荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば開復手術しか治療法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。

健さんに想いは届いたか

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

夏、恒例の番組と言えば日本テレビの「愛は地球を救う 24時間テレビ」だと思います。私は「あまのじゃく」なので、あの手の番組が偽善に見えたり、「お涙ちょうだい」に見えたり、ひょっとすると社会的弱者がマスコミの商業主義に利用されているように見えたりするので、24時間テレビの放送をしているときはまったくといいほど日本テレビにチャンネルをあわせません。ですから家族が24時間テレビを見ていようものなら、「なんかさ~」とケチをつけては家族のひんしゅくを買っています。

ところが今年はその24時間テレビでちょっとしたハプニングがありました。「今年の24時間テレビは二宮君が硫黄島を訪れたときの様子を紹介した番組がよかった」と友人から聞いた家内はその番組をDVDに落としてもらいました。家内は夕べ、そのDVDをリビングで見ていたのですが、かねてから映画「硫黄島からの手紙」で二等兵を演じた二宮君の演技のうまさに感心していた私もつい一緒にその番組を見てしまいました。なるほど噂どおりよかったのですが、その番組のあとに放送した「岡田准一君が高倉健さんのゆかりの地と健さんと親交のあった人たちを尋ねる番組」にそのハプニングはおこりました。

なんと私が健さんを偲んで書いたメッセージがテレビ画面いっぱいに映し出されたのです。今年の夏、私たちは家族四人で北海道を旅行しました。久しぶりの北海道でした。この旅行の目的は昨年亡くなった大学の後輩の遺影にお線香をあげることと、同じく昨年亡くなった高倉健さんを偲んで夕張の「黄色いハンカチの撮影現場」に行くことでした。とくに後者は、映画「黄色いハンカチ」が大好きな小学校三年生の次男も、是非そのときに使われた車(マツダ ファミリア)を見てみたいといっていたこともあって、今回の旅行のメインイベントになっていました。

千歳空港についた私たちはさっそく「黄色いハンカチ」が撮影された夕張を訪れました。その撮影現場には映画で使用された建物が残っていて、そのひとつに入っていきました。そこには次男が見たいと言っていた映画に出てきた実際の車が展示されていました。また、その建物の内部にはメモ用紙ほどの黄色い付箋が壁と言わず、天井と言わず、何万枚・何十万枚という数が貼られていました。私も家族も、天国の健さんに自分の思いを伝えようと各自ひとこと付箋に書きました。私は「高倉健様 あなたの雄姿にどれだけ力付けられてきたかわかりません。安らかにお休みください」と書きました。あらかじめ考えていたわけではないのでなんだか気持ちがたかぶってしまっていい文章にはなりませんでしたが。

でも、そのときの私の付箋がでかでかとテレビ画面に映ったのです。そのとき、なんだか自分の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。あの付箋が私のものだとは私でなければわからなかったでしょう。私がいつものように「24時間テレビなんてさ~」とこの番組を見なかったら、誰もこのことを知ることなく終わっていたはずです。だから、テレビ画面に私の付箋が出てきたとき、私の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。もちろん健さんには会ったこともありませんし、健さんは私の存在すら知らないのですが、今回のハプニングは「人知れず頑張っている人が好きな健さん」が私を励ましてくれたように感じられてとてもうれしかったです。

11月で健さんが亡くなって1年になります。それを思い出すたびに、昨年、ニュースで健さんの訃報に接したときの虚無感がよみがえってきます。でも、健さんは言っているんだと思います。「人間には順番がある。今度は俺の代わりにみんなが次の世代になにかを引き継ぐ番だ」と。私はあまのじゃくですし、これといって取りえがあるわけでもありません。でも、そんな私にもなにか次の世代に引き継ぐべきものがあるのかもしれない。それがなにかは今はわかりません。ひょっとすると、それがわからないまま人生が終わってしまうのかもしれません。でも、次の世代が私の背中を見てなにかを感じてくれるような、そんな人間に近づけるよう頑張りたいと思います。うれしくて今晩も眠れそうにない。

※「高倉 健、永遠なれ」もご覧ください。

アメリカ滞在記(2)

この記事は平成28年5月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学は3つのキャンパス(北キャンパス、中央キャンパス、メディカルキャンパス)からできています。私たちが住んでいたのは北キャンパスにある大学の留学生用の宿舎でした。木造2階建ての決して大きくはない宿舎でしたが、私と家内のふたりでしたから広さという点ではまったく不満はありませんでした。家具も備え付けで冷暖房も完備され、週1回でしたが室内を掃除してくれるハウスキーパーもいました。周囲を森に囲まれ、自然がとても豊かでした。滞在中の生活はとても健康的で快適でした(それらのことは「年頭の所感」の回にも書きましたのでお読みください)。

宿舎の近くにはサッカーやバーベキューができる広場があって、お休みの日になると憩いの場になります。私たちの宿舎が家族用だったのか、人種の異なる入居者にはどの家族にも小さなお子さんがいるようでした。遊んでいる日本人の子どもなどは日本語と英語をチャンポンで話していて面白かったです。私たちが住んでいた部屋には朝になるといつも決まった時間に2匹のリスがやってきました。以前、この部屋に住んでいた留学生が餌付けでもしたんでしょうか。窓のすぐ近くまでやってきてはもの惜しそうに部屋の中を覗き込んでは巣に戻っていきました。

宿舎に出没するリスはそれなりに可愛かったのですが、大学のキャンパスにいるリスはとてつもなく大きく、野良猫かと思うほどです。しかも、駆け寄ろうとしたとたんにこちらを威嚇するようにスゴんでくるのにはびっくり。実はこのリス、Wolverineという凶暴なリスなのです。友人からは「中には狂犬病のリスがいるから注意しろ」と教えてもらってからは、キャンパスのリスがまるでスティッチか、はたまたグレムリンのように見えてきます。アメリカの大学構内の芝生で学生がのんびり横になって本を読んでいる姿をテレビなどでよく見かけますが、私にはとてもそんな気にはなれませんでした。

大学構内に出没するWolverineはミシガン大学のフットボールチームの名前にもなっています。ミシガン大学のWolverines は全米でも強豪のチームです。ミシガン大学は来年2017年に創立200周年を迎えるのですが、構内には歴史を感じる建物も多く、自然に囲まれた素晴らしい環境にあります。秋のシーズンに入ると、アナーバーはすっかりフットボール一色になって、ダウンタウンのはずれにあるフットボールスタジアムからはものすごい歓声が聴こえてくるようになります。その大学のマスコットともいうべきWolverineがあれほど大きく、凶暴とは思ってもみませんでした。

自然あふれる環境といえば聞こえはいいのですが、それは自然と共存しなければならないことを意味しています。その事件はナイアガラの滝まで3泊4日の旅行から帰ってきた日に起こりました。アメリカでの生活も残り少なくなり、記念になるからということで計画したものです。アナーバーからデトロイトを抜け、カナダとの国境を通過してナイヤガラに向かいました。出発当日の朝は猛烈な雷雨に見舞われましたが、カナダとの国境を抜けるころには雨が上がり、ナイアガラに到着したときには夏の日差しがもどる快晴に。その後も天気は恵まれ、長旅ではありましたがとても楽しい旅行でした。

ミシガンの宿舎にもどった私たちは、疲れもあって夕食もそこそこに床につくことにしました。ずっと車を運転していたせいか、眠いけど眠れない状態がしばらく続いてゴロゴロと寝返りを繰り返していました。そんなとき、私たちの寝室の扉の向こうから何かが繰り返しぶつかってくる音が聞こえてきました。それは夢ではなく、間違いなくなにかがドアにぶつかる音です。家内も目覚めてそれに気が付いたらしく、「あれ、なんの音?」と不安そうにつぶやきました。私がじっと耳を澄ましていると、「ねぇ、なにか見て来てよ」と家内。私はその音の正体を見極めるために寝室のドアに向かいました。

そっと扉をあけて照明をつけましたが、室内はいつも通りで床にもなにも落ちていません。部屋中を見まわしましたが、なにかが潜んでいる気配はありません。もしかするとネズミか何かが室内を駆け回っているんじゃないかと思った私は、怪しい場所をモップの柄でつついてみたりしましたがなにも出てくることはありませんでした。「なにもいなかったよ」とベットに入り、早く寝てしまおうと思いましたが、しばらくすると再び寝室の扉にぶつかる音が。「ちゃんと見て来てよ」と家内にせかされながら、もう一度室内を捜索に向かいましたがやはりなにも見つかりませんでした。

「やっぱりなにもいなかったよ」と言う私に、家内は「なにもいないはずないじゃない」ときっぱり言いました。ごもっともです。何度もあの音を聴かされれば、なにもいないはずがありません。私は仕方なくまた室内を見回りに。内心なにかが飛び出してくるんじゃないかとびくびくしながらでしたが。ところが、洗面所を見回ったときのことでした。ついに流し台の上に鳥のフンのようなものを見つけてしまったのです。直感的にこれを家内が知ったらきっと彼女は大騒ぎするだろうと思いました。そこで、このことは黙っておくことにしました。私はそのまま何事もなかったかのような振りをして寝室に戻ったのです。

「やっぱり見つからないから続きは明日にしようよ」。そう言って眠ろうとしたのですが、しばしの沈黙のあと、家内がいぶかしげに言いました。「なにかいたんでしょ?」。「す、するどいっ」と私は思いました。「い、いや。なにもいなかったよ」。「うそだっ。なにかいたんだ。わかるんだからね」と家内はすごい剣幕です。「なんでわかるのよ」とブツブツ言いながら、今度は天井を中心に小鳥が留まっていないか慎重に見てまわりました。家内も私の後ろから心配そうに見ています。そしてついに見つけたのです。室内の観葉植物の枝になにか黒っぽいものがぶら下がっているのを。

そうです。それはコウモリだったのです。胴体は決して大きくはありませんでしたが、翼を広げると30㎝にはなる大きさです。なんだろうと覗き込んだ私に向かって、突然そのコウモリが飛び始めたのです。あまりにもとっさのことだったので、私はびっくりしてしまい寝室に逃げ込もうときびすを返してダッシュ。コウモリの動きは不規則で俊敏です。それはまるで私の苦手なゴキブリのよう。私はあまりの恐ろしさに我を忘れて寝室に駆けていきました。ところが私の前を走って逃げていた家内は、私が部屋に入る前に扉を閉め、鍵をかけて閉じこもっってしまったのです。

「開けてくれぇっ!」。ドンドンと扉を叩きながら助けを求める私を家内は部屋に入れてくれません。ドアの向こうで家内は「コウモリを外に出してよ」と叫ぶばかりです。私はこの非情な仕打ちに我に返りました。そして、勇気を出してコウモリを駆除することにしました。それはまるで映画の中で謎の生物と戦うヒーローのような気分でした。結局、ビニール袋を使ってコウモリを外に逃がすことに成功しました。あとでわかったことですが、スイッチを切っていた浴室の換気扇からコウモリが室内に入り込んだようです。この辺はリスも多いが、コウモリも多いことを友人から聞きました。

それにしても、今は笑い話しになったこの事件ですが、ドアの外に締め出されたときは恐怖のドン底に落とされた気分でした。家内もパニックになって前後不覚におちいってしまったのでしょう。こんな事件があっても、その後、夫婦仲が悪くなることもなく、アメリカでの楽しい生活を完結できたのは我々夫婦のきずなの賜物だと思います。ちなみに、その後、札幌に戻った私は今度はカラスに襲われることになります。またもや黒い飛翔体からの襲撃。頭を鷲づかみにされながらからくも逃げましたが、ミシガンで扉の外に取り残されたあの恐怖感を思い出しました。でも、不思議と懐かしい思いがして不快ではありませんでした。そのくらいミシガンでの生活が楽しかったんだと思います。またあの頃に戻りたい。

アメリカ滞在記(3)」もご覧ください。

 

子どもたちへのエール

息子の高校受験が終わりました。第一志望の学校は、一次の学科試験には合格したものの二次の面接で不合格という残念な結果に終わりました。息子の学年から大学入試制度が大幅に変更されるため、考えることは皆同じで、今年は大学附属の高校が軒並み志願者を増やしました。しかも、どの学校も合格者がしぼられていました。息子が行きたかった高校も例外ではなく、志願者が増えたにもかかわらず合格者が大幅に減らされ、ボーダーラインだった(であろう)うちの息子がそのあおりを受けたということかもしれません。

第一志望の学校はダメだったとはいえ、第二志望の学校に合格できたのですから立派なものです。振り返ればいろいろありました。それまで通っていた私立の中学校をやめ、地元の公立中学に転校して本当に行きたい高校を受験するという決断をしたのが中二の夏休み直前。寮生活という慣れない環境になじめなかったのか、帰省して帰って来るたびに元気がなくなる息子のことが少し気になっていました。勉強の方もぱっとしていませんでしたし。ですから、息子の決意を聞かされたときは驚きませんでした。

息子から「学校をやめようと思うんだ」と送られてきたメールに私はなんの躊躇もなく「帰っておいで」と返事を送りました。正直にいって親として不安がなかったといえば嘘になりますが、「よくぞそこまで決心した」という誇らしい気持ちの方が強かったのです。リスクを負いながらも自分の夢を実現するために捲土重来を期す決断をしただけ成長したわけですし。私の目にはそうした息子の成長がまるで若かりしころの自分と重なるようでうれしかった。ですから、彼の決意に水を差す気持ちにはまったくなりませんでした。

そうとはいえ、彼なりに悩んだすえの決断だったのかもしれません。私は彼に「学校をやめると決めた以上は結果を残せるよう頑張りなさい」と釘を刺しました。道のりはそう楽なものではないということはわかっていました。なぜなら彼が目指した学校はそう簡単には合格できないところだったからです。もっと正確にいえば、そのときの成績ではとても合格できそうにない学校を彼は目指していたのです。しかし、当の本人は、そうした自分の現状を知ってか知らずか、重大な決断をしたわりには淡々としていました。

自宅に戻ってきた息子と私は、それ以後、まさに二人三脚ともいえるように勉強しました。それまで、春休みや夏休み、冬休みといった長期休暇を利用して学校の教科書の予習をやっていました。そのせいもあって私立中学校での数学と英語の成績はなんとかなっていました。また、前の学校では先取り授業をしていたので公立中学校の授業はまったく問題ありませんでした。しかし、高校入試のレベルということとなるとまだまだ十分ではありません。私たちは前の学校で使っていたテキストの総復習からはじめました。

心配だったのは息子の集中力でした。彼は集中力が持続しないのです。勉強中、ふと顔をのぞきこむとすぐに「あっちの世界」に行ってしまっていることがわかります。そんなとき、私はあえて強く叱ります。「そんなにやる気がないならもう教えないぞ。俺が教えなくなったらお前はもうお仕舞いだからなっ」。まるで脅し文句のような言葉を息子に吐きつけなければならないこともありました。でも息子にはこの言葉が一番こたえます。不満そうな顔をしながらではありましたが気を取りなおしたように机に向いました。

というのも息子には「前科」があるのです。それは中学受験のときのこと。彼はとある進学塾に通ってはいたものの、一番下のクラスで鳴かず飛ばずの状況が続いていました。そもそも私が息子に中学受験をさせようと思ったのは、もし結果として公立中学校に行くことになっても受験勉強で学んだことはきっと役に立つはずだと考えたからです。「なんとしても私立の中学校に」という気持ちはありませんでした。ですから、たとえ結果がどうであれ、受験勉強をするからにはしっかりやってほしかったのです。

しかし、当の息子にそのモチベーションはありませんでした。当時の彼にも「どうしても私立に」という強い気持ちもなく、「親に言われるから」やっていたのですから無理もありません。勉強には真剣さが感じられず、おまけに家内から10時には就寝するよう命じられていたのでは塾の宿題すらこなせるわけがない。結果として一番下のクラスに漂う潜水艦状態に。ついに私が息子の勉強を見ることになりました。仕事から帰ってきて簡単に夕食を済ませてから息子に勉強を教えるのです(10時就寝厳守)。

私自身、大変は大変でした。仕事で疲れて帰ってきてから家庭教師をするのですから。しかし、苦労の甲斐があって、比較的短い期間で塾でのクラスは上がっていきました。もう少しで一番いいクラスに入れそうになったとき、ついに私の堪忍袋の緒が切れてしまいました。息子が次第に勉強に手を抜くようになったからです。教わっているからこそ成績が上がっているのに、自分の実力と勘違いしたからかもしれません。いくら注意しても一向に息子の態度が変わりません。ついに私は彼の勉強から完全に手を引きました。

息子の成績はどんどん落ちていきました。それでも私は再び息子の勉強に手を貸そうとしませんでした。息子は意地を張ったように「公立中学には絶対に行かない」といいました。ところが、彼の勉強は私の目から見てもあまり実にならない非効率的なもの。ついに息子は塾の成績を上げることができないまま受験に突入しました。私は「公立に行きたくないなら、受かる学校を受験すべきだ」と助言しましたが、彼は私の助言にもいっさい耳を貸しませんでした。その結果、合格したのはたった一校。それが前の私立中学でした。

こうした中学受験のときの体験が息子の中に残っているのでしょう。なにせ中学受験が私が息子に忠告していたとおりに展開していったのですから。私には、自分が、勉強にまったく興味のなかった小学校時代からここまで這い上がってきたという自負があります。また、できない人間なりの勉強のコツも知っています。中学受験での息子の経験をふまえ、高校受験を迎える彼にまず言ったことは、「俺の言うとおりに勉強しろ」ということでした。今回の彼はその忠告にしたがって勉強をしようと努力していました。

私の指示やアドバイスにしたがって勉強を始めると、息子の成績はどんどんあがっていきました。進学塾の模擬試験もそれこそ右肩上がりでした。塾の先生も感心するほどの変化でした。学校の成績もまた同じで、三教科だけでいえば彼はいつも学年の最上位にいるほどになりました(結局は学年一位にはなれませんでしたが)。さすがに私自身が苦手な国語の読解問題を教えることはできませんでしたが、国文法や文学史などは私もいっしょに勉強するなどして、暗記させたり、問題を解かせたりしていました。

入試直前、息子が一番行きたかった高校のプレ模試がありました。彼はそこでもそれなりにいい成績をおさめました。私も息子も「もしかして合格できるかも」という自信のようなものを持ちました。そして期待感一杯で臨んだ入試。しかし、現実はそれほど甘くはありませんでした。一次試験の学力試験に合格して喜んだのもつかの間、二次試験の面接でみごとに振られてしまいました。期待が大きかった分、へこみ方も大きかったのですが、でも、一次合格だけでも立派なもの。ここまで頑張った息子を褒めてやりたいです。

息子は今だにあきらめがつかない様子です。もうひと息というところまでいったのですから当然かもしれません。試験の合否が確定し、塾に電話をかけて報告している息子を見て、この一年でずいぶんと成長したと思いました。希望校の不合格が確定して落胆しているだろうに、電話口で先生に「一年間お世話になりました」とお礼をいっている息子の背中を見ていたら私の目から涙がこぼれてきました。希望校には落ちてしまったけれど、息子はなにものにも代えがたい貴重な経験をしたんだと確信しました。

先日、息子が学校で作った扇子を渡されました。卒業にあたって制作したものなのでしょう。「あの学校以外は受験したくない」と言わしめたほど彼が行きたかった学校のシンボルカラーできれいに色塗りされた扇子でした。その表側を見ると大きな字で「不屈の魂」と書かれていました。その四文字には息子の確かな決意が感じられるようでした。そして、両親になにかひと言添えなさいと先生に指示されたのか、裏側には私たちへのメッセージが次のように書かれていました。

*************** 以下、彼のメッセージ

いろいろあった中学校生活が終わりました。
K学園をやめてJ高を受験するという自分勝手な決断を後押ししてくれたことには感謝しかありません。
結局、約束は果たせなかったけど、今回の高校受験で僕は大いに成長できました。
大学受験でリベンジして次こそ親孝行がしたいです。
これからもよろしくおねがいします。
僕も、日々精進できるように努力します。

*************** 以上、原文のママ

この扇子を「ほら、これもらったよ」と家内から渡された時、私はグっときてしまいました。そして、なぜかあたまの中で Beatlesの歌 「Let it be」 がながれ、映画のエンドロールが回っているときのような気持ちになりました。私と息子の高校受験がこれで終わったんだと感じたのでしょう。と同時に、私自身が、劣等生だった小学校時代から奇跡的にここまで這い上がってきた「不屈の魂」を息子も確実に受け継いでくれているようでうれしかったのだと思います。一歩下がって二歩進む。この精神こそ大切なのです。

人生は決して順風満帆とはかぎりませんが、不遇なときほど「不屈の精神」を発揮して乗り切ってほしいと思います。人生はこれから。頑張れ!

心に残る患者(5)

実は、今、ちょっとへこんでます。

それは先日往診した患者が亡くなったからです。その患者さんは当院が開院したころから通って下さった92歳の方。膝を悪くして歩くのもようやくという状況にも関わらず、いつもご主人とお元気な顔を外来で見せてくれていました。膝の悪いのを除けばいつもお元気そうで、「この分だと軽く100歳までいけそうですね」などと笑いあったのがついこの間でした。ですから、突然の訃報は主治医をしていた私にとってはショックなことには違いないのですが、しかしそれが私が往診をした直後だったのでなおさらでした。

ご主人から「お母さんが急に歩けなくなった。足が動かないようなので往診してほしい」と依頼を受けたのは午前中の診療が終わろうとしているころのこと。数日前に訪問診療をしている別の患者でも、同じように「歩けなくなった」という訴えのあとに高熱が出て、結局インフルエンザだったというケースを経験していた私はすぐに「インフルエンザ」を疑いました。しかもご主人自身が数日前からインフルエンザの抗ウィルス薬を飲んでいたこともあって「インフルエンザだろう」という予断をもってしまったのです。

その日は午前中の診療後にクリニックで新薬の説明会が開かれることになっていました。さしたる根拠もないまま緊急性がないと即断してしまった私は、ご主人に「午後1時過ぎにうかがうます」と告げて帰ってもらいました。しかし、たまたま診療待ちの患者がいなかったことと、なんとなく「早く行った方がいいかも」と胸騒ぎのような気持ちがしたものですから(こういう胸騒ぎがえてして当たるのです)、新薬の説明会が多少遅れてもいいから患者さんのご自宅に行ってみようと思ったのでした。

ご自宅まで行って呼び鈴を押すとご主人がすぐに出てこられました。部屋にいくと患者さんが畳の上に横になっていて、体の上に布団がかけれていました。呼びかけるとすぐに返事が返ってきました。いつもよりも少し元気がなさそうな声でしたが、構語障害(ろれつが回らないこと)はなさそうでした。状況を簡単にうかがうと、「トイレに行きたくなって下痢をした。そして、ちょっと吐いたら足が動かなくなった」というのです。正直、緊急性がなさそうな様子に少しホッとしたのでした。

ひとときのインフルエンザの猛威をおさまりましたが、胃腸炎を合併しているインフルエンザの患者も何人か診ていたこともあり、「やっぱりご主人のインフルエンザがうつったかな?」と思っていました。そして、血圧や脈拍、経皮的酸素飽和度を測りましたが、いつもよりは血圧が低めだった以外に大きな異常はありませんでした。聴診でも肺や心臓の雑音はなく、脈の不整や促迫もありません。「仰向けになれますか」と声をかけると自力で仰向けになりました。手足もゆっくりながら問題なく動かせました。

布団から出ている手を握ってみると冷たかったのですが、「気持ち悪いですか?」とたずねると、「今は吐き気はない」といいます。私はこの時点でご主人に「インフルエンザかもしれません。これから高熱がでてくるサインかも」とお話しして、「救急車を呼んで詳しく調べてみますか?」とたずねました。ご主人は困ったように「救急車はどうも・・・」と下を向かれるので、「それなら3時ぐらいまで少し様子をみましょう。3時にまたクリニックの方に電話してください」と言ってクリニックに戻って来ました。

クリニックでは予定通り薬の説明会が開かれ、遅くなったお昼ご飯を食べて午後の診療がはじまるころに娘さんが来院されました。「救急車を呼ばなくて大丈夫だろうか」というご相談でした。私は「これから高熱が出てくる前兆かもしれないのでもう少し様子をみてはどうか」とお話ししました。しかし、お嬢さんはなにか不安げで、救急病院に受診させたい様子でした。そこで「原因は検査をしなければわからないので病院を受診してもいいと思いますがご紹介しますか?」と言いました。お嬢さんは安心したようでした。

ところが、タイミングが悪いことに、いつも紹介している病院からは「救急医が手術に入ってしまった。内科も患者が多いので・・・」と断られてしまいました。要するに、私の紹介状からは「緊急性は感じられない」ということだったのです。そこでお嬢さんには、「紹介状はもう書きましたから、救急車を呼んで、救急隊に収容先を見つけてもらってください」と頼みました。これは「たらい回し事件」の影響か、最近は我々が病院に直接頼むよりも、救急隊経由の方が病院は急患を受け入れてくれることが多いのです。

救急車が来たのは、くしくも私が様子を見ましょうといった「午後3時」を過ぎた頃でした。あれから3時間以上がたっていたのです。このとき私の心の中では、紹介先の病院から「検査をしてみたけど、ただのインフルエンザだった(大騒ぎした割には大した緊急性のない患者じゃないか)」と書かれた返事がくるのではないかと思っていました。そうであってほしいような、そうであってほしくないような複雑な気持ちでした。しかし、救急車のサイレンが聴こえなくなってからは患者さんのことはすっかり忘れていました。

二日後、そのご主人が「いったん下がった熱がふたたび高熱になった」とクリニックにやってきました。ご主人も超高齢でしたから、初診時の高熱の時点でインフルエンザの抗ウィルス薬を処方してあります。ですが、下がって来た体温がふたたび急に高熱になったとなると「インフルエンザ後肺炎」を心配しなければなりません。この肺炎が一番心配なのです。でも胸部レントゲン写真をとりましたが明らかな陰影はありませんでした。抗生物質を追加して様子をみようと思ったとき、ふと奥さまのことを思い出しました。

「ところで奥さまはその後どうされましたか?」。思い出したように私がおききすると、付き添ってこられたお嬢様が「母はあれからすぐに亡くなりました」と。私はびっくり。私はインフルエンザ後肺炎かもしれないご主人のことをすっかり忘れて「ええ、ほんとですかっ!」と声をあげてしまいました。しかも「腹部大動脈破裂だったようです」との言葉に二度びっくり。往診した私の頭の中にはそんな病態などまったくなかったからです。驚きと同時になんともいえない無力感がそのときの私をうちのめしていました。

ご主人とお嬢さんに私は謝りました。「まったく想定もしていませんでした。申し訳ありません」と。お嬢さんは「でも、早く見つかったとしても手術に耐えられたかどうかわかりませんから」と言ってくださいましたが、結果的に見逃がしたことには違いなく、また、往診にうかがった時点で救急車を要請していたらもっと違う展開になっていたのではないかと思うとなんともいえない後悔の念と申し訳なさでいっぱいになりました。予断をもって対応してしまったのではないかという思いがさらに自分を苦しめたのです。

結局、ご主人も「インフルエンザ後肺炎」で病院に入院。レントゲン写真でははっきりしなかった影が胸部CTで見つかったとのこと。つくづくあのまま抗生物質を処方して自宅で様子を見てもらわなくてよかったと思いました。おそらく奥さまの件がなければそうしていたかもしれません。咳嗽もそうひどくはなく、聴診所見でもレントゲン写真でも肺炎を思わせる明らかな異常はなかったのですから。つくづく診断とは難しいものです。と同時に、自分のふがいなさになんだかちょっと自信をなくします。

ご家族には「仕方ないことですから気にしないでください」「苦しまずに逝けたのでよかったです」と慰められてはみても、そうしてもらえばもらうほど、往診にいっておきながら見逃してしまったというか、手際よく対応できなかったことにへこんでしまいます。と同時に、きちんと検査ができない往診の難しさも思い知らされます。いつもの様子との違いに敏感なご家族の不安を、医療者が共有できないとこういうことが起こるんだということを改めて痛感します。

最近、救急車の使用については「重症の場合」という制限をかけるべきだという意見がしばしばでてきます。自分で受診できるのにタクシーのように利用するのはもちろん論外です。でも、「重症かどうか」ということを誰が決めるのでしょう。往診した医者でもない、電話口の向こうにいる救急隊員が決めるのでしょうか。そして、その決定の責任は誰がとるのでしょう。救急隊員なんでしょうか。そもそも救急車の要請を遠慮して患者に不利益をもたらすようなことにならないという保証があるでしょうか。

診断はときとして難しい場合があります。いや、診断は難しいものなのです。それなりの経験のある医者ですらそうなのに、緊急性の判断を素人がするのはとても危険です。そう考えると、救急車を要請しようかどうかについて腰がひけてしまうことは決していいことではないと思います。「いつもと違う」「なんとなく心配だ」。こうした家族の直感というものを軽視すべきではないのです。救急車で病院に行ったけれどなんでもなかったでもいいではありませんか。私は今回の痛い経験でそのことを学びました。

自分を信じて通院してきてくれた患者を、主治医が不本意に感じることで亡くすこのはとても辛いことです。ただ、辛いことながらも、今回のことは「私に別れを告げるために私を往診で呼んでくれたのかも」という思えなくもない。であるならもっと明確なかたちでお別れが言いたかったと思います。主治医としてやるべきことはやったといえる最期であってほしかった。だからこそ今回の苦い経験は悔やまれることばかりなのです。いずれせねよ、しばらくはこのショックから立ち直れそうにありません。

再びインフルエンザ

ひとときのインフルエンザの勢いも落ち着きはじめ、患者の数もだいぶ少なくなってきました。とはいえ、これまでの流行では、B型が70%、A型が20%、残りがA・B混合型というようにB型が主流だったため、今後は従来のようなA型の流行があるかもしれませんので注意が必要です。例年にないこの流行の形態は、おそらくB型が比較軽症であったため、患者も医者も普通の風邪と判断して感染を広めたのはないかと思います。

この流行の拡大と軽症例の多さが診療の現場が混乱する原因にもなりました。わずかばかりの風邪症状があり、体温も平熱にすぎない患者が「TVで『隠れインフル』っていうのがあるといっていたので検査をしてください」と受診してきたり、きわめて軽症のインフルエンザの患者までもが抗ウィルス薬を求めてきたりと、必ずしも適切な医療とはいえない診療をいつになく求められたのも今年の特徴だといえるでしょう。

インフルエンザ検査や抗ウィルス薬投与の適否については、我が家でも私と家内との論争の原因にしばしばなっていました。検査や抗ウィルス薬を安易に(というとまた怒られるのですが)考えている家内と、必要性に応じて検査や投薬を考えるべきとする私とはまったく議論がかみあいません。こうした光景は当院の外来でもしばしば見られ、私の説明に不満げに帰っていく患者が少なからずいます。

こうした現状をふまえ、私が皆さんにいいたいことを、想定問答のような形でご説明したいと思います。もちろん考え方にはいろいろあって、私の言い分がすべて正しいと主張するつもりもありません。また、私の考えに賛同できない方たちを全否定するつもりもありません。ですが、私の言いたいことを通じて、皆さんにもこの問題を冷静に考えていただければ幸いです。

   【私の基本的スタンス】

○検査や投薬は「実施すべきケース」「実施してもいいケース」および「実施すべきではないケー
 ス」で考えるべきである

○医療に関しては「医学的に正しいかどうか」という観点とともに「医療費の支出として適切かど
 うか」という観点も考慮すべき

○インフルエンザが流行する前にすべての国民はワクチンを接種し、「インフルエンザに感染しに
 くい環境を作る」とともに「かかっても軽症ですみ、抗ウィルス薬を必要としない状況を作るこ
 と」が重要である

○インフルエンザはすべてがおそろしい結果をもたらすわけではなく、「重症例をはやく見つけて
 対処すること」が重要であり、「軽症例は安静を基本として、適宜、症状を薬で緩和すること」
   でいいと認識すべき

○インフルエンザの流行シーズンに入った場合は、「急に高熱となったケース」や「高熱にはなっ
 ていなくても、強い関節痛や悪寒、頭痛をともなう発熱のケース」は検査の有無をとわずインフ
 ルエンザとして学校や仕事を休んで自宅安静あるいは経過観察とするべき

これらのことをこれから具体的な想定問答として記述してみたいと思います。こうしたやりとりは当院の診察室でも同じようになることがあります。このやりとりの結末は残念ながらいつもunhappyです。ただし、ここでの想定問答では症状もなく「念のために検査」といって来院したケースを想定しています。また、当院ですべてのインフルエンザ検査・抗ウィルス薬の投与をお断りしているわけではありません。

念のために申し上げておきますが、インフルエンザの検査や抗ウィルス薬を希望される方は私に伝えてください。適宜、それぞれの患者の状況に応じて検査・投薬の適否を考え、「検査が必要な場合」はもちろん、「検査をしてもいい場合」であれば検査も投薬もご希望に応じておこなっています。

 

*****************以下、想定問答

患者:TVで「『隠れインフル』っていうのがある」といっていたので検査してください。

医師:でも、あなたは今、平熱ですよ。検査、必要ないと思いますけど。

患者:うちの夫が先日「B型インフル」って診断されたので感染していないかと思って。

医師:まだ検査してもでてきてない可能性が高いですよ。

患者:夫は熱が出てなくてもインフルエンザだったんです。

医師:それでなぜ検査をしたのかわかりませんが、なにかお辛い症状でもあったんですか?

患者:ちょっと頭痛が。でも今は元気ですけど。

医師:ですよね。ご主人は軽症だったんですよね。

患者:インフルエンザの薬をもらいましたからすぐによくなったんです。

医師:えっ?熱がなくて軽症だったのにインフルエンザの薬をもらったんですか?

患者:はい。だって早くよくなりたかったんで。出かけなきゃいけない用事もあったし。

医師:もしかして、薬飲んですぐに外出されたんですか?

患者:はい。薬を飲んだ翌日には平熱になって元気になったから。

医師:インフルエンザのときは解熱してもしばらくは人に移す可能性があるので外出はだめですよ。

患者:それじゃインフルエンザの薬を使う意味がないじゃないですか。

医師:インフルエンザの薬を飲む目的は「熱が出ている期間を1日程度短縮するため」なんです。

患者:よくなってるじゃないですか。

医師:そうです。改善はします。高熱の期間は短縮しますから。でも、しばらくは人にうつすんです。

患者:うちの夫は熱がなかった場合でもうつすんですか。

医師:だから「必要だったんでしょうか?」と申し上げたんです。自宅でしばらく安静にして・・・

患者:でも、普段のように元気でしたよ。

医師:いや、自宅安静の目的はご本人の療養という意味と他人に移さないという意味があるんです。

患者:うちの孫もインフルになったけど、すぐに熱がさがって元気になったので学校へ行ったけど。

医師:それが学校でインフルエンザを広めてしまう原因のひとつなんです。

患者:うちの嫁も働いているし、孫もゲームばっかりやってるから。

医師:ご家庭によって事情はあるでしょうが、やはり感染を広めないという意味では・・・。

患者:じゃあ、私の検査もインフルエンザを広げないために早めにやった方がいいんじゃない?

医師:いや、この検査は「インフルであることを確認する検査」なんです。

患者:「確認検査」?

医師:そう。陽性であれば「インフルです」って言えますが、陰性でも「違います」とは言えない。

患者:それじゃあ意味ないじゃない。

医師:意味はあります。インフルエンザだと確認はできますから。

患者:なら、今検査してもいいじゃないですか?

医師:確認だからこそ、怪しげなときにやるべきなのです。今のあなたは違います。

患者:とりあえず今やっておくっていうのはダメですか?もしかしてってこともあるし。

医師:今回が陰性でも、明日に陽性になるかもしれないし、あさってかもしれません。

患者:そのときにまたやればいいんじゃない。

医師:そんなことをしていたら医療費がもたないし、そもそも保険組合がそれを認めないのです。

患者:早期発見、早期治療は必要ないってこと?

医師:風邪やインフルエンザに関していえば「重症化を防ぐこと」が重要なのです。

患者:早期に治療すれば重症化だって防げるじゃないですか。

医師:それはそうですが、風邪やインフルエンザは本来なにもしなくても治る病気です。

患者:治療はいらないってこと?

医師:本来はそうです。でも、なかには重症化するケースがあり、その場合は早期発見。早期治療。

患者:なら、なんでインフルエンザの薬があるんですか。

医師:このまま放置していたら重症化しそうな人や高熱で辛そうな人のための薬として考えてください。

患者:検査もそうですか?

医師:明らかにインフルエンザと思われる人は検査をしなくてもいいってことになっています。

患者:検査しないで「インフルエンザ」って診断してもいいってこと?

医師:だって検査が「陰性」だからといって「インフルじゃない」って言えないんですから。

患者:それなら検査はまったく不要ってわけ?

医師:いえ、たとえば肺炎を思わせる患者が来たとき、肺炎治療を優先させるか、インフル治療を併用する
   かの判断にはとても重要です。そこまでいわないにせよ、怪しげなケースでれば検査はします。

患者:私、職場の方からも「検査をやってこい」っていわれるんですよ。

医師:インフルエンザが疑われるケースであっても検査が陰性なら仕事にいってもいいのですか?インフル
   エンザかもしれないと思ったら仕事はやはり休むべきでしょう。検査なんて補助的なものですし。

患者:でも、「A型?B型?」って聞かれるし。

医師:型なんてわかっても対応はかわりません。インフルエンザなんだし。ワクチンを打ってなければ重症
なることだってあるし。

患者:いずれにしても、今の私には検査はやってもらえないってことでしょうか。

医師:必要性はないですよ。あなたのようなケース全員に検査をやっていたら医療費が大変ですから。

患者:患者の命よりも医療費の方が重要ってことですね。

医師:いえ、そういう意味じゃありません。誤解しないでください。

患者:でも、そう聞こえますよ。

医師:つまり、この検査をしないからといって今のあなたに大きな不利益はないが、あなたと同じケース全
   員にこの検査をやった場合の医療費の無駄は計り知れないってことです。

患者:・・・・。

医師:もちろん、今後、あなたになんらかの症状が出てきてインフルエンザであることを確認する必要がで
   てきたらちゃんと検査します。うちも検査すればそれだけもうかります。検査をするのが嫌で言って
   いるのではないのです。決して安い検査ではなく、あなたも無駄をお金を出さないで済むし。

患者:自分の財布から出すので心配いただかなくても結構ですよ。

医師:あなたの財布からも三割は支払われますが、残りの七割は医療費から支払われるんです。

患者:わかりました。別のクリニックでやってもらいますからもう結構です。

 

ほら、やっぱりunhappyだったでしょ。でも、実際はこうはいきません。インフルエンザ検査や抗ウィルス薬を希望される方についてはそのご希望を尊重しながらも、本当に必要かどうかに関して疑問に思う場合はその必要性は説明した上で「どうしても」という場合は検査もしますし、投薬もします。ただし、「してもいいケース」に関してです。「すべきではないケース」に関しては当然のことですがお断りしていますので悪しからず。医療と医療のバランスって難しいですよね。

でも、誰かが言ってました。「そんな固いこといってないで、言われるがままに検査をし、抗ウィルス薬を処方していれば患者は満足するし、医療機関や薬局、製薬会社ももうかる。すべてがハッピーじゃないか」って。私が「でも医療費が・・・」と言いかけたら「それも結局は国民の負担になるんだしいいんじゃないの」とも。しかし、それで医療保険制度が崩壊してしまったら元も子もないって考えないのでしょうか。きっと彼は言うでしょうね。「そんなこといち医療機関のひとりの医者が心配することじゃない。それは偉い政治家が考えること」ってね。う~ん、あたまの固い自分には実に悩ましい・・・。

インフルエンザの脅威

「今、インフルエンザが猛威をふるっている」と聴いて皆さんはどうお感じになるでしょうか。

今、たくさんのインフルエンザの患者が毎日クリニックにやってきます。それはここ数年になかったほどの数だといってもいいでしょう。昨年の暮れ、マスコミは「インフルエンザが全国的に流行している」と報道していましたが、今の流行はそれをはるかにしのぐほどの数だといっても過言ではありません。それなのに昨年の暮れに比べてインフルエンザに関する報道が少ないと感じるのはなぜでしょう。二番煎じのニュースにはあまりインパクトがないからでしょうか。それとも今の流行をそれほど大きな社会問題ととらえていないからでしょうか。いずれにせよ、国民はそうした報道の有無とは関係なく(おおむねマスコミ報道は「煽り(あおり)」みたいなものですから)正しい知識を得て行動しなければなりません。

先日の日曜日、私は休日診療の当番でした。私達、医師会の会員である内科医は市の保健センターで3~4か月に一度の休日診療をしなければなりません。それでなくても慣れない場所での診療は精神的に疲れます。使える薬も限られてきますし、なによりもいつもと違ってたくさんの患者さんを次々と診なければならないため、どうしても「数をこなす診療」になってしまうことも疲れる原因でもあります。もう少しちゃんと説明をしてあげたくても、待合室にあふれかえっている患者のことを思うとそうもいきません。ひとりでも重症の患者がいればなおさら。大幅に診療が遅れ、さらに待ち時間を延ばすことになるからです。そうした追い立てられるような診療は私にはとてもストレスなのです。

先日の休日診療で診た患者は155名でした。途中で応援の医師が来て診療してくれたので大混乱にならずにすみました。でも、診療が終わったときはもう疲れ果ててしまって何もする気になれませんでした。私のクリニックにもたくさんのインフルエンザ患者が来院していたので、さぞかし多いだろうと予想はしていましたがまさかここまでとは。155名の来院患者のうちインフルエンザ検査をした患者が135名。その135名のうち、A型インフルエンザとの結果がでた患者が15名、B型とでた患者が65名でした。一方で陰性だった75名の患者の中にもあきらかにインフルエンザ様の症状・所見を示している人も少なくありませんでした。私のクリニックでの検査結果も同じようでしたから、この傾向は全国的なものなのかもしれません。

これほどまでにB型インフルエンザがはやったことは少なくともこれまでの私の記憶にはありません。例年であれば圧倒的にA型が流行の中心であり、ときどきB型がやってくる程度なのですから。この傾向は今シーズン、インフルエンザワクチンが不足していたこととあながち無関係ではないと思います。ワクチンが不足したのは、生産途中でワクチンを作るときに使用する株を途中で変更して生産し直したことが原因です。特定のメーカーのワクチンが極端に供給量が少なくなってしまったのです。そのため、ワクチンは予約制で受けている当院でも予約数の制限をせざるを得ず、患者の皆さんにはいろいろとお不便やご迷惑をおかけしました。ここで改めてお詫びいたします。

当院はワクチン接種のときにだけ来院する子供が少なくありません。ですが、そういう形で来院してくれている小児患者へのワクチン接種はとくに断らざるをえませんでした。そうでもしないと普段ご利用いただいている患者さんに打てなくなってしまう恐れがあったからです。当院に通院していただいている患者の多くは高齢者です。こうした普段通院していただいている高齢患者に優先的に接種しなければならなかったのです。そうした対策をとったことに対してはお叱りの言葉を頂戴することもありましたが、まさに苦渋の決断だったものとご理解いただければ幸いです。これも当院にかぎったことではないと思いますから、結果としてワクチンを接種できなかった人はかなりいたのではないでしょうか。

ワクチンはインフルエンザにならないため、あるいは感染を広めないために接種するわけですが、と同時に、仮にり患しても重症化しないためでもあります。ときどきインフルエンザにかかってしまった患者から「ワクチンを打ったのに」と言われることがあります。しかし、ワクチンを打っても、十分に抗体ができなかった場合はインフルエンザに感染します。また、十分な抗体ができたとしても、体の中に入って来たウィルスの量が多ければインフルエンザを発症します。ただその一方で、ワクチンを打たなかったときに比べて、インフルエンザを発症したときの辛さはずいぶん楽です。このことは倦怠感や頭痛、悪寒や関節痛などのインフルエンザの辛さを味わったことのある人でなければわからないかもしれません。

B型のインフルエンザは概してA型にくらべて軽症が多いようです。A型のインフルエンザにり患した患者はたいがい身のおきどころのない辛さに顔をしかめながら来院します。普段ワクチンを打っていない人であっても、A型にり患すると「いつもの風邪とは違う辛さ」に懲り懲りするらしく、たいがいの人は苦しそうな表情で「来年からは打ちます」と言います。一方、B型は普段の風邪と間違うようなケースも少なくありません。当の患者はもちろん、診察している私達でさえも「これは風邪だね」と片づけてしまう場合もあります。今年のB型はそれが顕著のように感じます。症状といえば微熱程度で、「どうしても」という患者の希望で「やむを得ず検査をした」らB型インフルエンザだったこともあるくらいですから。

問題はここから。軽いB型インフルエンザにはたして「抗ウィルス薬」が必要なのでしょうか。先日の休日診療所でも、風邪とみまごうような軽症のインフルエンザ患者に「抗ウィルス薬をお出ししますか?」とたずねると、ほぼ全員が薬を希望していました。「早くよくなりたいので」というのがその理由です(実際には有熱期間を1日短縮するだけです)。以前であれば、重症感が強く辛そうにしている子どもに抗ウィルス薬を勧めても断る親ばかりでした。それでも服用を勧めようものなら「なに?、この医者」ととばかりに拒絶反応が強かった。「タミフルと異常行動の因果関係はほぼないとされていますよ」と説明しても、です。それが今や、抗ウィルス薬など必要のない軽症の子どもにも抗ウィルス薬を求める親のなんと多いこと。

検査もそうです。症状とこれまでの経過から明らかに「これは間違いなくインフルエンザ」というケースであっても検査を求める人がとても多い。先日の休日診療で135名もの患者にインフルエンザ検査をしたのはそうした背景があってのことです。内心では「検査は不要」と思いながらも「(検査をしに)せっかく来たのに」と不満そうな顔をされるのが嫌で検査してしまったのです。つまり、私の心の弱さの結果でもあります。前日、小児科でインフルエンザの検査を受けて陰性だったのに、「検査が早かったかもしれないから、高熱が続くようならまた検査を」と医者に言われてまた検査を受けに来た子どもの多いこと。この痛い検査をなんども受けなければならない子どもの身にもなってほしい。

なぜそれほどまでに検査にこだわるのでしょう。それは学校や職場に問題があります。「検査を受けて来てくれ」と患者(やその家族)に指示するからです。インフルエンザの検査は「インフルエンザであることを確認する検査」です。言い方を変えれば、検査で「陰性」がでたからといって「インフルエンザではない」ということの証明にはならないのです。つまり、「検査が陽性ならインフルエンザで、陰性ならただの風邪だから学校(職場)に来ていい」という代物ではないのです。本来、学校や職場は、「インフルエンザが流行しているとき、急に高熱が出たら検査の有無を問わず、陽性・陰性のいかんを問わずに学校や職場を休むよう指導する」ということ重要です。なのに・・・という事案が多すぎます。

インフルエンザの診断は検査でするものではありません。検査がなくてもインフルエンザだと診断することができます。「インフルエンザ」と診断されれば、学校や職場には胸を張って(?)「インフルエンザだった」と報告し、堂々と(?)と休めばいいのです。ところが、こともあろうに「検査をしてもらってこい」「A型?それともB型?」と検査結果を絶対視している学校(会社)が少なくないのです。これは実に馬鹿げたことです。流行が拡大した結果、重症患者が出てくる危険性はA型もB型も同じこと。だからこそこんなに防疫しているのです。そういう馬鹿げた指示を出す人は「検査が陰性なら来てもいいよ」「B型なら来てもいいよ」とでもいうのでしょうか。防疫の要諦がまるでわかっていない。

学校であれ職場であれ、インフルエンザが疑われるときは堂々と休める雰囲気を作っておくことが大切です。「よくぞ早めに申告して休んでくれた」と褒められるくらいがちょうどいいかも。また、インフルエンザには「5日ルール」があって、解熱したからといってすぐに登校(出社)してはいけないことになっています。解熱後もしばらくはウィルスが排出されていて感染力がなくなったわけではないからです。「熱が下がったら出社してこい」と指示する会社があるようですが、そういう乱暴な指示をする経営者(上司)には、学校でインフルエンザを広めているのは「熱がすぐに下がって嬉々としてすぐ学校に来てしまう子」だってことを知ってほしいと思います。

恐ろしいことに、学級閉鎖や学年閉鎖をなかなかしない学校もあります。その学校はたくさんの生徒(児童)がインフルエンザにかかっているのにさっぱり閉鎖しないのです。ある年などは、毎日、苦しそうにしてやってくるたくさんの子供たちを見ながらメラメラと湧いて来る怒りの感情を抑えきれずに教育委員会に電話してしまいましいた。するとその翌日に申しわけ程度の学級閉鎖(本当は学年閉鎖・学校閉鎖でもいいくらいなのに)が行われました。まるで焼き尽くすように全員インフルエンザにかかってくれと言わんばかりの対応に、お母さんたちの間ではその理由は「学年閉鎖をしてしまうと部活ができなくなるから」と囁かれています。こういう学校はインフルエンザで子供が死ななきゃわからないのでしょうか。

いろいろダラダラと書いてしましましたが、要するに、単に「不安だ」「怖い」ってことだけで行動してはいけないということです。今回の投稿の冒頭で「『インフルエンザが猛威をふるっている』と聴いたらどう感じますか」と書きました。私が言いたかったのは「インフルエンザは怖い病気ではない」ということでもなく、また、「インフルエンザは恐ろしい病気だ」ということでもありません。また、「検査は不要だ」ということでも「治療薬も不要だ」ということでもありません。それぞれの患者の状況に合わせて、主治医の意見を聞きながら冷静に対応することが大切だということです。マスコミの煽りに流されず、是非、理性的な行動をお願いしたいと思います。

最後に言いたかったことを箇条書きにしてまとめて終わります。

○検査をしなくてもインフルエンザだと診断してもいい
○インフルエンザの検査は「陽性がでれば確定」だが「陰性でも否定はできない」
○インフルエンザの検査が陰性であれば「他に感染させにくい状況」とはいえるかも
○他に感染させて重症化させることがあるのはA型もB型も同じ
○重症感のあるケース、あるいは基礎疾患のあるケースでは抗ウィルス薬が必要
○抗ウィルス薬は「ウィルスを増えないようにする薬」なので最後まで服用する必要がある
○抗ウィルス薬は「発熱の期間を1日程度短縮する」という効果があるにすぎない
○軽症にとどまっている場合は抗ウィルス薬は必ずしも必要ではない
○患者は「隔離」と「安静」が重要(4日以上の高熱が続くときは病院へ)
○流行時の急な高熱や重症感のある発熱はインフルエンザとして学校や職場を休むべき
○解熱したからといってすぐに感染力がなくなるわけではない(「5日ルール」)
○インフルエンザそのものよりも肺炎の合併がこわい
○つらい時は解熱剤や咳止めを使ってもいいが、頻回に使わないこと(重症化を見逃す) 
○「5日ルール」を守っていれば治癒証明は不要
○ワクチンは重症化を防ぐためにも、他の人への感染を防ぐためにも必要(自分のためだけではない)
○子どもや病弱者と接する職業は重点的にワクチン接種をすべき(この職種に「してない人」が多すぎ)

トラブルメーカー?

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年はいろいろと忙しく、また、法人の解散やらでバタバタしていたせいか、ブログの更新がなおざりになりがちでした。しかし、患者さんから「ブログを楽しみにしてます」なんてうれしいことをいわれると、定期的に更新しなければと反省することしきりです。今年は最低でも月二回は記事をアップしようと思っていますので、長くて暖かい目で見守っていただければ幸いです。

今、巷では日本相撲協会と貴乃花親方との確執が報道されています。協会に事件を報告しないまま警察に知らせたこと、あるいは協会からの「協力依頼」をひたすら拒否する姿勢をとり続けた親方に対して協会は理事降格の処分を下しました。世間からは親方を「協会からの圧力をはねのけ信念を貫いた無双」と称賛する意見がある一方、「偏屈で頭のかたいトラブルメーカー」と批判する意見も決して少なくありません。どちらかというと貴乃花と同じような頑なさがある私は、これまでの職場でも「組織の論理」に反発してはしばしば上司とぶつかったせいか貴乃花の気持ちがよくわかります。と同時に、「組織の論理」というか、日本相撲協会の立場も今はそれなりにわかるつもりです。

ある病院をやめる直接的なきっかけについては、このブログでもなんどか軽くとりあげました。病院に搬送されてきた救急患者に対する初期治療をめぐって、治療にあたった救急担当医と病棟医として引き継いだ私との間で、いや、その救急担当医をかばう病院とそれを批判する私との間で深刻な衝突・対立・反目があったのです。それが引き金になって私はその病院を退職したのですが、そこに至るまでの間にも、病院の「組織の論理」ともいうべき姿勢に不信感を募らせることがいくつもあったのでした。そのたびに院長や上司とぶつかっていたため、あのときのことをありありと思い出します。そんなこともあってか、相撲協会と貴乃花親方との確執の話しを聞くと、親方が当時の私と重なってどうしても親方の肩を持ちたくなるのです。

その病院に勤務していた頃、私は呼吸器や循環器を中心とした内科医として外来や病棟で診療していました。病棟では各専門領域の先生のアドバイスや指示を受けながら、他の臓器領域の患者の主治医もしていましたから、実際には内科全般の入院患者のマネジメントをしていたことになります。それ以外にも、他科、とくに外科系の病棟から患者の内科的な治療方針について相談を受けたりすることもありました。また、外科系の病棟の患者が急変したとき、たまたま主治医が手術などで対応できないときは私達内科医に対応の要請がくることもありました。あるとき、内科病棟で仕事をしていた私のポケベルがなりました(当時はまだ携帯ではありませんでした)。それは整形外科の病棟からのコールでした。

「整形外科の病棟からいったいなんの用だろう」と思いながら駆け付けると、待っていた看護婦さんがあわてて私を病室に案内してくれました。病室には一人の若い医者がアンビューと呼ばれる人工呼吸をするための道具をもって立っていました。私はその医者に声をかけることもなくすぐに患者の診察をはじめました。患者はすでに意識はなく、呼吸も不規則になっており、かなり緊急性の高い状態だということはすぐにわかりました。枕元に突っ立っている若い医者に私はまくしててるようにいいました。「なぜすぐに挿管しないんだ」。「ぼ、ぼく、挿管したことがないんです」。「したことがあるとかないとか関係ないだろ。しなけりゃ患者は死ぬんだぞ」。その医者は慌てた様子でした。

そんなやりとりをしながら患者の気管に人工呼吸用の管を入れ、アンビューで肺に空気を入れながら患者を急患室に運びました。一段落して主治医から詳細を聴くと、意識を失う前は元気にリハビリをしていたとのこと。これまでの経過からは、整形外科の手術後の安静によって下肢にできた血栓がリハビリによって脳に飛んで梗塞巣を作ったことが考えられました。とくに呼吸がここまで不安定になったところをみると、呼吸をつかさどる脳幹という場所の脳梗塞が疑われました。とすればこれはかなり深刻な状況を意味します。そして、その後の検査によってそうした私の予想は正しかったことがわかりました。

ICU(集中治療室)に移送された患者には人工呼吸器が装着され、血栓を溶かす薬や脳のむくみを軽減させる薬が投与されました。そうした点滴の指示票を書きながら、さっきから私のあとをついてくるだけの整形外科の若い医者にいいました。「先生の患者なんだから、先生が書いてよ」。するとその医者は申し訳なさそうに「こういうケースを経験したことがないので書けないんです」と。経験がないのであれば仕方ありません。「じゃあ、いい機会だから教えてあげるよ」と言って点滴メニューについて説明をしようとするとその医者が言いました。「先生、そろそろバイトに行かなきゃならないんですが」。

私は唖然としました。内科病棟にいる自分の患者のことをあとまわしにして、まさにボランティアでやってあげているのにと思ってもあとの祭り。それ以後、その患者の管理のほとんどは私がやることになりました。まずは患者の家族への説明です。突然のことで心配そうにしている患者の家族に、「かなり重症の脳梗塞です。リハビリの開始をきっかけに足にできていた血栓が脳に飛んだことが原因と考えられます。事前に予測することは難しかったと思われ、現在できるかぎりの治療を開始したところです。ここ数日がヤマだと思われます」と説明しました。動揺していた家族はその説明に神妙な面持ちでうなづいていました。

ところが翌日、ICUに行くと看護婦さんが心配そうな表情で「先生、ご家族が納得できないと怒っているので再度説明してください」と私に耳打ちしてきました。なにが起こったのかわからなかった私は、昨日の説明に納得したと思っていた家族になにがあったのだろうと思いました。そして、会議室で待っていた患者家族から話しを聴いて私は驚きました。その日の朝、整形外科の部長が病室に来て「今回の脳梗塞はリハビリとは関係ない。純粋に内科的な問題なので今後は内科が主科になる」と一方的に説明していったというのです。ボランティアで治療しているつもりだった私の心の中でメラメラと怒りが込み上げてきました。

ICUにもどると前日アルバイトにいったあの若い医者がいました。私はたった今家族から聞いた話しを彼にしました。「どういうこと?僕は君の患者を診てあげているんだよ」と怒りを抑えながら言いました。彼は申し訳なさそうにペコリと頭をさげた後、いつの間にかICUからいなくなってしまいました。ところが、それから間もなく彼が戻ってきました。そして、「部長が先生と話しがしたいと言っています」とのこと。言いわけでも聞かされるのだろうと思いましたが、「いいですよ。しばらくここにいますから」と私。すると、「いや、部長室に来てほしいということでした」と彼。その言葉で私の怒りは頂点に達しました。

「ふざけるなっ。自分の患者そっちのけで診てやってる私がなんであんたの上司のところに出向かなきゃならないんだ。あんたの上司こそこっちに来るべきじゃないか」。他の先生や看護婦さんたちがいる中で私は大きな声を出していました。ほどなく整形外科の部長が憮然とした表情でやってきました。部長の顔を見るなり私の心の中で収めたばかりの怒りがよみがえってきました。「先生、厚意で診ている私に部長室に来いなんて失礼だと思いませんか。先生が勝手にした家族へのムンテラにも私は納得できません。家族に訂正してください。そもそも整形外科は自分たちで対処できない患者を内科に押し付けておいてなんですか」。

そのときの部長の表情を今でも忘れられません。なにせグウの根もでなかったのですから。すごすごとICUをでていく部長の後ろ姿をにらみつけていると、看護婦さんが手をたたきながら私のところにやって来ました。「先生、よく言ってくれたわ。あの先生、いつも傲慢で勝手だったの。誰も何も言えなかったので、先生が代わりに言ってくれて胸がすっきりしたわ」。私はちょっと恥ずかしい気持ちがしましたが、あの部長のやり方には心底腹が立っていたので、言いたいことが言えて私自身胸がすっきりしていたのでした。それを看護婦さんも支持してくれたのですからなおさら気持ちが晴れました。

以来、その部長は、病院の廊下で私と目と目が合うたびにきびすを返してどこかに行ってしまうようになりました。もともと私は根にもつ質ではないので、あんなことがあったとはいえすれ違うときには挨拶を交わすつもりでしたから部長のその態度はなんだかとても子供じみて見えました。それから間もなく、私は病院長に呼ばれました。なんだろうと院長室に行くと、院長がおもむろに先日のICUでの一件のことを話しはじめました。「先生、腹が立つこともあるでしょうが仲良くやってください」と院長は穏やかな口調で切り出しました。「当院は『和を尊ぶこと』をモットーにしているんですし」とも。今さら話しを蒸し返して弁解しても仕方ないと思った私はしばらく大人しく院長の話しを聴いていました。

「あの先生は本院では『天皇』とも呼ばれているんですよ」と院長は笑いました。なんでも、本院の回診時の部下たちの気の使いようは半端ではないと。それくらい権力は絶大だったのでしょう。そんな部長だからこそ、私みたいな下っ端の内科医に一喝されて面目を失って院長に告げ口でもしたのかもしれません。当時の私は「怖いもの知らず」だったんです。同時に、ある意味でアンタッチャブルだったあの部長もこれまで「怖いもの知らず」だったんでしょう。私は院長の話しを聴きながら「そんなこと俺には関係ねぇよ。こっちに非はまったくないんだから」と心の中でつぶやいていました。私は感情が顔に出やすいので、きっとそのときの不満や怒りはきっと院長にもわかったでしょうね。ときどき苦々しい顔をしていましたし。

こんなことしょっちゅうでした。いつもいつも誰か他の医者とぶつかっていました。当時の私は理想に燃えていましたからいい加減な医者が許せなかったのです。今でもあのときの怒りはもっともだと思っています。ただ、同時に、あのとき私が突っかかっていった医者のことももう少し理解してあげてもよかったのではないかという気持ちもあります。もう少し別の対応があったんじゃないか、と。そうした余裕がないほどに血気盛んだったんです。私には人のことをとやかく言う分だけ自分も後ろ指さされないように、という気持ちもありました。突っかかるのにもそれだけ覚悟もいるのです。「君のことも言わないから、僕のことも放っておいて」といっているような甘っちょろい雰囲気に苛立っていたいたんだと思います。

これを信念というのか、それとも偏屈というのか。正義漢というべきなのか、それともトラブルメーカーというべきなのか私にはわかりません。ですが、当時の病院に蔓延していた「甘っちょろい雰囲気(私自身が当時感じていた雰囲気ですが)」というものが組織を腐らせる、そんな風に感じていたのです。巷間伝えられる今の相撲協会の様子を聞くと、当時のあの病院と重なり心配になります。当時の自分を「若かった。青かった」とは思いませんし、仮にあの当時に戻っても同じことをしていると思います。ですが、貴乃花親方にはもう少し違った方法でなんとか日本相撲協会を改革できないかを考えてもらえればと思います。対立や無視からはなにも生れません。相撲は国技なのですから是非いい方向に変ってくれればと願っています。

あのときの患者は一命はとりとめ、人工呼吸器からも離脱しました。重い後遺症が残りましたが。その後はリハビリの出番となり整形外科が主科になりました。実質的な主治医は整形外科の医師に代わりました。私はホッとすると同時に、なにかモヤモヤした気持ちを拭い去ることができないままいつもの診療に戻りました。とはいえ、その後もいろいろなことがあって私は病院を退職することに。そのときたった一人私を引き留めてくれた先生は「いっしょにこの病院を立て直しましょうよ」と言ってくれました。「院内をかき回すトラブルメーカー」と映っていたかもしれない私を引き留めてくれたことがとてもうれしかったです。でも、「多勢に無勢」と感じましたし、そもそもすでに賽(さい)は投げられていました。

念のために付け加えておきますが、今回の話しは私の武勇伝としてチャラチャラ書いているわけではありません。また、特定の病院を批判するためのものでもありません。誤解のないようにお願いします。

 

心頭滅却すれば

人は青年期にいろいろな悩みをかかえます。私にも人並みにその悩みにさいなまれた時期がありました。進学とはある意味で人生を選択することでもあります。ですから、思ったような成績が得られず、希望するような進路に進めそうにないときは、なおさら「生きる意味」みたいなものをひとりあれこれと考え、自分はこれからどんな人生を歩んでいくんだろうと不安な気持ちになったものです。

人生はなかなか思うようにはなりません。今、改めてこれまでの自分の人生を振り返ってもそう思います。決して一本道ではなく、紆余曲折を経ながら今がある。なんとなく医者になりたいと思いながらも最後までパッとしなかった小学生時代から、家庭教師の大学生に勉強の面白さを教えられた中学時代。理想と現実という大きな壁にぶち当たった高校時代。自分にとってはこの高校時代が一番つらい時期でした。

そんな苦しい時期に私はいろいろな本を読みました。一番読んだのが亀井勝一郎です。彼の人生論に影響を受けていたこともあって彼の著作を片っ端から読みあさりました。その他、亀井勝一郎に限らずいろんな本を読みましたが、一方で心理学に関わる本もしばしば手にしていました。きっとこれから自分はどうなるんだろうという不安な気持ちが、自分の関心を自身の心に向けていたのかもしれません。

そうした背景もあって、北大に入ってからも相変わらず心理学や精神分析に関わる本を読んでいました。以前にも書いたように、医学部に進学する前の2年間は教養学部医学進学課程の学生として医学とはまったく関係のない教養科目ばかりで退屈にしていました。そんなモラトリアムの時期に私は、病める人を相手にする医師に心理学や精神分析学の知識は絶対に必要だという信念のようなものを持っていたのです。

とくにこの時期にのめりこんでいたのはカール・ロジャースの「クライエント中心療法」です。その内容はかなり難しくなるため省略しますが、カール・ロジャースを知ったのは大段智亮先生が書かれた「人間関係の条件」という本を読んでからです。ロジャースの理論を紹介しながら論を進めるこの本のなかで大段先生は「積極的傾聴」という作法を提示しました。「積極的傾聴」とは次のようなものです。

【ケース】
  翌日の手術をひかえて不安で仕方ない患者が回診に来た医者に不安を打ち明けます。「先生、明日
  の手術はうまく行くんでしょうか。不安で不安で眠れないんです」と。

さて、あなたが回診に来た医者だったらなんと答えるでしょうか。「だいじょうぶですよ。目を閉じたらあっという間に手術が終わっていますから」と励ましますか?「なにを弱気になっているんですか。こういうときこそしっかりしなければいけないのに」と檄を飛ばしますか?「まぁ、手術を受ける人はみんなそういいますよね」とさらりと流しますか?そもそもあなたが患者なら医者になんて言ってほしいでしょうか。

大段智亮先生が提唱する積極的傾聴では〝患者の言葉を評価せず、言葉をそのまま傾聴して気持ちに共感せよ”と勧めます。共感を受けた患者は自分自身の心の中で気持ちを整理して解決方法を探っていく。その心理的成長の手助けをするのが積極的傾聴の目的であると指摘しています(30年も前の知識ですから間違っているかもしれませんが)。カール・ロジャースの「クライエント中心療法」もその核となるものは同じです。

私はその後、発達心理学やフロイト心理学、ゲシュタルト療法などにも興味が広がりました。交流分析や脚本分析といったものまで勉強してみました。そのどれもがとても面白く、医者になったらすぐに役に立つ実践的なもののように感じました。しかし、学部にあがり、医学・医療の実際に触れるにしたがって、学生のときに考えていた理想とは異なり、現実はそうたやすいものではないことに気が付きました。

そのことに気づかされたのは精神科の授業ででした。講義をしていた当時の精神科の教授はとても高名な先生でした。授業も刺激的でしたし、人間的にも尊敬できる先生でした。私は授業が終わってからその先生に質問に行きました。「精神科の診療において精神分析や心理学はどの程度重要なのでしょうか」。そう質問する私に先生は優しい笑みを浮かべながらこういいました。「君をがっかりさせる状況かもね」と。

もちろん当時は大学の医学教育の中で「患者にどう接するべきか」といったコミュニケーション論を教える講座はありませんでした。「患者が病む疾患」に対応する術は教育しても「疾患を病んだ患者」に対応するスキルを教えるまでに当時の医学教育は追いついていませんでした。最近ではそれなりに改善されて講義や実習が組まれているようで、興味深い授業・実習がおこなわれていると噂には聞きますけど。

そんなお寒い医学教育を受けて医療の現場に送り出された私は、精神科の教授に言われた「君をがっかりさせる」ような現実を目の当たりにしました。積極的傾聴をしようにもその時間もない。毎日が忙しく通り過ぎていくからです。不治の病と対峙して心が折れそうな患者に対して我々がしてあげられる精神的サポートはほんとにわずかです。本来、担当すべき当時の精神科は内科以上にそうしたことに無関心でしたし。

一方で、積極的傾聴が役に立たない場面も少なくないことにも気が付きました。本来、クライエント中心療法は「来談者中心療法」と訳され、「なにか解決法をもとめてやってきた人」に対しておこなわれる心理療法です。しかし、日常の現場で接する患者のすべてがそうした「来談者」ではなく、ある種「病をもって現れる受け身の人たち」です。そうした人たちに心理的成長を促す作業はそう簡単ではないのです。

欧米人は概して日本人よりも社会的に成熟していますし、個人の精神のよりどころに関しても日本人とはことなります。宗教的な背景の違いも無視できません。しかも、書物でかじった程度の技術で有用な積極的傾聴ができるはずもなく、患者の心理的な成長につなげていくことなどなかなかできなかったのです。日々、こうしたことに意識的になって診療をしていても厳しい現実が目の前に立ちはだかっていたのでした。

とはいえ、今、学生のときに勉強した心理学や精神療法が役に立っているときもあります。それは子どもに注射を打つときです。私は注射を嫌がり泣き叫んで抵抗する子どもを力づくで押さえてワクチンを接種したりしません。子どもに注射をするとき、心理学的な知識を利用してみるとそんな強引なやり方をしなくても済むからです。そのせいか子供たちは「船戸内科の注射は痛くない」と言ってくれます。

子どもが注射を嫌がる主な理由は、痛いからではなく、怖いからです。ですから注射をするときは恐怖心を煽るようなことはできるだけしません。注射を極端に怖がって抵抗する子どもは、えてしてそれまでにとても怖い思いをしているものです。その最たるものが「押さえつけられて注射をされること」です。自分の恐怖心も理解してもらえずに、むりやり注射をされる恐怖。大人だって人によってはトラウマになります。

診察に入って来た子どもを見て、私はまずどの程度の恐怖心をもっているかを推察します。その恐怖心の程度によって、その恐怖心に「寄り添う」ということからはじめます。積極的傾聴です。そして、その恐怖心の中核になっている部分を「明確化」します。怖いのは「実態がわからないから」だからです。お化けが怖いのと同じ理由ですね。「君が怖いと思っているところは実はこうなってるんだよ」と。

ですから、子どもが納得するまで(針を刺させてくれるようになるまで)はなんどもなんども説明します。実物を見せたり、子どものあたまの中で恐怖心が明確な像として浮かび上がるように具体的な話しをします。こういうプロセスを経てようやく恐怖心が薄まるのです。無理やり押さえつけられないことを悟れば、たいがいの子どもは針を刺すところまではやらせてくれるようになります。

あとは冗談をまじえて会話をしながら、子どもが「この医者は信頼できるかも」と思ってくれればあとは簡単です。「この針は一番細い針だからね」と針先を見せると、多くの子どもは「ほんとだ」と言ってくれます。そして、刺入部をちょっと強めにつまんで「ここが一番痛くないところだってことを先生は知っているんだよ」と得意げに。ちなみに、強めにつまむのは針を刺したときの痛みを軽く感じさせるためです。

そして、「はい、息を吸って~」の「て」のときに針を刺してしまいます。人は息を吸うとき意識的になります。「吸って~」と言われて意識が呼吸にそれた瞬間に針を刺してしまえば痛みはあまり感じないのです。と同時に「ほら、もう針がはいってるよ。痛くないでしょ」と暗示にかけながら、「ゆっくりお薬をいれるからね」、「もう半分終わったよ」と矢継ぎ早に声をかけます。目標の明確化ってやつです。

最後は、注射の時間を長く感じさせない話術が必要。「あと3つ数をかぞえたら終わりだよ。さ~ん、に~い、い~ち」とゆっくり語りかければ。これだけで10秒はかせげます。注射液が入っていくときの痛みはこれでなんとか軽減できます。こうした打ち方をすると、多くの子どもは注射が終わった後、「ほんとだ。ぜんぜん痛くない」と言ってくれます。でも、実際は痛いんです。「思ったより痛くなかった」だけ。

いちど痛くないと感じた子どもは次からそれほど大騒ぎをしないで打たせてくれます。安心するのです。こうしたところに心理学的な作法が役に立っていることを実感できます。だからといって、押さえつけて注射をする医療機関を責めてはいけません。そうしなければたくさんの患者をさばけないのですから。ずいぶん昔になりますが、当院では注射を嫌がって30分以上も診察室でねばった子がいました。

そうはいっても心理学の手法を利用することは結構難しいです。診療時間の問題もありますし、こちらの心構えの問題もあります。スキルの錬度の問題もありますから。でも、学生時代に勉強したこと、青年期に読んだいろいろな本が診療のあちこちで役立っているなぁと思える場面があります。なにより、これまでの自分の精神的な成長にも役立っています。家庭円満のひけつにもなっているかもしれません。そう考えると青年期の悩みは長い人生を乗り越えるための貴重な財産だといってもいいでしょう。

「ソ、ソ、ソクラテスもプラトンも、み~んな悩んで大きくなった」ってとこかな。

 

【追記】
 「岩樹荘のおじさん(こちらのブログをご覧ください)」が4月18日に98歳で永眠されました。
  いろいろお世話になったことはすでにこのブログでもなんどかご紹介しました。
  あらためて「岩樹荘のおじさん」に感謝を申し上げたいと思います。
  安らかにお休みください。ありがとうございました。

                                         合掌

 

 

「死ぬ」ということ

「死ぬ」ことを英語では婉曲的な表現で「pass away(亡くなる)」といいます。「die(死ぬ)」という直接的な表現もありますが、あいまいさを嫌う英語においてですら「亡くなる」という柔らかい表現があるのは「死」が持つマイナスの印象を物語ってのことだろうと思います。人の心の細かいひだを表現することが得意な日本語では「死ぬ」「亡くなる」「旅立つ」「永眠する(永遠の眠りにつく)」「天国に行く」「お隠れになる」「逝去する」「死亡する」「絶命する」「薨去する」「冷たくなる」「神に召される」などの多様な表現があり、私たちの祖先が「死」をどのように見てきたかがよくわかります。

死ぬことは怖いことです。とはいいながら、今の私が死を実感として恐れているかと言えばそれは怪しい。今、私が死ぬことによって、「家内や子供たちを残していかねばならない」ことに対する不安感のようなものはありますが、実際のところ、死ぬということがどのようなものなのかは今の私にはまるでわかっていないといっても過言ではありません。これまでたくさんの「死」と関わってきたこともあって、一般の人に比べれば「死」を比較的身近に感じているかもしれません。でも、命に関わるような大病をしているわけでもなく、「死」というものを自分の問題として感じてはいないからでしょう。

先日、聖路加国際病院の名誉院長である日野原重明先生が亡くなりました。マスコミを通じて報じられる先生はいつもお元気だったので、日野原先生が亡くなるなんてことは想像もしていませんでした。ですから、逝去されたというニュースを聞いたときはなんとなく意外でした。しかし、先生が百歳を超えて近づく自分の死を達観していたかといえばそうではなく、亡くなる何か月か前のインタビューで「死ぬことは怖い。死の話しをストレートに言われると恐ろしい」と答えていたようです。とても正直な感想であり、たくさんの死を看取って来たクリスチャンでありながらも素直に答えるこの姿はさすがだと思いました。

私のクリニックに通って下さる患者さんの多くは高齢者です。これは当院担当の会計士も繰り返し指摘するのですが、当院の通院患者に占める高齢者の多さは特徴的です。したがって、毎年、何人かの通院患者が亡くなります。ある人は長年患ってきた病気の悪化によって。ある人は突然の病によって。また、ある人は理由もわからず朝冷たくなっていたなんていうことすらあります。ですから、外来で患者さんとちょっとした会話をしたときに「死」に関する話題が出てくることだって決して珍しくはありません。今も、手術不能で緩和ケアを受けるようにと宣告されて途方に暮れている患者さんが何人かいます。

ただ、そうした患者さんとの間で、直接的に「死」について話しをすることはあまりありません。患者さん自身がそのような「死」に関する話題を望んでいない限り私の方からお話しを振るようなことはありません。ですから、患者さんに対して本当は「死」に関するもっと突っ込んだお話しをしたいと思っていても、そのようなお話しができないまま亡くなってしまうケースがほとんどです。私はなにか特定の信仰をもっているわけではありません。また、「死」について達観した確固たる確信や信念をもっているわけでもありません。「死」の話しを積極的にできないのは、本来私にとって避けたくなる話題だからかもしれません。

医者になってこれまでたくさんの死を看取ってきました。以前、このブログでも紹介した高校生大学生といった若い人の死もあれば、百歳近い大往生ともいえる人の死までさまざまな経験をしてきました。お坊さんがすでに亡くなった人の魂を慰めるのだとすれば、臨床医は死にゆく人々の魂を慰めるのが仕事だといっても過言ではありません。しかし、現実はどうかと言えば、臨床医は「これから生きていける人」の相手はしても、「死にゆく人々」をしっかり看ているかといえばそうではないように思います。「治療しない(できない)なら退院してくれ」といわんばかりの医療が行われているのもまた事実です。

もちろん私もそうした医療をしてきたのかもしれません。とくに大学病院にいたときはそうかもしれない。しかし、私は私なりに戸惑いながら、そして、悩みながら「死にゆく人たち」に寄り添おうと思ってきたつもりです。そうした気持ちが患者さん自身に伝わっていたかどうかはわかりませんが、少なくとも彼ら彼女らの気持ちを理解したいと思っていました。でも、患者さんがそれぞれ置かれている立場や心のありようが異なり、また毎日の忙しさに立ち止まって患者のことを考えることができなかったことも多く、死にゆく患者のために十分なことをしてあげられたと胸を張れる自信はまったくありません。

とはいえ、今の私なりにいえることは、人間の「死」の意味は年齢によって違うということです。高齢者が大往生ともいえる生の終焉を迎えるとき、人は「長い間ご苦労さま」「今までありがとう」「ゆっくり休んでください」と声をかけます。もちろん、二度と戻っては来れない旅に出発するわけですから、その別れは淋しいものであり、悲しいものです。しかし、そこには一抹の安ど感があるものです。出棺のときにひとしきり流した涙も、時間と共に笑顔になれるのが高齢者の死です。生あるものはいつか必ず死にます。その限られた命が燃え尽きるように消えていくのは決して悲しいことだけではありません。

しかし、若い人の死はそうではありません。本人にはやり残したことがたくさんあったはずです。生きていれば輝くような幸福も手に入ったかもしれません。しかし、その死によってすべてが奪われてしまったのですから本人の無念はいかばかりのものでしょう。若い人の死を看取る家族の心に残す傷もまた決して浅くはありません。自分たちのかけがえのない子供の、あるいは孫の死を看取らなければならないことがどれほど辛いことかは想像を超えます。若い人の死は何回経験しても嫌なものです。主治医の私たちでさえ時に逃げ出したくなるような気持ちになります。

ただ、そんな死に際してなお残された者がしなければならないことがあります。死にゆく人たちが「生きざま」や、あるいは「死にざま」を通じて残された人たちになにかを残していきます。それは思い出かもしれませんし、財産かもしれません。あるいは勇気かもしれませんし、癒しかもしれない。後悔と反省を残す場合もあるでしょう。いずれにせよ、残された人たちは死にゆく人たちから贈られた「無言のメッセージ」ともいうべき遺志を感じ取り、その思いを引き継いでいかなければならないのです。死にゆく人は死ぬこと、生きることを通じて残された者たちへメッセージを託しているのです。

人は誰も死から免れることはできません。そのなかでどう生きるかということは、どう死ぬかということにつながります。死を宣告された人間がどう生きるかはもちろん、一見して健康的な生活をしているかのように見える人にとっても、生きることは実は死への道をどう歩くかということなのです。これまでの私の臨床経験の中で、いろいろな人の死を看取ってきましたが、やはり「立派な死に方」をした人からはたくさんのメッセージを受け取ったように感じます。「傲慢になるなよ」「肩書なんて人間にとってなんの価値もないんだよ」「家族を大切にせよ」「こだわりなんてものは邪魔なだけ」、などなど。

医者になってよかったと思うことはそれほどないのですが、それでもたくさんの患者さんから得られた無言のメッセージは今に自分に役立っていると思います。考えてみると人生は短いものです。生まれてくるのも一人なら死んでいくのもひとり。おもしろ可笑しく生きるのも人生なら、自分を鼓舞しながらストイックに生きるのも人生。人知れず死んでいくのも人生ですし、他人の注目をあびるような華々しい人生を生きていくのもまたひとつの人生です。なにをどう生きようが、それぞれの人生は他者に無言のメッセージを残していきます。生きる者、残された者はそうしたものに意識的になりたいものです。

死ぬことは確かに怖いことです。でも、絶望することではありません。たとえ死ぬまで苦痛に七転八倒した人でも、死ぬ瞬間は安堵の表情になります。魂が肉体を抜けだすとき、あらゆる苦痛や不安から解放されるからです。魂になったときすべての人は仏になります。その瞬間まで、人の人生は修業なのかもしれません。「早く死にたい」と思っていても、人はその修業に耐えねばなりません。「死にたくない」と思いながら往かねばならない場合もまた同様です。それが仏への道だからです。仏教にせよ、キリスト教にせよ、同じような宗教観を説教・宣教していることは興味深いことです。

なにかとりとめのない内容になってしまいましたが、「死」に悩み、苦しんでいる人になにかを訴えるものになっていれば幸いです。