院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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今、アメリカでは11月の大統領選挙に向け、民主党・共和党両党の候補者を決める選挙がおこなわれています。民主党の候補には現職バイデン大統領が有力とされていますが、アメリカ合衆国大統領として最高齢であり、また、認知症の可能性も指摘されています。そのため、これからさらに4年間、大統領としての職責をバイデンがはたせるか疑問視する意見も少なくありません。「それなのになぜ民主党はそのようなバイデン氏を候補者にするのか?」についてはさまざまな憶測を呼んでいます。
一方の共和党の大統領候補として有力なのがドナルド・トランプ氏です。現状での共和党の候補者はほぼ彼で決まりだと思います。しかし、トランプ氏もすでに77歳であり、決して若い候補者ではありません。2016年の大統領選挙で彼は、事前の予想を覆して第45代合衆国大統領に選ばれました。日本のメディアを通じてアメリカのマスコミ情報を聞かされていた私たちにすれば、当然、民主党のヒラリー・クリントン氏が当選するものと思っていました。それは多くのアメリカ国民も同じだったかも知れません。
トランプ氏には上下院議員の経験はおろか、州知事の経験すらありません。タレントであり、巨額な資産をもつ不動産王にすぎないトランプ氏の政治的手腕を疑問視する意見が大半でした。しかし、そんなトランプ氏への国民の支持は、選挙戦を通じて徐々に拡がっていきました。そうした変化を冷静に見ていた人からすれば、彼が当選したことは決して驚くべき事ではなかったかもしれません。マスコミは予想を大きくはずしましたが、その失態は無視してその後もトランプ氏を否定的に伝えました。
トランプ大統領は、終始、マスコミから批判され続けましたが、彼が在任中の4年間にアメリカは戦争をしませんでした。世界に展開するいくつかのアメリカ軍をも撤収させたほどです。「アメリカ・ファースト」を訴えて臨んだ国内経済も復活しました。国境に高い壁を作って不法移民の流入を防ぎ、BLM運動で悪化した治安も徐々に回復させました。マスコミはトランプ氏をことごとく悪くいいます。しかし、彼のこれまでの実績を冷静に振り返れば、マスコミがかき立てるほど彼の実績は悪くはなかったと思います。
ロシアのプーチン大統領は「次期大統領にはバイデンが望ましい」とコメントしました。反トランプのマスコミはこぞって「トランプはプーチンに酷評された」と大喜び。しかし、プーチンがバイデンを評価したと思ったのもつかの間、タッカー・カールソンにプーチンは、歴代民主党政権が今回のウクライナ戦争にいかに関与してきたかを語りました。会見の感想を聞かれたバイデンは激怒し、「プーチンはクレージーなクソ野郎だ」と口汚く罵ったのです。あの会見はバイデンにとってそれほど衝撃的だったのでしょう。
バイデン氏に激しく批判されたプーチン大統領はいたって冷静でした。バイデンの激しい批判に対する受け止めを尋ねられ、プーチンは「ほら、だから彼は大統領にふさわしいと言ったんだよ」と余裕を見せます。ウクライナ戦争はロシアとアメリカとの戦いでもあります。ブッシュ(共)-クリントン(民)-オバマ(民)-トランプ(共)-バイデン(民)と歴代アメリカ大統領の働きぶりを見てきたプーチン大統領にとって、バイデン氏は取るに足らない大統領だと感じていたのかもしれません。
ウラジーミル・プーチン氏がロシアの大統領になったのは2000年です。ソビエト共産党を崩壊させたエリツィン氏の後継者として彗星のごとく出現した若き大統領プーチンはまだ48歳でした。ソ連が崩壊したとき、プーチン氏はKGB(ソ連のCIA)の職員として東ドイツに駐在していました。彼の父はソ連の海軍の傷痍軍人であり、第二次世界大戦ではドイツ軍と戦いました。また、祖父はプロの料理人としてラスプーチンの給仕をし、レーニンやスターリンにも料理を提供していたといいます。
そうした環境の中で育ったプーチンです。おそらく国際情勢に関する知識は誰よりも深く、ロシアやソ連の歴史にも詳しかったに違いありません。KGBの諜報員としての経験から、アメリカの世界戦略や諜報活動の実態にも精通していたことでしょう。そんなプーチンにとってバイデンがこれから何をしようとしているのかは推して知るべし。むしろ、政治的な経験をもたず、エスタブリッシュメント(既得権益者)とのしがらみのないトランプ氏の方がやりにくい相手だったかも知れません。
ウクライナとロシアの関係を考えるとき、とくに近現代の世界史を知ることが大切です。第一次世界大戦の直前、帝政ロシアは、かつてはプロイセンだったドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と国境をめぐって緊張状態にありました。そして、皇太子をセルビア人青年に暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告すると、同じ正教会のロシアがセルビアを支援するために出兵しました。かくして1914年、ロシアと三国協商で同盟を結んでいた英・仏を巻き込んで第一次世界大戦となりました。
しかし、ドイツとの戦費がかさんでロシア国内の経済は悪化。国民の不満はますます高まり、戦場の兵士すら戦意を喪失して逃げ出す事態になりました。混乱の収拾が付かなくなった帝政ロシアでは、1917年についにロマノフ王朝が終わり、レーニンらが指導する共産主義組織ボルシェビキが実権を握ります。これが十月革命です。ドイツはロシアのさらなる混乱を狙ってウクライナの分離独立を承認。ロシア国内の民族主義を力ずくで抑えきれなかったボルシェビキはバルト三国からウクライナにかけての領土を失いました。
1918年に第一次世界大戦は終わりました。でも、ロシアはクリミア半島を確保する戦果しか得られませんでした。そして、ふたたび皇帝一派が勢力を盛り返すのを恐れたボルシェビキは、幽閉していた帝政ロシア時代のニコライ皇帝一家を粛清しました。一方で、パリ講和会議で多額の賠償金が課せられたドイツ帝国が衰退すると、ロシア派ウクライナやコーカサス地方に赤軍を進めて再び領土としました。その後、ポーランドとの戦争でウクライナの半分を失いますが、1922年、ソビエト社会主義共和国連邦を樹立します。
レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが権力の座につきました。落ち込んだソ連国内の産業を振興させるため、スターリンはノルマを定めて資源の採掘、農作物の収穫を強力に推し進めました。集団農場での連体責任を強化し、収穫の取り立てには容赦がありませんでした。ウクライナでの取り立てはとくに厳しく、農民達の食料がなくなるほど過酷でした。数百万人の餓死者を出したと言われるこの人為的な飢饉をホロモドールといい、ウクライナ人に反スターリン・反ソ連(反ロシア)の感情が高まるきっかけとなりました。
ヨーロッパは「歴史の転換点」でも述べたように、ベルサイユ条約のあとのドイツでは、ナチス党が多くの国民の支持を得るようになります。ナチス党の党首ヒットラーは反共産主義を唱え、ユダヤ人やジプシー、有色人種や障害者の排除を訴えました。ユダヤ人とは本来、ユダヤ教を信仰する人たちのことを指します。ユダヤ人は人種ではないのです。スペインにはスファラディーと呼ばれるユダヤ人がおり、ヨーロッパにいる白人のユダヤ人はアシュケナージと呼ばれます。その他、有色人種のユダヤ人もいるほどです。
しかし、ヒトラーはユダヤ人を人種とみなして迫害します。彼の祖母がユダヤ人富豪の愛人であり、自分にもそのユダヤの血がながれていることを嫌悪したからだともいわれています。そもそもキリスト教徒にとって、イエス・キリストを十字架に送ったのはパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)だという思いがあります。かつてのキリスト教ではお金をあつかう仕事は卑しい職業と考えられていました。ですから、そうした仕事に従事することの多かったユダヤ人にはキリスト教徒たちから迫害をうける素地はもともとあったのです。
第二次世界大戦が勃発しようとしていたとき、ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいました。かつてポーランドの隣国にはハザールという国家があり、その国教がユダヤ教だった影響で多くのユダヤ人が住んでいたのです。しかも、ポーランドは度重なる戦禍によって、労働人口が少なくなっていました。そのため、勤勉なユダヤ人を積極的に受け入れていました。しかし、その後、ナチス・ドイツがポーランドを脅かすようになると、たくさんのユダヤ人が迫害を恐れてポーランドを離れていきました。
しかし、イギリスも、アメリカも、そしてソ連までもがユダヤ人との関わりを拒みました。唯一、日本だけがユダヤ人の欧州脱出を助けたのです。たくさんのビザを発給してユダヤ人を救った杉原千畝は有名です。しかし、杉原千畝がユダヤ人達を救う3年も前に、数千人にもおよぶユダヤ人のポーランド脱出に尽力した日本人がいます。日本帝国陸軍の樋口季一郎中将です。彼は日本陸軍の軍人でありながら、満州鉄道に列車を手配し、ロシアのオトポールから租界地のあった上海までユダヤ人を移送したのです。
当然、三国同盟を結んでいたナチスドイツからは強い抗議が来ました。そして、日本政府内でも査問委員会を開いて樋口中将に懲罰を与えることも検討されました。しかし、当時の東条英機関東軍参謀長の裁可もあったことから、樋口中将の責任は問われませんでした。むしろ、ドイツに対して日本政府は「これはまったくの人道上の問題であり瑕疵はない」と反論したほどです。樋口中将はその後、終戦間際のアッツ島からの無血撤退を指揮し、占守島では中立条約を破棄して侵攻してきたソ連を阻止して北海道を守りました。
多くのユダヤ人がポーランドからの逃げ場を失って隣国のウクライナに逃げてきました。しかし、ユダヤ人はかつてウクライナ人から重税をとりたててきた人たちです。ソ連に向けてポーランドに侵攻してきたドイツ軍は、ウクライナ人にとってはユダヤ人に対する恨みを晴らし、自分たちを奴隷のように扱ってきたソ連共産党を懲らしめてくれる英雄に見えたのかもしれません。「ユダヤ人狩り」というナチスの要請に積極的かつ自発的に協力しました。これがプーチン大統領がいう「ウクライナのナチズム」の背景です。
かくして、第二次世界大戦が終ってみると、ウクライナは独ソ戦の戦場となるなどして国土は荒廃していました。そして、第一次大戦と同様にドイツが降伏し、ソ連が戦勝国の一員となると、ウクライナはソ連邦のいちぶに戻りました。その後、ウクライナで収穫される小麦は、ソ連の重要な穀物として欠くことのできない存在となります。しかも、ウクライナをふくむ、北はバルト三国からグルジアなどがあるコーカサス地方にかけての地域は、ソ連をNATOから守る重要な緩衝地帯となり、重視されました。
ロシア、そして、ソ連は戦争を経験するたびに自国の発展の遅れに気がつきました。クリミア戦争では敵対していた英・仏の近代化が敗戦の原因であると気づき、自国の産業革命を進めるべく政策を転換します。また、第一次世界大戦では自国の軍備が量的に劣っており、それは工業化の遅れからだということを知ります。さらに、第二次世界大戦が終わると、コミンテルン(共産主義インターナショナル)がアメリカやイギリス、さらには日本をはじめとする世界を動かすのに重要な役割をはたしたことを実感しました。
とくに第二次世界大戦の前後においては、ソ連のコミンテルンが日米両政府の高官に接触し、両国の政策に関与していました。1933年にアメリカの大統領に当選したルーズベルトが、早々にソビエト社会主義連邦を承認したことは重要な転帰となりました。当時のソ連は満州への南下政策を進めており、日本と対峙していた中国の蒋介石を支援していました。その蒋介石の国民党軍と日本を戦わせ、弱体化した日本をのちに中国での権益を狙っていたアメリカと戦わせることが国益にかなうということをソ連は知っていたのです。
1930年代は米ソの蜜月の時代でした。ソ連の優秀な若手研究者が多数アメリカに留学しました。そのなかにはスパイも含まれていて、アメリカの最新技術を盗んでいったのです。しかし、第二次世界大戦後にそうしたソ連共産党の世界戦略が徐々に明らかになってくると、アメリカとソ連は袂を分かつことになります。そして、両国を中心とした東西の二極化が進み、冷戦という硬直化した世界になっていったのです。米ソ両国は軍事開発を進め、科学技術においても世界をリードする大国となりました。
こうした世界情勢は、最近の米中関係をみるようです。1979年にカーター大統領と鄧小平の間で米中国交正常化が合意されると、中国からたくさんの若手研究者がアメリカに留学しました。そして、中国は経済大国となり、アメリカを脅かすほどの存在になりました。こうした米中関係は第二次世界大戦前の米ソ間のそれに似ています。グローバリズムという美名のもとに、国境が不明瞭になった結果です。それにしても、ルーズベルトにせよ、カーターにせよ、世界の変革期にあるときのアメリカ大統領はいつも民主党です。
冷戦時代、ウクライナは、ソ連にとっては地政学的にも、軍事的にも、食糧安全保障という観点からも重要な地域となりました。ウクライナにはソ連の戦略ロケット基地が設置され、世界最新鋭の核兵器が貯蔵されていました。その代償としてウクライナは、ソ連から安価なエネルギーを供給されていたのです。しかし、ソ連が崩壊し、東西冷戦が完全に終結した1994年、ウクライナはブダペスト覚書きでソ連から独立するとともに、核兵器を放棄して「平和国家」を目指す道を選択しました。これは西側につくことを意味しました。
今も続いているウクライナ戦争は、EUやNATOというアメリカ・西側陣営と、それら西側国家への猜疑心を捨てきれないロシアとの戦いでもあります。ウクライナは歴史的にも、あるいは地政学的にも、東西陣営の間にはさまれた緩衝国家であり続けるという悲劇から逃れることができません。ウクライナに侵攻したロシアには大きな責任があります。それは免れることはできません。しかし、ウクライナ自身やアメリカの戦略にも問題があるのです。その辺のことは次の「歴史の転換点(4)」で詳しく書きます。
ウクライナで冷たく凄惨な戦争が今も続いています。この間、ウクライナでは40万人とも、50万人ともいわれる人が命を落としました。祖国をあとにし、他国に避難したウクライナ人は600万人を超えています。ウクライナ国内で避難している人も360万人にのぼるといわれています。戦争前のウクライナの人口は約4000万人ですから、実に国民の4分の1にもおよぶ人たちが避難民となって慣れない土地で生活しているのです。こうした事実を知っている日本人がはたしてどのくらいいるでしょうか。
今回の戦争によって、かつて「ノボロシア」と呼ばれたウクライナ南部の美しい風景は一変し、とくに東部ドンバス地方の多くの建物ががれきの山になってしまいました。国際法で認められる戦争では、軍事施設に対する攻撃は許されていますが、一般人を標的にする攻撃は違法です。しかし、ロシアによる無差別攻撃は発電所や駅といった公共施設ばかりではなく、一般住民の住む集合住宅などをも無差別に狙っています。国民に恐怖心を与え、戦意を喪失させることが目的です。戦争の無慈悲さに今も昔もありません。
ウクライナ戦争は2月24日で3年目を迎えました。昨年の10月28日付けの当ブログで、私は「歴史の転換点」と題した小論を掲載しました。一介の内科医院に過ぎない当院のホームページに、このような政治的な記事を載せるのはどうかと思いました。しかし、マスコミからは正しい情報が流れてきません。また、混沌とした世界情勢にまるで関心がない人たちも少なくありません。私たちのまわりでいつ戦争がおこってもおかしくないのだということを喚起するためにあえてあの記事を掲載しました。
先日、アメリカの有名なジャーナリストであるタッカー・カールソンがロシアのプーチン大統領に単独インタビューしました。西側のジャーナリストが、ロシア軍のウクライナ侵攻が行なわれて初めてプーチンと会見するとあって、世界中の人が注目していました。私もこの会見に大きな関心をもっていた一人です。この会見を最後まで聞いてまず感じたことは、「もっと早くあのインタビューがおこなわれていれば、この戦争が早期に終結し、たくさんの犠牲者を出さずに済んだかもしれなかったのに」ということです。
タッカー・カールソンとプーチン大統領の会見を見てもうひとつ感じたことがあります。それは「ウクライナ戦争に対する私の見方はおおむね間違っていなかった」ということです。拙論「歴史の転換点」をもう一度読んでみて下さい。私がウクライナ戦争をどう見ていたかがおわかりいただけると思います。偏った情報しかながれてこない日本のメディアからではなく、インターネットをはじめとするさまざまな媒体から得られた情報をもとに考察することがいかに重要かがよくわかると思います。
それはまた、日本のメディア、アメリカのメディアが必ずしも正しい情報を伝えていない、ということでもあります。アメリカのメディアが伝える情報をまるで大本営発表かのようにながすだけの日本のメディア。それが意図的なことであれば、それは日本メディアの偏向ぶりを証明することになります。それが意図しないものであったとしても、それは日本のメディアの能力の低さをあらわすものです。タッカー・カールソンとプーチンのインタビューはそんな現実を白日のもとにさらした観があります。
あの会見の冒頭、プーチン大統領はウクライナとロシアとの歴史的関係を説明しました。それは30分近くにおよびました。その概略は拙論「歴史の転換点」で書いたものとほぼ同じといってもいいと思います。ウクライナになぜロシアが侵攻しなければならなかったのかについては、多少なりとも世界史の知識を理解しなければいけません。今回はその辺のことをもう少し詳しく説明してみたいと思います。ただし、あくまでも私の理解であり、間違っていることがあるかもしれません。そのときは遠慮なくご指摘ください。
日本が「鳴くよ(794年)ウグイス、平安京」だったころ、ヨーロッパ、とくに東ヨーロッパには国家らしい国家はほとんどありませんでした。さまざまな部族がまじりあいながら、小競り合いを繰り返しつつもそれなりにのどかな生活を営んでいた時代でした。しかし、当時、スカンジナビア半島に住む北方民族の雄・ノルマン人のバイキングがこの東ヨーロッパに侵入してきました。東欧を南北につなぐドニエプルやボルガなどの川を利用して黒海に出て、バルカン半島のビザンツ帝国と交易をするためです。
スラブ地域と呼ばれる東ヨーロッパに勢力を広げたバイキングでしたが、ここで取れる毛皮や肉ばかりではなく、征服した地域に住む東欧の人々を奴隷にするなどして交易範囲を拡大していきました。スラブ地域の住民を奴隷にしたことから英語では奴隷を「SLAVE」と呼ぶことはよく知られています。やがてバイキングのリューリク王が、862年にロシア北西部のノブゴロドという街に【ノブゴロド国】という国家を作りました。王は「ルーシ」と呼ばれましたが、この「ルーシ」が「ロシア」の語源だといわれています。
リューリクの息子たちはノブゴロドからさらに川をさかのぼり、今のウクライナのキエフを征服しました。そして、ここを拠点にノブゴロド国にかわる【キエフ大公国】を作り、その後、東ヨーロッパの交易の中心として栄えました。しかし、このキエフ大公国はその地政学的な特殊性から、周辺に勃興する国々と争いが絶えませんでした。国の領土を拡大し、ときに奪い取られながら、大公がビザンツ帝国の王女を妃として迎え、東ヨーロッパでの地位を確固たるものにしました。
その後、キリスト教が分裂してローマ教会とビザンツ帝国の正教会にわかれると、ビザンツとのつながりのあるキエフ大公国は正教会となりました。しかし、隣国で勢力を増してきたポーランドはローマ教会となったことから、キエフとポーランドの緊張は高まることになります。そんな不安定な情勢のなか、日本で鎌倉幕府が成立するころ、キエフ大公国はかつての首都ノブゴロド付近に【ノブゴロド共和国】が分離・独立。同時に、キエフ大公国の中心がキエフから北東部のウラジーミルに移ろうとしていました。
そんなキエフに襲いかかったのは、当時、最強の帝国といわれたモンゴル・タタール人でした。その頃、モンゴルは朝貢を拒否した日本にも来襲しました。鎌倉武士たちの奮闘と、神風ともいうべき二度の台風によって守られた日本はモンゴルを大陸に押し返しました。しかし、ヨーロッパにおけるモンゴルの勢いは止まりません。ジンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍がキエフ大公国とポーランド、ハンガリーを征服。これらの国々はモンゴルに朝貢しなければならない属国となりました。
しかし、モンゴルは異教徒を弾圧しなかったため、キリスト正教会はウラジーミルを中心に拡がっていきました。そして、ウラジーミル近郊にあるモスクワに【モスクワ大公国】が成立します。日本が室町時代になろうとするころのことです。ウクライナ周辺は急速に領土を拡大していたリトアニアに支配されました。リトアニアは隣国ポーランドと姻戚となり、それまでの正教会からローマ・カトリック教会に改宗しました。当然ながら、リトアニアに支配されていたウクライナの人々も改宗を求められました。
ところが、キリスト教正教会の守護でもあるビザンツ帝国が滅びます。すると、もともとビザンツ帝国と姻戚関係にあったモスクワ大公国に正教会の中心が移り、モスクワは「第三のローマ」と呼ばれるようになってキリスト教正教会の後継者であることを宣言します。かくしてキリスト教は、ローマ・カトリックと正教会の二大勢力に完全にわかれて対立するのです。同じキリスト教であっても互いに非なるものとして緊張関係が続き、ローマ教皇とモスクワ総主教がはじめて顔をあわせたのは2016年のことです。
ちなみにプーチン大統領は、ノブゴロド国の首都ノブゴロドから100kmほどしか離れていないサンクトペテルブルグの出身です。ですから、プーチンがノブゴロド国やキエフ大公国という国家があったことや、これらの国が今のロシアの源流になっていたことを知らないはずがありません。そして、ウクライナとロシアが言語や民族、信仰や風習などで簡単に線引きできない関係にあることも熟知しています。ましてや近現代にいたってもなお両国が不幸な歴史をひきずっていることも十分知っているのです。
ウクライナの特殊性についてもう少し説明します。これまで書いてきたように、ウクライナの地はたびかさなる隣国の侵略によって、民族も、宗教も、国教すらもめまぐるしく変わる地域でした。モンゴルの属国だったモスクワ大公国は次第に国力を高め、日本が戦国時代だったころ、暴君として有名なイヴァンが国の名を【ロシア・ツァーリ】と改め、モンゴルを裏切って朝貢を拒否するまでの大国になりました。ツァーリとは皇帝のことであり、その後のロシアは北は北極海、南は黒海近くにまで領土を拡大します。
しかし、日本が江戸時代を迎えるころになると、リューリクから続いてきたリューリク朝のツァーリが途絶えてしまいます。そして、ロシアでは次々とツァーリが代わり、その混乱に乗じてポーランドが侵攻してくるなど、ロシア国内は混乱と混沌を極める状況に陥ります。そんな状況を救ったのが、その後、300年も続くロマノフ朝の祖ミハエル・ロマノフです。彼はウクライナやフィンランドなどの周辺の領土をポーランドやスウェーデンに譲歩して和平を進める一方、シベリアの征服を進めていきました。
ところが国内の経済は次第に悪化し、たくさんの農民が土地を放棄して暖かい地方に移住しました。そこで、農民が土地を移動するのを禁止し、地元の有力者が税金を徴収する「農奴制」を確立させました。そのころリトアニア・ポーランド共和国の一部になったウクライナでは、国王がローマ・カトリックへの改宗を住民に強制し、奴隷農家から税金を徴収していました。その税金を厳しく取り立てていたのが異教徒のユダヤ人です。こうした背景があってウクライナ人に反ユダヤの感情が生まれます。
不満を高めたウクライナ人はロシアの力を借りてリトアニア・ポーランドと戦います。ウクライナにはコサックというモンゴルの騎馬戦法を引き継ぐ強力な軍事集団がいました。そのコサックの活躍もあって、ロシアとポーランドとの戦争はロシアが勝利しました。かくしてウクライナはロシアの領土となりました。しかし、ウクライナは、今度はロシアから課された重税に苦しむことになります。なんどか反乱を企てますが失敗。ロシアとスウェーデンとの戦争にも巻き込まれ、平和で安定した国土にはなかなかなれませんでした。
ロシアがユーラシア大陸の大半をおさめる【ロシア帝国】に名を改めたころ、日本はまだ徳川吉宗の時代でした。領土拡大を進めるロシアはベーリング海峡を発見。そして、エカチェリーナが女帝となるころにはアラスカまで領土は拡がります。ロシアはついにはポーランドを属国にし、その一方でオスマントルコとの戦いを有利に進めるなど勢いはとどまりません。ロシアはクリミア半島からオデッサまでを領土にし、その地域には多くのロシア人が移り住んで「ノボロシア(新しいロシア)」と呼ばれました。
以上、長々と書いてきた歴史的変遷を、プーチン大統領はタッカー・カールソンとの会見で披露しました。プーチンがウクライナを「特別な場所」と呼び、ウクライナ戦争を「南東部の地域に住むロシア系住民を守るための軍事作戦」と説明するのはそうした背景を知らなければ理解できません。ではなぜ、今、軍事力を行使してまでウクライナ国内に侵攻しなければならなかったのか。それについては次の「歴史の転換点(3)」で解説したいと思います。
令和6年能登半島地震に際して亡くなられた方のご冥福と、怪我をされ、被災された方たちの日常が一日も早く回復するよう心よりお祈りします。
2023年8月14日に当ブログに掲載した記事「琴線に触れる街」を再掲します。あの街並みは変わってしまったでしょうか。北陸の風景はもちろん、そこに生活する人たちの心も変わりませんように。
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以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。
************ 以下、本文
「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。
私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。
その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。
井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。
「流星」
高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。
それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。
私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。
金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。
永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。
門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。
拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。
金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。
金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。
2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。
昨年12月、90歳になる母親を連れて映画「Godzilla -1.0(ゴジラ・マイナスワン)」を観ました。ゴジラ映画はあまりにも有名ですが、個人的にはそれほど興味がなかったため、1954年に作られた第一作からこれまで一度も観たことがありません。ただ、2016年に公開された前作の映画「シン・ゴジラ」については、その評判がよかったので、事前に予告などを観ずにDVDを買ってしまいました。しかし、そのストーリー以前に、出演している役者の演技がことごとく下手で、DVDを購入したことを後悔したほどです。
今回の作品については多くの人が高評価をつけており、観た人たちのコメントの多くも「前作をうわまわる出来映え」とのこと。そこで「マイナスワン」は映画館で観てみることにしました。しかし、家内に「一緒に行こう」と誘いましたが、つれなく断られてしまいました。息子達にも冷たくあしらわれた私は、実家で一人暮らしをしている母親を連れて行くことにしました。思えば、母とふたりで映画を観るのははじめてです。脳梗塞を患ってまだ半年。しかも耳の遠い母親でしたが意外と「行く」との返事でした。
映画は1947年(昭和22年)の東京が舞台。母親がまだ女学校の生徒だったころの話しです。米軍の焼夷爆弾によって焦土と化した東京が、再びゴジラに襲われて壊滅的な被害を受けます。「マイナスワン」というタイトルはその惨状を意味しています。人々を恐怖と絶望に陥らせたゴジラにどう立ち向かうか。戦争の傷跡の癒えない人たちの戦いがはじまったのです。その戦いの中心人物が、意志の弱さゆえに攻撃から逃げ帰ってきた若き特攻隊員。ストーリーが進むにつれ彼の負い目が徐々に勇気へと変わっていきました。
事前の評判の通り、なかなか面白い映画でした。ストーリーは比較的単純でしたが、それなりにどんでん返しがあって楽しむことができます。「今回のゴジラはこれまでで一番怖かった」という声にもうなずけます。映像も美しく、迫力があり、音楽もすばらしかったです。演じていた俳優も適材適所といえるでしょう。母親も見終わったとき「面白かったよ」と言ってくれ、連れて行ってよかったと思いました。私などはめずらしくあとでもう一度映画館に足を運んだほどでした(そのときも誰も付き合ってくれなかった)。
私はこの映画を観て改めて感じました。「人には守るべきものがある」ということを。この映画を観に行った頃、私はこのブログに「映画『トラ・トラ・トラ』」と題する小論を掲載するため、ちょうど真珠湾攻撃のことを調べていました。そして、当時の軍人・兵隊たちがどんな気持ちで開戦を迎えたのかをあれこれ考えていたのです。「ゴジラ・マイナスワン」の主人公は自責の念に苦しんだ特攻隊員でした。その彼の思いが真珠湾攻撃に参加した軍人たちの「守るべきもの」と重なって私の心の琴線に触れたのかもしれません。
記事「映画『トラ・トラ・トラ』」でも紹介したように、攻撃を指揮した山本五十六は当初、真珠湾攻撃はもちろん、日米開戦そのものに反対していました。その五十六がなぜ連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案し、実行することになったのか。今も諸説、さまざまな解釈があります。山本五十六には、彼が大きな影響を受けた終生の親友がいました。その人の名は堀悌吉といい、海軍兵学校第32期の同期生。五十六の卒業時の成績は192名中11番。堀悌吉という親友は首席で卒業する優秀な生徒でした。
五十六と堀は在学中から意気投合します。お互いに議論を交わし、切磋琢磨する間柄だったのです。あるとき成績が振るわなかった五十六を、堀は「我々が勉強するのは席次のためではない。立派な軍人になるためだ。精一杯やった結果なのであればそれでいいではないか」と励まします。海軍では兵学校や海軍大学校卒業時の成績が優秀であれば、あとは無難に過ごしているだけで出世の道が保証されます。しかし、優秀な二人ではありましたが、昇っていった高級幹部への階段は決して順調なものにはなりませんでした。
海軍には艦隊派と条約派と呼ばれる、方向性を異とする派閥があって対立していました。第一次世界大戦後の日本は、アジアの一等国入りをした勢いを借りて、欧米列強に負けないほどの軍事力を持つようになりました。日清戦争は明治維新のたった26年後のことであり、日露戦争はそのさらに10年後のことです。清とロシアというユーラシアの大国を相手に、日本は二度の大きな戦争を勝ち抜きました。こうした戦果は軍事力の急速な近代化を背景にしています。しかも、そのスピードは世界でも類を見ない早さでした。
幕末、諸外国からの脅威にさらされた日本は、軍事力の必要性を思い知ります。日本に先立って産業革命をなし遂げ、すでに近代国家となっていた欧米列強は植民地を次々と拡大していきました。江戸幕府は、力なき国家、備えなき国家がいともたやすく欧米の植民地となっていく事例を知っていたのです。まさに欧米の「悪意ある善政」によってなにもかもが強奪・奪取され、現地の人間が奴隷として売られていく。豊臣秀吉や徳川幕府がキリシタンの布教を禁じたのはそのためでした。
明治維新以来、日本が急速に富国強兵の政策を推し進めたのは、ひとえに日本が欧米列強の植民地にならないため。日本が朝鮮半島の近代化を望み、両班たち(朝鮮の王族)にその意思がないと見るや武力をちらつかせてまで朝鮮半島の近代化を求めたのもそのためだったのです。その一方で、すでにアジアに多くの植民地をもつ欧米にとって、日本の軍事力の増強はアジアにおける自分たちの権益に対する脅威以外のなにものでもありません。彼等はやがて日本を封じ込めるため、海軍の軍縮を求めるようになりました。
ところで、大戦後の平和維持のため、1920年に米国のウィルソン大統領が国際連盟の創設を提唱しました。しかし、アメリカは当初、国際連盟に加盟しませんでした。それはアメリカにはモンロー主義(他国の紛争に関与しないという宣言)があったからですが、もっと大きく根本的な理由がありました。国際連盟の創設に先立つパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃条約」を採択するよう提案しました。アジアやアフリカにおける、欧米列強による非人道的で、きわめて差別的な植民地政策が行なわれていたからです。
国際会議において人種差別の撤廃を訴えたのは日本がはじめてでした。明治維新のたった50年後の日本がこうしたことをするというのは驚きです。しかし、採択に消極的な国は少なくなく、アメリカのように黒人奴隷を制度として残している国は採択に反対しました。日本は条文を修正するなどしてなんとか採択にもちこもうと努力しました。しかし、採決の結果、米・英はもちろんブラジルやポーランドなどが反対票を投じ、議長だったウィルソン大統領が全会一致でなかったことを理由に否決してしまいました。
国際連盟が機能不全をおこすであろうことは当初から容易に想像がつくことでした。パリ講和会議後に採択されたベルサイユ条約で戦勝国フランスは、敗戦国ドイツに当時のGNPの20年分を超える1320億マルク(今の400兆円)の賠償をするよう強行に主張しました。それはまるで普仏戦争での恨みをはらすかのようでした。その結果、ドイツの物価は一年で20億倍に跳ね上がり、戦後のドイツ人の暮らしをまさに塗炭の苦しみにしました。その苦しみはやがてドイツ人の不満と復讐心となり、ヒトラーの出現を招来します。
その一方で、イギリスは、中東での支配を確かなものにするため、いわゆる「三枚舌外交」をおこなって、今のパレスチナの混乱につながる火種を作りました。また、イギリスは、アメリカとともに海軍軍縮国際会議を開き、台頭する日本の軍事力を制限しようとしました。徐々に狭まる日本包囲網を警戒した日本帝国海軍は、交渉によって事態を打開しようとする交渉派と、あくまでも欧米の介入を許さずに海軍力を維持しようとする艦隊派とが対立していました。軍縮会議の責任者でもあった堀悌吉は交渉派でした。
アジアでの権益をめぐって欧米と対立する日本は、ソ連の南下にも注意しなければなりませんでした。ソ連とは満州やモンゴルとの国境をめぐってせめぎ合い、ウラジオストクやカムチャッカ半島からソ連が日本の出方をにらんでいるといった状況にありました。折しも1922年に帝政ロシアは共産革命によってソビエト社会主義共和国連邦となっていました。ドイツ帝国も1918年に革命がおこり、皇帝がオランダに逃げて退位。共和国になったばかりです。日本は共産主義という火の粉がソ連から飛んでくることを恐れました。
1934年、軍縮会議をなんとかまとめて帰国した交渉派の堀悌吉らを、艦隊派はもちろんマスコミが「弱腰だ」と強く批難しました。その声はやがて世論となって交渉派を追い落とすことになります。「これでなんとか危機的状況から脱することができた」とほっとして戻ってきた堀たちは、すでに海軍省内に自分の居場所がなくなったことを感じたようです。堀は無役の予備役となり、海軍兵学校の校長に転出します。その一方で堀との親交を深めていた山本五十六は1939年に連合艦隊司令長官に昇進しました。
1940年には日独伊三国同盟が締結されました。世の中は快進撃をつづけるドイツとの同盟に熱狂します。しかし、山本五十六は堀悌吉とともに三国同盟に反対の立場をとりました。五十六が反対するのは「地理的に遠すぎて同盟をむすぶメリットが少ないばかりか、アメリカを無用に刺激する」という合理的な理由からでした。それに対して堀は「ドイツの軍国主義や帝国主義が極度に嫌になってきた。日本人のドイツ崇拝のありさまを見るとたまらなく不愉快」と述べています。そんな二人の声は海軍には届きません。
自分の信念を曲げず、不本意ながらも出世の道をはずれて退役に追い込まれた堀悌吉。そうした彼の生き様は、学生時代、五十六に言った「自分の本分を尽くせば席次などどうでもいい」という言葉通りのものでした。一方の山本五十六は、堀と同様に三国同盟に反対し、日米開戦にも反対したにも関わらず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮をとることになりました。五十六がなぜこのような矛盾する行動をとったのか。その答えは、堀悌吉に宛てて書いた無数の手紙の文面にあらわれています。
国、大なりといえども、戦(いくさ)を好めば亡ぶ。
国、安きといえども、戦を忘れれば必ず危うし。
軍隊の本質は、国家の要求に応じて当然の責務を果たすことにある。
敵に向かうべき最高の命令を受け、閫外(こんがい:国の外で敵と対峙すること)の臣として
辞するわけには行かぬ、のふたつにつきる。
山本五十六は日米開戦が決定された以上、自分にあたえられた使命をまっとうするのが軍人だという信念があったのかもしれません。五十六は、アメリカ本土はもちろん、アメリカの利権とかかわる南方を攻撃すれば、アメリカ国民を刺激して日米の全面戦争になる恐れがある。であるならば、太平洋艦隊の基地がある真珠湾を完膚なきにまで攻撃し、アメリカ国民の戦意を喪失させることができれば、それが世論となって日米戦争を早期講和に持ち込むことができるのではないかと考えたのでしょう。
しかし、真珠湾には肝心のアメリカの主力空母がいませんでした。逆にミッドウェー開戦で日本の主力戦艦を多数失ってしまいました。早期講和の道が絶たれてしまったのです。五十六は1943年になるとソロモン・ニューギニア方面にいるアメリカ艦船および航空兵力に打撃をあたえる作戦に赴きます。しかし、その途中、周囲の反対を押し切って連合艦隊の旗艦「武蔵」を離れ、前線の兵士を激励に向かう途中で搭乗機が撃墜され、五十六は戦死します。それはまるで死にに行ったかのような行動でもありました。
五十六はこの作戦を指揮するにあたり、決死の覚悟をもっていたのかもしれません。真珠湾攻撃から2年。山本五十六がときの総理大臣・近衛文麿に「日米が開戦してどこまでやれるだろうか」と問われたとき、「はじめの半年や1年の間は存分に暴れてご覧に入れます。しかしながら、2年、3年となればまったく確信は持てません」と答えたといわれています。まさにその通りになったのです。近衛に「日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と言った五十六は日米が開戦したことにさぞ落胆したことでしょう。
山本五十六も、堀悌吉も、それぞれの信念にもとづいて、日本・日本人を守ろうとしました。軍備だけで国家・国民を守ることはできません。ましてや、軍備を怠るならば弱肉共食の世界にあってはなおさらです。五十六や堀のように、指揮官として命がけで日本や日本人を守ろうとした人たちがいます。また、家族や同胞のために散華された名もなき兵隊たちもたくさんいます。それらの英霊は今の日本をどう思うでしょうか。現代に生きる私たちはいったい何を守るべきなのか、もう一度問い直すときが来ていると思います。
※映画「ゴジラ -1.0」はこの 1月 12日 から「白黒版:ゴジラ -1.0/c(マイナスワン/マイナスカラー)」が封切られます。是非、みなさんもご覧になってください(子どもも楽しめます)。ちなみにゴジラのテーマ曲を作曲した伊福部昭は北海道大学の卒業生です。
※ 1月 14日 に「ゴジラ -1.0/c」も劇場で見てきました。個人的にはむしろこの白黒版の方がよかったと思います。よりリアルに感じられましたし、俳優達が本当に当時の人たちのように見えました。
※1月 24日 、アカデミー賞ノミネート作品が発表され、「Godilla Minus One」が視覚効果賞にノミネートされました。視覚効果賞はこれまで「アバター」や「タイタニック」に代表されるようなアメリカ映画の独壇場でしたが、今回、日本はもとよりアジアからの作品としては初めてのノミネートでした。3月10日にハリウッドのドルビーシアターで本賞受賞作品が発表されます。ノミネートだけでも凄いことですが、是非本賞も受賞してほしいものです。
インフルエンザの流行もだいぶ下火になってきたと思っていましたが、松戸保健所からの情報では東葛地域でまた感染者が増加している、と。しかし、当院で日常の診療をしていてもそれほど感染者が増えているという実感はありません。おそらく周辺住民へのインフルエンザワクチンの接種が一段落しているからかもしれません。いずれにせよ、これから子ども達の通う学校も冬休みに入ります。年末年始のお休みにもなります。そうなれば感染拡大もじきに落ち着いてくるのではないでしょうか。
COVID-19(新型コロナウィルス)に感染する人の数も増えてきているようです。でも、驚くことはありません。それはCOVID-19ワクチンを接種する人が激減しているからです。ワクチンの接種が少なくなれば感染者は増える。当たり前のことです。これまで何度も繰り返してきたように、感染状況は感染者数ではなく重症者の数で評価すべきです。その意味で重症者がまったく増えていない現状は特段問題がないことを意味しています。理由や考察のない表面的な報道があいかわらず多く困ったものです。
その一方で、COVID-19ワクチンに対する批判が高まっています。「重篤な副反応が出ている恐ろしいワクチン」というのがその批判の中心です。ワクチン接種後に亡くなった人の数が2000人にもなってしまったではないかというのです。ワクチン接種が死因と特定できたケースはそれほど多くはありません。しかし、少なくともワクチン接種後に亡くなったのだから、ワクチンの危険性をもっと認識すべきだという意見ももっともです。でも、だからといって「なぜそんな危険なワクチンを接種してきたのか」というのは極論です。
私はワクチンに「中立な立場」だと思っています。ですから、こうした批判にはもっともだと思うところとそうでないところがあります。まず、今回のCOVID-19ワクチンについて「こんなにも危険だったワクチン」という反応は少し誇張されているように感じます。このワクチン接種がはじまったとき、ファイザー社などからアナウンスされた危険性は「接種数十万回に一回の割合で重篤な副反応が起こる可能性がある」でした。接種開始時、私は「重篤な副反応は20万人にひとりほど」と説明しながら接種していました。
日本ではこれまで約4億3千万回あまりのワクチンが接種されてきました。ワクチン接種後に亡くなった人が2000人いたとして割り算をしてみてください。22万回の接種にひとりの死亡者ということになります。もちろん亡くなりはしなかったが、重篤な後遺症が残ったケースも相当数あるでしょう。しかし、そうした人たちの中には、その死因や後遺症がワクチン接種と無関係のケースも少なくないはずです。そのようなケースを調整すれば、ワクチンの危険性はおおむね当初説明されていた程度だということがわかります。
だからといって「今のワクチン接種に問題ない」と思っているわけではありません。「ワクチンは危険性(副反応)と重要性(効果)との天秤で考えるべき」だからです。もともと危険性のまったくないワクチンなど存在しません。その危険性を可能な限り回避しながら、その危険性を許容できる範囲で接種の是非を評価しなければならないのです。得たいの知れない恐ろしいウィルスが猛威を振るい、その感染拡大によって重症者や死亡者が急増し、医療崩壊が目前にせまっているとすれば、多少のリスクは覚悟のうえです。
「社会の危機」ともいうべきステージを過ぎ、重症化する患者の数も少なくなっていれば、もはやワクチンの接種は必須とはいえません。ましてや周囲から強制されるようなものではないのです。現在も続けられているCOVID-19ワクチンのこれまでの効果はあきらかでした。感染しても重症化しないで済んだのはワクチン接種による恩恵です。感染しなかった人たちも、自分自身が接種し、あるいは周囲に接種した人たちがいたからこその幸運だったという事実を認識しなければなりません。ただの偶然ではないのです。
11月28日に従来のmRNAワクチンとは作用機序がことなる新しいワクチンが世界ではじめて承認されました。このワクチンを「レプリコンワクチン」といいます。今年の5月にその実用化についてのプレス・リリースがありました。しかし、その報道がほとんどなかったため、承認されたという報道があるまで私はこのワクチンの存在を知りませんでした。今回、このワクチンについていろいろ調べてみましたが、詳細な解説をしている情報がほとんどありません。それくらい新しいワクチンだということなのでしょう。
今回、この「レプリコンワクチン」について、私が理解している範囲で、皆さんにも理解しやすいように解説したいと思います。ただし、私の説明する内容が、後で間違っていることが明らかになるかもしれません。そのときはこのページの終わりに訂正記事を追加します(文章そのものは修正しません)。全面的に間違っているようであれば記事そのものを削除します。今後、レプリコンワクチンのことが気になったら、ときどきこのページを参照してください。読者の皆さんからの間違いのご指摘も歓迎します。
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レプリコンワクチンのことを説明する前に、ウィルスのことについて少し説明したいと思います。ただし、わかりやすく説明するためにかなり簡略化しています。細かいところで間違っているかもしれませんし、「そんなに単純化はできないよ」と思われる部分もあるかと思いますがご容赦ください。
皆さんはウィルスと細菌との違いをご存じでしょうか。一番大きな違いは、細菌は自己複製できるのに対して、ウィルスは自分で自分のからだを増やすことができないところです。つまり、細菌は環境が適していればどんどん自己増殖していきます。しかし、ウィルスそのものは、そのままでは自分で自分の分身を作ることができずに壊れてしまいます。では、ウィルスは自分の分身を作って増殖し、生き延びていくためにどうするのでしょうか。実は生物の細胞に侵入してその細胞に分身を作らせるのです。
ウィルスは生き物の細胞に寄生しなければ分身を作ることができません。COVID-19の粒子からトゲのように延びた「S(スパイク)タンパク」で細胞膜にとりつき、細胞の中に侵入するための役割をはたしています。とくにこのSタンパクの受容体結合ドメイン(RBD)と呼ばれる部分が、標的細胞膜の受容体にとりつくために重要です。かくして細胞内に侵入し、自己の遺伝子を注入すると、細胞自身にウィルスのからだを複製させ、それらのウィルスが細胞を飛び出し、あらたな標的細胞へと向かっていくのです。
ところで、細胞やウィルスが分身を作るときの設計図がDNAです。DNAは二本のペアとなった遺伝情報の鎖で、通常は細胞核の中に保管されています。DNAのすべてが生命活動に必須な遺伝情報ではありません。エクソンと呼ばれる遺伝情報として必要な部分と、イントロンと呼ばれる不要な部分が交互につながっているのです。なぜ不要の部分があるのでしょうか。それは、放射線などによって部分的に壊されても、その影響を確率的に低減するためです(損傷したDNAを修復する機能ももっています)。
さて、細胞分裂する際、母細胞の遺伝情報をコピーしなければなりません。このとき二本鎖だったDNAは一本の鎖にそれぞれわかれ、その一方の遺伝情報をもとにmRNAという仮のコピーを作ります。このコピーになってはじめてエクソン部分の遺伝情報を切り出すことができます。この抜き出されたエクソン部分のうち、タンパクを作るときに働く部分をレプリコンといいます。COVID-19のレプリコンであるmRNAを注射し、人間の細胞にそのSタンパクを作らせて中和抗体を誘導するというのが従来のmRNAワクチンです。
COVID-19ウィルスのSタンパクを細胞に作らせる、というとなにか危険なことがおこるように思えます。しかし、COVID-19ウィルスのからだ全体ではなく、細胞にとりつく際に働くSタンパクのみを体内に作るので、ウィルスの毒性が発現することはありません。体内でSタンパクができると、やがてリンパ球を刺激し、Sタンパクに対する抗体を分泌してそのSタンパクを攻撃します。かくしてウィルスは細胞にとりつくことができなくなり、細胞内に侵入することも、分身を作ることもできずに壊れていくというわけです。
しかし、Sタンパクの構造は複雑であり、リンパ球だけではなく、人体のさまざまな免疫機構を刺激します。それがワクチンのいろいろな副反応を引き起こし、ときにひどい副反応となることもあります。また、mRNA自体は壊れやすく、衝撃が加わったり、適温で保存しないと簡単に活性を失います。ワクチンの扱いには慎重さが必要なのです。ウィルス自身は遺伝子を変化させ、生体の免疫から逃れようとします。そのため、mRNAワクチンもそのたびに遺伝子変化に対応したワクチンに作り替えなければなりません。
レプリコンワクチンと従来のmRNAワクチンとではどこが違うのでしょうか。それはレプリコンとしてのmRNAをどのように細胞まで運ぶかというプロセスに大きな違いがあります。SタンパクをコードしたmRNAを直接体内に注入するのが従来のmRNAワクチン。このワクチンでは、免疫に寄与するだけの必要最低限のSタンパクを作るために、それなりの量のmRNAを注射しなければなりません。しかも、作られたタンパクも異物として認識され、やがて体内から消えていくため、4,5ヶ月おきに接種しておかなければなりません。
一方のレプリコンワクチンは、ベクターと呼ばれるウィルスを注射して細胞にレプリコンを発現させます。今回のレプリコンは、Sタンパクのとくに受容体結合ドメイン(RBD)とよばれる部分に特化したものです。ベクターウィルスが細胞内で自己増殖し、次々と他の細胞に感染していって、しばらく抗体を誘導し続けるのです。誘導されたRBDに限定した免疫反応は、感染抑制に寄与する中和抗体を有効に作り出し、同時に、過剰な免疫応答の原因でもある非中和抗体の産生を抑えるといわれています。
なお、ベクターとなるのはα(アルファ)ウィルスと呼ばれるもので、ほとんどの霊長類に感染しているウィルスだとされています。疾病を引き起こすような病原性はなく、人体に感染しても影響はありません。このウィルスの中にSタンパクRBDレプリコンを入れて人体に注入するのです。体内に入ったベクターウィルスは細胞に接触・侵入し、細胞内で複製する過程でSタンパクRBDに対する抗原を発現し、リンパ球を刺激して抗体を作らせます。なお、このベクターウィルスもやがては免疫によって排除されていきます。
以上のことから、レプリコンワクチンについては次のようなメリットがあるといわれています。①注射量が少なくて済む、②温度管理などの扱いが容易、③効果の持続期間が長い、④重篤な副反応が少ない。なにやらいいことづくめですが、これらはあくまでも理論上のものです。ベトナムで8000人規模の治験がおこなわれましたが、大きな健康被害はなかったとされています。しかし、健康に対する長期的な影響については未知な部分も多く、本当の安全性についてはこれからの検討課題です。
巷では、このレプリコンワクチンに関する情報が錯綜しています。中には、十分に調べもせず、不必要に人々の不安をあおるいい加減な情報を流す人も少なくありません。ワクチンの危険性に警鐘を鳴らすことは大事です。しかし、イデオロギーにもとづいた扇動的な情報にはくれぐれも注意すべきです。とはいえ、レプリコンワクチンの安全性については十分に検討されているとはいえません。数年はかかる臨床実験もそこそこに、あっという間に承認を受けてしまった観が否めないのです。
感染拡大が社会の混乱と医療の崩壊をもたらしている危機的な状況ならまだしも、今のように落ち着いているときに新しいものに飛びつくのは決して賢明ではありません。COVID-19が流行しはじめたときのブログにも書きましたが、政府の対応は初動が遅いばかりではなく、間違った対策が多かったように感じます。その総括や反省がないまま、次々とワクチン接種事業を進める厚労省のやり方には賛成できません。その意味で、来年の秋から接種が始まると言われているレプリコンワクチンには注視していく必要があるでしょう。
※ 前編の「ワクチンの現状」もお読み下さい。