私の「幸福論」

本年3月1日付で投稿した「私の『幸福論』」については、最近、多数のスパムメールが寄せられています。そこで先の投稿文を削除してあらためて以下アップし直します。

以下、本文

多種多様な価値観を持つ社会ほど、しなやかで力強く、創造的かつ生産的な社会だといわれています。いろいろな考え方の人がいるからこそ社会は支えられ、発展するというわけです。なんらかの価値観にかたよった社会ではいろいろな問題に対応できないといういい方もできます。ひるがえって家庭にあてはめてみると、価値観が完全に一致した配偶者にめぐり逢うなんてことは奇跡に近く、誰もが新婚時代に価値観のぶつかりあいを経験するわけで(今でもぶつかっている?)、価値観の違いを乗り越えるということはそう簡単なことではなさそうです。

 個人的にいえば、人間の価値観の相違はとくに人生観、あるいは幸福観において顕著なのではないでしょうか。「人間、いかに生きるべきか」あるいは「幸せってなんだろう」という命題に正解などなく、百人いれば百通りの答えがあるのです。ストイックな人生が輝いて見える人がいれば、快楽主義的な生き方にこそ価値を感じる人もいる。ですから、これからお話しすることはあくまでも私個人の考えとしてお読みいただければと思います。私の価値観を人に押し付けるものでもありません。と同時に、他人からとやかく言われることでもないという点を強調しておきます。

早いもので今年ももう3月となってしまいました。小中学校の入試も終わり、おおかたの国立大学の二次試験も終了しました。残すは今日からはじまる公立高校の後期試験だけでしょうか。うちにも来年の高校受験を控える中学二年生の子どもがいるので、これからいよいよ否応なしに受験モードに入っていきます。親として表面上は泰然自若を装い、子供には常に冷静な姿を見せておかなければいけないのでしょうが、いかんせんそこは悲しいかな凡人の私。来年の受験に向けてどこまで平常心でいられるか自信はまったくないというのが正直なところです。

 中学二年生にもなると、子どもながらに自分の将来のことをぼんやり考え始めるとともに、不安になる時期でもあります。先日もニュースで、学校の担任とそりが合わなかった中学生が「担任のせいで自分の人生は終わった」と遺書に残して自ら命を絶ったと報道されていました。そうした出来事を耳にするたびに、同じ世代の子どもをもつ親としては切ない気持ちになります。しかし、かくいう私も、これまで自分の子どもとこうしたことをじっくり話し合ったことはありませんでした。ところが、ひょんなことから息子と人生についてじっくり話をする機会がありました。

 それは息子に勉強を教えているときのことでした。仕事を終えて疲れて帰ってきてから少しだけ息子に勉強を教えているのですが、教わっている最近の息子の態度がとてもいい加減に見えていたこともあって、いつになく声を荒げて息子を叱ってしまいました。さすがの息子もその私の怒りっぷりが理不尽に見えたのか、これまたいつになく口をとがらせて反論してきました。息子の言い分もわからないでもありませんでした。しかし、仕事のことで少しイライラしていたからか、私はそれまで心の中にわだかまりとしてたまっていた息子への不満をいっきにぶつけたのでした。

 しかし、私がひとしきりこれまでの息子の勉強への姿勢を批判したあと息子は私に言いました。「父ちゃんは今幸せ?」。「ああ、幸せさ。ママもいて、ふたりの子どもにも恵まれたからね。仕事もそれなりに順調だし」。すると息子はしみじみと「そうだよなぁ。子どものころからなりたかった医者にもなれたんだし」と。彼がそんなことを言うとは思っていなかったせいか、私は彼の次の言葉にショックを受けました。それまで机の上に視線を落としていた息子が私をしっかり見つめてこう言ったのです。「そんな父ちゃんより俺が幸せになれると思うかい?俺は父ちゃんより幸せにはなれないんだよ」。

 息子は私をそんな風に見ていたんだと少し意外な気持ちがしました。これまで息子に私は「いかに自分が子どものころ勉強をしなかったか」、あるいは「どうして勉強するようになったか」をなんども話してきました。私としては「誰でも努力を怠らなければ医者ぐらいにはなれる」という気持ちを彼に伝えたかったからです。そして、それを聴いた息子に「よし、それなら俺も頑張ってみよう」と奮起してもらいたかったのです。しかし、それを聴いていた息子の目には「自分にはとてもまねのできないもの」として映っていたらしく、私はそのことに多少ショックを受けていました。

 でも、私は気を取り直して息子に言いました。「でも、幸せっていったいなんだろう?手にいれることができるものなんだろうか。ずっと手元においておけるものなんだろうか?」。息子は「そんなこと知らないよ」とちょっと投げやりです。「幸せって、人によってその形や中身も違えば、大きさだって違うんだ」。息子は視線を机の上に落としたままです。「君がなにに幸せを感じるかは俺とは違うはずだし、違っててぜんぜん構わないものなんだぜ」。私はこのとき「自分の幸福論」を話しはじめました。延々と1時間ほど続いたでしょうか。息子は意外と黙って聞いていました。

********** 以下はそのときの要旨です。

 世の中にはいろいろな価値観がある。遊んで暮らしていければいいと考える人もいれば、日々努力をしてひとつひとつに向上心をもって生きていくことを善とする人もいる。あるいは人知れず自分の世界を大切にして人里離れた場所でひっそりと暮らす人だっているだろう。でも、そのどれが「いい生き方」かってことでもなければ、どれが素晴らしいかって問題でもない。結局は「どの生き方が好きか?」って問題なんだよ。そうしたいろいろな価値観を持った人が、自分の持ち場でそれぞれが幸せだと感じることができれば、それを「幸福」っていうんじゃないんだろうか。

このあいだ、新聞に、学校の担任に嫌われた中学生が「担任に睨まれたから俺の人生はもうおしまい」なんて遺書を残して自殺してしまったというニュースが載っていた。たかだか担任の先生に気に入られるかどうかで人生って決まっちゃうのかい?いい高校あるいは行きたい高校に行けないと人生は終わりなの?大学行けないと(あるいは行かないと)幸せになれないの?就きたい仕事に就けないと、あるいは定職に就かずにアルバイトで生活していたらその人は不幸なの?逆に、小さいころから勉強ができて、いい大学を出て、大きな会社に勤めて、社長になったらその人は幸せなのかい?

 あのね、会社という組織を考えればよくわかるよ。出世することを第一と考え、家庭生活を犠牲にしてまで懸命に働いたサラリーマンがいたとしよう。そして、その努力と犠牲の甲斐あって見事社長になれたとして、その人は幸せといえるだろうか。奥さんとの四十年や子どもたちとの三十年間の家庭生活を犠牲にして、奥さんや子どもたちがその出世を恨んでいたとしたらどうだろう。その人の幸福にどのような意味があるんだろうって思わないか?会社での何十年かを振り返って「俺の人生に悔いなし」って言えればいいよね。でも、犠牲にしてきた家族との生活はもう戻ってこないんだよ。

もちろん、こうした人も会社には必要だよ。会社で働く人がみんな「家庭が第一。出世しなくてもそこそこに働ければいい」と考えるようじゃ会社は成り立たないからね。だけど、だからといって「家庭が第一」と考える人が社会人として劣っているということでもない。どちらも価値観としては認められていいということなんだ。そういういろいろな価値観があって社会はなりたっている。だから、有名な学校を出ようが出まいが、学校の成績がよかろうが悪かろうが、社会的地位の高いポジションにいようがいまいが、その人の価値を決めるわけでもないし、幸せかどうかを規定するものでは決してないということさ。

 考えてみると、人間は生きていく中でいろいろなターニングポイントに遭遇して、人生の選択を迫られる。そのポイント、ポイントで最善と思えるような選択をしなければならない。「最善の選択」とはいっても正解とは限らないよ。正しいかどうかなんて誰にもわからないんだから。「後悔をしない選択」という意味にすぎないと思う。後悔のない選択をするためには日々努力をしなければいけない。その「日々の努力」あるいは「後悔のない選択」の積み重ねの総体が人間の幸せなんじゃないのだろうか。つまり、幸せに終着点はない。幸せは手に入れられるようなものではないってことなんだ。

君はなんのために勉強しているの?もちろん希望する学校に入るためだよね。それならなんのために希望する学校に入りたいんだい?それは一義的には幸福感を得たいためであり、二義的には将来の希望につなぐためだよね。では、希望の学校に入れないと将来の希望をつなぐことはできないのだろうか。そうじゃないよね。だって、「人生の扉」を前にして、希望の学校に入れたということが正解かどうかだなんて誰にもわからないんだから。つまり、どのような扉を開けるにせよ、それぞれの人がそのときどきに応じて誠意をもって最善の判断を繰り返していくことしかないんだよ。

 「神は自ら助けるものを助ける」という言葉があるよね。人の一生にはなにか正解があって、その正解をたどることが幸せにつながると多くの人はなんとなく思っている。だけど、実はそうじゃない。人生にそもそも正解などないし、お手本なんてものすらない。つまり、その人でしかたどれない人生を誠実に生きていくこと。その積み重ねが少しづつ「幸せの貯金」となっていく。その誠実さ、その日々の努力を神さまは見ているんだよっていうのが、先の言葉の意味なんだと俺は思う。他人の人生なんて自分にはなんの関係もない。自分を誠実に生きるってことこそ大事なんだと思うけど。

 生きるのが苦しくなるのは他人の目を気にするから。他人と自分を比較するからさ。自分がどう生きようと他人には関係ないのと同じように、他人がどのような人生を生きようと君の人生にはなんの関係もないんだよ。君の人生が家族や身近な人たちの人生になんらかの影響をあたえることはあるかもしれない。身近な人たちにどのような影響を与えるにせよ君が誠実に生きるという姿勢を貫くならばそれは許されるものさ。気にしなくたっていい。だってたった一度の自分の人生なんだもの。自分のために生きるのも自分、他人のために生きるのも自分。どちらがより尊いかって問題じゃない。

 君自身は、今やらなければならないこと、選択しなければならないことはなにかに常にアンテナを張り、最善の行動をとるようにしなければいけない。君の年代はその訓練をする時期。結果がどうであろうと知ったこっちゃないじゃないか。やるべきことをやるだけ。それ以上のことは神さまにまかせるしかない。後ろを振り向くな、ただひたすら前をみろ。立ち止まって振り返っている暇はないからね。ただし、心折れて歩けなくなったら、あるいは道に迷って途方に暮れたら地べたに寝そべって目をつぶれ。そして、いつかふたたび立ち上がればいい。人生なんて長いようで短いけど、本来は気楽で自由な旅みたいなものなんだし。

アルバイト考

最近、「働き方改革」という言葉を耳にします。今や死語となってしまった「猛烈サラリーマン」に代表されるように、これまでの日本人はともすると家庭生活はもちろん、あらゆるものを犠牲にして働くことをいといませんでした。それを美徳とすら思ってきたのです。しかし、先ほどの「働き方改革」は、これまでの「働くために生きる」ともいえるようなライフ・スタイルを「よりよく生きるために働く」ものにシフトしようというスローガンのもとで進められています。

思えば、私たちも研修医のころは24時間、365日働いていたと思うくらい働いていました。また、それが当たり前のようにすら感じていました。ですから、最近の研修医の中にはいわゆる「95時勤務」となって、5時になると早々に離院できるという話し(実際はそんなに甘い研修ばかりではないのでしょうが)を耳にするにつけ、なにやらもったいない気持ちになります。ましてや「医者も労働者だ」という視点で医師の労働時間を議論されることにも個人的には少し違和感を覚えます。

とはいえ、これまで生活の中心になっていた労働を、生活を充実させるために働くというパラダイムにシフトさせるということは決して悪いことではありません。自分の生活を犠牲にして働く人がいなければ支えられないものがあるとはいえ、犠牲を強いなければならない人を必要とする社会は本来間違っています。すべての人がよりよく生活できる社会を作らなければいけません。その意味で、「働き方改革」というムーブメントは「はたらく」ことの意味を見直すいい機会になるかもしれません。

私もこれまでいろんなアルバイトをしてきました。自分に向いている仕事もあれば向いていない仕事もあって、それぞれに思い出があり、たくさんの教訓を得ることができました。でも、当時は働くってことがこんなにも大切なことなんだというところまでは考えが至らず、ただ単にお金目的で働いていたに過ぎません。やりがいだとか働く意味なんてことまではまるで考えていませんでした。そうしたことがわかったのはやはり年齢を重ね、社会人となってからです。

総じて私がやったアルバイトはどれも楽しかったです。出版社で辞書を作るバイトだったり、守衛さんのお手伝いだったり、とある私立中学の林間学校のスタッフだったり、あるいは家庭教師だったり塾の先生だったり。今振り返ってみると、そのどれもが貴重な社会勉強になったと思います。お金をもらうこと以上に、働いてみなければわからないいろいろな気づきや学びがあって、アルバイトは単にお金をもらうだけじゃなく、生きることにもつながる大切な社会活動なんだってつくづく思います。

とりわけ私にとって思い出深いアルバイトは花屋の売り子でした。店先に並べた花束をスーパーの買いもの客に売るのです。私と同じ年代の女の子とふたりで店を任されたのですが、店先に立ってものを売るなんてことははじめての経験でした。「いらいっしゃいませ」のひと言を口にすることがいかに難しいことか。一緒に働いていた女の子も私と同じように大きな声で呼び込みができないようで、仕方がないので私が前に出てお客を呼び、彼女がレジに座ることにしました。

ところが、私がいくら勇気を出して「いらっしゃいませ。お花はいかがですかぁ」と声をかけてもお客さんはいっこうに店をのぞいていってくれません。なんども呼び込みをするのですがまったく反応がないのです。その日はお彼岸のまっただ中で、本来であれば墓参用のお花がもっと売れるはずなのに。なぜ買ってくれないのだろう。はじめに感じていた緊張感は徐々に薄れていましたが、いっこうに花が売れないことが不安になってきました。この花屋の主人の不満そうな表情が脳裏をよぎりました。

スーパーで買いものを済ませた客は相変わらず店先の花を横目で見ていきます。しかし、立ち止まって店先をのぞいていってくれませんでした。一緒に働いていた女の子とどうすればいいんだろうと話していると、隣のスペースでカステラを売っていた青年が見るに見かねて声をかけてくれました。「兄ちゃん、それじゃ売れないぜ」。振り返ると、てきぱきとカステラを売りさばいていた青年が、ぎこちなく花を売る私達に微笑んで立っていました。

「そっちのお姉ちゃんが前に立った方がいいぜ。そして、兄ちゃんが後ろで声をかけるのさ」。彼が言うには、私のような男性が前に立っていたのでは女性客は警戒して気軽にのぞいていかないらしい。「兄ちゃんが遠くから呼び込みをして、ひとりがのぞいてくれたらいろいろ話しかけてその客を引っ張るんだ。そうすると他のお客がまたのぞいていくよ、きっと」。カステラ売りの青年のアドバイスはとても具体的でした。私達はさっそくやってみることにしました。

まず女の子が店先でにこやかに呼び込みをしました。あくまでも控えめに。そして私は奥のレジで元気よく声を出すようにしてみました。するとどうでしょう。青年の言ったとおり、ひとりのご夫人が花をのぞき込んでいきました。女の子はすかさずその客に声をかける。すると、それを見て何人かの客が立ち寄っていくようになりました。私はすかさずそれらの客達に軽く声をかけていたら、花が次々と売れ始めました。カステラ売りの青年は忙しくなった私達をときどき遠くから見ていてくれました。

「この花とあの花だと、色合い、おかしくないかしら」。一人の主婦が私に聞いてきました。さっぱりカラーセンスがない私は一瞬答えるのを躊躇してしまいました。適当に答えているように聞こえたらいやだったからです。しかし、それなりにいいカラーコーディネイトだったものですから、勇気を出して「とてもいい組み合わせだと思います」と言ってみました。するとその客はニコリと微笑み、花を四束買ってくれました。

終わってみれば、カステラ売りの青年のアドバイスが効を奏してたくさんの花束が売れました。青年は「ものを売るってむずかしいだろ。でも、コツがわかると楽しいだろ。あの調子で頑張るんだよ」とほめてくれました。一緒に働いている女の子との息もぴったりあって、なんとなくものを売るということに自信がついてきました。どんよりと曇っていた気持ちはすっかり晴れ、なんだかもっと売ってみたいような気持ちがしていました。

花売りの仕事がはじまる前、花屋の店主は手順を説明しながら「ふたりで大丈夫かな」と不安気でした。しかし、店じまいの頃にやって来て私達の売り上げを計算するとその表情はとても明るくなっていました。「よく頑張ってくれたね。たいしたもんだ」と店主満足げです。その表情を見た私もほっとしました。私達に的確なアドバイスをくれたカステラ売りの青年は、さっさと自分の商品を売り切ってしまい、私達よりも先に店をたたんでは風のように去って行きました。

見知らぬ人に商品に関心をもってもらい、その商品を買ってもらうということはとても難しいことです。こんなあたりまえなことでさえ、普段買う側にいると想像することさえしません。どうしたら品物を買ってもらえるか。売る側の人たちは試行錯誤しながらそのコツを体得していくのです。「経験」を「知」に変えるとそれはアート(Art)になります。このアートの域にまで到達することができれば人は創造的に働くことができ、アートを手にした人のみが創造的に働くことができるのです。

働くことは単にお金を稼ぐだけのツールではありません。生きることを知るためのツールでもあります。働くことを通じて創造的かつ能動的に生きることも、前向きに生きることもできます。「はたらき方」を考えるってことは実は人間の生活そのものを考えることかもしれません。アルバイトをすることで、働くことが人生になんらかのヒントあるいは指針をあたえてくれるということに気が付きます。

人生の転換点

人は生きていく中で、なんどか人生の転換点ともいうべき時を経験します。私にもそうしたときが何回かありました。中学生のときがそうでしたし、大学生の時期もそうでした。また研修医のときもまたそうだったと思います。中でもとりわけ中学生の頃は今の自分につながる大きな転換点だったと思います。

以前にもお話ししたように(「医者になる」もご覧ください)、小学生のころはまるで勉強には縁がなく、怠惰に6年間を過ごしてしまいました。中学校は地元には行かず、東京のとある区立中学校に入学しました。地元の中学校ではなく東京の区立中学校への越境は私の希望でしたが、なぜ越境を私が望んだのかは実は今をもってしても不明です。ともあれ、この中学校での三年間がなかったら今の私はなかったといっても過言ではなく、今さらながら運命的な出会いというものはあるんだなぁと実感します

でも、中学に進学しても生活態度は小学校のそれとはほとんど変わらず、電車通学するだけの生活が始まっただけで、進学を期に勉強に目覚めるなんてことは依然としてありませんでした。板書をノートすることもなければ、宿題をきちんとやっていく生徒ではなく、学校でただただボーっと過ごして家に帰ってくる毎日でした。中学1年生のときの担任との面談で母は「このままでは相当頑張らないと高校へ行けない」と冗談とも本気ともわからない指摘を受けてショックを受けて帰ってきたことがあるくらいです。

さすがにそんな私に危機感をもったのか、中学2年生の冬だったか、母親は近所に住んでいた大学生のお兄さんに私の家庭教師を頼んだのでした。数学と英語を教わりましたが、その大学生のお兄さんも教え始めたときの私の出来の悪さにびっくりしたに違いありません。それでもそのお兄さんが根気強く教えてくれたおかげで私自身は学ぶことの楽しさに少しづつ気づきはじめました。決してまじめな教え子ではありませんでしたが、授業がわかるようになるともっと勉強をしたいと思いはじめるようになったのでした。

中3になってこれまでとは多少内容が高度になるにつれて、授業中に先生が出題する問題に食らいつくことが面白く感じるようになってきました。とくに、私が心ひそかに好意を寄せていた女の子が席替えで私の隣になり、わからない問題の解き方をたずねてくるようになって俄然勉強に身が入るようになってきました。そして、授業中に先生が出題する問題にクラスの秀才よりも私の方が早く解けたり、彼よりもスマートな解き方をして先生に褒められるようになるとさらに勉強への意欲がわいてきたのでした。

私が通った中学校は下町にありましたが、文武両道をモットーとしていて、先生たちも熱心に生徒を指導してくれた素晴らしい学校でした。部活にも熱心で区内の中学校との陸上大会でも何度も優勝していましたし、学区内の他の中学校との進学実績でも競い合っていました。春になると「今年はどこどこ高校に何人合格した」ということが話題になり、中学3年生になった私達生徒も「来年はあの中学校には負けないぞ」という気持ちが自然と高まるような雰囲気の学校でした。

その反面、生活指導も厳しく、生徒には今であれば体罰だと騒がれるような指導も行われていました。しかし、そんな指導に反抗するような生徒はいませんでした。むしろ、そうした指導を面白がっていたようなところもありました。恐らく先生たちの愛情を生徒たちが感じていたからだと思います。あまり生活態度のよくなかった私はたびたびこの「指導」を受けていましたが、今となってはどの指導もいい思い出として残っています。今であれば大騒ぎになっているでしょうけど。

私がいつも受けていた指導は「おしゃもじの刑」。授業中におしゃべりをしていたり、宿題を忘れたりすると先生に「はい、おしゃもじ。昼休みに体育館に集合」と宣告されます。宣告を受けた生徒は昼食後、体育館に集合して「おしゃもじの刑」が執行されるのを待ちます。しばらくすると、屈強な体育の先生が給食で使う大きなおしゃもじを肩にかついで体育館に入ってきます。そして、私達生徒は一列に並ばされ、いよいよその刑の執行がはじまるのです。

「はい、壁に手をついてケツを突き出せ」。先生がいうとおりに両手を壁に尻を突き出すと、先生は助走をつけ、振り上げたおしゃもじをお尻めがけてふり下ろします。「パーンっ」。体育館に大きな音を響かせると、生徒は尻を抱えながら体育館を走り回るのです。「イテテ・・・」。それを見て笑い転げる生徒、次は自分かと恐れおののく生徒。体育館の中は阿鼻叫喚の世界と化します。でも、誤解のないようにいっておきますが、これは遠い昔の話し。決して体罰という意識は先生の側にも、生徒の側にもありませんでした。

私はこの他にも、「石抱きの刑」や「重力の刑」も受けたりしていました。前者は掃除用のほうきを二本並べ、その上に正座をさせられることからはじまります。そして、生徒の後ろにまわった先生は、「よく宿題を忘れるな、セバタは」と私の両肩に全体重をかけます。ほうきの上に正座した脛の痛いこと痛いこと。後者の刑は、クラスの出欠を記録する出欠簿の隅を指でつまみ、そこを中心に相対する角をあたまに自然落下させる刑。「ま~たお前か」と言われながらわられるのを生徒は面白がっていたようです。

髪の毛の長さにも校則に決まりがあって、朝の登校時に校門のところに週番の生徒と立っている生活指導の先生が髪の長い生徒を見つけ出します。そして、「昼休みに理科室ね」と声をかけます。そして、先生に指名された生徒は昼休みに理科室に集合。すると腕に自信のある先生が待っていて、髪の長い生徒は先生にバリカンで髪を切られるのです。うまくいかないときはときどき虎刈りのようになりますが、できあがった髪型に一喜一憂する生徒、そしてその生徒を面白がる生徒の姿は今はいい思い出です。

当時は「ゼネスト」とよがれる年中行事がありました。春になると旧国鉄(今のJR)の労働組合が大規模なストライキをして鉄道が全面的に止まるのです。止まらないまでも「順法闘争」と称してノロノロ運転をしてダイヤが大幅に乱れます。そのせいで首都圏の交通機能が完全にマヒ。今思うとよくそんなことがまかり通っていたものだと思いますが、年中行事みたいになっていたのでサラリーマンも私達学生・生徒も仕方ないとなかば諦めムードでなんとか工面をつけて会社や学校に通っていたのです。

ゼネストがあるちょうどその時期に学校では定期試験があります。ですから私のように電車を使って通学している生徒は、親が旅館業を営んでいる同級生の家に泊まり込んでテスト勉強、そして受験をしたのでした。同じ越境入学の友達と一緒に旅館にとまってのテスト勉強は楽しかったのですが、私は同級生たちが試験勉強する中あいかわらずのマイペースでボーっとしていました。それにしても先生も同じようになんとか都合をつけて学校に来なければならなかったのですから先生もずいぶん大変だっただろうと思います。

私の中学校は下町にありましたから、いろいろな生徒がいました。サラリーマンの子よりも親が商店を営んでいる子が多かったように思いますし、在日韓国・朝鮮人の子もたくさんいました。中にはヤクザの子もいました。でもみんな仲が良かった。先生も分け隔てなく生徒全員を同じように扱っていたのです。中にはいつも警察(少年係)のお世話になる生徒もいたりして、ある同級生は最終的に練馬鑑別所に収監されましたが、それでも先生たちは決して我々の前で彼を悪く言うことはありませんでした。

また同じように少年係によくお世話になった生徒の中には、その後、警視庁の警察官になった者もいます。卒業文集の「後輩に残すことば」に彼は「正義なき力は暴力。力なき正義は無力」と書いていました。今頃その生徒はどうしているんだろうとときどき思ったりします。このようにいろいろな生徒がいましたが、学校の中が荒れるなどということはありませんでした。生徒は先生を敬い、素行のよくない生徒ですら先生に手をあげるなど皆無でした。他の学校の不良とトラブルを起こすことはしばしばありましたけど。

このような中学校に通い、さまざまな友人をつくる中で、私は少しづつ変わっていきました。そして、先ほども述べたように、近所の大学生に家庭教師になってもらい、3年生になって密かに心を寄せていた女の子が隣の席になったのをきっかけに、私は勉強することの面白さを実感するようになりました。少なくとも数学と英語はそれなりにできるようになり、夏休みには難関校をめざす塾の入塾テストにも合格するまでになっていました。1年のとき、担任の先生に「このままでは高校に行けない」と言われていた私だったのに。

それでも私は、その塾では深い海底を漂う潜水艦のような生徒でした。みんな一流校と呼ばれる学校を目指す生徒ばかりでしたから私は少しばかり場違いだったのでしょう。先生にあてられてもまともに答えらえず、できるだけ目立たないようにしていました。あるときテキストの英文を訳すように指示されました。そこには「Glasses」という単語があり、これは「メガネ」と訳さなければ意味が通らないところを「草(こちらはgrass)」と訳してしまい、教室中の生徒に大爆笑されたこともありました。

それなりに成績は伸びました。それなりの高校にも受かりました。残念ながら私が思いを寄せていた隣の席の女の子は商業高校に進学して離れ離れになり、最後まで胸をときめかせるだけで終わってしまいました。卒業アルバムを開くと今でも当時の気持ちがよみがえりますが、そのアルバム写真に一緒に写っていた先生方もすでに亡くなられた方も少なくありません。一番私を気にかけて下さった1年生のときの担任の先生も何年か前にお亡くなりになり、教え子が主催したお別れ会が開かれ、私も出席してきました。

そのお別れ会にはたくさんの教え子が集まりました。そして、演壇ではその教え子たちが口々に昔の懐かしい思い出話しを披露していました。そのどれもが今では話すことがはばかられることばかりでした。でも、そのすべてがいい思い出として教え子たちの心の中に残っているんだということがわかるほどに会場は盛り上がりました。千葉の我孫子という田舎から東京の中学校に通っていた私をその先生は「かっぺ(いなかっぺ)」と呼んでいましたが、その先生自身も福島出身でいつもなまっていたのでした。

その先生は私が医学部に合格したとき、長い手紙を送って下さいました。そこには自分のことのように喜んでくれた先生のあふれんばかりの気持ちが綴られてありました。そして、自分の従弟も北大の医学部出身で眼科医だったことが書かれてありました。また、私が数学を教わった先生が、授業中に「教え子が医者になった。頑張ればみんなも夢をかなえることができる」と私のことをうれしそうに生徒に話しをしていることも伝えてくれました。このときばかりは本当にうれしかったです。

当時の中三の学年だよりに、英語の先生が次のような文章を寄稿しました。「人生には踏ん張らなければならないときが何回かある。ここぞというときにどれだけ踏ん張れるかにその人の価値はかかっている。みんなもそのことをいつも胸にして巣立ってほしい」と。私はこの言葉がとても心に残り、今でも自分の心の支えになっています。この中学校でのいろいろな先生との出会い、友人との関わりが今の自分を作っているんだということを実感しています。その意味で、自分の人生の大きな転換期となったいい中学時代を過ごせて本当に幸せだったと思っています。

医者と患者のはざまで

医学部を卒業しても医者としてはまだ不十分です。なるほど国家試験直後の学生さん達の知識は、医学部をはるか昔に卒業した我々よりもはるかに多いだろうということは想像に難くありません。しかし、医師という仕事は当然のことながら知識を必要としますが、それと同じくらい、いや、それ以上に経験がものをいう場面が多々あります。患者の話しに耳を傾け、適宜こちらから問いかけることによって頭にひらめくもの、「ひょっとして」という「勘働き」のようなもので助かる命は決して少なくありません。

逆に、「なぜあのとき、きちんと対応しておかなかったのだろうか」と悔やむこともあります。診療のときに感じた何気ない胸騒ぎ。無駄だと思っても検査をしたり、紹介の手間を惜しまなければ助けられた命だってあります。最近は、やれ医療費だ、C/B(コストバイベネフィット)だ、事前確率だ、エビデンスだ、と合理性のようなものを求められます。患者自身も医療費ですら「できるだけ安く」で、マスコミもそうした風潮を煽ってきますから、おのずと私達医療者も「検査をしない」ことを善としてしまいがちです。

検査をするか、しないか、という問題は意外と難しい問題です。典型的なものに「PSA検査」というものがあります。PSAとは前立腺がんのときに上昇する腫瘍マーカーのひとつですが、このマーカーを検診として調べることの是非がしばしば取り上げられます。PSAは前立腺がんの他に前立腺肥大でも上昇することが知られており、PSAの上昇を検診でひっかけることで過剰な検査を招き、不必要な治療までおこなわれているのではないかという批判にさらされているのです。

PSA検査をすべきではないとする意見がある一方で、PSAを調べることで無症状の前立腺がんが未然に拾い上げられているという事実も重視すべきだという意見もあります。無駄な検査や治療がおこなわれるのは担当する医師の力量の問題なのであって、医療費が無駄遣いされるのはPSA検査のせいではないというわけです。しかし、そうした意見に、PSAの検査によって前立腺がんの生存率が高まるわけではなく、そもそも前立腺がんの悪性度はそれほど高いわけではなく、PSA検査そのものは過剰検査だという反論もあります。

第三者的であれば医療経済学的に見ることができるものも、実際に自分がその患者だったらと視点を替えてみるとまた違った景色が見えてきます。PSA検査を「すべき検査ではない」とみるか、「してもいい検査」とみるか、はたまた「すべき検査」とするかについては医師や学会の間でも見解の相違がみられるのですから、一般社会においてなんらかのコンセンサスを得ることは難しいのです。私も医者になる前と、医者になってからの感じ方もずいぶんと変遷してきたと思いますし。

皆さんは山崎豊子の「白い巨塔」という小説を読んだことがあるでしょうか。昭和40年代の医学部を舞台に、教授をめざして走り続ける財前五郎と、そうした彼や医学部のありかたに疑問をもちながら自分の道を歩む里見脩二。この対照的な二人の生き方を通して壮絶な権力争いを繰り広げる医学界の問題点をあきらかにした力作です。私がこの小説を初めて読んだのは高校一年生のときでしたが、当時は里見脩二の生き方に共感し、彼に自分を重ねていましたが、実際に医者になるとちょっと見方が変わってきます。

この「白い巨塔」という小説は、天才外科医と呼ばれた財前が胃がんを見逃すという「医療ミス」を中心に物語が進んでいきます。「なにかおかしい」と感じながらも繰り返す検査でなにも異常を見つけられなかった患者を里見は財前に託します。しかし、教授選を控えて多忙を極めていた財前はそうした里見の心配を「考えすぎだよ」と一笑に付すのです。ところが、実はその患者は里見が疑った胃がんであることがわかり、その医療ミスをめぐって裁判が開かれ、かつての親友である里見と財前は対峙することになります。

なんどもなんどもいろいろな検査をし、結局は胃がんを見つけられなかった里見。最後は患者に「先生、もういい加減にしてもらえまへんかっ」とまで言われてしまいます。しかし、それでも里見は原因をつきとめようとするのです。一方、財前は「ここまで検査をやったんだ。問題があるはずがない」と里見の心配をまともに受け止めようとしません。しかし、患者は胃がんだった。すでに患者が手遅れであることを知った里見は財前にいいます。「財前君、医学は謙虚でなければいけないのだ」と。

財前は裁判で無罪を主張します。患者側の証人となった里見はその代償として大学を追われます。開業医として日々忙しく診療している里見の兄の「患者のために診療するのに、大学にいるかどうかは問題じゃない」という言葉に背中を押され、里見は大学を辞めるを決意します。その間、財前の周囲では教授選に勝利するためなりふり構わぬ策略が進められ、最終的には教授選とともに裁判にも勝利します。一方の里見は地方の病院へ。読み終わったとき、なにかもやもやとしたものを感じながら続編を期待したくなります。

この小説を初めて読んだ高校生のときとは違って、医者になると少し感じ方が違ってきました。それはどちらかというと財前五郎に「同情的」ともいえる感想かもしれません。確かに、胃がんを見落としたというそしりは免れない。しかし、里見が「患者に叱責される」ほどの検査を繰り返してもなお見つからなかった胃がんを見逃したからと言ってそれほどまでに批判できるかということです。当時はお金も時間もかかり、苦痛だってそれなりにともなう検査をその後もやり続けた方がいいのか、という点です。

「続 白い巨塔」では患者の担当医となった部下の証言が重要な要素になってきます。入院後に担当医は胃がんを疑い確認検査をしてはどうかと財前に進言するのですが、財前は教授選に心を奪われていてまともに取り合わない。そればかりか担当医を不適格だと大学から飛ばしてしまう。続編ではそんなところをクローズアップしながら財前が自壊していく様子を描いています。それはそれで物語としては面白いのですが、患者のマネジメントとしてはそれほど批判されるものではないと医者になってから思ってしまうのです。

里見は医者の勘働きとして「なにかがある」と疑い、財前も同じように勘働きで「なにもない」と言い切る。ここには結果論としての正解と誤答があります。しかし、その正解と誤答の違いは、勘働きにこだわり、修正をおこたった財前の失敗の違いだけ(ものすごく大きな違いでもありますが)であり、当初、財前が「なにもない」と判断したこと自体に瑕疵はないのではないかということが言いたいのです。もちろん「たまたま勘働きが間違ったにすぎない」と済ませられるほど簡単な事柄ではありませんけど。

まだ医学的な知識も、はたまた医療制度や医療経済的な事柄にも知識がないころの見方はどちらかというと「情緒的」にかたよりすぎていたり、世の中の論調(小説であれば作者の意図)にひきづられてしまったりして、ものごとの本質からずれた評価をしがちです。勧善懲悪の視線をどうしても持ってしまいますし。最近、どこかで「科学が風評に負けてはいけない」みたいな言葉が飛び交いましたが、実はこの言葉は意外と示唆に富んだ意味をもっていると思います。

「勘働き」とは意外にも重要な働きをしますが、それにとらわれてはいけないということかもしれません。私達の医療の世界では「エビデンス(根拠)」というものが今まで以上に重視されるようになりました。「経験によらない根拠ある医療」こそ医学というわけです。ところが、とある血圧の薬で問題になったように、そのエビデンスも実はあてにならないこともあります。むしろ、日常の臨床で感じた印象の方が当たっていたってこともあるのです。まぁ、難しい問題ですね。

ありきたりな結論ですが「バランスが大切」ってところでしょうか。常に懐疑的にふりかえること。とらわれてはいけないってことでしょうね。その意味で患者の視線、医学的な知識をもたない人の視点を忘れないということが大切なのかもしれません。こうした視線や視点を持つことって、普段、医療者として仕事をしていると実はなかなか難しいことなんですけど。医学部の学生のとき、ある教授にいわれました。「患者にながされることなく患者に寄り添いなさい」と。今になってこの言葉の含蓄の深さがわかります。

ネボケルワタシ

札幌での学生時代の多くを過ごしたのは「岩樹荘(いわきそう)」というアパートでした。北大に合格してまずやらなければならなかったのは自分の住処をさがすことでした。それまでずっと両親の住む自宅から学校に通っていましたからはじての一人暮らしです。うれしいような不安なような複雑な気持ちだったのを覚えています。入学試験のころはまだ一面に雪が積もっていたのに、アパート探しに札幌を再訪したときにはもうだいぶ雪解けが進んでいました。日中はもはや氷点下になることはないため、道路や歩道の雪は融雪水となってどんどん側溝に流れていきます。そんな市内を札幌在住の知り合いの車に乗せてもらって探し回ったのでした。

除雪が進んでいる大通りは車のながれが多いせいかすっかり雪も姿を消していましたが、ちょっと辻通りに入ると結構な雪がまだ残っていました。私がアパートを探していた地域は学生用のアパートが多く、卒業式を終えて引っ越しをする学生が荷物を運び出している光景も見られました。こんな通りを知り合いの車に乗せられて走っていると、窓ガラスに「空き室あり」の張り紙をした一軒のアパートが目に入りました。それが「岩樹荘」でした。「ここ、どう?」。そう言う知り合いのおばさんの後ろをついていき、玄関の呼び鈴を押すと管理人室から厳格そうな初老の男性が出てきました。それがこのアパートの管理人でもある「岩樹荘のおじさん(「謹賀新年(平成29年)」もご覧ください)」でした。

管理人室でその「岩樹荘のおじさんやおばさん」と話しをして、すぐにこのアパートが気に入ってしまいました。薄暗い廊下はひんやりとしてまだ寒かったのですが、管理人室はストーブがたかれていてポカポカしていました。ごくごく普通の家庭の居間という雰囲気でしたから、なにかとてもアットホームな感じがして他人の部屋と言う感じがしませんでした。このアパートで医学部に進学する前の教養学部医学進学課程の2年間と医学部の2年間の合計4年を過ごしましたが、いろいろな思い出とともに「岩樹荘のおじさんとおばさん」によくしてもらった記憶が今も自分の心の中に生きています。

学生のころは決してまじめな学生ではありませんでした。つまらない授業はさぼっていましたし、代返(本人に代わって出席をとってもらうこと)が効く授業は代返を頼んだりしてアパートでダラダラ。あるとき、私はいつものようにつまらない授業をさぼって自室にこもっていたのですが、多少の後ろめたさを感じながらもいつの間にか寝てしまったのでした。そんなとき突然自室の電話が鳴りました。このアパートに入居してしばらくは電話がなく、管理人さんのところにある公衆電話を使ったり、呼び出しをしてもらったりしていたのですが、しばらくするとそれも不便になって固定電話を自室に引いたのです。

突然鳴り出した電話。私はちょうどそのとき夢のなかで留学生となにか会話をしているところでした。あまりにも急に夢から覚めた私は、受話器をとってもしばらくは夢と現実の間にいるようでした。受話器の向こうからは友人の声。授業に出てこなかった私を心配してくれての電話だったようです。「今日、講義に来ないみたいだけどどうかした?」。そう聞かれてもなんだかうまく言葉がでてきません。友人は「今、何をやってるの?」と。私はそんな受話器の向こうの彼を夢の中で会話をしていた留学生と混同したのか、「Oh、I’m スイミン(睡眠) now.」と答えてしまいました。電話の彼は驚いて、「えっ?なにっ?swimmingだって?」とびっくり。

ねぼけ話しは他にもあります。それは、まだ自室に固定電話をひいていなかったころのこと。外部から私のところに電話がかかってくると、管理人室から私の部屋に設置してあるベルが鳴ります。そのベルが鳴ったら管理人室に「了解しました」のベルで返事をし、電話のところにいって話しをするという仕組みになっていたのです。部屋でコンビニ弁当を食べ、満腹になって横になって寝ていたときのことでした。突然部屋のベルが鳴りました。びっくりした私は熟睡していたときに眠りを妨げられたせいか、「部屋のベル=管理人室に返事のベル」という反応をしなければいけないのに、そのふたつの事柄を結びつけることができず、なにをどう反応すればいいのかわからなくなってしまいました。

動揺した私は、なにを血迷ったのか、テレビのリモコンのボタンをいろいろ押してみたり、ガスコンロをガチャガチャとつけたり消したり、部屋の中をなにをしたらいいのかわからないままウロウロするだけでした。しばらくしてすっかり目が覚めて、ことの顛末を自ら振り返ることができるようになりました。そのとき私は思いました。「痴ほう症の患者ってこんな感覚を経験しているのではないか」と。人間って無意識にやっていることが結構多いということも、無意識のうちにいくつかの事柄を結びつけて行動しているということを実体験したのです。痴ほう症とは、そうした「いくつかの事柄を結びつけることができなくなる状態」ってことだとこのとき知りました。

岩樹荘では嫌な思い出ってまったくありませんでした。静かでしたし、管理人さんがいろいろと配慮してくれたせいか生活する場としては結構快適でした。他の入居者との交流こそありませんでしたが、周囲に迷惑をかける入居者もなく、生活音が気になるということも皆無でした。ただ、いちどだけびっくりしたことがあります。私の部屋のふたつ隣があるときから急ににぎやかになり、夜中までガヤガヤとたくさんの人の声が廊下まで聞こえてくるようになりました。しかも、夕食時になると部屋からはもうもうと煙までがもれてくるのです。しばらくは「友人を呼んで食事会でもしているんだろう」ぐらいにしか思っていませんでしたが、あまりにもそうしたことが続くのでなんだろうと。

ある晩のこと、いつものように夕食後にウトウトしていると、突然、ふたりの男性がたくさんのコンビニ袋をもって私の部屋に入ってきました。あまりにも突然のことだったので、お互いに顔を見つめ合うだけで言葉がでませんでした。これまでなんどか寝ぼけたことがある私はとっさに「この事態を冷静に判断しよう」とあせっていました。「まずはここは自分の部屋だろうか」「さっきまで自分はなにをしていただろうか」「このふたりに悪意や敵意はあるだろうか」、いろいろなことがあたまをよぎりました。結局、彼らは頭を下げるでもなく、バツが悪そうな表情をしながら部屋を出ていきました。

実は、あの騒がしい部屋にはとある外国人が入居したのですが、その後、次々と友人が寝泊まりするようになり、多い時は六畳に5人の人間が住み着くようになったのでした。しかし、そんなことが一か月も続くようになったこと、その部屋の住民はいつのまにかいなくなってしまいました。管理人のおじさんに聞くと、どうやらあまりにも度が過ぎるので退室してもらったとのこと。大陸的といえば大陸的な大胆さ、おおざっぱさですが、日本人の節度とはあまりにも相いれない振る舞いに、おじさんは「もうこりごり」と顔を曇らせていました。

「岩樹荘」での思い出(「X’マスは雪がいい」もご覧ください)は、私の北大時代の思い出でもあります。4年間の医学部の前半の2年までを過ごしましたが、親元を離れ、講義に出席することもふくめて、食事をとるのも、風呂にはいるのも、あるいは寝ることも誰にも束縛されない自由な時間であふれていました。医学部に入学するまではいろいろなことに悩み、不安を感じながら時間を過ごすことが多かったので、この岩樹荘での時間はなによりもゆったりとした幸福なものでした。その分だけ、部屋でゴロゴロと怠惰な時間を過ごしましたし、その思い出が強く私の記憶に残っていますが、そのときのゆったりとした記憶が今の安らかな気持ちにつながっているような気もします。ちなみに、医学部後半の2年間はちゃんと勉強して医者になりましたから誤解ないよう。

謹賀新年(平成29年)

新年あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

時の経つスピードは年々早くなり、子どものころにはあれほど長かった一年が今ではあっという間です。私自身も知らない間に半世紀を生きてきて、いったいこの間にどれだけのことをなしてきたのだろうかと振り返れば、これといったこともしないまま無駄に歳をとってしまったような気がします。

子どもの頃に憧れていたものがだんだん輝きを失っていき、大人になって現実を突きつけられると空しさを感じるものになってしまうものだって決して少なくありません。思い出だけが自分の心のなかでキラキラと輝いていて、心ときめいていた昔のことを懐かしむようなことも最近とても多くなってきました。

これまでなんどかお話ししてきたように、私の心のなかで今でもキラキラと輝いている思い出はなんといっても札幌時代から研修医のときでしょうか。長年住んだ我孫子を後にして、札幌に引っ越した時の事をときどき思い出します。不安と期待が入り混じった胸のときめきは今でもあざやかに覚えています。

元旦に一枚のある年賀状が今年も届きました。それは札幌時代にお世話になったアパートの管理人さんの息子さんからのものです。今年で97歳となったおじさんと95歳になったおばさんの近況を伝えてくれるその年賀状は私にとっては札幌時代を思い出す大切な便りです。

私が学生のときに住んでいたアパートは大学から歩いて10分ほどのところにありました。管理人のおじさんは札幌にやってくる前まではひまわりで有名な雨竜というところで農業をやっていました。戦争で南方に送られ、大変な目にあいながらも父親から譲り受けた土地を少しづつ広げていった働き者のおじさんです。

おばさんも寡黙でとても働き者でした。広いアパートをいつもきれいにお掃除しているおばさんの後ろ姿が目に浮かびます。長年やってきた農業をやめ、札幌でアパート業をやろうと決心したおじさんについてきたおばさんがどのよう気持ちで雨竜を離れたのだろうかと考えたくなるほどにいつも働いていました。

おじさんとおばさんははたから見ていても「夫唱婦随」という言葉がぴったりのご夫婦でした。「昭和の理想的な夫婦」ってところでしょうか。おばさんはおじさんを立て、おじさんは何気におばさんをいたわっている。ふたりが仲たがいをしているところを見たことがありませんでした。

そうそう、今思ったのですが、おじさんの風貌ってTVドラマ「北の国から」の黒板五郎が歳をとったような感じ。短く刈った髪は真っ白でしたが、開拓と農業で鍛え上げた体は当時七十歳近くでしたが筋肉質でがっちり。背丈も私よりもあって、どことなく私が憧れる高倉健(「高倉健、永遠なれ」もご覧ください)を彷彿とさせる風貌でもありました。

長年やってきた農業を、しかもはたから見れば順風満帆に見える生業を捨て、これまでの仕事内容とはまったく異なるアパート業にかわろうと決断した意志の強さをあらわすように、おじさんはときにとても鋭い眼光をもっていました。しかし、アパートに住む人たちにはいつも親切で優しかったのです。

アパートに引っ越してきたとき、おじさんに「いっしょに飲まんか?」と誘われました。私はお酒がまったく飲めなかったのですが、せっかくだからと管理人室にうかがうことにしました。管理人室でのおじさんのまなざしにはいつもの鋭さはなく、にこやかでとてもうれしそうでした。

食卓にはおばさんが作ってくれたお料理が並び、さながら私の歓迎会をやってくれているんだと思いました。「冷がいいかな?」。春とはいえまだ寒かった札幌ですが、管理人室は暖房がたかれていてポカポカ。私はおじさんがいつもそうしているように冷で日本酒を飲むことにしました。

コップ一杯ぐらいなら大丈夫だろうと無理してお酒を交わしていた私は、しばらくすると地面がぐるぐる回ってきました。おばさんが心配そうに、「だいじょうぶかい?」と私の顔をのぞきこみました。そこまでは覚えているのですが、あとはどうなったかわからないまま、いつの間にか自室で寝ていました。

翌日、管理人室のおじさん達にお礼に伺うと、おじさんは「酒、飲めんかったかね?」と申し訳けなさそうに尋ねました。微笑みながらうなづく私におじさんは「そうかね、そりゃ悪いことをした」と。あのあと、私は真っ赤な顔をして意味不明なことをつぶやきつつ、ヘラヘラ笑いながら自室に戻っていったそうです。

以来、このアパートは文字通り私の自宅になりました。おじさんとおばさんからいろいろな心遣いを受けながら4年間をここで過ごしました。風呂がなく、トイレも共同のアパートでしたが居心地は決して悪くありませんでした。管理人さんの息子さんご夫婦も入っていてなんだかとてもアットホームだったのです。

ただ、一度だけこういうことがありました。管理人さんの息子さんご夫婦にはひとりの可愛い女の子がいました。当時はまだ幼稚園に行くか行かないかぐらいの年齢でした。私の自室からはその子が元気に廊下を走り回る音が聞こえました。でも、決して不快な騒音としてではありませんでした。

あるとき、私は部屋で簡単な自炊をしていました。大した料理ができるわけではありませんでしたが、ときどき気が向くと料理をしていたのです。久しぶりに作った料理がたまたまうまくでき、いい匂いが部屋に満ちていました。盛り付けをしながら私は早く食べたい気持ちを抑えていました。

そのとき、廊下からいつものように女の子がお母さんと一緒に歩いていく音が聴こえます。共同のトイレにでも行くのでしょうか。走ろうとするその子に「走っちゃダメよ」とたしなめるお母さんの声も聴こえました。扉の外の愛らしい光景が目に浮かぶようでした。

いちどは聞こえなくなった二人の話し声がふたたび徐々に大きくなってきました。ちょうど私の部屋の前に二人が差し掛かった時、女の子の足がふと止まりお母さんにこう言ったのです。「ママ、変なにおいがするよ」と。変なにおい・・・。そうです。それは私の部屋から漏れた匂いのことでした。

すかさずお母さんが声を潜めるように「そんなことを大きな声で言っちゃだめ」とたしなめました。私はそのとき隠れてしまいたいような恥ずかしい気持ちになりました。その「変なにおい」をおいしそうに感じていた自分が恥ずかしかったのです。以来、料理をする機会はすっかり減り、それは今でも続いています。

このアパートには風呂がなかったため、医学部も高学年になって気軽に風呂にはいれるワンルームマンションに引っ越しました。しかし、それ以降もこのアパートの管理人さんとのつながりは続きました。時間があればおじさんとおばさんに会いに行きましたし、家内と結婚して札幌に戻っては挨拶に行き、子どもが生まれれば見せに行きました。

あんな管理人さん達のようなご夫婦にはお目にかかれないでしょう。二人は私が憧れていたTVドラマ「大草原の小さな家」に出てくるインガルス夫妻のようでもあり、「北の国から」の黒板五郎のようでもあり、また、高倉健のような風貌のおじさんはひょっとして私の理想の男性像だったかもしれません。

人との出会いってとても大切だと思います。私の人生を振り返っても、いろいろな人との出会いによって今の自分があるといっても過言ではありません。こうした大切な人たちとどのくらい出会えるのかが人生を左右するのでしょうね。年賀状はそれを確認する便りでもあると思いました。

 

 

 

X’マスは雪がいい

札幌は先日ふたたび降った大雪で早くも根雪になるでしょう。60㎝を超える降雪量を記録するのはなんでも29年ぶりだそうで、札幌にいたころのこの時の大雪を思い出しました。当時、私は自分の車を青空駐車場に停めていました。ですから、雪が降るたびに車の上に積もった雪と駐車場の出入り口から車までの雪をどけに行かなければなりませんでした。しかし、そのときの雪はそれこそ一晩に50㎝は降ったかと思われるほどでしたから、いつもの雪かきとはくらべものにならないほどの重労働でした。まずはアパートから駐車場に向かうのが大変。北海道のサラサラした雪とはいえ、腰まではあろうかと思われる雪をかきわけながら歩くためにはかなりの体力を使いました。駐車場はアパートのすぐ近くとはいえ、歩道に降り積もった雪に足をとられながら歩くと駐車場に着くころにはもうヘトヘト。そして、駐車場に目をやれば、車が見えないほどの一面の雪にはただただ茫然となるのみでした。

よりによって私の車は駐車場の一番奥にありましたから、そこにたどり着くまでの経路の雪を排除しなければなりません。もちろんただ左右に雪を押しのけただけでは他の車の前に雪をどけるだけになってしまいそれらの車に迷惑をかけます。しかし、どけた多量の雪をどこかに捨てようにも、ドカ雪のときはその捨てるところさえないのです。ですから、車の通行に迷惑なならないように車道の脇に寄せて(といっても、どこが脇なのかもわからない)雪をもっていくのですが、雪にはまった車を掘り出すための小さなスコップで運ぶものですからものすごい時間と労力を要します。結局、数時間をかけて他の人の車の分まで除雪したあげくにようやく自分の車の上に積もった雪をどける作業にとりかかれるといった状況でした。当然のことながら、大学の講義などには出席できるはずもなく、重労働で汗をかいたあと銭湯にいって「自宅療養せざるを得ない状況」になってしまいました。

もともと寒い日に昼間っから大学をさぼって銭湯に行くのは好きでした。まだ入浴客も少なく、広い湯船でじっくり温まってアパートに帰るときの爽快感がなんともいえず気持ちがいいのです。真冬のときなどは、帰りしな濡れたタオルをぐるぐる振り回すとカチンカチンに凍ったりして北海道の冬を実感できます。でも、あるとき、恐ろしい「事件」に遭遇しました。いつものように明るいうちに銭湯にいって頭を洗っていたら、なんとなく自分に降り注がれる視線を感じました。ふと顔をあげて鏡を見れば、なんと背後に私をじっと見つめる男性の姿があるではありませんか。しかも私が移動するたびにその男性がそばにくる。彼はあきらかに私のあとをついて来るのです。急に怖くなった私はあわてて銭湯を後にしました。以来、その銭湯を利用することがなかったということはいうまでもありません。あの恐怖心は大学祭での「おかまバー事件」のときに感じて以来のものでした。

その「おかまバー」は、まだ医学部に進学する前(教養学部医学進学課程のとき)の北大祭のイベントとしてクラスで企画したものでした。当の企画者はシャレでやるつもりで、女の子がおもしろがってたくさんくるだろうぐらいの単純な発想だったのです。ホステス(ホスト?)をやらされた私たちは化粧をし、布を適当に体に巻き付けただけのあらわな姿をさせられました。当然のことながら私ははじめて化粧をしました。そして、女子学生にお化粧をしてもらいながら、変わっていく鏡の中の自分がどんどん「きれいに」なっていきました(幸い、その後、お化粧が癖にはなりませんでした)。お化粧が完成したとき、それなりに「きれいになった自分」を再発見。化粧をすると別人になったような気持がして、人前に出ても不思議とはずかしくありませんでした。ところがそんなことに「感動」していたのもつかの間。ホステスをやっていたひとりの友人の悲鳴によって「おかまバー」は恐怖のどん底に突き落とされることになりました。

二人の本物の「おかまさん」が来店したのです。悲鳴をあげた友人は開店後はじめてのそのお客を接客して体を触られたと控室に駆け込んできたのです。控室にいた「ホステス達」は一様に恐怖に顔を引きつらせながらどうしたらいいものか考えあぐんでいました。二人の本物の「おかまさん」をテーブルに残したまま、誰もそのテーブルに行こうとしないのです。そのうちに客席の方から大きな声が聴こえてきました。「お客を放りっぱなしってどういうことよ。ビールぐらい出しなさいよっ!」と怒っています。結局、体が大きく腕っぷしの強そうな友人が勇気を出して接客にいくことになりました。「変なことをしたらぶんなぐってやる」と言いながら彼は接客に向かいました。ふたりの「おかまさん」達は怖がる私達をしり目に、自分たちで歌ったり踊ったりとひとしきり楽しんで帰っていきました。そのパフォーマンスの高さはさすが「本物」で、他のお客さんはもちろん私達ホステスも関心するほどでした。

話しが横道にそれてしまいましたが、この雪で札幌はもちろんホワイトクリスマスになると思います。クリスマスにはやっぱり雪が必要ですね。以前にもご紹介したように、学生のころ、イブの夜に讃美歌を聴きたくなって雪の中を教会に行ったことがあります(「北海道のこと」をご覧ください)。讃美歌、いいですよねぇ。私は「神の御子は」という讃美歌が大好きです。大学のサークルでこの歌を合唱したことをきっかけに好きになりました。私はかつてNHKで放映されていた「大草原の小さな家」が好きでよく見ていたのですが、たまたまつけたTVでそのドラマが放映されていて「インガルス一家のクリスマス」という回をやっていました。家族のみんなが自分の大切にしているものをこっそり売って家族が喜ぶクリスマスプレゼントを用意するという感動的な回だったのですが、やはりこのときのウォルナットグローブも一面銀世界でした。その前後の回の同じウォルナットグローブに雪などまったくなく、青々とした草も生えていたのでクリスマス用の特別編集だったんでしょう。

独身の頃、「結婚願望」なんてぜんぜんありませんでしたが、その一方でなんとなくこのインガルス一家みたいな家族が将来できればいいなぁなんて思っていました。頼りになって思いやりのあるお父さんと、優しくて慈しみに満ちたお母さん。そして、元気いっぱいでいつも前向きな子供達。そんな家族みんなで「神の御子は」を合唱するなんて素敵って思っていました。でも、現実はそう簡単にはいかないものです。私も家庭をもち、改めて振り返ってみれば、大きくなった子供たちに「みんなで合唱しようよ」と提案しても、「やだよ」「めんどくさい」「ひとりで歌っていればいいじゃないか」などと誰も相手にしてくれない。「それなら」と、ひとりYouTubeを見ながら大声で気持ちよく歌っていれば「うるさいから小さい声で歌ってよ」と言われてしまいます。そんな「可哀想なチャールズ」はTVで札幌での大雪のニュースを見たり、ドラマでのクリスマスのシーンを見るたびに、「神の御子は」を思い出しながら「やっぱりクリスマスには雪だよなぁ」なんて思ってしまいます。

暖かい家の中の心地よさがそう思わせるんだと思います。北海道の家はこちらの家とはくらべものにならないくらい暖かいのです。冬が長いのであたりまえですが、家の中だけで言えばこっちの家の方がよっぽど寒い。なにせコタツなんていらないくらいですから。家の中で厚着をするなんてこともありません。最近の家であれば床暖は当たり前になっていて、ストーブをガンガン炊きます。家の外には大きな石油タンクを備えていて、夜も微弱ながらもストーブはつけっぱなし。ストーブを止めてしまうと窓には氷の結晶がこびりついていて(当然のことながら窓は二重窓になっていますから、氷の結晶がこびりつくのは外側の窓ガラスです)、ストーブをつけてもなかなか部屋が温まらないなんてことがあるからです。北大に入学してはじめて友人の部屋に遊びに行ったとき、春だというのにまだまだ寒い中、玄関の扉が開いてTシャツ姿の友人が出てきたときはびっくり。部屋のなかは汗ばむほどの暖かさでさらにびっくりしたものです。

そう考えると雪のない冬はものすごく物足りなく感じます。先日の札幌の大雪のように道民の日常生活に支障をきたす雪というのも迷惑な話しですが。それでもそれが冬の風物詩と思える私にとっては、雪のない今の風景はどことなく殺風景に見えるほどです。夜に雪が積もり、朝日にまぶしく輝く新雪を見るとすがすがしい気持ちになります。新雪が積もった日の朝はとても静かです。そして、しばらくすると除雪のために家々からひとりふたりと人々が出てきて少しづつにぎわい始める街並みを見るのもいいものです。北国の冬というと、寒くて暗くて家の中でじっと春を待っているといった印象があるかもしれません。しかし、雪が降るたびに始まる静かな朝。そして、みんなが協力し合って雪をかき、除雪車がけたたましい音を立てて夜通し作業をする。北国の冬って決して人間の生活感に乏しい冷たいものじゃないのです。むしろ、こちらの冬よりもにぎやかに感じるのが北国の冬なのです。クリスマスまでもう少し。こちらでもイブの夜だけでもいいから雪が降らないかなぁ。

 

 

「老いる」ということ

今月のはじめ、札幌に大雪が降りました。例年であれば今頃の雪はすぐに溶け、陽の当たらない道端に小さな雪のかたまりが残っている程度です。昨今の異常気象のせいなのか、まだ11月になったばかりだというのにあの大雪。しかもまだ気温が十分に低くなっていないのであのときの雪は湿っていてずいぶんと重かったらしい。12月後半の雪であればさらさらと軽く、頭や肩に降り積もっても簡単に吹き飛ばすことができるのに、雪に慣れている北海道の人たちも今回の除雪(北海道では「雪かき」といいます)はさぞかし大変だっただろうと思います。

でも、私はこんな厳しい気候もふくめて北海道が好きです。しばれた冬の冷たさも、視界をおおう真っ白な雪でさえも、私にとっては懐かしくも北国の郷愁を感じる素敵な光景に見えます。人によっては「あんな寒いところ」と言いますが、そうした厳しい冬が私には素敵に見えるのはきっと家の中の暖かさがあるから。家の中の暖かさから言えば、北海道はこちらの比ではないくらいに暖かいのです。ストーブをがんがん炊きながらTシャツ姿なんて普通のこと。寒くて冷たい外から帰ってきて、暖かい室内に入ったときのなんともいえないホッとした気持ちは北海道ならではかも知れません。

そんなことを人に話すと、よく「ほんとに北海道が好きなんだねぇ」って言われます。当ブログの「北海道のこと」でも書きましたが、春夏秋冬の季節感がはっきりしている北海道の自然や気候はなぜか私の琴線に触れます。肌に合うっていう奴でしょうか。だから、息子たちには「俺が歳をとってボケたり寝たきりになったら札幌の老人ホームに入れてくれ」と言ってあります。家内や息子たちのお荷物になりたくない私は、たとえ一人であっても大好きな札幌に戻って安らかな気持ちで余生を送りたいと思っています。北海道、とくに札幌はそれほど私にとっては特別な場所なのです。

老後だとか、余生だとか、これまで自分とは無縁だと思えていたことが、いつの間にか現実的なものに感じる年齢になってしまいました。思えば私のクリニックも開院して今年で十年。あのとき受診してきた幼稚園児だった子ども達も今は高校生。背丈も僕よりも大きくなり、ワクチン注射のときに大騒ぎしていたあの頃がずいぶんと昔のように感じます。私自身、彼らをわが子のように見ていたせいか、その成長した様子が私にはなんとなく淋しく映ります。成長した彼らの後ろ姿を見ながら、お母さん達にはつい「淋しくなっちゃいますね」とこぼしてしまいます。

私自身も歳をとりました。いつの間にか私が大学生だったときの父親の年齢になってしまい、なんだか不思議な感覚です。かつての父親の歳になってはじめてわかることもあります。当時の父は仕事から帰ってくるといつもゴロゴロしていました。そんな父を見ながら、「なんでそんなにゴロゴロしているんだろう」と思ったものです。しかし、その年齢になった今の私もまたゴロゴロしている。老眼も年々強くなり、また、いろいろなことが覚えられなくなったり、思考がまとまりにくくなったりといった、かつてよく母親がこぼしていた変化が今の私にも徐々に現れてきています。

よく患者さんから「老化」に関わる相談を受けることがあります。ごくまれに何らかの病気から来る症状である場合もあります。しかし、ほとんどのケースは加齢にともなう変化。むしろ、受け入れなければならない問題だといってもいいのです。正解のないこの「老化の諸問題」にどう答えるのか私自身言葉に窮することがあります。なぜなら私にも「老化」の問題は未経験だからです。私が見聞きした患者さんの体験を通じてでしか答えられない。そもそも人によって直面する問題はさまざま。ましてやそれらのすべてが人によって受け止め方が違うのでなおさら難しい問題です。

ただ、悩んでいる人の多くに共通しているのは「はじめて経験する『老化』にとまどっている」という点。時の経つスピードは年齢とともに早くなっていき、10代のときの一年と40歳代での一年とはその長さがずいぶん違います。80歳代となればなおさらです。その分だけ人は知らない間に歳をとっているのです。それはまるで「肉体年齢のあとを精神年齢が追いかけている」かのようです。私も気持ちはまだ実年齢よりもひと回りは若いのですが、仕事中にふと漏れるため息と、自宅に戻るとすぐにゴロゴロしてしまう気力・体力の低下は明らかに実年齢そのものです。

現代の80歳は、昔の80歳と違ってとても健康で若々しく見えます。中には認知症もなく、60歳代だといってもわからない人もいます。しかし、どんなにトレーニングを欠かさずに体力を維持していようが、生物学的に80歳はあくまでも80歳。維持されてきた体力もいつか衰えるときがやってくる。これは揺るがぬ事実です。ところが、人はそうしたことを頭では理解できても、なかなか受け入れられないもの。いつまでも自分は以前のままであると何気に思い込んでしまっているから。加齢にともなう変化に不安を感じている人は概してそうした事実を受容できていないように見えます。

70歳代の人は気持ちはまだ60歳代。しかし、肉体年齢は確実に80歳に向かっているのです。そのギャップに悩む人は少なくありません。私はそうした人によく「かつて自分が20歳だったときのことを思い出してください。そのときのあなたには70歳代の人がどのように映っていましたか?」と問いかけます。そうすることで自分の年齢というものを実感できるからです。すると、多くの人は納得したような、それでいてちょっぴり落胆したような表情をします。中には「歳をとったと言われた」とショックを受ける人もいます。厳しいようですがこれが現実であると気が付くことは重要です。

受け入れられないのも無理はありません。鏡の前で見る毎日の自分はいつまでも「今のまま」なのですから。毎日ほんのわずかだけ変化する自分とその変化の積み重ねにほとんどの人は気づきません。これが「精神年齢は実年齢を追いかけていく」と表現した理由です。しかし、その間にも肉体は確実に歳をとっていく。そして、あるとき突然「加齢」という現実に直面するのですから、そうした変化を受け入れられないのもある意味当然なのです。でも、その「加齢」という変化に対する見方を変えてみると違った風景が見えてきます。巻き戻せない時間に絶望するのではなく、「老いること」をもっと前向きにとらえるのです(「心に残る患者(4) 」もご覧ください)。

かつてできたことができなくなった不安。あるいは、肌にしわやしみが多くなって、腰が曲がり、ちょっとしたことで転ぶようになってしまったことへの落胆。そうした変化を人は「忌まわしいもの」あるいは「醜いもの」ととらえがちです。それはかつての輝いていたころの自分と比較するからです。でもよく考えてみて下さい。無心に虫を追いかけていた子どもの頃の‘あなた’も「あなた」なら、公私に充実して輝いていた若かりし頃の‘あなた’も「あなた」。ならば、老いを迎えていろいろなことが若いころと違ってしまった今の‘あなた’も「あなた」ではありませんか。

人間はいつか死にます。これは避けることはできません。その最期の日がいつ来るのか。それは神のみぞ知ること。そんなこと「知ったこっちゃない」のです。ある高齢の患者さんから「私はなんのために生きているのかわからない」と言われたことがあります。しかし、そのとき私は次のように答えました。「生きる目的は世代によってさまざまです。ご主人と結婚したときにはそのときの目的があり、子どもを育てているときにはそのときの目的がある。孫の成長を見守っているときにもそのときの目的がある。だから、生きていることそのこと自体が目的になるときがあってもいいのではないか」と。

人の価値には、もちろん他者の役に立つという価値もありますが、存在することだけに価値がある場合もあります。家族がそのいい例です。世話になっている、面倒をかけていると本人が思っていても、世話をしている家族からすれば「いてくれるだけでいい存在」というものがあるのです。それが「存在価値」です。存在価値はそれまで生きてきた人生で積み重ねてきた価値の集大成でもあります。老いを迎えて得られた自分の価値は、本人がいかに生きてきたかの証として自分自身が実感できるものであると同時に、まわりの人にしか感じられない価値でもあるのです。

「老い」は長生きできた人にしか経験できないことです。「老い」は長生きしたことの代償だということもできます。これまでこのブログで書いてきたように、私の心に残る患者の多くは若くして亡くなった人たち(「心に残る患者」「心に残る患者(2」をご覧ください)です。それは若くして逝かなくてはならなかった患者たちの無念さを痛いほど感じるからです。ですから、人生をまっとうできた人の死に私は悲しみをあまり感じません。もちろん別れは淋しく辛いものです。でも、「老い」を経ることのできた人たちとの別れは決して悲しいものではありません。

「老いを前向きにとらえろ」などと簡単に言ってくれるなと言われるかもしれません。老いることの苦しみや辛さを実体験として私は感じたことがないのですから。しかし、医師という仕事を通じて生老病死を見てきた私から言えることは、生きながらえた代償としての「老い」を受け入れることはできるはずだということ。つまり、「今を生きる」のです。人にはいつかお迎えが来ます。それが明日なのか、何年、何十年先のことなのか、そんなことは「知ったこっちゃない」のです。今を穏やかに、無事に過ごせればいいのです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。それが生けるものの宿命だからです。

今日はずいぶんと生意気なことを書いてすみませんでした。
不愉快な思いをした方がいらっしゃったらご容赦ください。

「子育て」はおもしろい

最近、なかなかブログを書く時間がとれません。しかも、もともと文才があるわけでもなく、書きたい題材はたくさんありながらそれらを皆様に読んでいただけるような文章にできないのです。

ブログは上の息子が2歳のときに「子育てブログ」を書いたのがはじめてです。その後、下の子が生まれるまでの5年間にわたって書き続けました。今、このブログを振り返ると、その文章はつたないながらも札幌時代の懐かしい風景がよみがえってきます。

今回はその「新・子育てはおもしろい」をご紹介してみたいと思います。12年も前のブログですが、まだ四十路だった私の子育ての奮闘ぶりを読んでいただければと思います。ここでは私自身が是非皆さんに読んでいただきたいページをいくつかご紹介します。

※なお、プライバシー保護のため、登場する子供達の名前は仮名になっています。

下の題名をクリックすれば見られます。

第一回目のブログ:子育てはおもしろい

金沢のこと

永平寺訪問

ダイジョーブ?】

立てば歩め

今回はこんなお茶を濁すような内容ですみません。次回はもっとしっかり書きます。

傲慢な診療

医師という仕事はものすごく地味です。とくに我々のような患者との接点となるプライマリ・ケアの仕事の多くは生活習慣病の管理であり、風邪や花粉症に対する投薬だったり、患者となにげない話しをしながら不安を軽減することだったりと、救急救命医や専門医療のような仕事とは違って、テレビにしばしば出てくる華々しいシーンはほとんどありません。いろいろな訴えを抱えて来院する患者の多くは大きな病気ではなく、経過観察とすべきものがほとんどであり、医学的な説明をしてお帰りいただくことが多いのです。

しかし、私たちの仕事でもっとも大切なことは患者の健康の「管理」ですから、ともすると日常になりがちな診療の中でいかに患者の変化を見落とさないかが重要です。私自身がとくに留意しているのは、ありふれた症状や病気の中にかくれた重大な疾患を見逃さないことです。ともすると「こんな症状」と簡単に片づけてしまうようなありふれた症状の中に、実は重大な病気が隠れていることがあります。それを見逃さないアンテナを張っておくこと。それはとても難しいことですが、私たちには欠くことのできない要素です。

ただ、「言うは安し」です。ありふれた症状から重大な病気が見つかることはそれほど多くはありません。ほとんどは特にどういうこともなく自然に治ってしまいます。どこぞの医療番組にでてくるような実は「診断の裏をかく病気」だったなんてことはほとんどありません。そんな病気まで想定して検査するわけにもいかず、やはりこういう場合は臨床医としての勘ばたらきと注意深い観察眼が頼りということになります。日常のなにげない診療の中で大きな病気を見落とさないことは意外と難しいことです。

一方において、日常生活の中でありふれた病気をきちんと診るということも大切です。「単なる風邪」と一言でいっても、その症状のバリエーションはさまざまです。ある人には辛くなくても、他の人には辛い症状だってあります。そうしたバリエーションの中でどう薬を出し、あるいは薬を出さずに済ますかというところにアートがあります。アートというのは「技術」あるいは「技」という意味ですが、経験を積んだ有能な医師はまさに職人技のようなアートをもっています。

 私などはそんなアートにはまだまだ程遠いのですが、それでも研修医を終えたころの青い時代と比べれば多少アートらしきものを身に着けているでしょうか。若いころは理想に燃えています。というか、理想ででしか行動できないところもあります。臨床経験が浅い分だけ教科書に書かれていることを妄信しているからです。場合によっては傲慢と思えるようなところもあります。振り返れば、私もかつてはずいぶんと傲慢な医療をしていた時代がありました。その傲慢さに気が付かせてくれたのは他でもない患者さん自身でした。

 当時、私には「風邪に薬はいらない」という「信念」がありました。のどが痛かろうかが、鼻水が落ちてこようが、あるいは咳をしていようが、自宅で寝ていればじきに治るものだし、薬など飲むべきではないという「信念」です。ですから、風邪症状で来院した患者には「あなたがいかに薬を飲む必要がないか」を詳しく説明し、薬を処方せず、患者に自宅で経過を見させることが「よい医療」だと思っていました。とあるクリニックでアルバイトの診療をしていたころの私はそこでもそんな診療をしていました。

 その患者は咳が止まらないという訴えで来院しました。診察を待っている廊下からはときどき咳の音が聞こえてきました。診察室に入ってきたその患者は60歳代のご婦人。症状の経過と現在の状況をお聞きしてから一般的な診察をしましたが、とくに薬を出すほどの症状とは思えませんでした。私はいつものように「いかに薬を必要としていないか」を説明しました。患者は神妙な面持ちで、私の話しを最後まで聞いていました。そして、笑顔で「とてもよくわかりました」と深々と頭をさげて診察室を出て行きました。

 診察を終えた私は悦に入っていました。「いい医療をした」「患者の意識を変えることができた」と満足していたのです。ところが、ふと我に返ると、受付の方から怒鳴り声が聞こえてくるのに気が付きました。耳を澄ますと、ついさっき、私の説明に納得し、薬をもらわずに帰るものと思っていた患者がなにやら窓口で抗議していたのです。耳をそばだてて聞いていた私は完全に打ちのめされました。「咳がつらいからわざわざこの病院に来たのに、なにも薬を出さないで帰れってどういうことですか」というのです。

 私はこのとき、自分がいかに傲慢な診療をしていたのかということに気がつきました。私が「いい医療」と考えていた診療がその患者に完全に否定されてしまったからです。思えばクリニックにやって来ることは面倒なことです。それなのにあえて来院したのはそれほどにこの咳はつらかったのでしょう。そこで咳を止めてもらおうとわざわざ来たのに、「薬を飲むよりも自宅で安静にしていろ」と言われれば誰だって怒鳴りたくもなります。そんな当たり前なことすら、当時の私は気が付いていなかったのです。

 以来、私は医学的に間違っていることでなければ、できるだけ患者の訴えに耳を傾け、患者が求める方向で処方をすればいいと考えるようになりました。咳が出るのであれば咳止めを出せばいい(もちろん肺炎でないことが前提です)し、鼻水が出るのであれば鼻水止めを出せばいい。患者さんはそれらがつらくてわざわざ来ているんですから。そうした患者の求めるものに向き合ったうえで処方することにしたのです。深々と頭をさげて診察室を出て行ったあの患者の怒りが私の思いあがりに気付かせてくれたのかもしれません。

 もちろん患者の言いなりに薬を出すという意味ではありません。医学的に出せないものは出せないし、患者さんの不利益になることでも希望さえあればそうするということでもありません。そのような場合はきちんと患者さんに説明してお断りします。そのようにちゃんと説明すればほとんどの患者はわかってくれますから。そうではなくて、患者の苦痛にすら思いが至らないままに「医療はこうあるべきだ」などと思い上がってはいけなかったという意味です。それはひとえに私が「青かったから」にほかなりません。

医療の現場で働いているとなかなか理想通りにはいきません。抗生物質の投与の仕方もそうです。教科書的には「起因菌を同定してから使用せよ」、つまり原因となった細菌を特定し、その細菌に合った抗生物質を使いなさいということが書かれてあります。そんなことは百も承知なのですが、同定をしてからだと「受診して、検査して、結果がわかって処方」となり、その分だけ治療が遅くなります。高熱と咳で受診した人にそんなことできません。どうしたって経験的にふさわしいと思われる抗生物質を出してしまいます。

 「抗生物質は安易に使うな」とも書かれています。抗生物質を処方する身とすれば安易に出しているつもりはありません。それでも「抗生物質は肺炎になってから投与せよ」と、肺炎になったことが確認されてから抗生物質を投与された患者さんはどう思うでしょうか。「私のことを考えてくれている」と思ってくれるでしょうか。多くの人は「なぜ肺炎になるまえにちゃんと対処してくれなかったんだ」と不信感をもつのではないでしょうか。私たち、いや少なくとも私はそう考えてしまうのです。

そんな先走りをするせいか、多くの場面で「これは肺炎、もしくはこのままでは肺炎に移行するだろう」と判断した時点で経験的に抗生物質を出してしまいます。ましてや私は喀痰検査や胸部レントゲン検査、あるいは採血といったものは、入院すべきかどうかを判断しなければならない限られたケースでなければやりません。ですから、その分だけ他の先生よりも早い段階で抗生物質を処方しているかもしれません。そうしたことは批判されるべきことかもしれませんが、私としてはそれはそれで覚悟の上です。

 アメリカではすべてではないにしろ、治療を受けた病院に医療費を支払う保険会社が定めた薬や治療法でなければなりません。それ以外の薬や治療法には医療費が支払われないのです。すなわち、患者が受ける医療の内容は保険会社が決めているのです。そういう社会にあっては、我々医師はその善し悪しとは無関係に治療方法を選択するしかありません。そこには患者のニーズなど無縁です。傲慢だとか、教科書的とか、理想主義とかいう以前に経済原理にのっとって決められた治療法が優先されるのですから。

 最近では医療の世界にも経済原理が導入され、コスト削減だとか、費用対効果だとか、経営効率だとかいう経済用語が盛んに使われるようになってきました。でも考えてみて下さい。医療はなにかを具体的に生産する業種ではありません。何かを生み出すという側面よりも、なにかを消費する側面が大きいのです。消費することで人間の健康を守るとでもいいましょうか。どうしても非効率な部分が出てしまいます。そうしたところが一般的な産業と違うところであり、そもそもが経済的原理をあてはめるのには無理があるのです。

 時代は変わりました。医療も変わりました。「患者さん」を「患者様」と呼び、患者さんの名前を呼ぶと個人情報の保護に反するといわれる。最近では点滴を詰めたり、薬を調合する場所に防犯カメラを置けと言われる時代です。「病気を治してやっている」という意識が強かった昔の医療は論外ですが、ある意味でそうした傲慢な医療ですらしようにもできない時代になりました。それだからこそ、医療者も患者がお互いに卑屈にならずに協力的に健康を考えていける時代であることが必要です。コストや効率性に振り回されない、患者のニーズをふまえた自由度が確保された医療を守りたいものです。