鉄剤の投与

ここ数日、読売新聞の紙面に「アスリートへの鉄剤投与」の記事が載っています。この問題はこれまで私もいろいろと考えてきたことでもあり、関連したことも含めて少し書きます。
ただし、人によってはこれから私が書く内容に承服できない方、あるいは私の意見を読んで不愉快な気分になる方がいるかもしれません。でも、あまり当たり障りのない書き方をしてしまうと、私の真意が伝わらない場合もあるので率直に書きます。

これまで複数の中学生の親御さんから「貧血があるか調べてほしい」と頼まれたことがあります。その理由を問うと、「陸上をやっていて、最近、記録が伸びない。コーチから『貧血の有無を調べてもらってくるように』と言われて来た」とのことでした。確かに、以前から「スポーツ貧血」と呼ばれる貧血があることは私も知っていました。しかし、私の理解していたスポーツ貧血は、中学生というレベルではなく、もっと激しくトレーニングする大人におこるというものでした。

実際に採血をしてみると、多くの生徒で貧血にはまだ至っていませんでしたが、なかには軽い貧血になっているケースもありました。考えてみると、中学生ぐらいの成長期の子どもはからだの成長に造血機能が追い付かないケースもあるでしょうし、女子の場合は初経と重なる時期でもあり、それほど激しいトレーニングをしなくても貧血になってしまう場合はあるんだろうと思いました。ましてや、かなりハードな練習を絶え間なく行っている子どもでは貧血の有無を確認することはむしろ大切なのかもしれません。

しかし、問題なのはその次です。貧血の有無を調べに来た中学生(ほとんどはその親御さんが本人を連れてきます)によく話しを聞いてみると、「鉄剤を飲めば記録が伸びる」と思っている人が意外に多かったのです。実際に市販の鉄成分をふくむサプリメントを服用している人や、実際に鉄剤をもらって飲んでいる人もいるとのこと。それを聞いた私は愕然としました。なぜなら、私の中での鉄剤は「不足しているときは治療薬であっても、不足していないときに服用すると有害な物質」という認識だったからです。

ですから、コーチにいわれるがままに採血にきた生徒や親御さんが、記録が延びないのは貧血のせいで、鉄剤を「服用すれば記録が伸びる魔法の薬」のように思っているのを見て、「部活ってそこまでしなければならないこと?」といった怒りに似た思いが沸々と湧いてくるのでした。もちろん貧血の有無を採血で調べるまではいいのです。しかし、鉄剤の危険性を知らせず(知らず)、鉄剤をまるで「魔法の薬」と勘違いさるかのような指導をするコーチが許せなかったのです。

私は採血に来た親子にいいました。「部活ってそんなにしてまでやることなの?」と。貧血が出現するかもしれないほどのハードな練習をすることが中学校の部活なんだろうかと私は疑問に思ったのです。中学校の部活は生徒の健康と体力の増進を目的にした教育の一環であるはずです(私の思い込みだったらすみません)。にも関わらず、生徒の健康に支障がでるような部活になんの疑問を感じていないかのように思えるコーチや学校に私は強い違和感と怒りを感じたのです。

「鉄剤を服用してまで記録を延ばそうとする生徒」は確かにいました。でも、そうした生徒に対してその危険性を警告していさめる役割こそコーチの仕事のはず。なのに、暗に鉄剤を服用して記録を延ばせといわんばかりの指導が横行しているように私には感じたのです。以来、貧血を調べに来た親子には「そこまでしてやること?」と苦言を呈していました。そして、貧血(正確にいうと鉄欠乏性貧血)がない、あるいは貯蔵鉄が十分にある生徒には「鉄剤を飲む必要はないからね」と釘を刺すのを忘れませんでした。

その後、採血を希望する生徒は減っていきました。私は「嫌味ひとつ言わずに採血してくれ、鉄剤までも簡単に処方してくれるどこかのクリニックに行ったのだろう」と思いました。SNSが発達した現在、生徒の間で、あるいは親同士の間でそうしたクリニックの情報はやりとりされているはずです。そうした情報をもとに、私のクリニックに採血に来ていた生徒たち、あるいはその後輩たちは恐らく安易な検査と処方をしてくれるどこかに移っているのかもしれません。

この間、別の問題もありました。それは激しい運動をやっている女子選手の無月経の問題です。激しい運動は生殖機能にも影響をあたえて無月経になることがしばしばあります(運動誘発性無月経といいます)。こうしたことにかつての私には問題意識がありませんでした。しかし、あるとき、部活をやっている女子中学生の親御さんから無月経の相談を受けてこの問題を認識しました。その子は初経があってからしばらくは不規則ながら月経があったのにもう何か月もの間月経がこないというのです。

以前のブログにも書いたように、医学生時代の私は一時期産婦人科に進もうと思ったことがありました。周産期という出産前後の胎児・新生児の研究や診療をしてみたかったのです。ですから、無月経については多少のことは知っているつもりでしたが、国家試験に合格して三十年、婦人科の知識などすっかり消えてしまっていることに気が付きました。私はスポーツ医学を専門にしている産婦人科のドクターを探しました。そして、とある大学の先生を見つけてメールを書いてみました。

その先生はすぐに返事をくれました。「運動誘発性無月経の問題は、今、もっと注目されるべきことなのにスポーツの領域では皆が目をつぶっている」というのです。ましてや私が相談したのは女子中学生のこと。「深刻な問題にならないうちに産婦人科を受診させてください」との返事をもらいました。私はこのとき確信しました。スポーツの指導者の多くは選手の健康にはまるで関心がない、言い換えれば、選手の健康よりもコーチ自身の勲章のために選手を使い捨てにしているように思えてなりませんでした。

以来、選手の、とくに中学生のスポーツ貧血や運動誘発性無月経にはことあるごとに問題意識をもってきました。そして、貧血検査のために受診した中学生に対しては苦言を呈してきました。しかし、生徒自身はもちろん、生徒の親においてもこの私の「警鐘」はおそらく「めんどうなことをいう医者」としか映っていなかったのかもしれません。「ごちゃごちゃ言わずに採血して鉄剤を出せばいいのに」ということです。そして、最近の「アスリートの鉄剤注射」の記事。正直、ホッとしています。

医者もいけないのです。選手の健康に関心が薄いコーチにも頭にきますが、無批判に検査・処方している医者には同業者としてもっと腹が立ちます。今日の読売新聞の取材に対する言いわけがとにかくひどい。

「鉄剤の注射が有害だということは知っていたが、選手に頑張ってもらいたかったから」

「経済的な負担を考慮して、月に3回のペースで注射をしながら検査は年一度にした」

こんな馬鹿げた理由があるでしょうか。どう考えても選手の健康よりも優先するようなことじゃないでしょ。こういう言いわけをするくらいなら、「鉄剤の注射がこれほどまで健康に有害だという認識に欠けていた」と正直に言ってほしいくらいです。少しは理解できますから。

念のために言っておきますが、鉄剤は注射剤だから危険で、飲み薬だから安全というものではありません。鉄が不足していないときに使用する薬ではないからです。いずれにしても過剰摂取は危険なのです。恐ろしいことに、医者の中には「貧血」というだけで「鉄欠乏性貧血」かどうかも確認しないで鉄剤を出すのもいます。採血で貧血の改善のようすや鉄が過剰になっていないかどうかを調べもせずに延々と処方している医者もいます。医者だからってみんながちゃんとした診療をやっているわけじゃないのです。

「採血をして調べましょう」と提案しても嫌がる患者もいます。こちらとしては必要性があるから勧めているのですが、そうした患者の目に検査は「余計な費用がかかるもの」、あるいは「医者のもうけ主義の道具」とでも映るのでしょうか。安易な鉄剤の服用という問題には飲む側の問題もあるのです。私が経験した一連の問題は中学生に起こっていることだけにより深刻です。とくに私は「たかが部活じゃないか」「部活は教育の一環」という意識が強いだけに「大会至上主義」ともいえる部活には賛成できません。

インフルエンザのシーズンがやってきます。生徒が次々とインフルエンザに倒れる中、なかなか学級閉鎖や学年閉鎖をしない学校もあります。噂では「学級閉鎖をしてしまうと部活を休止しなければならないから」だともいわれています。もしこれが本当であれば大問題です。何年も前になりますが、見るに見かねて市の教育委員会に電話で抗議したことがあります。翌日には学級閉鎖になりましたけど。子どもたちの健康よりも部活を優先するかのような教員や学校にはこう言ってやりたい。

「君らは生徒がひとり死ななきゃわからんのか」

涙なき別れ

10月2日、父が亡くなりました。行年86才でした。
生前、お世話になりましたみなさまには父に代わりまして厚く御礼申し上げます。なお、亡父の葬儀は家族・親族にて執り行いました。
このたび四十九日の法要が済みましたので、今回は父のことを書きます。

3年前に脳梗塞になってからというもの、認知症も進み、父のからだは徐々に弱っていきました。退院して自宅に戻りましたが、杖を使わなければたちまち転びそうになるなど、足腰の衰えは誰が見ても明らかでした。ある日、案の定、散歩中に転倒。救急車でふたたび病院に入院しました。そして、運ばれた病院の検査で偶然「膵臓腫瘍」が見つかりました。その「膵臓腫瘍」は良性か悪性かははっきりしなかったものの、若いころに患った肺結核のせいでほぼ片肺状態だった父は手術ができませんでした。入院先の主治医は「ここまで早いステージで見つかることはあまりなく、肺に問題なければ手術をお勧めするところですが」と言ってくれましたが、年齢を考えれば仮に手術が可能であってもしなかったかもしれません。

「膵臓腫瘍」と診断された病院で主治医からの説明を受けた後、すでに購入してあった墓を掃除に行きました。なぜそんなことを思い立ったのかわかりません。この墓は購入してからそのままに放置されており、さぞかし埃をかぶっているだろうと思ってのことでした。でも、お墓は霊園の人が手入れをしてくれていたのか思いのほかきれいでした。一緒に行った長男とふたりで墓石をふきながら「この墓にもうじき父親が入ることになるんだろうか」などと考えていました。いずれにせよ、膵臓腫瘍の手術をしないという選択をしたこともあり、急性期の病院に入院していた父は別の病院に移らなければなりませんでした。私は自宅で母が面倒を看られるようになるまで父を入院させてくれる病院を探しました。

次の病院に移った直後に不思議なことがありました。「腫瘍が消えてしまった」というのです。この病院の外来に来ている膵臓腫瘍の専門医も「腫瘍はない」という意見でした。自宅に帰ってこのことを家族に伝えると、一緒にお墓を掃除した長男が「お墓をきれいにしたからかな?」と。入院中、何回か腹部CTをやりましたが、やはり父の膵臓に腫瘍はないとのことでした。この病院もまた療養型の病院ではなかったため、膵臓に腫瘍がないということになればいつまでも入院しているわけにはいきません。結局、グループホームに入ることになりました。自宅を離れてグループホームで生活することを父がどう思っていたのかわかりません。しかし、自宅で父親の面倒を看る母親の体調もときに思わしくないため仕方ない選択でした。

幸い、介護のプロのみなさんの力をお借りして、父も施設で穏やかに過ごすことができました。しかし、このころの父はほとんど歩けず、介助なしでは食事すらできなくなっていました。そして、突然、心不全となって再入院となりました。入院直後の父は酸素マスクをつけられ、苦しそうな呼吸をしていました。でも、治療によって病状は落ち着き、大好きな羊羹をもってきてくれとせがむまでに回復。とはいえ、すでに嚥下ができなくなっていたため、口からの飲食が禁止されて点滴のみという状態になりました。急変時の対応を確認する主治医には「蘇生は必要ない」、「苦痛を取り除くことを優先し、積極的な治療は望まない」という希望を伝えました。次第に黄疸と熱がではじめ、肝機能も悪くなりましたが、最小限の治療で経過を見るのみでした。

その後、父は少しづつ衰弱していきました。病室に見舞いに行っても、ほとんど話しをしなくなりました。黄疸が強くなり、どんどん痩せていく父。家族みんなでお見舞いにいっても、声を出したり、目を開けたりすらしなくなりました。それは父の最期が近づいている証拠でもありました。しかし、そうした父親の変わりようを目の当たりにしても私には淋しさや切なさ、悲しさや寂寥感といった情感は湧いてきませんでした。自分が薄情だからだろうかとも考えました。祖父が亡くなったとき、あるいは叔父が亡くなったときには涙をこらえることができなかったというのに、父親の死を目前にしてもなお淡々としていられる自分が不思議でした。「もしかして“若いころの父親”に復讐しているのだろうか」と思ったりもしました。

若いころの父はとても厳しい人でした。自分にも厳しい分、家族にもとても厳しい人でした。きれい好きで、家の中が散らかっていると仕事から帰宅したばかりであっても怒りながら掃除機をかけたりしていました。父はまた、外で嫌なことがあると家族に当たり散らす身勝手な人でもありました。子どもの頃の私は帰宅した不機嫌な父親が怒り出さぬよう家中を掃除をして回ったものです。それでも父は「掃除をしていない」と怒鳴り散らし、ときに手を挙げることさえありました。そんな気難しくて自分勝手な父でしたから、一緒に遊んでもらったり、勉強を見てもらったりといった思い出は私の中にはありません。若いころの父は、歳をとるにしたがい丸くなっていった晩年の父からは想像できないほど怖い存在でした

「辛かった子供時代」を振り返ると父の嫌な思い出ばかりが浮かんできます。警察官だった父はストレスフルな仕事から解放されても、そのストレスを解消することができずにそのはけ口を家庭に求めたのです。父親が帰宅する時間が近づいてくると、いつも不安な気持ちになったものです。月に何回かある父の宿直の日だけは、どんよりとした気持ちから解放されホッとしていたのを思い出します。あのどん底の高校生時代にも嫌な思い出があります。もがき苦しみながら必死に英語を勉強して受験した大学にあえなく不合格だったときのこと。予想はしていたとはいえ落胆していた私に父は「ダメなやつだな」と心ない言葉をあびせました。父なりの叱咤激励だったのかもしれませんが、さすがにこの言葉に私は打ちのめされました。

そうした子供時代、あるいは青年期を過ごしてきたせいか、自分にとっての父の姿は、年老いて穏やかに微笑んでいる父ではなく、かつての厳しくて自分勝手でいつも不機嫌だった父親なのです。だからこそ、父親が今まさに最期を迎えようとしているときにでさえも、喪失感のような淋しさを感じないのではないか、そう思っていたのです。そんな私を見ていた長男が、あるとき私に尋ねました。「父ちゃん、父親を亡くすときの気持ちってどういうもの?」と。私は息子にこう聴かれてハッとしました。それまであまり深くは考えていなかったからです。でも、この息子からの突然の問いかけに、今まで感じてもいなかったこと、思い出しもしなかったことが次々とあたまに浮かんできました。私は、息子に次のようなことを話しました。

****** 以下、息子に話したこと

子どもの頃は本当に大変だったんだよ。もっと大変な子供時代を送った人もいるだろうけど比較の問題じゃないからね。俺がどれほど苦しかったかは誰にもわからないだろうな。そんな苦しい中でよくここまで頑張ってきたなって自分で思うもの。そうした思いが強い分だけ親父を恨んでいたのかも。あからさまにそう感じていたわけじゃないけど。親父が死のうとしているのに喪失感というものがないのは「オヤジへの恨み」があるからじゃないかってつい最近まで思ってた。でも、今はそうではないかもって感じるようになってきたんだ。ほら、以前、親父は君たちに「お前たちのお父さんはすごい人なんだぞ」って何度も言ってたでしょ。何度も何度も「すごい人なんだぞ」って。あれって、ひょっとして俺に謝っていたんじゃないかって思うんだよ。親父はこれまで俺をほめたことなど一度もなかった。「頑張れよ」の励ましの言葉さえもね。その親父が君らに繰り返し「お前たちのお父さんはすごいんだぞ」と言うのを聞くにつれて、俺にはだんだん「昔の自分を許してくれ」って親父が謝っているように聴こえてきたんだ。

****** 以上

そういえば、まだ父が元気だったころ、母が昔のとんがっていた頃の父親の思い出話しをすると、父は「昔のことは言わないでくれ」と話しを遮ったそうです。家族に当たり散らしていた若かった頃の自分を思い出すことは、あの親父にとっても辛いことだったのかもしれません。そんな父が、子供時代の苦労や苦難を乗り越えて医者になった私をどう見ていたのか。それを尋ねてみたことはありません。しかし、老いていく父を目の当たりにした私は、その答えが「お前たちのお父さんはすごい人なんだぞ」という父の言葉にあるのかもしれないと思うようになったのです。そうした「すごい人なんだぞ」という言葉は、きっと私に向けられた父親なりの詫び方だったのではないか。私は次第にそんな受け取り方をするようになっていきました。

あれほどきれい好きだった父が、晩年、脳梗塞の影響か、はたまた認知症が進んだからか、ボロボロと口からものをこぼしながら食べるようになりました。いつも手元に布巾を置き、魚も身と骨をきれいに分けて食べていた父が、まるで餓鬼が食べものにしゃぶりついているかのような光景でした。そんな父を見て、私はあきれたように「どうしてこうなっちゃんたんだよ、オヤジ」と笑うと、父もまた私を見てゲラゲラ笑い出しました。私と父につられて母も笑いました。父親をふくめて三人で笑うなんて何年ぶりでしょう。今までなかったことかもしれません。私はなぜかホッとした気持ちになり、「これでいいんだ」と思いながら目から涙がこぼれそうになりました。その涙に父に対するわだかまりが消えていくのを感じていました。

父親がそろそろ臨終を迎えようとしているとき、家族みんなで病室に見舞いにいきました。父親は顎で大きく息をしながら目を閉じています。いよいよその時がやってくるのです。でも、そんな気配を感じながらも病室に沈痛な雰囲気はありませんでした。私も、母も、妹も、家内も息子たちも、みんな淡々と父の最期を迎えようとしていました。私は父のまなじりにたまっている涙をふいてやりました。そして、まばたきもせずにうすくあいている眼を閉じてやろうとぬらしたティッシュをあてると父は「余計なことをするな」というように顔を横にふりました。「まだまだ元気はあるみたいだね」。嫌がる父を見ながら一同が笑いました。ベットに横たわる父を中心に、家族みんなが自宅にいるようなそんな錯覚におちいるほどでした。

その二日後、父は黄泉の国に向けて旅立ちました。父が亡くなったと妹から連絡があり、診療を中断して病院に行くと、すでに母親と妹、家内が駆けつけていました。しかし、彼女たちには笑顔がありました。私は父の亡骸に近づき、顔にかけられた白布をとると父が安らかな表情で寝ていました。私はまだぬくもりのある父の胸に手を当てながら「お疲れさまだったね」と言いました。涙はありませんでした。喪失感もありませんでした。でも、「お疲れさま」という言葉は、私の本当の気持ちでした。私はその時あらためて思いました。父の死に喪失感を感じなかったのは、父に対する復讐だったのではなく、年老いて弱っていく父を見ながら心から「お疲れさま」と声をかけてあげられる素直な気持ちになれたからではないか、と。

人の人生の価値は「長さ」ではありません。ましてや私の父親のように、自分の思い通りの人生を歩めた人の最期はまさに「お疲れさま」です。三十歳の人生にはその人なりの、六十歳の人生にはその人なりの、九十歳の人生にはその人なりの価値があり、すべての人が「お疲れさま」なのです。若い人の死にはやはり「無念」の思いは禁じえませんが、すべての人の死は残された人にいろいろな形で言葉を残していきます。生きるということはそれらの言葉を引き継いでいくということかもしれませんし、また、「死ぬ」ということはそういうことなのかもしれません。人の死は淋しいものかもしれませんが、必ずしも悲しいものばかりではありません。たくさんの死を見送って来た私は、自分の父親を亡くした今改めてそう感じます。

父の葬儀で私は会葬してくれた親族に挨拶をしました。しかし、その途中、私は涙がこみあげてきてしまい、しばらく言葉がでませんでした。でも、この涙は亡父に対してではなく、挨拶に出てきた祖父の行(くだり)に感極まった結果です。以前にもお話ししたように、祖父は私にとって特別な存在です。祖父が亡くなったときのことを思い出すと今でも涙があふれてきます。会葬者の皆さんは、さぞかし私が父を亡くして傷心しているんだろうと思ったかもしれません。目の前で息子ももらい泣きをしていましたし。しかし、その時の私は父を穏やかな気持ちで見送ることができていたのです。泣いてしまったことを恥じながら、葬儀の後で息子達にいいました。「俺もお前たちに『ご苦労さま』って見送ってもらえるよう頑張るよ」と。

涙で途切れ途切れになってしまった挨拶で、私の言いたかったことが伝わらなかったかもしれません。ですから、改めて会葬者のみなさんへの挨拶を最後に掲載します。

 旅だった父に心から「ありがとう」の合掌

 

************ 以下、葬儀での挨拶

【挨拶】

皆さまには、お忙しい中、父・章の告別式にご会葬くださり、ありがとうございました。

また、〇〇院のご導師さまにおかれましては、父の回向のため、遠くから足をお運びいただき厚く御礼を申し上げます。

父は六月二十日、突然、原因不明の心不全となり、病院に入院しました。

主治医の懸命の治療により一時回復しましたが、もともと膵臓に腫瘍があり、口から食事がとれず点滴管理がつづいたことなどで衰弱が進み、十月二日午前九時五十四分、黄泉の国に向けて旅立ちました。

私も職業柄、いろいろな患者さんを見送ってきました。そして、そのたびに悲しさに涙をこらえることができませんでした。下館のおじいさんを見送るときも、おじさん、おばさんを見送るときももちろんそうでした。

しかし、父の臨終の際には、涙があふれることはありませんでした。また、悲しいといった喪失感もあまり湧きませんでした。

私はふと父への想いを振り返ってみました。

若いころの父は、皆さんもご存知のとおり、とても几帳面で、厳しい人でした。家のなかではいつも不機嫌そうにしており、外で嫌なことがあると、必ず家族に当たり散らす身勝手な人でもありました。

父の仕事が泊まりで、今日は家に帰ってこないという日は、子どもながらにホッとしたものです。子ども時代の思い出といえば、こうしたつらいことが多かったのです。

父の臨終に涙がなかったのは、このようなつらい過去があったからだろうか、と考えたりもしました。

しかし、その一方で、あのきれい好きだった父が、晩年、ぼろぼろと口から食べものをこぼしながら食べるようになり、それまで私たちと面と向かって話しをすることのなかった父が、一緒になって大笑いしながら話しをするようになるにつれ、これまで私の心の中に重く沈んでいたわだかまりが徐々に消えていくのを感じました。

父自身もまた、「昔のことは言わないでくれ」と、若かりしきころの自分を思い出したくない様子もうかがえました。

いろいろなことがあったにせよ、晩年、かつての厳しさはなくなり、少しづつ穏やかに、そして、おおらかになっていく父を目の当たりにしました。

そして、いいことも悪いこともふくめて、父の人生そのものは全体として幸せだったのではないか、自分の人生に満足しながら父は旅立つことができたのではないかと思えるようになりました。

私は今、ひょっとしてこの式場のどこかにいるかもしれない父に、心から「ごくろうさま」と言ってあげたい気持ちがしています。

そう考えると、父の臨終に涙がなかった本当の理由は、実はそこにあったのではないか。つまり、これまでのわだかまりをすっかり清算してお別れをすることができると私自身が確信したからではないかと思います。

これからは、私と妹、家内と子どもたち、みんなで力をあわせ、残された母を支えていきたいと思っております。

しかし、私達もまだまだ未熟ものばかりです。親戚のみなさま、ならびに〇〇院のご導師さまにおかれましては、どうぞ今後とも、ご指導いただければ幸いです。

以上、簡単ではございますが、家族の代表としてご挨拶とさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。

 

 

「学び」のすすめ

以下の記事は2018年9月26日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。

******* 以下本文

数年前から歴史を学びなおしています。子どもの勉強にお付き合いすることで始まったのですが、私自身が学校で学んでいたころ、歴史ほど退屈でつまらない教科はありませんでした。昔のことを学んでなにになるのか。ましてや日本に住んでいながら世界の歴史を勉強する意味がまるでわかりませんでした。ですから、歴史を学びなおすまで、日本史の知識などは戦国時代の有名な武将の名前程度でしたし、日本以外の国がどんな歴史を経て今日があるのかという知識はほとんど皆無でした。

しかし、歴史をあらためて勉強してみると、学校でおこなわれている歴史の授業がいかにつまらないものだったかということに気が付きます。子どもたちが歴史を面白く感じない理由はふたつあると思います。まず、子どもたちが「なぜ歴史を学ばなければならないのか」という目的を理解できていない(教えられていない)こと。ふたつ目は、歴史的な出来事が単なる「暗記もの」になってしまっていて、子どもたちの知的好奇心を掻き立てるような教え方になっていない点です。

勉強を教えるときにはそれなりの下準備が必要です。私が子どもたちに勉強を教えるときも、数学では実際に解いてみて、子どもがどこでつまづきそうか、この問題を演習して得られるポイントはどんなところか。そんなことを考えながら予習をします。歴史でいえば、この出来事の背景がどのようなものか。そして、この出来事がどのようなことにつながっているのか。要点を歴史的なながれとして教えられるようにまとめておきます。理科であれば事前にどんな知識を教えておけば理解が深まるかを整理します。

こういう工夫の中にも、子供だった頃に「どのようなことが、どのようにわからなかったか」という自分自身の体験が生きています。子ども時代の私は勉強にはほとんど縁がなく、しかも呑み込みの早い子どもでもありませんでした。ですから、先生や大人の説明を聴いていてもすんなりと理解できることばかりではなく、そうした子どものころのことを思い出すと、子どもたちに勉強を教える際のヒントになったりします。つまり、自分の子ども時代の目線で整理し直すことができるのです。

実は私、北大時代、とある予備校で中学生に理科を教えていました。その予備校では大学生のアルバイトを講師にすることはなく、学士以上の学歴が必要であり、専任の講師以外の多くは大学院生でした。私は運よく一度他大学を卒業していましたので、医学部の学生でありながら学士として予備校の講師をすることができました。ちなみに、医学部を卒業すると「医学士」になりますが、医学士は大学院の修士と同格の扱いを受けます。6年間の就学期間からそうなっているのだと思います。

その予備校の講師に応募したとき、採用試験の前に職員から次のような説明を受けました。「生徒からの人気があれば、時給(この予備校では「口述料」といいます)はどんどん上がります。下がることはありません。時給が下がるときは辞めるときです。なり手はいくらでもいるので」と。ずいぶんと高飛車な話しだと思いましたが、のちに生存競争はそれなりに厳しいものだということがわかりました。「人気」とひと口にいっても、「面白いだけ」でもいけないし、「真面目だけ」でも生徒からの支持は得られないのです。

本当は数学を教えたかったのですが、すでに講師は充足しており、「理科だったら採用します」ということでした。大学を卒業はしたものの、就職もせずにそのまま医学部に再入学した私は親からの仕送りに頼るつもりはありませんでした。なので、他の学習塾にくらべて圧倒的に時給の高かったこの予備校の講師というアルバイトはなににも代えがたい収入源になるはずでした。私は迷うことなく「理科を教えさせていただきます」と返事をしました。そして、週に数コマの中学理科の授業を担当することになりました。

予備校の授業は大変ではありましたがとても楽しい仕事でした。なにせわかりやすい授業をすること以外の余計な仕事が一切ありませんでしたから。授業前に講師室に到着すると、きれいなお姉さんがお茶を持ってきてくれます。そして、チャイムがなると色とりどりのチョークが並べられたケースを渡されます。エレベーターが扉を開けて待っていて、エレベーターを降りると教室の扉を職員が開けて待ってまっていました。そして、授業が終わって講師室に戻れば、おしぼりとお茶が運ばれてくるのですからいうことなしです。

授業のあとに生徒が質問にこなければそのまま家に帰れますし、テストの採点もなければ、部活や生徒指導もない。学校の先生と比べれば、申し訳ないくらいの待遇だったと思います。生徒も、わざわざ自宅から離れたところにあるこの予備校に通うくらいですからみんなとても優秀です。質問に来る生徒の中には、説明をしながらその生徒の頭の中にどんどん知識が吸収されていくのがわかるような子がいたりと、「一を教えれば十を知る生徒」が少なくなかったのでとてもやりがいを感じていました。

とはいえ、その分だけ予備校側の評価には手加減がありませんでした。私たちの授業は教室の隅に設置されたカメラと授業中に首からぶら下げているマイクからの音声で常にモニターされていました。そして、教室の後ろには職員がいてときどきなにかを記入している様子。「生徒の出席率」と「授業中で眠っている生徒の割合」などが記録されていると聞いたことがあります。そして、期末には必ず生徒へのアンケートがあって、生徒からどのくらい支持されているかが数値としてはじきだされます。

生徒の出席状況や授業態度、あるいは生徒からのアンケート結果は、講師ひとりひとりにフィードバックされます。とくに講師になりたての人には職員から授業の進め方に関してアドバイスや忠告などがあり、口述料がアンケートなどの結果をふまえて総合的に決められます。ただ、大人からすればとても分かりやすいと思える授業なのに、まじめすぎて生徒からは不人気な気の毒な先生もいました。中学生とはいっても、1年生のときはまだ小学生みたいなもの。生徒をどう惹きつけるかに誰もが腐心するのです。

幸い私の授業は生徒から好評でした。北大に入学するまでは地元の小さな塾で数学を教えていたこともあり、中学生の授業には「つかみ」と「めりはり」が重要だという体験的な信念がありました。いかに生徒の集中力を高めて授業に入るかは「つかみ」によって。せいぜい20分しか続かない生徒の集中力を復活させるためには「めりはり」が大切なのです。生徒たちのエネルギーが尽きかけていると感じたら、生徒たちの関心を惹きつける話題をふる。このタイミングが重要だということを私は知っていました。

ですから1年もすると、私が担当するクラスの数は増え、その後、私の単科講座も開設されるようになりました。私の単科講座名は「瀬畠のテクニカル理科」。友人たちから「どんなところがテクニシャンなの?」とからかわれましたが、それでも結構な数の生徒たちがこの単科講座をとってくれました。このころの私の口述料は1時間当たり12000円になっていました。そして、医学部の授業もそれなりに忙しくなって来たころ、この予備校の中学理科のテキストの作成も任せられるようになりました。

予備校の講師と医学部の学生のどちらが本業なのかというくらいの忙しさでした。予備校ではなじみの生徒たちもでき、授業を終えてもなかなか質問の列が減らないときもありました。なのに大学ではいよいよ臨床実習がはじまり、提出しなければならないレポートの数も増えていきました。結局、医学部5年生の冬休みで予備校の講師を辞めることにしました。冬休みの講習会のとき、予備校のお偉いさんが来て「医師国家試験に受かったらまた講師をやらないか」と引き留められてちょっとだけ迷ったりしたものです。

こうした経験は、自分の子どもたちに勉強を教えるときに役立っています。と同時に、自分の学習意欲を高めるきっかけにもなっています。歴史を学ぶ面白さも、自らの意志で勉強しないとわからなかったと思います。そうやって歴史を勉強すると、なぜ歴史を学ばなければならないのかがわかってきます。と同時に、学校でならっている歴史がいかにかたよっているか、まちがっているかに気が付きます。本来、なにを学ぶのか(手段)は、どうして学ばなければいけないのか(目的)に規定されるので当たり前なのですけど。

日本の歴史は世界の歴史と無関係ではありません。日本人にはなじみの薄いモンゴルが世界最大の帝国であり、東は今のロシア、西は今のドイツにまで勢力を伸ばしていたということも知りませんでした。オーストリアというヨーロッパの目立たない小国が、実はヨーロッパの盟主として絶大な権力と広大な領地をもっていたことすら知りませんでした。ローマ帝国が東西に分裂していたことも、キリスト教の歴史がヨーロッパの歴史そのものだったことも改めて勉強をして知ったことです。

今の日本や世界が、単なる偶然だけでそうなったのではなく、無数の先達の英知と戦いの結果であることを歴史は教えてくれます。と同時に、これからの日本を、あるいは世界を考えるときに、これまでの歴史を振り返ることがとても大切だということがわかります。とくに私たちが生きているこの日本はまるで奇跡の国であるような言われ方をすることがあります。しかし、日本史や世界史を勉強すると決してそうではなく、数々の必然が結果として積み重って今があることがよくわかります。

以前、子どもに「歴史上の人物で誰が好き?」と聞かれたことがあります。そのとき私は「明智光秀と井伊直弼、そして東条英機だ」と答えました。すると子どもは「なんでそんな卑怯な人が好きなの?」と不思議がりました。私はいいました。「この三人は、自分で調べれば調べるほど『悪者』ではなく、実は日本を救った勇気ある人のように思っているから」と答えました。ここで詳しくは書きませんが、この三人の本当の姿は、よく調べてみるとこれまで多くの人が学校で教えられてきたような人物ではないのです。

大人になってあらためて勉強してみると、勉強って楽しいってことがわかります。今はわかりやすい参考書がたくさん店頭に並んでいて、参考書をパラパラとめくってみるとどんどん興味が湧いてきます。そして、歴史に限らず、有機化学や数学、英語などいろいろな科目を勉強したくなります。こうして勉強してみると、知識が広まるにつれてものの見方(視野)も広がっていくことに気が付きます。知っていると思っていたことが違った見え方をすることもあります。子どものころには気が付かなかったことです。

世の中のフェイクニュースにだまされたり、世論を誘導するために流布される情報に乗せられたりしないためには自分のあたまで考え、自分の手で情報を集めなければなりません。その意味でも学習する態度は重要です。昔は「テレビばかり見ているとバカになる」とよく言われましたが、最近では大手の新聞でさえも信じられないことが明らかになってきました。TVのワイドショーのくだらないコメントに感心するような大人にならないためにも、子どもには「学ぶこと」の大切さを知ってほしいと思っています。

 

徒然なるままに

以下の記事は2018年1月7日に投稿したものですが、最近、この記事へのスパムメールが増えてきましたので改めて投稿し直します。なお、震災時のレジュメの転載部分を除く前半の記事は一部修正してありますのでご了承ください。

******* 以下本文

このブログには努めて政治的なことは書かないようにしてきました。それでも敏感な人にはこのブログを読みながら私の考え方や価値観が鼻につくと思われた方もいるかもしれません。しかし、私は私なりに「イデオロギーによらず、世の中のながれに流されず、自分の手で調べ、自分の頭でなにが正しく、なにが大切かを考える」というスタンスを貫いてきたつもりです。その一方で、他人の考え方にも否定的にはならないようにし、いろいろな政治的スタンスも尊重するようにしてきたつもりでもあります。理想論に走らず、現実から目をそらさず、将来を前向きに考えながら意見を発信してきたとの自負がありますが、それでも人によっては私の言い方(主張の仕方)が独善的だと感じられるかもしれません。

それらを前提に言わせてもらえば、あの豊洲市場移転問題におけるここ数日の動き、あるいは国会で繰り広げられている稚拙な政治ショーには辟易します。あの不毛な騒動を見ながら、「本質的な議論をしろ、建設的で前向きな解決方法を考えろ、責任ある政治をしろ」という思いが込み上げてきます。震災のときの原発事故や放射能の危険性に対する報道もそうでした。国論を二分する課題にぶつかると、日本ではいつも不毛な論争、無意味な批判が繰り返されます。そして、世の中を混乱させ、人々を不安におとしいれるような印象操作があちこちに見られることも。そのたびに「政治や報道という、もっと澄んだ目で、問題を直視しなければならない領域の人達がなぜこうなるのだろうか」と情けなくなります。

以前にも紹介しましたが、あの震災での原発事故発生10日後に、私は「原発事故の危険性、放射能の危険性は冷静に考えよう」と呼びかけるレジュメを書きました。それはパニックになっていた知り合いの医師仲間や来院患者に配るためでした。ほぼ一週間ないし二週間に一度の割合でネットや本で調べてはまとめたことを彼らに発信したのです。このとき、ちまたを駆け巡る情報の多くがいかに不必要に人を不安におとしいれているか、混乱させているかがわかりました。人々が正しい情報を得るのに、マスコミが流す情報は必ずしも役に立たず、かえって人の不安感や不信感をあおり、人心を惑わしていることがよくわかったのです。正しい情報を得るためには、自分の手で調べ、自分のあたまで考えるしかないことを痛感しました。

自分の考えをもち、主張することには勇気が必要です。世の中のおおかたの意見と異なる場合であればなおさらです。それは人から批判され、ときに罵倒されることをも覚悟しなければならないからです。現に、当時、マスコミを通じて盛んに流されていた放射能の危険性にもっと冷静になるべきだと繰り返していた私は「名もなき批判」を受けたことがあります。ある日、私のクリニックのポストに一枚の紙切れが入っていました。そこには「患者の命を守るべき医者が、放射能の危険性にあまりにも楽観的すぎる。恥を知れ」という一文が殴り書きされていました。そんな投書がくるとは思ってもいなかった私はビックリ。「恥を知れ」という言葉が心にグサリと刺さりました。

それでも私はレジュメを書き続けました。当時のレジュメを今読み返すと、多少の間違いや思い込みはあったかもしれません。しかし、自分で言うのもおかしいのですが、全体的に内容は適切であり、ビックリするくらい冷静に書かれていたと思います。「名もなき批判」の投書はその一回限りでした。投書の主がその後もレジュメを書き続ける私にあきれてしまったからでしょうか。それとも私が書き続けたレジュメの内容を受け入れてくれたからでしょうか。いずれにせよ、あのときの世の中のながれに棹をさすような意見を表明したときの「名もなき批判」は、扇動的な情報を流し続けるマスコミの罪深さとともに、情報に翻弄される一般市民の恐ろしさを私の心に刻み付けることになりました。

振り返って今はどうでしょう。相も変わらずものごとの本質とはずれた扇動的な報道が平然となされ、ものごとの本質を冷静に考えようとせずいともたやすく流される市民。そして、そうしたマスコミと世論に流されるような軽い政治のおかげでいろいろな課題が八方ふさがりになっているように感じてなりません。豊洲市場の地下水問題だって当初から冷静に考えれば大した問題ではないことは明らかだったはずです。なのに、あれだけ世の中を混乱させ、人を不安にさせておいて、10か月を経て「豊洲移転」という当たり前な結論に落ち着くというだらしなさ。この問題もまた何年かすれば「あんなこともあったなぁ」で終わってしまうのかもしれません。こんなことを繰り返していていいのでしょうか。

これからあの震災の時に配布していたレジュメを掲載します。このレジュメを読みながら、今の社会のあり方を振り返っていただければと思います。人によっては不愉快な思いをするかもしれません。あるいは、あのときの不安な気持ちが甦ってくる人がいるかもしれません。しかし、当時の私がなにを考え、なにを伝えたかったを読み取っていただければ幸いです。とくに、あのときクリニックのポストに「恥を知れ」とのメモを投函した主には是非冷静になって読み直してほしい。特定の人や特定の考え方を批判するつもりはありません。私がこのレジュメを紹介するのは、ひとえに情緒的にならずに冷静に考えることの大切さを知ってほしいからです。

なお、批判のメイルをいただいても掲載はしませんし、反応もしませんので悪しからず。

 

***************** 以下、2011年3月19日配布のレジュメ原稿
「冷静になってよ」
▼冷静になってよ~く考えてみよう。現在の福島原発で起こっていることを。まず、原子炉はすでに運転を停止しており、コントロール不能な核融合反応が爆発的に起こった「チェルノブイリ」のようには絶対にならない。これについては一部「チェルノブイリが近づいた」などと民衆の不安を煽るようなことを言ったバカな助教(助教授ではありません)がいたし、彼に乗せられた愚かなマスコミもあった。しかし、すでに制御棒が挿入され、安全に停止した原子炉内では暴走して手が付けられなくなるということはない。問題は、原子炉の停止後も崩壊熱を続け、熱を発している燃料棒をいかに冷却するかと言うこと。むろん、冷却がまったくできなければ燃料棒が溶け出し、燃料棒を閉じこめている圧力容器を損傷して大量の放射線が空気中に放出されることもあるかもしれない。しかし、そのような事が仮にあっても圧力容器の材質が燃料棒と混ざって大規模な再臨界にはいたらないだろうとされている。つまり、ウランが溶けて塊となれば中性子が減速するための水がなく、結果として大規模な再臨界にはならないとされている。もちろん、燃料棒が溶け出す事態となれば、確かに一時的には粉じんのようになった大量の放射性物質が空気中に飛散する可能性はある。しかし、これとて一時的なことであり、拡散する中で放射線量はどんどん低くなって、100kmも離れると10000分の1になっていく。重要なのは一時的であるにせよ、人体にどの程度影響するかだろう。体内に吸引してしまう危険性ももちろん考えなければならないから。しかし、放射性物質を吸入する可能性についても、またその放射線量の問題に行き着くのだ。
▼今回の原発の問題で海外に逃げる、という人がいる。しかし、東京-NY間を往復すればそれだけで200マイクロシーベルトの被曝がある。検診で腹部CTをとれば10000マイクロシーベルトの被曝がある。胸部レントゲン写真1枚撮れば100マイクロシーベルト、胃のバリウム検査で3000マイクロシーベルト。これまで検診でこれらを全て受けてきた人はあっという間に13000マイクロシーベルトを超える被曝をしてきたことに。それなのにマスコミが大々的に報道する「1時間当たり2000マイクロシーベルト」に仰天するなんて。そもそもこの値は「1時間ずっとこの線量を浴びていたらという単位」であって、しかも瞬間最大風速みたいなもの。そう考えれば、この値のイメージがいかに拡大されているかということがおわかりいただけるだろう。もちろん安全だなどという気はさらさらない。24時間こんな環境にいたら健康にはよくないかもしれない。しかし、もしそうであってもせいぜい自然界から1年間に受ける2000マイクロシーベルト程度。ちなみに、一度に100000マイクロシーベルトを大きく超える被爆を受けると胎児に影響が出始め、ガンの発生率が健康な人より高くなり始めるとされている。また、生殖腺に一度に1000000マイクロシーベルトを被曝すると急性の放射線障害が出現し、遺伝病が自然発生率の2倍になるといわれ、2000000マイクロシーベルト以上で死亡者が出るとされている。しかもこれは「一度に被曝した場合」の話しですから念のため。
▼要するに、仮に燃料棒の融解と圧力容器の損傷があっても、それなりの距離で離れていて、常に高濃度の放射線量に暴露されていなければ、花粉症対策でおこなうようなマスクとうがい、できれば帽子をかぶって帰宅後は全身の塵と埃をはらえばいい、ということ。燃料棒の崩壊熱も崩壊するものが少なくなっていけば弱まっていく。要は「自然に温度が下がっていくにせよ、あらゆる方法をつかって燃料棒を冷却し、いかに燃料棒の容器が破損しないように時間稼ぎをするか」にかかっている。東電の職員・自衛隊は文字通り命をかけて、その作業に全力を傾けている。感謝こそすれ、怒鳴りつけるようなものでは決してない。とにかく冷却を、というのが結論。楽観的になれ、と言っているのではない。現状を冷静に、そして、客観的に理解し判断すべきだと言っている。この機に乗じて「反原発」の立場に立つ人達は原発の危機を煽ってくる。それは彼らの信念だから当然のことだろう。しかし、それが真実ではない。事実を見極めようとする姿勢が大事だということを国民として肝に銘じておこう。
***************** 以下、2011年3月26日配布のレジュメ原稿
「内部被爆」
▼連日、放射能の危険性をマスコミがあおっている。だから、雨が降っても、どの食品を見ても、すべてが放射性物質に汚染されているように思えてくる。しかし、放射線はこれまでも空から注がれてきたし、食物を摂取するかぎり微量の放射性物質がからだの中に取り込まれている。我々の日常生活は放射性物質とまったく無縁というわけにはいかないのだ。レントゲン写真やCTなどの医療行為を受ければ、その分放射線による被曝を受けている。飛行機に乗って南国へ飛ぶだけでも、そして、その南国で日光浴を楽しんだだけでも人は放射線を被曝している。第一、からだの中ですら結構な量の放射性元素が毎日生じているのを知らない人は多い。重要なのは「どのくらいの被曝を受ければ健康に問題が生じるか」ということ、その一点に尽きる。
▼放射線を体の外から浴びることを「外部被曝」という。その外部被曝による影響をあらわす単位が「シーベルト」。それに対して、放射性物質を体内に取り込んで放射線を浴びることを「内部被曝」という。その放射線の量をあらわした単位が「ベクレル」。食品の内部被曝許容量は、放射線の影響を受けやすい子どもを基準に決められている。なぜなら、放射線は細胞分裂の際に染色体にダメージをあたえ、細胞分裂の盛んな子どもに放射線の影響が出やすいから。大量の放射性物質をふくむ塵が拡散したチェルノブイリ原発事故では、当初、周辺の子供達の小児癌の発生が心配された。しかし、実際には小児の甲状腺癌だけが増えていた(ちなみに20歳以上で被曝した人では癌の発生は増えていなかった)。甲状腺にはヨウ素が取り込まれやすい。その中でもヨウ素131はウランが核分裂する際に作られる放射性元素で、体内に取り込まれると甲状腺にとどまって放射線を出す。でも、半減期が8日間のヨウ素1313ヶ月もすればどんどん減ってゼロに近づく。だから、一度、ヨウ素131で土壌が汚染されても、その影響がいつまでも残るわけじゃない。
▼先日、空中を拡散していたヨウ素131が雨にまじって降ってきた。それが集まってくる浄水場や河川を測定したからそれなりの濃度になった。でも、不安になる必要なし。地面に降り注いだ放射性物質は次第に拡散し、徐々に消えていくから。つまりは水道水の被曝量はいつも同じではない。一度、高濃度となったとしても、必ず濃度は正常範囲内になっていく。しかし、それは報道されない。被曝量が低いことにマスコミは興味ないから。水道水の放射性物質汚染については日本産婦人科学会が見解を出した。水1リットル当たり200ベクレル前後の軽度汚染水道水を妊娠期間中毎日1リットル飲むと仮定すると、その人が被曝する総量は1232 マイクロシーベルト。胎児に悪影響が出るのは50000 マイクロシーベルト以上。万がいち胎児が100000500000 マイクロシーベルトの被曝を受けても胎児の奇形は増加しない。結局、現時点で妊娠中・授乳中女性が軽度汚染水道水を連日飲んだとしても、母体ならびに赤ちゃん(胎児)に健康被害は起こらない。
▼とはいえ、こうも毎日放射能の話題が続くと「安定ヨウ素剤」を飲みたくなる人が出てくる。でも、ちょっと待て。この薬は被曝の24時間前あるいは被曝直後の服用が原則。おまけに服用して1週間もすれば効果がなくなる。日本人はもともとヨウ素を含む海草の摂取量が多く、ヨウ素131の影響を受けにくいとされる。だから、パニクって安定ヨウ素剤を飲んでも無駄。ましてやうがい薬などを飲めば有害なだけ。「あわてる何とかはもらいが少ない」とはまさにこのこと。発表される内部被曝量も、外部被曝量と同様に「最大瞬間値」。すぐに下がって問題なし、となる。高濃度の放射性物質に毎日24時間さらされているならまだしも、そんな環境は原発事故現場周辺でしかありえない。ましてや230kmも離れた我孫子では。冷静になろう。市販の水は影響を受けやすい乳児へ。子どもは国の宝。大人のあなたが先を争って水を買いに行く必要はないし、そうすべきでもない。
***************** 以下、2011年4月7日配布のレジュメ原稿
「炉心融解」
▼史上最悪ともいわれるチェルノブイリ原発事故では、核分裂反応がコントロールできなくなり暴走した。そして、超高温となって溶解した核燃料が原子炉を溶かして外部に漏れ、大量の放射性物質を土壌や大気にまき散らした。「炉心溶解(メルトダウン)」という言葉はこの事故によって広く知られるようになった。テレビ等での解説を聞いていると、この「メルトダウン」と「核燃料の溶解」を同じようにあつかっているが、あれは誤解や無用な不安を生む。「メルトダウン」と「核燃料の溶解」とは意味が違うからだ。炉心溶解とは臨界により超高温となった核燃料によっておこる炉心構造体(つまり、圧力容器や格納容器)の溶解のこと。つまり、単に核燃料が溶解したからといってメルトダウンになるわけじゃない。
▼核燃料に中性子を当てると核分裂が起こる。このとき、新たに中性子が発生するが、この中性子が新たな核分裂を引き起こす。核分裂と中性子の発生の量がねずみ算式に増えて次々と核分裂を引き起こした状態が「臨界」。ところが、その核分裂を引き起こすには中性子を減速させる必要がある。この減速の度合いを調節するのが中性子の吸収材でできた制御棒。原発ではこの制御棒を核燃料の間に抜き差しし、臨界状態をコントロールして核分裂時の莫大なエネルギーを発電に利用している。福島原発はM9の地震発生時に自動的に制御棒を核燃料の間に挿入して運転を完全に停止している。したがって、現在、原子炉の中にある核燃料はもはや臨界にはないし、制御棒が外れない限り再臨界はない。水はこうした中性子を閉じ込める働きをするが、同時に反射材としても機能する。99年の東海村の事故では核物質の臨界を防ぐ形状をした容器での作業を怠り、核分裂の頻度が高くなる形状の容器で作業。しかもその容器のまわりに置かれた水が中性子の反射材として作用してしまったために再臨界に達した。
▼要するに、簡単に「メルトダウン」といっても、核分裂反応を抑制する制御棒が炉心の核燃料集合体の中に完全に挿入されて運転が停止している福島原発ではそう簡単におこらない。炉心溶解がおこるためには再臨界がおこって爆発的な核エネルギーが生じることが前提となる。福島原発では燃料棒が一時的に水から露出し、再び水をかぶったため破損していると考えられている。そして、燃料棒内のウランの塊(ペレット)が水中に散らばって塊となっている。そして、そのペレットの塊は崩壊熱によって一部は溶解しているが、臨界が起こっていないため、その核燃料の塊の温度は圧力容器の材質の融点よりも低い値にとどまって炉心の溶解はないとされている。ただし、燃料棒が毀損している以上、圧力容器内の水には燃料棒内でできた放射性物質(ヨウ素やセシウム、プルトニウムなど)が大量に混入している。これがおそらくタービン建屋内の放射能汚染を受けた水と関連がある。今、福島原発で問題になっているのは、再臨界や炉心融解のことというよりも、多量の放射性物質が外部に漏れ出ていることそのこと。冷却を継続しないと放射性物質がさらに拡散するから。
▼以前、福島原発敷地内で中性子が検出された。これを再臨界によるものだとする意見もある。しかし、もし再臨界に至っているとすれば中性子がもっと大量かつ恒常的に出てくるはず。不安定なウランは自然に核分裂する(これを自発核分裂という)。現時点での中性子線に関する報道を見る限り、検出された中性子線は微量であり自発核分裂によるものとして矛盾はない。そもそも、福島原発では制御棒が挿入されているうえ、燃料棒が臨界のおこる間隔より狭く並べられ、中性子の減速剤である水に満たされている。再臨界にならない条件がそろっている。もし、水がなくなったとしても臨界に必要な「中性子の減速」がおこらないため核物質は連続的に分裂しにくい。ただし、水がない分だけ今度は中性子が飛んでくるが、それはそれで問題ではある。
▼以上のことから、福島原発では現時点でメルトダウン(炉心溶解)には至らない。結局、大量の放射能をまき散らす状態、つまり、核燃料が格納容器を破って外部に漏れる事態にはならない。問題は冷却水をいかに保つかという点にかかっている。とはいえ、あとで炉心が溶解していたことが明らかになるかもしれない。想定外はいつでもあるから。それでも、現在の情報を総合し冷静に分析すれば安心できる材料の方が多い。
***************** 以下、2011年4月14日配布のレジュメ原稿
「福島とチェルノブイリ」
▼福島原発事故が国際評価尺度の「レベル7」に引き上げられた。これはチェルノブイリ原発事故のレベルに相当する深刻な事態だとマスコミは騒いでいる。だからといって、福島での原発事故がより深刻になったわけじゃない。炉心が吹っ飛び、一気に大量の放射能を大気中にまき散らしたチェルノブイリ原発。炉心から放射能汚染水がダラダラと漏れている福島原発。「レベル7」になったのも、放出された放射性物質の量がレベル7の基準である数京ベクレル(数万兆ベクレル)を超えたから。原子力安全・保安院の推定で福島原発からは37京ベクレル(原子力安全委員会では63京ベクレルと推定)の放射性物質が放出されたという。しかし、チェルノブイリ原発事故はその10倍、しかも、たった2週間の間に放出されたのだから驚きだ。
▼チェルノブイリ原発事故では実験操作のミスで制御棒で核反応を止めることができなくなり暴走。圧力容器の圧力が異常に高まって爆発。1000tもある蓋を、そして冷却系の配管を吹っ飛ばした。そして、水がなくなり、冷却すらできなくなってさらに核反応が高まり、炉心溶解(メルトダウン)と二度目の爆発。炉心に流入した酸素によって火災を起こし、370京ベクレルもの放射性物質を世界中にばらまいた。結局、炉心に中性子の減速材である鉛やホウ酸を大量に投下して2週間ほどで核反応が収束。6ヶ月後に大量のコンクリートで固めた「石棺」が完成した。よく、「チェルノブイリが27年間で370京ベクレル、福島は1ヶ月で37京ベクレル。だから、福島の方が深刻」なんて煽る人もいるが、それは大きな誤り。チェルノブイリは約2週間で370京ベクレル。福島では1ヶ月で37京ベクレル。圧倒的にチェルノブイリの方が大事故だった。IAEAの事務次長も「福島原発事故とチェルノブイリとは別物」と会見でのべている。量的には「レベル7」であっても両者には雲泥の差があり、質的にはまったく異なる事故。
▼よく「原発の安全神話が崩れた」などというが、こんなものいわゆる「想定」の中での「神話」でしょ。科学とは経験を弁証法的に理論化したものだから、経験を超え、理論で予測しえないものを予言するのは無理。先日の国会質疑で、原子力安全委員長が「福島原発事故は想定外」と発言すると、議員席から「その想定が間違っていたんだろっ!」と下品な野次が飛んだ。科学的に想定しえないものの責任を取れといわれてもねぇ。「想定外」と「想定が間違っている」の違いもわからぬ頭の悪い議員にはあきれるばかりだが、福島原発付近ではチリ地震のときの4m弱の津波が最高記録。その記録をふまえて最大波高を5.7mと想定し、防潮堤を設置した上で10mの崖上に原子炉を建設したのに16mの津波が来た。そんな津波が来ると想像した人など誰もいない。「それを想定するのが専門家」などと簡単に言わないでくれ。専門家・科学者だからこその「想定外」。「絶対的な安全性」を強いられて、東電が苦し紛れに「想定内では安全」と言ったことを信じる方がおかしい。というか、みんなこんな神話など信じていなかったくせに。
▼飛んでくるわずかな放射能に大騒ぎしたのはついこの間。今度は「実は炉心溶解しているのを政府は隠している」なんて言っている人も。いくら詮索しても不安になるだけ。なんの役にもたたない。でも、福島原発事故が重大な事故であることにはかわりない。今でも放射性物質が冷却水に混ざって漏れているのだから。だからといって煽られるなんて馬鹿げてる。現時点で空気中に放出されている放射線量は極めて微量であり、これまで放出された放射性物質も日を追うごとに減少。「原発事故の深刻さに煽られるな」と繰り返しているが、「楽観的になれ」とは言ってない。よもや「今回の原発事故は深刻じゃない」などと言っているわけでもない。現状をできるだけ冷静に見て、正しい判断をしようということ。この一点だけ。
***************** 以下、2011年4月21日配布のレジュメ原稿
「放射能の危険性」
▼あまりにも楽観的なことばかりで恐縮だが、今回はちょっとだけ学術的なことをお話ししよう。科学とは客観的な事実(これをエビデンスという)を積み重ね、さまざまな現象を理論化・体系化して想定や予測をおこなう。したがって、エビデンスのない事実については何も語れないし、語るべきでもない。だから、「放射線は危ない」という誰もが疑わないことでさえも、きちんとあエビデンスで考えなければならない。
▼チェルノブイリ原発事故は、今、福島原発で進行中の事故をはるかに上回るほどの深刻な事故。しかし、その事故が周辺住民にどのような影響を与えたかを「エビデンス」という観点から見るとどうなるだろう。実は、事故から20年後におこなわれた国際会議で「いくつかの例外を除いて地域住民に癌の発生や死亡率の上昇を示す科学的証拠は見つからなかった」と報告された。つまり、周辺住民への健康被害は限定的だったのだ。でも、その例外とは何か。それは、事故処理にあたり大量の放射線の被曝を受けた人達と、汚染されたミルクを飲み甲状腺に被曝を受けた乳児。事故処理で大量に被曝し急性放射線障害を受けた人は273人。うち、死亡した人は20年間で47名だった。また、汚染されたミルクを飲んだ乳児は数万人。そのうち4000人ほどが甲状腺癌になった。しかし、その99%以上は治療が可能であって治癒。それ以外の健康被害は、癌をふくめてそのほとんどが証明されなかった。これが科学的事実。
▼今、「放射能は危険」とする根拠として用いられているのが広島・長崎の原爆被害の結果。爆心地で大量の放射線被曝を受けた人達に健康被害が出たことは周知の事実。しかし、日米共同研究では「低線量の被曝では癌の発生リスクはほとんどない」という結果が出た。ならばどこからが「低線量」なのか。それが難しい。なぜなら、「放射線量がゼロから増えるにしたがって正比例で健康被害がでる」という簡単なものではないから。今、もっともらしい指標に「1シーベルト(1000000マイクロシーベルト)=5%が死亡」というモデルがある。でも、これに従えば、人間ドックに行って胸部レントゲンや胃のバリウム検査、腹部CTを撮り、1000マイクロシーベルトの被曝を受けているとどうなるか。年間300万人が人間ドックを受診しているらしいから、もし「1シーベルト=5%死亡」という指標が正比例で成り立つとすれば「300万人×5%÷1000150人」もの人が死んでいることに。これってホント?原発より恐ろしいじゃないか。
▼一方で、飲み込まれたり、吸い込まれたりして、体内に長期的に存在し続ける放射性粒子(「ホットパーティクル」という)こそが本当に危険、という説もある。でも、放射性ヨウ素は1ヶ月もすればゼロになる。放射性セシウムにしても、カリウムやナトリウムと同じ種類の金属なので体から排出されやすく、生物濃縮はないとされている。政府は年間10ミリシーベルト(10000マイクロシーベルト)以上の放射線を浴びる学校での野外活動を制限した。その根拠は毎日8時間もの間3.8マイクロシーベルトの放射線をずっと浴びる量だそうだ。そんな学校どこにあるのだろう。少なくとも、今となっては20km圏内の学校でもなければそんな場所はない。
▼要するに、今、騒いでいることの多くには実は「エビデンス」がない。しかし、「エビデンス」がないから安全だということじゃない。「悲観的なエビデンス」がないのだからもう少し冷静になろう、ということ。こんな風に楽観的に言われるとかえって信じられないって?でも、これまで書いてきたような「これまで炉心溶融(核燃料の溶融はあっても圧力容器は破壊していない狭義のもの)に至っていない」「冷却が今後も続けば炉心溶融にはならない」とそっくり同じ事を官房長官が認めている。ほら、この官房長官の発言で「楽観的なエビデンス」がひとつ増えたじゃないか。煽られて悲観的にばかりなっていたら損ってこと。
***************** 以下、2011年5月17日配布のレジュメ原稿
「正しく怖がる」
▼地震直後の福島原発の状況が少しずつ明らかになってきた。そして、一部の原子炉の炉心が早い段階で「カラ炊き」状態になって、核燃料が溶けて圧力容器の底にたまった状態になっていたようだ。また、圧力容器のどこかに穴があき、そこから高濃度の放射性汚染水が漏れ、格納容器の損傷部分から外部へ流れている可能性が指摘されている。
▼これらの状況が「メルトダウン(炉心溶融)」として新聞やテレビで報道されている。しかし、国民は思いのほか冷静にこれを受け止めている。新聞の見出しの大きさにも関わらず、以前のようなパニックにはなっていない。このことこそがとても重要。地震直後の福島原発が、実はきわめて緊迫した状況だったことは限られた人だけが知っていた。これを情報の隠蔽だと批判する人もいる。しかし、あの騒然とした状況にあって、馬鹿正直に「メルトダウン」などと発表すればまさに「火に油」。それでなくとも混乱していた世の中は間違いなくパニックになっていたはずだ。要は、あのときにその情報を発表するメリットがあったかどうかだ。46日付けで広報した当院のコラムのタイトルは「炉心溶解(メルトダウン)は起こらない」だった。実際には定義からいえば「メルトダウン」になっていた。だから、このタイトルは誤りだったことは認めざるを得ない。しかし、問題はこの「メルトダウン」でなにが起こったか。さらに言えば、「メルトダウン」でどのようなことが起こりそうだったのか、ということ。そこを検証すれば、今回、福島原発の原子炉にメルトダウンが生じていたことの本当の意味が見えてくる。
▼では、今回のメルトダウンでなにが起こったのだろう。原発周辺の地域は今だに放射能汚染による健康被害が懸念されている。しかし、現在、30km圏内を除いて放射能による健康被害を心配しなければならぬほどの大きな影響は出ていない。地震直後の放射性物質の飛散は遠く首都圏までおよんだが、これは原子炉の水素爆発によるものであり、メルトダウンによるものではない。その後の放射性物質飛散の問題は沈静化しているし、今は原子炉から漏れ出る放射能汚染水のみが課題となっている。この漏水の原因にメルトダウンが関係しているかもしれない。しかし、チェルノブイリ原発事故のような深刻な状況にはなっていなかったし、今後もそうなることはない。では、チェルノブイリ原発事故のごとき深刻な状況とはどんなものか。それが「再臨界」の問題。再臨界とは核燃料の中で爆発的に核反応が増えていく状態。こうなれば膨大な核エネルギーによる熱を発生し、核反応で生じたおびただしい量の放射性物質を空気中に吹き上げる。しかも、この反応をコントロールする制御棒がないとなれば、まさにコントロール不能な状態になる。チェルノブイリ原発事故でのメルトダウンはまさにこのような状況だった。
▼しかし、福島原発は全く違う。地震直後に炉心では核燃料棒の間に制御棒が挿入されて原子炉は安全に停止していた。しかも黒鉛型だったチェルノブイリと違って再臨界しにくい設計となっていたこともあって再臨界はおこらなかった。そして、冷却水の注入が続けられた原子炉の温度は順調にさがり、地震直後から「カラ炊き」になった1号炉でさえも核燃料のほとんどが原子炉内にとどまっている。要するに、福島原発でも「メルトダウン」は起こっていたかも知れないが、チェルノブイリとは本質的に異なるということ。それはあたかも、福島原発事故の国際評価尺度がチェルノブイリ並の「レベル7」に引き上げられたが、「チェルノブイリ並の深刻さ」とは質的にも量的にも異なるということと同じ。言葉そのものではなく、その言葉の意味するところを客観的な情報に基づいて判断することが大切。放射能汚染水の問題はこれから徐々に深刻さを増してくるかもしれない。しかし、それとて確かな情報をもとに、その深刻さを冷静に見極めるべき。つまりは「正しく恐がる」ことがなにより重要だということ。

 

「裏口」のウラ

東京医科大学でおこなわれた「裏口入学」のことが話題になっています。昭和40年代に医師不足を解消するために医科大学や医学部が次々に新設されたころ、こうした私立医大の「裏口入学」の問題は「入試での総得点が30点でも合格」などという見出しで新聞報道されるほどに社会問題化した出来事でした。そのころをよく知っている私からすれば、この「裏口入学」は昭和という時代の香りがする懐かしい話題です。

私が高校生のころ、何人かの同級生が当時の新設された医学部や医大に入学しました。彼らからは、入試のとき面接官に「君の成績だとこのぐらい(の金額)になる」と指で寄付金の額を提示されたとか、「君のお父さんの収入で六年間学費を払うことができるかな?」と言われたという話しを聞かされましたが、当時は、私立なんてそんなものだろうと思っていましたから特段驚きはしませんでした。

あの頃の受験票には堂々と「本学を卒業した家族や知人の名前と卒業年度」を書く欄があったりしましたし、「どこどこ大学は同窓生の子弟を優先的に合格させる」なんて噂も広まっていました。医学部受験専門の予備校に裏口入学のブローカーがいるなんてこともまことしやかに言われていて、現に開業医の親を持つ同級生がそこに通って私立医大に合格していました。昭和ってそういう時代でした。

でも、なんとなく「まだあんなことがあるんだろうな」とは思っていたことが、平成になった今もなかば公然とおこなわれていると聞きいて「まさか?ほんと?」って感じがします。しかし、よくよく考えてみると、二次試験の面接などというあいまいな制度はこうした合格操作をおこなう温床にもなるわけで、どこの私立大学でも密かにおこなわれていても不思議ではないのかもしれません

最近の「女子受験生の合格調整」の話しだってずいぶん前から噂されていたことです。とある大学では、きっちり成績順に合格者を決めてしまうと女子学生が全体の六割を超えてしまうとのこと。そもそも女子学生は外科系に進む者が少ないので、外科系の診療科によってはこれは死活問題です。入局者が少なければ関連病院にも医者を派遣できませんし、そうなると地域医療を維持することも難しくなるのです。

だからこそ男子学生に加点して合格者の調整をするのです。こうした事情は医者であれば誰でもがうすうす気が付いていたことです。東京医大で「合格調整」がおこなわれていると聞いてもとくに驚きませんでしたし、だからこそ女医もふくめて多くの医者がこうした事情を「やむを得ないもの」として理解を示しているのです。ましてや、女性蔑視とか差別の問題だと考えている医者はおそらく少数派です。

私個人は、私立大学なのだからある程度のこうした合格者の調整がおこなわれてもいいと思っています。あのハーバード大学でさえも有力者や大金持ちの子弟が優先されていることは有名です。アメリカは完全な私立大学であり、日本のように私立大学にも税金が投入されているケースと同列には語れないと思いますが、それでもプライベートスクールにはそれぞれの特別な事情があっても仕方ありません。

今回の東京医科大学の問題は、文科省の補助金との引き換えでおこなわれた「不正」であり、逸脱した不透明な「不正」であったことが問題なのです。むしろ、「この金額の寄付金を支払えば何点加算」だとか、「有力者の子弟を優先させて合格させる枠は何名」だとか、「男子何名、女子何名をそれぞれ募集」いうように、合格の基準を明確に公開すればいいだけの話しだと思います。

ただし、学力以外の要素を重視して入学者を増やせば、求められる学力を満たさない学生も多くなります。そうなれば大学の質を維持することもまた難しくなるという問題も生じます。とくに医学部は入学後の学習意欲がものをいうため、学力の低下は大学の質の低下に直結します。つまり、在学中の試験や実習、あるいは、医師国家試験での落伍者を大学は覚悟しなければならないのです。

その一方で、医学部の学生の質は入学時の学力だけでは決まりません。所詮は数学や物理ができたところで優秀な医者になれるわけではないのです。これまでもブログに書いてきたように、「医者になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということと「医学部に入りたい」ということは必ずしも同列には語れません。医者になるという点においては、入学するときの学生の偏差値などはなんの関係もないのです。

今回の「裏口」に関しては「一生懸命に勉強をして医学部に入って来た学生が可哀想」という意見があります。しかし、極論をいえば、「ろくすぽ勉強もせずに医学部に合格したとしても、入学してからしっかり医学を勉強してくれればいい」のです。むしろ大学は「入試の偏差値が高い学生」よりも「入学後にしっかり学習してくれる学生」がほしいというのが正直なところかもしれません。

「親の経済力の差が不平等を生むのはけしからん」という意見も耳にします。でも、経済的に私大に行けないのであれば国立大学を選択すればいいのです。国立と私立の学費格差がときどき問題視されますが、私立にいく経済的余裕がない人のためにあるのが国立大学。その意味で、国立と私立の学費の格差を解消することはむしろ教育の平等をそこねると思います(国立大学の学費を値上げするための方便なのです)。

ある私立大学の医学部に合格すると、入学時に900万円ほどのお金がかかり、その後も毎年500万円あまりの学費がかかります。しかし、国立であればたとえ医学部であっても入学時に80万円ほどで(私のときは30万円もかかりませんでした)、その後の学費は50万円あまりと私立の十分の一です。お金がないなら国立へ。経済的に余裕があるなら私大へ。平等ってことはそういうことだと思います。

2020年度から大学入試制度が大きくかわります。「学力だけでなく、人間性や適性を考慮した入試」にするのだそうです。しかし、人間性や適性を誰が評価するのでしょう。どのように評価するのでしょう。そう考えると、公平かつ客観的に評価できないもので選別されるなんて私はごめんです。入試は学力試験の点数で選抜すべきです。そうでなければ国立でも今回のような「不正入試」の温床になります。

憧れる大学だからこそ挑戦しようと思うのです。そして、努力に努力を重ねてようやく入学できた学校だからこそ愛校心をもてるのでしょう。たとえその努力が合格という形で実を結ばなくとも、「実力が足らなかった」と納得できることが大切。にも関われず、「人間性や適性」などというあいまいでくだらない評価基準に満たなかったからという理由で合格できなかった場合、受験生は納得できるでしょうか。

文部行政はどうかしています。「ゆとり教育」で日本の教育をめちゃくちゃにして、今度は国語教育をおろそかにしておきながら英語やプログラミング的教育を小学校に導入、だそうです。ガールズバー通いを叱責された事務次官にいたっては「面従腹背」がモットーなんだそうで、天下りあっせんの責任を取らされて辞めさせられたのを逆恨みして倒閣運動、なのですから。子どもたちに道徳を教える以前の問題です。

一方で、マスコミは事実を淡々と報じるべきです。また、事実を深く掘り下げて報道するべきです。なのに、報道ときたら世の中を煽るだけの薄っぺらなものばかり。今回の「裏口入学」や「合格者調整」に関しても、どこが、どう問題なのかさっぱりわかりません。マスコミに煽られ、感情的になって「けしからん」と断罪するのではなく、社会現象の「ウラ」に隠れている本質を見ようとする目を持ちたいものです。

熱中症になった

先日、私は熱中症になってしまいました。実は、熱中症になったのはこれで二度目で、この二回の経験を通じて感じたことがあったのでご報告します。

はじめて熱中症になったのは今から5年ほど前のこと。夏休みを利用して家族で日光に旅行した時のことでした。本当に久しぶりの日光でしたから、東照宮の奥宮にある徳川家康のお墓にお参りにいこうということになりました。その場所までは長い山道をしばらく歩き続けなければなりませんでした。当時、長男はまだ小学生でしたし、次男も小学校にあがるかあがらないかのころ。次男はいかにも体力がなさそうにガリガリやせていて、家康の墓まではとても耐えられなさそうに見えました。

子どもたちがその途中で「帰りたい」などと言い出すと厄介だと思ったこともあり、次男を私がおぶっていくことに。まだまだ軽かった体重を背中に感じながら黙々と階段と坂道を登り続けました。はじめはそれほど暑いとも感じませんでしたが、軽かった次男の体重がずっしりと感じるようになるころには私の額や脇の下からは汗がにじみ始めました。「いい運動だ」とたかをくくっていたのもつかの間、やがて私の全身から汗が噴き出す頃になるととても子供を背負ってはいられなくなりました。

途中で次男を下して歩かせるようになると、身軽になった勢いでついペースをあげてしまいました。汗は相変わらず噴き出すようにながれでています。しかし、息はそれなりに荒かったものの、さほどきつくは感じませんでした。ところが、あと十数段の階段を登れば目的地というところで急に全身が思ったように動かなくなりました。しかも、生あくびと共になんとも言えない嫌な感覚(軽い嘔気というか、倦怠感というか、脱力感といった感じ)に襲われました。

私はたまたま目の前にあった岩でできたベンチに倒れ掛かるように横になりました。直感的に熱中症だと思い、水分補給もせずに黙々と登って来たことを後悔しました。「冷たい飲み物がほしい」と思いましたが、そんな私を置いて家内や子供たちは先に行ってしまいました。助けてくれる人は誰もいません。幸い意識は保たれていましたから重症ではないことはわかりました。こうした苦しい状況はたった数分だったでしょうが、私にはものすごく長く感じたのでした。

顔をしかめながら息を荒げていた私も、家内たちが家康の墓にお参りにいって戻ってくる頃にはなんとか動くことができるようになっていました。「だいじょうぶ~?」と笑いながらのぞきこむ家内たちに私は笑顔でうなづくのがやっと。それでも濡らしたタオルをわたされて額や首のまわりをぬぐうと少し起き上がれるようになりました。「無理してマサをおんぶなんかするからだよ」と家内は笑っていますが、この尋常ではない熱中症の辛さは経験したことのない人間にはわからないだろうな、と思いました。

そして、先日、二回目の熱中症になりました。その日は年に一度の人間ドックの日。前日の夕食時から、食べものはもちろん水分でさえもほとんどとらずにいました。検査当日の朝、コップ一杯の水は飲みほしたものの、すぐに検査にでかけてしましました。ひととおりの検査をして、最後に胃の内視鏡検査が終わったとき、少しのどの乾きを感じていました。でも、のどの麻酔がまだ効いていたせいもあって水分をとらないままに検診センターをあとにしたのでした。

健診センターを出て最寄りの駅につくころにはもううだるような暑さ。それでも健診が終わった開放感もあったからか、水分補給をしなければという発想はまったくありませんでした。しかも、それまでのダイエットの成果もあって、健診で測定した体重はこれまでで一番低い値になっていました。私は「いい運動だ」とばかりに自宅まで徒歩で帰ろうとしました。それが悪かったようです。暑い、暑い、アスファルトの上をテクテクと歩いて25分。その角を曲がればすぐに自宅というところで体に変調が生じました。

額といわず、脇の下といわず、全身の毛穴から汗が噴き出してきたのです。と同時に、5年前の日光で感じたあの嫌な感覚と息苦しさが私を襲いました。私はとっさに「熱中症だ」と思いました。しかし、あと10mで自宅の玄関というところで全身の力が急速に抜けていくのを感じました。明らかに日光のときよりも重症です。私は「家の中に入ればエアコンの涼しい風が待っているんだ」「冷たいコーラを飲み干すぞ」と自分を励ましながらなんとか自宅にたどり着きました。

私は部屋に入るなり、倒れるようにしてエアコンの風の当たる場所に横になりました。家内がびっくりして私の顔をのぞき込んでいます。私はかすれる声で「冷たいポカリスエットを2杯ちょうだい」といいました。そして、家内から冷たいポカリスエットの入ったコップを受け取ると一気に飲み干しました。そして、エアコンの冷たい風で体を一気に冷やさぬよう、家内に靴下とズボンだけを脱がしてほしいと頼みました。寝ていた床は汗でびっしょり。そうこうしているうちにポカリスエットが効いてきました。

日光のときもそうですが、汗がひいてくるにつれてだいぶ楽になっていきました。冷たい風で直接皮膚を増やしてはいけないことを知っていたので、上半身は肌に直接ではなく、服の上から冷風をかけていました。少し体を動かせるようになったのでシャワーをあびることにしました。体全体がとても重く感じました。筋肉の痛みやこむら返りはありませんが、熱けいれんのせいでそう感じるのだと思いました。そして、いつもよりも少しぬるい程度の暖かい温度にしたシャワーを全身にかけながら体を少しづつ冷やしました。

シャワーから出るころにはほとんどいつもの体調に戻りました。そして、これまでを冷静に振り返ることができるようになっていました。これは明らかに水分や塩分の補給を怠ったまま暑い道のりを歩いて帰って来たためにおこった熱中症です。それにしても、熱中症がこれほど急に重症化するとは思ってもいませんでした。道すがら、私にはなにかキツさを我慢して歩いてきたという感覚がまったくないのです。体調が変だなと思った途端、急に事態が悪化していったのです。これは私にとってとても貴重な経験でした。

これまで私は、「熱中症によって畑で死亡」というニュースを聴きながら、「なんでそんなになるまで我慢するのだろう」と思っていました。しかし、今回の自分自身の経験から考えると、熱中症で死亡した人たちの多くも「我慢していた」という意識はなかったのではないかと思うのです。「ちょっと変だな」と思っているうちに急速に状態が悪くなり、炎天下で体が動かなくなって倒れこんでしまったのではないでしょうか。今回の私の経験は熱中症で重症化した人たちにも共通していたのではないかと思います。

私の父も、以前、炎天下に家族の忠告も聞かずにジョギングに行き、道で倒れて病院に救急搬送されました。きっと私と同じように突然力尽きたのでしょう。こうしたことを是非皆さんにも知っていただきたく、今回、ブログに記事にしてみました。

要点をまとめますと・・・、

●熱中症は「水分」と「塩分」の不足よっておこる「体温調節障害」である
●発汗が多くなるような環境、あるいは体温が上昇する環境に長時間さらされると生じる
●熱中症は突然症状が悪化する(決して我慢しているうちに悪くなるわけではない)
●「熱中症かな?」と思ったら直ちに「冷たい水分を飲む。塩分も適宜とる」
●万が一、変調を感じたら、ただちに涼しいところ(かつ湿度の低いところ)に避難する
●冷たい風や冷たい水を直接皮膚に吹き付けない(かえって体の深部に熱がこもるから)
●意識がないとき、はっきりしないときはすぐに救急車を呼ぶ
●湿度の高い環境においては扇風機では必ずしも体温はさがらず、熱中症を予防できない

熱中症の危険性が高い季節です。「冷房は嫌い」だとか「冷房はもったいない」なんて言っている場合ではありません。寒く感じることと体温が上昇しないということは必ずしも同じことではないのです。少なくともエアコンの除湿を利用して室内の湿度を下げること。できれば冷房を併用して室温をさげるように心がけてください。熱中症は決して「我慢しているうちに徐々に重症化する病態」ではないのです。ましてや暑い環境の中で我慢をしても体は鍛えることはできないことを知ってください。

気楽に行こうぜ

この記事は2016年11月20日に投稿されたものですが、最近、この記事にスパムメールが多数送られてくるようになったため、改めて投稿しなおします。なお、元原稿のタイトルは英語でしたが、今度はこの英語のタイトルを頼りにメールを送ってくるようになったので日本語にしました。

********* 以下、本文

このブログを読んでくださっている方はすでにおわかりだと思いますが、私はおさないころから少し変わった子どもでした。テレビっ子だったとはいえ、子供番組よりも大人が見るようなドラマが好きでしたし、子ども同士でわーわー遊ぶよりも一人で遊ぶことを好む子供らしくない子どもでした。今でもはっきりおぼえているのは、私が小学校に上がる前のこと。なにげなく見ていた新聞の大見出しの文字をまねて字を書いてみた私はなにか新聞の見出しと違うことに気が付きました。「なにが違うんだろう」。そう思った私は自分の書いた文字列と新聞の大見出しを何度も比べてみました。そしてついに気が付いたのです。私が書いていた文字列は漢字だけだったということに。当時は漢字もひらがなも同じ文字に見えていたのかもしれません。そこで今度は漢字とひらがなを適当に混ぜて書いてみました。すると今度は新聞の大見出しのように見えてきてすっきり。そんなことをひとりでやっているのが好きな子どもでした。

ですから、友達と遊ぶこともそれほど楽しいとも思いませんでした。たまに私の家に友達が遊びに来ても、友達は友達だけで遊び、私は自分の興味のある遊びをしているということがしばしばありました。親戚の家に行って「みんなでトランプをやろう」と誘われても、興味がないものには「僕はやらない」といって見物するだけということもあったり。親には「みんながやるときは一緒にやらなければだめじゃないか」といわれましたが、やりたくもないことをなぜやらなければならないのか、子どもながらにその理由がわからず納得できませんでした。今思うと、人から「こうしなければならない。こうするのが当然だ」と他人の価値観を押し付けられるのが嫌だったんだと思います。そんな風でしたから、親からは私はいつも「かわり者だ」と言われていました。きっと親戚の人達にも同じように思われていたでしょうね。でも、私の心の中では子どもながらの価値観と言うものがあって、それを否定されたくないと考えていたんだと思います。

そんな私の偏屈なところがふたりの子供達にも引き継がれていて、頑なな性格とわが道を行く姿にはちょっと複雑な思いがします。私がこれまで歩んできた半世紀を振り返ると、子供達が私から引き継いでいるものは決していい面ばかりではないからです。確かに、自分の信念や価値観に忠実だというのも悪くはありませんが、それはときとして他人との価値観の軋轢(あつれき)を生みます。他の価値観とぶつかったとき、調整が必要となる場面でトラブルのもとになるのです。その結果、自分に不利益が生じることだってあります。私自身、これまでそうした場面に何度も遭遇しました。そのときには深く考えませんでしたし、損得勘定で自分の価値観をねじまげるなんてことは考えられませんでしたから。でも、齢(よわい)五十路を超えて、これまでの人生を振り返る年齢に差し掛かると、はたしてそれでよかったのかとときに思ったりします。そして、自分の性格を引き継いでしまった子供達には同じ苦い経験をさせてはいけないと思うのです。その意味で、職場での経験はとても教訓に満ちています。

ある病院に勤務していたときのことです。私は主治医とトラブルとなったある患者を引き継ぐことになりました。そのトラブルに関しては私も詳細を知っていたのですが、このケースはどう考えても主治医に非があることを私は確信していました。しかし、病院は主治医の側に立ってこのトラブルを解決しようとしている。私はそれにどうしても納得できませんでした。上司に呼ばれて意見を求められた私は率直に言いました。これはどう考えても主治医の対応に問題がある、と。すると上司は「君はいったい誰の側にたってものを言っているんだ」と顔を真っ赤にして私を叱責しました。意外だったその言葉をきいて、私は「どちらかの立場に立って発言しているわけではありません。客観的に見て彼に問題があると言っているんです」。私はそう反論しましたが、私の意見はまったく受け入れてもらえませんでした。結局、私はこの一件があって病院を退職することになりました。先輩の医師に「おまえの言うことは正論だよ。でも、言っても変わらないことを言うのは言うだけストレス。辞めるしかないよ」との忠告を受け、それに納得してのことでした。

でも、他の職場に移っても、結局は同じなのです。上司との価値観の対立はもちろん、職場の価値観が合わないっていう場合もあります。要するに、組織とはそういうものなんだと思います。社会に、あるいは組織に身を置くということは、自分の価値観をそうした組織のそれに調整するということなんでしょうね。当時の私はそれを十分に認識することもできませんでしたし、その意志もなかったため、結果的に自分がめざしていた方向性が少しづつ変わってしまいました。大学に残っていろいろやりたかったことがあったにも関わらず、図らずも地元に戻って開業医をすることになったのです。あのときもっと柔軟にできれば、また別の人生を歩んでいたかもしれません。そう思うと、私の性格を引き継いでしまった子供達が私と同じ轍(てつ)を踏まないように…と思ってしまいます。子供が成長して私の話しがわかる年齢となり、かつての私と同じような失敗を子供が繰り返しそうになれば、ことあるごとに自分の性格がどういう結果をもたらしたのか。その結果がどう今につながっているのか。私なりに話しをするようにしていますがなかなか素直に受け入れてもらえませんね。

結局は子供は子供の人生を歩むことになるんでしょう。自分の子どもの頃を振り返ってみても、親の経験談など素直に耳を傾けようなんて気持ちはありませんでしたから。でも、それでいいんだと思います。人間の人生はその人のものであり、その人生の価値など他人が評価するもんじゃないんですから。人がうらやむような人生を送ったとしても本人には満たされなかったこともあるでしょうし、他人にとってはちっぽけでも人知れず幸せな人生をまっとうできた人だってたくさんいるのです。人間の一生なんてそんなもんです。自己満足できればそれでいいんだと思います。だから、私は子供たちには他人の価値観に振り回されることなく、自分の信じる道を歩んでほしいと思っています。私の後継ぎとして医師になってほしいとは思いませんし、一流大学を出て一流企業に入ることが目的になってほしくありません。こうしたことは長い人生においては単なる手段にすぎないのですから。目的はもっと別なところにあるんだと思うんです。自分の力で生き抜くことができ、自己実現できるような人生が理想なんです。

家庭を犠牲にして会社のために突っ走る人もいなければならない。名誉や富を求めて世の中を引っ張っていく人もいなければならない。世のため人のために無私の心で社会に奉仕し、活動する人もいなければならない。そのすべての人の総体が社会なんだと思います。あくまでもその社会の中でひとりひとりが自己実現をしていくことが大切なのでしょうし、私の子供達にもそうしたことに意識的になってほしいのです。勝海舟が咸臨丸でアメリカに渡ったときに感心したことのひとつが、アメリカ人は歴史的な人物の子孫がその後どうしているかにまるで関心がないということでした。日本に戻り、将軍に訪米の感想を尋ねられたとき、このことを話したそうです。そして、「アメリカで偉くなった人はそれ相応に優秀だというところは日本と大きく違うところ」と付け加えることも忘れなかったらしいです。勝のこうしたところが私は好きなのですが、それはともかくいろいろな価値観を認め、個人主義・自由主義を守るために国民が一致団結するところがアメリカのいいところなんだと思います。「和して同せず」って奴ですね。

これまでの自分の人生を振り返ると、運命的な人との出会いがあったからこそ今があると思います。機会があればそのあたりのことも書きますが、こうした人から問いかけられたことが今につながっていると感じます。生きるってことはそういうことなのかも。つまり、自分自身に突き付けられた人生の転換期に、いかに冷静に答えを見出すか。そのために、いかにして運命的な出会いに気が付くか、ということ。人間は悩めば悩むほどものごとを深く考えることができます。ものごとを深く考えればその意味になんとなく気が付きます。その積み重ねが生きることなのでしょう。なにが幸せで、なにが不幸かではなく、なにに価値があり、なにに価値がないということでもない。いいことも悪いことも、心地よいことも不快なことも、全部をひっくるめてその意味に気が付くこと。それが深く生きることなんだと思います。そして、神の定めた寿命が尽きるとき、自己実現できたかどうかに結論がでればそれでいい。たくさんの生老病死を身近に見てくると、「人生は気楽にいこうぜ」だってつくづく思います。

思い出を超えて

先日、久しぶりに映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ました。この映画が撮影されたのは1977年ですから、私が失意のまま高校生活を送っていた辛い時期に撮影された映画ということになります。映画を見ると、その当時の八方ふさがりでもがいていた自分を思い出しますし、あのころの夕張、十勝、そして釧路ってこんな風景だったんだと改めて思います。とくに炭鉱の町である夕張には、北大の学生のころなんどか足を運んだ場所でもあり、他にはない情感が湧いてきます。

北大に入学した私は柔道部と医療問題研究会というサークルに入りました。新入生を集めておこなわれたサークル勧誘の会場にいた私に最初に声をかけてくれたのは柔道部のKさんでした。私は最初の大学に入るときと北大に再入学するときにそれぞれ1年浪人しましたので、現役で合格した他の新入生とは最長で6歳の年の差がありました。だからでしょうか、私よりも年下のKさんは遠慮がちに声をかけてきました。「君、柔道をやってみないか?」。彼の声は少しだけうわずっているように感じました。

柔道はとくにやりたかったわけではありませんでしたが、個性豊かな上級生たちの熱意に負けて入部したようなものでした。少しばかり歳をくっていましたから体力的に自信はありませんでした。しかし、私と一緒に入部した新入生は浪人の長かった人ばかりだったのでなんとなく安心感がありました。とはいえ、皆、柔道の経験者ばかり。身長も体格も私よりもよっぽど柔道向き。上級生たちにしてみれば彼らは即戦力として期待したでしょうが、柔道初心者の私などは数合わせってことだったかもしれません。

柔道部入部後に歓迎コンパがありました。お酒が飲めない私にとっては一番苦手な場所でした。柔道部もいわゆる体育会系でしたから、皆ずいぶんと飲まされていました(新入生のほとんどが成人でしたから)。私はその雰囲気に正直戸惑っていました。でも、飲み会になるとなぜか姿を現す3年生の女子学生Aさん(お酒の強いこと強いこと)が、飲めない私に同情してか、私に先輩方が勧めてくるお酒をすべて引き受けてくれたので大助かり。「柔道部のために頑張るぞ」との思いを新たにしたのでした。

歳くった新入生の私は東医体(東日本医学生体育大会)での1勝をめざして練習に励みました。しかし、他の部員と違って身長も体重も足りません。先輩との乱取り(実戦形式の稽古)でもなかなか勝てませんでした。そんなこんなしていたある日、先輩に背負い投げで投げられたとき肩から落ちて肩を脱臼。結局、試合には出場できませんでした。せめて応援で貢献しようと思ったのですが、他大学のチアリーダー達に見とれて応援がおろそかになり北大は一回戦敗退。私も肩の治りが悪くあえなく退部とあいなりました。

一方、「医療問題研究会(通称、医療研)」にも入部しました。さまざまな医療問題を学生の立場から考えていこうという硬派なサークルのはずでした。将来オールラウンドな医者になりたいと思っていた私は自ら医療研の門を叩きました。とはいえ、このサークルへの勧誘には一緒に活動していた看護学生も来たこともあり、その色香に惑わされて入部する学生も多かったようです。しかし、そんな新入部員たちを尻目に、真剣に医療問題を考えるべく私は入部したのでした(ほんとです。信じてください)。

ですから、ときにサークルに見え隠れする「学生っぽい雰囲気」にはなかなかなじめませんでした。最後までなじめなかったのは、一緒に活動する看護学生さん達をファーストネームで呼ぶこと。まわりのみんなはごく自然に「花子ちゃん」「夢ちゃん」と「ちゃん付け」で呼ぶのですが、私はどうしても照れくさくて呼べませんでした。医学部の後輩でさえはじめはなかなか呼び捨てにはできなかったのです。今思えば別にどうってことないことなのですが、当時の私にはこそばゆく感じていました。

週一回の例会では、テーマを決めてサークル員同志で議論をします。なにか結論を導くわけではないのですが、プレゼンターが興味をもったテーマを持ち寄ってみんなで話し合うのです。ときには熱い議論になって喧嘩寸前になったり、議論が難しくて参加できないと泣き出す子がいたり、あるいは議論がもりあがらずにコックリさんばかりになったり。議論のための議論、あるいは方法を決めるための方法論を延々と話し合っていることもしばしばでした。学生らしいといえば学生らしい議論かもしれませんが。

70年代の学生運動花盛りのときから続いている例会後の合唱にもなじめませんでした。サークル独自の歌集(わら半紙にガリ版刷りで印刷されたもの)を片手に先輩方のギターやピアノにあわせてみんなで歌うのです。ときにはみんなでこぶしを挙げて「オー」とやったり、この雰囲気は、まるであの「幸福の黄色いハンカチ」にでてきた70年代を感じさせるものそのものでした。一緒に歌いながらも「自分がやりたかったことはこんなことじゃない」といつも思っていました。

何曲か歌い終わると、サークル員全員で夕食を食べに行きます。要するに飲みにでかけるのです。ときにはお店を梯子して帰宅するのが深夜遅くということもしょっちゅうでした。サークルの中で二番目に歳をとっていた私はこれがどうしても納得いきませんでした。若い女の子をそんな時間まで連れまわして酔っ払っている上級生が非常識に見えたのです。もともとお酒を飲まなかったことも影響してか、私は心ひそかに「自分が上級生になったらこの慣習を一掃したい」と思っていました。

夏休みになるとフィールドスタディとして地方の街や地域に入って調査をしました。私が新入生として初めて行ったのが赤平の炭住でした。赤平というところは、かつて炭鉱として栄えた街です。しかし、炭鉱がすたれるとともに若い人はどんどん都会に移動し、残ったのはかつての鉱夫だった高齢者ばかり。その影響もあって赤平は日本でもっとも医療費の高い地域になっていたのです。どうすればこの高医療費の地域を再生できるか、それを探るための調査をおこなうフィールドワークでした。

かつて炭鉱が栄えていた頃、地区ごとに学校や商店街のほかに映画館などの娯楽施設もあったそうです。炭住には入浴施設も整備されていて、手ぶらで行っても無料で入れたとのこと。坑道での厳しい仕事を終えて入るお風呂はどれだけ気持ちよかったでしょう。お風呂は子どもからお年寄りまでが憩う場所になっていたそうです。しかし、その炭住も老朽化し、人口は激減して、店も学校もどんどんなくなっていきました。そして、炭鉱そのものがなくなると、街はすっかり淋しい街と化してしまったのです。

映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、そんな時代の変化が感じられます。でも、私はその雰囲気が嫌いじゃありません。学生のころはなんども夕張にいきました。数年前には家内や子供たちと「幸福の黄色いハンカチーフ」の舞台にもなった炭住にも行きました。夕張の炭鉱の歴史を紹介する「炭鉱博物館」にも行きました。実際の坑道を歩きながら、かつての日本の産業を支えた炭鉱について私たちはなにも知らないんだなって思いました。他の入場者は少なかったのですが、私にはまた行きたい場所となりました。

私は医療研での「学生っぽさ」がいちいち気になって仕方ありませんでした。話し合いはともすると議論のための議論に終始して未消化で終わることも多いというのに、せっかく積みあがって来た議論が先輩の鶴の一声でひっくりされることもしばしばありました。私は、学生同士の未熟な議論ではどうしても問題が深まらないままやり過ごされること、あるいは、先輩にかき乱されるお決まりの展開にいつもフラストレーションを感じていたのです。「この不毛の議論をなんとかしなきゃ」といつも思っていました。

そんな私がどういうわけか部長をすることになりました。それまで新しい部長は先輩方が相談して内密に選び、本人に打診して決めるというものでした。しかし、私は先輩方にはあまりよく思われていませんでした。部長になる前、私は編集局という部誌(医療研新聞)を作る作業チームの責任者をしていたのですが、それまでガリ版と輪転機で印刷していた医療研新聞の原稿を、当時広く使われ始めたワープロで作成するようにしまったのです。そのことが一部の先輩たちからはかなりの不評を買いました。

不評と言うより批判というべきかもしれません。なんでも「医療研新聞にも(ガリ版で作ってきたという)歴史ってものがある。ガリ版を勝手にワープロにするのは納得できない」ということらしいのです。歴代のサークルの先輩たちにも郵送する新聞になんてことをしたのだってわけです。印刷方法にも思い入れがあるってことでしょう。私にすれば、刷り上がった新聞は体裁がよくなり、なにより字が読みやすくなったのだからいいじゃないかって、なんで批判されるのかさっぱりわかりませんでした。

そんな私がなぜ部長になったのか、その理由は今でもわかりません。私を部長にした上級生にはなにかの目的あるいは期待があったのかもしれません。いずれにせよ、部長になった私は、そうした上級生の目論見とは関係なく二つの改革をしようと思いました。ひとつは上級生が下級生の役職を上意下達で決めるのではなく選挙で決めること。もうひとつは形骸化し形式的になってしまったかのような話し合いを実りある民主的な議論にすることでした。私はこれまでにこだわらずにやりぬこうと思いました。

とくに議論の結論を民主的に進めるということについてはこんなエピソードがありました。さきほどお話ししたように、それまでの話し合いの過程で、下級生たちの結論を先輩の鶴のひと声でひっくり返すということがしばしばありました。私が部長になって何回目かの議論の時も同じような状況になりました。部員たちが侃々諤々の話し合いをおこなっている部室の隅でひとりの先輩Tさんが座っていました。彼は部への思いれも人一倍の熱心な元部長であり、これまで部をひっぱってきた人のひとりでした。

彼は医師国家試験の勉強でもしているのか、参考書に目を落としながらときどきこちらの議論を聴いていました。議論が収束して方向性が見えてきたときTさんが私達の方に顔をあげて口を開きました。「それでほんとにいいのか?」。先輩のその一声に議論をしてきたメンバーは一瞬ひるみました。みんな固まっています。しかし、私は議論を進める部長として毅然として言いました。「みんな、我々はここまで議論してきたんだ。Tさんの意見はTさんの意見。みんなはどう思うかが大切だと思う」と。

結局、Tさんの意見はあくまでも参考意見とすることとして、それまで積み重ねてきた議論を予定通り取りまとめることにしました。その結論にTさんは怒ったように立ち上がると、扉を大きな音をたてて閉めて部室から出ていきました。部員の中には「セバタさんには影響力があるのだから、あんなことをしちゃだめですよ」とたしなめる人もいました。でも、私はTさんに失礼なことをしたとも思いませんでしたし、不適切な議事進行だったとも思いませんでした。Tさんは以後、部室に姿を現すことはありませんでした。

医療問題研究会は学生運動がまだ華々しかったとき、左翼系の学生があつまって活発な活動をしていたと聞きます。当時の医療研にはそのときの「伝統」が残っていたのでしょう。先輩主導の議論も、例会後の合唱も、役職の決め方も、あるいは部誌の印刷方法ですら、学生運動のときのままだったんだと思います。思い入れが強くなるのもわかります。その「伝統」を私はぶっ壊したのですから、面白くなく感じた先輩がいてもおもしくありません。ひょっとすると私が「異端」に見えたかもしれません。

こんなこともありました。ちょうどこのころ、昭和天皇が崩御されました。たまたま部室に行くと、みんなは重体になった昭和天皇の戦争責任のことを話していました。戦争をはじめた責任をとらないまま死ぬことがどうのこうの・・・という内容でした。そのとき陛下の健康状態を憂慮していた私は、戦争責任の話題を笑って話している彼らにだんだん腹が立ってきました。私は黙っておれず、つい「こういうときにそんな話しは不謹慎ですよっ」と強い口調で言いました。先輩たちは驚いたように振り向きました。

「でも、戦争をはじめた天皇の責任を君はどう思うの?」とひとりの先輩。私はその時「どうせ自分で調べたりせず、自分の頭で考えることもせず、誰か大人がいっていることを鵜呑みにでもしているんだろう」と思いました。そして、「立憲君主制の明治憲法下において、陛下には開戦の責任はありません。百歩譲って結果責任があったとしても、なにも崩御されるかもしれないという今いうべきことですか?」ときっぱり言いました。私は不愉快な気持ちになって部室を出ていきました。

ちょっと説明しておきますが、明治憲法(と呼ばれる大日本帝国憲法)は、ご存じの通り、伊藤博文が欧州各国を訪問し、名だたる法学者を訪ね、その法学者達の「憲法は国の伝統に立脚したものでなければならない」という助言を受けて作られたものです。井上毅(こあし)は万葉集や日本書紀をふくめた膨大な書物を読み込んで日本の伝統や文化を徹底的に調べ上げました。そして、「広く会議を興し、万機公論を決すべし」という五か条の御誓文に従って国会や内閣制度を導入した画期的な憲法となりました。

また、イギリス型の「君臨すれども統治せず」を本分とする立憲君主制をとるなど、明治憲法は当時の欧州の法学者たちから「世界でも極めて優れた国家主権型の憲法」として絶賛されました。幼いころから帝王学あるいは立憲君主制における天皇の位置を叩き込まれてきた昭和天皇は、第一次世界大戦後の荒廃した欧州を歴訪した経験をふまえて戦争の惨禍がいかに甚大なものかを知りました。そして、日本の運命はこうした高い文明を有する欧州の国々と肩を並べ、協調していく以外に道はないことを確信したのです。

ですから、昭和初期に起きた世界恐慌をきっかけに、日本が戦争に引き込まれてくことを一番懸念したのが昭和天皇でした。支那へ進出する作戦を説明する軍幹部にはなんども疑問を呈しましたし、米国に宣戦布告するかどうかのぎりぎりの瀬戸際まで「開戦を回避する道はないのか」「どうしても回避できないか」と和平への道を幾度となく探りました。しかし、立憲君主制において天皇は政府によって決定されたことを承認するのみでした。唯一、天皇が自ら決断したのはポツダム宣言を受諾する時のみでした。

ちなみに、昭和天皇は日米開戦に際して杉山参謀長に勝算を問うたとき、「南方方面は三ヶ月で片づけるつもり」と説明する参謀長に天皇は厳しい口調でたずねました。「支那は一か月で、と申していたぞ。しかし、四年も経った今一向に片付かぬではないか」と天皇は問い詰めます。苦し紛れに参謀長が「支那大陸は思ったよりも広うございまして」と言葉を濁すと、すかさず天皇は「太平洋はもっと広いぞっ!」を叱責したことが知られています。昭和天皇がことさら戦争開戦を望んだとするのはまったくの誤解なのです。

ですから、大して深くも考えもせずに天皇の戦争責任を口にしているかのような「ちょっと左がかった先輩たち」とは反りが合うはずもありませんでした。とはいえ、映画「幸福の黄色いハンカチ」を見ると、ときどき労働運動のデモ行進のシーンがあったり、炭住での厳しい生活の様子が描かれたりと、なんとなく医療研で感じていた「ちょっと左がかった雰囲気」を思い出させるシーンが一番懐かしく感じます。私ははじめての選挙で新しい部長が選ばれた時点で任を終え、医療研から完全に手を引きました。

思えば、柔道部も医療研も活動期間は短いものでしたが、自分なりにやり切った感はありました。目的意識をもちながら、今何をすべきかをやってきた結果だと思います。さまざまな経験ができましたし、いろいろな知識も得られました。なによりたくさんの思い出ができました。あれほど苦手だった飲み会も、他大学のチアガールの応援と戦った東医体も、あるいは不毛に感じながらも実りある議論を模索した例会も、あるいは価値観の違う仲間達とのぶつかり合いも、今の自分にはいろいろな意味で生きていると思います。

あ~、北大時代に戻りたいなぁ~。

 

 

神さま、お願い(2)

(注)赤字の部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます。

******* 以下、本文

勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じていたがなにかが違うと思いながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、じっと私の話しを聞いていた助教授がその教授の言葉を遮るように言いました。「君の意志は固いの?」。「はい」、きっぱりうなづく私。「だったら再受験すべきだと思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくよ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその助教授の言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ励みになったことか。この先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。

神さま、お願い

久しぶりの投稿です。忙しかったこともありますが、書くに足るネタがなくなってしまったのです。もともと筆不精で、文章を書くのも苦手だってこともあります。このブログでの文章も結構苦労しながら書いているくらいですし。このブログがここまで続いたことだけでも奇跡的なのかもしれません。でも、久しぶりに書いてみようと思うものがありましたので投稿します。ちょっと変わった内容です。人によって好き嫌いがありますが読んでみて下さい((注)赤字部分をクリックするとこれまで投稿した記事に飛びます)。

******** 以下、本文

私には信仰している特定の宗教はありません。でも、心の中ではなんとなく「神さま」というものはいるのではないかと思っています。私にとっての「神さま」は、ある意味「ご先祖様」かも知れません。神社や寺院でも手をあわせますし、お地蔵さまやお稲荷さまにも手をあわせます。しかし、具体的に「神さま」という対象として手をあわせるのは私の「ご先祖様」でしょうか。具体的には私の母方の祖父の顔を思い浮かべながら手を合わせているような気がします。

たくさんの孫たちのなかで、祖父がとりわけ私を可愛がってくれていたのかどうかはわかりません。しかし、私の心の中には不思議といつも祖父がいます。今でもときどき夢にでてきます。祖父は昔、商売をしていました。私がまだ幼稚園児ぐらいのときに、オート三輪に乗せられて一緒に集金にまわったことがあります。得意先をまわりながら、私に「ほら、こんにちわは?」と挨拶を促しながら目を細めていた祖父のことを今でも思い出します。そんな優しかった祖父がいつも私の心の中にいるのです。

祖父が亡くなる数日前、私は祖父が入院している病院にお見舞いに行きました。そのときはまだそんなに急に亡くなるとは思えないほど元気だった祖父でしたが、「じゃあ帰るよ」と部屋を出ていこうとする私を祖父は呼び止めて「元気でな」とひと言。なんでこんなことを言うんだろう。そう思いながらも「また来るから」と笑って病室を後にした数日後に祖父は亡くなりました。思いがけずに祖父が亡くなってしまいましたが、その一報を受けたと聞いたとき、私はすぐにあのとき交わした言葉を思い出しました。

祖父の葬儀のとき、私は葬儀を終えたお寺から祖父の家まで参列客を車で送迎しなければなりませんでした。お寺で数名の参列客を車に乗せてまさに出発しようとしたとき、私の車を追いかけてくるお坊さんがバックミラーに映りました。その僧侶はついさっき祖父の葬儀でお経を唱えてくれた方でした。私はなんだろうと思って車を止めました。車の窓ガラスを開けるとそのお坊さんが私に言うのです。「気を付けて行くんだよ」と。「はい、わかりました」と軽く会釈をして私はふたたび車を発進させました。

田んぼの中の見晴らしのいい道路を走って、正面のT字路を左折しようとスピードを落としました。左右を確認して左にハンドルを切った瞬間、突然赤い車が目の前に現れました。「あっ!」と言う間もなく、私の車は相手の車の側面に衝突。なにが起こったのかわかりませんでした。幸い怪我人はひとりもおらず、車の損傷も思ったほどではありませんでした。私も相手もはじめは混乱していましたが、二人とも落ち着くとお互いに謝り合っていました。相手がとても優しい人だったので助かりました。

私は思いました。あのとき、お坊さんがわざわざ私を追いかけてきて言った「気を付けて行きなさい」の言葉。あれは祖父が言わせたのではないか、と。実はその僧侶は私の母とは幼稚園での幼馴染でもありました。そして、祖父とは一緒に旅行に行くほど懇意にしていただいていた人でした。祖父が入院する数日前にも、近くを散歩したからと祖父の家に立ち寄ってくれたほど。このことを後日このお坊さんにお話ししたら、「なんとなく声をかけた方がいいと思ったから」と笑みを浮かべながらおっしゃいました。

ときどき自分の半生を振り返ると、まさに「神がかり」あるいは「神さまのお導き」、ひょっとすると「神さまに守られていた」と思えるようなことがいくつもあったことに気がつきます。神さまへの願い事がかなったということはもちろん、決して自分の力や努力だけではどうにもならないことがなんとかなった。あるいは誰かのひと言が私の人生を大きく変えた、なんてことが何度もありました。これらはまさに「神さま」のなせる業だったのではないかと思えるほどです。

息子が第一志望の高校に不合格になって落胆しているとき、「神さまに願いを聴いてもらえなかったなぁ」と彼がつぶやくのを私は耳にしました。でも、私は言いました。「それは違うと思うよ。神さまは単に願いを聴いてくれるとか、聴いてくれないとか、そんなちっぽけなことを考えているわけじゃないんだよ」と。実は、息子ばかりではなく、私も家内も息子の第一志望の高校の合格発表を前にして、神社に願掛けにいったり、先祖の墓参りに行って合格をお願いしたりしていました。ところが結果は不合格。

息子にとってはその渾身の願掛けがかなわなかったことが恨めしかったのでしょう。でも私は息子を諭したのです。「神さまを恨むのではなくて、自分自身のこれまでの至らなさはどこだったのかを振り返るべきだ」ってことを。事実、反省すべき点はたくさんありましたから。「神さまを恨むべきじゃない」という思い。それは私の本当の気持ちであり、私自身の経験から日頃から思っていることでもあります。それはこれまで私がたどってきた人生をプレイバックするとよくわかります。

私が進学した高校には自由な校風がありました。でも、自分にはその校風がまったくなじめませんでした。入学早々「なんでこんな高校に来てしまったのだろう」といつもいつも後悔ばかりしていました。そして、小学校のときのような無気力な生徒に逆戻り。結局のところ、高校2年まではほとんど無気力で無為な学校生活を送ってしまいました。しかも、入学当初から第一外国語にドイツ語を選んでしまった私は、高校3年になってドイツ語ではなく英語で大学受験することを決心。まったく無謀な決断でした。

その結果、周りの同級生たちが医学部に合格していく中、私は当然の結果として浪人することになりました。翌年、なんとか理工系の大学に合格しました。あのような高校生生活を送っていたので、当然のことながら医学部には遠く及ばなかったのです。そのときの私は傲慢にも「なんであんな(医者に向かない)奴らが医学部に受かって自分は合格できないんだ。いい医者になる自信は誰にも負けないのに」と神さまを恨みました。自分のふがいなさと無謀さを棚に上げて「神さまのせい」にしていたのです。

ところが、その後、いろいろなことがあって、あるいはいろいろな人との出会いがあって、大学を卒業後にふたたび医学部を受験することに。そして、今があるのです。そうしたひとつひとつを振り返って思うのは、「神さまは願い事をかなえるか否かといったちっぽけなことを考えているのではない。この結果をふまえてその人がどう行動するのかを神さまは見守っているのだ」ということ。息子にも「願いがかなっても、かなわなくても、その後のおこないによって道はかわっていくんだよ」と言いました。

幸福の種類は人間の数だけあります。人があわれむような人生であっても、その人には幸せだったという場合だってあります。幸福な人生は、どこかにあって手に入れられるものではなく、ひとつひとつの積み重ねそものの総体を幸福な人生というんだと思っています。だから、有名大学に受かることそれ自体が幸福なのではなく、また、希望する仕事に就けなかったことが不幸なのではない。素敵なつれあいに恵まれたことそれ自体が幸福なのではなく、大病をしてしまったことが必ずしも不幸ではないということです。

どんな人にも守ってくれている神さまがいるんだと思います。そして、なんらかの出来事を通して、あるいは他人の言葉を通して語り掛けているのです。「こうした方がいいよ」と。視線を未来に向け、過去にとどまらないこと。こうした神さまの言葉に耳を傾けられるかどうか。今の息子に重ねて言えば、第一志望の高校の一次試験に合格したことにも意味があり、また、最終的に不合格になったことにも意味がある。そして、今の高校に通っていることにだって。きっとそのことを今の息子は実感していると思います。

人は「困ったときの神頼み」になりがちです。しかし、それでもいいのです。神さまはそんなささいなことをどうとも思っていないと思います。特定の「神さま」を信仰しているかどうかも無関係です。毎日手を合わせても、ときどきしか手を合わせなくても、「神さま」の存在を心のどこかにとどめながら、その声に耳を傾けようとすることが大切なのです。「神さま」がご先祖様であれ、なんであれ、「神さま、お願い」とは、神さまの言葉に耳を傾けることに他ならない。神さまは常に皆さんのそばにいるのです。