院長が気まぐれな雑感を述べます。個人的な意見が含まれますので、読まれた方によっては不快な思いをされる場合があるかもしれません。その際はご容赦ください。ほんとうに気まぐれなので更新は不定期です。
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みなさんは「良きサマリア人法」という考え方をご存じでしょうか。サマリア人とは新約聖書の「ルカによる福音書」という書に登場する人物です。そのサマリア人が登場する物語は次のようなものです。
とある人が道でおいはぎに襲われ、金品はおろか服まで奪われ、しかも大怪我までさせられ置き去りにされてしまった。通りかかった人たちは関わり合いになるのを恐れて見て見ぬふりをして次々と通り過ぎていった。しかし、たまたまその現場に差し掛かったサマリア人は違った。彼は被害者を見るなり憐れに思い、駆け寄ると傷の手当をし、連れていた家畜に乗せて宿に連れて行き介抱した。翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を渡して言った。「あの人を介抱してあげてください。もし足りなければ帰りに私が払います」と。
つまり、不意の大怪我をした被害者を、誰かが無償かつ善意で治療した場合、もしその結果が不幸なものであったとしても責任をとわれないことを保証する法律を「良きサマリア人法」といいます。アメリカの多くの州ではこうした基本法が制定されているようです(でも、医師であるという身分の確認は厳しく、確認できなければ触らせてもくれないとのこと)が、日本国内にはそのような法律はなく、場合によっては被害者自身あるいはその家族に訴えられれば結果責任を問われる可能性があるとされています。
以前、勤務していた病院でこの話しが出たとき、結構な数の先生方が「飛行機の中で急病人が出ても名乗り出ない」と言っていました。しかし、医師には「応召義務」、つまり、正当な理由がなければ診療の要請にこたえなければならないという決まりがあります。そこで先生方は「飛行機が出発したらすぐに酒を飲んで酔っ払ってしまう」、要するにお酒を飲んで応召義務を免れるというわけです。お酒が飲めない私にとってはずるいような、うらやましいような。
かなり前になりますが、私にも同じような場面に遭遇した経験があります。それは家内と子供を連れてレストランに入ったときのことです。注文したものがそろって食べ始めたとき、どこからともなく「●●さん、だいじょうぶ?●●さ~んっ!」「早く!救急車、救急車!」という声が聴こえてきました。私は食事を続けながら「まずい状況になったぞ。行った方がいいかなぁ。でも責任を問われるっていうしなぁ」などと心の中でつぶやきながら、その現場に駆け付けるのをためらっていました。
ふと家内の方を見ると、私の方をにらみながらまるで「なにやってるのよ。早く行ってきなさいよ」と言うように目配せしています。おいおい、そう簡単に言うなよ。心のなかでは半分だけ「しょうがないなぁ」と思い、もう半分は「行きたくないよぉ」というのが正直な気持ち。とはいえ、騒然としたレストランの中で誰一人立ち上がる人がいません。しかも、目の前ではまだ小さかった長男の目が私に「パパ、かっこいい」と言っているようにも思え、私はその人だかりの中に入っていくことにしました。
「私は医師なのですが、どうなさいましたか」。その現場にいる人たちの視線が一斉に私に集中するのがわかりました。「●●さんの意識が急になくなって、呼びかけに答えないのです」と連れの方が答えました。呼吸を確かめるとどうやら呼吸はしているようだ。脈をとりながら、「●●さ~ん」と耳元で呼びかけても答えない。でも、幸い脈はある。不整もない。私はあたまの中で「低血糖?それとも低血圧?」と自分に問いかけていました。とにかく横にしてみようと考え、みんなで本人をゆっくり床に寝かせました。
「吐くかもしれないので横向きにしましょう。そのテーブルクロスをたたんで枕にしましょう」。自分でも驚くくらいにてきぱきと処置が進んでいきます。もう一度「●●さ~ん」と呼びかけると、少しだけ体を動かしながら「はぁ…い…」と返事が返ってきました。周囲の人たちからは安堵のため息がもれました。「よし、きっとワゴトミー(副交感神経の興奮で血圧が下がりすぎてしまう病態)だ」と考えていると、その人の意識はみるみる戻ってきました。
ご本人が「もうだいじょうぶですから」と立ち上がろうとするのを制止して、「このまま救急車が到着するまで横になっていてください。なにも恐ろしいことにはならないと思いますが、念のために病院で見てもらいましょう」、そう言い残すと私は自分の席にもどりました。なんだかヒーローになったような感じがする一方で、目立ってしまってこっぱずかしい気持ちがしました。席にもどると目がハートマークになっている家内と息子が待っていました(本人たちは否定していますが)。
あまりにも恥ずかしかったので、一刻もはやくこのレストランを出たかったのですが、おいしいビーフシチューにほとんど手をつけていなかったのであわててスプーンを口に運びました。そのとき、後ろの座席からはこんな声が。「ああいうときは寝かせるのが基本なんだよ」。それとなく振り向くと、先ほどの現場を見つめる初老の男性と奥さまらしき女性がなにやら救急措置のことを話しています。「なんだよ、あの人も医者かよ」、「講釈するくらいなら名乗り出てよ」って感じでした。
倒れた方の連れの方々から丁寧にお礼を言われ、レストランのマネージャーからはコーヒーの差し入れがありました。このときはこの程度ですんでよかったのですが、病態もわからず、処置が間違って対象者を死なせてしまったら。そう考えると、そうやすやすと名乗り出られない気持ちもわかります。今はなにかと責任が問われる時代になり、それが善意であろうと結果責任を問う人も決して少なくありませんから。マスコミの論調も「善意だから好意的」なんてこともありませんし。
だからといって、見て見ぬふりができるほど強い心をもっているわけではない私にとっては実に悩ましいことです。ですから、いつも飛行機に乗るときはこのときのことがあたまをよぎります。「お客様の中でお医者様がいらっしゃったら乗務員までお声かけください」なんてアナウンスが流れたら、とたんに冷汗が噴出してくるんじゃないでしょうか。そしたら乗務員さんにこう言おうと思います。「すみません。気分が悪いのでお医者さんを呼んでください」と。
「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。
医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。
教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。
今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。
医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。
医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。
当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。
ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。
「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。
そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。
そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。
大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。
結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。
しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。
シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。
女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。
結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。
内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。
今日は久しぶりの晴天です。今までどんよりとした景色が続いていただけに爽やかな気分で過ごすことができました。ただ、晴れ渡った分だけ気温が上昇しましたから、暑さが苦手な私としては涼しい北海道の気候を思いださずにはいられません。
北海道の夏は爽やかです。こちらでいう真夏日はお盆前後の2週間ほどしかありませんし、湿度が低いので日陰に行けば結構涼めます。私は札幌の中央区というど真ん中のマンションに住んでいました。11階でもありましたので、夏は東西の窓をあければ心地よい風が入ってきてエアコンいらず。夜、うっかり窓を開けたまま寝てしまえば風邪をひきそうなときさえあります。おまけに人を刺す蚊も入ってきませんでしたから、ほんとうに申し分のない夏を過ごすことができました。
北海道の夏を涼しく感じるもうひとつの要因は至るところに咲いている花の美しさにあると思います。北海道の春は、梅と桜、タンポポが一斉に咲きだして始まります。とくに桜は、うすピンクの花びらと若葉が同時に我々の目を楽しませてくれます。道路脇に積み上げられた雪がすっかり溶けると、まさに百花繚乱の春を迎えるのです。しかも、北海道の春はまだ昼夜の気温差が大きいため、花の色はとても鮮やかです。そんな花々がまるで春の訪れを讃えるかのように路地のいたるところに植えられています。
札幌では5月に桜が満開になるのでこのころにお花見があります。お花見とはいえ、まだ冬のような寒さは続いています。とくにGWのころはまだ開花したばかりです。それでなくても寒いのに桜がちらほらしかほころびていない寒々とした光景の中での花見となります。北大の構内には中央ローンというちょっとした広場があり、北大生は生協でコンロとジンギスカン用の独特の形をした鉄板を借り、ラム肉を焼きながらお花見をします。お酒が入るので多少寒くても、あるいは桜が咲いていなくても関係ありません。
北海道には梅雨はないといわれますが、正確には「蝦夷梅雨」というものがあります。6月のライラックが咲くころ、大雨にこそなりませんが天候が悪くて肌寒い日が続きます。これが「蝦夷梅雨」です。このころに「よさこいソーラン祭り」が開催されます。この祭りは私が北大にいたころにはじまりました。高知県のよさこい祭りで使われる鳴子を手に北海道の民謡ソーラン節にあわせて踊るのです。北大の学生が企画したものからはじまったといわれていますが、今や札幌の代表的なお祭りになりました。
夏は北海道の魅力を存分に楽しめる季節です。私のお勧めは7月下旬に行く富良野と美瑛です。札幌にいたころ、家内と早起きをして車で富良野によくでかけました。午前中の早い時間帯に富田ファームを訪ね、ラベンダーアイスを頬張りながらラベンダー畑を歩く。そして、色とりどりの花が一面に咲くフラワーランドに立ち寄り、丘陵地帯を車でぬけてお昼過ぎには札幌に戻る。帰りには対向車線には延々と渋滞の車列が続いています。札幌に帰るとなんか休日の時間を有効に使えた気持ちになったものです。
私が一番好きな北海道の季節は秋です。9月も下旬ともなればだいぶ涼しくなり、大雪山系では紅葉がはじまります。そして、10月になると街に紅葉がおりてきます。紅葉とはいえ、北海道の紅葉は赤くありません。赤く発色するモミジはほんの1週間ほどで葉を落としてしまうからです。ほとんどの紅葉は黄色と深緑。しかし、それでも色鮮やかで実にみごとです。私のお勧めは北大の13条門から構内に入ったところの銀杏並木と札幌郊外にある豊平峡ダムです。とくに豊平峡の紅葉を初めて見た父は「極楽黄土とはこういう感じなんだろうなぁ」と感心していました。
北海道の秋の紺碧の空はとても美しい。ひんやりと頬をなでる秋風を感じながら見上げる抜けるような紺碧の空はまさに心洗われるようです。このころになると、各家庭ではストーブを炊き始めます。洗面道具をカタカタいわせながらの銭湯の帰りしな、ストーブの煙突から漂ってくる香りに「秋が来たんだなぁ」ってほっこりした気分になったことを思いだします。6畳一間のアパートに帰ってストーブをつけ、コタツに入ってのんびりすると、もう「ちょ~しあわせ~」って感じでした。
11月も下旬になると結構頻繁に雪が降ります。ただ、まだ根雪にはなりません。根雪になるのは12月後半です。ですから、クリスマスの頃にはすっかり雪景色。まさに「ホワイトクリスマス」。学生時代に私はそのクリスマスの日に讃美歌を聴きに教会へ出かけたことがありました(ちなみに私はクリスチャンではありません)。冬ともなれば夕方とはいえ外は真っ暗。しかも氷点下。吐く息はすっかり白くなっています。ひとりで訪れた私を快く歓迎してくれた教会からの帰り道、雪あかりの中で踏みしめる雪の「キュッ、キュッ」という音を聴きながら、ふとさっき教会で流れていた「神の御子は」を口づさんでいました。
なんかとっても幸せな気持ちになって、ちょっと立ち止まって深呼吸をしてみました。するとどうでしょう。雪の香りがするじゃありませんか。乾いた香り。うまく表現ができないんですけど。見上げるともう雪雲はすっかり消えて、キラキラと星が輝いていてとてもきれい。そこは住宅街でしたが、あたりは一面の雪。ほとんど人影もありません。そのときになぜかとても幸わせな気持ちになりました。「北海道に来てよかったなぁ」って。この話しを人にすると、そこには誰か「髪の長い人」が寄り添っていたのでは?と言われるのですが、残念でした。冬の夜道でひとり感傷にひたる男って不気味でしょうけど。
私は北海道が大好きです。仕事を引退したらまた札幌に住みたいと思うほどです。気候が自分にあっているんでしょうね。北海道大学で学べたことも自分にとってはなにものにも代えがたいほど大切な思い出です。生活の場としても素晴らしいところですし、休みの日に遊びに行くところにも事欠きません。のんびりと自分のペースで大学生活を送れたという意味で北海道は自分に一番合っていたんだと思います。北海道は第二のふるさと。札幌駅周辺も北大構内も随分と変わってしまいましたが、私の心の中の北海道はいつまでも私に勇気と力を与えてくれます。
医学部を卒業し、医師国家試験に合格してもまだ「医師」というには程遠い存在です。医学部を卒業した時点での医学的「知識」はまだ単なる「点」であって、それらの点は「経験」という「線」でつながらないと使いものにならないからです。
その「点」を「線」でつなぐ修練の場が研修です。私が研修の場所として選んだのは、飯田橋というところにある東京逓信病院でした。この病院は近くに靖国神社や皇居があり、周囲には大学や中学・高校も多く、都内でありながらとても閑静な場所に建っている中規模の病院です。ここで内科の研修医として呼吸器科、循環器科、消化器科、血液内科、内分泌内科、神経内科などの主要診療科をまわるとともに、オプションで放射線科の研修をすることができました。もともと特定の専門領域ではなく、一般内科を広く診ることができる医者になりたいと思っていた私にとって東京逓信病院での研修は、周囲の環境といい、その研修内容といい、まさに希望通りのものでした。
当時、この病院はまだ「郵政省の病院」でした。研修医の私たちの身分も郵政省医系技官でした。給与は今でいう「ゆうちょ銀行」に振り込まれるため、郵便貯金の口座を開設させられました。また、以前は郵政職員でなければ受診できない病院でしたが、私が研修医のときにはすでに一般の人にも開放されていました。大物政治家から有名芸能人までいろいろな人が受診・通院・入院していました。有名人が入院するという噂を耳にすると、「もしかして担当医になれるかも」なんてドキドキしていたものです。しかし、VIPが入院しても私たち研修医は担当医などになれるはずもなく、指導医クラスの人たちが担当医になりました。とある女優さんが検査入院したときなどは「握手して、サインをもらうぞ」とワクワクしていたのですが、部屋に近づくことさえ許されませんでした。
この研修医としての2年間は医師として働いている今の自分に大きく影響しています。朝早くから夜遅くまで働きづくめの毎日はとても大変でしたが、やりがいもありましたし、すべての体験がとても刺激的でスリリングでした。研修医の仕事はおもに病棟業務が中心です。患者の採血をして病棟を回診し、指導医の指示に従って検査のオーダーをして、ときには助手として検査に入ります。それらが終わると、一日の検査結果を確認し、指導医に報告して一緒に病棟を回診したら新たな指示を受けます。そしてようやくデスクワーク。カルテに検査結果を張り付けたり、患者の診察記録をカルテに記載する作業です。一人あたり40人ほどの患者を受け持っているので、すべてのカルテ記載が終わるのはだいたいが深夜。当然、重症患者がいたりすればほとんど眠れません。
研修医になりたてのころは、気持ちはまだ患者みたいなものですから、採血をするにしても、薬を処方するにしても、あるいはカルテ記載することすら「こんなこと自分がやっていいんだろうか」と躊躇したものです。それでも患者の前でそんなことをおくびに出せませんから、患者の採血をするときなどは心のなかで冷や汗をかきながら冷静を装っていました。それでも研修をこなしていくにつれ、少しずつ医者らしくなっていきます。それは医師としての自信がついてくるからですが、今でもありがたかったのは病棟の看護婦さん達の「教育」でした。東京逓信病院の病棟には新人・中堅・ベテランの看護婦さんがバランスよく配置されていました。その看護婦さんたちが我々研修医をときに励まし、ときに喝を入れ、ときにおだててくれました。なんといっても研修医よりも経験豊富な人たちです。厳しい指導医に叱責されてしょげているときや、処置や検査がうまくいかないときにかけてくれる言葉やアドバイスが研修医にはありがたかったです。
東京逓信病院で研修をしてよかった点は他にもあります。職員同志のコミュニケーションが良好で、アットホームなところでした。薬剤部の薬剤師さんたちや栄養科の人たちなど、他の職種の人たちとの間に不毛な壁を感じることがなく、むしろ、「同じ病院の仲間」というような一体感を感じていました。この感覚はうまく説明できないのですが、その後働いた病院では感じられなかった感覚でした。薬について相談するときも、食事内容の確認をするときも、それぞれの担当の人たちにプロフェッショナルな自負みたいなものを感じたのかもしれません。よくありがちな閉鎖的で排他的なセクショナリズムはありませんでしたし。ですから、研修の2年間に嫌な思い出ってないのです。いい思い出ばかり。
ちょうど研修医の2年目のときバイクを買いました。YAMAHAの「Virago」という400㏄のアメリカンバイクです。休みの日の深夜に皇居周辺や官庁街をよく爆走していました。この辺の信号は深夜になると黄色の点滅になるんです。つまりノンストップで走り抜けることができるということ。しかも場所にとっては上下線あわあせて8車線もあったりして、車もほとんど走っていない。夜中の警視庁本庁舎前を暴走族のように蛇行運転していました。休日も靖国神社界隈を散歩したり、神楽坂や飯田橋あたりの食堂をまわったりしました。神楽坂の「五十番」という中華料理屋さんの大きな肉まんや、東京大神宮の近くにある洋食屋さんのハヤシライス、当時はご近所だった東京警察病院の近くのお弁当屋さんの海苔巻などは思い出の昼食です。
そんなことを思い出すと、今でもあのときに戻りたいなぁって思います。楽しくもあり、大変でもあり、ストレスフルでもありましたけど。充実していたからでしょうか。研修を開始した直後は、何度となく「これから医者としてやっていけるんだろうか」と思ったりしました。もともと内科志望だったわけではなく、消去法で残ったのが内科だったからかもしれません( 「内科を選んだ理由」もご覧ください)。でも、そんなダメダメ内科研修医でも、それなりの医者になっていけたのはこの東京逓信病院での研修があったからだと思っています。当時の先生たちはほとんどがいなくなり、病院自体も民営化されてかつてののんびりした雰囲気はなくなちゃったのかもしれませんが。医師という職業は自分を成長させてくれました。その意味で東京逓信病院は私の第三の故郷(第二の故郷は札幌なので)なのかもしれません(「わが心の故郷「逓信病院(2)」もご覧ください)。
ふるさとは遠きにありておもふもの(室生犀星)。
ふるさとの山に向かひて言ふことなし、ふるさとの山はありがたきかな(石川啄木)
皆さんは井上靖という作家をご存知でしょうか。私がはじめて「井上靖」という作家と出会ったのは中学生のころでした。当時の国語の教科書に彼の「夏草冬濤」という小説の一部が紹介されていたのがきっかけです。井上靖にはいくつかの自叙伝的な作品があって、そのうちの「あすなろ物語」「しろばんば」そして「夏草冬濤」は三部作として有名です(旧制高校のときの様子を描いた「北の海」もあります)。井上靖自身とも言われる洪作少年の成長が描かれているのですが、私はこれらの作品を通じて井上靖が少年時代を過ごした昭和初期の古き良き時代の香りに惹かれるようになりました。日本全体がまだ貧しく、それでいながら精神は豊かであった時代。日本が戦争に引きづりこまれそうな不穏な空気が漂いながらも、静かでゆったりとした時間がまだ流れていた時代。そんな雰囲気が井上靖の自伝小説には感じられました。成長した井上靖自身は、その後、旧制第四高等学校に入学し、高下駄を履き、白線帽にマントのいでたちで金沢での三年間を過ごすのですが、そのときに思いをはせた一遍の詩があります。
流 星
高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上でひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から一條の青光をひらめかし、忽焉とかき消えたその星の孤独な所行ほど、
強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。
それから半世紀、命あって若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
併し心うたれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星
というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。
井上靖
この詩は、金沢市にある石川近代文学館に併設された四校記念文化交流館の庭にひっそりと設置された碑に刻されています。この場所はかつて旧制第四高等学校のあったところであり、建物そのものがその四校の建物です。私は学会で金沢を訪れた際に立ち寄ったこの場所で偶然その石碑を見つけました。記念碑の前にたたずんでこの詩を読んだとき、私はあたかも自分が旧制高校の学生になって、冷たい風の吹きすさぶ冬の浜辺に横たわり、満天の星空を見つめているときの昂揚感のようなものを感じました。「これから自分はどんな人生を送るんだろう」。冬の澄んだ夜空を流れ去る流星の後を追いながら若かりしころの井上靖はきっと考えたんだと思います。当時は私も自分の研究テーマを絞り始めていた時でもあり、自分のこれからの行く末を重ね合わせて感慨にふけていたのでしょう。以来、この場所、この詩は私の大好きな場所・詩のひとつになったのです。
実際の旧制高校のことは実体験としては私はまったく知らないわけですが、伝え聞くような旧制高校の自由さと闊達さにとても惹かれます。旧制高校は全寮制で、大学入試が免除されるため、学生は受験に振り回されることなくそれぞれの思いで学生生活を送る。ある学生は哲学に思索し、ある学生はスポーツに興じ、ある学生は無為に過ごす。大学の本科に入って専門の教科に進む前にまったく自由な時間を過ごすのだそうです。旧制高校での生活を経験した人達は皆この時の経験を「人生にとって貴重だった」と振り返っているようです。ですから、私の中には旧制高校に対する憧れみたいなものがあります。そんな時間を自分も経験してみたかったという思いもあります(だから長男を全寮制の学校に学ばせているんですけど)。ただ、もともとルーズな自分では「自分の時間」なんて主体的な過ごし方はできないだろうと思いますが。いずれにせよ、この「流星」という詩は、そんな私の湧き立つような憧れの気持ちを思い出させてくれるのです。