思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い

久しぶりの投稿です。忙しかったこともありますが、書くに足るネタがなくなってしまったのです。もともと筆不精で、文章を書くのも苦手だってこともあります。このブログでの文章も結構苦労しながら書いているくらいですし。このブログがここまで続いたことだけでも奇跡的なのかもしれません。でも、久しぶりに書いてみようと思うものがありましたので投稿します。ちょっと変わった内容です。人によって好き嫌いがありますが読んでみて下さい((注)赤字部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます)。

******** 以下、本文

私には信仰している特定の宗教はありません。でも、心の中ではなんとなく「神さま」というものはいるのではないかと思っています。私にとっての「神さま」は、ある意味「ご先祖様」かも知れません。神社や寺院でも手をあわせますし、お地蔵さまやお稲荷さまにも手をあわせます。しかし、具体的に「神さま」という対象として手をあわせるのは私の「ご先祖様」でしょうか。具体的には私の母方の祖父の顔を思い浮かべながら手を合わせているような気がします。

たくさんの孫たちのなかで、祖父がとりわけ私を可愛がってくれていたのかどうかはわかりません。しかし、私の心の中には不思議といつも祖父がいます。今でもときどき夢にでてきます。祖父は昔、商売をしていました。私がまだ幼稚園児ぐらいのときに、オート三輪に乗せられて一緒に集金にまわったことがあります。得意先をまわりながら、私に「ほら、こんにちわは?」と挨拶を促しながら目を細めていた祖父のことを今でも思い出します。そんな優しかった祖父がいつも私の心の中にいるのです。

祖父が亡くなる数日前、私は祖父が入院している病院にお見舞いに行きました。そのときはまだそんなに急に亡くなるとは思えないほど元気だった祖父でしたが、「じゃあ帰るよ」と部屋を出ていこうとする私を祖父は呼び止めて「元気でな」とひと言。なんでこんなことを言うんだろう。そう思いながらも「また来るから」と笑って病室を後にした数日後に祖父は亡くなりました。思いがけずに祖父が亡くなってしまいましたが、その一報を受けたと聞いたとき、私はすぐにあのとき交わした言葉を思い出しました。

祖父の葬儀のとき、私は葬儀を終えたお寺から祖父の家まで参列客を車で送迎しなければなりませんでした。お寺で数名の参列客を車に乗せてまさに出発しようとしたとき、私の車を追いかけてくるお坊さんがバックミラーに映りました。その僧侶はついさっき祖父の葬儀でお経を唱えてくれた方でした。私はなんだろうと思って車を止めました。車の窓ガラスを開けるとそのお坊さんが私に言うのです。「気を付けて行くんだよ」と。「はい、わかりました」と軽く会釈をして私はふたたび車を発進させました。

田んぼの中の見晴らしのいい道路を走って、正面のT字路を左折しようとスピードを落としました。左右を確認して左にハンドルを切った瞬間、突然赤い車が目の前に現れました。「あっ!」と言う間もなく、私の車は相手の車の側面に衝突。なにが起こったのかわかりませんでした。幸い怪我人はひとりもおらず、車の損傷も思ったほどではありませんでした。私も相手もはじめは混乱していましたが、二人とも落ち着くとお互いに謝り合っていました。相手がとても優しい人だったので助かりました。

私は思いました。あのとき、お坊さんがわざわざ私を追いかけてきて言った「気を付けて行きなさい」の言葉。あれは祖父が言わせたのではないか、と。実はその僧侶は私の母とは幼稚園での幼馴染でもありました。そして、祖父とは一緒に旅行に行くほど懇意にしていただいていた人でした。祖父が入院する数日前にも、近くを散歩したからと祖父の家に立ち寄ってくれたほど。このことを後日このお坊さんにお話ししたら、「なんとなく声をかけた方がいいと思ったから」と笑みを浮かべながらおっしゃいました。

ときどき自分の半生を振り返ると、まさに「神がかり」あるいは「神さまのお導き」、ひょっとすると「神さまに守られていた」と思えるようなことがいくつもあったことに気がつきます。神さまへの願い事がかなったということはもちろん、決して自分の力や努力だけではどうにもならないことがなんとかなった。あるいは誰かのひと言が私の人生を大きく変えた、なんてことが何度もありました。これらはまさに「神さま」のなせる業だったのではないかと思えるほどです。

息子が第一志望の高校に不合格になって落胆しているとき、「神さまに願いを聴いてもらえなかったなぁ」と彼がつぶやくのを私は耳にしました。でも、私は言いました。「それは違うと思うよ。神さまは単に願いを聴いてくれるとか、聴いてくれないとか、そんなちっぽけなことを考えているわけじゃないんだよ」と。実は、息子ばかりではなく、私も家内も息子の第一志望の高校の合格発表を前にして、神社に願掛けにいったり、先祖の墓参りに行って合格をお願いしたりしていました。ところが結果は不合格。

息子にとってはその渾身の願掛けがかなわなかったことが恨めしかったのでしょう。でも私は息子を諭したのです。「神さまを恨むのではなくて、自分自身のこれまでの至らなさはどこだったのかを振り返るべきだ」ってことを。事実、反省すべき点はたくさんありましたから。「神さまを恨むべきじゃない」という思い。それは私の本当の気持ちであり、私自身の経験から日頃から思っていることでもあります。それはこれまで私がたどってきた人生をプレイバックするとよくわかります。

私が進学した高校には自由な校風がありました。でも、自分にはその校風がまったくなじめませんでした。入学早々「なんでこんな高校に来てしまったのだろう」といつもいつも後悔ばかりしていました。そして、小学校のときのような無気力な生徒に逆戻り。結局のところ、高校2年まではほとんど無気力で無為な学校生活を送ってしまいました。しかも、入学当初から第一外国語にドイツ語を選んでしまった私は、高校3年になってドイツ語ではなく英語で大学受験することを決心。まったく無謀な決断でした。

その結果、周りの同級生たちが医学部に合格していく中、私は当然の結果として浪人することになりました。翌年、なんとか理工系の大学に合格しました。あのような高校生生活を送っていたので、当然のことながら医学部には遠く及ばなかったのです。そのときの私は傲慢にも「なんであんな(医者に向かない)奴らが医学部に受かって自分は合格できないんだ。いい医者になる自信は誰にも負けないのに」と神さまを恨みました。自分のふがいなさと無謀さを棚に上げて「神さまのせい」にしていたのです。

ところが、その後、いろいろなことがあって、あるいはいろいろな人との出会いがあって、大学を卒業後にふたたび医学部を受験することに。そして、今があるのです。そうしたひとつひとつを振り返って思うのは、「神さまは願い事をかなえるか否かといったちっぽけなことを考えているのではない。この結果をふまえてその人がどう行動するのかを神さまは見守っているのだ」ということ。息子にも「願いがかなっても、かなわなくても、その後のおこないによって道はかわっていくんだよ」と言いました。

幸福の種類は人間の数だけあります。人があわれむような人生であっても、その人には幸せだったという場合だってあります。幸福な人生は、どこかにあって手に入れられるものではなく、ひとつひとつの積み重ねそものの総体を幸福な人生というんだと思っています。だから、有名大学に受かることそれ自体が幸福なのではなく、また、希望する仕事に就けなかったことが不幸なのではない。素敵なつれあいに恵まれたことそれ自体が幸福なのではなく、大病をしてしまったことが必ずしも不幸ではないということです。

どんな人にも守ってくれている神さまがいるんだと思います。そして、なんらかの出来事を通して、あるいは他人の言葉を通して語り掛けているのです。「こうした方がいいよ」と。視線を未来に向け、過去にとどまらないこと。こうした神さまの言葉に耳を傾けられるかどうか。今の息子に重ねて言えば、第一志望の高校の一次試験に合格したことにも意味があり、また、最終的に不合格になったことにも意味がある。そして、今の高校に通っていることにだって。きっとそのことを今の息子は実感していると思います。

人は「困ったときの神頼み」になりがちです。しかし、それでもいいのです。神さまはそんなささいなことをどうとも思っていないと思います。特定の「神さま」を信仰しているかどうかも無関係です。毎日手を合わせても、ときどきしか手を合わせなくても、「神さま」の存在を心のどこかにとどめながら、その声に耳を傾けようとすることが大切なのです。「神さま」がご先祖様であれ、なんであれ、「神さま、お願い」とは、神さまの言葉に耳を傾けることに他ならない。神さまは常に皆さんのそばにいるのです。

ダイエット

実は今、ダイエットをしています。5月の連休に体重を測ったら、知らない間に70㎏を超えていたことにショックを受けたからです。これまで家族からは「やせろ、やせろ」のコールがありましたし、自分自身でも心の中では密かに「何とかしなくっちゃ」と思っていました。しかし、怠惰な性格と、楽天的な性格は、健康なんてことより、見かけなんてことよりも、そのときどきの満腹感を優先する毎日でした。ですから、家族には「俺ってサングラスをかけると櫻井翔君に似てると思わない?」といっては「どこがじゃ~っ」と完全否定を食らっても、下の子に「翔君というよりカンニングの竹山って感じかな」なんていわれても、一緒になって笑っているくらいでした。

しかし、その「翔君気取り」の私にとって目の前に突き付けられた体重70㎏の現実はあまりにも重く、「このままじゃダメだ」と改めて思い知ったのです。これまでもダイエットはしたことがあります。若いころであればすぐに痩せられ、体重を減らすにはちょっと食事を控えるだけでよかった。40歳になってアメリカに行きましたが、「アメリカでの食生活=脂っこい食事=ブクブク太る」という図式を思い描いていたせいか、毎朝・毎夕に欠かさず家内と大学構内をジョギングして、まだ車の停まっていない広大な駐車場でテニスをし、またジョギングをして帰宅。そして、シャワーを浴びて食事という健康的な生活で体重は60~61㎏をずっと維持していました。当時の写真を見ると、もちろん見かけも若いのですが、体型も適度に筋肉質でスラッとしていてまるで櫻井翔君がそこにいるようです。

ところが50歳を超えると、これまでとは打って変わり、太りやすく痩せにくい体質になり、そう簡単にはやせなくなりました。震災前にもダイエットをしていたのですが、このときは毎日ジョギングと筋トレを繰り返すかなりハードなものでした。当時なぜダイエットをしようと思ったのかというと、買いものに行ったショッピングセンターの窓ガラスに映った己の体の無残な姿にショックを受けたからです。それまでは体重が増えたことの自覚はあったものの、まだ現実のものとはとらえていませんでした。しかし、あの窓ガラスに映った自分の姿。伸びていた髪はぼさぼさで、丸い顔と突き出たおなか。なんといっても「丸太か?」っと見まごうばかりの胴体の「太さ」はあまりにも残酷な現実に感じたのでした。

でも、きついダイエットはそう続かないものです。挫折しそうな気持ちを抑え、毎日歯を食いしばって繰り返す運動に対する熱意などはいとも簡単に崩れ去ってしまうのです。あのときも、風邪で熱を出し、寝込んでしまったことをきっかけにすっかりダイエットの熱は冷めてしまいました。その後、震災があって私の頭の中からダイエットという五文字はきれいさっぱり消えてしまいました。以来、食べたいものを、食べたいだけ食べる生活。当然のことながら太ってきます。それでも体重を測ることなどなく、自分の体型にもほとんど関心はありませんでした。ふたたびあの厳しいダイエットをやる気にはならなかったのです。そんな私を家族は「パパのおなかってお相撲さんみた~い」とか、「ゴロゴロしてるパパってトドに似てないか?」とか、笑いの種にしていましたが、私もそんな言葉に大笑いをしながらおどけてばかりいました。

それ以降もダイエットをしようなんてまるで考えませんでした。ところが、連休中にふと測った体重が70.8㎏。さすがに70㎏越えはショックでした。健康うんぬん以前にこんな体重になってしまった自分が情けなかったのです。鏡に映る自分の体型はいつになく醜く、「中年なんだもの太ってしまうことは仕方ない」と思い込もうとしていた自分に気付きました。そのとき私は決心しました。ふたたびダイエットに挑戦しよう、と。続かないかもしれないと思いましたが、今度は無理をせず、辛くないダイエットを、楽しみながらやってみようと思いました。今までのダイエットのように「頑張るダイエット」は挫折しやすいことを知っていたからです。しかも、効果が実感できない場合はなおさら挫折しやすいということも実体験でわかっていました。そこで、目で見てわかるようにその日の体重を記録し、グラフ化することにしました。

まずは「食べ過ぎ」から是正することにしました。三食のご飯をたべすぎていないか。そして、間食が多くないかを考えてみました。そして、とりあえず「お米を食べるのをやめてみよう」と考えました。お米そのもののカロリーもさることながら、お米を食べるためにおかずもまた食べ過ぎてしまっていたからです。あと、間食はできる限り口にしないこと。そして、体重がそれなりに落ちるまでしばらくは朝食と昼食は極力抜くこと。ちょっと無理をしているように思えるかもしれませんが、開始直後は目に見える効果を得たいと考えたからです。効果はてきめんで、開始数日は毎日1㎏づつ体重が減っていきました。夕食はおかずを食べ過ぎないように食べ、週末はダイエットを少し緩めてみましたが、はじめの数週間は毎日数百g単位で体重が減っていきました。その分だけこれまで食べ過ぎていたということでもあります。こうした効果を目の当たりにしてダイエットに対するモチベーションはぐっと高まりました。

グラフ化するとよくわかるのですが、週の前半でぐいぐい体重が落ち、週末で少し増える。そして、また次の週前半で減る、という変化を繰り返していく中で体重は二ヶ月でほぼ7㎏減りました。でも、決して無理をしている感覚はありませんし、体調の変化もありませんでした。途中で採血もしてみましたが、これといってなにか悪い変化もありませんでした。むしろ、高めだった中性脂肪は正常化するなど脂質の改善が見られました。唯一、白血球数は極端にさがりました。研修医の頃、指導医に「重症患者の白血球数が急に下がったら要注意」といわれたことを思い出しました。ダイエットはからだにとってはある種の危機状態を作るわけですから、そうした体内環境の変化を反映しているのかもしれません。ただ、不思議なことにダイエットをしたら抜け毛が減りました。栄養状態が悪くなるわけですから抜け毛が多くなるならまだわかります。でも、抜け毛の本数が明らかに減っているのです。抜け毛がそれなりに気になり始めた年齢ですので、うれしい変化といえばそうなんですけどなぜなんでしょ。

ダイエットをしてみて感じたのは、ダイエットの極意は「空腹を楽しむ」ということ。空腹とは人間にとってある意味で「苦痛」なのだと思います。苦痛だからこそ人間はそれを避けようと食行動にでるのかもしれません。でも、よく考えてみて下さい。人は空腹にならないように食べるではありませんか。あるいは、それほど空腹でもないのに食事の時間が来たから食べる、という場合もあります。これらって実は「空腹」という「苦痛」をさけるための行為・行動なのだと思うのです。しかし、今回気が付いたことは、ダイエットにおいて「空腹は脂肪が燃焼している貴重な時間」と思えるようになるとだいぶ気分的に楽だということ。空腹は決して苦痛ではないのです。と同時に、なんとなく食べる、時間が来たから食べるということを決してしないようにすること。実際、これまでを振り返ると空腹感を乗り越えた日ほど体重減少が大きいような気がします。この当たり前のようで当たり前でないことに気が付いたことも収穫でした。

一方で、満腹が実は苦痛だという経験もしました。「あ~満腹、満腹」という言葉は幸せの印のように感じます。ところが私の場合、ダイエットが進むにつれて満腹という一時的な「快楽」のあとに嘔気や腹痛という「苦痛」がやってくるようになったのです。ダイエットをしながら「あ~、○○を思いっきり食べてぇ~」って思うことがありました。ところが、そうした思いのままに腹いっぱい食べると、そのあとで必ずと言っていいほど気持ち悪くなったり、おなかが痛くなったりするのです。そして、しばらくトイレにしゃがみ込むはめに。よく「胃が小さくなる」といいますが、単に胃のサイズが小さくなるだけの現象ではないようです。たくさん食べることで脂質かなにかが体の中で急に増えてこのような症状がでるようでもあります。よく拒食症の患者が食べては吐くという異常行動を繰り返すといいますが、この行動の理由に「たくさん食べてしまったことに対する罪悪感」があると説明されます。しかし、実は今私が説明したような生物学的ななにか合理性が背景にあるような気がします。

いずれにせよ、ダイエットはこれからも続きます。5月の連休明けからこれまでで7㎏の体重が減りました。最近は体重の減り方も少なくなり(というよりも意識的に食事量を以前よりも戻しています。また、朝食と昼食のかわりにタンパクとカルシウムを補給するために牛乳を飲むようにもしています)、その分だけ以前ほど毎日の体重測定が楽しみではなくなりました。むしろ、体重が大幅に増えていないか恐る恐る体重計をのぞき込むようになっていますが、あと2㎏の体重を減らしたいと思っています。体重は1㎏などいとも簡単に増減するからです。体重をふやすのは簡単です。ダイエットはいともたやすくなし崩し的に終わってしまいます。時間があれば筋トレ(足上げ腹筋や腕立て伏せ)をやっています。筋トレも意識的にゴロっと横になりながら気軽にできるものにしています。何事も「頑張らない」「仰々しくしない」「成果を実感できる」をモットーにこれからも細く長く続けるつもりです。

あとどれくらいでかはわかりませんが、今以上に櫻井翔君にそっくりな私が出現するかもしれません。先日、すっきりしたおなかをさすりながら、家族に「ほら、こんなにやせたぞ。だからこれからはカンニングの竹山とは言わせないからな」と勝ち誇ってみせました。しかし、そんな得意げな私に息子が冷静に言いました。「からだはやせても、顔は竹山のままなんだよな~」って。ガク~っ。

私の「幸福論」

本年3月1日付で投稿した「私の『幸福論』」については、最近、多数のスパムメールが寄せられています。そこで先の投稿文を削除してあらためて以下アップし直します。

以下、本文

多種多様な価値観を持つ社会ほど、しなやかで力強く、創造的かつ生産的な社会だといわれています。いろいろな考え方の人がいるからこそ社会は支えられ、発展するというわけです。なんらかの価値観にかたよった社会ではいろいろな問題に対応できないといういい方もできます。ひるがえって家庭にあてはめてみると、価値観が完全に一致した配偶者にめぐり逢うなんてことは奇跡に近く、誰もが新婚時代に価値観のぶつかりあいを経験するわけで(今でもぶつかっている?)、価値観の違いを乗り越えるということはそう簡単なことではなさそうです。

 個人的にいえば、人間の価値観の相違はとくに人生観、あるいは幸福観において顕著なのではないでしょうか。「人間、いかに生きるべきか」あるいは「幸せってなんだろう」という命題に正解などなく、百人いれば百通りの答えがあるのです。ストイックな人生が輝いて見える人がいれば、快楽主義的な生き方にこそ価値を感じる人もいる。ですから、これからお話しすることはあくまでも私個人の考えとしてお読みいただければと思います。私の価値観を人に押し付けるものでもありません。と同時に、他人からとやかく言われることでもないという点を強調しておきます。

早いもので今年ももう3月となってしまいました。小中学校の入試も終わり、おおかたの国立大学の二次試験も終了しました。残すは今日からはじまる公立高校の後期試験だけでしょうか。うちにも来年の高校受験を控える中学二年生の子どもがいるので、これからいよいよ否応なしに受験モードに入っていきます。親として表面上は泰然自若を装い、子供には常に冷静な姿を見せておかなければいけないのでしょうが、いかんせんそこは悲しいかな凡人の私。来年の受験に向けてどこまで平常心でいられるか自信はまったくないというのが正直なところです。

 中学二年生にもなると、子どもながらに自分の将来のことをぼんやり考え始めるとともに、不安になる時期でもあります。先日もニュースで、学校の担任とそりが合わなかった中学生が「担任のせいで自分の人生は終わった」と遺書に残して自ら命を絶ったと報道されていました。そうした出来事を耳にするたびに、同じ世代の子どもをもつ親としては切ない気持ちになります。しかし、かくいう私も、これまで自分の子どもとこうしたことをじっくり話し合ったことはありませんでした。ところが、ひょんなことから息子と人生についてじっくり話をする機会がありました。

 それは息子に勉強を教えているときのことでした。仕事を終えて疲れて帰ってきてから少しだけ息子に勉強を教えているのですが、教わっている最近の息子の態度がとてもいい加減に見えていたこともあって、いつになく声を荒げて息子を叱ってしまいました。さすがの息子もその私の怒りっぷりが理不尽に見えたのか、これまたいつになく口をとがらせて反論してきました。息子の言い分もわからないでもありませんでした。しかし、仕事のことで少しイライラしていたからか、私はそれまで心の中にわだかまりとしてたまっていた息子への不満をいっきにぶつけたのでした。

 しかし、私がひとしきりこれまでの息子の勉強への姿勢を批判したあと息子は私に言いました。「父ちゃんは今幸せ?」。「ああ、幸せさ。ママもいて、ふたりの子どもにも恵まれたからね。仕事もそれなりに順調だし」。すると息子はしみじみと「そうだよなぁ。子どものころからなりたかった医者にもなれたんだし」と。彼がそんなことを言うとは思っていなかったせいか、私は彼の次の言葉にショックを受けました。それまで机の上に視線を落としていた息子が私をしっかり見つめてこう言ったのです。「そんな父ちゃんより俺が幸せになれると思うかい?俺は父ちゃんより幸せにはなれないんだよ」。

 息子は私をそんな風に見ていたんだと少し意外な気持ちがしました。これまで息子に私は「いかに自分が子どものころ勉強をしなかったか」、あるいは「どうして勉強するようになったか」をなんども話してきました。私としては「誰でも努力を怠らなければ医者ぐらいにはなれる」という気持ちを彼に伝えたかったからです。そして、それを聴いた息子に「よし、それなら俺も頑張ってみよう」と奮起してもらいたかったのです。しかし、それを聴いていた息子の目には「自分にはとてもまねのできないもの」として映っていたらしく、私はそのことに多少ショックを受けていました。

 でも、私は気を取り直して息子に言いました。「でも、幸せっていったいなんだろう?手にいれることができるものなんだろうか。ずっと手元においておけるものなんだろうか?」。息子は「そんなこと知らないよ」とちょっと投げやりです。「幸せって、人によってその形や中身も違えば、大きさだって違うんだ」。息子は視線を机の上に落としたままです。「君がなにに幸せを感じるかは俺とは違うはずだし、違っててぜんぜん構わないものなんだぜ」。私はこのとき「自分の幸福論」を話しはじめました。延々と1時間ほど続いたでしょうか。息子は意外と黙って聞いていました。

********** 以下はそのときの要旨です。

 世の中にはいろいろな価値観がある。遊んで暮らしていければいいと考える人もいれば、日々努力をしてひとつひとつに向上心をもって生きていくことを善とする人もいる。あるいは人知れず自分の世界を大切にして人里離れた場所でひっそりと暮らす人だっているだろう。でも、そのどれが「いい生き方」かってことでもなければ、どれが素晴らしいかって問題でもない。結局は「どの生き方が好きか?」って問題なんだよ。そうしたいろいろな価値観を持った人が、自分の持ち場でそれぞれが幸せだと感じることができれば、それを「幸福」っていうんじゃないんだろうか。

このあいだ、新聞に、学校の担任に嫌われた中学生が「担任に睨まれたから俺の人生はもうおしまい」なんて遺書を残して自殺してしまったというニュースが載っていた。たかだか担任の先生に気に入られるかどうかで人生って決まっちゃうのかい?いい高校あるいは行きたい高校に行けないと人生は終わりなの?大学行けないと(あるいは行かないと)幸せになれないの?就きたい仕事に就けないと、あるいは定職に就かずにアルバイトで生活していたらその人は不幸なの?逆に、小さいころから勉強ができて、いい大学を出て、大きな会社に勤めて、社長になったらその人は幸せなのかい?

 あのね、会社という組織を考えればよくわかるよ。出世することを第一と考え、家庭生活を犠牲にしてまで懸命に働いたサラリーマンがいたとしよう。そして、その努力と犠牲の甲斐あって見事社長になれたとして、その人は幸せといえるだろうか。奥さんとの四十年や子どもたちとの三十年間の家庭生活を犠牲にして、奥さんや子どもたちがその出世を恨んでいたとしたらどうだろう。その人の幸福にどのような意味があるんだろうって思わないか?会社での何十年かを振り返って「俺の人生に悔いなし」って言えればいいよね。でも、犠牲にしてきた家族との生活はもう戻ってこないんだよ。

もちろん、こうした人も会社には必要だよ。会社で働く人がみんな「家庭が第一。出世しなくてもそこそこに働ければいい」と考えるようじゃ会社は成り立たないからね。だけど、だからといって「家庭が第一」と考える人が社会人として劣っているということでもない。どちらも価値観としては認められていいということなんだ。そういういろいろな価値観があって社会はなりたっている。だから、有名な学校を出ようが出まいが、学校の成績がよかろうが悪かろうが、社会的地位の高いポジションにいようがいまいが、その人の価値を決めるわけでもないし、幸せかどうかを規定するものでは決してないということさ。

 考えてみると、人間は生きていく中でいろいろなターニングポイントに遭遇して、人生の選択を迫られる。そのポイント、ポイントで最善と思えるような選択をしなければならない。「最善の選択」とはいっても正解とは限らないよ。正しいかどうかなんて誰にもわからないんだから。「後悔をしない選択」という意味にすぎないと思う。後悔のない選択をするためには日々努力をしなければいけない。その「日々の努力」あるいは「後悔のない選択」の積み重ねの総体が人間の幸せなんじゃないのだろうか。つまり、幸せに終着点はない。幸せは手に入れられるようなものではないってことなんだ。

君はなんのために勉強しているの?もちろん希望する学校に入るためだよね。それならなんのために希望する学校に入りたいんだい?それは一義的には幸福感を得たいためであり、二義的には将来の希望につなぐためだよね。では、希望の学校に入れないと将来の希望をつなぐことはできないのだろうか。そうじゃないよね。だって、「人生の扉」を前にして、希望の学校に入れたということが正解かどうかだなんて誰にもわからないんだから。つまり、どのような扉を開けるにせよ、それぞれの人がそのときどきに応じて誠意をもって最善の判断を繰り返していくことしかないんだよ。

 「神は自ら助けるものを助ける」という言葉があるよね。人の一生にはなにか正解があって、その正解をたどることが幸せにつながると多くの人はなんとなく思っている。だけど、実はそうじゃない。人生にそもそも正解などないし、お手本なんてものすらない。つまり、その人でしかたどれない人生を誠実に生きていくこと。その積み重ねが少しづつ「幸せの貯金」となっていく。その誠実さ、その日々の努力を神さまは見ているんだよっていうのが、先の言葉の意味なんだと俺は思う。他人の人生なんて自分にはなんの関係もない。自分を誠実に生きるってことこそ大事なんだと思うけど。

 生きるのが苦しくなるのは他人の目を気にするから。他人と自分を比較するからさ。自分がどう生きようと他人には関係ないのと同じように、他人がどのような人生を生きようと君の人生にはなんの関係もないんだよ。君の人生が家族や身近な人たちの人生になんらかの影響をあたえることはあるかもしれない。身近な人たちにどのような影響を与えるにせよ君が誠実に生きるという姿勢を貫くならばそれは許されるものさ。気にしなくたっていい。だってたった一度の自分の人生なんだもの。自分のために生きるのも自分、他人のために生きるのも自分。どちらがより尊いかって問題じゃない。

 君自身は、今やらなければならないこと、選択しなければならないことはなにかに常にアンテナを張り、最善の行動をとるようにしなければいけない。君の年代はその訓練をする時期。結果がどうであろうと知ったこっちゃないじゃないか。やるべきことをやるだけ。それ以上のことは神さまにまかせるしかない。後ろを振り向くな、ただひたすら前をみろ。立ち止まって振り返っている暇はないからね。ただし、心折れて歩けなくなったら、あるいは道に迷って途方に暮れたら地べたに寝そべって目をつぶれ。そして、いつかふたたび立ち上がればいい。人生なんて長いようで短いけど、本来は気楽で自由な旅みたいなものなんだし。

アルバイト考

最近、「働き方改革」という言葉を耳にします。今や死語となってしまった「猛烈サラリーマン」に代表されるように、これまでの日本人はともすると家庭生活はもちろん、あらゆるものを犠牲にして働くことをいといませんでした。それを美徳とすら思ってきたのです。しかし、先ほどの「働き方改革」は、これまでの「働くために生きる」ともいえるようなライフ・スタイルを「よりよく生きるために働く」ものにシフトしようというスローガンのもとで進められています。

思えば、私たちも研修医のころは24時間、365日働いていたと思うくらい働いていました。また、それが当たり前のようにすら感じていました。ですから、最近の研修医の中にはいわゆる「95時勤務」となって、5時になると早々に離院できるという話し(実際はそんなに甘い研修ばかりではないのでしょうが)を耳にするにつけ、なにやらもったいない気持ちになります。ましてや「医者も労働者だ」という視点で医師の労働時間を議論されることにも個人的には少し違和感を覚えます。

とはいえ、これまで生活の中心になっていた労働を、生活を充実させるために働くというパラダイムにシフトさせるということは決して悪いことではありません。自分の生活を犠牲にして働く人がいなければ支えられないものがあるとはいえ、犠牲を強いなければならない人を必要とする社会は本来間違っています。すべての人がよりよく生活できる社会を作らなければいけません。その意味で、「働き方改革」というムーブメントは「はたらく」ことの意味を見直すいい機会になるかもしれません。

私もこれまでいろんなアルバイトをしてきました。自分に向いている仕事もあれば向いていない仕事もあって、それぞれに思い出があり、たくさんの教訓を得ることができました。でも、当時は働くってことがこんなにも大切なことなんだというところまでは考えが至らず、ただ単にお金目的で働いていたに過ぎません。やりがいだとか働く意味なんてことまではまるで考えていませんでした。そうしたことがわかったのはやはり年齢を重ね、社会人となってからです。

総じて私がやったアルバイトはどれも楽しかったです。出版社で辞書を作るバイトだったり、守衛さんのお手伝いだったり、とある私立中学の林間学校のスタッフだったり、あるいは家庭教師だったり塾の先生だったり。今振り返ってみると、そのどれもが貴重な社会勉強になったと思います。お金をもらうこと以上に、働いてみなければわからないいろいろな気づきや学びがあって、アルバイトは単にお金をもらうだけじゃなく、生きることにもつながる大切な社会活動なんだってつくづく思います。

とりわけ私にとって思い出深いアルバイトは花屋の売り子でした。店先に並べた花束をスーパーの買いもの客に売るのです。私と同じ年代の女の子とふたりで店を任されたのですが、店先に立ってものを売るなんてことははじめての経験でした。「いらいっしゃいませ」のひと言を口にすることがいかに難しいことか。一緒に働いていた女の子も私と同じように大きな声で呼び込みができないようで、仕方がないので私が前に出てお客を呼び、彼女がレジに座ることにしました。

ところが、私がいくら勇気を出して「いらっしゃいませ。お花はいかがですかぁ」と声をかけてもお客さんはいっこうに店をのぞいていってくれません。なんども呼び込みをするのですがまったく反応がないのです。その日はお彼岸のまっただ中で、本来であれば墓参用のお花がもっと売れるはずなのに。なぜ買ってくれないのだろう。はじめに感じていた緊張感は徐々に薄れていましたが、いっこうに花が売れないことが不安になってきました。この花屋の主人の不満そうな表情が脳裏をよぎりました。

スーパーで買いものを済ませた客は相変わらず店先の花を横目で見ていきます。しかし、立ち止まって店先をのぞいていってくれませんでした。一緒に働いていた女の子とどうすればいいんだろうと話していると、隣のスペースでカステラを売っていた青年が見るに見かねて声をかけてくれました。「兄ちゃん、それじゃ売れないぜ」。振り返ると、てきぱきとカステラを売りさばいていた青年が、ぎこちなく花を売る私達に微笑んで立っていました。

「そっちのお姉ちゃんが前に立った方がいいぜ。そして、兄ちゃんが後ろで声をかけるのさ」。彼が言うには、私のような男性が前に立っていたのでは女性客は警戒して気軽にのぞいていかないらしい。「兄ちゃんが遠くから呼び込みをして、ひとりがのぞいてくれたらいろいろ話しかけてその客を引っ張るんだ。そうすると他のお客がまたのぞいていくよ、きっと」。カステラ売りの青年のアドバイスはとても具体的でした。私達はさっそくやってみることにしました。

まず女の子が店先でにこやかに呼び込みをしました。あくまでも控えめに。そして私は奥のレジで元気よく声を出すようにしてみました。するとどうでしょう。青年の言ったとおり、ひとりのご夫人が花をのぞき込んでいきました。女の子はすかさずその客に声をかける。すると、それを見て何人かの客が立ち寄っていくようになりました。私はすかさずそれらの客達に軽く声をかけていたら、花が次々と売れ始めました。カステラ売りの青年は忙しくなった私達をときどき遠くから見ていてくれました。

「この花とあの花だと、色合い、おかしくないかしら」。一人の主婦が私に聞いてきました。さっぱりカラーセンスがない私は一瞬答えるのを躊躇してしまいました。適当に答えているように聞こえたらいやだったからです。しかし、それなりにいいカラーコーディネイトだったものですから、勇気を出して「とてもいい組み合わせだと思います」と言ってみました。するとその客はニコリと微笑み、花を四束買ってくれました。

終わってみれば、カステラ売りの青年のアドバイスが効を奏してたくさんの花束が売れました。青年は「ものを売るってむずかしいだろ。でも、コツがわかると楽しいだろ。あの調子で頑張るんだよ」とほめてくれました。一緒に働いている女の子との息もぴったりあって、なんとなくものを売るということに自信がついてきました。どんよりと曇っていた気持ちはすっかり晴れ、なんだかもっと売ってみたいような気持ちがしていました。

花売りの仕事がはじまる前、花屋の店主は手順を説明しながら「ふたりで大丈夫かな」と不安気でした。しかし、店じまいの頃にやって来て私達の売り上げを計算するとその表情はとても明るくなっていました。「よく頑張ってくれたね。たいしたもんだ」と店主満足げです。その表情を見た私もほっとしました。私達に的確なアドバイスをくれたカステラ売りの青年は、さっさと自分の商品を売り切ってしまい、私達よりも先に店をたたんでは風のように去って行きました。

見知らぬ人に商品に関心をもってもらい、その商品を買ってもらうということはとても難しいことです。こんなあたりまえなことでさえ、普段買う側にいると想像することさえしません。どうしたら品物を買ってもらえるか。売る側の人たちは試行錯誤しながらそのコツを体得していくのです。「経験」を「知」に変えるとそれはアート(Art)になります。このアートの域にまで到達することができれば人は創造的に働くことができ、アートを手にした人のみが創造的に働くことができるのです。

働くことは単にお金を稼ぐだけのツールではありません。生きることを知るためのツールでもあります。働くことを通じて創造的かつ能動的に生きることも、前向きに生きることもできます。「はたらき方」を考えるってことは実は人間の生活そのものを考えることかもしれません。アルバイトをすることで、働くことが人生になんらかのヒントあるいは指針をあたえてくれるということに気が付きます。

「老いる」ということ

今月のはじめ、札幌に大雪が降りました。例年であれば今頃の雪はすぐに溶け、陽の当たらない道端に小さな雪のかたまりが残っている程度です。昨今の異常気象のせいなのか、まだ11月になったばかりだというのにあの大雪。しかもまだ気温が十分に低くなっていないのであのときの雪は湿っていてずいぶんと重かったらしい。12月後半の雪であればさらさらと軽く、頭や肩に降り積もっても簡単に吹き飛ばすことができるのに、雪に慣れている北海道の人たちも今回の除雪(北海道では「雪かき」といいます)はさぞかし大変だっただろうと思います。

でも、私はこんな厳しい気候もふくめて北海道が好きです。しばれた冬の冷たさも、視界をおおう真っ白な雪でさえも、私にとっては懐かしくも北国の郷愁を感じる素敵な光景に見えます。人によっては「あんな寒いところ」と言いますが、そうした厳しい冬が私には素敵に見えるのはきっと家の中の暖かさがあるから。家の中の暖かさから言えば、北海道はこちらの比ではないくらいに暖かいのです。ストーブをがんがん炊きながらTシャツ姿なんて普通のこと。寒くて冷たい外から帰ってきて、暖かい室内に入ったときのなんともいえないホッとした気持ちは北海道ならではかも知れません。

そんなことを人に話すと、よく「ほんとに北海道が好きなんだねぇ」って言われます。当ブログの「北海道のこと」でも書きましたが、春夏秋冬の季節感がはっきりしている北海道の自然や気候はなぜか私の琴線に触れます。肌に合うっていう奴でしょうか。だから、息子たちには「俺が歳をとってボケたり寝たきりになったら札幌の老人ホームに入れてくれ」と言ってあります。家内や息子たちのお荷物になりたくない私は、たとえ一人であっても大好きな札幌に戻って安らかな気持ちで余生を送りたいと思っています。北海道、とくに札幌はそれほど私にとっては特別な場所なのです。

老後だとか、余生だとか、これまで自分とは無縁だと思えていたことが、いつの間にか現実的なものに感じる年齢になってしまいました。思えば私のクリニックも開院して今年で十年。あのとき受診してきた幼稚園児だった子ども達も今は高校生。背丈も僕よりも大きくなり、ワクチン注射のときに大騒ぎしていたあの頃がずいぶんと昔のように感じます。私自身、彼らをわが子のように見ていたせいか、その成長した様子が私にはなんとなく淋しく映ります。成長した彼らの後ろ姿を見ながら、お母さん達にはつい「淋しくなっちゃいますね」とこぼしてしまいます。

私自身も歳をとりました。いつの間にか私が大学生だったときの父親の年齢になってしまい、なんだか不思議な感覚です。かつての父親の歳になってはじめてわかることもあります。当時の父は仕事から帰ってくるといつもゴロゴロしていました。そんな父を見ながら、「なんでそんなにゴロゴロしているんだろう」と思ったものです。しかし、その年齢になった今の私もまたゴロゴロしている。老眼も年々強くなり、また、いろいろなことが覚えられなくなったり、思考がまとまりにくくなったりといった、かつてよく母親がこぼしていた変化が今の私にも徐々に現れてきています。

よく患者さんから「老化」に関わる相談を受けることがあります。ごくまれに何らかの病気から来る症状である場合もあります。しかし、ほとんどのケースは加齢にともなう変化。むしろ、受け入れなければならない問題だといってもいいのです。正解のないこの「老化の諸問題」にどう答えるのか私自身言葉に窮することがあります。なぜなら私にも「老化」の問題は未経験だからです。私が見聞きした患者さんの体験を通じてでしか答えられない。そもそも人によって直面する問題はさまざま。ましてやそれらのすべてが人によって受け止め方が違うのでなおさら難しい問題です。

ただ、悩んでいる人の多くに共通しているのは「はじめて経験する『老化』にとまどっている」という点。時の経つスピードは年齢とともに早くなっていき、10代のときの一年と40歳代での一年とはその長さがずいぶん違います。80歳代となればなおさらです。その分だけ人は知らない間に歳をとっているのです。それはまるで「肉体年齢のあとを精神年齢が追いかけている」かのようです。私も気持ちはまだ実年齢よりもひと回りは若いのですが、仕事中にふと漏れるため息と、自宅に戻るとすぐにゴロゴロしてしまう気力・体力の低下は明らかに実年齢そのものです。

現代の80歳は、昔の80歳と違ってとても健康で若々しく見えます。中には認知症もなく、60歳代だといってもわからない人もいます。しかし、どんなにトレーニングを欠かさずに体力を維持していようが、生物学的に80歳はあくまでも80歳。維持されてきた体力もいつか衰えるときがやってくる。これは揺るがぬ事実です。ところが、人はそうしたことを頭では理解できても、なかなか受け入れられないもの。いつまでも自分は以前のままであると何気に思い込んでしまっているから。加齢にともなう変化に不安を感じている人は概してそうした事実を受容できていないように見えます。

70歳代の人は気持ちはまだ60歳代。しかし、肉体年齢は確実に80歳に向かっているのです。そのギャップに悩む人は少なくありません。私はそうした人によく「かつて自分が20歳だったときのことを思い出してください。そのときのあなたには70歳代の人がどのように映っていましたか?」と問いかけます。そうすることで自分の年齢というものを実感できるからです。すると、多くの人は納得したような、それでいてちょっぴり落胆したような表情をします。中には「歳をとったと言われた」とショックを受ける人もいます。厳しいようですがこれが現実であると気が付くことは重要です。

受け入れられないのも無理はありません。鏡の前で見る毎日の自分はいつまでも「今のまま」なのですから。毎日ほんのわずかだけ変化する自分とその変化の積み重ねにほとんどの人は気づきません。これが「精神年齢は実年齢を追いかけていく」と表現した理由です。しかし、その間にも肉体は確実に歳をとっていく。そして、あるとき突然「加齢」という現実に直面するのですから、そうした変化を受け入れられないのもある意味当然なのです。でも、その「加齢」という変化に対する見方を変えてみると違った風景が見えてきます。巻き戻せない時間に絶望するのではなく、「老いること」をもっと前向きにとらえるのです(「心に残る患者(4) 」もご覧ください)。

かつてできたことができなくなった不安。あるいは、肌にしわやしみが多くなって、腰が曲がり、ちょっとしたことで転ぶようになってしまったことへの落胆。そうした変化を人は「忌まわしいもの」あるいは「醜いもの」ととらえがちです。それはかつての輝いていたころの自分と比較するからです。でもよく考えてみて下さい。無心に虫を追いかけていた子どもの頃の‘あなた’も「あなた」なら、公私に充実して輝いていた若かりし頃の‘あなた’も「あなた」。ならば、老いを迎えていろいろなことが若いころと違ってしまった今の‘あなた’も「あなた」ではありませんか。

人間はいつか死にます。これは避けることはできません。その最期の日がいつ来るのか。それは神のみぞ知ること。そんなこと「知ったこっちゃない」のです。ある高齢の患者さんから「私はなんのために生きているのかわからない」と言われたことがあります。しかし、そのとき私は次のように答えました。「生きる目的は世代によってさまざまです。ご主人と結婚したときにはそのときの目的があり、子どもを育てているときにはそのときの目的がある。孫の成長を見守っているときにもそのときの目的がある。だから、生きていることそのこと自体が目的になるときがあってもいいのではないか」と。

人の価値には、もちろん他者の役に立つという価値もありますが、存在することだけに価値がある場合もあります。家族がそのいい例です。世話になっている、面倒をかけていると本人が思っていても、世話をしている家族からすれば「いてくれるだけでいい存在」というものがあるのです。それが「存在価値」です。存在価値はそれまで生きてきた人生で積み重ねてきた価値の集大成でもあります。老いを迎えて得られた自分の価値は、本人がいかに生きてきたかの証として自分自身が実感できるものであると同時に、まわりの人にしか感じられない価値でもあるのです。

「老い」は長生きできた人にしか経験できないことです。「老い」は長生きしたことの代償だということもできます。これまでこのブログで書いてきたように、私の心に残る患者の多くは若くして亡くなった人たち(「心に残る患者」「心に残る患者(2」をご覧ください)です。それは若くして逝かなくてはならなかった患者たちの無念さを痛いほど感じるからです。ですから、人生をまっとうできた人の死に私は悲しみをあまり感じません。もちろん別れは淋しく辛いものです。でも、「老い」を経ることのできた人たちとの別れは決して悲しいものではありません。

「老いを前向きにとらえろ」などと簡単に言ってくれるなと言われるかもしれません。老いることの苦しみや辛さを実体験として私は感じたことがないのですから。しかし、医師という仕事を通じて生老病死を見てきた私から言えることは、生きながらえた代償としての「老い」を受け入れることはできるはずだということ。つまり、「今を生きる」のです。人にはいつかお迎えが来ます。それが明日なのか、何年、何十年先のことなのか、そんなことは「知ったこっちゃない」のです。今を穏やかに、無事に過ごせればいいのです。それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。それが生けるものの宿命だからです。

今日はずいぶんと生意気なことを書いてすみませんでした。
不愉快な思いをした方がいらっしゃったらご容赦ください。

「子育て」はおもしろい

最近、なかなかブログを書く時間がとれません。しかも、もともと文才があるわけでもなく、書きたい題材はたくさんありながらそれらを皆様に読んでいただけるような文章にできないのです。

ブログは上の息子が2歳のときに「子育てブログ」を書いたのがはじめてです。その後、下の子が生まれるまでの5年間にわたって書き続けました。今、このブログを振り返ると、その文章はつたないながらも札幌時代の懐かしい風景がよみがえってきます。

今回はその「新・子育てはおもしろい」をご紹介してみたいと思います。12年も前のブログですが、まだ四十路だった私の子育ての奮闘ぶりを読んでいただければと思います。ここでは私自身が是非皆さんに読んでいただきたいページをいくつかご紹介します。

※なお、プライバシー保護のため、登場する子供達の名前は仮名になっています。

下の題名をクリックすれば見られます。

第一回目のブログ:子育てはおもしろい

金沢のこと

永平寺訪問

ダイジョーブ?】

立てば歩め

今回はこんなお茶を濁すような内容ですみません。次回はもっとしっかり書きます。

憂鬱な季節

1週間ほど前から花粉症の患者が増えています。それまで症状が軽かったのに限度を超えたために来院した人もいれば、症状が急に出てきたことから受診してきた人もいます。おそらく杉の花粉量が急速に増加したからでしょう。それは私の実感からもわかります。私もバリバリの花粉症だからです。昔から「春よ来い、早く来い」と歌われているように、世間では春は待ち遠しいものされています。でも、毎年花粉症に苦しむ私にすれば春は「憂鬱な季節」でしかありません。早く来て、すみやかに過ぎ去ってほしい季節です。暖かいのに底冷えしているような中途半端な気候もふくめて私にはどうしても春が好きになれません。

私が花粉症になったのは高校2年生のとき。発症するまでといえば、通学の途中、電車の中でくしゃみを連発する人を見かけると、それがとてもおかしくて笑いをこらえているほどでした。しかし、花粉症の症状はなんの前触れもなく突然現れました。高2の春のある日、夜明けにくしゃみが止まらなくなり、左右の鼻の穴からは鼻水があふれ出してきたのです。仰向けに寝ているのにあふれ出す鼻水。それはあたかも火山から流れ出す溶岩のようでした。しかも、鼻が詰まっているのであふれ出てきた鼻水をかむことができない。おまけに目はかゆく、目の周りは目ヤニでガベガベとなっていて開けることもできない。花粉症がこれほど辛いものだとは思いませんでした。

以後、私は、およそ40年余の長きにわたり、春になるたびにこの花粉症に苦しむことになりました。電車の中でくしゃみを連発していた人がどれほど辛い思いをしていたのかを身をもって知ったのです。今でこそそれなりにいい薬がありますから、2月から抗アレルギー薬を飲みはじめ、3月に点鼻薬と点眼薬を使いはじめればなんとか「辛い」という状況からは逃れることができます。しかし、花粉症それ自体があまり認知されていなかった当時はあまりいい薬がありませんでした。ですから、どの薬を飲んでも症状は楽にならず、市販の薬を指示された量の2倍の量を飲んだり、複数の薬を一緒に飲むなんてむちゃなことをすることもありました。それくらいに症状は激烈でした。

北海道に渡った理由のひとつがこの花粉症です。北海道には杉の木がありませんから。津軽海峡にひかれたブラキストン線によって本州と北海道の植生はそれほど違うのです。正確に言うと函館あたりまでは杉の花粉が飛んでいるそうです。しかし、札幌までとなるともはや私が症状に苦しむほどの花粉はほとんど飛んできません。ですから、札幌では1年を通じて花粉症の症状とは無縁の生活が送れます。4月になって雪がとけはじめ、入学式がおこなわれることには町中が泥と雪でぐちゃぐちゃに。そして、5月になってようやく本州の3月ごろの気候になりますが、あの憂鬱な症状から逃れることができます。長年花粉症に苦しめられてきた私にとってこれほど幸せなことはありませんでした。

北海道は5月になると急速に春めいてきます。木々が芽吹くと同時に、梅や桜、タンポポの花がいっせいに咲き始めます。まさしく百花繚乱の季節です。このころの札幌ではいたるところできれいな花壇を見かけます。杉のない札幌ではあれだけ私を悩ます花粉症の症状がないので、花をめでにいろいろな場所に出かけることができます。これが春を満喫するということなんだと実感できます。シラカバの花粉症っていうものはあります。春、いろいろな花が咲き始めるころ、シラカバの綿毛がふわふわと漂い出し、スギ花粉症ほどではないにしろ、クシュン、クシュンとくしゃみをする人がでてきます。幸い私はシラカバの花粉症ではなかったので。まさに快適な春を送ることができました。

札幌で花粉症とは縁遠い生活をしていると、自分が花粉症であることを忘れてしまいます。でも、花粉症のシーズンにときどき学会などで上京すると(この季節に帰省することはほとんどありませんでした)、自分が花粉症であることを思い知らされます。こちらに着いて48時間から72時間もすると症状がでてくるのです。札幌を発つとき予防のためにアレルギーの薬なんて飲んできませんから、突然花粉症の症状が出てきて辛い思いをすることになります。そして、早々に学会を切り上げ、逃げるように札幌への家路を急ぐことになります。このときほど札幌を恋しく感じることはありません。

このように札幌での快適な春を過ごしていた私ですが、こちらに戻ってきた10年前からは再び春を前に花粉症に対する事前策を講じなければならなくなりました。とくに今年の冬は暖かかったので、花粉の飛散時期が早まるだろうと予想して昨年末から抗アレルギー薬を飲み始めています。その効果があってか、これまではとくに症状もなく過ごすことができました。しかし、ついに1,2週間前からくしゃみや目のかゆみが出てきました。今は点鼻・点眼薬を併用しています。アレルギーの薬は辛い時だけ使用してもほとんど役に立たないので、早めに、そして、継続的に使用しなければなりません。私の場合、こうした薬を5月のGWまで続けることになります。

今ではお薬もいろいろと改良され、以前に比べてだいぶ効果を実感できるようになってきました。高校生のころのようなひどい症状で苦しむことはありません。眠気の副作用もそれほどでもなくなりましたし。来院する患者にも、私の経験をふまえてアドバイスすることができます。花粉症の症状がどれほど辛いのかも理解できます。例えば単に「鼻水が出て、目がかゆい」だけじゃないってことも。どの薬が効いて、どの程度の副作用があるのかなど、実体験を通じた説明をすることもできます。患者になってみなければ、わからないことって多いです。

もっと簡便で恒久的な治療法が開発されるといいなと思います。薬を飲むということも、点鼻薬や点眼薬を使うこともそう面倒なことではありません。しかし、できれば一回の治療でもうおしまいなんて治療法があればどれだけいいかと思います。長年花粉症に苦しめられてきた私にとって、花粉症こそが春を「憂鬱な季節」にしてしまった元凶なのですから。桜の枝がつぼみを持ち、清楚な花を咲かせるころ、また新たな気持ちになれるためにも新しい治療法の登場が待たれます。耳鼻科の先生方、よろしくお願いしますね。

「ないこと」の証明

もうすぐ東日本大震災から5年になります。あのときの大きな地震の揺れを思い出すというよりも、その後の津波による被害のすさまじさと、その津波によって引き起こされた原発事故の大きさに打ちのめされた思いがよみがえってきます。そのときの様子は、以前、このブログにも書きましたが、5年という歳月を経て、福島は、あるいは東北は、もっといえば日本はよくぞここまで立ち直ったものだと思います。ところが、いまだに「放射能の危険性」を声高に叫び、ここまで立ち直った人たちの心をくじこうとする人たちがいます。その人たちの言動には個人的にはただあきれるばかり。うんざりしてきます。

放射能による被害については、その後、さまざまな大規模調査がおこなわれ、その都度「放射能の影響は確認できない」との結論が得られています。原発事故直後からマスコミやいちぶの識者から繰り返していわれてきた「子供たちの甲状腺がんの発生」についても、あるいは「胎児の奇形や異常出産」についても、そのことごとくが否定されています。なのになぜ今もなお「放射能の影響が今後も出ないとはいいきれない」などと言っては立ち直ろうとする人たちの足をひっぱるのでしょうか。それはまるで被災者の気持ちに寄り添う振りをしながら、実は被災者を政治的に利用しているかのように私には見えます。

それが本当に政治的に利用しているものなのかどうかはともかく、「放射能の影響がないとはいいきれない」という一見もっともらしい主張が、実は「ないもの(こと)は証明できない」という重要な論理を無視したものであることに気が付かなければなりません。実際に存在することはその存在を根拠に証明できても、存在しないことはその状況証拠で説明するしかない、ということです。「説明」はあくまでも説明であって、人々を論理的に納得させられるかどうかにかかっています。しかし、そうしたその論理性はそれを理解しようとしない(できない)人たちにとってはなんの意味ももたないところがやっかいです。

「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉があります。デカルトという哲学者によるものです。目の前の石ころが本当に「ある」といえるのか。その存在を完全に証明することはできないが、それを「ある」と認識している自分の存在だけは否定できない、という意味です。みんなに見える石ころを「私には見えない」と言えば怪しまれ、みんなに見えない虫が床をはっていると言っても怪しまれます。そこにはみんなの共通認識が正しいという前提があるのです。しかし、そのみんなの共通認識が誤っているということがないとはいえない。それを推し量る道具として科学的事実、統計学的予測が存在します。

現代社会に生きる我々の誰もが地球が太陽のまわりをまわっていることを理解しています。世の中のすべての物質は分子、原子、さらには素粒子からなっていることを知っています。その証拠を見たことがなくても、誰ひとりそれを疑おうとはしません。論理的にあるいは現象的に矛盾のない科学的事実からそう理解しているにすぎないのです。誰かが「それでも太陽が地球のまわりをまわっていて、すべての物質を通り抜けることができる魂が存在する」と確信しているとすれば、それはもはや宗教の世界、あるいは人間の情緒の問題として片づけられてしまいます。

「『そんなものなどない』とどうしていえるのか」と反論されると、反論された側に「それがないこと」を証明する責任があるように感じます。しかし、「ないこと(もの)」は証明できないのです。この証明は「悪魔の証明」と呼ばれているのですが、本来であれば「それがある」という根拠をすべての人が理性的に納得するように提示しなければいけません。そうでなければ利害のことなる様々な人々によって構成される社会は成り立たちません。「あること」の証明がどのくらい人々に受け入れられるのか。そこで客観的事実としての科学と統計が根拠を提示するものとしての役割をはたします。

「放射能の影響がないと言い切れるのか」ではなく「これだけ放射能の影響があったぞ」を指摘しなければなりません。「2011年の東日本大震災クラスの首都圏直下型地震は起こりうる」ではなくて「そうした地震はこのくらいの確率で発生する」という言い方をしなければなりません。一方において、「放射能の影響はない」と言い切ることはできません(「影響はない」と言い切りたいとしても)。「今のところ放射能の影響があるとはいえない」というまどろっこしい言い方でしか表現できないわけです。一見するとあいまいに思えますが、実は事実を正しく表現するためにはそう言わざるを得ないのです。

今回の原発事故で「万全な対策を施した原発に事故はない」という「原発の安全神話」が崩れた、といいます。しかし、もともとそんな「安全」なんてあろうはずがない。しかも、みんなもそれに気が付いていました。本来であれば「これこれの危険がこのくらいの確率で存在するのだから、こうした対策を講じるべき」という真摯な議論がなければいけなかったのです。ところが「一切の危険性があってはいけない」という極端な一部の意見にひきづられて、「安全神話」がなんとなくできあがってしまったのです。理性的な議論がなく、リスク管理という観点から社会的妥協点を見出さないとこうなるといういい例です。

人間は感情の動物ですから、「怖い」「不愉快」「認めたくない」という気持ちがわくのは当然です。しかし、そうした情緒的な反応とはまったく関係ないところに科学的事実、統計学的予測があります。自動車は必ず事故をおこします。今もどこかで事故は起こっています。でも、現代社会は自動車の危険性をいかに低減させ、コントロールするかを図って成立しています。いったん事故がおこればたくさんの命が失われる飛行機もそうです。ある程度のリスクを受け入れ、その利便性を享受しているのです。現代社会は、少なくとも「私は乗らない」という人はいても「自動車や飛行機をなくすべきだ」という社会ではありえないという点が重要です。

以前のブログにも書きましたが、2011年の震災直後、放射能に対する不安がピークに達した患者さんや友人の医師に「原発事故による放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけました。でも、匿名の人から「命を守るべき医者が放射能の危険性に楽観すぎる」との批判を受けました。原発事故直後の混乱した状況において不必要な不安感にさいなまれるのは仕方がないことです。それでなくてもマスコミがあの調子でしたからなおさらです。しかし、そうした人であっても、その後の客観的事実をふまえて少しづつ理性的にならなければなりません。情緒に翻弄されていた自分を乗り越えて、理性的に受け入れる自分に変わっていくべきなのです。

「ないこと」の証明はできません。そのことは「理性的」に理解するしかありません。もしかすると将来、実は人は死んだら体から魂が抜け、天国に上っていくということが証明されるかもしれません。私自身、解剖実習の初日に金縛りにあい、同時に幽霊を見る(これも以前ブログに書きましたのでお読みください)といった不思議体験をしているせいか、守護霊というものがあったり、運命というものすらあることも、なんとなく自分の中に信じている部分もあります。でも、それらが科学的に証明されないかぎり自分の心の中の問題だと思っています。それが私の理性なんだと思います。

理性ですべてが解決しないのが人間です。それは仕方がないことです。しかし、いったん「そんな科学的根拠にはなんの意味があるのか」「科学は『ないこと』を保証するのか」という声があがると、理性は情緒にいとも簡単に駆逐されてしまいます。そうしたことが今の日本の社会ではしばしば見受けられます。それが日本のいいところでもあり、悪いところでもあります。しかし、利害のことなるたくさんの人が住む社会においてはやはり科学的事実あるいは統計学的推測をよりどころとするしかない場合が多いと思います。情緒を乗り越え、その理性あるいは客観性を頼りに発達・発展してきたのが現代社会だからです。そうしたことに時々立ち止まってじっくり考えてみることが大切だと思っています。

年頭の所感

あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろとお世話になりました。

今年はエルニーニョ現象のせいで暖かい日が多く、冬だという実感があまり湧いてきません。札幌時代の冬はしっかり雪が降っていましたから、冬になれば一面の銀世界となり冬らしい景色を見ることができました。昔から札幌に住んでいる人たちから言わせると、それでも「最近は雪が少なくなったよ」ということらしいのですが。そう言えば、私が札幌にいたころも、雪まつりの時期(今年は2月5日からだそうです)になると一時的に寒さが緩み、大道り公園に作られた雪像が溶けてしまって大修復、なんてこともありました。ともあれ、冬はしっかり冬らしく、って方が私は好きです。

この季節になるといつもアメリカにいた頃を思い出します。2000年(平成12年)に私はミシガン州ann arbor(アナーバー)市にあるMichigan大学との共同研究のためにアメリカに滞在していました。日本でおこなった調査をアメリカでもおこなって日米での比較検討をするのが目的です。2000年の1月のちょうど今頃、打ち合わせのためにはじめてアナーバーを訪れたのですが、気候は札幌にとても似ており、すぐにこの町が気に入ってしまいました。雪はそれほど多くはありませんでしたが、寒さは厳しく、車のマフラーから、あるいは街中の煙突からモクモクと水蒸気の煙が立ち上っている景色はなんともアメリカらしく感じたのを覚えています。

大学院に入った私は、自分の研究をなにもかもひとりでやらなければなりませんでした。研究のテーマを決めることも、研究内容の絞り込みや調査の具体的な進め方も、さらには論文の書き方すら自分で学ばなければならなかったのです。それだけでも大変なのに、研究・調査にはお金が予想外にかかり、その研究費をどう捻出するかが当時の私のあたまを悩ます大きな問題でした。いざとなれば自腹で、と思っていましたが、大学からの給料は当然なく、むしろ大学院生として学費を納めなければなりません。アルバイトでようやく生計をたてていた身には、結婚したばかりの家内もふくめて二人分の生活費をまかなうので精いっぱい。自腹で出せる額にも限度がありました。

私の研究テーマに興味をもってくれたミシガン大学の研究者からは「共同研究をするのには300万円の費用が必要」という知らせが届いていました。アメリカでは研究者が研究費を調達し、その中から給与をもらいます。しかも、大学の施設を使用すればその費用もかかる。それらをひっくるめると300万円という大金が必要だったのです。その連絡を受けて、私は日米共同研究はあきらめなければならないかもしれないと思いました。ところが、「拾う神」はいるものです。ダメもとで申請した某製薬会社の研究助成金を運よくもらえることになったのです。しかも500万円という大金。この助成金のおかげで私はなんとか日米共同研究の計画を進めることができたのでした。

当時はこの大金を使って研究をさせてもらう自分の幸運に気がつくこともなく、当時、同じ研究室で研究テーマも見つからずにいた後輩を誘って日米比較研究をすることにしました。でも、今だから正直に言いますが、そのときの私は額の大きな研究費を得てすっかり有頂天になっていたのです。300万円ものミシガン大学への分担金を払ってもなお、調査に同行する後輩の渡航費を払ったり、研究機材を購入したり、調査に協力していただいた人たちへの謝礼に大判振る舞いしたり。その結果、アメリカに渡ってミシガン大学の留学生用住宅に住むころには、あれだけあった助成金はだいぶ少なくなっていて、最終的にはかなりの額の自腹を切るはめになったのでした。

でも、アメリカでの生活はその後の自分に大きな影響を与えました。ミシガン大学の留学生用住宅に住んでいた私と家内は、朝、目を覚ますと大学構内をジョギング。広い駐車場でテニスをやってまたジョギング。家に戻ったらシャワーをあびて朝食。その後、構内を巡回しているバスに乗り大学の研究室へ。朝のカンファレンスに参加して共同研究の準備。そして、調査にでかけたり、調査結果を分析したりしながら、時間に余裕のあるときは家庭医のクリニックや高齢者施設を訪問したりしました。午後は早めに帰宅し、家内とふたたび構内をジョギングしてテニス。シャワーをあびて夕食。日本ではあじわったことのない、夢のような、健康的で、快適な生活はなによりも代えがたい貴重な経験でした。

お休みの日も充実していました。当時、たまたまミシガン大学に留学していた慈恵医大柏病院時代の先輩医師と会ったり、アナーバーの近くに住んでいた家内のいとこ夫婦を自宅に招いてパーティーをしたり。夏のまぶしい日差しの中でおこなわれたアナーバーのサマーフェスティバル(夏祭り)も素敵な思い出です。車でシカゴまで小旅行もしました。帰国する直前には一緒にアメリカに連れて来た大学院の後輩も連れてナイアガラの滝まで行きました。アナーバーから車に乗ってデトロイトを抜け、カナダにわたっての旅はいろいろな事件に遭遇するなど話しはつきません。その辺のことはまた改めて書きます。

これらの経験は帰国後のモチベーションをとても高めました。なにより研究者の端くれとしてのプライドをもつことができるようになりました。自分のやろうとしている研究はまだまだ不十分で、研究手法もほとんど確立されていなかったので、自分の研究で関連領域を体系化し、方法論を確立することができるかもしれないという期待がありました。しかし、当時は圧倒的にマイナーな領域だったので、大学院の中でも、あるいは研究室の中でも異端視され、冷たい視線を向けられていました。それだけに、アメリカの研究者との共同研究は、当時の私のポジションを向上させるのに十分なものであったといえます。

しかし、人間の運命などわからないものです。その後、いろいろなこと(これも是非お話ししたいところですが、ここでは差し障りがあるので書けません)があって大学を離れることになり、最終的には地元にもどって開業することになってしまいました。あのまま自分の研究を続けていれば、という思いもないわけではありません。今になってもなおその領域に着手しようとする人がいないのですから。でも、なにごとも前向きにとらえようと努めている私は、あのときの経験があるからこそ今の自分があるのではないか。とくにアメリカで得られたスピリチュアルな経験があるからこそ頑張れるんだ、と思っています。

私のクリニックの外観は、アナーバーにいたころに訪問したファミリー・ドクターの診療所をイメージして設計しました。診療所らしからぬ、なんとなく人の住む家に来たような、温かみを感じるクリニックを作ろうというのが設計のコンセプトでした。開業して10年が過ぎて振り返ってみると、なんとなくその夢が形になってきたという実感があります。幸い、当院で働くすばらしい職員・スタッフにも恵まれ、なんとか地域に根差したクリニックになりつつあるように感じます。さらにその思いを形にすることができるように頑張らなければいけないと今思いを新たにしているところです。

とりとめのない話しになってしまいましたが、アメリカに行った頃の情熱を思い出しながら、この一年をさらに素晴らしいものにしたいと決意を新たにしたところです。今年もよろしくお願いいたします。