつげるべきではない」と主張しました。「患者は本当の病名にうすうす気付いても、主治医がそれを認めない限り、万にひとつの希望を持ち続けるんだ」というのです。そして、「その間に骨髄移植のドナーが見つかれば、そのときこそ真実を告げればいいんだ」とも言いました。私はそれもひとつの考え方かもしれない。でも、U君にとってはそれがいい選択だとは思えませんでした。担当医としての私と患者である彼との関係は、今回の外出で深い溝ができてしまいました。病室に行っても、彼は私に本当の病名を敢えて聞こうとはしませんでした。いつもの笑顔もすっかり消え、私の問いかけに短く答えるのみです。私も彼になんと声をかけたらいいのかわかりませんでした。その後、私はU君との関係を改善させることもできないまま、他科の研修を受けるために病棟を離れることになりました。「他の科に移るけど、なにか相談があったら気軽に声をかけてほしい」と彼に告げましたが、彼は軽くうなずくだけでした。

研修医として忙しい毎日を送っていた私は、いつの間にか彼のことを忘れていました。他科に移った当初は何度か彼の病室に顔を出してみましたが、それも次第にできなくなっていたのです。日々の研修をこなすうちにすっかり彼の病状を気にすることもなくなり、私の中から彼の存在がすっかり薄れてしまったある日のことです。遅くなった昼食を買いに売店に小走りに急いでいたとき、U君のご両親と廊下でばったり会いました。あれから数か月を経て彼のことなどすっかり忘れていた私は、そのご両親に声をかけられたときなぜかとても後ろめたい気持ちがしました。ときどき病室に顔を出そうと決めていたのに実際にはそれができなかったからです。私はU君のご両親に彼の様子を尋ねました。久しぶりに会って笑顔だったご両親の表情は一転しました。「息子は先月亡くなりました」。私の全身から力が抜けていくのを感じました。私が病棟を移ってからというもの、検査という検査、治療という治療をすべて拒否してしまったというのです。

「息子は何度か担当の先生に『せばた先生に会いたい』とお願いしたんですよ。でも、病棟が変わってしまったのでそれはできないと言われて…」とご両親は残念そうに言いました。私は言葉に詰まってしまい、ご両親になにも言えなくなってしまいました。と同時に、「なぜU君のことを自分に伝えてくれなかったんだ」と怒りに似た感情が込み上げてくるのを感じました。私はU君のご両親にお悔やみとお詫びの気持ちをなんとか伝えて、U君が入院していた病棟に向かいました。そして、病棟の看護婦さんに彼のことを詳しく聞きました。私と交代で担当医になった研修医と彼は十分な信頼関係を築くことができず、検査と治療を拒否しているうちに肝臓に腫瘍細胞が転移。あっという間に亡くなってしまったということでした。それよりも私を打ちのめしたのは、彼が亡くなってから骨髄移植のドナーが見つかったということでした。あのとき、彼に真実を話し、彼との信頼関係をもっと築ければ、彼は検査にも協力し、急性期の治療を受け、ひいては骨髄移植を受けることができたかもしれないのです。

私は今でも彼のことを思い出します。しかし、思い出すのはいつも事実を知ってしまい、私との信頼関係が壊れてしまってからの彼の表情。恨めしそうにベットから見上げる彼のまなざしは、悔しそうでもありまた悲しげでもありました。今では真実を告げることが当たり前になりました。真実を受け止めることができようができまいが、患者に真実を告知することが医師の義務であるかのようになってしましました。それはあたかも、医師が告知しないことで患者やその家族から訴訟をおこされるのを避けるためのようでもあります。本来は、医師・患者関係をより深いものにするための告知なのに。患者に寄り添うことは容易なことではありません。ドラマのように美しいものでもありません。忙しい診療に追い回され、患者の心のひだに触れることをあえて避けている場合も少なくないのです。医師にとって担当患者はたくさんいますが、患者にとって主治医はひとり。患者のよりどころは主治医しかいないということをU君は教えてくれました。その後の研修で、ともすれば日常に流されそうになるたびに、彼のあのときの寂しげなまなざしを思い出していました。その思いは今の私の心の底に重く沈んで残っています。

※「心に残る患者(2)」もお読みください。

漢方薬

私は漢方薬をよく使います。しかし、漢方薬を使わない医者もいます。使わないというよりは、漢方薬を信用していないというべきでしょうか。数という意味では、漢方薬を使わない医者の方が多いかもしれません。患者もそうです。積極的に漢方薬を受け入れる患者とそうでない患者がいます。でも、医者であれ、患者であれ、漢方薬を受け入れられない人に「なぜ漢方薬が嫌いなのですか?」とたずねれば、おそらく「怪しげだから」と答えるのでしょう。どうして漢方薬はこのように怪しげにみられるのか。これから私なりの意見を書きたいと思います(あくまでも私の意見であって、なんらかのしっかりした根拠があるわけではありませんので悪しからず)。

私も医者になりたてのころは漢方薬を使っていませんでした。あるとき、担当患者にいくら調べても腹痛の原因が見つからない人がいました。原因がわからないものですから、効きそうな薬をかたっぱしから試すというとても医療とは思えない治療をしていたのでした。毎日病室に診察に行くたびに「お薬は効きましたか?」と聞くのですが、腹痛に顔をしかめている患者からは「ぜんぜんよくなりません」とお決まりの返事が。患者に申し訳ないやら、情けないやらでついつい病室から足が遠のきそうになります。そんな気持ちを振り切って、病室に行くときの重い気持ちは今でも忘れません。どうしたらこの患者の腹痛を治すことができるだろうかといつも考えていた私の目に飛び込んできたのが「ツムラ」の文字でした。

「ツムラ」とは漢方薬のトップメーカーです。その「ツムラ」の文字を目にした私は破れかぶれで「漢方薬を使ってみよう」となったのです。それまで私は漢方薬を使ったこともありませんでしたし、興味もありませんでした。でも、いろいろ調べてみると、どうやらあの患者に使えそうな漢方薬があることがわかりました。漢方薬は一般的に、患者の体型や病態、症状群を参考に薬の種類を決めます。西洋医学においてはその原因を見つけ、それを改善する薬を投与することが多く、その意味で漢方薬は西洋薬とは多少異なる側面があります。ですから、いろいろな検査をしても異常がなく、従って治療のとっかかりが見つからなかったあの患者には漢方薬がうまく使えそうでした。さっそく患者にその漢方薬を使ってみることにしました。

漢方薬を開始した翌日、効果を聞こうと病室に入ると患者の表情は一転していました。「先生、あれ、効きます」と患者はニコニコ顔です。私もこれまでのモヤモヤがすっかり晴れて、「そうですか。よかったですねぇ」と思わず笑顔になりました。とはいえ、「先生は名医ですよ~」と患者に言われながら、心の中では「破れかぶれに処方した最後の頼みだったんです」と後ろめたさ感じていました。患者の腹痛はみるみるよくなり、しばらくして退院していきました。私はそれ以来漢方薬にはまってしまい、西洋薬では十分に対応できないケースなどに漢方薬をしばしば使うようになりました。漢方薬はすべての病気に効くわけではありませんが、ケースを選べば非常に有用な治療薬であることに気が付いたのです。

にもかかわらず、今だに漢方薬に否定的な医者や患者がいるのはなぜでしょうか。それは漢方薬がたどってきた歴史が影響しています。漢方薬というと、皆さんは「中国の薬」と思われるかもしれません。もちろん中国にも漢方薬はあります。しかし、今、日本で広くもちいられている漢方薬の多くは日本で発達したものです。日本での使用経験をふまえて生薬の組み合わせと適応になる疾患や病態がまとめられ今に伝えられているのです。近代医学が導入されるまでの日本で医師といえば漢方医のことであり、漢方治療が医療の中心でした。よく、昔の医者が薬箱をもって往診にでかける様子をドラマで時々目にします。確か、映画「赤ひげ」にも三船敏郎演じる赤ひげが生薬を調合している場面があったと思います。ちなみに、当時の薬代は1日分で米約1升という決まりがあったそうです。今の貨幣価値に直すと約800円といったところでしょうか。

さて、明治維新後、それまでの医学の中心だった漢方医学が西洋医学にとってかわられます。新政府は日本の近代化をはかるため、公衆衛生を普及させ、近代的な医学を導入して国民の健康増進をはかろうとしたのです。そして、明治八年に医術開業試験を導入した開業医制度を採り入れます。当時、最新の医学を有するとされたプロシア(ドイツ)から著名な医学者を招へいするとともに、日本の医師にも近代的な医学教育をほどこそうとしました。しかし、当然のことながら当時の漢方医にはそうした西洋医学の知識はありません。漢方医たちは、新しい開業医制度が自分たちを駆逐する方便だということを知っていたため、激しい抵抗運動を繰り広げました。ところが、国民の視線も漢方医学から近代的な西洋医学に移ってしまったこともあって、過渡的措置として認められた漢方医もその後しばらくして姿を消しました。

以後、漢方医学はすっかり脇役になってしまいました。最新の西洋医学を身に付けた医師の社会的地位は高く、医学博士にもなると月給は200円(今の貨幣価値に直して約400万円)、医学士と呼ばれる病院の医師でも月給は100円(同約200万円)と当時としては破格の給与をもらいました。しかし、漢方医のながれをくみ、開業医試験にようやく合格した医師(試験医師といいます)の月給はたかだか10円(同約20万円)。世の中の人々の中にも次第に漢方が西洋医学に劣るものとしてのイメージが確立していくのです。江戸時代、医師は武士と同様にまげを結い、帯刀を許されました。士農工商の身分にとらわれずに世の中でのし上がっていくために医師は絶好の職業でした。今でいう3Kの職業でありながらも、町医者から御殿医になれれば法外な報酬と地位が得られるため、貧しく身分の低い若者で漢方をまなぶ者が少なくなかったのです。

このような背景があって今だに漢方薬に対する負のイメージがつきまとっているのです。「得体のしれぬ薬」。漢方薬を使う以前の私もそんなイメージをもっていました。最近、有効性を統計学的に示す必要があるとの国の方針のもと、経験的に使用され続けてきた漢方薬を医療保険の適用からはずそうとする動きがあります。これには増大の一途をたどる医療費の抑制という意味合いがあります。しかし、漢方薬は西洋薬のように服用させればそれなりにどんな人にも効くというものではなく、効く人には効くが効かない人には効かないという傾向が漢方薬にはあるようです。こうしたことは漢方薬を実際に使ってみた者でなければわからないことです。ですから、統計学的に漢方薬の有効性を証明しようにもプラスとマイナスが相殺してゼロになる、なんてことも。漢方薬は西洋薬とは同列には語れないのです。

考えてみれば、漢方薬が生き残ってきたのにはそれなりの理由があったんだと思います。あらたに創薬される薬と違って、漢方薬はこれまで長年積み重ねた使用経験で淘汰されてきたものです。はなから効果がなければとっくの昔に姿を消していたわけで、それを単純に効果の統計学的判定でその価値を決めつけるのは間違っています。使ってもみないで漢方薬を批判するのもどうかと思いますが、その一方で漢方薬ですべてが治るかのようないわれ方をするのもどうかと思います。そんなことをすればさらに漢方薬の評価を落とすだけですから。ともあれ、必要に応じて漢方薬を使えば、とても幅の広い診療ができます。でも、そのような診療も保険から漢方薬がはずされればできなくなります。そんなことを考えると、明治維新とともに日本の医療から駆逐された漢方医がどれだけくやしい思いをしたか、私にはなんとなくわかるような気がします。

脳震盪は外傷

(この原稿にスパムメールが送られてきたため、元原稿を削除し1月26日に再掲しました。)

昨日のフィギュアスケートでの羽生選手の演技が話題になっています。事前の練習中に中国の選手と激しくぶつかって転倒。七針を縫う傷を顎に、額も三針縫う怪我を負い、一時氷上で意識を失ったかのような状態になったようです。それにも関わらず、羽生選手は気丈に演技を強行して見事銀メダル。「感動した」「すごい精神力」など、羽生選手の健闘を讃える報道が繰り返されていました。しかし、この感動に水を差すようですが、今回の羽生選手に演技を強行させた判断に私は賛成できませんし、彼の健闘も素直に讃えられません。

中国の選手とぶつかったときの様子はTVで見ましたが、あのときの衝撃は決して軽くはなかったようです。そのことはあの顎と額の傷を見ても、あるいは演技のあとの様子からも容易に想像がつきます。氷上に倒れた彼はしばらく起き上がれませんでしたが、それ自体は脳震盪が疑われます所見です。「のうしんとう」という言葉はよく耳にする言葉ですが、「脳震盪」は実は「外傷」です。しかも、「死にいたる可能性のある外傷」なのです。ただ単に頭を打ったということではなく、のちに脳に少なからず深刻なダメージをおよぼす可能性がある外傷、それが「脳震盪」です。

脳震盪というとすぐに「意識消失」をイメージしますが、頭部を強く打って意識が消失したかどうかは脳震盪の診断に関係ありません。「脳震盪」の代表的な症状としては頭痛やめまい、ふらつき、記憶障害などがありますが、受傷直後には症状に乏しい場合があります。とりあえずは大ごとにならぬように配慮し、その診断がついたときにすでに手遅れにならないようするのが脳震盪のマネジメントの肝なのです。しかし、一般の人(ひょっとするとスポーツの指導者でさえ)のなかには、この脳震盪を甘く見ている人が少なくないようです。

脳震盪のとき、あるいは脳震盪を疑うとき、まずやらねばならないことはなんでしょうか。それは、「少なくとも24時間は絶対安静にして経過観察をする」ということです。受傷直後に検査をして異常がなくても、あるいは受傷直後に症状がはっきりしなくても大事をとって安静にする。命にかかわる状態に至ることがある脳震盪ならではの対応です。脳震盪をしばしば経験するラグビーにおいては、脳震盪の疑いのある日にプレーを再開することは禁止していますし、子供や青年に起こった脳震盪疑い例では24時間以上の安静を推奨しているくらいです。

フィギュアスケートは私もよく見ますが、頭部や首に強い衝撃を受けるスポーツです。決して負担の軽いスポーツではありません。その競技に受傷直後の羽生選手がああして出場することは絶対にあってはならないと思います。演技をし終わったとき、彼がフラフラになっていた様子を見てもそれは明らかです。周囲の人たちは欠場を勧めたが本人の意志が固かったとも報道されています。しかし、このようなことは本人の意志とは関係ありません。協会の名のもとに出場を禁止すべきだったのです。それができなかったのは、ひとえに脳震盪が外傷であり、恐ろしい結果を招く可能性があることを知らなかったからです。

なるほど出場を強行した羽生選手は立派だったかもしれない。しかし、羽生選手自身や彼の周囲の人たちにもう少し脳震盪に対する知識があって、脳震盪の恐ろしさを冷静に説明できる人がいたら彼も素直に欠場したかもしれない。そのとき、それを助言するひとが会場にはひとりもいなかったのが羽生選手には不運だったのです。転倒後に歩いてリンク外に移動するなどという対応が行われていましたし。それを思うと、マスコミにはあえてこの演技に疑問を呈し、脳震盪の恐ろしさを知らせてほしかった。今回の羽生選手の演技強行を美談で終わらせてはいけません。

いつもマスコミ批判をしてしまいますが、一般の国民がマスコミに情報をゆだねている以上、その情報が間違っていれば誰かが正さなければいけない。そんな思いでいつもブログを書いていますので当ブログを読んで不愉快になったとしたらお許しください。

「処方」の根拠

医者が薬を処方するときに一番重要なのは「その処方内容に科学的な効果が確かめられていること」だと思います。つまり、「効果があるのかないのかわからない処方」はダメだ、ということです。そんなことを言うと、「効果がない処方なんてしているのだろうか」と疑問に思われる方がいるかもしれません。しかし、少なからず、「効果があるのかどうかわからない処方」をしているケースはあります。

医者が薬を選ぶときは当然のことながら「この薬が効くだろう(あるいは効くかもしれない)」と思って処方します。それは薬の添付文書を読んだり、製薬会社のMR(営業担当)からの説明を聞いたり、あるいは病気のガイドラインを読んでそう思うわけですが、実は自分の経験に基づいて処方するケースも少なくありません。実際に薬を出しているうちに、「この薬はあまり効かないなぁ」と感じたり、「実はこの薬はよく効く」と思ったりして処方することも結構あるのです。

「結構ある」なんて言い方をしましたが、もしかするとほとんどの処方は経験に影響を受けているといえるかもしれません。他の先生たちが好んで使っている薬があまりいいとは思えなかったり、なんでこんなにいい薬なのに他の先生は使わないんだろうと思ったりすることってしばしばあります。副作用と思われる症状の出る人が多かった薬(もちろん他剤に変更してその症状はなくなりました)が実はシェア・ナンバーワンで、「どうしてあんな薬をみんなは使うんだろう」と思っていたら案の定その薬はある事件で社会的制裁を加えられることになったりしたこともありました。

もちろん、その薬に有効性がなければいけないということは当然ですが、どの薬を選ぶかということになるとそうした医者個人の経験が影響するのです。それを悪いことだと思いません。自分の経験を帰納法的な確信にしていく作業は医者にとっては重要な所作のひとつだと思います。しかし、今はEBM(根拠に基づいた医療)というものが重視され、こうした経験がともすると無視されがちです。「(経験に頼っていた)昔の医者はめちゃくちゃやってたからなぁ」とうそぶく若手の医者もいるくらいです。

しかし、それは本当でしょうか。経験に基づくことはそんなに「めちゃくちゃなこと」でしょうか。逆にいえば、EBMにのっとっていればそれは「科学的なこと」なんでしょうか。でも考えてみてください。そのEBMの根拠になっている学術論文の信頼性に問題があったらどうでしょう。あるときはEBMによって「定説」となっていることが、その根拠を覆す事実が見つかってその定説が書き換えられたら。要するに根拠といっても絶対ではない、というか、その根拠もまた事実によって根拠を失うことがあるということです。

経験がすべてだといっているわけではありません。医者はひとりひとりがまったく違った経験をしています。その経験のとらえ方、影響の受け方もまたさまざまです。思い込みもあるでしょうし、間違った解釈をしている場合もあります。ですから、いろいろな経験を経て、その医者個人がいかに合理的な演繹を積み重ねていけるかにかかっているのです。(薬を)出してみる。効果を確認し、なにか副作用がでていないかを確かめる。EBMにとらわれず、だからといって経験だけに頼らずに処方する。なんだか禅問答のようになってしまいましたが、そうした態度が我々には必要だと思います。

そんな私が「風邪」についていつも患者に説明していることをいくつか列挙してみます。
1.かぜ薬は「風邪を治す薬」ではなく、症状を隠してしまう薬
2.かぜ薬は「早めに飲む薬」ではない。早めに服用するなら漢方薬を
3.かぜ薬のような「症状をおさえるだけ」の薬は、症状が治まったら中断してもいい
4.とくに熱を下げる薬(痛み止めも同じ薬)は一日三回定期的に服用せずに必ず頓服で
5.むやみに熱をさげると風邪は治りにくくなり、重症化しても見つけにくくなる

これらはそれなりに根拠があきらかになっていますが、私の経験に基づくものでもありますので、皆さんの主治医の処方の仕方とは違うかもしれません。そのときはあしからず。