教育に関する妄想(1)

8月が終わろうとしています。暦の上ではすでに夏は終わっています。子どものころの私は夏休みに複雑な思いをいだいていました。もともと学校が嫌いで、勉強もまともにやらない私にとって、夏休みはようやくやってきた楽しい長いお休みのはず。しかし、学校で終業式を迎えるころになると、それまでとは違ったプレッシャーが私を襲ってきました。それは「夏休みの宿題」と「自由研究」という課題が与えられるからです。私は子どもながらに、「せっかくの休みだというのに、なんでこんなことをしなければならないのだろう」と思ったものです。そして、大人になった今もそう思います。

友達の中には「嫌なことは早く片付けてしまおう」とばかりに、宿題と自由研究をさっさと仕上げてしまう子もいました。あるいは「日課を決めて計画的に進める」という几帳面な子もいました。しかし、私は違いました。夏休みが終わりに近づくまで、宿題にも、自由研究にも手をつけずにいたのです。手をつけずにいた、というよりも、手をつける気にならなかったのだと思います。そして、あと数日で始業式という頃になって、あわてて、しかも適当にやって済ませてしまう。そんないい加減な宿題・自由研究を提出しても、罪悪感もなければ、後ろめたさも感じませんでした。

今から思うと、子どものころの私は発達障害だったような気がします。親はもちろん、学校の先生の指示通りに動けない子だったのです。当時の私は「指示されるのが嫌」と感じていたように思います。でも、大人になって振りかえってみると、「指示されるのが嫌」なのではなく、「指示通りにできなかった」のではないかと。子どもの中には、反抗的だったり、自分勝手に行動したり、あるいは他の人との協調性がないような子がたくさんいます。でも、それは単に性格が変わっているのではなく、発達障害のように、社会性の発達が一般的な子どもたちよりも遅れているからなのかもしれません。

ところで、私のような「昭和どまんなか世代」は、「夏を制する者は、受験を制する」という言葉をよく耳にしたものです。厳しい受験戦争を勝ち抜くためには、夏休みをいかに充実したものにするかが大切だという意味です。はたして受験生の皆さんにとって、この夏休みはどのようなものだったでしょうか。「計画通りで充実した夏休みだった」という人たちは、他の受験生をリードしていることは間違いありません。この調子で頑張りましょう。「思ったように勉強ができなかった」と肩を落としている受験生もがっかりする必要はありません。この遅れを挽回するために、これからいかに頑張るかが重要なのです。

大学をいったん卒業したものの、就職をしないで医学部の再受験を決意した私。大学卒業後、地元の小さな塾の講師をしながら受験勉強をしていました。医学部に合格するのは無理だと断念した経緯があるだけに、再び受験勉強をはじめたからといって再受験に成功する保障などありません。その一方で、大学の同級生達が社会人としてのあらたな生活を送っています。就職をしなかったのは私だけでしたから、それなりの孤独感を感じながらの再出発でした。当初は予備校へは行かず、受験雑誌の合格体験記で紹介されている参考書や問題集をそろえ、毎日の日課を決めて勉強をしていました。

親とは金銭面では頼らない約束をしていました。ですから、お金のかかる私立大学の医学部という選択肢はありません。国立大学のみに目標をしぼっていました。とはいえ、失意の三年間を送っていた高校生のときはまともに授業を受けていません。しかも、不得手な国語や社会などは勉強する気になりませんし、肝心の英語は高校三年生のときから勉強をはじめたので最後まで足をひっぱる科目でした。そのうえ、夕方には塾で小学生を教え、夜は中学生を教えるという毎日です。当時は塾のテキストの他に、生徒達に配るプリントも作っていて、塾での仕事にもそれなりの労力をさかなければなりませんでした。

でも、私と同じ受験生だった中学生を見ていると、生徒達のために頑張らねばと思う気持ちと、私自身の心の中に勇気と活力が湧いてくるのを感じていました。当時は校内暴力が社会問題になっていました。私が働いていた塾でも学級崩壊のようになるクラスもあったのです。そのクラスでは次々と先生が代わっていました。生徒達の私語がやまず、先生が授業を放棄してしまうのです。そして、ついに私がそのクラスを教えることになりました。私のような講師で対処できるだろうかと不安でした。でも、塾長先生の困惑した表情に、「自分がなんとかしなきゃ」と思ったものです。

通常の授業も生徒は多かったのですが、夏休みの講習会ともなると普段は通っていない生徒達もやってきます。満杯の教室はクーラーの効きが悪くて蒸し暑い。自然と生徒達の私語が増えます。そのような中で私の授業が始まりました。小さなプレハブの狭い教室のなかには30名ほどの生徒がいました。最前列には女子生徒が陣取っています。いずれも友達同士らしく、休憩時間からずっとピーチクパーチクおしゃべりをしています。一番後ろの列には体が大きく、ガラの悪そうな男の子とその友達数名が並んで座っていました。私は数学を教えていましたが、当初は思ったよりも静かな教室の空気に拍子抜けしてしまいました。

しかし、それは、生徒達が私の様子を観察しているのにすぎないことがわかりました。どのくらい騒げば怒られるのか。そのときこの講師はどんな反応をするのか。それをじっと見ていることを背中に感じながら私は黒板に向かっていました。「先生、消しゴムとって」。突然、体格の大きな男子生徒が私に言いました。床に落ちていた消しゴムを彼に渡して授業を進めようとすると、また「消しゴムとって」と。私は試されていることを感じました。「落とさないように気をつけてね」と消しゴムを渡してもまた同じ事が。何度もそれは繰り返されましたが、私はその都度、あえて無言のまま消しゴムを拾っては渡していました。

「消しゴムとって」と声がかかるたびに教室には笑い声がおこります。とくにこの大柄の生徒とその友達たちの騒ぎっぷりは、教室の雰囲気をあおるかのように大げさです。それにつられて、最前列の女の子たちの会話はそれまで以上に声が大きくなります。しかも、休憩時間のように体をお互いの方に向け合って話しをしているのです。なんど注意しても、静かになるのは一瞬。何日かが経っても、いつものような騒がしい教室。「おまえたちは何をしにここに来ているんだっ」。私の堪忍袋の緒はついに切れてしまいました。私はそのとき思いました。「こうやって先生達は授業を放棄していたんだ」と。

教室を騒がしい雰囲気にしている中心は、あの大柄の生徒のように見えました。その子は教室内の雰囲気を支配し、まるで自分の力を誇示するように大胆でした。彼の両脇に座っている仲のいい友達は、彼に媚びるようにそれを騒ぎ立てます。そして、混沌とした雰囲気が教室に充満してくると、今度は最前列の女の子達のおしゃべりは堰(せき)を切ったように大きな声になるのです。そんな教室の力関係のようなものが見えてきた私は、その大柄の子を教室から追い出すことにしました。「勉強する気がないなら塾に来るな」。一瞬戸惑ったような表情をした彼でしたが、退出を命じる私の指示に従って出て行きました。

彼の仲間たちは、顔を引きつらせておとなしくなりました。しかし、最前列の女の子たちはおしゃべりを続けています。それはまるで、教室の雰囲気をかき乱していた主犯を追い出した私をわざと怒らせるかのようでもありました。何度注意しても直りません。このグループにもやはり中心となる子がいました。この子もあの大柄の生徒と同じように教室から追い出そうか、とも思いましたが、親がお金を払ってきている生徒を何人も追い出すわけにはいきません。私は塾長に相談することにしました。塾長先生も手を焼いているようです。ふたりであれこれ話しましたが、結局、いい解決策は得られませんでした。

教室を追い出した男の子は二度と塾に戻ってきませんでした。塾長先生のところには、その親から抗議がきたようです。私は塾長にお詫びをしましたが、「気にしなくていいから」と言ってくれました。「ああいう子は、親も持て余していて、【家に居てもらうより、塾に行かせてしまおう】と煙たがられているんだよ」と塾長は言います。自分の居場所もなく、その存在も認めてもらえない子どもはああやって自己主張しているんだ、というのです。勉強の邪魔をするだけのように見えたあの子も、実は気の毒な子どもだったのです。私がもう少し冷静であったら、他のやり方があったかもしれないと反省しました。

相変わらず最前列の女子生徒たちには手を焼いていました。そんなある日、塾から自宅に帰った私は何気なく妹にそのことを愚痴っていました。「いくら注意してもおしゃべりをやめない女の子達に困っているんだよ」と。すると妹は言いました。「その子たち、兄貴に注目してもらいたいんじゃないの?きっと注意してもらいたいんだよ」と。私はそのとき、目からウロコが落ちる思いでした。「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」などという気持ちがあるとは思っていなかったのです。私の目には、そんな彼女たちは「なんど注意してもおしゃべりをやめずに困らせる子たち」としか映っていませんでした。

私はさっそく、おしゃべり三人組の中心と思われる子に、質問を当ててみることにしました。ごくごく簡単な、誰もが正解になるような質問です。おしゃべりをしているその子に「そんなにおしゃべりしたいなら、この質問に答えてみてよ」と言ってみました。彼女は驚いたような表情をしましたが、黒板をゆっくり見上げます。彼女が遠慮がちに正解を答えました。「君はできるんだねえ」。誰もが答えられる質問ではありましたが、そう褒めることも私は忘れませんでした。三人がおしゃべりをはじめるたびに彼女に質問を当て、そして、褒めました。そんなことを繰り返すうちに、彼女たちのおしゃべりはやがて止まりました。

それは面白いほどの変化でした。最前列の彼女たちはお互いに向き合うように話しをしていましたが、なんどか質問を当てているうちに、話しをする頻度が減り、三人とも黒板の方を向くようになりました。そして、ついに板書をノートにとるようにまでなったのです。彼女たちには、私の妹が言っていたように、「注目してもらいたい」「注意してもらいたい」という気持ちがあったのでしょうか。もしかすると、褒められたことすらなかったのかもしれません。私はこのとき、教えることの面白さをしみじみと感じました。「教育の醍醐味」とはこういうところにあるのではないか、と思いました。

私が教室から追い出してしまった男の子といい、おしゃべりをやめなかった女の子たちといい、それぞれにはそうしてしまう(そうせざるを得ない)理由があったのだと思います。私が宿題をやらなかった(できなかった)のと同じように。家庭環境のせいもあるでしょう。友達との関係が影響している場合だって。もしかすると子ども時代の私のように発達障害なのかもしれません。そうした個々の事情を深く考えると、ひとりひとりの子どもがかかえる問題点の解決方法が見つかるかもしれない。塾の講師をしながら私はそう思いました。そして、このときの経験はのちに発達心理学に関心をもつことにもつながりました。

でも、子ども達の深い部分に目を向ける余裕が、忙しさに追われる今の先生達にあるでしょうか。教育そのものが荒廃しています。それは誤った教育改革の結果だと思います。あるいは、社会そのものがゆがんでしまったからかもしれません。私たちの頃にはまだ戦前の教育を知っている先生がいました。そうした先生達の方が生徒と教師との距離が近かったような気がします。「体罰」もありました。生徒は「呼び捨て」になっていましたし、さまざまな校則でがんじがらめだったかも知れません。しかし、学校には秩序がありました。そして、卒業式に「仰げば尊し」を涙ながらに歌って先生達との別れを惜しむ「絆」もありました。

教育が変質してしまった原因は、社会のありかた、親の意識そのものが変わってきたことも影響しています。おぞましい自由が幅を効かせ、教育の現場にすらLGBTが登場するようになりました。倒錯した平等主義によって、公立の男子校や女子校が共学化され消えていく県があるほどです。それは世界のながれに連動した変化ともいえます。まるで歴史と文化を嘲笑するかのようなあのパリオリンピックの開会式は、そうした現代社会の異常さを象徴しています。また他方では、親たちの権利意識の高まりが子どもにも影響し、学校という集団生活において、先生が強制力を使って統制をとることが難しい時代にもなっています。

教育というものを、子ども達の大切な未来を育てるのにふさわしいものに変革しなければなりません。小さいときから受験戦争に勝ち抜くことが求められ、受験からの脱落が人生の「敗北」とされることすらあります。しかし、それは間違いです。勉強が好きな子どももいれば、苦手な子もいます。勉強が苦手だということは恥ずかしいことではありません。運動が苦手だったり、音楽が苦手なのとかわりはないのです。「受験戦争の勝者」は「人生の勝者」なのでしょうか。人間の幸福とはそういうものなのでしょうか。そもそも「人生」という個人の問題に、他者との「勝ち」や「負け」などがあるはずがありません。

大人の価値観を押しつけられた子ども達には、自分の個性や適性とは一致しない将来を強いられることがあります。医者になったのに自ら命を絶ってしまう研修医がいます。長時間労働に心身ともに疲れ果てての結果だといいます。実に痛ましいことです。でも、私の研修医時代はもっと厳しいものでした。仕事が終わって病棟を離れるのはいつも深夜0時過ぎ。そして、朝の7時には病棟に行って患者の採血をしなければなりません。土・日だって重症患者がいれば病院に行くのです。でも、私はそうしたことをツラいと思ったことは一度もありません。それは「医師として働く」という自分の夢を体現していたからです。

人生の価値、生きることの意味は、学歴にあるわけでも、職歴にあるのでもありません。ましてやどれだけ裕福な生活をしているかでもない。どんなに学歴が高くても、有名な企業に勤めて、役職が高くなったとしても、ひとりの老人になればただの人。自分の履歴など、他人にはなんの関係もないのです。それに気が付かず、一介の老人になってもなお「偉かった自分」のままだと勘違いしている人は少なくありません。他人との比較の中で自分の人生を生きなくてもすむ社会が必要なのです。自分自身のなかで「生き切った感」を実感できる人生。そんな人生を送れるように子ども達の背中を押す教育であってほしいと思います。

次の記事は、私が日頃、夢想している「理想とする教育システム」について書いてみたいと思います。

倒錯する平等

アメリカのトランプ前大統領に暗殺未遂事件が起こってしまいました。3年前、安倍元総理も、身勝手で幼稚な犯人に命を奪われました。欧州の先進国各国ではたくさんの不法移民が流入して治安は悪化。世界各地で戦争や紛争が勃発しています。地球全体を飲み込むほどの大きなうねりが生じているかのようです。
ウクライナやパレスチナでは今も戦争が続いています。台湾や朝鮮半島でもなにか「愚かなこと」が起こりそうな気配。にもかかわらず日本、日本人は実に脳天気です。それはまるで童話「蟻とキリギリス」に登場するキリギリスのよう。世界のうねりに日本も飲み込まれてしまうかもしれないというのに。

私には、日本は今、密かに内部崩壊しつつあるように見えます。それはこの崩壊を身を挺して食い止めようとする政治家が皆無だからです。また、戦後、GHQによって再構築された日本の教育が国民を物質主義に向かわせ、「今だけ、金だけ、自分だけ」といった利己的な社会ができつつあることが影響しています。
今のアメリカを見るまでもなく、日本も「自由、平等、差別」が金儲けの手段になり、社会の分断と憎悪を煽る情報が飛び交う時代となりました。そうした日本の現状を憂慮する私見をこれから書きます。いつものように、読んだ方の思想や信条に反する内容によって不愉快な気持ちになったらご容赦ください。

******************** 以下、本文

最近の「平等」って怪しくないですか。「平等」が強調されればされるほど、その本質とは異なった解釈がなされているように思います。そして、その平等に疑問を呈したり、否定する意見を述べると、安っぽい社会正義を振り回されて批難されます。ポリコレによる言論封殺が横行する世の中になったかのようです。

そのひとつの例が「男女平等参画社会」です。我が国では平成13年に男女平等参画社会基本法が施行され、いわゆる「男女平等」が強いられるようになりました。毎年30億円以上の予算が計上されていますが、その内容を見ると驚きます。「こんなことに予算(※)をつける必要があるのだろうか?」と思うほどです。
内閣府男女共同参画局のホームページには次のような記述があります。「男女共同参画社会とは、男女が社会の対等な構成員として、自らの意思によりあらゆる社会活動に参画する機会が確保され、男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会である」と。

以前、「医学部で女子受験生に不利な入試がおこなわれていること」が問題になりました。そして、「医学部入試における女子受験生への不当なあつかいは許されない」との論調に対する私の意見をこのブログの記事に書きました。この問題には考慮すべきやむを得ない理由があるからです。
大学の医学部は関連病院に医師を派遣して地域医療を支えています。したがって、外科や産科といった激務を担う診療科の医師が減ったり、出産や子育てのために診療の現場から離れる医師がでてくるのを大学は嫌います。女子学生が増えて医局の運営にそうした支障がでることを懸念するのです。

「だからといって女子受験生に不利になる入試はけしからん」という人がいるのもわかります。「医局の、あるいは大学の都合で人の一生が左右されていいのか」ということなのでしょう。あるいは「不公平な入試をなくすことと、地域医療の崩壊を食い止めることは別だ」という人もいるかもしれません。
ならば、東京女子医科大学のように男子学生に門戸を閉ざしている医学部の存在は問題にしなくていいのでしょうか。女子医大病院での診療は他大学出身の男性研修医や男性医師によって支えられています。女子医大が男子学生を拒絶しなければならない明確な理由はないはずです。

理工系大学で実施される「女子学生特別合格枠」も同じような事例です。「リケジョ(理系女子学生)」を増やすための方策なんだそうです。でも、なぜリケジョを増やさなければならないのか、その合理的な理由は見当たりません。女子受験生を優遇することの幅広い議論がないまま拙速に決められたことです。
おそらくこの愚策が考えられた一番の理由は、文科省が、理工系大学に女子学生が少ないことを「男女共同参画」に反すると判断したからだと思います。しかし、女子受験生を優遇すること自体が「男女共同参画」の趣旨に矛盾する、とは誰もいいません。この愚策を検討する大学もどうかしています。

ものごとには目的があります。そして、その目的を達成するために方法があるのです。理系職業への女性進出を促すのはあくまでも手段。どうしてそうしなければならないのか、という根本的な目的があっての手段であるはずです。「女子学生特別合格枠」は「手段の目的化」そのものです。
医学部の入試において女子学生を一定数だけ排除するのにはそれなりの理由があります。しかし、それは批判される一方で、東京女子医大のような存在が看過されている。合理的な理由を飛び越えて理工系大学の入試において女子受験生の優先合格枠が増やされようとしている。これは社会理念の矛盾です。

議員や会社役員においても女性の数を増やさなければならないのだそうです。でも、女性議員が増えないのは、立候補する女性が少ないからです。女性役員が少ないことだって、そもそも社員の男女比が違うのだから当然といえば当然。多い少ないは、その出口ではなく、入り口での数で平等を考えるべきです。
出口での数だけで解決しようとするのはあまりにも拙速すぎます。まずやるべきなのは、議員になりたいと思う女性をもっと増やすこと。また、実力と実績があるにも関わらず、女性というだけで昇進できない実体があるかどうかであり、結果としての数の問題ではないはずです。

事例は少し変わりますが、公立学校の中には「ジェンダーレス教育」をおこなっているところがあります。男子生徒はズボン、女子学生はスカートといった制服選びにおいて、男子でもなく、女子でもないジェンダーレスなデザインを採用する学校もあるとのこと。これも実にくだらない発想です。
そもそもそうする目的ってなんなのでしょう。スカートを履きたい男子生徒がいるなら履けばいいし、女子生徒でもズボンにしたければすればいい。「私服で学校に行きたい」というならそれでもいいという話しにすぎません。男女の区別をなくそうとするジェンダーレス教育の目的がさっぱりわかりません。

もしかすると、こうした教育の目的は、LGBTへの子ども達の理解を深めるため、なのかもしれません。しかし、LGBTという存在が長い間、宗教的に激しく迫害されてきた歴史のある諸外国と異なり、日本は古くから現代に至るまでLGBTには比較的寛容だった社会です。古代から男色は公然の存在でもあったほど。
そんな日本において、なぜあえて今、よりによって教育現場にジェンダーの問題を持ち込むのか私には理解できません。男女相互の理解を深め、男女のあり方についての議論を飛び越え、「男女の区別をなくす教育」がなし崩し的に子ども達に施されることを私は強く危惧しています。

先日、最高裁判所が「からだは男でも、心が女であれば女性であること」を認めてしまいました。身体的な特徴から性別を決めることは出来ないという判決です。こうした判決は、必ずや社会に混乱をもたらします。価値観を安直に変更し、それを強制するこの判決はLGBT理解促進法にもとづくものです。
この法律の趣旨は「自分のからだと性との違和感に悩んできた人たち」への配慮。しかし、自分の性に違和感を感じる「男性」は「からだは女だが男性として扱え」とは主張しません。なのになぜ性に違和感を感じる「女性」は「からだは男だが女性として扱え」と言うのか。それこそが「性差」なのです。

軽薄な理想主義に立つ大人達は「平等」を「違いをなくすこと」「均質なものにすること」だと思っているようです。そして、それを子ども達に教育としてすり込もうとしています。しかし、本来、世の中には「平等」にならないことがたくさんあります。いろいろな人が共生する社会とはそういうものなのです。
子ども達には、それぞれの個性を尊重し、少数に配慮しながら最大多数の幸福を追求するのが健全な社会であると教育すべきなのです。
背の低い人は高いところに手がとどかない。力のない人は重いものをもちあげられない。男性は子どもを生むことができない。望んでもかなわないことが社会にはあるのです。

だからこそ、届かないところのものは背の高い人にとってもらい、重いものは力のある人にもちあげてもらう。役割を分担し、足る者と足らざる者が互いに支え合うのが社会。人間は長い歴史を通じてそうやってバランスを保って生きてきたのです。子ども達にはそうした人類の営みを教育しなければなりません。
最近、これまでの社会的価値観を変更する法律が次々とできています。それはまるで個人の思想や信条の自由が国家によって侵害されているのではないか、と思うほどです。でも、そうしたことの問題点を指摘したり、「個人の価値観、社会のあり方に国家が口を出すな」と批判する人がいないのはなぜでしょうか。

外国人旅行者が増え、今では月に数百万人の観光客が日本を訪れています。訪日する観光客は皆、日本の文化、日本の景観、日本人の国民性の素晴らしさを口にします。混乱が続く混沌とした現在の世界情勢と比べれば、外国人観光客たちの評価は決して大げさではないと思います。
しかし、日本や日本人の良さが、最近、変質してきているように感じます。にもかかわらず、その変化を「グローバルスタンダード」だとして気にとめない人が少なくありません。日本は日本の良さを守り、次の世代に引き継いでいくことがいかに重要であるかを、今、あらためて認識すべきです。

国家によって価値観の変更を強いられるかのような昨今のながれは、次々と作られる促進法や増進法といった法律によってあらたなビジネスを生み出しています。いわゆる「平等ビジネス」「貧困ビジネス」あるいは「差別ビジネス」がそれです。まるで促進法や増進法がそのビジネスのためにあるかのようです。
これらは法律にもとづいて公金を吸い取っていくビジネスモデル。政治家や官僚がそのグルになっているのかどうかはわかりません。しかし、本当に社会に必要な法律なのかについての議論もなく、悪意ある人たちによってまんまと利用されているのではないか、と疑いたくなるほど拙速です。

これまでの記事でも繰り返してきたように、世界は歴史の大きな転換点にあります。地球上の至るところで大きなうねりが起ころうとしています。その世界の荒波の中で日本が生き残るためにどうすればいいのかを真剣に考えなければなりません。しかし、多くの日本人はそうした世界の現状にはほとんど無関心です。
それはまるで童話「蟻とキリギリス」のキリギリスのように見えます。国民は脳天気でもいいでしょう。でも、深刻なのは、日本が世界の大きなうねりに飲み込まれようとしているのに、日本の舵取りをするお馬鹿さん達はそれに気付いていないこと。「聴く力」はもう結構。知性と理性でしっかり舵取りしてくれ。

(※)あとで調べたところ、男女共同参画関連予算は総計で9.6兆円にもおよぶそうです。

ちなみに、SDGs関連予算は6.3兆円、「こども家庭庁」の予算は5.3兆円だとか。いります?

 

 

コロナになりました。

過日、6月1日(土)に札幌に行ってきました。北大医学部の同窓会があったからです。ほとんどの同級生とは卒業してから一度も会っていません。本当に久しぶりで、懐かしい再会でした。

到着した千歳空港は曇り。今にも雨が降り出すのではないかと思われるほど雲は厚く、せっかくの北海道なのにと心もちょっと曇ります。
実は、今回の札幌訪問には長男も同行しました。北広島市にできた新しい球場「エスコン・フィールド」での「北海道・日本ハムファイターズ」のデイゲームを観戦するためです。
長男は札幌で生まれ、幼稚園に入園する直前まで札幌に住んでいました。息子にはその当時の記憶はほとんどありません。しかし、彼にとって札幌生まれは自慢です。

千歳空港に到着し、息子はエスコン・フィールドに電車で直行。私はバスにのってのんびり札幌へ。あれだけ曇っていた天候は急速に回復し、札幌に着く頃にはすっかり青空になっていました。
10年ぶりの札幌駅周辺は綺麗に整備され、北大のある北口はおしゃれな街並みになっていました。私が北大に入学したころ、札幌駅は古びた田舎の駅舎で北口あたりはいくつかの旅館があるぐらいでした。
同窓会は夕方からだったので、荷物をコインロッカーに預けて散策することに。北大の正門から入って中央ローンを歩くと、無数のポプラの綿毛があたりを漂っていました。これもまた懐かしい景色です。

北大の構内はとても広く、南北の距離を測れば2.5kmにも及びます。そのメインストリートを歩くと、構内にコンビニなどの新しい建物が出来ているのに驚きました。でも、雰囲気は学生のときのまま。
土曜日だったこともあり観光客もちらほら見かけましたが、嬉しそうにスマホで写真を撮りまくっている私自身がいかにも観光客のようだったかもしれません。
北大病院のだだっ広い駐車場にはさすがに一台の車もなく閑散としていました。私が卒業したときにはすでにこの病院は完成していましたから、その建物もできてすでに40年がたちました。

同窓会には四十数名が参加しました。同期は全部で120人いましたから、出席者は決して多いわけではありません。それでも、2時間ほどの短い時間に声をかけてまわるのにはちょうどいい数でした。
遠くは京都や神戸、和歌山など地元に帰った同級生も出席。容姿は多少変われど、雰囲気は学生の時のまま。私もすっかり学生のときに戻ったような気持ちになりました。
同窓会を終えて、息子と夕食を共にしました。当初は蟹料理を食べに行こうと話していたのですが、土曜日なのでどこも予約が一杯。しかたなく牛タン料理を食べてきました。

翌日はレンタカーを借りて富良野に行きました。この日も雲ひとつない快晴。富良野は、学生時代はもちろん、新婚当初もたびたび行っていたお気に入りの場所です。
朝早く札幌を出て、富良野周辺をまわって昼食をとり、3時頃には札幌に戻るとちょうどいい日帰り旅行。この日も早朝に札幌を出発。懐かしい高速道路を北上すると、北海道らしい景色に心は躍ります。
富良野は昔のまま。遠くに大雪山系を望む眺望に、思わず何度も車をとめて写真をとっていました。そして、「くまげら」という食堂でローストビーフ丼を食べて千歳空港に戻ってきたのでした。

夕方の便で帰るはずだったのですが、当日の羽田はどしゃぶりの雨。搭乗する便は出発がどんどん遅れ、羽田についたのが夜の10時近く。かろうじて開いていたお店に入って遅い夕食をとって帰宅しました。
翌日からは通常診療でした。でも、北海道での二日間の興奮はさめやらず、疲れを感じることもなく、リフレッシュした気持ちで仕事をしていました。しかし、問題はそこからでした。
その二日後、私はコロナウィルスに感染していることがわかりました。結果として一週間ほどクリニックをお休みせざるを得なくなりました。こんなこと初めてです。

水曜日、当院は休診です。休診といっても、家でゴロゴロしているわけではなく、調べものをしたり、書き漏らしたカルテ記載を済ませたり、紹介状を書いたり、往診や学校検診に充てています。
具合が悪くなったあの日、午前中は小学校の健康診断に行きました。健診が終わって、クリニックにもどってくるまではいつもと変わらぬ水曜日。その午後あたりから体調に変化がありました。
北海道にいった疲れと健診の疲れとでだるくなってきたのだろうとたかをくくっていたのですが、徐々にのどの痛みと節々の軽い痛みが・・・。とっさに「これは発熱か?」と思いました。

夕方までクリニックで様子を見ていましたが、体調はどんどん悪くなるばかり。クリニックの非接触型体温計を首に当てて体温を計ると37℃を超えています。「この症状はコロナ」と直感しました。
熱がではじめて間もないので、夜までクリニックで待機して抗原検査をすることにしました。すると予想は的中。コロナの抗原検査は陽性。明日からの診療は無理だと判断しました。
しかし、薬の処方ができないとなれば、定期薬のなくなった患者さんに迷惑をかけます。私がいなくても最低限の処方ができるように手はずを整えて私は帰宅しました。

自宅ではすでに隔離される場所が確保されていました。二階のトイレの前の納戸です。布団一枚がかろうじて敷けるスペースに準備が整えられていました。
私は帰宅するとその納戸に直行。以来、コロナの抗原検査が二回連続で陰性になるまでの7日間をここで過ごすことになりました。家族とはLINEでやりとりするのみです。
納戸に頼んだものを持ってくる家内はマスクをかけ、廊下ですれ違う息子達は顔を背けて足早に立ち去っていきます。なにか自分が汚いものになったかのよう。

でも、狭くて、薄暗い納戸での療養は決して苦痛ではありませんでした。そもそも学生時代は狭くて古い木造アパートに住んでいました。手を伸ばせばなんでも届く生活がむしろ懐かしいくらい。
体温は38℃台が続き、全身の関節痛とともに倦怠感があり、寝返りを打っても身の置きどころのないような不快感にさいなまれていました(インフルエンザの症状と変わりません)。
食欲はほとんどありません。無理に食べようとせず、そのかわりに水分だけは積極的にとろうと考えていました。今思うとそれは正しい対処法だったように思います。

実は初日、食事もしないでいたのに、水分もあまり摂ろうとしませんでした。その深夜、トイレに起きたとき、軽いめまいと嘔気が私を襲ってきました。「この感覚、以前にもあった」と私は思いました。
そうです。それは私が熱中症になったときと同じ症状でした。私は「おそらく脱水状態になっている。だから熱中症と同じ症状がでているのだ」と確信しました。

私は「排尿中に血圧はさらに下がるはず。意識を失わないようにしなければ」と自分に言い聞かせました。案の定、強い脱力感とともに意識が遠のいてきたので、急いで納戸の布団に戻って横になりました。

納戸がトイレの前でよかったです。一歩、二歩、足を踏み出すのもキツいほどフラフラでしたから。熱中症のときとまるで同じ。私は水筒に入った冷たいスポーツドリンクをがぶ飲みしました。
普段、患者さんに「発熱後24時間はできるだけ解熱しないで下さい」と説明しています。私もしばらく体温を下げず、次第にひどくなってきた咳と鼻水の薬だけを服用することにしました。
でも、一向に体温は下がりません。関節痛や倦怠感も続きました。体力が落ちてきたことを感じはじめたことから、一日に一回だけ解熱剤を使うことにしました。

いい機会なので、熱発のときに処方するアセトアミノフェン(カロナール)と、主に痛み止めとして処方するロキソニンで効果がどのくらい違うのかを比較してみようと私は考えました。
そして、わかりました。アセトアミノフェンの方が解熱作用に即効性はあるが、関節痛や倦怠感をともなう熱発の時はロキソニンの方が楽になる、ということを。
アセトアミノフェンは体温中枢に働きます。一方、ロキソニンは肝臓で代謝を受けてから各組織で抗炎症作用をもたらします。そうした薬の効き方の違いからくるものなのでしょう。

これまで当たり前のように、熱発患者にはアセトアミノフェンを処方していました。小児のインフルエンザ患者には、脳症を発症する引き金になるロキソニンは処方しないからです。
そうした安全性の問題から、多くの熱発の場合、アセトアミノフェンの処方が推奨されています。しかし、今回の経験から、大人であればロキソニンの方がいい場合があることがわかりました。
また、解熱するといったんは楽になるが、やはり治り自体は悪くなるようです。「むやみに熱は下げない方がいい」というこれまでの指導は間違っていなかったように感じました。

結局、最高38.4℃まであがった体温でしたが、熱発して4日目の土曜日の朝には解熱傾向となり、翌日の日曜日には関節痛や倦怠感といった随伴症状もおおむねなくなりました。
普段、患者には「5日間が過ぎて平熱になれば、マスクをしてなら通常の生活に戻っても良い」と指導しているので、私も月曜日からは通常の診療を再開できると簡単に考えていました。
しかし、コロナの抗原検査はなかなか陰性になりませんでした。私たちがコロナウィルスに感染した場合、二回連続して陰性にならないと仕事を再開できないのです。

抗原検査は月曜日も二回とも陽性、火曜日も二回とも陽性でした。いったいいつまで陽性が続くのだろうと、文献を調べてみてびっくり。抗原が陽性になる平均日数はおおむね7日間だったのです。
発熱して8日目の水曜日になってようやく午前に陰性、そして午後にも陰性と出ました。感染力がどれだけ残っているかは別として、抗原検査が陰性になるにはそれなりに日数がかかるようです。
この間、来院した患者さんには迷惑をかけてしまいましたが、定期薬が処方できないといった最悪の状況にはならずに済みました。私のいない間、当院の職員が頑張ってくれたおかげです。

振り返ってみると、熱が出る2日前の月曜日に「熱はさがったが、咽頭痛が残っている」という患者さんを診察しました。このとき、のどを見るためにマスクをはずさせて聴診をしました。
ところがそのとき、患者さんは突発的に咳をし、その咳が直接私の顔にかかったのです。私はマスクをしていましたが、直接咳が向けられると感染はまぬがれないのかもしれません。
ただ、このときの患者さんのためにも申し添えますが、こうしたことはいた仕方ないことです。私たちはそういう仕事をしているのですから気にしないでください。

なお、診療を再開してから、熱発する直前に健診をした小学校に電話してみました。養護教諭に「健診のあと、コロナに感染した児童はいなかったか」と確認しましたが大丈夫とのこと。
健診をしているとき、私の体調に異常はありませんでした。私も子ども達もマスクをし、子ども達に触れる私の手には手袋。よもや子ども達にうつすことはないだろうとは思いましたがホットしました。
今回のコロナ感染の経験からいろいろな教訓を得ました。実体験として今後の診療に役立ちそうです。開業して18年、初めての病気での臨時休診です。みなさんには本当にご心配をおかけしました。

 

 

 

 

 

アメリカ帝国のゆくえ

自由と平等は本来、あいいれないものです。自由が過ぎればさまざまな格差が生じ、平等に反する状況になるからです。かつてアメリカは「自由と平等、民主主義の国」でした(子どものころの私はそう思っていました)。でも、今の惨憺たる現状をみれば、自由と平等を両立することがいかに難しいかが容易に理解できると思います。アメリカ合衆国は、1620年に自由を求めて北アメリカ東部の海岸に上陸した100名余りのピルグリムファーザーズと呼ばれた清教徒たちからはじまりました(実際には清教徒は40名あまり)。

プロテスタントである清教徒はそれまで、プロテスタントでありながら実質的にはカトリックである英国国教会から迫害を受けていました。ピルグリムファーザーズたちは、アメリカに向かう船の中で、移住者たちの相互協力とともに、秩序維持のための契約を結びました。「メイフラワー号の誓い」と呼ばれるその契約は、その後、アメリカ合衆国建国の理念となりました。清教徒は厳格なクリスチャンであり、退廃した教義を純化した信仰をアメリカという新天地で実現しようとしたのです。

メイフラワー号の誓いには宗教的な厳格さがあり、入植当初の生活を支えてくれたインディアンが自分たちの「自由」をさまたげる存在になると、異端であることを理由に無慈悲に排除していきました。自分たちの自由を追求するあまりに信仰は寛容さを失っていったのです。アメリカ入植者達は狂信的に西進していき、数百万人から一千万人はいたとされるインディアンを駆逐していきました。また、同じ時期に奴隷商人から安価な労働の担い手として黒人を買い入れ、奴隷労働者として働かせるようになりました。

自由というものは、他の自由を阻害することを前提に成り立つといってもいいかもしれません。そして、結果として、自由なる者と自由ならざる者を生み出します。すべての自由が無条件でいいものではないのです。無条件の自由が認められれば、その社会はやがて無秩序におちいり、混沌と混乱をもたらします。まさに今のアメリカ、これからのヨーロッパがそれなのかもしれません。社会においてはどの程度の自由が許容され、どのような社会のあり方が平等なのかについて合意が必要なのです。

そうした合意を形成するためのシステムが民主主義です。あい対立する自由と平等をどう実現していくかについて民意を反映しようとする仕組みです。しかし、その民意が社会的に成熟していなければ、民主主義はいとも簡単にポピュリズムに陥り、衆愚政治を招くことになります。そして、人々の利害の調整が難しく、社会に不満と不信感が鬱積すると、人々は社会秩序を専制政治に求めるのです。これまでの世界史には、専制から自由、自由から専制へと政治的に大きく振れる実例がいくつもあります。

そう考えてみると、世界広しといえども、日本ほど自由と平等との間で絶妙なバランスがとられてきた国家はなかったように思います。中世のころ、どの国においても女性は劣った存在として見られていました。しかし、日本では古くから女流文学が発達し、平仮名というしなやかな女性らしさを表現する文字までもが生み出されています。そして、平仮名とともに、漢字や男性的ともいわれる万葉仮名、あるいは漢字を簡略化した片仮名などを使って、人々の思いを後世に伝える男も女もない日本独自の文化を築いていきました。

身分社会といわれる江戸時代(実際にはそうでもないのですが、ここでは話しがそれるので詳しく述べません)になっても、街のいたる所で「寺子屋」という教育が子ども達にはほどこされていました。江戸中期、日本の識字率は80%ほどだったといわれています。当時のイギリスの識字率は20%、フランスに至っては10%だともいわれており、当時の日本では学びたいと思えば身分や性別に関係なく学ぶチャンスがあったのです。日本がいかに平等だったかが理解できると思います。

私が「日本を誇りに思えること」のひとつに廃藩置県があります。これはそれまでの250年以上も統治していた江戸幕府が無血開城をし、その権力を天皇に奏上した大政奉還によってなされた武装解除のことです。全国には250とも300ともいわれた藩が一斉に統治権を天皇と明治政府に引き渡したのです。当時は100万石の加賀藩や80万石の薩摩藩はもとより、数万石ほどの小藩までさまざまな藩がありました。しかし、いくつかの藩で散発的に反乱が起こりましたが、おおむね粛々と廃藩置県に従いました。

各藩の藩主には明治政府から年金が与えられました。その一方で、臣下たちはそれぞれの俸禄に応じたわずかな一時金はもらえたものの、おおかたの人は武士という身分から一般庶民へと放り出されました。ある武士は農民となり、また別の武士は商人となるなどして人生が大きく変化したのです。身分社会の頂点にあった武士から一転して平民として生きていくことの困難さはいかばかりだったでしょうか。しかし、弱肉強食の国際社会に飲み込まれないためには、新国家に生まれ変わらねばならないことを彼等は知っていました。

仕えるべき藩主を失った武士達は、明治という近代国家建設のために獅子奮迅の働きをしました。日本の若き秀才達は、欧米に直接おもむき、有力者の助言を受け、近代国家はどうあるべきかを徹底的に研究しました。そして、自由、平等、民主主義という近代国家の諸要素を明治政府は身につけようとしたのです。と同時に、次々と欧米列強の植民地となっていくアジア諸国の非情な現実から、国際社会において独立国家として生き抜き、維持するためには国家としての強さが必要だということにも気が付いていました。

そこで明治政府は富国強兵を推進しました。と同時に、幕末に次々と締結された欧米各国との不平等条約の改定を急ぎました。すでに産業革命によって大国になっていた欧米列強。そんな彼等の植民地として隷属しないためにやむなく締結された不平等条約。しかし、日本の国富を次々と持ち出される現状を変えるためには、欧米とは法的に平等な立場になる必要があったのです。その結果、日本はアジアの雄として急速に台頭していきました。そして、それを象徴することが明治維新の25年後に起こりました。

明治維新後、日本からハワイに移民が渡っていきました。勤勉で正直、親切で宥和的な日本人移民はハワイの国王らに歓迎されていました。当時の日本はハワイを対等国家として認めた通商条約を結んでいました。一方、アメリカも捕鯨活動の重要な補給基地としてハワイに目をつけていました。イギリスやフランス、スペインもやってきました。しかし、それらの国々は、対等な条約を結んでいた日本とは異なり、武力をちらつかせて国王をおどし、ともすればハワイを植民地にしようと狙っていたのです。

すでに北アメリカ大陸の多くを国土にしていたアメリカのやり方は狡猾でした。ハワイへのアメリカ人移民を徐々に増やすと、ハワイの各地で騒乱を起こしました。そして、「アメリカ人保護」を口実に海兵隊を投入して占領しようとしたのです。そこでハワイの国王は日本に援軍を求めました。実はその5年前、日本からのさらなる移民を求めてハワイの国王は東京を訪問しました。でも、真の目的は、ハワイの王女を皇室に嫁がせたいという希望を明治天皇に伝えるためでした。それほどまでにアメリカの脅威は深刻だったのです。

結局、前例がないことから女王を皇室に嫁がせるという国王の望みは叶いませんでした。しかし、日本はハワイの求めに応じて東郷平八郎が率いる軍艦2隻を派遣します。日本の軍艦がハワイ沖に出現したとき、現地の人たちは涙を流して喜んだといいます。その結果、アメリカが企んでいた騒乱は一時的に影を潜めました。日本は約半年にわたってハワイに軍艦を駐留させます。ところが、翌年に日清戦争をひかえていた日本は2隻の軍艦を撤収させます。するとまもなくハワイ国王は追放され、アメリカに併合されました。

ハワイを併合する50年前、アメリカはメキシコから今のテキサスやカリフォルニアの土地もハワイと同じような方法で奪い取りました。当時のメキシコの領土は北アメリカ大陸の半分を占めていました。しかし、アメリカはたくさんの不法移民を国境付近に移住させ、テキサス地方を共和国として独立させるとそれを承認・併合して自国としたのです。カリフォルニア地方は戦争をして奪いとりました。今、アメリカに国境を超えて流入してくる不法移民には「ここはかつてメキシコ」という意識があるのかもしれません。

アメリカがメキシコにしたことは、今、ロシアがウクライナにしていることと同じ。メキシコ国境からアメリカに難民が流入している現在の状況も、かつてアメリカがメキシコにおこなったことと同じです。反米の立場をとる国家に対しては、今でもその国内を混乱させ、国民を扇動して政権の転覆をはかっています。あるいは日本軍が真珠湾を攻撃したときと同じように、相手国に戦争をしかけてくるよう仕向けて反撃するという方法も繰り返しています。アメリカはまさに歴史を繰り返しているのです。

世界史を俯瞰すると、これまでのアメリカの覇権主義の歴史は、共和制から帝国となったローマの歴史に酷似しています。イタリア半島の都市国家だったローマは、もともとギリシャの政治制度をもとにした共和制をとっていました。周辺諸国からの移民を積極的に受け入れ、多様な人種、宗教、文化を受け入れる鷹揚さによって発展しました。そして、ローマはゲルマン民族を傭兵として雇いいれ、重装歩兵として強力な軍隊を持つにいたると周辺諸国を屈服させて、懐柔しながら勢力を拡大していきました。

しかし、戦争を繰り返し、国家が大きくなればなるほど、豊かになればなるほど社会の格差は拡大しました。そして、ローマ民主主義の根幹をなしていた元老院や民会は腐敗し、社会には汚職や暴力が横行するようになります。その結果、人々の不満や不安は高まり、政治の機能が行きづまりはじめ、ついにオクタウィアヌスが実権を掌握して皇帝に就任。共和制ローマはローマ帝国となりました。ローマ帝国はその後、農耕を奴隷農民に、守りを異民族の傭兵に頼ります。その一方でローマの人たちの市民意識は低下するのです。

ふたたび社会に安定を取り戻して繁栄したローマ帝国でしたが、為政者の慢心と対立によって社会はふたたび混乱します。富める者はさらに富み、没落する者はさらに没落していくと、社会を支えるべき中産階級が減少していったのです。そして、国内は不安と不満に支配され、異民族の侵入をきっかけにローマ帝国は東西に分かれます。東ローマはビザンツ帝国となり、西ローマ帝国は異民族の侵入によって滅亡してしまいます。そうした様子は、エスタブリッシュメントに支配される今のアメリカの未来を暗示しているようです。

市民、国民の帰属意識は国家が存続するために重要です。強大で強力なアメリカ合衆国が維持されてきたのは、まさに合衆国に対する忠誠があればこそです。アメリカの学生は授業が始まる前に次のような宣誓をします。「私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備え、分割すべからざるひとつの国家としての共和国に忠誠を誓う」と。最近は形式的に宣誓する子ども達が増えているようですが、多くは移民の子孫からなるアメリカ合衆国では帰属意識を醸成するために役立っているはずです。

アメリカ合衆国は州という共和国の集合体。だからこそ各州には州憲法があり、州最高裁判所があり、州軍や州警察があるのです。ネイティブ・アメリカンを放逐する一方で、世界中からやってきた移民とその子孫で繁栄したアメリカ。そのモザイクのような「アメリカという国家」を維持していくには帰属意識が必須です。しかし、情報網が発達し、いろいろな情報を手にすることができるようになった今、自国の「自由と正義」、「平等と民主主義」に疑問を持つアメリカ国民が増えているといいます。

アメリカの侵略と繁栄の歴史には、合衆国憲法が宣誓する「自由と正義」、「平等と民主主義」とは相容れない側面があります。第二次世界大戦後、とくに近年においてそれが顕著になっているようにも見えます。現在のアメリカは、その「自由と平等」や「正義」がBMLやLGBT運動に代表されるポリティカル・コレクトネス(政治的に偏った「正当性」)によって変質しています。それはまるで「おぞましい自由」と「倒錯した平等」によって「正義」が乗っ取られてしまったかのようです。

最近の我が国もそうした傾向が顕著です。それは政治家がバカだからなのですが、日本人の多くが戦後教育を受けてきた人たちで占められるようになったこととも無縁ではありません。戦前の教育にも誤りはあったにせよ、戦後の教育にはそれよりも遙かに深刻な問題があると思います。それを論じることは今回の主題ではないので控えますが、戦後教育によって日本人はものを考えなくなったように思います。たやすく周囲にながされる鈍感な国民を量産したのです。まさに53年前の三島由紀夫の予言どおりの日本があります。

歴史の転換点ともいえる今、アメリカの行く末は日本の行く末でもあることを再認識すべきです。日本で起きていることはもちろん、世界で起きていることに刮目し、自分のあたまで考え、判断できる日本人が増えなければ、混沌とする世界に日本は飲み込まれて消滅してしまいます。無関心に逃げ込まず、かといって教条主義に陥らず、何人にも利用されず、誰からも強制されない思考力をもちたいと思います。それが本当の意味での「自由であること」であり、「真の平等をもたらすこと」だからです。

 

風邪は治るが、治せない

新型コロナはもちろんインフルエンザの患者もだいぶ減り、一日に一人いるか、二人いるかという程度になりました。「風邪の症状があるのですが、どうしたらいいでしょうか」という問い合わせの電話の数も少なくなってきました。松戸保健所から定期的に届く感染情報では、いったん減少したインフルエンザ患者がふたたび増加に転じたりとその傾向は一定していないようです。しかし、ここ最近の当院の流行状況を見ても、インフルエンザも新型コロナもやがて減少に転じることでしょう。

当院では、風邪症状の患者さんが来院した際に、空間的な、あるいは時間的な隔離をおこなっています。つまり、待機する場所や診察・検査をする場所、あるいは来院してもらう時間などを調整しているのです。それは一般の来院患者さんに感染を広げないための工夫です。人によってはこうした工夫を不愉快に感じるかもしれません。しかし、感染症は流行を拡大させないことが重要です。感染症の患者さんの診療をするからには、そうした対策を講じなければならないことをご理解いただければ幸いです。

風邪やインフルエンザ、あるいは新型コロナウィルスについては繰り返し記事にしてきました(右上の検索エンジンで過去の記事を検索して下さい)。皆さんに知っていてほしいことがらは、以前も今もほとんどかわりません。この間、なんども同じ説明をしているにもかかわらず、なかなかわかっていただけないこともありました。しかし、世界的なパンデミックがようやく落ち着きはじめた今、あらためてかつてのブログを読んでもらえれば、冷静になって理解してもらえるのではないかと思います。

今回、これまで書いてきたことを少しまとめてみます。そして、医学知識のない一般の人が未だに勘違いしていること、あるいは、思い込んでいるにすぎないことを再認識するきっかけになれば、と思います。なお、必ずしも「絶対的に正しいこと」として書いていません。ですから、これから説明することを皆さんに押しつけるつもりはありません。また、私の主張が、これを読んで下さる方々のかかりつけ医の方針と異なっていたとしても、その医師の診療を批判するものでは決してありませんので悪しからず。

 

すでにご存知の方が多いと思いますが、いわゆる「風邪症状」とは、鼻水や咽頭痛、咳や熱といった症状の組み合わせをいいます。症状はおおむね軽い場合が多いかもしれません。原因はライノウィルスやコロナウィルスといったウィルスが感染しておこります。ウィルスは細菌と異なり自己複製ができず、感染した人の鼻やのど、気管の粘膜から侵入し、寄生した細胞にウィルスを複製させて増殖します。一般的に風邪の原因となるウィルスには、細菌に対する抗生物質のような特効薬はありません。

治療薬がない以上、風邪はからだに備わっている免疫力で治すしかありません。その免疫の中心的な役割をはたしているのが白血球(とくにリンパ球)です。からだがウィルスに感染すると炎症物質が作られ、その炎症物質が白血球を活性化し、体内に侵入してきたウィルスを排除しようとするのです。そして、ウィルスが排除されたのちも、しばらくは同じウィルスの感染に迅速に対応できるような状態が残ります。これが「免疫」と呼ばれるものです。ワクチンはこの免疫反応をおこさせるための物質です。

繰り返しますが、風邪(やインフルエンザ、新型コロナといったウィルス感染症)には特効薬というものがありません。つまり、風邪薬という名前の薬は「風邪を治す薬」ではないのです。風邪薬とは「風邪症状をごまかす薬」であるといってもいいほどです。ましてや「早めに飲めばひどくならない」というものでもありません。むしろ「風邪薬は早めに飲むと風邪が長引いたり、飲み続けると重症化を見逃すかもしれない薬」だとも言えます。風邪症状がつらくなければ飲まなくてもいい薬なのです。

その理由をもう少し詳しく説明してみましょう。感染症のときに熱がでるのは、からだの中に炎症物質が産生されるからです。この炎症物質が白血球を元気にしてくれます。その元気になった白血球がウィルスと戦ってくれるわけです。頭痛も炎症物質による症状です。熱がでたとき、あるいは頭痛のときに解熱・鎮痛剤を処方するのは、それらの薬が炎症物質の産生を抑制するからです。したがって、早めに、あるいは安易に解熱剤や頭痛薬などを服用すれば、白血球が十分な働きをしてくれないことがあるので注意が必要です。

つまり、「風邪かな?」と思ったからといって早めに風邪薬を服用すると、かえって風邪を治りにくくすることにもなるのです。それは風邪薬の中に解熱・鎮痛剤の成分が入っているからです。「熱がでたらすぐに解熱剤」という、多くの人にとって「当たり前のこと」は実は当たり前ではないのです。要するに、症状が軽いときの風邪に薬は不要なのです。他の人に感染を広めぬよう、安静にして体力の回復につとめ、寝ていればいいだけ。「風邪薬を飲みながら仕事(学校)に行く」なんてことはすべきではありません。

 

ただし勘違いしないでください。「薬を飲んではいけない」と言っているのではありません。症状が辛いのであれば服用して結構です。咳がつらいのであれば鎮咳薬を服用して下さい。発熱や頭痛だってつらければ解熱・鎮痛剤を服用してもいいのです。安易に、そして、定期的に一日三回服用してはいけないというだけです。「薬を毎日、しかも一日三回服用しなければ症状がよくならないときはどうするのか」とお思いの方もいるかもしれません。そのときは医療機関に電話をして相談すればいいと思います。

もちろん解熱・鎮痛剤を飲んではいけないケースもあります。まず、インフルエンザのときにロキソニンやボルタレンという商品名で呼ばれる解熱鎮痛剤を小児に服用させてはいけません。インフルエンザ脳症になりやすいことが知られているからです。インフルエンザ検査が陰性であっても、安全のためにこれらの解熱・鎮痛剤は使用しない方がいいでしょう。そのようなときはアセトアミノフェン(カロナール)という薬を使います。でも、痛み止めとしては弱い薬なので頭痛にはあまり効かないかもしれません。

ロキソニンやボルタレンといったアセトアミノフェン以外の解熱鎮痛剤(NSAIDsといいます)は、とくに妊娠後期の人には避けたい解熱・鎮痛剤です。お腹の中の胎児にとって重要な「動脈管」という血管にトラブルを生じる可能性が指摘されているためです。とはいえ、アセトアミノフェンを服用しても、必ずそのトラブルが起こるわけではありません。しかし、大切なことは、アセトアミノフェンだからといってむやみに服用して解熱しようとしたり、症状が軽いのに安易に使ったりしないことが重要です。

風邪になるとすぐに医療機関を受診する人がいます。「早期発見、早期治療」だからでしょうか。しかし、薬は症状に応じて処方内容が異なるため、症状がある程度そろってから受診した方がいいと思います。風邪症状があまりにもつらいとき、あるいは発症4日目に入っても改善傾向が見られない場合に受診すればいいのです。発症早期、あるいは軽症の方からの問い合わせに、「明日まで経過観察を」と指示することがあります。「なぜすぐに診てもらえないのか」と不機嫌になる人もいますが、意地悪をしているわけではありません。

インフルエンザや新型コロナの検査も同じです。しかし、これらの検査は「からだからあふれ出てきたウィルスの痕跡(抗原)」を検出するものです。症状がでてきてすぐに検査をしても、まだウィルスがからだからあふれ出てきていなければ検出できないのです。当院では「熱発(高熱)が出現しておおむね24時間が経過してから」と指導しています。どうしても早く知りたいときは従来のPCR検査が適していますが、重症でない限り早めに診断しなければならないようなケースは今はほとんどありません。

現在おこなわれているPCR検査の感度はかなり向上しています。新型コロナウィルスの検査がはじまったころは感度も特異度もそれほど高くはありませんでした。しかし、PCR検査の精度はどんどんと向上し、今はウィルスの断片があっただけで検出してしまうほどになりました。擬陽性の問題も決して無視できないほどになっているのです。新型コロナウィルスが流行し始めた頃、「できるだけ早く検査、なんどでも検査」といっている医師がいましたが、それがいかにいい加減なことだったかが今はおわかりいただけると思います。

 

今、サプリメントの健康被害のことが話題になっています。その健康被害が本当にあったことなのか、それとも過剰反応だったのか、結論がでるのにはもうしばらく時間がかかるでしょう。しかし、サプリメントが安易に使用されている現代社会のあり方に警鐘を鳴らす一例にはなったと思います。それは不要な薬をたくさん服用している患者さんにも、あるいは「薬はからだに悪い」という週刊誌レベルの言説に振り回され、必要な医薬品を服用せずにサプリメントに頼っている人にも警鐘になったかもしれません。

結論。風邪は自然に治ります。からだの中の白血球が戦ってくれるからです。風邪薬で治すことはできないのです。よもや「風邪を一発で治す薬」などありません。風邪にかぎらず感染症は本来ツラいものです。薬は症状を軽減するためのもの。点滴などは単なる水分補給の意味しかありません。水分補給のためだけなら経口からの方がよほど安全かつ確実です。抗生物質は細菌性の肺炎(あるいは扁桃炎など)を疑うときに処方することがあります。ウィルスが原因である風邪に対して処方しているのではありません。

なにが正解なのかは私たち医師にもわからないことがあります。そもそもケースによって対処法が異なる場合であればなおさらです。絶対的な正解はなくとも、「こうすべき」という標準的な指針はあります。我々はその標準的な指針にしたがって診療をしなくてはなりません。世の中にはいろいろな情報が飛び交っています。その情報はまさに玉石混淆。だからこそ、「世の中に流布されている情報は常に批判的に見るようにする」ことが大切。私が書いているこれらの記事の内容もまたしかり、です。

歴史の転換点(5)

2004年の「オレンジ革命」後、ウクライナとロシアとの関係が急速に悪化したことはすでに述べました。思えば、1998年にロシアも西側のG7に加わるようになり、ロシアとヨーロッパとのエネルギー供給をめぐる結びつきもより強固になっていきました。にもかかわらず、ソ連が崩壊すると、ポーランドやルーマニア、バルト三国やジョージアまでもが次々とNATOに加盟し、まるでNATOがロシアを包囲していくかのようでした。警戒したプーチン大統領はそのNATOの東進をやめるよう西側に繰り返し伝えました。

2010年以降のウクライナ国内、とくにクリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立は激化し、ロシア政府にとって看過することの出来ない「ロシア系住民に対するネオナチ活動」となりました。ロシア系住民たちがロシアに保護を求めるほど激しいものであったといわれています。2014年、ついにロシアはその求めに応じて軍をクリミアに侵攻させました。そして、クリミア半島では住民投票がおこなわれ、「ウクライナからの独立」を宣言したのです。それを受けてロシアはクリミアの独立を承認して併合しました。

ウクライナ東部のドンバス地方を中心とした戦闘も激化しました。そして、ドイツやフランスが仲介して戦闘を停止させる議定書が、ウクライナとロシアの間で「ミンスク合意」として締結されたのです。戦闘を停止させ、武装集団および軍備を撤収させた上でドンバス地方の自治を保証すること。さらに人道的な問題点を解決し、経済の回復と復興を進めることなどが合意されました。しかし、ミンスク合意はまったく守られず、ウクライナとロシアの双方が「責任は相手にある」と批難し合う状態が続いたのです。

当初はロシアが一方的に合意を無視したと報道されましたが、後になって仲介したドイツのメルケル首相が、「ミンスク合意は、ウクライナに時間を与え、同国が軍事的により強くなるために利用した」と目的を明らかにしています。つまり、ミンスク合意は、ウクライナがアメリカや西側諸国からの軍事的支援を受け、ウクライナ軍を訓練するための時間稼ぎに過ぎなかったのです。かくしてロシアのプーチン大統領は2022年にミンスク合意を破棄し、ドンバス地方の独立を承認しました。

その後、ロシア系住民を保護するための「特別軍事作戦」として、ロシア軍がウクライナとの国境付近に集結させました。しかし、アメリカと西側諸国はなぜか静観する姿勢を続けました。ロシアがさらに侵攻の準備を進めても、アメリカ軍やNATO軍はウクライナに軍隊を派遣するつもりはないと発表。ついにロシア軍がウクライナに侵攻すると、西側諸国は一斉にロシアに強く抗議しました。それに対してロシアは、撤退の条件としてNATOのウクライナへの拡大をやめ、ロシア国境付近へのミサイル基地を建設しないことを求めます。

しかし、そうしたロシアの主張は無視され、ウクライナ戦争は拡大していきました。そして、今や、ウクライナとロシア双方に多数の死傷者を出し、ウクライナのインフラは甚大な被害を被っています。欧米各国はウクライナ軍に武器と兵器を提供し、さらなる軍備を整えるための多額な資金を投じています。でも、ウクライナがロシアとの戦争に要したお金の多くは、アメリカの軍産複合体に戻り、それがエスタブリッシュメントを潤しているのです。ここにアメリカが戦争を継続する理由が透けて見えてきます。

当初、戦争を仕掛けてきたロシアに対する厳しい経済制裁は、速やかに効果をもたらして、ロシア経済を揺さぶり、武器生産能力に打撃をあたえると多くの識者が考えていました。しかし、実際にはそうはなりませんでした。むしろ、現在のウクライナとロシアの兵力の差は10倍にもなっているとされます。優勢だと伝えられてきたウクライナ軍でしたが、現在は圧倒的な劣勢に陥っているとの情報もあります。ウクライナ軍の兵力も枯渇しつつあるとの報道すらあります。もはやウクライナは疲弊しているのです。

 

最近、ロシアの「反体制派」とされるナワリヌイ氏が刑務所で死亡したと報道されました。ロシアが刑務所で病死を装って殺害したのではないかと疑う報道があります。しかし、ナワリヌイ氏はプーチンの政敵ではありません。彼はスラブ民族主義の活動家として、反アジアの思想をもち、ロシア人だけの国家の樹立をめざしていました。アメリカはロシアをいくつかの国家に分割して弱体化させる戦略をもっているといいます。ナワリヌイ氏はそうしたアメリカの戦略に利用されただけなのではないかともいわれているのです。

事実、ナワリヌイ氏側がイギリスの諜報組織(MI-6)と接触し、ロシア国内に「革命」という名の反政府運動を起こすため年間1000万~3000万ドルを用意するように交渉する様子が報道されています。しかもナワリヌイ氏が死亡したのがタッカー・カールソンとプーチン氏とのインタビューの直後。ナワリヌイ氏をうとましいと思っているプーチン大統領が処刑したのか、それともプーチンのインタビューによって分の悪くなった西側によって暗殺されたのか。あるいは単なる病死なのか。今のところ真相は不明です。

プーチン大統領はインタビューで、「欧米が軍事援助を停止すれば戦争はいつでも終わる」といいました。「われわれは和平交渉を拒否していない」ともいっています。ウクライナ戦争がはじまってまもなく、ウクライナとロシアの間で和平交渉が検討されました。しかし、当時のイギリスのボリス・ジョンソン首相がウクライナを訪れ、ゼレンスキー大統領に和平交渉を断念させたともいわれています。ジョンソン氏はそれを否定していますが、彼はウクライナ戦争に関するインタビューには今も応じていません。

 

ロシアのウクライナ侵攻をやむを得ないことだとは思いません。いかなる理由、どのような歴史的背景があろうと、武力で現行の国境を変更することは認めてはいけないのです。今回の戦争に対する直接的な責任はロシアにあります。その一方で、すべての責任がロシアにあるわけではありません。善・ウクライナ、悪・ロシアとは言い切れないのが今回のウクライナ戦争。NATOを強引に東進させた欧米にも責任があり、世界の覇権を目指すアメリカの戦略が今回の戦争の引き金になっていることも否定できないのです。

ウクライナ戦争がはじまったとき、私は「まるで真珠湾攻撃のときのようだ」と思いました。ロシアの人口の半分にも満たないウクライナが、軍事的にも優位な大国ロシアを相手に国家・国民を守ろうと戦っている。それが圧倒的に巨大な国・アメリカに挑む日本に重なったのです。また、アメリカの世界戦略に翻弄され、戦争をするところにまで追い詰められたロシアが、東アジアでの覇権をめぐってアメリカと戦争をするしか選択肢がない状態にまで追い込まれた日本のように見えたのです。

一方、ロシア系住民を保護するために侵攻したロシア軍は、第二次世界大戦時にポーランドに侵攻したドイツ軍のようにも見えます。大戦前、ポーランドがドイツに分割されたとき、多数のドイツ人がポーランドに移り住みました。そのドイツ系住民が迫害されているというのが侵攻の理由でした。しかし、後年、ドイツ人の迫害は実際にはなかったことが明らかになっています。同じように、今回のロシア軍がウクライナを侵攻のした目的が本当に「ロシア系住民の保護」だったのか。不信感は拭い切れません。

そんな複雑でナイーブなウクライナ戦争は早くも3年目を迎えました。この間、たくさんのウクライナ人が亡くなりました。とくに兵士として戦場に送られた青壮年の男性人口が激減しているのです。社会インフラも寸断され、戦場となった地域の復興にも莫大な費用が必要とされています。戦争が今終わったとしても、ウクライナの復興に必要な費用は70兆円を超えるだろうと試算されています。ウクライナの国民はもちろん、国家としての基盤もゆらぎはじめ、そろそろ限界だという噂もながれています。

ウクライナへの軍事援助・資金援助もアメリカの議会を通らなくなってきました。ヨーロッパ各国の支援も滞っています。そんな閉塞感の中で、日本からの資金援助に対する期待感が高まっています。日本は憲法の制限によって軍事的貢献ができないからです。期待されている額は数兆円にも上るとされています。台湾への中国の侵攻も現実味をおび、日本がそれに巻き込まれて有事となれば、西側諸国からの援助を得なければなりません。その保険という意味でもなんらかの貢献をすることが必要なのです。

しかし、日本が貢献すべきことは資金援助だけなのでしょうか。1991年に勃発した湾岸戦争のとき、日本が味わった屈辱を思い出してください。日本はアメリカ・ブッシュ父大統領の要請を受け、戦費を一部負担するため90億ドル(約1兆2千億円)を支出しました。また、湾岸戦争が終結したあと、国内での猛烈な反対運動の中(なぜ反対するのか理解できませんが)、日本は機雷を除去する掃海艇を派遣しました。にもかかわらず、「金は出したが、汗も血も流さなかったから」との理由で評価されることはありませんでした。

今回のウクライナ戦争への支援として、アメリカ・バイデン大統領から岸田首相に総額で約6兆円を超える額が密かに提示されているともいわれています。そして、岸田首相はそれを内諾しているとの報道もありますが、これらがウクライナ国民にとってどのくらい意味のあるものかよく検討する必要があります。アメリカの武器や兵器を購入する費用に消えてしまうだけでは意味がないのです。ウクライナのためになるのはもちろん、ロシアにとっても役立つような支援でなければなりません。我々の大切な税金が原資なのですから。

日本は今こそ「まともな国」に立ち戻らなければなりません。自分の国は自分で守れる国。安っぽい理想を掲げるだけではなく、現実的な役割をはたすことのできる、成熟した国家になるべきです。そして、他国の不幸に手を差しのべ、国際社会の一員としての義務をはたす国になるのです。衝突する国々があれば日本が調停し、西側でもなく、東側でもない、アジアの雄だからこそ可能な国際貢献をすることが重要なのです。真の「平和国家」とはそういう国家だと思います。

そのためには日本が、軍事的にも、外交的にも、また、国力という点からも、経済大国としてふさわしい自立した国家に生まれ変わることが必要です。日本にとっての「歴史の転換点」にはそんな意義があるのではないでしょうか。210年にもおよぶ鎖国状態から、国際社会の一員として再出発することを日本が決意したのが明治維新です。このとき明治天皇と明治政府が、国民に、そして、世界に向けて宣言した「五箇条のご誓文」をあらためて読み返してみてください。日本がいかに志の高い国だったかがわかると思います。

「五箇条のご誓文」

一、広く会議を興し、万機公論(ばんきこうろん:民主的な議論)に決すべし。

一、上下心を一にして、盛んに経綸(けいりん:国家の政)を行なうべし。

一、官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志をとげ、人心をして倦まざらしめんことを要す。

一、旧来の陋習(ろうしゅう:悪い習慣)を破り、天地の公道にもとずくべし。

一、智識を世界に求め、おおいに皇基(こうき:国家の礎)を振起すべし。

 

歴史の転換点(4)

ソ連が崩壊するまでの社会主義諸国は、経済は疲弊し、政権の腐敗も、もはや修正不能な状況にまでなっていました。そのような中でソビエト共産党の改革派ミハイル・ゴルバチョフは、グラスノスチ(政治改革)とペレストロイカ(情報公開)を導入し、経済を自由化して国家を活性化しようとしました。また、彼は共産党を維持しつつ、ソビエト連邦をゆるやかに結びつけ、アメリカ合衆国のような国家の共同体を作ろうとしました。しかし、それは元に戻すことのできないパンドラの箱を開けることでもありました。

1991年、ゴルバチョフの改革は失敗し、ソビエト共産党は消滅し、ソ連自体も崩壊してしまいました。すると、東側諸国は次々と分離独立を宣言。それまでの社会主義を捨て、西側の一員になろうとしたのです。しかし、それまで民主主義を知らず、独裁主義国家で生活してきた人たちにとって、「自由」はまさに「蜜」の味でした。共産国家のとき以上に汚職がはびこり、企業の私物化がはかられ、貧富の差が一気にひろがりました。そのありさまは共産主義の時代を懐かしむ人さえ出てくるほどのものでした。

そんな混乱を若きプーチンはどう見ていたのでしょうか。きっと祖父や父親から聞かされてきたソ連・ロシアの栄光がガラガラと崩れていくように感じたに違いありません。ソ連崩壊後、ロシアの国営企業が次々とアメリカ資本にただ同然の値段で売却されて外国企業になっていきました。民主主義や資本主義の現実を突きつけられ、プーチンは祖国ロシアをどう救えばいいのだろうかと思ったはずです。だからこそ、2000年にプーチン氏が大統領となって断行したのが民営化されたロシア国内企業の再国営化でした。

アメリカ資本といってもその多くがユダヤ系でした。国内の新興財閥もオリガルヒと呼ばれるユダヤ系のものであり、そのオリガルヒが富を独占する一方で国民の暮らしがなかなかよくなりませんでした。そこで、プーチンは財閥の解体にも乗り出します。このままではロシアが外国資本に乗っ取られてしまう。そんな危機感がプーチン大統領にあったのかも知れません。そのような中にあって、プーチン大統領はなんどもEUやNATOへのロシアの加盟を打診しました。しかし、その打診はことごとく拒否されました。

ロシアには世界有数の資源があります。冷戦終結後、その豊富な資源にドイツやイタリア、オランダ、スペインなどが依存するようになりました。石油や天然ガスなどがほとんど出ないウクライナも、ずっと以前からロシアの資源に依存してきた国のひとつでした。ロシアがヨーロッパに向けて敷設したパイプラインの中継基地として、ウクライナは格安の値段で供給を受けていたのです。しかもその一部を盗み取って売るという利権すら存在していました。しかし、ロシアはこれまでそれを黙認していました。

ウクライナは冷戦の終結とともに、ソ連の核兵器を手放し、「平和国家」として独立する道を選びました。そして、EUへの加盟とともにNATOへの加盟を望んだのです。ソ連が崩壊したとき、ブッシュ父はゴルバチョフに「NATOを1ミリたりとも東に進めない」と約束しました。にもかかわらず、アメリカをはじめとする西側諸国は、ロシアの緩衝地帯にあるバルト三国を、そしてポーランドやルーマニアといった国々をEUに加盟させ、NATOの加盟国にしていきます。それはロシアにとって国際信義に反することです。

 

NATOの東進がついにウクライナにも及びます。2004年、ウクライナの大統領選挙において、ロシアとの友好関係を重視するヤヌコビッチが当選しました。すると、投票に不正があったとする大規模な暴動が国内各地でおこりました。混乱ののちに再投票がおこなわれ、EU・NATO加盟を公約したユシチェンコが大統領に選ばれます。これが「オレンジ革命」です。ユシチェンコはEU・NATOへの加盟を加速させるとともに、ロシア語を禁止するなど反ロシア政策ともいえる法律も通そうとしました。

かくしてウクライナでの親欧米派と親ロシア派の対立が深まっていきました。このような対立を煽った背景には、アメリカのユダヤ人投資家であるジョージ・ソロスやウクライナ新興財閥(多くはユダヤ系ウクライナ人が創設)の多額の資金提供があったともいわれています。また、当時のアメリカ政府のヌーランド国務次官補(現在のバイデン政権では国務次官:彼女もウクライナからアメリカに移住してきたユダヤ人)がウクライナの大統領選挙に関与したこともオバマ大統領が後に認めています。

そんな親米派のユシチェンコ政権も内部崩壊していきます。ウクライナの内政に干渉する欧米諸国に嫌気が差す閣僚が続出した結果だともいわれています。政権の混乱によって国民の支持率を大きく落としていきました。そして、2010年の大統領選挙では再び両者が立候補しましたが、ふたたび親ロ派のヤヌコビッチが当選するという皮肉な結果となりました。しかし、今度もまた混乱が生じて収束しませんでした。その結果を不服としたデモ隊の反政府運動は拡大し、ウクライナ全土が騒乱状態となったのです。

国内の混乱はヤヌコビッチ大統領が東ウクライナに退避するところまで拡大しました。そして、ついにヤヌコビッチは政権を放棄する事態になりました。これを西側は「マイダン革命」あるいは「尊厳革命」と好意的に呼びます。しかし、この混乱に乗じて、ロシア系住民の多いウクライナ東部のドンバス地方やクリミア半島では、アゾフ大隊と呼ばれるウクライナ民族派グループがロシア人を襲撃するという事件が頻発しました。少なくない数のロシア人が虐殺されたともいわれていますが、その真偽は定かではありません。

クリミアは歴史的に特殊な地域です。クリミア半島は温暖な保養地としても有名でしたが、かつての帝政ロシアが勢力を南下させる足がかりとして重要な軍港セバストーポリを作りました。そして、早い段階からロシア人が移住し、今でも住民の多くがロシア系の人たちです。しかも、ウクライナ語を話すウクライナ人と共に、かつてクリミア半島周辺を広く統治していたモンゴル・タタール人の少数民族も住むなど、ソビエト連邦の時代から他民族によるクリミア・ソ連自治共和国となっていた地域でした。

ところが、第二次世界大戦中にタタール人が追放されて共和国は廃止されます。そして、ソ連・ロシア社会主義共和国直轄のクリミア州となりました。それはクリミア半島の戦略上の重要性を考慮してのことです。その後、ウクライナ出身のフルシチョフがソ連の最高権力者になると、1954年にクリミアがウクライナ・ソ連社会主義共和国に移管されます。これはフルシチョフ自身の故郷であるウクライナへの配慮だとも、豊かで広大な国土をもつウクライナとソ連との結びつきを強固にする狙いがあったのだともいわれています。

しかし、ソ連が瓦解をはじめると、クリミアの住民はソ連からの独立を求めました。そして、1992年になるとウクライナからも独立することを決議し、再びクリミア自治共和国となることを宣言します。以後、クリミア半島でのウクライナ人とロシア系住民との対立が激化するようになりました。しかし、1996年にウクライナで独立国家としての憲法が制定されると、ウクライナ国内でのクリミア自治共和国の地位が保証されました。このようにクリミアでは常にウクライナからの独立問題がくすぶる状態が続いていたのです。

ウクライナ国内の親欧米派と親ロシア派の対立は拡大していました。すでに説明したとおり、ポーランドに近いウクライナ北西部の地域はロシアに対する拒否反応が強い地域であり、ウクライナ語を話す人たちが多く住んでいます。一方の南東部はかつて「ノボロシア(新ロシア)」と呼ばれたロシア系住民の多い地域。とくにロシアと国境を接するドンバス地方はロシア語を日常的につかう住民が多く住んでいます。ドンバス地域ではアゾフ大隊によるロシア系住民の襲撃が続いていたともいわれています。

そうしたドンバス地方のロシア系住民を救出する「特別軍事作戦」が今のウクライナ戦争だとプーチン大統領は主張しています。この間、ドンバス地方の独立を承認し、ノボロシア全域をロシアの支配下に置こうとする作戦が進行しています。それに対してウクライナは欧米からの資金と軍事的な援助を得て、ロシア軍を押し返すべく反攻しています。しかし、圧倒的な軍事力をもつロシアに、ウクライナも徐々に劣勢になりつつあるというのが現状です。これまで支援してきた欧米にも次第に「援助疲れ」が見えます。

 

こうしたウクライナ戦争のゆくえに大きく影響しているのが、先に述べた「タッカー・カールソンとプーチン大統領の独占インタビュー」です。これまでマスコミが報じてこなかったことがいくつかここで明らかになったのです。例えば、前述したように「ウクライナはロシアにとって特別な場所」とプーチンが考えていること。あるいは「ロシアはなんどかEU加盟、NATO加盟を打診したがアメリカに拒否された」こと。さらには「プーチンはなんどもNATOの東進をやめてくれと頼んだ」こと、などがそれです。

その会見では、トランプ大統領のスキャンダルとして報道されてきたことのいくつかが、今回のウクライナ戦争とは無関係ではなかったこともわかりました。まさに今回のインタビューによって「これまで点でしかなかったことが線で結びついた」のです。トランプ氏とヒラリ・クリントン氏との選挙戦はまさに「舌戦」でした。公開討論会ではお互いを激しく非難する場面もあり、「史上最低の討論会」と呼ばれるほどでした。でも、このやりとりの裏には大きな真実が隠されていました。

皆さんは「エスタブリッシュメント」と呼ばれている人たちをご存じでしょうか。エスタブリッシュメントとは社会システムを支配し、自分たちに利益誘導をする構造および既得権益者のことを差します。大企業や有名政治家、大資本家や官僚機構、弁護士会や医師会などをふくめた、社会に働きかけることができる人たちがそれです。最近では、そうしたエスタブリッシュメントを監視するはずのメディア、あるいは、肥大化し、権力をもった社会的弱者団体までのさまざまなものがエスタブリッシュメントと化しています。

ヒラリー・クリントンは以前からクリントン財団を作り、アメリカ国内のさまざまなエスタブリッシュメントのみならず、諸外国政府や企業とのコネクションを使って多額の寄付を集めていることが知られています。クリントン財団は非営利財団で、もともと「クリントン記念図書館」を設立するために作られ、表向きは「慈善事業」を支援することを目的にしていました。しかし、実際には当時の民主党ヒラリー・クリントン国務長官(日本の外務大臣)の職権を利用した多額の寄付金の受け入れ先になっているのです。

アメリカが戦争をするときの歴代大統領に民主党出身者が多いのをご存じでしょうか。第一次世界大戦や第二次世界大戦に参戦したのも民主党の大統領のとき。第二次世界大戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争も民主党の大統領のときです。東欧諸国を巻き込んだボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とコソボ紛争もそうでした。「革命」によって政府を転覆させようとアメリカが介入したリビアやシリアでの大規模な内乱も民主党の大統領がサインをしたものです。共和党の大統領が関与したのは湾岸戦争・イラク戦争ぐらいです。

それは民主党が軍産複合体と呼ばれるエスタブリッシュメントと密接な関係にあるからだといわれています。海外で大規模な戦争をし、武器や兵器を消耗すれば軍需産業は潤います。現在のアメリカの軍事費はおよそ8700億ドル(130兆円)、世界の軍事費の約40%を占めます。日本の国家予算にも匹敵する軍事費を背景に、アメリカの軍産複合体とその関連企業は莫大な利益をあげているのです。武器・兵器もやがて老朽化します。戦争には兵器の在庫処分という側面もあるのです。ウクライナへの武器供与もその一例です。

ヒラリーとトランプによる大統領選挙中、「ヒラリー・クリントンのメール問題」というスキャンダルが報じられました。当時、国務長官だったヒラリー・クリントンは、情報の機密性を保持するため政府専用のサーバーを使ってメールのやりとりをしなければなりませんでした。それは在任中のすべてのメールを、後年になって歴史的に検証できるようにするためです。しかし、ヒラリーは個人のサーバーをつかってメールのやりとりをしていました。そのことを暴露したのがウィキリークスでした。

ウィキリークスはジュリアン・アサンジ氏(性的暴行容疑でイギリス政府に逮捕され、拘置所に収監中。現在、アメリカに引き渡しを要求されている)が設立しました。匿名のまま機密情報を公開することができるウェブサイトです。ヒラリーの個人的サーバーを何者か(ロシアの情報機関ともいわれています)がハッキングしてウィキリークスに投稿したのです。その結果、ヒラリーが中国を含むさまざまな国家や企業とやりとりをし、密かに多額の報酬や寄付を得ていることが明らかになりました。

トランプは繰り返しこの問題をとりあげました。しかし、メディアはヒラリーの疑惑を深掘りすることなく、むしろ、トランプ氏とロシアが共謀してヒラリー・クリントンの追い落としを企んでいると報道しました。しかし、実際には、ヒラリーと民主党がイギリスMI-6の元職員に多額の報酬を支払い、「トランプとロシア政府が共謀していた」という偽報告書を創作させ、報道させていたのです。結局、ヒラリーのメール問題は政府内で調査されましたが、「重大な嫌疑は見いだせなかった」という結論で終わりました。

また、アメリカのメディアは2020年の大統領選挙において「トランプ大統領がウクライナに圧力」という報道をしました。そして、トランプ大統領がウクライナ政府にバイデンの情報を調査するよう圧力をかけたとして、アメリカ議会が「アメリカの安全保障を危険にさらす職権乱用」の罪に問うて訴えたのです。しかし、メディアは「トランプ大統領がウクライナに調査を要求した内容」を報道することよりも、「他国に圧力をかけるトランプ大統領」というイメージを作る報道を恣意的に繰り返しました。

それはトランプ大統領がウクライナに要求した調査の内容が、「バイデン父子のウクライナにおける利権」に関わることだったからです。バイデンの息子ハンター氏は、ウクライナのエネルギー会社大手ブリスマの役員となり多額の報酬を受けていました。そのブリスマの不正をウクライナ検察が捜査しようとしていたのです。しかし、当時副大統領だった父ジョー・バイデンは「捜査を中止し、検事総長を辞任させなければアメリカは軍事支援を停止する」と圧力をかけました。トランプはその調査をウクライナに求めていたのです。

タッカー・カールソンとプーチン大統領のインタビューの感想を求められたヒラリーは「(タッカー・カールソンは)子犬のように役に立つバカ」と酷評しました。一方のバイデンは、すでに「歴史の転換点(3)」でもご紹介したようにプーチンを口汚く罵りました。こうしたヒラリーやバイデンのヒステリックな反応は何を意味しているのでしょう。また、ヒラリーやバイデンの疑惑は深掘りしないばかりか、トランプのイメージダウンを狙うかのような報道を繰り返すメディアの意図はどこにあるのでしょうか。

報道されないことがあります。そして、その報道されないことを「フェイクニュース」、あるいは「陰謀論」と一蹴する人も少なくありません。しかし、メディア・報道機関もエスタブリッシュメントのひとつであることを知るべきです。とくにBLM運動以降のアメリカのメディアの偏向ぶりには疑問を持たざるを得ません。それはまるで真実を報道する機関というより、イデオロギーの宣伝機関かのようだからです。ときには特定のポリティカル・コレクトネス(政治的正当性)に支配されているようでさえあります。

とても長い記述になりましたが、最後に「歴史の転換点(5)」でウクライナ戦争を総括します。

 

歴史の転換点(3)

今、アメリカでは11月の大統領選挙に向け、民主党・共和党両党の候補者を決める選挙がおこなわれています。民主党の候補には現職バイデン大統領が有力とされていますが、アメリカ合衆国大統領として最高齢であり、また、認知症の可能性も指摘されています。そのため、これからさらに4年間、大統領としての職責をバイデンがはたせるか疑問視する意見も少なくありません。「それなのになぜ民主党はそのようなバイデン氏を候補者にするのか?」についてはさまざまな憶測を呼んでいます。

一方の共和党の大統領候補として有力なのがドナルド・トランプ氏です。現状での共和党の候補者はほぼ彼で決まりだと思います。しかし、トランプ氏もすでに77歳であり、決して若い候補者ではありません。2016年の大統領選挙で彼は、事前の予想を覆して第45代合衆国大統領に選ばれました。日本のメディアを通じてアメリカのマスコミ情報を聞かされていた私たちにすれば、当然、民主党のヒラリー・クリントン氏が当選するものと思っていました。それは多くのアメリカ国民も同じだったかも知れません。

トランプ氏には上下院議員の経験はおろか、州知事の経験すらありません。タレントであり、巨額な資産をもつ不動産王にすぎないトランプ氏の政治的手腕を疑問視する意見が大半でした。しかし、そんなトランプ氏への国民の支持は、選挙戦を通じて徐々に拡がっていきました。そうした変化を冷静に見ていた人からすれば、彼が当選したことは決して驚くべき事ではなかったかもしれません。マスコミは予想を大きくはずしましたが、その失態は無視してその後もトランプ氏を否定的に伝えました。

トランプ大統領は、終始、マスコミから批判され続けましたが、彼が在任中の4年間にアメリカは戦争をしませんでした。世界に展開するいくつかのアメリカ軍をも撤収させたほどです。「アメリカ・ファースト」を訴えて臨んだ国内経済も復活しました。国境に高い壁を作って不法移民の流入を防ぎ、BLM運動で悪化した治安も徐々に回復させました。マスコミはトランプ氏をことごとく悪くいいます。しかし、彼のこれまでの実績を冷静に振り返れば、マスコミがかき立てるほど彼の実績は悪くはなかったと思います。

ロシアのプーチン大統領は「次期大統領にはバイデンが望ましい」とコメントしました。反トランプのマスコミはこぞって「トランプはプーチンに酷評された」と大喜び。しかし、プーチンがバイデンを評価したと思ったのもつかの間、タッカー・カールソンにプーチンは、歴代民主党政権が今回のウクライナ戦争にいかに関与してきたかを語りました。会見の感想を聞かれたバイデンは激怒し、「プーチンはクレージーなクソ野郎だ」と口汚く罵ったのです。あの会見はバイデンにとってそれほど衝撃的だったのでしょう。

バイデン氏に激しく批判されたプーチン大統領はいたって冷静でした。バイデンの激しい批判に対する受け止めを尋ねられ、プーチンは「ほら、だから彼は大統領にふさわしいと言ったんだよ」と余裕を見せます。ウクライナ戦争はロシアとアメリカとの戦いでもあります。ブッシュ(共)-クリントン(民)-オバマ(民)-トランプ(共)-バイデン(民)と歴代アメリカ大統領の働きぶりを見てきたプーチン大統領にとって、バイデン氏は取るに足らない大統領だと感じていたのかもしれません。

ウラジーミル・プーチン氏がロシアの大統領になったのは2000年です。ソビエト共産党を崩壊させたエリツィン氏の後継者として彗星のごとく出現した若き大統領プーチンはまだ48歳でした。ソ連が崩壊したとき、プーチン氏はKGB(ソ連のCIA)の職員として東ドイツに駐在していました。彼の父はソ連の海軍の傷痍軍人であり、第二次世界大戦ではドイツ軍と戦いました。また、祖父はプロの料理人としてラスプーチンの給仕をし、レーニンやスターリンにも料理を提供していたといいます。

そうした環境の中で育ったプーチンです。おそらく国際情勢に関する知識は誰よりも深く、ロシアやソ連の歴史にも詳しかったに違いありません。KGBの諜報員としての経験から、アメリカの世界戦略や諜報活動の実態にも精通していたことでしょう。そんなプーチンにとってバイデンがこれから何をしようとしているのかは推して知るべし。むしろ、政治的な経験をもたず、エスタブリッシュメント(既得権益者)とのしがらみのないトランプ氏の方がやりにくい相手だったかも知れません。

 

ウクライナとロシアの関係を考えるとき、とくに近現代の世界史を知ることが大切です。第一次世界大戦の直前、帝政ロシアは、かつてはプロイセンだったドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と国境をめぐって緊張状態にありました。そして、皇太子をセルビア人青年に暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告すると、同じ正教会のロシアがセルビアを支援するために出兵しました。かくして1914年、ロシアと三国協商で同盟を結んでいた英・仏を巻き込んで第一次世界大戦となりました。

しかし、ドイツとの戦費がかさんでロシア国内の経済は悪化。国民の不満はますます高まり、戦場の兵士すら戦意を喪失して逃げ出す事態になりました。混乱の収拾が付かなくなった帝政ロシアでは、1917年についにロマノフ王朝が終わり、レーニンらが指導する共産主義組織ボルシェビキが実権を握ります。これが十月革命です。ドイツはロシアのさらなる混乱を狙ってウクライナの分離独立を承認。ロシア国内の民族主義を力ずくで抑えきれなかったボルシェビキはバルト三国からウクライナにかけての領土を失いました。

1918年に第一次世界大戦は終わりました。でも、ロシアはクリミア半島を確保する戦果しか得られませんでした。そして、ふたたび皇帝一派が勢力を盛り返すのを恐れたボルシェビキは、幽閉していた帝政ロシア時代のニコライ皇帝一家を粛清しました。一方で、パリ講和会議で多額の賠償金が課せられたドイツ帝国が衰退すると、ロシア派ウクライナやコーカサス地方に赤軍を進めて再び領土としました。その後、ポーランドとの戦争でウクライナの半分を失いますが、1922年、ソビエト社会主義共和国連邦を樹立します。

レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが権力の座につきました。落ち込んだソ連国内の産業を振興させるため、スターリンはノルマを定めて資源の採掘、農作物の収穫を強力に推し進めました。集団農場での連体責任を強化し、収穫の取り立てには容赦がありませんでした。ウクライナでの取り立てはとくに厳しく、農民達の食料がなくなるほど過酷でした。数百万人の餓死者を出したと言われるこの人為的な飢饉をホロモドールといい、ウクライナ人に反スターリン・反ソ連(反ロシア)の感情が高まるきっかけとなりました。

ヨーロッパは歴史の転換点でも述べたように、ベルサイユ条約のあとのドイツでは、ナチス党が多くの国民の支持を得るようになります。ナチス党の党首ヒットラーは反共産主義を唱え、ユダヤ人やジプシー、有色人種や障害者の排除を訴えました。ユダヤ人とは本来、ユダヤ教を信仰する人たちのことを指します。ユダヤ人は人種ではないのです。スペインにはスファラディーと呼ばれるユダヤ人がおり、ヨーロッパにいる白人のユダヤ人はアシュケナージと呼ばれます。その他、有色人種のユダヤ人もいるほどです。

しかし、ヒトラーはユダヤ人を人種とみなして迫害します。彼の祖母がユダヤ人富豪の愛人であり、自分にもそのユダヤの血がながれていることを嫌悪したからだともいわれています。そもそもキリスト教徒にとって、イエス・キリストを十字架に送ったのはパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)だという思いがあります。かつてのキリスト教ではお金をあつかう仕事は卑しい職業と考えられていました。ですから、そうした仕事に従事することの多かったユダヤ人にはキリスト教徒たちから迫害をうける素地はもともとあったのです。

第二次世界大戦が勃発しようとしていたとき、ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいました。かつてポーランドの隣国にはハザールという国家があり、その国教がユダヤ教だった影響で多くのユダヤ人が住んでいたのです。しかも、ポーランドは度重なる戦禍によって、労働人口が少なくなっていました。そのため、勤勉なユダヤ人を積極的に受け入れていました。しかし、その後、ナチス・ドイツがポーランドを脅かすようになると、たくさんのユダヤ人が迫害を恐れてポーランドを離れていきました。

しかし、イギリスも、アメリカも、そしてソ連までもがユダヤ人との関わりを拒みました。唯一、日本だけがユダヤ人の欧州脱出を助けたのです。たくさんのビザを発給してユダヤ人を救った杉原千畝は有名です。しかし、杉原千畝がユダヤ人達を救う3年も前に、数千人にもおよぶユダヤ人のポーランド脱出に尽力した日本人がいます。日本帝国陸軍の樋口季一郎中将です。彼は日本陸軍の軍人でありながら、満州鉄道に列車を手配し、ロシアのオトポールから租界地のあった上海までユダヤ人を移送したのです。

当然、三国同盟を結んでいたナチスドイツからは強い抗議が来ました。そして、日本政府内でも査問委員会を開いて樋口中将に懲罰を与えることも検討されました。しかし、当時の東条英機関東軍参謀長の裁可もあったことから、樋口中将の責任は問われませんでした。むしろ、ドイツに対して日本政府は「これはまったくの人道上の問題であり瑕疵はない」と反論したほどです。樋口中将はその後、終戦間際のアッツ島からの無血撤退を指揮し、占守島では中立条約を破棄して侵攻してきたソ連を阻止して北海道を守りました。

多くのユダヤ人がポーランドからの逃げ場を失って隣国のウクライナに逃げてきました。しかし、ユダヤ人はかつてウクライナ人から重税をとりたててきた人たちです。ソ連に向けてポーランドに侵攻してきたドイツ軍は、ウクライナ人にとってはユダヤ人に対する恨みを晴らし、自分たちを奴隷のように扱ってきたソ連共産党を懲らしめてくれる英雄に見えたのかもしれません。「ユダヤ人狩り」というナチスの要請に積極的かつ自発的に協力しました。これがプーチン大統領がいう「ウクライナのナチズム」の背景です。

 

かくして、第二次世界大戦が終ってみると、ウクライナは独ソ戦の戦場となるなどして国土は荒廃していました。そして、第一次大戦と同様にドイツが降伏し、ソ連が戦勝国の一員となると、ウクライナはソ連邦のいちぶに戻りました。その後、ウクライナで収穫される小麦は、ソ連の重要な穀物として欠くことのできない存在となります。しかも、ウクライナをふくむ、北はバルト三国からグルジアなどがあるコーカサス地方にかけての地域は、ソ連をNATOから守る重要な緩衝地帯となり、重視されました。

ロシア、そして、ソ連は戦争を経験するたびに自国の発展の遅れに気がつきました。クリミア戦争では敵対していた英・仏の近代化が敗戦の原因であると気づき、自国の産業革命を進めるべく政策を転換します。また、第一次世界大戦では自国の軍備が量的に劣っており、それは工業化の遅れからだということを知ります。さらに、第二次世界大戦が終わると、コミンテルン(共産主義インターナショナル)がアメリカやイギリス、さらには日本をはじめとする世界を動かすのに重要な役割をはたしたことを実感しました。

とくに第二次世界大戦の前後においては、ソ連のコミンテルンが日米両政府の高官に接触し、両国の政策に関与していました。1933年にアメリカの大統領に当選したルーズベルトが、早々にソビエト社会主義連邦を承認したことは重要な転帰となりました。当時のソ連は満州への南下政策を進めており、日本と対峙していた中国の蒋介石を支援していました。その蒋介石の国民党軍と日本を戦わせ、弱体化した日本をのちに中国での権益を狙っていたアメリカと戦わせることが国益にかなうということをソ連は知っていたのです。

1930年代は米ソの蜜月の時代でした。ソ連の優秀な若手研究者が多数アメリカに留学しました。そのなかにはスパイも含まれていて、アメリカの最新技術を盗んでいったのです。しかし、第二次世界大戦後にそうしたソ連共産党の世界戦略が徐々に明らかになってくると、アメリカとソ連は袂を分かつことになります。そして、両国を中心とした東西の二極化が進み、冷戦という硬直化した世界になっていったのです。米ソ両国は軍事開発を進め、科学技術においても世界をリードする大国となりました。

こうした世界情勢は、最近の米中関係をみるようです。1979年にカーター大統領と鄧小平の間で米中国交正常化が合意されると、中国からたくさんの若手研究者がアメリカに留学しました。そして、中国は経済大国となり、アメリカを脅かすほどの存在になりました。こうした米中関係は第二次世界大戦前の米ソ間のそれに似ています。グローバリズムという美名のもとに、国境が不明瞭になった結果です。それにしても、ルーズベルトにせよ、カーターにせよ、世界の変革期にあるときのアメリカ大統領はいつも民主党です。

冷戦時代、ウクライナは、ソ連にとっては地政学的にも、軍事的にも、食糧安全保障という観点からも重要な地域となりました。ウクライナにはソ連の戦略ロケット基地が設置され、世界最新鋭の核兵器が貯蔵されていました。その代償としてウクライナは、ソ連から安価なエネルギーを供給されていたのです。しかし、ソ連が崩壊し、東西冷戦が完全に終結した1994年、ウクライナはブダペスト覚書きでソ連から独立するとともに、核兵器を放棄して「平和国家」を目指す道を選択しました。これは西側につくことを意味しました。

今も続いているウクライナ戦争は、EUやNATOというアメリカ・西側陣営と、それら西側国家への猜疑心を捨てきれないロシアとの戦いでもあります。ウクライナは歴史的にも、あるいは地政学的にも、東西陣営の間にはさまれた緩衝国家であり続けるという悲劇から逃れることができません。ウクライナに侵攻したロシアには大きな責任があります。それは免れることはできません。しかし、ウクライナ自身やアメリカの戦略にも問題があるのです。その辺のことは次の「歴史の転換点(4)」で詳しく書きます。

 

歴史の転換点(2)

ウクライナで冷たく凄惨な戦争が今も続いています。この間、ウクライナでは40万人とも、50万人ともいわれる人が命を落としました。祖国をあとにし、他国に避難したウクライナ人は600万人を超えています。ウクライナ国内で避難している人も360万人にのぼるといわれています。戦争前のウクライナの人口は約4000万人ですから、実に国民の4分の1にもおよぶ人たちが避難民となって慣れない土地で生活しているのです。こうした事実を知っている日本人がはたしてどのくらいいるでしょうか。

今回の戦争によって、かつて「ノボロシア」と呼ばれたウクライナ南部の美しい風景は一変し、とくに東部ドンバス地方の多くの建物ががれきの山になってしまいました。国際法で認められる戦争では、軍事施設に対する攻撃は許されていますが、一般人を標的にする攻撃は違法です。しかし、ロシアによる無差別攻撃は発電所や駅といった公共施設ばかりではなく、一般住民の住む集合住宅などをも無差別に狙っています。国民に恐怖心を与え、戦意を喪失させることが目的です。戦争の無慈悲さに今も昔もありません。

ウクライナ戦争は2月24日で3年目を迎えました。昨年の10月28日付けの当ブログで、私は歴史の転換点と題した小論を掲載しました。一介の内科医院に過ぎない当院のホームページに、このような政治的な記事を載せるのはどうかと思いました。しかし、マスコミからは正しい情報が流れてきません。また、混沌とした世界情勢にまるで関心がない人たちも少なくありません。私たちのまわりでいつ戦争がおこってもおかしくないのだということを喚起するためにあえてあの記事を掲載しました。

 

先日、アメリカの有名なジャーナリストであるタッカー・カールソンがロシアのプーチン大統領に単独インタビューしました。西側のジャーナリストが、ロシア軍のウクライナ侵攻が行なわれて初めてプーチンと会見するとあって、世界中の人が注目していました。私もこの会見に大きな関心をもっていた一人です。この会見を最後まで聞いてまず感じたことは、「もっと早くあのインタビューがおこなわれていれば、この戦争が早期に終結し、たくさんの犠牲者を出さずに済んだかもしれなかったのに」ということです。

タッカー・カールソンとプーチン大統領の会見を見てもうひとつ感じたことがあります。それは「ウクライナ戦争に対する私の見方はおおむね間違っていなかった」ということです。拙論歴史の転換点をもう一度読んでみて下さい。私がウクライナ戦争をどう見ていたかがおわかりいただけると思います。偏った情報しかながれてこない日本のメディアからではなく、インターネットをはじめとするさまざまな媒体から得られた情報をもとに考察することがいかに重要かがよくわかると思います。

それはまた、日本のメディア、アメリカのメディアが必ずしも正しい情報を伝えていない、ということでもあります。アメリカのメディアが伝える情報をまるで大本営発表かのようにながすだけの日本のメディア。それが意図的なことであれば、それは日本メディアの偏向ぶりを証明することになります。それが意図しないものであったとしても、それは日本のメディアの能力の低さをあらわすものです。タッカー・カールソンとプーチンのインタビューはそんな現実を白日のもとにさらした観があります。

あの会見の冒頭、プーチン大統領はウクライナとロシアとの歴史的関係を説明しました。それは30分近くにおよびました。その概略は拙論歴史の転換点で書いたものとほぼ同じといってもいいと思います。ウクライナになぜロシアが侵攻しなければならなかったのかについては、多少なりとも世界史の知識を理解しなければいけません。今回はその辺のことをもう少し詳しく説明してみたいと思います。ただし、あくまでも私の理解であり、間違っていることがあるかもしれません。そのときは遠慮なくご指摘ください。

 

日本が「鳴くよ(794年)ウグイス、平安京」だったころ、ヨーロッパ、とくに東ヨーロッパには国家らしい国家はほとんどありませんでした。さまざまな部族がまじりあいながら、小競り合いを繰り返しつつもそれなりにのどかな生活を営んでいた時代でした。しかし、当時、スカンジナビア半島に住む北方民族の雄・ノルマン人のバイキングがこの東ヨーロッパに侵入してきました。東欧を南北につなぐドニエプルやボルガなどの川を利用して黒海に出て、バルカン半島のビザンツ帝国と交易をするためです。

スラブ地域と呼ばれる東ヨーロッパに勢力を広げたバイキングでしたが、ここで取れる毛皮や肉ばかりではなく、征服した地域に住む東欧の人々を奴隷にするなどして交易範囲を拡大していきました。スラブ地域の住民を奴隷にしたことから英語では奴隷を「SLAVE」と呼ぶことはよく知られています。やがてバイキングのリューリク王が、862年にロシア北西部のノブゴロドという街に【ノブゴロド国】という国家を作りました。そのバイキング達は「ルーシ」と呼ばれ、この「ルーシ」が「ロシア」の語源だといわれています。

リューリクの息子たちはノブゴロドからさらに川をさかのぼり、今のウクライナのキエフを征服しました。そして、ここを拠点にノブゴロド国にかわる【キエフ大公国】を作り、その後、東ヨーロッパの交易の中心として栄えました。しかし、このキエフ大公国はその地政学的な特殊性から、周辺に勃興する国々と争いが絶えませんでした。国の領土を拡大し、ときに奪い取られながら、大公がビザンツ帝国の王女を妃として迎え、東ヨーロッパでの地位を確固たるものにしました。

 

その後、キリスト教が分裂してローマ教会とビザンツ帝国の正教会にわかれると、ビザンツとのつながりのあるキエフ大公国は正教会となりました。しかし、隣国で勢力を増してきたポーランドはローマ教会となったことから、キエフとポーランドの緊張は高まることになります。そんな不安定な情勢のなか、日本で鎌倉幕府が成立するころ、キエフ大公国はかつての首都ノブゴロド付近に【ノブゴロド共和国】が分離・独立。同時に、キエフ大公国の中心がキエフから北東部のウラジーミルに移ろうとしていました。

そんなキエフに襲いかかったのは、当時、最強の帝国といわれたモンゴル・タタール人でした。その頃、モンゴルは朝貢を拒否した日本にも来襲しました。鎌倉武士たちの奮闘と、神風ともいうべき二度の台風によって守られた日本はモンゴルを大陸に押し返しました。しかし、ヨーロッパにおけるモンゴルの勢いは止まりません。ジンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍がキエフ大公国とポーランド、ハンガリーを征服。これらの国々はモンゴルに朝貢しなければならない属国となりました。

しかし、モンゴルは異教徒を弾圧しなかったため、キリスト正教会はウラジーミルを中心に拡がっていきました。そして、ウラジーミル近郊にあるモスクワに【モスクワ大公国】が成立します。日本が室町時代になろうとするころのことです。ウクライナ周辺は急速に領土を拡大していたリトアニアに支配されました。リトアニアは隣国ポーランドと姻戚となり、それまでの正教会からローマ・カトリック教会に改宗しました。当然ながら、リトアニアに支配されていたウクライナの人々も改宗を求められました。

ところが、キリスト教正教会の守護でもあるビザンツ帝国が滅びます。すると、もともとビザンツ帝国と姻戚関係にあったモスクワ大公国に正教会の中心が移り、モスクワは「第三のローマ」と呼ばれるようになってキリスト教正教会の後継者であることを宣言します。かくしてキリスト教は、ローマ・カトリックと正教会の二大勢力に完全にわかれて対立するのです。同じキリスト教であっても互いに非なるものとして緊張関係が続き、ローマ教皇とモスクワ総主教がはじめて顔をあわせたのは2016年のことです

ちなみにプーチン大統領は、ノブゴロド国の首都ノブゴロドから100kmほどしか離れていないサンクトペテルブルグの出身です。ですから、プーチンがノブゴロド国やキエフ大公国という国家があったことや、これらの国が今のロシアの源流になっていたことを知らないはずがありません。そして、ウクライナとロシアが言語や民族、信仰や風習などで簡単に線引きできない関係にあることも熟知しています。ましてや近現代にいたってもなお両国が不幸な歴史をひきずっていることも十分知っているのです。

 

ウクライナの特殊性についてもう少し説明します。これまで書いてきたように、ウクライナの地はたびかさなる隣国の侵略によって、民族も、宗教も、国教すらもめまぐるしく変わる地域でした。モンゴルの属国だったモスクワ大公国は次第に国力を高め、日本が戦国時代だったころ、暴君として有名なイヴァンが国の名を【ロシア・ツァーリ】と改め、モンゴルを裏切って朝貢を拒否するまでの大国になりました。ツァーリとは皇帝のことであり、その後のロシアは北は北極海、南は黒海近くにまで領土を拡大します。

しかし、日本が江戸時代を迎えるころになると、リューリクから続いてきたリューリク朝のツァーリが途絶えてしまいます。そして、ロシアでは次々とツァーリが代わり、その混乱に乗じてポーランドが侵攻してくるなど、ロシア国内は混乱と混沌を極める状況に陥ります。そんな状況を救ったのが、その後、300年も続くロマノフ朝の祖ミハエル・ロマノフです。彼はウクライナやフィンランドなどの周辺の領土をポーランドやスウェーデンに譲歩して和平を進める一方、シベリアの征服を進めていきました。

ところが国内の経済は次第に悪化し、たくさんの農民が土地を放棄して暖かい地方に移住しました。そこで、農民が土地を移動するのを禁止し、地元の有力者が税金を徴収する「農奴制」を確立させました。そのころリトアニア・ポーランド共和国の一部になったウクライナでは、国王がローマ・カトリックへの改宗を住民に強制し、奴隷農家から税金を徴収していました。その税金を厳しく取り立てていたのが異教徒のユダヤ人です。こうした背景があってウクライナ人に反ユダヤの感情が生まれます。

不満を高めたウクライナ人はロシアの力を借りてリトアニア・ポーランドと戦います。ウクライナにはコサックというモンゴルの騎馬戦法を引き継ぐ強力な軍事集団がいました。そのコサックの活躍もあって、ロシアとポーランドとの戦争はロシアが勝利しました。かくしてウクライナはロシアの領土となりました。しかし、ウクライナは、今度はロシアから課された重税に苦しむことになります。なんどか反乱を企てますが失敗。ロシアとスウェーデンとの戦争にも巻き込まれ、平和で安定した国土にはなかなかなれませんでした。

ロシアがユーラシア大陸の大半をおさめる【ロシア帝国】に名を改めたころ、日本はまだ徳川吉宗の時代でした。領土拡大を進めるロシアはベーリング海峡を発見。そして、エカチェリーナが女帝となるころにはアラスカまで領土は拡がります。ロシアはついにはポーランドを属国にし、その一方でオスマントルコとの戦いを有利に進めるなど勢いはとどまりません。ロシアはクリミア半島からオデッサまでを領土にし、その地域には多くのロシア人が移り住んで「ノボロシア(新しいロシア)」と呼ばれました。

以上、長々と書いてきた歴史的変遷を、プーチン大統領はタッカー・カールソンとの会見で披露しました。プーチンがウクライナを「特別な場所」と呼び、ウクライナ戦争を「南東部の地域に住むロシア系住民を守るための軍事作戦」と説明するのはそうした背景を知らなければ理解できません。ではなぜ、今、軍事力を行使してまでウクライナ国内に侵攻しなければならなかったのか。それについては次の歴史の転換点(3)で解説したいと思います。

地震災害へのお見舞い

令和6年能登半島地震に際して亡くなられた方のご冥福と、怪我をされ、被災された方たちの日常が一日も早く回復するよう心よりお祈りします。

2023年8月14日に当ブログに掲載した記事「琴線に触れる街」を再掲します。あの街並みは変わってしまったでしょうか。北陸の風景はもちろん、そこに生活する人たちの心も変わりませんように。

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以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

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「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

 

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

 

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。