令和に思う

以下の記事は令和元年5月5日に投稿したものです。さっそく「令和」をキーワードとしてスパムメイルが殺到してきましたので7日にあらためて同じ内容をアップします。

*********** 以下、5月5日投稿文原稿

 

私は個人的には、日本に皇室は必要だと思っています。立憲君主としての天皇の存在も重要だと考えています。令和という新しい元号となり、以下、皇室は存続させるべきだという立場の意見を書いてみました。しかし、これは特定の思想や宗教に基づいた意見ではなく、あくまでもこれまで調べてきたことを通じて、私があれこれと考えてたどりついた自論です。

私の意見とは反対に、皇室や天皇を廃止すべきものだと思っている人もいるでしょう。そうした人たちにとって、これから書く内容は承服できるものではないかもしれません。しかし、皇室に対する個人それぞれの考えは「正しいか正しくないか」の問題ではなく「好き嫌い」の問題です。そのあたりのことを理解した上でお読みいただければ幸いです。

*********** 以下、本文

 

元号が平成から令和にかわりました。明仁天皇陛下の退位と徳仁新天皇陛下の即位により、今年のゴールデンウィークは図らずも9日間の休暇をとらせていただきました。これほどの長期間のお休みは、私にとっても、多くの国民にとってもはじめてだったのではないでしょうか(サービス業の方たちの中にはこのお休み中ずっと働きっぱなしという人もいますけど)。とはいえ、世の中はなんとなく年末年始のような気分になっていて、「令和になって心機一転」という思いを強くした人も少なくないと思います。

天皇陛下の退位の日はおおむね雨でずっと曇り。翌日の即位の日はときおり雨ながら薄日もさすといった天候でした。私にとって天皇陛下といえば昭和天皇のイメージが強かったため、平成になって明仁皇太子殿下が天皇になられてもしばらくは実感がわかなかったものです。しかし、いつしか天皇陛下といえば明仁天皇陛下となり、その天皇が退位するということになると、いかばかりか淋しさのようなものを感じていました。その気持ちが当日の雨模様によってちょっぴり切ないものになりました。

実は平成最後の日、つまり4月30日の夜、父親の夢を見ました。父は昨年10月2日に亡くなったのですが、久しぶりにその父親が夢に出てきたのです。夢の中の私は何人かの親戚があつまる席にいました。場所を移動することになり、私は亡くなった父と一緒に歩いていました。私はその父に語り掛けました。「死んだ下館のじいさん(祖父のこと)と仲良くしてくれよ」と。すると父はニコッと笑って駆け出しました。「オヤジっ!」と後を追おうとしますが、父はあっという間に階段を登ってどこかに行ってしまったのでした。

明仁天皇の退位に対する情感が父親への気持ちに投影されていたのかもしれません。一方で、もしかすると父親が成仏できたってことかもしれないと考えたりしました。いずれにせよ、目覚めたとき、ひとつの時代が終わったという気持ちがしていました。次の時代をどう生きるか、どのような時代にすべきか。そうしたことをちゃんと考えなければいけないと感じたのです。元号という、ひょっとすると面倒で不要にも思える日本の文化を守っていくことにどのような意味があるのかを考えることが今の日本人には必要です。

ところで今回の退位・即位の式典に使われた草薙剣(くさなぎのつるぎ)のことをご存知でしょうか。草薙剣はヤマタノオロチを退治したときにその尾から出てきたと伝えられる剣です。この剣を御霊代として祀っているのが熱田神社です。これまでなんどか盗まれそうになりながら、いつも不思議と無事に戻ってきました。しかし、壇ノ浦の戦いのとき、入水された安徳天皇と共に海に落ちて回収できなくなりました。そこでのちになって魂を入れなおして新たな草薙剣としたものが今三種の神器のひとつとして伝えられました。

草薙剣は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。ヤマタノオロチは雲から出でる怪獣であり、オロチ(大蛇)のいるところに雲がわくといわれています。ですから、今回、式典で草薙剣が供えられたとき、天気が悪い(雲が出現する)のは理にかなっているというわけです。つまりは吉辰良日の兆候ということ。そういえば、昭和天皇から明仁天皇に皇位が継承されたときも雨が降っていました。こうしたことに神話の世界と今をつなぐ不思議な因果を感じ取ることができます。

以前、子どもたちに「天皇陛下の仕事ってなんだか知ってる?」とたずねたことがあります。彼らは「被災地に慰問に行くこと」と答えました。しかし、そうではありません。天皇陛下の仕事の中心は、本来、日本の安全・安寧・豊穣を祈る祭事にあります。戦後、それらの多くは「天皇の私的行事」となり、一般国民にはほとんど知られていません。そして、昔ほどではないによせ、今もなお天皇は多くの時間を割いてその祭事をおこなっています。ご高齢の上皇陛下にとってはとても厳しい勤めを日々こなされていたのです。

日本が近代国家の仲間入りをするにあたり、まず作られたのが大日本帝国憲法です。欧米諸国の法体系を研究し、日本がたどって来た歴史を徹底的に調べて作ったアジアで初めての近代憲法です。当時、世界の名だたる憲法学者からも絶賛されるほどのものでした。それまでの日本は、あらゆる権威は天皇に、そして、その天皇はときの実力者に権力をあたえて国を統治していました。誰が決めるでもなく、営々とその国体を守り続けてきたのです。そのおかげで血を血で洗うような易姓革命は日本では一度も起こりませんでした。

その大日本帝国憲法によって天皇は神的存在から立憲君主となられ、天皇を輔弼(ほひつ)する機関として国会が定められました。天皇は国家の象徴として、まさに「君臨すれど統治せず」という国体が憲法という形で明文化されたのです。と同時に、それまで慣習・慣例で引き継がれてきた皇室・皇族も皇室典範という形で定義され、皇位の継承についての取り決めがなされました。憲法とともに典範の制定にも深く関わった井上毅が「天皇譲位」を定めようとした一方で、伊藤博文が典範からそれを削除させたことは有名です。

このとき「天皇は万世一系男系にかぎる」と正式に定められました。とはいえ、それまでも慣例・慣習として「天皇は男系のみ」であり、いわゆる「女系天皇」はひとりもいなかったとされています。ところで、皆さんは「女系天皇」と「女性天皇」の違いをご存知でしょうか。元号が令和となって、にわかに「女性宮家」や「女性天皇」に関する世論調査がおこなわれています。しかし、その調査に回答している多くの国民が「女性宮家」の意味や、「女系天皇」と「女性天皇」の違いも知りません。それでいいのでしょうか。

男性の遺伝子ではX染色体とY染色体が対になっています。それに対して女性の遺伝子ではX染色体とX染色体の組み合わせになっています。このそれぞれ対になっている染色体が交配して子どもの遺伝子が決まるのです。つまり、生まれた子どもが男性であれば、その対のY染色体は必ず父親由来のものになります。しかし、女の子の遺伝子は父と母両方のX染色体を引き継ぐことになります。以上のように、男の子には父のY染色体が、女の子にも父のX染色体があるため、この子どもは「男系」呼ばれます。

仮にこの「男系女性天皇」が一般民間人との間に子どもをもうけたとします。すると、「男系女性天皇」が産む子の染色体は母親由来のX染色体とその夫である民間人男性のY染色体もしくはX染色体の組み合わせとなります。前者は「女系男性(親王殿下)」、後者は「女系女性(内親王殿下)」です。しかし、成長して民間人と結婚した「女系男性天皇」の子では皇祖皇宗の遺伝子は完全に途切れ、「女系女性天皇」も民間人との夫から生まれる子には皇祖皇宗のY染色体は途絶え、X染色体においても50%の確率で断絶します。

染色体や遺伝子という概念のなかった大昔から「男系」で家系を引き継いでいたのには医学的な根拠があったのです。これは驚くべきことです。この男系継承は古代中国から入って来た制度といわれていますが、世界中どの国でも男系で王朝は継承されています。もちろん、イギリスのように女王が即位することもありますが、こうしたことが起こるのはイギリスでは王朝(血統)がとって替わるから。しかし日本に8人いたとされる「女性天皇」はすべてが男系であり、その子供が皇位を継承することもありませんでした。

そんなことをいうと、ある評論家は「日本には宦官がいなかったし、皇位を継承した子どもがほんとうに先代の天皇の子どもかどうかわからない」といいます。そんなことをいったら、その評論家自身でさえも、彼の実父・実母とされてきた両親の実子である保証はなく、その先祖だってまた同じってこと。問題はその真偽ではなく、「万世一系男系が皇位を継承する」とされてきた慣習・慣例が続いてきたという事実が重いのです。そうすることで欧米で繰り返されてきたような血にまみれた争い・権力闘争を回避してきたのです。

「所詮、男系継承など明治になってから典範で決められたこと」と木で鼻をくくったようなこと言う人もいます。しかし、それまで慣例・慣習でおこなわれてきたことを皇室典範として明文化しただけです。そうすることによって、皇族の定義や根拠となって例外を排除しながら皇室を維持することができます。残念ながら、現行日本国憲法では天皇の地位は「国民の総意にもとづく」ものと規定されています。ですから世の中に「皇室廃止」の機運が高まれば皇室はいとも簡単になくなってしまうのです。

私個人としては天皇あるいは皇室は維持するべきだと考えます。「国民統合の象徴」としての天皇がこれまでの日本においていかに重要だったかは歴史が証明しています。他国のように王朝が代わるたびに繰り返される殺戮や国土の荒廃を日本がほとんど経験していないのは、権威と権力を分離した国家の二重統治があったからです。だからこそ今の日本の素晴らしさがあるのです。皇族お一人お一人が素晴らしい方々だからお守りするのではなく、皇族そのものが日本の国体には不可欠だから守るべき、というのが私の意見です。

今の「女性宮家」の創設や「女性天皇」の容認という安易な空気は危険です。なぜなら、皇室廃止をめざす勢力には格好の口実になるためです。女性宮家の創設は女系天皇の容認を前提としています。また、女性天皇はこれまで2600年続いてきた皇祖皇宗の王朝の交代のきっかけになります。もし女系天皇が現実のものになれば、皇族の定義があいまいとなり、皇室の存在に反対する人たちから皇室の存在意義が問われるようになります。「皇族の正統性」への疑義を指摘し、「そんな皇族はいらない」となるのです。

昭和22年、皇籍を離脱した(させられた)宮家は11家にものぼります。これまでの皇室はこうした複数の宮家の存在によって支えられてきました。宮家の皇籍離脱については昭和天皇は強く反対されたようですが、皇室財産の多くが国庫に帰属することになったことや、ある宮家からも離脱の意志があげられたこともあって昭和天皇のご兄弟のみが皇室に残ることになりました。その結果、今、皇位継承の資格のあるのはご高齢の常陸宮親王殿下および秋篠宮親王殿下、そして悠仁親王殿下の三名になってしまったのです。

しかし、皇籍を離脱した旧宮家が皇族に復活すれば皇位継承権をもつ皇族はさらに増えるとされています。東久邇宮家に限っても、皇位継承権をもつ若年男性が5人いるとのこと。皇位継承問題を解決する方法を十分に模索せず、安易に女性宮家や女系天皇を容認するような議論は乱暴すぎると思います。旧宮家の皇室復帰などの可能性を追求してもなお男系の継承できないのであれば皇室の存続はあきらめるべきだと思います。こうした日本の伝統・文化の問題は、もしこれが継承できないのであれば消えていくほかないのです。

真子内親王殿下の婚約延期の問題はこうした背景もからんでいます。婚約者が内親王殿下の伴侶としてふさわしいかどうかということの他に、女性宮家を容認したときに彼を皇族とするのか、彼らのお子さまを将来の皇位継承者として国民が受け入れるかどうかという観点からも考えなければなりません。皇室を廃止しようとする勢力ほど女性宮家や女系天皇に寛容です。女性宮家や女系天皇の問題は「皇室を存続させるための方策」にならないばかりか、むしろ「皇室を危機にさらす方策」であることを多くの人は知るべきです。

日本史や世界史を勉強すればするほど、日本人として日本に生まれたことを誇りに思います。今、こうして日本で安全で豊かな生活をしていられるのは決して偶然ではありません。我々の祖先が、英知を結集し、大きな犠牲をはらって日本を守り抜く努力を惜しまなかった結果だということを知らなければなりません。歴史を学ぶ意義ということはそういうことです。にも関わらず、日本人は自分たちの国のことをほとんど知りません。日本について間違った知識をもっていることすらあります。

欧米からは「天皇に女性が就けないのは女性差別」という声が聴こえてきます。皇室や皇位継承の問題はあくまでも日本の文化の問題です。「女性差別」などという軽薄なものではありません。それをいうなら、「ローマ法王やイスラム教のカリフに女性がなったことが一度でもあるか」という質問に答えなければなりません。歴代天皇には8人の女性天皇がいました。「天皇に女性が就けない」のではなく、「女系が就けない」のです。以上、令和になった今、皇室の在り方について少し考えてみました。みなさんはどう思いますか。これを機会に改めて皇室の在り方、日本の将来を考えてみてはいかがでしょうか。

 

好きな映画(2)

 

私はマニアしか知らないような映画をみる「映画通」ではありません。ですから、「好きな映画」といってもそのときどきの大作や話題になった映画、あるいは偶然目にした映画ばかりです。大作や話題になった映画だからとわざわざ映画館に行っても「観てよかった」と思える作品ばかりではなく、これならテレビで放送されるまで待ってもよかったと思う映画も結構多かったように思います。その一方で、これまで観ていなかったけれども、たまたまTVで見かけたらついつい引き込まれて最後まで観てしまったというものもあります。いずれにせよ、一度観てよかった映画は、それ以降に観たいと思うものに影響を与えるものです。

「好きな映画」に影響を受けるということは、何かしらのキーワードでつながっているということかもしれません。このキーワードはその映画のメッセージ性かもしれません。あるいは使われた演出効果かもしてませんし出演した俳優かもしれません。今日はこの「キーワード」をたどって「好きな映画」をたどってみたいと思います。最初のキーワードは「白黒映画」です。前回のブログに書いた「ローマの休日」は1953年に制作された白黒映画。あの映画が白黒映画になっていることにより、観る者は自然と物語に引き込まれているように思います。白黒の映像が素敵な音楽によってまるで色がついているような効果をもたらします。

それは日本映画でも同じです。私が今でも涙なくして見れないのが「二十四の瞳」という白黒映画。木下恵介監督、高峰峰子主演のこの映画は1952年に作られました。「二十四の瞳」はその後いくつものリバイバル映画が作られましたが、木下恵介監督の作品を超えるものはほとんど皆無といってもいいくらいです。時代背景は戦前と戦後にまたがっていますが、白黒映画で作られることによって時のながれをうまくつないでいます。木下恵介は私の大好きなTVドラマ「三人家族」の監督ですが、その愛弟子でもあった山田太一は私のお気に入りの脚本家のひとり。この辺のことは以前のブログにも投稿しましたので読んでみて下さい。

1955年に制作されたスペイン映画「汚れなき悪戯」も、白黒映画だったからこそ最後の感動的なシーン(ネタばらしはしません)を盛り上げているように感じます。教会に捨てられた赤ん坊が修道士らに育てられ、悪戯好きのマルセリーノに成長します。その微笑ましい光景がしばらく続くのですが、その時のながれは白黒の映像のせいか違和感はまったくありません。そして感動の最後のシーン。マルセリーノのあどけない表情が胸を打ちます。映画を見終えたとき私はしばらく涙がとまりませんでした。そして、この映画を観ながら、神と人間の距離感が欧米人と日本人とではずいぶん違うものだなと感じました。

欧米の歴史がキリスト教と密接に関わっていることは世界史を勉強するとよくわかります。ある意味、欧米の歴史はキリスト教の歴史だといっても過言ではありません。2004年に公開された「パッション」は、封切りされた当時、ゴルゴタの丘で十字架にかけられるイエス・キリストの姿があまりにも生々しいことが物議を呼びました。神に対する冒涜だとの抗議を受けて上映禁止になった映画館も。この映画はメル・ギブソンがさまざまな中傷を受けながら史実に忠実に製作しようとした労作です。イエス・キリストの生涯など知らなかった私にとって、西洋史の根幹にもなっているこの時代が理解できる素晴らしい作品でした。

私はこの映画を観るまで、イエス・キリストはローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトの命令よって十字架にかけられたと単純に思っていました。しかし、よく調べてみると、当初、ピラトは「イエスは法に照らして微罪であり釈放すべきだ」と主張していたのです。ところが、律法学者パリサイ人に煽動された群衆が「イエスに処刑を」と熱狂したのに抗しきれずに処刑を命じたのでした。つまり、キリストは無知で流されやすい群衆によって十字架にかけられたのです。今もなお、自分で調べたり、自分のあたまで考えずに、誰かの意見や扇動者の情報を鵜呑みにして世の中に流される群衆のなんと多いことか。無知は罪を作るのです。

このように、たったひとつの映画を観ることで、それまで知識も興味もなかった時代を理解を深め、今まで以上に関心をもつようになることがあります。もちろん映画は史実に忠実に作られたものばかりではありません。しかし、1956年に制作された「十戒」は私にはなじみの薄い時代を知り、理解するのにとても役に立ちました。「十戒」はヘブライ人を救済するモーセの話しです。エジプトの王子として育てられてきたモーセが、その後神の言葉を伝える預言者となり、ヘブライ人たちに10の戒律を示すという物語です。教科書を読んでもよく覚えられない紀元前12世紀あたりの歴史がとてもわかりやすく描かれています。

「十戒」でモースを演じていたのはチャールトン・ヘストンです。彼は1974年の「エアポート’75」の主役でした。私は中学生の時、いち時、パイロットという職業に憧れを感じた時期があります。それに影響を与えたのはこの映画です。ちょうどこの頃、田宮二郎主演で「白い滑走路」も放映されていましたが、中学生の私はこれにも影響を受けました。田宮二郎といえば映画「白い巨塔」で主人公の財前五郎を演じていましたね。チャールトン・ヘストンはその後、「ベンハー(59年)」に主演したり、何本かの映画でマルクス・アントニウスを演じたりと、彼にとってこの「十戒」のインパクトがいかに大きかったがわかります。

チャールトン・ヘストンといえば、彼が主演した「猿の惑星(68年)」も印象に残る映画です。この映画が封切られたころ私はまだ小学生でしたが、当時話題になっていたこの映画はそれまでの映画とはちょっと違う印象をもっていました。ほんものの猿そっくりな特殊メイク、しかも自由自在に表情が出せるのは驚きでした。ショッキングなラストシーンも話題にのぼっていました。だいぶ後になってTVで放映されましたが、大人の鑑賞にも耐えられる本格的なSF映画だなと思いました。この映画が封切られる2年前にも「ミクロの決死圏」という映画が公開されており、この頃はSF映画の第一次全盛期だったのかもしれません。

SF映画といえば、「猿の惑星」が製作されたのと同じ1968年に封切られた「2001年宇宙の旅」も素晴らしかったと思います。こちらも後にTV放映されたときに観ました。アーサー・C・クラーク原作のこの映画はちょっと哲学的で、単なる娯楽作映画にとどまらない作品だと思います。人間が地球外で生活するようになり、その人間に従属するはずの人工知能「HAL」が暴走をはじめる。この映画には難解さもありますが、それでも現代に通じるなにかを暗示しています。現実の2001年は映画の中の世界のようにはなりませんでしたが、人工知能が人間の手を離れて暴走する恐怖はこれからの時代を先取りしたものかもしれません。

エイリアン(79年)」というSF映画も特筆すべきものです。惑星間を自動航行する輸送船が地球の所属会社の指令によって未知の生命体がいる惑星に向かわされます。乗組員にはそうした指令は知らされませんでした。知っていたのは会社が輸送船に送り込んだアンドロイドのみ。姿を見せないエイリアンに次々と襲われる乗組員。シガニー・ウィーバーが演じるレプリーがたった一人でその星を離れることになるのですが最後までドキドキハラハラさせられます。この映画を観ると、宇宙というだだっ広い世界でたった一人になることの恐怖感を味わうことができます。そして、そのラストシーンで息を飲むこと請け合いです。

その意味で「ゼロ・グラビティ(2013年)」もそのCGの美しさとリアリティによって観る者に「エイリアン」とは違った恐ろしさを体験させてくれます。出演者はサンドラ・ブロックとジョージ・クルーニーの二人だけでしたが、ふたりの役がそれぞれの持ち味が生かされていていい映画でした。漆黒の闇。その闇を貫く太陽の光。音のない真空の世界。その空間を漂う完全な孤独。この映画を観ると、本当の絶望ってこんな感じなのかもしれないと思うでしょう。その絶望の中でジョージ・クルーニー演じるマットが希望の光となって主人公を地球に導いていくのですが、スリリングなストーリー展開に引き込まれます。

最近の映画はCGによる映像が売りになっています。とくにSFの世界を描くときはこのCGがとても有効です。多くの怪獣映画や、戦争映画でですらCGを多用してリアルさを高めています。そのような中で、日米開戦の端緒となった真珠湾攻撃前後を描いた「トラトラトラ(70年)」は、ゼロ戦などの航空機を本物そっくりに作って飛ばしたり、日本映画がお得意だった特撮を駆使してリアルさを表現しようとした大作です。この映画の素晴らしさは、映像のリアルさとともに、日米が開戦にいたるまでの過程をアメリカ側の視点と日本側の視点から描いた点にあります。また、史実に忠実であろうとした点でも価値の高い映画です。

2006年に封切られた「硫黄島からの手紙」もアメリカ側からの視点と日本側からの視点からそれぞれ映画が作られました。硫黄島は日本本土防衛の生命線というよりも日本軍の最後の拠点でした。予想をはるかに上回る犠牲を払って硫黄島を陥落したアメリカ軍。ついに海兵隊員が摺鉢山に星条旗をあげたときの写真はあまりにも有名です。これで勝負は決したわけですが、そこに至るまで、あるいはその後には日米双方にさまざまなドラマがありました。この映画は嵐の二宮君が演じる一等兵の目を通して戦争の意味を問いかけていましたが、二宮君や加瀬亮、松崎悠希などの若手俳優の演技力がとても光っていて素晴らしかったです。

ところで、ソビエト連邦の崩壊とともに「ヴェノナ文書」が公開されました。日米開戦の直接的な原因は「ハルノート」を日本が受諾しなかったこととされてきました。しかし、「ヴェノナ文書」によって、「ハルノート」作成を主導したハリー・D・ホワイトが実はソビエト共産党(コミンテルン)のスパイであり、満州とソ連の国境に集結する日本軍を南方にひきつけるため、日本が受諾できない条件をあえて提示してアメリカとの開戦を誘導した可能性が指摘されています。一方、参戦に否定的だった米国民の意識をかえるため、ルーズベルトは日本軍の真珠湾の奇襲攻撃をあえて見逃したのではないかともいわれています。

戦争にはそうした謀略がつきものです。かつては優秀な諜報機関をもっていた日本であってもなお謀略に負けてしまったのに、諜報機関ももたず「スパイ天国」と揶揄される今の日本はどうなっているんだろうと考えると恐ろしくなります。戦前の日本軍の中にもソ連のコミンテルンの影響を受けた軍幹部が複数いたといわれています。本来であれば戦う理由のなかった日本とアメリカが、ともにコミンテルンのスパイとなった自国の要人たちによって戦わざるを得ない状況にされてしまったわけです。そのことは別の言い方をすれば、日米はともに「後ろから撃たれた」ともいえるわけで、戦争は実に残酷なものだと思います。

そんな戦争の残酷さ・醜さを描いた映画に「プラトーン(86年)」があります。この映画はベトナム戦争を描いた話題作でした。反戦主義者でもあるオリバー・ストーンらしい映画といえるかもしれません。ベトナム戦争に駆り出された兵士の多くが貧しい家庭の出であることに理不尽さを感じて志願したテイラー。彼は着任したベトナムで戦争の残酷な現実を目の当たりにします。私はこの映画を見終わったとき、人はなぜ戦争をするのだろう、しなければならないのだろうと無力感を感じました。テイラーの直属の上司であるエイリアスを演じたウィレム・デフォーが悲しいほどにかっこよかったです。是非観てみて下さい。

戦争映画といっていいのかわかりませんが、「グリムゾンタイド(95年)」もいい映画です。そもそも重くありませんし。私の好きな俳優のひとりであるディンゼル・ワシントンが主演です。主人公ハンター少佐は長期間、深い海底を潜航する攻撃型原子力潜水艦の副艦長。アメリカを守るために原爆を搭載した弾道ミサイルを敵国に発射すべきか。ジーン・ハックマン(この俳優もなかなかしぶくて好きです)演じる艦長と丁々発止の駆け引きが展開されます。この映画は実際におこった原潜事故をもとにしているといわれていますが、「正義とはなにか」について考えさせられました。アメリカ映画らしい映画かもしれません。

ディンゼル・ワシントンの映画は結構好きです。彼は出演オファーを受けるにあたって、脚本の出来をとても重視することで有名です。2004年に制作された「マイ・ボディガード」は彼の持ち味が生かされたいい映画だと思います。兵士として挫折を味わった主人公は知人の子どものボディーガードになります。そして、誘拐事件に巻き込まれた彼は自分の命を投げうって子どもの救出を試みます。手に汗握るストーリーで、ついつい最後まで見てしまいます。その結末は必ずしもハッピーエンドじゃない(ネタバレ?)のですが、それがよかったのか、悪かったのか。結論は皆さん自身が観て決めてください。

この映画をモチーフにしているかのような映画が「イコライザー(2014年)」です。主演のディンゼル・ワシントンが演じるロバート・マッコールはCIAの元工作員。今は一般市民として生活しています。ある事件をきっかけに彼は悪人退治に乗り出します。アメリカ版「必殺仕置き人」みたいなものでしょうか。ドキドキするシーン満載ですが、やはり悪人が退治されていくたびに胸がすっとします。この映画の中で、シンガーになりたいという夢を抱きながら娼婦に身をおとした少女に、静かな口調で「You can be anything you want to be.(君は願いさえすればどんな人間にもなれるんだよ)」と語りかけるマッコールが素敵です。

悪人退治といえば、1987年に制作された「アンタッチャブル」もよかったです。禁酒法があったころのアメリカを舞台に、ギャングの帝王アル・カポネと彼を追う捜査官エリオット・ネスの話しです。アル・カポネを演じたロバート・デ・ニーロはこの役のためにあたまの毛をそって役造りをしました。エリオット・ネスを演じたケビン・コスナーはこの映画が出世作になりましたし、共演のショーン・コネリーはこれでオスカーを受賞しています。かつてアメリカにいた頃、この映画に出てきたシカゴ・ユニオン駅にはお上りさんのように行ってきました。ここで撮影が行われたのかと思ってあのシーンがよみがえり感動しました。

「アンタッチャブル」は禁酒法の時代を描いていますが、ちょうどそのころの日本を舞台にギャングならぬヤクザを主人公とした映画も作られました。中でも私がいち推しなのが、高倉健主演の「昭和残侠伝 吼えろ唐獅子(71年)」です。以前にも少し紹介しましたが、高倉健扮する花田秀次郎と三州の親分を演じる鶴田浩二のセリフがものすごく感動的かつ印象的です。この映画は「昭和残侠伝」としてシリーズ化された9本のうちの第8作目。映画のストーリーはいつも同じ(マンネリ?)なのですが、この任侠の世界が当時の日本人の心(とくに私の心)をなぜかつかみました。ちなみに任侠は今の暴力団とはまったく違います。

唐獅子とはライオンのことですが、「アンタッチャブル」に出演していたショーン・コネリーが主演した「風とライオン(75年)」もいい映画でした。中学校3年か高校1年のときに観たのですが、そのストーリーにというよりもショーン・コネリーのカッコ良さと、共演していたキャンディス・バーゲンの美しさに魅了される映画でした。ハリウッド映画のスケールの大きさみたいなものを感じる映画でもありました。この映画で使われていた音楽もよかったです。作曲はジェリーゴールド・スミスです。彼は先の「トラトラトラ」の映画音楽も担当していて、映画を引き立てるとても素晴らしい音楽でした。是非聴いてみて下さい。

風といえば「風と共に去りぬ(39年)」も忘れられない映画です。主人公のスカーレット・オハラを演じるビビアン・リーもとてもきれいでした。ビビアン・リーほどこの役にぴったりの女優さんはいないかもしれません。レッド・バトラー役のクラーク・ゲーブルもはまり役です。だからでしょうか、ふたりともその後の作品にはあまり恵まれなかったようです。映画音楽もスケールが大きくてよかったですね。主題曲を聴くと、タラの丘で再起を誓うスカーレットの姿が目に浮かぶようです。そう考えると、映画にとって映画音楽はものすごく重要です。音楽を聴くだけで映画を見ていた時の感動がよみがえってきます。

映画音楽といえば、88年制作のイタリア映画「ニューシネマパラダイス」もよかったです。イタリア映画独特の雰囲気には好き嫌いがあるかもしれませんが、イタリアの片田舎にある小さな映画館を舞台にした物語になぜかホッとします。音楽を担当したエンリオ・モリコーネは、先ほどご紹介した「アンタッチャブル」の映画音楽をはじめ、南米を布教する宣教師を描いた映画「ミッション」、これまた禁酒法時代のアメリカを舞台にした「ワンスアポンナタイムインアメリカ」などの映画音楽を担当した素晴らしい作曲家です。私は、アメリカの作曲家ジョン・ウィリアムスとともにこのエンリオ・モリコーネは天才だと思っています。

最後に音楽を映画の主人公にしてしまったのが「アマデウス(84年)」です。この映画は天才作曲家アマデウス・W・モーツアルトの半生を、彼の才能を心から尊敬し、また憎んだサリエリの視点から描いたものです。サリエリは天才モーツアルトの出現によって彼の才能に驚嘆します。同時に、自分の凡庸さを思い知らされるのです。軽薄で信仰心のないモーツアルトに才能を与え、敬虔な自分には才能を与えなかった神を彼は憎みました。モーツアルトの名曲をちらばめながら、謎めいた彼の最期をサスペンス調に描いています。とりあわけサリエリを演じたマーリー・エイブラハムという役者が実に素晴らしかったです。

ご紹介したい映画は尽きないのですが、長くなってきたのでこのくらいにしておきます。最近はなかなか観たいと思う映画がありません。歳をとってなかなか感動しなくなったからでしょうか。それとも魅力的な映画が少なくなったからでしょうか。映画を観るときはできるだけ映画館で観たいと思っています。映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観てから余計にそう思うようになりました。心に残る作品はその後の人生になんらかの影響を与えます。きっと、映画を観ることで、他人の人生を一緒に「生きる」ことができるからでしょうか。その意味では、なんとなく医者という仕事と似ています。だから好きなのかもしれません。

 

 

好きな映画(1)

生まれてはじめて映画館で観た映画は邦画の「日本沈没」と言う映画でした。私が通っていた中学は御徒町にある、「台東区立御徒町中学校(通称、オカ中といいます。萩本欣一さんや天海祐希さんも同窓)」という公立の中学校でした。どうして私が「東京の中学校に通いたい」と言い出したのかわかりませんが、当時、同じ台東区にある蔵前警察署に勤めていた父親の伝手でオカ中に通うことが決まったのでした。

当時はこうした「越境通学」をする生徒が比較的多く、オカ中では私の学年では5クラスの内のひとクラス分の生徒が近隣の街や他県から通っていました。あのころはまだ「ゼネスト」という国鉄のストライキが春の恒例行事となっていて、ちょうどそのころ中間テストだったりするものですから、私たちのような越境組の生徒は上野の旅館などにとまって試験を受けた楽しい記憶が思い出されます。

オカ中にはいろいろなバックグラウンドを持つ生徒がいて、サラリーマンの子どもはもちろん、実家が商売をしている生徒や在日韓国朝鮮人の生徒も多数いました。同級生には上野の旅館の倅(せがれ)がいて、ゼネストのときは彼の実家に泊まって試験勉強しながら定期試験を受けました。概して越境組の生徒は優秀でしたから、どの子もちゃんと勉強をしていましたが私はと言うと・・・。ご想像のとおりです。

我孫子から満員電車に揺られて上野で乗り換えて御徒町へ。たかだか1時間ほどの通学時間でしたが、今思うと中学生にはずいぶん厳しい通学でした。学生かばんの中には入り切らない教科書やノートは「マジソンバック」と呼ばれる、当時ものすごく流行ったスポーツバックに入れて通うのですが、これがまた半端なく重いのです。それを殺人的な満員電車のなかで持ち続けるのですから本当に大変でした。

この混み方は今の比じゃないくらいすごいものでした。車両の連結部分の扉のガラスがときに割れるくらいでしたから。ですから、座席に腰かけている優しいおじさんなどは同情してか、ときに「持ってあげようか」と言ってくれたりしました。柄の悪いことで有名な常磐線でしたから、押した押さないで喧嘩がはじまることもしばしばで、当時の通学は実に苛酷なものだったのを覚えています。

そんな通学のときに車窓から見える上野の映画館街の大看板は、中学生になった私の目にはとても刺激的でした。いかがわしい映画の看板には絵こそ描かれてはいませんでしたが、なにやら刺激的な言葉が並んでいましたし、ロードショーの大作映画の看板にはワクワクするようなひとコマがまるで写真のように描かれていて、いつも「あの映画、観たいなぁ」と思いながら眺めていました(もちろん超大作映画の方です)。

そんなときに映画「日本沈没」が封切られました。当時、日本には超大型の地震がやってくるということでもちきりでしたから、その地震をきっかけに日本列島が日本海溝に沈んでいくというストーリーは中学生の興味を引き付けるには十分でした。友だちを誘ってその映画を観に行ったとき、私はなんとなく悪いことをしているような、それでいて自分が少し大人になったような気持ちがしていました。

映画の具体的なストーリーは忘れてしまいましたが、それ以来、たまに映画を観に行くようになりました。とくに丸の内の映画館街は、館内の雰囲気といい、映画館周辺の風景といい、歩いているだけでワクワクする特別な場所になりました。そんなこともあって、高校生や大学生になっても映画館に行けるときは直接映画館で、また、ビデオが借りられるようになってからはレンタルでよく映画を見ていました。

決して記憶に残る映画ばかりではありませんが、今見てもなお感動する名作というものがいくつかあります。今回はそんな映画のいくつかをご紹介します。

まず、なんといっても「ローマの休日」ですね。私の中学生の頃といえば、すでに以前のブログでも紹介したように、無気力だった小学生が少しだけ成長して、家庭教師の大学生が作ってくれた「やるきスイッチ」に、ほのかな恋心をいだいていた同級生の女の子がスイッチを入れてくれた時です。このころは思春期だったせいか、「恋に恋する乙女」のように「カーペンターズ」の歌ばかり聴いていました。

その中学生のころにフジテレビの「ゴールデン洋画劇場」かなにかで放送した「ローマの休日」は中学生だった私の心をがっつりつかんでしまいました。ヘプバーンの美しさやグレゴリーペックのカッコよさ、あるいは大人の恋への憧れというよりも、最後の切ない二人の別れにものすごくインパクトを受けたんだと思います。最後にグレゴリーペックが広い回廊をひとり去っていくシーンは今も素敵だと思います。

宿泊先のお城を抜け出し、窮屈なアン王女を演じることから解放され、新聞記者ブラッドレーとカメラマンのアービングとの三人で過ごしたローマでの休日は、映画を観ている私自身がまるで三人と一緒にローマにいるような気持ちになれる素敵な映画でした。ローマの観光名所をたどりながら、さまざまな事件にまきこまれる珍道中ぶりは観ているすべての人を引き込みます。音楽がまたよかったですよね。

なんといってもグレゴリーペックが演じるブラッドレーがとっても紳士でした。この映画をはじめて観たとき、中学生ながらにブラッドレーって常識をわきまえた大人だなって思ったのを覚えています。映画の最後、帰国会見で目にうっすら涙を浮かべながらなにも言わずにじっと王女を見つめるブラッドレーの姿がとても印象的でした。グレゴリーペックの人間性もにじみ出ていてブラッドレーは彼のはまり役です。

実はカメラマンのアービングも嫌いじゃないんです。はじめは「このスクープ写真はいい金になる」と思って隠し撮りしているのですが、最後は「もうそんなことはどうでもいい」と思ってしまう。最後の王女との会見で彼はすべての写真を渡してしまう。「あなたとの思い出はこの写真だけにとどめておきます」とでもいうように。適当でチャラいようで実は、ってキャラクターがいいですね(実社会にはいませんが)。

もうひとつ好きな映画を紹介するなら「フライド・グリーントマト」。この映画はあまり知られていないのですが、たまたま衛星放送にチャネルをあわせたときに放送していて見入ってしまったものです。医者になって毎日忙しくしていた頃にこの映画を見たからか、あるいはこの映画の挿入曲が懐かしいものばかりだったからか、ノスタルジックなこの映画の独特な世界にはまってしまったことを思い出します。

内容的にはいささか荒唐無稽なところもないわけではないのですが、それでもアメリカ南部の雰囲気が感じられる(とはいえ行ったことはありませんが)いい映画です。主演はジェシカ・タンディーというおばあちゃん女優とキャシー・ベイツというおばちゃん女優のふたりです。ふたりとも、この映画の役柄にぴったりでしたし息もぴったり。他の脇役の人達も魅力的な俳優ばかりで結構楽しめます。

とくにジェシカ・タンディーは、この映画の前に「ドライビング ミス デイジー」という映画でアカデミー賞主演女優賞をとっています。こちらも素晴らしい映画で、この映画の続編が「フライド・グリーントマト」じゃないかと思うほどに役柄が重なります。こんな素敵なおばあちゃんがいたら、どんな相談にも乗ってもらえそう、って思います。なにより彼女の「しわやしみを隠さない美しさ」が素晴らしかった。

老人ホームで偶然このジェシカ・タンディー演じるニニーと偶然出会ったエブリンをキャシー・ベイツが演じています。いつも不満ばかりを抱え、生きることに行き詰っているエブリンは、ニニーの語る物語にどんどん引き込まれていきます。そして、ついに「こうしちゃいられない」と生まれ変わることを誓います。自分を犠牲にして不満ばかりを抱える人生ではいけないことを悟るのです(まるで私の人生のよう)。

結構などんでん返しがあったり、見せ場がいろいろなところに散らばめてあります。私はこの映画を見てから、スクロギンズ牧師を演じた俳優(リチャード・リール)が実はいろいろな映画にちょこっと出演しているのに気がつきました。代表的なのはハリソン・フォード主演の「逃亡者」。この映画で、ハリソン・フォード演じるキンブル医師が移送されるときに護送車に同乗していた警官がリチャード・リールです。

まだまだよかった映画はたくさんありますが、最近観た「ボヘミアン・ラプソディ」もなかなかでした。この映画に出てくるクイーンというロック・グループを私は高校生の頃、リアルタイムで聴いていました。ですから、他の世代の人達以上にそのクイーンにもっているイメージは強固です。そんなこともあって、この映画でフレディ・マーキュリーを演じるラミ・マレックという俳優にどうしてもなじめませんでした

「いい映画だ」「涙がとまらなかった」という高評価を耳にしても、はじめはなかなか観に行こうとは思いませんでした。自分の中でのフレディは、大男で、とても男性的なイメージがありました。しかし、ラミ・マレックは小柄で、男性的なイメージから少し離れている、なよなよっとした、どちらかというとバイセクシャルな印象が強調された、そんなマイナスの印象しかもっていなかったのです。

しかし、上映期間を確認してあと数日で観れなくなるとわかったとたん、突然「映画館に行こう」と思い立ちました。はじめは家内と行こうと思ったのですが、すでに用事が入っていたので断られ、今度はクイーンを聴いていた頃の私と同じ世代の息子に声をかけましたが「なんで俺が行かなきゃいけないんだよ」と断られました。高校生のころの自分の思いが伝わればと思ったのですが、結局ひとりで観に行きました。

もう少しで上映期間が終わるというのに結構な客が入っていました。私よりも少し上の世代の夫婦や、私と同じ世代の父親がこれまた私の息子と同じ年格好の子どもを連れて見に来ているケース、もちろん私のようにひとりで観に来ているおじさんも少なくなく、この映画を支持する年齢層が比較的幅広いことを示していました(その結果、今でもこの映画は上演されていて興行収入も100億円を突破しました)。

実際に見ていると、ラミ・マレックへのネガティブな印象は否めませんでしたが、しかし、それを上回るくらいの感動がありました。フレディがバイセクシャルで、最後はAIDsを発症して亡くなったことは知っていましたが、クイーンというグループの周辺でどのようなことがあったか知らなかっただけに、あの映画ですべての楽曲の雰囲気が自分の中で変わっていき、あらたな感動が生まれてきました。

クイーンの歌の中でもとくに好きなのが「Radio Ga Ga」です。ラジオからながれてくるこの歌を聴いていたときの思いがよみがえってきます。中学校でようやく立ち直れた矢先、進学した高校に失望して無為な2年間を過ごしてなんとか大学へ。そんな中で医学部への再受験を決意し、ようやく「しっかりしなきゃ」という思いになりはじめたころの歌です。改めて聴くとそのときの前向きな気持ちがよみがえってきます。

映画の最後、ばらばらになりそうだったクイーンがまた心をひとつにして「Live Aid」というチャリティライブに挑みます。そのときのシーンで流れたあの「Radio Ga Ga」にはやはり胸に込み上げるものがありました。映画を観る前、前評判を聴いて「クイーンの映画を観て涙なんか出るもんだろうか」と疑っていたのですが、映画でクイーンのバックグランドを知るとはやりあのシーンは感動します。

以前であればそれほどにも思わなかった「Love of my life」という歌もあらためて好きになりました。フレディにはデビュー当時、メアリーという恋人がいました。のちにフレディが男性の恋人に夢中になってしまうのですが、それでも彼女は陰で彼を励まし、支えていました。映画ではそのメアリーを演じるルーシー・ボウイントンがとてもきれいでしたが、そのメアリーに捧げるように歌ったのが「Love of my life」です。

その歌が生まれた背景というものを知ると、その歌のイメージが変わってもっと好きになることがあるんだと改めて実感しました。クイーンのLPレコードは何枚かもっています。「ボヘミアン ラプソディ」という映画を観てそのレコードを今改めて聴いてみると、高校生のころに感じたものとは異なり、なにかもっと深い情感のようなものが湧いてきます。音楽って、また、映画ってやっぱり素晴らしいものですね。

ちなみにフレディはとても日本びいきでした。自宅に庭師を呼んで日本庭園を造っていたくらいですから。クイーンの世界的な人気が日本から火が付いたからかもしれません。フレディは大の猫好きで、日本にお忍びできては骨董品の招き猫を収集していたことが有名です。映画の中でも、フレディの部屋には額に入れられた金閣寺のお札が飾られていたりして、日本人にはとても誇らしい気持ちになれる映画です。

もっといろいろな映画を紹介したいのですが、ついつい長々と書いてしまいますのでまた今度にします。今回はこのぐらいにしておきたいと思います。

 

諸行無常の響き

昨年、父親が亡くなったのをきっかけに、これまでのいろいろな出来事とともに私自身の半生を振り返ることが多くなりました。と同時に、これから自分はどうなっていくのか、家内はどうなっていくのか、そして、息子たちがどうなっていくのかを考える機会も増えました。とくに息子たちはこれからの人間ですから、どんな人生を送ることになるのだろう、どんな人生を送ることが幸せなのだろうとふと考えることもあります。その意味では、彼らにとって私の半生はとても教訓多いものだったと思います。自分で振り返ってみてもドラマチックでスリリングな経験がたくさんありました。一方で、日常の診療の中で見聞きしてきた患者さんの人生そのものが感慨深いものにだったりして、人生は実にいろいろです。

高齢患者の悩みの多くは「老いを受け入れられないこと」に起因していたり、「これから先いつまで生きられるだろう」という漠然とした不安にもとずくものです。「いつまでも若々しいときの自分でいたい」という思いはすべての人の願いです。「死にたくない」という思いだって皆共通です。しかし、この世はすべてが「諸行無常」。つまり、この世の一切のものは同じままの姿で、あるいは、同じ状態でいられないのです。あれほど明晰を誇った記憶力も、若い人達には負けないと思っていた体力も、残念ながら年齢とともに衰えていきます。「最近、俳優の顔は思い浮かぶけど名前が出てこない」ことも、「最近、ふらついて転びやすくなった」こともひとえに諸行無常であることを表しています。

すべての人がはじめて70歳になり、80歳になります。ですから、当然のことながらどのようなものが「70歳らしい」のか、あるいは「80歳らしいのか」を体験できないままに歳を重ねていきます。ところが、鏡の中の自分の変化はものすごくゆっくりなので、どちらかというと精神年齢が進むスピードは実年齢にくらべて遅いのです。しかし、肉体と精神はともに生物学的年齢に応じた曲線をたどって下降していきます。私はよく診療時に、ご高齢の患者さんに「50年前、80歳の人を見てどう感じていたか振り返ってみて下さい」と話すことがあります。「生物学的には今のあなたも同じ80歳。なのにあなたはなんて若々しいのでしょう」、「平均的な80歳のレベルを考えれば、あなたの(若々しさの)偏差値はとても高いのですよ」とも。

「俳優の名前を忘れたっていいじゃないですか。家族の顔がわからなくならなければいいんです」、「ふらつくなら転ばないように生活上の工夫をしたり、杖をついたりすればいいじゃないですか」とお話しすることもあります。「歳をとる辛さを知らないくせに」と心の中でつぶやきながら私の話しを聴いている人もいるかもしれません。しかし、実体験として「歳をとる辛さ」を知らないとはいえ私ももう若くはありません。あと十年もすれば確実にその「歳をとる辛さ」に直面します(今もちらほら「これって老化?」と思うような変化に遭遇していますけど)。でも、私自身、そのときを迎えたら老いは受け入れる覚悟はできています。その変化を受け入れるつもりです。人生の「ながれ」には逆らおうとは思わないのです。

「若々しくありたい」と思うのは誰でも同じです。若い時の写真を見て「あのころに戻りたい」と思うことだってあります。でも、それは所詮かなわぬこと。過去に戻ることも、いつまでも若々しくいることも、現実的には不可能なのです。物忘れは進み、体力は落ち、しわも増えていく。誰一人そうした変化から逃れることはできません。そうであるなら、老いることを恨んで暮らすより、いっそのこと老いを受けれ、工夫しながら暮らした方がましです。「老化」は「成長」「成熟」に続く正常な変化です。若いときを「善」、老いることが「悪」なのではありません。老いてもまた「工夫次第で善なのだ」と考えるべき。老化を「死」という終着点からとらえるのではなく、「生」の延長線上でとらえたいものです。

ときどき「あと何年生きられるだろうか」とこぼす人がいます。そうした人には「将来のある若人は10年後、20年後を見るべきですが、残された人生を生きなければならない人は過去を振り返えってはいけない。遠い将来を考えて不安にさいなまれるのも建設的ではない。一日一日をしっかり生きていければいいのでは?」とお話しします。過去は過去のことであって、これからやってくる未来とはほとんど関係のないこと。輝かしかった、あるいは楽しかった過去を懐かしむのはいいのです。でも、自分の未来は「今の自分」が決めます。過去によって未来はしばられないのです。以前に投稿したブログで紹介したシラーの詩の一節や井上靖の「流星」という詩はともに人生の機微を謳ったいい詩だと思います。

【シラー】

時にはみっつの歩みがある。
未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去っていく。
そして、過去は永遠に、静かにたたずんでいる。

【井上 靖】

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、
仰向けに横たわって星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、
忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって若き日と同じように、
十一月の日本海の砂丘の上に横たわって長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、
ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉のみごとさ、
そのおどろくべき清潔さであった。

人生のすべては夢まぼろしです。どんなに立派な学校に行こうとも、どんなに美しい容姿をしていても、どんなに高い地位につこうとも、どんなに財産を築こうとも、それらはすべてが「まぼろし」なのです。生まれてくるときも裸なら死ぬときも裸。なにひとつあの世にもっていけるものはありません。そんなこと(もの)に固執したところで、死んでしまえばなんの価値もありません。一方で、つらいこと、悲しいこともこの現世でのこと。黄泉の国ではそうした一切の苦からも解放されます。ほとんどの人は自己満足の中で生き、苦から逃れられないまま死んでいくのです。死んでしまえば自分の存在などいつかは忘れ去られ、その人の生きた痕跡などあとかたもなくなくなっていきます。それが人生というものです。

【平家物語】

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵におなじ。

ご存知の通り、これは平家物語の冒頭の一節です。誰もが中学生のときの国語の授業で暗記させられたと思います。当時はこの一節の意味もほとんどわからないまま、ただ言われたとおりに覚えたものです。高校生ぐらいになっても、「すべてが虚しい」という言葉がまるで「生きる価値などない」とでもいっているように聴こえ、当時の私の心には響くものはありませんでした。しかし、大人になっていろいろな経験をし、人生を振り返られるようになるとその言葉の意味がなんとなくわかってきました。平家物語は栄華の極みを誇った平家がほろびる様子を描いたものですが、平家の没落を通じて、人生の無常を語り、日本人の生き方にも影響を与えるこの一節は今の年齢になって心に響いてきます。

「すべてが虚しい」という一文は「価値がない」ということを言っているわけではありません。「すべてが虚しい」がゆえに「今のこの一瞬一瞬に価値がある」ということを意味しています。また一方で、「すべてが虚しい」がゆえに「他人に自分を誇ること」がいかに無意味かをも教えてくれます。自分がこれまでなしてきたことから決別し、今このときをどう生きていくか。人生の一瞬一瞬を自覚しながら生きるにはどうすればいいのか。「他人からどう見えるか」ではなく「自分をどうみせるか」でもない。「自分自身が輝く生き方」とはどのようなものか。先の平家物語の冒頭部分はそうしたことを問いかけているようにも思います。このことにもっと早く気が付いていたら、私は違った人生を歩んでいたかもしれません。

今はとてもいい時代になったと思います。いい学校を出て、いい会社に勤め、偉くなることに価値があった昔とは違って、今はいろいろな意味で「自分らしい生き方」をしやすくなりました。私が若かかったころは、大学を卒業して入った会社に退職するまで勤めあげることが「まっとうな生き方」のように思われていました。しかし、今のサラリーマンはスキルアップのためにあえて転職を繰り返す人も少なくありません。人によっては脱サラして商売をはじめたり、アルバイトで生計を立てること人だっています。そうした多様な生き方が許容されるようになったのです。かつては、私のように、大学を出ても定職に就かず、アルバイトをしながら再受験しようとする人間には肩身の狭い世の中でした。

東京大学を卒業したからといってそれだけで実力を認めてくれるほど今の社会は甘くありません。それがなにより証拠には、「あの先生は東大を出ているから」なんて理由だけで病院を選ぶ患者は少数派です。むしろ、「あれでも東大卒?」だとか「東大出てるくせに」と陰口を叩かれて悔しい思いをしている人もいるほどですし。東大卒にふさわしい実力をもたない人は「単に学歴だけの人間」と見なされ、場合によっては「使いものにならない人」という烙印を押される時代でもあります。でも、ある意味でこうした変化はいいことだと思います。学歴という「過去」ではなく、実力という「今」が評価されることなのですから。どこかの国の国会の、経歴だけは華々しい「使えない議員」を見ればよくわかります。

勲章をつけることで人はモチベーションを高めることができます。しかし、勲章が原動力となって自分自身を高める人がいる一方で、他人に自分を誇示するために勲章をほしがる人もいます。前者はその人のモチベーションを高め、人生の伸びしろともいうべき人間の幅を感じるのに対して、後者は他人を勲章の有無だけで判断したり、人を上からしか見られないような気がします。そういう人は器の小さい人間のように感じます。人間としての器が大きく感じる人は自分が目指す目標に向かって黙々と努力し、周囲にオーラを漂わせています。実際にこれまで私が出会った「器が大きい(と感じた)人」は、他人に自分がどう思われるかなどには関心がなく、自分の目指す高みに向かって淡々と努力していたように思います。

こんなことがありました。医師国家試験にも合格して東京逓信病院で研修することが決まった私は、研修の説明を受けるために事前連絡があった場所を尋ねました。説明会場である病院事務棟のとある会議室に早めに到着した私は、ひとりの若い医師(らしき人)が椅子に腰かけて熱心に文献を読みふけっているのを目にしました。軽く会釈をしてちょっと離れたところに腰かけ、その彼がどんな文献を読んでいるのかのぞいてみました。するとその文献は英語で書かれた学術論文のコピーだということがわかりました。私は、彼は新人研修医を指導する先輩医師なのだと思いました。そのときの私は英語の文献を読みふけるような先輩医師からどんな指導を受けられるんだろうと考えながらワクワクしたのを覚えています。

でも、研修がはじまると、その英語文献を読んでいた彼は私と同じ研修医だったということがわかりました。彼と一緒に研修をしながら、あのとき彼が会議室で英語の文献を読んでいたことなどすっかり忘れてしまいましたが、徐々に彼と仲良くなり、お互いのことを少しづつ話すようになると彼の素性が少しづつわかってきました。彼が「灘高→東大理三→東大医学部」の研修医であること。当時、すでに東大医学部第二内科研究室に所属していて、大学で実験をしながら研修を受けていることなどがわかりました。彼のお姉さんも京都大学の外科医だということもわかりました。いわば彼はエリート中のエリートだったのです。しかし、彼はそれまでそうしたことを私たちにひけらかすことは一切ありませんでした。

彼は今、とある国立大学医学部の教授として活躍しています。研修医当時の彼は「僕は将来、必ずノーベル賞をとる」と語っていました。そうつぶやく彼のまなざしは真剣そのものでした。私のような地方大学卒の研修医に対して威張らないのと同じように、患者さんに対しても、看護婦さんに対しても、自分の学歴や経歴をちらつかせて偉ぶるようなことはありませんでした。当時の私は、本当のエリートってこういうものなんだろうと思いました。真のエリートはそもそも自分のことを他人にひけらかして偉ぶる必要がないからです。自分のめざすところはそんなところにはないからでしょう。彼らにとって重要なのは、あくまでも自分のめざす高みに一歩でも近づくこと。他人が自分をどう思おうと彼らには関係ないのです。

ものすごい努力をして名門中学や有名高校に進学しても、卒業するころにはパッとしなくなる子どもがいます。せっかく偏差値の高い大学を卒業しても、社会にでた途端に自信をなくして脱落する人もいます。そういう人の多くは、勲章を他人に誇示して、人からどう思われるかという価値観でしか頑張れなかった人なのかもしれません。勲章はあくまでも自分だけのもの。誇りと自信、モチベーションとパワーを与える勲章は他人に誇示する必要はないのです。他人にではなく自分自身に向けられた勲章をもっている人は失敗してもそのたびに立ち直ることができます。彼らの中では次に目指すべき目標がたちどころに現れてくるからです。「真のエリート」とはそういう人たちをいうのではないかと思います。

自分の学歴や経歴によらず、自分の目標を常に持ち続けられる人が「(人生の)真のエリート」なのでしょう。そうしたエリート達はきっと「諸行無常」の意味を経験的に知っているのではないか。つまり、過去の栄華がいかに無常であり、今このときにこそ価値があって、その価値ですらいつまでも同じではない。そういうことを知っているのです。人がどう思うかなどに惑わされず、人に自分の価値観をおしつけることもない。自分のなすべきことを淡々とこなしていく人は、自分の人生が終わるときでさえもなんの迷いもないのかもしれません。私が今だに敬愛してやまない俳優 高倉 健さんは晩年、「エリート」の神髄ともいうべき次のような言葉を残しています。それを紹介して今回のブログを結びます。

「行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」

 

鉄剤の投与

ここ数日、読売新聞の紙面に「アスリートへの鉄剤投与」の記事が載っています。この問題はこれまで私もいろいろと考えてきたことでもあり、関連したことも含めて少し書きます。
ただし、人によってはこれから私が書く内容に承服できない方、あるいは私の意見を読んで不愉快な気分になる方がいるかもしれません。でも、あまり当たり障りのない書き方をしてしまうと、私の真意が伝わらない場合もあるので率直に書きます。

これまで複数の中学生の親御さんから「貧血があるか調べてほしい」と頼まれたことがあります。その理由を問うと、「陸上をやっていて、最近、記録が伸びない。コーチから『貧血の有無を調べてもらってくるように』と言われて来た」とのことでした。確かに、以前から「スポーツ貧血」と呼ばれる貧血があることは私も知っていました。しかし、私の理解していたスポーツ貧血は、中学生というレベルではなく、もっと激しくトレーニングする大人におこるというものでした。

実際に採血をしてみると、多くの生徒で貧血にはまだ至っていませんでしたが、なかには軽い貧血になっているケースもありました。考えてみると、中学生ぐらいの成長期の子どもはからだの成長に造血機能が追い付かないケースもあるでしょうし、女子の場合は初経と重なる時期でもあり、それほど激しいトレーニングをしなくても貧血になってしまう場合はあるんだろうと思いました。ましてや、かなりハードな練習を絶え間なく行っている子どもでは貧血の有無を確認することはむしろ大切なのかもしれません。

しかし、問題なのはその次です。貧血の有無を調べに来た中学生(ほとんどはその親御さんが本人を連れてきます)によく話しを聞いてみると、「鉄剤を飲めば記録が伸びる」と思っている人が意外に多かったのです。実際に市販の鉄成分をふくむサプリメントを服用している人や、実際に鉄剤をもらって飲んでいる人もいるとのこと。それを聞いた私は愕然としました。なぜなら、私の中での鉄剤は「不足しているときは治療薬であっても、不足していないときに服用すると有害な物質」という認識だったからです。

ですから、コーチにいわれるがままに採血にきた生徒や親御さんが、記録が延びないのは貧血のせいで、鉄剤を「服用すれば記録が伸びる魔法の薬」のように思っているのを見て、「部活ってそこまでしなければならないこと?」といった怒りに似た思いが沸々と湧いてくるのでした。もちろん貧血の有無を採血で調べるまではいいのです。しかし、鉄剤の危険性を知らせず(知らず)、鉄剤をまるで「魔法の薬」と勘違いさるかのような指導をするコーチが許せなかったのです。

私は採血に来た親子にいいました。「部活ってそんなにしてまでやることなの?」と。貧血が出現するかもしれないほどのハードな練習をすることが中学校の部活なんだろうかと私は疑問に思ったのです。中学校の部活は生徒の健康と体力の増進を目的にした教育の一環であるはずです(私の思い込みだったらすみません)。にも関わらず、生徒の健康に支障がでるような部活になんの疑問を感じていないかのように思えるコーチや学校に私は強い違和感と怒りを感じたのです。

「鉄剤を服用してまで記録を延ばそうとする生徒」は確かにいました。でも、そうした生徒に対してその危険性を警告していさめる役割こそコーチの仕事のはず。なのに、暗に鉄剤を服用して記録を延ばせといわんばかりの指導が横行しているように私には感じたのです。以来、貧血を調べに来た親子には「そこまでしてやること?」と苦言を呈していました。そして、貧血(正確にいうと鉄欠乏性貧血)がない、あるいは貯蔵鉄が十分にある生徒には「鉄剤を飲む必要はないからね」と釘を刺すのを忘れませんでした。

その後、採血を希望する生徒は減っていきました。私は「嫌味ひとつ言わずに採血してくれ、鉄剤までも簡単に処方してくれるどこかのクリニックに行ったのだろう」と思いました。SNSが発達した現在、生徒の間で、あるいは親同士の間でそうしたクリニックの情報はやりとりされているはずです。そうした情報をもとに、私のクリニックに採血に来ていた生徒たち、あるいはその後輩たちは恐らく安易な検査と処方をしてくれるどこかに移っているのかもしれません。

この間、別の問題もありました。それは激しい運動をやっている女子選手の無月経の問題です。激しい運動は生殖機能にも影響をあたえて無月経になることがしばしばあります(運動誘発性無月経といいます)。こうしたことにかつての私には問題意識がありませんでした。しかし、あるとき、部活をやっている女子中学生の親御さんから無月経の相談を受けてこの問題を認識しました。その子は初経があってからしばらくは不規則ながら月経があったのにもう何か月もの間月経がこないというのです。

以前のブログにも書いたように、医学生時代の私は一時期産婦人科に進もうと思ったことがありました。周産期という出産前後の胎児・新生児の研究や診療をしてみたかったのです。ですから、無月経については多少のことは知っているつもりでしたが、国家試験に合格して三十年、婦人科の知識などすっかり消えてしまっていることに気が付きました。私はスポーツ医学を専門にしている産婦人科のドクターを探しました。そして、とある大学の先生を見つけてメールを書いてみました。

その先生はすぐに返事をくれました。「運動誘発性無月経の問題は、今、もっと注目されるべきことなのにスポーツの領域では皆が目をつぶっている」というのです。ましてや私が相談したのは女子中学生のこと。「深刻な問題にならないうちに産婦人科を受診させてください」との返事をもらいました。私はこのとき確信しました。スポーツの指導者の多くは選手の健康にはまるで関心がない、言い換えれば、選手の健康よりもコーチ自身の勲章のために選手を使い捨てにしているように思えてなりませんでした。

以来、選手の、とくに中学生のスポーツ貧血や運動誘発性無月経にはことあるごとに問題意識をもってきました。そして、貧血検査のために受診した中学生に対しては苦言を呈してきました。しかし、生徒自身はもちろん、生徒の親においてもこの私の「警鐘」はおそらく「めんどうなことをいう医者」としか映っていなかったのかもしれません。「ごちゃごちゃ言わずに採血して鉄剤を出せばいいのに」ということです。そして、最近の「アスリートの鉄剤注射」の記事。正直、ホッとしています。

医者もいけないのです。選手の健康に関心が薄いコーチにも頭にきますが、無批判に検査・処方している医者には同業者としてもっと腹が立ちます。今日の読売新聞の取材に対する言いわけがとにかくひどい。

「鉄剤の注射が有害だということは知っていたが、選手に頑張ってもらいたかったから」

「経済的な負担を考慮して、月に3回のペースで注射をしながら検査は年一度にした」

こんな馬鹿げた理由があるでしょうか。どう考えても選手の健康よりも優先するようなことじゃないでしょ。こういう言いわけをするくらいなら、「鉄剤の注射がこれほどまで健康に有害だという認識に欠けていた」と正直に言ってほしいくらいです。少しは理解できますから。

念のために言っておきますが、鉄剤は注射剤だから危険で、飲み薬だから安全というものではありません。鉄が不足していないときに使用する薬ではないからです。いずれにしても過剰摂取は危険なのです。恐ろしいことに、医者の中には「貧血」というだけで「鉄欠乏性貧血」かどうかも確認しないで鉄剤を出すのもいます。採血で貧血の改善のようすや鉄が過剰になっていないかどうかを調べもせずに延々と処方している医者もいます。医者だからってみんながちゃんとした診療をやっているわけじゃないのです。

「採血をして調べましょう」と提案しても嫌がる患者もいます。こちらとしては必要性があるから勧めているのですが、そうした患者の目に検査は「余計な費用がかかるもの」、あるいは「医者のもうけ主義の道具」とでも映るのでしょうか。安易な鉄剤の服用という問題には飲む側の問題もあるのです。私が経験した一連の問題は中学生に起こっていることだけにより深刻です。とくに私は「たかが部活じゃないか」「部活は教育の一環」という意識が強いだけに「大会至上主義」ともいえる部活には賛成できません。

インフルエンザのシーズンがやってきます。生徒が次々とインフルエンザに倒れる中、なかなか学級閉鎖や学年閉鎖をしない学校もあります。噂では「学級閉鎖をしてしまうと部活を休止しなければならないから」だともいわれています。もしこれが本当であれば大問題です。何年も前になりますが、見るに見かねて市の教育委員会に電話で抗議したことがあります。翌日には学級閉鎖になりましたけど。子どもたちの健康よりも部活を優先するかのような教員や学校にはこう言ってやりたい。

「君らは生徒がひとり死ななきゃわからんのか」

「学び」のすすめ

以下の記事は2018年9月26日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。

******* 以下本文

数年前から歴史を学びなおしています。子どもの勉強にお付き合いすることで始まったのですが、私自身が学校で学んでいたころ、歴史ほど退屈でつまらない教科はありませんでした。昔のことを学んでなにになるのか。ましてや日本に住んでいながら世界の歴史を勉強する意味がまるでわかりませんでした。ですから、歴史を学びなおすまで、日本史の知識などは戦国時代の有名な武将の名前程度でしたし、日本以外の国がどんな歴史を経て今日があるのかという知識はほとんど皆無でした。

しかし、歴史をあらためて勉強してみると、学校でおこなわれている歴史の授業がいかにつまらないものだったかということに気が付きます。子どもたちが歴史を面白く感じない理由はふたつあると思います。まず、子どもたちが「なぜ歴史を学ばなければならないのか」という目的を理解できていない(教えられていない)こと。ふたつ目は、歴史的な出来事が単なる「暗記もの」になってしまっていて、子どもたちの知的好奇心を掻き立てるような教え方になっていない点です。

勉強を教えるときにはそれなりの下準備が必要です。私が子どもたちに勉強を教えるときも、数学では実際に解いてみて、子どもがどこでつまづきそうか、この問題を演習して得られるポイントはどんなところか。そんなことを考えながら予習をします。歴史でいえば、この出来事の背景がどのようなものか。そして、この出来事がどのようなことにつながっているのか。要点を歴史的なながれとして教えられるようにまとめておきます。理科であれば事前にどんな知識を教えておけば理解が深まるかを整理します。

こういう工夫の中にも、子供だった頃に「どのようなことが、どのようにわからなかったか」という自分自身の体験が生きています。子ども時代の私は勉強にはほとんど縁がなく、しかも呑み込みの早い子どもでもありませんでした。ですから、先生や大人の説明を聴いていてもすんなりと理解できることばかりではなく、そうした子どものころのことを思い出すと、子どもたちに勉強を教える際のヒントになったりします。つまり、自分の子ども時代の目線で整理し直すことができるのです。

実は私、北大時代、とある予備校で中学生に理科を教えていました。その予備校では大学生のアルバイトを講師にすることはなく、学士以上の学歴が必要であり、専任の講師以外の多くは大学院生でした。私は運よく一度他大学を卒業していましたので、医学部の学生でありながら学士として予備校の講師をすることができました。ちなみに、医学部を卒業すると「医学士」になりますが、医学士は大学院の修士と同格の扱いを受けます。6年間の就学期間からそうなっているのだと思います。

その予備校の講師に応募したとき、採用試験の前に職員から次のような説明を受けました。「生徒からの人気があれば、時給(この予備校では「口述料」といいます)はどんどん上がります。下がることはありません。時給が下がるときは辞めるときです。なり手はいくらでもいるので」と。ずいぶんと高飛車な話しだと思いましたが、のちに生存競争はそれなりに厳しいものだということがわかりました。「人気」とひと口にいっても、「面白いだけ」でもいけないし、「真面目だけ」でも生徒からの支持は得られないのです。

本当は数学を教えたかったのですが、すでに講師は充足しており、「理科だったら採用します」ということでした。大学を卒業はしたものの、就職もせずにそのまま医学部に再入学した私は親からの仕送りに頼るつもりはありませんでした。なので、他の学習塾にくらべて圧倒的に時給の高かったこの予備校の講師というアルバイトはなににも代えがたい収入源になるはずでした。私は迷うことなく「理科を教えさせていただきます」と返事をしました。そして、週に数コマの中学理科の授業を担当することになりました。

予備校の授業は大変ではありましたがとても楽しい仕事でした。なにせわかりやすい授業をすること以外の余計な仕事が一切ありませんでしたから。授業前に講師室に到着すると、きれいなお姉さんがお茶を持ってきてくれます。そして、チャイムがなると色とりどりのチョークが並べられたケースを渡されます。エレベーターが扉を開けて待っていて、エレベーターを降りると教室の扉を職員が開けて待ってまっていました。そして、授業が終わって講師室に戻れば、おしぼりとお茶が運ばれてくるのですからいうことなしです。

授業のあとに生徒が質問にこなければそのまま家に帰れますし、テストの採点もなければ、部活や生徒指導もない。学校の先生と比べれば、申し訳ないくらいの待遇だったと思います。生徒も、わざわざ自宅から離れたところにあるこの予備校に通うくらいですからみんなとても優秀です。質問に来る生徒の中には、説明をしながらその生徒の頭の中にどんどん知識が吸収されていくのがわかるような子がいたりと、「一を教えれば十を知る生徒」が少なくなかったのでとてもやりがいを感じていました。

とはいえ、その分だけ予備校側の評価には手加減がありませんでした。私たちの授業は教室の隅に設置されたカメラと授業中に首からぶら下げているマイクからの音声で常にモニターされていました。そして、教室の後ろには職員がいてときどきなにかを記入している様子。「生徒の出席率」と「授業中で眠っている生徒の割合」などが記録されていると聞いたことがあります。そして、期末には必ず生徒へのアンケートがあって、生徒からどのくらい支持されているかが数値としてはじきだされます。

生徒の出席状況や授業態度、あるいは生徒からのアンケート結果は、講師ひとりひとりにフィードバックされます。とくに講師になりたての人には職員から授業の進め方に関してアドバイスや忠告などがあり、口述料がアンケートなどの結果をふまえて総合的に決められます。ただ、大人からすればとても分かりやすいと思える授業なのに、まじめすぎて生徒からは不人気な気の毒な先生もいました。中学生とはいっても、1年生のときはまだ小学生みたいなもの。生徒をどう惹きつけるかに誰もが腐心するのです。

幸い私の授業は生徒から好評でした。北大に入学するまでは地元の小さな塾で数学を教えていたこともあり、中学生の授業には「つかみ」と「めりはり」が重要だという体験的な信念がありました。いかに生徒の集中力を高めて授業に入るかは「つかみ」によって。せいぜい20分しか続かない生徒の集中力を復活させるためには「めりはり」が大切なのです。生徒たちのエネルギーが尽きかけていると感じたら、生徒たちの関心を惹きつける話題をふる。このタイミングが重要だということを私は知っていました。

ですから1年もすると、私が担当するクラスの数は増え、その後、私の単科講座も開設されるようになりました。私の単科講座名は「瀬畠のテクニカル理科」。友人たちから「どんなところがテクニシャンなの?」とからかわれましたが、それでも結構な数の生徒たちがこの単科講座をとってくれました。このころの私の口述料は1時間当たり12000円になっていました。そして、医学部の授業もそれなりに忙しくなって来たころ、この予備校の中学理科のテキストの作成も任せられるようになりました。

予備校の講師と医学部の学生のどちらが本業なのかというくらいの忙しさでした。予備校ではなじみの生徒たちもでき、授業を終えてもなかなか質問の列が減らないときもありました。なのに大学ではいよいよ臨床実習がはじまり、提出しなければならないレポートの数も増えていきました。結局、医学部5年生の冬休みで予備校の講師を辞めることにしました。冬休みの講習会のとき、予備校のお偉いさんが来て「医師国家試験に受かったらまた講師をやらないか」と引き留められてちょっとだけ迷ったりしたものです。

こうした経験は、自分の子どもたちに勉強を教えるときに役立っています。と同時に、自分の学習意欲を高めるきっかけにもなっています。歴史を学ぶ面白さも、自らの意志で勉強しないとわからなかったと思います。そうやって歴史を勉強すると、なぜ歴史を学ばなければならないのかがわかってきます。と同時に、学校でならっている歴史がいかにかたよっているか、まちがっているかに気が付きます。本来、なにを学ぶのか(手段)は、どうして学ばなければいけないのか(目的)に規定されるので当たり前なのですけど。

日本の歴史は世界の歴史と無関係ではありません。日本人にはなじみの薄いモンゴルが世界最大の帝国であり、東は今のロシア、西は今のドイツにまで勢力を伸ばしていたということも知りませんでした。オーストリアというヨーロッパの目立たない小国が、実はヨーロッパの盟主として絶大な権力と広大な領地をもっていたことすら知りませんでした。ローマ帝国が東西に分裂していたことも、キリスト教の歴史がヨーロッパの歴史そのものだったことも改めて勉強をして知ったことです。

今の日本や世界が、単なる偶然だけでそうなったのではなく、無数の先達の英知と戦いの結果であることを歴史は教えてくれます。と同時に、これからの日本を、あるいは世界を考えるときに、これまでの歴史を振り返ることがとても大切だということがわかります。とくに私たちが生きているこの日本はまるで奇跡の国であるような言われ方をすることがあります。しかし、日本史や世界史を勉強すると決してそうではなく、数々の必然が結果として積み重って今があることがよくわかります。

以前、子どもに「歴史上の人物で誰が好き?」と聞かれたことがあります。そのとき私は「明智光秀と井伊直弼、そして東条英機だ」と答えました。すると子どもは「なんでそんな卑怯な人が好きなの?」と不思議がりました。私はいいました。「この三人は、自分で調べれば調べるほど『悪者』ではなく、実は日本を救った勇気ある人のように思っているから」と答えました。ここで詳しくは書きませんが、この三人の本当の姿は、よく調べてみるとこれまで多くの人が学校で教えられてきたような人物ではないのです。

大人になってあらためて勉強してみると、勉強って楽しいってことがわかります。今はわかりやすい参考書がたくさん店頭に並んでいて、参考書をパラパラとめくってみるとどんどん興味が湧いてきます。そして、歴史に限らず、有機化学や数学、英語などいろいろな科目を勉強したくなります。こうして勉強してみると、知識が広まるにつれてものの見方(視野)も広がっていくことに気が付きます。知っていると思っていたことが違った見え方をすることもあります。子どものころには気が付かなかったことです。

世の中のフェイクニュースにだまされたり、世論を誘導するために流布される情報に乗せられたりしないためには自分のあたまで考え、自分の手で情報を集めなければなりません。その意味でも学習する態度は重要です。昔は「テレビばかり見ているとバカになる」とよく言われましたが、最近では大手の新聞でさえも信じられないことが明らかになってきました。TVのワイドショーのくだらないコメントに感心するような大人にならないためにも、子どもには「学ぶこと」の大切さを知ってほしいと思っています。

 

気楽に行こうぜ

この記事は2016年11月20日に投稿されたものですが、最近、この記事にスパムメールが多数送られてくるようになったため、改めて投稿しなおします。なお、元原稿のタイトルは英語でしたが、今度はこの英語のタイトルを頼りにメールを送ってくるようになったので日本語にしました。

********* 以下、本文

このブログを読んでくださっている方はすでにおわかりだと思いますが、私はおさないころから少し変わった子どもでした。テレビっ子だったとはいえ、子供番組よりも大人が見るようなドラマが好きでしたし、子ども同士でわーわー遊ぶよりも一人で遊ぶことを好む子供らしくない子どもでした。今でもはっきりおぼえているのは、私が小学校に上がる前のこと。なにげなく見ていた新聞の大見出しの文字をまねて字を書いてみた私はなにか新聞の見出しと違うことに気が付きました。「なにが違うんだろう」。そう思った私は自分の書いた文字列と新聞の大見出しを何度も比べてみました。そしてついに気が付いたのです。私が書いていた文字列は漢字だけだったということに。当時は漢字もひらがなも同じ文字に見えていたのかもしれません。そこで今度は漢字とひらがなを適当に混ぜて書いてみました。すると今度は新聞の大見出しのように見えてきてすっきり。そんなことをひとりでやっているのが好きな子どもでした。

ですから、友達と遊ぶこともそれほど楽しいとも思いませんでした。たまに私の家に友達が遊びに来ても、友達は友達だけで遊び、私は自分の興味のある遊びをしているということがしばしばありました。親戚の家に行って「みんなでトランプをやろう」と誘われても、興味がないものには「僕はやらない」といって見物するだけということもあったり。親には「みんながやるときは一緒にやらなければだめじゃないか」といわれましたが、やりたくもないことをなぜやらなければならないのか、子どもながらにその理由がわからず納得できませんでした。今思うと、人から「こうしなければならない。こうするのが当然だ」と他人の価値観を押し付けられるのが嫌だったんだと思います。そんな風でしたから、親からは私はいつも「かわり者だ」と言われていました。きっと親戚の人達にも同じように思われていたでしょうね。でも、私の心の中では子どもながらの価値観と言うものがあって、それを否定されたくないと考えていたんだと思います。

そんな私の偏屈なところがふたりの子供達にも引き継がれていて、頑なな性格とわが道を行く姿にはちょっと複雑な思いがします。私がこれまで歩んできた半世紀を振り返ると、子供達が私から引き継いでいるものは決していい面ばかりではないからです。確かに、自分の信念や価値観に忠実だというのも悪くはありませんが、それはときとして他人との価値観の軋轢(あつれき)を生みます。他の価値観とぶつかったとき、調整が必要となる場面でトラブルのもとになるのです。その結果、自分に不利益が生じることだってあります。私自身、これまでそうした場面に何度も遭遇しました。そのときには深く考えませんでしたし、損得勘定で自分の価値観をねじまげるなんてことは考えられませんでしたから。でも、齢(よわい)五十路を超えて、これまでの人生を振り返る年齢に差し掛かると、はたしてそれでよかったのかとときに思ったりします。そして、自分の性格を引き継いでしまった子供達には同じ苦い経験をさせてはいけないと思うのです。その意味で、職場での経験はとても教訓に満ちています。

ある病院に勤務していたときのことです。私は主治医とトラブルとなったある患者を引き継ぐことになりました。そのトラブルに関しては私も詳細を知っていたのですが、このケースはどう考えても主治医に非があることを私は確信していました。しかし、病院は主治医の側に立ってこのトラブルを解決しようとしている。私はそれにどうしても納得できませんでした。上司に呼ばれて意見を求められた私は率直に言いました。これはどう考えても主治医の対応に問題がある、と。すると上司は「君はいったい誰の側にたってものを言っているんだ」と顔を真っ赤にして私を叱責しました。意外だったその言葉をきいて、私は「どちらかの立場に立って発言しているわけではありません。客観的に見て彼に問題があると言っているんです」。私はそう反論しましたが、私の意見はまったく受け入れてもらえませんでした。結局、私はこの一件があって病院を退職することになりました。先輩の医師に「おまえの言うことは正論だよ。でも、言っても変わらないことを言うのは言うだけストレス。辞めるしかないよ」との忠告を受け、それに納得してのことでした。

でも、他の職場に移っても、結局は同じなのです。上司との価値観の対立はもちろん、職場の価値観が合わないっていう場合もあります。要するに、組織とはそういうものなんだと思います。社会に、あるいは組織に身を置くということは、自分の価値観をそうした組織のそれに調整するということなんでしょうね。当時の私はそれを十分に認識することもできませんでしたし、その意志もなかったため、結果的に自分がめざしていた方向性が少しづつ変わってしまいました。大学に残っていろいろやりたかったことがあったにも関わらず、図らずも地元に戻って開業医をすることになったのです。あのときもっと柔軟にできれば、また別の人生を歩んでいたかもしれません。そう思うと、私の性格を引き継いでしまった子供達が私と同じ轍(てつ)を踏まないように…と思ってしまいます。子供が成長して私の話しがわかる年齢となり、かつての私と同じような失敗を子供が繰り返しそうになれば、ことあるごとに自分の性格がどういう結果をもたらしたのか。その結果がどう今につながっているのか。私なりに話しをするようにしていますがなかなか素直に受け入れてもらえませんね。

結局は子供は子供の人生を歩むことになるんでしょう。自分の子どもの頃を振り返ってみても、親の経験談など素直に耳を傾けようなんて気持ちはありませんでしたから。でも、それでいいんだと思います。人間の人生はその人のものであり、その人生の価値など他人が評価するもんじゃないんですから。人がうらやむような人生を送ったとしても本人には満たされなかったこともあるでしょうし、他人にとってはちっぽけでも人知れず幸せな人生をまっとうできた人だってたくさんいるのです。人間の一生なんてそんなもんです。自己満足できればそれでいいんだと思います。だから、私は子供たちには他人の価値観に振り回されることなく、自分の信じる道を歩んでほしいと思っています。私の後継ぎとして医師になってほしいとは思いませんし、一流大学を出て一流企業に入ることが目的になってほしくありません。こうしたことは長い人生においては単なる手段にすぎないのですから。目的はもっと別なところにあるんだと思うんです。自分の力で生き抜くことができ、自己実現できるような人生が理想なんです。

家庭を犠牲にして会社のために突っ走る人もいなければならない。名誉や富を求めて世の中を引っ張っていく人もいなければならない。世のため人のために無私の心で社会に奉仕し、活動する人もいなければならない。そのすべての人の総体が社会なんだと思います。あくまでもその社会の中でひとりひとりが自己実現をしていくことが大切なのでしょうし、私の子供達にもそうしたことに意識的になってほしいのです。勝海舟が咸臨丸でアメリカに渡ったときに感心したことのひとつが、アメリカ人は歴史的な人物の子孫がその後どうしているかにまるで関心がないということでした。日本に戻り、将軍に訪米の感想を尋ねられたとき、このことを話したそうです。そして、「アメリカで偉くなった人はそれ相応に優秀だというところは日本と大きく違うところ」と付け加えることも忘れなかったらしいです。勝のこうしたところが私は好きなのですが、それはともかくいろいろな価値観を認め、個人主義・自由主義を守るために国民が一致団結するところがアメリカのいいところなんだと思います。「和して同せず」って奴ですね。

これまでの自分の人生を振り返ると、運命的な人との出会いがあったからこそ今があると思います。機会があればそのあたりのことも書きますが、こうした人から問いかけられたことが今につながっていると感じます。生きるってことはそういうことなのかも。つまり、自分自身に突き付けられた人生の転換期に、いかに冷静に答えを見出すか。そのために、いかにして運命的な出会いに気が付くか、ということ。人間は悩めば悩むほどものごとを深く考えることができます。ものごとを深く考えればその意味になんとなく気が付きます。その積み重ねが生きることなのでしょう。なにが幸せで、なにが不幸かではなく、なにに価値があり、なにに価値がないということでもない。いいことも悪いことも、心地よいことも不快なことも、全部をひっくるめてその意味に気が付くこと。それが深く生きることなんだと思います。そして、神の定めた寿命が尽きるとき、自己実現できたかどうかに結論がでればそれでいい。たくさんの生老病死を身近に見てくると、「人生は気楽にいこうぜ」だってつくづく思います。

思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い

久しぶりの投稿です。忙しかったこともありますが、書くに足るネタがなくなってしまったのです。もともと筆不精で、文章を書くのも苦手だってこともあります。このブログでの文章も結構苦労しながら書いているくらいですし。このブログがここまで続いたことだけでも奇跡的なのかもしれません。でも、久しぶりに書いてみようと思うものがありましたので投稿します。ちょっと変わった内容です。人によって好き嫌いがありますが読んでみて下さい((注)赤字部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます)。

******** 以下、本文

私には信仰している特定の宗教はありません。でも、心の中ではなんとなく「神さま」というものはいるのではないかと思っています。私にとっての「神さま」は、ある意味「ご先祖様」かも知れません。神社や寺院でも手をあわせますし、お地蔵さまやお稲荷さまにも手をあわせます。しかし、具体的に「神さま」という対象として手をあわせるのは私の「ご先祖様」でしょうか。具体的には私の母方の祖父の顔を思い浮かべながら手を合わせているような気がします。

たくさんの孫たちのなかで、祖父がとりわけ私を可愛がってくれていたのかどうかはわかりません。しかし、私の心の中には不思議といつも祖父がいます。今でもときどき夢にでてきます。祖父は昔、商売をしていました。私がまだ幼稚園児ぐらいのときに、オート三輪に乗せられて一緒に集金にまわったことがあります。得意先をまわりながら、私に「ほら、こんにちわは?」と挨拶を促しながら目を細めていた祖父のことを今でも思い出します。そんな優しかった祖父がいつも私の心の中にいるのです。

祖父が亡くなる数日前、私は祖父が入院している病院にお見舞いに行きました。そのときはまだそんなに急に亡くなるとは思えないほど元気だった祖父でしたが、「じゃあ帰るよ」と部屋を出ていこうとする私を祖父は呼び止めて「元気でな」とひと言。なんでこんなことを言うんだろう。そう思いながらも「また来るから」と笑って病室を後にした数日後に祖父は亡くなりました。思いがけずに祖父が亡くなってしまいましたが、その一報を受けたと聞いたとき、私はすぐにあのとき交わした言葉を思い出しました。

祖父の葬儀のとき、私は葬儀を終えたお寺から祖父の家まで参列客を車で送迎しなければなりませんでした。お寺で数名の参列客を車に乗せてまさに出発しようとしたとき、私の車を追いかけてくるお坊さんがバックミラーに映りました。その僧侶はついさっき祖父の葬儀でお経を唱えてくれた方でした。私はなんだろうと思って車を止めました。車の窓ガラスを開けるとそのお坊さんが私に言うのです。「気を付けて行くんだよ」と。「はい、わかりました」と軽く会釈をして私はふたたび車を発進させました。

田んぼの中の見晴らしのいい道路を走って、正面のT字路を左折しようとスピードを落としました。左右を確認して左にハンドルを切った瞬間、突然赤い車が目の前に現れました。「あっ!」と言う間もなく、私の車は相手の車の側面に衝突。なにが起こったのかわかりませんでした。幸い怪我人はひとりもおらず、車の損傷も思ったほどではありませんでした。私も相手もはじめは混乱していましたが、二人とも落ち着くとお互いに謝り合っていました。相手がとても優しい人だったので助かりました。

私は思いました。あのとき、お坊さんがわざわざ私を追いかけてきて言った「気を付けて行きなさい」の言葉。あれは祖父が言わせたのではないか、と。実はその僧侶は私の母とは幼稚園での幼馴染でもありました。そして、祖父とは一緒に旅行に行くほど懇意にしていただいていた人でした。祖父が入院する数日前にも、近くを散歩したからと祖父の家に立ち寄ってくれたほど。このことを後日このお坊さんにお話ししたら、「なんとなく声をかけた方がいいと思ったから」と笑みを浮かべながらおっしゃいました。

ときどき自分の半生を振り返ると、まさに「神がかり」あるいは「神さまのお導き」、ひょっとすると「神さまに守られていた」と思えるようなことがいくつもあったことに気がつきます。神さまへの願い事がかなったということはもちろん、決して自分の力や努力だけではどうにもならないことがなんとかなった。あるいは誰かのひと言が私の人生を大きく変えた、なんてことが何度もありました。これらはまさに「神さま」のなせる業だったのではないかと思えるほどです。

息子が第一志望の高校に不合格になって落胆しているとき、「神さまに願いを聴いてもらえなかったなぁ」と彼がつぶやくのを私は耳にしました。でも、私は言いました。「それは違うと思うよ。神さまは単に願いを聴いてくれるとか、聴いてくれないとか、そんなちっぽけなことを考えているわけじゃないんだよ」と。実は、息子ばかりではなく、私も家内も息子の第一志望の高校の合格発表を前にして、神社に願掛けにいったり、先祖の墓参りに行って合格をお願いしたりしていました。ところが結果は不合格。

息子にとってはその渾身の願掛けがかなわなかったことが恨めしかったのでしょう。でも私は息子を諭したのです。「神さまを恨むのではなくて、自分自身のこれまでの至らなさはどこだったのかを振り返るべきだ」ってことを。事実、反省すべき点はたくさんありましたから。「神さまを恨むべきじゃない」という思い。それは私の本当の気持ちであり、私自身の経験から日頃から思っていることでもあります。それはこれまで私がたどってきた人生をプレイバックするとよくわかります。

私が進学した高校には自由な校風がありました。でも、自分にはその校風がまったくなじめませんでした。入学早々「なんでこんな高校に来てしまったのだろう」といつもいつも後悔ばかりしていました。そして、小学校のときのような無気力な生徒に逆戻り。結局のところ、高校2年まではほとんど無気力で無為な学校生活を送ってしまいました。しかも、入学当初から第一外国語にドイツ語を選んでしまった私は、高校3年になってドイツ語ではなく英語で大学受験することを決心。まったく無謀な決断でした。

その結果、周りの同級生たちが医学部に合格していく中、私は当然の結果として浪人することになりました。翌年、なんとか理工系の大学に合格しました。あのような高校生生活を送っていたので、当然のことながら医学部には遠く及ばなかったのです。そのときの私は傲慢にも「なんであんな(医者に向かない)奴らが医学部に受かって自分は合格できないんだ。いい医者になる自信は誰にも負けないのに」と神さまを恨みました。自分のふがいなさと無謀さを棚に上げて「神さまのせい」にしていたのです。

ところが、その後、いろいろなことがあって、あるいはいろいろな人との出会いがあって、大学を卒業後にふたたび医学部を受験することに。そして、今があるのです。そうしたひとつひとつを振り返って思うのは、「神さまは願い事をかなえるか否かといったちっぽけなことを考えているのではない。この結果をふまえてその人がどう行動するのかを神さまは見守っているのだ」ということ。息子にも「願いがかなっても、かなわなくても、その後のおこないによって道はかわっていくんだよ」と言いました。

幸福の種類は人間の数だけあります。人があわれむような人生であっても、その人には幸せだったという場合だってあります。幸福な人生は、どこかにあって手に入れられるものではなく、ひとつひとつの積み重ねそものの総体を幸福な人生というんだと思っています。だから、有名大学に受かることそれ自体が幸福なのではなく、また、希望する仕事に就けなかったことが不幸なのではない。素敵なつれあいに恵まれたことそれ自体が幸福なのではなく、大病をしてしまったことが必ずしも不幸ではないということです。

どんな人にも守ってくれている神さまがいるんだと思います。そして、なんらかの出来事を通して、あるいは他人の言葉を通して語り掛けているのです。「こうした方がいいよ」と。視線を未来に向け、過去にとどまらないこと。こうした神さまの言葉に耳を傾けられるかどうか。今の息子に重ねて言えば、第一志望の高校の一次試験に合格したことにも意味があり、また、最終的に不合格になったことにも意味がある。そして、今の高校に通っていることにだって。きっとそのことを今の息子は実感していると思います。

人は「困ったときの神頼み」になりがちです。しかし、それでもいいのです。神さまはそんなささいなことをどうとも思っていないと思います。特定の「神さま」を信仰しているかどうかも無関係です。毎日手を合わせても、ときどきしか手を合わせなくても、「神さま」の存在を心のどこかにとどめながら、その声に耳を傾けようとすることが大切なのです。「神さま」がご先祖様であれ、なんであれ、「神さま、お願い」とは、神さまの言葉に耳を傾けることに他ならない。神さまは常に皆さんのそばにいるのです。

ダイエット

実は今、ダイエットをしています。5月の連休に体重を測ったら、知らない間に70㎏を超えていたことにショックを受けたからです。これまで家族からは「やせろ、やせろ」のコールがありましたし、自分自身でも心の中では密かに「何とかしなくっちゃ」と思っていました。しかし、怠惰な性格と、楽天的な性格は、健康なんてことより、見かけなんてことよりも、そのときどきの満腹感を優先する毎日でした。ですから、家族には「俺ってサングラスをかけると櫻井翔君に似てると思わない?」といっては「どこがじゃ~っ」と完全否定を食らっても、下の子に「翔君というよりカンニングの竹山って感じかな」なんていわれても、一緒になって笑っているくらいでした。

しかし、その「翔君気取り」の私にとって目の前に突き付けられた体重70㎏の現実はあまりにも重く、「このままじゃダメだ」と改めて思い知ったのです。これまでもダイエットはしたことがあります。若いころであればすぐに痩せられ、体重を減らすにはちょっと食事を控えるだけでよかった。40歳になってアメリカに行きましたが、「アメリカでの食生活=脂っこい食事=ブクブク太る」という図式を思い描いていたせいか、毎朝・毎夕に欠かさず家内と大学構内をジョギングして、まだ車の停まっていない広大な駐車場でテニスをし、またジョギングをして帰宅。そして、シャワーを浴びて食事という健康的な生活で体重は60~61㎏をずっと維持していました。当時の写真を見ると、もちろん見かけも若いのですが、体型も適度に筋肉質でスラッとしていてまるで櫻井翔君がそこにいるようです。

ところが50歳を超えると、これまでとは打って変わり、太りやすく痩せにくい体質になり、そう簡単にはやせなくなりました。震災前にもダイエットをしていたのですが、このときは毎日ジョギングと筋トレを繰り返すかなりハードなものでした。当時なぜダイエットをしようと思ったのかというと、買いものに行ったショッピングセンターの窓ガラスに映った己の体の無残な姿にショックを受けたからです。それまでは体重が増えたことの自覚はあったものの、まだ現実のものとはとらえていませんでした。しかし、あの窓ガラスに映った自分の姿。伸びていた髪はぼさぼさで、丸い顔と突き出たおなか。なんといっても「丸太か?」っと見まごうばかりの胴体の「太さ」はあまりにも残酷な現実に感じたのでした。

でも、きついダイエットはそう続かないものです。挫折しそうな気持ちを抑え、毎日歯を食いしばって繰り返す運動に対する熱意などはいとも簡単に崩れ去ってしまうのです。あのときも、風邪で熱を出し、寝込んでしまったことをきっかけにすっかりダイエットの熱は冷めてしまいました。その後、震災があって私の頭の中からダイエットという五文字はきれいさっぱり消えてしまいました。以来、食べたいものを、食べたいだけ食べる生活。当然のことながら太ってきます。それでも体重を測ることなどなく、自分の体型にもほとんど関心はありませんでした。ふたたびあの厳しいダイエットをやる気にはならなかったのです。そんな私を家族は「パパのおなかってお相撲さんみた~い」とか、「ゴロゴロしてるパパってトドに似てないか?」とか、笑いの種にしていましたが、私もそんな言葉に大笑いをしながらおどけてばかりいました。

それ以降もダイエットをしようなんてまるで考えませんでした。ところが、連休中にふと測った体重が70.8㎏。さすがに70㎏越えはショックでした。健康うんぬん以前にこんな体重になってしまった自分が情けなかったのです。鏡に映る自分の体型はいつになく醜く、「中年なんだもの太ってしまうことは仕方ない」と思い込もうとしていた自分に気付きました。そのとき私は決心しました。ふたたびダイエットに挑戦しよう、と。続かないかもしれないと思いましたが、今度は無理をせず、辛くないダイエットを、楽しみながらやってみようと思いました。今までのダイエットのように「頑張るダイエット」は挫折しやすいことを知っていたからです。しかも、効果が実感できない場合はなおさら挫折しやすいということも実体験でわかっていました。そこで、目で見てわかるようにその日の体重を記録し、グラフ化することにしました。

まずは「食べ過ぎ」から是正することにしました。三食のご飯をたべすぎていないか。そして、間食が多くないかを考えてみました。そして、とりあえず「お米を食べるのをやめてみよう」と考えました。お米そのもののカロリーもさることながら、お米を食べるためにおかずもまた食べ過ぎてしまっていたからです。あと、間食はできる限り口にしないこと。そして、体重がそれなりに落ちるまでしばらくは朝食と昼食は極力抜くこと。ちょっと無理をしているように思えるかもしれませんが、開始直後は目に見える効果を得たいと考えたからです。効果はてきめんで、開始数日は毎日1㎏づつ体重が減っていきました。夕食はおかずを食べ過ぎないように食べ、週末はダイエットを少し緩めてみましたが、はじめの数週間は毎日数百g単位で体重が減っていきました。その分だけこれまで食べ過ぎていたということでもあります。こうした効果を目の当たりにしてダイエットに対するモチベーションはぐっと高まりました。

グラフ化するとよくわかるのですが、週の前半でぐいぐい体重が落ち、週末で少し増える。そして、また次の週前半で減る、という変化を繰り返していく中で体重は二ヶ月でほぼ7㎏減りました。でも、決して無理をしている感覚はありませんし、体調の変化もありませんでした。途中で採血もしてみましたが、これといってなにか悪い変化もありませんでした。むしろ、高めだった中性脂肪は正常化するなど脂質の改善が見られました。唯一、白血球数は極端にさがりました。研修医の頃、指導医に「重症患者の白血球数が急に下がったら要注意」といわれたことを思い出しました。ダイエットはからだにとってはある種の危機状態を作るわけですから、そうした体内環境の変化を反映しているのかもしれません。ただ、不思議なことにダイエットをしたら抜け毛が減りました。栄養状態が悪くなるわけですから抜け毛が多くなるならまだわかります。でも、抜け毛の本数が明らかに減っているのです。抜け毛がそれなりに気になり始めた年齢ですので、うれしい変化といえばそうなんですけどなぜなんでしょ。

ダイエットをしてみて感じたのは、ダイエットの極意は「空腹を楽しむ」ということ。空腹とは人間にとってある意味で「苦痛」なのだと思います。苦痛だからこそ人間はそれを避けようと食行動にでるのかもしれません。でも、よく考えてみて下さい。人は空腹にならないように食べるではありませんか。あるいは、それほど空腹でもないのに食事の時間が来たから食べる、という場合もあります。これらって実は「空腹」という「苦痛」をさけるための行為・行動なのだと思うのです。しかし、今回気が付いたことは、ダイエットにおいて「空腹は脂肪が燃焼している貴重な時間」と思えるようになるとだいぶ気分的に楽だということ。空腹は決して苦痛ではないのです。と同時に、なんとなく食べる、時間が来たから食べるということを決してしないようにすること。実際、これまでを振り返ると空腹感を乗り越えた日ほど体重減少が大きいような気がします。この当たり前のようで当たり前でないことに気が付いたことも収穫でした。

一方で、満腹が実は苦痛だという経験もしました。「あ~満腹、満腹」という言葉は幸せの印のように感じます。ところが私の場合、ダイエットが進むにつれて満腹という一時的な「快楽」のあとに嘔気や腹痛という「苦痛」がやってくるようになったのです。ダイエットをしながら「あ~、○○を思いっきり食べてぇ~」って思うことがありました。ところが、そうした思いのままに腹いっぱい食べると、そのあとで必ずと言っていいほど気持ち悪くなったり、おなかが痛くなったりするのです。そして、しばらくトイレにしゃがみ込むはめに。よく「胃が小さくなる」といいますが、単に胃のサイズが小さくなるだけの現象ではないようです。たくさん食べることで脂質かなにかが体の中で急に増えてこのような症状がでるようでもあります。よく拒食症の患者が食べては吐くという異常行動を繰り返すといいますが、この行動の理由に「たくさん食べてしまったことに対する罪悪感」があると説明されます。しかし、実は今私が説明したような生物学的ななにか合理性が背景にあるような気がします。

いずれにせよ、ダイエットはこれからも続きます。5月の連休明けからこれまでで7㎏の体重が減りました。最近は体重の減り方も少なくなり(というよりも意識的に食事量を以前よりも戻しています。また、朝食と昼食のかわりにタンパクとカルシウムを補給するために牛乳を飲むようにもしています)、その分だけ以前ほど毎日の体重測定が楽しみではなくなりました。むしろ、体重が大幅に増えていないか恐る恐る体重計をのぞき込むようになっていますが、あと2㎏の体重を減らしたいと思っています。体重は1㎏などいとも簡単に増減するからです。体重をふやすのは簡単です。ダイエットはいともたやすくなし崩し的に終わってしまいます。時間があれば筋トレ(足上げ腹筋や腕立て伏せ)をやっています。筋トレも意識的にゴロっと横になりながら気軽にできるものにしています。何事も「頑張らない」「仰々しくしない」「成果を実感できる」をモットーにこれからも細く長く続けるつもりです。

あとどれくらいでかはわかりませんが、今以上に櫻井翔君にそっくりな私が出現するかもしれません。先日、すっきりしたおなかをさすりながら、家族に「ほら、こんなにやせたぞ。だからこれからはカンニングの竹山とは言わせないからな」と勝ち誇ってみせました。しかし、そんな得意げな私に息子が冷静に言いました。「からだはやせても、顔は竹山のままなんだよな~」って。ガク~っ。