運命について(4)

1850年8月、万次郎の乗ったアメリカの捕鯨船イライザ号はハワイ・オアフ島に到着しました。イライザ号は蒸気船で、それまでの捕鯨船の2倍はあるかという大きさです。カリフォルニアを出発してから二週間あまり。あっという間にハワイに着いてしまいました。万次郎は早速、島に住んでいた寅右衛門の家をたずねていきました。そして、伝蔵と五右衛門も呼び寄せて、帰国するという自分の強い意志を三人に告げました。伝蔵と五右衛門は万次郎の決意に共鳴し、自分たちも一緒に帰国したいと言います。しかし、寅右衛門だけが表情を曇らせたのを万次郎は見逃しませんでした。しばらく黙っていた寅右衛門は重い口を開きました。

「伝蔵も五右衛門も、以前、日本に帰ろうとしたがうまくいかなかった。また命がけで帰国を試みてもうまくいくとは限らない。俺はここでの生活に慣れ、仕事もでき、嫁ももらった。だから、この土地で一生を終えてもいいと思っている」。淡々とそう語る寅右衛門に、万次郎ら三人は「一緒に日本に帰ろう」と繰り返し説得します。しかし、彼の気持ちが変わることはありませんでした。万次郎たちは寅右衛門を翻意させることが難しいとわかりました。そして、三人で帰国の準備を進めることにしました。万次郎は採掘した金と交換できた銀貨600枚あまりで、上陸用の小型の船などの必要なものを購入していきました。

万次郎らと小舟一式を乗せてくれ、琉球付近で降ろしてくれる船を探しました。三人には希望があふれ、そのまなざしには「必ず帰国を果たしてみせる」という決意が感じられます。そんなとき、一隻のアメリカ船がオアフ島に入港してきました。その船には五人の日本人が乗っていました。万次郎は彼らに会いに行きましたが、五人は紀州の荷を乗せて江戸まで運び、その帰りに嵐に会って遭難したとのこと。運良くアメリカの船に助けてもらい、中国に向かう船に乗り換えてハワイまで乗せてきてもらったところだといいます。「彼らと一緒に帰れるかもしれない」。万次郎は希望が現実のものになってきたように感じました。

紀州船の船員たちには、彼らが乗ってきた中国行きの船の船長を紹介してもらいました。ところが、その船長と万次郎がささいなことでトラブルとなってしまったのです。船長は万次郎だけは乗船させたくないと言います。紀州船の人達が取りなそうとしましたが、船長は「どうしてもダメだ」と頑なです。万次郎は伝蔵と五右衛門に「自分のことは気にしないで行ってくれ」と言います。しかし、「それはできない」と、ふたりと万次郎の押し問答は続きました。結局、「万次郎ひとりを残して行くわけにはいかない」ということに。紀州船の船員たちは三人に同情してくれましたが、万次郎たちは船を涙で見送ることにしました。

万次郎には複雑な思いがありました。それは「カリフォルニアで大金を稼いでくる」と告げて別れてきたウィンフィールド船長のことです。今回の帰国のことを船長にはまったく相談せずにハワイに来てしまいました。船長は自分がフェアヘブンの自宅に帰ってくると思っているに違いない。そう考えただけで、自分に教育をあたえ、ここまで育ててくれた船長にはとても大きな不義理をしているように思えてならなかったのです。今回の帰国がもし失敗すれば、自分は命を失うかもしれません。そうなれば船長との再会は二度とかなうことはないのです。万次郎は船長に手紙を書きました。

 

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「あなたには幼い頃から大切に育てていただきました。このように成長することのできた恩義を、私は決して忘れません。なにひとつ恩返しができないまま、私は日本に帰国しようとしています。恩知らずのこの行動をどうかお許しください。もし生きて帰国をはたすことができ、世の中が変わって事情が許せば、ふたたびお目にかかれる日がやってくるでしょう。どうか寛大なご慈悲をもって私をお許しいただければ幸いです。」

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ハワイ・マウイ島に中国・上海行きのアメリカ船が入ってきました。しかも、その船では乗組員を募集しているといううわさです。日本に帰国するチャンスがいよいよ訪れたのだ、と万次郎は思いました。用意した小舟とともに三人をその船に乗せてもらい、琉球が近くなったら降ろしてもらえばいいのです。その船の船長の名前に万次郎は聞き覚えがありました。そのことを頼りに船長に直談判してみることにしました。「私たち三人は日本に帰国する決心です。なんとか日本近海まで船員として雇ってもらえないだろうか」。しかし、船長はあまりいい顔をしませんでした。「途中で船員がいなくなるのは困る」というのです。

万次郎は船長に言いました。「他の二人は大型船の仕事には慣れていない。仕事という仕事はほとんどできないだろう。しかし、二人の分まで私が必死に働くので彼等もこの船に乗せてもらいたい。私たちには給与はいらない。もし、日本の沖で二人を降ろしてもらえれば、私だけは中国まで働き続けるのでどうかそれでお願いしたい」。万次郎の言葉を聞いて、船長は渋々三人の乗船を認めることにしました。万次郎たちは、あらかじめ用意していた小舟や帆、櫓などを船に積み込むと、三人をふくむ18人の乗員を乗せた船はハワイを出港しました。遭難してから10年という歳月が過ぎていました。

日本までの長い航海を三人はどのような思いで過ごしたことでしょう。その間、万次郎は船長が目を見張るような働きぶりだったに違いありません。伝蔵と五右衛門も、慣れないながらも誠意をもって働いたのでしょう。航海中の三人の様子に、当初は渋々受け入れた船長も、彼等がいかに祖国に、故郷に戻りたかったかが伝わってきたようです。いよいよ琉球が近づいてきたとき、船長は万次郎を呼び寄せて尋ねました。「君はこのまま中国に行くということでよいか」。そう確認する船長に万次郎はきっぱりと答えました。「伝蔵と五右衛門は琉球に到着したら下船させてください。私はこのまま中国まで働きます」。

そう言い切った万次郎のまなざしを見つめながら船長はしばらく黙っていました。そして、万次郎の覚悟を確かめたかのように船長は静かな口調で言いました。「この先の航海で船員が足らなくなるのは困る。しかし、私はそれを我慢することにしよう。君も彼らといっしょに下船しなさい」。その船長の言葉を聞いた万次郎の目からはとめどもなく涙がこぼれおちました。琉球まであと少しとなったころ、船長は船をできるだけ陸地に近づけるよう船員に指示しました。いよいよ三人が日本にもどる時がやってきたのです。「琉球はもう目の前だ。心配することはない。きっと上陸できる」と船長の目にも涙がにじみました。

船長は下船の準備に忙しい万次郎を呼び止めました。そして、一枚の航海図を広げると「ここは上陸には向いていないからここから試みたまえ」と助言してくれました。「もし万が一、上陸が難しいとなったら戻ってきなさい。我々は君らの上陸を確認するまでここにとどまっているから」と食料を渡しながら言いました。上陸用に購入した小舟に、万次郎たちは「アドベンチャー号」と名前をつけました。そのアドベンチャー号は、万次郎、伝蔵、五右衛門を乗せ、日本の海岸を目指して冒険(アドベンチャー)をはじめるのです。三人は船長や乗組員たちに謝意と別れを告げ、小舟に乗り込みました。

沖の波は思いのほか高く、小舟を木の葉のように大きく揺らしました。万次郎は小舟の帆を張り、船長が示していた海岸に向けて舵をとります。しかし、ときに押し寄せる大波に、舟は遭難したときのように押し流されていきます。なんども転覆しそうになりながら、必死に舟を立て直そうとする三人。恐ろしさのあまり、顔をひきつらせた五右衛門が「もうだめだ。どうしたらいいんだ」と泣き叫びます。そんな彼を叱りつけながら櫓をこぐ万次郎。それはものすごく長い時間が経ったように感じました。ついに、三人はなんとか入り江までたどり着くことができました。沖合に停泊していた船は、それを確認して中国に出発していったのでした。

 

*********************** 「運命について(5)」につづく

 

運命について(3)

「万次郎にアメリカで教育を受けさせたい」。ウィットフィールド船長の教育を重視するこうした姿勢は会衆派教会の教えでもありました。アメリカにやってきたピューリタン(清教徒)の信仰を色濃く残していた会衆派は、同志社を創設した新島襄がアメリカで洗礼を受けた宗派としても有名です。新島襄は若いころ、日本に帰国した万次郎が教授をしていた幕府の軍艦操練所に入学していましたが、やがてアメリカの政治制度やキリスト教精神に強い関心を持つようになりました。そして、1864年、アメリカに渡ってキリスト教を学ぶことを決意した新島は、商船に乗って新大陸への密航を果たしたのです。

アメリカでの新島襄には、身寄りも、頼る人もいません。しかし、会衆派のある篤志家が、「聖書を学び、帰国して学校を作りたい」という彼の志に感銘を受け、「ジョウには教育を与えるべきであり、私が彼の生活の一切を援助する」と申し出ました。新島襄や万次郎が暮らしたアメリカ北東部には、こうした敬虔なプロテスタントが当時数多くいました。新島襄はその後、会衆派教会で洗礼を受け、同派が設立した名門アーマスト大学に進学して日本人初の学士号をとります。そこで彼は、後に札幌農学校に赴任するクラーク博士に化学を教わりました。そして、さらに神学校に進んだ新島は、帰国後、志どおりに同志社大学を作ります。

ウィットフィールド船長にとって、万次郎は自分の息子のような存在でした。それには理由がありました。航海の直前に船長は再婚したばかり。その2年前に前妻が亡くなっていたのです。その後、男の子が産まれますが、その子も二歳になってすぐに亡くなってしまいました。悲嘆にくれる船長夫妻を町中の人が気の毒に思うほどでした。そんな夫妻のもとにやってきた万次郎は、まさに自分たちの子どものように感じたに違いありません。だからこそ、その万次郎が教会で「黒人の席に座れ」と言われたとき、いつもは温厚で人格者だった船長が「万次郎に対する扱いは人種差別だ」と憤慨して教会をあとにしたのでしょう。

成長した万次郎は、アメリカの船員学校で優秀な成績をおさめていました。そして、今度は正式な船員として捕鯨船で航海に出ることになりました。万次郎が乗船するフランクリン号の船長はかつてジョン・ハウランド号の乗組員。ニューベットフォードの港から、補給基地だったマニラに向けて出発することになっていました。船が出航してしばらく進むと、大砲を積んだ大きな軍艦が何隻も停泊するボストン港に入りました。当時、アメリカとメキシコは戦争のまっただ中。両国ともに戦力を増強して戦争が終る気配はありません。海岸には砲台が何基も並び、まるで城塞のような様相にただならぬ雰囲気を漂わせていました。

その後、フランクリン号は大西洋を南下します。航海の途中、いくつかの島に寄港しながら燃料と食料を補給しました。遠く小笠原の近くまで来ると、二十隻ほどの漁船が鰹漁をしていました。どうやら日本の漁船のようでした。万次郎は船の舳先に立って声をかけます。「ここはなんという国ですか?」。すると、真っ黒に日焼けしたひとりの漁師が「陸奥の国、仙台だ」と答えました。久しぶりに耳にする日本語でした。万次郎は故郷である土佐の方角を聞いたものの、漁師は土佐のことを知らないようすです。万次郎は少し落胆しましたが、漁師に謝意を述べ、船はハワイを目指して出発しました。

ハワイは一緒に救出された4人と別れた場所。ハワイに到着した万次郎は街の人に「どこかに日本人はいないか」と聞いてまわります。そして、ひとりの日本人が住んでいるという家を教えてもらい、たずねてみることにしました。その日本人は寅右衛門でした。容姿が変わっていたせいか、彼ははじめ万次郎だとは気づきません。しかし、その訪問者が成長した万次郎だとわかると、二人は抱き合って五年ぶりの再会を喜びました。ところが、他の三人の姿はそこにはありません。寅右衛門が言うには、重助は怪我がもとで死んでしまい、伝蔵と五右衛門は日本に帰るために船に乗って行ってしまった、とのことでした。

寅右衛門との再会をはたし、フランクリン号に戻った万次郎は、ふと沖の方に目をやりました。港に入ってくる捕鯨船に、二人の日本人が乗船しているという噂を聞いたからです。万次郎はさっそくその船の日本人に会ってみることにしました。船の近くまで行ってみると、その二人は伝蔵と五右衛門だということがわかりました。肩をたたき合って久しぶりの再会を喜ぶ三人。「ふたりは日本に帰ったと寅右衛門から聞いたけど・・・」。そうたずねると二人は「八丈島と蝦夷まで行ったが帰国がかなわなかった」と涙ながらに語りました。二人の話しを聞きながら、「日本に帰りたい」という思いが万次郎にはこみ上げてくるのでした。

伝蔵と五右衛門との話しはつきませんでしたが、フランクリン号は万次郎を乗せてハワイを出発しました。そして、1848年2月、船はマニラに向かう直前、グアムに到着しました。しかし、このころから船長が精神に異常をきたします。わけのわからぬことを言ったり、暴れるようになってきたのです。マニラに到着すると、彼をアメリカ領事館に預けることにしました。そして、それ以後は万次郎が船長代行として船を進めることになったのです。マニラの新聞では、アメリカの商船が日本に帰港し、領事館を作らせてほしいと求めたものの、幕府は拒否したと報じていました。「帰国はそう簡単ではないようだ」と万次郎は思いました。

40ヶ月におよぶ長い航海を終え、フランクリン号はニューベットフォード港に戻りました。万次郎はウィットフィールド船長の自宅を訪れ、無事帰港したことを報告しました。船長は万次郎の成長ぶりに感心し、無事帰還したことを喜んでくれました。しかし、万次郎の表情はさえません。ハワイで伝蔵・五右衛門、寅右衛門と再会して以来、日本に帰りたい、土佐に戻りたいという思いが高まっていたからです。なにより土佐に残してきた母のことが頭を離れません。アメリカに来てからの八年間というもの、万次郎は、言葉を覚え、新しい知識を吸収するのに必死でした。母や故郷のことを考えている暇などなかったのです。

ハワイで生活している三人もまた家族や故郷のことを忘れていませんでした。伝蔵や五右衛門は何度か日本への帰国を試みたものの失敗を繰り返していました。重助に至っては傷がもとで亡くなり、帰国することはかないませんでした。「重助もどんなに悔しかっただろう」と思うと、万次郎には「日本に帰ってもう一度母に会いたい」という感情があふれてくるのです。そんな中、アメリカがメキシコとの戦争で割譲させたカリフォルニアが、今、空前のゴールドラッシュに沸いていることを万次郎は知ります。その金山で働いて、日本に帰る資金を作れないものだろうか。いつしか彼はそんなことを考えるようになっていました。

迷ったすえ、万次郎はウィットフィールド船長に相談してみることにしました。でも、これまで育ててくれた船長夫妻に、「日本に帰りたい」などと言い出せません。そこで万次郎は「カリフォルニアに行って金を掘って来たい。ひと財産を築くことができれば、一生楽な生活ができるかもしれない」と船長に切り出します。しかし、万次郎の性格を理解していた船長は、それが彼の本心ではないことを知っていました。「マンジロウはきっと日本に帰りたいに違いない」。伏し目がちな万次郎を見ながら、船長はそう思いました。「そうか。頑張ってきなさい」と万次郎と握手する船長。でも、その目には涙がにじんでいました。

はるばる船でやってきたカリフォルニア。そのサンフランシスコには近代的な港があって、街はとても栄えていました。そこからさらに蒸気船で川をさかのぼるとサクラメントに。万次郎は街の郊外にある金鉱で働くことにしました。雇われ鉱夫としての不慣れな仕事でしたが、見よう見まねでコツをつかんでいきます。多少のお金が入ると採掘道具を購入して、今度は自分で金を採りはじめました。金の採掘量は日増しに多くなっていきます。掘り出した金を横取りする’ならず者’に襲われぬように気をつけながら、万次郎は黙々と金を採り続けました。すると、70日ほどで日本に帰るためには充分なお金が貯まったのでした。

万次郎はハワイまで乗せてくれる船を探しました。彼は、そこで伝蔵と五右衛門、寅右衛門をひろって一緒に帰ろうと思っていたのです。万次郎は念入りに計画を練りました。四人が乗れる小舟や櫓、帆、食料などをハワイで用意し、日本の近海に来たらその舟を下ろしてもらうのです。より安全に岸に近づくためには琉球付近から入国するのがよさそうです。ハワイのオアフ島に向かう船を見つけ、さっそくその船長と乗船する交渉をしました。すると、すぐに交渉はまとまり、船に乗れることになりました。万次郎は不安と興奮の入り交じった気持ちを抑えながら船に乗り込みます。いよいよ帰国への第一歩がはじまりました。

 

************************ 「運命について(4)」につづく

運命について(2)

万次郎がアメリカで航海術や造船技術を学んでいたとき、世界のいたるところで「歴史の転換点」ともいうべき変化がおきていました。産業革命後のイギリスは、すでに植民地にしていたインドを足がかりに、中国(清)に進出しようと考えていました。中国からのお茶の輸入が急増し、イギリスが大量の銀を支払っていました。そこで、イギリスーインドー中国という三角貿易を利用し、インド産のアヘンを中国に持ち込んで貿易赤字を解消しようとしたのです。その結果、多くの中国人がアヘン中毒となり、中国国内からは銀が流出していきました。アヘンの蔓延は中国にとって見過ごすことのできない問題でした。

清政府はアヘンの中国への持ち込みを阻止しようとしました。しかし、イギリスの船に積載されたアヘンが没収されたのをきっかけに、イギリスは戦争をしかけて中国に開国と自由貿易を認めさせようとしたのです。これが1840年のアヘン戦争です。軍の近代化が遅れていた清は、強大な軍事力を持つイギリスに敗北しました。そして、不平等な南京条約を結ばされ、香港をイギリスに割譲。いくつかの港湾もイギリスに解放することになりました。フランスやアメリカも同様の条約を締結するよう清に迫り、中国は欧米の半植民地のようになってしまったのです。その結果、中国国内では外国勢力に対する反発が高まっていきました。

条約が締結したにもかかわらず、清政府は条約違反を繰り返していました。そして、フランス人宣教師が殺害されたのをきっかけにアロー戦争が起こりました。戦争を仕掛けたのはフランスとイギリスです。のちにアメリカとロシアも終戦交渉に加わりました。当時の江戸幕府は鎖国をしていましたが、その戦争のことを知っていました。それは長崎・出島のオランダ商館の館長が、幕府に逐次報告していたからです。長く鎖国を続けていた幕府ですが、長崎の出島を指定して、オランダや清、朝鮮とのみ交易を続けていました。外国人は出島から出ることが制限されていましたが、オランダには出島に商館を作ることが許されていました。

オランダが優遇されていたのは、オランダがキリスト教の布教を望まず、交易のみを目的としていたからです。そして、幕府は交易を許すかわりに、そのときどきの国際情勢を「オランダ風説書」として報告させていたのです。この風説書によって幕府は、世界でどんな変化が起きているのかを知ることができました。ヨーロッパでキリスト教の宗教改革が起こったこと、小国同士の内戦が繰り返され、今の国際法の原型となるウェストファリア条約ができたこと。ナポレオン戦争があり、アメリカという新国家ができたこと。さらにはイギリスで起こった産業革命のことや、欧米列強による植民地政策のこともオランダは報告していました。

そんなこともあり、江戸幕府はやがて欧米列強がやってくることを知っていました。産業革命が起こったヨーロッパの強国が、資源を求めてアジアの小国家を次々と武力で奪い取ってきたからです。当時の日本は世界でも有数の金・銀の産出国でもあったため、なおさら標的になっていたに違いありません。そこで1825年に異国船打払令を出し、日本の港に入港しようとするすべての外国船を拒絶することになりました。薩摩藩や長州藩などでは、1830年ごろから藩を近代化する改革をはじめました。そんな中での1837年、救助した日本人を送り届けようとしたアメリカの商船モリソン号を幕府が砲撃するという事件が起こりました。

幕府は、その翌年のオランダ風説書によって「モリソン号は人道的な目的で入港しようとした商船であり、武器もあえてはずして港に近づこうとしていた」ということを知ります。高野長英や渡辺崋山といった国内の蘭学者たちが、その国際法にもとる幕府の対応を厳しく批判しました。幕府は、そうした批判を許せば、国民が外国船への警戒心を緩め、鎖国政策に反対する世論が高まるのではないかと警戒しました。そして、幕府を批判した蘭学者を一斉に逮捕し、投獄・処罰しました(蛮社の獄)。その一方で、1842年、異国船打払令を緩和する「薪水給与令」を出し、漂着した船だけには燃料と水を補給することにしました。

1843年、太平洋で漂流した万次郎ら5人は、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されます。万次郎だけはウィットフィールド船長と一緒にアメリカ本土に渡りますが、伝蔵・重助・五右衛門の三兄弟と寅右衛門の4人はハワイであらたな生活をはじめます。彼等は地元の有力者の援助でなに不自由のない暮らしをしていました。しかし、「いつまでも頼ってばかりいてはいられない」と、有力者に仕事を世話してもらえないかと頼みます。彼は「国王に面倒を見るようにいわれているから心配するな」と言ってくれました。でも、怪我をおった重助を除く三人は、知り合いのつてで仕事を見つけ、働くことになりました。

重助は鳥島に船で流されたとき、足に大きな傷を負っていました。しかもその傷が治らず、どんどんと衰弱していきます。そして、島の名医といわれる医者に診てもらおうとした矢先に亡くなってしまいます。でも、残りの三人にはあらたな仕事もでき、島での穏やかな生活がはじまりました。たまに自分たちと同じように遭難し、外国船に救助された日本人が来てくれました。お互い、遭難したときの恐ろしかった話しをしますが、日本に帰国するみんなの意志は強いことがわかります。そして、「我々が日本に帰るときは一緒に帰ろう」と語り合うのです。そんなとき、三人は心の中に希望の光が差してくるように感じたはずです。

ある人が「船の船長に君たちも一緒に乗れるよう頼んでみよう」と言ってくれました。三人は大いに喜び、いよいよ帰国が実現するかもしれないと期待がふくらみます。ところが、その船長はにべもなく断ったといいます。これ以上厄介者を抱えたくなかったのかもしれません。また、別の日本人が、船に三人を一緒に乗せてほしいと頼んだところ、船長は乗船料として多額の金額を要求してきました。なんどか交渉しましたが、伝蔵らは「君たちに迷惑がかかるから」と断ることにしました。その後も帰国するチャンスがありましたがうまくいきません。そのうち寅右衛門だけは、まるで帰国をあきらめたかのように断るようになりました。

ある日、ウィットフィールド船長が訪ねて来てくれました。「今度、日本の近海に行く船がある。帰国の意志があるなら頼んでみるがどうするか」と言うのです。三人はその言葉に喜びました。そして、相談の結果、「お願いしよう」ということに。伝蔵・五右衛門兄弟が船長にお願いをしに行きました。しかし、船長は「二人分しか頼むことができなかったので君たちだけで行きなさい」と言います。伝蔵は「寅右衛門は私のせいでこの遭難にあってしまった。一緒に帰国させてやりたいのでなんとか彼の分もお願いできないだろうか」と船長に土下座をします。そんな伝蔵の姿にウィットフィールド船長は胸を打たれます。

船長は結局、寅右衛門のために船を探してくれました。しかし、出港の当日になって、寅右衛門は「やっぱり俺は今度もやめる。君らだけで行ってくれ」と言い出しました。いくら説得しても彼はききません。しかたなく、伝蔵と五右衛門の二人だけの出港になりました。伝蔵と五右衛門は、アメリカ船のフロリダ号に乗船して出発しました。そして、しばらく航海して八丈島付近にさしかかったとき、船長は小舟を出してくれるといいます。ふたりは島に上陸できるものと喜びました。しかし、風雨がにわかに強くなり、いつまでたっても海のしけはおさまりません。結局、八丈島への上陸はあきらめるしかありませんでした。

船はあらためて蝦夷(北海道)を目指すことになりました。蝦夷の海岸が遠くに現れたとき、海岸にはいくつものかがり火が見えました。二人は船長とともに小舟で上陸を試みることにしました。ところが、上陸したもののどこにも人影は見当たりません。建物の中にも誰もいないのです。「私たちは日本人です」と叫んでみましたが反応がありません。伝蔵は船長に言いました。「ここは日本の領内であるはず。このまま私たちを置いていってもらえないだろうか。大きな船が去れば誰かがでてくるだろうから」。しかし、船長は言いました。「それはできない。君たちを無事送り届けた証明書をもらわねばならないのだ」と。

仕方なく伝蔵と五右衛門は船長とともに船に戻りました。そして、再びハワイをめざして帆を張ったのです。北の海では霧が立ちこめ、太陽も姿を現さない日が続きました。そうした毎日は、祖国で待つ家族のもとに帰れなかった伝蔵たちの心をさらに重くしました。帰国するチャンスを何度も逃し、そしてまた今回もダメだったのです。二人の全身から力が抜けていくようでした。しかし、航海の途中から強い西風になり、船は後ろから押されるようにスピードをあげて行きました。船はハワイ・ホノルルへ戻ります。運命のながれに逆らわず、なんどもチャンスをつかもうとするこの二人に神は手を差しのべてくれるでしょうか。

 

********************* 「運命について(3)」につづく

運命について(1)

運命について ― ジョン・万次郎の生涯 ー

【はじめに】

世の中のすべてのことには理由(意味)があります。理由なく起こることはなにひとつありません。今、世界を揺るがしている戦争もそうです。それまでの歴史的な経緯を背景に生じた必然だからです。一方で、その戦禍に巻き込まれた人たちにとって今回の戦争には意味があります。それほどにその後の人生に影響をあたえる大きな出来事だったのです。また、先日、成功裏に終ったアルテミス2計画も、用意周到に準備された計画と確実な実行があったからこそ成功しました。月周回軌道をまわった初の女性宇宙飛行士となったクリスティーナ・コック氏にとっても、このミッションはその後の人生に大きく影響するほどの意味がありました。

同じ出来事であっても、その意味するところは個人によってさまざまです。意味を受け取るアンテナをもっていない人すらいます。時間を巻き戻すことはできません。起こってしまったことが自分にとってどのような意味をもっているのかを考え、それからをどう行動するべきかを見極めることが大切です。受験に失敗したからといっていつまでも途方に暮れていてはいけません。志望校に合格できたからといって浮かれてばかりいてもいけないのです。「受験」という出来事を自分の中でどう昇華させていくか。その受験の結果をふまえ、「であるなら、これからの自分はどうしなければならないのか」を考え、次の一歩を踏み出すのです。

世の中には「いくら努力をしてもかなわないこと」と「努力すれば実現するかもしれないこと」、そして、「努力をすれば必ずそれなりの成果が得られること」があります。生物学的に男性である人が「女性になりたい」と思っても、生物学的な女性には絶対になれません。起業をして、身を粉にして働いても、成功するかどうかは社会状況と運次第。やってみなければわからないことです。しかし、勉強だけは自分を裏切ることはありません。目的意識をもって努力さえ惜しまなければ、東京大学にも、ハーバード大学にも行けます。このように、人間には限界がある一方で、可能性だっていくつもあることに気が付かなければなりません。

2028年のNHK大河ドラマの主人公は「ジョン・万次郎」であることが発表されました。なぜ、今、ジョン・万次郎なのでしょうか。それは、運命と努力の中で築かれた彼の人生が、不確かな現代社会に生きる若い人たちにも参考になるからです。万次郎は貧しい漁民の子として生まれました。しかし、その後、幕臣となって日米交渉を陰で支え、最終的には開成学校(今の東京大学)の教授になって教育にも関わりました。でも、彼はそれを目指していたわけではありません。万次郎自身が図らずもその運命のままに努力を重ねた結果だったのです。そんな波瀾万丈な生涯はとてもドラマチックです。今回はその一端をご紹介します。

 

********************* 以下、本文

 

万次郎、当時の漁民に苗字はありません、は1827年(文政10年)1月27日、土佐の中浜村という漁村に生まれました。貧しい漁師の次男として健康に育っていきますが、9歳のときに父親を亡くしてしまいました。母も兄も病弱だったことから、彼は稼ぎ手として働こうとします。しかし、当時の彼は読み書きすら出来ませんでした。藩の役人の家に奉公に出されたものの、毎日の単純労働の繰り返しに、好奇心旺盛な万次郎が耐えられるはずもありません。結局、自分の父親と同じ道を選びました。網元の家に預けられ、漁師として成長していきます。知的好奇心に富んでいて活発。万次郎はすぐに漁に出られるほどになりました。

14歳となった1841年の1月、万次郎は四人の仲間とともに沖合の漁に出ました。五人にはそれぞれ役割がありました。一番若い万次郎は飯炊き・雑用係です。万次郎にとってははじめての遠洋での漁でした。しかし、1月の太平洋は思いのほか大荒れに。波しぶきをかぶりながら操船しますが、船は思ったように動いてくれません。ついに突風によって操舵不能になってしまいます。船は冬の黒潮に流され、どことも知れぬ漂流をはじめました。そして、五日間、まさに生死の境をさまよいながら、祈るような思いで船にしがみつく五人。その祈りが通じたのか、荒波に翻弄されながら運良く伊豆諸島はずれの無人島にたどり着くのです。

その島はアホウドリの繁殖地でもありました。しかし、季節は冬です。東京から600kmも離れた南の島とはいえ、起こすべき火もなければ、湧き水すらない絶海の孤島。さぞかし厳しい生活だったに違いありません。食べものはアホウドリを捕まえ、草を集めて食べるしかないのです。喉が渇いても真水も満足に飲めない無人島でこの五人はどのような思いだったでしょう。でも、いつ命が絶えるかもしれないという過酷な生活を強いられた143日目のこと。まさに奇蹟ともいうべき偶然が起こりました。鳥とウミガメの卵を調達するため、たまたま島に立ち寄ったアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に彼等は救助されたのです。

当時のアメリカは産業革命のまっただ中でした。宗教弾圧を逃れた清教徒たちが、メイフラワー号に乗ってイギリスからアメリカにやってきたのが1680年。その100年後の1787年にはアメリカ合衆国憲法ができ、北東部では自由主義にもとづく工業化が急速に進み、一方、南部では黒人奴隷を使った綿花栽培が盛んとなるなどして南北格差の問題が生じ始めていました。それは南北戦争にもつながる対立でもありました。そんなアメリカにおいて捕鯨は重要な産業でした。食用のためというよりも、機械を動かすときの潤滑油として、ランプやろうそくなどの照明用の油として、鯨油は貴重な産業資源であり生活資源でもありました。

その鯨油を求めてアメリカの捕鯨船は世界中を航海していました。当時のアメリカ合衆国の国土は現在よりも狭く、カリフォルニアやネバダ、アリゾナ、ユタはまだメキシコの領土です。テキサスさえもメキシコから独立をはたした「テキサス共和国」になったばかり。その後、アメリカがテキサス共和国を併合し、米墨戦争で広大な領土の割譲を勝ち取って今の国土になりました。東部13州からはじまったアメリカ合衆国は、「マニフェスト・デスティニー(明白な天命)」を主張しながら西に領土を広げていったのです。そして、ついに太平洋にまで進出したアメリカ。太平洋に捕鯨船の寄港地としてふさわしい場所を求めていました。

救助された万次郎たちが乗船していたジョン・ハウランド号の船長はウィリアム・ウィットフィールドといいます。彼はまだ厳しい鎖国状態にあった日本に五人を送り返すことができないことを知っていました。異国船が近づけば日本から攻撃をうけ、異国船で帰国した者が全員死罪になることは広く知られていることでした。そもそも船長にとって、捕鯨目的の航海を変更し、日本に立ち寄るのはリスクの大きいことでした。それは水や食料、石炭などを補給できる場所が限られていたからです。そこで船長は五人をハワイで下船させることにしました。当時のハワイはアメリカ捕鯨船の重要な補給基地でもあったのです。

ハワイにつくと、万次郎を除いた四人が下船を希望しました。しかし、万次郎だけはアメリカに行くことを希望します。万次郎は、航海中、船内のさまざまなことに関心をもち、船員達に片言の英語でいろいろと質問をしていました。あっという間に会話もできるようになり、乗組員たちからも「ジョン・マン」と呼ばれてかわいがられていたのです。そんな知識欲にあふれた万次郎を見ながら、ウィットフィールド船長は「彼はアメリカで教育を受けるべきだ」と思っていました。いつしか「アメリカという国を見てみたい」と思っていた万次郎に、船長は「アメリカに行ってみないか」と尋ねました。彼にとってうれしい申し出でした。

マサチューセッツ州フェアへブンの自宅に戻った船長は万次郎を小学校に通わせました。万次郎もずっと歳下の子ども達と学ぶことを厭いませんでした。読み書きもできなかった万次郎ではありましたが、言葉に慣れるにしたがって徐々に頭角をあらわします。そして、航海術や造船学を学ぶ頃には常に首席となっていたのです。そんな万次郎が船長はよほど可愛かったのでしょう。自分たちが通う教会にも万次郎を連れて行きました。厳格なプロテスタント精神が残る当時のアメリカで、ウィットフィールド船長は万次郎にも洗礼を受けさせ、「正統なアメリカ市民」になることを希望していたのかも知れません。

しかし、時代は黒人奴隷をめぐって南北戦争が起こる直前のこと。教会といえども人種差別はまだ色濃く残っていました。白人でもない万次郎が船長に連れられて教会に行くと、牧師は万次郎にバルコニーにある黒人の席に座るように言います。「信仰に人種が関係あるのか」。ウィットフィールド船長は牧師に抗議しました。でも、その抗議が通用する時代ではありません。憤慨した船長は万次郎を連れてその教会を出て行きます。そして、万次郎も一緒に通える教会を探して町中を歩きまわったといいます。三人はついにユニタリアン教会という場所に巡り会うことができました。ユニタリアン教会は人種については極めて寛容な教会だったのです。

「ユニタリアン」とは「唯一の神を信じる者」という意味があります。教義(聖書)を妄信せず、個人の良心と理性を重んじた信仰を勧める、当時のアメリカでは珍しいリベラルな教会でした。万次郎にとってこの教会は、ウィットフィールド船長に対して感じたのと同じように、アメリカの懐の深さ、「自由と平等」、「民主的な寛容さ」を感じるのに充分な存在となりました。人格形成においてもっとも重要なこの時期に、そうしたリベラリズムを実体験できたことは、後に、万次郎がアメリカから日本に帰国し、望むと望まざるとに関わらず日本とアメリカの架け橋になったときに大きな意味をもつことになります。

 

****************** 「運命について(2)」につづく

 

 

震災から15年

東日本大震災から15年が経ちました。数百年にいちどともいわれる巨大地震と、それによって引き起こされた大津波によって、たくさんの人が亡くなりました。それまでなにげなく繰り返されてきた日常生活が、一瞬のうちに真っ黒な大波にのみ込まれてしまったのです。それだけではありません。予想をはるかに超える高さとなった津波は、あれだけ安全対策がなされていたはずの原子力発電所を一気に破壊してしまいました。そして、広範な地域に放射能をふくむ塵を拡散させ、地域住民の生活を奪ってしまったのです。

その10年後、COVID-19という新型コロナウィルスが出現し、世界中に感染を広げて700万人を越える人が亡くなりました。日本においても15万人にもおよぶ人がこのウィルスに感染して亡くなったのです。大地震、津波、原発事故、そして、新型コロナウィルスのパンデミックという、まさに「三重苦」ならぬ「四重苦」によって、長年デフレによって苦しみ続けてきた日本はさらに窮地に追い込まれました。しかし、日本と日本人は今、そうした危機をまさに不屈の精神で克服しようとしています。

これまでの日本の歴史を振り返るとき、日本は数々の試練を乗り越えてきたことがわかります。遠くは鎌倉時代、モンゴルが二度にわたり日本の島々で狼藉を働きながら侵略を試みようとしたときがそうです。あるいは近現代になって、欧米がアジアの国家を次々と植民地化する中、日本がそうした国際社会で生きていかねばならないことを知ったときも、です。そのたびに日本は自国とは比べものにならないほどの大国と対峙し、その難局を切り抜けるためにはどうすべきかを考え、全身全霊をもって対処してきました。

我々は震災や原発事故の経験を活かさなければなりません。あのときの対応にはいろいろと稚拙なものがありました。しかし、そうしたことを冷静に振り返り、今後また同じようなことが起きたときの対応策を考えておかねばならないのです。今のCOVID-19感染症が「インフルエンザ以下のもの」であるからといって、感染が拡大しはじめたあのときの対応が過剰だったとはいえません。今の価値観で過去の対応の良し悪しを断罪することはできないのです。「過去をどうこれからに活かすか」、その視点こそが重要です。

今回は、震災10年目である、2021年3月に投稿したブログを再掲します。このときの私の考えや感想は今もかわりません。そして、それは震災直後の考えともなんら違いはありません。それは当時から「できるだけ冷静に、理性を総動員して判断する」ということに努めたからにほかなりません。

※ブログ内検索エンジンで「震災」「放射能」「コロナ」で検索してみてください

 

********************* 以下、本文

10年前の3月11日に東日本を襲った大地震。三陸沖130㎞付近の海底で発生した地震のエネルギーはマグニチュード9だといわれています。また、震源が約24㎞と比較的浅かったこともあって、この地震によって震度7を超える強い揺れを記録する地域もありました。まさに日本周辺に発生した地震の中でも史上最大級のものといってもいいでしょう。

あのとき、私はクリニックの外来で診療をしていました。冬も終わりを告げ、徐々に春めいてはきましたが、空は厚い雲におおわれてちょっと寒かったことを覚えています。待合室には数人の患者が診察を待っていました。私は診察室で常連さんとたわいもない世間話しをしていたのですが、突然、遠い彼方から、地鳴りでしょうか、音とも、振動ともつかぬわずかな感覚が足に、そして全身に伝わってきました。私は瞬間的に地震がやってくるのだと思いました。

遠くに聞こえていた地鳴りはほどなく大きな横揺れと縦揺れとなってクリニックを大きく揺さぶり始めました。揺れの大きさといい、ゆれ続けた時間といい、私が今まで経験してきた地震とはあきらかに異なっていました。普段、地震ぐらいではそれほど驚かない私も、今回だけはいつもとちょっと違うことを確信しました。

昨日、福島第一原発事故を描いた映画「Fukushima50」がTV放映されました。原発で働く人たち、あるいは自衛隊や消防、警察の皆さんが、原発事故の収束に向けて、まさに命がけで、いかに苦労されたかが伝わって来る映画でした。地震の直後の私は発生した津波の破壊力のすさまじさに圧倒され、原子力発電所がどんな状況になっているかなど考える余裕もありませんでした。
私は地震の揺れがまだおさまらない中、院内にいた職員や患者さんたちがパニックをおこして外に飛び出さないよう必死に声をかけていました。院長室から待合室にもってきたラジオからは各地の震度とともに予想される津波の高さが報じられていました。それは「6mほどの津波が到達する」と想像をこえるものでした。

実際にはその2倍の高さの津波がおし寄せましたが、それでも「約6mの高さ」と聞いたときはなにかこれから恐ろしいことが起こるのではないかと感じました。その胸騒ぎは的中し、想定をはるかに越えた津波はたくさんの人の命と家屋をのみ込み、原発の建物を突き破って施設を破壊して、全電源喪失という予想もしなかった最悪の事態をもたらしたのでした。

当時のマスコミの論調も、また、いちぶの心ない市民たちからも、東京電力への非難の声があがりました(それは今もなおいちぶの人たちで続いています)。たくさんの人が亡くなり、多くの住民たちが避難を余儀なくされたのが東京電力のせいだというのです。しかし、私は当初から「それは東京電力のせいではない。ましてや東電の社員を責めるのは筋違いだ」と繰り返してきました(こちらもどうぞ)。

なるほどたくさんの住民がその後、長期間にわたって不自由な生活を強いられることになりました。福島原子力発電所の事故によって放射性物質が広範囲に拡散したからです。しかし、その事故はもとをたどれば専門家の予想をはるかに超えた巨大津波が原因です。それまでの専門家会議で想定されていた津波の高さはおおむね6mでした。その後の見直しによって徐々に想定水位があげられ、その都度、原発では対策が進められてきました。でも、残念ながらその対策は今回の巨大津波には間にあいませんでした。

福島第一原発を襲った津波は施設内の建屋を5mも水没させる最大水位16mを超えるすさまじいものでした。この千年に一度とも、数百年に一度ともいわれる大地震によって打ち寄せた巨大な海水の塊にどう立ち向かえばよかったというのでしょう。結果論で責めることは簡単です。しかし、誰一人として想像だにしていなかった災害に加害者はいないはずです。

震災当時、国会には東電の幹部が参考人としてなんども招致され、まるで人民裁判のような質疑がおこなわれました。そして、「津波が想定を超える高さだった」と説明する参考人に、「その想定が間違っていたんだろ」とヤジを飛ばす議員もいました。しかし、想定とはそういうものなのです。想定の根拠となる科学に絶対などないからです。こんなあたり前なことも理解できない国会議員にはあきれるばかりですが、そんな理性的になれない人たちは十年も経った今でも存在します。

原発事故そのもので、あるいは福島第一原発から漏れ出た放射性物質が原因で亡くなった人はただのひとりもいません。原発事故や放射性物質の恐怖にさいなまれ、避難を余儀なくされた生活に精神の不調を来した人はたくさんいました。そのなかには自ら命を絶った人も少なくなかったでしょう。しかし、それは東京電力のせいでも、社員のせいでもなく、いわんや東電社員の家族の責任では決してありません。

一方で、子ども達の避難が遅れたと学校の責任を問う裁判や、路上教習をさせていた自動車教習所の過失を問う裁判なども行なわれています。しかし、よく考えてみて下さい。この震災ではみんなが被害者なのです。児童を避難させるのが遅れた教諭も亡くなりました。地震で揺れる中で路上教習させていた教官だって亡くなっています。

あの未曾有の災害に加害者なんていないのです。確かに震災でたくさんの人が亡くなりましたが、そのほとんどは津波によるものです。 もし、責任を問うべきだというなら、1万8000人あまりの人命を奪った巨大津波への対策を怠った行政の責任も問われるべきです。しかし、津波に対応できる防潮堤や街の移転を進めてこなかった地方自治体の責任を問う人はいません。 誰ひとりとしてあのような大きな地震が起こり、類を見ない巨大な津波に襲われるなんて想像していなかったからです。 にもかかわらず 津波への対応策が間に合わなかった東京電力だけが責められるのは不条理です。

先日の映画「Fukushima50」でも、避難してきた人たちの一部が東電社員の家族に冷たい視線を送り、「あんなところに原発を作ったからだ」「俺たちの生活をどうしてくれる」と心無い言葉を投げつけるシーンがありました。実際にもこうした光景が見られたと聞きます。福島ナンバーの車がいたずら書きされたり、福島県から他府県に避難してきた子どもたちが嫌がらせを受けたという事例も複数報道されています。

不安や怒りからのこととはいえ、こうした心ない言動を抑えきれない人たちがいます。かつて、大東亜戦争(太平洋戦争)のときもそうでした。戦地に向かう兵隊さんを万歳で送り出した人たちが、終戦後、戦地から引き上げてきた兵隊さんに「お前のせいで日本が負けたんだ」と石を投げることもあったと聞きます。あの無謀な戦争に突っ込むことになった責任は、当時の新聞によって戦意をあおられた国民にもあったはず。そうした国民を守るために戦った兵隊さんは、ある意味、その犠牲者、被害者だったともいえるのではないでしょうか。

私たち国民がいつも「か弱い被害者」とは限りません。無意識のうちに「傲慢な加害者」になっている場合もあります。それは新型コロナウィルスの感染が拡大している今も見られる光景です。よりによって感染患者に対して、あるいはその患者を治療・ケアする病院関係者に対して心無い言葉をぶつける人たちがいます。福島原発事故はこうした理不尽な現実を繰り返してはいけないことをも教えているのではないでしょうか。

受験という人生

2月7日(土)と8日(日)の二日間、第120回医師国家試験(国試)が実施されました。医師になるためにはなんとしても合格しなければならない試験です。合計400問の問題が出題され、その70%以上を正解しなければ合格できない厳しい試験です。私たちのときの国試は600問の問題を3日間で回答する形式で行なわれていましたが、2018年(平成30年)から二日間で400問に変更されました。でも、問題数が減ったからといって易しくなったわけではありません。私たちのときとくらべると、最近の画像診断や治療方法ははるかに発達・進歩しており、膨大な知識を必要とする今の試験は、かえって昔より難しいものになっています。

あれだけ勉強して医学部の入試を突破してきた医学生たちにも、「今までこれほど勉強したことはない」といわせるほどの勉強量を要します。「90%の人が合格するのだから」といえるほど簡単な試験ではありません。「問題の70%を正解すればいいだけ」と励ます人もいますが、むしろ「上位何名までが合格」と定員が決まっていた方がどれだけ楽でしょう。なぜなら、その年の試験の難しさに関係なく定員までは合格できるからです。しかし、「70%以上の正解で合格」となればそうはいきません。難しい問題が多い年に当たってしまえば合格者の数は激減し、受験したときの国試の難易度によって医者になれるかどうかが左右されるのです。

医師国家試験が医学生にとってどれほどの重圧になっているかは、私自身が今もときどき国試に合格できなかった悪夢にうなされることからもわかります。私のこの悪夢は、国家試験を目前にしているのに、まったくその準備ができていない場面からはじまります。夢の中の同級生たちはすでに国試対策が完了していて自信満々です。私は心の中で「来年までの一年間しっかり勉強して試験に臨めばいい」と自分をなぐさめるのです。合格していく同級生達に取り残される孤独感。下級生達と国家試験を受けることになった屈辱感。来年の国試には無事合格できるだろうかという不安な気持ちに押しつぶされそうになって目が覚めるのです。

国家試験が終わるとまさに放心状態が続きます。開放感を味わう余裕もないほどくたくたになっているのです。国試が終ったあとの私の自室は、しばらくの間、プリントや資料が散乱し、たくさんの医学書や問題集などが机に積み重なっていました。「合否なんてどうでもいい。やるだけのことはやったんだ」。そんなところでしょうか。そして、ホッとする間もなく、合格発表の日が近づいてきます。自己採点をしなかった私は再び緊張と重圧感でいっぱいに。私はそんな感情から逃れるように、千葉から来た両親と道内旅行をしました。友人から合格の知らせが道北の旅館に届いたとき、両親はもちろん、旅館の方までもが喜んでくれました。

戦後の医師国家試験でもっとも低い合格率は、1954年の第14回医師国家試験の64.1%だといわれています。このころの試験は今のようにマークシート形式の試験ではなく、筆記試験(記述式)と口頭試問でした。まだ戦後の混乱期にあり、国家試験の制度そのものが整備されておらず、問われる知識も採点する試験監督によってまちまちでした。また、当時は、質の高い医師を養成するという政策の一環で、合否に関しては厳しい態度がとられていました。1984年(昭和54年)の第73回医師国家試験から筆記試験と口頭試問はマークシート形式に統一され、それまで春と秋の年二回おこなわれていた試験は1986年に年一回になりました。

こうした試験制度の変更は、マークシート形式の入試方法が導入されたことがその背景にあります。シート上に印刷された選択肢を鉛筆で塗りつぶし、OMR(光学式読み取り装置)によって読み取り、短期間に採点を終えられるようになったのです。以前の国立大学の入学試験は、一次試験と二次試験を課す大学も、また、一回の試験で合否を決める大学も、各大学が独自に入試問題を作っていました。しかし、大学が独自性を出そうとすればするほど、教科書の範囲を逸脱したいわゆる「難問・奇問」が誕生するなどして社会問題になりました。そうした問題を改善するために、1979年にはじまったのが「共通一次試験」です。

共通一次試験の目的は、本来、学校教育における受験生の学習習熟度を測ることにありました。問題はどの教科もいわゆる教科書レベルに近く、「学校の勉強をまじめにやっていれば平均点はとれる」といわれるものでした。ですから、開始された当初、多くの大学は一次試験として5教科7科目(英・数・国・理2・社2)を受験することが必要でした。しかし、1990年から「大学入試センター試験」と名称が変更され、政府の主導で私立大学の入試においても利用されはじめました。そして、大学や学部によって要求される受験科目数はさまざまになりましたが、問題自体は難化し、教科書レベルだけでは対応できないものになっていきました。

2021年からセンター試験は「大学入学共通テスト」と名称が変わりました。世界のグローバル化、国際化、多様化に対応する受験生を選抜するためとされました。しかし、そうした「お花畑の理念」は、かえって教育の質を低下させ、受験生を翻弄しています。かつて、「ゆとり教育」がおこなわれていた時期がありました。教育内容の簡素化や教育時間の短縮などによって「受験戦争」と呼ばれる「競争の激化」を解消しようとしたのです。しかし、そのような小手先の改革は「受験戦争」という問題を解決しませんでした。むしろ、自主的に勉強していた生徒と「ゆとり教育」に乗せられた生徒との間で格差を生じさせるだけだったのです。

高校受験や大学受験、あるいは就職試験のように、合格定員が設けられた選抜において競争となるのはやむを得ないことです。あらゆるところに競争が待ち受ける社会に生きる以上、競争と無縁ではいられないのです。「ゆとり教育」は「受験戦争」や「競争社会」から子ども達を守る改革と思われていました。しかし、実際には、その「ゆとり教育」は「逃れられない競争からのモラトリアム」にすぎなかったのです。現実に存在する競争を社会悪として、子ども達をそこから遠ざけようとするのは間違いです。教育は少なくともそうした現実に対処するすべを子ども達に教え、「失敗を恐れてはいけない」と背中を押す存在であるべきです。

いくつかの理工系大学の入試ではいわゆる「女子枠」が設けられるようになりました。女子枠を設けて理工系学部における女子学生の数を増やそうというわけです。しかし、これも間違った改革です。よく考えてみて下さい。なぜ理工系学部の女子学生を増やさなければならないのでしょうか。社会のリケジョを増やすためですか。でも、なぜリケジョを増やすのでしょうか。ある人は言います。「男女平等参画社会を実現するためだ」と。そこまでして理系の職場に女性労働者を増やすことが、どうして「男女平等」につながるのでしょうか。そんなことは単なる数あわせにすぎず、ことの本質が理解できていない人間が考える浅知恵です。

そもそも「女子枠」を設置すること自体が「男女平等参画社会」という理念に矛盾しています。本来であれば、理系に進みたいと思う女子生徒を増やす工夫が必要であるはず。もし、「女子枠」を設けるのであれば合理的な目的と理由が必要です。私は、医学部の入試において、男子枠と女子枠を別々に設けて募集すべきだと思っています。それは大学医学部には地方の病院に医師を派遣して地域医療を支える使命があるからです。とくに激務がもとめられる外科系の医師は地方の医療に欠かすことができません。しかし、医学部に女子学生が増えすぎれば、そうした激務に従事する医師の数が減り、地域医療を支えることができなくなるのです。

もちろん、激務をこなす女医の数が増えれば問題は解決します。しかし、現実問題として、今の男子学生ですら、そうした激務の科には進もうとしない傾向が高まっているご時世です。地域医療を守るためにも、その大学医学部が必要としている医師の受給を考慮して、男子枠・女子枠それぞれの募集定員を設けた上で入試をすればいいと思うのです。でも、理工系学部の入試に広がる「女子枠」はそうした説明可能で合理的な目的や理由がありません。とくに、パイロット不足の解消を目的にした航空大学校での女子枠は、学科試験も免除という優遇ぶりなのにはあきれます。航空大学校の募集定員を増やせばいいだけの話しです。

試験はひとりの人間が試されるとき。その人の努力、忍耐力、意志の強さのみならず、価値観や人生観までもが問われる場面です。人生の大切な局面としての試験は、だからこそ平等でなければなりません。しかし、平等とは必ずしも「同じであること」を意味しません。「男女平等参画社会」に代表されるような、今の社会に錯綜するスローガンは必ずしも平等のあるべき姿を正しく主張していないのです。受験という人生の大きなイベントだけは、社会のあり方に左右されないものであってほしい。その意味で、一発勝負であろうと、受験生の負担が大きかろうと、昔の受験制度の方が今よりよほど平等だったのではないかと思います。

競争のない社会が平等なのではありません。格差のない社会が平等なのでもありません。誰もが競争に加わることができること、努力が努力として報われる社会こそが平等なのだと思います。そして、競争に失敗しても、何度でもチャレンジできる社会の実現が必要なのです。教育は子ども達にそのことを教える必要があります。頑張ることの尊さとチャレンジする勇気。頑張った結果にとらわれず、他者の価値観や人生観を尊重する大切さを子ども達に教えるのです。その意味で、男女の差違や区別を否定的にとらえたり、競争や格差の負の側面をことさらに強調する今の社会の風潮は間違っていると思っています。