歴史の転換点(3)

今、アメリカでは11月の大統領選挙に向け、民主党・共和党両党の候補者を決める選挙がおこなわれています。民主党の候補には現職バイデン大統領が有力とされていますが、アメリカ合衆国大統領として最高齢であり、また、認知症の可能性も指摘されています。そのため、これからさらに4年間、大統領としての職責をバイデンがはたせるか疑問視する意見も少なくありません。「それなのになぜ民主党はそのようなバイデン氏を候補者にするのか?」についてはさまざまな憶測を呼んでいます。

一方の共和党の大統領候補として有力なのがドナルド・トランプ氏です。現状での共和党の候補者はほぼ彼で決まりだと思います。しかし、トランプ氏もすでに77歳であり、決して若い候補者ではありません。2016年の大統領選挙で彼は、事前の予想を覆して第45代合衆国大統領に選ばれました。日本のメディアを通じてアメリカのマスコミ情報を聞かされていた私たちにすれば、当然、民主党のヒラリー・クリントン氏が当選するものと思っていました。それは多くのアメリカ国民も同じだったかも知れません。

トランプ氏には上下院議員の経験はおろか、州知事の経験すらありません。タレントであり、巨額な資産をもつ不動産王にすぎないトランプ氏の政治的手腕を疑問視する意見が大半でした。しかし、そんなトランプ氏への国民の支持は、選挙戦を通じて徐々に拡がっていきました。そうした変化を冷静に見ていた人からすれば、彼が当選したことは決して驚くべき事ではなかったかもしれません。マスコミは予想を大きくはずしましたが、その失態は無視してその後もトランプ氏を否定的に伝えました。

トランプ大統領は、終始、マスコミから批判され続けましたが、彼が在任中の4年間にアメリカは戦争をしませんでした。世界に展開するいくつかのアメリカ軍をも撤収させたほどです。「アメリカ・ファースト」を訴えて臨んだ国内経済も復活しました。国境に高い壁を作って不法移民の流入を防ぎ、BLM運動で悪化した治安も徐々に回復させました。マスコミはトランプ氏をことごとく悪くいいます。しかし、彼のこれまでの実績を冷静に振り返れば、マスコミがかき立てるほど彼の実績は悪くはなかったと思います。

ロシアのプーチン大統領は「次期大統領にはバイデンが望ましい」とコメントしました。反トランプのマスコミはこぞって「トランプはプーチンに酷評された」と大喜び。しかし、プーチンがバイデンを評価したと思ったのもつかの間、タッカー・カールソンにプーチンは、歴代民主党政権が今回のウクライナ戦争にいかに関与してきたかを語りました。会見の感想を聞かれたバイデンは激怒し、「プーチンはクレージーなクソ野郎だ」と口汚く罵ったのです。あの会見はバイデンにとってそれほど衝撃的だったのでしょう。

バイデン氏に激しく批判されたプーチン大統領はいたって冷静でした。バイデンの激しい批判に対する受け止めを尋ねられ、プーチンは「ほら、だから彼は大統領にふさわしいと言ったんだよ」と余裕を見せます。ウクライナ戦争はロシアとアメリカとの戦いでもあります。ブッシュ(共)-クリントン(民)-オバマ(民)-トランプ(共)-バイデン(民)と歴代アメリカ大統領の働きぶりを見てきたプーチン大統領にとって、バイデン氏は取るに足らない大統領だと感じていたのかもしれません。

ウラジーミル・プーチン氏がロシアの大統領になったのは2000年です。ソビエト共産党を崩壊させたエリツィン氏の後継者として彗星のごとく出現した若き大統領プーチンはまだ48歳でした。ソ連が崩壊したとき、プーチン氏はKGB(ソ連のCIA)の職員として東ドイツに駐在していました。彼の父はソ連の海軍の傷痍軍人であり、第二次世界大戦ではドイツ軍と戦いました。また、祖父はプロの料理人としてラスプーチンの給仕をし、レーニンやスターリンにも料理を提供していたといいます。

そうした環境の中で育ったプーチンです。おそらく国際情勢に関する知識は誰よりも深く、ロシアやソ連の歴史にも詳しかったに違いありません。KGBの諜報員としての経験から、アメリカの世界戦略や諜報活動の実態にも精通していたことでしょう。そんなプーチンにとってバイデンがこれから何をしようとしているのかは推して知るべし。むしろ、政治的な経験をもたず、エスタブリッシュメント(既得権益者)とのしがらみのないトランプ氏の方がやりにくい相手だったかも知れません。

 

ウクライナとロシアの関係を考えるとき、とくに近現代の世界史を知ることが大切です。第一次世界大戦の直前、帝政ロシアは、かつてはプロイセンだったドイツ帝国やオーストリア=ハンガリー帝国と国境をめぐって緊張状態にありました。そして、皇太子をセルビア人青年に暗殺されたオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告すると、同じ正教会のロシアがセルビアを支援するために出兵しました。かくして1914年、ロシアと三国協商で同盟を結んでいた英・仏を巻き込んで第一次世界大戦となりました。

しかし、ドイツとの戦費がかさんでロシア国内の経済は悪化。国民の不満はますます高まり、戦場の兵士すら戦意を喪失して逃げ出す事態になりました。混乱の収拾が付かなくなった帝政ロシアでは、1917年についにロマノフ王朝が終わり、レーニンらが指導する共産主義組織ボルシェビキが実権を握ります。これが十月革命です。ドイツはロシアのさらなる混乱を狙ってウクライナの分離独立を承認。ロシア国内の民族主義を力ずくで抑えきれなかったボルシェビキはバルト三国からウクライナにかけての領土を失いました。

1918年に第一次世界大戦は終わりました。でも、ロシアはクリミア半島を確保する戦果しか得られませんでした。そして、ふたたび皇帝一派が勢力を盛り返すのを恐れたボルシェビキは、幽閉していた帝政ロシア時代のニコライ皇帝一家を粛清しました。一方で、パリ講和会議で多額の賠償金が課せられたドイツ帝国が衰退すると、ロシア派ウクライナやコーカサス地方に赤軍を進めて再び領土としました。その後、ポーランドとの戦争でウクライナの半分を失いますが、1922年、ソビエト社会主義共和国連邦を樹立します。

レーニンの死後、ヨシフ・スターリンが権力の座につきました。落ち込んだソ連国内の産業を振興させるため、スターリンはノルマを定めて資源の採掘、農作物の収穫を強力に推し進めました。集団農場での連体責任を強化し、収穫の取り立てには容赦がありませんでした。ウクライナでの取り立てはとくに厳しく、農民達の食料がなくなるほど過酷でした。数百万人の餓死者を出したと言われるこの人為的な飢饉をホロモドールといい、ウクライナ人に反スターリン・反ソ連(反ロシア)の感情が高まるきっかけとなりました。

ヨーロッパは歴史の転換点でも述べたように、ベルサイユ条約のあとのドイツでは、ナチス党が多くの国民の支持を得るようになります。ナチス党の党首ヒットラーは反共産主義を唱え、ユダヤ人やジプシー、有色人種や障害者の排除を訴えました。ユダヤ人とは本来、ユダヤ教を信仰する人たちのことを指します。ユダヤ人は人種ではないのです。スペインにはスファラディーと呼ばれるユダヤ人がおり、ヨーロッパにいる白人のユダヤ人はアシュケナージと呼ばれます。その他、有色人種のユダヤ人もいるほどです。

しかし、ヒトラーはユダヤ人を人種とみなして迫害します。彼の祖母がユダヤ人富豪の愛人であり、自分にもそのユダヤの血がながれていることを嫌悪したからだともいわれています。そもそもキリスト教徒にとって、イエス・キリストを十字架に送ったのはパリサイ人(厳格なユダヤ教徒)だという思いがあります。かつてのキリスト教ではお金をあつかう仕事は卑しい職業と考えられていました。ですから、そうした仕事に従事することの多かったユダヤ人にはキリスト教徒たちから迫害をうける素地はもともとあったのです。

第二次世界大戦が勃発しようとしていたとき、ポーランドにはたくさんのユダヤ人が住んでいました。かつてポーランドの隣国にはハザールという国家があり、その国教がユダヤ教だった影響で多くのユダヤ人が住んでいたのです。しかも、ポーランドは度重なる戦禍によって、労働人口が少なくなっていました。そのため、勤勉なユダヤ人を積極的に受け入れていました。しかし、その後、ナチス・ドイツがポーランドを脅かすようになると、たくさんのユダヤ人が迫害を恐れてポーランドを離れていきました。

しかし、イギリスも、アメリカも、そしてソ連までもがユダヤ人との関わりを拒みました。唯一、日本だけがユダヤ人の欧州脱出を助けたのです。たくさんのビザを発給してユダヤ人を救った杉原千畝は有名です。しかし、杉原千畝がユダヤ人達を救う3年も前に、数千人にもおよぶユダヤ人のポーランド脱出に尽力した日本人がいます。日本帝国陸軍の樋口季一郎中将です。彼は日本陸軍の軍人でありながら、満州鉄道に列車を手配し、ロシアのオトポールから租界地のあった上海までユダヤ人を移送したのです。

当然、三国同盟を結んでいたナチスドイツからは強い抗議が来ました。そして、日本政府内でも査問委員会を開いて樋口中将に懲罰を与えることも検討されました。しかし、当時の東条英機関東軍参謀長の裁可もあったことから、樋口中将の責任は問われませんでした。むしろ、ドイツに対して日本政府は「これはまったくの人道上の問題であり瑕疵はない」と反論したほどです。樋口中将はその後、終戦間際のアッツ島からの無血撤退を指揮し、占守島では中立条約を破棄して侵攻してきたソ連を阻止して北海道を守りました。

多くのユダヤ人がポーランドからの逃げ場を失って隣国のウクライナに逃げてきました。しかし、ユダヤ人はかつてウクライナ人から重税をとりたててきた人たちです。ソ連に向けてポーランドに侵攻してきたドイツ軍は、ウクライナ人にとってはユダヤ人に対する恨みを晴らし、自分たちを奴隷のように扱ってきたソ連共産党を懲らしめてくれる英雄に見えたのかもしれません。「ユダヤ人狩り」というナチスの要請に積極的かつ自発的に協力しました。これがプーチン大統領がいう「ウクライナのナチズム」の背景です。

 

かくして、第二次世界大戦が終ってみると、ウクライナは独ソ戦の戦場となるなどして国土は荒廃していました。そして、第一次大戦と同様にドイツが降伏し、ソ連が戦勝国の一員となると、ウクライナはソ連邦のいちぶに戻りました。その後、ウクライナで収穫される小麦は、ソ連の重要な穀物として欠くことのできない存在となります。しかも、ウクライナをふくむ、北はバルト三国からグルジアなどがあるコーカサス地方にかけての地域は、ソ連をNATOから守る重要な緩衝地帯となり、重視されました。

ロシア、そして、ソ連は戦争を経験するたびに自国の発展の遅れに気がつきました。クリミア戦争では敵対していた英・仏の近代化が敗戦の原因であると気づき、自国の産業革命を進めるべく政策を転換します。また、第一次世界大戦では自国の軍備が量的に劣っており、それは工業化の遅れからだということを知ります。さらに、第二次世界大戦が終わると、コミンテルン(共産主義インターナショナル)がアメリカやイギリス、さらには日本をはじめとする世界を動かすのに重要な役割をはたしたことを実感しました。

とくに第二次世界大戦の前後においては、ソ連のコミンテルンが日米両政府の高官に接触し、両国の政策に関与していました。1933年にアメリカの大統領に当選したルーズベルトが、早々にソビエト社会主義連邦を承認したことは重要な転帰となりました。当時のソ連は満州への南下政策を進めており、日本と対峙していた中国の蒋介石を支援していました。その蒋介石の国民党軍と日本を戦わせ、弱体化した日本をのちに中国での権益を狙っていたアメリカと戦わせることが国益にかなうということをソ連は知っていたのです。

1930年代は米ソの蜜月の時代でした。ソ連の優秀な若手研究者が多数アメリカに留学しました。そのなかにはスパイも含まれていて、アメリカの最新技術を盗んでいったのです。しかし、第二次世界大戦後にそうしたソ連共産党の世界戦略が徐々に明らかになってくると、アメリカとソ連は袂を分かつことになります。そして、両国を中心とした東西の二極化が進み、冷戦という硬直化した世界になっていったのです。米ソ両国は軍事開発を進め、科学技術においても世界をリードする大国となりました。

こうした世界情勢は、最近の米中関係をみるようです。1979年にカーター大統領と鄧小平の間で米中国交正常化が合意されると、中国からたくさんの若手研究者がアメリカに留学しました。そして、中国は経済大国となり、アメリカを脅かすほどの存在になりました。こうした米中関係は第二次世界大戦前の米ソ間のそれに似ています。グローバリズムという美名のもとに、国境が不明瞭になった結果です。それにしても、ルーズベルトにせよ、カーターにせよ、世界の変革期にあるときのアメリカ大統領はいつも民主党です。

冷戦時代、ウクライナは、ソ連にとっては地政学的にも、軍事的にも、食糧安全保障という観点からも重要な地域となりました。ウクライナにはソ連の戦略ロケット基地が設置され、世界最新鋭の核兵器が貯蔵されていました。その代償としてウクライナは、ソ連から安価なエネルギーを供給されていたのです。しかし、ソ連が崩壊し、東西冷戦が完全に終結した1994年、ウクライナはブダペスト覚書きでソ連から独立するとともに、核兵器を放棄して「平和国家」を目指す道を選択しました。これは西側につくことを意味しました。

今も続いているウクライナ戦争は、EUやNATOというアメリカ・西側陣営と、それら西側国家への猜疑心を捨てきれないロシアとの戦いでもあります。ウクライナは歴史的にも、あるいは地政学的にも、東西陣営の間にはさまれた緩衝国家であり続けるという悲劇から逃れることができません。ウクライナに侵攻したロシアには大きな責任があります。それは免れることはできません。しかし、ウクライナ自身やアメリカの戦略にも問題があるのです。その辺のことは次の「歴史の転換点(4)」で詳しく書きます。

 

歴史の転換点(2)

ウクライナで冷たく凄惨な戦争が今も続いています。この間、ウクライナでは40万人とも、50万人ともいわれる人が命を落としました。祖国をあとにし、他国に避難したウクライナ人は600万人を超えています。ウクライナ国内で避難している人も360万人にのぼるといわれています。戦争前のウクライナの人口は約4000万人ですから、実に国民の4分の1にもおよぶ人たちが避難民となって慣れない土地で生活しているのです。こうした事実を知っている日本人がはたしてどのくらいいるでしょうか。

今回の戦争によって、かつて「ノボロシア」と呼ばれたウクライナ南部の美しい風景は一変し、とくに東部ドンバス地方の多くの建物ががれきの山になってしまいました。国際法で認められる戦争では、軍事施設に対する攻撃は許されていますが、一般人を標的にする攻撃は違法です。しかし、ロシアによる無差別攻撃は発電所や駅といった公共施設ばかりではなく、一般住民の住む集合住宅などをも無差別に狙っています。国民に恐怖心を与え、戦意を喪失させることが目的です。戦争の無慈悲さに今も昔もありません。

ウクライナ戦争は2月24日で3年目を迎えました。昨年の10月28日付けの当ブログで、私は歴史の転換点と題した小論を掲載しました。一介の内科医院に過ぎない当院のホームページに、このような政治的な記事を載せるのはどうかと思いました。しかし、マスコミからは正しい情報が流れてきません。また、混沌とした世界情勢にまるで関心がない人たちも少なくありません。私たちのまわりでいつ戦争がおこってもおかしくないのだということを喚起するためにあえてあの記事を掲載しました。

 

先日、アメリカの有名なジャーナリストであるタッカー・カールソンがロシアのプーチン大統領に単独インタビューしました。西側のジャーナリストが、ロシア軍のウクライナ侵攻が行なわれて初めてプーチンと会見するとあって、世界中の人が注目していました。私もこの会見に大きな関心をもっていた一人です。この会見を最後まで聞いてまず感じたことは、「もっと早くあのインタビューがおこなわれていれば、この戦争が早期に終結し、たくさんの犠牲者を出さずに済んだかもしれなかったのに」ということです。

タッカー・カールソンとプーチン大統領の会見を見てもうひとつ感じたことがあります。それは「ウクライナ戦争に対する私の見方はおおむね間違っていなかった」ということです。拙論歴史の転換点をもう一度読んでみて下さい。私がウクライナ戦争をどう見ていたかがおわかりいただけると思います。偏った情報しかながれてこない日本のメディアからではなく、インターネットをはじめとするさまざまな媒体から得られた情報をもとに考察することがいかに重要かがよくわかると思います。

それはまた、日本のメディア、アメリカのメディアが必ずしも正しい情報を伝えていない、ということでもあります。アメリカのメディアが伝える情報をまるで大本営発表かのようにながすだけの日本のメディア。それが意図的なことであれば、それは日本メディアの偏向ぶりを証明することになります。それが意図しないものであったとしても、それは日本のメディアの能力の低さをあらわすものです。タッカー・カールソンとプーチンのインタビューはそんな現実を白日のもとにさらした観があります。

あの会見の冒頭、プーチン大統領はウクライナとロシアとの歴史的関係を説明しました。それは30分近くにおよびました。その概略は拙論歴史の転換点で書いたものとほぼ同じといってもいいと思います。ウクライナになぜロシアが侵攻しなければならなかったのかについては、多少なりとも世界史の知識を理解しなければいけません。今回はその辺のことをもう少し詳しく説明してみたいと思います。ただし、あくまでも私の理解であり、間違っていることがあるかもしれません。そのときは遠慮なくご指摘ください。

 

日本が「鳴くよ(794年)ウグイス、平安京」だったころ、ヨーロッパ、とくに東ヨーロッパには国家らしい国家はほとんどありませんでした。さまざまな部族がまじりあいながら、小競り合いを繰り返しつつもそれなりにのどかな生活を営んでいた時代でした。しかし、当時、スカンジナビア半島に住む北方民族の雄・ノルマン人のバイキングがこの東ヨーロッパに侵入してきました。東欧を南北につなぐドニエプルやボルガなどの川を利用して黒海に出て、バルカン半島のビザンツ帝国と交易をするためです。

スラブ地域と呼ばれる東ヨーロッパに勢力を広げたバイキングでしたが、ここで取れる毛皮や肉ばかりではなく、征服した地域に住む東欧の人々を奴隷にするなどして交易範囲を拡大していきました。スラブ地域の住民を奴隷にしたことから英語では奴隷を「SLAVE」と呼ぶことはよく知られています。やがてバイキングのリューリク王が、862年にロシア北西部のノブゴロドという街に【ノブゴロド国】という国家を作りました。王は「ルーシ」と呼ばれましたが、この「ルーシ」が「ロシア」の語源だといわれています。

リューリクの息子たちはノブゴロドからさらに川をさかのぼり、今のウクライナのキエフを征服しました。そして、ここを拠点にノブゴロド国にかわる【キエフ大公国】を作り、その後、東ヨーロッパの交易の中心として栄えました。しかし、このキエフ大公国はその地政学的な特殊性から、周辺に勃興する国々と争いが絶えませんでした。国の領土を拡大し、ときに奪い取られながら、大公がビザンツ帝国の王女を妃として迎え、東ヨーロッパでの地位を確固たるものにしました。

 

その後、キリスト教が分裂してローマ教会とビザンツ帝国の正教会にわかれると、ビザンツとのつながりのあるキエフ大公国は正教会となりました。しかし、隣国で勢力を増してきたポーランドはローマ教会となったことから、キエフとポーランドの緊張は高まることになります。そんな不安定な情勢のなか、日本で鎌倉幕府が成立するころ、キエフ大公国はかつての首都ノブゴロド付近に【ノブゴロド共和国】が分離・独立。同時に、キエフ大公国の中心がキエフから北東部のウラジーミルに移ろうとしていました。

そんなキエフに襲いかかったのは、当時、最強の帝国といわれたモンゴル・タタール人でした。その頃、モンゴルは朝貢を拒否した日本にも来襲しました。鎌倉武士たちの奮闘と、神風ともいうべき二度の台風によって守られた日本はモンゴルを大陸に押し返しました。しかし、ヨーロッパにおけるモンゴルの勢いは止まりません。ジンギス・ハンの孫バトゥに率いられたモンゴル軍がキエフ大公国とポーランド、ハンガリーを征服。これらの国々はモンゴルに朝貢しなければならない属国となりました。

しかし、モンゴルは異教徒を弾圧しなかったため、キリスト正教会はウラジーミルを中心に拡がっていきました。そして、ウラジーミル近郊にあるモスクワに【モスクワ大公国】が成立します。日本が室町時代になろうとするころのことです。ウクライナ周辺は急速に領土を拡大していたリトアニアに支配されました。リトアニアは隣国ポーランドと姻戚となり、それまでの正教会からローマ・カトリック教会に改宗しました。当然ながら、リトアニアに支配されていたウクライナの人々も改宗を求められました。

ところが、キリスト教正教会の守護でもあるビザンツ帝国が滅びます。すると、もともとビザンツ帝国と姻戚関係にあったモスクワ大公国に正教会の中心が移り、モスクワは「第三のローマ」と呼ばれるようになってキリスト教正教会の後継者であることを宣言します。かくしてキリスト教は、ローマ・カトリックと正教会の二大勢力に完全にわかれて対立するのです。同じキリスト教であっても互いに非なるものとして緊張関係が続き、ローマ教皇とモスクワ総主教がはじめて顔をあわせたのは2016年のことです

ちなみにプーチン大統領は、ノブゴロド国の首都ノブゴロドから100kmほどしか離れていないサンクトペテルブルグの出身です。ですから、プーチンがノブゴロド国やキエフ大公国という国家があったことや、これらの国が今のロシアの源流になっていたことを知らないはずがありません。そして、ウクライナとロシアが言語や民族、信仰や風習などで簡単に線引きできない関係にあることも熟知しています。ましてや近現代にいたってもなお両国が不幸な歴史をひきずっていることも十分知っているのです。

 

ウクライナの特殊性についてもう少し説明します。これまで書いてきたように、ウクライナの地はたびかさなる隣国の侵略によって、民族も、宗教も、国教すらもめまぐるしく変わる地域でした。モンゴルの属国だったモスクワ大公国は次第に国力を高め、日本が戦国時代だったころ、暴君として有名なイヴァンが国の名を【ロシア・ツァーリ】と改め、モンゴルを裏切って朝貢を拒否するまでの大国になりました。ツァーリとは皇帝のことであり、その後のロシアは北は北極海、南は黒海近くにまで領土を拡大します。

しかし、日本が江戸時代を迎えるころになると、リューリクから続いてきたリューリク朝のツァーリが途絶えてしまいます。そして、ロシアでは次々とツァーリが代わり、その混乱に乗じてポーランドが侵攻してくるなど、ロシア国内は混乱と混沌を極める状況に陥ります。そんな状況を救ったのが、その後、300年も続くロマノフ朝の祖ミハエル・ロマノフです。彼はウクライナやフィンランドなどの周辺の領土をポーランドやスウェーデンに譲歩して和平を進める一方、シベリアの征服を進めていきました。

ところが国内の経済は次第に悪化し、たくさんの農民が土地を放棄して暖かい地方に移住しました。そこで、農民が土地を移動するのを禁止し、地元の有力者が税金を徴収する「農奴制」を確立させました。そのころリトアニア・ポーランド共和国の一部になったウクライナでは、国王がローマ・カトリックへの改宗を住民に強制し、奴隷農家から税金を徴収していました。その税金を厳しく取り立てていたのが異教徒のユダヤ人です。こうした背景があってウクライナ人に反ユダヤの感情が生まれます。

不満を高めたウクライナ人はロシアの力を借りてリトアニア・ポーランドと戦います。ウクライナにはコサックというモンゴルの騎馬戦法を引き継ぐ強力な軍事集団がいました。そのコサックの活躍もあって、ロシアとポーランドとの戦争はロシアが勝利しました。かくしてウクライナはロシアの領土となりました。しかし、ウクライナは、今度はロシアから課された重税に苦しむことになります。なんどか反乱を企てますが失敗。ロシアとスウェーデンとの戦争にも巻き込まれ、平和で安定した国土にはなかなかなれませんでした。

ロシアがユーラシア大陸の大半をおさめる【ロシア帝国】に名を改めたころ、日本はまだ徳川吉宗の時代でした。領土拡大を進めるロシアはベーリング海峡を発見。そして、エカチェリーナが女帝となるころにはアラスカまで領土は拡がります。ロシアはついにはポーランドを属国にし、その一方でオスマントルコとの戦いを有利に進めるなど勢いはとどまりません。ロシアはクリミア半島からオデッサまでを領土にし、その地域には多くのロシア人が移り住んで「ノボロシア(新しいロシア)」と呼ばれました。

以上、長々と書いてきた歴史的変遷を、プーチン大統領はタッカー・カールソンとの会見で披露しました。プーチンがウクライナを「特別な場所」と呼び、ウクライナ戦争を「南東部の地域に住むロシア系住民を守るための軍事作戦」と説明するのはそうした背景を知らなければ理解できません。ではなぜ、今、軍事力を行使してまでウクライナ国内に侵攻しなければならなかったのか。それについては次の歴史の転換点(3)で解説したいと思います。

地震災害へのお見舞い

令和6年能登半島地震に際して亡くなられた方のご冥福と、怪我をされ、被災された方たちの日常が一日も早く回復するよう心よりお祈りします。

2023年8月14日に当ブログに掲載した記事「琴線に触れる街」を再掲します。あの街並みは変わってしまったでしょうか。北陸の風景はもちろん、そこに生活する人たちの心も変わりませんように。

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以下の記事は今から12年ほど前の医師会雑誌に掲載されたものです。そのコピーを患者さんに読んでいただこうと当院の待合室においています。これが思いのほか好評をいただいているようです。今あらためて読むと、推敲が足りないと感じるところもありますが、今回、このブログでも掲載しますのでお読みください。

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「琴線に触れる」という言葉があります。大辞林(三省堂)によると、「外界の事物に触れてさまざまな思いを引き起こす心の動きを例えたもの」とあります。北陸、ことに金沢は私の琴線に触れる地でもあります。それは金沢の街で感じた郷愁のようなもの(それは金沢の伝統から伝わってくるもの)が影響しているように思います。

私がはじめて金沢を訪れたとき、金沢城では場内にあった大学校舎の移転工事がおこなわれていました。石川門を入るとあちこちに工事用車両がとまっていましたが、そこここに残るかつての栄華の痕跡に私は魅了されました。そして、金沢城から武家屋敷界隈にまで足を延ばせば、歴史を感じるたたずまいの中にあって、なおも人々の生活の息吹を感じる街並みに不思議と心安らいだものです。

その中でもっとも強烈な印象を残したのが金沢近代文学館(現在の石川四高記念文化交流館)でした。ここは石川県と縁の深い作家や文化人を紹介する資料館です。旧制第四高等学校の校舎をそのままに利用した建物は、旧制高校の古き良き時代の雰囲気を漂わせる風格を感じます。そんな建物を通り抜けて裏庭にまわると、ひっそりとしていてうっかり通り過ぎてしまいそうな場所に、井上靖の「流星」という詩が刻まれた石碑がありました。

井上靖は東京帝国大学に進学する前の三年間、この旧制第四高等学校に通っていました。彼はその多感な旧制高校時代に、たまたま訪れた内灘の砂浜で遭遇した流れ星に自分の未来を重ねたことを懐古してこの「流星」という詩を作ったのです。

 

「流星」

高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、
星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一条の青光をひらめかし、忽然とかき消えたその星の孤独な所行
ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたものはなかった。

それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、
長く尾を曳いて疾走する星を見る。
ただし心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する
星というものの終焉のみごとさ、そのおどろくべき清潔さであった。

 

私は中学生のころから井上靖の作品が好きでした。とくに、「あすなろ物語」「しろばんば」「夏草冬濤」の三部作は今でも心に残る作品です。井上靖自身だといわれる主人公「洪作」の成長と、彼が生きた時代がなぜか中学生だった私の心の琴線に触れたのです。それから三十年以上も経って「流星」という一編の詩を目にしたとき、かつてこれらの小説を読んだころの沸き立つような熱い思いが去来しました。以来、この場所はもっとも私の好きな場所となったのでした。

金沢を訪れたついでに立ち寄った永平寺も私には特別な場所でした。永平寺は道元禅師が開祖となった曹洞宗の総本山であり、厳しい修行がおこなわれていることで有名です。40年も前の「NHK特集」という番組(当時、イタリア賞を受賞した優れたドキュメンタリー番組でした)でその修行の様子が紹介されました。厳寒の冬に黙々と修行する若い僧侶達を見てからというもの、永平寺は私にとっていつか行ってみたい場所のひとつになっていたのです。

永平寺は小松空港から車で1時間30分ほど行ったところにあります。途中の道は今ではきれいに整備されていますが、創建された700年以上もの昔の人たちはここまでどうやって来たのだろうと思うほど山深い場所です。

門前には観光客相手のお店が並んでいて、とある店の駐車場に車を停めて永平寺の入り口にたどり着くと、そこには樹齢数百年にはなろうかという大木が何本もそそり立ち、その古木の間に「永平寺」と書かれた大きな石碑が鎮座しています。その石碑の後ろには、これまたとてつもなく大きな寺の建物がうっそうとした木々の間から見え、深い緑と静けさの中で荘厳な風格のようなものを感じました。

拝観料を払って建物の中に入ると、若い修行僧から永平寺についての解説がありました。私たちが解説を聞いているそのときもこの建物のいたるところで修行が行なわれています。見学している私たちのすぐそばで、窓を拭く修行僧、経を唱えている修行僧、あるいは昼食の準備をする修行僧が私たち観光客には目もくれずに淡々とお勤めをしています。永平寺のほんの一部を周回することができるのですが、ひんやりとした長い回廊を歩きながら、これまでにいったいどれだけの修行僧がこの北陸の厳しい冬に耐えてきたのだろうと思いをはせていました。永平寺は一部が観光化されているとはいえ、霊的ななにかを感じさせる素晴らしい場所でした。

金沢という街、北陸という地域が私は好きです。冬は北陸特有のどんよりとした雪雲におおわれ、人々の生活は雪にはばまれることも少なくありません。しかし、この寒くて暗い冬を耐えつつ前田家122万石の栄華を極めた加賀・金沢には独特の文化があります。そして、永平寺という、厳しい自然と対峙しながら修行に耐える修練の場があります。どちらもこの風土に根付いた文化であり、歴史です。

金沢という地で旧制高校の多感な時期を過ごした井上靖が、晩年になって「流星」という感動的な詩に寄せて若き日を懐古したのも、自然の厳しさの中で繁栄したこの地に何かを感じ取ったからだと思います。金沢をはじめて訪れた私は、井上靖がどのような思いでこの街を散策していたのだろうかと考えたりしながら、しばし満ち足りた3日間を過ごすことができたのでした。

2015年に北陸新幹線が開通します。今度は成長した二人の息子を連れてこの北陸路を訪れたいと思います。そのとき、彼らは心に響くなにかに出会えるでしょうか。

何を守るのか

昨年12月、90歳になる母親を連れて映画「Godzilla -1.0(ゴジラ・マイナスワン)」を観ました。ゴジラ映画はあまりにも有名ですが、個人的にはそれほど興味がなかったため、1954年に作られた第一作からこれまで一度も観たことがありません。ただ、2016年に公開された前作の映画「シン・ゴジラ」については、その評判がよかったので、事前に予告などを観ずにDVDを買ってしまいました。しかし、そのストーリー以前に、出演している役者の演技がことごとく下手で、DVDを購入したことを後悔したほどです。

今回の作品については多くの人が高評価をつけており、観た人たちのコメントの多くも「前作をうわまわる出来映え」とのこと。そこで「マイナスワン」は映画館で観てみることにしました。しかし、家内に「一緒に行こう」と誘いましたが、つれなく断られてしまいました。息子達にも冷たくあしらわれた私は、実家で一人暮らしをしている母親を連れて行くことにしました。思えば、母とふたりで映画を観るのははじめてです。脳梗塞を患ってまだ半年。しかも耳の遠い母親でしたが意外と「行く」との返事でした。

映画は1947年(昭和22年)の東京が舞台。母親がまだ女学校の生徒だったころの話しです。米軍の焼夷爆弾によって焦土と化した東京が、再びゴジラに襲われて壊滅的な被害を受けます。「マイナスワン」というタイトルはその惨状を意味しています。人々を恐怖と絶望に陥らせたゴジラにどう立ち向かうか。戦争の傷跡の癒えない人たちの戦いがはじまったのです。その戦いの中心人物が、意志の弱さゆえに攻撃から逃げ帰ってきた若き特攻隊員。ストーリーが進むにつれ彼の負い目が徐々に勇気へと変わっていきました。

事前の評判の通り、なかなか面白い映画でした。ストーリーは比較的単純でしたが、それなりにどんでん返しがあって楽しむことができます。「今回のゴジラはこれまでで一番怖かった」という声にもうなずけます。映像も美しく、迫力があり、音楽もすばらしかったです。演じていた俳優も適材適所といえるでしょう。母親も見終わったとき「面白かったよ」と言ってくれ、連れて行ってよかったと思いました。私などはめずらしくあとでもう一度映画館に足を運んだほどでした(そのときも誰も付き合ってくれなかった)。

私はこの映画を観て改めて感じました。「人には守るべきものがある」ということを。この映画を観に行った頃、私はこのブログに「映画『トラ・トラ・トラ』」と題する小論を掲載するため、ちょうど真珠湾攻撃のことを調べていました。そして、当時の軍人・兵隊たちがどんな気持ちで開戦を迎えたのかをあれこれ考えていたのです。「ゴジラ・マイナスワン」の主人公は自責の念に苦しんだ特攻隊員でした。その彼の思いが真珠湾攻撃に参加した軍人たちの「守るべきもの」と重なって私の心の琴線に触れたのかもしれません。

記事「映画『トラ・トラ・トラ』」でも紹介したように、攻撃を指揮した山本五十六は当初、真珠湾攻撃はもちろん、日米開戦そのものに反対していました。その五十六がなぜ連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃を立案し、実行することになったのか。今も諸説、さまざまな解釈があります。山本五十六には、彼が大きな影響を受けた終生の親友がいました。その人の名は堀悌吉といい、海軍兵学校第32期の同期生。五十六の卒業時の成績は192名中11番。堀悌吉という親友は首席で卒業する優秀な生徒でした。

五十六と堀は在学中から意気投合します。お互いに議論を交わし、切磋琢磨する間柄だったのです。あるとき成績が振るわなかった五十六を、堀は「我々が勉強するのは席次のためではない。立派な軍人になるためだ。精一杯やった結果なのであればそれでいいではないか」と励まします。海軍では兵学校や海軍大学校卒業時の成績が優秀であれば、あとは無難に過ごしているだけで出世の道が保証されます。しかし、優秀な二人ではありましたが、昇っていった高級幹部への階段は決して順調なものにはなりませんでした。

海軍には艦隊派と条約派と呼ばれる、方向性を異とする派閥があって対立していました。第一次世界大戦後の日本は、アジアの一等国入りをした勢いを借りて、欧米列強に負けないほどの軍事力を持つようになりました。日清戦争は明治維新のたった26年後のことであり、日露戦争はそのさらに10年後のことです。清とロシアというユーラシアの大国を相手に、日本は二度の大きな戦争を勝ち抜きました。こうした戦果は軍事力の急速な近代化を背景にしています。しかも、そのスピードは世界でも類を見ない早さでした。

幕末、諸外国からの脅威にさらされた日本は、軍事力の必要性を思い知ります。日本に先立って産業革命をなし遂げ、すでに近代国家となっていた欧米列強は植民地を次々と拡大していきました。江戸幕府は、力なき国家、備えなき国家がいともたやすく欧米の植民地となっていく事例を知っていたのです。まさに欧米の「悪意ある善政」によってなにもかもが強奪・奪取され、現地の人間が奴隷として売られていく。豊臣秀吉や徳川幕府がキリシタンの布教を禁じたのはそのためでした。

明治維新以来、日本が急速に富国強兵の政策を推し進めたのは、ひとえに日本が欧米列強の植民地にならないため。日本が朝鮮半島の近代化を望み、両班たち(朝鮮の王族)にその意思がないと見るや武力をちらつかせてまで朝鮮半島の近代化を求めたのもそのためだったのです。その一方で、すでにアジアに多くの植民地をもつ欧米にとって、日本の軍事力の増強はアジアにおける自分たちの権益に対する脅威以外のなにものでもありません。彼等はやがて日本を封じ込めるため、海軍の軍縮を求めるようになりました。

ところで、大戦後の平和維持のため、1920年に米国のウィルソン大統領が国際連盟の創設を提唱しました。しかし、アメリカは当初、国際連盟に加盟しませんでした。それはアメリカにはモンロー主義(他国の紛争に関与しないという宣言)があったからですが、もっと大きく根本的な理由がありました。国際連盟の創設に先立つパリ講和会議で日本は「人種差別撤廃条約」を採択するよう提案しました。アジアやアフリカにおける、欧米列強による非人道的で、きわめて差別的な植民地政策が行なわれていたからです。

国際会議において人種差別の撤廃を訴えたのは日本がはじめてでした。明治維新のたった50年後の日本がこうしたことをするというのは驚きです。しかし、採択に消極的な国は少なくなく、アメリカのように黒人奴隷を制度として残している国は採択に反対しました。日本は条文を修正するなどしてなんとか採択にもちこもうと努力しました。しかし、採決の結果、米・英はもちろんブラジルやポーランドなどが反対票を投じ、議長だったウィルソン大統領が全会一致でなかったことを理由に否決してしまいました

国際連盟が機能不全をおこすであろうことは当初から容易に想像がつくことでした。パリ講和会議後に採択されたベルサイユ条約で戦勝国フランスは、敗戦国ドイツに当時のGNPの20年分を超える1320億マルク(今の400兆円)の賠償をするよう強行に主張しました。それはまるで普仏戦争での恨みをはらすかのようでした。その結果、ドイツの物価は一年で20億倍に跳ね上がり、戦後のドイツ人の暮らしをまさに塗炭の苦しみにしました。その苦しみはやがてドイツ人の不満と復讐心となり、ヒトラーの出現を招来します。

その一方で、イギリスは、中東での支配を確かなものにするため、いわゆる「三枚舌外交」をおこなって、今のパレスチナの混乱につながる火種を作りました。また、イギリスは、アメリカとともに海軍軍縮国際会議を開き、台頭する日本の軍事力を制限しようとしました。徐々に狭まる日本包囲網を警戒した日本帝国海軍は、交渉によって事態を打開しようとする交渉派と、あくまでも欧米の介入を許さずに海軍力を維持しようとする艦隊派とが対立していました。軍縮会議の責任者でもあった堀悌吉は交渉派でした。

アジアでの権益をめぐって欧米と対立する日本は、ソ連の南下にも注意しなければなりませんでした。ソ連とは満州やモンゴルとの国境をめぐってせめぎ合い、ウラジオストクやカムチャッカ半島からソ連が日本の出方をにらんでいるといった状況にありました。折しも1922年に帝政ロシアは共産革命によってソビエト社会主義共和国連邦となっていました。ドイツ帝国も1918年に革命がおこり、皇帝がオランダに逃げて退位。共和国になったばかりです。日本は共産主義という火の粉がソ連から飛んでくることを恐れました。

1934年、軍縮会議をなんとかまとめて帰国した交渉派の堀悌吉らを、艦隊派はもちろんマスコミが「弱腰だ」と強く批難しました。その声はやがて世論となって交渉派を追い落とすことになります。「これでなんとか危機的状況から脱することができた」とほっとして戻ってきた堀たちは、すでに海軍省内に自分の居場所がなくなったことを感じたようです。堀は無役の予備役となり、海軍兵学校の校長に転出します。その一方で堀との親交を深めていた山本五十六は1939年に連合艦隊司令長官に昇進しました。

1940年には日独伊三国同盟が締結されました。世の中は快進撃をつづけるドイツとの同盟に熱狂します。しかし、山本五十六は堀悌吉とともに三国同盟に反対の立場をとりました。五十六が反対するのは「地理的に遠すぎて同盟をむすぶメリットが少ないばかりか、アメリカを無用に刺激する」という合理的な理由からでした。それに対して堀は「ドイツの軍国主義や帝国主義が極度に嫌になってきた。日本人のドイツ崇拝のありさまを見るとたまらなく不愉快」と述べています。そんな二人の声は海軍には届きません。

自分の信念を曲げず、不本意ながらも出世の道をはずれて退役に追い込まれた堀悌吉。そうした彼の生き様は、学生時代、五十六に言った「自分の本分を尽くせば席次などどうでもいい」という言葉通りのものでした。一方の山本五十六は、堀と同様に三国同盟に反対し、日米開戦にも反対したにも関わらず、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮をとることになりました。五十六がなぜこのような矛盾する行動をとったのか。その答えは、堀悌吉に宛てて書いた無数の手紙の文面にあらわれています。

国、大なりといえども、戦(いくさ)を好めば亡ぶ。
国、安きといえども、戦を忘れれば必ず危うし。

軍隊の本質は、国家の要求に応じて当然の責務を果たすことにある。
敵に向かうべき最高の命令を受け、閫外(こんがい:国の外で敵と対峙すること)の臣として
辞するわけには行かぬ、のふたつにつきる。

山本五十六は日米開戦が決定された以上、自分にあたえられた使命をまっとうするのが軍人だという信念があったのかもしれません。五十六は、アメリカ本土はもちろん、アメリカの利権とかかわる南方を攻撃すれば、アメリカ国民を刺激して日米の全面戦争になる恐れがある。であるならば、太平洋艦隊の基地がある真珠湾を完膚なきにまで攻撃し、アメリカ国民の戦意を喪失させることができれば、それが世論となって日米戦争を早期講和に持ち込むことができるのではないかと考えたのでしょう。

しかし、真珠湾には肝心のアメリカの主力空母がいませんでした。逆にミッドウェー開戦で日本の主力戦艦を多数失ってしまいました。早期講和の道が絶たれてしまったのです。五十六は1943年になるとソロモン・ニューギニア方面にいるアメリカ艦船および航空兵力に打撃をあたえる作戦に赴きます。しかし、その途中、周囲の反対を押し切って連合艦隊の旗艦「武蔵」を離れ、前線の兵士を激励に向かう途中で搭乗機が撃墜され、五十六は戦死します。それはまるで死にに行ったかのような行動でもありました。

五十六はこの作戦を指揮するにあたり、決死の覚悟をもっていたのかもしれません。真珠湾攻撃から2年。山本五十六がときの総理大臣・近衛文麿に「日米が開戦してどこまでやれるだろうか」と問われたとき、「はじめの半年や1年の間は存分に暴れてご覧に入れます。しかしながら、2年、3年となればまったく確信は持てません」と答えたといわれています。まさにその通りになったのです。近衛に「日米戦争を回避するよう極力ご努力願いたい」と言った五十六は日米が開戦したことにさぞ落胆したことでしょう。

山本五十六も、堀悌吉も、それぞれの信念にもとづいて、日本・日本人を守ろうとしました。軍備だけで国家・国民を守ることはできません。ましてや、軍備を怠るならば弱肉共食の世界にあってはなおさらです。五十六や堀のように、指揮官として命がけで日本や日本人を守ろうとした人たちがいます。また、家族や同胞のために散華された名もなき兵隊たちもたくさんいます。それらの英霊は今の日本をどう思うでしょうか。現代に生きる私たちはいったい何を守るべきなのか、もう一度問い直すときが来ていると思います。

※映画「ゴジラ -1.0」はこの 1月 12日 から「白黒版:ゴジラ -1.0/c(マイナスワン/マイナスカラー)」が封切られます。是非、みなさんもご覧になってください(子どもも楽しめます)。ちなみにゴジラのテーマ曲を作曲した伊福部昭は北海道大学の卒業生です。

※ 1月 14日 に「ゴジラ -1.0/c」も劇場で見てきました。個人的にはむしろこの白黒版の方がよかったと思います。よりリアルに感じられましたし、俳優達が本当に当時の人たちのように見えました。

※1月 24日 、アカデミー賞ノミネート作品が発表され、「Godilla Minus One」が視覚効果賞にノミネートされました。視覚効果賞はこれまで「アバター」や「タイタニック」に代表されるようなアメリカ映画の独壇場でしたが、今回、日本はもとよりアジアからの作品としては初めてのノミネートでした。3月10日にハリウッドのドルビーシアターで本賞受賞作品が発表されます。ノミネートだけでも凄いことですが、是非本賞も受賞してほしいものです。

 

ワクチンの現状(2)

インフルエンザの流行もだいぶ下火になってきたと思っていましたが、松戸保健所からの情報では東葛地域でまた感染者が増加している、と。しかし、当院で日常の診療をしていてもそれほど感染者が増えているという実感はありません。おそらく周辺住民へのインフルエンザワクチンの接種が一段落しているからかもしれません。いずれにせよ、これから子ども達の通う学校も冬休みに入ります。年末年始のお休みにもなります。そうなれば感染拡大もじきに落ち着いてくるのではないでしょうか。

COVID-19(新型コロナウィルス)に感染する人の数も増えてきているようです。でも、驚くことはありません。それはCOVID-19ワクチンを接種する人が激減しているからです。ワクチンの接種が少なくなれば感染者は増える。当たり前のことです。これまで何度も繰り返してきたように、感染状況は感染者数ではなく重症者の数で評価すべきです。その意味で重症者がまったく増えていない現状は特段問題がないことを意味しています。理由や考察のない表面的な報道があいかわらず多く困ったものです。

その一方で、COVID-19ワクチンに対する批判が高まっています。「重篤な副反応が出ている恐ろしいワクチン」というのがその批判の中心です。ワクチン接種後に亡くなった人の数が2000人にもなってしまったではないかというのです。ワクチン接種が死因と特定できたケースはそれほど多くはありません。しかし、少なくともワクチン接種後に亡くなったのだから、ワクチンの危険性をもっと認識すべきだという意見ももっともです。でも、だからといって「なぜそんな危険なワクチンを接種してきたのか」というのは極論です。

私はワクチンに「中立な立場」だと思っています。ですから、こうした批判にはもっともだと思うところとそうでないところがあります。まず、今回のCOVID-19ワクチンについて「こんなにも危険だったワクチン」という反応は少し誇張されているように感じます。このワクチン接種がはじまったとき、ファイザー社などからアナウンスされた危険性は「接種数十万回に一回の割合で重篤な副反応が起こる可能性がある」でした。接種開始時、私は「重篤な副反応は20万人にひとりほど」と説明しながら接種していました。

日本ではこれまで約4億3千万回あまりのワクチンが接種されてきました。ワクチン接種後に亡くなった人が2000人いたとして割り算をしてみてください。22万回の接種にひとりの死亡者ということになります。もちろん亡くなりはしなかったが、重篤な後遺症が残ったケースも相当数あるでしょう。しかし、そうした人たちの中には、その死因や後遺症がワクチン接種と無関係のケースも少なくないはずです。そのようなケースを調整すれば、ワクチンの危険性はおおむね当初説明されていた程度だということがわかります。

だからといって「今のワクチン接種に問題ない」と思っているわけではありません。「ワクチンは危険性(副反応)と重要性(効果)との天秤で考えるべき」だからです。もともと危険性のまったくないワクチンなど存在しません。その危険性を可能な限り回避しながら、その危険性を許容できる範囲で接種の是非を評価しなければならないのです。得たいの知れない恐ろしいウィルスが猛威を振るい、その感染拡大によって重症者や死亡者が急増し、医療崩壊が目前にせまっているとすれば、多少のリスクは覚悟のうえです。

「社会の危機」ともいうべきステージを過ぎ、重症化する患者の数も少なくなっていれば、もはやワクチンの接種は必須とはいえません。ましてや周囲から強制されるようなものではないのです。現在も続けられているCOVID-19ワクチンのこれまでの効果はあきらかでした。感染しても重症化しないで済んだのはワクチン接種による恩恵です。感染しなかった人たちも、自分自身が接種し、あるいは周囲に接種した人たちがいたからこその幸運だったという事実を認識しなければなりません。ただの偶然ではないのです。

11月28日に従来のmRNAワクチンとは作用機序がことなる新しいワクチンが世界ではじめて承認されました。このワクチンを「レプリコンワクチン」といいます。今年の5月にその実用化についてのプレス・リリースがありました。しかし、その報道がほとんどなかったため、承認されたという報道があるまで私はこのワクチンの存在を知りませんでした。今回、このワクチンについていろいろ調べてみましたが、詳細な解説をしている情報がほとんどありません。それくらい新しいワクチンだということなのでしょう。

今回、この「レプリコンワクチン」について、私が理解している範囲で、皆さんにも理解しやすいように解説したいと思います。ただし、私の説明する内容が、後で間違っていることが明らかになるかもしれません。そのときはこのページの終わりに訂正記事を追加します(文章そのものは修正しません)。全面的に間違っているようであれば記事そのものを削除します。今後、レプリコンワクチンのことが気になったら、ときどきこのページを参照してください。読者の皆さんからの間違いのご指摘も歓迎します。

*********************** 以下、本文

レプリコンワクチンのことを説明する前に、ウィルスのことについて少し説明したいと思います。ただし、わかりやすく説明するためにかなり簡略化しています。細かいところで間違っているかもしれませんし、「そんなに単純化はできないよ」と思われる部分もあるかと思いますがご容赦ください。

 

皆さんはウィルスと細菌との違いをご存じでしょうか。一番大きな違いは、細菌は自己複製できるのに対して、ウィルスは自分で自分のからだを増やすことができないところです。つまり、細菌は環境が適していればどんどん自己増殖していきます。しかし、ウィルスそのものは、そのままでは自分で自分の分身を作ることができずに壊れてしまいます。では、ウィルスは自分の分身を作って増殖し、生き延びていくためにどうするのでしょうか。実は生物の細胞に侵入してその細胞に分身を作らせるのです。

ウィルスは生き物の細胞に寄生しなければ分身を作ることができません。COVID-19の粒子からトゲのように延びた「S(スパイク)タンパク」で細胞膜にとりつき、細胞の中に侵入するための役割をはたしています。とくにこのSタンパクの受容体結合ドメイン(RBD)と呼ばれる部分が、標的細胞膜の受容体にとりつくために重要です。かくして細胞内に侵入し、自己の遺伝子を注入すると、細胞自身にウィルスのからだを複製させ、それらのウィルスが細胞を飛び出し、あらたな標的細胞へと向かっていくのです。

ところで、細胞やウィルスが分身を作るときの設計図がDNAです。DNAは二本のペアとなった遺伝情報の鎖で、通常は細胞核の中に保管されています。DNAのすべてが生命活動に必須な遺伝情報ではありません。エクソンと呼ばれる遺伝情報として必要な部分と、イントロンと呼ばれる不要な部分が交互につながっているのです。なぜ不要の部分があるのでしょうか。それは、放射線などによって部分的に壊されても、その影響を確率的に低減するためです(損傷したDNAを修復する機能ももっています)。

さて、細胞分裂する際、母細胞の遺伝情報をコピーしなければなりません。このとき二本鎖だったDNAは一本の鎖にそれぞれわかれ、その一方の遺伝情報をもとにmRNAという仮のコピーを作ります。このコピーになってはじめてエクソン部分の遺伝情報を切り出すことができます。この抜き出されたエクソン部分のうち、タンパクを作るときに働く部分をレプリコンといいます。COVID-19のレプリコンであるmRNAを注射し、人間の細胞にそのSタンパクを作らせて中和抗体を誘導するというのが従来のmRNAワクチンです。

COVID-19ウィルスのSタンパクを細胞に作らせる、というとなにか危険なことがおこるように思えます。しかし、COVID-19ウィルスのからだ全体ではなく、細胞にとりつく際に働くSタンパクのみを体内に作るので、ウィルスの毒性が発現することはありません。体内でSタンパクができると、やがてリンパ球を刺激し、Sタンパクに対する抗体を分泌してそのSタンパクを攻撃します。かくしてウィルスは細胞にとりつくことができなくなり、細胞内に侵入することも、分身を作ることもできずに壊れていくというわけです。

しかし、Sタンパクの構造は複雑であり、リンパ球だけではなく、人体のさまざまな免疫機構を刺激します。それがワクチンのいろいろな副反応を引き起こし、ときにひどい副反応となることもあります。また、mRNA自体は壊れやすく、衝撃が加わったり、適温で保存しないと簡単に活性を失います。ワクチンの扱いには慎重さが必要なのです。ウィルス自身は遺伝子を変化させ、生体の免疫から逃れようとします。そのため、mRNAワクチンもそのたびに遺伝子変化に対応したワクチンに作り替えなければなりません。

レプリコンワクチンと従来のmRNAワクチンとではどこが違うのでしょうか。それはレプリコンとしてのmRNAをどのように細胞まで運ぶかというプロセスに大きな違いがあります。SタンパクをコードしたmRNAを直接体内に注入するのが従来のmRNAワクチン。このワクチンでは、免疫に寄与するだけの必要最低限のSタンパクを作るために、それなりの量のmRNAを注射しなければなりません。しかも、作られたタンパクも異物として認識され、やがて体内から消えていくため、4,5ヶ月おきに接種しておかなければなりません。

一方のレプリコンワクチンは、ベクターと呼ばれるウィルスを注射して細胞にレプリコンを発現させます。今回のレプリコンは、Sタンパクのとくに受容体結合ドメイン(RBD)とよばれる部分に特化したものです。ベクターウィルスが細胞内で自己増殖し、次々と他の細胞に感染していって、しばらく抗体を誘導し続けるのです。誘導されたRBDに限定した免疫反応は、感染抑制に寄与する中和抗体を有効に作り出し、同時に、過剰な免疫応答の原因でもある非中和抗体の産生を抑えるといわれています。

なお、ベクターとなるのはα(アルファ)ウィルスと呼ばれるもので、ほとんどの霊長類に感染しているウィルスだとされています。疾病を引き起こすような病原性はなく、人体に感染しても影響はありません。このウィルスの中にSタンパクRBDレプリコンを入れて人体に注入するのです。体内に入ったベクターウィルスは細胞に接触・侵入し、細胞内で複製する過程でSタンパクRBDに対する抗原を発現し、リンパ球を刺激して抗体を作らせます。なお、このベクターウィルスもやがては免疫によって排除されていきます。

以上のことから、レプリコンワクチンについては次のようなメリットがあるといわれています。①注射量が少なくて済む、②温度管理などの扱いが容易、③効果の持続期間が長い、④重篤な副反応が少ない。なにやらいいことづくめですが、これらはあくまでも理論上のものです。ベトナムで8000人規模の治験がおこなわれましたが、大きな健康被害はなかったとされています。しかし、健康に対する長期的な影響については未知な部分も多く、本当の安全性についてはこれからの検討課題です。

巷では、このレプリコンワクチンに関する情報が錯綜しています。中には、十分に調べもせず、不必要に人々の不安をあおるいい加減な情報を流す人も少なくありません。ワクチンの危険性に警鐘を鳴らすことは大事です。しかし、イデオロギーにもとづいた扇動的な情報にはくれぐれも注意すべきです。とはいえ、レプリコンワクチンの安全性については十分に検討されているとはいえません。数年はかかる臨床実験もそこそこに、あっという間に承認を受けてしまった観が否めないのです。

感染拡大が社会の混乱と医療の崩壊をもたらしている危機的な状況ならまだしも、今のように落ち着いているときに新しいものに飛びつくのは決して賢明ではありません。COVID-19が流行しはじめたときのブログにも書きましたが、政府の対応は初動が遅いばかりではなく、間違った対策が多かったように感じます。その総括や反省がないまま、次々とワクチン接種事業を進める厚労省のやり方には賛成できません。その意味で、来年の秋から接種が始まると言われているレプリコンワクチンには注視していく必要があるでしょう。

※  前編の「ワクチンの現状」もお読み下さい。

 

映画「トラ・トラ・トラ」

今年もまた12月8日がやってきました。1941年(昭和16年)の今日は、アメリカ太平洋艦隊の拠点でもあるハワイ州・真珠湾を日本が攻撃した日です。真珠湾攻撃からさかのぼること8ヶ月前、全国から集められた若手研究者による「内閣総力戦研究所」が組織され、日本とアメリカとの戦争が精緻にシミュレーションされました。日本はアメリカと戦って勝算はあるのかについて、若き秀才たちによってあらゆるケースが検討されたのです。日米戦争が日本の運命を大きく変えるものとしてとらえられていた証左です。

第一次世界大戦後の特需が日本を名実ともに「アジアの一等国」に押し上げました。しかし、その特需の熱気が収まると、今度はその反動で、日本はもちろん世界の国々は深刻な経済恐慌におちいりました。欧米先進国は植民地を拡大し、ブロック経済によって国益を確保しようとしました。その一方で、資源のない日本も中国・満州に活路を見いだそうとします。ところが、アジアに植民地を求める欧米諸国と対立し、日本は国際的に徐々に孤立していきました。アメリカと日本はフィリピンや中国での権益をめぐって敵対する関係でした。

折しもアメリカはヨーロッパでの英・独・ソの対立に巻き込まれ、欧州での紛争に不干渉の立場をとるモンロー主義との間に揺れていました。ヨーロッパでの戦火とは無縁だったアメリカ国民に、ヨーロッパにおけるアメリカの参戦をいかにして納得させるか。ときのルーズベルト大統領は腐心したといいます。ドイツ軍を挑発するアメリカ。しかし、ドイツは見透かしたかのように挑発に乗ってきません。アメリカはそのドイツと同盟を結んでいる日本を戦争に巻き込み、アメリカがヨーロッパに参戦する口実を得ようとしました。

第二次世界大戦の直接の引き金となったドイツのポーランド侵攻には石油確保という側面もありました。ドイツも日本と同様に石油資源に乏しかったのです。日本はマッカーサーが後に証言するように、資源らしい資源をほとんどもたない国です。とくに石油の多くはアメリカからの輸入に頼っていました。その石油をアメリカに禁輸されることは国家の存亡に関わります。しかも、中国・満州からの撤退そのものも求められました。そうしたアメリカからの圧力に屈することができなかった日本は開戦を決意します。

開戦当時の日米の国力の差は圧倒的でした。アメリカは大国としての地位を確固たるものにしていました。国民総生産は日本の12倍、石炭の国内産出量は日本の9倍、石油にいたっては日本の780倍です。これといった資源をもたない日本が勝てる相手ではありませんでした。しかし、帝国海軍連合艦隊司令長官となった山本五十六はアメリカに二度も留学経験をもつ知識派。その山本が日米の国力の差を知らないはずがありません。しかし、山本五十六はアメリカの政治に対する世論の影響力の大きさも同時に知っていました。

あれほど日米開戦に反対していた山本が、連合艦隊司令長官として真珠湾攻撃の指揮を執ることになったのはそのためです。つまり、全面戦争においては日本に勝ち目はない。しかし、もし日本が真珠湾での圧倒的な勝利をおさめ、アメリカの主力艦隊に大きな打撃をあたえることができれば、アメリカ国民の厭戦気分はさらに高まり、日米戦争を早期終結するための端緒ができるかもしれない、と山本は考えたのです。しかし、真珠湾にはそのアメリカに打撃をあたえるはずだった米海軍の主力空母がいませんでした。

山本五十六は誰よりも早く「これからの戦争はもはや巨大戦艦の時代ではない。圧倒的な航空戦力こそ必要」ということに気が付いていました。ですから、真珠湾にアメリカ海軍の主力となるべき空母がいなかったことに落胆します。しかも、真珠湾に大規模な攻撃を仕掛けてから1時間も経ってようやく米側に宣戦が布告された。山本は懸念していた事態になったことに気づきます。そして、周囲に「不意打ちになってしまった今回の攻撃は、眠れる巨人を起こすことになってしまったかもしれない」と漏らしました。

1970年に公開された映画「トラ・トラ・トラ」では、真珠湾攻撃前後の日米の駆け引きを史実に基づいて描いています。そのリアルさは、実際に攻撃に関わった日米双方の関係者をうならせるものだったといいます。この映画が作成された当時、私は小学生だったため映画館で直接観ることはできませんでした。しかし、その後、中学生になってTVで観て以来、再放映されるたびにテープレコーダーに音声を録音し、気に入った台詞を繰り返し覚えたものです。そのくらいこの映画のスケールの大きさに魅了されました。

「なぜ日本はアメリカとの無謀な戦争をはじめたのか」と疑問に思う日本人は意外と多くはありません。疑問を感じたとしても、真珠湾攻撃がときの大統領ルーズベルトが日本を挑発した結果だという見方を荒唐無稽と一蹴する人もいます。しかし、ルーズベルトの前大統領であるハーバート・フーバーが回想録「裏切られた自由」で日米開戦はルーズベルトに責任があると述懐しています。また、コロンビア大学教授で政治学者のチャールズ・ビアードが著作「ルーズベルトの責任」でも同じような主張を展開しています。

真珠湾攻撃の直前、開戦を回避するための日米交渉が決裂します。それは日本側が明らかに受け入れられない条件をアメリカが突きつけてきたからです。その最後通牒ともいえる公式文書「ハル・ノート」の作成に携わったハリー・デクスター・ホワイトはソ連共産党・コミンテルンのスパイでした。それはソ連崩壊後に公開されたヴェノナ文書で明らかになっています。ドイツと日本による挟み撃ちにあうことを恐れたソ連およびコミンテルンが、日本をアメリカと戦わせるように工作したのではないかと考えられているのです。

近衛文麿も実は(ルーズベルトと同様に)社会主義者だったのではないかと言われています。コミンテルンの間接的な影響を受けていたのではないかというものです。近衛は日米開戦を決断した総理大臣です。また、近衛文麿の側近である尾崎秀実も、日本軍が中国との泥沼の紛争に巻き込まれる大陸進出を推し進めた人物として知られています。尾崎は後にゾルゲ事件で逮捕され、ゾルゲとともにコミンテルンのスパイだったことがわかりました。取り調べは近衛文麿にも及びましたが、日米開戦によってうやむやになっています。

若き日の近衛文麿は、マルクス経済学を学ぶため、進学した東京帝国大学を退学して京都帝国大学に転学しています。また、藤原氏北家につながる名門の出である近衛は、昭和天皇に複雑な感情をもっていたともいわれています。つまり、あえて日本に敗戦をもたらし、天皇を皇室もろとも日本から排除する「敗戦革命」を画策していたのではないか、というのです。事実、日本の敗戦が決定的になったとき、近衛は「天皇には連合艦隊の旗艦に召されて、艦とともに戦死していただくことも真の国体の護持」と側近に語っています。

映画「トラ・トラ・トラ」にはこんなシーンがあります。ハワイ上空で真珠湾をめざす帝国海軍の攻撃隊は、飛行訓練を受ける民間機と遭遇します。日の丸をつけた多数の零戦や九九式艦上爆撃機、そして九七式艦上攻撃機に取り囲まれているのに驚いて急降下する訓練機。それを冷静に見つめる日本軍の搭乗員。日本軍は民間人の犠牲を最小限にとどめつつ最大の戦果を得るため緻密な計画と訓練を繰り返しました。その結果、この攻撃が大規模であったにもかかわらず、民間人の犠牲者は40名足らずだったといわれています。

その第一次攻撃のあと、いつまでも第二陣を発艦させない第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将は、あらたな攻撃をしないまま日本にもどることを命じます。旗艦で報告を待っていた山本五十六は、参謀に「南雲長官に攻撃命令を」と進言された際に「南雲はやらんだろう」と言ったとされます。そして、ハワイからの日本軍の撤退については南雲中将の判断を尊重します。南雲中将は山本五十六と同じように、もともと真珠湾への攻撃そのものに反対していました。そんな南雲の思いを山本は理解していたのです。

映画「トラ・トラ・トラ」にはそのときのやりとりを描いたシーンがあります。「針路反転帰途につけ」の信号旗を掲げたとき、南雲中将が参謀達に語る、日本の行く末を暗示するかのような台詞です。

南雲忠一(第一航空艦隊司令長官):「残念ながら敵空母は真珠湾にはいなかった。その現在位置がわからない以上、索敵に限られた燃料を消費することはできん。また、敵潜水艦が我々を捜し求めていることも忘れてはならない。今までが幸運だったのだ」

源田実(第一航空艦隊航空参謀):「しかし、攻撃は反復しなければなりません」

南雲:「違う。我々の任務は完全に達成されたのだ。このかけがいのない機動部隊を無傷のまま日本に連れ帰ることは私の義務である。戦いは今はじまったばかり。まだまだ先は長い」

実はここに登場した源田実は、私が大学生のころまで参議院議員をしていました。若いころの私はどちらかというと左翼的な思想を持っていましたが、その私でさえも歯に衣着せない彼の「正論(中国との国交回復の代償として台湾と断交することに毅然と反対した数少ない国会議員でした)」には一目置いていました。源田はこの映画「トラ・トラ・トラ」を制作する際の監修を行なったことでも知られています。実際に真珠湾攻撃に参謀として参加した源田実の監修だったからこそ感じられる緊迫感がこの映画にはあります。

真珠湾攻撃の圧倒的な戦果に沸く司令官達を前に公室を去る山本五十六には笑顔がありませんでした。その彼の表情はまるでこれからの日本を憂うかのように陰鬱でした。このシーンが、当時中学生だった私にとって一番印象的だったことを覚えています。

山本五十六:「私の意図は、宣戦布告の直後、アメリカの太平洋艦隊ならびにその基地を徹底的に叩き、アメリカの戦意を喪失させるにあった。しかし、アメリカの放送によると、真珠湾は日本の最後通牒を受けとる55分前に攻撃されたと言っている。アメリカ人の国民性から見て、これほど憤激させることはあるまい。これでは眠れる巨人を起し、奮い立たせる結果を招いたも同然である」

真珠湾攻撃での大勝利の後、日本は東南アジアの権益を確保することに成功します。それは戦争を継続するための資源を得る重要な戦果でした。ところが、昭和17年6月、真珠湾攻撃で空母を逃した失態を挽回するため、日本軍はミッドウウェーで再びアメリカ海軍に挑みます。しかし日本は大敗北を期し、日本海軍は逆に主力となる複数の空母を失います。それがその後の作戦に大きく影響して、以後、日本はアメリカに苦戦を強いられ、徐々に追い詰められていきます。山本五十六も昭和18年4月に搭乗機が撃墜され戦死します。

日本は総力戦研究所が予想したとおりの末路をたどります。昭和天皇はもちろん、山本五十六や南雲忠一らが反対していた戦争がなぜ起こってしまったのか。当時は戦争をあおるマスコミの世論操作も大きかったと聞きます。とはいえ、国民ひとりひとりが世の中のながれに流されず、自分のあたまで、ことの是非を考えていれば結果は違っていたでしょうか。今振り返ると、全世界を覆い尽くす戦争への大きな時代の波といったものが当時にはあったように思えます。そして、その波は今も影響しているように思えてなりません。

今日はそんなことを考えていました。是非、みなさんも映画「トラ・トラ・トラ」を見て下さい。そして、あらためて昭和天皇の開戦の詔勅を読んでみて下さい。過去を振り返ることは未来を考えることです。

 

子ども達に伝えたいこと

10月25日(水)に柏市の私立麗澤中学校でおこなわれた「職業別講演会」でお話しをしました。最近の小中学校では、子ども達が「将来、どのような職業に就くのか」を意識するきっかけになるよう、さまざまな催しが企画されるようになりました。麗澤中学校での講演会にはいろいろな職種の方達がいらっしゃり、働くことの楽しさ、大切さ、やりがいなどを、その職業に興味や関心をもっている生徒さん達にお話ししました。私は「医師」という仕事について40分ほどお話しをさせていただきました。

以前のブログでも書いたように、私が医師になりたいと思ったのは、小学校の入学祝いに野口英世の絵本をもらったのがきっかけです。そのときのことは今でも鮮明に思い出すことができます。当時の私は、小学校にあがるというのにまだ文字をまともに読めない子どもでした。しかし、その絵本のページをめくりながら、幼い英世が囲炉裏におちて大やけどをし、左手が不自由になりながらも世界的な医学者になっていく挿絵がなぜか子ども心に残ったのです。以来、私の将来の夢は「お医者さんになること」になりました。

しかし、親から「勉強しろ」と言われたことがなかったので、勉強とはまるで無縁の毎日を過ごしていました。しかも、宿題すら満足にしていかないのですから、学校のテストや通信簿の成績がいいはずもありません。だからといって運動が得意な子どもでもなく、どちらかというと苦手でさえありました。学校の長距離走大会ではいつもビリを争うようなありさま。息苦しさに歯を食いしばり、脇腹を押さえながら「なんのためにこんなことをやらなきゃならないんだ」などと考えて走っていたほどです。

勉強も嫌いで、運動も苦手な子でしたから、学校のいじめっ子のいい標的になっていました。いじめられても親には言えません。なんとなく親に心配をかけたくなかったからです。悩みを相談したり、愚痴をこぼせるような、親友といえる友達はほとんどいませんでした。でも、よく同級生に泣かされていた近所の友人とだけは妙に馬が合い、休日になると必ず一緒に遊んでいました。道ばたでキャッチボールをしたり、部屋にこもって何時間も話しをしたり。そんな小学生時代を過ごしていました。

中学生になっても「医者になりたい」という気持ちはありましたが、具体的にどうしたらいいのか、どうしなければならないのかを考えたことはありませんでした。でも、そんな私にも、中学三年生のときに大きな転機が訪れました。「ダメダメ小学生」だった私が少しだけ「勉強」に面白さを感じるようになったのです。楽しい思い出、懐かしい記憶がほとんどない小学校時代ではありました。しかし、なんとなく漠然と過ごしてしまった小学生の頃を挽回するような中学校時代だったと思います。

私が今こうして医師になれたのも、あの中学校時代があったからです。学校生活になじめず、友達もおらず、勉強も運動もぱっとしなかった私が大きな変化をとげたのがまさに中学生のときなのです。おそらく精神的にも成長し、高校受験という大きなイベントを前にして、将来のことをほんのちょっぴり考えるようになったからかもしれません。行きたい高校に合格するため、なにをすべきなのかを主体的に考えることができるようになったからだともいえます。医師になるための「本当の第一歩」がこのとき始まったのです。

その意味でも、中学三年生に対して「職業別講演会」を麗澤中学校がおこなったことには意義があります。なぜ自分は勉強しなければならないのか、自分はどのような人生を歩みたいのかを考えるいいきっかけになるからです。多くの子ども達はそんなことを考えずに高校に進学します。そして、なんとなく大学に、あるいはその他の学校へと進んでいくのです。私のような半生はきわめて例外的です。ある意味で失敗例でもあります。その経験を生徒さん達に知ってほしかったのです。

講演をするにあたって、麗澤中学校の生徒さん達に伝えたいことを次の四点にまとめました。

(1)医師は決して「楽しい仕事」ではないが、とても「やりがいのある仕事」

(2)「人の支えになる」ということは「人に支えられる」ということ

(3)どんな仕事をするのか、したいのかを具体的に考えてほしい

(4)目標に向かって「なにをしなければならないのか」を考えてほしい

子どもと大人の端境期にある中学三年生の生徒さん達に、これらのことをどのようにすればわかりやすく伝えられるだろうか。試行錯誤しながらスライド原稿を作っていました。ともすると「医者になったという自慢話」になってしまいます。あるいは子ども達が「医師という仕事はツラいだけで、気持ちが滅入るようなもの」ととらえてしまうかもしれない。だからといって、憧れだけで医学部に入って後悔させるようなものになってもいけない。そのバランスをどう図るかが難しかったです。

講演会の当日、教室の生徒さん達の前に立つと、北大時代に代々木ゼミナール札幌校で中学生を教えていたときのことがよみがえってきました。医学部の再受験に反対していた親には仕送りはいらないと啖呵を切って札幌に来ました。幸い、一度は大学を卒業していたので、大学生のアルバイトを採用していなかった代ゼミで働くことができました。そのおかげで学費や生活費をまかなうことができたのです。私の話しを聞いてくれる麗澤中学校の皆さんの真剣なまなざしは、当時の代ゼミの生徒さん達と重なって見えました。

講演の前半は、医学部に合格するためにどれほど勉強しなければならないのか(3000時間の法則)。そして、その勉強は医学部に入学しても続くのだ、ということ。それは決して楽なプロセスではなく、いくつもの関門が待ち構えていて、それらをひとつひとつ乗り越えてはじめて医師になれるのだということをお話ししました。後半は私の経験をふまえ、医師という仕事がいかに厳しく、責任をともなうものか。しかし、その仕事にはそうした困難を超える大きなやりがいがあるのだ、ということを強調しました。

本当は医師になってからの経験をもっとお話ししたかったのですが、中学生の皆さんにはむしろ医学部に合格するまでの私の紆余曲折をお話しした方がいいと考えました。私が医師として成長する中で、「人を支えることで逆に人に支えられている」ことに気づく体験談は、中学生の彼等にとって少し「重い話し」だと思ったからです。なので、生徒さん達には「そうした体験談は船戸内科医院のホームページに掲載した【院長ブログ】で読んでください」と伝えて講演を終えたのでした。

先日、学校から生徒さん達が書いた感想文が届きました。さっそく封筒を開け、一枚一枚を丁寧に読んでみました。すると、それぞれの生徒さんが私の伝えたかったことをしっかり受け取ってくれていたことがわかりました。医師という仕事のやりがいについてばかりでなく、私が実体験した「3000時間の法則(勉強の量は質に転化する)」のことや、それまで習っていたドイツ語を捨て、英語で大学を受験する決意をした高三からの体験などが生徒さん達には印象的だったようです。

「船戸内科医院の【院長ブログ】を読みました」と書いてくれる生徒さんもいました。このブログでは医師としての私がむしろ知ってほしいことを書きました。その記事をわざわざ読んでくれたことがとてもうれしかったのです。医師という仕事の醍醐味は、この【院長ブログ】に書いた「心に残る患者」にあると思っています。「悲しく、つらいこと」を乗り越えて「医者らしく」なっていくことの尊さを伝えたかったからです。そのことを感じ取ってくれた生徒さんがいて、講演をして本当によかったと思いました。

たくさんの感想文の中で、とくに私の心に残った生徒さんの感想を紹介します。素晴らしい文章なので、みなさんにも是非読んでいただきたいと思います。なお、掲載にあたっては、ご本人とそのご両親の了解、そして、学校の許諾を得たことを申し添えます。

 

****************** 以下、原文のママ

2023年10月25日 麗澤中学校3年生 職業別講演会 お礼状

3年A組 小村柚芽

この度は、とても貴重なお時間をいただきありがとうございます。

実は私も瀬畠さんと同じで、小さいときから医師になるのが夢でした。もちろん、今も医師になりたいと思っています。ですが成績もそれほど良くないですし、集中力も日によって変わってしまうので医学部は難しいのではないかと心のどこかで思っていました。しかし、瀬畠さんの講演を聞き、今からでも遅くないと気づかされました。医師になりたいという強い気持ちさえあれば勉強も辛いと思わなくなるだろうと思いました。

何度か「船戸内科医院のホームページを見て下さい。」とおっしゃっていたのでホームページの〝心に残る患者” を拝見させていただきました。自分が経験したわけでもないのに自然と涙がでてきました。ドラマや映画ではたいてい患者さんは完治し、笑顔で家に帰っていきます。ですがやはり亡くなってしまう方もいます。瀬畠さんのブログをみて、特に自分が主治医をした患者さんが亡くなってしまった事は特に心に残るものなのだなと感じました。

正直、今、怖いです。自分が担当した患者さんが自分の診断ミスで亡くなったら精神的に結構キツくなりそうだからです。でも、失敗を乗り越えてこそ1人前の医師になれるのかなと思いました。残念ながら1人前になるには失敗は必要だと思います。そこからどう変えていくかが大事なところなのかなと感じました。私の父も医師をしています。瀬畠さんと同じような経験をしたと考えると、とても心が痛いです。今、私にできることは勉強ももちろんそうなのですが、周りに居る人の支えになることもできると思います。今からでもできることはやっていきたいです。

私は改めて医師になりたいと思いました。そして、医師になれたら「この仕事をしていて良かった。」と思えるようになりたいと思いました。この度は本当にありがとうございました。

****************** 以上

 

小村さんの感想文を読んで、私は胸を打たれました。講演を通して伝えたかったことすべてをきちんと受け取ってくれたからです。とくに私が一番伝えたかったことを、小村さんは「そこ(失敗)からどう変えていくかが大事なところなのかなと感じました」と書いてくれました。大事なのはまさにそこなのです。人生にはゴールがありません。目標をめざして努力をする。そして、ひとつの結果がでてもまた新たな目標をめざさなければならない。その繰り返しの集大成が人生なのだということを小村さんはくみ取ってくれました。

感想文の中には「北海道に行ってみたい」と書いてくれた生徒さんもいました。このブログでも繰り返してきましたが、私は北海道(そして北海道大学)が大好きです。北海道の魅力は春夏秋冬それぞれに感じることができます。それをほんの少しだけ紹介したのですが、そのことを心にとどめてくれた生徒さんがいたのもうれしかったです。私の講演をきっかけに、北海道に旅行をして、あるいは北海道大学に入学して、北海道の良さを実感する人が増えてくれればお話しさせていただいた甲斐があります。

また、講演の終わりでお話しした私の「不思議な体験」に驚いた、と感想を書いてくれた生徒さんもいました。「生・老・病・死」に向き合う仕事をしているとときどき不思議な体験をします。医療従事者だからといってすべての人に同じような体験があるわけではないようです。これほど何度も「不思議な体験」をしているのはもしかすると私だけかもしれません。この「不思議な体験」は過去のブログに「あなたの知らない世界」として掲載してあります。興味のある方はそちらもお読み下さい。

「学校選びは職業選び」です。「どこの大学に行くか」ということよりも「将来、どのような仕事につくか」を考えることが重要なのです。大学以外の選択肢だってあります。しかし、中学生にはまだそうしたことの大切さは理解できないかも知れません。もしかすると親でさえもそれに気が付いていない場合があります。「偏差値の高い大学に行く」ことはあくまでも十分条件(※)であり、人生の目的を達成するための手段にすぎないのだ、ということがわかっていない人が少なくありません。

「SEEK WHAT YOU WANT, DO WHAT YOU MUST(なにがしたいのか、なにをすべきなのか)」

これは米国ミシガン大学の恩師に教えてもらった言葉。とある著名な研究者の言葉だそうです。「なにをしたいのかを探しなさい。そのためになにをしなければならないのかを考え、そして、実行しなさい」。この言葉は人生にとって大切な姿勢・態度を指摘しています。人生の目標が有名大学への合格で終わっている人がいます。一流企業への就職で終わっている人もいます。でも人生の醍醐味はそれだけではないはず。人生の目標は人それぞれであり、いろいろな形があるのだということを子ども達には知ってほしいと思います。

(※)十分条件とは「これがあればなお良い条件」のこと。それに対して「欠かすことのできない条件」を必要条件といいます。いずれも数学でよく使われる言葉です。

歴史の転換点

今回の原稿は、いつも当ブログを読んでいただいている、アメリカ・カリフォルニア州在住の日本人Yokoさんの「短歌通信」に掲載されたものです。
混沌とした現在の世界情勢、ならびに世界各地で勃発する戦争と争いについて感じたことをまとめています。Yokoさんのご了解を得てこれを掲載します。
ご自身の思想・心情と異なった内容によって気分を害された方にはあらかじめお詫び申し上げます。

******************** 以下、本文

1991年も終わろうとする12月末のことでした。札幌のアパートの自室で私は、モスクワ・クレムリン宮殿の丸い屋根に掲揚されていた鎌と槌、五芒星の赤色旗が降ろされるのをTVで見ていました。ソビエト社会主義共和国連邦がついに消滅したのです。人民に自由を許さず、反体制には粛正を繰り返す一方で、政権は腐敗し、経済運営はもはや修復不能なほど深刻になっていたソ連。国民に行き場のない閉塞感をもたらしていたその共産党一党独裁の国家は静かに幕を下ろしました。

ベルリンの壁が崩壊したのはその2年前。あれほど強固で高く、そして冷たい壁が、東西のベルリン市民の手で壊されていく光景に私は心の中で「歴史の転換点だ」とつぶやきました。壁につるはしを振り下ろす人たちのまなざし、そして、分断されてきた東西ベルリンの市民が抱き合って歓喜する姿は、冷戦が終わったことを実感させるものでした。それからほどなく世界中の社会主義諸国を支配していた超大国ソ連が瓦解するとは想像だにしていませんでした。

経済の低迷が続き、人民に厳しい生活が強いられる中、短期間で繰り返される権力闘争。それはまた共産主義の限界をも意味していました。そんなときに「ペレストロイカ(改革)」と「グラスノスチ(情報公開)」を掲げ、西側諸国との相互依存、他の社会主義諸国との対等な関係を目指そうとゴルバチョフがソ連共産党の書記長になります。彼にはこれまでのソ連の指導者にはない魅力がありました。ソ連の国民はもちろん、東欧諸国の国民も、西側の指導者たちでさえも期待と希望をもったに違いありません。

しかし、「自由」を知らない共産主義国家の人民にとって、ゴルバチョフが導入しようとした「自由」はまさに「禁断の果実」でした。国民にゴルバチョフは、極楽の蓮池の縁に立って地獄に蜘蛛の糸を垂らす釈迦に見えたかもしれません。自由を求める声はやがて人間の強欲な本性をあらわにし、その大きなうねりを利用して権力を得ようとしたエリツィンが登場。彼は湧き上がる国民のエネルギーを利用し、ゴルバチョフを窮地に追い込みました。そして、ついに世界のスーパーパワー・ソ連が倒れたのです。

ソビエト共産党が消滅し、ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊。そして、東欧の独裁国家の指導者が人民の力によって次々と追放されていったとき、私は「これで自由で明るい世界がやってくる」と思いました。世界革命の名のもとに何百万人もの自国民を粛正し、圧政によって人民の自由を奪い、徹底した秘密主義によって西側と対峙していたソ連こそが諸悪の根源だと思っていたからです。ソ連の崩壊によって東西の対立はなくなり、真の民主主義を世界中の人々が享受できるものと楽観していました。

しかし、現実は予想していた以上に厳しいものでした。自由を奪われ、抑圧されてきた国民に鬱積したエネルギーは、一気に国家を飲み込みながら東側社会を大きく揺さぶりました。独裁的な権力によってなんとかまとめられてきた国々の「パンドラの箱」が開けられてしまったのです。ソ連という後ろ盾を失った為政者が消えて国内がまとまるほど問題は単純ではありませんでした。宗教の対立や利害の衝突によって混乱は極まり、社会主義だった国々の多くでは今もなお政治的に不安定です。

 

 

私は「歴史的事実を現在の価値観で判断するのは間違い」だと思います。それは事後法で裁くようなものだからです。人類はこれまでの過ちを乗り越えて進歩していかなければなりません。過去にとらわれることは歩みをとめることです。その一方で、過去を振り返らないことは同じ過ちを繰り返すことにもつながります。最大多数の最大幸福を実現するため、人類が過去に犯した過ちを振り返りながら、英知を集めて過去の過ちを乗り越えていくべきなのです。

今、ウクライナでは大規模な戦争が続いています。ウクライナにはチェルノーゼムと呼ばれる肥沃な土壌が広がり、「東ヨーロッパの穀倉地帯」ともいわれる世界有数の小麦の大産地になっています。南部のクリミア半島は温暖な保養地であると同時に軍事的な要衝でもあり、東西ヨーロッパの緩衝地帯として政治的に常に不安定な場所となっていました。ウクライナはかつてはキエフ公国という大国として栄えましたが、異民族の侵入をたびたび受け、モンゴル来襲をきっかけにその中心はモスクワに移ったのでした。

ロシアの大統領プーチンがウクライナを「特別な場所」というのはこのような背景があるからです。しかも、歴史的にソ連の一部だったころの影響で、ウクライナの東部にはロシア系の住民が多く住んでいます。東ウクライナに住む住民の30%あまりがロシア人なのです。ウクライナはロシアからヨーロッパに送られる原油や天然ガスのパイプラインの中継基地であり、ソ連時代から天然資源にまつわる利権が存在しています。そして、今般の戦争にその利権が暗い影を落としています。

米国バイデン大統領の息子ハンター氏がそのウクライナの大手資源会社ブリスマの取締役を務めていたことが知られています。しかもそのブリスマの不正を追及しようとしたウクライナ検察にバイデン大統領自身が圧力をかけたともいわれています。ソ連国内の国営天然資源会社の多くが、ソ連崩壊後、米国のユダヤ資本に買収されました。ウクライナに誕生した財閥もその多くがユダヤ系ウクライナ人によるものであり、ウクライナの天然資源の利権にも米国のユダヤ資本が深く関与しているのです。

東西の冷戦が終わろうとしていたとき、ソ連ゴルバチョフと米国ブッシュ(父)との間で「ウクライナにNATOは一切関与しない」との約束が密かにかわされました。しかし、その約束は徐々に反故にされ、近年、ウクライナのEUとNATOへの加盟が検討されるほどになっていました。2000年にロシアの大統領になったプーチンがまず着手したのは、米国のユダヤ資本から旧ソ連の国営企業を取り戻すことでした。それをロシアに対する脅威と感じたからです。

それはまたウクライナのEUやNATOへの接近も同じでした。今のウクライナ戦争にはそうした背景があります。プーチンがあれほどウクライナに執着するのは単なる領土的な野望からではありません。もちろん、武力によって現状の国境を書き換えようとすることは許されません。今回の戦争に対する責任はロシア・プーチンにあることは明らかです。しかも、ロシア軍の非人道的な行為については国際法上も、あるいは近代国家としてのマナーからいっても弁解の余地のない蛮行です。

「ウクライナはもともとロシアの一部」といったところで、現在の国境の適否を歴史に求めても結論は出ません。歴史のどの時点を起点にするかで変わってくるからです。現在の国境をとりあえず保留にした上で、国家間の信頼と友好を築いて平和的に解決するという方法しかないのです。それには長い年月がかかります。もしかすると永遠に解決できないかもしれない。しかし、だからといって国際紛争を解決するために、まるで中世のような野蛮な方法を選ぶのは近代国家ではありません。

 

 

最近再燃したイスラエルとハマスとの戦闘も同じです。ユダヤの人々にすれば、パレスチナはかつての自分たちの王国があった場所。神から与えられた特別な場所、「約束の地」です。エルサレムにはユダヤ王国の城壁の一部が「嘆きの壁」として残っています。一方、イスラム教徒にとってエルサレムはムハンマドが天に昇っていったとされる聖地であり、キリスト教徒にすればイエスが十字架にかけられた聖地でもあります。どの宗教にとってもパレスチナが特別な場所であることにかわりはないのです。

源流は同じとはいえ、今や異なる宗教となってしまったユダヤ教とイスラム教、そして、キリスト教を交えた信者間での争いが絶えません。しかも、信仰の名の下に人の命が軽んぜられているかのような対立は、日本人には理解しがたいところではあります。しかし、今のパレスチナの問題がここまで根深く複雑なものになったのはイギリスの「三枚舌外交」と呼ばれる大国の傲慢さのせいです。アラブ人やユダヤ人と別々に交わした、パレスチナの帰属をめぐるイギリスの不誠実で不道徳な約束が原因なのです。

古代から常に周辺諸国の侵略を受け、異端の奴隷としての身分に甘んじていたユダヤ人。世界中にディアスポラ(離散)して約2000年。第二次世界大戦時のホロコーストを乗り越えて、1947年にようやく自分たちの国家イスラエルを神との約束の地であるパレスチナに建設しました。しかし、それまで住んでいたパレスチナ人、アラブ人との軋轢というあらたな問題に直面するのです。しかも、イスラエルは国連で定めた境界を越えて入植者を次々と送り出します。その数は今や40万人におよびます。

当然、両者の衝突は激化。近代国家としての歩みを進めるイスラエルに、パレスチナ人たちがまともに立ち向かえるはずがありません。イスラエルにゲリラ戦をしかけて対抗するパレスチナ人は次第に過激になっていきました。しかし、長い抗争の末、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長はイスラエルとの和平の道を選択しました。イスラエルと妥協することによってパレスチナ人の土地を守ろうとしたのです。しかし、パレスチナ人の土地とされた地域へのイスラエルの入植は続きました。

徐々に先鋭化し、過激化する反イスラエル運動はハマスに引き継がれました。その一方で、イスラエルとの共存を選択したパレスチナ人はファタハという組織を作ります。ハマスというとパレスチナ人を代表していると漠然と思っている日本人は少なくありません。しかし、ハマスを支持するパレスチナ人は10%足らずにすぎません。ハマスはもはやパレスチナ人を守るのではなく、イスラエルを駆逐するためのテロリストと化しているからです。多くのパレスチナ人は長い戦いに疲弊しています。

ハマスは世界中から集まるパレスチナへの資金で軍備を整え、指令を送る幹部たちは外国で優雅な生活をしているといいます。ガザ地区ではイスラエルからの攻撃に備え、軍事施設を学校や病院に作り、一般市民を人間の盾にしています。先日のイスラエルに対する攻撃でも、多数のイスラエルの一般市民を無差別に、恣意的に殺害しています。婦女子を陵辱し、子どもや幼子を無残な方法で殺している事例すらあります。その目的がどうであれ、一般市民を無差別に狙ったテロ攻撃が容認されるはずもありません。

マスコミの報道を見ていると、しばしばハマスの活動を肯定的に述べる「識者」がいます。それはあたかも「入植を続けるイスラエルが悪い」と述べているかのようです。それは一面で正しいかもしれません。しかし、一般市民を無差別に狙ったテロ行為はその理由、目的、事情の如何を問わず容認してはいけません。ハマスは国家ではありません。パレスチナ人の意思を代表する組織ですらありません。単なるテロリスト集団です。パレスチナに住む人たちとイスラエルの共存を望まない集団でもあります。

ウクライナの問題も、パレスチナの問題も、その正当性を歴史に求めても結論はでません。現在の価値観で過去の史実の善悪、適否を問うことはできないのです。ウクライナがかつてソ連の一部だった事実で今の戦争を正当化することはできません。イギリスの三枚舌外交によってパレスチナの地にイスラエル建国が強行されたからといってテロ行為も正当化されません。現状を現状として棚上げした上で、相互のよりよき未来に向けてどうすることが一番望ましいのか冷静に考えなければならないのです。

 

 

最近頻繁に「多文化共生」という美しいスローガンを見かけます。しかし、歴史的な背景も異なれば、民族としての価値観も異なる異文化が共存することがはたして可能でしょうか。そもそも多文化共生がうまく機能している国家がどこにあるのでしょうか。人種のるつぼと呼ばれるアメリカでさえも、その不幸な歴史を乗り越えることができないまま混迷を深めています。その混迷は今後さらに深刻化するだろうともいわれています。積極的に移民を受け入れてきたヨーロッパも異文化の共存が不可能である事例となりつつあります。

戦争や争いは異文化の衝突でもあります。同じ価値観を有していれば、利害の対立はさほど深刻なものにはならないのです。異文化が共存するのは、どちらかの数が圧倒的に多いときか、さもなければどちらかがどちらかに同化したときです。数が拮抗する異文化は共存できません。共産主義連邦国家・ソ連の崩壊は多文化共生の失敗をも意味しています。冷戦終結後の世界の混乱はグローバリズムの失敗だといえなくもありません。最近の世界に広がりつつある大国の覇権主義はこうした世界史の教訓に学んでいないようです。

今こそ、「多文化共生」という幻想を捨て、国家としての、あるいは民族としてのアイデンティティーを確立することが大切であるように思います。その上で国家同志がウィンウィンの関係を築くためにどのように協調していくかを考えるべきです。世界のこれまでの歴史はその方向性を示しています。また、そうした協調主義がお互いの民族性や文化を尊重することにつながるのではないかと思います。それこそが真の「多文化共生」なのではないでしょうか。

戦後の日本はさまざまな「争い」から逃げてきました。「歴史の転換点」ともいえる今、日本こそが世界の争いを政治的にも軍事的にも積極的に調停する国家として生まれ変わってもいいのではないか。そんなことを夢想する今日この頃です。

尻馬に乗る人たち

このブログにふさわしいことかどうか迷いましたが、黙っていられないので少し書きます。これまでこのブログに掲載したものは一本たりとも消去することなく掲載しています。しかし、今回の記事に書くような内容は、それぞれの個人の価値観に関わるもの。どれが正しくて、どれが間違いかを断定することができません。ですから、あとで私自身が不適切だと思った時点で消去するかもしれません。

*************** 以下、本文

私は子どものころから、親によく「おまえは変わってるね」と言われてきました。確かに、今、振り返ってみても、いわゆる「普通の子」ではなかったように思います。なにが「普通」なのかはっきりしませんが、それでも他の子ども達と違っていたことは、当時の自分もなんとなく自覚していました。簡単にいえば、誰かの指示の通りに動くことができなかったのです。指示通りにしたくなかったといえるかもしれません。同調圧力のようなものを感じたときはなおさらだったように思います。

親戚の子ども達が集まったとき、「みんなでトランプをやろう」と盛り上がっても、私だけは「僕は見てるからいいや」とみんなの輪からはずれました。「どうして?一緒にやろうよ」と言われれば言われるほどかたくなでした。そのときの私は、みんながトランプをしているのを見ているだけで楽しいのに、なぜ「一緒にやらなければならないのか」と思ったのです。でも、そんな私を見ていた親は、仕舞いには「どうしてそうなんだろ。おまえはほんとに変わった子だね」とあきれていました。

日本で開催されたバレーボールの国際大会がTV中継されたときのこと。日本チームに対する応援はいつになく熱を帯び、会場には「ニッポンっ、ニッポンっ」と大声援がこだましています。そして、日本の好プレイのときばかりでなく、相手のチームがミスをするたびに大きな歓声が沸きました。それを見ていた私は、日本チームへの歓声が大きくなればなるほど相手チームを応援していました。観客の応援からは相手チームに対するリスペクトを感じず、一糸乱れぬ熱狂的な応援ぶりに気持ちが冷めてしまったからです。

これまでの例えと本質的には異なることですが、今の「ジャニーズ問題」には、私の「あまのじゃく」が敏感に反応しています。私はジャニーズ事務所などなくなってもいいと思っています。いっそのこと、芸能界そのものがなくなってもいいくらいです。しかし、最近のジャニーズ事務所への「いじめ」のような報道のあり方、社会の反応には「大いに問題あり」だと思います。これは正義の名を借りた制裁だからです。しかも必要以上の制裁であり、場合によっては不当な制裁ですらあるからです。

今回の「ジャニーズ問題」の本質を考えてみましょう。多くの人は故・ジャニー多喜川氏による「性加害、とくに未成年者に対する性加害」の責任を追及していると思い込んでいます。しかし、よく考えてみてください。今、マスコミが、社会が責めているのは誰でしょうか?すでに亡くなってしまった加害者本人の責任を追及しているでしょうか。すると人は言うでしょう。「それを見逃してきた事務所にも責任がある」と。でも、見逃してきたのは事務所だけですか?その責任を追及する側にも責任はありませんか。

これまで性加害の存在をうすうす知っていながら、見て見ぬ振りをしていた人たちに責任はないのでしょうか。故・ジャニー多喜川氏の力と金を利用してきたTV局をはじめとするマスコミ、そのタレントを使ってきた企業はもちろん、タレントを守ってこなかったファンにも、自分たちの子どもをジャニーズに入れてきた親たちにも責任がないとはいえないはず。多くの人たちにも多かれ少なかれ責任があるというのに、なぜ、今、事務所ばかりがあれだけの批判を受けなければならないのでしょうか。

ジャニーズ事務所との契約を解除する企業があとを絶ちません。それは「性加害があったから」ではありません。「性加害があったことが公になってしまったから」です。どの企業も性加害の存在に目をつぶり、これまでタレントを番組に出演させ、CMに起用してきたではありませんか。そうした企業がまずすべきことは、これまでの経緯を猛省し、自らのコンプライアンスを見直すことから始めるべきです。なのに、まずは事務所を切り捨てるという身勝手さ。それはまるで自分たちの責任から逃げるかのようです。

経済同友会の新浪剛史氏は記者会見で「これからもジャニーズ事務所の所属タレントを使うことは小児虐待を認めること。国際的にも理解されることではない」と述べました。まるで他人事です。今回の事件について、こんな英雄気取りの経営者がいる企業がどんな会社かは推して知るべし。そもそも企業が、そして社会が守るべきなのは性被害にあったタレントたちのはず。事務所を切り捨てれば、そうしたタレントたちは救われるのでしょうか。まず守るのが自分たちの企業ブランドというのはあまりにも身勝手すぎます。

尻馬に乗る人が多すぎませんか。「水に落ちた犬は叩け」という言葉があります。これは窮地に落ちたライバルは非情になって蹴落とすべし、という意味に解されます。まさしく今のジャニーズ事務所が置かれた状況を表しているかのようです。しかし、この言葉は本来、「水に落ちた犬は叩くな」という日本の慈悲のことわざを、中国の魯迅が「水に落ちた狂犬には情けをかけるな(助けても襲われるだけ)」という意味で「叩け」と代えたとされています。ジャニーズ事務所ははたして狂犬なのでしょうか。

「福島を守れ」といいながら「フクシマを忘れるな」とカタカナ書きにして差別し、「福島を支えよう」といいつつ、処理水を「汚染水」と呼び、それを「Fukushima water」と書いて福島沖の魚までを汚れたものにでっちあげる。この人たちにとっては、福島のこと、福島県民のことなどどうでもいいのです。自分らのイデオロギーの拡散に利用しているだけですから。このような偽善の裏に「ことの本質」など関係ありません。なに(だれ)を守って、なに(だれ)を支えなければならないのかなどどうでもいいのです。

ついでに言えば、東日本大震災で発生してしまった原発事故は、これまで経験したことのない大地震、そして、予想をはるかに超える大津波が原因です。東京電力を犯人扱いすることは間違いです。東電は事故後まさに懸命な作業で危機を救ってくれた恩人ですらあります。そもそもが、関連死とされる人はいても、原発事故で直接亡くなった人は一人もいません。責任うんぬんをいうのであれば、それまでの原発頼りだった政府のエネルギー政策であるはず。東京電力そのものではありません。

2万人あまりの死者・行方不明者をもたらしたのは津波。想定をはるかに超える大津波に対策を講じてこなかった東電に責任があるのであれば、そうした津波を想定して巨大な防潮堤を建設し、たくさんの住民を移住させなかった地方自治体の責任はもっと大きいはず。東北各県・各地域の被害の補償を都合良く東京電力ばかりに押しつけるのは合理的ではありません。あの震災においては東電だって被害者。みんなが被害者なのです。にもかかわらず、尻馬に乗って「東電叩き」をする人のなんと多いことか。

ジャニーズ問題や原発事故に対する個人の感情はさまざまです。合理的に判断できる人もいれば、感情的になってしまう人もいる。それは仕方ないことです。しかし、人の尻馬に乗っかって、一緒になって「溺れる犬」を叩く人が私は嫌いです。ましてや相手の闇を知りつつ「持ちつ持たれつ」でうまくやってきたのに、その弱り目に乗じて叩く側に回っても平気な卑怯者が大嫌いです。そうした恥知らず(の人や企業)はいつかまた同じように他人(消費者・社員)を利用し、自分が窮地に追い込まれれば平気で踏み台にします。困ったときに真の友人、人の本質がわかります。こういうときにこそ冷静な観察眼を持ちたいものです。

 

 

ワクチンの現状

今、松戸保健所管内において新型コロナウィルス(COVID-19)に感染する人が増えています。それは日本全国いずれの場所においても同じだろうと思います。毎日診療をしていても、「これはCOVID-19に感染したケース」と思われる患者がお盆前からとても増えているという印象です。現に、抗原検査をして陽性となる人も毎日何人もいて、感染が拡大していることはほぼ間違いないこと。インフルエンザもちらほら見かけますが、流行しているといえるほどの広がりはなさそうです。

「流行している」とはいっても、従来のCOVID-19のときとその様相はまったく異なります。まずは感染者の重症感の違いがあげられます。以前であれば重症になってしまうことを一番に心配しなければなりませんでした。しかし、今の感染者にそうした心配をする必要はほとんどないといってもいいでしょう。ワクチン未接種あるいは数年前から接種していない人たちは多少の重症感をともなっていても、ほとんどの感染者は「おおむね風邪症状」で済んでいます。数年前とはまったく違うのです。

なにがこの変化をもたらしたかについて考えてみると、その原因にはふたつの要因が考えられます。ひとつはウィルスの変異。もうひとつはワクチンの効果です。これまでなんども書いてきたように、ウィルス学においては「ウィルスは容易に遺伝子変異が起こる。そして、感染力を増すと同時に危険性は低下する」と教えられます。COVID-19のその後の遺伝子の変異はこうしたウィルス学の説にしたがって変化しているといえます。「感染者は増えているが重症者が増えていない」を裏付ける根拠といえるでしょう。

9月から新型コロナウィルスワクチンは「オミクロンXBB株対応」に変わりました。従来の「オミクロンBA.4株およびBA.5株対応」ではなく、あらたな流行株に対するワクチンになったのです。中国で発生したといわれる当初のCOVID-19は武漢株と呼ばれます。その後にウィルスの遺伝子は次々と変化し、アルファ株、デルタ株と呼ばれる変異株となっていきました。そして、2021年末にオミクロン株と呼ばれる変異型が出現。そのオミクロン株も、その後BA.4、BA.5といった亜株に、さらにXBB株に分かれていくのです。

XBB株は生体の免疫から逃れる性質をもっており、感染力が従来の亜株にくらべて強いことがわかっています。その感染拡大を阻止するために「XBB株対応」のワクチン接種がはじまったわけです。しかし、昨年の秋から接種が勧められてきた「オミクロンBA.4株、BA.5株対応」のワクチンが無効かといえばそうではありません。重症化あるいは入院する危険性を低減する効果も確認されているので心配ありません。ですから、あわてて「XBB株対応」のワクチンを接種しに行く必要はないのです。

実は、日本で流行している株はもはやXBB株ではありません。最新の報告を確認すると、日本やアジアの国々における流行株はEG.5.1と呼ばれるものに変わっているのです。アメリカやイギリスは今もXBB株が流行しているのとは対照的です。なぜそのような違いが生じたのか(変異のスピードが異なるのか)については今後の研究成果を待たなければなりませんが、個人的には人種の違いが大きく影響しているのではないかと思います。公衆衛生に関わる国民性の違いも間接的に影響しているかもしれません。

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昨日、コメントをいただいた方からご紹介のあった動画を観ました。ワクチンに関する噂ばかりをまとめた下世話なものではなく、大学の研究者が比較的冷静にワクチンの問題点を指摘した誠実な動画だったように思います。しかし、率直な感想を申し上げると、ワクチンに対する批判的な視点から構成されているようにも感じました。ワクチンについては中立的な立場の(と思っている)私にすれば、いくつか注意して見なければならない点があると思いました。そのいくつかを列挙します。

1)ウィルスと細菌の違いは無視できない

動画では「予防接種はかくあるべし」の代表例としてBCGが挙げられています。「BCGは確実に感染者の数を減らしているのに、新型コロナウィルスは感染の再燃を繰り返している(だからワクチンは無意味?)」という意図が透けて見えます。しかし、BCGは「弱毒化した細菌(結核菌BCG株)の菌体成分」を体内に直接接種して抗体を作るというもの。それに対して新型コロナウィルスワクチンは、ウィルスのいち部分(スパイクタンパク)を作るRNA遺伝子を注入し、生体の細胞自身にスパイクタンパクを作らせて抗体を生じさせるもの。BCGと新型コロナウィルスワクチンの効果を比較するのは正しくありません。

2)背景が異なる数字は比較できない

動画ではワクチン接種の有無や回数の違いが感染率にどう影響しているかを説明しています。そして、「ワクチンの回数が増えても感染率は低下するどころか増えている」と主張しています。数値を比較するときは、その前提条件が同じでなければなりません。感染者の数は検出する検査の感度によります。ワクチン接種が始まる前と接種回数が増えてからでは検査の感度は異なっています。当然のことながら検出感度はどんどん鋭敏になっています。つまり、それまで拾いあげられなかった感染者が最近では拾い上げられているのです。検査の数自体も比較にならないほど増えていることも見逃せません。

従って、動画で紹介されている感染率の推移をあらわすグラフは、ワクチン接種の回数ごとに単独で比較しなければなりません。そうすると年齢層が高くなるにしたがって感染率が低下していることがわかります。感染リスクの高い高齢者になるほど感染率が低下しているのはなぜか。それはワクチンの接種率が高いからという結論にもなります。本来は対人口あたりの重症者数で見るべきなのです。重症者のカウントは流行当初も最近もさほど大きな変化はないはず。これまでの重症者の数の推移を見れば、最近の流行の状況がいかに落ち着いているかが理解できます。その要因のひとつはワクチンなのです。

3)ワクチンには必ずリスクがある

新型コロナウィルスワクチンに限らず、すべてのワクチンの接種にはリスクをともないます。危険性のまったくないワクチンなど存在しないのです。その意味で、動画で解説していた研究者の「(接種してはいけないではなく)リスクを知った上で接種すべき」という意見は正しいと思います。新型コロナワクチンによる血栓症の報告は有名です。その発症機序も動画の説明で十分理解できます。ワクチン接種を繰り返すことによる免疫寛容(免疫力が低下すること)の可能性も決して想像上の話しではないと思います。逆に免疫力を高めてしまっている可能性を思わせるケースだってあるほどですから。

最近、当院に来院する帯状疱疹の患者が増えています。他の皮膚科のクリニックでも帯状疱疹の患者が増えているといいます。帯状疱疹はまさしく免疫力が低下しておこるもの。何ヶ月かおきに同じワクチンを接種するなどということは過去に経験したことはありませんでした。そうしたことによって免疫寛容がおこり、帯状疱疹となった患者が増えていると考えても矛盾はありません。もちろん確証はありません。しかし、蕁麻疹や円形脱毛といった免疫に関係する疾患も以前よりも目立ってきた印象もあり、最近の診療において感じる変化に新型コロナウィルスワクチンの影響があることは否定できないのです。

4)これまでを冷静に振り返ろう

あくまでも個人の感想ですが、副反応の問題はあったにせよ、ワクチンの効果は十分にあったと思います。「今、ワクチンを打っていてもこれだけ感染が広がっているからワクチンは意味がなかった」というのは極論です。また、「ワクチン接種の弊害」があるからといってワクチン接種を完全否定するのも間違いです。少なくともこれまでのワクチン接種を批判することはできません。ワクチン接種はリスクとベネフィットで考えなければならないのです。流行がはじまったころに懸念された医療崩壊。これを回避するためにはワクチン接種は必須でした。まれな重篤な副反応が懸念されていても、です。

しかし、ここまでCOVID-19感染症が軽症となり、感染者が多数いても重症者が少ない現状において、ワクチン接種がいまだに必須かといわれればそうでもないように思います。ましてや、血栓症や帯状疱疹、蕁麻疹などの、ワクチンと無関係とはいえないリスクを抱えてまで数ヶ月おきの接種をこれからも繰り返さなければならないのかという疑問があります。そろそろインフルエンザワクチンと同様に、年に一回の接種でいいのではないか、重症化リスクの高い人たちへの接種勧奨でいいのではないのか、と思ってしまいます。流行(とくに重症化)の状況に応じてワクチン接種をもっと柔軟に考えてもいいと私は考えます。

5)便乗商法に注意しよう

帯状疱疹が増えた印象がある、と述べました。それを裏付けるかのように、TVでは盛んに「帯状疱疹ワクチン」の接種を勧めるコマーシャルや番組がながれてきます。私も患者さんからたびたび「帯状疱疹のワクチンを打った方がいいでしょうか」と相談されます。そんなとき私は尋ねます。「あなたにとって2回接種で5万円を支払うだけの価値がこのワクチンにはありますか?」と。高価なワクチンを接種してくれれば当院も儲かるので助かります。しかし、帯状疱疹には治療薬があります。発症の前触れともいえる痛みもでます。早めに受診し、早めに治療薬を服用すれば、辛い目に遭うことは回避できるのです。

COVID-19であれ、インフルエンザであれ、治療薬がなく、重症化により命が危険にさらされる感染症を予防するためのワクチンは接種すべきです。しかし、治療薬もあり、早期診断・早期治療が可能な感染症に、あえてワクチンを接種する必要があるでしょうか?肺炎球菌ワクチンも同じです。もし、肺炎球菌による肺炎になったとしても、抗生物質で治療可能なこの感染症になぜワクチンの接種を勧奨するのでしょうか。しかも莫大な公費助成をしてまで、です。政治と行政と企業の癒着?と疑いたくもなってきます。繰り返しますが、ワクチン接種の賛否については、メリットとデメリットを考えて判断すべきです。

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いわれるがままに接種するのもダメなら、感情論にひきづられて完全否定するのもダメ。今回の動画のような医学的な内容にかぎらず、素人ではなかなか判断できないことも少なくありません。しかし、なにを根拠にするかわからないときは賛否両論に耳を傾けてみましょう。そして、矛盾がないのはどちらだろうか、と評価してみるしかありません。それにしても、今、振り返ってみると、いろいろなことがわかります。あのとき真しやかに言われていたことが実は意味がなかったことがいくつもあります。

そのひとつが「検査は早めに、できるだけたくさん行なうこと」でした。それでなくても信頼性の低い検査を「早めに、たくさん」おこなっても意味がないばかりか、偽陰性や偽陽性によって社会を混乱させるだけだと当時の私は繰り返しました。「検査は一番怪しいときにおこなう」という原則はやはり正しかったのです。そして、それは現在にも言えることです。「検査が陰性でも感染していないこと」を証明することにはなりません。にも関わらず、いまだに「検査をしてこい」と指示する会社・学校があとを絶ちません。

自分で言うのもなんですが、私のブログを読み返していただければ、放射線の危険性にしても、今回の新型コロナウィルスのことにしても、これまでの私の意見がいかに正しかったかがおわかりいただけると思います。検査をあれほど勧めた尊大な医学者や意味のない薬を治療薬だと投与して英雄気取りだった医師、ワクチン接種を情緒的に妨害した活動家や不必要な検査やワクチン接種で大もうけしていた人たちにもそれなりの言いわけがあるかもしれません。しかし、世の中を騒がし、混乱させたことには反省すべきです

専門的な知識のない一般の人たちに、ワクチンに関するどの情報が正しく、どの情報が正しくないかを判断するのは難しいと思います。とはいえ、その情報がなんらかの意図をもって世論を誘導・操作しようとしているのではないかと疑うことはできるのではないでしょうか。私自身、家族からは「まず否定から入る」とあきれられながらも、情報は常に批判的に吟味することはとても重要だと思っています。少なくともマスコミが主導しているながれを逆張りしておけばとりあえずは間違いない、というのは言い過ぎでしょうか?