処理水のこと

皆さんは「False Reality(偽りのリアル)」という言葉をご存知でしょうか。それは人々の間で「現実のこと(リアリティ)」と思われていながら、実は単にそう信じられているだけ、あるいは思い込まされているにすぎないものをいいます。当然ですが、人間の認識には情緒が影響します。同じ映像を見ていても、BGMとしてながれている音楽が楽しいものか、悲しいものかによって、それぞれの人に「見えている情景」が違ってきます。そうしたことはたびたび経験することです。

BGMによって違った映像に見えることは経験的に理解できても、知らず知らずのうちに「現実(リアル)」と認識した「False Reality(偽りのリアル)」を自覚することは意外とむずかしいものです。あの東日本大震災直後の放射能の危険性に関するリアル、あるいは、新型コロナウィルスの感染拡大の恐ろしさに関するリアルがそれです。メディアによって誇張された「偽りのリアル」に翻弄された人は少なくなかったはずです。そして、自分が翻弄されていることを自覚していた人もほとんどいなかったかも知れません。

「恐ろしい放射能」から逃れるために引っ越しを考える人がいました。「殺人ウィルス」に感染しないよう自宅に引きこもる人もいました。その多くがメディアが伝える「偽りのリアル」を現実と思い込んでしまった結果です。「理性的に考えよう」と呼びかけても理性的になれない人はいるものです。それは情緒にながされる人であり、恐れるがあまりに現実に目を向けない人でもあります。そうした人たちはいとも簡単に扇動に乗せられてしまうのです。

TVばかり見ていた若いころと違って、今の私はメディアから流れてくる情報にいつも懐疑的です。「ほんとかなぁ?」とつぶやきながらTVを見ている私に家族は「すぐに否定から入るんだから」とあきれ顔。でも、それでいいのです。私はメディアが作る「偽りのリアル」に敏感でなければならない、マスコミ情報に飛びつく風潮には問題あり、と思っていますから。今はインターネットさえあればすぐに調べることができます。現代社会にあって情報リテラシーは不可欠な要素だと思います。

福島沖ではじまった原発の処理冷却水の放出問題もそうです。この処理水の放出に反対する人たちは、処理水に「トリチウム」という放射性物質が含まれていることを問題視しています。しかし、そのトリチウムがどのようなもので、どんな危険性が、どの程度あるかを理解せずに批判しているケースが少なくありません。中国ではこの処理水の放出をきっかけに塩の買い占めが起きているといいます。また、中国から日本に嫌がらせの電話が殺到しているとも聞きます。あきれるばかりです。

無知であるがゆえに空騒ぎするのも愚かなことですが、「処理水」を「汚染水」と言ったぐらいで揚げ足をとるようなマスコミの騒ぎっぷりもどうかと思います。あの冷却水が本当に「汚染されているもの」と思い込んでの発言なら批判されてしかるべきでしょう。しかし、単なる言い間違いに過ぎないのだとしたら、あのようなことはいちいちニュースとして報道する価値があるとは思えません。トリチウムのリアルを伝える、事実を淡々と伝えるという報道の本質をおろそかにしたいい例です。

トリチウム(三重水素)とは重水素とともに水素原子の放射性同位体と呼ばれる仲間です。トリチウムも重水素も、そして、水素も原子核のまわりに1個の電子がまわっています。違うのはその原子核を構成する中性子の数です。水素原子の原子核には中性子はありませんが、1個の中性子をもつものを重水素、2個のものをトリチウム(三重水素)と呼びます。トリチウムは自然界にも存在します。海水には無尽蔵のトリチウムがあり、これをあらたな核融合発電のエネルギー源として活用するための研究が進められています。

核融合と核分裂は違います。前者は原子と原子を衝突させて新たな原子を作るという反応。後者は原子を分裂させて新たな原子を作るという反応をいいます。その反応の際に莫大なエネルギーが発生します。原爆も現在稼働している原子力発電も後者の核分裂反応を利用しています。原爆は分裂しやすいウランなどの放射性元素を高濃度に濃縮し、核分裂の連鎖反応を爆発的に起こさせます。一方、原発は低い濃度のウラン燃料に核分裂の連鎖反応を徐々に起こして発電エネルギーに利用するのです。

それに対して核融合とは、原子と原子を超高温・超高圧のプラズマ状態に閉じ込め、衝突させて新たな原子を作りだすという反応をいいます。太陽の表面あるいは内部で起こっている反応がまさしくそれです。その核融合がおこる際に発生する莫大なエネルギーを発電に利用するのが核融合炉による原子力発電。トリチウムはその核融合に利用される放射性物質のひとつなのです。自然界では毎年7京ベクレルほどが生成され、地球上には約120京ベクレルほど存在していると推計されています。

自然界のトリチウムは酸素と結合した水という形で存在し、湧き水や雨水の中はもちろん、人間のからだの中にも存在しています。からだの中に蓄積することはありません。常に排出されてはあらたにからだに取り込まれるという循環を繰り返しているのです。原子炉が破壊されて放射性燃料がむきだしになった福島原発の冷却水には多種多様の放射性物質が含まれています。その冷却水をALPS(多核種除去設備)を使って処理をしているのですが、トリチウムだけは技術的に除去できません。

除去できないトリチウムを含む処理水をさらに薄めて海洋放出しようというのが今回の問題。しかし、その濃度は日本の安全基準の40分の1であり、WHOが定める飲料水の基準濃度の7分の1程度です。理論的には飲料水にしてもよいほどに薄めてあるのです。すると「飲めるのなら飲んでみろ」と言う人がいます。そんな単純で短絡的な人に私は言いたい。「尿だって飲めますが、あなたは飲みますか?」と。ちなみにトリチウムは食品の安全基準を定めた規制対象物質ではありません。

日本の国内外には、そうした科学的事実を知ってか、知らずか、大騒ぎをしている人がいます。福島県沖の処理水放出場所近海の海水のトリチウム濃度ですら「検出限界以下」であるのに、韓国や中国沖の海の問題になるはずがないことはちょっと考えればわかるはず。あれだけ薄めた処理水を海洋に放出して福島県沖で取れた魚介類にトリチウムが検出されるはずもありません。日本の海産物の輸入を止めたり、日本への旅行を取りやめたりと言った大騒ぎには少なからずメディアの報道にも責任があります。

1972年のロンドン条約で放射性物質の海洋投棄が条件付きで認められました。そして、これまで欧米を中心に、中国や韓国ですら低レベルの放射性廃棄物の海洋投棄がおこなわれています。その投棄量は日本のそれをはるかに凌駕するものなのです。日本は諸外国にくらべて低レベルの放射性廃棄物でさえ海洋投棄に対してはかなり慎重でした。そして、今回の冷却処理水の海洋放出に際しても、日本の対応と配慮にはIAEA(国際原子力機関)のお墨付きもあり、日本人として胸を張っていいほどです。

扇動に乗せられてはいけません。火をつけてまわる人たちの行動の裏になにがあるのかに敏感になるべきです。これまでを振り返っても、マスコミが煽ってきたことの多くに「真実」は決して多くありませんでした。マスコミが流す「偽りのリアル」に振り回され、社会が騒然としたことの結果がどうだったか。「新型コロナの対応」しかり、「放射能の危険性」しかり、「’ 戦争法案 ’の恐ろしさ」もしかり。あの80年前のアメリカとの戦争だってそうです。世の中の流れに乗せられて空騒ぎしたことへの反省がない人が多すぎます。

処理冷却水の問題に関しては、日本人はおおむね冷静に対応しています。一部の国々の人の、無知から来る過剰反応だけが目立っているかのようです。国際社会には問題が山積です。ウクライナ戦争のリアルはいったいどんなものなのか。台湾のリアルがこれからどうなっていくのか。積極的に関心をもちながら、自分のあたまで「リアル(現実)」を感じ取ろうとする必要があります。真のリアルは懐疑的に見て、考えることから徐々に明らかになってきます。情緒にたやすく流される「軽薄な烏合の衆」にならないようにしたいものです。

※右上の検索エンジンで「放射能」「コロナ」などで検索するとこれまでの記事をお読みいただけます

琴線にふれる街

以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

************ 以下、本文

「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。

恐怖は突然やってくる

昨日は雲がたれこめ、ときに激しい雨が降るなど、全般的に天気がよくなかったせいか、いつになく過ごしやすい一日でした。しかし、今日は一転して朝から「じりじりと太陽が照りつける」という表現がぴったりの好天気。気温もぐんぐんあがって、冷房の効いた部屋から外に出ることができません。天気予報も「不要不急の外出は控えて下さい」とコロナ流行のとき以来の表現で注意を喚起しています。

こういう季節に注意しなければならないのは熱中症。私はこれまで三度の熱中症を経験しました。しかも、それなりに重症な「熱疲労」と呼ばれる中等度の熱中症になりました。そのときの経験談についてはこれまでもなんどかこのブログで記事を書いてきましたが(右の検索エンジンにて「熱中症」で検索してみてください)、ここでは私自身の経験をふまえて要点だけを繰り返します。

1.「滝のような汗」は黄色信号

三回の経験ともに、「滝のような汗」が熱中症の前触れになりました。暑いときの「滝のような
汗」はむしろ気持ちがいいものです。しかし、それが大変な落とし穴。そのまま「滝のような汗」
をかくままにしていると、次のステージに重症化が進みます。なぜなら体から大量の水分と塩分
が失われるからです。水分と塩分は血圧を維持するための重要な要素。取り過ぎれば血圧があが
りますが、失えばさがります。高血圧の人は「塩分控えめ」を心がけていると思いますが、さす
がに「滝のような汗」をかいたあとは水分と多少の塩分を補給する必要があります。

2.突然襲ってくる強い脱力感

「滝のような汗」のままにしていると、突然、強い脱力感に襲われます。この脱力感は、私のよ
うにそれなりに若いと思っている人間でも立っているのがむずかしいほどのもの。その場で横に
なりたくなります。あるときの経験では、10メートルほど先に自宅の玄関が見えているのに
「はたしてたどり着けるだろうか」と不安になるほどの脱力感でした。なんとか玄関までたどり
着き、ドアを開けると倒れ込むようにして中に入りました。ようやく玄関に入れた私ですが、
冷房の効いた部屋まではって行かなければならないほどです。おそらく、畑で熱中症となって亡
くなった高齢者は、きっと「まだできる」「あそこまでやってしまおう」と滝の
ような汗をぬぐ
いながら作業をし、突然襲った強い脱力感にその場でへたりこんだのでしょう。炎天下でそうな
ったらもう立ち上がれないはず。突然襲ってくるこの脱力感はとても恐ろしいものなのです。

3.対処は「冷却、水分と塩分の補給」

脱力感だけではありません。軽く嘔気も感じ、心なしか意識がもうろうとしているようにも思い
ました。家内に冷えた水分と多少の塩分を補給すべくもってきてもらいました。家内の表情を見
上げると、「医者のくせに何してるの」と思っているかのようなあきれ顔。確かにそうなのです。
以前、日光でも同じような熱中症になっていましたから。さすがにそのときは自分の体力を過信
していることを実感しました。ですから、熱中症は体力はもちろん、年齢にも関係ありません。
先日も部活帰りの中学生が熱中症で亡くなりました。水分の補給はしていたとのことですが、
おそらく塩分の補給がなかったため、自宅への帰り道に自転車をこぎながら大量の汗で塩分を
さらに失って重症の熱射病になってしまったのだと思います。ほんとうに可哀想でした。

4.蒸し暑さにも要注意

日光で熱中症になったときは、森の中でしたから気温はさほど高くはありませんでした。そのか
わり湿度が高かったのです。湿度が高いと汗が蒸発しないので体を冷やすことができません。
そうなるとさらに汗が出るという悪循環になります。日光ではもう少しで目的場所であった徳川
家康のお墓にたどりつくところだったのにその直前で石畳の上に倒れるようにダウンしてしまい
ました。幸い、日差しは強くなく、石畳が冷えていたことが功を奏してしばらくすると回復しま
したが。「室内にいても熱中症」というのはこのような湿度の高さが原因です。

 

【結論】

●「気温の高い環境」と「湿度の高い環境」を避けること

●「滝のような汗」は赤に近い黄信号。すぐに涼しい場所で水分と塩分の補給を。

● 恐ろしい「強い脱力感」は突然にやってくる。意識がもうろうとするときは赤信号。

● 熱中症予防では水分補給だけではだめ。必ず塩分の補給を。高血圧の人も例外ではない。

● 熱中症予防は「うすめた味噌汁」あるいは「うすめたスープ」。「OS-1」でもよし。

  → 冷やしたものを補給しよう。早め、早めに補給すること。

  → まずい「OS-1」も「青リンゴ味」なら飲みやすい(当院の隣の薬局にあります)

  → ポカリスエットなどのスポーツドリンクは糖分が多いのでだめ(薄めれば可)

理想の上司

ときどき「理想の上司は?」というアンケートを見かけます。その回答では歴史上の人物が挙げられたり、ドラマの登場人物や芸能人の名前が出てきたりとさまざまな「理想の上司」が登場します。実際に存在する(した)人かどうかはともかく、「理想の上司」とされた人たちにはある特定のイメージができていることがわかります。そして、アンケートがおこなわれた当時の人たちがどんな人物を求めていたのか、また、そのときの時代背景がどのようなものだったかがわかって面白いものです。

私自身、これまで何人かの上司のもとで働いて来ましたが、「理想の上司」といえる人にはなかなか出会うことはありませんでした。むしろ、その上司を物足りなく思ったり、ときにはそれらが無能さに感じられて愚痴ばかりこぼしていたように思います。とはいえ、よくよく考えてみると、現実の世界には「理想の上司」などおらず、「上司」とはそもそも部下が不満を感じる存在であり、煙たがられるような存在なのかもしれません(私自身が今「上司」になってみてそう感じます)。

とはいえ、「もし、あのとき『理想の上司』がいたら、もっといい仕事ができたかもしれない」と思ってしまいます。そんな私にとってNHKドラマ「男たちの旅路」に出てくる「吉岡司令補」は「理想の上司」のひとりかもしれません。吉岡司令補は特攻隊員の生き残り。戦争の傷跡を心に残しながら、若者を前に「俺は若い奴が嫌いだ」といってはばかりません。このドラマが放映されていた頃、私はその「嫌われる若者」の一人でした。そんな私が吉岡司令補に魅力を感じるのはなぜなのでしょう。

ドラマ「男たちの旅路」の第一部の一話「非常階段」のときの吉岡司令補が一番格好よかったと思います。司令補の警備会社にはさまざまな若者がガードマンに応募してきます。吉岡司令補はある日、新人ガードマンの研修の視察に訪れます。そして、ガードマンという職業を甘く見ている新人たちに、少し手荒い方法でその「現実」を教えようとします。そんな吉岡に反発する若者と、司令補の能力は認めながらも彼のやり方に批判的な部下。彼を理解し、温かく見守るのは吉岡と同じ特攻隊員だった社長だけでした。

その吉岡司令補のもとに、あの研修で一番反発していたふたりの若者(柴田と杉本)が配属されます。仕事の内容は、自殺の名所となってしまったビルの警備。司令補に反感を持ちながらも、なぜか彼のことが気になる柴田は定刻通り、指示通りに警備につきます。一方、杉本はすべてにおいて吉岡のやり方に反発し、指示された通りに警備しようとしません。三人の心のすれ違いが大きくなる中、自殺願望をもった若い女性がビルに侵入してしまいます。三人は女性を必死に探し、ついに彼女を屋上で発見します。

三人をからかうように「自殺させて」とゴンドラを揺さぶる女性。なんとか自殺を思いとどまるように説得する司令補。「そんなに死にたきゃ勝手に死ね」と叫ぶ柴田。吉岡はそれに首を振って言います。「それはいかん。君を死なせるわけにはいかない。それが我々の仕事だからだ」。杉本はその吉岡に「こんなときにそんなずれた話しなんかするな」と怒鳴ります。ゴンドラから落ちそうになった女性に飛びつく吉岡。彼はなんとか女性を助けますが、涙ぐみながらその彼女をなぐりつけるのです。

私は「俺は若いやつが嫌いだ」という吉岡にも、自殺から救った女性をなぐりつける吉岡にもなにか愛情のようなものを感じます。若いころの私はどちらかというと柴田に近い青年だったかもしれません。吉岡司令補のやり方に否定的ではあっても、「吉岡がそうするのにはなにか理由があるはずだ」と感じていたのが柴田だったのではないかと今の私は思います。杉本もその後、徐々に吉岡に惹かれるようになり、その後一番の理解者になっていきます。そうした魅力をもつ人が「理想の上司」かもしれません。

もうひとり思い浮かぶ人がいます。それはドラマ「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵です。平蔵は実在する旗本の三代目。幼名は銕三郎(てつさぶろう)といいました。平蔵は自分の母親が誰かを知りません。そのためか、若いころは酒に溺れ、悪道たちと喧嘩に明け暮れる毎日。巷では「本所の銕(ほんじょのてつ)」として知られた暴れん坊でした。しかし、他の旗本たちとは異なり、火付盗賊改方となった平蔵は与力や同心などの部下たちと酒を酌み交わし、町方がとらえた盗人らに食事を振る舞ったりしたそうです。

ドラマ「鬼平犯科帳」の第一シリーズには第四話「血頭の丹兵衛」という回があります。このときの話しは人間・鬼平の面目躍如ともいえるものです。是非一度観ていただきたいのですが、とくに最後の峠の茶屋でのシーンは秀逸です。かつて血頭の丹兵衛という盗賊に仕えていた粂八。彼は若いころ「犯さず、殺さず、貧しきものからは奪わず」という丹兵衛の掟を破り破門になります。しかし、その丹兵衛が今では急ぎ働き(皆殺しにして手っ取り早く金品を強奪すること)を繰り返しているとの噂を耳にします。

市中では血頭の丹兵衛たちによるものとされる押し込み強盗が次々と起こっています。しかし、長谷川平蔵たち火盗改もその犯人を捕まえられずにいました。そんなとき、牢屋に収監されていた粂八が折り入って平蔵に話しがあると申し出ます。「あの急ぎ働きは丹兵衛の仕業ではない。本当の丹兵衛ならあんなむごたらしいまねは絶対にしない」というのです。そして、「丹兵衛の無実を晴らすため釈放してほしい」と頼みます。周囲が反対する中、鬼平は粂八を牢から解き放つことにします。

粂八の手柄で急ぎ働きの犯人一味が静岡の島田宿で捕まります。その江戸への帰途、平蔵と粂八は峠の茶屋でかつての大物の盗賊と出会います。その老人はすでに盗みからは足を洗っており、「近ごろのむごたらしい殺しや盗みがみんな丹兵衛どんの仕業になっちまって気の毒でしょうがねぇ」と嘆くのです。そして、粂八に「忘れるなよ。犯さず・殺さず・貧しきからは奪わず、だ」と去って行きます。その後ろ姿を見ながら平蔵はしみじみと言います。「おめぇのでぇ好きな血頭の丹兵衛は生きていたなぁ」。

火盗改の諜者(スパイ)になるかどうか迷う粂八。その彼に平蔵は言います。「俺の下で働くってことは、仲間をお上に売ることだ。裏切り者と呼ばれ、犬だとののしられ、正体がばれれば殺される。どこをとったって割にあう話しじゃねぇやな。俺と仕事をする気になったら江戸に尋ねて来い。そうでなけりゃ二度と俺の前に面出すな」。粂八はその言葉に諜者になる決心をします。それはまさしく鬼平の力強さと優しさ、厳しさと義侠心を感じてのことでしょう。リーダーはかくあるべきという見本です。

私は吉岡司令補のように厳しくなれませんし、長谷川平蔵のような包容力の持ち主でもありません。人の上司として働くようになると、人を動かし、使っていくことの難しさがわかります。誰からも好かれる人間が必ずしも魅力的な上司とはなりませんし、「聞く耳」を持っていても部下の言うとおりにしか動くことができず、自分のあたまで考え、想像力を働かして決断を下せない上司は、実は無能なばかりか、組織にとってむしろ有害だという事例があります。皆さんも改めて「理想の上司」について考えてみてはいかがでしょうか。

 

最大多数の最大幸福

最近、我孫子や柏を中心に、新型コロナに感染している人がにわかに増えてきたように感じます。当院に「風邪症状があるがどうしたらよいか」と相談の電話をかけてくる人の数も増え、そうした人たちの症状やそれまでの経過を聴いても、多くが新型コロナに感染したことを想像させるものになっています。そんなことを書くと、急に不安な気持ちになって、一刻も早くワクチンの追加接種をしたくなるかもしれません。それが人情ってものでしょうがあわてないで下さい。

新型コロナウィルスの感染拡大がはじまってからというもの、繰り返し、しつこいくらいに、なんどもなんども書いてきたように、できるだけ冷静に、可能な限り理性的に行動をしなければいけません。なにが正しくて、なにが間違っているのかを自分のあたまで考えようとする努力が必要です。「誰々が言っているから(正しい)」もダメなら、「みんなが言っているから(正しい)」もダメ。マスコミが必ずしも「正しい情報」をながしているわけではないこともご承知の通りです。

「COVID-19」と呼称されている新型コロナウィルスの感染例が中国の武漢から報告されたのが2019年の秋。その翌年から感染は一気に拡大し、教科書の中だけでしか知らなかった「パンデミック」という現象をまざまざと見せつけられました。発生源である中国国内の感染状況はもちろん、中国人移住者が多かったヨーロッパ各国での感染者数は爆発的に増加し、とくにイタリアでは人工呼吸器の絶対数が不足したため、人工呼吸器は若年者に優先して装着する措置がとられるほどでした。

衛生学の先進国と思われていたイギリスでは、まだ感染拡大の途上にあった2020年3月の時点で早くも「集団免疫」という対応策が検討されました。これは「集団の60%以上に感染が成立すると感染は収束する」という学説です。この学説に頼らなければならないほど、イギリスは新型コロナウィルスの感染拡大に追い詰められていたともいえます。しかし、集団免疫となれば相当数の人たちが感染して死亡する、というリスクを容認しなければなりません。さすがのイギリスでも大きな議論を呼びました。

結局、世論の激しい反発もあって、実際に集団免疫に舵を切ることはありませんでした。今思うと、もし感染を終息させるために集団免疫を狙っても、やがて出現する変異株によってその効果は相殺されていたに違いありません。そして、繰り返し出現する変異株にその都度対応を余儀なくされたはず。「ワクチン接種ー感染の終息ー感染の再燃ーワクチン接種」を今も繰り返している現状を見れば、相当数の犠牲者を容認しなければならない集団免疫はあまり効果的なものではなかったかもしれません。

とはいえ、全国的に見ればまだまだ感染は落ち着いています。冒頭に「我孫子や柏で感染者が増えているかも」と述べましたが、それでも「重症になっていることを疑う患者はほとんどいない」と言っていいでしょう。それは多くの人がワクチンを接種してきたからであり、また、現在もワクチンを打ち続けているからです。もちろん、ウィルスの毒性そのものが、遺伝子の変異を繰り返すうちに低下しているからかもしれません。いずれにしても今の感染状況は以前のそれとはあきらかに異なります。

現時点で新型コロナに感染したことを疑う症状としては、「比較的強い咽頭痛」と「突然出現する高熱」があげられるでしょう。そのような症状を訴える患者に検査をすると、かなりの確率で「COVID-19 陽性」となります。だからといって、咽頭痛や高熱がなければ「新型コロナの感染ではない」とはいえません。風邪程度だろうと高をくくって総合感冒薬を服用して働いていたが実は「陽性」だった、という人も少なくありません。それはワクチン接種のおかげで軽症で済んだにすぎないケースだと思います。

以上のように、新型コロナに対するワクチン接種の重要性も、感染したかどうかを検査する価値も、あるいは医療機関に受診する必要性も、以前とはずいぶん異なった状況にあります。そのことを考慮せずに、以前と同じように「怖い、怖い」と大騒ぎをし、相変わらず過剰な対応をとろうとする人のなんと多いことか。重症者がきわめて少ない今、「新型コロナに感染したかどうか」はそれほど問題ではありません。「他の人に感染させないように配慮すること」がなにより大切です。

そうした背景もあって、当院では風邪症状を訴える人にはできるだけ来院患者の少ない時間帯に受診するように誘導しています。それは患者さん達を新型コロナウィルスから守るための工夫です。事前に連絡せずに直接来院する風邪症状の患者さんもいます。そうした人たちについては、待合室ではなく、第二診察室やレントゲン室、あるいは廊下の椅子で待っていただいています。それを不愉快に思う人もいるかもしれませんが、他の一般患者を新型コロナウィルスから守るためとしてご理解いただいています。

一方、軽い風邪症状を訴えるだけの方には「自宅で経過観察をしてください」とお願いすることがあります。患者さんご本人は「早めに治したいので薬がほしい」ということなのかもしれません。でも、新型コロナであれ、従来の風邪ウィルスであれ、そもそもが「早く治すための薬」などないのです。不快な症状を軽減するお薬を処方するのみです。ですから、「この症状で薬が必要?」と思われるケースについては「このまま自宅で様子を見て、明日またご連絡ください」とお話しします。

でも、こうした対応に納得してもらえないことも少なくありません。「なぜ、今、診てもらえないのですか」と怒り出す人もいます。「すぐに薬がほしい。明日は会社にいかなければならないんだよ」。そうお考えになっていることも理解はできます。しかし、薬を服用する必要性があまりない場合、できるだけ自宅で経過を見てほしいのです。これもクリニックに来院する一般の患者さんを新型コロナから守るため。つまり、軽微な風邪症状の人とそうではない患者とを不必要に接触をさせない工夫なのです。

そもそも風邪症状が出て間もない頃では新型コロナに感染しているかどうか判断できません。今は平熱(微熱)だがこれから高熱になりそうなケースもあります。そのような場合は経過観察が必要です。すでに高熱になっている場合であっても、発熱して間もない場合はしばらく経過を見てから受診していただく方がいいのです。なぜなら重症度判定は高熱がどのように推移するかを診なければ判断できないからです。抗原検査も熱発直後に検査するのは正確性という点であまり望ましいことではありません。

「風邪薬は早めに服用してはいけない」と繰り返してきたせいか、その指示を守って受診される方が徐々にふえてきました。たとえ熱が出ても、ワクチンを接種した人であれば二日ぐらい熱が続いたのちに急速に回復する場合が多いように思います。もちろんそうした方に総合感冒薬や解熱剤は不要です。とはいえ、「風邪薬を飲みながら会社(学校)に行っていました」という人はまだいて、検査で「陽性」が出てはじめて自分が感染拡大の一因になっていることに気が付くのです。

ワクチンに対するネガティブキャンペーンはだいぶ減りました。「新型コロナのワクチンはこれ以上もう打たない」という人もいます。でも、それでいいと思います。今や新型コロナのワクチンを接種するか否かは自己責任の範囲で決めればいい状況になっているからです。ワクチンの接種にはリスクがともないます。ワクチンという「異物」を体内に接種する以上、それなりの副反応が起こるのは想定内のことなのです。副反応に対する過剰な報道によってワクチン接種が中止された歴史から学ぶべきことはあります。

その代表的なものが、MMR混合ワクチンと子宮頸がんワクチンです。MMR混合ワクチンとは「おたふく・風疹・はしか」に対応するワクチンのことですが、接種後に髄膜炎になる子どもがいることが問題視され、1993年にその定期接種が中止されました。また、1998年には「MMR混合ワクチンが自閉症の原因になる」というねつ造論文も発表されました。しかし、このワクチンが社会問題化し、接種が中止されたことで感染が流行しやすい土壌を作ってしまいました。そして、その影響は今も続いています。

子宮頸がんワクチンもまた同様の経緯をたどりました。その副反応がことさらに強調され、2013年からつい最近まで接種が中止されていたのです。その間、本来であれば同ワクチンを接種できたはずの当時小学校六年生から高校一年生の女子児童・生徒が接種できなくなりました。結局、この副反応は「問題なし」と判断され、そのワクチン接種事業は現在再開されています。このワクチン接種が中止された影響で、それまで低下していた子宮頸がんの原因ウィルスへの感染率が再上昇しています。

ワクチンの副反応を大騒ぎするのもマスコミなら、接種中止によってウィルスへの感染率が上昇したと騒ぐのもマスコミです。そして、そうした情報にいちいち翻弄される情報リテラシーに欠ける一般の人たちもいます。こうした愚かなことが繰り返されるのは、ひとえに理性的に報じられない情報の送り手と、それを自分のあたまで考え、判断しようとしない受け手の問題だから。と同時に、社会正義の名の下になにかあればすぐに責任を追及し、社会的な制裁を加えようとする世の中の風潮にも原因があります。

最近の社会には「寛容さ」がなくなってきたと思います。なにかの問題が起ると、すぐに責任追求という「集団リンチ」がはじまります。最近、日本でも多様性の重視がことさらに強調されるようになりました。そのような社会には寛容さが求められるはずです。しかし、その実態は「多様性を重視しろ」と法律でせまり、それを人々に強制することのように思えてなりません。でも、多様性や寛容さを人々に強制する社会そのものに多様性や寛容さはあるでしょうか。そうした矛盾にどのくらいの人が気づいているでしょう。

世の中を見渡すと「責任をとれ」と他人に迫る人が自分の責任には無関心という事例をしばしば見かけます。そんな傲慢さが支配する独善的な社会の「正義」は欺瞞にすぎません。ワクチン接種を強制することと同様に、ワクチン接種を妨害することにも「正義」はありません。その一方で、社会の状況によっては各人の自由意志にまかせることが「正義」ではない場合もあります。社会としての「最大多数の最大幸福」を実現するため、いかにしてバランスをとっていくか。この一点に知恵をしぼることが大切なのです。

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軽薄な理想主義

以下の文章は、当ブログを愛読していただいている洋子山根コリンズさんが主催する「短歌通信」に掲載していただいたものです。洋子さんのご許可をいただいて掲載いたします。

***************** 以下、本文

かつての私はどちらかというと左翼的な思想の持ち主でした。高校生のときは「天皇は国民の人気投票で決めたらいい」と友人にうそぶいていましたし、日本の伝統や文化はおろか、日本の歴史にすら関心がありませんでした。むしろ、戦前・戦中の日本を、先の大戦で植民地の拡大をもくろみ、アジア諸国を侵略した恥ずべき戦犯国家だと思い込んでいたといっても過言ではありません。

若いときはテレビばかり観ていました。とくに、ドラマやドキュメンタリー、報道番組などが好きでした。「マスコミからの情報は正しい」と信じて疑っていなかったのもこの頃です。フィクションのドラマの中での出来事を実際にあった事件と錯覚するときすらありました。それほどまでに当時の私の価値観に影響を及ぼしていたのがマスコミから流れてくる情報だったのです。

戦時中の日本を批判的に描くドラマを昭和ひとけた生まれの母と観ていたときのことです。そのドラマにいたたまれなくなったのか、母は「昔の日本はこんなにひどい国じゃなかった」とポツリと言いました。私は「戦前の教育に洗脳されている連中ときたらまるで反省がない」と思ったものです。リアルタイムの戦前・戦中を知る両親よりもテレビの世界を私は妄信していたのです。

三島由紀夫の有名な一節があります。

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。(果たし得ていない約束ー私の中の二十五年:1971年より)

三島が自決したのは私がまだ小学生のころ。盾の会を率いて「来たるべきとき」に備えて軍事訓練をする三島が、幼い私の目には「兵隊ごっこをする大人」としか映っていませんでした。しかし、その数年後、三島はまるで戦国時代の武士が現代によみがえったかのように切腹して自らの命を絶ちました。そのギャップに子どもながらに強い衝撃を受けたことを今でも覚えています。

三島の足跡をたどってみると、幼いときから病弱で、徴兵検査にも合格できなかったことが彼の負い目となり、そのことが戦後の彼を変えていったことがわかります。青年期という多感な時期に戦前と戦中を過ごした三島が、敗戦を契機に変わっていく日本をどう見ていたのか。「究極のリアリスト」でもある三島由紀夫が書き残した憂国の短い文章は多くのことを語っています。

三島が「究極のリアリスト」だとすれば、先日亡くなった大江健三郎は「軽薄な理想主義者」に見えます。彼は天皇制に批判的な立場をとり、平和と反戦を叫びながらも中国の核実験を擁護しました。三島とは対局にいるかのような大江健三郎という知識人は、リアリストたろうとしながらも結局は理想主義、個人主義の枠を超えることができなかった人物だったようです。

ロシアとウクライナの戦争が続いています。しかし、その戦争にいたるまでの経緯を知らない人が少なくありません。ウクライナは、ロシアから欧州に向かうパイプラインの中継基地として重要な位置にあります。そして、その石油や天然ガスの利権にアメリカ企業が関与し、ウクライナをこれまで翻弄してきたのです。今の戦争にはアメリカの国際戦略が少なからず影を落としています。

とはいえ、ウクライナがロシアに負ければどうなるかがまるでわかっていない人が多すぎます。その歴史的背景がどうであれ、武力による侵略を受け、国境が力ずくで変更された国家は必然的に崩壊します。いつしか世界史から消えていくのです。これまでの世界史が繰り返してきたその恐ろしさをリアルに感じとることができない日本人が少なくないのはなぜでしょうか。

知識人と呼ばれる人たちは、安全な場所に身を置きながら「命は地球より重い」と叫びます。しかし、「人間の尊厳はときに命よりも重い」という側面にも目を向けるべきです。ウクライナを守るために戦っている人々ははたしてなんのために命をかけているのでしょうか。国際法を破って隣国を侵略した国家を暗に容認してしまうような平和主義は真の平和主義とはいえません。

脱原発というムーブメントもそうです。安全保障を無視したエネルギー政策はありえないはずです。また、放射能への恐怖心に翻弄されるあまりに、原子力に代わるはずの化石燃料が多くの人の命を奪い、地球の温暖化に拍車をかけている事実に目をつぶってはいけません。現時点で、太陽光発電であれ、水素燃料であれ、総じて原発を完全に代替するものにはなりえないのです。

福島原発事故の際、原発の再稼働問題について坂本龍一は「たかが電気のこと(で放射能の危険性を無視することはできない)」と発言しました。その彼はヘビースモーカーとして知られています。しかし、タバコの煙にはポロニウムという毒性の強い放射性物質が含まれており、一日三十本の喫煙をする人は年間で八十ミリシーベルトの被爆をしているともいわれています。

彼の音楽活動において大量の電気は欠かすことはできません。つまり、あの坂本龍一にとっても電気は「たかが」と呼べるほど些細なものではないのです。また、タバコが原因とも思える中咽頭癌に苦しんだ彼は、皮肉にもその治療に放射線療法を選びました。私は彼に電気を使うな、放射線治療をするなと言っているのではありません。現実を無視した彼の理想論を批判的に見ているだけです。

社会のリアルはもっと厳しいものです。そのような現実に目をつぶって理想論を叫ぶのは簡単です。私が大江健三郎や坂本龍一たちを「軽薄な理想主義者」と呼ぶのはそのためです。日本のアニメを牽引する宮崎駿もまた同じ。あれだけたくさんのタバコを吸い、周囲に副流煙の健康被害をおよぼしているかもしれないのに、「原発に反対」とはあまりにもご都合主義すぎます。

ながながと書いてしまいましたが、アメリカのBLM運動に端を発し、ウクライナ戦争にいたる世界規模の社会の分断と不安定化は、台湾をめぐる中国の覇権主義によってさらに深刻な対立と混沌に突き進んでいく様相を呈しています。今こそ「軽薄な理想主義」を克服し、厳しいリアルと対峙しながら行動する勇気が必要なのではないか。多くの人にそれに気づいてほしいと願ってやみません。

 

天皇誕生日(2)

 

****************「天皇誕生日(1)」から続く

終戦当時、多くの英霊が祀られていた靖国神社を取り壊し、ドックレースの会場にしようとする案が持ち上がっていました。敗戦後、少なくない日本人も天皇や皇室の廃止を、そして、靖国神社の解体を叫びました。皇室などいらない、国家神道が日本を戦争に導いたのだ、ということなのでしょう。しかし、国のために命を落とした日本兵たちの魂をなぐさめる靖国神社を守ったのは、実は日本人ではなく、他ならぬローマ教皇庁の神父達でした。「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に敬意を払う権利と義務がある。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等でなければならない」。今の日本人に大きく欠ける部分です。

極東国際軍事裁判(通称、東京裁判)で敗戦国日本の弁護をしたベン・ブルース・ブレイクニー少佐のことも忘れてはいけません。彼はアメリカ陸軍の現役軍人でした。勝った国が負けた国を裁くこの裁判は、いわば日本に戦犯国としての烙印を押すための形式的なものにすぎませんでした。ですから、日本人被告を担当する外国人弁護士の仕事ぶりは必ずしも誠実といえるものではありませんでした。裁判が単なる形式的なものであることを悟って帰国した者もいれば、手にすることのできる報酬額を聞いて「そんな額では引き受けられない」と帰国する弁護士もいたほどでした。

東京裁判は「法と正義」という弁護の核心とはまるで無縁であるかのような裁判でした。しかし、ブレイクニーをはじめとする何人かの弁護士達は、つい最近まで敵国の指導者だった人間の弁護のために法律家の名に恥じない活躍をしました。そして、祖国であるアメリカの陸軍長官が原子爆弾の使用を許可した証拠までをも提出しようとしたのです。原子爆弾は非戦闘員である一般市民を標的にする国際法違反の兵器だということの根拠でした。「原爆が国際法に違反するかどうかはこの裁判には無関係である」と却下しようとした裁判長。ブレイクニーらはそうした「不公正」と激しくやりとりをしたのです。

もしアメリカが国際法に違反する兵器を使用したとなれば、日本にはそれに対して報復する権利がある、というのがブレイクニーの主張でした。また彼は、日本が戦争の回避に努力したことも立証しようとしました。しかし、連合国側検事の主張は「日本が侵略戦争をしたという事実が本裁判の論点であり、回避しようとしたかどうか、最後通牒が遅れたかどうかは関係ない」と主張しました。それは、その弁論の過程で、1941年の11月末の時点でアメリカの大統領をはじめとする首脳部が、日本が戦争を企図していることを予測していたのがあきらかになったためでした。

ブレイクニーはさらに主張します。「戦争は犯罪ではない。歴史を振り返ってみても、戦争の計画やその遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。検察はこの裁判であたらしい法律を打ち立てようとしている。平和に対する罪は当法廷によって却下されなければならないのだ」、「国家の行為である戦争に対する個人の責任を問うことは法律として誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは戦争が合法的だからである。つまり、合法的な人殺しとしての殺人行為は正当化されるのである」と。その主張は理路整然として一貫していました。彼の精神は「法と正義」そのものだったといえます。

次の陳述はあまりにも有名です。「キッド提督の死に真珠湾攻撃にともなう殺人罪が問われるなら、我々は広島に原爆を投下した実行者の名前を列挙することができる。原爆の投下を計画した参謀長の名前も知っている。その国の元首の名前すらも、である。しかし、彼等が殺人罪を意識していただろうか。いや、していまい。それは彼等の戦闘行為が正義で、敵のそれが不正義だからではない。戦争自体が犯罪ではないからだ。原爆の投下を計画し、実行を命じ、これを黙認した者がいる。そして、その者たちが裁いているのだ。彼等も殺人者ではないのか」。この言葉に日本人被告はどれだけ励まされたことでしょう。

東京裁判で弁護団は一貫して「この戦争は日本の自衛戦争だった」と主張します。しかし、連合国側は、「戦争主導者たち」を「平和の罪」と「人道の罪」という事後法(違法でなかった行為を、のちになって処罰するためにあらためて定めた法令)で裁きました。とくに「人道の罪」は、マッカーサーが真珠湾攻撃を「殺人に等しいもの」として追加させた罪状です。その一方で、ニュルンベルク・極東憲章にあった「一般住民に対する」という文言が削除されました。それは一般人を標的にした空襲や原爆投下を正当化するためともいわれています。結局のところ、最終的に7名の被告が死刑になりました。

そんな連合国側の、とくにマッカーサーの復讐劇ともいうべき東京裁判で、死刑の執行はあえて当時の明仁皇太子の誕生日にされました。しかも、被告の遺体は秘密裏に火葬され、その灰は家族にも知らされないまま横浜沖の太平洋上で散骨されました。そうしたことは一切報道されないまま、マッカーサーは戦後の日本が奇跡的な復興を遂げる「恩人」になっていきました。彼が日本を去るとき、沿道にはたくさんの日本人が別れを惜しむために押しかけたといいます。連合国最高司令官として彼が過ごした5年間は、昭和天皇の威厳と日本人の民度の高さに圧倒された期間だったに違いありません。

アメリカに戻ったマッカーサーは、1951年5月3日に米国議会上院の外交軍事合同委員会で次のように証言しました。「彼らは工場を建設することもでき、労働力を有してもいた。しかし、基本的な資材を保有していなかった。日本には蚕を除いて国産の資源というものがほとんど何もなかったのだ。欠乏していた多くの資源はすべてアジア海域に存在していた。もし、これらの供給が断たれれば、一千万人以上の失業者が生まれるということを日本は恐れていた。すなわち、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのである」。日本人として涙がでるような言葉です。

マッカーサーがこのように証言したのも、彼が「日本で最上の紳士」と評した昭和天皇との出会いが大きく影響したに違いありません。「自分はどうなっても構わない。どうか日本国民が飢えないようにしてやってほしい」という陛下の思いがマッカーサーの胸を打ったのかもしれません。その一方で、GHQは皇室と財閥が戦争遂行を支えたとして、それらを解体するために財産法を根拠に莫大な課税をかけました。当時の所有財産に対して90%を超える税率が課される大変厳しいものでした。11宮家が臣籍降下(皇籍を離れて一般国民になること)を余儀なくされた背景にはそうした経済制裁が関係していました。

終戦時の天皇家には当時の貨幣価値で37億円あまりの資産がありました。皇室は自らが所有する御料地(農地や牧場)などで食料を自給自足するとともに、徳川幕府が所有していた広大な土地を引き継いでいたからです。それらのほとんどがこの財産法によって徴収・接収されてしまいました。財産法によって徴収された税額はなんと33億円にもなりました。しかも、天皇家に残された4億円の資産のほとんどは新憲法によって国有となり、自由に使える手元金はたった1500万円ほどです。永きに渡って日本という国家の権威にあった天皇家はこのわずかな資産をもとに戦後の生活をスタートさせたのです。

昭和天皇が崩御されたときにも明仁皇太子殿下には相続税が課されました。その総額は4億円を大きく超えていました。国民と同じ権利ももたず、ある意味、人権すら制限されている皇族にも課税がなされているのです。皇室の資産は今も確実に減っています。ちなみに、皇族には健康保険すらありません。病気となれば、その医療費はすべて自己負担なのです。髭の殿下として有名だった三笠宮寛仁親王殿下が癌の治療をお受けになったとき、請求された多額の費用を退院後の講演料で支払うしかなかったことは有名です。そうした理不尽がおざなりになっていることに国民はもっと関心をもつべきです。

余談ですが、かつて明治天皇は御内帑金(ごないどきん:ポケットマネー)を使って貧しい人たちのための医療事業を興されました。今も全国にある済生会病院のもととなる恩賜財団済生会はそのひとつです。皇后の昭憲皇太后も困窮者のための慈恵病院(今の慈恵医大)の設立にご尽力になったり、赤十字病院の敷地としてご料地を貸し出し、御下賜金をも与えられました。かつて、慈恵医大や日赤病院の看護学校の入学・卒業式には皇族のご臨席があったのはそのためです。また、上野動物園は正式には「恩賜上野動物園」といいますが、1924年に昭和天皇(当時は皇太子殿下)のご成婚を記念して東京市に下賜されたからです。

戦後の昭和天皇は、新憲法にのっとって政治的な発言をお慎みになりました。まさに象徴天皇としてのお勤めをはたしておられたのです。その一方で、日本の安寧と五穀豊穣のため、祭司としてのお勤めも欠かさなかったそうです。国内外の公務と宮中祭事で多忙を極めた昭和天皇は、文字通り日本の復興と発展のために尽くされたといえます。もしかすると、先の大戦に対する国民への贖罪のお気持ちもあったのかもしれません。全国各地への巡幸もなさいました。晩年、病床におられた昭和天皇は、まだ訪れていなかった唯一の地、沖縄への巡幸を願われていたといいます。陛下にとって沖縄は特別な場所だったのでしょう。

昭和天皇の一生は、まさに日本のためにあったと思います。そして、その役割は十分にお果たしになったといえるでしょう。昭和天皇の大喪の礼の大雨といい、現上皇陛下のご結婚のときの晴れ晴れしい天候といい、嵐のあとにまぶしい日差しが差し込んだ今上天皇陛下のご成婚の儀といい、さらには今上陛下が即位された瞬間に突如虹が出現した令和の即位の礼といい、皇室にはいつも神がかった偶然が起こります。天皇陛下の皇祖皇宗は天照大神にさかのぼります。その神々しさの象徴が昭和天皇です。私にとって4月29日は、これからも昭和天皇陛下を追慕する「天皇誕生日」であり続けるのです。

 

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天皇誕生日(1)

今日は「昭和の日」です。「昭和の日」は2007年に、それまで「みどりの日」とされてきた昭和天皇の誕生日を、「昭和という激動の時代を振り返り、日本の将来に思いをめぐらせるため」に再制定された祝日です。現在、「文化の日」とされている11月5日も、昭和のはじめに「明治節」と定められた明治天皇の誕生日。日本にとって昭和以上に激動の時代だった明治を国民そろって追慕しようという祝日が「明治節」です。しかし、私にとっては、11月5日が「文化の日」であっても、4月29日は今でも「天皇誕生日」。「昭和の日」だと言われてもなかなかしっくりきません。

昭和、平成、令和と時代は移り、多くの日本人にとって、昭和という時代がなにか日本史のいちぶに埋もれていく、そんな感覚におちいることがあります。それは私が歳をとるにつれて、敗戦を機に日本の伝統や文化が異質なものに変わっていくような気がしているからかもしれません。現在の徳仁天皇陛下を「令和天皇」と呼ぶ間違いに気が付かない教員がいたり、マスコミは皇族の呼称を安易なものにし、軽々しく「雅子さま」「悠仁さま」と呼ぶ時代になりました。122回目の「天皇誕生日」となった今日、日本人がもっと知らなければならない天皇と皇室のことを少し書きます。

昭和天皇や皇室のことは何度もこのブログで書きました。それほどまでに昭和天皇のご存在は私にとって大きなものなのです。昭和天皇は多くを語らないまま崩御されましたが、その後、さまざまな歴史的評価がなされました。そして、それらを振り返ると、明治から大正、そして昭和という、日本が近代国家として発展していく時代とともに生きてこられた陛下の偉大さがわかります。世界には皇室のように2600年以上もの永きに渡って続いた王朝はありません。それは日本という「国家」がまさに皇室とともにあった証拠であり、と同時に、「権威と権力の分離」という世界でも希有な国家システムが日本に機能してきた証拠です。

昭和天皇がご誕生になった122年前、アジア諸国は次々と欧米列強の植民地になっていきました。また、有色人種が白人よりも劣った民族だとして蔑視されていた時代でもありました。そのような時代にあって、乃木希典が院長だった学習院に学び、東郷平八郎らから帝王学を教育された昭和天皇は、世界が弱肉強食の時代にあったことを理解されていたと思います。そして、日本を統治する天皇としてだけではなく、近代国家日本の国際的な地位を向上させる君主としての意識を高めたのではないでしょうか。その後、日本は文字どおりアジアの一等国として国際社会の表舞台を駆け上っていきました。

幼いときから昭和天皇(当時は皇太子)は、大日本帝国憲法や国際法について徹底的に教育されました。戦後、昭和天皇が記者会見で「自分を神だと思ったことはない」とお述べになったように、当時から天皇という存在は憲法に依拠した立憲君主であると陛下ご自身は理解しておられました。ですから、東京帝国大学の美濃部達吉教授が「天皇機関説」を発表し、ときの政府をはじめ多くの国民がこれを激しく批判して排斥する中、昭和天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して次のように述べられました。「美濃部ほどの者が今、日本にいったい何人おるだろうか。ああいう学者を葬ってしまうことはすこぶる惜しい」。

昭和天皇にとって、天皇という立場は「欧米の国家元首や支配者としてではなく、国家の安全と平和、安寧と秩序を祈り、国民の幸福を願いながら国民を精神的に支える存在」ととらえていたことが「私の履歴書」に書かれています。実は、昭和天皇が若かりし頃、天皇が反対していた中国進出を軍部が強行し、支那事変に突き進んでしまったことに強い不満を表明されました。その責任を負う形で時の総理大臣田中義一が辞職しました。ところが、そうした経緯を西園寺公望は陛下に「立憲君主としていかがなものか」と苦言を呈しました。以後、昭和天皇は政府の方針に明らかな賛否を表明することはしなかったそうです。

しかし、そのことが、かえって日本を国際的に孤立させ、軍部を暴走させることとなったのも事実です。昭和天皇が抑制的な役割をはたす中、「二度だけ積極的に自分の意見を実行させた」と独白録で述べられた出来事がありました。そのひとつが昭和11年2月26日に陸軍若手将校らが決起して起こした「二.二六事件」です。当時の日本は世界的な大恐慌のまっただ中にありました。そして、国民にも鬱積した不満が蓄積していました。貧しい農村地域では娘の身売りがおこなわれ、富める者と貧しき者との格差が顕著になって、社会主義にその活路を見いだそうとする人々が増えていたのです。

軍部の中枢にも社会主義者がかなりいました。軍人だから皆が「右翼」ではなかったのです。二.二六事件を主導した皇道派の青年将校たちの精神的支柱となった北一輝こそまさしく社会主義者でした。彼等は天皇を中心とした社会主義(独裁主義)の国家を築こうとしていました。しかし、昭和天皇はその企ての矛盾を見抜いておられました。クーデターを容認すれば日本は分断され、皇祖皇宗から引き継いだ国体が瓦解してしまうことをご存知だったのです。昭和天皇は鎮圧を渋るいちぶの陸軍幹部に「朕、自ら兵を率いて鎮圧にあたる」と近衛兵(皇居を守る精鋭部隊)までをも動員する覚悟を思し召しになりました。

つい最近も、岸田首相を狙った襲撃事件がありました。昨年は安倍晋三前総理もテロともいえる凶弾に倒れるなど、あってはならないことが起こってしまいました。マスコミはそれらの犯人の背景を同情的に報道し、あたかもテロリストの動機を理解すべきだといわんばかりです。しかし、そうではありません。暴力で政治を変えようとする行為を絶対に認めてはいけません。その動機や理由に対する同情は不要であり、知る必要すらないのです。いやしくも日本が民主主義国家である以上、政治を変えるのは選挙で一票を投じること以外にはありえない。テロリストの不憫な生い立ちや生活環境などまったく関係ないことです。

二.二六事件が起きたとき、昭和天皇に拝謁した川島陸軍大臣は反乱軍の決起趣意書を読み上げようとしました。しかし、陛下は「そのようなものをなぜ読み上げるのだ」と激怒されたといわれています。つまり、昭和天皇ご自身はクーデターにいかなる事情・理由があろうと、これを許すわけにはいかないのだと考えておられたのです。決起趣意書には次のようなことが書かれていました。「思想は一君万民を基礎にし、元老、重臣、軍閥、政党などが国体破壊の元凶であり、統帥権干犯や天皇機関説一派の学匪などの奸賊を誅滅して大義を正し、、、」。この檄文を無視したのは昭和天皇のまさに慧眼です。

昭和天皇が「自分の意志を実行させた」と述べられたもうひとつの出来事が「終戦の聖断」です。そもそも開戦時の日本と米国の国力の差は12倍と歴然としていました。昭和15年に政府直轄の組織として創設された総力戦研究所の試算でも日本の敗戦は決定的なものでした。常々、昭和天皇は日本とアメリカが協力して太平洋の平和と安全を築きたいとの希望をもっておられました。その意向をくみ、開戦回避に向けて働きかけていた木戸幸一の努力は実を結ばず、当初開戦に反対していた海軍の翻意によって「開戦やむなし」の結論にいたりました。最後までアメリカとの交渉を尽くすようにとの陛下の願いもむなしく、日本からアメリカへの開戦通告が遅れ、日米戦争は「奇襲」という形で始まってしまったのです。

開戦(宣戦)の詔勅を読めばわかるとおり、自分の意志に反して日米が開戦してしまったことを昭和天皇はとても残念に思っておられました。なんども推敲を繰り返した詔勅の文面には、昭和天皇の強い希望によって「今や不幸にして米英両国と釁端(きんたん:争いごとのはじまり)を開くに至る。まことにやむを得ざるものあり。あに朕の志ならんや」の一文を入れることになりました。こうして始まった戦争は4年におよび、軍人・軍属の戦死者は230万人、国内外で犠牲になった日本人は80万人以上におよびます。しかも国際法に違反する形で一般市民を標的にした原子爆弾が広島と長崎に投下されたのです。

昭和天皇は開戦後に好戦的になったと吹聴する識者がいますがそれは間違いです。開戦直後の華々しい戦果は長くはもちませんでした。事前に総力戦研究所が試算したとおりの経過をたどったのです。戦況が芳しくなくなって、昭和天皇の弟君であられる高松宮もたびたび陛下に終戦の決断を上申されます。しかし、まるでそうした声に耳を貸さなかったかのような昭和天皇。実は陛下は東条首相をはじめとする軍部が内閣と統帥部の両者を抑えてしまった以上、立憲君主としてはなにもできないことをご存じだったのです。やがて誰もが終戦を決断できなくなってようやく昭和天皇の聖断が下ります。

終戦直後、日本にGHQが進駐してきました。そして、日本が二度と武器をとって戦う国にならぬよう、さまざまな方策がとられました。戦力の放棄をはじめとする憲法の改正などによって、教育、皇室のあり方をはじめとする日本の国体が大きく変えられてしまったのです。皇室や財閥の解体もそのひとつです。自身のフィリピンでの権益を奪われ、アメリカに逃げ帰ることを余儀なくされ、プライドを大きく傷つけられたマッカーサーは復讐心をいだいて横田基地に降り立ったといいます。執務室の椅子にふんぞり返えるようにして天皇の訪問を待っていた彼の胸の内はどのようなものだったでしょうか。

しかし、昭和天皇とお会いしたマッカーサーの変貌ぶりはご承知の通りです。かつて、第一次世界大戦でドイツ帝国の王がたくさんの財産を持って命乞いに来たことを彼は知っていました。「昭和天皇もまた同じように助けを乞いにくるはずだ」。そう思っていたことでしょう。しかし、目の前に現れた昭和天皇は違いました。マッカーサーに深々と頭をさげると「戦争の責任はすべて私にあります。将兵や閣僚、官僚などは私が任命した者たちであり、彼等に責任はありません。私の一身はどうなろうと構いません。どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いいたします」とおっしゃられたのです。

このお言葉を聞いたマッカーサーは回想録にこう書いています。「死をともなうほどの責任。それも明らかに天皇に帰すべきとは思えない責任を引き受けようとするこのお姿は、私を骨の髄まで揺り動かした。その瞬間、目の前にいる天皇が個人としても日本で最上の紳士であることを私は確信したのだ」と。その一方で、多くの日本国民から、天皇陛下を擁護し、皇室の存続を望む手紙が届きました。それはマッカーサーの日本に対する冷え切った感情を溶かすのに十分だったようです。やがてマッカーサーは昭和天皇の処刑を望む多くの連合国側の意見を抑え、陛下に戦争責任は問わないことを決断します。

 

***********「昭和天皇と皇室(2)」につづく

WBCの優勝に思う

2023年のWBC(World Baseball Classic)は日本の優勝で幕を閉じました。予選のときからドキドキに耐えることができなかった私は、日本の選手達の奮闘ぶりをリアルタイムで見ることができませんでした。翌日、日本が勝ったことを確認してから、YouTubeで試合のダイジェスト版を見るのが精一杯。毎試合、毎試合、そんな具合でしたが、さすがの私もメキシコ戦での奇跡的な逆転劇と、まるで劇画を見ているかのような大谷対トラウトの一騎打ちには興奮しました。今回のWBCはこれまでで一番印象深い大会だったと思います。

プロとアマチュアの差は大きいかも知れませんが、プロ選手間の能力の差はわずかです。とくにWBCに出場するほどの超一流の選手ともなればその能力にはほとんど違いはありません。あとは「運の差」だけだといっても過言ではないでしょう。とはいえ、「運も実力のうち」です。大谷選手といった超一流といわれるプレイヤーのパフォーマンスは、自分の能力を極限にまで高めようとする強い意志と不断の努力があってはじめて「運」さえをも呼び込むことができるんだということを教えています。

初の日系人メジャーリーガーとして選ばれたラーズ・テーラー=タツジ・ヌートバー選手の母親は日本人。彼が9歳のとき、ヌートバー家は日米親善試合のためにアメリカに遠征してきた高校野球の日本人選手をホームステイさせました。それをきっかけに少年ヌートバーは「日本の代表選手として野球で活躍したい」という夢を抱いたといいます。そして、その夢を夢として終わらせることなく、リトルリーグから高校、大学、そして、大リーグへと努力を続けた結果が彼の長年の夢であった日本代表選出につながりました。

それにしても大谷選手は、いち選手としてだけではなく、日本チームのまとめ役として欠くことのできなかった存在でした。日系人のメジャーリーガーであるヌートバー選手を招集することも、当初は賛否両論だったといいます。しかし、大谷選手がヌートバーと他の選手達の間に介在することによってチームの結束を高めることにつながったようです。大谷選手が幼い頃から選手としても、また人間的にも秀でた野球少年だったことは周知の事実ですが、それは彼の努力に裏打ちされたものだということも忘れてはいけません。

野球はチームプレイのスポーツです。しかし、投げるだけ、打つだけの成績を残そうとすれば、個人の能力を高めることでそれなりの数字を残すことができます。チームとして負けようが、投手としての、あるいはバッターとしての成績で満足することは可能なのです。今回のWBCが今までになく面白く、充実した大会だったと感じるのは、いずれの試合でも日本チームが一丸となって戦い、最後の最後まであきらめずにプレイし、すべての選手が自分にあたえられた仕事をしっかりこなす姿が垣間見られたからです。

そうしたことを選手達自身も感じていたようです。岡本選手は記者会見で「野球はこんなに楽しいんだと思った」と感想を述べています。この言葉に会場にいる人たちから笑いが沸き起こりましたが、彼は心底そう思っているんだろうと思います。小さい頃から際立った選手だった彼も、その道のりのかなりの部分が「人から強いられたもの」だったのかもしれません。ときには体罰があったかもしれませんし、「なぜ自分は野球をしているのか」という疑問を感じながらプレイしていたときもあったかもしれません。

岡本選手の「楽しかった」という感想は、チームとしての一体感を感じながら、「優勝」という目標に向かって努力することの楽しさをはじめて知ったという意味なのでしょう。人に指示されてではなく、また、人に強制されてでもなく、自分がなにをしなければいけないのかを主体的に考える野球ができたということを彼の言葉は物語っています。チームプレイのスポーツの醍醐味はそこにあります。近年のアメリカのメジャーリーグが面白くないのは、チーム野球というよりも選手個人の野球が目立ってしまったからでしょうか。

今回のWBCの対メキシコ戦を観終えたとき、私は2015年のラグビーW杯「日本VS南アフリカ戦」を思い出しました。試合終了まであと少しとなったとき、日本はペナルティーゴールで点をとれば強豪南アフリカと引き分けにできるチャンスを得ました。しかし、日本チームはそのままスクラムを組むことを選択します。スクラムから逆転ゴールという可能性に賭けてのことでした。南アフリカに勝つことは容易なことではありません。しかし、引き分けよりも勝利に賭けた日本は、その後奇跡的な逆転劇を演じることになりました。

W杯16連敗であり、ランキング13位の日本がランキング3位の南アフリカを相手にスクラムを選択し、土壇場で逆転できたのは、おそらくチームとしての完成度を選手達自身が感じていたからだと思います。ラグビーではよく「one for all, all for one(ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために)」という言葉が使われます。まさにこの言葉通りのチームであり試合だったからこそ、あの奇跡的な逆転勝利につながったのでしょう。W杯での勝利のために積み重ねてきた努力が呼び寄せたワンシーンだったのでしょう。

大谷はファイターズに在籍していた時、不甲斐ない選手を前にこう鼓舞したといいます。「遊びたい。飲みたい。いろいろやりたい。そんなので優勝できるわけがない。勝ちたいなら野球をやるしかないんです」と。個人としてあれだけの成績をおさめてもなお、チームとしての勝ちにこだわる大谷翔平選手。彼は今回のWBCでときに感情をあらわにしていました。これまでにはなかったことだといいます。でも、私には、大谷選手が、他の日本選手を鼓舞するためのパフォーマンスを意識的にしていたように見えました。

同じく今回の優勝に貢献した近藤選手はかつて、自分のチームの監督に就任した新庄監督の「優勝なんか目指しません」という言葉に反発しました。「勝った方が楽しい。勝つことによって自分のレベルがあがるんだ」と反論します。その後のファイターズは、新庄監督がいった通りになりました。彼は「(今のチームは)連勝もすれば連敗もするという典型的に弱いチーム。そもそもチームが勝とうとしていないのだから」とコメントしています。そして、彼はその後、ソフトバンクに移籍してしまいました。

私がまだ熱心に野球を観ていた子どもの頃、巨人のような常勝チームがある一方で、大洋やヤクルト、ロッテといった負けてばかりのチームがありました。巨人のように資金力のあるところは、力のある選手を集めることが容易でした。おそらく、チーム内は勝つのがあたりまえの明るい雰囲気に満ちていたことでしょう。しかし、「負け癖」のついていたチームでは、「勝つんだ」「負けないぞ」という執念のようなものが欠けていて、選手自身がモチベーションを高め、それを維持することはさぞ難しかったに違いありません。

モチベーションの低い環境の中で努力することの困難さは想像を超えます。今ではドラフト制度が改革され、お金にものをいわせて有力選手をかき集めることが難しくなっています。そして、それはチームの力を均等化することに貢献し、常に勝ち続け、ダントツの1位で優勝するチームも以前ほどはいなくなってきました。また、かつては負け続けて「弱小」と呼ばれていたチームの選手たちのモチベーションを高めることにもなっているはず。「頑張れば勝てるかもしれない」という思いが原動力になっているからです。

最近は「頑張らなくていい」という耳障りのいい言葉をよく耳にします。「なぜ一番でなければいけないのか」とか、「根性とかいう言葉が嫌い」とか言う人もいます。もちろん、それでもいいのです。事実、頑張らなくてもいいし、一番でなくても、根性をもっていなくてもいいのですから。しかし、「悪しき平等主義」は一番になることや、一流になろうとすることをも否定します。それはまるで頑張っている人さえ否定しているかのようです。平等主義とは平等を強いることではなく、違いをリスペクトすることのはずです。

機会の平等主義というのもあります。チャンスはすべての人に等しく与えられるべきだという考え方です。とはいえ、チャンスは平等でも、結果が同じとはかぎりません。能力のある人は、その能力に応じた結果を得ていいはずです。その一方で、能力の違いを努力でカバーすることには限界があります。でも、その格差は決して不平等ではありません。ましてや差別などではありません。今回のWBCの試合を観たり、出場選手たちの思いに耳を傾けてみると、目標に向かって頑張ることの尊さ、あるいはお互いの違いをリスペクトすることのすばらしさを改めて感じます。そして、自分の夢や理想を体現している一流の人たちから、私たちもなにかを学ぶことができるような気がします。

ワクチンは無意味か?

新型コロナウィルス感染症が全世界に広がって、私たちが医学書の中の言葉ででしか知らなかった「パンデミック」を実体験しています。この間、たくさんの人が亡くなり、少なからずの人たちが今も後遺症に悩んでいます。しかも、新型コロナウィルスは、社会の価値観もある意味で一変させてしまいました。と同時に、人々の間に溝を作り出し、社会を分断する状況にもなっています。マスクをするのか、しないのか。ワクチンを打つべきか、打つべきではないのか。確固たる結論がでないまま世の中は混沌としています。

私たち医者は、もちろん経験も重要ですが、できるだけ科学的根拠にもとづいて行動するようにと教育されています。多くの医者はそのように行動しています。しかし、中にはそうした科学的根拠には目もくれず、自分の情緒に振り回されているかのように立ち振る舞う人もいます。新型コロナウィルスの感染拡大を目の当たりにした医師が、どんな立場にあるかによっても考え方は異なりますが、それ以上に新型コロナウィルス感染症の恐ろしいイメージによって右往左往している医者も決して少なくないのです。

ある医者は今もなおワクチンの接種を推奨しています。別の医者はワクチンの危険性を強調して接種をするなと叫んでいます。新型コロナウィルスに感染する人がここまで減ってくると、ワクチンを接種しようと考えていた人でも「もういいか」と思いたくなるはず。現に、当院にワクチン接種の予約をする人の数は激減しています。ドタキャンもめずらしくなくなりました。それは我孫子市全体でも同じで、ワクチン接種をそろそろ終了しようと考えている医院は当院もふくめて増えていくでしょう。

では、今もなお接種が勧められている「オミクロン対応型ワクチン(BA.4とBA.5に対応した2価ワクチン)」の追加接種(これを「ブースター接種」といいます)ははたして有効なのでしょうか。ちまたでは「ワクチンを接種しても感染するんだから意味がない」という声が大きいように思います。しかし、意味がないかどうかはちゃんとした科学的なデータから判断しなければなりません。少なくとも「感染するんだから意味がない」という極論で断罪できるほどワクチンに大きな問題があるとは思えません。

「思えません」と言っただけではなく、いくつかの主だったデータをご紹介します。まずは、アメリカ疾病対策センター(CDC)が発表した研究結果です。その研究では「現在の接種の主流となっている2価ワクチンのブースター接種はオミクロン系統の変異ウィルスの感染リスクを半減させる」と結論づけています。しかも、死亡リスクはワクチン未接種の人とくらべては13分の1に、ワクチンを接種したがブースター接種をしていない人とくらべると死亡率はほぼ半分に減少するというものでした。

同じく、NEJM誌(ニューイングランドジャーナルオブメディシンという権威ある医学雑誌)に掲載されたデータでも、「2価ワクチンによるブースター接種の入院および死亡抑制効果は、従来のワクチンによるブースター効果の2倍以上だった」というものでした。ただし、この2価ワクチンのブースター効果は約4週間でピークに達し、その後は徐々に低下するようです。これらふたつのデータを見ても、現在、流行の中心となっている変異株に2価ワクチンの接種が決して「意味がないもの」ではないということがわかります。

その一方で、これまで従来のワクチンを4回接種していれば、この2価ワクチンによるブースター接種をしなくてもいいのでしょうか。そのことに関する日本のデータがLancet Infectious Diseases誌に掲載されています。それによると、パンデミック初期に作られた従来型のワクチンを接種した人では現在の変異株に対する中和活性(有効性をあらわす数値)は著しく低く、多くは検出限界以下だったようです。つまり、従来型のワクチンを4回接種したとしても変異株にはあまり効果は期待できないという結果でした。

現在の新型コロナウィルスに感染しても多くの場合は比較的軽症で済んでいます。それはウィルスそのものの危険性が低下してきたからですが、その一方で、たくさんの人がワクチンを接種し、少ないながらも中和抗体ができているからだという側面も忘れてはいけません。中国の研究グループの解析によれば、ワクチン未接種の人が新型コロナウィルスに感染すると、感染初期に心血管系の疾患にかかるリスクが2倍に、全死亡リスクに至っては80倍以上にもなるという結果でした。これらのリスクは最長18ヶ月後も同じでした。

もちろん、今の新型コロナウィルスのリスクはインフルエンザのそれよりも低下しているとも報告されています。重症化率は2021年7~10月の時点で80歳以上で10.21%、60歳以下で0.56%でしたが、2022年7~10月の時点ではそれぞれ1.86%と0.01%に低下しています。ちなみに季節性インフルエンザのそれは80歳以上で2.17%、60歳以下で0.03%です。また、致死率は80歳以上で7.92%が1.69%に低下、60歳以下で0.08%が0.00%になっています。インフルエンザでは80歳以上で1.73%と60歳以下で0.01%です。

こうしたデータから見ても、新型コロナウィルス感染症の危険性は確実に低下しています。しかし、だからといって「ワクチンは意味がない」ということにはなりません。それはこれまでワクチンを多くの人が接種してきたおかげであり、今後も2価ワクチンによるブースター接種を受ける人がいるからです。とくに70歳以上の高齢者にとってはワクチンは必須だと個人的には考えています。問題はこれまでワクチンを接種してこなかった人たちです。こうした人たちが万が一重症化した場合を忘れてはいけません。

私は「すべての人がワクチンを接種しなければならない」といっているのではありません。パンデミック当初のように、ウィルスの危険性が高く、また、たくさんの人が感染して医療崩壊がおきない方策が必須だったころであれば「接種すべき」だと主張するでしょう。しかし、現状を見る限り、あのときの危うい状況とはあきらかに違います。ですから私は「ワクチンの未接種はそれなりにリスクがあるが、ブースター接種するかどうかは個人の判断に任せてもいい」という立場をとっています。自己責任が問われているのです。

「ならばワクチンの【危険性】についてはどう考えるのか」と思われるかもしれません。しかし、私はあえて答えたいと思います。「どんなことにもリスクとベネフィットがある」と。リスクがベネフィットを上回るワクチンは接種すべきではありません。しかし、その逆であれば接種すべきです。たくさんのワクチン接種がおこなわれれば重大な副反応も起こります。そのまれに起こるリスクをことさらに強調して人々の不安をかきたてるのは決して正しいことではありません。事実は科学的根拠をもって語るべきです。

マスクやワクチンの価値はそれぞれの立場でさまざまです。どちらの立場であれ、他人に強制するものではないと思います。私自身がマスクをするのは、他人に対するエチケットだと思うからです。人がマスクをしていなくても気になりません。私がワクチンを接種するのは新型コロナに感染するわけにはいかないからです。人にワクチンを接種する側の人間だからでもあります。ですから、ワクチンを接種しない、したくない人がいてもいいと思います。情緒だけで行動すると本質を見誤るということを忘れないでください。