昭和、大好き。

今回はちょっと雑ぱくなことをだらだら書きます。

昭和レトロがいちぶの人たちの間でブームになっているというニュースを目にしました。その「いちぶの人たち」とはおそらく私のような「昭和ど真ん中の世代」なのでしょう。今よりも不便なことも、理不尽なことも、残念なことも多かった時代ではありましたが、昭和には多くの人たちに夢や希望があり、「明日は今日よりいい日になるかも」という思いがあったように感じます。

今という時代はいろいろな意味で社会が成熟しているといえなくもありません。機会の平等や豊かな生活が世の中の隅々に行き渡り、多様な生き方さえもが許容される寛容な社会になったともいえます。しかし、その一方で「義務よりも権利」という意識が強くなり、昭和以来の価値観が徐々に変質して、「社会よりも個人」「自由から混沌へ」と大きな振れ幅で変化しつつあることに戸惑うことも少なくありません。

現代社会は自由と平等が尊重される一方で「格差社会」をも生み出しました。チャンスも努力次第で平等になりましたが、富は富める者に集まる傾向がさらに強まっているように思います。富める人たちがその経済力にふさわしいお金の使い方をするかといえば決してそうではありません。デフレの時代に染みついた「節約・倹約・清貧」「よいものをより安く」という価値観は富裕層にまで浸透しています。

大量消費社会を必ずしもいいとは思いません。と同時に、SDGs(持続可能な開発目標)というスローガンも素直に受け入れることができません。今の日本に広く漂っている「閉塞感」は、社会にながれるお金が一部の人たちに偏在し、流動性が阻害されていることから生じているように思えます。お金のある人がもっとお金を使い、「良いものがより高く売れる社会」にしていかなければならないと個人的には思います。

イギリスのベンサムは「最大多数の最大幸福」という社会のあり方を主張しました。多くの人が幸福感を感じる社会を善とするこの考え方を功利主義といいますが、この思想はあたかも今の社会のあり方を批判しているかのようです。なぜなら現代は「上位1%の富裕層が世界の個人資産の40%近くを所有する社会」であり、「コロナ禍にあって富裕層はさらに裕福になっている」という矛盾をかかえているからです。

昭和は「みんなが貧しかったが、みんなが明日を信じていた時代」だったように思います。いろいろな不自由さに我慢を強いられることもありましたが、行き過ぎたポリティカルコレクトネスが幅を効かせる今より人々の心の中はもっと自由だったかもしれません。その意味で昭和は「各人が少しづつ我慢をしながら全体として調和をとっていた功利主義的な時代」だったといえるかもしれません。

これまでの歴史を振り返ると、民主主義が発達していない独裁国家は、自国民の幸福よりも国家の覇権を求めます。それはフランスのナポレオンも、先の大戦のナチス・ドイツもそうでした。プーチンは「ウクライナのネオ・ナチを掃討する」とウクライナに侵攻しました。しかし、彼のやっていることはナチズムそのものです。真の民主主義が育っていないロシアの国民にはそれを止めるすべがありません。

ロシアがはじめた戦争は、ウクライナからの予想外の反撃によって長期化する気配です。武力による国境の変更という暴挙はヨーロッパのみならず全世界にも暗い影を落としつつあり、まさに第三次世界大戦さながらといえるかもしれません。先の大戦でたくさんの自国民を犠牲にし、その後も決して国民を幸福にはしなかったソビエトの地に人権を尊重する真の民主主義はなかなか育たないようです。

先日の新聞に昭和天皇に仕えた武官の日記が公開されたという記事が掲載されていました。敗戦が濃厚となったころの日本は、まるで今のウクライナと同じように、国土は荒廃し、たくさんの国民が犠牲になっていました。その時の昭和天皇のご様子を記録した日記は「昭和天皇実録」にも収載されていないらしく、これまで知られていたものとは異なる陛下のご心情を垣間見ることができます。

その日記によれば、このまま戦争を継続すれば、さらに多くの国民を失い、国土を荒廃させ、戦後の復興が困難になることを昭和天皇が憂いておられたとのこと。また、出撃する若い特攻隊員たちが辞世の寄せ書きをする様子を紹介したニュース映画をご覧になりながら涙をぬぐっておられたそうです。皇祖皇宗から引き継いできた国民・国土のことを考えて忸怩(じくじ)たる思いだったに違いありません。

以前のブログにも書きましたが、昭和天皇は皇太子になられてすぐ第一次世界大戦直後の荒廃したヨーロッパを歴訪されました。これは「将来の国家元首として戦争がいかに悲惨なものかを知っておくべきだ」と考えた西園寺公望や東郷平八郎たちの発案だったとされています。西園寺や東郷自身も幕末から明治にかけて全国で勃発した内戦の厳しい現実を身をもって体験してきたからだと思います。

当時、皇太子だった昭和天皇の目には、破壊の限りをつくした町並みはどのように映ったでしょうか。また、戦禍を乗り越え、復興に向けて立ち上がろうとするヨーロッパの人々の姿をどう思ったでしょうか。陛下は中国大陸への戦線拡大に反対しました。しかし、そのご意志に反して日本は日華事変に突入してしまいました。それほどまでにソ連の南下政策が日本の安全保障を脅かしていたからです。

少し話しはそれますが、戦後、GHQの最高司令官となったダグラス・マッカーサー元帥も第一次世界大戦のときヨーロッパにいました。アメリカ軍の参謀だった父親とともにヨーロッパに滞在していたのです。モンロー主義という孤立主義に徹していたアメリカは、それまでヨーロッパの戦争には関与しない態度をとっていました。しかし、大戦がはじまるとアメリカはその方針をひるがえして参戦を決めたのです。

マッカーサーは第一次世界大戦末期のヨーロッパにおいて、敗戦の色濃いドイツ帝国からほうほうの体でオランダに亡命する皇帝ウィルヘルム2世の姿を目の当たりにしました。自らの責任を放棄し、何両もの貨車に財産を積み込んで逃げていく国王。彼はオランダへの亡命後もしばらく皇帝からの退位をも拒否しました。亡命の責任は自分にはないというのが理由でした。そんな国王をマッカーサーは軽蔑しました。

第二次世界大戦後、日本に着任したマッカーサーは、昭和天皇から面会を求められたとき第一次大戦時のドイツ皇帝ウィルヘルム2世を思い出したといいます。陛下が自分の命乞いと財産の保護を求めてやって来るのだと確信していたのでしょう。だからこそ陛下を玄関で出迎えもせず、ノーネクタイで面会するという非礼をあえてしたのです。しかし、実際に目の前にした昭和天皇は違いました。

「天皇の名の下で戦った人々に寛大な措置をお願いしたい。そして、戦争で疲弊し、満足に食べることすらできない日本国民を飢えから救ってほしい。そのためであれば私はいかなる責任をも負うつもりである」と昭和天皇は震えながらマッカーサーに語ったといいます。マッカーサーはそんな陛下に衝撃を受けながら、かくも尊敬すべき天皇であるがゆえに日本人は敬愛してやまないのだと理解したといいます。

マッカーサーは父親の代からフィリピンに利権と財産を所有していました。しかし、南進する日本軍の攻勢にマッカーサーはフィリピンから脱出せざるを得なくなりました。たくさんのアメリカ兵を残して去って行く彼は、自らの莫大な財産とともにアメリカ国民からの尊敬を失ったのです。マッカーサーはこのとき日本への復讐を誓いました。「I shall return(私は必ずここに戻ってくる)」という言葉とともに。

日本への復讐を誓ったはずのマッカーサーの気持ちが変わったのは、昭和天皇のお人柄に触れたところも大きかったのでしょう。また、荒廃した国土を立て直すために黙々と努力する日本人を間近で見てきたからかもしれません。マッカーサーは朝鮮戦争の処理をめぐってトルーマン大統領と対立し、6年でGHQ最高司令官の任を解かれましたが、帰国後の1951年米国議会上院軍事外交合同委員会で次のように証言しました。

「日本には蚕を除いて国産の資源はほとんどない。彼らには綿も、羊毛も、石油製品もなく、スズも、ゴムも、その他の多くの資源がないのだ。それらのすべてのものはアジアの海域に存在していた。もしこれらの供給が断たれれば一千万人から一千二百万人の失業者が生まれることを日本政府は恐れていた。以上のように、彼らが戦争を始めた目的は主として安全保障上の必要に迫られてのことだった」。

マッカーサーのこの証言は、サンフランシスコ平和条約の締結を後押しし、早期に日本の主権が回復することに貢献しました。ちなみに、マッカーサーは東京裁判で強まる天皇への戦争責任論を一蹴しました。また、靖国神社を焼き払うという計画が検討された際にも、ローマ教皇庁代表でもあったビッテル神父の「排除すべきは国家神道制度であり靖国神社ではない」という意見を聞き入れ神社の存続を決めたとされています。

1926年からの「昭和」は激動の時代でした。第一次世界大戦後の好景気は長続きせず、世界は大恐慌におちいります。日本は台湾と朝鮮を併合し、満州国を建国し、それらの地域のインフラを整備するために多額の投資をしました。それは日本本国にとってあたかも「母屋で粥を食い、離れですき焼きを食らう」と揶揄されるほどの負担でした。その結果、もともと資源も産業もない日本は世界恐慌の影響をもろに受けました。

そんな世界情勢の中で、日本は南下するソ連と対峙するべく大陸に進むか、東南アジアの資源を確保して来たる戦争にそなえるかを決められないまま米国との戦争に突き進みます。これはソ連がドイツ戦に集中するため、日本とアメリカとを戦わせるようコミンテルンが工作した結果だといわれています。日本の中枢にも、あるいは米国の閣僚にもソ連のスパイが少なからずいたことが今では知られています。

話しはだいぶそれましたが、思えば、こうした近現代史のなかの出来事も、私が生まれた1960年のたった15年前かそこらのこと。そう考えると、大東亜戦争(太平洋戦争)は私の知らない遠い昔のできごとではないことを実感します。私が生まれるたった100年前の日本だってまだ江戸時代。桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されたころです。教科書のなかでしか知らない歴史が意外に自分と近いことに驚きます。

そういえば、私がまだ小学校にもあがっていなかったころ、東京都葛飾区の亀有にあった警察の家族寮に住んでいました。父が警視庁に務めていたからですが、その寮には我が家と同じような警察官の家族が同じ屋根の下に暮らしていました。決して広くもない部屋にひと家族が肩を寄せ合うように生活していたのです。部屋に台所はなく、一階に共同で使う台所があって床は土間になっており、スノコが敷き詰められていました。

トイレはくみ取り式で共同。キンカクシには木でできた蓋がいつもかぶせてありましたが、用を足すときには落ちそうな気がしてとても怖かったことを覚えています。このころの道路はまだ舗装されておらず、各戸の塀はおおむね木の板でつくられた簡単なものでした。そして、街のいたるところにこれまた木製のゴミ箱が設置してあり、ときどき「くず屋さん」と呼ばれる人が回収に来ていました。

私の住んでいた警察寮は古く、ちょっとした強風でも壊れてしまいそうな建物でした。そのためか、台風が近づいてくると寮の近くにあった大きな民家に子ども達は避難させられました。このお宅は広いお庭があるしっかりした建物でしたので、外で強風が吹いていても安心感がありました。子ども達みんなでろうそくの火を囲んで台風が過ぎるのを待っていたときの光景を今でも思い出します。

当時はまだ机と椅子の生活ではなく、狭い部屋の真ん中には丸いちゃぶ台が置いてありました。私の両親は新しいもの好きだったので、当時は高価だった白黒テレビとステレオがありました。テレビで放送される「怪傑ハリマオウ」や「ビックエックス」、「エイトマン」といった子ども向け番組に夢中でしたし、四本足のステレオから流れるクラッシックを聴きながら指揮棒をふっていたことを思い出します。

私が小学生のころにはまだ「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいました。戦地で大きな怪我を負い、腕をなくしたり、義足をつけていたり、なかには目や顔を負傷していたりと、ハンディを抱えながら生きている元兵士が道行く人たちに義援金を求めるのです。繁華街で軍帽と白い着物の人たちが自分の障害をさらしながら地面に四つん這いになっている姿は子どもの目には恐ろしく映ったものです。

繁華街にでたり、お祭りにでかけると、こうした傷痍軍人をよく見かけました。高度経済成長の時代となった当時の風景に「戦争」を感じるものはほとんどありませんでした。でも、街角に立っているこの傷痍軍人だけは暗くて悲しい戦争の痕跡を子どもたちに感じさせるのに十分でした。そして、その光景は、私の心のなかに戦争の勇ましさではなく、戦争のみじめさを植え付けたように思います。

1955年の国民総生産が戦前の水準を超え、翌年の経済白書には「もはや戦後ではない」と書かれたことはよく知られています。私たちの世代は、先の大戦がまだ影を落とす中、経済大国へと成長を続ける日本とともに子ども時代を過ごしました。やがて日本は「ジャパン・アズ・ナンバー1」となり、バブル景気を迎えたのです。しかし、そんなときに昭和天皇が崩御されると、日本は一転して長いデフレの時代に突入します。

振り返ってみると、私のなかの昭和にはいつも昭和天皇がおられたように思います。昭和のどの時代を思い出しても、当時の昭和天皇のお顔が浮かぶのです。無知蒙昧だった高校生のころ、私は「天皇は国民の象徴なんだから、国民から選んだらいい」と言ってはばかりませんでした。天皇陛下や皇室が日本にとってどのようなご存在かを考えたこともなかったからです。今思うと本当に恥ずかしいことでした。

大人になっていろいろな本や資料を読み、日本の歴史を調べれば調べるほど、昭和天皇がいかに偉大な方だったかがわかりました。「激動の昭和」と簡単にいいますが、その大きな歴史の渦のなかで生きてこられた陛下の87年間がいったいどのようなものであられたのかは想像を絶します。「皇族もひとりの人間」という人がいますが、昭和天皇のご生涯は皇族が決してそんな卑俗な存在ではないことを示しています。

今の皇族のあり方については私なりに疑問に感じる部分があります。それはまたの機会に開陳しようと思っています。それはともかく、私は昭和を単なるノスタルジーとしてではなく、日本人としての誇りを覚醒させる時代として好きです。天皇というとてつもない重圧のかかる地位でありながら、不平も不満ももらさずに務めあげられた昭和天皇がおられたからこそ、私の中の昭和がいつまでも輝いているのかもしれません。

 

がんばれ、新人君(2)

地元の桜並木に薄桃色の花がまだ咲いていなかったころ、地球の反対側のヨーロッパで戦争がはじまりました。戦争なんてものは発展途上国の内戦だったり、名前も知らないような小国同士の小競り合いだったりするだけで、それなりの経済規模を有するまっとうな国が戦争など始めるはずがないと思っていました。しかし、そんな「常識」はあっさり裏切られ、「先進国」のひとつにも数えられるようになった国が、武力による国境線の書き換えをおこなおうとしている現実を世界中の人は目の当たりにしています。

戦後80年を経て、日本人はすっかり平和ボケしていました。敗戦後、「平和憲法」という新たな錦の御旗をあたえられた日本は、「戦争・戦力を放棄し、交戦権を否認すれば戦争に巻き込まれない」という夢を見続けていました。それが理想論にすぎず、絵空事であろうことはうすうす感じていながら、厳しい国際社会の現実にはずっと目をつぶってきたのです。しかし、今、自国の安全と生存は「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼する」だけでは保持できないという現実を突きつけられたといっても過言ではありません。

もちろんロシアが武力をもちいてウクライナとの国境を変更しようとするのにはそれ相応の理由があるのでしょう。そこにはウクライナとロシア両国の長くて悲しい歴史が影響しているのかもしれません。あるいは、オリガルヒやアメリカのエスタブリッシュメントと呼ばれる人たちの思惑や、あるいはNATOによる安全保障上の戦略に両国がまんまと利用されているのかもしれません。とはいえ、いかなる理由があろうとも、人権を一顧だにせず、国際法に明らかに違反するロシアの暴挙を正当化することは到底できません。

たくさんの命が失われているウクライナでの絶望的にも見える惨状は日本人に多くのことを教えています。人類はなんどもこうした過ちを繰り返してきました。そのたびにあらたな平和を誓ったはずなのに、です。日本や日本人は、ウクライナのために、また日本自身のためになにをすればいいのでしょう。遠い東欧で起こっていることだと他人事にしてはいけません。戦争がもたらすものは恐怖と絶望、悲しみと憎しみです。この愚かな戦争を一日も早く終わらせ、二度と繰り返さないためにも今の現実に顔をそむけてはいけません。

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気分を取り直して、今日の話題をあらためて書きます。

春、進学したり、就職したりと、あらたな第一歩を踏み出す人も多いことでしょう。期待と不安の入り交じったスタートになっているに違いありません。先日、私のクリニックに、高校の後輩で、今春、北海道大学医学部を卒業したばかりの新人君が遊びに来てくれました。もはや後輩というよりも自分の息子のような彼も、この春から研修医としての厳しい修練がはじまります。その彼には研修医のころの思い出をいろいろ話しました。失敗も、ツラいことも、悲しかったことでさえも今の自分に活きていることを伝えたかったからです。

研修医だった私の一日は、朝早く病院に来て患者の採血をすることから始まりました。前日にオーダーしていた検査のための採血をするのです。そして、それが終わると、つい数時間前までカルテ記載していた担当患者の情報をまとめます。やがて病棟にあがって来る指導医に患者情報を報告し、その日にやっておくべきこと(検査あるいは処方)の指示をもらうためです。その後は、指導医と一緒に患者の回診にまわり、検査・処方のオーダーをしたり、注射箋で点滴を指示したりとあわただしく午前中が過ぎていきます。

昼食を済ませると、午後は検査に入ったり、カンファレンスと呼ばれる症例検討会があったりと忙しさは続きます。興味深い疾患をもっている患者やなかなか診断のつかない患者を検討会に提示するときはその準備もあるのでとくに忙しくなります。東京逓信病院では院内での勉強会が多いため、研修医は学会発表の練習も兼ねて頻繁に発表させられます。発表のためには他の診療科のカルテを取り寄せるために病歴室に通ったり、文献を調べるために病院の図書館に行ったりしなければならないので大変です。

夕方になると日中にオーダーしておいた検査の結果があがってきます。その結果を見ながら、治療薬の効果を判定したり、病気の原因を絞り込むのですが、研修医にはそれらの結果に一喜一憂するのが精一杯。自信満々で指導医に結果を報告したのに、検査や治療内容の不備などを指摘されてヘコムなんてことも少なくありません。そんなときは、カルテを記載する医師記録室で他の研修医と愚痴をこぼしあったり、指導医への不満を聞いてもらったりしたものです。このときの研修医同士の連帯感はなにより心強いものでした。

私が研修医の頃はまだ紙カルテで、検査結果も紙に印刷されてあがってきます。検査結果をカルテに貼りながらその日一日の患者の変化や今後の方針を記入するのですが、そうこうしているとあっという間に夜もふけ、いつの間にか深夜遅くになっています。しかし、当時の逓信病院には夜になると我々研修医に陣中見舞いを持ってきてくれる先輩医師がいました。深夜にもかかわらず記録室にケーキなどの差し入れを買ってきてくれるのです。「お疲れ~っ!」と入ってくるその先輩医師にどれだけ励まされたことでしょう。

夜遅く(朝?)までカルテ記載をしていると、記録室のラジオからはよく「Jwave」の「singing clock」という時報がながれてきました。夜勤の看護婦さん達も仮眠に入ったのか、静まりかえっている病棟。ときどき鳴るナースコールと看護婦さんの足音だけが聞こえる夜の「singing clock」は、疲れ果てていた私を生き返らせる呪文のようなものでした。ちょうど私が研修医だった頃に開局したFMラジオ局のJwaveからはいつも洗練された音楽がながれてきて、札幌から上京したばかりの私にとっては心の清涼剤だったのでしょう。

研修を終えて勤務した大学病院では、今度は新人看護婦さんたちの奮闘ぶりを見ていました。今でも思い出すのはGさんのことです。彼女は地方の看護学校を卒業して就職してきた人でした。人懐っこい笑顔と元気さが取り柄とでもいうような明るい新人さんでした。やる気満々、物怖じせず、なんでも頑張るぞという本人の意気込みとは裏腹に、ミスをすることも少なくなく、上司である主任さんはもちろん、他の先輩看護婦さん達からも注意を受けていました。そんな彼女を私はなにかとても懐かしく感じました。

注意された彼女はちょっとだけ落ち込んだように表情を曇らせますが、すぐに舌をペロっとだしてはいつもの元気なGさんに戻ります。ところが、彼女がめげなければめげないほどまわりの先輩看護婦さんからは集中砲火のように怒られ、ついに主任さんから厳重注意を受けることになりました。私は少し離れた場所でカルテ記載をしながら、二人のやりとりに聞き耳を立てていました。「もっと考えて行動しなさいっ!」と主任さんは強い口調でいいました。それは少し感情的になっているようにも思える言い方でした。

Gさんは主任さんの話しにうなづきながら聴いていました。「お説教タイム」が終わって仕事に戻った彼女は、少し打ちのめされているように見えました。いつものはつらつさがすっかりなくなってしまったGさん。翌日になっても、また、その翌日になっても彼女らしい元気さを取り戻すことはありませんでした。しかも、それでも彼女はミスをしてしまいます。そのたびに先輩方から怒られるGさんに、今までのような笑顔はみられませんでした。私は彼女がいたたまれなくなり、周りに誰もいないときを見計らって声をかけました。

「ゴンちゃん(私はいつもそう呼んでいました)、元気ないね。主任さんは『もっと考えて行動しろっ』って言ってたけど、知識も経験もない新人に『考えて行動する』なんてことができるはずがないんだからね。ミスをしないに超したことはないけど、注意していてもミスってしまったことは仕方ないんだよ。それが新人なんだから。ただ、そのミスを絶対に繰り返さないぞ、って気持ちだけは忘れないでね」と。それ以上言うのはやめました。彼女が今度は主任さんや先輩達に悪い感情を持ち始めてはいけないからです。

ときどき「ゴンちゃん、がんばれ」と励ましているうちに、徐々に彼女にはいつもの明るさが戻ってきました。「めでたし、めでたし」と思っていたのもつかの間、今度は私が主任さんに叱られることになりました。「職場でGさんを『ゴンちゃん』と呼ぶのはやめてください」とのことでした。学校でさえ先生が生徒を呼び捨てにしたり、愛称で呼ぶことは禁止されているんだとか。「~君」ですらダメで、「~さん」なんだそうです。せちがらい時代になったものです。でも、その後、Gさんはすっかり立ち直ったように見えました。

私自身、たくさんの間違いをしてきました。後悔することもいっぱいあります。しかし、前回のブログでも書いたように、それらすべてを含めての「今」なのです。新人だからこそできる失敗があります。新人だからこそ挑戦できることもあります。頑張って、頑張って、それでもダメならやり直すことでさえも新人には可能なのだということを忘れないでください。振り返ればあっという間の人生です。マイナス思考で無為な時間を過ごすより、プラス思考をしながらとにかく前に進むことの方が建設的な時間の使い方です。

人生の価値はひとつではありません。その一方で、ひとつの目標に向かって頑張り続けることにも意味があります。どちらにせよ、頑張れるかぎりはその歩みをとめてはいけないということです。人生の歩みは振り返ることしかできません。結果として自分の望む方角には進めないことだってあります。しかし、人生の岐路に立たされたとき、その都度、自分が後悔しない選択を繰り返していけば、必ずや満足のいく人生を送れるのだと私は信じています。また、それは私の半生が証明しています。

新人の皆さん、がんばりましょう。

※「がんばれ、新人君」も読んでみてください

心に残る患者(8)

私はかつて総合診療部という部署に所属していました。「総合診療」という言葉を聞いたことがある人は多くないと思います。聞いたことがある人でも、それがどのような機能をもっているかまでを知っている人はごく少数でしょう(「総合診療など『なんでも内科』どころか『なんでもない科』だ」などと揶揄されたこともあります)。私がまだ医学生だった頃、「全人的医療」という言葉がいちぶの学生の間に広まりました。全人的医療とは「単に病気を診るのではなく、悩めるひとりの人間として理解して診療をしよう」というスローガンです。

総合診療部が全国の大学病院に設立されたのにはそうしたながれと無関係ではありませんでした。専門化、細分化した医療のなかで、適切な医療を受けられずに悩んでいる患者をあつかう診療科が求められるようになってきたためです。専門的な診療が集約された大学病院では、どの専門診療科が担当するのかはっきりしない患者がいます。どこにいっても「我々が診療する患者ではない」と、いわばたらい回しになる患者が少なからずいたのです。そうした患者の受け皿として総合診療部ができた「はず」でした。しかし、実際にはそれぞれの大学のさまざまな思惑で総合診療は作られていきました。

ある総合診療部ではアメリカの家庭医のごとく、内科・外科・小児科はもとより、産婦人科や耳鼻科、皮膚科といった幅広い臨床能力を有する医者を養成しようとしました。またある総合診療部は心療内科のような、心身症といった心理的な背景をもとにした身体的症状をあつかう診療を目指しました。さらにある総合診療部では単に大学のポストを増やす方策として利用され、実質的になにをやっているのかわらない総合診療部すらありました。結局、総合診療の必要性が叫ばれながらも、社会的なニーズとの整合性がとれないまま、総合診療部がタケノコのように次々とできていったというのが実情です。

私が所属していた北海道大学医学部附属病院総合診療部も、当時大学病院での位置づけがはっきりしていませんでした。総合診療部としての明確な理念がないまま、各専門診療科が「うちの患者ではない」と紹介してくる患者をあつかう心療内科のような診療に甘んじていました。私は学生のころから臨床心理学や精神療法に関心を持っていたので、その関連書籍をいろいろ読んできました。しかし、それらを実際の診療に活かすとなると具体的な指導が必要です。 私のいた総合診療部では、心療内科的なトレーニングも経験もない医者それぞれが自己流の診療をしている、という状態でした。

あるときは「手のひらから虫がでてくる」と訴えて皮膚科から回されてくる患者が来ました。またあるときは「私は昭和天皇の隠し子だ」と言っている患者が送られてきたこともありました。どちらも本来は精神科が担当すべき患者です。しかし、さまざまな理由で患者に「精神科に受診しなさい」と言えないケースはまず総合診療部にまわすという暗黙のルールができていました。精神科の診療など未経験の私にとって、そうした患者を診療するのは正直しんどいことでした。私は、総合診療部の運営に明確なビジョンをもたず、こうした現状を放置している上司に不満を持っていました。

「心療内科的な患者」をどう扱うべきなのか、迷いながら忙しくしていたある日、ひとりの外国人が私の外来を受診しました。彼は工学部の大学院にサウジアラビアから留学してきた男子学生でした。問診票に彼が書いた文字はなく、受付スタッフの字で「消化器科からの紹介」とだけ書かれていました。診察室に入ってきた彼は、学生とはいえすでに30歳を超えているように見えました。私は英語で「日本語は話せますか?」と聞いてみましたが、彼は顔を横に振り、身振り手振りで日本語は話せないと伝えているようでした。

しかし、話せないのは日本語だけでなく、英語での会話も十分にはできないようでした。簡単な英単語は通じても、コミュニケーションがとれるほどの会話にはならないのです。はじめは「留学生のくせに英語も話せないのか」とあきれていましたが、自分の思いを必死に伝えようとする彼の姿を見てなんとなく気の毒になってきました。そして、彼の話しに耳を傾けるうちに、どうやら数か月前から胃の痛みと食欲不振が続き、消化器内科を受診したがよく話しを聴いてもらえないまま「総合診療部に行くように」といわれた、ということがわかりました。

はじめは緊張して表情に余裕がない彼でしたが、簡単な日本語と英単語を使って「会話」を続けていると、彼の表情が徐々に緩んでくるのが見て取れました。ときに冗談を交わしながら、今の彼にとって必要なのは、胃カメラなどの検査ではなくこうしたコミュニケーションなのではないかと思いました。とりあえず、胃の負担を軽減する薬を処方し、その効果を見ながら必要に応じて検査をすることにしました。診察室を出ていくときの彼には笑顔がありました。そのとき私は大学に総合診療部がある意味のひとつはこういうことかもしれないと思ったのでした。

一週間ほどして彼はまた外来にやってきました。私は薬を飲んでみて症状はよくなったかと尋ねてみました。すると彼は「症状の改善はあるがまだ十分ではない」と答えました。そこで今回は前回よりも少し立ち入った話しを聴くことにしました。暖かい中東とはまったく環境の異なる北海道での生活は、彼にとってはさぞかしストレスなのではないかと思ったからです。すると彼はいろいろなことを話してくれました。彼がサウジの王族の一員であり、妻と子供を母国に残してやってきたこと。今回の留学は「箔付け」のための遊学だったことなどが明らかになりました。

言葉の問題で大学院の授業にも、また実習にも支障がでていた彼にはそれなりにプレッシャーだったに違いありません。しかも、所属する研究室の教授は、一日に五回、メッカの方角に向けて礼拝しなければならないムスリムの務めに対しての配慮がなく、彼は自分にとってはそれが一番つらいことだと言いました。多くの日本人は信仰というものを日頃意識していません。ましてや、ムスリムの独特な日常に知識のある日本人など少数だと思います。教授がそんな典型的な日本人であれば、拝礼に対する配慮など想像もつかなかったのかもしれません。

私は工学部に電話をして、ムスリムである彼に礼拝するためのスペースと時間を設けてやってもらえないか頼みました。彼の症状を治すためには、薬を処方することよりも今の環境を整えてあげることの方が大切だと思ったからです。彼はその後しばらく外来に来ませんでした。私は彼のことをすっかり忘れていて、数か月ぶりに彼のカルテが私の手元に来たときになってようやく長期間来院がなかったことに気がつきました。彼が診察室に入って来るまでの間、私は「症状がよくならず別の病院に行ってしまったのだろうか」と思いをめぐらしていました。

診察室に入ってきた彼は笑顔でした。久しぶりに私と会った照れくささからか、それとも症状が良くなったからかわかりません。しかし、私の前に座った彼は「教授が礼拝する場所と時間を作ってくれた」とうれしそうでした。「胃の調子は?」と尋ねると、彼は「オーケイ、ダイジョウブ」とにこやかです。その様子を見て私はなぜかほっとしました。胸のつかえがとれたという感覚といってもいいでしょう。彼が胃の不調を訴えたのは、慣れない環境に住むストレスだけではなく、ムスリムとしての務めができなかったことに対するストレスが大きな原因だったのかもしれません。

だいぶ経って、彼はもう一度私の外来にやってきました。今度は付き添いの人と一緒でした。それは奥さんと小さな息子さんでした。二人は彼と日本で生活するために中東からやってきたのです。奥さんはヒジャブと呼ばれるスカーフをかぶっていました。サウジアラビアは中東でもとくに戒律の厳しい国であり、女性はアッバーヤという黒いマントを頭からすっぽりとかぶって顔を隠さなければいけないことを知っていた私は、奥さんのヒジャブを指さして「アッバーヤ、オーケイ?」と言いました。すると彼はとびっきりの笑顔で答えました。「ココ、ニホン。ダイジョウブ」。

美人の奥さんとかわいい坊ちゃんとの三人で暮らすことになった彼は、それ以来、私の外来を受診することはありませんでした。私が北大の総合診療部に入局したのは、特定の臓器・疾患に偏らない総合内科的な診療を身に着けたいと考えたためです。また同時に、そうした能力を身に着けた医師の養成が総合診療部の役割だとも思っていました。しかし、あの中東からの留学生を診療する経験を通して、心理的な側面から患者を理解し、問題解決の糸口を模索することも総合診療の重要な役割だと感じました。そしてその経験は今の私の診療にも生きています。

全国に次々と設立された総合診療部でしたが、その後、多くが大学病院の中での位置づけが定まらないまま統合あるいは廃止されてしまいました。北大の総合診療部もそのひとつです。それは総合診療の概念を具体化できなかった当時の指導的立場にある人たちの責任です。私は総合診療部に籍を置いていたときから「このままでは総合診療がなくなってしまう」と危惧していました。そしてそれは現実のものとなってしまいました。今でも「病気を診ずして病人を診よ」という言葉が恥ずかしくなるような医療をしばしば目にします。そのたびに総合診療部がなくなってしまった事実の重さを痛感します。

当たるも八卦(はっけ)

この記事は2016年8月21日にアップした原稿を修正・加筆してものです。医師会雑誌への投稿依頼があったのを機に、送られてくるスパムメイルが多かったこの原稿を書き直ししました。細かい部分は一部変更されていますが、大筋ではこれまで通りです。ご了承ください。

人は青年期にいろいろな悩みに直面するものです。そのときの不幸を嘆いたり、うまくいかないことにため息をついたり、そこはかとない不安を感じたりと内容はさまざまです。還暦を迎える私も、青年期には自分の進むべき道に迷っていた時期がありました。もともと悩みを相談できる友達もいませんでしたし、家族に相談したこともありません。ですから、青年期の不安や孤独を感じても、自分の中で出口を探しながらもがくことしかできませんでした。

青年期の悩みを解決する手がかりを求めていろいろな本を読みました。それは亀井勝一郎の人生論だったり、加藤諦三の心理学の本だったり、あるいは当時NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏が書いた「男は20代でなにをなすべきか」だったり。手当たり次第に読んでいました。もともと好きだった山本周五郎や井上靖、石川達三や司馬遼太郎の小説なども、心の琴線に触れる場所を探しながら読み返していました。きっと私なりに試行錯誤していたのだと思います。

そんなとき母親に「よく当たる手相占いをする人がいるから行ってみないか」と誘われました。それまで自分の悩みを親に打ち明けたことはなく、ひょっとして母は私の悩む姿を見かけて心配してくれたのかもしれません。それにしてもはじめは「手相かよ」と思いました。占いなどは抽象的なことを言って当たったように思わせる詐欺みたいなもの、といった印象を持っていたからです。しかし、溺れる者はわらをもつかみたくなるものです。私はその占い師の家に行ってみることにしました。

事前に手相を見てもらっていた母親は「とても当たるんだよ」と興奮気味です。でも、母が前のめりになればなるほど私は懐疑的な気分になりました。東急東横線の「学芸大学駅」で降り、住宅街を歩いていくと、まるでドラマに出てくるような木造モルタルの古いアパートに到着しました。そして、さび付いた外階段を二階へあがったところにその部屋がありました。にこやかに出迎えてくれた占い師は白髪に白いひげをたくわえた老人で、当時すでに80歳を超えているように見えました。

室内は小奇麗に片付いており、六畳ほどの古い部屋の四隅の柱には小さな神棚が祀ってありました。奥さんとおぼしき女性が、私たちが持参した菓子折りの礼を言いながら菓子を神棚にそなえました。母親がいうには、その占い師は商売で見ているのではなく、あくまでも趣味で占っているとのことでした。とはいえ、老人のその風貌といい、住んでいる部屋の雰囲気といい、小机の上の占い道具といい、占い師としては趣味の域を超えているように思えました。

「まずここに生年月日と名前を書いてごらん」。私は老人に言われるままに生年月日と名前を書きました。すると彼は、私が書いた文字を虫眼鏡でのぞきながら、広告チラシの裏紙に計算式を書き込んでは古びた表紙の本をなんども開いてなにかを書きとめていました。私はそんな老人の様子を見ながら「インチキ占い師じゃなさそうだ」と思い始めていました。しばらくして彼は「そろそろ手相を見せてもらおうか」と言いました。私は恐る恐る手を差し出しました。

老人は私の左右の手のひらを何度も見くらべながら、手のひらのしわを伸ばしたり、虫眼鏡をのぞき込んだりしていました。そして、ときどき私の顔を見てはまた手のひらを見るという動作を繰り返しました。まるで儀式のような作業をひととおり終えると、にこやかに私の方を向いて「なにについてお話しすればいいかな?」と自信ありげに言いました。私はすぐに本題に入ることをためらいました。なぜなら「抽象的な言い方でごまかす詐欺」という不信感がまだくすぶっていたからです。

しかし、老人は占い師らしく切り出しました。「なにか悩みがおありのようだが、君の中では結論が出ているんじゃないかな?」。そう言い切った彼は私の悩みを見通しているかのようでした。当時の私は医学部の受験を控えて迷いがありました。落ちたらどうしよう、落ち続けたらどうしよう。失敗したときのことを考えるたびに、医学部以外の無難な道を選んでしまいそうになっていました。でも、この老いた占い師の前に座っている私の中で、それらの不安が薄れていくのがわかりました。

「でも、君が出した結論は正しい。いろいろ悩んだと思うが、再来年にはいい年がやってくるから頑張りなさい」。すべてはこの言葉で決まりました。そして、彼は紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は北東の方角」と書いて私に渡しました。さらに続けました。「自宅周辺の白地図を買ってきなさい。そして、自宅から西の方角に線を引くと神社がある。そこの湧水をもらってきて飲みなさい」。「神社?湧き水?」。私はすっかり老人の言葉にひきつけられていました。

その占い師の部屋には1時間余りいたでしょうか。帰る途中で白地図を購入し、自宅でさっそく地図上に線を引いてみました。するとどうでしょう。真西に引いた直線のまさに線上、自宅から直線距離にして7㎞あまりのところに神社がありました。今までそんなところに神社があるなんて思ってもいませんでした。それをのぞいていた母は「すごいっ!」と興奮気味。もちろん私も驚いていました。いてもたってもいられなくなりその神社に行ってみることにしました。

その神社は静かな森にかこまれ、厳かな雰囲気の漂う場所にありました。想像していた以上に立派な神社です。私が訪れたとき、参拝者はおらず、ひとりの宮司が竹ぼうきで石畳を掃き清めていました。あたりを見渡しても、あの老人が言った湧き水をもらえそうな場所がありません。私は掃除をしている宮司に尋ねてみました。「すみません。この神社に湧き水はありますか」。するとその宮司は境内の奥を指さして言いました。「それならこの先の突き当りにありますよ」と。

宮司に教えられたとおり、神社の参道をまっすぐ歩き、境内の一番奥まで行ってみました。すると、その片隅にひっそりと湧き水の出る井戸がありました。その水をもらっていくための容器まで置いてあります。私はあの老人の占いが具体的に当たっているのに感心していました。神社の場所も、また、そこで湧き水をもらえることも言われたとおりだったのです。私は指示された通りに飲めばなにかいいことがあるのではないかと思いながら、その水を自宅に持って帰りました。

その後の私の人生はその占いの通りになりました。翌年の受験(北大以外の大学)には失敗したものの、次の年、北海道大学医学部に合格したのです。あのとき老人は私に渡した紙に「来年、注意の年。再来年、良運の年。吉報は北東の方角」と書きました。北大に受かったとき「占いは外れたなぁ」と思いました。札幌は自宅の北に位置していると思ったからです。しかし、よく調べてみると札幌は自宅の北東。最初の受験に失敗することも含めて実は「予言」通りだったのです。

あの時、「なんでもいいから質問しなさい」と言われた私は、真ん中でぷっつりと切れていた自分の生命線を見てもらいました。手相など信じていなかったとはいえ、生命線が途切れていることはやはり気になっていたのです。すると老人は微笑みながら言いました。「手相って変わるんだよ。大丈夫、この線は必ずつながるから」と。その後、ときどき確認していましたが、いつしか生命線はつながって、今では途切れていたことがわからないほどになっています。

今、振り返ると、あの占いはいろいろなことが的中していました。面白半分に「結婚は何歳になりますか」と尋ねてみたときのこと。老人は「一番いいのは40歳ぐらいのとき。だけど、その前に二度チャンスがある」と言いました。当時の若かった私は「40歳なんてオッサンの歳で結婚するのか?」と苦笑いをしたものです。しかし、老人に指摘された年齢にお見合いをしたのも当たりならば(しかも二回とも)、40歳ならぬ38歳で「運命の人(今の家内です)」と結婚したのも不思議な一致です。

人は「占いの結果に引きずられたんじゃないの?」と言います。でも、意識的にそうなろうとしても、なかなかなれるものではありません。思い通りの人生を歩める人もいるかもしれない。でも、ほとんどの人生は思い通りにはならぬもの。岐路に立たされた時の判断がベストだったかどうかはあとになってわかります。その時の判断が適切だったかどうかではなく、ひとつひとつの判断の積み重ねが人生そのものなのです。その意味でもあの占いはすごいと思います。

手相を見てくれた占い師はすでに「鬼籍の人」だと思います。でも、彼は私の記憶に残る「奇跡の人」でもあります。あの後、何人もの知り合いが私の話しを聞いて手相を見てもらいに行きました。しかし、何人かの人は「占いを信じない人の手相は見ない」と追い返されたと聞きます。なのに彼は、占いを信じていなかった私を「面白い人だから連れてきなさい」と母に言ったそうです。もしかするとあの老人は、その後、ほぼ自分が占った通りになる私の人生をすべてお見通しだったのでしょうか。

新型コロナの総括(1)

緊急事態宣言が解除されて一週間が過ぎました。今のところ、散発的なクラスターによる感染者は発生していますが、「第二波」というほどの再流行ではなさそうです。これまでの自粛によって社会のさまざまなところで影響がでました。緊急事態宣言が解除されたからといってそれらの影響がそう簡単に払拭されるわけではありません。以前の生活に一気に戻すのではなく、新型コロナの感染に注意を払いながら、慎重に、そして着実にこれまでの日常を取り戻すことが必要だと思います。

2020年が明けてからのこの半年、個人のレベルのみならず、日本社会というレベルでも、あるいは世界的なスケールにおいてもはじめての連続だったと思います。新興の感染症が一部の限定された地域ではなく、日本のあらゆる場所で拡大するなどということは近年経験したことはありません。外国をふくめてどこかに逃げることもできず、ひたすら自宅に引きこもるしかないという状況は、世界大戦が勃発した80年前以来ではないでしょうか。まさに感染症という人類の敵と全世界が戦った半年間でした(です)。

私たち日本人はこれまでどう行動したのか。今、それを振り返り、混乱と不安に翻弄された半年から学ぶ必要があります。しかし、疫学や感染症の問題は人の価値観だけで善し悪しは判断できません。科学的に正しいか、倫理的に正しいか、あるいは社会的に正しいか、判断する基準は人によって、立場によってさまざまです。これから書くことはあくまでも私個人の見解です。もちろん、私自身は理性的かつ常識的に感じたことを書いたつもりです。それを皆さんがどうお感じになるかはわかりませんが。

昨年の秋、中国の武漢市に発生したといわれる新型コロナウィルス(COVID-19)はまたたく間に中国全土に広がりました。感染拡大を防ぐため、中国共産党は民主主義国家では考えられないような強権を使って都市封鎖をし、患者を収容・隔離しました。その効果があってか、感染拡大はそののち徐々におさまっていきました(あれほど理想的な収束は多くの人に疑われていますが)。その間、新型コロナウィルスは世界中に拡散し、たくさんの人が亡くなりました。そして、それはまだ終わっていません。

幸い、日本は比較的早くから感染者を出したわりには感染者の拡大を抑えることに成功したように見えます。医療崩壊もかろうじて回避することができました。死亡者数もかなり少ないといってもいいと思います。こうした現実を、海外のメディアは「奇跡」と表現していますが、これは単なる「偶然」でも、「奇跡」でもありません。日本人全員がそれぞれの持ち場で努力をした「必然」です。もちろん問題点や課題はありました。第二波が懸念される今、そちらにも目を向けなければなりません。

多くの日本人が新型コロナウィルスが流行する以前から日常的にマスクをしていました。そうした光景は欧米の人たちからは奇異に見えていたようです。日本人が「他から感染症をうつされないようにマスクをしている」だったのに対して、欧米の人たちの目には「マスクをしている人は他の人に感染させるような病気にかかっているから」と映るようです。しかし、今回の新型コロナの流行によって、はからずも日本人の生活習慣がそれなりに有用だったことを全世界の人が知ることになりました。

日本では以前から「手洗いとうがい」というものが日常になっています。大人になるにつれてそうした習慣は薄れていくとしても、多くの日本人にそうした習慣が定着していたことが今回の感染拡大の抑制につながったことは想像にかたくありません。咳エチケットや人前では大声で話しをしないことなど、子どもの頃から躾けられている他人への配慮も感染者数を抑えた理由のひとつかもしれません。欧米のような、キスやハグといった他人との直接的な接触をともなう習慣がなかったのも幸いしました。

日本人に特有な集団性も見逃せません。周囲と強調し、決められたルールは守る。我慢と抑制を美徳と考える日本人の基質が効を奏した形です。ただ、そうした性質が強くなりすぎると、他人がマスクをしていなかったとき、あるいは自粛をしていないと感じたとき、勝手な行動をとっているように見えるとき、それには我慢がならないようです。ともするとそれが極端な同調圧力となって、いわゆる「自粛警察」と呼ばれる人たちを生み出します。自分とは異なる行動をする人を許せなくなる人たちです。

以前のブログでも書きましたが、原発事故のとき当院では放射能の危険性に不安を感じている患者さんのために、「放射能の危険性は冷静に考えよう。必要以上に怖がりすぎてはいけない」と書いたレジュメを配っていました。しかし、そんなレジュメを渡している私を許せなかったのか、誰かが「医者のくせに楽観的すぎる。恥を知れ」と書いたメモが当院のポストに投げ入れられました。これも「(自分と同じように)放射能を怖がるべきだ」と考えるある種の同調圧力だったと思います。

一方で、社会を支えていくという意識が日本人には希薄です。自らの感染のリスクを負いながら病院に勤める看護師の子どもの登園を断った保育所がありました。病院で診療にあたる医者がタクシーに乗車拒否をされ、自宅に帰れずに病院に寝泊まりしていたケースもありました。物流をになうトラックの運転手や宅急便の配達員に心ない言葉を投げつける人もいました。彼らがいなければ社会生活は維持できないにもかかわらず、彼らをいかにして支えるかという発想のない人が少なくなかったのです。

誰のお陰で社会が支えられているかに思いがいたらないことは悲しいことです。そうした人たちは「社会を支えている人たちを支えること」よりも「自分の身を守ること」でいっぱいいっぱいなのでしょう。他人のことを考える余裕すらない彼らを一方的には責められないかもしれません。しかし、新型コロナウィルスの感染拡大阻止のため、あるいは感染患者の治療・看護のため、さらには国民の日常生活を維持するために働いている人たちを支えることを、本来、私たちは優先的に考えなければならないことです。

感染者数が増えて世の中がにわかに騒がしくなってきたとき、対応にあたっている保健所の所長のメイルが届きました。そこには保健所がどのような厳しい状況に置かれているかが書かれてありました。感染するかもしれないという不安の中で増え続ける検査。陽性患者を収容しようにも病床がなく、患者の受け入れをお願いするためにいろいろな病院を訪問する毎日。自宅待機している陽性患者のフォローアップと急変した患者の対応。保健所全体が疲弊している様子が手にとるようにわかりました。

新型コロナに感染した重症肺炎の患者が収容されている病院の実情はもっと深刻でした。もし院内感染によってスタッフが欠ければ、さらに少ない人数で治療や看護にあたらなければなりません。スタッフの戦線離脱は他のスタッフへのさらなる負担増につながるのです。亡くなっていく患者、次から次へと入院してくる重症患者。いつ尽きるともしれない患者達を前にどんな気持ちで仕事をしていたかを思うと、黙々と働いていた医師や看護師、パラメディカルの人たちには感謝しかありません。

そうした病院の苦悩をよそに、「もっと検査をしろ」「早く検査をしろ」の声はときに強くなりました。現行のPCR検査の精度は決して高くなく、疑陽性や偽陰性の問題が無視できません。入院の必要がない疑陽性の人が病院のベッドを占拠し、本当の患者の治療を妨げます。偽陰性の患者は感染していないと勘違いをして、無自覚に感染を広めてしまいます。PCR検査は他の検査とともに事前確率を高めてから実施するものなのです。いうまでもなく「心配だからするもの」ではありません。

こうしてみると、新型コロナウィルスはまるで原発事故のときと同じ光景を映し出しました。自ら感染する危険性を背負いながら必死に検査をしている保健所の職員に「なんでもっとたくさん検査をしないんだ」と罵倒する国会議員たちは、原発事故の収束に向けて命がけで作業をする東電職員を一方的に怒鳴りつけている総理大臣の姿に重なります。新型コロナ感染患者の治療・看護にあたる人たちを「ばい菌扱い」する市民は、まるで原発事故とは無関係な東電職員に心ない言葉を吐き捨てる市民と重なります。

事態の収拾に奔走する人たちがいなければ社会は支えられないはずです。そうした人たちがいるからこそ私たちは日常と同じような生活を継続することができます。そのような大切なことも忘れ、頑張っている人たちに鞭を打つことができる人たち。「それなら自分でやってみたらどうだ」と言いたくても、彼らには抗議をする方法がありません。そんな理不尽に耐え、黙々と仕事を続ける彼らに私はプロフェッショナリズムを感じます。文句と愚痴とケチをつけてばかりの人間ほど自分からはなにもしないものです。

検査をむやみに増やさなかったからこそ感染拡大を最小限に抑えられたという側面も無視できません。感染の拡大は不正確な検査をふやしてもわかりません。そのかわり重症患者数の変化から推測することはできます。その推移を見れば、4月の下旬には感染は収束しつつあったことがわかります。「検査を増やせ」の声に押し切られ、「検査を受けたい人がいつでも受けられる」ように数を増やしていたらもっと大変なことになっていたかもしれません。それは検査をやりすぎた海外の事例をみれば明らかです。

不必要な検査をたくさん実施することになれば、検査をしている保健所や患者の治療をしている病院の負担を増やし、そこに働く人たちをさらに疲弊させることになります。延いては病院が機能不全をおこして医療崩壊をもたらすことにもつながります。「検査をしなければ感染状況を正確に知ることはできない」という絵空事を繰り返し、「国民の不安を解消するためにもっと検査を」とさけぶド素人の国会議員には困ったものです。検査の原則も知らない「ポピュリズムの政治主導」はただただ迷惑なだけです。

「ポピュリズムの政治主導」は福島原発事故の際にもありました。子どもの甲状腺癌を見つけるためにおこなわれたエコー検査がそれです。このエコー検査もPCR検査と同様に単独で浅く広くおこなう検査ではありません。つまり「癌を見つけるための全数検査」ではないのです。こうしたエコー検査は「甲状腺癌を疑った患者を絞り込むためのもの」です。結果としてわかったことは、「原発事故の影響はなかった」というごくあたりまえなことでした。莫大な費用をかけておこなったわりに、です。

TV局の意向や番組の趣旨を忖度してコメントする人たちを私は「専門家芸人」と呼んでいます。原発事故のときも「専門家芸人」は世の中をかきまわす困った存在でした。権威主義の人たちにとって、「専門家」あるいは「大学教授」という肩書きを持つ人からの情報は、それが正しいかどうかというよりも「権威のある人からの情報」として重要な意味をもちます。視聴者の不安をかき立てる関心事であればなおさらです。でも、不安をあおって視聴率をとっている番組が正しい情報をもたらすはずがありません。

「専門家」と思われている医師にもリテラシーが一般人と変わらない人がいました。新型コロナウィルスの検査で陽性を示した患者が増えたとたんに、慌ただしくクリニックを閉めてしまった医者がいました。あるいは、早々に「熱発患者お断り」の貼り紙をして熱発患者の診療から逃げ出してしまった医者もいました。かかりつけ医に放り出された患者達は、他の病院を受診することになります。それでなくても忙しい病院の負担をさらに増やしてしまうことを「敵前逃亡した医者たち」はどう思っていたのでしょうか。

                             (2)につづく

大好きな風景

いつも新型コロナの話しばかりを読まされては皆さんも気が滅入ってくるでしょうから、今回は「私の好きな風景」についてちょっとお話しします。とはいいながら、これまでのブログにも同じようなことを書いてきましたから、新鮮味はないかもしれませんけど。

すでにおわかりだと思いますが、私は北海道が、札幌が、そして北海道大学が大好きです。もしかすると「愛している」ってレベルかもしれません。なぜそんなに好きなのかわかりません。北大に合格するまで、北海道を訪れたことは高校のときの修学旅行で行っただけなのに、です。「I LOVE 北海道」になったきっかけを振り返ると、思い当たることといえばフジTVで放映されていたドラマ「北の国から」が影響したことぐらいでしょうか。

このドラマはそれまで生活していた東京を離れ、北海道の自然のなかで生活することになった父とふたりの子どもたちの物語。今、「日本映画専門チャンネル」というケーブルTVでデジタルリマスター版が再放送されています。私にとっての北海道の風景の原点はここにあります。東京で生まれ育った子供たちが、北海道の厳しい自然の中で少しづつ成長していく姿とともに、富良野の美しい四季の風景が私の心のなかに深く刻み込まれました。

でも、そんな大好きな北海道が新型コロナウィルスの影響を受け、道民のみなさんが不安な気持ちで生活していることには心が痛みます。心の故郷でもある北海道が一日も早くこれまでの日常生活を取り戻してほしいと思います。同時に、たくさんの人が北海道を訪れ、北海道の素晴らしさを感じてもらえる日がまたやってくることを。とはいえ、最近の感染状況は目に見えて改善しています。ひょっとすると緊急事態宣言が一部解除になる期待がでてきました。

【COVID-19】重症者数の減少はもはや一過性のものではなくなった観がある。死亡者の定義が替わってしまったため、その傾向を確認することはできない。しかし、14日におこなわれる緊急事態宣言の解除に向けての前提はクリアしていると思う。新型コロ…

瀬畠 克之さんの投稿 2020年5月10日日曜日
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これまで説明してきたように、新型コロナウィルスの感染の広まりは重症者の数の推移から予測することができます。そうした観点から今の状況を見ると、すでに感染のピークは過ぎ、病院の機能がマヒする「医療崩壊」の危機はすでに過去のものになりつつあるように感じます。もちろん場所によって、あるいは病院によってはまだまだ深刻な状況が続いているかもしれません。とはいえ、いずれはそうした改善を実感できるようになるのではないかと思います。

そうなれば、またいつもの日常がもどり、たくさんの人が北海道を訪れ、北海道のよさを実感してもらえるときがやってきます。日増しに暖かくなってくる北海道はとても美しいです。でも私は、春や夏よりもあえて北海道の厳しい冬に美しさがあるということも知ってもらいたいと思います。厳しい冬があるから春や夏の美しさがあるのです。北海道はただ単に「寒いだけ」ではありません。「寒いから」こその良さ、美しさがあるのです。

北海道の醍醐味はやはり冬です。例年の札幌は10月に初雪となり、12月下旬に根雪となって街はすっかり冬化粧をします。それから日ごとに気温はさがり、1月の「雪まつり」のころ一時的に寒さがゆるむものの、3月に雪解けを迎えるまでは長い長い冬となります。北海道の真冬の雪はまるで鳥の羽根が舞い降りてくるかのように降ってきます。札幌でも氷点下10℃ほどになって、二重になっている窓ガラスには氷の結晶が美しい紋様を描きます。

寒い朝、夜に積もった新雪をふみしめて歩くのが私は好きです。夜に大雪が降った翌朝は気持ちよく晴れていることが多く、青い空に粉雪がキラキラと舞ってまぶしいくらいです。みなさんは雪の結晶をまじかに見たことがあるでしょうか。一番寒い時期になると雪の結晶がそのままの空から落ちてきます。そして、地面に降り積もった雪の結晶に顔を近づけてよく見ると、陽の光に輝いてものすごくきれいです。そんな雪道を歩くと幸せな気持ちになります。

湿り気のない新雪は踏みしめると「キュッ、キュッ」と音を立てます。降ったばかりの雪道を歩くと、まるで真綿の上を歩いているかのようです。防寒服を着込んで完全武装していますから、「寒い」というよりもむしろ「顔にあたる風が痛い」といった方が正確です。新雪が降った朝はとても静かです。車の通りも少なく、聞こえるのは人の歩く音だけ。真っ白な息を吐きながらまぶしいほどの朝日をあびながら大学に向かうと、不思議とエネルギーがみなぎってきます。

夜の雪道を歩くのもいいものです。昼間とは違った風情があります。夜はいちだんと気温がさがるため人通りはまばらです。その家の窓もカーテンがひかれ、わずかなすきまから室内の光が漏れているだけ。そんな夜道を歩いているとなんとなくロマンチックな気持ちになります。星がまたたく空を見上げながら深呼吸をすると、どこからともなく石油ストーブの香りが漂ってきます。その香りが不思議と私を幸せな気持ちにさせます。

長い冬が終わると北海道には百花繚乱の春がやってきます。冬が厳しい分だけ春はとても華やかなものになります。例年の札幌であれば、ちょうど今頃、桜が満開となります。年によっては肌寒い中でのお花見、となることも少なくないのですが、地面には黄色いタンポポ、場所によっては梅が咲いていてきれいです。北大の構内(中央ローン)では恒例のジンギスカンで飲んだくれている学生たちもいます。新入生を迎えた構内でも春を感じることができます。

春におすすめなのが洞爺湖です。洞爺湖の周辺の桜並木はとても見事です。今年は無理でしょうが、いつか是非行かれるといいと思います。とくに洞爺湖の南側の山の斜面を登る道路から見る洞爺湖の桜は絶景だと思います。見下ろす湖畔の桜並木の向こうには、雪をいただく羊蹄山が遠く見えます。思い出に残る素晴らしい光景を目の当たりにすること請け合いです。洞爺湖周辺のドライブにはもってこいのコースだと思います。

年が明けてから私たちはずっと新型コロナウィルスに振り回されてきました。日本中の人が自粛を余儀なくされ、家のなかでじっと息をひそめる生活を強いられてきたのです。しかし、そうした異常ともいえる日常もいよいよ終わりに近づき、感染の収束に向かいはじめているように感じます。街を歩いている人たちも少しづつ明るく、活動的になってきたように思います。それはあたかも長い冬を経て、百花繚乱の春を迎えた人々のようです。

私はあえて言いたいと思います。これまでの5か月は決して無駄ではなかったと。我々日本人がこれまで経験したことのないこの5ヶ月間の生活はいろいろな教訓をあたえてくれたと思います。今まで気が付かなかったこともたくさん気が付かせてくれました。その意味で「この冬が厳しかった」という現実にも意義を見出したいものです。厳しい冬もよく見れば春や夏にはない美しさがある。それに気づけば冬もまたいいものだと感じることでしょう。

いろいろな場所で行われてきた自粛もすこしづつ解除されていくでしょう。その間、検査の陽性者が一時的に増えたりするかもしれません。しかし、うろたえる必要はありません。高齢者や抵抗力の弱っている人は除き、社会を支える多くの人はむしろいつもの日常にもどる努力をしなければなりません。これまでの生活をとりもどすにはかなりのエネルギーが必要ですが、これまで以上に素晴らしい「風景」を取り戻したいものです。

もうひとふんばりです。頑張りましょう。