心に残る患者(4)

母校にもどってはみたものの、千葉にいたときからいろいろな出来事があって、私は大学というものに少なからず失望していました。そんなこんながあって、私は大学を去り、小樽のとある療養型の病院に勤務することになりました。小樽は長崎と同様に「坂の街」でいたるところに坂道があります。私が勤務することになった病院は、それまであった場所から遠くに小樽築港を望む景色のよい場所に移転して建て直されたばかりでした。新しく広々とした建物の中からは四季折々の市内を見渡すことができました。

入院患者の多くは寝たきりや、重い認知症の高齢患者でした。大学での診療と比べると、この病院での仕事はずいぶんと内容の異なるものでした。ただベットに横たわるだけの寝たきり患者、末期癌や食事をまったく受け付けなくなった高齢患者を受け持ちながら、人生の最期をいかに迎えるか、人間の死にざまはどうあるべきなのかについて考える機会になりました。医師として命の幕引きのお手伝いをしながら、ときには理想的な医療と現実のはざまの中で人の一生がとてもちっぽけに見えたりすることもありました。

この病院で受け持っていた患者の中にM子さんという寝たきりになって10年以上になる方がいました。M子さんはこれまでの20年もの間になんども脳梗塞を繰り返してきました。その間、手足は固く折り曲げたまま拘縮し、ただ一点を見つめるままで声をかけてもまったく反応をしなくなっていました。そのM子さんのもとにはご主人が毎日お見舞いに来ていました。おふたりにはお子さんがおらず、ご主人は銀行を退職してからずっと奥さまの元に足を運ぶことを日課にしていたのでした。

とうに80歳を超えたおふたりが病室で過ごされる時間が唯一の夫婦の時間でした。ご主人はいつも決まった時間に花束をもって病院にやってきました。ときどき道端で摘んできた野草を片手に来院することもありました。奥さまの病室に活けるためです。そんな優しいご主人は奥さまとお話しするでもなく、枕元に置かれた椅子に腰を掛けて静かに本を読んで過ごしておられました。そして、ひとしきり奥様との時間を過ごすと、午後、定時に自宅にお帰りになるのです。

M子さんの病室は個室でしたが、いろいろな家財道具が置かれてあって、まるでご夫婦の部屋のようでした。そこで一日の多くを過ごされるご主人と私は、はじめは短いあいさつを交わす程度でしたが、次第にいろいろなお話しをうかがうようになっていました。ご主人が銀行を定年で退職した矢先に奥さまが脳梗塞に倒れてしまい、それ以降、20年以上もの長い間、ご主人はずっと奥さまの介護に明け暮れていたのだそうです。それでもご主人はそんな話しを決して苦労のようにお話しすることはありませんでした。

ある年のお正月のこと。状態の悪い受け持ち患者の様子を見に病院に来た私は、M子さんの病室にご主人がいらっしゃるのを見かけました。「お正月もいらっしゃったんですか?」。そう私が声をかけるとご主人はいつもの穏やかな笑みを浮かべながらうなづきました。病室に置かれたテレビはもっぱらご主人が見るためのものでしたが、そこでは正月恒例の箱根駅伝の中継が放送されていました。その中継を見ながら、ご主人は「私、箱根駅伝を走ったことがあるんですよ」とぽつりと言いました。

「そうなんですかぁ!」、そう言って驚く私には目もくれず、テレビで伝えられている中継を見ながらご主人は静かに語り始めました。かつて早稲田大学の学生だったご主人は4年間を駅伝に明け暮れ、最後の年に念願の箱根駅伝の走者になれたこと。このときに知り合った奥さまと結婚され、その後、生まれ故郷である小樽に戻って銀行に勤めたことなど、これまでお聞きしたことのなかったことを話してくれました。私はそのとき、ご主人は奥さまとの思い出の駅伝を二人で見るために病室へ来ているんだと思いました。

ご主人の優しさが悲しいくらい素敵に思えて、私はちょっと感動してしまいました。寝たきりの患者にはお見舞いの方が来ない人が少なからずいます。奥さんやご主人、あるいはお子さんなどがいるにも関わらず、です。はじめは足しげく通ってこられても、それが1年になり、2年になると足が遠くなってしまうのです。それぞれの生活があるのだからそれは仕方ないことです。しかし、そんな中で20年以上もこうして奥さまのお見舞いに通ってこられるご主人は本当に立派だなぁと私は感心していました。

そのM子さんも徐々に様態が悪くなり、とうとう臨終が近づいてきました。しかし、ご主人はこれまでと変わらず、毎日花束をもって病院にやってきました。ちょうどそのころ、ご主人も実は体調を崩されていたのでした。もともと肝炎ウィルスのキャリアーだったご主人は肝臓癌になってしまったのです。それでもご主人はすべてを受け入れているかのようになにもかもが普段通りでした。しばらくして奥さまが亡くなり、今度は自分が同じ部屋に入院することもすべてが予定されていたかのようでした。

ご主人は奥さまのあとを追うようにあっという間に亡くなってしまいました。病室には主を失った家財道具だけが残されていました。ご高齢となっていたお二人の身寄りと言えば、神奈川県に住んでいるご主人のお兄さまだけでした。ご主人の様態が悪い時になんどかお見舞いに来られましたが、お兄さんはご主人とは違って厳格な印象のある方でした。言葉少なく、弟の病室にしばらくいるとすぐに神奈川に戻っていきました。そんな様子に、この二人の兄弟にはなんとなく疎遠になっているような雰囲気が感じられました。

M子さん、そして、ご主人が亡くなり、病室に残された家財道具を引き取りにお兄さまが病院に来られました。私はお兄さまからご挨拶をいただきながら、弟さんの面影を感じさせるお兄さまの顔を見つめていました。何十年も離れて住んでいたせいか、亡くなった弟夫婦のことに感傷的になることもなく、冷静に受け止めているようでした。あのご主人もこのお兄さまも、お年は召していても理性的な雰囲気がありました。私はそのお兄さまに病室での弟ご夫婦の在りし日の様子をお話ししました。

「ふたりは仲がよかったですからね」とお兄さま。ところが、私がお正月にお二人で駅伝の中継をテレビで見ていたときのことをお話ししたとき、それまでのお兄さまの穏やかな表情が一変しました。「弟さんは駅伝の選手だったそうですね」と私がそう言うとお兄さまは、「もしかすると、早稲田大学の駅伝選手だったと言いましたか?」といぶかしげに言いました。私はその変わりように驚きながらうなずくと、お兄さまはすべてをお話しされました。

実は、弟さんは駅伝の選手でもなければ、早稲田大学卒業でもなかったのです。もちろん箱根駅伝を走ったこともなかったのです。私はM子さんのご主人から聞かされていたことの多くが「嘘」だったことに打ちのめされていました。毎日花束をもって病院に来ては、ただじっと寝ている奥さまの枕元に座って静かに本を読んでいたご主人。お正月に「思い出の箱根駅伝」を奥さまとご覧になっていたあのご主人が私に「嘘」を語っていたなんて。私はお兄さまが帰られたあともしばらくはショックから立ち直れませんでした。

でも、その後、いろいろな高齢患者の診療に関わり、さまざまな最期を看取る中でその「嘘」の受け止め方が少しづつ変わってきました。つまり、ご主人が語られたことの多くが偽りだったとしても、ご主人は奥さまとの生活を自己完結したのだからよかったではないかと思えるようになったのです。自分が「早稲田大学卒」の「元駅伝選手」で、「箱根駅伝が妻との思いで」であり、「20年以上もの間、妻の介護に残された人生を捧げた夫」を演じたご主人の生き方は決して「嘘」ではなかったのかもしれません。

人間の一生は短いということは齢五十を超えて実感としてわかってきました。1年はおろか、10年などあっという間です。その短い人生を泣いて暮らしても、不満をぶちまけながら暮らしても長さを同じです。同じ期間を生きるのであれば、できれば最期に自己完結できるような生き方をしたいものです。多くの寝たきりの高齢者が入院する病院で診療してきた私はそう思います。それは、M子さんのご主人が、私たちに語ってきた「嘘」を演じることで日常を自己完結できたのと同じように。

幸せの定義はひとそれぞれです。なにがよくて、なにが悪いという問題ではありません。大事なのは生きることからなにを学んでいくかだと思います。私は医師という仕事をしながら、さまざまな人の死にざま、生きざまを見ることができました。それらを通じて、ひとよりもより深く生きてこれた気がしています。なにげなく普通に生活していては知ることのできないことにも気が付けました。その意味で、M子さんとご主人の「人生」は私にとって貴重な「体験」であり美しい「おとぎ話」だったのではないかと思っています。

アメリカ滞在記(1)

私がはじめてアメリカに行ったのは2000年の1月のこと。アメリカ合衆国ミシガン州アナーバーにあるミシガン大学と共同研究をすることになり、その打ち合わせをするために渡米したのでした。実をいうと私はそれまで一度も海外旅行に行ったことがありませんでした。新婚旅行でさえ金沢だった私ははじめての国際線だったのです。それはアメリカに同伴する私の家内も同じで、二人ともアメリカ行きが決まると英会話のにわか勉強を開始したりしていました。でも、日本を離れるという当日は飛行機に乗り込む直前まであわただしかったのですが、共同研究の助手として参加する大学院の後輩と一緒だったせいかさほど緊張もしないで済みました。ミシガン大学には成田空港からシカゴ行きノースウェスト航空機に登場し、シカゴ空港で国内線に乗り換えてデトロイト空港まで行かなければなりません。本来であればデトロイトまでの直行便で行けばよかったのですが、運賃がずいぶん安かったシカゴからの国内線乗り継ぎで行くことにしました。しかし、そのセコい選択があとで大事件を招くことになりました。

飛行機の座席は満席。日本人ばかりかと思っていたらアメリカ人らしき白人にまじって、関西空港乗り換えの東洋人(あの「パワフルな団体」はどう見ても大陸系の中国人。旅行者という恰好ではなく移民って感じ)が多かったので少しホッとしたのを覚えています。これが白人ばかりだったらさぞかし緊張したでしょうけど。ノースウェスト航空だったのでCAは皆外国人でした。食事のとき、事前に英会話の本で勉強していた「chicken or beef?」と言いながらCAが機内をまわってきたときは感動しました。「これが『チキン オア ビーフ』かぁ」って。それでもネイティブスピーカーの英語の速さはやはりなかなかついてゆけず、私の耳に彼らの言葉はなかなか入ってきませんでした。実は私は高校でドイツ語を選択したので、英語は中学レベルで終わりでした(でも、大学は英語で受験しました。それもいろいろあってのことですが、いつかまたお話しします)。しかも、40歳となって初めて海外旅行をするまで耳から入る英語の勉強をしたことがなかったので、ある程度は話せても相手の言葉を聞き取るのが難しかったのです。

成田からシカゴまで12時間は長かったです。それに退屈でした。当然のことながらエコノミークラスでしたから足を伸ばして寝れるわけでもなく、一緒に乗った中国人達のように横になるスペースのある座席に移動して寝てしまうなんてこともできなかった私はほとんど眠れませんでした。それでも、アメリカの領空に入り、陸地が見えてきたとき、窓の外に広がる日本とは異なる風景に興奮しました。「は~るばる来たぜアメリカ~っ」って感じ。私も家内も後輩もシカゴ空港に着いたときはクタクタになっていましたが、そんな疲れを吹っ飛ばすような事件がおこりました。シカゴ空港はアメリカでも超過密なスケジュールで航空機が離発着することで有名です。私たちの乗った飛行機も案の定滑走路の渋滞によって上空で待たされることになりました。それでなくてもその影響で乗り継ぎ時間がどんどんなくなっていったのに、国際線ターミナルから国内線ターミナルへ移動するときに利用するモノレールが故障で運休していました。代行運転されているバスに乗り換えることになっていましたが、不案内な空港内でそのバス停すら見つからずにいました。

ちょうどそのとき、そばにいた警察官に「代行バスはどこで乗ればいいのか?」と尋ねました。その警官はにこやかに「便名は?」と聞き返してきました。その笑顔にちょっとだけホッとしながら私たちが乗る飛行機の便名を教えると、その警官はびっくりした表情に一変。「なんてこった。あと10分で出発じゃないか。急げっ!」と私たちを急き立てるようにバス停を指さしました。私たちはどのバスに乗ればいいのかもわからないまま、やってきたバスに飛び乗りました。しかし、そのバスを運転していた黒人のお姉さんの車内アナウンスの声がこれまた小さくて聞き取りにくくてしかも南部なまり。そのお姉さんになんども聞き返しながら降車場所を教えてもらい、国内線ターミナルに降りた私たちは全力疾走。それでも出発時刻はとうに過ぎていて、予定していた飛行機に乗るのを半ばあきらめながら走っていました。遠くに乗り場が見えたとき、待合所には誰もいませんでした。飛行機はもう飛び立ってしまったのか?そう思ったとき係員の声が。「早く、急げ。扉を閉めるぞ」。今まさに扉を閉めようとしているときだったのです。かくして三人は予定した飛行機に奇跡的に搭乗できたのでした。

デトロイト空港に着いたとき、シカゴでのゴタゴタのおかげでどっと疲れてしまいました。しかし、今度はミシガン大学のあるアナーバーまで行くレンタカーを借りなくてはいけません。空港に設置されているレンタカー会社の電話を探して営業所に電話をかけ、すでに予約しており、空港までバスで迎えに来てほしいことを伝えました。このころのミシガンは札幌並みか、それ以上の寒さでした。街の中を走る車はもくもくと水蒸気の雲を吐き出して走っていましたし、融雪のために塩がまかれた道路にはシャーベット状の雪と氷がわだちを作っていて真冬そのもの。しかし、アメリカの地に降り立ったことに少し興奮していた私は少しも寒くありませんでした。レンタカー会社で手続きを済ませ、借りたポンティアックを走らせると思わずアクセルを踏んでいました。「ちょっと、あぶな~いっ」と助手席の家内が悲鳴をあげます。「そんなにスピード出てないよ」。「違うってば。走行車線が反対なんだってば。ほらっ」と家内が指さす方から対向車がクラクションを鳴らしながら迫ってきます。そうです。ようやくミシガンに着いたことに興奮してしまった私は反対車線を軽快に走っていたのでした。

アナーバーには順調に着くことはできませんでした。レンタカーには今みたいにナビが付いているわけでもなく、日本のように微に入り細にいる案内表示板があるわけでもありません。ましてや横文字ばかりだった(あたりまえですが)ので道に迷ってしまい、地図を持たせた助手席の家内をナビゲーターにして走りながらなんども地元の人に道を尋ねるはめに。しかし、こちらの英語が怪しげなせいもあって、いつまでたっても目的地に到着しません。ようやくアナーバーの宿泊先であるホテルに着いたのはもうすっかり暗くなってからでした。ホテルの部屋に入るとどっと疲れが出てしまい、このまま寝てしまいたいくらいでした。でも、家内も一緒に連れてきた後輩も空腹だというので、近くのピザ屋に買い出しに行ってくることにしました。アメリカの夜道は危ないので家内はひとりでホテルで留守番。後輩と二人でピザ屋に行くことにしました。後輩は身長が180㎝あり、筋肉質でがっちりタイプ(ただ太ってるだけ?)。ひげ面で、ちょっと見はアラブ系にも見えるので用心棒にはもってこいでした。

ピザ屋に着くと、店の奥でアルバイトらしき白人のお兄ちゃんが数人で雑談をしていました。なぞのアラブ人を連れた東洋人が入ってきたせいか、私たちを見るお兄ちゃんたちの顔からは笑顔がさっと消えました。なんとか英語で注文しましたが、応対したお兄ちゃんは私になにか質問をしています。でもなんと聞かれているのか、私も後輩もわからない。何度か聞き返すうちに「おまえの名前はなんていうんだ」と言っているようでした。そこで私は「セバタ。セ・バ・タ」と繰り返しました。でも、お兄ちゃんは首をひねってばかりでわかってくれません。そのうち、お兄ちゃんは「お前の名前はボブだ。ボブだから」と念を押しました。私は「いや、違う。私の名前はセ・バ・タ」と言い直すのですが、お兄ちゃんは怪訝そうな顔をしてついには「いいんだ。お前はボブなんだ」と言い残して店の奥に行ってしまいました。しばらくすると、そのお兄ちゃんはピザの入った箱を持ってやってきました。「ボブ、できたぞ。うまいぞ」と言って私に箱を手渡しました。私は箱を受け取りながら「いや、私の名前は…」、そう言おうとするとお兄ちゃんは「オーケー。お前はボブ、ボブでいいんだ」とめんどくさそう。

ホテルに持って帰ったピザのまずかったこと。野菜はしなびていて、サラミは干からびているし、ピザの生地だって日本で食べるピザの方がどれだけ美味しいことか。お兄さんに「お前はボブ」だと言われ、東洋人だと思って馬鹿にされたように感じたこともピザを不味くしたのかもしれません。でも、あとで共同研究者のアメリカ人に聞いてみると、アメリカ人にとって「せばた」という名前は聞き取りが難しいとのこと。彼が言うには、唯一聞き取れた「ば」の破裂音から「ボブ」というなじみのある名前を仮の名前にして私を呼ぼうとしたのではないかということでした。お兄さんの苦肉の策だったというわけ。そんなこんなでいろいろなことがあったアメリカ旅行の一日目がようやく終わろうとしていました。その日の夜は爆睡してしまいましたが、次の日はいよいよ共同研究者を訪ねてミシガン大学に行くことに。興奮と感動の珍道中は私にとっては思い出深い貴重な体験でした。初めての海外旅行にしてはあまりにもハードすぎましたが。それでもこの体験でアメリカをより身近に感じることができましたし、アメリカの懐の深さというべきものも感じることができました。なにより、私自身のモチベーションを高める体験となりました。

アメリカ滞在記(2)」もご覧ください。

 

 

井の中の蛙

医師国家試験の合格発表がありました。今年は1985年以降で最高の合格率だそうです。わが母校・北海道大学の合格率はそれほど振るわなかったようですが、毎年あのような数字で相変わらずのマイペースです。ちなみに東京大学の合格率が90%を切っていて「あんなに優秀な人たちなのに」と不思議に思うかもしれません。でも、「医学部に入りたい」ということと「医師になりたい」あるいは「医学を学びたい」ということは必ずしも同じではないといういい証拠なのです。数学オリンピックや各種学術オリンピックで優勝するほどの学生が、医学部に流れて来てしまったばっかりに国試に落ちて宙ぶらりんになってしまったのでは頭脳を浪費したようなもの。本当に自分のやりたい学問の道に進んでいれば、彼らにとっても日本にとってもいいことなのにと残念です。それはともかく、6年間の長い学生生活の中でたくさんの履修科目の試験をクリアし、進級試験を切り抜け、卒業試験をパスした上での国家試験の合格。ほんとうにご苦労さまと言いたいです。と同時に、これからが本当の修練であることを肝に銘じて頑張ってほしいと思います。

ところで、医者には世間知らずと思われる人が少なくありません。それは大学を卒業するとすぐに「先生」と持ち上げられ、医療という特殊な世界にどっぷりつかってしまい社会常識を身に付ける機会がないまま大人になってしまうからかも知れません。私のまわりにも、自分の父親よりも年上の製薬会社の営業マンに「タメぐち」をきいてもなんとも思わない若い医者がいましたし、人に文句は言えても、日常の挨拶や、「ありがとう、ごめんなさい」という基本的なことも言えない医者もいました。医学生のとき、所属していたクラブの部室に外部から電話がかかってきたので、「○○は今不在ですが、ご用件はなんでしょうか?」と先輩を呼び捨てにしたところ、「先輩に向かって呼び捨てはないだろ」とその本人に注意されてびっくり。「社会ではそれが常識じゃありませんか」というと、「医療の世界と世間は違うんだ」とおよそ考えもおよばない言葉をぶつけてきた先輩もいて、世間知らずっているもんだなと思ったものです。一般社会とかけ離れているって意識をなかなか感じられない世界なんでしょう。

私がまだ北大病院で仕事をしていたころ、臨床実習でまわってきた学生に茶髪の男の子がいました。私たちのころとは違って、講義の時に最前列で缶コーヒーを飲める学生がいる時代になっていたので、茶髪の学生にはそれほど驚きませんでした(でも、白状すると「北大にもついに茶髪の学生かぁ」なんて思いました)。しかし、いくらなんでも臨床実習に茶髪はどうなんだろと思った私は、その学生に「その茶髪で実習にでてるのかい?」と疑問を投げかけてみました。するとその学生は表情も変えずに「はい、そうですけど」と。私はその平然とした様子に驚いたのですが、「もし、患者が『茶髪の医者にはかかりたくない』と言ったらどうするの?」と尋ねてみました。すると「そのときは僕以外の医者にかかるようにいいます」と。そして、「医者の力量と外見は関係ありませんから」と念を押す始末。私は唖然として、「それほどまで信念もって茶髪にしてるわけ?」とあきれていると、「いいえ、茶髪ってそれくらい大した問題じゃないってことです」とも。さすが北大生。妙に感心してしまい、それ以上何も言えませんでした。

限られた世界に身をおいていると、一般社会がどうなっているかに気が付かないばかりか、それが常識はずれを飛び越えて非常識であることにすら気がつきません。私が研修したのは公的な病院だったせいか、業者からの接待は厳しく制限されていました。私が医学部を卒業したころは、病院と企業の癒着が社会問題になりつつある時でした。ですから、当時は製薬会社が提供するボールペンすらもらってはいけないような雰囲気がありました。だからというわけではありませんが、医局の歓送迎会や忘年会・新年会は先生方の割り勘であり、製薬会社の営業マンが支払いをするなんてこともなく、私達研修医の費用でさえも先生たちが支払ってくれました。ところが、私立大学の医局に移ったとたんにそれらのほとんどが業者の支払いになっていることにびっくり。ある先生などは、病棟の看護婦さん達に「今日、夕飯をごちそうするから食べに行かない?」と誘っているので、「あの先生は太っ腹だな」と感心していたら現場には製薬会社の営業マンが待っていた、なんてセコい話しもありました。

こんな昔の光景は今は見られないのかもしれませんが、大学を卒業してからずっとそんな環境にいたら、それが一般社会では常識はずれだってことにも気がつかないんだなぁと当時思ったものです。最近、公務員が他の省庁や一般企業に出向するのが当たり前になっていますが、これもそうした弊害を防ぐためのものなのでしょう。その意味で、いちど社会人を経験した人を医学部に学士入学させることはいいことだと思います。一方で、医学部の学生のうちに一定期間だけ医師以外の職種を経験させることも重要です。学生のときに所属していたクラブの実習でいわゆる老人ホームでケアワーカーの仕事をしたことがあります。そのとき、当時の私のような若い男性に下の世話をさせることを嫌がるおばあさんがいたこと、その施設で働くケアワーカーの仕事がどれだけ大変で大切なことかということも、病院とは異なる場所で、医療従事者とは異なる視点を持てたからこその気づきでした。そのことがあってか、以後、病院で働いていても他の職種の人達のことを身近に感じることができたと思っています。

そういう私にも恥ずかしいエピソードがあります。二年間の臨床研修を終えた私は、私立大学の医局に入局することになりました。その医局の新入局員の先生たちと私は主任教授の自宅に招待されたのでした。教授のお宅は東京都千代田区一番町という都心の中でもイギリス大使館などがある静かな高級住宅地にありました。当時、オートロックなど見たことがなかった私はマンションの入り口の前に立っても扉がまったく開かないことに戸惑っていました。すると、中から出てきた住人らしき人に、それがオートロックドアといい、住民の部屋の番号をボタンで押して施錠を解除してもらわなければ入れないことを教えてもらいました。教授のお宅に入ると、すでに10人はいるであろう新入局員のほぼ全員がすでに勢ぞろい。「遅くなってすみません」といって私が部屋に入るとなにかただならぬ雰囲気が漂っています。遅れて入ってきた私を見るみんなの目が点になっているのを私は見逃しませんでした。みんなの視線を感じつつ周囲を見渡すと、すぐにその理由がわかりました。なんと勢ぞろいしているみんなは背広の正装、私はジーンズにボタンダウンシャツ姿だったのです。

自宅に招待してくださった教授ですらネクタイにスーツ。奥さまもよそ行きの服装です。すっかり恐縮している私に同僚が「せばた先生らしいよ」と言ってくれましたが慰めになっていません。でも、もうひとりの入局員がまだ来ていないことを教えてもらいました。実はその先生は私以上に正装をしそうになかったのです。私はラフな格好をしたもうひとりの仲間がやってくるのを心ひそかに期待して待っていました。しかし、その期待はもろくも崩れ去りました。その「正装しそうもない先生」ですらスーツ姿だったからです。自己紹介ののちに奥さまの手料理の数々に舌鼓を打ちながらの歓談でしたが、私はこの場から一刻も早く姿を消したい気持ちを抑えながら歓迎会を終えました。最後に教授ご夫妻を真ん中にして新入局員全員で記念写真の撮影。ところが、後日、病院で教授から直々に手渡されたその写真を見てまたまたびっくり。教授が背筋を伸ばしてかしこまっている横で、私は大胆不敵に足を組んでニヤけているではありませんか。以後、私は悟りました。自分はこういう世界・雰囲気にまったくなじまないことを。

「井の中の蛙、大海を知らず」という言葉があります。大海を知って成長する蛙もいますが、その大海の水があわずに、「やっぱり池の水の方がいいや」と開き直る蛙もいるのです。池に生活する蛙にとってあえて大海を知る必要があるか、という言い方もできます。どっちがどうと単純に割り切れないことではありますが、親から「おまえは変わってる」「お前には常識がない」と言われ続けてきた私にふさわしいエピソードでした。個人的にはいろんな蛙がいていいんだと思うんだけどなぁ・・・。

 

心に残る患者(3)

医学部での講義でしばしば「患者は生きた教科書」という言葉を耳にします。その意味は、医学書に書いてある知識だけでなく、目の前の「病んだひとりの人間」と向き合いなさいという意味をもっています。なるほど医学書にはいろいろな疾患に関する知識が網羅されています。しかし、現実の診療の現場でそれらの病に苦しむ患者は必ずしも教科書通りではなく、ひとりひとりのバリエーションがあることに気が付きます。それぞれの患者がどんなことに苦しみ、悩んでいるかについては当然教科書には書かれていません。そうしたことすべてが先ほどの「患者は生きた教科書」という言葉には込められています。

私自身も振り返ってみると、医学書から学んだことよりも、実際に患者さんから学んだことの方が多かったかもしれません。さまざまな患者と接してみて、医者として成長していったという側面もあります。もちろんいい思い出ばかりではありません。苦い経験や悲しい思いもたくさんしました。医者としてはそうした思い出の方が多いようにも感じます。しかし、そのような経験や思い出、履歴を重ねていくうちに医師として洗練されていくのかもしれません。その意味でたくさんの患者さんの思い出は私にとって財産です。

(1)研修医としての試練をあたえてくれたTさん
Tさんは当時80歳を超えていました。いわゆる江戸指物の職人で東京都から表彰されたということを誇りにしている人でした。職人としてはかなりの腕前なのでしょうが、その分だけ厳しい人でもありました。まだ医者になりたての新人研修医であった私が慣れない手つきで点滴をしようと苦戦していると、眉をひそめながら痛そうに私をにらみつけている、そんな人でした。よりによってTさんは誰よりも針刺しが難しい血管をしていました。点滴に慣れている看護婦さんでさえも一度では成功しないのですから新人研修医にうまく針が入るはずがありません。何度刺しても針は血管に当たらず、針先をさぐっているとTさんは「いててて、痛った~っ。お~痛てっ」と大声で叫びます。ちょっと大げさだなと思うくらいの痛がり方でしたが、こっちは冷汗をかきながら心の中で「早く血管にあたってくれ」と祈るような気持ちで処置をしていました。しかし、結局はあえなく失敗。するとTさんはため息をつきながら「ま~たダメか。おまえは下手くそだな~」と憎々しくつぶやきました。「すみません。もう一度やらせてください」と病室を逃げ出したい気持ちを抑えての再チャレンジ。ところが、針が血管に入っても、点滴を流すと血管の外に漏れだしてまた失敗。「もういい。点滴はやめてくれっ」と私をにらみながら吐き捨てるようにTさんは言いました。誰も代わってくれませんから、「またあとでもう一回やらせてください」といって部屋を逃げるように退散。そんなことの繰り返しでした。でも、毎日、そして何度もそんなことをやっていくうちにだんだん点滴の針がうまく入るようになってきます。一発で針が血管を当てたときなどは、Tさんは私以上にうれしそうでした。「だいぶうまくなったじゃないか」と。あの厳しかったTさんがそういってくれるようになったころには、Tさんの点滴をしに行くのが楽しみなくらいになりました。そのときは気づきませんでしたが、患者の苦痛を乗り越えて医者は成長するんだと今改めて思います。Tさんには申し訳なかったのですが、本当に感謝、感謝です。

(2)思い上がりを静かに叱ってくれたMさん
研修医2年目となった私はそれなりに医者らしくなり、少し自信を持ち始めたころでした。新人の研修医も入っていっちょ前に指導医のようなこともやっていました。新人研修医と一緒に担当していたMさんは肺癌の脊椎転移でほぼ寝たきりでした。原疾患である肺癌のせいもあってだいぶやせてはいましたが、それでもかつては「大いに飲み、大いに働く」といったモーレツサラリーマンだったことを思わせるのに十分な雰囲気をMさんは持っていました。脊椎に転移した癌による痛みもあるでしょうに、私達が点滴をしに病室に入ると張りのある元気な声であいさつをしてくれました。それはあたかも研修医に「頑張れよ」といってくれているようで、むしろ病室を訪れる私の方が元気をもらっていました。2年目の研修医となり、それなりにある程度のことができるようになっていた私は、あるときMさんの点滴をするのにまごつく新人にイライラしていました。そして、何度もしくじるその新人研修医をMさんの前で叱ってしまったのです。Mさんがその様子をどう見ていたのかはわかりませんが、そのときの私はさぞかし傲慢に見えていたんだと思います。そのあと、なにかの用事で私ひとりでMさんの病室を訪れたとき、Mさんは静かに私に言いました。「先生、あの先生を叱るのはやめてください」。私はハッとしました。「彼もなにをどうしたらいいのかまだわからないのです。私も部下をさんざん怒鳴ってきましたが、なんて傲慢だったんだって今頃になってわかりました。もう遅すぎますけどね」。私はなんとか笑顔を作ってお礼を言いましたが、心の中は恥ずかしい思いでいっぱいでした。そのときはじめて自分の傲慢さに気が付いたからです。しかも、Mさんは新人研修医と一緒のときではなく、私ひとりのときにそんなことを話してくれたのでいっそう心に響きました。以来、私はいつも謙虚であろうと思いました。そして、研修医を指導するのではなく、一緒に学ぼうと心に誓いました。それに気が付かせてくれたMさんにも感謝、感謝です。

(3)明治生まれの気骨と品を教えてくれたKさんとSさん
研修医の時に担当したふたりの明治生まれの患者も思い出深い方々です。ひとりは元関東軍参謀だったKさん。関東軍とは大東亜戦争(第二次世界大戦)のとき、遼東半島から満州を守っていた帝国陸軍の総軍のことです。その後、日本が戦争にひきづりこまれるきっかけとなった満州事変にも関与したとされる歴上有名な軍隊です。その参謀をしていたというので、はじめはどれだけ厳しくて怖い人かと思っていたのですが、Kさんはいつももの静かで優しい「おじいちゃん」でした。私が研修していた東京逓信病院は、昔、関東軍の作戦参謀をしていた石原莞爾中将が入院していた病院でもありました。Kさんが石原中将と知り合いだったのかどうかはわかりませんが、そのこともあっての入院だったのかもしれません。お見舞いにくる人たちは皆そうそうたる人ばかりで、来客は皆、Kさんの前では直立不動で話しをしていました。いつもは「優しいおじいちゃん」だったKさんも来客のときばかりは背筋をピッと伸ばしていて、その姿はまさしく関東軍の参謀そのものといった雰囲気を漂わせていました。幕末から明治維新にかけての歴史が好きで、今の日本の礎を築いた明治の人々に特別な思いをもっている私にとってKさんはまさしく「尊敬すべき明治人」。明治の気骨を感じる人でした。

思い出に残る明治生まれのSさんも忘れられません。Sさんは明治生まれにして横浜の女学校に通ったという才女でした。品のよい顔立ちもいかにも横浜生まれの「おばあさま」。Sさんのふたりの息子さんも大手企業の社長と重役でした。担当した私は折に触れてSさんとする世間話しがとても楽しみでした。どんなときでも穏やかに語りかけるようにお話しするSさんはなんとなく皇族の方々のように見えました。あるとき、Sさんが私に言いました。「先生は結婚してらっしゃるのかしら」。世間話しのときのことですから、私はさらっと「いいえ」と受け流したのですが、Sさんはさらに「お付き合いしている方は?」と尋ねてきました。「いえ、研修医はそんな身分じゃありませんから」と言うと、突然「うちの孫娘とお見合いしてみません?」と。あまりにも突然だったのですが、ずいぶん前から私にお孫さんの話しを切り出すタイミングを探っていた、とのこと。私は「Sさんのお孫さんとなんてめっそうもない」と丁重にお断りしましたが、粗雑に育ったきた私にとっては謙遜ではなく、心底そう思っていました。あんなに品のある人の孫娘さんってどんな人だろうと関心はありましたけど。Sさんは女学生が袴をはいて自転車に乗った主人公が出てくる「はいからさんが通る」という漫画の世界を彷彿とさせる上品で明るい人でした。私がもの心ついたころにはもうふたりの祖母は亡くなっていたので、その分だけ心に残る「おばあさま」でもありました。

 

今の自分につながっている記憶に残る人たちはまだまだたくさんいます。でも、その多くはもうこの世にはいません。そうした人たちが今の私を見てなんというでしょうか。褒めてくれるでしょうか。それとも、ダメ出しされてしまうでしょうか。研修医と言う感受性の強い時期に巡り合った人たちは今の私の財産です。今でもときどきあのときに戻りたいと思うことがあります。いろいろな可能性を秘め、希望にあふれ、なにもかもが新鮮だったあのころ。苦労をひとつひとつ乗り越えては成長を実感できたあのときの胸のときめきが今はとても懐かしく感じます。そんなことを考えるのも私が歳をとった証拠でしょうけど。

※「心に残る患者(4)」もお読みください。

あなたの知らない世界

私が子どものころ、夏になるとテレビで「あなたの知らない世界」と題した番組がよく放送されていました。心霊スポットや怪奇現象を紹介する番組でした。夏の風物詩みたいなものですが、私は怖いもの見たさで必ずチャンネルをあわせていました。その後、大人になるにつれその手の番組にはだんだん興味を持たなくなっていきましたが、一方で不思議な体験を何度かするようになりました。

勤務医をしていたとき、「俺には霊が見える」と公言する先輩医師がいました。「病院には霊がうろつく場所が決まっていて、あそこにはこんな霊がいるんだ」といつも得意そうに話していました。その先生によれば、「霊が見えるかどうかは、その人間がもっている霊的パワーの強さが影響する。そのパワーが強い人間に霊は寄ってくる」のだそうです。人が集まるとその先輩は必ず自分の不思議体験を話してくれましたが、多くの同僚は冷ややかな目でその話しを聞いていました。

私自身は医学部に入るころから、不思議な体験をするようになっていました。一番強烈な体験は解剖実習の初日に起こりました。緊張のせいか、要領を得なかった実習の初日は夕方遅くまでずれ込み、疲れてアパートに帰ってきた私はいつもより早めに布団に入りました。肉体的にも精神的にも疲れていたのであっという間に寝てしまったのでした。ところが、何時ごろかふと目が覚めてしまいました。そのとき、あたまの中はすっきりと覚醒していましたが、目を開けることはできるものの手足はまったく動きません。瞬間的に私は「金縛りだ」と思いました。

金縛りなんてそれまで経験したことがありませんでした。そのときははっきり覚醒していて、恐怖心というよりも、なんだか新鮮な気持ちがしました。「これが金縛りかぁ」なんてちょっぴり感動するような気持ちとでもいいましょうか。しかし、そんな甘っちょろい気持ちはすぐに吹っ飛んでしまいました。なぜなら、私の枕元に置いてあった小さな冷蔵庫の脇に、白い着物を着た老人がこちらに背を向けて正座していたからです。私はド近眼なので、眼鏡をかけなければ布団の中からははっきりは見えないのですが、白い着物の老人は確かにそこにいました。

なにせ体が動かないものですから逃げようにも逃げることもできず、声を出そうにも出せない状態でした。そこで私はとっさに目を閉じて念仏を唱えることにしました。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と心の中で繰り返してみました。ところが、念仏をなんども唱えてもその老人は姿を消すことはありません。身じろぎひとつせず後ろを向いてじっと座っているのです。ところが、うっかり「この後ろ姿の老人が私の方に振り返ったら」などと想像してしまいました。すると、なんとなくその老人が振り向きそうに思えてきて、私は恐怖のどん底へ突き落されてしまいました。私はただその恐怖に耐え、目を固く閉じて何度も念仏を唱えることしかできませんでした。そのうち私はいつの間にか眠ってしまいました。

翌日、友人にこのことを話すと、友人はゲラゲラ笑いながら私の話しを聞いていましたが、ふと真顔になってこう言いました。「それ、この解剖体の霊かも?」。そういわれてみると確かに今解剖をしている解剖体と年格好が同じです。私たちは目を丸くしてお互いの顔を見合わせました。解剖実習は自ら献体を申し出られた篤志家のみなさんのご厚意によるものです。当然のことながら、実習期間中、毎日合掌することになっていました。この一件があってからというもの、私はそれまで以上に熱心に手を合わせ、解剖体に心から感謝の気持ちを捧げながら実習を続けました。以後、あの老人が再び姿を現すことはありませんでした。

強烈な体験がもうひとつあります。それは勤務医をしていたころのお話しです。病院での仕事はまず入院患者の朝の回診から始まります。そして、検査の追加をオーダーしたら外来に行って診療をします。外来ではたくさんの患者を診なければならず、午前中の診療が午後遅い時間までずれ込むことも少なくありませんでした。その日もいつものように長い外来を終え、医局で簡単な昼食を済ませて病棟に向かいました。医局を出て、エレベータに乗り込み、担当している階のボタンを押して壁に寄りかかって目を閉じるともう病棟に到着です。

エレベータの扉の向こうからナースコールの音やモニター(重症患者の心臓の動きを監視する装置)の音、あわただしく人が行きかう音が聴こえてきます。当時、私が担当していた病棟にはさまざまな患者が入院していました。病気の種類も重さもさまざまです。ですから、いつもどこかで患者の容態が急変し、せわしくスタッフが動き回っていました。ほどなくして扉が開くとナースステーションの奥にある処置室を頻繁に人が出入りしていました。容態が急変した患者でもいるのかな、と思った瞬間、誰かとぶつかりそうになりました。

「すみません」。そう言ってぶつかりそうになったその相手を見ると、私が担当する患者と同室の若い女性患者でした。血液疾患の治療のため入院していたのですが、骨髄移植後の経過が良くなく、いつも深々と帽子をかぶり、マスクをしてベットに横になっていました。今日は調子がいいのか、いつもの帽子とマスク姿でどこか売店にでも行くようでした。彼女とは直接話しをしたことはありませんでしたが、私が「こんにちは」と声をかけて道をあけると、彼女は軽く会釈をしてエレベータに乗り込んでいきました。

私はナースステーションの奥のあわただしさが気になり、そちらの方に歩いて行きました。処置室の中をのぞいた私は「急変ですか?」と尋ねました。処置室では救命措置がおこなわれているようで、医師が心臓マッサージを続けており、狭い処置室は緊張感が漂っていました。私が加わったところで邪魔になるだけのようにも思えましたが、「なにかお手伝いしましょうか?」と患者に近づこうとした瞬間、私は愕然としました。なんと、その救命措置を受けている患者はついさっきエレベータの前ですれ違ったあの患者だったのです。

「○○さんとはさっきエレベータの前ですれ違ったばかりですよっ!」。救命処置中にもかかわらず思わず私はそう叫んでしまいました。みんなはびっくりしたようにこちらを見ました。それから私も加わって救命処置が続けられましたが、結局彼女を助けることはできませんでした。その後、しばらくはさっきのエレベータ前での風景が私のあたまから離れませんでした。そのときの彼女の表情はうかがい知ることはできませんでしたが、それでも苦しい病気から解放され、天国に旅立って行ったのかもしれません。

まだまだ不思議な体験はあります。なかには私の勘違いや思い込みもあるんでしょうけど。でも、やはり科学では証明できない「私たちの知らない世界」があると思います。私がはじめて当直に行った病院では、いつになく急変が多くなるそうです(ちなみに私の医療行為が原因ではありませんので誤解なきよう)。我々はこういう状態を「荒れる」というのですが、そうした現象は既出の先輩医師的にいえば、「おまえの霊的エネルギーが強いから」ということになるのかもしれません。そういえば、今でもうちの医院で患者を診ていると時々・・・。もうこのくらいでやめておきます。

内科を選んだ理由

「どうして医者になったのですか?」という質問とともに、「どうして内科を選んだのですか?」と聞かれることがあります(「医者になる」もご覧ください)。

医学部では内科や外科、小児科や産婦人科、皮膚科、耳鼻科、眼科などすべての診療科について学びます。「内科志望だから内科だけ勉強」というわけではないのです。私が卒業したのはだいぶ昔ですから、今の医学教育とはずいぶん違うのですが、私のときはまだ大学入学後の2年間に外国語、数学、物理学や化学などの教養科目を学び(教養学部医学進学課程といいます)、その後、医学部に進学してようやく医学を学ぶという時代でした。

教養の2年間はまったく医学に触れることはありません。晴れて医学部に進学し、教養学部の学生から医学部の学生になってはじめて医学書を手にするのです。このとき「医学を勉強するんだ」ということを実感します。でも、そんな新鮮な気持ちになったのもつかの間。多くの学生はすぐにいつものダラケタ生活に戻り、広い階段教室にあれだけいた学生たちも潮が引いたようにいなくなり、前列付近にまじめな学生たちが陣取り、後方の座席には居眠りをしたり、新聞を読む学生。その間はマバラというありさまになります。

今は出席管理がとても厳しくなっているようですが、私たちのころは友達の分まで出席カードをもらって提出したり、欠席した友達になりすまして「代返(身代わりの返事)」したりと、出席についてはかなりルーズでした。それを象徴する逸話があります。ある学生が出席不足で単位がとれなくなり、担当教官にお赦しを乞いに行きました。すると教官は「私は欠席したことを問題だといっているわけではない。代返をしてもらえる友達がいないことが問題だと言っているんだよ」などと諭された、というもの。昔の話しです。

医学部は4年間あり、最初の2年間は解剖学や生理学、薬理学や病理学などの基礎医学を学びます。このなかでも一番のイベントは解剖実習。解剖実習の初日。ひんやりとした実習室で、学生たちは白衣の上からビニール製のエプロンをかけ、手袋にマスクの出で立ちで集合します。自分たちの前には白い布がかけられている解剖用のご遺体。このとき学生たちの緊張感はピークに達します。そして、指導教官の号令のもとで一斉に黙とう。このときの緊張感と静けさは今でも忘れません。この儀礼が「医者になるんだ」ということを一番実感する瞬間だと思います。

医学部も後半になると附属病院での実習がはじまります。このころ、学生はそろそろどの診療科に進もうかと考え始めます。日々の勉強を通じて興味をもった診療科が、実際に自分にあっているかどうかを臨床実習で確かめることができるのです。実習がはじまった時点で私が興味をもっていたのは「周産期医療」でした。周産期というのは「妊娠22週から生後7日未満」の期間を指します。その期間の胎児あるいは新生児の管理(もちろん母体も含めて)をする仕事が周産期医療という産婦人科領域の医療です。

当時、私は試験管を振る研究はもちろん、外科的な手技も身に着けたい、薬物による治療・コントロールもしたいと考えていました。とくに、解剖学の教官と発生学の教科書の輪読会をやっていたこともあり、周産期でのリスクが高い胎児・新生児の管理に関心を持っていました。しかし、当時は「産婦人科を希望」なんて口にすると誤解(?)されるのではないかと思い、誰にも口外はしていませんでした(産婦人科の先生、ごめんなさい)。今であればなんとも思わないことではありますけど。

ところが、産婦人科の実習で立ち会ったある帝王切開のときのこと。出産を目前にして胎児の心音が急に弱くなったための緊急手術でした。お母さんは腰椎麻酔ですから意識ははっきりしています。執刀した先生もちょっと緊張していました。そのあわただしい光景に私はただ圧倒されるのみでした。しかし、お母さんのおなかを切開して取り出した赤ちゃんにはまったく反応がありませんでした。突然、先生は私に「アプガールは?」とたずねてきました。とっさに聞かれた私は混乱していました。

「アプガールスコア」とは新生児の出産時の状況をあらわす点数のことです。私は気を取り直して答えました。「2点…」。2点ということは重症の仮死状態にあることをあらわしています。目の前にいるお母さんは不安そうにこちらを見ています。なのにそんなことをこのお母さんの前で言ってもいいんだろうかと躊躇しました。先生は私の返事に反応することなく蘇生をはじめました。でも、しばらく蘇生をしていましたが、なかなか呼吸がはじまりません。ついに先生はぽつりと「ダメだな、こりゃ」とつぶやきました。

そのとき私は大きなショックをうけました。生まれたばかりの赤ちゃんが目の前で死んでしまったこともショックでしたが、不安そうなお母さんの前でこんな残酷な言葉がつぶやかれたことがなによりショックだったのです。このことをきっかけに産婦人科への興味が急速に薄れていきました。不安そうな母親の前であんなことを平気でつぶやく医者のいる医局などへ誰が入るものか、という気持ちだったのです。その後、もう二度と産婦人科への興味が戻ることはありませんでした。

そこで私は考えました。周産期はなにも産科だけの仕事じゃない。そうだ、小児科があるじゃないかと思ったのです。出産前後の胎児・新生児の管理や研究がしたかったのに、気持ちはいつの間にか小児科に移っていました。しかし、ここでも実習がブレーキになりました。それは大学病院の外来に小児患者を連れてくる若いお母さんたちの様子がなんとも身勝手すぎるように見えたからです。「小児科は子供の親を診ろ」といわれます。子供の病気を診るとともにその親の心のケアもしろ、という意味です。

大学病院の小児科に通う子供たちは大きな病気を抱えていることが多い。となれば子どもたち自身はもちろん、付き添ってくるお母さんたちも大きな不安を抱えているのです。小児科外来で神経質そうに外来主治医に質問し、ときには主治医に食ってかかるような若い母親の様子を見ていたら、「あんな親たちを相手にするのはごめんだ」となったわけです。今思えば、大きな病気を抱えているのですからそうなるのも当然だと理解できます。しかし、当時、学生だった自分にはそれが「わがままな母親」としか見えなかったのです。

結局、小児科もあきらめてしまいました。その他の外科系の診療科も、体育会のような雰囲気が自分にはとても受け入れられませんでした。そんなこんなで、あれもダメ、これもダメ、でたどり着いたのが内科でした。もともと内科には興味深い疾患もありましたし、研究してみたい領域もあり、いろいろな手技も学べるので内科医になることに抵抗はありませんでしたが。でも、いろいろな手技を経験してみると、患者が苦しむような手技や検査に自分は向いていないようでしたが。内科であれば小児科も診ることができるし、それもいいかってぐらいの考えでした。

しかし、子どもにはすぐに感情移入してしまう自分にとって、小児科は荷が重いことを実感しました。それは後に研修医になって循環器内科をまわったときのことでした。心臓カテーテル検査をした5歳ぐらいの女の子の検査後の処置をすることになりました。この検査は、足の付け根の動脈に「シース」と呼ばれる管を差し、そこからカテーテルを入れ、造影剤を流して心臓の動きを調べるものです。そして、その検査は、終わってしばらくしたらそのシースを抜かなければならないのでした。この女の子も検査後のシースを抜去するという処置が残っていたのです。

シースを抜くという処置自体は簡単なことです。処置を受ける患者も痛みなどまったくありません。ですから、いつものように、淡々とやってしまえばいい単純な作業です。しかし、小児科病棟に行き、介助の看護婦さんと病室に入った私はベットに横になっているその女の子を見た瞬間、早くも涙がこみあげそうになっていました。すでに夜になり、親もいない病室の小さなベットの上でじっと横になっている女の子の姿がなんとも不憫に思えたからです。涙をぐっとこらえて、私はこの子のベットに近づきました。

女の子が怖がらぬよう努めてにこやかにするつもりでしたが、私を見た彼女が不安そうに「痛くなぁい?」とつぶやた瞬間、私の涙腺は崩壊してしまいました。「ぜんぜん痛くないから大丈夫だよ」と言おうとしましたが声が出てきません。何度かうなずくのが精一杯でした。女の子の傍らに腰かけ、私は涙をポロポロこぼしながらシースを抜いていました。介助についてくれた看護婦さんは不気味だったでしょうね。だって、研修医がシースを抜きながらボロボロ泣いているのですから。こんな調子ですから小児科にはもともと行けるはずがなかったのです。

結局のところ、消去法で内科を選ぶことになりました。ただし、患者に苦痛をあたえる処置や手技はできるだけ避けていました。それでも、少なくともひとつの専門にかたよらず、幅広く病気を診られる内科医になりたいと思っていました。医学部卒業後の研修も、また、そのあとの所属する医局を決める際も、その目標を念頭に決めました。今、こうして地元で内科クリニックを開業してみると、その考えは間違いではなかったと思います。ほんのいち時期ではありましたが、産婦人科医や小児科医をめざしたことも無駄にはならなかったと思います。

内科はとても面白い領域です。なにげない症状や訴えから大きな病気を見つける醍醐味は内科ならではでしょう。診療を通じて学ぶことも多いです。外科のように、自分の診療が目に見えるものではありませんが、目に見えない分だけ手さぐりで探しものをする難しさと面白さがあります。もともとは人付き合いも愛想もいい方ではないので、いろいろな場面で壁にぶつかることもあります。ときには「内科医じゃなかった方がよかったかなぁ」などと考えることもありますが、総じて内科を選んでよかったと思っています。もし、あのままあの超激務の周産期医療の方に進んでいたら、今ごろ燃え尽きていたかも知れませんし。