運命について(2)

万次郎がアメリカで航海術や造船技術を学んでいたとき、世界のいたるところで「歴史の転換点」ともいうべき変化がおきていました。産業革命後のイギリスは、すでに植民地にしていたインドを足がかりに、中国(清)に進出しようと考えていました。中国からのお茶の輸入が急増し、イギリスが大量の銀を支払っていました。そこで、イギリスーインドー中国という三角貿易を利用し、インド産のアヘンを中国に持ち込んで貿易赤字を解消しようとしたのです。その結果、多くの中国人がアヘン中毒となり、中国国内からは銀が流出していきました。アヘンの蔓延は中国にとって見過ごすことのできない問題でした。

清政府はアヘンの中国への持ち込みを阻止しようとしました。しかし、イギリスの船に積載されたアヘンが没収されたのをきっかけに、イギリスは戦争をしかけて中国に開国と自由貿易を認めさせようとしたのです。これが1840年のアヘン戦争です。軍の近代化が遅れていた清は、強大な軍事力を持つイギリスに敗北しました。そして、不平等な南京条約を結ばされ、香港をイギリスに割譲。いくつかの港湾もイギリスに解放することになりました。フランスやアメリカも同様の条約を締結するよう清に迫り、中国は欧米の半植民地のようになってしまったのです。その結果、中国国内では外国勢力に対する反発が高まっていきました。

条約が締結したにもかかわらず、清政府は条約違反を繰り返していました。そして、フランス人宣教師が殺害されたのをきっかけにアロー戦争が起こりました。戦争を仕掛けたのはフランスとイギリスです。のちにアメリカとロシアも終戦交渉に加わりました。当時の江戸幕府は鎖国をしていましたが、その戦争のことを知っていました。それは長崎・出島のオランダ商館の館長が、幕府に逐次報告していたからです。長く鎖国を続けていた幕府ですが、長崎の出島を指定して、オランダや清、朝鮮とのみ交易を続けていました。外国人は出島から出ることが制限されていましたが、オランダには出島に商館を作ることが許されていました。

オランダが優遇されていたのは、オランダがキリスト教の布教を望まず、交易のみを目的としていたからです。そして、幕府は交易を許すかわりに、そのときどきの国際情勢を「オランダ風説書」として報告させていたのです。この風説書によって幕府は、世界でどんな変化が起きているのかを知ることができました。ヨーロッパでキリスト教の宗教改革が起こったこと、小国同士の内戦が繰り返され、今の国際法の原型となるウェストファリア条約ができたこと。ナポレオン戦争があり、アメリカという新国家ができたこと。さらにはイギリスで起こった産業革命のことや、欧米列強による植民地政策のこともオランダは報告していました。

そんなこともあり、江戸幕府はやがて欧米列強がやってくることを知っていました。産業革命が起こったヨーロッパの強国が、資源を求めてアジアの小国家を次々と武力で奪い取ってきたからです。当時の日本は世界でも有数の金・銀の産出国でもあったため、なおさら標的になっていたに違いありません。そこで1825年に異国船打払令を出し、日本の港に入港しようとするすべての外国船を拒絶することになりました。薩摩藩や長州藩などでは、1830年ごろから藩を近代化する改革をはじめました。そんな中での1837年、救助した日本人を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号を幕府が砲撃するという事件が起こりました。

幕府は、その翌年のオランダ風説書によって「モリソン号は人道的な目的で入港しようとした商船であり、武器もあえてはずして港に近づこうとしていた」ということを知ります。高野長英や渡辺崋山といった国内の蘭学者たちが、その国際法にもとる幕府の対応を厳しく批判しました。幕府は、そうした批判を許せば、国民が外国船への警戒心を緩め、鎖国政策に反対する世論が高まるのではないかと警戒しました。そして、幕府を批判した蘭学者を一斉に逮捕し、投獄・処罰しました(蛮社の獄)。その一方で、1842年、異国船打払令を緩和する「薪水給与令」を出し、漂着した船だけには燃料と水を補給することにしました。

1843年、太平洋で漂流した万次郎ら5人は、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。万次郎だけはウィットフィールド船長と一緒にアメリカ本土に渡りますが、伝蔵・重助・五右衛門の三兄弟と寅右衛門の4人はハワイであらたな生活をはじめます。彼等は地元の有力者の援助でなに不自由のない暮らしをしていました。しかし、「いつまでも頼ってばかりいてはいられない」と、有力者に仕事を世話してもらえないかと頼みます。彼は「国王に面倒を見るようにいわれているから心配するな」と言ってくれました。でも、怪我をおった重助を除く三人は、知り合いのつてで仕事を見つけ、働くことになりました。

重助は鳥島に船で流されたとき、足に大きな傷を負っていました。しかもその傷が治らず、どんどんと衰弱していきます。そして、島の名医といわれる医者に診てもらおうとした矢先に亡くなってしまいます。でも、残りの三人にはあらたな仕事もでき、島での穏やかな生活がはじまりました。たまに自分たちと同じように遭難し、外国船に救助された日本人が来てくれました。お互い、遭難したときの恐ろしかった話しをしますが、日本に帰国するみんなの意志は強いことがわかります。そして、「我々が日本に帰るときは一緒に帰ろう」と語り合うのです。そんなとき、三人は心の中に希望の光が差してくるように感じたはずです。

ある人が「船の船長に君たちも一緒に乗れるよう頼んでみよう」と言ってくれました。三人は大いに喜び、いよいよ帰国が実現するかもしれないと期待がふくらみます。ところが、その船長はにべもなく断ったといいます。これ以上厄介者を抱えたくなかったのかもしれません。また、別の日本人が、船に三人を一緒に乗せてほしいと頼んだところ、船長は乗船料として多額の金額を要求してきました。なんどか交渉しましたが、伝蔵らは「君たちに迷惑がかかるから」と断ることにしました。その後も帰国するチャンスがありましたがうまくいきません。そのうち寅右衛門だけは、まるで帰国をあきらめたかのように断るようになりました。

ある日、ウィットフィールド船長が訪ねて来てくれました。「今度、日本の近海に行く船がある。帰国の意志があるなら頼んでみるがどうするか」と言うのです。三人はその言葉に喜びました。そして、相談の結果、「お願いしよう」ということに。伝蔵・五右衛門兄弟が船長にお願いをしに行きました。しかし、船長は「二人分しか頼むことができなかったので君たちだけで行きなさい」と言います。伝蔵は「寅右衛門は私のせいでこの遭難にあってしまった。一緒に帰国させてやりたいのでなんとか彼の分もお願いできないだろうか」と船長に土下座をします。そんな伝蔵の姿にウィットフィールド船長は胸を打たれます。

船長は結局、寅右衛門のために船を探してくれました。しかし、出港の当日になって、寅右衛門は「やっぱり俺は今度もやめる。君らだけで行ってくれ」と言い出しました。いくら説得しても彼はききません。しかたなく、伝蔵と五右衛門の二人だけの出港になりました。伝蔵と五右衛門は、アメリカ船のフロリダ号に乗船して出発しました。そして、しばらく航海して八丈島付近にさしかかったとき、船長は小舟を出してくれるといいます。ふたりは島に上陸できるものと喜びました。しかし、風雨がにわかに強くなり、いつまでたっても海のしけはおさまりません。結局、八丈島への上陸はあきらめるしかありませんでした。

船はあらためて蝦夷(北海道)を目指すことになりました。蝦夷の海岸が遠くに現れたとき、海岸にはいくつものかがり火が見えました。二人は船長とともに小舟で上陸を試みることにしました。ところが、上陸したもののどこにも人影は見当たりません。建物の中にも誰もいないのです。「私たちは日本人です」と叫んでみましたが反応がありません。伝蔵は船長に言いました。「ここは日本の領内であるはず。このまま私たちを置いていってもらえないだろうか。大きな船が去れば誰かがでてくるだろうから」。しかし、船長は言いました。「それはできない。君たちを無事送り届けた証明書をもらわねばならないのだ」と。

仕方なく伝蔵と五右衛門は船長とともに船に戻りました。そして、再びハワイをめざして帆を張ったのです。北の海では霧が立ちこめ、太陽も姿を現さない日が続きました。そうした毎日は、祖国で待つ家族のもとに帰れなかった伝蔵たちの心をさらに重くしました。帰国するチャンスを何度も逃し、そしてまた今回もダメだったのです。二人の全身から力が抜けていくようでした。しかし、航海の途中から強い西風になり、船は後ろから押されるようにスピードをあげて行きました。船はハワイ・ホノルルへ戻ります。運命のながれに逆らわず、なんどもチャンスをつかもうとするこの二人に神は手を差しのべてくれるでしょうか。

 

********************* 「運命について(3)」につづく

運命について(1)

運命について ― ジョン・万次郎の生涯 ー

【はじめに】

世の中のすべてのことには理由(意味)があります。理由なく起こることはなにひとつありません。今、世界を揺るがしている戦争もそうです。それまでの歴史的な経緯を背景に生じた必然だからです。一方で、その戦禍に巻き込まれた人たちにとって今回の戦争には意味があります。それほどにその後の人生に影響をあたえる大きな出来事だったのです。また、先日、成功裏に終ったアルテミス2計画も、用意周到に準備された計画と確実な実行があったからこそ成功しました。月周回軌道をまわった初の女性宇宙飛行士となったクリスティーナ・コック氏にとっても、このミッションはその後の人生に大きく影響するほどの意味がありました。

同じ出来事であっても、その意味するところは個人によってさまざまです。意味を受け取るアンテナをもっていない人すらいます。時間を巻き戻すことはできません。起こってしまったことが自分にとってどのような意味をもっているのかを考え、それからをどう行動するべきかを見極めることが大切です。受験に失敗したからといっていつまでも途方に暮れていてはいけません。志望校に合格できたからといって浮かれてばかりいてもいけないのです。「受験」という出来事を自分の中でどう昇華させていくか。その受験の結果をふまえ、「であるなら、これからの自分はどうしなければならないのか」を考え、次の一歩を踏み出すのです。

世の中には「いくら努力をしてもかなわないこと」と「努力すれば実現するかもしれないこと」、そして、「努力をすれば必ずそれなりの成果が得られること」があります。生物学的に男性である人が「女性になりたい」と思っても、生物学的な女性には絶対になれません。起業をして、身を粉にして働いても、成功するかどうかは社会状況と運次第。やってみなければわからないことです。しかし、勉強だけは自分を裏切ることはありません。目的意識をもって努力さえ惜しまなければ、東大にも、ハーバード大学にも行けます。このように、人間には限界がある一方で、可能性だっていくつもあることに気が付かなければなりません。

来年のNHK大河ドラマの主人公は「ジョン・万次郎」であることが発表されました。なぜ、今、ジョン・万次郎なのでしょうか。それは、運命と努力の中で築かれた彼の人生が、不確かな現代社会に生きる若い人たちにも参考になるからです。万次郎は貧しい漁民の子として生まれました。しかし、その後、幕臣となって日米交渉を陰で支え、最終的には開成学校(今の東京大学)の教授になって教育にも関わりました。でも、彼はそれを目指していたわけではありません。万次郎自身が図らずもその運命のままに努力を重ねた結果だったのです。そんな波瀾万丈な生涯はとてもドラマチックです。今回はその一端をご紹介します。

 

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万次郎、当時の漁民に苗字はありません、は1827年(文政10年)1月27日、土佐の中浜村という漁村に生まれました。貧しい漁民の次男として健康に育っていきますが、9歳のときに父親を亡くしてしまいました。母も兄も病弱だったことから、彼は稼ぎ手として働こうとします。しかし、当時の彼は読み書きすら出来ませんでした。藩の役人の家に奉公に出されたものの、毎日の単純労働の繰り返しに、好奇心旺盛な万次郎が耐えられるはずもありません。結局、自分の父親と同じ漁師の道を選びました。網元の家に預けられ、漁師として成長していきます。知的好奇心に富んでいて活発。万次郎はすぐに漁に出られるほどになりました。

14歳となった1841年の1月、万次郎は四人の仲間とともに沖合の漁に出ました。五人にはそれぞれ役割がありました。一番若い万次郎は飯炊き・雑用係です。万次郎にとってははじめての遠洋での漁でした。しかし、1月の太平洋は思いのほか大荒れに。波しぶきをかぶりながら操船しますが、船は思ったように動いてくれません。ついに突風によって操舵不能になってしまいます。船は冬の黒潮に流され、どことも知れぬ漂流をはじめました。そして、五日間、まさに生死の境をさまよいながら、祈るような思いで船にしがみつく五人。その祈りが通じたのか、荒波に翻弄されながら運良く伊豆諸島はずれの無人島にたどり着くのです。

その島はアホウドリの繁殖地でもありました。しかし、季節は冬です。東京から600kmも離れた南の島とはいえ、起こすべき火もなければ、湧き水すらない絶海の孤島。さぞかし厳しい生活だったに違いありません。食べものはアホウドリを捕まえ、草を集めて食べるしかないのです。喉が渇いても真水も満足に飲めない無人島でこの五人はどのような思いだったでしょう。でも、いつ命が絶えるかもしれないという過酷な生活を強いられた143日目のこと。まさに奇蹟ともいうべき偶然が起こりました。鳥とウミガメの卵を調達するため、たまたま島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に彼等は救助されたのです。

当時のアメリカは産業革命のまっただ中でした。宗教弾圧を逃れた清教徒たちが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカにやってきたのが1680年。その100年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法ができ、北東部では自由主義にもとづく工業化が急速に進み、一方、南部では黒人奴隷を使った綿花栽培が盛んとなるなどして南北格差の問題が生じ始めていました。それは南北戦争にもつながる対立でもありました。そんなアメリカにおいて捕鯨は重要な産業でした。食用のためというよりも、機械を動かすときの潤滑油として、ランプやろうそくなどの照明用の油として、鯨油は貴重な産業資源であり生活資源でもありました。

その鯨油を求めてアメリカの捕鯨船は世界中を航海していました。当時のアメリカ合衆国の国土は現在よりも狭く、カリフォルニアやネバダ、アリゾナ、ユタはまだメキシコの領土です。テキサスさえもメキシコから独立をはたした「テキサス共和国」になったばかり。その後、アメリカがテキサス共和国を併合し、米墨戦争で広大な領土の割譲を勝ち取って今の国土になりました。東部13州からはじまったアメリカ合衆国は、「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」を主張しながら西に領土を広げていったのです。そして、ついに太平洋にまで進出したアメリカ。太平洋に捕鯨船の寄港地としてふさわしい場所を求めていました。

救助された万次郎たちが乗船していたジョン・ハウランド号の船長はウィリアム・ウィットフィールドといいます。彼はまだ厳しい鎖国状態にあった日本に五人を送り返すことができないことを知っていました。異国船が近づけば日本から攻撃をうけ、異国船で帰国した者が全員死罪になることは広く知られていることでした。そもそも船長にとって、捕鯨目的の航海を変更し、日本に立ち寄るのはリスクの大きいことでした。それは水や食料、石炭などを補給できる場所が限られていたからです。そこで船長は五人をハワイで下船させることにしました。当時のハワイはアメリカ捕鯨船の重要な補給基地でもあったのです。

ハワイにつくと、万次郎を除いた四人が下船を希望しました。しかし、万次郎だけはアメリカに行くことを希望します。万次郎は、航海中、船内のさまざまなことに関心をもち、船員達に片言の英語でいろいろと質問をしていました。あっという間に会話もできるようになり、乗組員たちからも「ジョン・マン」と呼ばれてかわいがられていたのです。そんな知識欲にあふれた万次郎を見ながら、ウィットフィールド船長は「彼はアメリカで教育を受けるべきだ」と思っていました。いつしか「アメリカという国を見てみたい」と思っていた万次郎に、船長は「アメリカに行ってみないか」と尋ねました。彼にとってうれしい申し出でした。

マサチューセッツ州フェアへブンの自宅に戻った船長は万次郎を小学校に通わせました。万次郎もずっと歳下の子ども達と学ぶことを厭いませんでした。読み書きもできなかった万次郎ではありましたが、言葉に慣れるにしたがって徐々に頭角をあらわします。そして、航海術や造船学を学ぶ頃には常に首席となっていたのです。ウィットフィールド夫妻にとって万次郎はまるで自分の子どものようでした。自分たちが通う教会にも万次郎を連れて行きました。厳格なプロテスタント精神が残る当時のアメリカで、ウィットフィールド船長は万次郎にも洗礼を受けさせ、「正統なアメリカ市民」になることを希望していたのかも知れません。

しかし、時代は黒人奴隷をめぐって南北戦争が起こる直前のこと。教会といえども人種差別はまだ色濃く残っていました。白人でもない万次郎が船長に連れられて教会に行くと、牧師は万次郎にバルコニーにある黒人の席に座るように言います。「信仰に人種が関係あるのか」。ウィットフィールド船長は牧師に抗議しました。でも、その抗議が通用する時代ではありません。憤慨した船長は万次郎を連れてその教会を出て行きます。そして、万次郎も一緒に通える教会を探して町中を探しまわったといいます。三人はついにユニタリアン教会という場所に巡り会うことができました。ユニタリアン教会は人種については極めて寛容な教会だったのです。

「ユニタリアン」とは「唯一の神を信じる者」という意味があります。教義(聖書)を妄信せず、個人の良心と理性を重んじた信仰を勧める、当時のアメリカでは珍しいリベラルな教会でした。万次郎にとってこの教会は、ウィットフィールド船長に対して感じたのと同じように、アメリカの懐の深さ、「自由と平等」、「民主的な寛容さ」を感じるのに充分な存在となりました。人格形成においてもっとも重要なこの時期に、そうしたリベラリズムを実体験できたことは、後に、万次郎がアメリカから日本に帰国し、望むと望まざるとに関わらず日本とアメリカの架け橋になったときに大きな意味をもつことになります。

 

****************** 「運命について(2)」につづく

 

 

震災から15年

東日本大震災から15年が経ちました。数百年にいちどともいわれる巨大地震と、それによって引き起こされた大津波によって、たくさんの人が亡くなりました。それまでなにげなく繰り返されてきた日常生活が、一瞬のうちに真っ黒な大波にのみ込まれてしまったのです。それだけではありません。予想をはるかに超える高さとなった津波は、あれだけ安全対策がなされていたはずの原子力発電所を一気に破壊してしまいました。そして、広範な地域に放射能をふくむ塵を拡散させ、地域住民の生活を奪ってしまったのです。

その10年後、COVID-19という新型コロナウィルスが出現し、世界中に感染を広げて700万人を越える人が亡くなりました。日本においても15万人にもおよぶ人がこのウィルスに感染して亡くなったのです。大地震、津波、原発事故、そして、新型コロナウィルスのパンデミックという、まさに「三重苦」ならぬ「四重苦」によって、長年デフレによって苦しみ続けてきた日本はさらに窮地に追い込まれました。しかし、日本と日本人は今、そうした危機をまさに不屈の精神で克服しようとしています。

これまでの日本の歴史を振り返るとき、日本は数々の試練を乗り越えてきたことがわかります。遠くは鎌倉時代、モンゴルが二度にわたり日本の島々で狼藉を働きながら侵略を試みようとしたときがそうです。あるいは近現代になって、欧米がアジアの国家を次々と植民地化する中、日本がそうした国際社会で生きていかねばならないことを知ったときも、です。そのたびに日本は自国とは比べものにならないほどの大国と対峙し、その難局を切り抜けるためにはどうすべきかを考え、全身全霊をもって対処してきました。

我々は震災や原発事故の経験を活かさなければなりません。あのときの対応にはいろいろと稚拙なものがありました。しかし、そうしたことを冷静に振り返り、今後また同じようなことが起きたときの対応策を考えておかねばならないのです。今のCOVID-19感染症が「インフルエンザ以下のもの」であるからといって、感染が拡大しはじめたあのときの対応が過剰だったとはいえません。今の価値観で過去の対応の良し悪しを断罪することはできないのです。「過去をどうこれからに活かすか」、その視点こそが重要です。

今回は、震災10年目である、2021年3月に投稿したブログを再掲します。このときの私の考えや感想は今もかわりません。そして、それは震災直後の考えともなんら違いはありません。それは当時から「できるだけ冷静に、理性を総動員して判断する」ということに努めたからにほかなりません。

※ブログ内検索エンジンで「震災」「放射能」「コロナ」で検索してみてください

 

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10年前の3月11日に東日本を襲った大地震。三陸沖130㎞付近の海底で発生した地震のエネルギーはマグニチュード9だといわれています。また、震源が約24㎞と比較的浅かったこともあって、この地震によって震度7を超える強い揺れを記録する地域もありました。まさに日本周辺に発生した地震の中でも史上最大級のものといってもいいでしょう。

あのとき、私はクリニックの外来で診療をしていました。冬も終わりを告げ、徐々に春めいてはきましたが、空は厚い雲におおわれてちょっと寒かったことを覚えています。待合室には数人の患者が診察を待っていました。私は診察室で常連さんとたわいもない世間話しをしていたのですが、突然、遠い彼方から、地鳴りでしょうか、音とも、振動ともつかぬわずかな感覚が足に、そして全身に伝わってきました。私は瞬間的に地震がやってくるのだと思いました。

遠くに聞こえていた地鳴りはほどなく大きな横揺れと縦揺れとなってクリニックを大きく揺さぶり始めました。揺れの大きさといい、ゆれ続けた時間といい、私が今まで経験してきた地震とはあきらかに異なっていました。普段、地震ぐらいではそれほど驚かない私も、今回だけはいつもとちょっと違うことを確信しました。

昨日、福島第一原発事故を描いた映画「Fukushima50」がTV放映されました。原発で働く人たち、あるいは自衛隊や消防、警察の皆さんが、原発事故の収束に向けて、まさに命がけで、いかに苦労されたかが伝わって来る映画でした。地震の直後の私は発生した津波の破壊力のすさまじさに圧倒され、原子力発電所がどんな状況になっているかなど考える余裕もありませんでした。
私は地震の揺れがまだおさまらない中、院内にいた職員や患者さんたちがパニックをおこして外に飛び出さないよう必死に声をかけていました。院長室から待合室にもってきたラジオからは各地の震度とともに予想される津波の高さが報じられていました。それは「6mほどの津波が到達する」と想像をこえるものでした。

実際にはその2倍の高さの津波がおし寄せましたが、それでも「約6mの高さ」と聞いたときはなにかこれから恐ろしいことが起こるのではないかと感じました。その胸騒ぎは的中し、想定をはるかに越えた津波はたくさんの人の命と家屋をのみ込み、原発の建物を突き破って施設を破壊して、全電源喪失という予想もしなかった最悪の事態をもたらしたのでした。

当時のマスコミの論調も、また、いちぶの心ない市民たちからも、東京電力への非難の声があがりました(それは今もなおいちぶの人たちで続いています)。たくさんの人が亡くなり、多くの住民たちが避難を余儀なくされたのが東京電力のせいだというのです。しかし、私は当初から「それは東京電力のせいではない。ましてや東電の社員を責めるのは筋違いだ」と繰り返してきました(こちらもどうぞ)。

なるほどたくさんの住民がその後、長期間にわたって不自由な生活を強いられることになりました。福島原子力発電所の事故によって放射性物質が広範囲に拡散したからです。しかし、その事故はもとをたどれば専門家の予想をはるかに超えた巨大津波が原因です。それまでの専門家会議で想定されていた津波の高さはおおむね6mでした。その後の見直しによって徐々に想定水位があげられ、その都度、原発では対策が進められてきました。でも、残念ながらその対策は今回の巨大津波には間にあいませんでした。

福島第一原発を襲った津波は施設内の建屋を5mも水没させる最大水位16mを超えるすさまじいものでした。この千年に一度とも、数百年に一度ともいわれる大地震によって打ち寄せた巨大な海水の塊にどう立ち向かえばよかったというのでしょう。結果論で責めることは簡単です。しかし、誰一人として想像だにしていなかった災害に加害者はいないはずです。

震災当時、国会には東電の幹部が参考人としてなんども招致され、まるで人民裁判のような質疑がおこなわれました。そして、「津波が想定を超える高さだった」と説明する参考人に、「その想定が間違っていたんだろ」とヤジを飛ばす議員もいました。しかし、想定とはそういうものなのです。想定の根拠となる科学に絶対などないからです。こんなあたり前なことも理解できない国会議員にはあきれるばかりですが、そんな理性的になれない人たちは十年も経った今でも存在します。

原発事故そのもので、あるいは福島第一原発から漏れ出た放射性物質が原因で亡くなった人はただのひとりもいません。原発事故や放射性物質の恐怖にさいなまれ、避難を余儀なくされた生活に精神の不調を来した人はたくさんいました。そのなかには自ら命を絶った人も少なくなかったでしょう。しかし、それは東京電力のせいでも、社員のせいでもなく、いわんや東電社員の家族の責任では決してありません。

一方で、子ども達の避難が遅れたと学校の責任を問う裁判や、路上教習をさせていた自動車教習所の過失を問う裁判なども行なわれています。しかし、よく考えてみて下さい。この震災ではみんなが被害者なのです。児童を避難させるのが遅れた教諭も亡くなりました。地震で揺れる中で路上教習させていた教官だって亡くなっています。

あの未曾有の災害に加害者なんていないのです。確かに震災でたくさんの人が亡くなりましたが、そのほとんどは津波によるものです。 もし、責任を問うべきだというなら、1万8000人あまりの人命を奪った巨大津波への対策を怠った行政の責任も問われるべきです。しかし、津波に対応できる防潮堤や街の移転を進めてこなかった地方自治体の責任を問う人はいません。 誰ひとりとしてあのような大きな地震が起こり、類を見ない巨大な津波に襲われるなんて想像していなかったからです。 にもかかわらず 津波への対応策が間に合わなかった東京電力だけが責められるのは不条理です。

先日の映画「Fukushima50」でも、避難してきた人たちの一部が東電社員の家族に冷たい視線を送り、「あんなところに原発を作ったからだ」「俺たちの生活をどうしてくれる」と心無い言葉を投げつけるシーンがありました。実際にもこうした光景が見られたと聞きます。福島ナンバーの車がいたずら書きされたり、福島県から他府県に避難してきた子どもたちが嫌がらせを受けたという事例も複数報道されています。

不安や怒りからのこととはいえ、こうした心ない言動を抑えきれない人たちがいます。かつて、大東亜戦争(太平洋戦争)のときもそうでした。戦地に向かう兵隊さんを万歳で送り出した人たちが、終戦後、戦地から引き上げてきた兵隊さんに「お前のせいで日本が負けたんだ」と石を投げることもあったと聞きます。あの無謀な戦争に突っ込むことになった責任は、当時の新聞によって戦意をあおられた国民にもあったはず。そうした国民を守るために戦った兵隊さんは、ある意味、その犠牲者、被害者だったともいえるのではないでしょうか。

私たち国民がいつも「か弱い被害者」とは限りません。無意識のうちに「傲慢な加害者」になっている場合もあります。それは新型コロナウィルスの感染が拡大している今も見られる光景です。よりによって感染患者に対して、あるいはその患者を治療・ケアする病院関係者に対して心無い言葉をぶつける人たちがいます。福島原発事故はこうした理不尽な現実を繰り返してはいけないことをも教えているのではないでしょうか。

受験という人生

2月7日(土)と8日(日)の二日間、第120回医師国家試験(国試)が実施されました。医師になるためにはなんとしても合格しなければならない試験です。合計400問の問題が出題され、その70%以上を正解しなければ合格できない厳しい試験です。私たちのときの国試は600問の問題を3日間で回答する形式で行なわれていましたが、2018年(平成30年)から二日間で400問に変更されました。でも、問題数が減ったからといって易しくなったわけではありません。私たちのときとくらべると、最近の画像診断や治療方法ははるかに発達・進歩しており、膨大な知識を必要とする今の試験は、かえって昔より難しいものになっています。

あれだけ勉強して医学部の入試を突破してきた医学生たちにも、「今までこれほど勉強したことはない」といわせるほどの勉強量を要します。「90%の人が合格するのだから」といえるほど簡単な試験ではありません。「問題の70%を正解すればいいだけ」と励ます人もいますが、むしろ「上位何名までが合格」と定員が決まっていた方がどれだけ楽でしょう。なぜなら、その年の試験の難しさに関係なく定員までは合格できるからです。しかし、「70%以上の正解で合格」となればそうはいきません。難しい問題が多い年に当たってしまえば合格者の数は激減し、受験したときの国試の難易度によって医者になれるかどうかが左右されるのです。

医師国家試験が医学生にとってどれほどの重圧になっているかは、私自身が今もときどき国試に合格できなかった悪夢にうなされることからもわかります。私のこの悪夢は、国家試験を目前にしているのに、まったくその準備ができていない場面からはじまります。夢の中の同級生たちはすでに国試対策が完了していて自信満々です。私は心の中で「来年までの一年間しっかり勉強して試験に臨めばいい」と自分をなぐさめるのです。合格していく同級生達に取り残される孤独感。下級生達と国家試験を受けることになった屈辱感。来年の国試には無事合格できるだろうかという不安な気持ちに押しつぶされそうになって目が覚めるのです。

国家試験が終わるとまさに放心状態が続きます。開放感を味わう余裕もないほどくたくたになっているのです。国試が終ったあとの私の自室は、しばらくの間、プリントや資料が散乱し、たくさんの医学書や問題集などが机に積み重なっていました。「合否なんてどうでもいい。やるだけのことはやったんだ」。そんなところでしょうか。そして、ホッとする間もなく、合格発表の日が近づいてきます。自己採点をしなかった私は再び緊張と重圧感でいっぱいに。私はそんな感情から逃れるように、千葉から来た両親と道内旅行をしました。友人から合格の知らせが道北の旅館に届いたとき、両親はもちろん、旅館の方までもが喜んでくれました。

戦後の医師国家試験でもっとも低い合格率は、1954年の第14回医師国家試験の64.1%だといわれています。このころの試験は今のようにマークシート形式の試験ではなく、筆記試験(記述式)と口頭試問でした。まだ戦後の混乱期にあり、国家試験の制度そのものが整備されておらず、問われる知識も採点する試験監督によってまちまちでした。また、当時は、質の高い医師を養成するという政策の一環で、合否に関しては厳しい態度がとられていました。1984年(昭和54年)の第73回医師国家試験から筆記試験と口頭試問はマークシート形式に統一され、それまで春と秋の年二回おこなわれていた試験は1986年に年一回になりました。

こうした試験制度の変更は、マークシート形式の入試方法が導入されたことがその背景にあります。シート上に印刷された選択肢を鉛筆で塗りつぶし、OMR(光学式読み取り装置)によって読み取り、短期間に採点を終えられるようになったのです。以前の国立大学の入学試験は、一次試験と二次試験を課す大学も、また、一回の試験で合否を決める大学も、各大学が独自に入試問題を作っていました。しかし、大学が独自性を出そうとすればするほど、教科書の範囲を逸脱したいわゆる「難問・奇問」が誕生するなどして社会問題になりました。そうした問題を改善するために、1979年にはじまったのが「共通一次試験」です。

共通一次試験の目的は、本来、学校教育における受験生の学習習熟度を測ることにありました。問題はどの教科もいわゆる教科書レベルに近く、「学校の勉強をまじめにやっていれば平均点はとれる」といわれるものでした。ですから、開始された当初、多くの大学は一次試験として5教科7科目(英・数・国・理2・社2)を受験することが必要でした。しかし、1990年から「大学入試センター試験」と名称が変更され、政府の主導で私立大学の入試においても利用されはじめました。そして、大学や学部によって要求される受験科目数はさまざまになりましたが、問題自体は難化し、教科書レベルだけでは対応できないものになっていきました。

2021年からセンター試験は「大学入学共通テスト」と名称が変わりました。世界のグローバル化、国際化、多様化に対応する受験生を選抜するためとされました。しかし、そうした「お花畑の理念」は、かえって教育の質を低下させ、受験生を翻弄しています。かつて、「ゆとり教育」がおこなわれていた時期がありました。教育内容の簡素化や教育時間の短縮などによって「受験戦争」と呼ばれる「競争の激化」を解消しようとしたのです。しかし、そのような小手先の改革は「受験戦争」という問題を解決しませんでした。むしろ、自主的に勉強していた生徒と「ゆとり教育」に乗せられた生徒との間で格差を生じさせるだけだったのです。

高校受験や大学受験、あるいは就職試験のように、合格定員が設けられた選抜において競争となるのはやむを得ないことです。あらゆるところに競争が待ち受ける社会に生きる以上、競争と無縁ではいられないのです。「ゆとり教育」は「受験戦争」や「競争社会」から子ども達を守る改革と思われていました。しかし、実際には、その「ゆとり教育」は「逃れられない競争からのモラトリアム」にすぎなかったのです。現実に存在する競争を社会悪として、子ども達をそこから遠ざけようとするのは間違いです。教育は少なくともそうした現実に対処するすべを子ども達に教え、「失敗を恐れてはいけない」と背中を押す存在であるべきです。

いくつかの理工系大学の入試ではいわゆる「女子枠」が設けられるようになりました。女子枠を設けて理工系学部における女子学生の数を増やそうというわけです。しかし、これも間違った改革です。よく考えてみて下さい。なぜ理工系学部の女子学生を増やさなければならないのでしょうか。社会のリケジョを増やすためですか。でも、なぜリケジョを増やすのでしょうか。ある人は言います。「男女平等参画社会を実現するためだ」と。そこまでして理系の職場に女性労働者を増やすことが、どうして「男女平等」につながるのでしょうか。そんなことは単なる数あわせにすぎず、ことの本質が理解できていない人間が考える浅知恵です。

そもそも「女子枠」を設置すること自体が「男女平等参画社会」という理念に矛盾しています。本来であれば、理系に進みたいと思う女子生徒を増やす工夫が必要であるはず。もし、「女子枠」を設けるのであれば合理的な目的と理由が必要です。私は、医学部の入試において、男子枠と女子枠を別々に設けて募集すべきだと思っています。それは大学医学部には地方の病院に医師を派遣して地域医療を支える使命があるからです。とくに激務がもとめられる外科系の医師は地方の医療に欠かすことができません。しかし、医学部に女子学生が増えすぎれば、そうした激務に従事する医師の数が減り、地域医療を支えることができなくなるのです。

もちろん、激務をこなす女医の数が増えれば問題は解決します。しかし、現実問題として、今の男子学生ですら、そうした激務の科には進もうとしない傾向が高まっているご時世です。地域医療を守るためにも、その大学医学部が必要としている医師の受給を考慮して、男子枠・女子枠それぞれの募集定員を設けた上で入試をすればいいと思うのです。でも、理工系学部の入試に広がる「女子枠」はそうした説明可能で合理的な目的や理由がありません。とくに、パイロット不足の解消を目的にした航空大学校での女子枠は、学科試験も免除という優遇ぶりなのにはあきれます。航空大学校の募集定員を増やせばいいだけの話しです。

試験はひとりの人間が試されるとき。その人の努力、忍耐力、意志の強さのみならず、価値観や人生観までもが問われる場面です。人生の大切な局面としての試験は、だからこそ平等でなければなりません。しかし、平等とは必ずしも「同じであること」を意味しません。「男女平等参画社会」に代表されるような、今の社会に錯綜するスローガンは必ずしも平等のあるべき姿を正しく主張していないのです。受験という人生の大きなイベントだけは、社会のあり方に左右されないものであってほしい。その意味で、一発勝負であろうと、受験生の負担が大きかろうと、昔の受験制度の方が今よりよほど平等だったのではないかと思います。

競争のない社会が平等なのではありません。格差のない社会が平等なのでもありません。誰もが競争に加わることができること、努力が努力として報われる社会こそが平等なのだと思います。そして、競争に失敗しても、何度でもチャレンジできる社会の実現が必要なのです。教育は子ども達にそのことを教える必要があります。頑張ることの尊さとチャレンジする勇気。頑張った結果にとらわれず、他者の価値観や人生観を尊重する大切さを子ども達に教えるのです。その意味で、男女の差違や区別を否定的にとらえたり、競争や格差の負の側面をことさらに強調する今の社会の風潮は間違っていると思っています。

当院への苦情

 

Googleのクチコミに苦情が寄せられました。
日頃、人から後ろ指を指されないように診療して来たつもりなので、この苦情はまさに寝耳に水。もし私の対応が無礼であったのであればお詫びしなければなりませんが、診療内容に対するご不満であるなら弁解しなければなりません。他の患者さんにも参考になることでもあるのでこの場を借りて少しご説明します。

ただし、匿名で寄せられた苦情ですので、カルテを見直した上での的確な弁明にならないかもしれません。言った、言わなかったの齟齬になる可能性もあります。いずれにせよ、苦情を寄せられた方を誹謗・中傷する意図はまったくありませんので誤解のないようにお願いします。

 

************************** 以下、寄せられた苦情

最悪の医者です。
3日間高熱で咳混んで家から動けず、4日目に熱も咳も変わらないけど何とか受診しないとと家からいちばんちかいこの病院に行きました。 この時期、どこの病院も混雑してるのにここは患者が誰もいませんでした、この時点でナゼなのか気がつけば良かったのですが、熱と咳の為、頭が回りませんでした。
診察は熱と咳が出てるにもかかわらず服の上から背中に聴診器当てただけで喉も見ないで「風邪ですね」で終わりました。 インフルエンザもコロナの検査もせずに。 信じられませんでした。
それからクスリを山のように出してきて隣の薬局が儲かるように処方したきました。 ただの風邪に6種類のクスリを出しますか? インフルエンザだったら、タミフル、リレンザ1つですむのに…
これほどのやぶ医者は見たことがありません。 異常に空いてる訳がわかりました。
皆さんもここへは絶対に行っては行けません。とんでもない医者ですよ。

************************* 以上

 

1)「熱と咳が出ているにもかかわらず服の上から背中に聴診器」「喉も見ないで風邪」

これは肺炎があるかどうかを確認したのだと思います。私が使っている聴診器は「マイクロフォン」です。服の上から聴診するために使っています。それは次のような理由からです。

●聴診器を直接肌に当てない
 ・服を脱がせることで寒い思いをさせない(プライバシーに対する配慮でもあります)
 ・患者が感染症だった場合、肌に当てた同じ聴診器を他の患者に使用して感染を広げない
 ・診察時間を短縮する(衣服の脱ぎ着きに時間をかけない)

この聴診器はノイズキャンセリング機能がついており、服の上からでも肺炎・気管支炎の有無や気管支喘息の状況、心雑音などを確認するのに支障はありません。ただし、詳細に聴診するときには適していませんが、一般診療における聴診においてはこれで充分だと考えます。

「熱と咳が続いている」ということだったので、肺炎を疑って聴診したものの、肺炎を疑わせる異常がなかったのでしょう。しかし、私は単なる気管支炎だったとしても、このような場合は、念のため抗生物質を処方していると思います。その一方で、「高熱が続いている」という訴えがなかったり(聞き落とした場合もあるかも)、すでに解熱して全身状態もよければ、抗生物質を処方しないかもしれません。

なお、私は通常、簡単に「風邪ですね」という表現は使いません。風邪で高熱が続くことはないからです。もし私がそう言ったとすれば、「高熱が続いていた」という情報が頭に入っていなかったためかもしれません。診察時にまだ「熱と咳」があったという意識が私にあれば、今回のケースはなおさら「風邪」とは説明せず、「気管支炎をこじらせたもの」として抗生物質を処方していたでしょう。

風邪症状を訴えて来院された方には全例に聴診はしています。これは生活習慣病で定期受診している患者もふくめて「聴診器をあてない診療」はしてはいけないと考えるからです。咽頭痛を訴える方には咽頭部の視診もおおむね全例にやっています。もし、私が咽頭部の視診をやっていなかったとすれば、咽頭痛の訴えがなかったか、うっかりして忘れてしまった(咽頭痛が主症状ではなく、咳に意識が向いていた?)からだと思います。咽頭部の症状にあまり意味がないと考えれば省略することもあります。

 

2)「インフルエンザもコロナの検査もしない」「タミフル、リレンザ1つですむのに」

治療薬のないコロナはもちろん、インフルエンザの抗ウィルス薬も感染初期に服用するものです。「治療薬」ではなく、ウィルスの増殖を抑えて「発熱期間を1日ほど短縮する薬」だからです。ですから、「3日間高熱で咳き込んで」ということを聞いていれば、私は抗ウィルス薬を処方しないと思います。むしろ、気管支などの混合感染(当初のウィルス感染に細菌感染を合併したもの)を疑って抗生物質を処方するでしょう。感染初期であって、ワクチン接種がなく、比較的重症感が強ければインフルエンザの抗ウィルス薬を追加するかもしれませんが、ワクチン接種があって重症感もない場合は処方しないことが多いです。

また、このブログでも繰り返してきたように、「検査は一番怪しいときにやるもの」であり、そのタイミングは高熱となって24時間以上経過してからです。早く検査しても検査の精度が落ちて意味がなくなるのです。ましてや会社や学校から「検査をしてくるように」と強く指示された場合でなければ、ワクチンの接種歴や症状、家族歴だけで「インフルエンザ」と診断することもあります。これを「みなしインフルエンザ」といいます。ワクチンを接種した場合は検査で陰性になることがあります。ですから、そうした場合であっても、症状によっては検査の有無とは無関係に「インフルエンザ」と診断しています。

以上のことから、高熱が3日以上経過している今回のケースはインフルエンザだと思っても抗ウィルス薬は処方しないと思います。インフルエンザやコロナの検査も同様です。ましてや私が「風邪ですね」と言ったとすればなおさらです。検査をすれば当院の収入になるので助かりますが、意味があまりないと思っても検査をするのは患者が強く希望したときです。ただし、検査の必要性について説明した上で、です。

 

3)「クスリを山のように出してきて隣の薬局が儲かるように処方」「風邪に6種類もの薬」

以前のブログ(「傲慢な診療」をお読みください)にも書いたように、若いころの私は「風邪に薬は不要」という信念をもっていました。しかし、ある患者から思いがけずに寄せられた苦情に気が付かされました。「患者は症状がつらいから来院するのだ」ということを。以来、私は患者の訴えがあれば、薬が多くなりすぎないように注意しながらではありますが、症状緩和の薬を処方するようにしています。その結果、「咳、痰、咽頭痛、鼻水」という症状があっただけでも4種類の薬を処方します。

これが多いといえるのかどうかは私にはわかりません。ただ、「咳」という症状だけでも処方薬が1種類というわけにはいかないのです。「咳」があるならば「咳止め」を出せばいいじゃないかと思われるかもしれません。しかし、咳は「気管支内の汚いもの」を喀出するための症状。強い咳止めによって咳をとめれば「汚いもの」を喀出しずらくして、気管支炎をこじらせたり、肺炎に進展させたりすることすらあります。また、麻薬系の強い咳止めは痰を粘張にしてかえって咳をひどくすることがあるのです。

そこで私は、咳に対して比較的穏やかな咳止めと気管支拡張剤の咳止めテープを処方します。そうすることによって、不必要に咳を止めることなく、咳を鎮めて痰を出しやすくできるからです。その結果、咳の症状があるときは、去痰剤をふくめて3種類(錠剤の鎮咳薬と去痰剤、テープ剤の気管支拡張薬)を処方しています。つまり、「咳、痰、咽頭痛、鼻水」という症状があるだけで5剤を処方することになってしまいます。こじれた気管支炎や肺炎を疑えば、これに抗生物質や漢方薬を加えてさらに増えてしまうのです。

「もともと薬をたくさん服用している風邪症状の方にはできるだけ少ない薬で」と思いますが、症状によってはそうもいきません。もともと服用している多種多様の薬を「できるだけ減らしましょう」とお話ししますがなかなか納得してもらえないものです。「すでに飲んでいる薬なので減らすのは不安」だからです。そのお気持ちは理解できますし、減らすことができない薬が多い方もいるので、私は無理に減らすことはしません。「儲け主義」でたくさんの薬を服用させているわけではないのです。

その一方で、「薬はできるだけ飲みたくない」という方もいます。医療機関を受診した患者が「薬は飲みたくない」とおっしゃる理由はさまざまですが、私は医学的な見地から薬を服用する意義を説明した上でそれでも「飲みたくない」という方にはその希望を尊重しています。ただ、「薬を飲まないことによるリスクは理解しておいてください」と説明はします。あとはご本人しだいですから。我々医療従事者は「薬がほしいから医療機関に来る」と思っているので、ご要望は医師に明確に伝えなければいけません。

ちなみに「隣の薬局が儲かるように」と批判されていますが、隣の薬局は当院が経営しているわけではありません(こういう勘違いは多い)。結果として処方薬が多くなってしまっていても、薬局を儲けさせようとそうしているのではないので誤解しないで下さい。院外薬局は、処方内容に間違いがないか、現在服用している薬との相互作用がないかをきちんと確認してくれているありがたい存在です。なにより、隣の薬局は、処方薬に対する質問にもしっかり答えてくれる立派な薬局だということは強調しておきます。

 

4)「異常に空いているわけがわかりました」「とんでもない医者です」

苦情を寄せられた方が来院したときは年明けのせいでたまたま空いていたのかもしれません。ただ、「空いている」ことは必ずしも悪いことだと私は思っていません。当院では風邪症状のある方とそうでない方を分離して待っていただいています。それでもできるだけ混まないよう、風邪症状の方にはできるだけ空いている時間帯に来ていただくようにしています。こういう配慮にもときどき「なぜすぐに見てくれないのか」というお叱りを受けるのですが、感染拡大を防止するための対応策でありご理解いただいています。

と同時に、また何度も来院しなくてもすむよう、訴えていた症状に対する薬はできるだけお出しするようにしています。なんども来院するのはつらいですからね。そして、結構な数の薬となるときは、「たくさんの薬を飲みたくなければ、症状のつらさに応じて取捨選択して下さい」と説明しています。また、「思ったように改善しないときは、あまり間をあけないで受診してください」とお話しします。したがって、何回も来院するケースはそう多くはなく、それは患者の症状が改善しているからだと自分では思っています。

これまで長々と弁明してきましたが、それを読んでも納得いかないかもしれません。医学的な知識がなければ理解できないこともありますから。私は医学的見地から「これが最善」と思える診療をしているつもりです。その上で、なお患者の希望を考慮すべきだということであれば、クチコミに書き込むのではなく私に直接伝えて下さい。そのご意見に一理あればこれからの診療の質の向上に役立つのです。これまで書いてきたようなことを、診療中にひとつひとつ説明すればいいのでしょうがなかなかそうもいきませんから。

 

以前も、同じGoogleのクチコミで「人の話しを聴かない傲慢な医者」と書かれたことがあります(今は消去されています)。その批判を書いた方は当院に定期的な通院をしていた患者さんのご家族でした。書き込まれた内容からどの患者さんのことかは特定できています。そのご家族の指摘は「いつも通院している母親の訴えに、医師が耳をかさなかったために癌の発見が遅れたではないか」というものでした。このときもまさに私は寝耳に水、でした。そんな傲慢な診療をしているつもりはなかったからです。

その患者さんはいつもひとりで受診していて、それまでご家族が同伴することはありませんでした。ですから、お母さまの癌が発見されたとき、ご家族はお母さまに話しを聞いて、「なんでこんなになるまで放っておいたのだ」と憤慨されたのかもしれません。カルテを調べてさかのぼってみると、次のような経過をたどっています(なお、この方は糖尿病でしたので、定期的に採血をしていました)。

 7月:胸焼けを訴えるため胃薬を追加。定期受診の際の採血では肝機能ふくめて異常なし。

 8月:背部痛もある、と。胸焼けもあるため病院を受診するように説明。一ヶ月処方を継続。

 9月:まだ病院には受診していない、と。胸焼けが続くことから再度受診をうながす。

 10月:病院を受診して肝臓癌であることがわかる。

当時はコロナの感染拡大があったころ。それまで当院では「2ヶ月処方」といった長期処方はほとんどしていませんでした。大病院などでは2ヶ月処方はおろか3ヶ月処方が当たり前のようにおこなわれています。しかも、聴診器も当てない「変わりありませんね」の一分診療。そんなの診療ではありません。一度症状を見逃せば、あっという間に半年近くが経ってしまいます。にもかかわらず、当院でも2ヶ月処方の要望は多く、不本意ではありましたが、コロナの感染拡大を機会に2ヶ月処方を解禁にしてしまいました。

癌が見つかったこの患者の場合もちょうどそのころのことでした。訴えが気になった私はそれまでの2ヶ月処方をやめて7月、8月、9月と一ヶ月の処方で経過を診ていました。しかし、病院を受診するようになんどお話ししても受診していなかったのです。もちろん、7月の採血でなんらかの異常があれば、紹介状を書いて病院を受診させていたかもしれません。しかし、自覚症状だけで受診させ、また、なにか疑う疾患がこれといってないのに紹介状を書き、患者にその費用を請求するのは気が引けることです。

その結果、癌の発見が遅れてしまいました。病院に紹介すべきタイミングを逃さないようにしている私にとって、反省すべきところがなかったわけではありません。もっと強い口調で病院に受診するよう指示すればよかったかもしれません。採血結果もふくめて、紹介状を書くほどのケースだとは思いませんでしたから。私は日頃、患者の表情や顔色、仕草、歩き方などを注意して見ています。患者の訴えもまた同じです。その多くは不安からくるものですが、中にはそこから大きな病気につながるケースがあるのです。

ですから、この患者のご家族から「患者の訴えに耳をかさない傲慢な医者」とクチコミに書かれるとは思ってもいなかったのです。もちろん、私に傲慢さが実際にあって、私自身が自覚していないだけかもしれません。私が意地悪をしているように患者が感じることもあるでしょう。しかし、そうしたことは、私がまったく気づかないこと、あるいは、誤解にもとづく場合だと思います。ですから、気が付いたことがあったら、私に直接伝えてください。私に言えなければ当院のスタッフや薬局の方に言ってくださっても結構です。

繰り返しますが、クチコミに苦情を書いた方を批判しているわけではありません。ご意見にきちんと説明をし、私の診察・処方の意図を説明したかっただけです。その上で、なお、私を「とんでもないやぶ医者」だ、と感じられるのであればそれを私は甘受します。患者が望むことと、私が提供すべきだと考える内容が異なるのですから仕方ありません。私はあくまでも「医学的に間違っていないこと」を、患者の要望や希望にそって提供したつもりです。クチコミに投稿した方には今回の説明でご理解をいただければ幸いです。

 

やる気スイッチ

母が亡くなって五ヶ月が過ぎました。母の脳腫瘍が見つかったのは、昨年のちょうど今ごろ。それまで元気にひとり暮らしをしていましたから、病気が見つかったとき、はたしてこの家に母は戻ってこれるだろうかと思ったものです。しかし、年を越して受診した病院に入院してからというもの、母は実家に戻ってくることはありませんでした。入院当初、妹には「自宅に帰りたい」とこぼしていたようですが、私にはそんな泣き言を言うことはありませんでした。私を気遣ってのことかもしれません。

母が気ままなひとり暮らしをしていた実家は、妹夫婦が住み続けてくれることになりました。しかし、七年前に父が他界してからというもの、母が細々と断捨離をしていたとはいえ、たくさんのものが残っています。ですから、妹たちが住むにはその整理からはじめなければなりません。五十年以上も住み続けてきた家なので、家具や天袋、地袋の中からはほこりをかぶった物が次から次とでてきます。それを仕分けして、捨てに行かなければならないのですが、それなりに忙しい私たちにはその整理がなかなか進みません。

なかには「懐かしいもの」が出てきて、つい手をとめて見入ってしまいます。アルバムやアルバムに収めきれなかった写真などが何箱もあって、一枚一枚見ながら「あんなときもあったなぁ」と懐かしんでいると時が経つのも忘れます。私が小・中学校時代にもらった年賀状や、私が北海道から両親に宛てた手紙などが出てきました。ちょっと気恥ずかしい気持ちがしますが、すっかり忘れてしまった当時の思いがよみがえってきて、両親がこんなものまでとっていてくれたんだ、と目がしらが熱くなります。

都内の公立中学校を卒業するときにもらった同級生達の寄せ書きも出てきました。思えば中学二年までは勉強も運動もパッとしない存在でしたが、家庭教師をしてくれた近所の大学生のお兄さんとの出会いや、密かに好きだった女の子が隣の席になったことをきっかけに変貌をとげた中学三年生でした。そんな私ではありましたが、どういうわけか学級委員長に選ばれました。そして、勉強にも、恋心にも少しだけ目覚め、一番楽しく、充実していて、思い出深い一年になりました。

同級生には小松君という、あらゆる教科で成績が良かった生徒がいました。そんな彼に私が勝てるはずもないのですが、数学だけは負けたくないと思っていました。それが勉強に対する私のモチベーションになっていたのかもしれません。そんな私の秘めたライバル心に気が付いていたのか、色紙に「小松に負けるな!」と寄せ書きをしてくれた子もいました。その文字の下には「なに~(小松より)」の文字もあります。その小松君自身は「オヤジに負けない仕事の男になるのだ」と書いてくれました。

意外だったのは、「君の声はステキだった」とか、「男らしいやさしさが魅力!」といった女子生徒からの褒め言葉(?)があったこと。その一方で、「女の人に縁がありますように」だとか、「いつか男らしい男性になるように」という寄せ書きも。仲のよかった同級生は「きみのその笑顔に何人の女が泣いたことか!?」と書いてくれたり、思春期まっただ中の寄せ書きが多くてつい微笑んでしまいます。私としては「委員長、これからもガンバってね」と、私を「委員長」と呼んでくれた寄せ書きがうれしかったです。

また、中学一年と二年のときの担任だった長谷川ヨシ子先生(故人)からいただいた手紙もでてきました。これは私が紆余曲折のすえ医学部に合格できたことを報告する手紙への返信でした。長谷川先生は厳しい方で、生徒の好き嫌いがはっきりしていました。でも実は、恵まれない家庭の生徒を陰で支えていたり、悩みをもつ生徒に対しては親身になって相談に乗ってあげていたことを後で知りました。私は決して目立つ生徒ではなかったのですが、長谷川先生にはずいぶんと目をかけてもらったと思います。

我孫子という田舎から通学していた私に「カッペ(田舎っぺの意)」という愛称をつけたのは長谷川先生でした。校内で私を見かけると、ときどき「カッペ、しっかりしろっ」と声をかけてくれました。母が私に家庭教師をつけるきっかけになったのも先生です。それは、中学二年生のときのこと。進路に関する担任と親との面談がありました。文武両道だった私の中学校にとっては、三年生になる前にどの高校を受験するのかを相談する大切な面談です。そこで長谷川先生と母には次のようなやりとりがありました。

長谷川先生:進路については、現時点でどう考えていますか?

母:都立高校であればどこでもいいと思っています。

長:えっ? 都立高校? 今の成績では都立はどこも無理ですよ。

母:ええっ(絶句)。そうですか・・・。

帰宅した母は「今の成績だとどの都立高校にもいけない、と言われちゃったよ」と驚いたように(ちょっと怒って)言いました。それまで私たち親子は進学のことなど考えたこともなかったので、そうした現実を突きつけられて呆然となったのです。長谷川先生のことですから、私たちを目覚めさせるため、大げさに言ったのかもしれません。あるいは、現実を正直に、淡々と言っただけかもしれません。いずれにせよ、先生のこの言葉に私たち親子の尻に火が付きました。その後まもなく、私に家庭教師がついたのでした。

勉強もろくにせず、成績もよくなかった中学二年の私が、医者になりたいと思っていることを当時の長谷川先生はご存知なかったと思います。私自身が先生にそのようなことを話すわけもなく、ましてや母がそんなことを先生に伝えるはずもありませんから。もしかすると、私が北大医学部に合格したことを手紙で長谷川先生に報告したとき、そこにそれまでの自分の履歴を書いたのかもしれません(よく覚えていません)。でも、その返信はまるで自分のことのように喜んでくれるものでした。

**************** 以下、先生からの手紙(抜粋)

「やったー」、初志貫徹。
「偉い」の一言に尽きます。男の中の男です。
なつかしいお便りをいただき、うれしく胸がいっぱいになりました。

私の一番好きな都の住民になってくれた事が何よりもうれしいことでございます。
初心を貫くことの出来なかった私の夢を貴君が実現させてくれそうで本当にうれしいです。
大いに学び、他人の為に尽くして下さる事を望んでおります。

医学の道は果てしないですが、君ならくじけず、達成してくれるものと確信いたしております。
どうぞくれぐれも身体に気をつけられ、多くの人々の温かい心に背く事なく、
初心を完成させていただきたいと思います。

***************** 以上

この手紙の中で、長谷川先生も医師を目指していたときがあり、しかし、戦中・戦後の混乱の中でその夢をあきらめざるを得なかったと書いてありました。また、先生の親族には、戦前、北海道帝国大学の医学部を卒業した医者が何人かいらっしゃったとのこと。「札幌はなんども旅行に行った好きな場所」とも書かれてあって、もしかすると長谷川先生も北海道大学を目指していたのかもしれません。だから、私が北大医学部に合格したことがなおさら嬉しかったのでしょう。こんな手紙をいただけるのは生徒冥利に尽きます。

その後、何度か長谷川先生からお手紙をいただきました。その中で、私が中学校時代に数学を教わった先生が、ご自分の学校の生徒達に「夢をあきらめなかった教え子が医学部に合格した」と話していると教えてくれました。その数学の先生は、授業でよく難しい問題を生徒に出題していました。私が密かに小松君と競っていたことを知っていたのか、私がそうした問題に小松君よりも早く正解すると「セバタ、できますねぇ」と褒めてくださいました。先生は私の「やる気スイッチ」をいれてくれたお一人でした。

先日、茨城県の公立中学校の「職業別講演会」に参加し、生徒さんに「医師という仕事」というお話しをしてきました。毎年、何校かの中学校で同じような講演をするのですが、生徒さん達は熱心に話しを聴いてくれます。いつもは中学二年生か三年生なのですが、今回は一年生の生徒さんが対象でした。ついこの間まで小学生だった中学一年生。はたして私の言いたいことが伝わるか少し心配でした。しかし、それは杞憂だったようです。生徒さん達はみな、瞳をキラキラ輝かせながら聞いてくれました。

私が生徒さん達に伝えたいことは、「医師という仕事」のことではありません。中学校二年生までダメダメ人間だった私が、いかにして夢だった医師という職業にたどり着くことができたかということ。私の経験を通じて、どんなことであっても「今からでも間に合う」と頑張ることが大事だということを知ってほしいのです。私は、遅まきながら中学校三年のときに勉強することの大切さ、面白さを知りました。それは多くの人たちのお陰でもありますが、そこから勉強をはじめたことが医師になる第一歩でした。

その一方で、講演を通じて生徒さん達には「人生はなんどでもやり直しができる」ということに気が付いてほしいと思っています。一回や二回の失敗、もっといえば何度失敗してもやり直しができるのだということです。高校三年の春に、それまで習ってきたドイツ語を捨て、英語で受験することを決心したときがそうです。先輩に「なんでドイツ語なんて選んだんだ」と言われ、その後の受験に絶望していたら大学にいけなかったかもしれません。「これから英語の勉強をはじめよう」と思えたからこそ今の自分があるのです。

いちどは医学部をあきらめて電子工学の道を選びました。でも、就職するのをやめ、医学部再受験を決断するまでに、いろいろな人が背中を押してくれました。アルバイト先の守衛のおじさんだったり、医学部に再受験して合格した新聞記者の体験記だったり。「なんどやってもダメなら就職先ぐらいは紹介するから」と言って下さった大学の就職担当の先生など、いろいろな人との出会いが今につながっています。大学で就職しなかったのは私だけでした。そのときの孤独と不安を乗り越えられたのもそうした人たちのお陰です。

このように、私が生徒さん達に強調しているのは、「気が付いたときがスタート」であり、「なんどでもやり直しができる」ということ。どういう仕事に就くかを考える上で、「社会的地位が高い」とか、「給料が高い」といったことだけで選んではいけません。そうしたことはあくまでも十分条件(あればなおいいこと)なのです。必要条件(はずせないこと)は「自分自身がやりたい職業」であり、「自分に向いている職業」であるべき。そうした視点から自分にふさわしい職業を考えていくことが大切だと思います。

自分が天職だと思える職業に巡り会えた幸運な人は多くはないかもしれません。やりたくもない仕事を歯を食いしばって続けている人だっているはずです。あるいは、あれほどやりたかったことなのに、実際に働いてみるとつらくて仕方ない場合すらあります。しかし、それでもいいのです。なぜなら、「気が付いたときがスタート」であり、「人生はなんどでもやり直せる」から。どんなことであろうと、自分の「やる気スイッチ」に気づき、どのようにそのスイッチを入れるか、にかかっています。

私の半生を通じて学んだのは、「生きるのがつらいと感じるのは、多くの場合、他人と自分を比較するとき」だということ。他人がどんな大学に行き、どんな会社に入ろうが自分には関係ない。それと同じように、自分がどんな進路に進もうが、どんな職業に就こうが他人にはなんの関係もないのです。そうしたことに気付くことが大切だと思います。これから社会という荒波に飛び込んでいく子ども達に私は、人生を「勝ち・負け」で考えるような「くだらない大人」にならないでほしいと思いつつお話ししています。

とはいえ、子ども達の「やる気スイッチ」を押すべく講演をしながら、実は、その話しを聞いてくれる生徒さん達に私自身の「やる気スイッチ」を「ON」にしてもらっている今日この頃です。

※ 未来のある子ども達に贈る歌  「壊れかけのRadio」

※ 中学生のころの自分に贈る歌  「帰れない二人」

 

AIと医療のはざまで

以下の文は、医師会雑誌に投稿したものです。AIなどをはじめとするコンピューター・サイエンスの発達は、これからの社会を大きく変えていくことでしょう。それらの変化が、人類の生活の質の向上に寄与するものになるのか、それとも人類社会に危機をもたらすものなのかはわかりません。しかし、すべては我々人類の英知と倫理観にかかっています。

************************** 以下、本文

私が大学に入学したころ、いわゆるデスクトップ型PCと呼ばれる汎用パソコンが世の中に広まり始めました。当時はまだ「パソコン」、すなわち、パーソナルコンピューター(PC)という言葉すら広く認知されていなかった時代でした。今でこそアップル社製のコンピューターが人気ですが、当時はそれほど注目されておらず、むしろ、タンディ・ラジオ・シャック社製のTRS-80というマイクロコンピューターが知られていました。

CPUもまだ8ビットが主流であり、ザイログ社のZ80を搭載しているPCが多い時代でした。「16ビットのCPUが出た」という話を聴いて「すげぇ」と言っていたころでもあります。ちなみに現在のCPUは64ビット単位でデータ処理をしていますし、クロック周波数もギガ単位です。Z80のそれはメガ単位で、今の1000分の1だったことを考えると隔世の感があります。

 

コンピューター自身も、これまでのノイマン型と呼ばれるデータを逐次処理するタイプから、同時に複数のデータ処理をおこなう量子コンピューターへと革新的な変化を遂げています。そして、コンピューターが活用される場面も大きく変化しています。単なるデータ処理や複雑な計算だけではなく、さまざまな機器の操作や制御などにも活用されており、現代社会には不可欠なものになっています。

AI(artificial intelligence)技術の進歩は世界を大きく変えようとしています。大学生のころに話題となっていたPrologという論理プログラミング言語は、今の人工知能のはしりともいえるものかも知れません。Prologは、事象や事物との関連性を理解し、推論するためのコンピューター言語です。我々が話している言葉の解析、あるいは人間の認知・認識を質的に分析するツールとして利用されてきた人工知能の基盤ともいえるものです。

 

こうしたコンピューター技術の進化は、これからの人々の生活を確実に変えていくでしょう。たくさんの知識をもとに判断していくという作業がまさに劇的な変化をとげるのです。法律の知識を駆使して法的な解釈をする弁護士の仕事、原稿を読み上げるだけにとどまらず、人との会話を通じてものごとを伝えるアナウンサーや解説者の仕事。そして、私たちの医療の領域においても決して例外ではありません。

 医師としての仕事の多くも、医学的知識を通じて病歴や症状、検査結果から疾患を診断し、治療方法を選択する作業です。現在の診療は医師の裁量権が大きいため、医師個人の力量によって診断の精度、治療効果が大きくかわってきます。しかし、AIを中心とするコンピューターサイエンスの発達によって、診断・治療の標準化・最適化をはかることが可能です。これは科学技術の発達にともなう大きな福音だともいえるでしょう。

 

AIによって医療の風景はずいぶんとちがったものになるはずです。病理診断や画像診断、あるいは皮膚科診療などはある種のパターン認識に支えられているため、AIにとって変わられる可能性の高い分野です。さらにいえば、内科診療全般もそうなるかもしれません。そして、医師でなくとも多少の医学的知識さえあればコメディカルの人たちでも代行できるようになる。その結果、医師の数を削減して、医療費の抑制にも寄与するでしょう。

また、AI診療によって疾患の管理がおこなわれるようになるかもしれません。スマートウォッチで定期的に測られた血圧の値、自己血糖測定機器からの血糖値はクラウドデータベースに送られます。また、自分の都合のいいときに、都合のいい病院で採血をしたデータもクラウドデータベースに送られて医療機関に共有されるのです。そして、それらのデータがAIによって解析され、投与薬が処方され、適宜病院を受診するよう指示されます。

 

在宅医療も大きく変わるでしょう。タブレットをもった保健師が各患者宅をまわり、訪問時のバイタルと患者の状態をAIに送ります。すると、経過観察でいいのか、それとも病院への受診を勧めるべきなのかの指示が送られてくる。訪問する保健師も忙しい医師の指示を待つまでもなく、AIからの指示が逐次送られてくるので安心です。患者を病院に受診させる際も、これまでのバイタルと状態像をデータとしてすみやかに紹介病院に送れるのです。

病院への受診スタイルも変わります。初診で訪れた病院では、まず、電話ボックスのような初診ブースに入ってモニター画面の前に座ります。そして、マイクに向かって自分の症状を語り、AIが問いかけてくるいくつかの質問に答えると「受診すべき診療科」が指示される。一方、該当する診療科の初診医のモニターには、その患者の訴えと鑑別疾患が提示されます。初診医は簡単な診察と確認を行なって暫定的な診断を下すと、AIは必要な検査や投与薬を外来医に提示するのです。

 

こうした風景が現実のものとなるのでしょうか。あるいは弁護士や医師といったいくつかの専門職がなくなってしまうのでしょうか。判断の中立化・標準化・精緻化といった作業はAIの得意とするところであり、人間が介在することが当たり前だった作業がAIに置き換わることの影響ははかりしれません。とくに医療の現場を陰で支えてきた医師・患者関係は大きくさまがわりすることでしょう。

科学技術のめざましい進歩・発展とともに、人と人とのつながりが希薄なものになっていく可能性は否定できません。世の中がより効率的になり、精確で緻密なものになることの意義は大きいとはいえ、非効率で不正確でおおざっぱな部分、すなわち、ある種、人間的な温かみを感じる側面がなくなっていくのです。それはまるで、標準化・均一化の代償として社会を「誰がやっても同じ」という無味乾燥なものにしてしまうように思えてなりません。アナログがデジタルに飲み込まれようとしている現代社会にとまどう今日この頃です。

歴史の転換点(6)

まことに小さな国が開化期を迎えようとしている。小さなといえば、明治初年の日本ほど小さな国はなかったであろう。産業といえば農業しかなく、人材といえば三百年の間、読書階級であった旧士族しかいなかった。

明治維新によって、日本人ははじめて近代的な「国家」というものを持った。誰もが「国民」になった。不慣れながら、「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。その痛々しいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。

社会の、どういう階層の、どういう家の子でも、ある一定の資格をとるために必要な記憶力と根気さえあれば、博士にも、官吏にも、軍人にも、教師にもなりえた。ともかくも近代国家を作り上げようというのは、もともと維新成立の大目的であったし、維新後の新国民達の少年のような希望であった。

この小さな日本は、明治という時代人の体質で前をのみ見つめながら歩く。のぼっていく坂の上の青い天に、もし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて坂をのぼっていくであろう。

************** 以上、NHKドラマ「坂の上の雲」より(一部改変)

1859年(安政6年)10月27日は吉田松陰先生が江戸伝馬町の牢屋敷で斬首の刑に処された日です。この日を境に日本というアジアの小国の歴史は大きく動いていきました。吉田松陰は長州藩の萩にあった松下村に石高26石(今の通貨価値にして年収300万円)の下級武士の次男として生を受けました。松陰の父は、武士とはいえ、ふだんは農業をしながら生活をしなければ大家族を食べさせていくことはできませんでした。しかし、松陰は幼い頃から勉学にはげみ、9歳の時に長州藩の藩校である明倫館の師範になります。

松陰の勉学に対する貪欲さは余人をもって代えがたく、幼いときから続けてきた山鹿流兵学(軍事学)の座学にとどまらず、13歳のときには長州藩の軍を率いて軍事演習を指揮しました。そして、20歳のときは長崎の平戸藩に遊学して海防学を学ぶかたわら、当時は大国と考えられていた中国(ときの清)がイギリスによって蹂躙され、その原因が西欧の軍事力が強大であったこと、事前にイギリスが持ち込んだアヘンによって清の社会・内政が混乱していたことにあると松陰は知ります。

アジアに次々と進出してくる欧米列強。その熾烈な植民地政策の実情を知ったとき、日本がこのまま鎖国という眠りについたままでいれば、やがて清やアジア諸国のように欧米列強に飲み込まれてしまうことに気が付いていました。そこで諸藩が一致して外国からの脅威にそなえ、欧米に肩をならべるほどの国力を高めなければならないと松蔭は考えました。そのためには欧米を直接その眼で見ておきたい。書物の中の欧米ではない、実物大の欧米を知ってこそ日本を守ることができると信じていたのです。

1853年、23歳になった松陰は、浦賀にアメリカの4隻の軍艦がやってきたことを知ります。そして、浦賀で実際に見た軍艦の大きさ、積載していた大砲の多さ、なにより船の動力が蒸気機関であることを見て愕然とします。「こんな国と戦争となれば日本はたちどころに負けてしまう」。そんな思いに全身が震えたことでしょう。しかし、一途な松陰は、日米和親条約の締結のために係留しているポーハタン号に乗船しようと企てます。アメリカへの密航を考えたのです。鎖国をしていた当時、こうした行為は死罪にあたる重罪でした。

ちなみに、ポーハタン号は、安政の大獄のあった1860年に、日米修好通商条約の批准のため、アメリカに向かう小栗忠順ら幕府の使節団をサンフランシスコまで乗せています。その4日前に横浜を出港したのは有名な「咸臨丸」。こちらはオランダで造船された幕府海軍の練習艦で、幕府の海軍奉行の他、勝海舟や福沢諭吉、通訳のジョン万次郎などが乗船していました。これが日本の国際舞台へのデビュー。不思議の国・日本の使節団に対するアメリカ政府および国民の歓迎ぶりは異例ともいえるものでした。

さて、ポーハタン号へ乗船してアメリカへの密航を企てた松陰ですが、条約調印の障害となることを恐れたアメリカ側はそれを認めませんでした。その結果、松陰は下田奉行に密航を企てたと自首し、牢に投獄されます。幕府内では彼の扱いにはさまざまな意見があったようです。とくに、当時、アメリカとの条約を締結すべきか決めかねていた筆頭老中の阿部正弘。しかし、彼は「松陰を死罪にすべき」との声を抑えて助命することを決めます。そして、長州に戻して蟄居させるという形で解決しました。

長州にもどった松陰は藩によって野山獄に幽閉されます。そして、そこで囚人達に中国の古典を教え、これからの日本が目指すべき道を説きました。牢獄はさながら藩校のようでした。一年を経て獄から解放された松陰は松下村塾を開きます。そこには松陰の教えを請いに長州中から、のちに激動の時代を駆け抜け、近代国家日本の礎を作るたくさんの若者(伊藤博文、高杉晋作、品川弥二郎など)が集まりました。この松下村塾は、同時代に大阪にあった適塾とともにまさに人材の宝庫となったのです。

松陰を助命した老中の阿部正弘は福山藩藩主で、25歳のときに老中になった秀才でもありました。条約に調印するようになかば恫喝するアメリカと、調印はまかりならぬと勅許を出そうとしない朝廷の板挟みになって体を壊します。そして、当初は勅許なしでの条約調印に反対していた大老の井伊直弼が翻意してしまいます。1858年、幕府は勅許を得ぬまま、アメリカと日米修好通商条約を締結してしまうのです。強引とも思えるこの幕府の決定は、阿部に代わって筆頭老中となった真鍋詮勝らが主導していました。

それまでの日本は、権威は朝廷の天皇に、そして、天皇から「征夷大将軍」を宣下された権力者が幕府の将軍として全国を統治する、という国家体制をとっていました。にもかかわらず、外国からの圧力に屈し、勅許も得ぬまま条約を締結した幕府。当時の吉田松陰は、徳川慶喜を将軍に担ぎ上げようとしていた一橋派の思想背景となった水戸学(水戸藩の「尊皇攘夷・天皇を中心とする国体」という思想)に影響を受けていました。そうした背景から、松蔭は幕府の決定に激怒し、老中真鍋詮勝の暗殺を企てるのです。

しかし、あまりにも過激で早急すぎる松陰の計画に賛同するものは多くありませんでした。そして、なかなか計画通りにことが進まぬうちに、幕府からの報復を恐れた長州藩によって松陰はとらえられ、真鍋暗殺の計画は頓挫します。そのころの日本は、開国を迫る欧米に門戸を開こうとする開国派と幕藩体制を維持して外国勢力を打ち払おうとする攘夷派によって社会が二分されていました。その対立は、日米通商修好条約の締結時にピークを迎えます。攘夷派を中心とする勢力が全国で武力闘争を繰り返したのです。

条約締結の数ヶ月前に大老となった井伊直弼は、開国を批判してきた一橋派の武家はいうに及ばず、攘夷派を支持する公家や尊皇攘夷の思想をもつ人々を次々と逮捕していきました。そして、死刑をふくむ処分によって、革新思想をもつ人々を徹底的に弾圧したのです。変革期を迎えようとしていたこのとき、獄中にあった松陰は、その取り調べで老中真鍋の暗殺計画を自供します。当初は死罪まで考えていなかった井伊直弼でしたが、老中真鍋暗殺の企てを見逃すことはできず、安政6年10月27日に松蔭は打ち首になるのです。

処刑される前日、松陰は江戸の小伝馬町の牢屋敷で「留魂録」という本を一気に書き上げます。そして、そこで松下村塾や獄中の弟子達に向かって死生観を述べました。この留魂録は、牢中の一人の弟子に託されます。その後20年を経た明治9年(1878年)、刑を終えて獄を出た弟子が、県令(県知事)となった松下村塾の門弟に届け、世に出るのです。それまで伊藤博文をはじめとするたくさんの門人達が明治政府の要人となっていました。ちなみに伊藤博文は1885年に初代内閣総理大臣になっています。

令和4年7月12日、ひとりの愚か者の凶弾に倒れた安倍晋三元総理大臣の葬儀がおこなわれました。そこで昭恵夫人が次のような挨拶をしました。

********************** 以下、挨拶内容要旨

父・晋太郎が亡くなったあとに主人は追悼文の中で、吉田松陰先生の留魂録を引用しました。

「10歳には10歳の、おのずからの春夏秋冬、季節がある。20歳には20歳の、50歳には50歳の、そして100歳には100歳の人生にそれぞれの春夏秋冬、季節がある。安倍晋太郎は総理を目前に亡くなり、志半ばで残念だとひとは思うかもしれない。しかし、父の人生は父なりの春夏秋冬があったのだろう。いい人生だったに違いない」と書いていました。

主人の67年も、きっと、彩り豊かな、ほんとにすばらしい春夏秋冬で、大きな大きな実をつけ、そして冬になったのだろうと、思いたいと思います。そして、その種がたくさん分かれて、春になればいろんなところから芽吹いてくることを、きっと主人は楽しみにしているのではないかと思っています。

********************** 以上

私がこのブログで、繰り返し若い人たちにエールを送り、彼等に期待することは、松陰先生が留魂録で弟子達に呼びかけたことと同じです。つまり、「死にゆく人は残された人に語りかけている」「残された人たちはその語りかけに耳を傾けるべき」ということです。人はいつか死にます。死ぬことは淋しいことではありますが、絶望ではありません。ましてや忌み嫌うものでもありません。死は、私たちが生きることと無関係ではないからです。留魂録には次のような文があります。

「稲は四季を通じて毎年実りをもたらすもの。しかし、人の命はそれとはことなり、それぞれの長さ、それぞれの寿命にふさわしい春夏秋冬がある。(これから死罪となる)自分はまだ三十歳ではあるが、稲にたとえれば稲穂も出て、実をむすんでいるころであろう。もし、私の誠を『引き継ごう』と思う人がいてくれるなら私の種は次の春の種籾かもしれない。私の人生は中身の詰まった種籾だったということになるのだ」

松陰先生は「七生説」という文章にも次のような文を残しました。

「公のために私を捧げる人もいる。その一方で、私のために公を利用してはばからない人もいる。前者は『大人』というべき立派な人間だが、後者は『小人』という下劣な人間である。下劣な人物は、体がほろびれば腐りはて、崩れはててなにも残さない。しかし、立派な人間というものは、たとえ体が朽ちても、その人物の心は時空を越えて残り、消えることはない。私のあとに続く人たちが、私の生き方を通じて奮い立つような生き方をする」

安倍晋三元総理は、同郷でもある吉田松陰を尊敬していたといいます。これまで日本には104代65人の総理大臣がいましたが、歴史に名を残し、後世の人に名が知られている総理大臣は決して多くはありません。私利私欲のために総理になった人もいるでしょう。なるつもりのなかった人が総理になってしまったこともあります。また、総理大臣になることだけが目的だった人も少なくありません。それは世界においても同じ。アメリカの歴代大統領をふりかえっても日本のようなことが繰り返されてきました。

今、世界は、そして、日本は大きな変革期を迎えています。とくに日本にとっては明治維新や大東亜戦争(第二次世界大戦)にも匹敵する転換点だともいえるでしょう。その変化を感じ取って、社会の動きを自分のこととして考え、行動する人が増えてほしいと思います。吉田松陰先生の遺志は、初代内閣総理大臣である伊藤博文に引き継がれ、その後の政治家達にも受け継がれてきました。近年においては安倍晋三元総理、そして、はじめての女性宰相である高市早苗氏にもその系譜があるのです。

有名なことわざに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」という言葉があります。ほとんどの国民はそんな大業を残すことはなく、名もなく生まれ、名もなく消えていきます。ごく限られた人だけが、社会に、そして、歴史に名を残す「大人」となるのです。抱いた志を貫徹できる人もいれば、志半ばに倒れる人もいる。「大人」かどうかは、あくまでも個人の人生の結果でしかありません。「大人」であれ、「小人」であれ、それぞれの生き方があるのみです。松陰先生は「諸友に語る書」にこうも書き残しています。

我を哀しむは、我を知るにしかず。
(私の死を哀れむのではなく、私のことをよく理解してほしい)
我を知るは、我が志を張りてこれを大にするにしかざるなり。
(私のことを理解するということは、私の志を受け継ぎ、さらに大きなものにすることにほかならない)

ここ最近の変化は、これからの世界を大きく変えるものになるでしょう。その世界の変化の触媒ともいえる存在がアメリカのトランプ大統領だと思います。そして、日本での触媒となっているのが安倍晋三元総理かも知れません。安倍総理は、国際政治の経験がまったくなかったトランプ大統領に会いに行き、世界情勢について詳細に説明したといわれています。アメリカ大統領として世界の表舞台に立ったとき、トランプ大統領は安倍氏の助言が正しかったことを確信。安倍氏との友情は信頼に変わったといいます。

このように吉田松陰の思想は、150年という時空を超え、日本を、そして世界を変えようとしています。とくに安倍元総理の薫陶を受け、安倍氏の遺志を継ぐことを表明して高市早苗氏が第104代内閣総理大臣になりました。高市総理が彼女の「志」を成就できるかどうかは不透明です。政権内部や党内から不協和音が生じて、あるいは、国民の支持を失って高市内閣は短命に終わるかもしれません。しかし、これまでの「大人」のように、高市総理自身が次の世代への種籾になるべく、初志貫徹していただきたいと思っています。

※ 今日(28日)、安倍元総理暗殺事件の裁判が開廷されました。また、アメリカのトランプ
大統領が来日し、高市総理大臣とのはじめての日米首脳会談が開かれたのも今日です。
昨日(27日)が安倍元総理が尊敬する吉田松陰先生の命日だと考えると、
なにか因縁めいた
ものを感じます。

烏合の衆になるな(2)

今、にわかにインフルエンザが感染を拡大していると報道されています。事実、松戸保健所からの定期連絡でも、管内のインフルエンザ患者は増加しているようです。外国人観光客がウィルスを持ち込んだための早期流行だとする識者もいます。しかし、最近のインフルエンザは、COVID-19(新型コロナ)と同じように季節を問わずに患者が発生しています。しかも、それらのウィルスに感染した患者は、倦怠感や頭痛、関節痛といった随伴症状が多少強めにでますが、重症化するケースはほとんどないのが特徴です。

ですから、「インフルエンザ流行中」とマスコミが騒ごうとも、あわててワクチンを接種したり、風邪症状があるからといってすぐに医療機関に駆け込む必要などありません。そもそもインフルエンザであれ、COVID-19であれ、「治す薬」というものがないのです。留意すべきことは、あくまでも「重症化しないこと」。そして、「重症化のサインを見逃さないこと」。この二点に注意しながら、感染患者からうつされないようにし、万が一感染しても他者にうつさないような配慮を忘れないこと。このことに尽きます。

「重症化しないこと」と「重症化のサインを見逃さないこと」には密接な関係があるので、これらのことをまとめてお話ししたいと思います。まず、大切なことは、感染しないよう・感染させないようにすることです。そのための基本は、「マスク・手洗い・解熱しないこと」です。「マスク・手洗い」は容易に理解できるだろうと思います(とはいえ、最近の新型コロナ感染の状況から、「マスク・手洗いは無意味だった」と考える軽率な人がいますが、それは間違いです)。問題は「解熱しないこと」です。

解熱しないこと」については、当院に通院する患者さんにはだいぶ理解してもらっています。しかし、多くの人はいまだに「熱がでたら解熱剤でさげる」のが当たり前だと考えています。当たり前というよりも、「高熱=重症=死」と思って解熱剤を飲まずにいられない人が少なからずいるのです。「風邪薬(解熱剤)を飲まないでください」と説明すると、「風邪薬を飲めば2、3日で良くなる」と言う人もいます。でも、そうしたケースは、風邪薬を飲まなくても「2、3日でよくなっている」のです。

解熱剤や風邪薬を服用して熱がさがった人たちはどう行動するでしょうか。熱がさがったからと、会社や学校に行っている人たちが必ずいます。「そもそも休めないから解熱しているんじゃないか」とおっしゃる方もいるかもしれません。「熱ぐらいで休むな」と上司や教師から厳命されている人だっているかもしれません。あるいは「検査でインフルエンザやコロナの抗体が陰性だったのだから」とタカをくくって出勤・登校する人も。でも、熱が出てからしばらくの間は他の人に移しやすいことを忘れてはいけません。

熱が出たら、原則的に会社・学校を休んでください。そして、熱があっても安易に下げない。もし、解熱剤なしでも24時間は様子を見て、体温が再上昇する気配がなければマスクをして出勤・登校する。なにより他の人に感染を広めないためです。くれぐれも風邪薬を飲みながら職場に行く、学校に行かせる、といったことがないように。「あなたのため」というよりも「他者への配慮」だからです。検査など必須ではありません。ましてや「インフルエンザのタイプは?」なんてことを調べるのはまったく無意味です。

「重症化しないようにする」ためには、まずワクチンを接種することが大切です。そして、感染してしまったら、自宅で安静にしながら充分な休養をとる。そして、重症化のサインを見逃さなければいいだけです。ワクチンについては、「COVID-19のワクチンを接種しても、あれだけたくさんの死者や重症者を出したのだから無意味」と言う人たちがいます。でも、それは間違った考え方です。感染した人があれだけいれば、死者や重症者だってそれだけの数になるはず。分母と分子の数を考慮して判断すべきです。

「ワクチン接種によって重い副反応を起こしたケースがあんなに多かったじゃないか」ということについても同じです。新型コロナワクチンは当初から「数十万人にひとりの割合で重篤な副反応が出る可能性がある」といわれていました。そして、それは今、おおむね正しかったことがわかっています。重い後遺症を背負うことになった気の毒なケースについても、ワクチンを接種したときに起こることがある「ADEM(急性散在性脊髄炎)」とよばれる副反応であって、新型コロナワクチンに特有な薬害ではありません。

「ワクチンは接種した方がいいですか」と質問されることがあります。そんな時、私は次のように答えています。「どんなワクチンにも副反応がおこることがあります。その副反応が重い場合もあるため、安全性が担保されたワクチンであれば積極的に接種してください。とくに、命に関わるような疾患であり、かかっても治療薬がない場合はワクチン接種は必要です」と。したがって、インフルエンザワクチンについては、そのワクチンの安全性はある程度確認されており、積極的に接種することをお勧めしています。

その一方で、新型コロナウィルスワクチンについては、mRNAワクチンそのものが新しいワクチンであり、長期的な安全性にはまだ疑念が残るという意見があります。しかし、新型コロナが流行しはじめたときのように、多くの人が重症になったり、亡くなったりしている状況においては積極的に接種すべきです。でも、重症患者がほとんどいなくなった今、あえて接種をしなければならないとは思いません。長期的なリスクをうわまわるほどのメリットを感じないからです。こうした考えはあくまでも私個人のものなのです。

インフルエンザに限らず、感染症が重症化するのは気温の低い冬季だとされています。それは乾燥していてウィルスがなかなか死滅しにくいということ。また、空気の乾燥が人間の鼻やノドの粘膜における感染防御機構を弱らせてしまうといわれています。さらには、日照時間が短くなることによって人間の免疫力そのものが低下することも指摘されています。したがって、インフルエンザに限らず、感染症に対するワクチンの接種は、来年の1,2月にワクチンの効力がピークとなる11月頃がいいのではないかと思います。

インフルエンザであれ、COVID-19であれ、重症化して死ぬ直接的な原因は肺炎です。ですから、単に高熱になった場合であれば怖がる必要はなく、「高熱をともなう咳が続き、息苦しさがあるとき」にこそ注意が必要です。高熱が続いたとしても、3日目に解熱傾向となっていれば問題ありません。3日目になっても高熱が続き、寝床からトイレに移動するだけで息切れがするような場合は肺炎を疑うべきです。医療機関に電話をして相談して下さい。「咳と高熱」があればすぐに受診、ということではありません。

これまでお話ししたことは、すでに何回もこのブログで書いてきました。当ブログ内の検索をして、是非読み直してみて下さい。最後に、COVID-19(新型コロナ)が流行をはじめた2020年に医師会雑誌に投稿した文章を掲載します。いい加減な情報や、恣意的な意見に振り回されてはいけません。くれぐれも「烏合の衆」にならないでください。どの情報が信頼できるものなのかを見分けることは難しいと思います。でも、いろいろな情報に接し、できるだけ理性を働かせ、その正しさを判断する努力こそが重要です。

 

************************************ 以下、当時 (2020年8月)の掲載文

 昨年秋、新型コロナウィルスの流行は中国・武漢市からはじまったとされています。そして、そのウィルスは年があけた1月にインバウンドの勢いを借りるようにして日本に上陸しました。その後、諸外国ほどではないにせよ、感染者の数は増加の一途をたどっています。一時、重症者の数が横ばいになり、「もうすぐピークアウトか」と噂されましたがそれも期待外れに。東京などの大都市を中心にPCR検査陽性の人がにわかに急増し、ついに緊急事態宣言が出されてしまいました。

 それにしても、新型コロナウィルスは、まるで日本に来襲したシン・ゴジラであるかのようです。日本の、そして日本人のさまざまな問題点を明らかにしたのです。これまで日本は、SARS、MERS、そして新型インフルエンザといった外来感染症の危機に何度かさらされました。にもかかわらず、日本には「本格的な防疫体制」というものがないことがわかったのです。また、リーマンショックを越えるかも知れないという経済危機に、政府は今もなお経済を支えるための有効な手立てをとれないままです。

 一方で国民はどうかといえば、戦後の混乱を切り抜け、オイルショックを乗り切り、震災・原発事故を克服してきたはずだというのに、この混乱の中で依然として「買いあさり」と「買い占め」をやめられない人が少なくありません。また、日本人特有の「根拠なき楽観主義」によって、不要不急の外出、集会やコンサートの自粛が求められる中、海外旅行を我慢することも、夜の歓楽街をさまようことを控えられない人たちもいます。今、抗原検査陽性の人の数を増やしている原因の一部は、こうした「困った人たち」です。

 検査の実施件数もまさにうなぎ登りです。医学的知識もないド素人の国会議員が「検査を増やせ。希望するひと全員に検査を」と耳障りのいい主張を繰り返します。しかし、新型コロナウィルスのPCR検査は感度も特異度もそれほど高くなく、擬陽性や偽陰性の問題が無視できません。そんな検査を事前確率も上げないまま実施すれば、本来は入院を必要としない偽陽性者が病床を占拠し、偽陰性の患者が無自覚に感染者を増やすことにもなります。無知な政治主導はなにもしないことよりも恐ろしい。

 挙げればきりがないほどのダメダメぶりに、出てくるのはため息ばかり。この原稿が読まれるころも、まだそんな状態が続いているのでしょうか。保健所や検疫所の職員、感染患者の治療にあたる医療従事者が、感染する危険にさらされながらいっぱいいっぱいでやっています。お気楽な一般人がそうした人たちを見て見ぬ振りなのは仕方ないとしても、まさか医師会の先生方がその「今、危機にある人たち」から目をそらしていないでしょうね。いろいろなところで日本人の民度が試されているのです。

 とはいいながら、つくづく高病原性鳥インフルエンザでなくよかったと思います。オリンピックも仕切り直し。中国製品とインバウンド頼みだった日本経済も反省を余儀なくされ、感染症対策もふくめてすべてを抜本的に見直すことになるでしょう。将来、ふたたびやって来るだろう恐ろしい未知の感染症のため、今、経験していることすべてをこれからにつなげなければなりません。そして、「あのときの辛い思いがあったからこそ」と思えるような日本にしていきたいものです。

 

涙なき別れ(2)

今年の正月に入院し、病気療養中だった母が7月28日に亡くなりました。行年92歳でした。半年あまりの闘病生活でしたが、痛みなどのつらい症状に苦しむこともなく、ロウソクの火が消えるような大往生でした。先日、四十九日の法要が終わりましたので、今回は母のことを書きます。

もともと母はたくさんの病気を抱えていました。まるで「病気のデパート」といってもいいほどです。高血圧や高脂血症、糖尿病はもちろん、気管支喘息や狭心症、心房細動の既往があり、心筋梗塞・脳梗塞で何回か入院もしました。自分で車を運転していたころには、二度も自損事故を起こしたりもしました。いずれの事故も乗っていた車が廃車になるほど大きなものでしたが、幸いにも怪我は骨折程度で済みました。そうした中で長生きできたのですから、まさに「誰かに守られていた」のかもしれません。

母は幼い頃に実母を病気で亡くしました。母の実父、つまり、私の祖父は優しい人でしたが、いろいろな商売をやってもうまくいかず、五人兄弟の長女だった母は子どもの頃から苦労が絶えなかったと思います。母が結婚した私の父はわがままで厳しい人でしたから、結婚生活も必ずしも幸せなものとはいえなかったかもしれません。戦後まもなく建てられたバラックのような官舎の狭い一室で私たちの生活ははじまりました。小さい頃を思い出すと、裸電球がぶら下がった粗末で小さな部屋の光景が必ず浮かんできます。

母と父は同じ歳の幼なじみでした。七人兄弟の末弟だった父の長兄と母の叔母(母の父親の妹)が結婚した関係で小さいころからの知り合いだったのです。なにかの行事で親戚が集まったとき、叔父が「君たちの両親は恋愛結婚なんだよ」と教えてくれました。喧嘩ばかりしている両親を見てきた私にはにわかに信じられなかったのですが、そのことを両親はあえて否定も肯定もしなかったのをみるとそうだったのかも知れません。私の両親は喧嘩ばかりする友達のままだったのでしょう。

父が亭主関白だったかというと必ずしもそうではありませんでした。母は口うるさい父に服従することは決してなかったのです。父親はいつも同じ時間に帰宅します。帰宅した父がすぐにはじめるのは掃除。ずぼらな母の掃除が父には気に入らなかったからです。文句を言いながら掃除機をかけはじめる父。仕事で何かあって機嫌が悪いときは、怒りだして母に手をあげることすらありました。そんなとき、子どものころの私は部屋の中でじっと耐えていましたが、中学生ぐらいになると仲裁に入り、暴れる父を止めたりしました。

母はそんな父にはお構いなしに、あくまでもマイペースでした。私は子どもながらに「文句を言われないようやればいいのに」と思ったものです。こんなことがありました。そろそろ父が帰ってくるという時間なのに、母は近所のおばさんと楽しそうに台所でお茶を飲んでいます。でも、父が帰ってきて怒りながら掃除をはじめることを知っていた私は気が気ではありません。だからといってご近所さんとの話しに夢中な母親に、「そろそろ掃除をした方がいいよ」と耳打ちすることもできません。

私は仕方なく、母の茶飲み話しの邪魔にならぬよう、台所以外の部屋を片付け、簡単に掃除をすることにしました。父が帰ってきても機嫌が悪くならないようにするためです。私はいつしか毎日掃除をするようになりました。父親が文句をつける点はどんなところか。短時間で掃除を済ませるためにはどんなところを重点的にやればいいのか。そんなことを考えながら掃除をしていると、父が文句をいいながら掃除をすることが少なくなりました。以来、夕方になると当たり前のように私が掃除をしていました。

そうした子ども時代を過ごしたせいか、私は今でも掃除機の音が苦手です。あの当時のことを思い出すからです。ですから、私の家内にも、また、クリニックのスタッフにも、「散らかっていなければ掃除はそこそこでいいよ」と頼みます。結婚した当初、家内は母に「あまり掃除をしなくてもいい」と私が言っていると話したそうです。それを聞いた母は不思議そうに、「あら変ね。あれだけ掃除が好きだったのに」と言ったとか。子どものころの私の苦労や心の内など、母はまるでわかっていなかったようです。

でも、母は誰かのために何かをしたい人でした。今ではすっかり見かけなくなりましたが、昔は浮浪者が家々をまわって施しものを乞うことがありました。我が家にも一度そうした浮浪者が来たことがあります。どこの誰かもわからないその浮浪者に、母は気の毒そうに食べ物を分けていました。また、実家の裏の公園で、平日にもかかわらず毎日一人で遊んでいる女の子がいたときのこと。母はその子を見かけると、彼女を家にあげ、話しを聴いてあげ、励ましたりもしていました。母はそんな人でした。

その一方で、こんなこともありました。幼かったとき、暖かくて格好のいい上着を母に買ってもらいました。私はそれをとても気に入っていたのです。あるとき、私と同じ年代の子のいる叔母がその上着を褒めてくれました。私はそれがうれしく、また、誇らしくもありました。しかし、母は「そう?じゃあ、これ、あげるわ」と。あっけにとられているうちに上着を脱がされた私は、悲しいような、くやしいような気持ちになったことを覚えています。褒められるとすぐにあげたくなるという母の性格は最期までかわりませんでした。

晩年の母はいろいろな料理に挑戦するのが好きでした。「おいしかった」と言ってもらえることがなによりもうれしかったのです。ご近所の友達にはもちろん、いつも買い物に通っているお店にも、あるいは入院した病院の職員にもカステラを焼いてもっていきました。「コロナのこともあって、食べ物をもらうのを嫌がる人もいるんだから」と注意しても聴く耳をもちません。その後も、餃子を皮から作って「ちょっと工夫してみたから食べてみて」ともっていくことも。人が喜ぶのを見るのが好きだったのです。

母は交際範囲が広く、友だちがとても多い人でした。先に逝った父もまた仕事関係の交際範囲が広かったため、父の葬儀にはたくさんの参列者が来て下さいました。母も父も実は「似たもの夫婦」だったのでしょう。父が亡くなったとき、「家族葬」でひっそりやろうと思っていました。葬儀社にはそう伝えていましたが、実際には「大企業の社長でもこんなには来ない(葬儀社談)」と驚くほどの参列者が来場しました。火葬場に向かう霊柩車の中でも「これは家族葬ではありません(同)」と笑われるほどでした。

父の葬儀のとき、いろいろな人たちに迷惑をかけてしまい、母の葬儀こそ、本当の家族葬で静かに見送ってやろうと思っていました。大家族で育ち、たくさんの友人がいたとはいえ、一人暮らしをする母を見ていると、本当は賑やかなことがあまり好きではないのかもしれない、と思えたからです。好きなときに起き、好きなときに食事を取り、好きな時間に寝ることに安らぎを感じ、気心の知れた人たちと時々お茶を飲んで談笑することを幸せだと思っていた母。そんな素朴な生活が母には合っているようでした。

母が徐々に弱っていき、食事もほとんどとれなくなって、妹が「もうダメみたい」と泣きそうな声で電話をしてきました。残された時間が長くないことはわかっていても、やはり今生の別れとなればつらいものです。でも、私は妹にいいました。「母親が後ろ髪引かれぬよう、淡々と見送ってやろうぜ」と。「あの人も亡くなった。この人も認知症になってしまった」と嘆く母に、「長生きは修行なんだよ。長く生きられなかった人たちの悔しさを背負いながら生きていくのだから」と諭していた私の最後の親孝行のつもりでした。

母は私が言ってきたとおりの晩年を過ごし、そして、ついに鬼籍に入りました。その最期はとても静かなものでした。亡くなる二日前、一緒に見舞いに行った家内とふたりで冷たくなりかけた母の両足をさすってやりました。「どこか痛いところはない?」と聞くと、母はうなづきながら、手のひらを胸におきました。私も母の胸に手を重ね、鼓動を刻むように軽く胸を叩いてやりました。すると母は安心した表情になって、静かに目を閉じました。私はこのとき、母の命がもうじき尽きるだろうと思いました。

母は満足して旅立っていったと思います。幼い頃から苦労は絶えなかったかもしれませんが、息子は医師に、娘は看護師になりました。そして、晩年、「なにも心配事がないことが一番幸せ」、「気ままな一人暮らしができるのはお父さんのお陰よ」と繰り返し言っていました。脳腫瘍になったことを知ったときはショックだったに違いありません。しかし、その後は、愚痴をこぼしたり、泣きごとを言ったりすることは一度もありませんでした。不安そうな表情すらしませんでした。

本来であれば、いろいろな人達に母が亡くなったことをお知らせすべきだったかもしれません。でも、母を静かに見送ってやりたいと思っていた私たちは、ごく近しい人だけで葬儀をすることにしました。母のことを誰かから聞いたとご挨拶をいただいた方もあります。香典やお花などはお断りしていましたから、そうした人たちにも失礼・無礼をしてしまったと思います。母もそれを不義理だ、礼儀に欠けると怒っているでしょう。でも、すべては母を静かに見送るため。どうかお許しください。

四十九日の法要が終わり、まさに母の遺骨が墓に納められようとしたとき、突然、どこかにいた鳥の鳴き声が霊園に響き渡りました。それはまるで母が最期のありったけの声で別れを告げたかのようでした。私はこれで母が仏になったことを確信しました。人間の命には限りがあります。永遠ではないのです。人間の一生にはそれぞれの長短があるにせよ、「人生を生ききる」ことにこそ意味があります。「生・老・病・死」を見守り、寄り添うことが医師の仕事。今、あらためて医師になれて本当によかったと思っています。

行く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし   合掌