ある医学生の日常

この記事は平成29年12月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを投稿し直します。以下、その記事です。

 

早いものであと20日もすると平成29年が終わります。年があければいよいよ受験シーズンも本番です。このシーズンになるといつも思い出すのが医師国家試験の勉強をしていた医学部6年生のときのこと。このころのプレッシャーと言ったらそれまでの高校・大学の入学試験の受験勉強の比ではないくらい。なにせ医学部を卒業しても国家試験に合格しなければその6年間がまったく意味がなくなるのですから。「猿は木から落ちても猿だが、医学生は国試(医師国家試験)に落ちたらただの人以下」といわれるゆえんです。

以前のブログでも書きましたが、私たちが医学生のころは2年間の教養学部での時代を経て医学部での4年間の専門教育を受けていました。そして、一年半の基礎医学の講義と実習を終えて4年生の後半から臨床医学の講義がはじまるとやがて内科や外科、小児科や産婦人科とった臨床医学の実習へと移行していきます。6年生になるとほとんどが実習となって、秋にはすべての講義・実習が終わって卒業試験。その試験が終わればあとは国家試験に向けて各自の自習期間に突入します。

私は他の同級生に比べて国家試験の勉強が遅れていましたから、自室の机の上に山積みになった問題集や医学書、そして、勉強ノートがプレッシャーを否応なしに高めていました。授業で配られたプリントや卒業試験の過去問など、ついこの間までやっていた卒業試験の勉強の痕跡を残したまま、今度はすべての基礎医学・臨床医学の領域を問う膨大な試験範囲の国家試験の勉強です。人によってはグループを作って勉強会形式で勉強する人もいましたが私はすっかりマイペースでした。

そうした受験勉強本番を迎えるまで、私は比較的のんびりした毎日を過ごしていました。それは大学での授業といえば、そのほとんどの時間が実習に充てられていたからです。もちろん実習をまじめに出ていればそれなりに忙しいのですが、「さぼれる」ことをいいことに大学をさぼって銭湯に行ったり、自室でごろごろして本(しかも医学書ではない)を読んで過ごしていた私は実に不真面目な医学生生活を満喫していたのでした。まじめな(?)学生は実習に出なくても少なくとも国試の勉強をしていました、が。

ただし、言いわけを許していただければ、「実習」とはいってもあまり「勉強にならない」ものが多かったのも事実です。科によっては、学生教育担当の先生自身が「みんな来たの?まじめなんだね」などと言うところもあって、そんなところでの実習は当然のことながら勉強にならないことが多く、「自分で勉強した方がいいや」とおのずと足が遠のいてしまっていました。もちろん「自分で勉強した方がいい」と思いながらも実際には「自分で勉強」などしないんですけど(言いわけしてもやっぱり不真面目でした)。

実習は4,5人のグループ単位で各科をまわるのですが、すでに実習にまわったグループからいろいろな情報がまわってきます。「あの科はさぼってもぜんぜん大丈夫」「さぼるとやばい。必ず早めに集合」などと、行きかう情報に下々の学生は左右されていました。もちろん、優秀な学生やまじめな学生はそんな情報とはまったく無縁です。私の学生グループには「6年間の成績で優でなかった科目が数個」という才媛の女学生がいました。もちろん彼女はすべての実習にも全力投球でさぼるなんて発想はありませんでした。

彼女は臨床講義での板書をしっかりノートにとり、自宅で完璧なノートを作ってくるという驚異的かつ模範的な学生でした。そのノートは医学書にも勝るとも劣らない完ぺきなもの。眼科の実習のときなどは、教育担当の先生がそのノートをのぞき込んで「そのコピーくれない?」と頼み込んだほどです。?そのノートをもちこんでの実習はさぞかし勉強になっただろうと思いますが、「さぼれる実習はさぼる」というスタンスの下々の学生にはとって実習はほとんど無味乾燥に思えるのでした。

実習では、その診療科での基本的な診察の手技を学ぶとともに、代表的疾患で入院している患者を担当し、医師として必要な態度と知識を身に付けていくのです。実習の最後にレポートをまとめて提出。講評をもらって次の科にまわるということを繰り返します。あるときその同じグループの才媛女子学生が返却されたレポートを読み返して落ち込んでいました。「どうして私ってこうもだめなんだろ」と愚痴をこぼしているのです。才媛が自分のレポートを見てため息をついているのを私は遠めに見ていました。

てっきり私は「レポートの出来でも悪かったのかな」と思っていたのですが、実は彼女が落胆していたのは「満点じゃなかった」ということに落胆していたのです。私などは合格していればいいやぐらいにしか思っていなかったので、凡人には理解できない秀才の悔しさってものがあるんだとそのとき思いました。当然のことながら私には慰めようもないのですが、彼女のような秀才たちのすごいところは失敗や不出来にくじけず、かえってそれをバネにさらに努力するというところ。さすがです。

そんな私でも実習にインスパイヤされたときもありました。それは消化器外科の実習のとき。私達学生はまだ医師免許をもっていませんから医療行為はできません。でも、外科の実習の時は術衣を着て、手術帽をかぶり、マスクと手袋をつけて手術に立ち会います。手術は高度な清潔を保たなければならないため、手洗いの方法も、また、術衣の着方、手袋の付け方にも手順が決められています。医学生とはいえ、それまで手術室にすら入ったことがないので、すべてが新鮮で刺激的な経験でした。

手術がはじまると先生は腹部を消毒。メスを握った助教授が皮膚や臓器を手際よくさばいて病巣に到達します。術衣は思ったよりも厚く、また重いものです。おまけに帽子をかぶって手袋とマスクをつけての手術は暑くて苦しくて想像以上に重労働でした。手術の操作が一段落すると、助教授が私に「これをもってて」と術創を広げるための拘(こう)というものを渡しました。これなら学生が担当しても患者の不利益にはならなりません。私は緊張しながらその拘持ちの手伝いをしました。

先生は「ちょっと拘を緩めて。はい、ひっぱって」と私に指示を出します。私はその指示の出るタイミングをはかりながら先を読んで拘を操作しました。手術が無事終わると助教授が私にいいました。「君はセンスがいいね。とてもやりやすかったよ」と。私はなんだかとてもうれしくなって、外科系の実習には積極的に出席するようになっていました。今思うと、その先生はとても教育熱心な先生でしたから、学生のモチベーションを高めるのが上手だったんだと思います。ダメ学生にはなによりうれしい言葉でだったのでした。

内科の実習ではこういうこともありました。とある内科疾患の患者を担当して、その患者の病気のことを詳細に調べ、患者に詳細な問診をして身体所見をとらせてもらいました。そして、実際の検査所見をカルテから抜き出して今後の治療方針を考えて、それらをレポートにまとめました。その内容を教授に報告して講評を受けたとき、私が何気なく使った「再燃」という言葉を教授をとてもほめてくれました。「現在の患者の病態を表現するのに『再燃』という言葉はぴったりだね」と。教育はほめること、ですね。

教育担当の講師の先生に「君は問診のとり方が上手」と言われたこともありました。「眼底鏡の使い方がうまい」といわたり、ほめられるたびに眼科に行こうか、内科に進もうか、それとも外科にしようかと迷っていました。実習を通じて自分の適性や興味を確認することもこの時期の重要な要素なのです。もちろん学生のときに描いていたものとのギャップに気が付くときもあります。学生によっては臨床医には自分は向いていないことに気が付く者も、医学部に来てしまったこと自体に後悔する者もいます。

実習でどんなことに気が付くにせよ、目の前に突き付けられた「国家試験」には合格しなければなりません。最近の医学生は医学部を卒業しても医師という職業を選ばない人もいます。少しづつ増えているのは医学部を出てマスコミに就職する学生です。彼らは医学部での専門的知識を素人にもわかりやすく解説する科学専門職の記者として働きます。それでも医師国家試験の合格は必須です。それは医学部を卒業しただけでは医学士として認められないということでもあります。

さぼれる実習はさぼっていた怠惰な医学生だった私も、さすがに「国師浪人」になることはとても恐ろしいことでした。何年も浪人して結局大学に入れなかった受験生とは異質な恐怖心を医学生はもちます。平均合格率が90%前後と言うことも恐怖心をさらに大きくします。合格率90%ということは「合格間違いなし」という安心感ではなく、「みんなが合格する中自分だけ落ちたらどうしよう」という恐怖感があたまの中をいつもよぎるのです。この恐ろしさは当事者でないとわからないかもしれませんけど。

このときの気持ちは今もときどき夢となってよみがえってきます。臨床講堂で授業を聴いている夢の中の私は周囲の同級生が国試の勉強を順調にこなす中なにも準備ができていません。膨大な試験範囲を前に、「どうしよう。もうすぐ国試なのになにもやってない。このままじゃ合格はおぼつかない。来年、下の学年の連中といっしょにまた受験するなんて」と暗澹たる気持ちになるのです。そんな焦る気持ちで目が覚めることがときどきあります。現実世界でなにか心配事があると、いつもそういった夢を見ます。

今考えると、医学生はものすごい量の勉強をしています。私もそれを乗り越えてきたわけですが、もう一度それをやれるかといえばきっとできないと思います。だいいちにもう一度やりたくもありません。日進月歩の現代にあって、今の医学生はそれ以上に大変かもしれません。昔の牧歌的な医学生の生活なんて今はまるで夢みたいでしょうし。そんな牧歌的な生活だからこそ今の私は懐かしく振り返られるのかもしれません。もともと怠惰な私。五十路もなかばとなり、ふたたび牧歌的な生活をおくりたいと思う今日この頃です。

質的研究(3)

日本とアメリカの両国での集団面接、いわゆるフォーカスグループでは面白い違いが見られました。会場には食べ物や飲物をおき、参加者が話しやすい雰囲気を作ってインタビューをおこないましたが、アメリカでは多くの人が調査開始までの間、コーヒーを飲んだり、お菓子を食べたりしながら参加者同士が談笑しており、皆リラックスしていました。それに対して日本ではほとんどの人がお菓子や飲み物には手をつけませんでした。また、面接が始まるまでは静まりかえっているなど、アメリカでの風景とは異なっていました。

日本での参加者全員が有力者の紹介で集まり、お互いに知り合いだという人もいました。にも関わらず、フォーカスグループが始まってもなかなか発言がありませんでした。ところが、いったんキーワードとなるような話題が出ると話しが多少だけ盛り上がり、日本の参加者は自分の意見を集団の中で発表するのに慣れていないという様子がうかがえました。調査終了後、協力していただいた人には謝礼を支払ったのですが、日本の参加者は全員がその謝礼を受け取るとそのまま会場をあとにしました。

ところがアメリカは違いました。結構な数の人が調査後も残って、私たちを取り囲んでは「とても興味深い調査だね。もっと詳しく教えてくれないか。日本ではどんな話しが出たんだい?」と今回の研究に関心を持ってくれました。しかも何人かの人が「私はこの研究を手助けするために来たのだから謝礼はいらない」と謝金を受け取りませんでした。自発的に参加したか、紹介されて参加したかの違いによるものかもしれませんが、日本人とアメリカ人の社会参加に対する意識の違いを反映しているようにも見えました。

日米での調査がすべて終わるころ、日本での質的調査の結果を論文にして投稿したときある問題が生じました。それは投稿した学術雑誌の編集委員会が、私の質的調査の論文を「原著としては掲載しない。資料としてなら掲載する」と言ってきたのです。科学雑誌に投稿した論文は「査読」と呼ばれるチェックを受け、論文として不適切な部分の修正を求められます。その雑誌の査読を受けていた私の論文はどうやら原著論文にはふさわしくないと判断されたようでした。

「原著論文」というのはその研究の独創性や新規性が学術的に評価されたものであり、「資料」とは興味深い結果ではあるがその価値は参考程度にとどまる論文といったニュアンスがあります。ですから、「この論文は原著ではなく資料として掲載するべき」ということは、科学論文としての価値が不十分だとみなされたのも同然なのです。投稿した雑誌が従来から量的研究の牙城だったからかもしれませんが、原著論文として掲載されないのは質的研究(調査)の論文だったということが大きく影響しているように思えました。

すでにお話ししたように、数値を使って統計学的な有意差を確かめる量的研究とは違って、質的研究はあくまでも分析者の主観を利用しています。主観を利用していますが、「恣意的な研究」ではありません。しかし、「恣意的」だとする誤解(偏見?)が根強く残っている質的研究の論文は、当時、学術雑誌に原著として掲載されることはほとんどありませんでした。しかし、私は「原著論文の価値がある」と確信できる論文を書いたつもりでしたし、ミシガン大学のフェターズ先生からもお墨付きをもらっていました。

一方で私は、質的調査の結果をまとめた自分の論文をあえて量的研究の牙城ともいえる学術雑誌に「原著」として掲載することを重視していました。それは質的研究も「科学的研究」なのだと認めさせる戦いでもあったからです。それまでさまざまなところで感じてきた質的研究に対する偏見や誤解を払拭し、質的研究も学術的な手法として正当なものであることを主張するためには、量的研究の牙城ともいえる学術雑誌に質的研究の論文を「原著」として掲載しなければならならなかったのです。

私の論文は三人の編集委員から査読を受けた後、委員が求めた修正コメントとともに戻ってきました。しかし、査読した委員からの修正コメントには、質的研究を方法論として理解しているとは思えないような不適切な修正要求が書かれていました。私は論文の修正すべきところは修正しましたが、納得のいかない修正要求にはひとつひとつに反論を書いて再投稿しました。編集委員のひとりはその後再修正を求めてきませんでした。しかし、他の二人の委員からはなおも前回と同様の修正要求が再び送られて来ました。

私の反論に対して納得のいく回答がないことを指摘するとともに、共同執筆者でもあるフェターズ先生の「原著論文にならないのは納得できない」との意見を添えて再度反論しました。しかし、編集委員会からの査読結果は変わりませんでした。むしろ「資料でであれば掲載するが、あくまでも原著論文としての掲載を求めるなら受理しない」と突き放すような回答が返ってきました。質的研究の論文を原著として雑誌に掲載することの難しさを改めて感じさせられました。

私はフェターズ先生と相談の上、今回は「資料」での掲載で甘んじ、次の論文を原著で掲載することを目指すことにしました。「今度こそ原著論文で掲載させてみせる」との決意も新たに、その後の論文もこの雑誌に原著論文として投稿しました。もちろん納得のいかない査読結果にはしっかり反論して再投稿しました。ところが、そうした私の意気込みをよそに、編集委員会はあくまでも「原著も資料もその価値は同じだから」という理由を繰り返し、続いて投稿した論文もことごとく原著として掲載しませんでした。

質的調査を実際にやってみると、質的研究の課題も明らかになってきました。そうしたことも、他のいろいろな雑誌に論文として投稿していました。するといつしか原著論文として掲載することを拒んでいたあの学術雑誌から質的研究の論文の査読を頼まれるようになりました。おそらくその雑誌にも質的研究の論文投稿が増えてきたからだと思います。それまで納得できない査読結果に不満をもっていた私は、私自身の経験をふまえて執筆者が質の高い論文を書けるよう、執筆者が納得できる査読を心がけました。

そんなときにちょっとした「事件」がありました。それは投稿された論文を査読していたときの話しです。私はその論文の方法論として修正しなければならない点をいくつか指摘して執筆者に送り返しました。ところが、いつまで経っても再投稿がありませんでした。私はいつの間にかその論文のことを忘れていました。あるとき、雑誌を見ていたらなんとあの論文が掲載されているのに気が付きました。私はびっくりしました。あの論文を雑誌に掲載させることを私はまったく了承していなかったからです。

私は編集委員会に連絡しました。ところが「編集委員会の決定にもとづいて掲載したものであり、あなたの査読結果に拘束されない」というのです。「それではなんのための査読なのか」と強く抗議しましたがあとの祭り。あとで調べてみたらすごいことがわかりました。その論文はなんとこの雑誌の編集委員会幹部の研究室の修士論文だったのです。つまり、一刻も早く雑誌に掲載しないと、学位論文の提出に間に合わなかったというわけです。自分が指導する学生へのお手盛りだといわれても仕方のない判断です。

こんな解釈は私の「ゲスの勘繰り」かもしれません。でも、事実を時系列に並べるとそうなるのです。私は「日本のアカデミックはここまで腐っているいるのか」とあきれてしまいました。質が担保されていた(はずの)私の論文を原著論文として掲載することはかたくなに拒みながら、その一方で編集委員会幹部に忖度したかのように基準に満たない論文を掲載してしまうという現実はあまりにも衝撃的でした。それ以来、私には質的研究の論文の査読依頼は来なくなりました。当然のことながら、後日、私は学会を退会しました。

いろいろなことがあった大学院時代でしたが、ついに学位論文をまとめる時期がやってきました。すでに質的研究の方法論について、あるいは実際におこなった質的調査についてまとめた論文が次々と雑誌に掲載されていましたから、あとは形式にしたがって学位論文にまとめるだけでした。当初、「質的研究で学位はとれないのではないか」という陰口も耳にしましたが、私は「それでもできるだけのことはやってみよう」と気にとめないようにしていました。でも、私はついに質的研究で医学博士の学位を取ったのです。

質的手法をもちいた調査研究で医学博士が授与されたのは私が初めてではないかといわれています。大学院に進学したものの、研究の進め方も、論文の書き方も、すべてを自分ひとりで学んできました。正直にいえば、「学位論文にまとめられれば、学位までとれなくてもいいや」と弱気になったこともあります。しかし、ミシガン大学のフェターズ先生の助言と協力と多額の研究助成のおかげもあって私は学位をとりました。ゼロからスタートして学位にまでたどり着けたことはその後の私の大きな自信となりました。

開業医としての仕事をしながら、大学院時代の「プライマリ・ケアに対する患者ロイヤルティの関する研究」はとても役に立っています。患者が私たちになにを求め、なにに不安を感じているのか。患者の「声なき声」ともいうべきニーズを追い求めながら、あるべき医療を考えるとき、あのときの研究が私にヒントを与えてくれます。日本やアメリカでの質的調査、ミシガンで生活した思い出は今でも私の大きな原動力になっています。今の自分は間違いなくあのときの研究、当時の思い出に支えられています。

質的研究(2)

「プライマリ・ケアに対する人々の信頼を醸成する」ためには、まず、患者がプライマリ・ケアをどうとらえているかを調べてみなければいけないと私は思っていました。それらをインタビューをはじめとする質的調査手法で調べてみようと思ったのです。そして、患者がプライマリ・ケアに対して持っているイメージの背景に何があるかを明らかにしてみようと考えました。そのためにまず日米の比較研究をしてみよう。そう思っていたときに巡り会ったのが米国ミシガン大学のマイク・フェターズ先生です。

私は当初、米国留学から帰国したばかりの助教授に、日米比較調査をするアメリカ側の相手を探すため、米国で診療している日本人医師を紹介してもらいました。するとミシガン大学医学部のアメリカ人研究者が質的研究を実際にやったことがあるらしいと教えてくれました。それがフェターズ先生でした。さっそく私はフェターズ先生にeメールを送りました。すると彼も私の研究に関心があるとの返事をもらいました。それ以後、日米比較調査はとんとん拍子に具体化していきました。

問題は研究費をどう捻出するかでした。質的調査、しかも日米両国での調査となればそれなりの経費がかかります。そこで私は受けられそうな研究助成(グラント)に片っ端から応募してみました。小さな額から大きな額まで、応募できる助成のすべてに申請書類を送りました。その中でもとある大手製薬会社の助成金は500万円と多額でした。大学院に進んでからすでに結構な額の自腹を切っていたこともあって、この研究助成金は是非獲得したいものでした。私は祈るような気持ちで応募しました。

しばらくして私の研究が採択される旨の通知が来ました。500万円の助成金が受けられるのです。正直、ほっとしました。この助成金でインタビュー調査に使用するビデオカメラや音声録音機器のほか、質的調査の分析の際に必要となる機材を購入することができます。なにより調査に協力してくれた人たちに謝金が払えます。また、アメリカへの渡航費用や滞在費も捻出できます。私のモチベーションは一気に高まりました。論文を執筆するペースもどんどん進んでいき、日米比較研究をはじめる準備は次第に整っていきました。

そのときの研究室には大学院生の後輩がいました。他大学の歯学部を卒業した彼を、うちの医局の教授が誘って大学院生として入学してきたのです。しかし、彼もまた入学後ずっと教授から指導を受けることもなく、日々を無為に過ごしていました。なにをやればいいのかわからないまま時間だけが去っていく。そんな毎日に彼はどんどん元気がなくなっているように見えました。せっかく期待を胸に入学してきただろうに、なかば「飼い殺し」になっている彼が気の毒でした。

私は彼を共同研究者にして日米比較調査の手伝いをさせようと思いました。500万円もの助成金を得られたのですから、彼をアメリカに連れていく渡航費も出して上げられます。私の調査の手伝いをしながら、彼自身の研究に対するモチベーションを高められればという思いがあったのです。そのことを告げると彼の表情は明るくなりました。これまでたったひとりで頑張ってきた私ですが、共同研究者という心強い仲間もできました。日米比較調査に対する期待はどんどんふくらんでいきました。

フェターズ先生とはeメールで、ときには国際電話でやりとりをしながら日米比較調査を具体化していきました。その一方で、渡米するまでに日本でのインタビュー調査も進めておかなければなりませんでした。北海道大学の倫理委員会に日米比較調査をする申請をしたり、調査に入る地域への挨拶まわりをしたり。調査に協力してくれる人の募集やインタビューガイドとよばれる進行表の作成など、やらなければならないことが目白押しでした。それまでマイペースだった大学院生活は一転してとても忙しいものになりました。

そんなとき、フェターズ先生から私を愕然とさせる連絡が入りました。それは「ミシガン大学との共同研究には約300万円の協力費が必要だ」というのです。今回の日米比較調査は正式に北海道大学とミシガン大学の共同研究になっていました。ですから、北海道大学に対する申請の他に、ミシガン大学でも膨大な申請書類を提出して審査を受けなければなりません。ミシガン大学の施設を使い、私も研究員として調査に加わる以上、それなりの費用がかかるというのがフェターズ先生の説明でした。

500万円の研究助成を受けられると喜んでいたのもつかの間、その多くをミシガン大学に支払わなければならない。フェターズ先生は「これは大学の決まりだから」と言いますが、思いもかけない多額の出費はやはりショックでした。しかし、予算が大幅にオーバーするからといって調査を縮小することもできません。アメリカに連れて行く後輩の渡航費を負担しないわけにもいきません。予想外の出費を自腹でまかなうことにして調査は予定通りに進めることにしました。

アメリカには打ち合わせのために何度か行きました。そのときの珍道中はすでにこのブログでも紹介した通りです。ビデオ機材を担いでなんども「羽田ーデトロイト」を往復したせいか、アメリカでの入管では結構しつこく入国目的をきかれました。二回目の打ち合わせに渡米した帰り、成田空港では珍しくめずらしく手荷物検査も受けました。入管の審査官はビデオの三脚を中心に細かく調べていましたが、おそらく麻薬の密売人を疑われていたんだと思います。三脚に麻薬を隠すことが多いのでしょう。

日米比較調査というビックプロジェクトを進めているというやりがいを感じながら毎日が充実していました。日本での調査も順調に進み、あとは渡米するのみとなりました。アメリカでの長期滞在のために用意したどでかいトランクの中には、日本での調査結果とともに私の夢と希望が詰まっていました。成田で共同研究者である後輩と合流し、「羽田発デトロイト行きのノースウェスト機」に搭乗しました。打ち合わせに初めて渡米したときの失敗を繰り返さないためデトロイトへの直行便を選びました。

デトロイト空港での入国審査ではかなり入念に質問されました。「入国の目的は?」「どのような研究?調査の内容は?」「共同研究者の所属と名前?」「その間の生活費はどうする?」「どこに住む?」などなど矢継ぎばやにきかれました。きっと観光ビザで入国しても実は労働目的ってアジア人が多いからなんでしょう。ようやくアメリカに入国できたのもつかの間、レンタカー会社に行き、慣れない英語で車を長期間借りる手続きをしてようやくアン・アーバー市へ。

アン・アーバーに着いてミシガン大学へ。まずは大学の留学生用の宿舎を借りなければなりません。広い大学構内にレンタカーを走らせ、あちこち迷いながらようやく事務所にたどり着きました。英語での手続きは思いのほか簡単ですぐに終わりました。ミシガン大学の広さは日本の大学の比ではありません。構内にひとつの街が存在するかのような広さ。無料の巡回バスが定期的に走っているくらいですから。校舎を移動するときはそのバスに乗っていきます。アメリカでは車なしでは生活できないのです。

大学の構内には至るところに掲示板があり、ボランティアの募集やなにかのレッスンの勧誘チラシがぎっしり貼られています。例えば、転居かなにかで車が不要になった人は「車売ります」と書いた紙を貼っていきます。そのチラシには電話番号が書かれた小さな紙片がぶらさがっていて、その車に興味をもった人たちがその小さな紙きれをちぎって持って帰るのです。アメリカに何年も留学する人たちはこうして中古の車を手に入れます。アメリカならではの合理的なシステムです。

私たちが借りた留学生用の宿舎は二階建ての建物の二階にあって、20畳ほどのリビングと8畳の寝室、そして、台所とバスルームという家内とふたりで生活するにはちょうどいい広さでした。週末には掃除や洗濯をしてくれるハウスキーパーが来てくれました。一方で、一緒に連れて行った大学院の後輩は、発展途上国からの留学生などが格安で住むことができるアパートに部屋を借りました。そのアパートは大学からは少し離れていましたが、私の宿舎に来るときは大学の無料バスで来ることができました。

フェターズ先生は家庭医療学講座の准教授でした。平日は彼のオフィスがある大学の施設に通い、アメリカで行なう調査の計画と準備をしました。オフィスには長崎大学医学部から留学していた先生や公衆衛生学部の日本人留学生などがいて、私たちの調査に協力してくれました。24時間英語で話さなければならない環境は私にとってはそれなりにストレスでした(家内によれば、寝言すら英語だったそうですから)が、日本語が通じる日本人留学生が身近にいることはとても心強かったです。

準備万端でおこなったアメリカでの調査はとても興味深いものでした。アメリカ人の成熟した社会性に感心したといってもいいかもしれません。調査はまずインタビューに協力してくれる人を探すことから始めました。当初、誰かからの紹介ではなく、調査に興味を持ち、自発的に応募してくる参加者を集めることにしていました。そこで、アン・アーバー市とその周辺地域にある教会やスーパー、床屋さんなどをまわって、掲示板にチラシを貼らせてもらい協力者を募集しました。

アメリカでは協力的な人ばかりでした。調査の目的と概要を説明して「貼り紙をさせてもらえないか」と頼むとほとんどの人が好意的でした。「とても大切な調査だね。好きなところに貼っていっていいよ」といってくれます。とくに教会などでは「他の教会、知り合いの人にも貼り紙を頼んであげましょうか」と申し出てくれるなどとても協力的でした。ときには私の英語が下手で困ることもありましたが、貼り紙をさせてもらうのに苦労することはほとんどありませんでした。

一方、日本ではこうはいきませんでした。同じように貼り紙をお願いしても、「それはちょっと勘弁してください」と拒否されたり、「責任者の許可をとらなきゃならない」と言われてその後返事がないまま、といったことがしばしばでした。日本では調査の目的や内容の問題というよりも、「協力する」ということ自体が嫌厭されていたように思います。結果として、アメリカでは貼り紙を見て自発的に応募して来た人が多かったのに対して、日本の参加者はその全員が紹介してもらって集めた人という結果になりました。

 

********* 「質的研究(3)」に続きます。

質的研究(1)

私がまだ医学部の学生のころ、「全人的医療を考える会」というセミナーが開かれていました。「全人的医療」とは「人の疾患を診るのではなく、病気を抱える患者を診る」をスローガンとする医療をいいます。その医療を実践する運動で中心的な役割を果たしたのが今は亡き大阪大学の中川米蔵教授です。セミナーでは座学や講演、体験学習がおこなわれましたが、私はその会自体よりも体験学習に興味があり、その方法論をめぐって中川教授となんどか手紙のやりとりをしたほどでした。

当時から私は「医者には面接技法が必要」と思っていました。そんなこともあって、カウンセリングを治療法としてもちいる臨床心理学を中心に勉強していました。セミナーでの体験学習の方法論につながっているように思えたからでもあります。エンカウンターグループという集団面接によるカウンセリングは、医者になったとき、外来での患者とやりとりに活かせるのではないか。そんなことを考えながら勉強していましたが、後に私が学位をとった質的研究にもつながっていきました。

私は特定の臓器を専門とする医者(一般的にいう「専門医」)になろうとは思っていませんでした。当初からプライマリ・ケアを担当する「プライマリ・ケア医」としてできるだけ患者を幅広く診ることができる医者になろうと考えていました。病気を治療・管理するだけではなく、患者の不安や悩み、健康相談までトータルにサポートできる医者になりたかったのです。専門医になることよりもプライマリ・ケア医として患者を診ることの方が医者としてやりがいがあると思っていたのかもしれません。

しかし、「プライマリ・ケア医(開業医)を信用していない国民は決して少なくない」ということはうすうす感じていました。「開業医」や「町医者」といった言葉には、どこかその医者を軽蔑するような響きがあります。大学病院の医者は優秀で、町医者はあてにならない、そんなイメージがあるのかもしれません。開業医の多くはかつて大学病院の医者だったのに、町医者になったとたんになぜそのようなイメージにかわるのか。私は以前からその理由が知りたいと思っていました。

専門診療をする医者には当然専門性がなければなりません。その専門医が持つ高度で専門的な技術と知識はプライマリ・ケア医にはないものかもしれません。しかし、その一方でプライマリ・ケア医には患者をトータルに診ていく医師としての守備範囲の広さが必要です。特定の臓器をあつかう専門医にはこの守備範囲の広さがありません。つまり、それぞれの医者にはそれぞれの専門性があるのです。専門医の「深さ」とプライマリ・ケア医の「広さ」を「どちらが有能か、優秀か」と比較すること自体が無意味なのです。

にもかかわらず、一般の人たちの中にはプライマリ・ケア医に対する根強い不信感がありそうです。それがどう形成されてきたかを知ることは、プライマリ・ケア医への信頼をとりもどすことにつながるかもしれません。しかし、そうした調査や研究をした文献はこれまでほとんどありませんでした。プライマリ・ケアに関する研究はそれだけ遅れているということでもあり、私は大学院で「国民の信頼を得られるプライマリ・ケアのあり方」について研究をしてみたいと思いました。

といいながら、私が調べたいと思っていた領域の研究の指導をしてくれる場所がありません。仕方なく当時所属していた医局の教授を指導教官にして大学院に進むことにしました。「仕方なく」と書いたのは、当時の医局の教授はあまり研究に関心がなく、適切な指導を受けることは期待できなかったからです。しかし、それは逆に自由に研究をさせてもらえることでもあります。なにはともあれ、とにかく大学院に進んでやれるだけのことはやってみようと思ったのでした。

大学院に進んでみると、予想したとおり指導教官の「指導」はありませんでした。何をどうしたらいいのか、私は手探りで研究を始めなければなりませんでした。でも、自分で選んだ道です。同じ研究室の仲間達に愚痴をこぼしながらも、とりあえず「プライマリ・ケアへの信頼を取り戻すにはどうしたらいいか」という大テーマに関連する本を私は片っ端から読んでみました。また、これまでの先行研究もできるかぎり取り寄せて読みることにしました。はじめの1年はこの作業に明け暮れました。

すると、やらなければならないテーマが次々と浮かんできました。その領域もどんどん広がっていきます。それほどまでに医師・患者関係に関する研究はほとんどが手つかずだったのです。それには理由がありました。まず、医者はそのような事柄に関心がなかったこと。そして、「どのような方法論」で調べていくかについて限界があったからです。多くの研究はアンケートに頼ることがほとんどでしたが、アンケート調査を繰り返してもそれまでの研究成果をブレイク・スルーするような結果は得られなかったのです。

研究課題を明らかにするのにふさわしい方法論が見つからない。そんな現実に行き詰まっているうちにあっという間に2年が経とうとしていました。あと2年で成果を出さなければいけないというプレッシャーを感じるようになったとき、アメリカでの留学を終えて助教授に赴任してきた先生に「アメリカでは『質的研究』というものがあるようだから勉強してみたら」とアドバイスされました。「質的研究」という耳慣れない言葉に興味をもった私はさっそく調べてみることにしました。

試験管を振ったりして実験的に調べる研究を自然科学といいますが、人々がどう考えているのかをアンケートなどの手法を使って調べる研究を社会科学調査といいます。アンケートでは統計学的な手法を使って回答の傾向を調べますが、社会調査ではときにアンケートではなく、観察調査やインタビュー調査などによって人間の行動や意識の深い部分を探ろうとするものがあります。これらの手法はアンケートでは知ることのできないような事象の意味などを調べるときに有用な方法論です。

このように、社会調査の中でアンケート調査のようにデータを数値化して統計処理するものを「量的研究」、インタビューなど非数値化データを利用して解析するものを「質的研究」といいます。従来の「量的研究(調査)」に慣れた人たちからすると、数値や統計処理に頼らずに解析する質的研究は客観性に欠けた「いい加減な調査」に見えるようです。質的研究に向けられる批判の多くはまさしくその「客観性がない(に欠ける)」という点(ある意味でこれは無知から来る誤解なのですけど)でした。

でもよく考えてみて下さい。アンケート調査はデータを数値化して統計理論を背景に客観性が担保されているように見えます。しかし、アンケートの回答がきちんと対象者の意見や考えを反映しているとどうしていえるでしょう。アンケートの内容、設問の妥当性が担保されているかという点は重要です。しかし、そこは皆目をつぶっています。アンケートの選択肢にはない回答は「その他」として処理されますが、「その他」の回答の中にこそ重要な情報があるといった場合もあります。

つまり、「量的研究」と「質的研究」のどちらが優れているかという問題ではないのです。その調査に適している方法論はなにか、というところが大切なのです。たしかに質的研究は恣意的なもの、あるいは作為的なものになる危険性はあります。しかし、調査プロセスをしたがって、調査の質を担保する工夫を施し、論理的に結論を見いだす努力によって科学性はある程度担保されます。そのことを私は、質的研究の方法論をその根本から学びながら実感しました。

私はまず「恣意的だ、主観的だ」といわれる質的研究の方法論を一度整理してみようと考えました。質的調査の正当性・妥当性を統計学的に調べようと思ったのです。学生アルバイトを募って、質的研究でおこなう分析の妥当性を検討する実験をしてみました。たった8人ほどの学生を使ったものでしたが、事前に分析のプロセスを決め、複数の分析者による確認作業を併用すれば、「人間の主観はいい加減だ」と一方的に批判されるべきではないことがわかりました。

こんなことがありました。ちょうどこの頃、長男は2歳ぐらいでいろいろなものを口にするので困っていました。携帯電話を手にしてボタンを押すことを覚えて、いろいろなところに電話をかけてしまい、その都度私たちが謝りの電話をかけるといったことがしばしばありました。私のところにもなんどか電話がかかってきて、「もしもし」と呼びかけても返事なし。何度も呼びかけるうちに「スーハー、スーハー」と鼻息だけが聞こえてきます。なにやら「変態電話」のようなコールでした。

あるとき私の携帯をなにげなく見たら、方法論に関する実験を手伝ってくれた女子学生の連絡先に電話をかけた痕跡がありました。若い女子学生のところに用もないのに私が電話をするはずがありません。私はとっさにあの「スーハー、スーハー」という息子の鼻息を思い出しました。私の携帯からの電話を受取って、その「スーハー、スーハー」を聴いて女子学生が勘違いしていないか心配になりました。私は勇気を出してその女子学生にかけ直し、息子が間違ってかけてしまった電話だったとお詫びしました。

彼女たちのような学生を使って質的研究の方法論を検討してみると、質的な調査手法が私がこれからやろうとしている研究に役立つことを確信しました。しかし、指導教官にそうした進行状況を報告しましたが反応はありませんでした。また、医局の中ですら私の研究に向けられる冷ややかな目を感じていました。統計調査に慣れた人たちからすれば、質的研究という聞き慣れない方法論は「統計学的に意味のない調査」に見えたのかもしれません。私はそうしたまるで偏見のような逆風を感じながら研究を続けました。

 

****** 「質的研究(2)」につづくに続く

価値観の違い

17世紀、それまで強大な力で欧州全土を支配していたローマ帝国が急速に衰退していきました。そして、ついに神聖ローマ帝国が崩壊すると、欧州は宗教や民族などによって小国家に再構成され、独立国家が林立する地域へと変わっていきました。利害を調整し、紛争を回避するため、いくつかの国家はウェストファリア条約を締結し、国際法という基準を設けて不測の衝突が起こらないようにしました。ウェストファリア体制に至るまでの欧州の歴史は、貪欲なまでに富を求めて侵略を拡大し、宗教の名のもとに殺戮を繰り返してきました。混乱と破壊の中世から抜け出すことが近代国家への第一歩だったのです。

一国の利害はその国民の価値観や歴史観にも関わることでもあり、簡単に調整できるものではありません。今の日本をとりまく国際状況を見れば、それは容易に理解できると思います。歴史は史実に基づくものであるべきですが、その一方で史実の解釈には価値観やそれまでの歴史観が影響します。同じ歴史的事実を見るにせよ、その視点を変えるとまるで違った解釈が生じてしまいます。「大人の対応」をしても、それで相手の態度が変わらなければ意味がありません。善かれと思ってやったことに対して相手が被害者意識を持つこともあります。価値観の違いとは実に難しいものです。

国と国とのつきあいがそうであるように、たとえ親子であっても価値観の一方的な押しつけになってはいけないと思っています。価値観の多くが「良いこと、悪いこと」ではなく、「好き、嫌いの問題」だからです。もちろん、国際法のような基準が存在し、その基準に照らして判断できるときはまだいいのです。そうした絶対的かつ客観的な基準が存在しない価値観の問題は、どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると言い切れないだけに、調和を図っていくために明確な答えはありません。たとえば家族内のもめごとの多くは、そんな価値観の相違から生じるのではないでしょうか。

若い頃の私は、しばしば両親と価値観の違いで衝突したものです。私の両親はどちらかというと自分の価値観を押しつけてくるタイプ。それに対して私は、自分の価値観を押しつけないかわりに人から価値観を押しつけられることに反発するタイプ。ですから、親から「そんなの常識だろ」といわれると、「それは誰の常識なんだよ」と言い返しては口喧嘩になることがありました。親が善かれと思ってやってくれたことが私には「ありがた迷惑」そのもので、拒絶する私に両親は「おまえにはありがたみがない」とよくこぼしていました。そんな光景はかつてほどではなくなったにせよ今もときどきあります。

価値観の違いを否応なしに認識させられるのが新婚のころです。生まれも育ちも異なる二人が同じ屋根の下で一緒に生活をするのですから、さまざまな局面で価値観の衝突が起こります。その衝突をうまくかわすことができたり、なんなく解決することができればいいのですが、いかんせん人生経験が圧倒的に足らない二人です。若い夫婦にとって価値観の違いを埋めたり、あるいは調整するという作業はそう簡単ではありません。かつては新鮮に見えたり、魅力的にさえ見えたお互いの価値観が、日常のありふれた光景になるにしたがってふたりの間に壁となって立ちふさがるようになってくるのです。

私たちもそうでした。新婚当初、なんども家内の価値観との違いにぶつかって「このまま一緒に生活していけるのだろうか」と思ったほどです。とてもたわいのない気持ちのすれ違いや、どうってことのない誤解が二人の間に溝を作り、その溝がまた新たなすれ違いや誤解を生む。こうした事態をどう解決したらいいのだろうかとひとり思い悩んだことが何度もありました。おそらくそれは家内も同じだったろうと思います。ふたりのゴタゴタは家の中に不穏な空気をつくります。幼かったころの私は、両親にとってはとるにならないゴタゴタであったとしても、家庭の中がいかに重苦しいものになるかを敏感に感じ取っていました。

ですから、新婚時代の私にとって価値観が衝突することは思いのほかストレスでした。価値観の違いそのものというよりは衝突により家の中の雰囲気が悪くなることがなにより嫌だったのです。私はどうしてそういう険悪な状況になってしまうのかを考えてみました。するとそこには一定のパターンがあることに気が付きました。そして、この負のパターンを断ち切るためにはどうすればいいか。あれこれ考えたあげく、家内と次のような約束をしようと決心したのでした。

① もしお互いに不愉快な思いをしても、翌日にはいつものように接すること。たとえ相手に
  100%の責任があると思ったとしても、できるだけ普段通りの接し方をする。

② 気分を害するような相手の言葉や態度についてはできるだけ相手に指摘するようにしよう。
  それができなかった場合でも、決して「口をきかない」などという非生産的なことはしない。

といったものでした。でも、相手の言動に腹を立てた翌日にいつも通りに接することは言うほど簡単ではありません。言い出した私自身も簡単にできたわけではありません。とはいえ、腹を立てているはずの相手がいつもどおりに接しようとしている姿に気がつくと不思議とこちらの気持ちが穏やかになるのを感じました。そして、100%相手が悪いと思っていても「こちらにも非があった」ということに気がつくことさえありました。そんなあのときの約束がなんとなく日常となって20年。努力の甲斐があってか、今の私達はむしろ新婚の時よりも仲がいいのではないかと思います。

価値観の異なる二人が同じ屋根の下で生活することになれば、多少なりとも自分の価値観を抑え、譲歩しなければならないときがあります。「価値観の譲歩」などというとたいそうなことのように思いますが、よく考えてみると実はささいなことで衝突している場合がほとんどです。カチンときても何日かすれば忘れてしまうようなたわいのないものばかり。そんなつまらないことで腹を立てたり、衝突しているのだということに気がつくことが大切。それに気がつけば、自分の価値観を振り回して他者を断罪したり、自分の価値観を押し通そうとすることがいかにくだらないかにも気がつきます。

私はまだ結婚していない若い人たちに「結婚は【ゆ・あ・が・り】が大切だよ」とアドバイスすることがあります。【ゆ・あ・が・り】の「ゆ」とは「(相手を)許す」ということ。「あ」とは「あきらめる」ということ。「が」とは「我慢する」ということ。そして、「り」とは「理解する」ということです。そんなことを言うと必ず「結婚生活ってつらいものなんですね」と笑われるのですがそうではありません。こうした努力が「明日の幸せ」につながるのです。そして、私は若い人たちに付け加えるのを忘れません。「【ゆ・あ・が・り】をしてまでも幸せな生活を築いていきたいと思う相手と一緒になりなさい」と。

国家間のあり方も同じです。どちらか一方だけが我慢する関係や、力づくで自分の欲しいものを奪い取る・奪い取られる関係はどう考えてもいびつです。ましてや、一方の国の誠実さや弱さ、相手の「人のよさ」につけこむような狡猾さをもっていては決して信頼関係を築けません。しかし、海千山千の国際社会において、国際法を守っていれば、正義を貫いていればどんな国でも正当に評価し、支持してくれるほど現実は甘くありません。どの国も国益をかけているのですから。でも、せめて家庭の中だけは心許せる安心・快適な場所でありたい。そのために必要なのは価値観の調整なのではないかと思います。

皆さんも家族の幸せのために【ゆ・あ・が・り】を実践してみせんか。

ある「バイト」にて

7月7日の「あるバイトにて」にスパムメイルが集中してきましたので、原文そのままで再投稿します。

********** 以下、原文

ひとつの記事が少し長すぎるようです。しかし、書きたいと思うテーマがなかなか見つからない割には、いったんかき出すと次々と伝えたいことが湧いてきます。そして、あっという間に5000文字を超えてしまうのです。小学校のころ作文といえば超苦手なもので、なにをどう書けばいいのかもわからないまま、原稿用紙はずっと机の上に置きっぱなしになっていたというのに。人間とは成長する生物だってことでしょうか。
そして、また今度も長くなってしまいました。どうぞご容赦くださいませ。

********************* 以下、本文

 

先日の新聞に「全国の医学部に無給医が2000名あまり」という記事が載っていました。多くの国民の皆さんは「給料をもらわないで働いている医者がそんなにいるんだろうか」とびっくりしたかもしれません。しかし、私たち医者からすれば「ほんとにそれだけなのかな?」と別の意味で驚きでした。大学病院の研修医の待遇はずいぶんと改善されました。かつて、大学病院で働く研修医には給料は払われていませんでしたから。研修医ばかりではありません。卒業後そう年数がたっていない若い医者でさえ、助手以上の肩書がつかなければ給料はありませんでした。その待遇改善が70年代の学生運動の発端でもありました。

「給料をもらわずにどうやって生活するの?」と思われるかもしれません。当然の疑問です。給料をもらえない医師たちは外部の病院でアルバイトをして生活費を稼ぐのです。そうした医師たちの中には妻帯者もいます。子どもを抱えながら家庭を支えている医師もいます。しかし、多くの若い医師たちは社会保険にも加入できないフリーターのような生活を余儀なくされているのです。アルバイトは外来診療だったり、内視鏡などの検査だったり、病院の当直だったりとさまざまです。だからといって大学はアルバイトをする日を勤務日として認めてくれません。休日を使ってアルバイトに行くという位置づけになっています。

「そんなこと当たり前じゃないか」と言われるかもしれませんが、当直明けに大学にもどってもそのまま通常診療となるのです。当直(宿直)の仕事といえば、通常であればそれ相応の睡眠時間が確保されていることになっています。「必要に応じてときどき働く」からです。一方、夜勤というものは、仮眠はあるものの「日中のように働く」というものであり、給与は日中よりも割増しになっています。しかし、病院の当直業務は、仮眠はおろかまったく睡眠がとれないままに診療をするものが少なくありません。にも関わらず給与は「当直」並み。おまけに次の日が休日になることはなく通常通りの勤務になるのです。

以前、そうした当直バイトのことを書きました。若い医者にとって、それはそれなりに勉強にはなりますが体力的にはやはりきついものです。ですから、バイトを余儀なくされている医者はできれば「寝たきりバイト」にならないかなぁなどと考えます。「寝たきりバイト」とは、たまに病棟から呼ばれるだけで夜起こされることのほとんどない当直バイトのこと。しかし、そんな楽なバイトがそう簡単に見つかるものではありません。でも、臨床経験の少ない研修医はそんな「寝たきりバイト」であってもいろいろなことを学べます。彼らにとっては単なるお金稼ぎのアルバイトじゃないのです。

かつて私がやった「割がいいバイト」に、検診車に乗って健康診断の内科診察に行くアルバイトがありました。大学にいたときしばしばやらされました。朝、指定された時間と場所で待っていると検診車がやってきます。その検診車には採血をする看護婦さんやレントゲン技師さん、会場設営や受付などをする職員が乗っていて、一緒に健診会場に向かうのです。会場に着くと手際よく設営の準備がはじまります。私達医者がへたに手を出すとかえって足手まといになるのではないかと思うほどの手際のよさです。会社の営業所だったり、ファミレスの職員休憩室だったり、限られたスペースにあっというまに健診会場ができあがります。

一番記憶に残っているのが高速道路の料金所の健診のこと。料金収受員の皆さんの健康診断でした。そこで驚いたのは収受員の皆さんの多くが難聴だったことです。どの健診でも聴力が落ちている人は何人かはいるのですが、その高速道路の料金所ではほとんどの人が難聴でした。不思議に思った私は収受員のひとりに質問してみました。まわりにいた収受員の人たちが互いに顔を見合わせて笑い出しました。笑いながら「先生、なんでだと思う?」と。私にはその理由を医学的に説明することができません。しばらく考えてはみたものの結局わからず、その理由を収受員の人から教えてもらいました。私はその理由に愕然としました。

「俺たちはみんな元陸上自衛官なんだよ」というのです。この料金所の近くには自衛隊の駐屯地がありました。ですから、退職者がその料金所に再就職していても不思議ではありません。「耳が悪いのがなんでかわかるかい、先生?」。私はその理由に見当がつきませんでした。「陸上自衛官はどんな仕事をするんだい」、そう言われて気が付きました。ハッとして私は「鉄砲を撃つからですか?」ととっさに答えました。収受員の皆さんが微笑みながらうなづきました。「戦車の大砲だってあるよ。高射砲や機関銃もね。だからみんな耳が悪いのさ」。私は思わず「耳栓はしていないのですか?」と訊いてしまいました。

健診会場にいた元自衛官達は一斉に笑い出しました。「先生、耳栓をして戦争ができるかい?敵の動きを耳で確認しなきゃ先に打たれちゃうでしょ」と収受員。私はなんてつまらないことを訊いてしまったんだろうと思いました。と同時に、自衛官たちはこうして聴力を犠牲にしながら日々訓練しているんだ、と改めて思いました。「だから自衛隊病院があるんですね」と私が言うと、ひとりの収受員が「先生はなにも知らないんだな。訓練でなっちまった難聴なんて治らないし、俺たちみたいに退職したら自衛隊病院は使えないんだよ」と諭すような口調で言いました。なにも知らない自分が恥ずかしくなりました。

そういえば、私がアメリカ・ミシガン州にいたときミシガン大学病院の近くに「Veterans’ Hospital」という病院がありました。当時、「Veterans」という言葉の意味を知らなかった私は、アメリカ人の友人にその意味を教えてもらいました。実は「Veterans」は「退役軍人」のことでした。この「Veterans’ Hospital」という病院は、戦争で負傷した、あるいは障害をおった退役軍人のための病院だったのです。退役軍人がこの病院をかかるとき、医療費は一切かからないということでした。「アメリカでは国のために戦った軍人は尊敬される存在なんだよ。その軍人が怪我をしたり、障害が残ったら国が責任を持つんだ」というのです。

料金所の収受員さん達の話しを聴きながら、私はアメリカで聴いた「Veterans’ Hospital」のことを思い出しました。と同時に、退職した自衛官は自衛隊病院を受診できず、ケアも受けていないということを知り、アメリカと日本との軍人に対する国の姿勢の違いにびっくりしました。「俺たちは鉄砲の弾みたいなものだからな」と自嘲する元自衛官を見ながら、日本人の多くがこうした現実を知らないことをなんとなく腹立たしく感じました。そんな国の姿勢にも関わらず、毎日、泥だらけ、埃だらけになり、身体機能を犠牲にしてまで訓練に励む自衛官がほんとうに立派に思えました。

私がまだ中学生のころだったでしょうか。当時はまだ私服での外出が許されなかった防衛大学の学生をときどき見かけました。あるとき、電車の中で制服姿の防衛大学の学生が数人の大人に囲まれてなにかを言われているのを見かけました。なんて言われていたのかはっきりは覚えていません。しかし、その学生が下を向いてじっと耐えていたその様子からはきっと心ない言葉を投げつけられていたんだと思います。そんな思いをしながらも日本を守るために昼夜を問わず働いている自衛官。難聴になったことを自虐的に話す料金所の元自衛官達があのときの防大の学生と重なってとても切ない気持ちになりました。

今、思うと、無給で働く医者も同じだと思います。当時はそれが当たり前だと思っていましたからなんの疑問も感じませんでした。しかし、身体的な犠牲を強いられながら訓練を重ねる自衛官が、退職後、身体的なあるいは心理的なケアがなされていないと同じように、無給で働きながら、休日にアルバイトを強いられ、しかもその翌日はまたいつものように大学病院で働く若い医者たち。考えてみればおかしなことです。医者には労働時間というものがありません。残業時間でいえば多くの医者はそれこそ「過労死レベル」です。今でこそいろいろなところで待遇は改善されているかもしれません。それでもまだまだ不十分です。

大学を辞めて民間病院に勤務することになったとき、家内ははじめてもらった給与明細を見ながら「なんかほっとした」といいました。はじめはどういう意味かわかりませんでした。でも、それまではまるで日雇いみたいなアルバイト生活でしたから、「常勤医が見つかったからもう結構です」と言われればその日から仕事はありません。また次のアルバイトを探さなければならないのです。その月によって収入も一定しなかったこともあり、毎月決まった額の給与が銀行口座に振り込まれることは「ほっとした」ことに違いありません。それまで家内も不安だったんだなぁとその時はじめて知りました。

人知れず頑張っている人たちに光が当たることはいいことです。その人たちがいればこその社会なのに、多くの人達はそうしたことに気が付いていません。本来、誰かがそうした声なき声を発する人たちに代わって待遇改善を叫ばなければならないのに、これまで長年にわたって放置され続けてきたことが多すぎます。その意味で「無給医」の問題が今マスコミに取り上げられることは悪いことではありません。本来は大学の中にいる人たちから声があがらなければいけなかったことです。70年代にこうした若手医師の待遇に声をあげたはずのかつての学生たちは、教授になったとたん、すっかり体制側の人になってしまったようです。

今では、医学部に入学しても臨床医にはならずに、マスコミや商社で働くことを希望する医学生もいると聞きます。多額の税金をかけて教育を受けた学生がそうした選択をすることには賛否両論あると思います。同じように、防衛大学でも卒業後は自衛官に任官せず、民間企業に就職する学生がいます。人の人生はいろいろですから、それが自分の進むべき道だと信じるならそれも仕方ないことだと思います。人は働くことで社会のことを深く考えることができます。ですから、その人がどのような人生を送るにせよ、社会に生かされている(生かされてきた)ことを自覚しながら働いてもらえればそれでいいのではないかと思っています。

私もアルバイトでいろいろなことを学びました。社会勉強とはよくいったものです。単に収入を得るためということではなく、社会の縮図を目の当たりにしたり、他人の人生のいちぶを垣間見ることこともできました。こうした経験が、ともすると視野の狭い、世間知らずの私を少しだけ大人にしてくれたのかもしれません。と同時に、アルバイトの経験が、日の当たらない人たち、人知れず頑張っている人たちに目を向けなければいけないという意識付けにもなりました。人間の生老病死に関わる医師という職業は、否応なしに社会と人間との関わりを考えながら働かなければなりません。私はそれが医者の醍醐味だと思っています。

子育てはむずかしい

農林水産事務次官にまで登りつめた人が、自分の子どもを手にかけるという悲しい事件がありました。44歳にもなる子どもが、親のお金で毎日ゲームに明け暮れる姿をエリート官僚だった父親はどんな思いで見ていたのでしょうか。親に命を奪われた息子は「俺の人生は何なんだ」と叫びながらたびたび親に暴力を振るっていたとも報道されています。その真偽はともかく、この事件はひとりの人間を産み、育てていくことの難しさを象徴する出来事であり、子育て中の親の端くれでもある私もいろいろと考えさせられました。

折しも、今、長男といろいろ話しをする機会が増えました。以前にも触れたように、長男は第一志望の高校に落ち、今、第二志望だった高校に通っています。幸い、その高校にも慣れ、それなりにいい成績をおさめて出だしは順調に見えます。しかし、入学した当初のモチベーションが少しづつ下がってきて、最近では彼なりに不本意な毎日に苛立っている様子。抜け出したいけど抜け出せない。いわゆる「スランプ」って奴です。スランプがあるだけ好調な証拠だと思うのですが当の本人はそれが納得できないようです。

私が高校生だったころは、入学した当初から「どスランプ」におちいり、毎日、学校ではもちろん、自宅に帰ってからもなにか抜け殻のようになってすべてのことに関心がなくなっていました。ですから、高校生当時のことはほとんど記憶がないのです。ただ、校舎の三階にある教室の窓から見える桜吹雪をボーっとながめながら、この窓から飛び降りたら親は悲しむだろうか、などと考えていたことぐらいしか覚えていません。でも、頑張っている息子が「スランプ」になって感じている「あせり」ぐらいは理解できます。

「今日、学校休むわ」と眠そうな顔で起きてきたことがあります。自分の経験からいって、どうしても現実から逃避するしかないと感じたときは、エネルギーをチャージするためにも積極的に休むべきだと思っています。私は「ああ、そうした方がいいかもね」と答えましたが、「だからといって寝てばかりじゃだめだよ。現状から脱するためにいろいろともがいてみなきゃいけないよ」と付け加えることも忘れませんでした。「わかってるよ」と返す息子。私の言いたいことが彼に伝わっていることを信じて出勤しました。

同じ兄弟でもなかなか自分の気持ちを表現しない次男と違って、長男は感情がすぐに表情と態度に出ます。イライラするとそれを言葉にしてはきだします。そのイラつきの原因がわかっているだけに親としてどう接すればいいのか迷うことがあります。でも、繰り返し言うのは、「周囲の人を不快にするような言葉を吐くのはよくない。もう少し感情をコントロールする訓練をしなさい」ということ。外でのイライラを家庭によく持ち込んでいた父親を見てきたこともあり、息子にはそんな大人になってほしくないのです。

彼が学校にいくとき、ちょうど私もクリニックに出勤する時間です。私は車に息子を乗せて駅まで送っていきます。駅まではほんの数分間です。あるとき車の中の息子は「俺はなんてダメな奴なんだ」とポツリとこぼしました。この言葉に彼なりにスランプから抜け出そうともがいている様子が手に取るようにわかります。「おまえはそういうけど、俺の高校時代に比べればずいぶんマシだと思うけどなあ」。私が高校生の時と比較しても、息子にはなんの慰めにもならないことはわかっていますがついそんな言葉が出てしまいました。

事実、私のときと比べればはるかにましな高校時代を息子は送っています。当時の私は、勉強をする意欲も、将来の目標も、すっかりしぼんでしまい、何をどうすればいいのかもわからないままただ無駄に時間を過ごしていただけですから。しかし、息子は「父ちゃんは頭がいいからそれでもよかったんだよ」と言いました。そのときの息子の口調は、なにやら本気で言っている様子です。私は「そんなことあるか。頭がよかったんじゃなくて、もがき続けたからなんだぞ」と返すのが精一杯でした。

息子は私を成功者のように見ているようでした。でも、勉強にはおよそ縁遠い小学校時代を過ごし、いろいろな人たちの刺激を受けながらなんとか落ちこぼれずに済んだ中学生の頃。失意のまま二年間を無為に過ごした高校時代をなんとか挽回したものの医者になることを一度はあきらめてしまいました。しかし、運命的な出会いと偶然が重なって医者になるという自分の夢を実現した私の半生を息子はきっと私の自慢話しとしてとらえているのだろうか。私の真意を息子にもう一度伝えなおさなければならないと思いました。

私は彼と話しをすることにしました。私は息子に成功体験を伝えたかったのではなく、失敗続きだった私の半生を踏み台にして息子自身の人生を切り開いていってほしかったのです。今の息子にしてみれば、私がなにをいっても自慢話し、あるいは説教臭い話しにしか聞こえないかもしれません。しかし、スランプの真っただ中にいる息子が、私と話すことによってなんらかの解決の糸口を見つけ、これからの指針を見出すことができればいいと思ったのです。彼にとって余計なお世話かなとも思いましたけど。

風呂に入ろうとする息子に私は声をかけました。「話しがあるから、風呂からでたら声をかけてくれ」。息子は少し驚いたようですが「ああ」と答えました。私はベットに横になりながら、なにをどう話しだそうかと考えていました。しかし、考えれば考えるほど話しがまとまりません。おまけに自分がいいたいことがなかなか伝わらないように思えたのです。こうしたことはいつものことなのですが、それでも彼を前にしてあたまに浮かんだことを、できるだけ彼に伝わる言葉で話してみよう。そう思いました。

 

*********以下、息子に話したこと

俺の親父、つまり、君たちの爺さんは職業人としては素晴らしい人だったと思うけど、家庭人としてはほめられるような父親じゃなかったんだ。いつも不機嫌で、自分勝手な人だったから思い出せば嫌な思い出ばかりが浮かんでくる。だから、俺は父親として君たちには同じような思いをさせたくないとずっと思ってきたんだ。その意味で、俺にとっての親父は「半面教師」だったんだろうな。でもね、あの親父が反面教師でよかったって思うこともあるよ。だからこそ気づけたことがたくさんあったし。

君は俺の悪いところが似てしまって、「0(ゼロ)か100か」で考えるところがある。「すぐに決めつける」ってところも俺に似てしまったのかも。高校生のときの、16歳の俺は、入学したとたんに高校に抱いてしまった失望感や怒りを学校や同級生にぶつけていたと思うんだ。でも、高校や同級生にはなんの関係もないんだよね。自分がうまくいかないことを人のせいにしていただけ。自分ではなにも努力をしないわがままな甘ったれだったんだ。すぐに良し悪しで決めつけて、自分はどうかなんてことまったく考えなかったからね。

まわりを決めつけて、自分でアクションをとらなければなにも変わるはずがない。それにようやく気が付いたのが高校3年のとき。ほら、ドイツ語を捨てて英語で大学を受験しようと決意したときの話しをしたでしょ。あのときようやく自分でアクションをとることの重要性に気が付いたんだと思う。ずいぶんと時間がかかってしまって、無駄な2年間を過ごしてしまったけれど、あのときの気づきがなかったら今の俺はいないからね。その俺の経験を参考にして君にも気が付いてほしい。目覚めてほしいんだよ。

ほら、元農林水産事務次官が44歳の息子を刺し殺してしまった事件があったでしょ。その殺されてしまった息子は「俺の人生は何だったんだ」と喚き散らして親に暴力振るっていたって報道されていたよね。44歳にもなってあんなセリフを吐くのは、まさしく「なにも自分でアクションをとらなかったことを棚にあげて、うまくいかない自分を親のせいだと決めつけて逆恨みしている」ってことでしょ。44歳になるまでに彼はそうしたことに気が付くべきだった。人生は「0か100かじゃない」ってことに。

殺されてしまったあの息子には「一流高校を、そして東京大学を卒業してエリートとして生きる」って価値観しかなかったんだろうな。親もまたそうだったんだろう。だから、自分の父親のような人生を歩めないと知ったときにすべての価値観が崩壊してしまった。あとはその挫折感、屈辱感、くやしさ、あせりを、人のせいにして現実から逃げ回っていたのだろう。その意味で、彼は「0か100かの価値観」あるいは「決めつける価値観」のせいで自滅していった。「理想的」な父親をもつ子どもの悲劇なんだろうな。

「理想」って完全に相対的なものだよ。その形も、大きさも、人によって全然違うんだから。「東大を出て、エリートとして生きること」を理想と感じる人もいるだろう。あるいは、仕事はあくまでもお金を得るためだけのもので、そのお金でゲームに没頭する人生を理想とする人もいる。家族団らんの家庭で生活することが何よりの理想って人もいるし、ひとりでは使い切れないほどの大金を手に入れる人生が理想だと感じる人もいる。理想的な生き方はさまざまで、良し悪しなんてない。人それぞれだからね。

幸せって空から降ってくる雪みたいなものなんだよ。降って来た雪はつかんだ途端に消えていく。幸せって「手に入れられるもの」じゃないんだよ。だからといって幸せは儚く(はかなく)て虚しいものじゃないよ。雪は次々とまた空から降ってくるからね。次から次と降ってくる雪を追いかけ、追いかけてはひとひらの雪をつかもうと手を伸ばす。追いかけていた時のワクワク感や、捕まえたときの充実感がまた次の雪を追う原動力になる。その総体がいわゆる「幸福な人生」ってことじゃないかって思うんだ。

殺されてしまった息子は、父親のような人生を送れないと気が付いたときに別の道を探せばよかったんだよ。別の道を選んでも決して人生の敗者なんかじゃないし。そもそも父親の人生は父親しかたどれないんだもの。父親にとってはいい半生だったかもしれないが、その子供にとってはなんの関係のないもの。もちろん、別の道に進んだからといってうまくいくとは限らないよ。でも、たとえそうだとしても、自ら手を伸ばして自分だけの一片の雪を追っていかなければいけなかったんだよ。

他の人がどんな人生を歩もうが君には関係ないし、君がどんな人生を歩もうと他人には関係ない。もちろんどちらがいい人生かなんて問題じゃないからね。そうではなくて、自分自身がどのくらい充実感が得られるかって問題でしょ。どうやって「自分だけの勲章」をつけて胸を張って生きていけるか、なんだと思う。親は子どもが頑張っている姿をみることがいちばんうれしい。でも、その一方で、「子どものため」といいながら、実は自分の勲章を子どもを使って得ようとやっきな親がいる。とんだ勘違いだよね。

そんなことに気づくのにずいぶん時間が経ってしまったけど、幸いにも気づけたのはいろいろな失敗から逃げずに乗り越えようとしてきたからだと思うんだ。その俺の経験を君に知ってもらいたいんだよ。そして、一刻も早く、「0か100かの価値観」「決めつける価値観」から脱してほしいんだよ。目標を掲げ、その目標に向かって努力を重ねることは尊いこと。でも、その結果がいいものであれ、悪いものであれ、それは受け入れなければならない。大切なのは、次にどこを目指すのか、どう努力を重ねていくかってことだよ。

なんども言うように、ひとつの結果がすべてじゃない。第一志望の学校に入学できたとして、その喜びは手に入れたとたんに消えてしまう。次の目標に向かって手を伸ばさなきゃ。うまくいかなかったときもまた同じ。うまくいかなくても次にどうするかが重要なんだよ。もし俺が高校に失望したままでいたら、医学部にはいけないんだと決めつけていたら今の俺はなかったんだよ。どんな結果であれ、次の目標に向けてもがいているうちに道が見つかってくるものだということを俺の経験から学んでほしいんだよ。

自分の夢を現実のものにできれば素晴らしい。でもそれがすべてじゃない。次の目標に向けて努力を重ねることが大切なんだよ。結果として昔抱いていた夢とは違う現実になっていることだってあるよ。でも、ひとつひとつの成功体験、あるいは失敗を経ていくうちに自分らしい生き方になっていくんだ。後ろめたいことじゃない。俺がいいたいことは、俺の体験は自慢話しとしてではなく、失敗談として聞いてほしいってことなんだよ。つまり、俺は「反面教師」ってこと。身近に反面教師がいるってありがたいことだよ。

************** 以上

 

長々とくどい話しだと思いましたが、意外にも息子はじっと聞いていました。途中、眠そうにしたらやめようと思っていましたが、そうした様子はまったく感じられませんでした。そして、高校3年生から浪人の頃までに、立ち直った自分がどんな勉強をしていたかを息子にアドバイスしました。高校も2年になるとだんだん各教科の内容が複雑・高度になって、高校受験での経験が活かせるようなレベルではなくなってくるのです。とはいえ、勉強をしていなければスランプにはなりません。息子はその壁に直面しているのです。

家内は「学歴や職業なんてどうでもいい。どんな形であれちゃんと生活していける人になってほしい」といいます。でも、私はいいました。「それは一番の理想的な生き方なんだと思う。ほとんどの人はそんな理想的な生活ができない。だからこそ学歴に頼ったり、社会的地位を得ようとしたりするんだよ」と。学歴や社会的地位などは生きる上での道具にしかすぎないのです。もっとも尊い生き方というのは、そうした肩書とは関係のない、与えられた自分のポジションで「やり切った感」をもって生きることなんだと思います。

いろいろと偉そうなことを書き連ねましたが、辛い状況にある今の長男がこれからどのように立ち直っていくのか、これからもしっかり見守っていこうと思います。確かに子育てはむずかしいです。でも、その一方で楽しいものでもあります。思い通りに子どもは育たないものですが、それでも一人前の大人になっていく子どもの変化は見ていて楽しいものです(自分から離れていくようで寂しい気持ちもしますけど)。いつの日か、息子が自分の生き方に誇りをもって生活する大人になる日がくるのを夢見ながら。

常々、子育ては「させてもらっているもの」だと思います。親のために子どもがあるのではなく、子どものために親がいるのです。子どもの虐待をする親は、そうした意識に欠けていて、子どもを自分のおもちゃのように思っているのかもしれません。子ども達を立派な社会人にすることは子育てを「させてもらったお礼」。息子たちには、私たち親には構わず、一番自分にふさわしいと思う生き方をしてほしいです。もし、子どもたちがそうした生き方をするようになったら、私の子育てはうまくいったということなのでしょう。

最後に、自分の将来に不安を感じていた高校生の頃によく口ずさんでいたTVドラマ「水戸黄門」のテーマ曲をご紹介します。息子にもこの歌を教えてやりました。平成生まれの彼の心には響かないかもしれませんが。「なんにもしないで生きるより、なにかを求めて生きようよ」ってところが好きです。

あともうひとつ。山下達郎の「希望という名の光」という歌。山下達郎の歌はやはり歌詞が素晴らしいです。「運命に負けないで。たった一度だけの人生を、何度でも起き上がって、立ち向かえる力を贈ろう」という歌詞がグッときます。子どもたちへの応援歌のようでいつ聴いても感動します。

 

 

 

 

 

 

令和に思う

以下の記事は令和元年5月5日に投稿したものです。さっそく「令和」をキーワードとしてスパムメイルが殺到してきましたので7日にあらためて同じ内容をアップします。

*********** 以下、5月5日投稿文原稿

 

私は個人的には、日本に皇室は必要だと思っています。立憲君主としての天皇の存在も重要だと考えています。令和という新しい元号となり、以下、皇室は存続させるべきだという立場の意見を書いてみました。しかし、これは特定の思想や宗教に基づいた意見ではなく、あくまでもこれまで調べてきたことを通じて、私があれこれと考えてたどりついた自論です。

私の意見とは反対に、皇室や天皇を廃止すべきものだと思っている人もいるでしょう。そうした人たちにとって、これから書く内容は承服できるものではないかもしれません。しかし、皇室に対する個人それぞれの考えは「正しいか正しくないか」の問題ではなく「好き嫌い」の問題です。そのあたりのことを理解した上でお読みいただければ幸いです。

*********** 以下、本文

 

元号が平成から令和にかわりました。明仁天皇陛下の退位と徳仁新天皇陛下の即位により、今年のゴールデンウィークは図らずも9日間の休暇をとらせていただきました。これほどの長期間のお休みは、私にとっても、多くの国民にとってもはじめてだったのではないでしょうか(サービス業の方たちの中にはこのお休み中ずっと働きっぱなしという人もいますけど)。とはいえ、世の中はなんとなく年末年始のような気分になっていて、「令和になって心機一転」という思いを強くした人も少なくないと思います。

天皇陛下の退位の日はおおむね雨でずっと曇り。翌日の即位の日はときおり雨ながら薄日もさすといった天候でした。私にとって天皇陛下といえば昭和天皇のイメージが強かったため、平成になって明仁皇太子殿下が天皇になられてもしばらくは実感がわかなかったものです。しかし、いつしか天皇陛下といえば明仁天皇陛下となり、その天皇が退位するということになると、いかばかりか淋しさのようなものを感じていました。その気持ちが当日の雨模様によってちょっぴり切ないものになりました。

実は平成最後の日、つまり4月30日の夜、父親の夢を見ました。父は昨年10月2日に亡くなったのですが、久しぶりにその父親が夢に出てきたのです。夢の中の私は何人かの親戚があつまる席にいました。場所を移動することになり、私は亡くなった父と一緒に歩いていました。私はその父に語り掛けました。「死んだ下館のじいさん(祖父のこと)と仲良くしてくれよ」と。すると父はニコッと笑って駆け出しました。「オヤジっ!」と後を追おうとしますが、父はあっという間に階段を登ってどこかに行ってしまったのでした。

明仁天皇の退位に対する情感が父親への気持ちに投影されていたのかもしれません。一方で、もしかすると父親が成仏できたってことかもしれないと考えたりしました。いずれにせよ、目覚めたとき、ひとつの時代が終わったという気持ちがしていました。次の時代をどう生きるか、どのような時代にすべきか。そうしたことをちゃんと考えなければいけないと感じたのです。元号という、ひょっとすると面倒で不要にも思える日本の文化を守っていくことにどのような意味があるのかを考えることが今の日本人には必要です。

ところで今回の退位・即位の式典に使われた草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをご存知でしょうか。草薙剣はヤマタノオロチを退治したときにその尾から出てきたと伝えられる剣です。この剣を御霊代として祀っているのが熱田神社です。これまでなんどか盗まれそうになりながら、いつも不思議と無事に戻ってきました。しかし、壇ノ浦の戦いのとき、入水された安徳天皇と共に海に落ちて回収できなくなりました。そこでのちになって魂を入れなおして新たな草薙剣としたものが今三種の神器のひとつとして伝えられました。

草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。ヤマタノオロチは雲から出でる怪獣であり、オロチ(大蛇)のいるところに雲がわくといわれています。ですから、今回、式典で草薙剣が供えられたとき、天気が悪い(雲が出現する)のは理にかなっているというわけです。つまりは吉辰良日の兆候ということ。そういえば、昭和天皇から明仁天皇に皇位が継承されたときも雨が降っていました。こうしたことに神話の世界と今をつなぐ不思議な因果を感じ取ることができます。

以前、子どもたちに「天皇陛下の仕事ってなんだか知ってる?」とたずねたことがあります。彼らは「被災地に慰問に行くこと」と答えました。しかし、そうではありません。天皇陛下の仕事の中心は、本来、日本の安全・安寧・豊穣を祈る祭事にあります。戦後、それらの多くは「天皇の私的行事」となり、一般国民にはほとんど知られていません。そして、昔ほどではないによせ、今もなお天皇は多くの時間を割いてその祭事をおこなっています。ご高齢の上皇陛下にとってはとても厳しい勤めを日々こなされていたのです。

日本が近代国家の仲間入りをするにあたり、まず作られたのが大日本帝国憲法です。欧米諸国の法体系を研究し、日本がたどって来た歴史を徹底的に調べて作ったアジアで初めての近代憲法です。当時、世界の名だたる憲法学者からも絶賛されるほどのものでした。それまでの日本は、あらゆる権威は天皇に、そして、その天皇はときの実力者に権力をあたえて国を統治していました。誰が決めるでもなく、営々とその国体を守り続けてきたのです。そのおかげで血を血で洗うような易姓革命は日本では一度も起こりませんでした。

その大日本帝国憲法によって天皇は神的存在から立憲君主となられ、天皇を輔弼(ほひつ)する機関として国会が定められました。天皇は国家の象徴として、まさに「君臨すれど統治せず」という国体が憲法という形で明文化されたのです。と同時に、それまで慣習・慣例で引き継がれてきた皇室・皇族も皇室典範という形で定義され、皇位の継承についての取り決めがなされました。憲法とともに典範の制定にも深く関わった井上毅が「天皇譲位」を定めようとした一方で、伊藤博文が典範からそれを削除させたことは有名です。

このとき「天皇は万世一系男系にかぎる」と正式に定められました。とはいえ、それまでも慣例・慣習として「天皇は男系のみ」であり、いわゆる「女系天皇」はひとりもいなかったとされています。ところで、皆さんは「女系天皇」と「女性天皇」の違いをご存知でしょうか。元号が令和となって、にわかに「女性宮家」や「女性天皇」に関する世論調査がおこなわれています。しかし、その調査に回答している多くの国民が「女性宮家」の意味や、「女系天皇」と「女性天皇」の違いも知りません。それでいいのでしょうか。

男性の遺伝子ではX染色体とY染色体が対になっています。それに対して女性の遺伝子ではX染色体とX染色体の組み合わせになっています。このそれぞれ対になっている染色体が交配して子どもの遺伝子が決まるのです。つまり、生まれた子どもが男性であれば、その対のY染色体は必ず父親由来のものになります。しかし、女の子の遺伝子は父と母両方のX染色体を引き継ぐことになります。以上のように、男の子には父のY染色体が、女の子にも父のX染色体があるため、この子どもは「男系」呼ばれます。

仮にこの「男系女性天皇」が一般民間人との間に子どもをもうけたとします。すると、「男系女性天皇」が産む子の染色体は母親由来のX染色体とその夫である民間人男性のY染色体もしくはX染色体の組み合わせとなります。前者は「女系男性(親王殿下)」、後者は「女系女性(内親王殿下)」です。しかし、成長して民間人と結婚した「女系男性天皇」の子では皇祖皇宗の遺伝子は完全に途切れ、「女系女性天皇」も民間人との夫から生まれる子には皇祖皇宗のY染色体は途絶え、X染色体においても50%の確率で断絶します。

染色体や遺伝子という概念のなかった大昔から「男系」で家系を引き継いでいたのには医学的な根拠があったのです。これは驚くべきことです。この男系継承は古代中国から入って来た制度といわれていますが、世界中どの国でも男系で王朝は継承されています。もちろん、イギリスのように女王が即位することもありますが、こうしたことが起こるのはイギリスでは王朝(血統)がとって替わるから。しかし日本に8人いたとされる「女性天皇」はすべてが男系であり、その子供が皇位を継承することもありませんでした。

そんなことをいうと、ある評論家は「日本には宦官がいなかったし、皇位を継承した子どもがほんとうに先代の天皇の子どもかどうかわからない」といいます。そんなことをいったら、その評論家自身でさえも、彼の実父・実母とされてきた両親の実子である保証はなく、その先祖だってまた同じってこと。問題はその真偽ではなく、「万世一系男系が皇位を継承する」とされてきた慣習・慣例が続いてきたという事実が重いのです。そうすることで欧米で繰り返されてきたような血にまみれた争い・権力闘争を回避してきたのです。

「所詮、男系継承など明治になってから典範で決められたこと」と木で鼻をくくったようなこと言う人もいます。しかし、それまで慣例・慣習でおこなわれてきたことを皇室典範として明文化しただけです。そうすることによって、皇族の定義や根拠となって例外を排除しながら皇室を維持することができます。残念ながら、現行日本国憲法では天皇の地位は「国民の総意にもとづく」ものと規定されています。ですから世の中に「皇室廃止」の機運が高まれば皇室はいとも簡単になくなってしまうのです。

私個人としては天皇あるいは皇室は維持するべきだと考えます。「国民統合の象徴」としての天皇がこれまでの日本においていかに重要だったかは歴史が証明しています。他国のように王朝が代わるたびに繰り返される殺戮や国土の荒廃を日本がほとんど経験していないのは、権威と権力を分離した国家の二重統治があったからです。だからこそ今の日本の素晴らしさがあるのです。皇族お一人お一人が素晴らしい方々だからお守りするのではなく、皇族そのものが日本の国体には不可欠だから守るべき、というのが私の意見です。

今の「女性宮家」の創設や「女性天皇」の容認という安易な空気は危険です。なぜなら、皇室廃止をめざす勢力には格好の口実になるためです。女性宮家の創設は女系天皇の容認を前提としています。また、女性天皇はこれまで2600年続いてきた皇祖皇宗の王朝の交代のきっかけになります。もし女系天皇が現実のものになれば、皇族の定義があいまいとなり、皇室の存在に反対する人たちから皇室の存在意義が問われるようになります。「皇族の正統性」への疑義を指摘し、「そんな皇族はいらない」となるのです。

昭和22年、皇籍を離脱した(させられた)宮家は11家にものぼります。これまでの皇室はこうした複数の宮家の存在によって支えられてきました。宮家の皇籍離脱については昭和天皇は強く反対されたようですが、皇室財産の多くが国庫に帰属することになったことや、ある宮家からも離脱の意志があげられたこともあって昭和天皇のご兄弟のみが皇室に残ることになりました。その結果、今、皇位継承の資格のあるのはご高齢の常陸宮親王殿下および秋篠宮親王殿下、そして悠仁親王殿下の三名になってしまったのです。

しかし、皇籍を離脱した旧宮家が皇族に復活すれば皇位継承権をもつ皇族はさらに増えるとされています。東久邇宮家に限っても、皇位継承権をもつ若年男性が5人いるとのこと。皇位継承問題を解決する方法を十分に模索せず、安易に女性宮家や女系天皇を容認するような議論は乱暴すぎると思います。旧宮家の皇室復帰などの可能性を追求してもなお男系の継承できないのであれば皇室の存続はあきらめるべきだと思います。こうした日本の伝統・文化の問題は、もしこれが継承できないのであれば消えていくほかないのです。

真子内親王殿下の婚約延期の問題はこうした背景もからんでいます。婚約者が内親王殿下の伴侶としてふさわしいかどうかということの他に、女性宮家を容認したときに彼を皇族とするのか、彼らのお子さまを将来の皇位継承者として国民が受け入れるかどうかという観点からも考えなければなりません。皇室を廃止しようとする勢力ほど女性宮家や女系天皇に寛容です。女性宮家や女系天皇の問題は「皇室を存続させるための方策」にならないばかりか、むしろ「皇室を危機にさらす方策」であることを多くの人は知るべきです。

日本史や世界史を勉強すればするほど、日本人として日本に生まれたことを誇りに思います。今、こうして日本で安全で豊かな生活をしていられるのは決して偶然ではありません。我々の祖先が、英知を結集し、大きな犠牲をはらって日本を守り抜く努力を惜しまなかった結果だということを知らなければなりません。歴史を学ぶ意義ということはそういうことです。にも関わらず、日本人は自分たちの国のことをほとんど知りません。日本について間違った知識をもっていることすらあります。

欧米からは「天皇に女性が就けないのは女性差別」という声が聴こえてきます。皇室や皇位継承の問題はあくまでも日本の文化の問題です。「女性差別」などという軽薄なものではありません。それをいうなら、「ローマ法王やイスラム教のカリフに女性がなったことが一度でもあるか」という質問に答えなければなりません。歴代天皇には8人の女性天皇がいました。「天皇に女性が就けない」のではなく、「女系が就けない」のです。以上、令和になった今、皇室の在り方について少し考えてみました。みなさんはどう思いますか。これを機会に改めて皇室の在り方、日本の将来を考えてみてはいかがでしょうか。

 

患者の意志

先月、腎不全の重症患者に対する透析治療を中止した病院・医師のことが話題になっていました。腎臓は全身を循環する血液にとけこんだ老廃物、とくに人間の生命活動にとっては毒物となるさまざまな物質をろ過する器官として、あるいはK(カリウム)やNa(ナトリウム)などの生命活動を維持するために必要な電解質のバランスを保つ機関として重要な臓器です。この腎臓がなんらかの病因で機能を停止した場合、人工透析という治療によって腎臓のはたらきを代替しなければ人間は生きていくことができません。

つまり、重症な腎不全患者にとって人工透析の中止とはすなわち死を意味します。ですから、この治療を中止するという判断は通常はありえず、それでも中止をしなければならないのにはなにかやむを得ない事情があるはずです。ですから、今回の報道を耳にしたとき、私はその「やむを得ない事情」がなんだったのだろううかと思いました。報道によれば、透析中止の主たる理由は、透析装置とからだをつなぐ「内シャント」が使用できなくなったことのようです。しかし、それだけであのような判断を下すものでしょうか。

実際の透析はいろいろな意味で辛い治療です。透析を受けなければ命をながらえることができないということだけでも患者にはプレッシャーですが、透析を受ける前に「ダイヤライザー」と呼ばれる透析装置と血管を接続するための手術をしなければならないのはさらに苦痛で不安なものです。この手術で腕の動脈と静脈をつなぐ(通常はつながっていない血管です)「内シャント」を作ります。そして、そのシャントに針を刺してダイヤライザーとからだをチューブで接続して血液を循環させ、透析をするのです。

私も大学病院の総合内科に所属していた時、その「内シャント」を作る手術の手伝いをしていました。太さも壁の厚さも異なる動脈と静脈をつなぐ手術はとても繊細で、神経を使います。皮膚から露出させた血管は乾燥に弱く、すぐによじれてしまいます。また、人によっては細い枝が多かったりして、手術をする医者にとっては集中力と体力を使う結構大変な手術です。透析を繰り返しているうちにその「内シャント」がつぶれて使えなくなることもあり、そのときは作り直さなければなりません。

今回の患者はこうした「内シャントの閉塞」を繰り返し、もうシャントをつくることができなくなったケースだったようです。両腕の内シャントがもう作れないとなれば別のところにこのシャントと同じ働きをする代替経路を作らなければなりません。おそらくその処置(手術)には高いリスクをともない、透析を中止することのリスクとの天秤をかけての中止の判断だったのではないかと想像します。主治医にとっても、もちろん患者にとっても重い決断だったに違いありません。

ダイヤライザーでの透析によって、本来は尿となるべき水分と老廃物を強力にろ過できます。ですが、その分だけ治療後に倦怠感が強くなる場合があります。毎日、少しづつやればいいのかもしれませんが、それではなんども内シャントに針を刺すことになって血管を痛めます。なにより毎日透析に病院に行くのでは日常生活が制限されてしまいます。だからといって週に一回というわけにもいきません。24時間、365日、私たちのからだの中で働いてくれている腎臓の肩代わりをさせることはそれほどまでにやっかいなのです。

食べるものも、飲水量も厳しく制限されます。飲みたいものを飲みたいだけ飲み、食べたいものを食べるという、ごく当たり前と思っていることも、透析を受けるようになるとできなくなります。そうした制限のゆるい腹膜透析という方法もあります。腹膜透析はおなかの中にチューブを通じて直接透析液を入れ、浸透圧の差を利用して透析したあと再びチューブを通してからだの外に廃液するという治療法です。この作業は自宅でできるとはいえ、毎日欠かさず、しかも一日に何回も注入・廃液をやらなければなりません。

ですから、透析治療から逃れたいとどの患者も思っています。逃れるためには腎臓移植のチャンスに恵まれなければなりません。しかし、日本では依然として生体腎移植が盛んになっていません。その順番を何年も待っている患者が多いのです。そんな四面楚歌の状態で気弱になってしまう患者も当然いて、透析医はそうした患者を励ますことに少なからず時間を割かなければなりません。そうした実情が背景にあるだけに、透析の現場では、透析中止の判断はとてもナイーブな問題になっているはずです。

まず私が一番言いたいことは、渦中の医者のあたまの中に「患者の意志は揺れ動く」という現実がしっかり認識されていたかという点です。患者の気持ちはコロコロ変わります。命に関わることゆえそれは当然のことです。あるときは「こんなつらい治療を続けるくらいなら」と否定的な気持ちでいっぱいになることもあるでしょう。また、あるときには「支えてくれている家族のためにも頑張ろう」と前向きになるときもある。患者の心理状態も大きく変化するのです。そうした現実を医者は認識しなければならないのです。

最近、よく「患者の権利」「患者の意志」という言葉を耳にします。「患者の意志が尊重される」ことは「患者の権利だ」というわけです。確かに、自分の命に関わることは患者に判断させるべきだ、判断したいという気持ちは理解できます。しかし、はたしてそれができるものでしょうか。たとえそれができたとして、その「患者の意志」の名のもとに医療が硬直化する危険性はないのでしょうか。つまり言いかえると、「患者の揺らぐ気持ち」が一切考慮されない医療はおこなわれていないと言い切れるでしょうか。

今回の報道にある透析中止の案件もそこが一番の問題なのではないかと思います。透析をなんらかの理由で中止せざるを得ないとき、最終的には患者に継続するか、それとも中止するかの判断をゆだねることになります。そもそもそんな重大な判断をさせられる患者も気の毒ですが、それでも患者が悩みに悩みぬいて結論を出したとして、その意志を途中で翻意することを許容するような雰囲気がはたしてあったのかということです。「あなたが決めたことでしょ」で片づけられていなかったか。そこです。

癌の治療を開始する際、しばしば医者が治療法を提示して「さあどうしますか?」と患者に問いかけます。「患者の意志」の確認というやつです。「どうしますか?」と聞かれてそれに明確に答えられる患者は多くありません。どれがどの程度いいのか悪いのか、医学的知識も経験もない患者が即答できるはずもありません。しばしば「お任せします」と患者から投げ返されて、当惑してしまう医者も決して少数派ではないはずです。「へたに勧めて、あとで責任を問われてもなぁ」って。今はそういう時代なのです。

昔であれば医者は胸を張って「この方法で行きましょう」と勧めるか、さもなければ具体的な説明もないまま治療をはじめてしまうところです。患者も悩む必要がありませんし、医者にとってもある意味楽なやり方です。しかし、こういうやり方は今は通用しません。これまでのさまざな医療事故を通じて生じてしまった医療不信を背景に、「治療の選択においては患者の意志の尊重を」という社会的なコンセンサスが出来上がったのです。これがよかったのか、悪かったのか、私にはわかりません。

とはいいながら、「患者の意志」というものが、医者が裁判沙汰に巻き込まれないための医療者側の方便になっているという側面も見逃せません。治療を自ら選択した以上は、その選択の結果がどうであれ責任は患者にあるというものです。最近はいろいろな情報が氾濫しています。そして、希望する治療が受けられなかったことに患者から「こんなはずじゃなかった」と言われるケースも増えてきました。この「こんなはずじゃなかった」を言わせないために「患者の意志」が利用されているケースもあるかもしれないのです。

でも、患者の意志や気持ちは揺れ動くものです。「私はいつ死んでもいい」あるいは「死など怖くない」という言葉は、死を具体的に意識していないからこそ出る言葉です。アンケートなどで「あなたはどんな死に方をしたいですか」と問われることがあります。でも、そんなアンケートなどほとんど意味がありません。なぜなら、差し迫った死に戸惑い、不安になっている人でなければリアルな回答などできるはずもありません。死をリアルに感じているときと、無縁なときとで意志や意見は大きく変わります。

このように、人間は自分が置かれた環境によってその「意志」は大きく変化します。そのときはきっぱりと決心したように思えたことでも、次の日には「なんであんな決定をしてしまったのだろう」と後悔することもしばしば。臨床心理学では「気持ちが安定しないとき、落ち込んでいるときは重大な決定は先延ばしにしなければいけない」と教えています。私自身もこれまで、なにかを得られる決断であれば「迷ったらやってみる」としますが、なにかを失うかもしれない決断は「迷ったらやらない」ことにしています。

外来にもこんな人がいます。その方は普段から「私はこれ以上長生きしたいとは思わない」とおっしゃっています。でも、と同時に生きながらえるためのさまざまな薬を飲んでいます。そして、手がしびれたとなれば心配になって救急病院に行くわけです。最近、他院で「腎機能が悪くなっているから生活指導や食事指導を受けるべきだ」と言われたそうです。しかし、「そんなことまでして生きていたくない」と断ったとか。それで、結局のところその医者も「それなら、ご勝手にどうぞ」となってしまったらしいのです。

「食べたいものをやめてまで長生きしたくない」とおっしゃるので、私は「でも腎臓がさらに悪くなって尿毒症になったら食べたいものも食べられなくなりますよ」と説明しました。すると困ったように「それならどうすればいいのか」と。「だからこそそうならないように今から生活指導や食事指導をと先生はおっしゃったのでは?」と私。すると、ふたたび「それほどまでして長生きしたくない」と。私は「0(ゼロ)か100かってことじゃないんですよ」と言ったのですが、ご本人の中では戸惑いと不安が錯綜しているようです。

一方でこういう方もいます。その方は肺癌と診断されたものの、幸い手術を受けることができました。しかし、リンパ節転移の可能性が否定できないため、手術後に抗癌剤治療の追加をするかどうかを決めてほしいと主治医にいわれているのです。ただ、高齢でもあり、術後間もない時期での抗癌剤治療は体力を奪って日常生活の支障となるおそれがある。もし抗癌剤の治療を受けなければ癌が再発してくる不安におびえなくてはならない。どちらがいいのだろう、と。そこで「先生の意見を聴かせてほしい」というわけです。

私はいいました。「自分の命に関わる決断は自分で下すしかない。なぜなら人生観や価値観が関わるから。抗癌剤治療を受けなくても再発しないかもしれないし、治療をうけても体力を奪われた上で再発するかもしれない。私が言えることは、せいぜい『自分だったらこうする』程度のことだ」と。抗癌剤の治療を受けるにせよ、受けないにせよ、その結果は自分で受け止めるしかありません。治療方法についてのスペシャリストも確率でしか将来を予測できないのですから。最後は「患者の意志」で決めるしかないのです。

改めて、冒頭の透析中止の件について考えてみると、問題は三つに絞られると思います。まず、透析を中止するという選択肢の提示は医学的に正しいものだったか、という点。ふたつめは、透析の中止を選択した患者の決定が、真に自分の意志にもとづくものだったのか、という点。そして、三つめは、透析中止を患者が申し入れたとして、その後の状況の変化によって患者が当初の意志をひるがえしたときの病院・主治医の対応が適切だったかという点です。とはいえ、そう整理をしてもなお結論のでない問題だとは思いますが。

一見すると、他人の人生など自分にはほとんど関係ないように思えます。しかし、自分という存在が他人に影響を与えているのと同じように、他人という存在は自分にも影響をあたえています。とくに私のような生き死にと関わる仕事をしていると、人に与える影響とその責任の重さをひしひしと感じます。私のひと言で傷ついたり、勇気づけられる患者がいるのです。今回の透析中止の件において主治医と患者のコミュニケーションが十分だったんだろうかということが気になります。亡くなった患者はもう帰ってきませんけど。

好きな映画(2)

 

私はマニアしか知らないような映画をみる「映画通」ではありません。ですから、「好きな映画」といってもそのときどきの大作や話題になった映画、あるいは偶然目にした映画ばかりです。大作や話題になった映画だからとわざわざ映画館に行っても「観てよかった」と思える作品ばかりではなく、これならテレビで放送されるまで待ってもよかったと思う映画も結構多かったように思います。その一方で、これまで観ていなかったけれども、たまたまTVで見かけたらついつい引き込まれて最後まで観てしまったというものもあります。いずれにせよ、一度観てよかった映画は、それ以降に観たいと思うものに影響を与えるものです。

「好きな映画」に影響を受けるということは、何かしらのキーワードでつながっているということかもしれません。このキーワードはその映画のメッセージ性かもしれません。あるいは使われた演出効果かもしてませんし出演した俳優かもしれません。今日はこの「キーワード」をたどって「好きな映画」をたどってみたいと思います。最初のキーワードは「白黒映画」です。前回のブログに書いた「ローマの休日」は1953年に制作された白黒映画。あの映画が白黒映画になっていることにより、観る者は自然と物語に引き込まれているように思います。白黒の映像が素敵な音楽によってまるで色がついているような効果をもたらします。

それは日本映画でも同じです。私が今でも涙なくして見れないのが「二十四の瞳」という白黒映画。木下恵介監督、高峰峰子主演のこの映画は1952年に作られました。「二十四の瞳」はその後いくつものリバイバル映画が作られましたが、木下恵介監督の作品を超えるものはほとんど皆無といってもいいくらいです。時代背景は戦前と戦後にまたがっていますが、白黒映画で作られることによって時のながれをうまくつないでいます。木下恵介は私の大好きなTVドラマ「三人家族」の監督ですが、その愛弟子でもあった山田太一は私のお気に入りの脚本家のひとり。この辺のことは以前のブログにも投稿しましたので読んでみて下さい。

1955年に制作されたスペイン映画「汚れなき悪戯」も、白黒映画だったからこそ最後の感動的なシーン(ネタばらしはしません)を盛り上げているように感じます。教会に捨てられた赤ん坊が修道士らに育てられ、悪戯好きのマルセリーノに成長します。その微笑ましい光景がしばらく続くのですが、その時のながれは白黒の映像のせいか違和感はまったくありません。そして感動の最後のシーン。マルセリーノのあどけない表情が胸を打ちます。映画を見終えたとき私はしばらく涙がとまりませんでした。そして、この映画を観ながら、神と人間の距離感が欧米人と日本人とではずいぶん違うものだなと感じました。

欧米の歴史がキリスト教と密接に関わっていることは世界史を勉強するとよくわかります。ある意味、欧米の歴史はキリスト教の歴史だといっても過言ではありません。2004年に公開された「パッション」は、封切りされた当時、ゴルゴタの丘で十字架にかけられるイエス・キリストの姿があまりにも生々しいことが物議を呼びました。神に対する冒涜だとの抗議を受けて上映禁止になった映画館も。この映画はメル・ギブソンがさまざまな中傷を受けながら史実に忠実に製作しようとした労作です。イエス・キリストの生涯など知らなかった私にとって、西洋史の根幹にもなっているこの時代が理解できる素晴らしい作品でした。

私はこの映画を観るまで、イエス・キリストはローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトの命令よって十字架にかけられたと単純に思っていました。しかし、よく調べてみると、当初、ピラトは「イエスは法に照らして微罪であり釈放すべきだ」と主張していたのです。ところが、律法学者パリサイ人に煽動された群衆が「イエスに処刑を」と熱狂したのに抗しきれずに処刑を命じたのでした。つまり、キリストは無知で流されやすい群衆によって十字架にかけられたのです。今もなお、自分で調べたり、自分のあたまで考えずに、誰かの意見や扇動者の情報を鵜呑みにして世の中に流される群衆のなんと多いことか。無知は罪を作るのです。

このように、たったひとつの映画を観ることで、それまで知識も興味もなかった時代を理解を深め、今まで以上に関心をもつようになることがあります。もちろん映画は史実に忠実に作られたものばかりではありません。しかし、1956年に制作された「十戒」は私にはなじみの薄い時代を知り、理解するのにとても役に立ちました。「十戒」はヘブライ人を救済するモーセの話しです。エジプトの王子として育てられてきたモーセが、その後神の言葉を伝える預言者となり、ヘブライ人たちに10の戒律を示すという物語です。教科書を読んでもよく覚えられない紀元前12世紀あたりの歴史がとてもわかりやすく描かれています。

「十戒」でモースを演じていたのはチャールトン・ヘストンです。彼は1974年の「エアポート’75」の主役でした。私は中学生の時、いち時、パイロットという職業に憧れを感じた時期があります。それに影響を与えたのはこの映画です。ちょうどこの頃、田宮二郎主演で「白い滑走路」も放映されていましたが、中学生の私はこれにも影響を受けました。田宮二郎といえば映画「白い巨塔」で主人公の財前五郎を演じていましたね。チャールトン・ヘストンはその後、「ベンハー(59年)」に主演したり、何本かの映画でマルクス・アントニウスを演じたりと、彼にとってこの「十戒」のインパクトがいかに大きかったがわかります。

チャールトン・ヘストンといえば、彼が主演した「猿の惑星(68年)」も印象に残る映画です。この映画が封切られたころ私はまだ小学生でしたが、当時話題になっていたこの映画はそれまでの映画とはちょっと違う印象をもっていました。ほんものの猿そっくりな特殊メイク、しかも自由自在に表情が出せるのは驚きでした。ショッキングなラストシーンも話題にのぼっていました。だいぶ後になってTVで放映されましたが、大人の鑑賞にも耐えられる本格的なSF映画だなと思いました。この映画が封切られる2年前にも「ミクロの決死圏」という映画が公開されており、この頃はSF映画の第一次全盛期だったのかもしれません。

SF映画といえば、「猿の惑星」が製作されたのと同じ1968年に封切られた「2001年宇宙の旅」も素晴らしかったと思います。こちらも後にTV放映されたときに観ました。アーサー・C・クラーク原作のこの映画はちょっと哲学的で、単なる娯楽作映画にとどまらない作品だと思います。人間が地球外で生活するようになり、その人間に従属するはずの人工知能「HAL」が暴走をはじめる。この映画には難解さもありますが、それでも現代に通じるなにかを暗示しています。現実の2001年は映画の中の世界のようにはなりませんでしたが、人工知能が人間の手を離れて暴走する恐怖はこれからの時代を先取りしたものかもしれません。

エイリアン(79年)」というSF映画も特筆すべきものです。惑星間を自動航行する輸送船が地球の所属会社の指令によって未知の生命体がいる惑星に向かわされます。乗組員にはそうした指令は知らされませんでした。知っていたのは会社が輸送船に送り込んだアンドロイドのみ。姿を見せないエイリアンに次々と襲われる乗組員。シガニー・ウィーバーが演じるレプリーがたった一人でその星を離れることになるのですが最後までドキドキハラハラさせられます。この映画を観ると、宇宙というだだっ広い世界でたった一人になることの恐怖感を味わうことができます。そして、そのラストシーンで息を飲むこと請け合いです。

その意味で「ゼロ・グラビティ(2013年)」もそのCGの美しさとリアリティによって観る者に「エイリアン」とは違った恐ろしさを体験させてくれます。出演者はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人だけでしたが、ふたりの役がそれぞれの持ち味が生かされていていい映画でした。漆黒の闇。その闇を貫く太陽の光。音のない真空の世界。その空間を漂う完全な孤独。この映画を観ると、本当の絶望ってこんな感じなのかもしれないと思うでしょう。その絶望の中でジョージ・クルーニー演じるマットが希望の光となって主人公を地球に導いていくのですが、スリリングなストーリー展開に引き込まれます。

最近の映画はCGによる映像が売りになっています。とくにSFの世界を描くときはこのCGがとても有効です。多くの怪獣映画や、戦争映画でですらCGを多用してリアルさを高めています。そのような中で、日米開戦の端緒となった真珠湾攻撃前後を描いた「トラトラトラ(70年)」は、ゼロ戦などの航空機を本物そっくりに作って飛ばしたり、日本映画がお得意だった特撮を駆使してリアルさを表現しようとした大作です。この映画の素晴らしさは、映像のリアルさとともに、日米が開戦にいたるまでの過程をアメリカ側の視点と日本側の視点から描いた点にあります。また、史実に忠実であろうとした点でも価値の高い映画です。

2006年に封切られた「硫黄島からの手紙」もアメリカ側からの視点と日本側からの視点からそれぞれ映画が作られました。硫黄島は日本本土防衛の生命線というよりも日本軍の最後の拠点でした。予想をはるかに上回る犠牲を払って硫黄島を陥落したアメリカ軍。ついに海兵隊員が摺鉢山に星条旗をあげたときの写真はあまりにも有名です。これで勝負は決したわけですが、そこに至るまで、あるいはその後には日米双方にさまざまなドラマがありました。この映画は嵐の二宮君が演じる一等兵の目を通して戦争の意味を問いかけていましたが、二宮君や加瀬亮、松崎悠希などの若手俳優の演技力がとても光っていて素晴らしかったです。

ところで、ソビエト連邦の崩壊とともに「ヴェノナ文書」が公開されました。日米開戦の直接的な原因は「ハルノート」を日本が受諾しなかったこととされてきました。しかし、「ヴェノナ文書」によって、「ハルノート」作成を主導したハリー・D・ホワイトが実はソビエト共産党(コミンテルン)のスパイであり、満州とソ連の国境に集結する日本軍を南方にひきつけるため、日本が受諾できない条件をあえて提示してアメリカとの開戦を誘導した可能性が指摘されています。一方、参戦に否定的だった米国民の意識をかえるため、ルーズベルトは日本軍の真珠湾の奇襲攻撃をあえて見逃したのではないかともいわれています。

戦争にはそうした謀略がつきものです。かつては優秀な諜報機関をもっていた日本であってもなお謀略に負けてしまったのに、諜報機関ももたず「スパイ天国」と揶揄される今の日本はどうなっているんだろうと考えると恐ろしくなります。戦前の日本軍の中にもソ連のコミンテルンの影響を受けた軍幹部が複数いたといわれています。本来であれば戦う理由のなかった日本とアメリカが、ともにコミンテルンのスパイとなった自国の要人たちによって戦わざるを得ない状況にされてしまったわけです。そのことは別の言い方をすれば、日米はともに「後ろから撃たれた」ともいえるわけで、戦争は実に残酷なものだと思います。

そんな戦争の残酷さ・醜さを描いた映画に「プラトーン(86年)」があります。この映画はベトナム戦争を描いた話題作でした。反戦主義者でもあるオリバー・ストーンらしい映画といえるかもしれません。ベトナム戦争に駆り出された兵士の多くが貧しい家庭の出であることに理不尽さを感じて志願したテイラー。彼は着任したベトナムで戦争の残酷な現実を目の当たりにします。私はこの映画を見終わったとき、人はなぜ戦争をするのだろう、しなければならないのだろうと無力感を感じました。テイラーの直属の上司であるエイリアスを演じたウィレム・デフォーが悲しいほどにかっこよかったです。是非観てみて下さい。

戦争映画といっていいのかわかりませんが、「グリムゾンタイド(95年)」もいい映画です。そもそも重くありませんし。私の好きな俳優のひとりであるディンゼル・ワシントンが主演です。主人公ハンター少佐は長期間、深い海底を潜航する攻撃型原子力潜水艦の副艦長。アメリカを守るために原爆を搭載した弾道ミサイルを敵国に発射すべきか。ジーン・ハックマン(この俳優もなかなかしぶくて好きです)演じる艦長と丁々発止の駆け引きが展開されます。この映画は実際におこった原潜事故をもとにしているといわれていますが、「正義とはなにか」について考えさせられました。アメリカ映画らしい映画かもしれません。

ディンゼル・ワシントンの映画は結構好きです。彼は出演オファーを受けるにあたって、脚本の出来をとても重視することで有名です。2004年に制作された「マイ・ボディガード」は彼の持ち味が生かされたいい映画だと思います。兵士として挫折を味わった主人公は知人の子どものボディーガードになります。そして、誘拐事件に巻き込まれた彼は自分の命を投げうって子どもの救出を試みます。手に汗握るストーリーで、ついつい最後まで見てしまいます。その結末は必ずしもハッピーエンドじゃない(ネタバレ?)のですが、それがよかったのか、悪かったのか。結論は皆さん自身が観て決めてください。

この映画をモチーフにしているかのような映画が「イコライザー(2014年)」です。主演のディンゼル・ワシントンが演じるロバート・マッコールはCIAの元工作員。今は一般市民として生活しています。ある事件をきっかけに彼は悪人退治に乗り出します。アメリカ版「必殺仕置き人」みたいなものでしょうか。ドキドキするシーン満載ですが、やはり悪人が退治されていくたびに胸がすっとします。この映画の中で、シンガーになりたいという夢を抱きながら娼婦に身をおとした少女に、静かな口調で「You can be anything you want to be.(君は願いさえすればどんな人間にもなれるんだよ)」と語りかけるマッコールが素敵です。

悪人退治といえば、1987年に制作された「アンタッチャブル」もよかったです。禁酒法があったころのアメリカを舞台に、ギャングの帝王アル・カポネと彼を追う捜査官エリオット・ネスの話しです。アル・カポネを演じたロバート・デ・ニーロはこの役のためにあたまの毛をそって役造りをしました。エリオット・ネスを演じたケビン・コスナーはこの映画が出世作になりましたし、共演のショーン・コネリーはこれでオスカーを受賞しています。かつてアメリカにいた頃、この映画に出てきたシカゴ・ユニオン駅にはお上りさんのように行ってきました。ここで撮影が行われたのかと思ってあのシーンがよみがえり感動しました。

「アンタッチャブル」は禁酒法の時代を描いていますが、ちょうどそのころの日本を舞台にギャングならぬヤクザを主人公とした映画も作られました。中でも私がいち推しなのが、高倉健主演の「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(71年)」です。以前にも少し紹介しましたが、高倉健扮する花田秀次郎と三州の親分を演じる鶴田浩二のセリフがものすごく感動的かつ印象的です。この映画は「昭和残侠伝」としてシリーズ化された9本のうちの第8作目。映画のストーリーはいつも同じ(マンネリ?)なのですが、この任侠の世界が当時の日本人の心(とくに私の心)をなぜかつかみました。ちなみに任侠は今の暴力団とはまったく違います。

唐獅子とはライオンのことですが、「アンタッチャブル」に出演していたショーン・コネリーが主演した「風とライオン(75年)」もいい映画でした。中学校3年か高校1年のときに観たのですが、そのストーリーにというよりもショーン・コネリーのカッコ良さと、共演していたキャンディス・バーゲンの美しさに魅了される映画でした。ハリウッド映画のスケールの大きさみたいなものを感じる映画でもありました。この映画で使われていた音楽もよかったです。作曲はジェリーゴールド・スミスです。彼は先の「トラトラトラ」の映画音楽も担当していて、映画を引き立てるとても素晴らしい音楽でした。是非聴いてみて下さい。

風といえば「風と共に去りぬ(39年)」も忘れられない映画です。主人公のスカーレット・オハラを演じるビビアン・リーもとてもきれいでした。ビビアン・リーほどこの役にぴったりの女優さんはいないかもしれません。レッド・バトラー役のクラーク・ゲーブルもはまり役です。だからでしょうか、ふたりともその後の作品にはあまり恵まれなかったようです。映画音楽もスケールが大きくてよかったですね。主題曲を聴くと、タラの丘で再起を誓うスカーレットの姿が目に浮かぶようです。そう考えると、映画にとって映画音楽はものすごく重要です。音楽を聴くだけで映画を見ていた時の感動がよみがえってきます。

映画音楽といえば、88年制作のイタリア映画「ニューシネマパラダイス」もよかったです。イタリア映画独特の雰囲気には好き嫌いがあるかもしれませんが、イタリアの片田舎にある小さな映画館を舞台にした物語になぜかホッとします。音楽を担当したエンリオ・モリコーネは、先ほどご紹介した「アンタッチャブル」の映画音楽をはじめ、南米を布教する宣教師を描いた映画「ミッション」、これまた禁酒法時代のアメリカを舞台にした「ワンスアポンナタイムインアメリカ」などの映画音楽を担当した素晴らしい作曲家です。私は、アメリカの作曲家ジョン・ウィリアムスとともにこのエンリオ・モリコーネは天才だと思っています。

最後に音楽を映画の主人公にしてしまったのが「アマデウス(84年)」です。この映画は天才作曲家アマデウス・W・モーツアルトの半生を、彼の才能を心から尊敬し、また憎んだサリエリの視点から描いたものです。サリエリは天才モーツアルトの出現によって彼の才能に驚嘆します。同時に、自分の凡庸さを思い知らされるのです。軽薄で信仰心のないモーツアルトに才能を与え、敬虔な自分には才能を与えなかった神を彼は憎みました。モーツアルトの名曲をちらばめながら、謎めいた彼の最期をサスペンス調に描いています。とりあわけサリエリを演じたマーリー・エイブラハムという役者が実に素晴らしかったです。

ご紹介したい映画は尽きないのですが、長くなってきたのでこのくらいにしておきます。最近はなかなか観たいと思う映画がありません。歳をとってなかなか感動しなくなったからでしょうか。それとも魅力的な映画が少なくなったからでしょうか。映画を観るときはできるだけ映画館で観たいと思っています。映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てから余計にそう思うようになりました。心に残る作品はその後の人生になんらかの影響を与えます。きっと、映画を観ることで、他人の人生を一緒に「生きる」ことができるからでしょうか。その意味では、なんとなく医者という仕事と似ています。だから好きなのかもしれません。