ダイエット

実は今、ダイエットをしています。5月の連休に体重を測ったら、知らない間に70㎏を超えていたことにショックを受けたからです。これまで家族からは「やせろ、やせろ」のコールがありましたし、自分自身でも心の中では密かに「何とかしなくっちゃ」と思っていました。しかし、怠惰な性格と、楽天的な性格は、健康なんてことより、見かけなんてことよりも、そのときどきの満腹感を優先する毎日でした。ですから、家族には「俺ってサングラスをかけると櫻井翔君に似てると思わない?」といっては「どこがじゃ~っ」と完全否定を食らっても、下の子に「翔君というよりカンニングの竹山って感じかな」なんていわれても、一緒になって笑っているくらいでした。

しかし、その「翔君気取り」の私にとって目の前に突き付けられた体重70㎏の現実はあまりにも重く、「このままじゃダメだ」と改めて思い知ったのです。これまでもダイエットはしたことがあります。若いころであればすぐに痩せられ、体重を減らすにはちょっと食事を控えるだけでよかった。40歳になってアメリカに行きましたが、「アメリカでの食生活=脂っこい食事=ブクブク太る」という図式を思い描いていたせいか、毎朝・毎夕に欠かさず家内と大学構内をジョギングして、まだ車の停まっていない広大な駐車場でテニスをし、またジョギングをして帰宅。そして、シャワーを浴びて食事という健康的な生活で体重は60~61㎏をずっと維持していました。当時の写真を見ると、もちろん見かけも若いのですが、体型も適度に筋肉質でスラッとしていてまるで櫻井翔君がそこにいるようです。

ところが50歳を超えると、これまでとは打って変わり、太りやすく痩せにくい体質になり、そう簡単にはやせなくなりました。震災前にもダイエットをしていたのですが、このときは毎日ジョギングと筋トレを繰り返すかなりハードなものでした。当時なぜダイエットをしようと思ったのかというと、買いものに行ったショッピングセンターの窓ガラスに映った己の体の無残な姿にショックを受けたからです。それまでは体重が増えたことの自覚はあったものの、まだ現実のものとはとらえていませんでした。しかし、あの窓ガラスに映った自分の姿。伸びていた髪はぼさぼさで、丸い顔と突き出たおなか。なんといっても「丸太か?」っと見まごうばかりの胴体の「太さ」はあまりにも残酷な現実に感じたのでした。

でも、きついダイエットはそう続かないものです。挫折しそうな気持ちを抑え、毎日歯を食いしばって繰り返す運動に対する熱意などはいとも簡単に崩れ去ってしまうのです。あのときも、風邪で熱を出し、寝込んでしまったことをきっかけにすっかりダイエットの熱は冷めてしまいました。その後、震災があって私の頭の中からダイエットという五文字はきれいさっぱり消えてしまいました。以来、食べたいものを、食べたいだけ食べる生活。当然のことながら太ってきます。それでも体重を測ることなどなく、自分の体型にもほとんど関心はありませんでした。ふたたびあの厳しいダイエットをやる気にはならなかったのです。そんな私を家族は「パパのおなかってお相撲さんみた~い」とか、「ゴロゴロしてるパパってトドに似てないか?」とか、笑いの種にしていましたが、私もそんな言葉に大笑いをしながらおどけてばかりいました。

それ以降もダイエットをしようなんてまるで考えませんでした。ところが、連休中にふと測った体重が70.8㎏。さすがに70㎏越えはショックでした。健康うんぬん以前にこんな体重になってしまった自分が情けなかったのです。鏡に映る自分の体型はいつになく醜く、「中年なんだもの太ってしまうことは仕方ない」と思い込もうとしていた自分に気付きました。そのとき私は決心しました。ふたたびダイエットに挑戦しよう、と。続かないかもしれないと思いましたが、今度は無理をせず、辛くないダイエットを、楽しみながらやってみようと思いました。今までのダイエットのように「頑張るダイエット」は挫折しやすいことを知っていたからです。しかも、効果が実感できない場合はなおさら挫折しやすいということも実体験でわかっていました。そこで、目で見てわかるようにその日の体重を記録し、グラフ化することにしました。

まずは「食べ過ぎ」から是正することにしました。三食のご飯をたべすぎていないか。そして、間食が多くないかを考えてみました。そして、とりあえず「お米を食べるのをやめてみよう」と考えました。お米そのもののカロリーもさることながら、お米を食べるためにおかずもまた食べ過ぎてしまっていたからです。あと、間食はできる限り口にしないこと。そして、体重がそれなりに落ちるまでしばらくは朝食と昼食は極力抜くこと。ちょっと無理をしているように思えるかもしれませんが、開始直後は目に見える効果を得たいと考えたからです。効果はてきめんで、開始数日は毎日1㎏づつ体重が減っていきました。夕食はおかずを食べ過ぎないように食べ、週末はダイエットを少し緩めてみましたが、はじめの数週間は毎日数百g単位で体重が減っていきました。その分だけこれまで食べ過ぎていたということでもあります。こうした効果を目の当たりにしてダイエットに対するモチベーションはぐっと高まりました。

グラフ化するとよくわかるのですが、週の前半でぐいぐい体重が落ち、週末で少し増える。そして、また次の週前半で減る、という変化を繰り返していく中で体重は二ヶ月でほぼ7㎏減りました。でも、決して無理をしている感覚はありませんし、体調の変化もありませんでした。途中で採血もしてみましたが、これといってなにか悪い変化もありませんでした。むしろ、高めだった中性脂肪は正常化するなど脂質の改善が見られました。唯一、白血球数は極端にさがりました。研修医の頃、指導医に「重症患者の白血球数が急に下がったら要注意」といわれたことを思い出しました。ダイエットはからだにとってはある種の危機状態を作るわけですから、そうした体内環境の変化を反映しているのかもしれません。ただ、不思議なことにダイエットをしたら抜け毛が減りました。栄養状態が悪くなるわけですから抜け毛が多くなるならまだわかります。でも、抜け毛の本数が明らかに減っているのです。抜け毛がそれなりに気になり始めた年齢ですので、うれしい変化といえばそうなんですけどなぜなんでしょ。

ダイエットをしてみて感じたのは、ダイエットの極意は「空腹を楽しむ」ということ。空腹とは人間にとってある意味で「苦痛」なのだと思います。苦痛だからこそ人間はそれを避けようと食行動にでるのかもしれません。でも、よく考えてみて下さい。人は空腹にならないように食べるではありませんか。あるいは、それほど空腹でもないのに食事の時間が来たから食べる、という場合もあります。これらって実は「空腹」という「苦痛」をさけるための行為・行動なのだと思うのです。しかし、今回気が付いたことは、ダイエットにおいて「空腹は脂肪が燃焼している貴重な時間」と思えるようになるとだいぶ気分的に楽だということ。空腹は決して苦痛ではないのです。と同時に、なんとなく食べる、時間が来たから食べるということを決してしないようにすること。実際、これまでを振り返ると空腹感を乗り越えた日ほど体重減少が大きいような気がします。この当たり前のようで当たり前でないことに気が付いたことも収穫でした。

一方で、満腹が実は苦痛だという経験もしました。「あ~満腹、満腹」という言葉は幸せの印のように感じます。ところが私の場合、ダイエットが進むにつれて満腹という一時的な「快楽」のあとに嘔気や腹痛という「苦痛」がやってくるようになったのです。ダイエットをしながら「あ~、○○を思いっきり食べてぇ~」って思うことがありました。ところが、そうした思いのままに腹いっぱい食べると、そのあとで必ずと言っていいほど気持ち悪くなったり、おなかが痛くなったりするのです。そして、しばらくトイレにしゃがみ込むはめに。よく「胃が小さくなる」といいますが、単に胃のサイズが小さくなるだけの現象ではないようです。たくさん食べることで脂質かなにかが体の中で急に増えてこのような症状がでるようでもあります。よく拒食症の患者が食べては吐くという異常行動を繰り返すといいますが、この行動の理由に「たくさん食べてしまったことに対する罪悪感」があると説明されます。しかし、実は今私が説明したような生物学的ななにか合理性が背景にあるような気がします。

いずれにせよ、ダイエットはこれからも続きます。5月の連休明けからこれまでで7㎏の体重が減りました。最近は体重の減り方も少なくなり(というよりも意識的に食事量を以前よりも戻しています。また、朝食と昼食のかわりにタンパクとカルシウムを補給するために牛乳を飲むようにもしています)、その分だけ以前ほど毎日の体重測定が楽しみではなくなりました。むしろ、体重が大幅に増えていないか恐る恐る体重計をのぞき込むようになっていますが、あと2㎏の体重を減らしたいと思っています。体重は1㎏などいとも簡単に増減するからです。体重をふやすのは簡単です。ダイエットはいともたやすくなし崩し的に終わってしまいます。時間があれば筋トレ(足上げ腹筋や腕立て伏せ)をやっています。筋トレも意識的にゴロっと横になりながら気軽にできるものにしています。何事も「頑張らない」「仰々しくしない」「成果を実感できる」をモットーにこれからも細く長く続けるつもりです。

あとどれくらいでかはわかりませんが、今以上に櫻井翔君にそっくりな私が出現するかもしれません。先日、すっきりしたおなかをさすりながら、家族に「ほら、こんなにやせたぞ。だからこれからはカンニングの竹山とは言わせないからな」と勝ち誇ってみせました。しかし、そんな得意げな私に息子が冷静に言いました。「からだはやせても、顔は竹山のままなんだよな~」って。ガク~っ。

私の「幸福論」

本年3月1日付で投稿した「私の『幸福論』」については、最近、多数のスパムメールが寄せられています。そこで先の投稿文を削除してあらためて以下アップし直します。

以下、本文

多種多様な価値観を持つ社会ほど、しなやかで力強く、創造的かつ生産的な社会だといわれています。いろいろな考え方の人がいるからこそ社会は支えられ、発展するというわけです。なんらかの価値観にかたよった社会ではいろいろな問題に対応できないといういい方もできます。ひるがえって家庭にあてはめてみると、価値観が完全に一致した配偶者にめぐり逢うなんてことは奇跡に近く、誰もが新婚時代に価値観のぶつかりあいを経験するわけで(今でもぶつかっている?)、価値観の違いを乗り越えるということはそう簡単なことではなさそうです。

 個人的にいえば、人間の価値観の相違はとくに人生観、あるいは幸福観において顕著なのではないでしょうか。「人間、いかに生きるべきか」あるいは「幸せってなんだろう」という命題に正解などなく、百人いれば百通りの答えがあるのです。ストイックな人生が輝いて見える人がいれば、快楽主義的な生き方にこそ価値を感じる人もいる。ですから、これからお話しすることはあくまでも私個人の考えとしてお読みいただければと思います。私の価値観を人に押し付けるものでもありません。と同時に、他人からとやかく言われることでもないという点を強調しておきます。

早いもので今年ももう3月となってしまいました。小中学校の入試も終わり、おおかたの国立大学の二次試験も終了しました。残すは今日からはじまる公立高校の後期試験だけでしょうか。うちにも来年の高校受験を控える中学二年生の子どもがいるので、これからいよいよ否応なしに受験モードに入っていきます。親として表面上は泰然自若を装い、子供には常に冷静な姿を見せておかなければいけないのでしょうが、いかんせんそこは悲しいかな凡人の私。来年の受験に向けてどこまで平常心でいられるか自信はまったくないというのが正直なところです。

 中学二年生にもなると、子どもながらに自分の将来のことをぼんやり考え始めるとともに、不安になる時期でもあります。先日もニュースで、学校の担任とそりが合わなかった中学生が「担任のせいで自分の人生は終わった」と遺書に残して自ら命を絶ったと報道されていました。そうした出来事を耳にするたびに、同じ世代の子どもをもつ親としては切ない気持ちになります。しかし、かくいう私も、これまで自分の子どもとこうしたことをじっくり話し合ったことはありませんでした。ところが、ひょんなことから息子と人生についてじっくり話をする機会がありました。

 それは息子に勉強を教えているときのことでした。仕事を終えて疲れて帰ってきてから少しだけ息子に勉強を教えているのですが、教わっている最近の息子の態度がとてもいい加減に見えていたこともあって、いつになく声を荒げて息子を叱ってしまいました。さすがの息子もその私の怒りっぷりが理不尽に見えたのか、これまたいつになく口をとがらせて反論してきました。息子の言い分もわからないでもありませんでした。しかし、仕事のことで少しイライラしていたからか、私はそれまで心の中にわだかまりとしてたまっていた息子への不満をいっきにぶつけたのでした。

 しかし、私がひとしきりこれまでの息子の勉強への姿勢を批判したあと息子は私に言いました。「父ちゃんは今幸せ?」。「ああ、幸せさ。ママもいて、ふたりの子どもにも恵まれたからね。仕事もそれなりに順調だし」。すると息子はしみじみと「そうだよなぁ。子どものころからなりたかった医者にもなれたんだし」と。彼がそんなことを言うとは思っていなかったせいか、私は彼の次の言葉にショックを受けました。それまで机の上に視線を落としていた息子が私をしっかり見つめてこう言ったのです。「そんな父ちゃんより俺が幸せになれると思うかい?俺は父ちゃんより幸せにはなれないんだよ」。

 息子は私をそんな風に見ていたんだと少し意外な気持ちがしました。これまで息子に私は「いかに自分が子どものころ勉強をしなかったか」、あるいは「どうして勉強するようになったか」をなんども話してきました。私としては「誰でも努力を怠らなければ医者ぐらいにはなれる」という気持ちを彼に伝えたかったからです。そして、それを聴いた息子に「よし、それなら俺も頑張ってみよう」と奮起してもらいたかったのです。しかし、それを聴いていた息子の目には「自分にはとてもまねのできないもの」として映っていたらしく、私はそのことに多少ショックを受けていました。

 でも、私は気を取り直して息子に言いました。「でも、幸せっていったいなんだろう?手にいれることができるものなんだろうか。ずっと手元においておけるものなんだろうか?」。息子は「そんなこと知らないよ」とちょっと投げやりです。「幸せって、人によってその形や中身も違えば、大きさだって違うんだ」。息子は視線を机の上に落としたままです。「君がなにに幸せを感じるかは俺とは違うはずだし、違っててぜんぜん構わないものなんだぜ」。私はこのとき「自分の幸福論」を話しはじめました。延々と1時間ほど続いたでしょうか。息子は意外と黙って聞いていました。

********** 以下はそのときの要旨です。

 世の中にはいろいろな価値観がある。遊んで暮らしていければいいと考える人もいれば、日々努力をしてひとつひとつに向上心をもって生きていくことを善とする人もいる。あるいは人知れず自分の世界を大切にして人里離れた場所でひっそりと暮らす人だっているだろう。でも、そのどれが「いい生き方」かってことでもなければ、どれが素晴らしいかって問題でもない。結局は「どの生き方が好きか?」って問題なんだよ。そうしたいろいろな価値観を持った人が、自分の持ち場でそれぞれが幸せだと感じることができれば、それを「幸福」っていうんじゃないんだろうか。

このあいだ、新聞に、学校の担任に嫌われた中学生が「担任に睨まれたから俺の人生はもうおしまい」なんて遺書を残して自殺してしまったというニュースが載っていた。たかだか担任の先生に気に入られるかどうかで人生って決まっちゃうのかい?いい高校あるいは行きたい高校に行けないと人生は終わりなの?大学行けないと(あるいは行かないと)幸せになれないの?就きたい仕事に就けないと、あるいは定職に就かずにアルバイトで生活していたらその人は不幸なの?逆に、小さいころから勉強ができて、いい大学を出て、大きな会社に勤めて、社長になったらその人は幸せなのかい?

 あのね、会社という組織を考えればよくわかるよ。出世することを第一と考え、家庭生活を犠牲にしてまで懸命に働いたサラリーマンがいたとしよう。そして、その努力と犠牲の甲斐あって見事社長になれたとして、その人は幸せといえるだろうか。奥さんとの四十年や子どもたちとの三十年間の家庭生活を犠牲にして、奥さんや子どもたちがその出世を恨んでいたとしたらどうだろう。その人の幸福にどのような意味があるんだろうって思わないか?会社での何十年かを振り返って「俺の人生に悔いなし」って言えればいいよね。でも、犠牲にしてきた家族との生活はもう戻ってこないんだよ。

もちろん、こうした人も会社には必要だよ。会社で働く人がみんな「家庭が第一。出世しなくてもそこそこに働ければいい」と考えるようじゃ会社は成り立たないからね。だけど、だからといって「家庭が第一」と考える人が社会人として劣っているということでもない。どちらも価値観としては認められていいということなんだ。そういういろいろな価値観があって社会はなりたっている。だから、有名な学校を出ようが出まいが、学校の成績がよかろうが悪かろうが、社会的地位の高いポジションにいようがいまいが、その人の価値を決めるわけでもないし、幸せかどうかを規定するものでは決してないということさ。

 考えてみると、人間は生きていく中でいろいろなターニングポイントに遭遇して、人生の選択を迫られる。そのポイント、ポイントで最善と思えるような選択をしなければならない。「最善の選択」とはいっても正解とは限らないよ。正しいかどうかなんて誰にもわからないんだから。「後悔をしない選択」という意味にすぎないと思う。後悔のない選択をするためには日々努力をしなければいけない。その「日々の努力」あるいは「後悔のない選択」の積み重ねの総体が人間の幸せなんじゃないのだろうか。つまり、幸せに終着点はない。幸せは手に入れられるようなものではないってことなんだ。

君はなんのために勉強しているの?もちろん希望する学校に入るためだよね。それならなんのために希望する学校に入りたいんだい?それは一義的には幸福感を得たいためであり、二義的には将来の希望につなぐためだよね。では、希望の学校に入れないと将来の希望をつなぐことはできないのだろうか。そうじゃないよね。だって、「人生の扉」を前にして、希望の学校に入れたということが正解かどうかだなんて誰にもわからないんだから。つまり、どのような扉を開けるにせよ、それぞれの人がそのときどきに応じて誠意をもって最善の判断を繰り返していくことしかないんだよ。

 「神は自ら助けるものを助ける」という言葉があるよね。人の一生にはなにか正解があって、その正解をたどることが幸せにつながると多くの人はなんとなく思っている。だけど、実はそうじゃない。人生にそもそも正解などないし、お手本なんてものすらない。つまり、その人でしかたどれない人生を誠実に生きていくこと。その積み重ねが少しづつ「幸せの貯金」となっていく。その誠実さ、その日々の努力を神さまは見ているんだよっていうのが、先の言葉の意味なんだと俺は思う。他人の人生なんて自分にはなんの関係もない。自分を誠実に生きるってことこそ大事なんだと思うけど。

 生きるのが苦しくなるのは他人の目を気にするから。他人と自分を比較するからさ。自分がどう生きようと他人には関係ないのと同じように、他人がどのような人生を生きようと君の人生にはなんの関係もないんだよ。君の人生が家族や身近な人たちの人生になんらかの影響をあたえることはあるかもしれない。身近な人たちにどのような影響を与えるにせよ君が誠実に生きるという姿勢を貫くならばそれは許されるものさ。気にしなくたっていい。だってたった一度の自分の人生なんだもの。自分のために生きるのも自分、他人のために生きるのも自分。どちらがより尊いかって問題じゃない。

 君自身は、今やらなければならないこと、選択しなければならないことはなにかに常にアンテナを張り、最善の行動をとるようにしなければいけない。君の年代はその訓練をする時期。結果がどうであろうと知ったこっちゃないじゃないか。やるべきことをやるだけ。それ以上のことは神さまにまかせるしかない。後ろを振り向くな、ただひたすら前をみろ。立ち止まって振り返っている暇はないからね。ただし、心折れて歩けなくなったら、あるいは道に迷って途方に暮れたら地べたに寝そべって目をつぶれ。そして、いつかふたたび立ち上がればいい。人生なんて長いようで短いけど、本来は気楽で自由な旅みたいなものなんだし。

アルバイト考

最近、「働き方改革」という言葉を耳にします。今や死語となってしまった「猛烈サラリーマン」に代表されるように、これまでの日本人はともすると家庭生活はもちろん、あらゆるものを犠牲にして働くことをいといませんでした。それを美徳とすら思ってきたのです。しかし、先ほどの「働き方改革」は、これまでの「働くために生きる」ともいえるようなライフ・スタイルを「よりよく生きるために働く」ものにシフトしようというスローガンのもとで進められています。

思えば、私たちも研修医のころは24時間、365日働いていたと思うくらい働いていました。また、それが当たり前のようにすら感じていました。ですから、最近の研修医の中にはいわゆる「95時勤務」となって、5時になると早々に離院できるという話し(実際はそんなに甘い研修ばかりではないのでしょうが)を耳にするにつけ、なにやらもったいない気持ちになります。ましてや「医者も労働者だ」という視点で医師の労働時間を議論されることにも個人的には少し違和感を覚えます。

とはいえ、これまで生活の中心になっていた労働を、生活を充実させるために働くというパラダイムにシフトさせるということは決して悪いことではありません。自分の生活を犠牲にして働く人がいなければ支えられないものがあるとはいえ、犠牲を強いなければならない人を必要とする社会は本来間違っています。すべての人がよりよく生活できる社会を作らなければいけません。その意味で、「働き方改革」というムーブメントは「はたらく」ことの意味を見直すいい機会になるかもしれません。

私もこれまでいろんなアルバイトをしてきました。自分に向いている仕事もあれば向いていない仕事もあって、それぞれに思い出があり、たくさんの教訓を得ることができました。でも、当時は働くってことがこんなにも大切なことなんだというところまでは考えが至らず、ただ単にお金目的で働いていたに過ぎません。やりがいだとか働く意味なんてことまではまるで考えていませんでした。そうしたことがわかったのはやはり年齢を重ね、社会人となってからです。

総じて私がやったアルバイトはどれも楽しかったです。出版社で辞書を作るバイトだったり、守衛さんのお手伝いだったり、とある私立中学の林間学校のスタッフだったり、あるいは家庭教師だったり塾の先生だったり。今振り返ってみると、そのどれもが貴重な社会勉強になったと思います。お金をもらうこと以上に、働いてみなければわからないいろいろな気づきや学びがあって、アルバイトは単にお金をもらうだけじゃなく、生きることにもつながる大切な社会活動なんだってつくづく思います。

とりわけ私にとって思い出深いアルバイトは花屋の売り子でした。店先に並べた花束をスーパーの買いもの客に売るのです。私と同じ年代の女の子とふたりで店を任されたのですが、店先に立ってものを売るなんてことははじめての経験でした。「いらいっしゃいませ」のひと言を口にすることがいかに難しいことか。一緒に働いていた女の子も私と同じように大きな声で呼び込みができないようで、仕方がないので私が前に出てお客を呼び、彼女がレジに座ることにしました。

ところが、私がいくら勇気を出して「いらっしゃいませ。お花はいかがですかぁ」と声をかけてもお客さんはいっこうに店をのぞいていってくれません。なんども呼び込みをするのですがまったく反応がないのです。その日はお彼岸のまっただ中で、本来であれば墓参用のお花がもっと売れるはずなのに。なぜ買ってくれないのだろう。はじめに感じていた緊張感は徐々に薄れていましたが、いっこうに花が売れないことが不安になってきました。この花屋の主人の不満そうな表情が脳裏をよぎりました。

スーパーで買いものを済ませた客は相変わらず店先の花を横目で見ていきます。しかし、立ち止まって店先をのぞいていってくれませんでした。一緒に働いていた女の子とどうすればいいんだろうと話していると、隣のスペースでカステラを売っていた青年が見るに見かねて声をかけてくれました。「兄ちゃん、それじゃ売れないぜ」。振り返ると、てきぱきとカステラを売りさばいていた青年が、ぎこちなく花を売る私達に微笑んで立っていました。

「そっちのお姉ちゃんが前に立った方がいいぜ。そして、兄ちゃんが後ろで声をかけるのさ」。彼が言うには、私のような男性が前に立っていたのでは女性客は警戒して気軽にのぞいていかないらしい。「兄ちゃんが遠くから呼び込みをして、ひとりがのぞいてくれたらいろいろ話しかけてその客を引っ張るんだ。そうすると他のお客がまたのぞいていくよ、きっと」。カステラ売りの青年のアドバイスはとても具体的でした。私達はさっそくやってみることにしました。

まず女の子が店先でにこやかに呼び込みをしました。あくまでも控えめに。そして私は奥のレジで元気よく声を出すようにしてみました。するとどうでしょう。青年の言ったとおり、ひとりのご夫人が花をのぞき込んでいきました。女の子はすかさずその客に声をかける。すると、それを見て何人かの客が立ち寄っていくようになりました。私はすかさずそれらの客達に軽く声をかけていたら、花が次々と売れ始めました。カステラ売りの青年は忙しくなった私達をときどき遠くから見ていてくれました。

「この花とあの花だと、色合い、おかしくないかしら」。一人の主婦が私に聞いてきました。さっぱりカラーセンスがない私は一瞬答えるのを躊躇してしまいました。適当に答えているように聞こえたらいやだったからです。しかし、それなりにいいカラーコーディネイトだったものですから、勇気を出して「とてもいい組み合わせだと思います」と言ってみました。するとその客はニコリと微笑み、花を四束買ってくれました。

終わってみれば、カステラ売りの青年のアドバイスが効を奏してたくさんの花束が売れました。青年は「ものを売るってむずかしいだろ。でも、コツがわかると楽しいだろ。あの調子で頑張るんだよ」とほめてくれました。一緒に働いている女の子との息もぴったりあって、なんとなくものを売るということに自信がついてきました。どんよりと曇っていた気持ちはすっかり晴れ、なんだかもっと売ってみたいような気持ちがしていました。

花売りの仕事がはじまる前、花屋の店主は手順を説明しながら「ふたりで大丈夫かな」と不安気でした。しかし、店じまいの頃にやって来て私達の売り上げを計算するとその表情はとても明るくなっていました。「よく頑張ってくれたね。たいしたもんだ」と店主満足げです。その表情を見た私もほっとしました。私達に的確なアドバイスをくれたカステラ売りの青年は、さっさと自分の商品を売り切ってしまい、私達よりも先に店をたたんでは風のように去って行きました。

見知らぬ人に商品に関心をもってもらい、その商品を買ってもらうということはとても難しいことです。こんなあたりまえなことでさえ、普段買う側にいると想像することさえしません。どうしたら品物を買ってもらえるか。売る側の人たちは試行錯誤しながらそのコツを体得していくのです。「経験」を「知」に変えるとそれはアート(Art)になります。このアートの域にまで到達することができれば人は創造的に働くことができ、アートを手にした人のみが創造的に働くことができるのです。

働くことは単にお金を稼ぐだけのツールではありません。生きることを知るためのツールでもあります。働くことを通じて創造的かつ能動的に生きることも、前向きに生きることもできます。「はたらき方」を考えるってことは実は人間の生活そのものを考えることかもしれません。アルバイトをすることで、働くことが人生になんらかのヒントあるいは指針をあたえてくれるということに気が付きます。

「老いる」ということ

今月のはじめ、札幌に大雪が降りました。例年であれば今頃の雪はすぐに溶け、陽の当たらない道端に小さな雪のかたまりが残っている程度です。昨今の異常気象のせいなのか、まだ11月になったばかりだというのにあの大雪。しかもまだ気温が十分に低くなっていないのであのときの雪は湿っていてずいぶんと重かったらしい。12月後半の雪であればさらさらと軽く、頭や肩に降り積もっても簡単に吹き飛ばすことができるのに、雪に慣れている北海道の人たちも今回の除雪(北海道では「雪かき」といいます)はさぞかし大変だっただろうと思います。

でも、私はこんな厳しい気候もふくめて北海道が好きです。しばれた冬の冷たさも、視界をおおう真っ白な雪でさえも、私にとっては懐かしくも北国の郷愁を感じる素敵な光景に見えます。人によっては「あんな寒いところ」と言いますが、そうした厳しい冬が私には素敵に見えるのはきっと家の中の暖かさがあるから。家の中の暖かさから言えば、北海道はこちらの比ではないくらいに暖かいのです。ストーブをがんがん炊きながらTシャツ姿なんて普通のこと。寒くて冷たい外から帰ってきて、暖かい室内に入ったときのなんともいえないホッとした気持ちは北海道ならではかも知れません。

そんなことを人に話すと、よく「ほんとに北海道が好きなんだねぇ」って言われます。当ブログの「北海道のこと」でも書きましたが、春夏秋冬の季節感がはっきりしている北海道の自然や気候はなぜか私の琴線に触れます。肌に合うっていう奴でしょうか。だから、息子たちには「俺が歳をとってボケたり寝たきりになったら札幌の老人ホームに入れてくれ」と言ってあります。家内や息子たちのお荷物になりたくない私は、たとえ一人であっても大好きな札幌に戻って安らかな気持ちで余生を送りたいと思っています。北海道、とくに札幌はそれほど私にとっては特別な場所なのです。

老後だとか、余生だとか、これまで自分とは無縁だと思えていたことが、いつの間にか現実的なものに感じる年齢になってしまいました。思えば私のクリニックも開院して今年で十年。あのとき受診してきた幼稚園児だった子ども達も今は高校生。背丈も僕よりも大きくなり、ワクチン注射のときに大騒ぎしていたあの頃がずいぶんと昔のように感じます。私自身、彼らをわが子のように見ていたせいか、その成長した様子が私にはなんとなく淋しく映ります。成長した彼らの後ろ姿を見ながら、お母さん達にはつい「淋しくなっちゃいますね」とこぼしてしまいます。

私自身も歳をとりました。いつの間にか私が大学生だったときの父親の年齢になってしまい、なんだか不思議な感覚です。かつての父親の歳になってはじめてわかることもあります。当時の父は仕事から帰ってくるといつもゴロゴロしていました。そんな父を見ながら、「なんでそんなにゴロゴロしているんだろう」と思ったものです。しかし、その年齢になった今の私もまたゴロゴロしている。老眼も年々強くなり、また、いろいろなことが覚えられなくなったり、思考がまとまりにくくなったりといった、かつてよく母親がこぼしていた変化が今の私にも徐々に現れてきています。

よく患者さんから「老化」に関わる相談を受けることがあります。ごくまれに何らかの病気から来る症状である場合もあります。しかし、ほとんどのケースは加齢にともなう変化。むしろ、受け入れなければならない問題だといってもいいのです。正解のないこの「老化の諸問題」にどう答えるのか私自身言葉に窮することがあります。なぜなら私にも「老化」の問題は未経験だからです。私が見聞きした患者さんの体験を通じてでしか答えられない。そもそも人によって直面する問題はさまざま。ましてやそれらのすべてが人によって受け止め方が違うのでなおさら難しい問題です。

ただ、悩んでいる人の多くに共通しているのは「はじめて経験する『老化』にとまどっている」という点。時の経つスピードは年齢とともに早くなっていき、10代のときの一年と40歳代での一年とはその長さがずいぶん違います。80歳代となればなおさらです。その分だけ人は知らない間に歳をとっているのです。それはまるで「肉体年齢のあとを精神年齢が追いかけている」かのようです。私も気持ちはまだ実年齢よりもひと回りは若いのですが、仕事中にふと漏れるため息と、自宅に戻るとすぐにゴロゴロしてしまう気力・体力の低下は明らかに実年齢そのものです。

現代の80歳は、昔の80歳と違ってとても健康で若々しく見えます。中には認知症もなく、60歳代だといってもわからない人もいます。しかし、どんなにトレーニングを欠かさずに体力を維持していようが、生物学的に80歳はあくまでも80歳。維持されてきた体力もいつか衰えるときがやってくる。これは揺るがぬ事実です。ところが、人はそうしたことを頭では理解できても、なかなか受け入れられないもの。いつまでも自分は以前のままであると何気に思い込んでしまっているから。加齢にともなう変化に不安を感じている人は概してそうした事実を受容できていないように見えます。

70歳代の人は気持ちはまだ60歳代。しかし、肉体年齢は確実に80歳に向かっているのです。そのギャップに悩む人は少なくありません。私はそうした人によく「かつて自分が20歳だったときのことを思い出してください。そのときのあなたには70歳代の人がどのように映っていましたか?」と問いかけます。そうすることで自分の年齢というものを実感できるからです。すると、多くの人は納得したような、それでいてちょっぴり落胆したような表情をします。中には「歳をとったと言われた」とショックを受ける人もいます。厳しいようですがこれが現実であると気が付くことは重要です。

受け入れられないのも無理はありません。鏡の前で見る毎日の自分はいつまでも「今のまま」なのですから。毎日ほんのわずかだけ変化する自分とその変化の積み重ねにほとんどの人は気づきません。これが「精神年齢は実年齢を追いかけていく」と表現した理由です。しかし、その間にも肉体は確実に歳をとっていく。そして、あるとき突然「加齢」という現実に直面するのですから、そうした変化を受け入れられないのもある意味当然なのです。でも、その「加齢」という変化に対する見方を変えてみると違った風景が見えてきます。巻き戻せない時間に絶望するのではなく、「老いること」をもっと前向きにとらえるのです(「心に残る患者(4) 」もご覧ください)。

かつてできたことができなくなった不安。あるいは、肌にしわやしみが多くなって、腰が曲がり、ちょっとしたことで転ぶようになってしまったことへの落胆。そうした変化を人は「忌まわしいもの」あるいは「醜いもの」ととらえがちです。それはかつての輝いていたころの自分と比較するからです。でもよく考えてみて下さい。無心に虫を追いかけていた子どもの頃の‘あなた’も「あなた」なら、公私に充実して輝いていた若かりし頃の‘あなた’も「あなた」。ならば、老いを迎えていろいろなことが若いころと違ってしまった今の‘あなた’も「あなた」ではありませんか。

人間はいつか死にます。これは避けることはできません。その最期の日がいつ来るのか。それは神のみぞ知ること。そんなこと「知ったこっちゃない」のです。ある高齢の患者さんから「私はなんのために生きているのかわからない」と言われたことがあります。しかし、そのとき私は次のように答えました。「生きる目的は世代によってさまざまです。ご主人と結婚したときにはそのときの目的があり、子どもを育てているときにはそのときの目的がある。孫の成長を見守っているときにもそのときの目的がある。だから、生きていることそのこと自体が目的になるときがあってもいいのではないか」と。

人の価値には、もちろん他者の役に立つという価値もありますが、存在することだけに価値がある場合もあります。家族がそのいい例です。世話になっている、面倒をかけていると本人が思っていても、世話をしている家族からすれば「いてくれるだけでいい存在」というものがあるのです。それが「存在価値」です。存在価値はそれまで生きてきた人生で積み重ねてきた価値の集大成でもあります。老いを迎えて得られた自分の価値は、本人がいかに生きてきたかの証として自分自身が実感できるものであると同時に、まわりの人にしか感じられない価値でもあるのです。

「老い」は長生きできた人にしか経験できないことです。「老い」は長生きしたことの代償だということもできます。これまでこのブログで書いてきたように、私の心に残る患者の多くは若くして亡くなった人たち(「心に残る患者」「心に残る患者(2」をご覧ください)です。それは若くして逝かなくてはならなかった患者たちの無念さを痛いほど感じるからです。ですから、人生をまっとうできた人の死に私は悲しみをあまり感じません。もちろん別れは淋しく辛いものです。でも、「老い」を経ることのできた人たちとの別れは決して悲しいものではありません。

「老いを前向きにとらえろ」などと簡単に言ってくれるなと言われるかもしれません。老いることの苦しみや辛さを実体験として私は感じたことがないのですから。しかし、医師という仕事を通じて生老病死を見てきた私から言えることは、生きながらえた代償としての「老い」を受け入れることはできるはずだということ。つまり、「今を生きる」のです。人にはいつかお迎えが来ます。それが明日なのか、何年、何十年先のことなのか、そんなことは「知ったこっちゃない」のです。今を穏やかに、無事に過ごせればいいのです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。それが生けるものの宿命だからです。

今日はずいぶんと生意気なことを書いてすみませんでした。
不愉快な思いをした方がいらっしゃったらご容赦ください。

「子育て」はおもしろい

最近、なかなかブログを書く時間がとれません。しかも、もともと文才があるわけでもなく、書きたい題材はたくさんありながらそれらを皆様に読んでいただけるような文章にできないのです。

ブログは上の息子が2歳のときに「子育てブログ」を書いたのがはじめてです。その後、下の子が生まれるまでの5年間にわたって書き続けました。今、このブログを振り返ると、その文章はつたないながらも札幌時代の懐かしい風景がよみがえってきます。

今回はその「新・子育てはおもしろい」をご紹介してみたいと思います。12年も前のブログですが、まだ四十路だった私の子育ての奮闘ぶりを読んでいただければと思います。ここでは私自身が是非皆さんに読んでいただきたいページをいくつかご紹介します。

※なお、プライバシー保護のため、登場する子供達の名前は仮名になっています。

下の題名をクリックすれば見られます。

第一回目のブログ:子育てはおもしろい

金沢のこと

永平寺訪問

ダイジョーブ?】

立てば歩め

今回はこんなお茶を濁すような内容ですみません。次回はもっとしっかり書きます。

憂鬱な季節

1週間ほど前から花粉症の患者が増えています。それまで症状が軽かったのに限度を超えたために来院した人もいれば、症状が急に出てきたことから受診してきた人もいます。おそらく杉の花粉量が急速に増加したからでしょう。それは私の実感からもわかります。私もバリバリの花粉症だからです。昔から「春よ来い、早く来い」と歌われているように、世間では春は待ち遠しいものされています。でも、毎年花粉症に苦しむ私にすれば春は「憂鬱な季節」でしかありません。早く来て、すみやかに過ぎ去ってほしい季節です。暖かいのに底冷えしているような中途半端な気候もふくめて私にはどうしても春が好きになれません。

私が花粉症になったのは高校2年生のとき。発症するまでといえば、通学の途中、電車の中でくしゃみを連発する人を見かけると、それがとてもおかしくて笑いをこらえているほどでした。しかし、花粉症の症状はなんの前触れもなく突然現れました。高2の春のある日、夜明けにくしゃみが止まらなくなり、左右の鼻の穴からは鼻水があふれ出してきたのです。仰向けに寝ているのにあふれ出す鼻水。それはあたかも火山から流れ出す溶岩のようでした。しかも、鼻が詰まっているのであふれ出てきた鼻水をかむことができない。おまけに目はかゆく、目の周りは目ヤニでガベガベとなっていて開けることもできない。花粉症がこれほど辛いものだとは思いませんでした。

以後、私は、およそ40年余の長きにわたり、春になるたびにこの花粉症に苦しむことになりました。電車の中でくしゃみを連発していた人がどれほど辛い思いをしていたのかを身をもって知ったのです。今でこそそれなりにいい薬がありますから、2月から抗アレルギー薬を飲みはじめ、3月に点鼻薬と点眼薬を使いはじめればなんとか「辛い」という状況からは逃れることができます。しかし、花粉症それ自体があまり認知されていなかった当時はあまりいい薬がありませんでした。ですから、どの薬を飲んでも症状は楽にならず、市販の薬を指示された量の2倍の量を飲んだり、複数の薬を一緒に飲むなんてむちゃなことをすることもありました。それくらいに症状は激烈でした。

北海道に渡った理由のひとつがこの花粉症です。北海道には杉の木がありませんから。津軽海峡にひかれたブラキストン線によって本州と北海道の植生はそれほど違うのです。正確に言うと函館あたりまでは杉の花粉が飛んでいるそうです。しかし、札幌までとなるともはや私が症状に苦しむほどの花粉はほとんど飛んできません。ですから、札幌では1年を通じて花粉症の症状とは無縁の生活が送れます。4月になって雪がとけはじめ、入学式がおこなわれることには町中が泥と雪でぐちゃぐちゃに。そして、5月になってようやく本州の3月ごろの気候になりますが、あの憂鬱な症状から逃れることができます。長年花粉症に苦しめられてきた私にとってこれほど幸せなことはありませんでした。

北海道は5月になると急速に春めいてきます。木々が芽吹くと同時に、梅や桜、タンポポの花がいっせいに咲き始めます。まさしく百花繚乱の季節です。このころの札幌ではいたるところできれいな花壇を見かけます。杉のない札幌ではあれだけ私を悩ます花粉症の症状がないので、花をめでにいろいろな場所に出かけることができます。これが春を満喫するということなんだと実感できます。シラカバの花粉症っていうものはあります。春、いろいろな花が咲き始めるころ、シラカバの綿毛がふわふわと漂い出し、スギ花粉症ほどではないにしろ、クシュン、クシュンとくしゃみをする人がでてきます。幸い私はシラカバの花粉症ではなかったので。まさに快適な春を送ることができました。

札幌で花粉症とは縁遠い生活をしていると、自分が花粉症であることを忘れてしまいます。でも、花粉症のシーズンにときどき学会などで上京すると(この季節に帰省することはほとんどありませんでした)、自分が花粉症であることを思い知らされます。こちらに着いて48時間から72時間もすると症状がでてくるのです。札幌を発つとき予防のためにアレルギーの薬なんて飲んできませんから、突然花粉症の症状が出てきて辛い思いをすることになります。そして、早々に学会を切り上げ、逃げるように札幌への家路を急ぐことになります。このときほど札幌を恋しく感じることはありません。

このように札幌での快適な春を過ごしていた私ですが、こちらに戻ってきた10年前からは再び春を前に花粉症に対する事前策を講じなければならなくなりました。とくに今年の冬は暖かかったので、花粉の飛散時期が早まるだろうと予想して昨年末から抗アレルギー薬を飲み始めています。その効果があってか、これまではとくに症状もなく過ごすことができました。しかし、ついに1,2週間前からくしゃみや目のかゆみが出てきました。今は点鼻・点眼薬を併用しています。アレルギーの薬は辛い時だけ使用してもほとんど役に立たないので、早めに、そして、継続的に使用しなければなりません。私の場合、こうした薬を5月のGWまで続けることになります。

今ではお薬もいろいろと改良され、以前に比べてだいぶ効果を実感できるようになってきました。高校生のころのようなひどい症状で苦しむことはありません。眠気の副作用もそれほどでもなくなりましたし。来院する患者にも、私の経験をふまえてアドバイスすることができます。花粉症の症状がどれほど辛いのかも理解できます。例えば単に「鼻水が出て、目がかゆい」だけじゃないってことも。どの薬が効いて、どの程度の副作用があるのかなど、実体験を通じた説明をすることもできます。患者になってみなければ、わからないことって多いです。

もっと簡便で恒久的な治療法が開発されるといいなと思います。薬を飲むということも、点鼻薬や点眼薬を使うこともそう面倒なことではありません。しかし、できれば一回の治療でもうおしまいなんて治療法があればどれだけいいかと思います。長年花粉症に苦しめられてきた私にとって、花粉症こそが春を「憂鬱な季節」にしてしまった元凶なのですから。桜の枝がつぼみを持ち、清楚な花を咲かせるころ、また新たな気持ちになれるためにも新しい治療法の登場が待たれます。耳鼻科の先生方、よろしくお願いしますね。

「ないこと」の証明

もうすぐ東日本大震災から5年になります。あのときの大きな地震の揺れを思い出すというよりも、その後の津波による被害のすさまじさと、その津波によって引き起こされた原発事故の大きさに打ちのめされた思いがよみがえってきます。そのときの様子は、以前、このブログにも書きましたが、5年という歳月を経て、福島は、あるいは東北は、もっといえば日本はよくぞここまで立ち直ったものだと思います。ところが、いまだに「放射能の危険性」を声高に叫び、ここまで立ち直った人たちの心をくじこうとする人たちがいます。その人たちの言動には個人的にはただあきれるばかり。うんざりしてきます。

放射能による被害については、その後、さまざまな大規模調査がおこなわれ、その都度「放射能の影響は確認できない」との結論が得られています。原発事故直後からマスコミやいちぶの識者から繰り返していわれてきた「子供たちの甲状腺がんの発生」についても、あるいは「胎児の奇形や異常出産」についても、そのことごとくが否定されています。なのになぜ今もなお「放射能の影響が今後も出ないとはいいきれない」などと言っては立ち直ろうとする人たちの足をひっぱるのでしょうか。それはまるで被災者の気持ちに寄り添う振りをしながら、実は被災者を政治的に利用しているかのように私には見えます。

それが本当に政治的に利用しているものなのかどうかはともかく、「放射能の影響がないとはいいきれない」という一見もっともらしい主張が、実は「ないもの(こと)は証明できない」という重要な論理を無視したものであることに気が付かなければなりません。実際に存在することはその存在を根拠に証明できても、存在しないことはその状況証拠で説明するしかない、ということです。「説明」はあくまでも説明であって、人々を論理的に納得させられるかどうかにかかっています。しかし、そうしたその論理性はそれを理解しようとしない(できない)人たちにとってはなんの意味ももたないところがやっかいです。

「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉があります。デカルトという哲学者によるものです。目の前の石ころが本当に「ある」といえるのか。その存在を完全に証明することはできないが、それを「ある」と認識している自分の存在だけは否定できない、という意味です。みんなに見える石ころを「私には見えない」と言えば怪しまれ、みんなに見えない虫が床をはっていると言っても怪しまれます。そこにはみんなの共通認識が正しいという前提があるのです。しかし、そのみんなの共通認識が誤っているということがないとはいえない。それを推し量る道具として科学的事実、統計学的予測が存在します。

現代社会に生きる我々の誰もが地球が太陽のまわりをまわっていることを理解しています。世の中のすべての物質は分子、原子、さらには素粒子からなっていることを知っています。その証拠を見たことがなくても、誰ひとりそれを疑おうとはしません。論理的にあるいは現象的に矛盾のない科学的事実からそう理解しているにすぎないのです。誰かが「それでも太陽が地球のまわりをまわっていて、すべての物質を通り抜けることができる魂が存在する」と確信しているとすれば、それはもはや宗教の世界、あるいは人間の情緒の問題として片づけられてしまいます。

「『そんなものなどない』とどうしていえるのか」と反論されると、反論された側に「それがないこと」を証明する責任があるように感じます。しかし、「ないこと(もの)」は証明できないのです。この証明は「悪魔の証明」と呼ばれているのですが、本来であれば「それがある」という根拠をすべての人が理性的に納得するように提示しなければいけません。そうでなければ利害のことなる様々な人々によって構成される社会は成り立たちません。「あること」の証明がどのくらい人々に受け入れられるのか。そこで客観的事実としての科学と統計が根拠を提示するものとしての役割をはたします。

「放射能の影響がないと言い切れるのか」ではなく「これだけ放射能の影響があったぞ」を指摘しなければなりません。「2011年の東日本大震災クラスの首都圏直下型地震は起こりうる」ではなくて「そうした地震はこのくらいの確率で発生する」という言い方をしなければなりません。一方において、「放射能の影響はない」と言い切ることはできません(「影響はない」と言い切りたいとしても)。「今のところ放射能の影響があるとはいえない」というまどろっこしい言い方でしか表現できないわけです。一見するとあいまいに思えますが、実は事実を正しく表現するためにはそう言わざるを得ないのです。

今回の原発事故で「万全な対策を施した原発に事故はない」という「原発の安全神話」が崩れた、といいます。しかし、もともとそんな「安全」なんてあろうはずがない。しかも、みんなもそれに気が付いていました。本来であれば「これこれの危険がこのくらいの確率で存在するのだから、こうした対策を講じるべき」という真摯な議論がなければいけなかったのです。ところが「一切の危険性があってはいけない」という極端な一部の意見にひきづられて、「安全神話」がなんとなくできあがってしまったのです。理性的な議論がなく、リスク管理という観点から社会的妥協点を見出さないとこうなるといういい例です。

人間は感情の動物ですから、「怖い」「不愉快」「認めたくない」という気持ちがわくのは当然です。しかし、そうした情緒的な反応とはまったく関係ないところに科学的事実、統計学的予測があります。自動車は必ず事故をおこします。今もどこかで事故は起こっています。でも、現代社会は自動車の危険性をいかに低減させ、コントロールするかを図って成立しています。いったん事故がおこればたくさんの命が失われる飛行機もそうです。ある程度のリスクを受け入れ、その利便性を享受しているのです。現代社会は、少なくとも「私は乗らない」という人はいても「自動車や飛行機をなくすべきだ」という社会ではありえないという点が重要です。

以前のブログにも書きましたが、2011年の震災直後、放射能に対する不安がピークに達した患者さんや友人の医師に「原発事故による放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけました。でも、匿名の人から「命を守るべき医者が放射能の危険性に楽観すぎる」との批判を受けました。原発事故直後の混乱した状況において不必要な不安感にさいなまれるのは仕方がないことです。それでなくてもマスコミがあの調子でしたからなおさらです。しかし、そうした人であっても、その後の客観的事実をふまえて少しづつ理性的にならなければなりません。情緒に翻弄されていた自分を乗り越えて、理性的に受け入れる自分に変わっていくべきなのです。

「ないこと」の証明はできません。そのことは「理性的」に理解するしかありません。もしかすると将来、実は人は死んだら体から魂が抜け、天国に上っていくということが証明されるかもしれません。私自身、解剖実習の初日に金縛りにあい、同時に幽霊を見る(これも以前ブログに書きましたのでお読みください)といった不思議体験をしているせいか、守護霊というものがあったり、運命というものすらあることも、なんとなく自分の中に信じている部分もあります。でも、それらが科学的に証明されないかぎり自分の心の中の問題だと思っています。それが私の理性なんだと思います。

理性ですべてが解決しないのが人間です。それは仕方がないことです。しかし、いったん「そんな科学的根拠にはなんの意味があるのか」「科学は『ないこと』を保証するのか」という声があがると、理性は情緒にいとも簡単に駆逐されてしまいます。そうしたことが今の日本の社会ではしばしば見受けられます。それが日本のいいところでもあり、悪いところでもあります。しかし、利害のことなるたくさんの人が住む社会においてはやはり科学的事実あるいは統計学的推測をよりどころとするしかない場合が多いと思います。情緒を乗り越え、その理性あるいは客観性を頼りに発達・発展してきたのが現代社会だからです。そうしたことに時々立ち止まってじっくり考えてみることが大切だと思っています。

年頭の所感

あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろとお世話になりました。

今年はエルニーニョ現象のせいで暖かい日が多く、冬だという実感があまり湧いてきません。札幌時代の冬はしっかり雪が降っていましたから、冬になれば一面の銀世界となり冬らしい景色を見ることができました。昔から札幌に住んでいる人たちから言わせると、それでも「最近は雪が少なくなったよ」ということらしいのですが。そう言えば、私が札幌にいたころも、雪まつりの時期(今年は2月5日からだそうです)になると一時的に寒さが緩み、大道り公園に作られた雪像が溶けてしまって大修復、なんてこともありました。ともあれ、冬はしっかり冬らしく、って方が私は好きです。

この季節になるといつもアメリカにいた頃を思い出します。2000年(平成12年)に私はミシガン州ann arbor(アナーバー)市にあるMichigan大学との共同研究のためにアメリカに滞在していました。日本でおこなった調査をアメリカでもおこなって日米での比較検討をするのが目的です。2000年の1月のちょうど今頃、打ち合わせのためにはじめてアナーバーを訪れたのですが、気候は札幌にとても似ており、すぐにこの町が気に入ってしまいました。雪はそれほど多くはありませんでしたが、寒さは厳しく、車のマフラーから、あるいは街中の煙突からモクモクと水蒸気の煙が立ち上っている景色はなんともアメリカらしく感じたのを覚えています。

大学院に入った私は、自分の研究をなにもかもひとりでやらなければなりませんでした。研究のテーマを決めることも、研究内容の絞り込みや調査の具体的な進め方も、さらには論文の書き方すら自分で学ばなければならなかったのです。それだけでも大変なのに、研究・調査にはお金が予想外にかかり、その研究費をどう捻出するかが当時の私のあたまを悩ます大きな問題でした。いざとなれば自腹で、と思っていましたが、大学からの給料は当然なく、むしろ大学院生として学費を納めなければなりません。アルバイトでようやく生計をたてていた身には、結婚したばかりの家内もふくめて二人分の生活費をまかなうので精いっぱい。自腹で出せる額にも限度がありました。

私の研究テーマに興味をもってくれたミシガン大学の研究者からは「共同研究をするのには300万円の費用が必要」という知らせが届いていました。アメリカでは研究者が研究費を調達し、その中から給与をもらいます。しかも、大学の施設を使用すればその費用もかかる。それらをひっくるめると300万円という大金が必要だったのです。その連絡を受けて、私は日米共同研究はあきらめなければならないかもしれないと思いました。ところが、「拾う神」はいるものです。ダメもとで申請した某製薬会社の研究助成金を運よくもらえることになったのです。しかも500万円という大金。この助成金のおかげで私はなんとか日米共同研究の計画を進めることができたのでした。

当時はこの大金を使って研究をさせてもらう自分の幸運に気がつくこともなく、当時、同じ研究室で研究テーマも見つからずにいた後輩を誘って日米比較研究をすることにしました。でも、今だから正直に言いますが、そのときの私は額の大きな研究費を得てすっかり有頂天になっていたのです。300万円ものミシガン大学への分担金を払ってもなお、調査に同行する後輩の渡航費を払ったり、研究機材を購入したり、調査に協力していただいた人たちへの謝礼に大判振る舞いしたり。その結果、アメリカに渡ってミシガン大学の留学生用住宅に住むころには、あれだけあった助成金はだいぶ少なくなっていて、最終的にはかなりの額の自腹を切るはめになったのでした。

でも、アメリカでの生活はその後の自分に大きな影響を与えました。ミシガン大学の留学生用住宅に住んでいた私と家内は、朝、目を覚ますと大学構内をジョギング。広い駐車場でテニスをやってまたジョギング。家に戻ったらシャワーをあびて朝食。その後、構内を巡回しているバスに乗り大学の研究室へ。朝のカンファレンスに参加して共同研究の準備。そして、調査にでかけたり、調査結果を分析したりしながら、時間に余裕のあるときは家庭医のクリニックや高齢者施設を訪問したりしました。午後は早めに帰宅し、家内とふたたび構内をジョギングしてテニス。シャワーをあびて夕食。日本ではあじわったことのない、夢のような、健康的で、快適な生活はなによりも代えがたい貴重な経験でした。

お休みの日も充実していました。当時、たまたまミシガン大学に留学していた慈恵医大柏病院時代の先輩医師と会ったり、アナーバーの近くに住んでいた家内のいとこ夫婦を自宅に招いてパーティーをしたり。夏のまぶしい日差しの中でおこなわれたアナーバーのサマーフェスティバル(夏祭り)も素敵な思い出です。車でシカゴまで小旅行もしました。帰国する直前には一緒にアメリカに連れて来た大学院の後輩も連れてナイアガラの滝まで行きました。アナーバーから車に乗ってデトロイトを抜け、カナダにわたっての旅はいろいろな事件に遭遇するなど話しはつきません。その辺のことはまた改めて書きます。

これらの経験は帰国後のモチベーションをとても高めました。なにより研究者の端くれとしてのプライドをもつことができるようになりました。自分のやろうとしている研究はまだまだ不十分で、研究手法もほとんど確立されていなかったので、自分の研究で関連領域を体系化し、方法論を確立することができるかもしれないという期待がありました。しかし、当時は圧倒的にマイナーな領域だったので、大学院の中でも、あるいは研究室の中でも異端視され、冷たい視線を向けられていました。それだけに、アメリカの研究者との共同研究は、当時の私のポジションを向上させるのに十分なものであったといえます。

しかし、人間の運命などわからないものです。その後、いろいろなこと(これも是非お話ししたいところですが、ここでは差し障りがあるので書けません)があって大学を離れることになり、最終的には地元にもどって開業することになってしまいました。あのまま自分の研究を続けていれば、という思いもないわけではありません。今になってもなおその領域に着手しようとする人がいないのですから。でも、なにごとも前向きにとらえようと努めている私は、あのときの経験があるからこそ今の自分があるのではないか。とくにアメリカで得られたスピリチュアルな経験があるからこそ頑張れるんだ、と思っています。

私のクリニックの外観は、アナーバーにいたころに訪問したファミリー・ドクターの診療所をイメージして設計しました。診療所らしからぬ、なんとなく人の住む家に来たような、温かみを感じるクリニックを作ろうというのが設計のコンセプトでした。開業して10年が過ぎて振り返ってみると、なんとなくその夢が形になってきたという実感があります。幸い、当院で働くすばらしい職員・スタッフにも恵まれ、なんとか地域に根差したクリニックになりつつあるように感じます。さらにその思いを形にすることができるように頑張らなければいけないと今思いを新たにしているところです。

とりとめのない話しになってしまいましたが、アメリカに行った頃の情熱を思い出しながら、この一年をさらに素晴らしいものにしたいと決意を新たにしたところです。今年もよろしくお願いいたします。

 

 

前を向いて歩こう

2015年が暮れようとしています。この一年を振り返るといろいろなことがありました。世界を見渡しても、また、日本を見ても、あるいは我が家にとっても2015年(平成27年)という年は必ずしも平穏無事な年とはいえなかったように思います。

我が家にとっての一番の出来事は、82歳になる父親が脳梗塞になってしまったということです。ちょうど一年前、父親は整形外科で受ける手術のために病院に入院しました。幸い、そのときに入院後の経過は良好だったのですが、退院後に今度は母親が交通事故で入院したこともあって父は高齢者施設に一時入所。そんな環境になじめるはずもない父親にとってはストレス続きだったのかもしれませんが、母親が退院して間もない夏にとうとう脳梗塞になってしまいました。

当初は軽い左上下肢の麻痺と軽度の構語障害程度だったのですが、入院中に再梗塞と思われる症状の増悪があって左上下肢はほとんど動かなくなり、言葉も聞き取れないほどになりました。幸い、リハビリで症状はだいぶ軽減し、杖を使えばなんとか自分で歩けるようになりました。あわせてやっていただいた言語療法のおかげで会話もなんとかできるほどにまで回復しました。脳梗塞後のリハビリはもとの体に戻るためのものではなく、そのときに残っている身体機能を維持するもの、という認識しかもっていなかった私にとって、父の回復はある意味で驚きでもありました。

もちろん、母親の交通事故も驚きはしました。81歳という高齢での運転は危険だと常々思っていましたし、母親の運転を見ていていつかは運転をやめさせよう(母はそれまでにすでに2回の事故で車を全損廃棄しています)と思っていました。しかし、母はどうしても車を運転するといってきかなかったので、「少なくとも他人を乗せて走るな」となんども注意していました。ですから、母が事故ったと聞いたときは「他人を乗せていなければいいが」という点では心配しましたが、不思議と命にかかわるような怪我ではないだろうとそれほど心配していませんでした。

幸い、母の怪我も大したことはなく、他人も乗せていなかったのが不幸中の幸いでした。しかし、この事故は母親よりもむしろ父親にとってショックだったのかもしれません。その後、脳梗塞を発症してしまい、その後遺症は父を今まで以上に老け込ませました。認知症状も進んだせいもあるかもしれませんが、”とんがって”いた若い時の面影はすっかりなってしまいました。感情失禁のせいで昔話しをするとすぐに泣き出したり、なにごとも病院や施設の職員の手を借りなければなにもできない父親を見ていると、今の父はまるで別人のようです。

先日、父の入所している施設にお見舞いに行ったとき、居室で母と泣きながら話しをしていました。なにを話していたのかと尋ねると、「札幌にもう一度行ってみたい」と言って泣いているのでした。私がまだ札幌にいたころは、ちょくちょく母と札幌に遊びに来ていました。そして、両親を車に乗せては道内を小旅行などして走り回ったものです。私が札幌にいた期間は10年以上にもなりますから、両親も道内を行き尽くしたといってもいいほどです。そのときの楽しい思い出を父親は懐かしんでいたのかもしれません。

「札幌にもう一度行きたい」と言って泣いている父親を見ながら、若くて元気だったころの父を思い出していました。きれい好きで、身なりもきちんとしていて、さっそうと歩いていたころの父。その父を思い出し、その分だけ、今、目の前にいる老いた父親がとても哀れでなりませんでした。そして、できるならもう一度あの頃に戻れればとも思いました。しかし、その一方で、あのとんがっていた若い頃の父親の姿が私の心の中によみがえってきました。家の中ではいつも不機嫌そうに怒ってばかりいた父。イライラを家族にあたることでしか解消できなかったのでしょう。その頃の父親を思い出すと自然と気持ちが沈みます。

そんなことを考えながら、父親も「あの若かったときに戻りたい」と思うのだろうかと想像していました。いつも不機嫌だった父は父なりに感情のコントロールができないことに苦しんでいたのかもしれません。父は7人兄弟の一番下でしたから、親の愛情と庇護を十分に受けることができなかったのだと思います。その満たされない感情がいつも彼を不機嫌にしていたのでしょう。その満たされない心の渇きを家族にぶつけていたのです。そのときの父を支配していたそんな感情を彼自身ふたたび望んでいるとは思えない。そのことに父が気が付けば(気が付いているのかもしれませんが)、今もまんざら悪くないと思うかもしれません。

そう考えると、両親がずいぶんと年老いて、その分だけ私も歳をとり、いろいろなことが輝きを失いつつあるように感じながらも、今は「それほど悪くはない」と感じるのです。そもそもが「今が一番幸せ」という実感がありますから。いつも家庭の中が暗く、家庭内の不和という心の中のずしりと重いおもりが沈んでいる感覚から逃れられなかった子供時代と比べれば、今はなんと幸せなことか。なかなか理想通りにはいかないけれど、家族全員が笑顔でいられることの幸せは何にも代えがたいものだと実感します。

要するに考え方なんだと思います。それにあれだけ嫌な思い出として残っている自分の子供時代があるからこそ今の幸せがある、ともいえるのだし。シラーの有名な詩があります。

時にはみっつの歩みがある。
未来はためらいながら近づき、現在は矢のように飛び去っていく。
そして、過去は永遠に、静かにたたずんでいる。

私はこの詩が好きです。未来を肯定し、過去を否定しないこの詩は人間の生き方をとても豊かにしてくれると感じます。ひとにはそれぞれが与えられた運命があります。その運命は変えることはできません。なぜなら、過去は消し去ることはできないからです。だからといって、未来を絶望する必要もありません。なぜなら、今を変えることはできるからです。この秋、私がこれまででもっとも感動した試合をしてくれたラグビー日本代表のヘッドコーチであるエディー・ジョーンズが選手たちに問いかけた言葉があります。

過去は変えられるか? もちろん変えられるはずがない。
では、未来は変えられるか? いや、変えられない。
ただし、今を変えれば未来は変えることは可能だ。

変わりゆく世界情勢も、日本ととりまく環境といった大きな問題もそうです。人間ひとりひとりの人生も、過去を悔み、消し去ろうとしてもそれはできない。愚かなのは、過去にとらわれて歩みを止めてしまうこと。ましてや後退するなんてことがあってはいけません。そうではなくて、過去を糧として今を変える。その今が未来を切り開いてくれる。そう信じることが大切だということなんだと思います。今年一年いろいろなことがありました。そのすべてを総括して来年に向かって今を生きる。来年はそんな毎日にしたいと思っています。

今年一年、大変お世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
来年が皆様にとってさらに素晴らしい年になりますように。

ドラマ小僧は語る

私が幼稚園児のころ我が家にもテレビがやってきました。当時、テレビは高価なものでしたから、オンボロ官舎に住む貧乏公務員の家庭には高嶺の花のはず。それでも両親は分割払いで手に入れたのでしょう。テレビが部屋に運び込まれたときの両親のうれしそうな表情を思い出します。以後、私はテレビっ子となったのですが、不思議と子ども番組には興味はありませんでした。むしろ大人がよく見るようなドラマを好んで見ていた「ドラマ小僧」でした。

今も鮮烈な記憶として私の心に残っているのは「3人家族」。TBSで昭和43年に木下恵介アワーとして放映されたドラマです。竹脇無我扮する商社マンと栗原小巻扮する旅行代理店のOLとの淡い恋物語を中心に男3人の家族と女3人の家族がおりなす人間模様を描いたものです。当時小学生だった私は不思議とこのドラマに魅せられていました。ここに出てくる高度成長時代の大人の社会をなにか憧れに似た気持ちで見ていた記憶があります。それぞれ山手線と京浜東北線に乗って見つめあう竹脇無我と栗原小巻のシーンはとくに印象的です。ちなみに、このドラマの主題歌を今でも歌うことができます。

このころ、青春ドラマと呼ばれるドラマもたくさん放送されました。この中でも昭和46年に放送された「俺は男だ」は記憶に残るドラマです。このドラマの原作は実は漫画でした。今ではめずらしいことではありませんけど。現在、千葉県知事の森田健作演じる「小林君」と早瀬久美(今でもきれいですよね)演じる「吉川君」は私には「素敵なお兄さんとお姉さん」でした。当時の高校生の生活は小学生の私にはなんとなく漠然としたものでしたが、今は死語となりつつある「青春」と呼ぶにふさわしい雰囲気は十分に伝わってきました。

昭和47年に日本テレビで放映された「パパと呼ばないで」も良かったですね。亡くなった姉のひとり娘(杉田かおる)を突然預かることになった独身サラリーマン(石立鉄男)。下宿しているお米屋さんの家族に助けられながら慣れない子育てに奮闘する姿を描いた、涙あり、笑いありの人情ドラマ。どれも大好きだった石立鉄男ドラマの真骨頂でした。何度見ても感動します。このドラマの舞台になったのが下町の風情を残す東京の月島。今では高層マンションが林立する街になってしまいましたが、40年も経った今も私の中では懐かしい場所です。

ぶらり信兵衛道場破り」も忘れることができません。昭和48年に当時の東京12チャンネルで放映されました。原作は山本周五郎の「人情裏長屋」ですが、中学生だった私はこの短編を読みながら、感動のあまり涙を堪えることができなかったことを覚えています。このドラマは原作の雰囲気をとてもよく残しているドラマで、高橋英樹が主人公の松村信兵衛のイメージとぴったりでした。最近、BSNHKでリメイクドラマが放映されていますが、「ぶらり」を夢中で見ていた私としては残念ながら「ん~なんか違うんだよなぁ(微妙)」って感じ。

高橋英樹といえばなんと言ってもNHKの大河ドラマ「国盗り物語」です。「ぶらり信兵衛」と同じ昭和48年に放映されました。群雄割拠の戦国時代の緊張感が伝わってくる上質で重厚なドラマでした。なかでも高橋英樹が演じる織田信長は私にとってのヒーロー。冷徹で繊細な信長に血湧き肉躍る思いでこのドラマを見ていたのを思い出します。近藤正臣が明智光秀、火野正平が羽柴秀吉。当時の若手俳優が多かったのですが実力者揃いのキャスティングでした。ちょうどこの頃、偶然電車の中で火野正平が向かいの座席に座っていて、緊張しながら握手をしてもらったことを思い出します。

NHKの大河ドラマといえば国盗り物語の次の年(昭和49年)に放映された「勝海舟」もよかったですね。このドラマの主演は当初渡哲也でしたが、途中で病気降板して松方弘樹に変更されました。でも、勝海舟、というより勝麟太郎のイメージはやはり松方弘樹の方がぴったりでした。私はこのころ「氷川清話」という勝海舟の書いた自叙伝を読んでいたのですが、麟太郎の父親である勝小吉がドラマで演じていた尾上松緑と重なり、麟太郎よりもこの小吉にとても魅了されてしまいました。富田勲が作曲した主題曲も実に重厚で、維新を迎えた日本が満を持して世界の荒波に船出するときの興奮をみごとに表現した名曲だと思います。

日本テレビで昭和50年に放送された「俺たちの旅」もよかったですね。中村雅俊が主演していましたが、小椋桂が歌う主題歌を聴くと今でもその当時のことを思い出します。世の中のながれからはちょっとはずれた主人公達の気持ちには当時思春期まっただ中の自分となんとなく共感するものがあったんだと思います。これからの自分の人生がどんなものになるのか。そんなことに漠然とした不安を抱えていた年代ならではの思いがこのドラマを見ると共感できたのかもしれません。

昭和52年のNHK大河ドラマ「花神」もとても記憶に残るドラマでした。それまで村田蔵六(のちの大村益次郎)という人物を私は知りませんでした。適塾ではあまたの若者が学問で切磋琢磨していましたが、村田蔵六はその中でめきめきと頭角をあらわし、明治という時代を背負って立つ逸材のひとりになりました。「花神」は江戸から明治にいたる大きな時代のうねりを感じることができるすばらしいドラマでした。その大村益次郎は今、日本近代軍制の創始者として靖国神社の入り口に大きな銅像となって立っています。

硬派なドラマとしては昭和54年のNHKドラマ「男達の旅路」も忘れてはいけません。元特攻隊員の警備員を演じる鶴田浩二が渋い演技で光ってました。以前のコメントにも書きましたが、説教臭く、「若い奴らが嫌いだ」が口癖の吉岡指令補はとても魅力的でした。その指令補に反目する若者達が次第に吉岡指令補に魅せられていく様は、まさしく私そのものでもありました。とくにこのシリーズの中でも「車輪の一歩」は名作だと思います。私もいつの間にか「若い奴らが嫌いだ」とつぶやく年齢となりましたが、吉岡指令補のような中年にはなれなかったなぁとつくづく思います。

昭和56年に放送されたNHKドラマ「夢千代日記」は、冬の裏日本のモノトーンな風景がとても美しい叙情的なドラマでした。さびれた温泉街が舞台で、人間の性(さが)や定めを夢千代という芸者の日記という形で綴っていきます。個性的な役者さんが多く、樹木希林や中条静夫といった脇役の役者さん達がいい味を出していました。印象的なテーマ曲を聴くと、たちまちタイトルバックにもなっている余部鉄橋があたまの中に浮かんできます。こうしたしっとりとしたドラマがすっかりなくなってしまったことがとても残念です。

淋しいのはおまえだけじゃない」は昭和57年の向田邦子賞を受賞したTBSのドラマです。西田敏行演じるサラ金の取り立て屋。さる人物から依頼を受けて大衆演劇の劇団を旗揚げします。いろいろな思いを背負って集まってきた劇団員をだますうちに次第に気持ちが変わってきて・・・。このドラマで演出を担当していた高橋一郎は、“ドラマのTBS”とも呼ばれていた当時のTBSドラマのクオリティーを支えたスタッフのひとり。そのながれは平成16年のTBSドラマ「オレンジデイズ」や「砂の器」に受け継がれています。

小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)を題材に昭和59年に放映されたNHKドラマ「日本の面影」もなかなか良かったですね。明治から大正にかけて欧米列強の後を追うべく富国強兵の国策を進めた日本。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)という外国人の目を通して、古き良き時代を捨て去り、アジアの一等国になるべく突き進む日本の姿を描いたこのドラマは小泉八雲の「怪談」をモチーフにしていてとてもユニークでした。明治・大正期の日本の雰囲気とはこんな感じだったのかなぁと思わせる演出も素晴らしかったです。

昭和60年のNHKのドラマ「シャツの店」もテレビドラマの傑作のひとつです。鶴田浩二が昔かたぎのシャツ職人の親方を演じています。頑固一徹、自分にも他人にも厳しい親方。そんな親方に愛想をつかして家を出て行った妻(八千草薫)と息子(佐藤浩一)。夫婦間の、あるいは世代間の意識のギャップがユーモラスに描かれ、最後はお決まりのハッピーエンドながら心地よい余韻がのこります。当時はまだ独身だった私が大いに影響を受けたドラマのひとつでした。そういえば、このドラマの舞台も月島でした。

職人ものといえば、平成元年にTBSで放映された「あなたが大好き」もなかなかなものです。江戸指職人(田中邦衛)の跡継ぎ息子を真田広之(実は私と同年代)が演じているのですが、いつもはカッコいい役の真田ですが、今回は“親の後を継ぐと決心したものの、実は自他ともに認める不器用な息子”というちょっとかっこ悪い役でした。でも、真田広之はそれを無難に演じているのですからさすがです。私の好きなエリック・サティの「Je te veux」が主題曲になっていますが、この曲はドラマのテイストを決める重要な役割を果たしています。

戸田菜穂や萩原聖人、櫻井淳子などがまだ新人だった頃のフジテレビのドラマ「葡萄が目にしみる(平成3年)」も特筆すべきドラマでした。いわゆる“青春もの”なのですが、切なくて叙情的なすばらしい作品でした。新人俳優やオーディションで選ばれた素人が多いのでセリフが棒読みだったりしますが、このドラマにおいてはそれはそれで新鮮なものにも思えます。素朴な演出と使われたBGMがよかったこともありますが、なにより林真理子の原作に救われたような気がします。高校生を演じていた戸田菜穂や櫻井淳子が初々しくてとても可愛かったですが、その彼女たちもいつの間にかお母さん役をやる年代になってしまいました。

平成5年に放映されたNHKドラマ「」も秀逸でした。今はすっかり大人になった井上真央が子役として出ていますが彼女の演技力はこのころから特筆すべきものがあります。造り酒屋に生まれた盲目のひとり娘として成長していく烈の生涯を描いています。閉ざされた雪国の冬にじっと耐えて生きる人々の生活が伝わってくるような雰囲気がよかったです。大きくなった烈を演じたのは松たか子でした。彼女もまだ新人だったのにその演技はすばらしいかったです。それにもましてNHKのクオリティの高さを感じます。

最後に「魚心あれば嫁心」。これはテレビ東京で平成10年に放送された連続ドラマです。これも舞台は東京月島。閉院した船津医院の夫人・朋江(八千草薫)をとりまくさまざまな人間模様を、朋江の川柳を通じて描いています。こちらのドラマの脚本も向田邦子賞を受賞しています。とくに、息子が12才も年上の女性と結婚すると言い出し、はからずも彼らと同居することになった朋江。息子夫婦の価値観との違いを乗り越えていこうとする姿にほっとします。ほのぼのとした気持ちになれるドラマでした。

最近のドラマはあまりにも安直に作られ、「いかにして視聴率がとれ、いかに安く作れるか」に主眼がおかれているように感じます。キャストが実力をともなわない人気頼りで決められているようにも思えます。小奇麗な顔立ちでも、その役の雰囲気にはおよそ似つかわしくない俳優が多すぎるような気もします。良いドラマは人を突き動かすエネルギーでもあります。心を潤す清流だともいえるでしょう。その意味で、もっともっと心を揺さぶるような良質なドラマと、画一化されない俳優陣が出てくることを願うばかりです。