あらかじめ申し上げておきますが、いかなる人であれ信仰は自由ですし、他人からとやかくいわれる筋合いのものではありません。ただし、他人に強要したり、他人を傷つけたりしない範囲で、ですけど。
健康に関しては、これまでの常識が覆されたり、思いもしなかった発見がなされたりと、いつも話題に事欠きません。「STAP細胞なんて…(あるはずがない)」と密かにささやかれていたのに、著名な海外雑誌にたった一本の論文が掲載されただけで一躍世間の注目の的になったり。これまで医者に「コレステロールが高いから」と言われて薬を飲んでいたのに、「コレステロールの基準はもっとゆるくていい」と発表する学会があったり。もっとすごいのは、「血圧の薬は飲まない方が長生きできる」と断言する医者が現れたり、と今は何を信じていいのかわからない世の中になりました。
でもよく考えてください。人間のからだ、あるいは人間の精神は複雑な物理現象の集積ではあっても物理現象そのものではありません。インプットされたデータが同じであれば、必ず答えが同じになるブラックボックスではないのです。人間のすべての活動には「傾向」やなんらかの「法則」はあっても、必ず「揺らぎ」や「特異点(はずれ値)」を包含しています。ですから、人間が人間の活動を予測し、コントロールするためには「統計」というものを駆使する必要があるのです。つまり、人間活動は「平均値」や「標準偏差」でものをいうしかなく、そこでは残念ながら平均から大きく外れる値は無視されてしまいます。
しかし、人間は平均を大きく離れたものにとらわれます。「数百年に一度」の事象などはその典型です。一生に二度も経験することなどまずないにもかかわらず、「ゼロではない」などという言葉を聞かされると、その「数百年に一度」の事象がまたすぐにやってくるように感じます。そして、それにとらわれた人間の基準はもはや平均にではなく、平均から「はずれ値」にひっぱられたところに「標準」が移動します。今の「大地震神話」「原発事故神話」がまさしくそれです。しかも、それらの主張の多くは情緒性をまとっているため、「統計学的にいえば」などと説明しようものなら感情的な批判が返ってくること必至です。
昨日、一切のがん治療を否定するK先生がTV出演されたようです。私は見ていないのですが、この先生は我々の業界では恐ろしく有名なので、どんなことを主張していたかは想像できます。先ほども申しあげたように、医学は「平均」でものを言わざるを得ないのですが、K先生はいくつかのはずれ値を寄せ集めてものをいいます。しかも、自分の主義や主張に合ったはずれ値を、です。そして、その寄せ集めたものを情緒に包んで紹介するものだから素人はすっかり納得させられ、いくら周囲から「それは違う」と説明されても聞く耳を持たなくなります。そう、これは洗脳そのものです。
確かに、がん治療をしない方がいい場合もあるでしょう。しかし、あたかも「がん治療をしないことが標準」といわんばかりのK先生の主張に合理性はありません。よく考えてみてください。K先生に放射線治療の経験があるとしても、がんを外科的に治療したり、抗がん剤を駆使して治療をする専門家ではありません。「抗がん剤の治療で患者を死なせてしまった経験から治療に否定的になった」とTVで告白していたそうですが、もし本当に「(思いがけずに)死なせてしまった」のだとすれば、それは抗がん剤が悪かったのではなく、自分の能力を超える抗がん剤の使い方をしたことを反省すべきでしょう。
今の医学は膨大なデータを利用し、統計学によって適切な介入の仕方が決められています。どの程度のものを、どの薬によって、どう管理すれば目的を達成できるかを決め、これをガイドラインとしています。もちろん、この通りに管理してもうまくいかない場合もあります。このガイドライン通りにできないこともあります。でも、この標準的な方針があってはじめて統計学的に「意味のある管理」ができるようになります。以前は、医師の経験にもとづいて、医師の好みに応じた治療がおこなわれていました。今から振り返るとずいぶん乱暴だと思われる医療もあったのです。
とはいえ、医学も絶対ではありません。10年前に標準だった治療が否定されることもあります。しかし、その否定には明確な根拠がなければいけません。よもや、個人的な見解で否定されるべきではありません。根拠が希薄であってもいけません。今のような情報化社会ではセンセーショナルな情報は一瞬にして社会をかけめぐります。その分だけインパクトの大きさにひかれて誤った研究報告がなされたり、誤報や記事のねつ造がおこなわれます。この情報化社会に生きる私たちは、伝えられた情報が正しいものなのか、操作されたものではないのかに常に神経を使わなければなりません。
そうした中、それでも世の中のスタンダードや「常識」から外れるものを信じるというのであれば、それはもはや「宗教」です。血圧を下げる薬を飲みたくないというのであれば、それはそれでその人の信条でしょうから、その結果がどのようなものであっても本人が責任を負えばいいわけです。ただ、それは医学そのものではありません。ある種、個人的な信仰のようなものです。ただ、医療が悩ましいのは、高血圧を放置した結果として発症してしまった脳出血に莫大な医療費を費やさなければならないからです。医療が降圧剤の服用を進めるのは、防げるはずであった脳出血に費やされる医療費を抑制するためなのです。
それにしても、こうしたことすべてを自己責任の名のもとに知識も経験もない患者やその家族に判断させるというのは間違いです。私たち、プライマリ・ケア医の仕事はこうした情報提供にあるといっても過言ではないのですが、次から次へとカルト集団のような連中があらわれて患者の心を惑わせます。我々にはカルトのように思える主張であってもTVや書籍などで紹介されると権威性を持ちます。ましてや有名新聞にその記事がのればなおさら。そうなると患者はもはや我々の忠告には耳を貸しません。私はそんな頑なになってしまった患者を前にしたときは、いつも「信仰なのだから仕方ない」と思うようにしています。
思えば、健康のことだけではありません。放射能や原発事故のこともまったく同じです。理性的に説明して納得できる人はまだいいのですが、それでも特定の考えにとらわれている人になにを言っても無駄です。低線量の放射能の危険性はゼロじゃない。巨大津波が発生する可能性はゼロではない。原発事故がおこる可能性はゼロじゃない。統計学的な評価などに意味を感じていないからこそ出てくる言葉です。そうなるともはや宗教の世界です。信仰の自由はありますが、あくまでも他人に強要したり、他人を傷つけない範囲内でお願いしたい。なのにカルトまがいの人たちは世の中を巻き込まないではいられないらしい。
自分のことだけでとどまっていればいいのですが、ひとりでそっと信仰することがどうしてもできない人たちがいる。自分の信仰を広めたいのでしょうが、それは余計なおせっかいというもの。少なくとも責任あるマスコミにはその片棒を担ぐようなことはやめていただき、「裏のとれない記事は書かない」という大原則は守ってほしい(とまたマスコミ批判)。とはいえ、ここまで話しを広げると、私の考えと対立する人たちからは「おまえこそ洗脳されている」といわれそうですけど。