神さま、お願い(2)

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勉強が「できない」、あるいは「しなかった」という話しばかりで恐縮ですが、私の半生の根幹でもありますのでもう少しお付き合いください。

勉強にはまるで興味がなかった小学校時代。興味がないから成績もぱっとしない。ぱっとしないのに危機感は皆無。危機感ゼロは親もまた同じでしたが、それなのにいっぱしに私立の中学校を受験しようと思ったこともありました。しかし、にわか受験熱が長続きするはずもなく、勉強しない生徒のまま中学生になりました。中学生になったとはいえ、生活態度はまったく変わらずあっという間に1年が過ぎました。母親は子どもが自発的に勉強をするようにならないことを悟ってか、はたまた担任の先生に「このままだと行ける高校がない」と脅かされたからか、中2の2学期になると私に家庭教師をつけてくれました。

この家庭教師は近所に住む大学生のお兄さん。この人との出会いが私の運命を変える第一歩となりました。それまで勉強というものになんの面白さを感じていなかった私に勉強をすることの楽しさ、面白さを感じられる人間に少しづつ変えてくれたのです。これといって変わったことをしてくれたわけではありません。学校の教科書の内容を説明して問題集をやる。ただその繰り返しでしたし、特別な教え方だったわけでもありません。でも、中3になって密かに好意を寄せていた女の子が隣の席になると、このお兄さんが作ってくれた私の「やるきスイッチ」に俄然スイッチが入ったのでした。

そして、前回のブログのごとき高校生活に。このころの私はまだ「医者になりたい」という夢はなにかとてつもなく手の届かないところにありました。同級生には医学部志望の連中がたくさんいました。しかし、その高校に失望し、すっかりやる気の失せた私にはそんな同級生の存在などどうでもいいことでした。失意の中で、そのときの苦しさから解放されたい一心でもがいていたように思います。だから、そのときの同級生で今も連絡をとりあっている人などほんの数人ですし、高校3年間で口をきいたことのある同級生ですら10人いるかどうか。あのときの教室での記憶はほとんど残っていません。

第一外国語として選択したドイツ語を捨て、大学を英語で受験する決心をしたのは高3の春でした。私の高校では特別な受験対策もありませんでしたが、春に大学に合格した先輩たちの体験談を聞く会が催されました。そこには医学部に合格した先輩もいました。どんな勉強をしたのかを誇らしげに話す先輩達が私には輝いて見えました。来年、あの席に自分が座っていることを夢見ながら熱心に聴いていました。ひととおりの話しが終わって質疑応答になり、私はドイツ語を選択したことについてコメントを求めました。先輩からは予想もしなかったほどショッキングな言葉が返ってきたのでした。

「どうしてドイツ語なんて選んだんだ。今や大学で勉強する文献はすべて英語。英語ができないと大学に入学してから苦労するぞ」というものでした。それでなくてもこの高校で失意の2年間を過ごしてしまったのに、これまでなんとかやってきたドイツ語を100%否定されるとは思っていなかったのです。でも、私には不思議と絶望感はありませんでした。この先輩の言葉に目が覚めたと、いった方がいいかもしれません。「こんなことをしてはいられない」という思いが沸々と湧いてきたのです。そして、「よし、今から英語を勉強しよう」と。このとき、私は英語で大学を受験することを決心しました。

人は「ドイツ語を否定されたときに絶望しなかったのはなぜ?」といいます。でも、不思議なもので、入学直後からあれだけ失意に打ちのめされたというのに、あの先輩のストレートな言葉に心折れることはなかったのです。なぜそんな決意ができたのか、自分でもにもよくわかりません。むしろ、あのときの先輩が私のねじ曲がって腐りかかった根性に喝を入れてくれたのではないかと思うほどです。前回のブログで「神さまは他人の言葉を通して語りかけている」と書いたのはまさにこうした経験があってのことです。他人には無謀でも、こういうときは不思議と躊躇はないもの。結果論かもしれませんが。

英語で受験しようと決意した私は本屋に行って受験参考書をパラパラとめくってみました。英語での受験がどの程度のものかを知るためでした。ところがその本に載っていた英文がほとんど読めないのです。英語は中学校レベルで終わっていたので当然とはいえ、単語力の不足はそこまで深刻でした。私はさっそく当時受験生の間でベストセラーだった「試験に出る英単語」を買って通学の電車の中で英単語を覚えることにしました。ひととおり単語を覚えてからふたたび同じ参考書をめくってみました。すると、なんとそれなりに読めるようになっているではありませんか。私はなんとかやっていけるという自信をもちました。

それからというもの、英単語に続いて、同じく森先生が執筆した「試験に出る英文法」「試験に出る英文解釈」を買って勉強しました。「試験に出る英文法」などは何度も繰り返したせいか、何か所かの間違いを見つけて森一郎先生に手紙を書いたところ、丁重なお返事をいただいたりしました。こうしたことがモチベーションとなって英語の勉強を後押ししてくれたのでした。その意味で森一郎先生は私にとっては英語を救ってくれた恩師だったともいえます。とはいえ、さすがに短い時間で英語を得意科目にすることはできず、もともと不得意だった国語や社会とともに最後まで私の足をひっぱる科目でした。

一年の浪人ののちに理工系の大学(電子工学専攻)に入学しました。その時点で私は医者になることをなかば断念していました。大学入学までの道のりを振り返ってみると、それ以上浪人をしてまで医学部をとは思わなかったのです。私はNHKに勤めようと思っていました。小さいころからTVドラマが好きだったことが影響していたかもしれません。それに、当時、NHKでは技術職で入局しても、アナウンサーや記者、ディレクター、カメラマンなどいろいろな職種を経験できると聞いて興味が湧いてきたのです。いつしか私の頭の中から「医師」という職業はすっかり消え、気持ちはきっぱり「放送局」にかわっていました。

私は大学で電子工学を学びました。しかし、同級生にはすでに「電子工学の素養」ともいうべき優秀・有能な素質をもっている学生ばかりでした。それまで電子回路などに興味もなければ、触ったこともなかった私などとても太刀打ちできないのです。当時、出始めたばかりの汎用のパソコンを生協で購入したそばから改造をしてしまうような人もいました。ペーパーテストなら私もそれなりにできるのです。ところが実習ということになるととても彼らに歯がたたない。ここも私の居場所ではないことをうすうす感じはじめていました。そうした思いは学年があがるごとに強くなっていったのでした。

大学4年になっていよいよ就職先をしぼらなければならなくなったとき私は迷いはじめました。「このまま就職してしまってもいいのだろうか」と。大学の推薦をもらえればほぼ内定がもらえるため、就職担当教員との面談で推薦先が決まればそれで就職先が決定ということになります。ですから、いい加減な気持ちで就職面談に臨むことはできません。私は迷いに迷っていました。このまま大学を卒業して、放送局に就職してしまうことにためらいがあったのです。そんな風に迷い始めているうちにかつての思いが心の中によみがえってきました。「医学部再受験」の六文字が浮かび上がってきたのです。

私は大学4年のときに守衛のアルバイトをしていました。大学の講義や実習が終わり、夕方になると勤務先の守衛室に入り、翌朝まで働いて大学に行くのです。そこには私の父親よりも年上の守衛さん達が何人かいて、休憩時間になると皆さんは若い私をつかまえていろいろな話しをしてくれました。このアルバイトは自分にとってはとても社会勉強になる時間でもありました。あるとき、いつも熱心に話しをしてくれたMさんから声をかけられました。「どうした、セバタ君。最近、元気がないじゃないか」。就職するか、再受験するかで迷っていた胸の内を見透かされていたようでした。

私がひととおり悩みを打ち明けるとMさんはいいました。「なにをそんなに迷っているんだい」。「就職をとりやめたら親ががっかりするんじゃないかと思って…」と私が言うと、Mさんは毅然としていいました。「ご両親は本当にがっかりするだろうか?親ががっかりすると君はいうけど、実は君自身が再受験が不安なだけなんじゃないか?」。「ご両親が就職を喜んだとして、毎日、ため息をつきながら会社にいく君を見たらどうだろう。再受験を心に決めて頑張っている君を見ることの方がご両親はよっぽど幸せだよ」と私に言ってくれたのです。私の心にのしかかっていた重たいものがぐっと軽くなりました。

ある日、いつものように守衛室に入って準備をしていると、机のうえに新聞が置かれてありました。誰かの読みかけの新聞のようでした。椅子に腰かけ、なにげなく新聞をめくっていると、紙面の片隅にとある特集記事が連載されていました。それは新聞記者が医学部を再受験を決意して合格するまでの体験談を綴ったものでした。そこに書かれていることがそのときの自分に重なっているように思え、第一回から読み直すためにその新聞をとっている知人からバックナンバーを譲り受けて夢中で読みました。その連載記事にはおおむね次のようなことが書かれていました。

***** 以下、新聞記事の概要

高校生のころなんとなく医者になりたい気持ちをもちながら新聞記者になってしまった。新聞記者の仕事にもやりがいを感じていたがなにかが違うと思いながら仕事をしていた。そして、医学部を再受験したいという気持ちが少しづつ高まってきた。しかし、なんども落ちて結局は医学部に行けなかったらという恐怖心が決心をにぶらせていた。そんなあるとき、街の電信柱に一枚の求人広告が貼られていた。「求人 32歳まで」。ファストフードの従業員の募集だったが、この広告を目にしたとき自分の目からうろこが落ちる思いだった。「32歳までは失敗ができるんだ」。それが新聞社を辞める決意を固めるきっかけになった。そして、再受験、合格。自分が選んだ道は間違いではなかった。

***** 以上

この記事を読んで、まさしく私自身も「目からうろこが落ちる思い」でした。自分はなにを怖がっていたのだろう。やるだけのことをやってダメなら仕方ないじゃないか。このまま就職をして後悔するよりも、これまでの自分の夢でもあった医者になるために努力をしてみよう。そんな気持ちにさせてくれたのがこの新聞の記事でした。もし、あのとき、守衛のアルバイトをしていなかったら、あるいは守衛室の机の上に新聞がなかったら、さらにはあの連載記事を読んでいなかったら、医学部を再受験しようなどいう決断にはいたらなかったかもしれません。ほんのちょっとのことで人生などかわってしまうのです。

私は数日して大学の就職担当の先生のところにいきました。面談で話しが進んでいた就職を断るためです。部屋に入ると、そこには就職担当の教授と助教授のふたりの先生が待っていました。親に言えば反対されるのはわかっていましたので、私はひとりで医学部を再受験することを決めていました。それはある種、覚悟のようなものでした。ですから、これから面談で先生方がどのように引き留めようとも自分の意志は固いという自信のようなものがありました。とはいえ、その時点で就職を断るとなれば大学にも迷惑がかかるかもしれない。気持ちが揺らぎそうになるのはその一点でした。

ふたりの先生方を前に自分の気持ちを述べると教授が口を開きました。「でも、君。せっかくここまでやってきたんだ。いったん就職してみてはどうかな。それでもどうしても自分にあわなければその時に改めて再受験を考えてもいいんだし。働きながら受験勉強することだって可能かもしれない」。私の耳には「就職面談もここまで進んでいるのに今さら就職しないなんて迷惑な話しだよ」と言われているようでとても心苦しい気持ちがしていました。他にも自分と同じようにNHKへの就職を希望している人がいたのになにを今さら、という教官の思いを考えると私の決意は少しだけ揺らいできました。

ところが、じっと私の話しを聞いていた助教授がその教授の言葉を遮るように言いました。「君の意志は固いの?」。「はい」、きっぱりうなづく私。「だったら再受験すべきだと思う。そこまでの決意をもっているならうまくいくよ。もし万がいち、何度頑張ってもダメだったら大学に相談に来なさい。就職先ぐらい紹介してあげるから」。教授の意見を否定するかのようなその助教授の言葉が私の気持ちを奮い立たせました。以来、その先生はことあるごとに手紙で励ましてくれました。この励ましがどれだけ励みになったことか。この先生は私の一番の恩人であり、今でも心から尊敬する人です(仲人にもなって下さいました)。

そのほかにも今の私につながる「奇跡」はたくさんあります。こうしたひとつひとつの出来事、あるいはいろいろな人との出会いがすべてつながっているのだということを実感します。だからこそ、繰り返して言ってきたように、人の人生において、遭遇する出来事や出会った人々すべてが「神さまの言葉」なのだと思うのです。どれひとつとして単なる偶然でもなければ誰かによる恣意的なものでもありません。息子たちにも言っているのですが、そうした神さまの声に耳を傾けることが大切だということ。声が聴こえたかどうかじゃない。耳を傾けたかどうかということ。私は常にそのことを心にとめながら生活しています。

アメリカ滞在記(3)

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、またまたスパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学との共同研究のためにアメリカに行かなければならなくなったとき、実は家内はあまり乗り気ではありませんでした。英語を話せるわけではありませんでしたし、なにより海外旅行にも行ったことがなかったので不安だったのでしょう。だからといって家内を日本においていくわけにもいかず、家内を説得してなんとかアメリカ行きを納得させたのでした。

アメリカに行くことが決まると家内は英会話を勉強し始めました。ネイティブスピーカーの先生のいる英会話教室に通い、英会話の通信教育を受講して滞在中会話に困らないよう準備しようというわけです。私も英会話に困らなかったわけではありませんが、英語を話さなければならない状況に追い込まれなければいくら事前に勉強しても使いものにならないだろうと思ってさしたる準備はしませんでした。

その私の考えは間違っていませんでした。日本でやったことなどほとんど役に立たず、実際にアメリカ人を相手に冷汗をかきながら話しをし、苦労しながら英語でコミュニケーションをとらないと英会話は身に着かないことを実感しました。アメリカに渡っていつも英語を話さなければならくなった当初、私は寝言を英語で言っていたそうです。それだけ頭の中を英語が駆け巡っていたんだと思います。

当初は英会話に苦労するのではないかと心配していた家内も、買い物をするときのやり取りに困らなくなるとどんどんと英語が聞き取れるようになっていきました。日本に戻ってくるころには私よりも聞き取れるようになっていて、家内の上達ぶりは目を見張るものがありました。私はといえば、なんとか自分の言いたいことを言えるようになってはいたものの、聞き取りには最後まで苦労していました。

ミシガン大学があるアナーバーから自動車でナイアガラの滝まで旅行した時のことでした。出発したのはまだ陽の登らぬ早朝でしたが、猛烈な雷雨で真黒な雲の表面を稲妻が走り抜けるのをはじめて見て圧倒されました。アメリカの気象の変化はものすごくスケールが大きく、真夏になるとTVの天気予報では「Thunder storm alert(雷雨・竜巻予報)」をやっているほどです。

真夏の強い日差しが照り付けていたかと思っていたら突然真っ黒い雲が出てくるなんてことも珍しくありません。家内と真夏の日差しの中をスーパーに行ったのですが、買いものをしているうちに外がたちまち真っ暗になりゴルフボールほどの雹(ひょう)がボンボンふってきたことがありました。まるで地獄のようなすさまじい光景を目の当たりにして小さな子どもなどはその恐ろしさに泣いていました。

そんな雷雨の中、アナーバーからハイウェイを走ってデトロイトのダウンタウンを抜け、アメリカとカナダの国境へ向かいます。ミシガン大学の共同研究者から「デトロイトの危険なダウンタウンに迷い込まないように注意するんだぞ」と脅かされていたせいか、まわりの風景を楽しむこともできずにカナダ入りしました。万が一スラム街に入ってしまったらどうしよう・・・なんて。

それでも往路はトラブルもなく順調でした。ナイアガラに着くと轟音を立てて流れる滝のスケールの大きさに感動。夜のライトアップされた滝も美しく、それにもまして早朝の太陽に水しぶきがキラキラと輝く滝の美しさはまた格別でした。滝周辺のフラワーランドをまわったり、有名な花時計に立ち寄ったりと、楽しい旅を満喫してミシガンへの帰途に就きました。事件はそのときに起きました。

ミシガンに戻るため、カナダ側から国境に入った私たちの車をアメリカの国境警備隊の隊員が呼び止めました。ナイヤガラの旅を満喫してすっかりご機嫌だった私はこれからなにが起こるかもわからずにいました。私がにこやかに挨拶をするとその隊員はなにか質問をしてきました。その質問は英語のはずなのですが、なにを言っているのかわからない。どこかのなまりでもあったのか聞き取りにくかったのです。

なんども聞き直すうちになんとなく「おみやげをなにか買って来たのか?」と言っているような気がしてきました。私は「なんてフレンドリーな隊員なんだろう」と思いながら、「いいものが手に入ったよ(直訳)。メープルシロップでしょ、帽子でしょ、それと・・・」、にこやかにそう答えて品物を見せる私にその隊員は急に血相をかえて言いました。「車を降りるんだ。今すぐにだっ!」と。

突然のことだったので私は狼狽してしまいました。何がおこったのかさっぱりわからなかったからです。私は隊員に言われるがままに車を降りて事務室に「連行」されました。事務室に入り、机の前に座らされてなにがはじまるんだろうとまわりをきょろきょろしていると、私が得意げに見せた品物をもって隊員がやってきました。彼はあきれたような表情で私に事情を説明しはじめました。

改めて彼の話しをよく聞いてみると、どうやら「カナダ側で知らない人間からなにか荷物をあずからなかったか?」と質問していたらしいのです。その質問に私が「もちろん。メープルシロップでしょ、帽子おでしょ」なんて答えたものですから、私はてっきり麻薬の運び人かなにかと間違われたようです。私の聞き取り能力の悪さが招いたとんだ誤解というわけです。お恥ずかしい話しです。

アメリカ人の友人によれば、アメリカとカナダの国境の警備はそれでも結構ゆるいんだそうです。違法移民や麻薬の密輸が多いメキシコ国境での警備はもっと厳しいとのこと。このときのことがあったからかどうかはわかりませんが、その後、帰りのシカゴ空港でも麻薬の運び屋と疑われ、飛行機に持ち込もうとした荷物の取っ手の部分を中心に検査をされました。麻薬の運び屋には私のような顔が多いのでしょうか。

当時はまだアメリカの安全保障を根底から揺るがした「9.11テロ」の前。とはいえどの空港でも警備は結構厳重でしたから、今では相当厳しい警備がおこなわれているのでしょう。麻薬の運び屋と間違われた私などが今のアメリカに行ったらどうなってしまうんだろうと考えただけでも恐ろしくなります。つくづくなんの不安も持たずに生活できる日本に住んでいることをありがたく思います。

他の国に住み、その国を理解する。そしてその国の人々と交流を深めて友好関係を築く。その意味でも外国語を学ぶことは意義深いと思います。人と人とのきずな、国と国との信頼関係はコミュニケーションからはじまるんだということを痛感します。海外での生活を経験し、海外の文化を知ることで世界平和につながっていくのでしょう。お互いを理解することはとても大切です。

アメリカに行って私はアメリカの懐の広さを知りました。そして、アメリカが好きになりました。と同時に日本の歴史と文化のすばらしさにも改めて気が付いて日本人であることを今まで以上に誇りに思うようになりました。今、このときのことを子供たちに話して、子供たちにも是非海外での生活をさせたいと思っています。アメリカでの生活は私たち夫婦にとってはかけがえのない経験だったなぁと思います。

荒れる当直

この記事は平成28年7月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

以前にもお話ししたように、私が初めて当直した病院はどういうわけか荒れます。「荒れる」というのは急変が多い、という意味です。当直業務の主な仕事は、病棟患者が休日帯に様態が悪くなったときに主治医に代わって適切な管理をすることです。休日や夜間はほとんどの検査ができませんし、大学病院や大病院など他の高次医療機関もお休みのため、外部から日当直を任された医者は結構しんどい仕事を強いられることになる場合もしばしばあります。

主治医が日ごろしっかり患者の管理をしてくれているところはまだいいのですが、カルテを見てもほとんど状況がわからず、患者の家族への説明もほとんどしていないいい加減な主治医の患者を任されるととても大変です。そのようなときは、主治医のしりぬぐいに勤務時間の多くを費やすなんてこともしばしばです。逆に、当直した医者の管理が悪いばかりに、担当している患者が週明けには大変なことになっていて、こんなことなら電話で呼んでほしかったと思うケースもあります。

話しは戻ります。大学の医局からの派遣で民間病院の当直を頼まれることがありました。とある病院での初めての当直はすさまじかった。なにせ土曜日・日曜日の二日間で五人の患者が亡くなったのですから。その病院は比較的大きな病院でしたが、入院患者の多くは寝たきりの高齢者でした。病院は山の中腹に建てられていて、いくつかの建物が廊下でつながっている構造をしていました。ですから、1階の病棟から最上階の病棟へ行くときは何本かのエレベータを乗り継いででしかいけませんでした。

はじめて登院した日、始業時間の13時の時報と共に当直室の電話が鳴り出しました。病棟での点滴の指示を出してほしい、とのこと。通常は主治医が週明けの分まで点滴の指示をするものなのですが、請われるままに病棟に指示出しに行きました。するとすでに臨終まじかの患者の点滴が予定よりも早く終わってしまったのでした。水分が与えられなければ血圧が下がり、腎臓がだめになり、死に至ります。主治医によるその患者の点滴内容を確認すると、まるで土日に臨終を迎えさせようと意図されたかのようなものでした。

しかし、患者の家族にも病状がきちんと説明がなされていませんでした。本来は主治医によって死亡宣告がなされるべきであり、当直帯であわただしく臨終を迎えるという形は望ましくありません。しかもよりによって土日で臨終を迎えさせようとしているかのような主治医の方針には納得がいきませんでした。もはやこの時点で輸液量を増やしたところで尿が出ていなければ患者が苦しむだけ。できるだけ患者に無理のない点滴に変えて指示を書いていると、他の病棟からも次々と呼び出しがかかってきました。

他の病棟からの呼び出しも、実は同じような患者の指示出しの依頼でした。「なんだかこの先が思いやられる当直だなぁ」と思いながら、広い病院の中を上から下へ、端から端へと行ったり来たり。中には呼吸が突然止まって緊急の挿管があったりと大変な二日間でした。この病院にはきちんと患者の家族に説明をし、しっかりカルテ記載をしている主治医ばかりではなかったので、患者が急変したときにはとても苦労をしました。家族に説明しようにもまるで状況がわからないからです。

ある患者が急変して亡くなったため家族を呼んで状況を説明しようとしました。ところが、あまりにも突然のことだったせいか、駆け付けた息子さんに「急変したということは医療ミスで死んだ可能性もあるんですね」とつめよられました(彼は酔っ払っていた)。そのときの私はこの病院の主治医のいい加減さに頭に来ていましたし、深夜まで院内を駆け回っていて疲れていたせいもあって、つい「それはどういう意味ですかっ!」と声を荒げてしまい、奥さんに間に入ってもらって冷静さを取り戻したのでした。

結局、土曜日の13時から月曜日の朝8時まで病棟を駆け回り、クタクタになって日当直を終えました。そして大学に戻っても、私達にはいつもと変わらぬ診療が待っているのです。

私は特定臓器の疾患にかたよらず、できるだけ多くの疾患を診られる医者になりたいと思っていました。ですから、総合内科、あるいは総合診療といった大学の医局に入って経験を重ねていきました。呼吸器内科医として気管支鏡検査をし、胸腔ドレーンというチューブを挿入して胸に貯まった空気や胸水を抜く処置をしたり。あるいは、循環器当直医として不整脈や心筋梗塞の患者の初期治療をしたり、透析医として腎不全患者の透析のお手伝いやシャントとやばれる透析用の血管を作る手術の手伝いをしたりしていました。

母校の総合診療部は内科ばかりではなく小児科や小外科など、幅広い臨床能力をもった医者を作ることを理念としたいました(現実はそうではありませんでしたけど)。ですから、そうした医者を求めていた道東のとある小さな国立病院に月に1回派遣されていました。朝一番の飛行機に乗って道東の空港へ。そこには町長が乗る公用車が待っていて1時間ちょっとかかって目的の国立病院に到着。国立病院とはいえ、当時はCTもなく、決して十分な体制がととのっているとはいえない病院でした。

この病院にはじめて行った時の日当直もすさまじい二日間でした。この町にあるクリニックは土日が休診日だったこともあり、高熱を出してふらふらになりながら来院した患者からコップで指を切った子供までさまざまな患者が来院しました。この町から大きな病院に行くには車で1時間30分はかかるので、この病院は地域住民にとっては唯一の救急医療機関だったのです。「総合診療部」の医員だった私達はそんな「なんでもドクター」として期待されていたのでした。

とはいえ、いささか私には荷が重い仕事でした。なぜなら、交通事故などで受傷した重症患者も運び込まれるからです。CT検査機器もありませんでしたから、怪我の程度によっては診断に迷って不安になることがあります。当直に入ったその日の夜にも救急隊から何件かの要請がありました。とある急患の対応に忙しくしているとき、「けが人複数」という連絡が入りました。詳細がわからないまま2台の救急車に運ばれてきたのは屈強な男たちが5人。慰安旅行で訪れた温泉宿で酔っ払って喧嘩となったとのことでした。

ひとりひとりを丁寧に診ていくと、ひとりは「頭蓋骨骨折疑い」であり、何人かは「肋骨骨折」、全員どこかに擦過傷あるいは裂傷あり、といった状況でした。本来であればCT検査で確認したいところですが、その機器すらないこの病院ではこれ以上の治療は無理と判断。なかでも比較的重症な三人を救急車で大きな町まで転送することにしました。彼らはみな酔っ払っていて、興奮していたせいか出血も多く、処置をしながら「はじめての当直が荒れるのはなんでだろう」とため息をついていました。

やっと落ち着いたのが夜明け。ようやく医師用宿舎のふとんの上にゴロっとできたと思ったら、ウトウトする間もなくまた救急隊からの要請。今度は「交通事故」。バイクと軽自動車がぶつかったとのこと。バイクに乗っていた人は高齢者。しかし、意識は清明、自力で歩くことができるとの報告でした。ところが、救急車が到着したとき、その人は担架に乗って運ばれてきました。なんでも救急車に乗り込んだあたりから腹痛を訴え始めたとのこと。「○○さ~ん」と顔をのぞき込んだとき私は嫌な予感がしました。

なぜなら顔面は蒼白で、腹痛を訴えるその声は弱々しかったからです。しかも血圧はこの人の年齢にしては低い。私はすぐに腹腔内出血を疑いました。本人はおなかをぶつけたかどうかわからないと言う。でも警官から車とぶつかったときの状況を聞くと、バイクのハンドルが肝臓を直撃したことは十分に考えられます。さっそく腹部超音波でおなかの中を調べてみました。本来はCTで調べたいところなのですが、ないものは仕方ありません。超音波装置の探子をおなかに当てながら私はドキドキしていました。

はっきりした出血は見られなかったのですが、ダグラス窩と呼ばれる部位にうっすら影があるようにも見える。出血したかどうか確信をもてないまま私は大きな病院に転送することにしました。「事故ー腹痛ー血圧低下=腹腔内出血?」。たとえ大げさでも腹腔内出血を考えておかなければいけないと判断したのです。本来、腹腔内出血を疑うなら絶対安静にしなければなりませんが、そんな余裕はありません。万がいち出血があれば開復手術しか治療法はないからです。その患者は再び救急車で大病院に運ばれて行きました。

その日の夕刊にその患者が亡くなったことが出ていました。あとで救急隊員からの報告で、次の病院に着く直前に心肺停止となり、開腹手術をする間もなく亡くなってしまったというのです。私が検査などして時間をかけることなく速やかに大きな病院に送っていれば助かったかもしれない。そう思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。その日一日、転送先で亡くなってしまったあの患者のことがあたまを離れませんでした。そんな中でも急患は次々とやってきました。

結局、その病院でのはじめての日当直業務も散々なものでした。仕事が終わる月曜日までほとんどまとめて眠れませんでした。ほんとにヘトヘトでした。以来、私がはじめて勤務する当直は概ねこんな感じなのです。霊感の強い先輩に言わせると、「おまえは霊的エネルギーが強いから魂が近づいてくる」んだそうです。「憑かれているから疲れる当直」なんてシャレにもなりません。今はこうした大変な毎日もいい思い出になっていますが、我々の仕事の多くは実はこんなにも地味で泥臭いものなのです。

健さんに想いは届いたか

この記事は平成28年11月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

夏、恒例の番組と言えば日本テレビの「愛は地球を救う 24時間テレビ」だと思います。私は「あまのじゃく」なので、あの手の番組が偽善に見えたり、「お涙ちょうだい」に見えたり、ひょっとすると社会的弱者がマスコミの商業主義に利用されているように見えたりするので、24時間テレビの放送をしているときはまったくといいほど日本テレビにチャンネルをあわせません。ですから家族が24時間テレビを見ていようものなら、「なんかさ~」とケチをつけては家族のひんしゅくを買っています。

ところが今年はその24時間テレビでちょっとしたハプニングがありました。「今年の24時間テレビは二宮君が硫黄島を訪れたときの様子を紹介した番組がよかった」と友人から聞いた家内はその番組をDVDに落としてもらいました。家内は夕べ、そのDVDをリビングで見ていたのですが、かねてから映画「硫黄島からの手紙」で二等兵を演じた二宮君の演技のうまさに感心していた私もつい一緒にその番組を見てしまいました。なるほど噂どおりよかったのですが、その番組のあとに放送した「岡田准一君が高倉健さんのゆかりの地と健さんと親交のあった人たちを尋ねる番組」にそのハプニングはおこりました。

なんと私が健さんを偲んで書いたメッセージがテレビ画面いっぱいに映し出されたのです。今年の夏、私たちは家族四人で北海道を旅行しました。久しぶりの北海道でした。この旅行の目的は昨年亡くなった大学の後輩の遺影にお線香をあげることと、同じく昨年亡くなった高倉健さんを偲んで夕張の「黄色いハンカチの撮影現場」に行くことでした。とくに後者は、映画「黄色いハンカチ」が大好きな小学校三年生の次男も、是非そのときに使われた車(マツダ ファミリア)を見てみたいといっていたこともあって、今回の旅行のメインイベントになっていました。

千歳空港についた私たちはさっそく「黄色いハンカチ」が撮影された夕張を訪れました。その撮影現場には映画で使用された建物が残っていて、そのひとつに入っていきました。そこには次男が見たいと言っていた映画に出てきた実際の車が展示されていました。また、その建物の内部にはメモ用紙ほどの黄色い付箋が壁と言わず、天井と言わず、何万枚・何十万枚という数が貼られていました。私も家族も、天国の健さんに自分の思いを伝えようと各自ひとこと付箋に書きました。私は「高倉健様 あなたの雄姿にどれだけ力付けられてきたかわかりません。安らかにお休みください」と書きました。あらかじめ考えていたわけではないのでなんだか気持ちがたかぶってしまっていい文章にはなりませんでしたが。

でも、そのときの私の付箋がでかでかとテレビ画面に映ったのです。そのとき、なんだか自分の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。あの付箋が私のものだとは私でなければわからなかったでしょう。私がいつものように「24時間テレビなんてさ~」とこの番組を見なかったら、誰もこのことを知ることなく終わっていたはずです。だから、テレビ画面に私の付箋が出てきたとき、私の思いが健さんに届いたような気持ちがしました。もちろん健さんには会ったこともありませんし、健さんは私の存在すら知らないのですが、今回のハプニングは「人知れず頑張っている人が好きな健さん」が私を励ましてくれたように感じられてとてもうれしかったです。

11月で健さんが亡くなって1年になります。それを思い出すたびに、昨年、ニュースで健さんの訃報に接したときの虚無感がよみがえってきます。でも、健さんは言っているんだと思います。「人間には順番がある。今度は俺の代わりにみんなが次の世代になにかを引き継ぐ番だ」と。私はあまのじゃくですし、これといって取りえがあるわけでもありません。でも、そんな私にもなにか次の世代に引き継ぐべきものがあるのかもしれない。それがなにかは今はわかりません。ひょっとすると、それがわからないまま人生が終わってしまうのかもしれません。でも、次の世代が私の背中を見てなにかを感じてくれるような、そんな人間に近づけるよう頑張りたいと思います。うれしくて今晩も眠れそうにない。

※「高倉 健、永遠なれ」もご覧ください。

アメリカ滞在記(2)

この記事は平成28年5月に投稿されたものですが、スパムメイルが集中してきたため同じ内容のものを改めて投稿し直します。以下、その記事です。

 

ミシガン大学は3つのキャンパス(北キャンパス、中央キャンパス、メディカルキャンパス)からできています。私たちが住んでいたのは北キャンパスにある大学の留学生用の宿舎でした。木造2階建ての決して大きくはない宿舎でしたが、私と家内のふたりでしたから広さという点ではまったく不満はありませんでした。家具も備え付けで冷暖房も完備され、週1回でしたが室内を掃除してくれるハウスキーパーもいました。周囲を森に囲まれ、自然がとても豊かでした。滞在中の生活はとても健康的で快適でした(それらのことは「年頭の所感」の回にも書きましたのでお読みください)。

宿舎の近くにはサッカーやバーベキューができる広場があって、お休みの日になると憩いの場になります。私たちの宿舎が家族用だったのか、人種の異なる入居者にはどの家族にも小さなお子さんがいるようでした。遊んでいる日本人の子どもなどは日本語と英語をチャンポンで話していて面白かったです。私たちが住んでいた部屋には朝になるといつも決まった時間に2匹のリスがやってきました。以前、この部屋に住んでいた留学生が餌付けでもしたんでしょうか。窓のすぐ近くまでやってきてはもの惜しそうに部屋の中を覗き込んでは巣に戻っていきました。

宿舎に出没するリスはそれなりに可愛かったのですが、大学のキャンパスにいるリスはとてつもなく大きく、野良猫かと思うほどです。しかも、駆け寄ろうとしたとたんにこちらを威嚇するようにスゴんでくるのにはびっくり。実はこのリス、Wolverineという凶暴なリスなのです。友人からは「中には狂犬病のリスがいるから注意しろ」と教えてもらってからは、キャンパスのリスがまるでスティッチか、はたまたグレムリンのように見えてきます。アメリカの大学構内の芝生で学生がのんびり横になって本を読んでいる姿をテレビなどでよく見かけますが、私にはとてもそんな気にはなれませんでした。

大学構内に出没するWolverineはミシガン大学のフットボールチームの名前にもなっています。ミシガン大学のWolverines は全米でも強豪のチームです。ミシガン大学は来年2017年に創立200周年を迎えるのですが、構内には歴史を感じる建物も多く、自然に囲まれた素晴らしい環境にあります。秋のシーズンに入ると、アナーバーはすっかりフットボール一色になって、ダウンタウンのはずれにあるフットボールスタジアムからはものすごい歓声が聴こえてくるようになります。その大学のマスコットともいうべきWolverineがあれほど大きく、凶暴とは思ってもみませんでした。

自然あふれる環境といえば聞こえはいいのですが、それは自然と共存しなければならないことを意味しています。その事件はナイアガラの滝まで3泊4日の旅行から帰ってきた日に起こりました。アメリカでの生活も残り少なくなり、記念になるからということで計画したものです。アナーバーからデトロイトを抜け、カナダとの国境を通過してナイヤガラに向かいました。出発当日の朝は猛烈な雷雨に見舞われましたが、カナダとの国境を抜けるころには雨が上がり、ナイアガラに到着したときには夏の日差しがもどる快晴に。その後も天気は恵まれ、長旅ではありましたがとても楽しい旅行でした。

ミシガンの宿舎にもどった私たちは、疲れもあって夕食もそこそこに床につくことにしました。ずっと車を運転していたせいか、眠いけど眠れない状態がしばらく続いてゴロゴロと寝返りを繰り返していました。そんなとき、私たちの寝室の扉の向こうから何かが繰り返しぶつかってくる音が聞こえてきました。それは夢ではなく、間違いなくなにかがドアにぶつかる音です。家内も目覚めてそれに気が付いたらしく、「あれ、なんの音?」と不安そうにつぶやきました。私がじっと耳を澄ましていると、「ねぇ、なにか見て来てよ」と家内。私はその音の正体を見極めるために寝室のドアに向かいました。

そっと扉をあけて照明をつけましたが、室内はいつも通りで床にもなにも落ちていません。部屋中を見まわしましたが、なにかが潜んでいる気配はありません。もしかするとネズミか何かが室内を駆け回っているんじゃないかと思った私は、怪しい場所をモップの柄でつついてみたりしましたがなにも出てくることはありませんでした。「なにもいなかったよ」とベットに入り、早く寝てしまおうと思いましたが、しばらくすると再び寝室の扉にぶつかる音が。「ちゃんと見て来てよ」と家内にせかされながら、もう一度室内を捜索に向かいましたがやはりなにも見つかりませんでした。

「やっぱりなにもいなかったよ」と言う私に、家内は「なにもいないはずないじゃない」ときっぱり言いました。ごもっともです。何度もあの音を聴かされれば、なにもいないはずがありません。私は仕方なくまた室内を見回りに。内心なにかが飛び出してくるんじゃないかとびくびくしながらでしたが。ところが、洗面所を見回ったときのことでした。ついに流し台の上に鳥のフンのようなものを見つけてしまったのです。直感的にこれを家内が知ったらきっと彼女は大騒ぎするだろうと思いました。そこで、このことは黙っておくことにしました。私はそのまま何事もなかったかのような振りをして寝室に戻ったのです。

「やっぱり見つからないから続きは明日にしようよ」。そう言って眠ろうとしたのですが、しばしの沈黙のあと、家内がいぶかしげに言いました。「なにかいたんでしょ?」。「す、するどいっ」と私は思いました。「い、いや。なにもいなかったよ」。「うそだっ。なにかいたんだ。わかるんだからね」と家内はすごい剣幕です。「なんでわかるのよ」とブツブツ言いながら、今度は天井を中心に小鳥が留まっていないか慎重に見てまわりました。家内も私の後ろから心配そうに見ています。そしてついに見つけたのです。室内の観葉植物の枝になにか黒っぽいものがぶら下がっているのを。

そうです。それはコウモリだったのです。胴体は決して大きくはありませんでしたが、翼を広げると30㎝にはなる大きさです。なんだろうと覗き込んだ私に向かって、突然そのコウモリが飛び始めたのです。あまりにもとっさのことだったので、私はびっくりしてしまい寝室に逃げ込もうときびすを返してダッシュ。コウモリの動きは不規則で俊敏です。それはまるで私の苦手なゴキブリのよう。私はあまりの恐ろしさに我を忘れて寝室に駆けていきました。ところが私の前を走って逃げていた家内は、私が部屋に入る前に扉を閉め、鍵をかけて閉じこもっってしまったのです。

「開けてくれぇっ!」。ドンドンと扉を叩きながら助けを求める私を家内は部屋に入れてくれません。ドアの向こうで家内は「コウモリを外に出してよ」と叫ぶばかりです。私はこの非情な仕打ちに我に返りました。そして、勇気を出してコウモリを駆除することにしました。それはまるで映画の中で謎の生物と戦うヒーローのような気分でした。結局、ビニール袋を使ってコウモリを外に逃がすことに成功しました。あとでわかったことですが、スイッチを切っていた浴室の換気扇からコウモリが室内に入り込んだようです。この辺はリスも多いが、コウモリも多いことを友人から聞きました。

それにしても、今は笑い話しになったこの事件ですが、ドアの外に締め出されたときは恐怖のドン底に落とされた気分でした。家内もパニックになって前後不覚におちいってしまったのでしょう。こんな事件があっても、その後、夫婦仲が悪くなることもなく、アメリカでの楽しい生活を完結できたのは我々夫婦のきずなの賜物だと思います。ちなみに、その後、札幌に戻った私は今度はカラスに襲われることになります。またもや黒い飛翔体からの襲撃。頭を鷲づかみにされながらからくも逃げましたが、ミシガンで扉の外に取り残されたあの恐怖感を思い出しました。でも、不思議と懐かしい思いがして不快ではありませんでした。そのくらいミシガンでの生活が楽しかったんだと思います。またあの頃に戻りたい。

「アメリカ滞在記(3)」もご覧ください。

 

トラブルメーカー?

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年はいろいろと忙しく、また、法人の解散やらでバタバタしていたせいか、ブログの更新がなおざりになりがちでした。しかし、患者さんから「ブログを楽しみにしてます」なんてうれしいことをいわれると、定期的に更新しなければと反省することしきりです。今年は最低でも月二回は記事をアップしようと思っていますので、長くて暖かい目で見守っていただければ幸いです。

今、巷では日本相撲協会と貴乃花親方との確執が報道されています。協会に事件を報告しないまま警察に知らせたこと、あるいは協会からの「協力依頼」をひたすら拒否する姿勢をとり続けた親方に対して協会は理事降格の処分を下しました。世間からは親方を「協会からの圧力をはねのけ信念を貫いた無双」と称賛する意見がある一方、「偏屈で頭のかたいトラブルメーカー」と批判する意見も決して少なくありません。どちらかというと貴乃花と同じような頑なさがある私は、これまでの職場でも「組織の論理」に反発してはしばしば上司とぶつかったせいか貴乃花の気持ちがよくわかります。と同時に、「組織の論理」というか、日本相撲協会の立場も今はそれなりにわかるつもりです。

ある病院をやめる直接的なきっかけについては、このブログでもなんどか軽くとりあげました。病院に搬送されてきた救急患者に対する初期治療をめぐって、治療にあたった救急担当医と病棟医として引き継いだ私との間で、いや、その救急担当医をかばう病院とそれを批判する私との間で深刻な衝突・対立・反目があったのです。それが引き金になって私はその病院を退職したのですが、そこに至るまでの間にも、病院の「組織の論理」ともいうべき姿勢に不信感を募らせることがいくつもあったのでした。そのたびに院長や上司とぶつかっていたため、あのときのことをありありと思い出します。そんなこともあってか、相撲協会と貴乃花親方との確執の話しを聞くと、親方が当時の私と重なってどうしても親方の肩を持ちたくなるのです。

その病院に勤務していた頃、私は呼吸器や循環器を中心とした内科医として外来や病棟で診療していました。病棟では各専門領域の先生のアドバイスや指示を受けながら、他の臓器領域の患者の主治医もしていましたから、実際には内科全般の入院患者のマネジメントをしていたことになります。それ以外にも、他科、とくに外科系の病棟から患者の内科的な治療方針について相談を受けたりすることもありました。また、外科系の病棟の患者が急変したとき、たまたま主治医が手術などで対応できないときは私達内科医に対応の要請がくることもありました。あるとき、内科病棟で仕事をしていた私のポケベルがなりました(当時はまだ携帯ではありませんでした)。それは整形外科の病棟からのコールでした。

「整形外科の病棟からいったいなんの用だろう」と思いながら駆け付けると、待っていた看護婦さんがあわてて私を病室に案内してくれました。病室には一人の若い医者がアンビューと呼ばれる人工呼吸をするための道具をもって立っていました。私はその医者に声をかけることもなくすぐに患者の診察をはじめました。患者はすでに意識はなく、呼吸も不規則になっており、かなり緊急性の高い状態だということはすぐにわかりました。枕元に突っ立っている若い医者に私はまくしててるようにいいました。「なぜすぐに挿管しないんだ」。「ぼ、ぼく、挿管したことがないんです」。「したことがあるとかないとか関係ないだろ。しなけりゃ患者は死ぬんだぞ」。その医者は慌てた様子でした。

そんなやりとりをしながら患者の気管に人工呼吸用の管を入れ、アンビューで肺に空気を入れながら患者を急患室に運びました。一段落して主治医から詳細を聴くと、意識を失う前は元気にリハビリをしていたとのこと。これまでの経過からは、整形外科の手術後の安静によって下肢にできた血栓がリハビリによって脳に飛んで梗塞巣を作ったことが考えられました。とくに呼吸がここまで不安定になったところをみると、呼吸をつかさどる脳幹という場所の脳梗塞が疑われました。とすればこれはかなり深刻な状況を意味します。そして、その後の検査によってそうした私の予想は正しかったことがわかりました。

ICU(集中治療室)に移送された患者には人工呼吸器が装着され、血栓を溶かす薬や脳のむくみを軽減させる薬が投与されました。そうした点滴の指示票を書きながら、さっきから私のあとをついてくるだけの整形外科の若い医者にいいました。「先生の患者なんだから、先生が書いてよ」。するとその医者は申し訳なさそうに「こういうケースを経験したことがないので書けないんです」と。経験がないのであれば仕方ありません。「じゃあ、いい機会だから教えてあげるよ」と言って点滴メニューについて説明をしようとするとその医者が言いました。「先生、そろそろバイトに行かなきゃならないんですが」。

私は唖然としました。内科病棟にいる自分の患者のことをあとまわしにして、まさにボランティアでやってあげているのにと思ってもあとの祭り。それ以後、その患者の管理のほとんどは私がやることになりました。まずは患者の家族への説明です。突然のことで心配そうにしている患者の家族に、「かなり重症の脳梗塞です。リハビリの開始をきっかけに足にできていた血栓が脳に飛んだことが原因と考えられます。事前に予測することは難しかったと思われ、現在できるかぎりの治療を開始したところです。ここ数日がヤマだと思われます」と説明しました。動揺していた家族はその説明に神妙な面持ちでうなづいていました。

ところが翌日、ICUに行くと看護婦さんが心配そうな表情で「先生、ご家族が納得できないと怒っているので再度説明してください」と私に耳打ちしてきました。なにが起こったのかわからなかった私は、昨日の説明に納得したと思っていた家族になにがあったのだろうと思いました。そして、会議室で待っていた患者家族から話しを聴いて私は驚きました。その日の朝、整形外科の部長が病室に来て「今回の脳梗塞はリハビリとは関係ない。純粋に内科的な問題なので今後は内科が主科になる」と一方的に説明していったというのです。ボランティアで治療しているつもりだった私の心の中でメラメラと怒りが込み上げてきました。

ICUにもどると前日アルバイトにいったあの若い医者がいました。私はたった今家族から聞いた話しを彼にしました。「どういうこと?僕は君の患者を診てあげているんだよ」と怒りを抑えながら言いました。彼は申し訳なさそうにペコリと頭をさげた後、いつの間にかICUからいなくなってしまいました。ところが、それから間もなく彼が戻ってきました。そして、「部長が先生と話しがしたいと言っています」とのこと。言いわけでも聞かされるのだろうと思いましたが、「いいですよ。しばらくここにいますから」と私。すると、「いや、部長室に来てほしいということでした」と彼。その言葉で私の怒りは頂点に達しました。

「ふざけるなっ。自分の患者そっちのけで診てやってる私がなんであんたの上司のところに出向かなきゃならないんだ。あんたの上司こそこっちに来るべきじゃないか」。他の先生や看護婦さんたちがいる中で私は大きな声を出していました。ほどなく整形外科の部長が憮然とした表情でやってきました。部長の顔を見るなり私の心の中で収めたばかりの怒りがよみがえってきました。「先生、厚意で診ている私に部長室に来いなんて失礼だと思いませんか。先生が勝手にした家族へのムンテラにも私は納得できません。家族に訂正してください。そもそも整形外科は自分たちで対処できない患者を内科に押し付けておいてなんですか」。

そのときの部長の表情を今でも忘れられません。なにせグウの根もでなかったのですから。すごすごとICUをでていく部長の後ろ姿をにらみつけていると、看護婦さんが手をたたきながら私のところにやって来ました。「先生、よく言ってくれたわ。あの先生、いつも傲慢で勝手だったの。誰も何も言えなかったので、先生が代わりに言ってくれて胸がすっきりしたわ」。私はちょっと恥ずかしい気持ちがしましたが、あの部長のやり方には心底腹が立っていたので、言いたいことが言えて私自身胸がすっきりしていたのでした。それを看護婦さんも支持してくれたのですからなおさら気持ちが晴れました。

以来、その部長は、病院の廊下で私と目と目が合うたびにきびすを返してどこかに行ってしまうようになりました。もともと私は根にもつ質ではないので、あんなことがあったとはいえすれ違うときには挨拶を交わすつもりでしたから部長のその態度はなんだかとても子供じみて見えました。それから間もなく、私は病院長に呼ばれました。なんだろうと院長室に行くと、院長がおもむろに先日のICUでの一件のことを話しはじめました。「先生、腹が立つこともあるでしょうが仲良くやってください」と院長は穏やかな口調で切り出しました。「当院は『和を尊ぶこと』をモットーにしているんですし」とも。今さら話しを蒸し返して弁解しても仕方ないと思った私はしばらく大人しく院長の話しを聴いていました。

「あの先生は本院では『天皇』とも呼ばれているんですよ」と院長は笑いました。なんでも、本院の回診時の部下たちの気の使いようは半端ではないと。それくらい権力は絶大だったのでしょう。そんな部長だからこそ、私みたいな下っ端の内科医に一喝されて面目を失って院長に告げ口でもしたのかもしれません。当時の私は「怖いもの知らず」だったんです。同時に、ある意味でアンタッチャブルだったあの部長もこれまで「怖いもの知らず」だったんでしょう。私は院長の話しを聴きながら「そんなこと俺には関係ねぇよ。こっちに非はまったくないんだから」と心の中でつぶやいていました。私は感情が顔に出やすいので、きっとそのときの不満や怒りはきっと院長にもわかったでしょうね。ときどき苦々しい顔をしていましたし。

こんなことしょっちゅうでした。いつもいつも誰か他の医者とぶつかっていました。当時の私は理想に燃えていましたからいい加減な医者が許せなかったのです。今でもあのときの怒りはもっともだと思っています。ただ、同時に、あのとき私が突っかかっていった医者のことももう少し理解してあげてもよかったのではないかという気持ちもあります。もう少し別の対応があったんじゃないか、と。そうした余裕がないほどに血気盛んだったんです。私には人のことをとやかく言う分だけ自分も後ろ指さされないように、という気持ちもありました。突っかかるのにもそれだけ覚悟もいるのです。「君のことも言わないから、僕のことも放っておいて」といっているような甘っちょろい雰囲気に苛立っていたいたんだと思います。

これを信念というのか、それとも偏屈というのか。正義漢というべきなのか、それともトラブルメーカーというべきなのか私にはわかりません。ですが、当時の病院に蔓延していた「甘っちょろい雰囲気(私自身が当時感じていた雰囲気ですが)」というものが組織を腐らせる、そんな風に感じていたのです。巷間伝えられる今の相撲協会の様子を聞くと、当時のあの病院と重なり心配になります。当時の自分を「若かった。青かった」とは思いませんし、仮にあの当時に戻っても同じことをしていると思います。ですが、貴乃花親方にはもう少し違った方法でなんとか日本相撲協会を改革できないかを考えてもらえればと思います。対立や無視からはなにも生れません。相撲は国技なのですから是非いい方向に変ってくれればと願っています。

あのときの患者は一命はとりとめ、人工呼吸器からも離脱しました。重い後遺症が残りましたが。その後はリハビリの出番となり整形外科が主科になりました。実質的な主治医は整形外科の医師に代わりました。私はホッとすると同時に、なにかモヤモヤした気持ちを拭い去ることができないままいつもの診療に戻りました。とはいえ、その後もいろいろなことがあって私は病院を退職することに。そのときたった一人私を引き留めてくれた先生は「いっしょにこの病院を立て直しましょうよ」と言ってくれました。「院内をかき回すトラブルメーカー」と映っていたかもしれない私を引き留めてくれたことがとてもうれしかったです。でも、「多勢に無勢」と感じましたし、そもそもすでに賽(さい)は投げられていました。

念のために付け加えておきますが、今回の話しは私の武勇伝としてチャラチャラ書いているわけではありません。また、特定の病院を批判するためのものでもありません。誤解のないようにお願いします。